丹下左膳
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著者名:林不忘 

「おッと! みんなあたしのためとおっしゃりたいんでございましょう? お気の毒さま。そのあたまがおありだから、あたしよりも刀がかわいいのに不思議はございませんとも――もう何も伺いたくはございません!」
「なんたる下卑(げび)た言いぐさ! うん、なんたる低劣な……」
「ほほほほ、なんですよ今ごろ、これが三社前の姐さん、当り矢のお艶の懸値(かけね)のないところ。地金(じがね)をごらんなすったら、愛想もこそも尽きましたろうねえ」
「よくも……」
「なんですよ。そんな張(は)り子(こ)の虎みたいに――みっともないじゃアありませんか」
「よくも、よくも今まで猫をかぶっておったなッ!」
「お坊っちゃん、お気がつかれましたか。オホホホ。でもね、これでもお艶でなくちゃアっておっしゃってくださるお方もございますからね。世の中はよくしたもので、まんざらでもないとみえますよ」
「だッ……だまされたのだッ! ちえッ!」
「近いところじゃ、鈴川の殿様なんか、あたしでなくちゃア夜も日も明けませんのさ」
「な、何イ? す、鈴川源十郎かッ!」

「鈴川源十郎……とは、あの鈴川源十郎かッ?」
 栄三郎が、こうどなるようにいってにらみつけると、お艶は、おちょぼ口に手を当ててあでやかに笑った。
「ええ、鈴川の殿様に二つはないでございませんか。本所の法恩寺まえのお旗本――」
 いいかけたお艶の言葉は、中途で無残に吹っ飛んでしまった。おわるを待たず、栄三郎の腕がむんずと伸びて来て、お艶の襟髪をとったかと思うと、力にまかせてそこへ引き倒したからだ。
「お艶ッ!」
 片膝を立てて、しっかとお艶をおさえつけた栄三郎の声は、かなしい怒りに曇り、眼は惨涙(さんるい)を宿して早くもうるんでいた。
「お艶、……貴様に、本所の鈴川が執心(しゅうしん)のことは、拙者も以前から承知しておったが、拙者の妻たる貴様が、かれごときに幾分なりとも心を許そうとは、お、おれは、今のいままで夢にも思わなかったぞッ!」
「――」
 白い頬もくだけよとばかり、顔を畳にこすりつけられて、お艶は声も出ない。
「し、しかるに、黙って聞いておれば、かの鈴川が懸想(けそう)いたしおることを良人(おっと)の拙者のまえをもはばからず鼻高々と誇りがましきいまのことば……お艶ッ! 貴様、なんだな、先日本所の屋敷に幽閉(ゆうへい)されおった際に――」
 嫉火(しっか)と情炎にもつれる栄三郎の舌、その切々たる声を耳にして、お艶は半ばうっとりとされるがままに畳に片面を当てて小突かれていたが……。
 大粒な泪がひとつ、ほろりと眼がしらを離れて、長い睫毛(まつげ)を濡らしながら、見るみる頬を伝わって陽にやけたたたみの表へ吸われていった。一すじ白い光のあとを引いて。
 と、その時。
 貴様! なんだな、先日本所の屋敷に幽閉されおった際に――と語尾(ごび)をにごした栄三郎の言を聞くと!
 しんからたけりたったらしいお艶、髪を乱し、胸をはだけて、やにわにはね起きようと試みたが、栄三郎の腕にぐっと力がはいると、ひとたまりもなくそのまま元の姿勢に戻されて、かわりに、なみだにかすれる声を振りしぼった。
「あたしが鈴川の殿様となんぞ……とでもおっしゃるんですか? あんまりなんぼなんでも、あんまりですッ! そ、そればかりは、いくらあなた様でも聞き捨てになりません! 離してください。な、何を証拠にそんな、そんな……いいえ、はっきりと伺いましょう。後生ですから手をはなして――」
 と、今はもう女の身のたしなみもなく、心からのくやしさに狂いもだえるのを、栄三郎はなおものしかかるように膝下にひきつけて、
「エエイ黙れッ! このごろの貴様が赤裸々(せきらら)の貴様なら、源十郎はおろか、だれとねんごろになろうとも栄三郎はすこしも驚かぬぞッ! ナ、なんたる……ウヌッ! なんたる淫婦(いんぷ)――!」
「ま、待ってくださいッ!」
「姦婦(かんぷ)! 妖婦! 毒婦!」
 熱涙ぼうだとしてとどめもあえぬ栄三郎は、一つずつ区切ってうめきながら、はふり落ちる泪とともに、哀恋の拳が霰(あられ)のようにお艶のうえにくだった。
 愛する者を、愛するがゆえに打たずにはおかれぬくるしさ……。
 よしや振りあげた刹那はいかにいきおいこんでいようとも、その手は、ふりおろす途中に力を失ってお艶の身に触れる時は、おのずから撫(な)でるがごとくであった。
 弾(はじ)き返ったお艶は、栄三郎の手を逃れて柱の根へ飛びさがった。
「何も、あたしをチヤホヤしてくださる方は、鈴川の殿様ばかりとはかぎりません。鍛冶屋の富五郎さんだって、それから当り矢の店へ来てくだすった大店(おおだな)の若旦那やなんか……」
「すべたッ! まだ言うかッ!」
 一声おめいた時、栄三郎の手はわれ知らず柄頭(つかがしら)にかかっていた。
 と見て、お艶は蒼白く笑った。
「ほほほ、このあたしをお斬りになる気でございますか。まあ、おもしろい――けれどねえ、お艶にごひいき筋が多うござんすから、あとでどんな苦情が出るかも知れませんよ」
「…………!」
 無言のうちに、しずかに鞘走らせた武蔵太郎を、栄三郎はっと振りかぶったと見るまに、泣くような気合いの声とともに、氷刃、殺風を生じて、突! 深くお艶の肩を打った。
 ウウウム――!
 と歯を食いしばったお艶、しなやかな胴を一瞬くねらせて、たたみを掻いてうつぶしたのだった。
 が!
 峰打ちだった。
 と、お艶はすぐに、痛みに顔をしかめただけで起きあがろうとしたが、栄三郎はもう武蔵太郎をピタリと鞘に納めて、両手を腰に立ちはだかったまま凝然(じっ)とお艶を見おろしていた。
 その眼……!
