丹下左膳
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著者名:林不忘 

 さっきおさよが耳打ちをした乾雲丸の一条……丹下左膳が、あの刀を物置のかげに埋めているところを見たから、すぐにもこっそり掘り出し、源十郎からとして、お艶の代償に栄三郎へ渡してやりたい。こうおさよは言っていたが、もうおさよは、土をあばいて一物を持ち去ったかも知れない。そうすると、その尻もいずれ左膳から自分に来るであろう。夜泣きの大小にかけては命を投げ出している剣鬼左膳、何をしでかすかしれたものではない――。
 と考えると源十郎、いささか気になりだしたので、庭下駄を突っかけて、いそぎ足に裏へまわった。
 雪が、頬を打って消える。
 椎(しい)の木。そのかげに朽ち果てた薪小屋。
 樹の根を見ると! まさしく穴が掘ってある。
 暗い、細長い土穴に、白い蝶のような雪片が後からあとから飛びこんでいた。
「おさよめ、とうとう左膳に鼻をあかして、乾雲丸を持ち出したな。これは丹下に対し、すこウし困ったことになったぞ」
 こう胸中にくり返しながら、源十郎はあたまの雪を払って座敷に戻った。
 しかし彼は、乾雲丸のことよりも、きょうおさよに約束した栄三郎への手切れ金五十両の工面(くめん)に、はたといきづまっていたのだった。
 五百石のお旗本が五十両にさしつかえるとは……考えられないようだが不義理だらけで首もまわらず、五十はおろかただの五両にも事欠く源十郎であった。
 煩悩(ぼんのう)は人を外道(げどう)に駆(か)る。
 ひとつ――殺(や)るかな……。
 と、やみに刀をふるう手真似をしながら、かれが縁にあがりかけると、いつのまに来たのか、障子のなかに土生(はぶ)仙之助の鼻唄が聞こえていた。
 江戸に、その冬はじめて雪の降った宵だった。

   ふたつの涙(なみだ)

「ええ。どうせわたしはやくざ女ですともさ。そりゃアどこかの剣術の先生のお嬢さんのように、届きはいたしませんよ。ヘン! おあいにくさまですねえ」
 お艶はちょっと口をへの字に曲げて憎(にく)さげに栄三郎を見やった。
 不貞腐(ふてくさ)れの横すわり――
 紅味を帯びたすべっこい踵(かかと)が二つ投げ出されたように畳にこぼれているのを、栄三郎は苦しそうに眺めて眼をそらした。
 どんよりと曇った冬の日だ。
 いまにも泣きだしそうな空模様の下に、おもて通りの小間物屋のほし物が濡れたまましおたれ気にはためいているのが、窓の桟(さん)のあいだから見える……もの皆が貧しくてうす汚(きたな)い瓦町の露地の奥。と、突然、となりの左官の家で山の神のがなり立てる声が起こった。
「なんだい、この餓鬼(がき)アッ! またこんなところに灰をまきゃアがって! ほんとに、ほんとに性懲(しょうこ)りのねえ野郎だよ。父(ちゃん)にそっくりだッ!」
 つづいて、ピシャリ! と頭でもくらわすらしい音。わアッ! と張りあげる子供の泣き声――ピシャピシャピシャとおかみの平手は、自暴(やけ)に子供の頬へ飛んでゆくようすである。
 なんという暗い、ジメジメした世の中であろう!……若い栄三郎のこころは、その悩ましい重みに耐えられない気がしてきて、無理にも作った和(なご)やかな笑顔を、かれはお艶へむけた。
「ぱっとしない天気だな。雨……いや、雪になろうも知れぬ。お前、頭痛はどうだ?」
 お艶が、ふん! とそっぽを向くと、こめかみに貼った頭痛膏(こう)が、これ見よがしに栄三郎の眼にはいる。
 かれは再び、にがにがしく眉を寄せた。
 ぽつん――と、不自然に切れた静寂のなかに、険悪な気がふたりを押し包んでいる。
 まことに雨、雪、いや、暴風雨にもなろうも知れぬ不穏なたたずまい……。
 間(ま)。
 お艶はちょいと襟あしを抜いてその手の爪を噛みながら、なかばひとりごとのようにしんみりといいだした。
「いくらわたしがばかだからって茶屋女風情(ふぜい)がこうしてあなたというおりっぱなお武家の、奥様で候(そうろう)の、奥方でござりますのと、まあ、言っていられるだけで見つけものだってことは、これでもお艶はよウく知っているつもりでございますよ。でもね、人間てものは、どうやらこうやらお飯(まんま)がいただけて、それできょう日(び)がすごしていけりゃあア、それでいいってもんじゃありませんからね。あたしだって小綺麗な着物の一枚や二枚、世間の女なみにたまには着てみたいと思うこともありますのさ」
 また始まった!――というように、栄三郎は顔をしかめて、思わず白い眼に棘(とげ)を含ませて部屋じゅうを睨(ね)めまわした。
 なんと変わり果てたお艶であろう。
 あれほど手まめだったお艶が、ちかごろでは針いっぽん、ほうき一つ手にしたことがなく、栄三郎も彼女も着ている物といえばほころびだらけ、汚点(しみ)だらけ……そのうち、一間しかないこの座敷の隅ずみに、埃がうずたかく積もって、ぬぎ捨てた更(か)え着がはげちょろけの紅(もみ)裏を見せてひっくり返っているかと思うと、そばには昼夜帯(はらあわせ)がふてぶてしいとぐろを巻いているという態(てい)たらく。
 まるで宿場女郎をぬいてきて嬶(かか)ア大明神にすえたよう――。
 そればかりではない。態度口振りからいうことまで、ガラリと自堕落(じだらく)にかわったお艶であった。
 こうではなかった。すこし以前までこうではなかった。と考えるにつけ、栄三郎は、何がかくまでお艶を変えたのか? その理由と動機(きっかけ)を思い惑(まど)うよりも、もうかれは、日常の瑣事(さじ)に何かと気に入らないことのみ多く、つい眼に角(かど)をたててしまうのだった。
 そのために、いまも昔も変りのない、犬も食わない夫婦喧嘩に花が咲いて、今日もきょうとて……。
 先刻、塗りのはげたお膳を中に、ふたりが朝飯にかかった時だった。
 なんぼなんでも、他にしようもあろうに、はぶけるだけ手をはぶいた、名ばかりの味噌汁(みそしる)と沢庵(たくあん)のしっぽのお菜を栄三郎が、あんまりうまそうに口へ運ばなかったからと言って、例によって、お艶がまず、待っていたように火ぶたを切ったのだ。
「まあ! まずいッたらしいお顔! なんでそんなお顔をなさるの?」
「…………」
「あたしのこしらえた物が、そんなに汚いんですかッ!」
「ま、お前、何もそう――」
「いいえ! こう申しちゃ[#「いいえ! こう申しちゃ」は底本では「いいえ!こう申しちゃ」]なんですが、そりゃあお金さえあればねえ、あたしだってもうすこしなんとかできますけれど……フン! だ」
 これから起こったことだった。

