丹下左膳
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著者名:林不忘 

 巷(ちまた)の埃りに汚れているのは例のことながら、今夜はまたどうしたというのだ! 乱髪が額をおおい、片袖取れた黒七子(くろななこ)の裾から襟下へかけて、スウッと一線、返り血らしい跡がはね上がっている。隻眼(せきがん)隻腕(せきわん)、見上げるように高くて痩せさらばえた丹下左膳。猫背のまま源十郎を見すえて、顔の刀痕が、引っつるように笑う。
「すわれ!」
 源十郎は、夜寒にぞっとして丹前を引きよせながら、
「殺(や)って来たな誰かを」
「いや、少々暴れた。あははははは」
「いいかげん殺生(せっしょう)はよしたがよいぞ」
 こう忠言めかしていった源十郎は、そのとき、胡坐(あぐら)になりながら左膳が帯からとった太刀へ、ふと好奇な眼を向けて、
「なんだそれは? 陣太刀ではないか」
 すると左膳は、得意らしく口尻をゆがめたが、
「ほかに誰もおらんだろうな?」
 と事々しくそこらを見まわすと、思いきったように膝を進めて、
「なあ鈴川、いやさ、源的、源の字……」
 太い濁声(だみごえ)を一つずつしゃくりあげる。
「なんだ? ものものしい」源十郎は笑いをふくんでいる。「それよりも貴公色男にはなりたくないな。先刻までお藤が待ちあぐんで、だいぶ冠を曲げて帰ったぞ、たまには宵の口に戻って、その傷面を見せてやれ、いい功徳(くどく)になるわ。もっともあの女、貴様のような男に、どこがよくて惚れたのか知らんが、一通り男を食い散らすと、かえって貴様みたいな人(にん)三化(ばけ)七がありがたくなるものと見えるな。不敵な女じゃが、貴様のこととなるとからきし意気地がなくなって、まるで小娘、いやもう、見ていて不憫(ふびん)だよ。貴様もすこしは冥加(みょうが)に思うがいい」
 源十郎の吹きつける煙草の輪に左膳はプッ! と顔をそむけて、
「四更(しこう)、傾月(けいげつ)に影を踏んで帰る。風流なようだが、露にぬれた。もうそんな話あ聞きたくもねえや。だがな鈴源、俺が貴様ん所に厄介になってから、これで何月になるかなあ?」
「今夜に限って妙に述懐めくではないか。しかし、言って見ればもうかれこれ半歳(とし)にはなろう」
「そうなるか。早いものだな、俺はそのあいだ、真実貴様を兄貴と思って来た――」
「よせよ! 兄と思ってあれなら弟と思われては何をされるかわからんな。ははははは」
「冗談じゃあねえ。俺あ今晩ここに、おれの一身と、さる北境の大藩とに関する一大密事をぶちまけようと思ってるんだ」
 前かがみに突然陣太刀作りの乾雲丸(けんうんまる)を突き出した左膳。
「さ、此刀(これ)だ! 話の緒(いとぐち)というのは」
 と語り出した。源十郎が、灯心を摘んで油をくれると、ジジジジイと新しい光に、濃い暁闇(ぎょうあん)が部屋の四隅へ退く。が、障子越しの廊下にたたずんでいる人影には、二人とも気がつかなかった。
 左膳の言葉。
 この風のごとき浪士丹下左膳、じつは、江戸の東北七十六里、奥州中村六万石、相馬大膳亮(そうまだいぜんのすけ)殿の家臣が、主君の秘命をおびて府内へ潜入している仮りの相(すがた)であった。
 で、その用向きとは?
 れっきとした藩士が、なぜ身を痩狗(そうく)の形にやつして、お江戸八百八丁の砂ほこりに、雨に、陽に、さらさなければならなかったか。
 そこには、何かしら相当の原因(いわく)があるはず。
 珍しく正座した左膳の態度につりこまれて、源十郎の顔からも薄笑いが消えた。
 二人を包む深沈(しんちん)たる夜気に、はや東雲(しののめ)の色が動いている。
 ただ廊下に立ち聞くおさよは、相馬中村と聞いて、危うく口を逃げようとしたおどろきの声を、ぐっと両掌(りょうて)で押し戻した。
 六万石相馬様は外様衆(とざましゅう)で内福の家柄である。当主の大膳亮は大の愛刀家――というより溺刀(できとう)の組で、金に飽かして海内(かいだい)の名刀稀剣(きけん)が数多くあつまっているなかに、玉に瑕(きず)とでも言いたいのは、ただ一つ、関七流の祖孫六(まごろく)の見るべき作が欠けていることだった。
 そこで、
 どうせ孫六をさがすなら、この巨匠が、臨終の際まで精根を涸(か)らし神気をこめて鍛(う)ったと言い伝えられている夜泣きの大小、乾雲丸と坤竜丸(こんりゅうまる)を……というので、全国に手分けをして物色すると、いまその一腰(ひとふり)は、江戸根津権現のうら曙の里の剣道指南小野塚鉄斎方に秘蔵されていると知られたから、江戸の留守居役をとおして金銀に糸目をつけずに交渉(あた)らせてみたが、もとより伝家の重宝、手を変え品をかえても、鉄斎は首を縦にふらない。
 とてもだめ。
 とわかって、正面の話合いはそれで打ち切りになったが、大膳亮の胸に燃える慾炎は、おさまるどころか新たに油を得たも同様で、妄念は七十六里を飛んで雲となり、一図に曙の里の空に揺曳(ようえい)した。
 物をあつめてよろこぶ人が、一つことに気をつめた末、往々にして捉われる迷執(めいしゅう)である。業火(ごうか)である。
 領主大膳亮が、あきらめられぬとあきらめたある夜、おりからの闇黒(やみ)にまぎれて、一つの黒い影が、中村城の不浄門(ふじょうもん)から忍び出て城下を出はずれた。そのあくる日、お徒士(かち)組丹下左膳の名が、ゆえしれず出奔した廉(かど)をもって削られたのである。
 血を流しても孫六を手にすべく、死を賭した決意を見せて、不浄門から放された剣狂丹下左膳、そのころはもう馬子唄のどかに江戸表へ下向の途についていた。
 おもて向きは浪々でも、その実、太守の息がかかっている。
 この乾坤二刀を土産に帰れば、故郷には、至上の栄誉と信任、莫大な黄金と大禄が待っているのだ。
 出府と同時に、本所法恩寺前の鈴川源十郎方に身をよせた左膳は、日夜ひそかに鉄斎道場を見ていると、年に一度の秋の大仕合に、乾雲坤竜が一時の佩刀(はいとう)として賞に出るとの噂(うわさ)。
 それ以来、待ちに待っていた十月初の亥(い)の日。
 横紙破りの道場荒しも、刀の番(つがい)をさこうという目的があってのことだった――。
「老主を始め、十人余りぶった斬って持ち出したのだ。抜いて見ろ」
 ……なが話を結んだ左膳、片眉上げて大笑する。重荷の半ばをおろした心もちが、怪物左膳をいっそう不覊(ふき)にみせていた。
 すわりなおした源十郎、懐紙をくわえて鞘を払い、しばし乾雲丸の皎身(こうしん)に瞳を細めていたが、やがて、
「見事。――鞘は平糸まき。赤銅(しゃくどう)の柄(つか)に叢雲(むらくも)の彫りがある。が、これは刀、一本ではしかたがあるまい」
「ところが、しかたがあるのだ。源十、貴様はまだ知らんようだが、雲は竜を招き、竜は雲を呼ぶと言う。な、そこだ! つまり、この刀と脇差は、刀同士が探しあって、必ず一対に落ち合わねえことには納まらない」
