丹下左膳
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:林不忘 

 これは、あの大岡越前守忠相が浅草の歳の市にあらわれて、栄三郎へあてた左膳の書面を手に入れた数日前のこと……つまり、まだ年のあらたまらないうちであった。
 で、そのつづみの与の公一代の悪智恵(わるぢえ)というのは、こうである。
 さて、つづみの与吉の策略によって――左膳は即座に筆を執(と)って、あの、栄三郎に宛てた一札を認めたのだった。
 その文言は、彼の五人組に秘刀乾雲を奪い去られて、いま手もとにないこと。
 そして、こうして自分が乾雲丸を所持していない以上は、もはや栄三郎とも仇敵(かたき)同士に別れてねらいあう意味のないこと。
 のみならず、これからのちは、左膳が栄三郎に腕をかして、栄三郎の腰に残っている坤竜丸の引力により、再び乾雲を呼びよせて火事装束に鼻を明かしてやりたいが雲煙霧消(むしょう)、従来のことはすっぱりと忘れて改めてこの左膳を味方にお加えくださる気はござらぬか。
 ――という欺誑(ぎきょう)と譎詐(きっさ)に満ちた休戦状でありまた誠(まこと)に虫のいい盟約の申し込みでもあった。
 さしずめこの手紙を栄三郎へ渡して、しばしなりとも坤竜の動きをおさえて置くあいだに。
 さ、その間にどうする?
 という段になって、左膳と与吉、いっそう語らいをすすめた末。
 今は、坤竜を佩(はい)する栄三郎と、その助太刀泰軒ばかりではなく、じつに得体の知れない火事装束の五人組というものを向うへまわさなければならないので、いかに至妙の剣手とはいえ、丹下左膳ひとりではおぼつかない。あまつさえ身を寄せる家のあるじ、鈴川源十郎は、老下女おさよにとりいってお艶、栄三郎を離間しようとのみ腐心し、決然剣を取って左膳に組し、栄三郎を亡き者にしようという当初の意気ごみをしだいに減じつつあるこんにち。
 なるほど、諏訪栄三郎は左膳にとっては剣の敵。
 源十郎にとっては恋のかたき……。
 ではあるが、はじめ何ほどのことやあろう、ただちに乾坤二刀をひとつに手挟(たばさ)んで郷藩中村へ逐電(ちくでん)しようと考えていた左膳の見こみに反して、坤竜栄三郎は思ったより強豪、そこへ泰軒という快侠の出現、いままた五人組の登場と、こう予期しないじゃまに続出されてみれば源十郎が左膳と別の戦法を用いだすにつれて、広い江戸中に孤立無援の丹下左膳、がらになくいささか心細くなって暗々然と隻腕に乾雲を撫(ぶ)さざるを得なかった。
 鈴川源十郎がかくも頼むにたらぬ!
 と気がついてみると、そもこの左膳の万難千苦の根因はと言えば相馬大膳亮様の慾炎(よくえん)――厳命にあることだから、ここはどうしても故里(くに)おもてから屈強の剣士数十名の来援を乞(こ)うて、一つには五人組にそなえ、同時に多勢不意に襲撃し、栄三郎、泰軒を踏み潰し、一気に坤竜を入手せねばならない!
 こう事況が逼迫(ひっぱく)したうえは、早いが勝ち。
 一日遅れれば一にち損!
 瞬刻を争って相馬中村から剣客の一団を呼び寄せよう! へえ殿様、それが何よりの上分別(じょうふんべつ)、このさい一番の思いつきでございます……とあって、左膳は、成功後の賞美(ほうび)を約して密々のうちに、つづみの与吉を奥州中村へ潜行させることになった。
 だから……。
 乾雲丸が強奪されて、いま左膳の手にないというものも、いわば一時の苦肉の計、なんとかして応援が着府するまで、このうその手紙によって栄三郎と和の状態をつづけたいというまでにすぎない。
 与吉が同藩の剣勢を引きつれてくれば?
 あとはもう占めたもの!
 が、その期間、泰軒、栄三郎がこの書面を真(ま)に受けてじっと[#「じっと」は底本では「じって」]していてくれればよいが……と、なかば危ぶみ半ば祈りながら、左膳が件(くだん)の書状を与吉に渡すと――。
 すべては己(おの)が方寸から出たことで委細承知したつづみの兄哥(あにい)。
「殿様、はばかりながら御安心なせえまし。きっとあっしが引き受けてこの書を栄三郎へ届け、すぐその足で奥州をさして発足(ほっそく)いたしますから」
「そうか。それでは中村へ参っての口上は……」と左膳は、噛(か)んで含めるように使いのおもむきを繰り返したうえ、「な、こういう次第だからとよく申して、同勢をすぐり、貴様には気の毒だが、その夜にでも彼地(あちら)をたって江戸へ急行してもらいたい。礼は後日のぞみ放題(ほうだい)にとらせる」
「おっと! 水くせえや殿様。私とあなた様の仲じゃアありませんか、礼なんて――へっへへへ」
 と、ここに話し成って、まもなく与吉は自宅(うち)へ帰ってしたくにかかると同時に!
 夜中、やみに紛れて左膳は、こっそりと……真(しん)にこっそりと、夜泣きの刀の大、乾雲丸を、鈴川庭内の片隅に土を掘って埋めたのだが――。
 たれ識(し)らぬと思いきや!
 ここにひとり、この左膳の乾雲埋没(まいぼつ)をひそかに目睹(もくと)していたものがあった。
 あれから数日。
 さてこそ、あのものものしい旅装をととのえたつづみの与吉。はたして今ごろは奥州口をひたすら北へ北へと指して、いそいでいることであろうか。
 とにかく今日まで、離庵(はなれ)の丹下左膳のうえに、なんとなく心もとない起居(おきふし)が続いていたのだった。