 栄三郎は、横を向いてほかのことに紛(まぎ)らそうとした。
「泰軒どのもひさしくお見えにならぬが、どうしておらるるかな。この寒ぞらに船住いもなかなかであろう」
 と、さむ空……という言葉に初めて気がついたように、急にブルルと身ぶるいをして、消えかかった火鉢の火に炭をつごうとした。
「あなた!」
 お艶の声は、底にいまも噴(ふ)き出しそうな何ものかを含んで、懸命におさえていた。
「あなたッ!」
「なんだ?」
 栄三郎の手に、炭をはさんだ火箸(ひばし)がそのまま宙にとまる。
「なんだ、そんな顔をして」
 ジロリと白い一瞥(いちべつ)を栄三郎へ投げて、お艶はしばらく黙っていたが、
「そんな顔こんな顔って、これがあたしの顔なんですもの、今さらどう張りかえようたって無理じゃアありませんか」
「なに?」
「いいえね、万事あの根津のお嬢さんのようにはいきませんてことさ」
「お艶、お前、何を言うんだ?」
「馬子(まご)にも衣装(いしょう)髪かたちッてね――それゃアあたしだってピラシャラすれば、これでちったあ見なおすでしょうよ。けど、お金ですよ。それにゃア……お、か、ね! わかりましたか」
「ばかな! お前はこのごろどうかしている」
 栄三郎は取りあおうともせずにしずかに炭のすわりをなおしだしたが、内心の激情はどうすることもできないらしく、火箸のさきがブルブルとふるえて、立てるそばから炭をくずした。
 ふたりとも蒼い顔。紙のように白いくちびる――。
 あくまでもこの喧嘩、売らずにはおかないといったように、お艶が突如いきおいこんで乗り出すと、膝頭が膝にぶつかって、番茶の茶碗が思いきりよく倒れた。
 むッ! とした栄三郎、
「ナ、何をするんだ!」
「なんだいこんなもの!」
 お艶はもう一度、膳の角をつかんで荒々しくゆすぶった。瀬戸物がかち合って、はげしい音をたてる。
「お艶ッ!」
「だってそうじゃありませんか。この世の中に何ひとつお金でできないことがありますか。あたし、あなたといっしょになる時、まさかこんなに困ろうとは思わなかった……このごろのようにこんなみじめな装(なり)じゃあ――」とお艶は、自分の着ている継(つ)ぎはぎだらけの黄八丈の袖をトンと引っ張って、「恥ずかしくってお豆腐一つ買いに出られやしない。あたし、呉服屋のまえを通るときなんか、眼をおさえて駈けるんですよ」
「……すまない」
「すむもすまないもないじゃあありませんか、年が年中ピイピイガラガラ、家んなかは火の車だ。お正月が来たからって、お餅一つ搗(つ)けるじゃなし、持ってきた物さえ片っぱしからお蔵(くら)へ運んで、ヘン、たまるのは質札ばかりだ――ごらんなさいッ! もうその質ぐさもないじゃありませんか」
「まあ、そうガミガミ言うな。となり近所の手前もある」
「アレだ! 何かってえとヤレ手前、やれ恥辱(ちじょく)――ふん! お武士(さむらい)さんは違ったもんですよウ、だ!」
「これ、お艶!」
「はい」
「貴様、このごろいったいどうしたのだ?」
「どうもしやしませんよ」
「そうかな。見るところ、ガラリとようすが変わったようだが――」
「いいえ。どうもしやしませんけれど、あたしつくづく考えていることがあります」
「ふうむ。なんだそれは? 言ってみなさい」
「…………」
「拙者が嫌(いや)になったらいやになったと、何ごともはっきり申したらよいではないか」
 ことばもなくうなだれたお艶の横顔が、どうやら涙ぐんでいるふうなのに、栄三郎もふと甘いこころに返って、
「さ、いうがよい。な、改まって聞こう」
 とのぞきこんだとき、ホホホホ! と蓮葉(はすっぱ)な嬌笑とともに、栄三郎を振り払ったお艶、こともなげに軽くいい放った。
「あなた、およしなさい。お刀の探索なんか……いまどき流行(はや)りませんよ」

 夜泣きの刀、乾雲丸の取り戻し方を思いとどまってくれ……というお艶のことばは、さながら弊履(へいり)を棄(す)てよとすすめるに等(ひと)しい口ぶりだ。
 この、うって変わった一言には、さすがの栄三郎も思わずカッ! となった。が、かれも大事を控(ひか)えて分別(ふんべつ)ある士、そうやすやすと憤激(ふんげき)の情(じょう)をおもてにあらわしはしなかった。しかし、わざとしずかにきりだした低声は、彼の自制を裏ぎって微(かす)かにふるえていた。
「なぜ?――何故また今になって、さようなことを申すのだ? わたしが一命を賭(と)して乾雲を求めておることはそちも以前からよく知っているはず。言わば承知のうえで、拙者と……このようなことになったのではないか……」
「ええ――それはわかっております」
 襟(えり)もとに顎(あご)をうずめて、お艶は上眼づかいに栄三郎を見た。
 沈黙におちると、鉄瓶(てつびん)の湯がチインと松風の音をたてて、江戸の真ん中にいながら、奥まった露地のはずれだけに、まるで人里はなれた山家ずまいの思いがするのだった。
 お向うの庇(ひさし)ごしに、申しわけのような曇りめの陽が射しこんで、赤茶けた破れだたみをぼんやり照らしている。
 朝寒の満潮のような遣瀬(やるせ)ない心地が、ヒタヒタと栄三郎の胸にあふれる。
 お艶がつづける。
「それはわかっております。けれどあたし、自分達の暮しを第二第三にして、そうやってお刀のことに夢中になっていらっしゃるあなたを見ると……」
「嫌気がさす――というのか」
 栄三郎の声は、口がかわいてうわずっていた。
「…………」
「おいッ!」
「まあ! なんて声をなさります!」
 お艶はたしなめるように言って、すぐに鼻のさきでせせら笑ったが、
「ええ。そうでございます! さようでございますよ」
 と、いいきった彼女の声は、叫びに近かった。
 そして、つと身体を斜めにいっそうだらしなく崩折れると、口ばやに甲(かん)高に、堰(せき)を落とすようにしゃべりだした。
「ええ! さようでございます! あなたのようなどちらにもいい子になろうとするお人は、あたしゃ大嫌い! 刀を手に入れたい、あたしともいっしょにいたい――それじゃアまるで両天秤(りょうてんびん)で、どっちか一つがおろそかになるのはきまりきってるじゃアありませんか」
「な、なんだと? どちらにもいい子とはなんだ? いつおれが貴様をおろそかにした?」
「おろそかにしてるじゃありませんか。あたしより刀のほうがお大事なんでございましょう? 刀さえとれれば、あたしなんか野たれ死にをしようとおかまいはございますまい」
「たわけめ! 勝手にしろ!」
 吐き出すようにつぶやいて、栄三郎はやおら起ちあがった。お艶はそれをキッと下からにらみあげて、
「あなたッ!」
「なんだ、うるさい!」
「どうせうるそうございましょうよ!――いっしょになる時はなんだかんだとチヤホヤなさって、うるさいは恐れ入りましたね。ちっと旗色が悪くなると、いつでもどっかへお出ましだ。そんな卑怯な真似をなさらないで、お武士ならおさむらいらしくはっきりと話をつけてくださいッ!――どこへお出かけでございます?……存じております! 戌亥(いぬい)の方。麹町でございましょう? えええ、あのお嬢さんはあなたにとってお主筋(しゅうすじ)に当たる方、それにお生れがお生れですから女芸万般(にょげいばんぱん)ねえ、何ひとつおできにならないということはなし、そりゃアあたしとは雪と墨、月とすっぽんほども違いましょうともさ。せいぜいお大事になすっておあげなさいましよ」
 栄三郎は聞かぬ態(てい)――ゆがんだ微笑をうかべて、まわしまわし帯を結びなおしている。
 その、擦り切れた帯の端が、畳をなでてお艶の前にすべってくると、彼女は膝をあげてしっかとおさえた。
「サ! きっぱり話をつけてくださいッてば! 二つにひとつ、乾雲丸かあたしか、あなたはどちらを……」
「お艶!」栄三郎の眼は悲しかった。「――な、聞き分けのよい女だ。わたしはちょっとこれからホラ! これの才覚にとびまわってくる。鳥目(ちょうもく)だ。ははははは、そんなにおれを苦しめずに、おとなしく留守をしてくれ。な、わかったな」
「嫌でございますッ! 御冗談もいいかげんになさいまし。あたしもこれで当り矢のお艶と言われた女。あなたばかりが男じゃござんせんからね」
 栄三郎の眼が細まって、異様な光を添えた。