 おお、その眼は、人間の愛欲憎念をここにひとつに集めたような、言辞に尽(つ)きた情を宿して、あやしい光に濡れそぼれていた、泣くような――と見れば、笑うような。
 暫時(しばし)の沈黙のうちに、男と女の瞳が互いにその奥底の深意を読もうとあせって、はげしく絡みあい、音をたてんばかりにきしんだ。
 口を開いたのは栄三郎だった。
「お艶! あれほど固く誓い、また今日というきょうまで信じきっておったお前が、かくも汚れた女子であろうとは拙者には思えぬ。いや、どうあっても思いたくないのだ。しかし――」
「…………?」
 いいよどんだ栄三郎を見あげたお艶の顔に、ちらと身も世もあらぬ悲しい色が走ったが、栄三郎が気のつくさきに、それはすぐに不敵なほほえみに消されてお艶は、無言の揶揄(やゆ)であとをうながした。
「…………?」
「しかし、お前という人柄がきょうこのごろのように豹変(ひょうへん)した以上は、拙者としては嫌でもお前の変心を認めざるを得ない。さて、人のこころは水のごときもの、ひとたび流れ去っては百の嘆訴(たんそ)、千の説法ももとへ返すべくはないな、そうであろう? これ、泣いているのか、いまさら何を泣くのだ?」
「はい……いいえ」
「拙者もさとったよ、ははははは、いや、いったんこうはっきりお前の心がおれを離れたとわかってみれば、拙者も男、いたずらにたましいの抜けた残骸(ざんがい)を抱いて快しとはせぬ。そこで、ものは相談だが、きょうかぎりキッパリと別れようではないか」
 いいながら、返答いかに? と思わず栄三郎、口ではとにかく、まだたっぷりと未練(みれん)があるものか、あきらかに弱い不安を面いっぱいにみなぎらせて中腰にのぞきこんだとき、
「す、すみません」
 と口ごもったお艶の声に、まさか……と幾分の望みをかけていた栄三郎は、ややッ! と驚愕にのけぞると同時に、あきらめきれぬ新しい慕念がグッと胸さきにこみあげてきて、
「そうか」
 破裂を包んだ低声。
 見せじとつとめる涙が、われにもなくにじみ出てきて――。
 ワッ! とお艶はそこへ哭(な)き伏した。
「お世話に……」
「なに?」
「お世話になりましたことは、お艶は死んでも忘れません」
「フン! 吐(ぬ)かしおる」
 栄三郎はすでに平静にかえっていた。
 大刀武蔵太郎安国のこじりに帯をさぐって、坤竜と脇差と番(つがい)にスッポリと落とし差したかれは、刀の重みを受けて刀にゆるむ帯を軽くゆすりあげたのち、ちょっと大小の据わりをなおして、ゆらりと土間におり立った。
 片手に浪人笠。
 履物を突っかける……と、ブラリそのまま格子戸をくぐり出ようとした。
「あなたッ! 栄三郎様ッ」
 お艶の声が必死に追いかける。が、彼は振りむきもせずに、
「達者(たっしゃ)に――」
「え? もう一度お顔をッ!」
 悲涙にむせんだお艶、前を乱した白い膝がしらに畳をきざんで、両手を空に上り框(がまち)までよろめき出ると、
「えいッ! 達者に暮らせ!」
 一声……ピシャリ! 格子がしまって、男の姿がちらりと陽ざしをさえぎったと思うまもなく、あがり口に泣き崩れたお艶は、露地の溝板(どぶいた)を踏んでゆく栄三郎の跫音(あしおと)がだんだんと遠のくのを、夢のように聞かなければならなかった。
 夢? ほんとにほんとに夢。ながい夢! 泣きはらした眼を部屋へ返したお艶は、栄三郎の羽織がぬぎすててあるのを見ると、はっとして立ちあがった。
 まあ! お羽織なしにこの寒ぞらへ!
 もしや風邪(かぜ)でも召されては!
 と思うとお艶、装(なり)ふりかまっていられる場合ではない。ずっこけた帯のはしをちょいとはさむが早いか、泣き濡れた顔もそのままに羽織を小わきに家を走り出た。

 羽織をかかえて露地ぐちまで走り出てみたけれど、どっちへ行ったものか、栄三郎のすがたはもうそこらになかった。
 ひっそりとした往来のむこうを荷を積んだ馬の列が通り過ぎていった。
 しめっぼい冷たい空気が、町ぜんたいを押しつけている。
 ぼんやりたたずんでいるお艶へ、
「小母(おば)ちゃん、そのおべべを持ってどこイ行くの?」
 と長屋の子供が声をかけたが、お艶は耳にもはいらぬふうだった。
「やあ! 小母ちゃんが泣いてらあ! 泣いてらあ! やあい、おかちいなあ!」
 急に足もとから子供がはやしたてたので、お艶はハッとわれに返って羽織に顔を押し当てた。
「坊や、いい児だね。おばちゃんは泣いてなんかいないからね。さ、あっちへ行ってお遊び」
 子供はふしぎそうに振りかえりながら大通りを駈けぬけていった。
 お艶は、羽織の袖がひきずるのも知らずに片手にさげて、しょんぼりと家に帰った。
 あがってすわってはみたが……広くもない家ながら、栄三郎の出ていったあとはたまらなく淋しかった。孤独の思いがしいんと胸に食いいってくる。
「栄三郎さま」
 呼んでみても聞こえようはずはない。かえってわれとわが低声(こごえ)に驚いて、お艶はあたりを見まわしたが、夢中でつまぐっている膝の栄三郎の羽織に気がつくと、こんどはしんみりとひとりごとをはじめた。
 ひとりごと? ではない。彼女は羽織を相手に話しているのだった。
「申しわけございません。おこころに曇りのない正直一徹のあなた様をあんなにおこらせ申して、それもこれも夜泣きの刀のため、おかわいそうな弥生さまのおためとは言いながら、思えば、お艶も罪の深い女でございます」
 言葉はいつしかすすり泣きに変わっていた。
「けれども、こうやっていましたのでは、いつになったら埓(らち)のあきますことやら……所詮(しょせん)わたし故(ゆえ)にあなた様をこのままおちぶらせるようなもの――なにとぞお艶をお捨てなされて、存分にお働きくださいまし。一日も早く乾雲丸をお手におさめて弥生様と、弥生さまと――」
 つっぷしたお艶、羽織を揉(も)みながらなみだのあいだからかきくどいた。
「それがお艶の一生のお願いでございますッ! でも……でも、こんなにまでして、心にもないふしだらを並べてお怒りを買わねばならなかったお艶のしん中もすこしはお察しくださいまし。あとで何もかもわかりますから、そうしたらたったひとこと不憫(ふびん)なやつと――栄三郎様ッ! 泣いてやって、泣いてやって……」
 気も狂わんばかりにもだえたお艶は、ガバッと畳に倒れて羽織を抱きしめた。
 別れともなくして別れた男の移り香が、羽織に埋めたお艶の鼻をうっすらとかすめる。
 それがまた新しい泪をさそって、お艶はオオオオウッ! とあたりかまわず大声に泣き放ったが、折りよくいつのまにか隣家に近所の子供が集まって、キャッキャッと笑いながら遊びさわいでいたので、お艶はその物音にまぎれてこころゆくまで慟哭(どうこく)することができたのだった。
まわりまわりの小仏さん
まわりまわりの小仏さん
 となりのさざめきはつのるばかり――お艶も何がなしに幼い気もちに立ち返って小娘のように泣き濡れていた。
 出て行った栄三郎の涙と、残っているお艶のなみだと――。
 父は早く禄を離れて江戸の陋巷(ろうこう)にさまよい、またその父を失ってから母とも別れて、あらゆる浮き世の苦労をなめつくしたお艶にとっては、義理の二字ほど重いものはないのだった。刀の分離といい弥生の悲嘆といい、すべては栄三郎が自分を想ってくださることから――こう考えるとお艶は、おのが恋を捨てても! と一図(ず)に決して、さてこそあの、裏で手を合わせて表に毒づくあいそづかし……お艶も江戸の女であった。
 何刻かたった。
 お艶はじっと動かない。
 眠っているのだ。
 泣きくたびれて、いつしかスヤスヤと転寝(うたたね)におちたお艶、栄三郎がいれば小掻巻(こかいまき)一つでも掛けてやろうものを。
まわりまわりの小仏さん
まわりまわりの小仏さん
 隣では子供が遊戯(あそび)にふけっている。
 と、がらりと格子があいて、ひさしぶりに天下の乞食先生蒲生泰軒のだみ声だ。
「わっはっはっはっは! こりゃ、敷居が高い、御無沙汰(ごぶさた)、御無沙汰!」
 びっくりはね起きたお艶の頬にたたみのあとが赤くついていた。

   まんじ巴(ともえ)

 その夜。
 どこをどう歩きまわったものか、栄三郎は頭から肩まで白いものを積もらせて瓦町の家へ帰って来た。いつのまにか雪になっていたのだ。あやうく、
「お艶、いま戻ったぞ」
 と口から出そうになるのをおさえて、身体の雪を払ってあがると……まっくら。
 かじかんだ手で火打ちを擦(す)る。
 ポウッと薄黄色の灯心(とうしん)の光が闇黒ににじんで、珍しく取り片づいた部屋のありさまが栄三郎の眼にうつった。
 お艶はいない。
 二、三枚の着物や髪の道具をまとめて、あわてて家を出ていったことがわかる。女気のない部屋はどこにも赤い色彩(いろどり)を失って、雪夜ひとしおの寒さが栄三郎の骨にしみる。
 が、かれはもう悲しんではいなかった。
「出てうせたか――汚れきった女め――あれほどとは思わなかった――」
 と、吐きだすようにつぶやきながら、何か書置きでも? とジロリそこらを見まわす。
 何もない。
 もはやフッツリと未練をたった栄三郎、
「これあるのみだ」
 正座して坤竜丸を取りあげた。
 平糸巻(ひらいとま)きの鞘――上り竜を彫った赤銅のつか。
「ひき寄せてくれ、乾雲丸をひきよせてくれ」
 呪文(じゅもん)のように言ったかと思うと、ふうっと長く息を吹いた。
 自暴酒(やけざけ)でもあるまいが、若い栄三郎、どこでのんだかすこし酔っている。
「あんな女! かえってよいわ。かくなるように最初から決まっていたのだ! よウシ! このうえはただ精根のかぎり立ち働いて乾雲を取り戻すぞ! そうだ。やる! あくまでやる」
 愁灯(しゅうとう)のもと、強い決意に眼を輝かせて、栄三郎はしずかに坤竜の柄をなでた。
「――待っておれ。いまに乾雲を奪って、いっしょにして進ぜる。汝もつがいが破られたが、拙者も彼女に別れたひとり者同士、ははははは、けっく気やすだなあ」
 悵然(ちょうぜん)と腕をこまねいていたが、突如、畳を蹴って躍りたつと、手にはもう明皓々(めいこうこう)たる武蔵太郎の鞘を走らせて。
 刃光らんらんとして一抹の冷気!