「と言うと?」
「わかりが遅いな。差し手はいかに離れていようとも、刀と刀が求め合って、早晩(そうばん)一つにならずにはおかねえというのだ。乾雲と坤竜とのあいだには、眼に見えぬ糸が引きあっている」
「うむ。言わば因縁の綾(あや)だな」
「そうだ。そこでだ、俺は明日からこの刀をさして江戸中をぶらつくつもりだが、先方でも誰か腕の立つ奴が坤竜を帯(たい)して出歩くに相違ねえから、そこでそれ、雲竜相ひいて、おれとそいつと必ず出会する。その時だ、今から貴公の助力を求めるのは」
「助太刀か、おもしろかろう。だが、その坤竜を佩(は)いて歩く相手というのは?」
「それはわからん。がしかし、色の生っ白い若えので、ひとり手性のすごいやつがおったよ。俺あそいつの剣で塀から押し出されたようなものだ」
「ふうむ。やるかな一つ」
「坤竜丸はこれと同じこしらえ、平巻きの鞘に赤銅の柄、彫りは上り竜だから、だれの腰にあっても一眼で知れる」
 近くの百姓家で鶏(とり)が鳴くと、二人は期せずして黙りこんで、三つの眼が、あいだに置かれた乾雲丸の刀装(とうそう)に光った。
 かくして、戦国の昔をしのぶ陣太刀作りが、普通の黒鞘の脇差と奇体な対をなして、この時から丹下左膳の腰間を飾ることとなった。
 この一伍一什(いちぶしじゅう)を立ち聞きしていた老婆おさよ、
「すると丹下様は中村から――」
 と知っても、名乗っても出ず、何事かひとり胸にたたんだきりだった。
 というのが、死んだおさよの夫和田宗右衛門(わだそうえもん)というのは、世にあったころ、同じ相馬様に御賄頭(おんまかないがしら)を勤めた人だから、さよと左膳は、同郷同藩たがいに懐しがるべき間がらである。

   首尾(しゅび)の松(まつ)

 底に何かしら冷たいものを持っていても、小春日和(こはるびより)の陽ざしは道ゆく人の背をぬくめる。
 店屋つづきの紺暖簾(こんのれん)に陽炎(かげろう)がゆらいで、赤蜻蛉(あかとんぼ)でも迷い出そうな季節はずれの陽気。
 蔵前の大通りには、家々の前にほこりおさえの打ち水がにおって、瑠璃(るり)色に澄み渡った空高く、旅鳥のむれがゆるい輪を画いている。
 やでん帽子の歌舞伎役者について、近処の娘たちであろう、稽古帰りらしいのが二、三人笑いさざめいて来る。それがひとしきり通り過ぎたあとは、ちょっと往来がとだえて、日向(ひなた)の白犬が前肢(まえあし)をそろえて伸びをした。
 ずらりと並んでいる蔵宿の一つ、両口屋嘉右衛門の店さき、その用水桶のかげに、先刻からつづみの与吉がぼんやりと人待ち顔に立っている。
 打てばひびく、たたけば応ずるというので、鼓(つづみ)の名を取ったほど、駒形(こまがた)でも顔の売れた遊び人。色の浅黒い、ちょいとした男。
「ちッ! いいかげん待たせやがるぜ、殿様もあれで、銭金(ぜにかね)のことになるてえと存外気が長えなあ――できねえもんならできねえで、さっさと引き上げたらいいじゃあねえか。この家ばかりが当てじゃああるめえし。なんでえ! おもしろくもねえ!」
 両口屋の暗い土間をのぞいては、ひとり口の中でぶつくさ言っている。
 外光の明るさにひきかえ、土蔵作りの両口屋の家内には、紫いろの空気が冷たくおどんで、蔵の戸前をうしろに、広びろとした框(かまち)に金係りお米係りの番頭が、行儀よくズーッと居列(いなら)んでいるのだが、この札差(ふださ)しの番頭は、首代といっていい給金を取ったもので、無茶な旗本連を向うへまわして、斬られる覚悟で応対する。
 いまも現に、蔵前中の札差し泣かせ、本所法恩寺の鈴川源十郎が、自分で乗りこんで来て、三十両の前借をねだって、こうして梃子(てこ)でも動かずにいる。
 五百石のお旗本に三十両はなんでもないようだが、相手が危ないからおいそれとは出せない。
 取っ憑(つ)かれた番頭の兼七、すべったころんだど愚図(ぐず)っている。
 負けつづけて三十金の星を背負わされた源十郎にしてみれば、盆の上の借りだけあって、堅気の相対ずくよりも気苦労なのだろう。今日はどうあっても調達しなければ……と与吉を供に出かけて来たのだが、埓(らち)のあかないことおびただしい。できしだい、与吉を飛ばして、先々へ届けさせるつもりで戸外に待たしてあるので、源十郎も一段と真剣である。
「そりゃ今までの帳面(ちょうづら)が、どうもきれいごとにいかんというのは、俺が悪いと言えば、悪いさ。しかしなあ兼公(かねこう)、人間には見こみはずれということもあるでな。そこらのところを少し察してもらわにゃ困る」
「へい。それはもう充分にお察し申しておりますが、先ほどから申しますとおり、何分にも殿様のほうには、だいぶお貸越しに願っておりますんで、へい一度清算いたしまして、なんとかそこへ形をつけていただきませんことには……手前どもといたしましても、まことにはや――」
 源十郎のこめかみに、見る見る太いみみずが這ってくる。羽織をポンとたたき返すと、かれは腰ふかくかけなおして、
「しからば、何か。こうまで節(せつ)を屈して頼んでも、金は出せぬ、三十両用だてならぬと申すのだな?」
「一つこのたびだけは、手前どもにもむりをおゆるし願いたいんで」
「これだけ事をわけて申し入れてもか」
「相すみません」
 起き上がりざま、ピンと下緒(さげお)にしごきをくれた源十郎、
「ようし! もう頼まぬ。頼まなけれあ文句はあるまい。兼七、いい恥をかかせてくれたな」
 と歩きかけたが、すぐまた帰って来て、
「おい。もう一度考える暇(いとま)をつかわす。三十両だぞ。上に千も百もつかんのだ。ただの三十両、どうだ?」
 この時、番頭はプイと横を向いて、源十郎への面(つら)あてに、わざとらしい世辞笑いを顔いっぱいにみなぎらせながら、
「いらっしゃいまし――おや! これは鳥越(とりごえ)の若様、お珍しい……」
 釣られて源十郎が振り向くと、三座の絵看板からでも抜けて来たような美男の若侍が、ちょうど提(さ)げ刀をしてはいってくるところ。
 兼七の愛嬌には眼でこたえて、そのまま二、三人むこうの番頭へ声をかけた。
「やあ、彦兵衛(ひこべえ)。今日は用人の代理に参った」
「それはそれは、どうも恐れ入ります。さ、さ、おかけなすって……これ、清吉(せいきち)、由松(よしまつ)、お座蒲団を持ちな。それからお茶を――」
 源十郎、これで気がついてみると、自分にはお茶も座蒲団も出ていない。

 用人の代理といって札差し両口屋嘉右衛門の店へ来た諏訪栄三郎のようすを、それと知らずに、じっとこちらから見守っていた源十郎は、ふと眼が栄三郎が袖で隠すようにしている脇差の鐺(こじり)へおちると、思わずはっとして眼をこすった。
 平糸まき陣太刀づくり……ではないか!
 とすれば?