「お艶ッ! き、貴様ッ……坐れ、そこへ!」
「すわってるじゃございませんか。あなたこそお坐りなすったらいかがです」
「よく一々口を返すやつだな。貴様、このごろどうかいたしおるな。何か心中に思うところあって、それでさように事につけ物に触(ふ)れ、拙者に楯(たて)を突くのであろう。どうだ?――いや、得てはしたない言葉から醜(みにく)いあらそいを生ずる。いいかげんにしなさい」
「まあ、虫のいい! いいかげんにはできませんよ」
「お前はすっかり人間が変わったな」
「変わりたくもなろうじゃございませんか。こんな貧乏(びんぼう)暮しをしているんですもの」
「ふたことめには貧乏貧乏と申す……それほど貧乏がいやか」
「癇(かん)のせいか、あんまりゾッといたしませんねえ。そりゃそうと、どうおっしゃるのですか……乾雲丸か、このあたしか」
「黙れッ! おのれお艶、痩せても枯れても武士の妻ともあろう者が、正邪(せいじゃ)の別、恩愛(おんあい)義理(ぎり)をもわきまえず、言わせておけば際限もなく、よッくノメノメとさようなことがいえるな。貴様は魔に魅入(みい)られておるのだから、拙者も真面目には相手にせぬ。ひとり胸に手を置いて考えてみるがよい」
「またお談義(だんぎ)! 何かというと武士、刀の手前――どうも当り矢のお艶も、おかげさまでこんなかたッくるしい言葉をおぼえましたけれど、あたしはそんなえらそうなことを言って、自分達は食べるか食べないで、たかがお刀一本に眼色顔いろを変えて、明けても暮れても駈けずりまわっているお人よりも、町人でもお百姓でもようござんすから、あたしひとりを大事にしてくださる方に、しっくりかわいがってもらいたい……ただそれだけでございます」
「ううむ、見損(みそこな)ったかな――」
「ほほほ、そりゃアお互いさま」
「で、いかがいたせというのだ?」
「まず乾雲丸のことをフッツリお忘れなすって、それからその厳(いか)つい大小をさらりと捨てて、あたまも小粋に取りあげてさっぱりした縞物か何かでおもしろおかしく……」
「ぶるる、馬鹿ッ! 何を申す! 貴様、そ、それが本心かッ?」
「ほんしんでございますとも。あたしだってちったあ眼先が見えますよ。あなたは、あの弥生さまとごいっしょにおなりなさりたくても、お刀がなければ押しかけ婿にもいかれないので、あれがお手にはいるまで、あたしってものをこうしてだしに使っていて、刀を取るが早いか、あたしを棄ててその刀を引出物(ひきでもの)に弥生さまのところへ納まろうというんでございましょう? そんなこと、こちらは先刻(せんこく)御承知でございますよ。ほほほ」
「お艶!――キ、貴様、気がふれたナ! 夜泣きの刀の分離も、もとはと言えば拙者から起こったこと。されば丹下左膳より乾雲丸を奪還し、この坤竜とともどもに小野塚家の当主(とうしゅ)弥生殿の前にそろえて出すのは、弥生どの……というよりも、左膳の刃におたおれになった鉄斎先生への何よりの供養(くよう)――義理だ、つとめじゃ! 人間としての男としての……」
「あウあア!――おや、ごめんなさい。あくびなんかして」
「チッ! 拙者の心底は百も千も知っておるくせに、何かにつけ言いがかりをつけおって……女子と小人は養い難し。見さげはてた奴めがッ!」
「よしてくださいッ! もうあきあき!」
「なに? なんだと?」
「そんな御託宣(ごたくせん)はたくさんでございますよ。耳にたこができております」
「またかかることは、拙者の口から申したくはないが、拙者が亡師の意にそむき弥生どのに嘆きをかけて今また鳥越の兄者人(あにじゃひと)を怒らせて、かような陋巷(ろうこう)に身をおとしおるのも……」
「おッと! みんなあたしのためとおっしゃりたいんでございましょう? お気の毒さま。そのあたまがおありだから、あたしよりも刀がかわいいのに不思議はございませんとも――もう何も伺いたくはございません!」
「なんたる下卑(げび)た言いぐさ! うん、なんたる低劣な……」
「ほほほほ、なんですよ今ごろ、これが三社前の姐さん、当り矢のお艶の懸値(かけね)のないところ。地金(じがね)をごらんなすったら、愛想もこそも尽きましたろうねえ」
「よくも……」
「なんですよ。そんな張(は)り子(こ)の虎みたいに――みっともないじゃアありませんか」
「よくも、よくも今まで猫をかぶっておったなッ!」
「お坊っちゃん、お気がつかれましたか。オホホホ。でもね、これでもお艶でなくちゃアっておっしゃってくださるお方もございますからね。世の中はよくしたもので、まんざらでもないとみえますよ」
「だッ……だまされたのだッ! ちえッ!」
「近いところじゃ、鈴川の殿様なんか、あたしでなくちゃア夜も日も明けませんのさ」
「な、何イ? す、鈴川源十郎かッ!」