 左膳のために求援(きゅうえん)の秘使にたったつづみの与吉。
 さっそく、旅仕度をして、なんとかして栄三郎を突きとめたいと、浅草歳の市をぶらついていると、折りよく栄三郎の姿を見かけて手紙を押しこんだまでは上出来だったが――。
 掏摸(すり)とまちがわれて追っかけられ、ようよう櫛まきお藤の家へ飛びこんでほっと安心――するまもなくその旅装から左膳との謀計(ぼうけい)を疑われて、お藤の嬌媚(きょうび)で骨抜きの捕虜にされてしまった形。
 色っぽい眸ひとつにぐにゃりと降参した与の公は、こうして左膳の期待を裏切り、いまだにお藤の二階にブラブラしていることかも知れない。
 左膳の身になれば、これほどの手違いはまたとあるまい。だが、それと、そうして、左膳の文によって栄三郎がいかに考え、まさに左膳の言い分を真実ととりはしなかったろうが、今後の処置をどう決したか? ということはしばらく天機(てんき)のうちに存するとして。
 また、栄三郎が左膳の手紙を取り落として、それが、人もあろうに、越前守忠相に拾われて今その手にあることもここに問わず……。
 ただ、お藤である。
 彼女は、与吉の口から、乾雲丸が左膳のもとにないと聞くや、ただちにそのからくりを見破って、与の公までが左膳に肩を入れるのがくやしくてならなかった。
 恋しい左膳さま――それはいまも変りがないが、容れられてこそ恋は恋。
 あのように嫌いぬかれて、なおもこころ私(ひそ)かに男を思うなどということは、お藤の性(さが)でも、またそんなしおらしい年齢でもなく、頭からできない芸当であった。
 ばかりでなく。
 じぶんを見向きもしないで、かの弥生にのみ走っている左膳の心を思うと、責め折檻(せっかん)された覚えもあり、なんとかして一矢(し)左膳に報いる機会を待っていたお藤だった。
 手に入らぬものなら壊(こわ)してしまえ!
 どうせ他人なら遠慮はいらぬ! あくまでも左膳を呪(のろ)って、いっそあの人の何もかもをめちゃくちゃにしてやれ!
 こう決心した妬婦(とふ)お藤、与吉をちょろまかして足をとめておくが早いか自らはスルリと抜けて、辻斬りの下手人浪人丹下左膳の所在を訴状にしてポン! と浅草橋詰の自身番へほうりこんだ。文字は女手だが訴人のところへ鈴川源十郎と大書して。
 これに緒(いとぐち)を発したあのお手入れ……御用騒ぎがあったが!
 本所の化物屋敷へ捕吏のむれが殺到するとすぐ、むらむらと胸中にわいて来た何やらさびしい気もちを、お藤はさすがにどうすることもできなかった。
 丹下様へお縄を!
 それも、あたしがちょっと細工をしたばっかりに!
 と思うと、たまらなくなったお藤、いてもたってもいられないのは人情自然の発露で、やにわに、愛蔵の短銃をふところに本所めざして駈け出した。
 何しに?
 おのが陥(おとしい)れた穽(あな)から左膳を引きあげるために!
 魔女の辛辣(しんらつ)と江戸っ児の殉情を兼ね備えている櫛まきの姐御には相違ないが、どっちもお藤本然の相(すがた)とすれば、売ったあとから捕り手のかかとを踏んでスタコラ救助に出かけるなどは、ずいぶん御念の入ったあわてようだったと言わなければならない。
 しかし、矛盾(むじゅん)――ではなかった。
 なぜ……? と言えば。
 これは、町すじを走りながらお藤のあたまに浮かんだのだが、いま左膳を、自分の手で救い出せば、何よりも左膳に、この上もない大恩を被(き)せることになって、あとでよく心づくしを見せたり話したりしたなら、いかな丹下さまでも、今度はふっつり弥生のまぼろしを追い払って、こっちの実(じつ)にほだされるかも知れない。いや、そうなるにきまっている。
 しかも、訴状のおもては本所の殿様のお名になっているのだから、これでりっぱに左膳と源十郎の仲をも割(さ)いて早晩一度は、左膳の剣に源十郎の血を塗ることもできようというもの――橋わたしの約束にそむいて、わがことしか考えない、憎(にく)い源十郎の殿様!
 恩だ!
 恩だ!
 恩を売るのだ! あのお方だって木でも石でもないはず、ことにお武家は恩儀にだけは感ずるという――。
 いよいよ痛切に左膳に対する己(おの)が恋慕をたかめたお藤は、恩! 恩! おん、おん! と拍子をとるように心いっぱい、胸のはりさけるほど無言の絶叫をつづけながら足を宙(ちゅう)に左膳の危難に駈けつけて短銃一挺(ちょう)の放れわざ。あわやというところで丹下左膳を助け出し、そして!
 どこへ……つれて行くかは、彼女にはちゃんと当てがあったのだ。
 あそこ――お藤のほか誰も人の知らない彼地(あそこ)へ!

 本所鈴川の屋敷で、剣怪左膳をとりまいて十手と光刃(こうじん)がよどんでいる最中……。
 櫛まきお藤が忽然(こつねん)と姿を見せてふところ鉄砲ひとつで左膳を庇(かば)ってともに落ちのびていった、そのすこし前のことだった。
 うす靄(もや)のような暮気があたりを包んで、押上(おしあげ)、柳島(やなぎしま)の空に夕映(ゆうばえ)の余光がたゆたっていたのも束(つか)のま、まず平河山法恩寺をはじめとして近くに真成(しんせい)、大法(たいほう)、霊山(れいざん)、本法(ほんぽう)、永隆(えいりゅう)、本仏(ほんぶつ)など寺が多い、それらの鐘楼(しょうろう)で撞木(しゅもく)をふる音が、かわたれの一刻を長く尾をひいて天と地のあいだに消えてゆく。
 暮れ六つ。
 鈴川方化物屋敷の裏手、髪を振りみだした狂女のようにそそり立つ椎(しい)の老樹の下にこわれかかった折り戸と並んで、ささやかな物置小屋が一つ、古薪木や柴に埋もれて忘れられたように建っている。
 かつて、櫛まきお藤が与吉の口から弥生に対する丹下左膳の恋ごころを聞かされて一変、緑面(りょくめん)の女夜叉(にょやしゃ)と化したあの場所だが。
 今は。
 這いよる宵やみのなかに剣打のひびき阿□(あうん)の声が奥庭から流れてくるばかり――座敷まえの芝生には、お捕方を相手に左膳が隻腕一刀の乱劇を演じていることであろうが、うらに面したここらは人影もなく、ただ空低く風が渡るかして、椎の梢が、思い出したようにうなりながら、寒天にちりばめた星くずをなでているだけだった。
 もの淋しい夕景色。
 と! この時。
 物(もの)の怪(け)にでも憑(つ)かれたように、フラフラとこの庭隅に立ち現われた一つの黒法師(くろぼうし)がある。
 しばらく物置の戸に耳をつけて表のかた、周囲に耳を傾けていたが、やがて、いま、屋敷は御用の騒動にのまれて誰も近づいてくる者もないと見るや、しずかに小屋のなかへはいって――すぐに出て来た。
 言うまでもなく、源十郎と対談しているところへ、左膳と捕吏の剣闘(けんとう)が始まったので、こっそり部屋を脱けて出たおさよ婆さんであった。
 手に、物置から取りだした鍬(くわ)を握っている。
 夕方鍬などを持ち出して、こんなところで何をするのか……と見ていると!
 おさよは瞬時(しゅんじ)もためらわずに、やにわに鍬を振りあげて、小屋のかげ、椎の根元を掘りはじめたが――。
 ふしぎ! 近ごろ誰かが鍬を入れたあとらしく、表面が固まりかけているだけで、一打ち、二打ちとうちこむにしたがい、やわらかい土がわけもなく金物の先に盛られて、おさよの足もとに掬(すく)い出される。
 薄やみに鍬の刃が白く光って、土に食い入るにぶい音が四辺の寂寞(せきばく)を破るたびに、穴はだんだんと大きくなっていって。
 はッ! はッ! と肩で呼吸(いき)づく老婆おさよ、人眼を偸(ぬす)んでこの小屋のかげに何を掘り出そうとしているのだろう……?
 それは――。
 過般(かはん)、ある夜。
 老人のつねとして寝そびれたおさよが、ふと不浄(ふじょう)に起きて、見るともなしに、小窓から戸外(そと)の闇黒をのぞくと、はなれに眠っているはずの丹下左膳、今ちょうどそこを掘りさげて、襤褸(ぼろ)と油紙に幾重にも包んだ細長い物を埋めようとしているところだった。
 深夜にまぎれて、食客左膳の怪しいふるまい……これは、乾雲丸を一時こうして隠匿(いんとく)して、かの五人組の火事装束に奪い去られたと称し、栄三郎をはじめ屋敷内の者をさえ偽ろうという極密(ごくみつ)の計であったが、始終(しじゅう)を見とどけたおさよは、さっきのことを源十郎に話したとおり、今の混雑を利用して刀を掘り出し、お艶に別れる手切れの一部として、さっそく栄三郎へ渡そうと思っているのだ。
 老女おさよの手によって、うちおろされる鍬の数!……。
 土が飛ぶ。石ころがはねる。そしてついに、地中の竜ではない、土中の乾雲がおさよの目前にあらわれたとき! 櫛まきお藤の撃った左膳を助ける銃声がひびいた。
 離別以来幾旬日(いくじゅんじつ)、坤竜を慕って孤愁(こしゅう)に哭(な)き、人血に飽いてきた夜泣きの刀の片割れ――人をして悲劇に趨(はし)らせ、邪望をそそってやまない乾雲丸が、ここにはじめて丹下左膳の手を離れたのだ。
 ……転ぶようにしゃがんで穴底から重い刀を抱きあげたおさよ。
 暗中にぱっぱッと音がしたのは包みの土を払ったのだ。