 もちろん、それは左膳の話に聞いた坤竜(こんりゅう)丸、すなわち夜泣きの刀の片割れに相違あるまい。
 刀が刀をひいて、早くも、左膳につながる自分の眼に触れたのか――こう思うと、源十郎もさすがにうそ寒く感じて、しばし、
「どうすればよいか?」
 と、とっさの途(みち)に迷ったが、すぐに、
「なに、左膳は左膳、俺は俺だ。もう少しこの青二才を見きわめて、その上で左膳へしらせるなりなんなりしても遅くはあるまい。それに、こんな男女郎(おとこじょろう)の一束(そく)や二束、あえて左膳をわずらわさなくとも、おれ一人で、いや与吉ひとりで片づけてしまう」
 ひとり胸に答えて、なおも、さりげなく眼を離さずにいると、そんなこととは知らないから、栄三郎はさっそく要談にとりかかる。
「用人の白木重兵衛(しらきじゅうべえ)が参るべきところであるが、生憎(あいにく)いろいろと用事が多いので、きょうは拙者が用人代りに来たのだ。実は、鳥越の屋敷の屋根が痛んだから瓦師(かわらし)を呼んだところが、総葺替(そうふきか)えにしなければならないと言うので、かなり手数がかかる。兄も、ここちょっと手もとがたらなくて、いささか困却(こんきゃく)しておるのだが、三期の玉落ちで、元利(がんり)引き去って苦しくないから、どうだろう、五十両ばかり用だってもらえまいか」
 番頭は二つ返事だ。
 いったい札差しは、札差料(ふださしりょう)などと言ってもいくらも取れるわけのものではなく、旗本御家人に金を貸して、利分を見なければ立っていかないのだが、栄三郎の兄大久保藤次郎は、若いが嗜(たしな)みのいい人で、かつて蔵宿から三文も借りたことがないから、さっぱり札差しのもうからないお屋敷である。
 ところへ、五十両借りたいという申込み。
 三百俵の高で五十両はおやすい御用だ。
「恐れ入りますが、御印形(ごいんぎょう)を?」
「うむ、兄の印を持参いたした」
 なるほど、藤次郎の実印に相違ないから、番頭の彦兵衛、チロチロチロとそこへ五十両の耳をそろえて、
「へい。一応おしらべの上お納めを願います」
 ここまで見た源十郎は、ああ、自分は三十両の金につまっておるのに、あいつら、この若造へはかえって頼むようにして五十両貸しつけようとしている……刀も刀だが、五十両はどこから来ても五十両だ――と、何を思いついたものか、栄三郎をしりめにかけて、ぶらりと、両口屋の店を立ち出でた。
「殿様」
 待ちくたびれていたつづみの与吉が、源十郎の姿にとび出してきて、
「ずいぶん手間どったじゃあありませんか。おできになりましたかえ?」
 駈けよろうとするのを、
「シッ! 大きな声を出すな」
 と鋭く叱りつけて、源十郎はそのまま、蔵宿の向う側森田町の露地(ろじ)へずんずんはいり込む。
 変だな。と思いながら、与吉もついて露地にかくれると、立ちどまった源十郎、
「金はできなかった。が、今、貴様の働き一つで、ここに五十両ころがりこむかも知れぬ」
「わたしの働きで五十両? そいつあ豪気(ごうき)ですね。五十両まとまった、あのズシリと重いところは、久しく手にしませんが忘れられませんね。で、殿様、いってえなんですい、その仕事ってのは?」
「今、あそこの店から若い侍が出て来るから、貴様と俺と他人のように見せて、四、五間おくれてついてこい。俺が手を上げたら、駈け抜けて侍に声をかけるんだ。丁寧に言うんだぞ――ええ、手前は、ただいまお出なすった店の若い者でございますが、お渡し申した金子(きんす)に間違いがあるようですから、ちょいと拝見させていただきたい。なに、一眼見ればわかるというんだ。でな、先が金包みを出したら、かまわねえから引っさらって逃げてしまえ。あとは俺が引き受ける」
 与吉はにやにや笑っている。
「古い手ですね。うまくいくでしょうか」
「そこが貴様の手腕(うで)ではないか」
「ヘヘヘ、ようがす。やってみましょう」
 うなずき合ったとたん
「来たぞ! あれだ」
 源十郎が与吉の袖を引く。
 見ると着流しに雪駄履(せったば)き、ちぐはぐの大小を落し差しにした諏訪栄三郎、すっきりとした肩にさんさんたる陽あしを浴びて大股に雷門のほうへと徒歩(ひろ)ってゆく。
 栄三郎が正覚寺(しょうがくじ)門前にさしかかった時だった。
 前後に人通りのないのを見すました源十郎が、ぱっと片手をあげるのを合図に、スタスタとそのそばを通り抜けて行ったつづみの与吉。
「もし、旦那さま――」
 あわただしく追いつきながら、
「あの、もしお武家さま、ちょいとお待ちを願います」
 と声をかけて、律儀(りちぎ)そうに腰をかがめた。
「…………?」
 栄三郎が、黙って振り向くと、前垂れ姿のお店者(たなもの)らしい男が、すぐ眼の下で米搗(つ)きばったのようにおじぎをしている。
「はて――見知らぬ人のようだが、拙者に何か御用かな?」
 栄三郎は立ちどまった。
「はい。道ばたでお呼びたて申しまして、まことに相すみませんでございます――」
「うむ。ま、して、その用というのは?」
「へえ、あの……」
 と口ごもったつづみの与吉、両手をもみあわせたり首筋をなでたり、あくまでも下手に出ているところ、どうしても、これが一つ間違えばどこでも裾をまくってたんかをきる駒形名うての兄哥(あにい)とは思えないから、栄三郎もつい気を許して、
「何事か知らぬが、話があらば聞くとしよう」
 こう自ら先に、楼門(ろうもん)の方へ二、三歩、陽あしと往来を避けて立った。
 そのとき、はじめて栄三郎の顔を正面に見た与吉は、相手の水ぎわだった男ぶりにちょっとまぶしそうにまごまごしたが、すぐに馬鹿丁寧な口調で、
「エエ手前は、ただいまお立ち寄りくだすった両口屋の者でございますがなんでございますかその、お持ち帰りを願いました金子(きんす)に間違いが――ありはしなかったかと番頭どもが申しておりまして、それで手前がおあとを追って、失礼ながらお金を拝見させていただくようにと、へい、こういうことで出て参りましたが、いかがでございましょう。ちょっとお見せくださいますわけには?……」
 言葉を切って、与吉はじっと栄三郎の顔色をうかがった。
 正覚寺の山門をおおいつくして、このあたりで有名な振袖銀杏(いちょう)の古木がおいしげっている。黄いろな葉をまばらにつけた梢が、高い秋空を低くさえぎって、そのあいだから降る日光の縞に、栄三郎の全身には紫の斑(ふ)が踊っていた。
 無言のまま与吉を見すえていた栄三郎、何を思ったかくるりと踵(きびす)を返して、いそぎ足に寺の境内(けいだい)へはいりかけた。
「あの、旦那さま!」
 与吉の声が追いかける。
「ついて来るがいい」
 と一言、栄三郎は本堂をさしてゆく。
 すこし離れて、置き捨ての荷車のかげからようすを眺めていた源十郎は、栄三郎に従って与吉も寺内へはいって行くのを見すますと、跫音を忍ばせて銀杏の幹に寄りそった。
 急に参詣てのはへんだが――! はて? どこへ行くのだろう?……と、源十郎がのぞいているうちに、本堂まえの横手、陰陽(いんよう)の石をまつってあるほこらのそばで、ぴたりと足をとめた栄三郎が、与吉を返りみてこういい出すのが聞こえた。
「あすこは往来だ。立ち入った話はできぬ。が、ここなら人眼もない。なんだ?――さっきのことを今一度申してみなさい」
「いろいろとお手間をとらせて恐れ入ります。じつはお渡し申した小判に手前どもの思い違いがございまして」
「どうもいうことがはっきりしないな。数えちがいならとにかく、金子(きんす)に思い違いというのはあるまい」
「へ? いえ、ところがその……」
「待て、お前は両口屋のなんだ」
「若い者でございます」
「若い者といえば走り使いの役であろう。それに大切な金の用向きがわかるか――これ、番頭が並べて出し、拙者があらためて受け取って、証文に判をついてきた金にまちがいのあるわけはない」
「へえ。それがその、番頭さんの思い違い……」
「まだ申すか。なんという番頭だ?」
「う……」
 と思わず舌につかえる与吉を、栄三郎はしりめにかけて、
「それ見ろ。第一、両口屋の者なら拙者を存じおるはず。拙者の名をいえ!」
「はい。それはもう、よく承知いたしております。ヘヘヘヘ、若殿様で――」
「だまれッ! 侍の懐中物に因縁(いんねん)をつけるとは、貴様、よほど命のいらぬ奴とみえるな」
「と、とんでもない! 手前はただ……」
「よし! しからば両口屋へ参ろう、同道いたせ」
 と! 踏み出した栄三郎のうしろから、こと面倒とみてか、男が美(い)いだけの腰抜け侍とてんから呑んでいるつづみの与吉、するりとぬいだ甲斐絹(かいき)うらの半纒(はんてん)を投網(とあみ)のようにかぶらせて、物をもいわずに組みついたのだった。

 来たな!