「鈴川源十郎……とは、あの鈴川源十郎かッ?」
 栄三郎が、こうどなるようにいってにらみつけると、お艶は、おちょぼ口に手を当ててあでやかに笑った。
「ええ、鈴川の殿様に二つはないでございませんか。本所の法恩寺まえのお旗本――」
 いいかけたお艶の言葉は、中途で無残に吹っ飛んでしまった。おわるを待たず、栄三郎の腕がむんずと伸びて来て、お艶の襟髪をとったかと思うと、力にまかせてそこへ引き倒したからだ。
「お艶ッ!」
 片膝を立てて、しっかとお艶をおさえつけた栄三郎の声は、かなしい怒りに曇り、眼は惨涙(さんるい)を宿して早くもうるんでいた。
「お艶、……貴様に、本所の鈴川が執心(しゅうしん)のことは、拙者も以前から承知しておったが、拙者の妻たる貴様が、かれごときに幾分なりとも心を許そうとは、お、おれは、今のいままで夢にも思わなかったぞッ!」
「――」
 白い頬もくだけよとばかり、顔を畳にこすりつけられて、お艶は声も出ない。
「し、しかるに、黙って聞いておれば、かの鈴川が懸想(けそう)いたしおることを良人(おっと)の拙者のまえをもはばからず鼻高々と誇りがましきいまのことば……お艶ッ! 貴様、なんだな、先日本所の屋敷に幽閉(ゆうへい)されおった際に――」
 嫉火(しっか)と情炎にもつれる栄三郎の舌、その切々たる声を耳にして、お艶は半ばうっとりとされるがままに畳に片面を当てて小突かれていたが……。
 大粒な泪がひとつ、ほろりと眼がしらを離れて、長い睫毛(まつげ)を濡らしながら、見るみる頬を伝わって陽にやけたたたみの表へ吸われていった。一すじ白い光のあとを引いて。
 と、その時。
 貴様! なんだな、先日本所の屋敷に幽閉されおった際に――と語尾(ごび)をにごした栄三郎の言を聞くと!
 しんからたけりたったらしいお艶、髪を乱し、胸をはだけて、やにわにはね起きようと試みたが、栄三郎の腕にぐっと力がはいると、ひとたまりもなくそのまま元の姿勢に戻されて、かわりに、なみだにかすれる声を振りしぼった。
「あたしが鈴川の殿様となんぞ……とでもおっしゃるんですか? あんまりなんぼなんでも、あんまりですッ! そ、そればかりは、いくらあなた様でも聞き捨てになりません! 離してください。な、何を証拠にそんな、そんな……いいえ、はっきりと伺いましょう。後生ですから手をはなして――」
 と、今はもう女の身のたしなみもなく、心からのくやしさに狂いもだえるのを、栄三郎はなおものしかかるように膝下にひきつけて、
「エエイ黙れッ! このごろの貴様が赤裸々(せきらら)の貴様なら、源十郎はおろか、だれとねんごろになろうとも栄三郎はすこしも驚かぬぞッ! ナ、なんたる……ウヌッ! なんたる淫婦(いんぷ)――!」
「ま、待ってくださいッ!」
「姦婦(かんぷ)! 妖婦! 毒婦!」
 熱涙ぼうだとしてとどめもあえぬ栄三郎は、一つずつ区切ってうめきながら、はふり落ちる泪とともに、哀恋の拳が霰(あられ)のようにお艶のうえにくだった。
 愛する者を、愛するがゆえに打たずにはおかれぬくるしさ……。
 よしや振りあげた刹那はいかにいきおいこんでいようとも、その手は、ふりおろす途中に力を失ってお艶の身に触れる時は、おのずから撫(な)でるがごとくであった。
 弾(はじ)き返ったお艶は、栄三郎の手を逃れて柱の根へ飛びさがった。
「何も、あたしをチヤホヤしてくださる方は、鈴川の殿様ばかりとはかぎりません。鍛冶屋の富五郎さんだって、それから当り矢の店へ来てくだすった大店(おおだな)の若旦那やなんか……」
「すべたッ! まだ言うかッ!」
 一声おめいた時、栄三郎の手はわれ知らず柄頭(つかがしら)にかかっていた。
 と見て、お艶は蒼白く笑った。
「ほほほ、このあたしをお斬りになる気でございますか。まあ、おもしろい――けれどねえ、お艶にごひいき筋が多うござんすから、あとでどんな苦情が出るかも知れませんよ」
「…………!」
 無言のうちに、しずかに鞘走らせた武蔵太郎を、栄三郎はっと振りかぶったと見るまに、泣くような気合いの声とともに、氷刃、殺風を生じて、突! 深くお艶の肩を打った。
 ウウウム――!
 と歯を食いしばったお艶、しなやかな胴を一瞬くねらせて、たたみを掻いてうつぶしたのだった。
 が!
 峰打ちだった。
 と、お艶はすぐに、痛みに顔をしかめただけで起きあがろうとしたが、栄三郎はもう武蔵太郎をピタリと鞘に納めて、両手を腰に立ちはだかったまま凝然(じっ)とお艶を見おろしていた。
 その眼……!
 おお、その眼は、人間の愛欲憎念をここにひとつに集めたような、言辞に尽(つ)きた情を宿して、あやしい光に濡れそぼれていた、泣くような――と見れば、笑うような。
 暫時(しばし)の沈黙のうちに、男と女の瞳が互いにその奥底の深意を読もうとあせって、はげしく絡みあい、音をたてんばかりにきしんだ。
 口を開いたのは栄三郎だった。
「お艶! あれほど固く誓い、また今日というきょうまで信じきっておったお前が、かくも汚れた女子であろうとは拙者には思えぬ。いや、どうあっても思いたくないのだ。しかし――」
「…………?」
 いいよどんだ栄三郎を見あげたお艶の顔に、ちらと身も世もあらぬ悲しい色が走ったが、栄三郎が気のつくさきに、それはすぐに不敵なほほえみに消されてお艶は、無言の揶揄(やゆ)であとをうながした。
「…………?」
「しかし、お前という人柄がきょうこのごろのように豹変(ひょうへん)した以上は、拙者としては嫌でもお前の変心を認めざるを得ない。さて、人のこころは水のごときもの、ひとたび流れ去っては百の嘆訴(たんそ)、千の説法ももとへ返すべくはないな、そうであろう? これ、泣いているのか、いまさら何を泣くのだ?」
「はい……いいえ」
「拙者もさとったよ、ははははは、いや、いったんこうはっきりお前の心がおれを離れたとわかってみれば、拙者も男、いたずらにたましいの抜けた残骸(ざんがい)を抱いて快しとはせぬ。そこで、ものは相談だが、きょうかぎりキッパリと別れようではないか」
 いいながら、返答いかに? と思わず栄三郎、口ではとにかく、まだたっぷりと未練(みれん)があるものか、あきらかに弱い不安を面いっぱいにみなぎらせて中腰にのぞきこんだとき、
「す、すみません」
 と口ごもったお艶の声に、まさか……と幾分の望みをかけていた栄三郎は、ややッ! と驚愕にのけぞると同時に、あきらめきれぬ新しい慕念がグッと胸さきにこみあげてきて、
「そうか」
 破裂を包んだ低声。
 見せじとつとめる涙が、われにもなくにじみ出てきて――。
 ワッ! とお艶はそこへ哭(な)き伏した。
「お世話に……」
「なに?」
「お世話になりましたことは、お艶は死んでも忘れません」
「フン! 吐(ぬ)かしおる」
 栄三郎はすでに平静にかえっていた。
 大刀武蔵太郎安国のこじりに帯をさぐって、坤竜と脇差と番(つがい)にスッポリと落とし差したかれは、刀の重みを受けて刀にゆるむ帯を軽くゆすりあげたのち、ちょっと大小の据わりをなおして、ゆらりと土間におり立った。
 片手に浪人笠。
 履物を突っかける……と、ブラリそのまま格子戸をくぐり出ようとした。
「あなたッ! 栄三郎様ッ」
 お艶の声が必死に追いかける。が、彼は振りむきもせずに、
「達者(たっしゃ)に――」
「え? もう一度お顔をッ!」
 悲涙にむせんだお艶、前を乱した白い膝がしらに畳をきざんで、両手を空に上り框(がまち)までよろめき出ると、
「えいッ! 達者に暮らせ!」
 一声……ピシャリ! 格子がしまって、男の姿がちらりと陽ざしをさえぎったと思うまもなく、あがり口に泣き崩れたお艶は、露地の溝板(どぶいた)を踏んでゆく栄三郎の跫音(あしおと)がだんだんと遠のくのを、夢のように聞かなければならなかった。
 夢? ほんとにほんとに夢。ながい夢! 泣きはらした眼を部屋へ返したお艶は、栄三郎の羽織がぬぎすててあるのを見ると、はっとして立ちあがった。
 まあ! お羽織なしにこの寒ぞらへ!
 もしや風邪(かぜ)でも召されては!
 と思うとお艶、装(なり)ふりかまっていられる場合ではない。ずっこけた帯のはしをちょいとはさむが早いか、泣き濡れた顔もそのままに羽織を小わきに家を走り出た。