「おのれ、丹下左膳!」
 とジリリ青眼につけて一隅へ迫ったが、あるものは壁に倒れた己(おの)が影ばかり……いとしい女に去られて気がふれたか諏訪栄三郎、あらず! こみあげて来たとっさの闘意をもてあまして、かれはその場に左膳を仮想し、ひとり刀を擬しているのだ。
「やよ左膳! なんじ一書を寄せて乾雲丸を火事装束の五人組に奪われたと申し出たが、不肖(ふしょう)栄三郎といえどもかかるそらごとは真に受けぬぞ! 小策を弄(ろう)す奸物めッ! いずれそのうち参上してつるぎにかけて申し受くるからさよう心得ろ――はっはははは」
 からからと笑いながら刀身を鞘へ……
 が! この時!
 この栄三郎のにわかの抜刀を、裏口のすきからのぞいて、ビックリあわてた黒い影があったのを栄三郎は知らなかった。
 雪に紛れて忍び寄った一人の女が、さっきから勝手の障子にはりついて、そっと家内をうかがっていたのだ。
 だれ? と見なおすまでもない。
 夜眼にも知れる粋すがたは、道行きめかした手拭をかぶった櫛まきお藤。
 急の剣閃(けんせん)におどろいて一時戸を離れたのが、相手なしの見得(みえ)と知ると、またコッソリ水口に帰ってきて、呼吸を殺して隙(すき)見している。
 しんしんと音もなく積もる雪。
 江戸に、その冬はじめて雪の降った夜だった。
 栄三郎は、床を敷いて夜着をかぶった。
 モウ――ンとこもって、どこか遠くで刻を知らせる鐘の音。
「四つか」
 思うまい――としても、まぶたの裏に花のように咲くのは、出ていったお艶の顔だ。
 この降雪(ゆき)に、どこにいることか――当り矢のころからのことが走馬灯(そうまとう)のように一瞬、栄三郎の脳裡(のうり)をかすめる。
 きょう留守のあいだに泰軒がきて、お艶からそのふかい真意を明かされ、何か考えるところのあるものか、しばし思案ののち快くお艶の身がらを引き受けて、つれだって家を出て行ったことは、栄三郎は知る由もなかった。
 まして、お艶と泰軒のあいだにどんな話しあいがあったやら、――そして泰軒はお艶をいずくへ伴い去ったことか?
 ……栄三郎は眠りに落ちた。疲れきって、こんこんと深い熟睡(うまい)に。
 深更(しんこう)。
 ホトホトとおもての格子が鳴って、何者か女の声が……。
「栄三郎さま、もし、栄三郎様――」
 うら口では、櫛まきお藤がキッと身をかまえた。

「栄三郎様……栄三郎さん!」
 忘れようとして忘れることのできない女の声――それが夜更けをはばかって低く、とぎれがちに、眠っている栄三郎の耳に通う。
 コトコト、コトコトと戸外から格子をたたいているらしい。
 栄三郎ははじめ夢心地に聞いていた。
 が、
「栄三郎様!」
 という一声に、もしやお艶が帰って来たのではないかと思うと、もうあんな女にフツフツ用はないと諦めたはずの栄三郎、心の底に自分でもどうすることもできない未練がわだかまっていたのか……。パッと夜着を蹴ってはね起きるより早く、転ぶがごとく土間口に立って、
「お、お艶か!」
 戸を引きあける――とたんに、ゴウッ――と露路を渡る吹雪風。
 まんじ巴(ともえ)と闇夜におどる六つの花びらだ。
 その風にあおられて、白い被衣(かつぎ)をかぶったと見える女の立ち姿が……。
 雪女郎?
 ――と栄三郎が眼をこすっているあいだに、女は、戸口を漏(も)れる光線(ひかり)のなかへはいってきた。
「お艶……ではないナ。誰だッ?」
「わたしですよ、栄三郎さん」
 いわれて見ればなるほどお艶の母おさよ、鈴川の屋敷をぬけ出てきたままのいでたちで、掘り出した乾雲丸の刀包みであろう。細長い物を重たそうにかかえている。
「おさよでございますよ。はい、夜分おそく――おやすみのところをお起こし申してすみませんでしたね。あの、お艶は?」
 と、きかれた栄三郎、
「なんの」といいかけたが、母御とも呼べず。それかといっておさよ殿も変なものだし、「いや、お艶については、あなたともよく談合いたしたい儀がござる。それにしても、夜中かかる雪のなかをわざわざのお出まし、なんぞ急な御用でも出来(しゅったい)しましたか」
「オオ寒(さむ)!」とおさよは雪をふるい落として、「まあ入れてくださいましよ。お艶が何をいたしたか存じませんが、わたしのほうにもあれのことで折り入ってお話がございましてねえ……それはそうとおさよはいいお土産(みやげ)を持って参りましたよ。どんなにあなたがお喜びになることか。ほほほほ、でかしたと! ほめてやって下さいまし」
 ひとりでしゃべりながら土間へはいってくる。
 母娘とはいいながら、こんなに声が似ているものか! これでは自分がお艶と間違えて飛び起きたのも無理はない――と栄三郎、たたく水鶏(くいな)についだまされて……の形で、思わず苦笑を浮かべながら、
「さあ、おあがりください」
 と、自ら先に立ったが――
 これよりさき!
 栄三郎が格子戸をあけにいったあと。
 ソゥッと音のしないように台所の障子をひいて、水口から顔を出したのは、宵の口から裏に忍んでいた櫛まきお藤であった。
 見ると、枕あんどんがぼうと薄暗いひかりを投げて、その下に置いてある一本の脇差! 平糸を締めた鞘、赤銅の柄にのぼり竜の彫りもあざやかに……。
 武蔵太郎は、栄三郎が戸口にたつ時に引っつかんでいったので、後に残っているのは坤竜丸ただ一つ! のぞいたお藤の顔がニッとほほえんだ。
 左膳を伴い去ったまま今どこに巣をくっているのか、この妖女、栄三郎がおさよと二こと三こと格子先で立ち話をしているあいだに、この機をはずしては左膳様のおために坤竜を手に入れることもまたとできまい! おお! そうだッ! と思うやいなや、抜き足さしあし忍び足――。
 間髪! の隙を狙ってはいりこんで来たお藤、坤竜に手がかかるが早いか、サッと袂に抱きしめてもとの裏口へ!