 と思うと、栄三郎は、このごまの蠅(はえ)みたいな男の無鉄砲におどろくとともに、ぐっと小癪(こしゃく)にさわった。同時に、おどろきと怒りを通りこした一種のおかしみが、頭から与吉の半纒をかぶった栄三郎の胸にまるで自分が茶番(ちゃばん)でもしているようにこみ上げてきた。
 ぷッ! こいつ、おもしろいやつ! というこころ。
 で、瞬間、なんの抵抗(あらそい)も示さずに、充分抱きつかせておいて、……調子に乗りきったつづみの与吉が、
「ざまあ見やがれ、畜生! 御託(ごたく)をならべるのはいいが、このとおり形なしじゃあねえか」
 と!
 見得ばかりではなく、江戸の遊び人のつねとして、喧嘩の際にすばやくすべり落ちるように絹裏(きぬうら)を張りこんでいる半纒に、栄三郎の顔を包んで一気にねじ倒そうとするところを――!
 するりと掻いくぐった栄三郎。ダッ! と片脚あげて与吉の脾腹(ひばら)を蹴ったと見るや、胡麻(ごま)がら唐桟(とうざん)のそのはんてんが、これは! とよろめく与吉の面上に舞い下って、
「てツ! しゃらくせえ……!」
 立ちなおろうとしたが、もがけばいっそう絡(から)みつくばかり。あわてた与吉が、自分の半纒をかぶって獅子(しし)舞いをはじめると……。
「えいッ!」
 霜の気合い。
 栄三郎の手に武蔵太郎が鞘走って、白い光が、横になびいたと思うと、もう刀は鞘へ返っている。
 血――と見えたのは、そこらにカッと陽を受けている雁来紅(はげいとう)だった。
 門前、振袖銀杏のかげからのぞいていた源十郎は、この居合抜きのあざやかさに肝(きも)を消して、もとより与吉は真っ二つになったことと思った。
 が、二つになったのは、与吉ではなくてはんてんだった。まるで鋏で断ち切ったように、左右に分かれて地に落ちている。
 ぽかんと気が抜けて立った与吉は、
「貴様ごときを斬ったところで刀がよごれるばかり、これにこりて以後人を見てものを言え」
 という栄三郎の声に、はっとしてわれに返ったのはいいが、どうして半纒が取られたのか知らないから、怖いものなしだ。
「何をッ! 生意気な」
 うめくより早く、蹴あげた下駄を空で引っつかんで打ってかかった。にっこりした栄三郎、ひょいとはずして、思わず泳ぐ与吉の腰をとんと突く。はずみを食った与吉は、参詣の石だたみをなめて長くなったが……。
 かれもさる者。
 いつのまに栄三郎の懐中をかすめたものか、手にしっかと五十両入りの財布を握って、起き上がると同時に門外をさして駈け出した。
 もう容赦はならぬ。追い撃ちに一刀!
 と柄を前半におさえてあとを踏んだ栄三郎は、門を出ようとする銀杏の樹かげに、ちらと動いた人影に気がつかなかった。
 ましてや、門を出がけに、与吉がその影へ向かって財布を投げて行ったことなどは、栄三郎は夢にも知らない。
 往来で二、三度左右にためらった末、与吉は亀のように黒船町の角へすっ飛んで行く。まがれば高麗(こうらい)屋敷。町家が混んでいて露地抜け道はあやのよう――消えるにはもってこいだ。
 おのれ! 剣のとどきしだい、脇の下からはねあげてやろうと、諏訪栄三郎、腰をおとして追いすがって行った。
 それを見送って、振袖銀杏のかげからにっと笑顔を見せたのは、鈴川源十郎である。
 手に、ずしりと重い財布を持っている。
 斬られたと思った与吉が駈け出して来て、手ぎわよく財布を渡して行ったのだから、源十郎は、あとは野となれ山となれで、食客の丹下左膳が眼の色をかえてさがしている坤竜丸の脇差が、あの若侍の腰にあったことも、この五十両から見ればどうでもよかった。
 見ていたものはない。してやったり! と薄あばたがほころびる。
 ひさしぶりにふところをふくらませた源十郎、前後に眼をやってぶらりと歩き出そうとすると……。
 風もないのにカサ! と鳴る落ち葉の音。
 気にもとめずに銀杏の下を離れようとするうしろから、突如、錆びたわらい声が源十郎の耳をついた。
「はっはっはっは、天知る地知る人知る――悪いことはできんな」

 ぎょっとしてふり返ったが、人影はない。
 雨のような陽の光とともに、扇形の葉が二ひら三ひら散っているばかり――。
 銀杏が口をきいたとしか思われぬ。
 気の迷い!