 羽織をかかえて露地ぐちまで走り出てみたけれど、どっちへ行ったものか、栄三郎のすがたはもうそこらになかった。
 ひっそりとした往来のむこうを荷を積んだ馬の列が通り過ぎていった。
 しめっぼい冷たい空気が、町ぜんたいを押しつけている。
 ぼんやりたたずんでいるお艶へ、
「小母(おば)ちゃん、そのおべべを持ってどこイ行くの?」
 と長屋の子供が声をかけたが、お艶は耳にもはいらぬふうだった。
「やあ! 小母ちゃんが泣いてらあ! 泣いてらあ! やあい、おかちいなあ!」
 急に足もとから子供がはやしたてたので、お艶はハッとわれに返って羽織に顔を押し当てた。
「坊や、いい児だね。おばちゃんは泣いてなんかいないからね。さ、あっちへ行ってお遊び」
 子供はふしぎそうに振りかえりながら大通りを駈けぬけていった。
 お艶は、羽織の袖がひきずるのも知らずに片手にさげて、しょんぼりと家に帰った。
 あがってすわってはみたが……広くもない家ながら、栄三郎の出ていったあとはたまらなく淋しかった。孤独の思いがしいんと胸に食いいってくる。
「栄三郎さま」
 呼んでみても聞こえようはずはない。かえってわれとわが低声(こごえ)に驚いて、お艶はあたりを見まわしたが、夢中でつまぐっている膝の栄三郎の羽織に気がつくと、こんどはしんみりとひとりごとをはじめた。
 ひとりごと? ではない。彼女は羽織を相手に話しているのだった。
「申しわけございません。おこころに曇りのない正直一徹のあなた様をあんなにおこらせ申して、それもこれも夜泣きの刀のため、おかわいそうな弥生さまのおためとは言いながら、思えば、お艶も罪の深い女でございます」
 言葉はいつしかすすり泣きに変わっていた。
「けれども、こうやっていましたのでは、いつになったら埓(らち)のあきますことやら……所詮(しょせん)わたし故(ゆえ)にあなた様をこのままおちぶらせるようなもの――なにとぞお艶をお捨てなされて、存分にお働きくださいまし。一日も早く乾雲丸をお手におさめて弥生様と、弥生さまと――」
 つっぷしたお艶、羽織を揉(も)みながらなみだのあいだからかきくどいた。
「それがお艶の一生のお願いでございますッ! でも……でも、こんなにまでして、心にもないふしだらを並べてお怒りを買わねばならなかったお艶のしん中もすこしはお察しくださいまし。あとで何もかもわかりますから、そうしたらたったひとこと不憫(ふびん)なやつと――栄三郎様ッ! 泣いてやって、泣いてやって……」
 気も狂わんばかりにもだえたお艶は、ガバッと畳に倒れて羽織を抱きしめた。
 別れともなくして別れた男の移り香が、羽織に埋めたお艶の鼻をうっすらとかすめる。
 それがまた新しい泪をさそって、お艶はオオオオウッ! とあたりかまわず大声に泣き放ったが、折りよくいつのまにか隣家に近所の子供が集まって、キャッキャッと笑いながら遊びさわいでいたので、お艶はその物音にまぎれてこころゆくまで慟哭(どうこく)することができたのだった。
まわりまわりの小仏さん
まわりまわりの小仏さん
 となりのさざめきはつのるばかり――お艶も何がなしに幼い気もちに立ち返って小娘のように泣き濡れていた。
 出て行った栄三郎の涙と、残っているお艶のなみだと――。
 父は早く禄を離れて江戸の陋巷(ろうこう)にさまよい、またその父を失ってから母とも別れて、あらゆる浮き世の苦労をなめつくしたお艶にとっては、義理の二字ほど重いものはないのだった。刀の分離といい弥生の悲嘆といい、すべては栄三郎が自分を想ってくださることから――こう考えるとお艶は、おのが恋を捨てても! と一図(ず)に決して、さてこそあの、裏で手を合わせて表に毒づくあいそづかし……お艶も江戸の女であった。
 何刻かたった。
 お艶はじっと動かない。
 眠っているのだ。
 泣きくたびれて、いつしかスヤスヤと転寝(うたたね)におちたお艶、栄三郎がいれば小掻巻(こかいまき)一つでも掛けてやろうものを。
まわりまわりの小仏さん
まわりまわりの小仏さん
 隣では子供が遊戯(あそび)にふけっている。
 と、がらりと格子があいて、ひさしぶりに天下の乞食先生蒲生泰軒のだみ声だ。
「わっはっはっはっは! こりゃ、敷居が高い、御無沙汰(ごぶさた)、御無沙汰!」
 びっくりはね起きたお艶の頬にたたみのあとが赤くついていた。

   まんじ巴(ともえ)

 その夜。
 どこをどう歩きまわったものか、栄三郎は頭から肩まで白いものを積もらせて瓦町の家へ帰って来た。いつのまにか雪になっていたのだ。あやうく、
「お艶、いま戻ったぞ」
 と口から出そうになるのをおさえて、身体の雪を払ってあがると……まっくら。
 かじかんだ手で火打ちを擦(す)る。
 ポウッと薄黄色の灯心(とうしん)の光が闇黒ににじんで、珍しく取り片づいた部屋のありさまが栄三郎の眼にうつった。
 お艶はいない。
 二、三枚の着物や髪の道具をまとめて、あわてて家を出ていったことがわかる。女気のない部屋はどこにも赤い色彩(いろどり)を失って、雪夜ひとしおの寒さが栄三郎の骨にしみる。
 が、かれはもう悲しんではいなかった。
「出てうせたか――汚れきった女め――あれほどとは思わなかった――」
 と、吐きだすようにつぶやきながら、何か書置きでも? とジロリそこらを見まわす。
 何もない。
 もはやフッツリと未練をたった栄三郎、
「これあるのみだ」
 正座して坤竜丸を取りあげた。
 平糸巻(ひらいとま)きの鞘――上り竜を彫った赤銅のつか。
「ひき寄せてくれ、乾雲丸をひきよせてくれ」
 呪文(じゅもん)のように言ったかと思うと、ふうっと長く息を吹いた。
 自暴酒(やけざけ)でもあるまいが、若い栄三郎、どこでのんだかすこし酔っている。
「あんな女! かえってよいわ。かくなるように最初から決まっていたのだ! よウシ! このうえはただ精根のかぎり立ち働いて乾雲を取り戻すぞ! そうだ。やる! あくまでやる」
 愁灯(しゅうとう)のもと、強い決意に眼を輝かせて、栄三郎はしずかに坤竜の柄をなでた。
「――待っておれ。いまに乾雲を奪って、いっしょにして進ぜる。汝もつがいが破られたが、拙者も彼女に別れたひとり者同士、ははははは、けっく気やすだなあ」
 悵然(ちょうぜん)と腕をこまねいていたが、突如、畳を蹴って躍りたつと、手にはもう明皓々(めいこうこう)たる武蔵太郎の鞘を走らせて。
 刃光らんらんとして一抹の冷気!
「おのれ、丹下左膳!」
 とジリリ青眼につけて一隅へ迫ったが、あるものは壁に倒れた己(おの)が影ばかり……いとしい女に去られて気がふれたか諏訪栄三郎、あらず! こみあげて来たとっさの闘意をもてあまして、かれはその場に左膳を仮想し、ひとり刀を擬しているのだ。
「やよ左膳! なんじ一書を寄せて乾雲丸を火事装束の五人組に奪われたと申し出たが、不肖(ふしょう)栄三郎といえどもかかるそらごとは真に受けぬぞ! 小策を弄(ろう)す奸物めッ! いずれそのうち参上してつるぎにかけて申し受くるからさよう心得ろ――はっはははは」
 からからと笑いながら刀身を鞘へ……
 が! この時!
 この栄三郎のにわかの抜刀を、裏口のすきからのぞいて、ビックリあわてた黒い影があったのを栄三郎は知らなかった。
 雪に紛れて忍び寄った一人の女が、さっきから勝手の障子にはりついて、そっと家内をうかがっていたのだ。
 だれ? と見なおすまでもない。
 夜眼にも知れる粋すがたは、道行きめかした手拭をかぶった櫛まきお藤。
 急の剣閃(けんせん)におどろいて一時戸を離れたのが、相手なしの見得(みえ)と知ると、またコッソリ水口に帰ってきて、呼吸を殺して隙(すき)見している。
 しんしんと音もなく積もる雪。
 江戸に、その冬はじめて雪の降った夜だった。
 栄三郎は、床を敷いて夜着をかぶった。
 モウ――ンとこもって、どこか遠くで刻を知らせる鐘の音。
「四つか」
 思うまい――としても、まぶたの裏に花のように咲くのは、出ていったお艶の顔だ。
 この降雪(ゆき)に、どこにいることか――当り矢のころからのことが走馬灯(そうまとう)のように一瞬、栄三郎の脳裡(のうり)をかすめる。
 きょう留守のあいだに泰軒がきて、お艶からそのふかい真意を明かされ、何か考えるところのあるものか、しばし思案ののち快くお艶の身がらを引き受けて、つれだって家を出て行ったことは、栄三郎は知る由もなかった。
 まして、お艶と泰軒のあいだにどんな話しあいがあったやら、――そして泰軒はお艶をいずくへ伴い去ったことか?
 ……栄三郎は眠りに落ちた。疲れきって、こんこんと深い熟睡(うまい)に。
 深更(しんこう)。
 ホトホトとおもての格子が鳴って、何者か女の声が……。
「栄三郎さま、もし、栄三郎様――」
 うら口では、櫛まきお藤がキッと身をかまえた。