 しんにとっさの出来事。
 ズウッ! と台所の戸がしまって、あとはトットと雪を踏むお藤の跫音(あしおと)がかすかにうらにひびいた。栄三郎はさよを招じあげながら、何事も気づかずに大声に話していた。
「いや。この大雪のなかを思いきってお出かけになりましたな。何かよほどの急用でも……」
「ほんとにひどい雪ですねえ。わたしゃ本所からここまで来るあいだに三度ころびましたよ、栄三郎さん」
「はっは、それはどうも――が、べつにお怪我もなく……して、さっそくながら御用向きは?」
「降(ふ)りますねえ。いえ、この御土産から……」
 おさよ婆さん、はッと呼吸をはずませて乾雲丸の包みをといている。
「全く、よく降ります。明日はかなり積もりましょう」
 栄三郎はこうしんみり言って、戸外(そと)の雪を聴くように静かに耳をすましながら、おさよの手もとに見入った。
 ぱらり! ぱらり! とほそ長い包装がほどけてゆく音――。

 ぱらり、 ぱらり! とおさよの手で幾重にも包んだ油紙とぼろ片(ぎれ)がとけてゆくうちに、いつしか堅く唾(つば)をのみながら、じっとおさよの手もとをみつめていた栄三郎の眼に、一閃チラリと映ったのは!
 平糸まきの鞘の一部! つづいて陣太刀作り赤銅の柄(つか)!
 いわずと知れた夜泣きの刀乾雲丸とみてとるや、栄三郎、一声のどのつまったような叫びをあげて、狂者のごとくおさよを突きのけ、残りの包みに手をかけてバリバリバリッ! と破るより早く、なかの乾雲を取りあげて血走った眼を犇(ひし)! と注いだ。
 いつ見ても戦国の霜魄(そうはく)鬱勃(うつぼつ)たる関の孫六の鍛刀……。
「ううむ――」
 思わずうなった栄三郎、ハッタとかたわらのおさよを睨(ね)[#ルビの「ね」は底本では「ぬ」]めてにじり寄った。
「お! いかにしてそのもとがこの乾雲丸を……た、丹下左膳はどうしましたッ! さ、それを言われい、それを!」
 剣幕にのまれたおさよは、何からどう言い出したものかと、ただもうドギマギするばかり。
「え、あのそれは――」
「エイッ! はっきりと、はっきりとお話しありたい。そもそもこれは何者の指図でござる?」
 言いながら栄三郎、乾雲丸を引きつけて眼を寝床のほうへやると! 上気した栄三郎の顔が一度に蒼白に転じた。
 何はともあれ、これで手にある坤竜(こんりゅう)と番(つがい)に返り、雲竜ところをひとつにしたと思ったのも束(つか)のま、さっきまで確かに行燈の下にあった脇差坤竜丸が姿を消しているのだ。
「やッ! 坤竜がッ!」
 おめいた栄三郎、同時に突っ起っていた。バタバタッと駈けよって枕を蹴る。あろうはずがない! やけつく視線を部屋じゅうに走らせても、櫛まきお藤が忍び入って先刻持ち出した坤竜丸、どうしてそこらに転がっていよう!
「ああない! ない……坤竜がない! ふしぎ……」
 栄三郎、乾雲を杖によろめいた。
「あの、では、もう一つのお刀が失くなったのでございますか」
 おさよのおろおろ声も栄三郎の耳へははいらなかった。
 おのが手の竜、ひそかに天角の雲を呼んで、ここに乾坤二刀たえてひさしく再会するかと思いきや、その瞬間にこのたびは竜を逸した栄三郎、二つを対(つい)に、とりあえず腰に帯びてみようと意気ごんだだけに茫然自失のていでしばらくは言葉もなかった――。
 と!
 ふと気がついたのが裏の戸口。
 一足飛びに走り出てみると、果たして台所の土間(どま)が雪に汚れて、何ものかの忍びこんだ形跡(ぎょうせき)歴然(れきぜん)!
「おのれッ!」
 と栄三郎、手を乾雲の柄に油障子を引きあけると……いたずらに躍る白羽落花の舞い。
 深夜の江戸を一刷(は)けに押し包んで、雪はいつやむべしと見えなかった。
 宿業(しゅくごう)と言おうか――それとも運気(うんき)?
 双剣一に収まって和平を楽しむの期(き)いまだ到(いた)らざる証(あかし)であろうが、前門に雲舞いくだって後門(こうもん)竜(りゅう)を脱す。
 はいる乾雲に出る坤竜。
 それはまことに不可測(ふかそく)なめぐりあわせであったが、栄三郎はついに乾雲の柄をたたいてにっこりとした。
 思ってもみよ!
 きょうが日まで刃妖左膳の隻腕にあって、幾多の人の血あぶらに飽き剣鬼の手垢(てあか)に赤銅のひかりを増した利刀乾雲丸が、今宵からは若年の剣士諏訪栄三郎のかいなに破邪(はじゃ)のつるぎと変じて、倍旧の迅火殺陣(じんかさつじん)の場に乾雲独自のはたらきを示そうとしているのだ。
 そして丹下左膳の手にはあの坤竜丸が!
 乾雲坤竜相会して永久の鎮もりに眠るのはいつの時であろう?
 それまではこの夜の雪をさながらにまんじ巴(ともえ)、去就ともに端倪(たんげい)すべからざる渦乱であった。
「それはそうと、ねえ栄三郎さん、お話がございますよ」
 おさよ婆さんの声に、栄三郎はわれに返って座敷へもどった。

 夜□(やち)のごとくに栄三郎の隙をうかがって入りこみ、小刀坤竜丸をさらって逃げ去った櫛まきお藤は、この深夜の雪を蹴って、そもいずこへ消え去ったのであろうか?
 かのお藤……。
 本所の化物屋敷に出入して、万緑叢中(ばんりょくそうちゅう)紅一点、悪旗本や御家人くずれと車座になって勝負を争っているうちに、人もあろうに離室(はなれ)の食客、隻眼隻腕の剣怪丹下左膳に恋をおぼえ、その取り持ち方を殿様鈴川源十郎に頼んだまではいいが、源十郎に裏切られるにおよんで、深くかれを恨んでいるやさき、当の左膳に意中の女があると聞いて一転妬情(とじょう)の化身と変じた末が、あの雨の夜、左膳が片思いの相手をつれだして源十郎のこがれるお艶と、栄三郎を仲に醜い角突き合いを演じさせ、ひそかに鬱憤(うっぷん)をはらそうとしたものの、弥生お艶の女同士がやさしい涙にとけあって、お藤のもくさんはガラリとはずれたばかりか。――
 江戸お構えの身は思わぬときに捕吏の大群をうけて、お藤は第六天篠塚稲荷のきざはしで……ドロンとかき消えたかどうか? それはそれとして。
 まもなく。
 魔猫(まびょう)の神通力でももっているものとみえて、いかにしてあの捕網の目をくぐって来たのだろう? 白無垢(しろむく)鉄火の大姐御櫛まきお藤、いつのまにやら粋な隠れ家に納まって、長火鉢のむこうにノホホンとばかり煙管(きせる)をたたいていたが、飛びこんで来た与吉のことばで、左膳に対するその迷妄は再燃した。
 思うこころに変わりはないが、それは今度は別のかたちで。
 かわいさあまって憎さが百倍――どうせ叶わぬ色恋なら、万事に逆に立ちまわって、あの人のすべてを片っぱしから叩き壊(こわ)してしまえ……こういう意気ごみで丹下左膳を、これも憎い鈴川源十郎の名で訴人したのだったが、あとからすぐに後悔して、あやういところへ駈けつけて左膳を救い出してきたのも、お藤としては最初から変わらぬ一徹恋慕のこころであった。
 恋はいろいろに動く。
 ことにお藤のような女においては、いっさいの有(ゆう)かいっさいの無(む)、抱きしめる手でそのまま殺すことも彼女にとっては同じだったが、さすがに殺しは得ずして助けて来た左膳、日々近く手もとにおいてみると、もとより嫌いでないどころか、こうして危い江戸をも見捨て得ずに今日こんな苦労を重ねているのも、もとはといえばみんなだれゆえ左膳ゆえのことだから、うば桜のお藤、手練手管(てれんてくだ)のかぎりをつくして、ひたすら左膳の意を迎え、心をとらえようと腕によりをかけだしたのだった。
 しかも、左膳の慕う弥生が行方知れずになっているいま。
 かれの胸中から弥生のまぼろしを駆逐して左膳をわが物とするはこの機であると、そこでお藤、宵から降り出した雪を幸い栄三郎方の裏口に張り込んで、左膳のために脇差坤竜を盗み出したのだが!