 と自ら叱って、源十郎が再びゆきかけようとしたとき、またしても近くでクックックッという忍び笑いの声。
 思わず柄に手をかけた源十郎、銀杏の幹へはねかえって身構えると……。
 正覚寺の生け垣にそって旱魃(ひでり)つづきで水の乾いた溝がある。ちょうど振袖銀杏の真下だから、おち敷いた金色の葉が吹き寄せられて、みぞ一ぱいに黄金の小川のようにたまっているのだが、その落ち葉の一ところがむくむくと盛り上がったかと思うとがさがさと溝のなかで起き上がったものがある。
 犬? と思ったのは瞬間で、見すえた源十郎の瞳にうつったのは、一升徳利をまくらにしたなんとも得体(えたい)の知れないひとりの人間だった。
「き、貴様ッ! なんだ貴様は?」
 おどろきの声が、さしのぞく源十郎の口を突っぱしる。
 ところが相手は、答えるまえに、落ち葉の褥(しとね)にゆっくりと胡坐(あぐら)を組んで、きっと源十郎を見返した。
 熟柿(じゅくし)の香がぷんと鼻をつく。
 乞食にしても汚なすぎる風体。
 だが、肩になでる総髪、酒やけのした広い額、名工ののみを思わせる線のゆたかな頬。しかも、きれながの眼には笑いと威がこもって、分厚な胸から腕へ、小山のような肉(しし)おきが鍛えのあとを見せている。
 年齢は四十にはだいぶまがあろう。着ているものは、汗によごれ、わかめのようにぼろの下がった松坂木綿の素袷(すあわせ)だが、豪快の風(ふう)あたりをはらって、とうてい凡庸(ぼんよう)の相ではない。
 あっけにとられた源十郎が、二の句もなく眺めている前で、男はのそりと溝を出て来た。
 ぱっぱっと身体の落ち葉は払ったが、あたまに二、三枚銀杏の葉をくッつけて、徳利を片手に、微風に胸毛をそよがせている立ち姿。せいが高く、岩のような恰幅(かっぷく)である。
 偉丈夫――それに、戦国の野武士のおもかげがあった。
 すっかり気をのまれた源十郎はそれでも充分おちつきを示して、この正体の知れない風来坊をひややかな眼で迎えている。
 一尺ほど面前でぴたりととまると、男は両手を腰において、いきなり、馬がいななくように腹の底から笑いをゆすりあげた。
 その声が、銀杏の梢にからんで、秋晴れの空たかく煙のように吸われてゆく。
 いつまでたっても相手が笑っているから、源十郎もつりこまれて、なんだか無性(むしょう)におかしくなった。
 で、にやりとした。
 すると男はふっと笑いをやんで、
「お前は、八丁堀か」
 と、ぶつけるように横柄(おうへい)な口調である。
 小銀杏の髪、着ながした博多(はかた)の帯、それに雪駄(せった)という源十郎のこしらえから、町与力あたりとふんだのだ。与力の鈴源といわれるくらいで、源十郎はしじゅう役人に間違われるが、先方が勝手にそうとる以上は、かれもこのことは黙っているほうが得だと考えて、この時もただ、ぐっとにらんで威猛高(いたけだか)になった。
「無礼者! 前に立つさえあるにいまの言葉はなんだ?」
 男は眼じりに皺をよせて、
「おれのひとりごとを聞いて、お前のほうでもどってきたのではないか。天知る地知る人知る……両刀を帯して徳川の禄(ろく)を食(は)む者が、白昼追い落としを働くとは驚いたな」
「なにいッ!」
 思わず柄へ走ろうとする源十郎の手を、やんわり指さきでおさえた男、
「この溝の中で、はじめから見物していたのだ。あの男の投げていった財布を出せ」いいながら指に力を入れる。
「う、うぬ、手を離せッ!」源十郎はいらだった。「この刀が眼に入らぬとは、貴様よほど酔うとるな――これ、離せというに、うぬ[#「うぬ」は底本では「うね」]、離さぬか……」
「酔ってはいる。が、しかしこの汚濁(おだく)の世では、せめて酔ってるあいだが花だて」
 と奇怪な男、ううい! と酒くさい息を吹いて手の徳利を振った。
 指をふりほどこうとあせった源十郎も、虚静(きょせい)を要とし物にふれ動かず――とある擁心流(ようしんりゅう)は拳の柔(やわら)と知るや、容易ならぬ相手とみたものか、小蛇のようにからんでくる指にじっと手を預けたまま、がらりと態度をあらためて、
「いや。さい前からの仔細(しさい)をごらんになったとあらば、余儀ない。拙者も四の五のいわずに折れますから、まず山分け――金高の半というところでごかんべんねがいたい」
 源十郎はふところから五十両入りの栄三郎の財布をとり出した。
 すると男は、源十郎の手をゆるめながら、
「だまれッ!」と肩をそびやかして、
「おれはまだ盗人のあたまをはねたことはないぞ! 財布ごとそっくりよこせ!」
「で、この金をどうなさる?」
「知れたこと。所有主へ返すのだ」
 源十郎はせせら笑った。
「それは近ごろ奇特なおこころざし――といいたいが、いったい貴公は何者でござるかな?」
「おれか? おれは天下を家とする隠者だ」
「なに、隠者? して、御尊名は?」
「名なぞあるものか。しいて言えば、名のない男というのが名かな」
「なるほど。いや、これはおもしろい。しからばこの金子(きんす)、このまま貴殿へお渡し申そう」
 あきらめたとみえて、源十郎もあっさりしている。財布は男の手へ移った。
「ふん! あんまりおもしろいこともあるまいが……政事(まつりごと)を私(わたくし)[#ルビの「わたくし」は底本では「わたく」]し、民をしぼる大盗徳川の犬だけあって、放火盗賊あらためお役が、賊をはたらく、このほうがよっぽどおもしろいぞ」
 この毒舌に源十郎はかっとなって、
「乞食の身で、言わせておけば限りがない――汝は金を返してやるといったが、さてはあの若侍の住所氏名を知っているのか」
「知らん。が、いずれ今ここへ帰ってくるだろう」と、名のない男の言葉が終わらないうちに、裏みちでつづみの与吉を見失った諏訪栄三郎が、ぼんやりとそこの横町から往来へ出て来た。
 思案投げ首といった態(てい)。
 それを見ると男は、源十郎がはっとするまに大きな声で呼びかけて、ちらりと源十郎を見やったのち、近づいてくる栄三郎へ、
「これ! 金はここにある。この八丁堀のお役人が、あの男をとっちめて取り戻してくだすったのだ。礼はこの人へ言うがいい」
 と見事に源十郎を立てておいて財布を栄三郎に渡すが早いか、まごついている二人を残して、それなり風のように立ち去って行った……頭髪へ銀杏の葉をのせて、片手に徳利をさげたまんまで。
 世にも奇体(きたい)な名のない男!
 ことに、不敵にも公儀へ対して異心を抱くらしい口ぶり――はてどこの何やつであろう?
 ――と、あとを見送る源十郎へ何も知らない栄三郎はしきりに礼をのべて、やがてこれも雷門のほうへいそいでゆく。
 みょうな顔で挨拶を返した鈴川源十郎、眼は、遠ざかる栄三郎の腰に吸われていた。
 はなしに聞いた陣太刀づくりの脇差に、九刻(ここのつ)さがりの陽ざしが躍っている。
 孤独を訴える坤竜丸の気魂(きこん)であろうか。栄三郎のうしろ姿には一抹(まつ)のさびしさが蚊ばしらのように立ち迷って見えた。
「よし! 五十両がふいになった以上は、あくまでもあの男をつけ狙って、丹下のやつをたきつけ、おもしろい芝居を見てやろう。乾雲と、坤竜、刀が刀を呼ぶと言ったな。それにしてもあの若造は、たしかに鳥越の――」
 源十郎が小首をひねったとき、先をゆく栄三郎がまた振り返って頭をさげた。
 ふふふ、馬鹿め! とほくそ笑(え)んだ源十郎、ていねいにじぎをしていると、ぽんと肩をたたく者があって、
「ほほほ、いやですよ殿様。狐憑(つ)きじゃああるまいし、なんですねえ、ひとりでおじぎなんかして……」
 という櫛まきお藤の声。気がつくと、いつのまにか与吉もそばに立っているのだった。
 すんでのことで栄三郎に追いつかれて、武蔵太郎を浴びそうになった与吉は、ほど近いお藤の家へ駈けこんで危ういところを助かった。で、もうよかろうと姐御を引っぱり出して来てみると、かんじんの金は、名のない男というみょうな茶々(ちゃちゃ)がはいって元も子もないという――。
 お藤は黒襟をつき上げて、身をくの字に腹をよった。が、そのきゃんな笑いもすぐに消えて真顔に返った。
 丹下左膳のために手をかしてもらいたいという源十郎のことば。
 何かは知らぬ。しかし、左膳と聞いて、恋する身は弱い。お藤はもう水火をも辞せない眼いろをしている。