「栄三郎様……栄三郎さん!」
 忘れようとして忘れることのできない女の声――それが夜更けをはばかって低く、とぎれがちに、眠っている栄三郎の耳に通う。
 コトコト、コトコトと戸外から格子をたたいているらしい。
 栄三郎ははじめ夢心地に聞いていた。
 が、
「栄三郎様!」
 という一声に、もしやお艶が帰って来たのではないかと思うと、もうあんな女にフツフツ用はないと諦めたはずの栄三郎、心の底に自分でもどうすることもできない未練がわだかまっていたのか……。パッと夜着を蹴ってはね起きるより早く、転ぶがごとく土間口に立って、
「お、お艶か!」
 戸を引きあける――とたんに、ゴウッ――と露路を渡る吹雪風。
 まんじ巴(ともえ)と闇夜におどる六つの花びらだ。
 その風にあおられて、白い被衣(かつぎ)をかぶったと見える女の立ち姿が……。
 雪女郎?
 ――と栄三郎が眼をこすっているあいだに、女は、戸口を漏(も)れる光線(ひかり)のなかへはいってきた。
「お艶……ではないナ。誰だッ?」
「わたしですよ、栄三郎さん」
 いわれて見ればなるほどお艶の母おさよ、鈴川の屋敷をぬけ出てきたままのいでたちで、掘り出した乾雲丸の刀包みであろう。細長い物を重たそうにかかえている。
「おさよでございますよ。はい、夜分おそく――おやすみのところをお起こし申してすみませんでしたね。あの、お艶は?」
 と、きかれた栄三郎、
「なんの」といいかけたが、母御とも呼べず。それかといっておさよ殿も変なものだし、「いや、お艶については、あなたともよく談合いたしたい儀がござる。それにしても、夜中かかる雪のなかをわざわざのお出まし、なんぞ急な御用でも出来(しゅったい)しましたか」
「オオ寒(さむ)!」とおさよは雪をふるい落として、「まあ入れてくださいましよ。お艶が何をいたしたか存じませんが、わたしのほうにもあれのことで折り入ってお話がございましてねえ……それはそうとおさよはいいお土産(みやげ)を持って参りましたよ。どんなにあなたがお喜びになることか。ほほほほ、でかしたと! ほめてやって下さいまし」
 ひとりでしゃべりながら土間へはいってくる。
 母娘とはいいながら、こんなに声が似ているものか! これでは自分がお艶と間違えて飛び起きたのも無理はない――と栄三郎、たたく水鶏(くいな)についだまされて……の形で、思わず苦笑を浮かべながら、
「さあ、おあがりください」
 と、自ら先に立ったが――
 これよりさき!
 栄三郎が格子戸をあけにいったあと。
 ソゥッと音のしないように台所の障子をひいて、水口から顔を出したのは、宵の口から裏に忍んでいた櫛まきお藤であった。
 見ると、枕あんどんがぼうと薄暗いひかりを投げて、その下に置いてある一本の脇差! 平糸を締めた鞘、赤銅の柄にのぼり竜の彫りもあざやかに……。
 武蔵太郎は、栄三郎が戸口にたつ時に引っつかんでいったので、後に残っているのは坤竜丸ただ一つ! のぞいたお藤の顔がニッとほほえんだ。
 左膳を伴い去ったまま今どこに巣をくっているのか、この妖女、栄三郎がおさよと二こと三こと格子先で立ち話をしているあいだに、この機をはずしては左膳様のおために坤竜を手に入れることもまたとできまい! おお! そうだッ! と思うやいなや、抜き足さしあし忍び足――。
 間髪! の隙を狙ってはいりこんで来たお藤、坤竜に手がかかるが早いか、サッと袂に抱きしめてもとの裏口へ!
 しんにとっさの出来事。
 ズウッ! と台所の戸がしまって、あとはトットと雪を踏むお藤の跫音(あしおと)がかすかにうらにひびいた。栄三郎はさよを招じあげながら、何事も気づかずに大声に話していた。
「いや。この大雪のなかを思いきってお出かけになりましたな。何かよほどの急用でも……」
「ほんとにひどい雪ですねえ。わたしゃ本所からここまで来るあいだに三度ころびましたよ、栄三郎さん」
「はっは、それはどうも――が、べつにお怪我もなく……して、さっそくながら御用向きは?」
「降(ふ)りますねえ。いえ、この御土産から……」
 おさよ婆さん、はッと呼吸をはずませて乾雲丸の包みをといている。
「全く、よく降ります。明日はかなり積もりましょう」
 栄三郎はこうしんみり言って、戸外(そと)の雪を聴くように静かに耳をすましながら、おさよの手もとに見入った。
 ぱらり! ぱらり! とほそ長い包装がほどけてゆく音――。