 宵闇(よいやみ)にふくまれ去ったお藤と左膳を追って、捕方の者もあわただしく庭を出て行ったあとで。
 源十郎は長いこと、ひとりぽかんとして縁に立っていた。
 今にも同心でも引き返して来て自分に対しても審(しら)べがあるだろう。ことによると、奉行所へ出頭方を命ぜられるかも知れないが、それには一応、小普請支配がしら青山備前守(びぜんのかみ)様のほうへ話をつけて、手続きをふまねばならぬから、まず今夜は大丈夫。そのあいだに、ゆっくり弁口(べんこう)を練っておけば、ここを言い抜けるぐらいのことはなんでもあるまい――と源十郎、たかをくくって、いまの役人の帰ってくるのを待ってみたが、追っ手は早くも法恩寺橋を渡って、横川の河岸に散っていったらしく、つめたい気をはらむ風が鬢(びん)をなでて、つい、いまし方まで剣渦戟潮(けんかげきちょう)にゆだねられていた、庭面(にわも)には、かつぎさられた御用の負傷者の血であろう、赤黒いものが、点々と草の根を染めていた。
 とっぷりと暮れた夜のいろ。
 源十郎はいつまでも動かなかった。
 丹下左膳は、あくまでも自分がかれを売って訴人をしたようにとっているが、役人どもがいかにして左膳の居所を突きとめたかは、源十郎にとっても、左膳と同じく、全くひとつの謎であった。
「きゃつ、おれをうらんでおったようだが、馬鹿なやつだて」
 ひとりごとが源十郎の口を洩れる。同時にかれは、寒さ以外のものを襟頸(えりくび)に感じて慄然(ぞっ)とした――物凄いとも言いようのない左膳の剣筋を、そして、狂蛇のようなその一眼を、源十郎は歴然(れきぜん)と思いうかべたのだ。が、彼は、たそがれの空を仰いでニッと笑った。
「左膳、何ほどのことやある! 第一、なんて言われても俺の知ったことではない」
 と、あとのほうはどうやら弁解のようにモゾモゾ口のなかでつぶやいて源十郎、部屋へはいろうとしたが、考えてみると、もっとふしぎに耐えないのは、あれよというどたん場(ば)に際して、あの櫛まきお藤が飛び出したことである。
 ふうむ! お藤か……。
 味わうようにこの一語を噛みしめたとたんに、源十郎にはすべての経路が見えすいたような気がして、彼は柱にもたれてクルリと背をめぐらしながら、身をずらしてくすりとほほえんだ。と思うと、わっはっはッ! と大きな笑い声が、腹の底から揺りあげてきて、
「お藤か。あッははは、お藤の仕事か――」
 と、はてしもなく興に乗じていたが。
 やがて。
「おさよ……おさよどの……!」
 声をかけて座敷のなかをのぞきこんだとき、そこに老婆のすがたのないのを発見すると、源十郎、ふッと笑いやんで、聞き耳をたてた。
 木々を吹きわたる夕風の音ばかり――逢魔(おうま)が刻(とき)のしずけさは深夜よりも骨身にしみる。
 チラチラチラと闇黒に白い物の舞っているのは、さては降雪(ゆき)になったとみえる。
 源十郎は、急に思い出したことがあって、そそくさと庭におり立った。
 さっきおさよが耳打ちをした乾雲丸の一条……丹下左膳が、あの刀を物置のかげに埋めているところを見たから、すぐにもこっそり掘り出し、源十郎からとして、お艶の代償に栄三郎へ渡してやりたい。こうおさよは言っていたが、もうおさよは、土をあばいて一物を持ち去ったかも知れない。そうすると、その尻もいずれ左膳から自分に来るであろう。夜泣きの大小にかけては命を投げ出している剣鬼左膳、何をしでかすかしれたものではない――。
 と考えると源十郎、いささか気になりだしたので、庭下駄を突っかけて、いそぎ足に裏へまわった。
 雪が、頬を打って消える。
 椎(しい)の木。そのかげに朽ち果てた薪小屋。
 樹の根を見ると! まさしく穴が掘ってある。
 暗い、細長い土穴に、白い蝶のような雪片が後からあとから飛びこんでいた。
「おさよめ、とうとう左膳に鼻をあかして、乾雲丸を持ち出したな。これは丹下に対し、すこウし困ったことになったぞ」
 こう胸中にくり返しながら、源十郎はあたまの雪を払って座敷に戻った。
 しかし彼は、乾雲丸のことよりも、きょうおさよに約束した栄三郎への手切れ金五十両の工面(くめん)に、はたといきづまっていたのだった。
 五百石のお旗本が五十両にさしつかえるとは……考えられないようだが不義理だらけで首もまわらず、五十はおろかただの五両にも事欠く源十郎であった。
 煩悩(ぼんのう)は人を外道(げどう)に駆(か)る。
 ひとつ――殺(や)るかな……。
 と、やみに刀をふるう手真似をしながら、かれが縁にあがりかけると、いつのまに来たのか、障子のなかに土生(はぶ)仙之助の鼻唄が聞こえていた。
 江戸に、その冬はじめて雪の降った宵だった。

   ふたつの涙(なみだ)