 しかも、いつない源十郎の意気ごみが二人の胸へもひびいて、与吉は中継(なかつ)ぎとしてここにのこり、お藤と源十郎が栄三郎のあとを追うことになった。
 屋敷をつきとめしだい、どっちかがひっかえして与吉にしらせる。与吉はそれをもたらして本所法恩寺橋の鈴川の屋敷へ走り、左膳を迎えて今夜にでも斬りこもうという相談。
 勇み立ったお藤が、源十郎とともに、だんだん小さくなる栄三郎をめざして小走りにかかると、すうっと片雲に陽がかげって、うそ寒い紺色がはるか並木の通りに落ちた。
 このとき、うしろの蔵宿(くらやど)両口屋から出てきた老人の侍が、おなじく小手(こて)をかざして栄三郎を望見していた。

「どれ、日の高いうちにひとまわりと出かけましょうか。はい、大きに御馳走さま――姐(ねえ)さん、ここへお茶代をおきますよ。どっこいしょッ! と」
「どうもありがとうございます。おしずかにいらっしゃいまし」
 吉原を顧客(とくい)にしている煙草売りが、桐の積み箱をしょって腰をあげると、お艶(つや)はあとを追うようにそとへ出た。
 人待ち顔に仁王門のほうへ眼を凝(こ)らして、
「もう若殿様のお見えになるころだけれど、どうなすったんだろうね。あんなごむりをお願いして、もしや不首尾で……」
 と口の中でつぶやいたが、それらしい影も見えないので、またしょんぼりと葦簾(よしず)のかげへはいった。
 階溜まりに鳩がおりているきり、参詣の人もない。
 浅草三社前。
 ずらりと並んでいる掛け茶屋の一つ、当り矢という店である。
 紺の香もあたらしいかすりの前かけに赤い襷(たすき)――お艶が水茶屋姿の自分をいとしいと思ってからまだ日も浅いけれど、諏訪栄三郎というもののあるきょうこのごろでは、それを唯一つの頼りに、こうして一服(ぷく)一文の往きずりの客にも世辞のひとつも言う気になっているのだった。
 ちいんと薬罐(やかん)にたぎる湯の音。
 ちょっと釜の下をなおしてから、手を帯へさしこんだお艶は、白い頤(おとがい)を深ぶかと襟へおとしてわれ知らず、物思いに沈む。
 隣の設楽(しがらき)の店で、どっとわいた笑いも耳にはいらないようす。鬢(びん)の毛が悩ましくほつれかかって、なになにえがくという浮世絵の風情(ふぜい)そのままに――。
 このお艶は。
 夜泣きの刀を手に入れるために剣鬼丹下左膳を江戸おもてへ潜入させた奥州中村の領主相馬大膳亮(そうまだいぜんのすけ)につかえ、お賄頭(まかないがしら)をつとめていた実直の士に、和田宗右衛門(わだそうえもん)という人があった。
 水清ければ魚住まずというたとえのとおり、同役の横領にまきぞえを食って永のお暇(いとま)となった宗右衛門。今さら二君にまみえて他家の新参になるものもあるまいと、それから江戸に立ちいで気易(きやす)な浪人の境涯。浅草三間町の鍛冶屋富五郎、かじ富という、これがいささかの知人でいろいろと親切に世話をしてくれるから、このものの口ききで田原町(たわらまち)三丁目喜左衛門の店に寺小屋を開いて、ほそぼそながらもその日のけむりを立てることになったが……。
 妻おさよとのあいだに、もう年ごろの娘があってお艶という。
 どうか一日も早く婿養子をとり、それに主取りをさせて和田の家を興(おこ)したいと、明けくれ老夫婦が語りあっているうちに、宗右衛門はどっと仮りそめの床についたのが因(もと)で、おさよお艶をはじめ家主喜左衛門やかじ富が、医者よ薬よとさわいだかいもなく、夢のようにこの世を去ったのであった。
 あら浪の浮き世に取りのこされた母娘(おやこ)ふたり。涙にひたることも長くはゆるされなかった。明日からの生計(くらし)の途(みち)が眼のまえにせまっている。老母おさよは、ちょうどその時下女を探していた本所法恩寺の旗本鈴川源十郎方へ、喜左衛門とかじ富が請人(うけにん)になって奉公に上がり、ひとりになったお艶のところへ喜左衛門が持ちこんできたのが、この三社前の水茶屋当り矢の出物であった。
 武士の娘が茶屋女に――とは思ったが、それも時世(ときよ)時節(じせつ)でしかたがないとあきらめたお艶は、田原町の喜左衛門からこうして毎日三社前に通っているのである。
 世話にくだけた風俗が、持って生まれた容姿(かおかたち)をひとしお引き立たせて、まだ店も出してまもないのに、当り矢のお艶といえばもう浅草で知らないものはない。
 世が世ならば……思うにつけはやればはやるほど気のふさぐお艶だった。
 ところへ、また――。
 人の親切ほどあてにならないものはない。
 あれほど親身に親子の面倒を見てくれたかじ富が、それも今から思えば何かためにしようの肚(はら)だったらしいがこのごろ、その時どきに用立てた金を通算して、大枚五十両というものを矢のように催促[#「催促」は底本では「催足」]してくるのである。
 あと月のある日、観音詣りの帰りに立ち寄ってから毎日かかさず来てくれる栄三郎へ、お艶はふとこの心にあまる辛苦をうちあけると、栄三郎は二つ返事で五十両の金策に飛び出したのだが――。
 まだ帰ってこない。
「申しわけございません。はじめからお金をねだるようで、はしたない茶屋女とおぼしめしましょうが」
 ほっと深い吐息がお艶の口から洩れた。

 大久保藤次郎家用人白木重兵衛が、その日、用があって蔵宿両口屋へ立ちよると、つい今しがた、主人の弟の栄三郎が藤次郎の実印を持ってきて、こういうはなしで五十両借りて行ったという。
 判をちょろまかして大金をかたるとはいかに若殿様でもすておけないとあって、白髪頭をふりたてた重兵衛、飛びだして小手をかざすと――。
 秋らしく遠見のきく白い町すじ。
 三々五々人の往来する蔵前の通りを、はるか駒形(こまがた)から雷門(かみなりもん)をさしていそぐ栄三郎の姿が、豆のようにぽっちりと見える。与吉を伝送(でんそう)の中つぎに残して、あとをつけてゆく源十郎とお藤の影は、もとよりただの通行人としか重兵衛の眼にはうつらなかった。
「うちうちなら宜(え)えが、札差しを痛めつけられるようでは、栄三郎さまの行く末が思われる。ぶるるッ! これはどうあっても殿様へ申し上げねばならぬ……殿様へ申しあげねばならぬ」
 と正直一途(いちず)に融通のきかない重兵衛は、それからすぐに鳥越の屋敷へ取って返す。そんなことは知らないが、なんでこの若侍も鳥越へ?
 と源十郎が前方の栄三郎をみつめているうち、花川戸(はなかわど)のほうへ下らずに、栄三郎はまっすぐに仁王門から観音(かんのん)の境内へはいりこむ。
 はてな、道がちがうがどこへ行くのだろう? 源十郎はお藤に眼くばせして歩を早めた。
 栄三郎にしてみれば。
 あの根津の曙の里の故小野塚鉄斎先生の娘弥生(やよい)に思われて、嫌ってはすまぬと知りながら、ああしてみずから敗をとって弥生を泣かした。のみならず、それから事件が起こって老師は不慮の刃にたおれ、夜泣きの刀は二つに別れて坤竜(こんりゅう)はいま自分の腰にある。栄三郎とてもいたずらに弥生をしりぞけ、師の望みにそむくものではない。あの夜、泣く泣く麹町(こうじまち)の親戚(しんせき)土屋多門方へ引き取られて行った弥生に、かれはかたい使命を誓ったのだった。
 相手は乾雲丸の丹下左膳。
 がしかし、弥生の恋をふみにじって、事ここにいたったのも、栄三郎としては、ここに三社前の水茶屋当り矢のお艶というものがあればこそであった。
 恋し恋されるこころのあがきだけは、人の世のつねの手綱では御(ぎょ)されない。
 一眼惚れとでもいうのか、はじめて見た時からずっとひきこんだ恋慕風(れんぼかぜ)を栄三郎はどうすることもできなかった。
 その思う女に持ちかけられた五十両の才覚である。栄三郎はとび立つ思いで引き受けたものの、さて部屋住みの身にそれだけの工面がつくはずがない。とほうに暮れたあげく、悪いことだが、ふと思いついたのが、兄藤次郎の名で札差しから引き出すことだ。で、さっそく実印を盗みだし、その足で両口屋に用だたせてきたこの五十両。
 途中でへんなやつに掠(さら)われたがそれもまた、もうひとり変り種があらわれて取り返してくれた――あの一くせある、風格の乞食はいったい何者であろう?