 いったい左膳とお藤は今どこに隠れているのか?
 浅草のお藤の隠れ家?
 否! お藤はあれからずっと家へ立ち寄らずに、留守宅にはつづみの与の公が今日か明日かとお藤の帰りを待ちわびているはずだ。
 してみると剣鬼と女妖、この広い江戸のどこにひそんでいるのだろう?
 遠くか。ないしは案外近いかも知れない。
 とにかくそれは、いつ朝が来ていつ日が暮れるともない窖(あなぐら)のような闇黒の底だった。
 やみ? そうだ。黒暗々の奈落(ならく)。
 それは、兇状持ちのお藤が、始終お上(かみ)を向うにまわして陽の目を見ていこうとするために、そこへさえ飛びこめば、いつでも捕り手にスカを食わせることができるようにと、以前ひそかに細工をしておいた秘密の隠れ場所であった。いずこかはわからないが、江戸のなかには相違ない、そして誰ひとり知る者もない穴ぐらなのだから、十手に追われる左膳の身には時にとってこのうえもない便宜であった。
 闇黒が左膳を包んでいる。
 その暗いなかで、おのれを恋する女とのふしぎな生活がつづいて来ていた。
 闇黒――ぬば玉(たま)の無明(むみょう)のやみ。
 それはやがて剣に理を失った左膳と、恋に我を忘(ぼう)じ果てたお藤とのこころの姿でもあった。
 いまは女の保護のもとに生きる左膳、そとの大雪も知らずに、三坪にたりない暗い穴の中をしきりに往ったり来たりしている。
 お藤はまだ帰らない。

 はじめお藤の懐中(ふところ)鉄砲によって重囲の化物屋敷からのがれ出たとき。
 左膳は。
 暮れそめた町々をお藤にそのかくれ家へ案内されながら心中で考えていた。
 源十郎が頼みにならないうえに、つづみの与吉が相馬中村から助剣の勢を求めてくるまで、当分あまんじてこの女にかくまわれていようと。
 さすれば御用の者の眼をくらましてこの身は安全。また、乾雲丸を鈴川邸内の物置のかげ、椎(しい)の根方に埋めてあることは誰ひとり知る者もないはずだから、このほうも大丈夫。
 こういう気もちから易々諾々(いいだくだく)としてお藤のつれこむにまかせたのが……どこかは知れず、この縁の下のようなせまい穴蔵の底であった。
「ねえ左膳様。ここはあたしのほかだあれも知らないところ、いわばあたしの隠れ住居で、いざという時にはお役人でもなんでもここまでおびき寄せて、ね、ホホホホ、お藤の忍術をごらんに入れるんでございますから、お心おきなくご逗留(とうりゅう)なさいましよ」
 こういうお藤の言葉に、左膳はがらになく、
「かたじけない」
 とひとこと、改めて身辺を見渡したが、眼に映ったのはあやめもわかたぬ闇黒ばかり――暗い地下の一室であった。
 低い天井、四囲の壁も床も荒けずりの板で張りつめてあって、かたわらに筵(むしろ)や夜着蒲団のたぐいといっしょに簡単な炊事道具がころがっているらしいことは手さぐりでもわかった。片隅に粗末な階段がついていて、そこはいまはいって来た秘密の入口――。
 お藤が訴え出てあの騒ぎになったとは夢にも知らぬ左膳、源十郎が訴人をしたものと真(ま)に受けて、今にも鈴川屋敷へ斬りこもうとたけりたつのをお藤がおさえて、
「まあ、もうすこしお待ちなさいまし。決して悪いようにはいたしませんから……」
 となだめているうちに。
 せまい闇黒に女のにおいがひろがっていって咽(む)せ返りそう……丹下左膳、いかにこの間に処したことか。
 さて今夜。
 暗いなかにすわっていると、雪の夜はことに静かである。
 お藤が入れていった置き炬燵(ごたつ)に暖をとって、長ながと蒲団にはらばった左膳、ひとりこうしていると、ゆくりなくもさまざまのことが思い出されるのだった。
 追いつ追われつする運命の二剣! それに絡(まつ)わるおのが秘命。
 わけても……弥生のおもざし。
「おれも焼きがまわったかな」
 と思わず左膳が、自嘲(じちょう)に似たつぶやきを洩らした刹那(せつな)!
 タ、タ、タと天井うらの床に跫音がひびいて、梯子段上の機械仕(からくりじ)かけがんどう返しの扉がサッと開いたかと思うと、全身白く塗(まみ)れた櫛まきお藤が、落ちるようにころがりこんで来た。
「どうしたのだ? 雪か」
 左膳は闇黒に瞳を凝(こ)らしたまま起きあがろうともしない。
「ええ。ひどい雪」
 笑いながらお藤は歩み寄って、丹前の下から取り出した坤竜丸を、事もなげにつとその面前に突きつけた。そして、
「ナ、なんだ、これは?」
 といぶかる左膳へ、
「坤竜丸ですよ。いま、あたしがちょいと栄三郎のところから盗み出して来ましたのさ。お藤の腕前はこんなもの――なんですね刀一本、大の男が四人も五人も飛び出して、大さわぎをすることはないじゃありませんか」
 と、お藤はケッケとふしぎな声で笑いつつ、坤竜丸を左膳に渡したが、受け取った左膳、
「ナニ、坤竜?」
 と叫びざま左手に握って、やみに慣れた一眼をキッと据えていたのもしばらく、真にこれが坤竜丸と得心がいくが早いか、何か言いかけたお藤をその場につきのけんばかりに、すぐ左膳、戸を蹴(け)ひらいて戸外に躍り出た。
 乾雲は庭すみに埋めてある!
 と、こう思うと左膳降りしきる雪に足を早め、坤竜丸を帯(たい)して本所をさして急いだが。
 同じ時刻に。
 本所へ通ずる別の道を、これは乾雲をひっつかんだ諏訪栄三郎が、おなじく鈴川屋敷を指してひた走りに駆(か)けていた。

 鈴川源十郎にお艶を懇望され、その手切れの第一として、丹下左膳の隠しておいた乾雲丸を掘り出して来た。
 言わばこれは源十郎の殿様から贈られたお艶の代償(だいしょう)!
 と、老婆おさよの口より聞くや否や、諏訪栄三郎の双頬(そうきょう)にさっ[#「さっ」は底本では「さつ」]と血の気が走った。
「ううむ! 刀と女の取っかえっこだとは、きゃつ自身、いつか拙者に申し出たところ、さてはそこもとがかの源十郎と腹をあわせて、丹下の乾雲を盗み出したのであったか」
 こう歯を食いしばった栄三郎、あわててとめるおさよの手を払い、すっと立ってすばやく身づくろいに移っていた。
 竜は雲を呼び、雲は竜を待つとはいえ、腕で奪(と)り、つるぎにかけて争ってこそ互いに武士の面目もあろうというもの――。
 それをなんぞや! 一老婆が偸盗(ちゅうとう)のごとく持ち出したものを、なんとておめおめと受納できようか。
 しかもそれが妻を売る値(あたい)だという。もってのほかと言うべきところへ、あまつさえそのお艶もすでに家を出ているではないか。
 これをこのまま受け取ってはおられぬ。源十郎に逢って面罵し、乾雲丸は一時左膳の手へ返そうとも筋ならぬものを納めたとあっては、栄三郎、男がすたる……。
 こうとっさに決心した彼は、武蔵太郎と乾雲を腰間(こし)に佩(はい)してパッと雪の深夜へとび出したのだった。けたたましく呼ぶおさよの声をあとにして。
 天地を白く押しつつんで、音もなく降りしきる雪、雪、雪。
 どうあってもこの乾雲丸、さっそく左膳の手へ押しつけて、しかる後今宵こそは一騎がけ、必ず腰の武蔵太郎にもの言わせずにはおかぬ!