「ええ。どうせわたしはやくざ女ですともさ。そりゃアどこかの剣術の先生のお嬢さんのように、届きはいたしませんよ。ヘン! おあいにくさまですねえ」
 お艶はちょっと口をへの字に曲げて憎(にく)さげに栄三郎を見やった。
 不貞腐(ふてくさ)れの横すわり――
 紅味を帯びたすべっこい踵(かかと)が二つ投げ出されたように畳にこぼれているのを、栄三郎は苦しそうに眺めて眼をそらした。
 どんよりと曇った冬の日だ。
 いまにも泣きだしそうな空模様の下に、おもて通りの小間物屋のほし物が濡れたまましおたれ気にはためいているのが、窓の桟(さん)のあいだから見える……もの皆が貧しくてうす汚(きたな)い瓦町の露地の奥。と、突然、となりの左官の家で山の神のがなり立てる声が起こった。
「なんだい、この餓鬼(がき)アッ! またこんなところに灰をまきゃアがって! ほんとに、ほんとに性懲(しょうこ)りのねえ野郎だよ。父(ちゃん)にそっくりだッ!」
 つづいて、ピシャリ! と頭でもくらわすらしい音。わアッ! と張りあげる子供の泣き声――ピシャピシャピシャとおかみの平手は、自暴(やけ)に子供の頬へ飛んでゆくようすである。
 なんという暗い、ジメジメした世の中であろう!……若い栄三郎のこころは、その悩ましい重みに耐えられない気がしてきて、無理にも作った和(なご)やかな笑顔を、かれはお艶へむけた。
「ぱっとしない天気だな。雨……いや、雪になろうも知れぬ。お前、頭痛はどうだ?」
 お艶が、ふん! とそっぽを向くと、こめかみに貼った頭痛膏(こう)が、これ見よがしに栄三郎の眼にはいる。
 かれは再び、にがにがしく眉を寄せた。
 ぽつん――と、不自然に切れた静寂のなかに、険悪な気がふたりを押し包んでいる。
 まことに雨、雪、いや、暴風雨にもなろうも知れぬ不穏なたたずまい……。
 間(ま)。
 お艶はちょいと襟あしを抜いてその手の爪を噛みながら、なかばひとりごとのようにしんみりといいだした。
「いくらわたしがばかだからって茶屋女風情(ふぜい)がこうしてあなたというおりっぱなお武家の、奥様で候(そうろう)の、奥方でござりますのと、まあ、言っていられるだけで見つけものだってことは、これでもお艶はよウく知っているつもりでございますよ。でもね、人間てものは、どうやらこうやらお飯(まんま)がいただけて、それできょう日(び)がすごしていけりゃあア、それでいいってもんじゃありませんからね。あたしだって小綺麗な着物の一枚や二枚、世間の女なみにたまには着てみたいと思うこともありますのさ」
 また始まった!――というように、栄三郎は顔をしかめて、思わず白い眼に棘(とげ)を含ませて部屋じゅうを睨(ね)めまわした。
 なんと変わり果てたお艶であろう。
 あれほど手まめだったお艶が、ちかごろでは針いっぽん、ほうき一つ手にしたことがなく、栄三郎も彼女も着ている物といえばほころびだらけ、汚点(しみ)だらけ……そのうち、一間しかないこの座敷の隅ずみに、埃がうずたかく積もって、ぬぎ捨てた更(か)え着がはげちょろけの紅(もみ)裏を見せてひっくり返っているかと思うと、そばには昼夜帯(はらあわせ)がふてぶてしいとぐろを巻いているという態(てい)たらく。
 まるで宿場女郎をぬいてきて嬶(かか)ア大明神にすえたよう――。
 そればかりではない。態度口振りからいうことまで、ガラリと自堕落(じだらく)にかわったお艶であった。
 こうではなかった。すこし以前までこうではなかった。と考えるにつけ、栄三郎は、何がかくまでお艶を変えたのか? その理由と動機(きっかけ)を思い惑(まど)うよりも、もうかれは、日常の瑣事(さじ)に何かと気に入らないことのみ多く、つい眼に角(かど)をたててしまうのだった。
 そのために、いまも昔も変りのない、犬も食わない夫婦喧嘩に花が咲いて、今日もきょうとて……。
 先刻、塗りのはげたお膳を中に、ふたりが朝飯にかかった時だった。
 なんぼなんでも、他にしようもあろうに、はぶけるだけ手をはぶいた、名ばかりの味噌汁(みそしる)と沢庵(たくあん)のしっぽのお菜を栄三郎が、あんまりうまそうに口へ運ばなかったからと言って、例によって、お艶がまず、待っていたように火ぶたを切ったのだ。
「まあ! まずいッたらしいお顔! なんでそんなお顔をなさるの?」
「…………」
「あたしのこしらえた物が、そんなに汚いんですかッ!」
「ま、お前、何もそう――」
「いいえ! こう申しちゃ[#「いいえ! こう申しちゃ」は底本では「いいえ!こう申しちゃ」]なんですが、そりゃあお金さえあればねえ、あたしだってもうすこしなんとかできますけれど……フン! だ」
 これから起こったことだった。

 栄三郎は、横を向いてほかのことに紛(まぎ)らそうとした。
「泰軒どのもひさしくお見えにならぬが、どうしておらるるかな。この寒ぞらに船住いもなかなかであろう」
 と、さむ空……という言葉に初めて気がついたように、急にブルルと身ぶるいをして、消えかかった火鉢の火に炭をつごうとした。
「あなた!」
 お艶の声は、底にいまも噴(ふ)き出しそうな何ものかを含んで、懸命におさえていた。
「あなたッ!」
「なんだ?」
 栄三郎の手に、炭をはさんだ火箸(ひばし)がそのまま宙にとまる。
「なんだ、そんな顔をして」
 ジロリと白い一瞥(いちべつ)を栄三郎へ投げて、お艶はしばらく黙っていたが、
「そんな顔こんな顔って、これがあたしの顔なんですもの、今さらどう張りかえようたって無理じゃアありませんか」
「なに?」
「いいえね、万事あの根津のお嬢さんのようにはいきませんてことさ」
「お艶、お前、何を言うんだ?」
「馬子(まご)にも衣装(いしょう)髪かたちッてね――それゃアあたしだってピラシャラすれば、これでちったあ見なおすでしょうよ。けど、お金ですよ。それにゃア……お、か、ね! わかりましたか」
「ばかな! お前はこのごろどうかしている」
 栄三郎は取りあおうともせずにしずかに炭のすわりをなおしだしたが、内心の激情はどうすることもできないらしく、火箸のさきがブルブルとふるえて、立てるそばから炭をくずした。
 ふたりとも蒼い顔。紙のように白いくちびる――。
 あくまでもこの喧嘩、売らずにはおかないといったように、お艶が突如いきおいこんで乗り出すと、膝頭が膝にぶつかって、番茶の茶碗が思いきりよく倒れた。
 むッ! とした栄三郎、
「ナ、何をするんだ!」
「なんだいこんなもの!」
 お艶はもう一度、膳の角をつかんで荒々しくゆすぶった。瀬戸物がかち合って、はげしい音をたてる。
「お艶ッ!」
「だってそうじゃありませんか。この世の中に何ひとつお金でできないことがありますか。あたし、あなたといっしょになる時、まさかこんなに困ろうとは思わなかった……このごろのようにこんなみじめな装(なり)じゃあ――」とお艶は、自分の着ている継(つ)ぎはぎだらけの黄八丈の袖をトンと引っ張って、「恥ずかしくってお豆腐一つ買いに出られやしない。あたし、呉服屋のまえを通るときなんか、眼をおさえて駈けるんですよ」
「……すまない」
「すむもすまないもないじゃあありませんか、年が年中ピイピイガラガラ、家んなかは火の車だ。お正月が来たからって、お餅一つ搗(つ)けるじゃなし、持ってきた物さえ片っぱしからお蔵(くら)へ運んで、ヘン、たまるのは質札ばかりだ――ごらんなさいッ! もうその質ぐさもないじゃありませんか」
「まあ、そうガミガミ言うな。となり近所の手前もある」
「アレだ! 何かってえとヤレ手前、やれ恥辱(ちじょく)――ふん! お武士(さむらい)さんは違ったもんですよウ、だ!」
「これ、お艶!」
「はい」
「貴様、このごろいったいどうしたのだ?」
「どうもしやしませんよ」
「そうかな。見るところ、ガラリとようすが変わったようだが――」
「いいえ。どうもしやしませんけれど、あたしつくづく考えていることがあります」
「ふうむ。なんだそれは? 言ってみなさい」
「…………」
「拙者が嫌(いや)になったらいやになったと、何ごともはっきり申したらよいではないか」
 ことばもなくうなだれたお艶の横顔が、どうやら涙ぐんでいるふうなのに、栄三郎もふと甘いこころに返って、
「さ、いうがよい。な、改まって聞こう」
 とのぞきこんだとき、ホホホホ! と蓮葉(はすっぱ)な嬌笑とともに、栄三郎を振り払ったお艶、こともなげに軽くいい放った。
「あなた、およしなさい。お刀の探索なんか……いまどき流行(はや)りませんよ」