 ものを思って歩く道は近い。
 お! それにしてもさぞお艶が待ちくたびれているだろうな。
 と、顔を上げた栄三郎が急ぎ足になったとき、気がつくともう水茶屋並びで、むこうの、金的に矢の立つ当り矢の貼(は)り行燈(あんどん)の下に、白いお艶の顔が栄三郎に笑いかけている。
 栄三郎は、上々吉、できたぞという心で、小判にふくらんだ懐中をたたいて見せた。
「ほんとに、とんでもないことをお願いして、もう来てくださらないかと案じておりましたが、でもお顔を見ただけでどうやら安心しました」
 においこぼれる口もとの笑(え)みを前垂れで受けながら、こういって栄三郎を見上げた澄んだ瞳には、若いたましいを嬌殺(きょうさつ)しないではおかないものがあった。栄三郎は、つと身も世もない歓喜(よろこび)が背筋を走るのを覚えつつ、
「ま、はいりましょう――」
 と先に立って葦簾(よしず)張りをくぐるとすぐ、
「さ、五十両ある」
 大きく笑って、重い財布をそこの腰かけへほうり出した。
 お艶はすぐに取りあげもならず、はじらいを包んだ流眄(ながしめ)を栄三郎へ送ってうつむいた。
「なんともすみません――ねえ、若殿様、おなじみも浅いのにはやお金のことを申しあげたりして、やはりはしたない茶屋女だけのことはあるとおぼしめすでございましょうねえ。わたしはそれが辛くて――」
「なんの。不如意(ふにょい)の節は誰しも同じこと。早くこれを持って行って、その鍛冶富とやらへ借利(かり)を払ってやりなさい。私が店番をしている」
「まあ! なにから何まで――では、母へも知らせてお礼はあとから改めて申しあげますが、せっかくのおなさけでございますからすがらせていただいて、ちょっとひとッ走り行って返して参ります。あの、すぐそこでございますよ」
 いそいそと前掛けをはずしたお艶が、袖を胸に重ねて走り出したところで、とんとぶつかりそうになった女づれの侍がある。源十郎だ。
「あれ! ごめん下さいまし」
 そのまま内股(うちまた)に駈けてゆくお艶のうしろ姿に、源十郎の眼がじいっと焼きついたと見ると、
「殿様、あれが浅草名代の当り矢のお艶でございますよ――まあきれいですことねえ!」
 そそのかすようにお藤がささやいた。
 褄(つま)を乱して急ぎ去るお艶の影に、みだらな笑をたたえた源十郎は「お藤」とふり向いて、
「美(い)い女だなあ! 当り矢のお艶という? ふうむ、そうか」
 お藤は、いたずららしい眼で源十郎を叱った。
「あれさ、殿さまいけませんよ。またそろそろ浮気の虫が……」
 苦笑した源十郎、五十両を持った若侍をつけてきたのは、かれの腰にある陣太刀づくりの脇差――坤竜丸にひかれてのことである。いまは茶屋女の裾さばきに見惚れている場合でないと、そっとお藤を押しのけて前の茶屋を見やると――。
 葦簾のかげに緋毛氈(ひもうせん)敷いた腰かけが並んで、茶碗に土瓶(どびん)、小暗い隅には磨きあげた薬罐(やかん)が光り、菓子の塗り箱が二つ三つそこらに出ている――ありきたりの水茶屋のしつらえ。
 むこう向きにかけた侍ひとり。その羽織の下からのぞいている平巻きの鞘を見つけると、源十郎は忍びになって、常夜燈のかげへお藤をさし招いた。
「いる」
「いますか……では、与(よ)の公(こう)が待っていますから、わたしはすぐ引っ返して――」
 と手早く片裾からげるお藤へ、源十郎はにやりと笑いかけて、
「左膳はこの若造を死身(しにみ)になってさがしているのだ。わけはいずれあとでわかるが、左膳の大事であってみれば、おれも、いや、お前こそは――はっははは、まんざら力瘤(ちからこぶ)のはいらぬというわけはあるまいな。その気でぬからず頼む。お前の左膳へのこころもちはおれから伝えてもあるし、今後は決して悪くははからわんつもりだ」
 左膳……といわれて、櫛まきお藤ともあろうものがぽっとさくら色に染まって、凄いまでに沈んだ口調だ。
「いまのお言葉――反古(ほご)になさるとききませんよ」
 陽(ひ)かげのせいか、源十郎はうそ寒く感じた。
「大丈夫だ。早く行って与吉を走らせろ……あ! それからな、さっきのお艶、あれの店(たな)はどこか、またいかなる身分のものか、そこらのところを御苦労だが洗ってきてもらえまいか」
 たしなめるようににっと歯をみせたお藤は、それでももうおもしろそうに大きくうなずいて、鐘撞堂(かねつきどう)からお水屋へと影づたいに粋(いき)な姿を消して行った。
 振袖銀杏の下に待っているつづみの与吉へ。
 そして、しらせを受け取った与吉は、ただちに本所法恩寺橋へ宙を飛んで、いま浅草三社まえのかけ茶屋当り矢に坤竜丸が来ていると丹下左膳へ注進する手はず。
 ひとりあとに残った源十郎は、しばらく石になったように動かなかった。
 やがて。
「鳥越の若様という侍が、この当り矢へ来ておる。すると、きゃつとお艶と――だが待てよ、おれには百の坤竜よりも生きたお艶のほうがよっぽどありがたいわい。こりゃあ一つ考えものだぞ」
 とひねった首をしゃんとなおすが早いか、思いついたことがあるらしく、源十郎ぐっと豪刀の柄(つか)を突き出して目釘を舐(な)めた。
 雪駄をぬいでふところへ呑む。ツウ……とぬすみ足、寄りそったのが当り矢の前だ。
 と思うと、突如!