 トットと雪を蹴散らしながら、栄三郎が本所をさして走っていくと、ほかの道を丹下左膳が、お藤の盗んで来た坤竜丸をひっつかんで、これも同じく本所めがけて急いではいるが!
 左膳の心もちはおのずから別だった。
 目的のために手段をえらばない丹下左膳。
 たとえどんな道筋であろうと片割れ坤竜丸が手に入った以上は、一刻も早く椎の根に埋めた乾雲丸を掘り出し、夜泣きの刀を一対として、明け方にははや江戸をあとに、郷藩(きょうはん)相馬中村をさして発足しようと意気ごんでいたのだけれど。
 丹下左膳、わざわざ鈴川邸の物置まで行って、乾雲丸の掘り返されたのを発見する要はなかった。
 というのは……。
 舞い狂う吹雪に面をそむけた左膳が、一眼をなかば見開いて左腕に坤竜を握ったまま身体を斜めに法恩寺橋の袂にさしかかった時だった。
 片側は御用屋敷の新阪町。
 他は清水町(しみずちょう)の町家ならび――ひとしく大戸をおろして、雪とともに深沈(しんちん)と眠る真夜中。
 向うから雪風に追われて、小走りに来る一つの影があった。
 乾雲坤竜ふたたび糸を引いてか、乾を帯した栄三郎と、坤を持した丹下左膳、それは再び奇(く)しき出会いであったと言わなければならぬ。
 雪に埋(う)もれる法恩寺橋の橋上、ぱったりぶつかりそうになった雲竜の両士、
「やッ! 諏訪……栄三郎ではないかッ」
 と、剣妖(けんよう)左膳、雪をすかして栄三郎を望めば、その声に覚えがあるか栄三郎、ピタリと歩をとめて近づく左膳を待ちながら、
「オオ! そういう貴様は丹下左膳だなッ!」
 向き合った左膳の独眼、みるみる思いがけない喜びにきらめいて頬の刀痕を雪片が打っては消える。
「ウム! 文句は言わせねえ。すまねえがこの坤竜をまきあげたからにゃ、てめえごとき青侍(あおざむらい)に要はねえのだ。ざまあ見やがれ」
 と、それでも早くも刀の柄に手がかかるのを、栄三郎はしずかに押しとどめて、
「待たれい、丹下! なるほど坤竜丸を何者かに盗み去られしは拙者の不覚。なれど、そういう貴公もあまり有頂天(うちょうてん)にはなれぬぞ。さ、この大刀におぼえがあるかどうだッ?」
 言いもおわらず突き出した栄三郎の手に、思いがけなくも乾雲丸が握られてあるのを見ると、左膳の長身、タッタッと二あし三足、よろけざま橋の欄干に手をつかえて、
「こいつウ! いかにしてその刀を入手いたした?」
 と剣怪、苦しそうにあえいだ時、降り積もった雪がサラリと欄干から川へ落ちて、同時に本所のほうから高声に笑い合いながら近づいて来る一団の人影。
 土生(はぶ)仙之助をはじめ、化物屋敷の常連(じょうれん)が、博奕(ばくち)がくずれて帰路についたところだ。
「ウヌ! 貴様――ど、どうして乾雲が貴様の手に……」
 立ちなおるが早いか、左膳はこう突っかかるように栄三郎をにらむ。栄三郎はにっこりした。
「おさよという老婆を――御存じかな?」
「ナ、何? おさよがッ!……ううむ、さては埋めるところを見られたかな」
「さよう。まずそこらでござるが、不純な心をもって盗んでまいったものを、拙者はそのままに受け取ることはできぬ。で、ひとまず貴公にお返し申すによって、快く納められい」
 左膳の頬に皮肉な笑いが宿って彼は独眼をすえて栄三郎を見つめながら、しばらくキッと口を結んでいたが、やがて純粋無垢(じゅんすいむく)な若侍の真意が、暁の空のごとく彼の脳裡にもわかりかけたものか、たちまち快然と哄笑をゆすりあげて、
「うむ! おもしろい! なるほど、女めらの盗んで来たものなぞありがたく受け取っちゃあ恥になるばかりだ。ゲッ! この腕にかけて奪ってこそ、乾雲も乾雲なりゃあ、坤竜も坤竜だ。なあおい若えの、よくいった。そっちがその気なら、俺(おれ)もてめえに返すものがあるんだ」
 いいつつ左膳が、隠し持っていた坤竜を栄三郎の前に突き出すと、やッ! と驚いた栄三郎に、こんどは左膳、会心らしい微笑をなげて、
「ある女子のしわざだ。悪く思うなよ」
 と、一時坤竜を手にして大喜び、さっそく乾雲丸といっしょにするつもりでこの雪の夜中を飛び出して来たくせに、その乾雲がいつのまにやら栄三郎のもとにあり、しかもそれを相手が返すという以上、彼も武士、ここは一つ釈然(しゃくぜん)と笑って、乾坤二刀を交換せざるを得ない立場だった。
「俺とてめえはどこまでもかたき同士だが、ウフッ! 貴様は嬉(うれ)しいところがあるよ……だがな、乾雲が俺の手にはいるや否や、今この場で、てめえをぶったぎるからそう思え。かわいそうだが仕方がねえのだ」
 と左膳、左腕に坤竜をつかんで栄三郎へ突きつけると、無言で受け取った栄三郎、同時に左膳に乾雲丸を返しておいて――!
 おううッ! と一声、けもののようなうめき、
 どっちから発したものか、とっさに二人はさっと別れて橋の左右へ。
 あくまでもふしぎな夜泣きの刀のえにし。
 乾坤入れちがいになったかと思うと、同じ夜にすぐさまこうして雲はもとの左膳へ、竜は以前の栄三郎へ……
 そして今!
 しろがねの幕と降りしきる雪をとおして、栄三郎と左膳、火のごとき瞳を法恩寺ばしの橋上に凝視(ぎょうし)しあっている。
 とびすさると同時に左膳の手には、慣れきった乾雲の冷刃(れいじん)がギラリ光った。とともに栄三郎は腰を落として、すでに剛刀武蔵太郎安国の鞘を静かにしずかに払っていた。此度こそはッ! と、心中に亡師(ぼうし)小野塚鉄斎の霊を念じながら。
 と! この時。
 あわただしい跫音が左膳のうしろにむらがりたったかと思うと、降雪をついて現われたのは土生仙之助をかしらに左膳の味方!