 夜泣きの刀、乾雲丸の取り戻し方を思いとどまってくれ……というお艶のことばは、さながら弊履(へいり)を棄(す)てよとすすめるに等(ひと)しい口ぶりだ。
 この、うって変わった一言には、さすがの栄三郎も思わずカッ! となった。が、かれも大事を控(ひか)えて分別(ふんべつ)ある士、そうやすやすと憤激(ふんげき)の情(じょう)をおもてにあらわしはしなかった。しかし、わざとしずかにきりだした低声は、彼の自制を裏ぎって微(かす)かにふるえていた。
「なぜ?――何故また今になって、さようなことを申すのだ? わたしが一命を賭(と)して乾雲を求めておることはそちも以前からよく知っているはず。言わば承知のうえで、拙者と……このようなことになったのではないか……」
「ええ――それはわかっております」
 襟(えり)もとに顎(あご)をうずめて、お艶は上眼づかいに栄三郎を見た。
 沈黙におちると、鉄瓶(てつびん)の湯がチインと松風の音をたてて、江戸の真ん中にいながら、奥まった露地のはずれだけに、まるで人里はなれた山家ずまいの思いがするのだった。
 お向うの庇(ひさし)ごしに、申しわけのような曇りめの陽が射しこんで、赤茶けた破れだたみをぼんやり照らしている。
 朝寒の満潮のような遣瀬(やるせ)ない心地が、ヒタヒタと栄三郎の胸にあふれる。
 お艶がつづける。
「それはわかっております。けれどあたし、自分達の暮しを第二第三にして、そうやってお刀のことに夢中になっていらっしゃるあなたを見ると……」
「嫌気がさす――というのか」
 栄三郎の声は、口がかわいてうわずっていた。
「…………」
「おいッ!」
「まあ! なんて声をなさります!」
 お艶はたしなめるように言って、すぐに鼻のさきでせせら笑ったが、
「ええ。そうでございます! さようでございますよ」
 と、いいきった彼女の声は、叫びに近かった。
 そして、つと身体を斜めにいっそうだらしなく崩折れると、口ばやに甲(かん)高に、堰(せき)を落とすようにしゃべりだした。
「ええ! さようでございます! あなたのようなどちらにもいい子になろうとするお人は、あたしゃ大嫌い! 刀を手に入れたい、あたしともいっしょにいたい――それじゃアまるで両天秤(りょうてんびん)で、どっちか一つがおろそかになるのはきまりきってるじゃアありませんか」
「な、なんだと? どちらにもいい子とはなんだ? いつおれが貴様をおろそかにした?」
「おろそかにしてるじゃありませんか。あたしより刀のほうがお大事なんでございましょう? 刀さえとれれば、あたしなんか野たれ死にをしようとおかまいはございますまい」
「たわけめ! 勝手にしろ!」
 吐き出すようにつぶやいて、栄三郎はやおら起ちあがった。お艶はそれをキッと下からにらみあげて、
「あなたッ!」
「なんだ、うるさい!」
「どうせうるそうございましょうよ!――いっしょになる時はなんだかんだとチヤホヤなさって、うるさいは恐れ入りましたね。ちっと旗色が悪くなると、いつでもどっかへお出ましだ。そんな卑怯な真似をなさらないで、お武士ならおさむらいらしくはっきりと話をつけてくださいッ!――どこへお出かけでございます?……存じております! 戌亥(いぬい)の方。麹町でございましょう? えええ、あのお嬢さんはあなたにとってお主筋(しゅうすじ)に当たる方、それにお生れがお生れですから女芸万般(にょげいばんぱん)ねえ、何ひとつおできにならないということはなし、そりゃアあたしとは雪と墨、月とすっぽんほども違いましょうともさ。せいぜいお大事になすっておあげなさいましよ」
 栄三郎は聞かぬ態(てい)――ゆがんだ微笑をうかべて、まわしまわし帯を結びなおしている。
 その、擦り切れた帯の端が、畳をなでてお艶の前にすべってくると、彼女は膝をあげてしっかとおさえた。
「サ! きっぱり話をつけてくださいッてば! 二つにひとつ、乾雲丸かあたしか、あなたはどちらを……」
「お艶!」栄三郎の眼は悲しかった。「――な、聞き分けのよい女だ。わたしはちょっとこれからホラ! これの才覚にとびまわってくる。鳥目(ちょうもく)だ。ははははは、そんなにおれを苦しめずに、おとなしく留守をしてくれ。な、わかったな」
「嫌でございますッ! 御冗談もいいかげんになさいまし。あたしもこれで当り矢のお艶と言われた女。あなたばかりが男じゃござんせんからね」
 栄三郎の眼が細まって、異様な光を添えた。

「お艶ッ! き、貴様ッ……坐れ、そこへ!」
「すわってるじゃございませんか。あなたこそお坐りなすったらいかがです」
「よく一々口を返すやつだな。貴様、このごろどうかいたしおるな。何か心中に思うところあって、それでさように事につけ物に触(ふ)れ、拙者に楯(たて)を突くのであろう。どうだ?――いや、得てはしたない言葉から醜(みにく)いあらそいを生ずる。いいかげんにしなさい」
「まあ、虫のいい! いいかげんにはできませんよ」
「お前はすっかり人間が変わったな」
「変わりたくもなろうじゃございませんか。こんな貧乏(びんぼう)暮しをしているんですもの」
「ふたことめには貧乏貧乏と申す……それほど貧乏がいやか」
「癇(かん)のせいか、あんまりゾッといたしませんねえ。そりゃそうと、どうおっしゃるのですか……乾雲丸か、このあたしか」
「黙れッ! おのれお艶、痩せても枯れても武士の妻ともあろう者が、正邪(せいじゃ)の別、恩愛(おんあい)義理(ぎり)をもわきまえず、言わせておけば際限もなく、よッくノメノメとさようなことがいえるな。貴様は魔に魅入(みい)られておるのだから、拙者も真面目には相手にせぬ。ひとり胸に手を置いて考えてみるがよい」
「またお談義(だんぎ)! 何かというと武士、刀の手前――どうも当り矢のお艶も、おかげさまでこんなかたッくるしい言葉をおぼえましたけれど、あたしはそんなえらそうなことを言って、自分達は食べるか食べないで、たかがお刀一本に眼色顔いろを変えて、明けても暮れても駈けずりまわっているお人よりも、町人でもお百姓でもようござんすから、あたしひとりを大事にしてくださる方に、しっくりかわいがってもらいたい……ただそれだけでございます」
「ううむ、見損(みそこな)ったかな――」
「ほほほ、そりゃアお互いさま」
「で、いかがいたせというのだ?」
「まず乾雲丸のことをフッツリお忘れなすって、それからその厳(いか)つい大小をさらりと捨てて、あたまも小粋に取りあげてさっぱりした縞物か何かでおもしろおかしく……」
「ぶるる、馬鹿ッ! 何を申す! 貴様、そ、それが本心かッ?」
「ほんしんでございますとも。あたしだってちったあ眼先が見えますよ。あなたは、あの弥生さまとごいっしょにおなりなさりたくても、お刀がなければ押しかけ婿にもいかれないので、あれがお手にはいるまで、あたしってものをこうしてだしに使っていて、刀を取るが早いか、あたしを棄ててその刀を引出物(ひきでもの)に弥生さまのところへ納まろうというんでございましょう? そんなこと、こちらは先刻(せんこく)御承知でございますよ。ほほほ」
「お艶!――キ、貴様、気がふれたナ! 夜泣きの刀の分離も、もとはと言えば拙者から起こったこと。されば丹下左膳より乾雲丸を奪還し、この坤竜とともどもに小野塚家の当主(とうしゅ)弥生殿の前にそろえて出すのは、弥生どの……というよりも、左膳の刃におたおれになった鉄斎先生への何よりの供養(くよう)――義理だ、つとめじゃ! 人間としての男としての……」
「あウあア!――おや、ごめんなさい。あくびなんかして」
「チッ! 拙者の心底は百も千も知っておるくせに、何かにつけ言いがかりをつけおって……女子と小人は養い難し。見さげはてた奴めがッ!」
「よしてくださいッ! もうあきあき!」
「なに? なんだと?」
「そんな御託宣(ごたくせん)はたくさんでございますよ。耳にたこができております」
「またかかることは、拙者の口から申したくはないが、拙者が亡師の意にそむき弥生どのに嘆きをかけて今また鳥越の兄者人(あにじゃひと)を怒らせて、かような陋巷(ろうこう)に身をおとしおるのも……」
「おッと! みんなあたしのためとおっしゃりたいんでございましょう? お気の毒さま。そのあたまがおありだから、あたしよりも刀がかわいいのに不思議はございませんとも――もう何も伺いたくはございません!」
「なんたる下卑(げび)た言いぐさ! うん、なんたる低劣な……」
「ほほほほ、なんですよ今ごろ、これが三社前の姐さん、当り矢のお艶の懸値(かけね)のないところ。地金(じがね)をごらんなすったら、愛想もこそも尽きましたろうねえ」
「よくも……」
「なんですよ。そんな張(は)り子(こ)の虎みたいに――みっともないじゃアありませんか」
「よくも、よくも今まで猫をかぶっておったなッ!」
「お坊っちゃん、お気がつかれましたか。オホホホ。でもね、これでもお艶でなくちゃアっておっしゃってくださるお方もございますからね。世の中はよくしたもので、まんざらでもないとみえますよ」
「だッ……だまされたのだッ! ちえッ!」
「近いところじゃ、鈴川の殿様なんか、あたしでなくちゃア夜も日も明けませんのさ」
「な、何イ? す、鈴川源十郎かッ!」