 ザザザアッ! とうしろに葦簾(よしず)をかっさばいた白光に、早くも身を低めた栄三郎が腰掛けを蹴返したとたん、ものをいわずに伸びきった源十郎の狂刀が、ぞッと氷気を呼んで栄三郎の頭上に舞った。
 去水流居合(きょすいりゅういあい)、鶺鴒剣(せきれいけん)の極意(ごくい)。
 が、この時すでに、あやうくとびずさった栄三郎の手には、武蔵太郎安国が延べかがみのように光っていた。
 源十郎、追い撃ちをひかえて上段にとる。
 栄三郎は神変夢想の平青眼だ。
 せまい茶屋のなか。外光をせおった源十郎は、前からはただ黒い影としか見えない。
「何奴(なにやつ)! 狂者か。白昼この狼藉――うらみをうける覚えはないぞッ! 引けッ」
 上眼づかいに栄三郎が叱□(しった)する。源十郎は笑った。
「できる。が、呼吸がととのわん。道場の剣法、人を斬ったことはあるまいな」
「エイッ! なに奴かッ! 名を名乗れ、名を」
「丹下左膳……といえば聞いたことがあろう」
「なな何ッ? た、丹下、あの丹下左膳――?」
 栄三郎が思わず体を崩してすかして見たとき、スウッとしずかに源十郎の刀が鞘へすべりこんで、
「まず――まず、人きり庖丁(ぼうちょう)をしまわれて、おかけなされ。話がある」
 とあっけにとられている栄三郎へは眼もくれず、源十郎は、この真昼間なんのしらせもなしに降ってわいた斬り合いに胆をつぶして、怖いもの見たさにもう店の前に輪を書いていた隣の設楽(しがらき)の客や通行人のむれに、いきなりかみなりのような怒声を浴びせかけた。
「馬鹿ッ! こいつらア! 何を見とる? 見世物じゃないッ! いけッ!」
「はなしは早いがいい。女と刀の取っかえっこだ。どうだな?」
 源十郎は藪から棒に、突き刺すように言って顎をしゃくった。
 片面に影がよどんで、よく相手の顔が見えない栄三郎にも、いまこの男が、さっき正覚寺門前で財布をとり返してくれた上役人らしいことはわかったが、それがまた何しに言葉もかけずに斬りこんできたか? 刀と女との交換とはなにを意味する? と思うと、うっかり口はきけない。かたくなって源十郎を見すえた。
 左膳によれば、この坤竜(こんりゅう)丸の若者なかなかに腕が立つという。が、どのくらいかと当たる意(こころ)で斬りつけた源十郎は、武蔵太郎の皎鋩(こうぼう)に容易ならぬ気魄(きはく)を読むと、今後これを向うへまわす左膳と自分もめったに油断はならぬわいと思いながら、急にくだけて出たのだった。
「先刻の非礼、幾重(いくえ)にもお詫びつかまつる」
 というのをきり出しに、自分が丹下左膳と乾雲(けんうん)丸の所在を知っていることを物語って、次第によっては刀を取りもどして来て進ぜてもよいとむすんだ。
 どこに? とせきこむ栄三郎の問いには、江戸の片隅とのみ答えて、源十郎声をおとした。
「さ、そこでござる。お手前はその坤竜をもって左膳の乾雲を呼ばんとし、左膳は乾雲に乗じて貴殿の生命と坤竜を狙っておる。あいだに立っておもしろがっているのが、まあ、この拙者だ。さて、ものは相談だが、貴殿との話しあいいかんによっては、拙者が左膳を丸めるなり片づけるなりして、乾雲丸をお手もとへ返したいと思うが、お聞き入れくださるか」
 栄三郎は解(げ)しかねる面もち。
「それは刀のこと。して、刀に換わる女と申されたは?」
「ここのお艶を拙者におゆずりくださらぬか」
「笑止!」と突ったった栄三郎、
「なにをたわけたことを! なるほど、刀の一件も大切でござるが、左膳ごとき、わたくし一人にて充分、そのために二世をちぎりし女を売るなど栄三郎思いもよりませぬ。土台、人のこころを品物ではなし、ゆずるのゆずらぬのと……」
「二世をちぎった? ははははは、これは恐れ入った。お若い! で、御不承か」
「もちろん!」
「しからば余儀ない。拙者、いずれ左膳に助力してその坤竜丸を申し受けるが、ついでに、お艶ももはや拙者のものと観念めされい」
「御随意に。丹下殿へもよろしく伝えられたい」
「ごめん」
 と源十郎が歩き出したとき、さっき帰って来たものの、自分の名を耳にしてはいりかねていたお艶が栄三郎の真身(しんみ)に感きわまったものか、花びらのように転びこんで、白い腕が栄三郎の首にすがったかと思うと、ことばもなく顔を男の胸にうずめて……
 そのさまに、こりゃたまらぬ! と馬鹿を見た源十郎、
「その女、しばらく預けておくとしよう」
 捨てぜりふとともに袂(たもと)をたたいて、ぶらりと当り矢の店を出て行った。
 おなじ時刻に。
 夜も昼もない常闇(とこやみ)の世界。
 八つ下りの陽がかんかん照りつけるのに、乾割れの来そうな雨戸をぴったりとしめきって、法恩寺まえの鈴川の屋敷では丹下左膳がいびきをかいていた。
 茶室めかした六畳の離庵(はなれ)。
 足の踏み立て場もなくちらかしたまん中に、四布蒲団(よのぶとん)の柏餅から毛脛を二本投げ出して、夜出歩く左膳はこうして昼眠っているのだ。
 垢とあぶらに重くにごった室内に、板の隙を洩れる細い光線がふしぎな縞を織り出している。
 あの夜――乾雲丸を手に入れて以来、栄三郎の坤竜を気に病む左膳ではないが、何者かに憑(つ)かれ悩んでいるらしかった。癖せた身体がいっそう骨張って、食もほそり、酒さえすすまぬ案山子(かかし)のような姿で夜ごと曙の里あたりを徘徊(はいかい)するのが見られたが、主(しゅ)を失った鉄斎道場の門は固くしまって弥生のゆくえはどことも知れなかった。
 大主にふくめられた秘旨(ひし)は忘れぬ。またお藤のなさけも感ぜぬではないが、あの娘は仕合に勝って取ったのだと思うと、咲きほこる海棠(かいどう)のような弥生の姿が、四六時中左膳の隻眼にちらつく――恋の丹下左膳。
 隻腕の身の片思い。
 恋慕の糸のもつれは利刀(りとう)乾雲でも断ち切れなかった。
 夢に提灯をさげて築山の裾をゆく弥生がうかぶ。ううむ! と左膳が寝返りをうった時、やにわに! 紙を貼った戸の節穴(ふしあな)に人影がさして、
「左膳さま――丹下の殿様!」
 と呼ぶ与吉の声に、ぱッと枕頭(ちんとう)の乾雲丸をつかんではね起きた左膳、板戸を引くと庭一ぱいの雑草に日光が踊って、さわやかな風が寝巻の裾をなぶる。
 与吉のしらせを聞いた左膳は、やにのたまった一眼を見ひらいて、打ッ! と乾雲の鍔(つば)を鳴らした。
「なに、源十が見張っておると? だが、夜の仕事だなこりゃあ――貴様、いまのうちに駈けずりまわって、土生(はぶ)仙之助をはじめ十五、六人連中を狩り集めてこい」
 きりきり舞いをした与吉は、糸の切れた奴凧(やっこだこ)みたいにそのまま裏門からすっ飛んでゆく。
 闇黒に水のにおいが拡がっている――。
 月のない夜は、まだ宵ながらひっそりと静まって、石垣の根を洗う河音がそうそうとあたりを占めていた。
 あさくらお米蔵(こめぐら)の裏手。
 一番から八番まで、舟入りの掘割(ほりわり)が櫛の歯のようにいりこんでいる岸に、お江戸名物の名も嬉しい首尾の松が思い合った影をまじえて、誰のとも知らぬ小舟が二、三舫(もや)ってあった。
 その一艘(いっそう)の胴(どう)の間(ま)に、うるさい世をのがれてきた若い男女。
 当り矢の店をしまうとすぐ、お艶と栄三郎は、灯のつきそめた町々をあてどもなくさまよって、知らず識らず暗いところを選ぶうちにここまで来たのだった……そして舟のなかへ。
 話さなければならぬことが山ほどある。
 が、ただそんな気がするだけで、膝(ひざ)のうえにお艶の手をとった栄三郎、もう何もいわなくてもよかった。
 川向うは、本所の空。
 火の見やぐらの肩に星がまたたいて加納遠江(かのうとおとうみ)や松浦豊後守(まつうらぶんごのかみ)の屋敷屋敷の洩れ灯が水に流れ、お竹ぐらの杉がこんもりと……。
 人目はない。
 お艶の胸のときめきが握られた手を通じて栄三郎に伝わると、かれは睡蓮(すいれん)のようなほの白い顔をのぞきこんだ。
「もう夜寒の冬も近い。こうしていては冷えよう――」
 いいながら羽織をぬいで、お艶の背へ着せようとする。
「え、いいえ、あれ! もったいない……それではかえってあなた様が……」
 とお艶は軽く争ったが男の羽織が、ふわりと肩に落ちると同時にされるがままにもたれてくるのを、栄三郎はかき抱くように引きよせて、
「お艶」
「若殿さま」
 眼と眼。
 顔と顔。
 四つの目からはずむ輝きが火のようにかちあう。
 恋する者の忘れられない初めての遭逢(そうほう)であった。

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