「や! しばらくだったな丹下。ウム、ここで坤竜に出会ったのか。相手はひとり、助太刀もいるまいが傍観(ぼうかん)はできぬ。幸(さいわ)い手がそろっているから、逃さぬように遠まきにいたしてくれる。存分にやれッ!」
 が、この言葉の終わるかおわらぬに、先んずるが第一とみた栄三郎、捨て身の斬先(きっさき)も鋭く、
「えいッ!」
 気合いもろとも、礫(つぶて)のごとく身を躍らして、突如! 左膳をおそうと見せて一瞬に右転、たちまち周囲にひろがりかけていた助勢の一人を唐竹割り、武蔵太郎、柄もとふかく人血を喫(きっ)して、戞(か)ッ! と鳴った。
「しゃらくせえ!」
 おめいた左膳、乾雲を隻腕に大上段、ヒタヒタッと背後に迫って、皎剣(こうけん)、あわや迅落しようとするところをヒラリひっぱずした栄三郎は、そのとき眼前にたじろいだ土生仙之助へ血刀を擬して追いすがった。
 有象無象(うぞうむぞう)から先にやってしまえ! という腹。
 土生仙之助、抜き合わせる隙がなく、鞘ごとかざして、はっし! と受けたにはうけたが、ぽっかり見事に割れた黒鞘が左右に飛んで思わずダアッとしりぞく。とっさに、片足をあげたと見るまに、そばの二、三人を眼下の水へ蹴落とした栄三郎、鍔(つば)を返して左膳の乾雲を払うが早いか、こうじゃまが入った以上は、身をもって危機を脱するが第一と思ったのか、白刃をひらめかしてざんぶとばかり、堀へとびこんだ。
「ちえッ!」
 と左膳の舌打ちが一つ、飛白と見える闇黒をついて欄干ごしに聞こえた。
 雪を浮かべて黒ぐろと動く深夜の掘割(ほりわ)りに、大きな渦まきが押し流れていった。

  虚実(きょじつ)烏鷺(うろ)談議

 離合集散ただならぬ関の孫六の大小、夜泣きの刀……。
 主君相馬大膳亮(だいぜんのすけ)のために剣狂丹下左膳が、正当の所有主(もちぬし)小野塚鉄斎をたおして、大の乾雲丸(けんうんまる)を持ち出して以来、神変夢想流門下の遣手(つかいて)諏訪栄三郎が小の坤竜丸(こんりゅうまる)を佩(はい)して江戸市中に左膳を物色し、いくたの剣渦乱闘をへたのち――乾雲はおさよが、坤竜はお藤が、ともにこっそり盗み出して、ここに二刀ところを一にするかと見えたのも一瞬、こんどは逆に栄三郎が乾雲を、左膳が坤竜を帯びて雪中法恩寺橋上の出会い――。
 任侠(にんきょう)自尊の念につよい栄三郎の発議によって、両人雲竜二剣を交換して雲は左膳へ、竜は栄三郎へと、おのおのその盗まれたところへ戻ったが。
 婦女子が盗人のごとく虚をうかがって持ちきたった物なぞ、なんとあっても納めておくことはできぬ。ここは一度、左膳に返しても、二度(ふたたび)つるぎと腕にかけて奪還するから……と、この栄三郎の意気に感じて、左膳もこころよく坤竜を返納したのは、二者ともさすがに侍なればこそといいたい美しい場面であった。
 が、すぐそのあとに展開された飛雪血風の大剣陣。
 しかし、それもほんの寸刻の間だった。
 折りもおり、土生(はぶ)仙之助の一行が左膳の助剣にあらわれたので、乱刃のままに長びいてはわが身あやうしと見た栄三郎、ひそかに、再び左膳と会う日近からんことを心中に祈りながら、橋下の暗流――雪の横川へとびこんで死地を脱した。
 あとには左膳、仙之助の連中が声々に呼びかわして、橋と両岸を右往左往するばかり……。
 それもやがて。
 暗黒(やみ)の水面に栄三郎を見失って長嘆息、いたずらに腕を扼(やく)しながら三々五々散じてゆく。
「ナア乾雲! てめえせえ俺の手にありゃア、早晩あの坤竜の若造にでっくわす時もあろうッてものよ、雲竜相ひくときやがらあ……チェッ! 頼むぜ、しっかり」
 と左膳、片手に赤銅(しゃくどう)の柄(つか)をたたいて瓢々然(ひょうひょうぜん)、さてどの方角へ足が向いたことやら――?
 かくしてまたもや。
 悪因縁(あくいんねん)につながる雲竜(うんりゅう)双剣(そうけん)、刀乾雲丸は再び独眼片腕の剣鬼丹下左膳へ。そうして脇差坤竜丸は諏訪栄三郎の腰間(こし)へ――。
 それは、まわりまわってもとへ戻る数奇不可思議(すうきふかしぎ)な輪廻(りんね)の綾であった。
 しばらく頭(こうべ)をめぐらして本来の起相(きそう)を見れば。
 刀縁伝奇(とうえんでんき)の説に曰く。
 二つの刀が同じ場処に納まっているあいだは無事だが、一朝乾雲と坤竜がところを異にすると、凶(きょう)の札をめくったも同然で、たちまちそこに何人かの血を見、波瀾万丈(はらんばんじょう)、恐しい渦を巻きおこさずにはおかない。
 そして、刀が哭(な)く。
 離ればなれの乾雲丸と坤竜丸とが、家の檐(のき)も三寸さがるという丑満(うしみつ)のころになると、啾啾(しゅうしゅう)とむせび泣く。雲は竜を呼び、竜は雲を望んで相求め慕いあう二ふりの刀が、同じ真夜中にしくしくと泣き出すという。
 この宿運の両刀。
 はなれたが最後、雲竜相応じて風を起こし雨を呼び、いかなる狂瀾怒濤(きょうらんどとう)、現世の地獄をもたらすかも知れないと言い伝えられている乾坤二刃が、いまにいたって依然として所を異にしているのだ。
 のみならず。
 駒形の遊び人つづみの与吉は、丹下左膳の密命を奉じて、奥州中村の城下へ強剣の一団を迎えに走っているに相違ない。これが数十名を擁(よう)して着府すると同時に、左膳は一気に栄三郎方をもみつぶして坤竜丸を入手しようとくわだてている。
 一方、それに対抗する諏訪栄三郎の陣容はいかん?
 かれが唯一の助太刀快侠(かいきょう)蒲生泰軒(がもうたいけん)先生は、栄三郎に苦しい愛想づかしをして瓦町の家を出たお艶をつれて、あれからいったいどこへ行ったというのだろう?
 二刀ふたたび別れて、新たなる凶の札!
 死肉の山が現出するであろう!
 生き血の川も流れるだろう。
 剣の林は立ち、乱闘の野はひらく。
 そして! その屍山血河(しざんけっか)をへだてて、きわまりなき宿業は結ばれるふたつの冷刃が思い合ってすすり泣く!