「鈴川源十郎……とは、あの鈴川源十郎かッ?」
 栄三郎が、こうどなるようにいってにらみつけると、お艶は、おちょぼ口に手を当ててあでやかに笑った。
「ええ、鈴川の殿様に二つはないでございませんか。本所の法恩寺まえのお旗本――」
 いいかけたお艶の言葉は、中途で無残に吹っ飛んでしまった。おわるを待たず、栄三郎の腕がむんずと伸びて来て、お艶の襟髪をとったかと思うと、力にまかせてそこへ引き倒したからだ。
「お艶ッ!」
 片膝を立てて、しっかとお艶をおさえつけた栄三郎の声は、かなしい怒りに曇り、眼は惨涙(さんるい)を宿して早くもうるんでいた。
「お艶、……貴様に、本所の鈴川が執心(しゅうしん)のことは、拙者も以前から承知しておったが、拙者の妻たる貴様が、かれごときに幾分なりとも心を許そうとは、お、おれは、今のいままで夢にも思わなかったぞッ!」
「――」
 白い頬もくだけよとばかり、顔を畳にこすりつけられて、お艶は声も出ない。
「し、しかるに、黙って聞いておれば、かの鈴川が懸想(けそう)いたしおることを良人(おっと)の拙者のまえをもはばからず鼻高々と誇りがましきいまのことば……お艶ッ! 貴様、なんだな、先日本所の屋敷に幽閉(ゆうへい)されおった際に――」
 嫉火(しっか)と情炎にもつれる栄三郎の舌、その切々たる声を耳にして、お艶は半ばうっとりとされるがままに畳に片面を当てて小突かれていたが……。
 大粒な泪がひとつ、ほろりと眼がしらを離れて、長い睫毛(まつげ)を濡らしながら、見るみる頬を伝わって陽にやけたたたみの表へ吸われていった。一すじ白い光のあとを引いて。
 と、その時。
 貴様! なんだな、先日本所の屋敷に幽閉されおった際に――と語尾(ごび)をにごした栄三郎の言を聞くと!
 しんからたけりたったらしいお艶、髪を乱し、胸をはだけて、やにわにはね起きようと試みたが、栄三郎の腕にぐっと力がはいると、ひとたまりもなくそのまま元の姿勢に戻されて、かわりに、なみだにかすれる声を振りしぼった。
「あたしが鈴川の殿様となんぞ……とでもおっしゃるんですか? あんまりなんぼなんでも、あんまりですッ! そ、そればかりは、いくらあなた様でも聞き捨てになりません! 離してください。な、何を証拠にそんな、そんな……いいえ、はっきりと伺いましょう。後生ですから手をはなして――」
 と、今はもう女の身のたしなみもなく、心からのくやしさに狂いもだえるのを、栄三郎はなおものしかかるように膝下にひきつけて、
「エエイ黙れッ! このごろの貴様が赤裸々(せきらら)の貴様なら、源十郎はおろか、だれとねんごろになろうとも栄三郎はすこしも驚かぬぞッ! ナ、なんたる……ウヌッ! なんたる淫婦(いんぷ)――!」
「ま、待ってくださいッ!」
「姦婦(かんぷ)! 妖婦! 毒婦!」
 熱涙ぼうだとしてとどめもあえぬ栄三郎は、一つずつ区切ってうめきながら、はふり落ちる泪とともに、哀恋の拳が霰(あられ)のようにお艶のうえにくだった。
 愛する者を、愛するがゆえに打たずにはおかれぬくるしさ……。
 よしや振りあげた刹那はいかにいきおいこんでいようとも、その手は、ふりおろす途中に力を失ってお艶の身に触れる時は、おのずから撫(な)でるがごとくであった。
 弾(はじ)き返ったお艶は、栄三郎の手を逃れて柱の根へ飛びさがった。
「何も、あたしをチヤホヤしてくださる方は、鈴川の殿様ばかりとはかぎりません。鍛冶屋の富五郎さんだって、それから当り矢の店へ来てくだすった大店(おおだな)の若旦那やなんか……」
「すべたッ! まだ言うかッ!」
 一声おめいた時、栄三郎の手はわれ知らず柄頭(つかがしら)にかかっていた。
 と見て、お艶は蒼白く笑った。
「ほほほ、このあたしをお斬りになる気でございますか。まあ、おもしろい――けれどねえ、お艶にごひいき筋が多うござんすから、あとでどんな苦情が出るかも知れませんよ」
「…………!」
 無言のうちに、しずかに鞘走らせた武蔵太郎を、栄三郎はっと振りかぶったと見るまに、泣くような気合いの声とともに、氷刃、殺風を生じて、突! 深くお艶の肩を打った。
 ウウウム――!
 と歯を食いしばったお艶、しなやかな胴を一瞬くねらせて、たたみを掻いてうつぶしたのだった。
 が!
 峰打ちだった。
 と、お艶はすぐに、痛みに顔をしかめただけで起きあがろうとしたが、栄三郎はもう武蔵太郎をピタリと鞘に納めて、両手を腰に立ちはだかったまま凝然(じっ)とお艶を見おろしていた。
 その眼……!
 おお、その眼は、人間の愛欲憎念をここにひとつに集めたような、言辞に尽(つ)きた情を宿して、あやしい光に濡れそぼれていた、泣くような――と見れば、笑うような。
 暫時(しばし)の沈黙のうちに、男と女の瞳が互いにその奥底の深意を読もうとあせって、はげしく絡みあい、音をたてんばかりにきしんだ。
 口を開いたのは栄三郎だった。
「お艶! あれほど固く誓い、また今日というきょうまで信じきっておったお前が、かくも汚れた女子であろうとは拙者には思えぬ。いや、どうあっても思いたくないのだ。しかし――」
「…………?」
 いいよどんだ栄三郎を見あげたお艶の顔に、ちらと身も世もあらぬ悲しい色が走ったが、栄三郎が気のつくさきに、それはすぐに不敵なほほえみに消されてお艶は、無言の揶揄(やゆ)であとをうながした。
「…………?」
「しかし、お前という人柄がきょうこのごろのように豹変(ひょうへん)した以上は、拙者としては嫌でもお前の変心を認めざるを得ない。さて、人のこころは水のごときもの、ひとたび流れ去っては百の嘆訴(たんそ)、千の説法ももとへ返すべくはないな、そうであろう? これ、泣いているのか、いまさら何を泣くのだ?」
「はい……いいえ」
「拙者もさとったよ、ははははは、いや、いったんこうはっきりお前の心がおれを離れたとわかってみれば、拙者も男、いたずらにたましいの抜けた残骸(ざんがい)を抱いて快しとはせぬ。そこで、ものは相談だが、きょうかぎりキッパリと別れようではないか」
 いいながら、返答いかに? と思わず栄三郎、口ではとにかく、まだたっぷりと未練(みれん)があるものか、あきらかに弱い不安を面いっぱいにみなぎらせて中腰にのぞきこんだとき、
「す、すみません」
 と口ごもったお艶の声に、まさか……と幾分の望みをかけていた栄三郎は、ややッ! と驚愕にのけぞると同時に、あきらめきれぬ新しい慕念がグッと胸さきにこみあげてきて、
「そうか」
 破裂を包んだ低声。
 見せじとつとめる涙が、われにもなくにじみ出てきて――。
 ワッ! とお艶はそこへ哭(な)き伏した。
「お世話に……」
「なに?」
「お世話になりましたことは、お艶は死んでも忘れません」
「フン! 吐(ぬ)かしおる」
 栄三郎はすでに平静にかえっていた。
 大刀武蔵太郎安国のこじりに帯をさぐって、坤竜と脇差と番(つがい)にスッポリと落とし差したかれは、刀の重みを受けて刀にゆるむ帯を軽くゆすりあげたのち、ちょっと大小の据わりをなおして、ゆらりと土間におり立った。
 片手に浪人笠。
 履物を突っかける……と、ブラリそのまま格子戸をくぐり出ようとした。
「あなたッ! 栄三郎様ッ」
 お艶の声が必死に追いかける。が、彼は振りむきもせずに、
「達者(たっしゃ)に――」
「え? もう一度お顔をッ!」
 悲涙にむせんだお艶、前を乱した白い膝がしらに畳をきざんで、両手を空に上り框(がまち)までよろめき出ると、
「えいッ! 達者に暮らせ!」
 一声……ピシャリ! 格子がしまって、男の姿がちらりと陽ざしをさえぎったと思うまもなく、あがり口に泣き崩れたお艶は、露地の溝板(どぶいた)を踏んでゆく栄三郎の跫音(あしおと)がだんだんと遠のくのを、夢のように聞かなければならなかった。
 夢? ほんとにほんとに夢。ながい夢! 泣きはらした眼を部屋へ返したお艶は、栄三郎の羽織がぬぎすててあるのを見ると、はっとして立ちあがった。
 まあ! お羽織なしにこの寒ぞらへ!
 もしや風邪(かぜ)でも召されては!
 と思うとお艶、装(なり)ふりかまっていられる場合ではない。ずっこけた帯のはしをちょいとはさむが早いか、泣き濡れた顔もそのままに羽織を小わきに家を走り出た。