 ぱらり、 ぱらり! とおさよの手で幾重にも包んだ油紙とぼろ片(ぎれ)がとけてゆくうちに、いつしか堅く唾(つば)をのみながら、じっとおさよの手もとをみつめていた栄三郎の眼に、一閃チラリと映ったのは!
 平糸まきの鞘の一部! つづいて陣太刀作り赤銅の柄(つか)!
 いわずと知れた夜泣きの刀乾雲丸とみてとるや、栄三郎、一声のどのつまったような叫びをあげて、狂者のごとくおさよを突きのけ、残りの包みに手をかけてバリバリバリッ! と破るより早く、なかの乾雲を取りあげて血走った眼を犇(ひし)! と注いだ。
 いつ見ても戦国の霜魄(そうはく)鬱勃(うつぼつ)たる関の孫六の鍛刀……。
「ううむ――」
 思わずうなった栄三郎、ハッタとかたわらのおさよを睨(ね)[#ルビの「ね」は底本では「ぬ」]めてにじり寄った。
「お! いかにしてそのもとがこの乾雲丸を……た、丹下左膳はどうしましたッ! さ、それを言われい、それを!」
 剣幕にのまれたおさよは、何からどう言い出したものかと、ただもうドギマギするばかり。
「え、あのそれは――」
「エイッ! はっきりと、はっきりとお話しありたい。そもそもこれは何者の指図でござる?」
 言いながら栄三郎、乾雲丸を引きつけて眼を寝床のほうへやると! 上気した栄三郎の顔が一度に蒼白に転じた。
 何はともあれ、これで手にある坤竜(こんりゅう)と番(つがい)に返り、雲竜ところをひとつにしたと思ったのも束(つか)のま、さっきまで確かに行燈の下にあった脇差坤竜丸が姿を消しているのだ。
「やッ! 坤竜がッ!」
 おめいた栄三郎、同時に突っ起っていた。バタバタッと駈けよって枕を蹴る。あろうはずがない! やけつく視線を部屋じゅうに走らせても、櫛まきお藤が忍び入って先刻持ち出した坤竜丸、どうしてそこらに転がっていよう!
「ああない! ない……坤竜がない! ふしぎ……」
 栄三郎、乾雲を杖によろめいた。
「あの、では、もう一つのお刀が失くなったのでございますか」
 おさよのおろおろ声も栄三郎の耳へははいらなかった。
 おのが手の竜、ひそかに天角の雲を呼んで、ここに乾坤二刀たえてひさしく再会するかと思いきや、その瞬間にこのたびは竜を逸した栄三郎、二つを対(つい)に、とりあえず腰に帯びてみようと意気ごんだだけに茫然自失のていでしばらくは言葉もなかった――。
 と!
 ふと気がついたのが裏の戸口。
 一足飛びに走り出てみると、果たして台所の土間(どま)が雪に汚れて、何ものかの忍びこんだ形跡(ぎょうせき)歴然(れきぜん)!
「おのれッ!」
 と栄三郎、手を乾雲の柄に油障子を引きあけると……いたずらに躍る白羽落花の舞い。
 深夜の江戸を一刷(は)けに押し包んで、雪はいつやむべしと見えなかった。
 宿業(しゅくごう)と言おうか――それとも運気(うんき)?
 双剣一に収まって和平を楽しむの期(き)いまだ到(いた)らざる証(あかし)であろうが、前門に雲舞いくだって後門(こうもん)竜(りゅう)を脱す。
 はいる乾雲に出る坤竜。
 それはまことに不可測(ふかそく)なめぐりあわせであったが、栄三郎はついに乾雲の柄をたたいてにっこりとした。
 思ってもみよ!
 きょうが日まで刃妖左膳の隻腕にあって、幾多の人の血あぶらに飽き剣鬼の手垢(てあか)に赤銅のひかりを増した利刀乾雲丸が、今宵からは若年の剣士諏訪栄三郎のかいなに破邪(はじゃ)のつるぎと変じて、倍旧の迅火殺陣(じんかさつじん)の場に乾雲独自のはたらきを示そうとしているのだ。
 そして丹下左膳の手にはあの坤竜丸が!
 乾雲坤竜相会して永久の鎮もりに眠るのはいつの時であろう?
 それまではこの夜の雪をさながらにまんじ巴(ともえ)、去就ともに端倪(たんげい)すべからざる渦乱であった。
「それはそうと、ねえ栄三郎さん、お話がございますよ」
 おさよ婆さんの声に、栄三郎はわれに返って座敷へもどった。

 夜□(やち)のごとくに栄三郎の隙をうかがって入りこみ、小刀坤竜丸をさらって逃げ去った櫛まきお藤は、この深夜の雪を蹴って、そもいずこへ消え去ったのであろうか?
 かのお藤……。
 本所の化物屋敷に出入して、万緑叢中(ばんりょくそうちゅう)紅一点、悪旗本や御家人くずれと車座になって勝負を争っているうちに、人もあろうに離室(はなれ)の食客、隻眼隻腕の剣怪丹下左膳に恋をおぼえ、その取り持ち方を殿様鈴川源十郎に頼んだまではいいが、源十郎に裏切られるにおよんで、深くかれを恨んでいるやさき、当の左膳に意中の女があると聞いて一転妬情(とじょう)の化身と変じた末が、あの雨の夜、左膳が片思いの相手をつれだして源十郎のこがれるお艶と、栄三郎を仲に醜い角突き合いを演じさせ、ひそかに鬱憤(うっぷん)をはらそうとしたものの、弥生お艶の女同士がやさしい涙にとけあって、お藤のもくさんはガラリとはずれたばかりか。――
 江戸お構えの身は思わぬときに捕吏の大群をうけて、お藤は第六天篠塚稲荷のきざはしで……ドロンとかき消えたかどうか? それはそれとして。
 まもなく。
 魔猫(まびょう)の神通力でももっているものとみえて、いかにしてあの捕網の目をくぐって来たのだろう? 白無垢(しろむく)鉄火の大姐御櫛まきお藤、いつのまにやら粋な隠れ家に納まって、長火鉢のむこうにノホホンとばかり煙管(きせる)をたたいていたが、飛びこんで来た与吉のことばで、左膳に対するその迷妄は再燃した。
 思うこころに変わりはないが、それは今度は別のかたちで。
 かわいさあまって憎さが百倍――どうせ叶わぬ色恋なら、万事に逆に立ちまわって、あの人のすべてを片っぱしから叩き壊(こわ)してしまえ……こういう意気ごみで丹下左膳を、これも憎い鈴川源十郎の名で訴人したのだったが、あとからすぐに後悔して、あやういところへ駈けつけて左膳を救い出してきたのも、お藤としては最初から変わらぬ一徹恋慕のこころであった。
 恋はいろいろに動く。
 ことにお藤のような女においては、いっさいの有(ゆう)かいっさいの無(む)、抱きしめる手でそのまま殺すことも彼女にとっては同じだったが、さすがに殺しは得ずして助けて来た左膳、日々近く手もとにおいてみると、もとより嫌いでないどころか、こうして危い江戸をも見捨て得ずに今日こんな苦労を重ねているのも、もとはといえばみんなだれゆえ左膳ゆえのことだから、うば桜のお藤、手練手管(てれんてくだ)のかぎりをつくして、ひたすら左膳の意を迎え、心をとらえようと腕によりをかけだしたのだった。
 しかも、左膳の慕う弥生が行方知れずになっているいま。
 かれの胸中から弥生のまぼろしを駆逐して左膳をわが物とするはこの機であると、そこでお藤、宵から降り出した雪を幸い栄三郎方の裏口に張り込んで、左膳のために脇差坤竜を盗み出したのだが!
 いったい左膳とお藤は今どこに隠れているのか?
 浅草のお藤の隠れ家?
 否! お藤はあれからずっと家へ立ち寄らずに、留守宅にはつづみの与の公が今日か明日かとお藤の帰りを待ちわびているはずだ。
 してみると剣鬼と女妖、この広い江戸のどこにひそんでいるのだろう?
 遠くか。ないしは案外近いかも知れない。
 とにかくそれは、いつ朝が来ていつ日が暮れるともない窖(あなぐら)のような闇黒の底だった。
 やみ? そうだ。黒暗々の奈落(ならく)。
 それは、兇状持ちのお藤が、始終お上(かみ)を向うにまわして陽の目を見ていこうとするために、そこへさえ飛びこめば、いつでも捕り手にスカを食わせることができるようにと、以前ひそかに細工をしておいた秘密の隠れ場所であった。いずこかはわからないが、江戸のなかには相違ない、そして誰ひとり知る者もない穴ぐらなのだから、十手に追われる左膳の身には時にとってこのうえもない便宜であった。
 闇黒が左膳を包んでいる。
 その暗いなかで、おのれを恋する女とのふしぎな生活がつづいて来ていた。
 闇黒――ぬば玉(たま)の無明(むみょう)のやみ。
 それはやがて剣に理を失った左膳と、恋に我を忘(ぼう)じ果てたお藤とのこころの姿でもあった。
 いまは女の保護のもとに生きる左膳、そとの大雪も知らずに、三坪にたりない暗い穴の中をしきりに往ったり来たりしている。
 お藤はまだ帰らない。