 雪の江戸に金いろの朝が来た。
 それからまもなく。
 ある梅日和(びより)の午(ひる)さがり――南町奉行越前守大岡忠相(ただすけ)の役宅では。

 雲ひとつない蒼空から霧のように降りこめる陽のひかりに、庭木の影がしんとしずまって、霜どけのまま乾いた土がキチンと箒の目を見せている。
 眼をよろこばせる常磐樹(ときわぎ)のみどり。
 珊瑚(さんご)の象眼(ぞうがん)と見えるのは寒椿(かんつばき)の色であろう、二つ三つ四つと紅い色どりが数えられるところになんの鳥か、一羽キキと鳴いて枝をくぐった。
 幽邃(ゆうすい)な奥庭のほとり――大岡越前守お役宅の茶室である。
 数寄屋(すきや)がかりとでも言うのか、東山同仁斎にはじまった四畳半のこしらえ。
 茶立口、上壇(だん)ふちつきの床、洞庫(どうこ)、釣棚(つりだな)等すべて本格。
 道具だたみの前の切炉(きりろ)をへだてて、あるじの忠相と蒲生泰軒が対座していた。
 あるかなしかの風にゆらいで、香(こう)のけむりが床(ゆか)しく漂(ただよ)う。
 越前守忠相、ふとり肉(じし)のゆたかな身体を紋服(もんぷく)の着流しに包んで、いま何か言いおわったところらしく黙ってうつむいて手にした水差しをなでている。
 茶筅(ちゃせん)、匙(さじ)、柄杓(ひしゃく)、羽箒(はねぼうき)などが手ぢかにならんで、忠相はひさかたぶりの珍客泰軒に茶の馳走をしているのだった。
 そういえば今は初雪の節、口切りとあってきょう初めて茶壺をあけたものとみえる。
 ぼつんと切り離したような静寂(しじま)、忠相は眼を笑わせて泰軒を見た。
「わしの茶は大坂の如心軒(じょしんけん)に負(お)うところが多い、大口如心軒……当今茶道にかけてはかれの右に出るものはあるまい、風流うらやむべき三昧(さんまい)にあって、かぶき、花月、一二三、廻り炭、廻り花、旦座、散茶、これを七事の式と申して古雅なものじゃが、如心軒が古きをたずねて門下に伝えておる――」
 こう言って忠相はふたたびほほえんだが、泰軒には茶のはなしなぞおもしろくもないのか、それとも何か気になることでもあるのか、つまらなそうに横を向いて、障子の明るい陽にまぶしげに眼をほそめている……無言。
 忠相は動(どう)じない。委細かまわずに語をつづけるのだった。
「茶には水が大事と申してな、京おもてでは加茂(かも)川、江戸では多摩(たま)川の水に限るようなことをいう向きがあるが、わしなぞはどこでもかまわん。まだそこまでいっておらんのかも知れんが、水を云為(うんい)するなど末だと思う。近いはなしがこれは屋敷の井戸水じゃが、要するに心じゃ。うむ、お茶の有難味はこの心気の静寂境にある。どうじゃなお主(ぬし)、いま一服進ぜようかの?」
「いや、茶もいいが、どうもあとの講釈がうるそうてかなわん。あやまる」
 泰軒がとうとう正直に降参して頭をかくと、越前守忠相、そうら見ろ! というように上を向いてアッハッハハと笑ったが、すぐにまじめな顔に返ってじろりと泰軒を見すえた。
 沈黙、
 泰軒は何か用があって来は来たものの、その用むきが言い出しかね、忠相はまた忠相で大体泰軒の用件がわかっていながら、自分からすすんではふれたくない――といったようなちょっとぎごちない間がつづいている。
 忠相がふきんを取って茶碗をみがく音だけが低く部屋に流れて、泰軒は困ったように腕ぐみをした。
 いつも深夜に庭から来る蒲生泰軒、きょうも垣を越えて忍んで来たのかと思うとそうではない。かれとしては未曾有(みぞう)のことには、さっきこうして真(ま)っぴるまひょいと裏門からはいって来たのだが、いかなる妖術(ようじゅつ)を心得ているものか、誰ひとり家人にも見とがめられずに、植えこみづたいに奥へ踏みこんで、突如この茶室のそとに立ったのだった。
 あいも変わらぬ天下御免(ごめん)の乞食姿、六尺近い体躯に貧乏徳利(びんぼうどくり)をぶらさげて、大髻(おおたぶさ)を藁(わら)で束ねたいでたちのまま。
 おりからひとり茶室にこもって心しずかに湯の音を聞いていた越前守、ぬっと障子に映る人影に驚いて立っていくと、
「わっはっは、当屋敷の者はすべて眠り猫同然じゃな。このとおり大手をふってまかり通るにとめだていたすものもない。おかげで奉行のおぬしに難なく見参がかなうとは、近ごろもって恐縮のいたり――いや、憎まれ口はさておき、ひさしぶりだったなあ」
 という無遠慮(ぶえんりょ)な泰軒の声。
「おう! よく来た!」
 と笑顔で迎えながら泰軒のうしろを見た忠相、ちと迷惑(めいわく)な気がしてちらと眉をひそめたのだった。泰軒はひとりではなかった。
 そのかげに肩をすぼめてうなだれた若い女……それは今もこの茶室の縁口まえに小さく身を隠して平伏している。
 言わずもがな、瓦町の家を抜けて来たお艶であった。
 じぶん故(ゆえ)にかわいい栄様を古沼のような貧窮の底へ引きこんでいるさえあるに、そのうえ、あの丹下左膳という怖ろしいお侍から乾雲丸を取り戻して夜泣きの名刀をひとつにするためにも、わが身が手枷(てかせ)足枷(あしかせ)のじゃまとなって、どれだけ栄三郎さまのおはたらきをそいでいることか……。
 しかも!
 もとはといえば、すべて栄さまが自分を思ってくだすって、弥生(やよい)様のおこころを裏切り、自敗をおとりなされたことから――と思うと、このお艶というものさえなければ、栄三郎さまの剣も自ままに伸びて力を増し、まもなく乾雲丸とやらをとり返して弥生様へお納め申すことであろうし、そしてそうなれば、もとより先様は亡き先生の一粒種、御身分お人柄その他なにから何までまことにお似合いの内裏雛(だいりびな)……こちらのような水茶屋女なぞどうなっても、お艶は栄さまを生命かけてお慕い申せばこそ、その栄三郎さまの栄達、しあわせにまさるお艶のよろこびはござりませぬ。
 ただ、この身が種をまきながら、こうして栄さまをひとりじめにしていては四方八方すまぬところだらけ――今日様(こんにちさま)に申しわけなく、そら恐ろしいとでもいいたいような。
 自分さえなければ万事(よろず)まるく納まりそう。
 得るも恋なら、退くも恋。
 いつぞやの夜、ともに泣いた弥生さまの涙を察するにつけても、あきもあかれもせぬ栄三郎様ではあるが、ここはひとつあいそづかしをして嫌われるのが第一……。
 それが何よりも栄さまのおため。
 つぎに、お刀と弥生様への義理。
 また、ひいては江戸のおなごの心意気、浮き世の情道でもあると、こうかたく胸底に誓ったお艶、うしろ姿に手を合わせながらさんざん不貞(ふて)くされを見せたあげく、ああしたいい争いの末、とうとう若いひたむきな栄三郎を怒らせたものの、それだけまたお艶の心中は煮え湯を飲まされるよりつらかったことでしょう。
 栄三郎様はこのお艶の心変りを真(ま)にとって、ああア、さても長らく悪い夢を見た――と嘆いていられるに相違ないが……と考えると、弱いこころを義理でかためて鬼にしたお艶であったが、ともすれば気がにぶって、できるものなら詫(わ)びを入れて元もとどおりにとくじけかかるのを自ら叱って、栄三郎が出ていったあと、来合わせた蒲生泰軒にすべてを打ち明け、今後の身の振り方を頼んだのだった。
 黙然(もくねん)、松の木のような腕を組んで聞いていた泰軒の眼から、大粒の涙がホロリと膝を濡らすと、かれはあわてて握りこぶしでこすって横を向いてすぐ大声に笑い出した。頬髯(ほおひげ)が浪をうって、泰軒はいつまでも泣くような哄笑をつづけていた。
 そして最後に、
「いや。それもおもしろかろう。さすがは栄三郎殿がうちこむほどの女だけあって、お艶どの、あんたは見あげた心がけじゃ。この上は栄三郎殿も力のすべてを刀へ向けて必ずや近く乾雲を奪還することであろうが、さ、そうなった日にはまたあらためて相談、決してこの泰軒が悪いようにはせぬ。きっとそちこちあんたの身の立つようにまとめて見せるから、いわばここしばらくの辛抱(しんぼう)……栄三郎殿にもあんたにも気の毒だが、では、一刻も早くここを出るとしようか」
 ということになって、お艶は泣きじゃくりながら身のまわりの小物を包みにして、しきりに鼻をかんでいる泰軒とともに、栄三郎の帰らぬうちにと、そろって瓦町の侘(わ)び住居を立ちいでたのだった。
 うしろ髪を引かれる思いのお艶と、磊落(らいらく)に笑いながら胸中にもらい泣きを禁じ得ない蒲生泰軒先生と――。
 爾来(じらい)数日。
 野良犬のごとく江戸のちまたに夜(よ)な夜(よ)なの夢をむすんだお艶を、諏訪栄三郎になりかわって、豪侠泰軒がちから強く守っていた。

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