 羽織をかかえて露地ぐちまで走り出てみたけれど、どっちへ行ったものか、栄三郎のすがたはもうそこらになかった。
 ひっそりとした往来のむこうを荷を積んだ馬の列が通り過ぎていった。
 しめっぼい冷たい空気が、町ぜんたいを押しつけている。
 ぼんやりたたずんでいるお艶へ、
「小母(おば)ちゃん、そのおべべを持ってどこイ行くの?」
 と長屋の子供が声をかけたが、お艶は耳にもはいらぬふうだった。
「やあ! 小母ちゃんが泣いてらあ! 泣いてらあ! やあい、おかちいなあ!」
 急に足もとから子供がはやしたてたので、お艶はハッとわれに返って羽織に顔を押し当てた。
「坊や、いい児だね。おばちゃんは泣いてなんかいないからね。さ、あっちへ行ってお遊び」
 子供はふしぎそうに振りかえりながら大通りを駈けぬけていった。
 お艶は、羽織の袖がひきずるのも知らずに片手にさげて、しょんぼりと家に帰った。
 あがってすわってはみたが……広くもない家ながら、栄三郎の出ていったあとはたまらなく淋しかった。孤独の思いがしいんと胸に食いいってくる。
「栄三郎さま」
 呼んでみても聞こえようはずはない。かえってわれとわが低声(こごえ)に驚いて、お艶はあたりを見まわしたが、夢中でつまぐっている膝の栄三郎の羽織に気がつくと、こんどはしんみりとひとりごとをはじめた。
 ひとりごと? ではない。彼女は羽織を相手に話しているのだった。
「申しわけございません。おこころに曇りのない正直一徹のあなた様をあんなにおこらせ申して、それもこれも夜泣きの刀のため、おかわいそうな弥生さまのおためとは言いながら、思えば、お艶も罪の深い女でございます」
 言葉はいつしかすすり泣きに変わっていた。
「けれども、こうやっていましたのでは、いつになったら埓(らち)のあきますことやら……所詮(しょせん)わたし故(ゆえ)にあなた様をこのままおちぶらせるようなもの――なにとぞお艶をお捨てなされて、存分にお働きくださいまし。一日も早く乾雲丸をお手におさめて弥生様と、弥生さまと――」
 つっぷしたお艶、羽織を揉(も)みながらなみだのあいだからかきくどいた。
「それがお艶の一生のお願いでございますッ! でも……でも、こんなにまでして、心にもないふしだらを並べてお怒りを買わねばならなかったお艶のしん中もすこしはお察しくださいまし。あとで何もかもわかりますから、そうしたらたったひとこと不憫(ふびん)なやつと――栄三郎様ッ! 泣いてやって、泣いてやって……」
 気も狂わんばかりにもだえたお艶は、ガバッと畳に倒れて羽織を抱きしめた。
 別れともなくして別れた男の移り香が、羽織に埋めたお艶の鼻をうっすらとかすめる。
 それがまた新しい泪をさそって、お艶はオオオオウッ! とあたりかまわず大声に泣き放ったが、折りよくいつのまにか隣家に近所の子供が集まって、キャッキャッと笑いながら遊びさわいでいたので、お艶はその物音にまぎれてこころゆくまで慟哭(どうこく)することができたのだった。
まわりまわりの小仏さん
まわりまわりの小仏さん
 となりのさざめきはつのるばかり――お艶も何がなしに幼い気もちに立ち返って小娘のように泣き濡れていた。
 出て行った栄三郎の涙と、残っているお艶のなみだと――。
 父は早く禄を離れて江戸の陋巷(ろうこう)にさまよい、またその父を失ってから母とも別れて、あらゆる浮き世の苦労をなめつくしたお艶にとっては、義理の二字ほど重いものはないのだった。刀の分離といい弥生の悲嘆といい、すべては栄三郎が自分を想ってくださることから――こう考えるとお艶は、おのが恋を捨てても! と一図(ず)に決して、さてこそあの、裏で手を合わせて表に毒づくあいそづかし……お艶も江戸の女であった。
 何刻かたった。
 お艶はじっと動かない。
 眠っているのだ。
 泣きくたびれて、いつしかスヤスヤと転寝(うたたね)におちたお艶、栄三郎がいれば小掻巻(こかいまき)一つでも掛けてやろうものを。
まわりまわりの小仏さん
まわりまわりの小仏さん
 隣では子供が遊戯(あそび)にふけっている。
 と、がらりと格子があいて、ひさしぶりに天下の乞食先生蒲生泰軒のだみ声だ。
「わっはっはっはっは! こりゃ、敷居が高い、御無沙汰(ごぶさた)、御無沙汰!」
 びっくりはね起きたお艶の頬にたたみのあとが赤くついていた。

   まんじ巴(ともえ)