 はじめお藤の懐中(ふところ)鉄砲によって重囲の化物屋敷からのがれ出たとき。
 左膳は。
 暮れそめた町々をお藤にそのかくれ家へ案内されながら心中で考えていた。
 源十郎が頼みにならないうえに、つづみの与吉が相馬中村から助剣の勢を求めてくるまで、当分あまんじてこの女にかくまわれていようと。
 さすれば御用の者の眼をくらましてこの身は安全。また、乾雲丸を鈴川邸内の物置のかげ、椎(しい)の根方に埋めてあることは誰ひとり知る者もないはずだから、このほうも大丈夫。
 こういう気もちから易々諾々(いいだくだく)としてお藤のつれこむにまかせたのが……どこかは知れず、この縁の下のようなせまい穴蔵の底であった。
「ねえ左膳様。ここはあたしのほかだあれも知らないところ、いわばあたしの隠れ住居で、いざという時にはお役人でもなんでもここまでおびき寄せて、ね、ホホホホ、お藤の忍術をごらんに入れるんでございますから、お心おきなくご逗留(とうりゅう)なさいましよ」
 こういうお藤の言葉に、左膳はがらになく、
「かたじけない」
 とひとこと、改めて身辺を見渡したが、眼に映ったのはあやめもわかたぬ闇黒ばかり――暗い地下の一室であった。
 低い天井、四囲の壁も床も荒けずりの板で張りつめてあって、かたわらに筵(むしろ)や夜着蒲団のたぐいといっしょに簡単な炊事道具がころがっているらしいことは手さぐりでもわかった。片隅に粗末な階段がついていて、そこはいまはいって来た秘密の入口――。
 お藤が訴え出てあの騒ぎになったとは夢にも知らぬ左膳、源十郎が訴人をしたものと真(ま)に受けて、今にも鈴川屋敷へ斬りこもうとたけりたつのをお藤がおさえて、
「まあ、もうすこしお待ちなさいまし。決して悪いようにはいたしませんから……」
 となだめているうちに。
 せまい闇黒に女のにおいがひろがっていって咽(む)せ返りそう……丹下左膳、いかにこの間に処したことか。
 さて今夜。
 暗いなかにすわっていると、雪の夜はことに静かである。
 お藤が入れていった置き炬燵(ごたつ)に暖をとって、長ながと蒲団にはらばった左膳、ひとりこうしていると、ゆくりなくもさまざまのことが思い出されるのだった。
 追いつ追われつする運命の二剣! それに絡(まつ)わるおのが秘命。
 わけても……弥生のおもざし。
「おれも焼きがまわったかな」
 と思わず左膳が、自嘲(じちょう)に似たつぶやきを洩らした刹那(せつな)!
 タ、タ、タと天井うらの床に跫音がひびいて、梯子段上の機械仕(からくりじ)かけがんどう返しの扉がサッと開いたかと思うと、全身白く塗(まみ)れた櫛まきお藤が、落ちるようにころがりこんで来た。
「どうしたのだ? 雪か」
 左膳は闇黒に瞳を凝(こ)らしたまま起きあがろうともしない。
「ええ。ひどい雪」
 笑いながらお藤は歩み寄って、丹前の下から取り出した坤竜丸を、事もなげにつとその面前に突きつけた。そして、
「ナ、なんだ、これは?」
 といぶかる左膳へ、
「坤竜丸ですよ。いま、あたしがちょいと栄三郎のところから盗み出して来ましたのさ。お藤の腕前はこんなもの――なんですね刀一本、大の男が四人も五人も飛び出して、大さわぎをすることはないじゃありませんか」
 と、お藤はケッケとふしぎな声で笑いつつ、坤竜丸を左膳に渡したが、受け取った左膳、
「ナニ、坤竜?」
 と叫びざま左手に握って、やみに慣れた一眼をキッと据えていたのもしばらく、真にこれが坤竜丸と得心がいくが早いか、何か言いかけたお藤をその場につきのけんばかりに、すぐ左膳、戸を蹴(け)ひらいて戸外に躍り出た。
 乾雲は庭すみに埋めてある!
 と、こう思うと左膳降りしきる雪に足を早め、坤竜丸を帯(たい)して本所をさして急いだが。
 同じ時刻に。
 本所へ通ずる別の道を、これは乾雲をひっつかんだ諏訪栄三郎が、おなじく鈴川屋敷を指してひた走りに駆(か)けていた。

 鈴川源十郎にお艶を懇望され、その手切れの第一として、丹下左膳の隠しておいた乾雲丸を掘り出して来た。
 言わばこれは源十郎の殿様から贈られたお艶の代償(だいしょう)!
 と、老婆おさよの口より聞くや否や、諏訪栄三郎の双頬(そうきょう)にさっ[#「さっ」は底本では「さつ」]と血の気が走った。
「ううむ! 刀と女の取っかえっこだとは、きゃつ自身、いつか拙者に申し出たところ、さてはそこもとがかの源十郎と腹をあわせて、丹下の乾雲を盗み出したのであったか」
 こう歯を食いしばった栄三郎、あわててとめるおさよの手を払い、すっと立ってすばやく身づくろいに移っていた。
 竜は雲を呼び、雲は竜を待つとはいえ、腕で奪(と)り、つるぎにかけて争ってこそ互いに武士の面目もあろうというもの――。
 それをなんぞや! 一老婆が偸盗(ちゅうとう)のごとく持ち出したものを、なんとておめおめと受納できようか。
 しかもそれが妻を売る値(あたい)だという。もってのほかと言うべきところへ、あまつさえそのお艶もすでに家を出ているではないか。
 これをこのまま受け取ってはおられぬ。源十郎に逢って面罵し、乾雲丸は一時左膳の手へ返そうとも筋ならぬものを納めたとあっては、栄三郎、男がすたる……。
 こうとっさに決心した彼は、武蔵太郎と乾雲を腰間(こし)に佩(はい)してパッと雪の深夜へとび出したのだった。けたたましく呼ぶおさよの声をあとにして。
 天地を白く押しつつんで、音もなく降りしきる雪、雪、雪。
 どうあってもこの乾雲丸、さっそく左膳の手へ押しつけて、しかる後今宵こそは一騎がけ、必ず腰の武蔵太郎にもの言わせずにはおかぬ!
 トットと雪を蹴散らしながら、栄三郎が本所をさして走っていくと、ほかの道を丹下左膳が、お藤の盗んで来た坤竜丸をひっつかんで、これも同じく本所めがけて急いではいるが!
 左膳の心もちはおのずから別だった。
 目的のために手段をえらばない丹下左膳。
 たとえどんな道筋であろうと片割れ坤竜丸が手に入った以上は、一刻も早く椎の根に埋めた乾雲丸を掘り出し、夜泣きの刀を一対として、明け方にははや江戸をあとに、郷藩(きょうはん)相馬中村をさして発足しようと意気ごんでいたのだけれど。
 丹下左膳、わざわざ鈴川邸の物置まで行って、乾雲丸の掘り返されたのを発見する要はなかった。
 というのは……。
 舞い狂う吹雪に面をそむけた左膳が、一眼をなかば見開いて左腕に坤竜を握ったまま身体を斜めに法恩寺橋の袂にさしかかった時だった。
 片側は御用屋敷の新阪町。
 他は清水町(しみずちょう)の町家ならび――ひとしく大戸をおろして、雪とともに深沈(しんちん)と眠る真夜中。
 向うから雪風に追われて、小走りに来る一つの影があった。
 乾雲坤竜ふたたび糸を引いてか、乾を帯した栄三郎と、坤を持した丹下左膳、それは再び奇(く)しき出会いであったと言わなければならぬ。
 雪に埋(う)もれる法恩寺橋の橋上、ぱったりぶつかりそうになった雲竜の両士、
「やッ! 諏訪……栄三郎ではないかッ」
 と、剣妖(けんよう)左膳、雪をすかして栄三郎を望めば、その声に覚えがあるか栄三郎、ピタリと歩をとめて近づく左膳を待ちながら、
「オオ! そういう貴様は丹下左膳だなッ!」
 向き合った左膳の独眼、みるみる思いがけない喜びにきらめいて頬の刀痕を雪片が打っては消える。
「ウム! 文句は言わせねえ。
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