 その夜。
 どこをどう歩きまわったものか、栄三郎は頭から肩まで白いものを積もらせて瓦町の家へ帰って来た。いつのまにか雪になっていたのだ。あやうく、
「お艶、いま戻ったぞ」
 と口から出そうになるのをおさえて、身体の雪を払ってあがると……まっくら。
 かじかんだ手で火打ちを擦(す)る。
 ポウッと薄黄色の灯心(とうしん)の光が闇黒ににじんで、珍しく取り片づいた部屋のありさまが栄三郎の眼にうつった。
 お艶はいない。
 二、三枚の着物や髪の道具をまとめて、あわてて家を出ていったことがわかる。女気のない部屋はどこにも赤い色彩(いろどり)を失って、雪夜ひとしおの寒さが栄三郎の骨にしみる。
 が、かれはもう悲しんではいなかった。
「出てうせたか――汚れきった女め――あれほどとは思わなかった――」
 と、吐きだすようにつぶやきながら、何か書置きでも? とジロリそこらを見まわす。
 何もない。
 もはやフッツリと未練をたった栄三郎、
「これあるのみだ」
 正座して坤竜丸を取りあげた。
 平糸巻(ひらいとま)きの鞘――上り竜を彫った赤銅のつか。
「ひき寄せてくれ、乾雲丸をひきよせてくれ」
 呪文(じゅもん)のように言ったかと思うと、ふうっと長く息を吹いた。
 自暴酒(やけざけ)でもあるまいが、若い栄三郎、どこでのんだかすこし酔っている。
「あんな女! かえってよいわ。かくなるように最初から決まっていたのだ! よウシ! このうえはただ精根のかぎり立ち働いて乾雲を取り戻すぞ! そうだ。やる! あくまでやる」
 愁灯(しゅうとう)のもと、強い決意に眼を輝かせて、栄三郎はしずかに坤竜の柄をなでた。
「――待っておれ。いまに乾雲を奪って、いっしょにして進ぜる。汝もつがいが破られたが、拙者も彼女に別れたひとり者同士、ははははは、けっく気やすだなあ」
 悵然(ちょうぜん)と腕をこまねいていたが、突如、畳を蹴って躍りたつと、手にはもう明皓々(めいこうこう)たる武蔵太郎の鞘を走らせて。
 刃光らんらんとして一抹の冷気!
「おのれ、丹下左膳!」
 とジリリ青眼につけて一隅へ迫ったが、あるものは壁に倒れた己(おの)が影ばかり……いとしい女に去られて気がふれたか諏訪栄三郎、あらず! こみあげて来たとっさの闘意をもてあまして、かれはその場に左膳を仮想し、ひとり刀を擬しているのだ。
「やよ左膳! なんじ一書を寄せて乾雲丸を火事装束の五人組に奪われたと申し出たが、不肖(ふしょう)栄三郎といえどもかかるそらごとは真に受けぬぞ! 小策を弄(ろう)す奸物めッ! いずれそのうち参上してつるぎにかけて申し受くるからさよう心得ろ――はっはははは」
 からからと笑いながら刀身を鞘へ……
 が! この時!
 この栄三郎のにわかの抜刀を、裏口のすきからのぞいて、ビックリあわてた黒い影があったのを栄三郎は知らなかった。
 雪に紛れて忍び寄った一人の女が、さっきから勝手の障子にはりついて、そっと家内をうかがっていたのだ。
 だれ? と見なおすまでもない。
 夜眼にも知れる粋すがたは、道行きめかした手拭をかぶった櫛まきお藤。
 急の剣閃(けんせん)におどろいて一時戸を離れたのが、相手なしの見得(みえ)と知ると、またコッソリ水口に帰ってきて、呼吸を殺して隙(すき)見している。
 しんしんと音もなく積もる雪。
 江戸に、その冬はじめて雪の降った夜だった。
 栄三郎は、床を敷いて夜着をかぶった。
 モウ――ンとこもって、どこか遠くで刻を知らせる鐘の音。
「四つか」
 思うまい――としても、まぶたの裏に花のように咲くのは、出ていったお艶の顔だ。
 この降雪(ゆき)に、どこにいることか――当り矢のころからのことが走馬灯(そうまとう)のように一瞬、栄三郎の脳裡(のうり)をかすめる。
 きょう留守のあいだに泰軒がきて、お艶からそのふかい真意を明かされ、何か考えるところのあるものか、しばし思案ののち快くお艶の身がらを引き受けて、つれだって家を出て行ったことは、栄三郎は知る由もなかった。
 まして、お艶と泰軒のあいだにどんな話しあいがあったやら、――そして泰軒はお艶をいずくへ伴い去ったことか?
 ……栄三郎は眠りに落ちた。疲れきって、こんこんと深い熟睡(うまい)に。
 深更(しんこう)。
 ホトホトとおもての格子が鳴って、何者か女の声が……。
「栄三郎さま、もし、栄三郎様――」
 うら口では、櫛まきお藤がキッと身をかまえた。

「栄三郎様……栄三郎さん!」
 忘れようとして忘れることのできない女の声――それが夜更けをはばかって低く、とぎれがちに、眠っている栄三郎の耳に通う。
 コトコト、コトコトと戸外から格子をたたいているらしい。
 栄三郎ははじめ夢心地に聞いていた。
 が、
「栄三郎様!」
 という一声に、もしやお艶が帰って来たのではないかと思うと、もうあんな女にフツフツ用はないと諦めたはずの栄三郎、心の底に自分でもどうすることもできない未練がわだかまっていたのか……。パッと夜着を蹴ってはね起きるより早く、転ぶがごとく土間口に立って、
「お、お艶か!」
 戸を引きあける――とたんに、ゴウッ――と露路を渡る吹雪風。
 まんじ巴(ともえ)と闇夜におどる六つの花びらだ。
 その風にあおられて、白い被衣(かつぎ)をかぶったと見える女の立ち姿が……。
 雪女郎?
 ――と栄三郎が眼をこすっているあいだに、女は、戸口を漏(も)れる光線(ひかり)のなかへはいってきた。
「お艶……ではないナ。誰だッ?」
「わたしですよ、栄三郎さん」
 いわれて見ればなるほどお艶の母おさよ、鈴川の屋敷をぬけ出てきたままのいでたちで、掘り出した乾雲丸の刀包みであろう。細長い物を重たそうにかかえている。
「おさよでございますよ。はい、夜分おそく――おやすみのところをお起こし申してすみませんでしたね。あの、お艶は?」
 と、きかれた栄三郎、
「なんの」といいかけたが、母御とも呼べず。それかといっておさよ殿も変なものだし、「いや、お艶については、あなたともよく談合いたしたい儀がござる。それにしても、夜中かかる雪のなかをわざわざのお出まし、なんぞ急な御用でも出来(しゅったい)しましたか」
「オオ寒(さむ)!」とおさよは雪をふるい落として、「まあ入れてくださいましよ。お艶が何をいたしたか存じませんが、わたしのほうにもあれのことで折り入ってお話がございましてねえ……それはそうとおさよはいいお土産(みやげ)を持って参りましたよ。どんなにあなたがお喜びになることか。ほほほほ、でかしたと! ほめてやって下さいまし」
 ひとりでしゃべりながら土間へはいってくる。
 母娘とはいいながら、こんなに声が似ているものか! これでは自分がお艶と間違えて飛び起きたのも無理はない――と栄三郎、たたく水鶏(くいな)についだまされて……の形で、思わず苦笑を浮かべながら、
「さあ、おあがりください」
 と、自ら先に立ったが――
 これよりさき!
 栄三郎が格子戸をあけにいったあと。
 ソゥッと音のしないように台所の障子をひいて、水口から顔を出したのは、宵の口から裏に忍んでいた櫛まきお藤であった。

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:759 KB

担当:undef