丹下左膳
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著者名:林不忘 

 おさよのおさまりように胆をつぶし、狐(きつね)につままれたような心持で、家主喜左衛門と鍛冶富が帰っていったあとの、化物屋敷の奥の一間。
 源十郎は、何か物思いに沈みながら、体(からだ)についたごみの一つ一つをつかんでいると、おさよの茶をすする音が、その瞬間の部屋を占めた。
「さて、おさよどの」と源十郎は、思いきったように、しおらしく膝を進めて、「今もかの町人どもに申し聞かせたとおり、わしはそこもとを他人とは思わぬ。なくなった母にそっくりなのみか、恥を言わねばわからぬが、拙者も母の生存中は心配ばかりかけたもの――いや、存命中にもう少し孝行をしておけばよかったと、これは愚痴(ぐち)じゃが、いま考えても、あとの祭りだ。そこでなあ、おさよどの、亡母(はは)によく似ている年とったそこもとをよく労(いたわ)って進ぜたなら、草葉のかげで母もさぞかし喜ぶであろうとこう思うによって、これからはそこもとを実の母同様に扱うから、そちも、何か拙者に眼にあまることがあったら違慮(えんりょ)なく叱言(こごと)をいってもらいたい」
 口巧者(こうしゃ)な源十郎、一気にこれだけしゃべって、チラリとおさよの顔を盗み見ると、おさよは今までにも、すっかり食わされているから、この源十郎の深謀を知る由もなく、もうすっかりその母親、五百石の女隠居になった気で、この時もせいぜい淑(しと)やかに軽く頭をさげただけだ。
「いいえもう殿様、それはわたくしからこそ……」と、有頂天(うちょうてん)に近い挨拶である。
 第一段のはかりごと。
 わがこと半ばなれり矣、と源十郎は、真正面に肩をはって、今日はちと改まった話がござる――という顔つき。
「おさよどの、そこでじゃ……」
 源十郎、がらになくかたくなっている。
「はい」
「そこでじゃ、そこもとの身の上ばなしも、委細(いさい)承(うけたまわ)ったが、養子というものは、いわばまあ、富くじみたよう――当たらぬことには、これほどつまらぬ話はない。近い例が、その御身じゃ。年をとって、こうして下女奉公をするのも、いってみればお艶どのの男が甲斐性(かいしょう)のない証拠。な、おさよどのそうではござらぬかな」
「はい」
「ところで、ものは相談じゃが、どうだな、おさよどの、娘御を生涯おれの側女(そばめ)にくれる気はないかな」と、のぞきこむように、下から見あげて、源十郎、あわててつけ加えた。「いや、側女と申したとてそれは表面、内実は五百石の奥方、そこもとはとりもなおさず、そのお腹さま――いかがのものであろうな?」
「はい、まことにそうなれば……」
「ふむ、そうなれば?」
「そうなりますれば、わたしばかりか娘にとってこの上ない出世――ではござりますが、しかし……」
「しかし――なんじゃ?」
「はい。しかし、諏訪(すわ)栄三郎と申しますものが」
「うむ。存じておる。だが、諏訪氏は諏訪氏として」
「でも、栄三郎様もお艶ゆえに実家を勘当(かんどう)されている身でございますから、この際、離縁(りえん)をとりますには、いくらかねえ……でないと、お話が届きますまいと存じますよ」
 源十郎はぐっと反身(そりみ)になって、
「手切(てぎ)れ金か、いやもっとも。話は早いがいい。どのくらいで諏訪氏その離縁状を出すだろうの?」
「さようでございます。まとまったお金は五十両一度におもらい申したことがありますが、お兄上様とおもしろくなくなったのはそれからでございますから、今五十両渡しましたら、栄三郎様もお艶と手を切って……」
 あのいつかの五十金、駒形の寺内でつづみの与吉を使って一時手に入れたのを、そばからすぐに泰軒に取り戻された金子(きんす)のことを思いうかべて、源十郎は含み笑いを殺しながら、
「よし、わかった。そんならその金は拙者が引き受けて才覚(さいかく)いたす。それはよいが、掛け合いには誰が参る?」
「それはあの、だれかれと申さずに私が参りましょう」
「そうか、では、何分よろしく頼む」
 と、源十郎が、ぴょこりと辞儀(じぎ)をしたその耳もとへ、おさよはすばやく口を持っていって、
「それからあの、栄三郎が命がけでほしがっているものが――」
「うむ、うむ! か、刀であろうが? なれど、おさよどの、あれは、あれは左膳が……」
「ですけれど殿様」
 にじり寄ったおさよが、何事か源十郎にささやいたが、その咽喉仏(のどぼとけ)が上下に動き終わった時、鈴川源十郎、思わずアッと驚愕(きょうがく)した――とたんに!
 ぬっと障子に人影がさして怪物丹下左膳のしゃがれ声。
「おいッ! 源十ッ! 八丁堀が参った。また一つ、剣の舞いだぜ」
 と! うわあッ! というおめきが屋敷の四囲に!
 御用ッ!
 御用ッ! 御用ッ!
 と声々がドッとわき起こるのを耳にした鈴川源十郎が、障子を蹴開いた面前に、独眼隻腕の丹下左膳、乾雲丸は火事装束の五人組に奪い去られたとあって、普通の大小(だいしょう)だが、左剣手だけに右腰にぐっと落とし差しのまま、かた手を使ってその上から器用に帯を結びなおしているところ。
 縁の上下に、源十郎と左膳、さぐるがごとき眼を見合ってしばし無言がつづいた。
 山雨(さんう)まさに到らんとして、風(かぜ)楼(ろう)に満つ。
 左膳は、
 何ごとか戸外にあわただしいようすを感じて、そっと離室を忍び出た拍子に、ちらと垣根のむこうに動く捕吏(とりて)の白襷(だすき)を見つけたので、そのまま、塀からそとの往来に突き出ている欅(けやき)の大木に猿のごとくスルスルとよじのぼって下をうかがうと……。
 陽にきらめいて寄せて来る十手の浪。
 地をなでて近づく御用の風。
 さてはッ! 逆袈裟(ぎゃくけさ)がけ辻斬りの一件がばれたなッ! と思うより早く、剣鬼左膳のあたまを掠(かす)めたのは、そも何者が訴人(そにん)をしてかくも捕り手のむれをさしむけたのか?――という疑惑(ぎわく)とふしぎ感だったが、そんな穿鑿(せんさく)よりも刻下(いま)は身をもってこの縦横無尽に張り渡された捕縄(ほじょう)の網を切り破るのが第一、と気がつくと同時に長身の左膳、もう塀外へ降りても途(みち)はないから、左手に老幹(ろうかん)を抱いて庭にずり落ちざま、ただちに、源十郎がおさよと差し向いでいるこの座敷のそとへ飛んで来たのだった。
 刀痕(とうこん)の深い左膳の蒼顔(そうがん)、はや生き血の香をかぐもののごとく、ニッと白い歯を見せた。
「来たぞ源的!」
「上役人か。斬るのもいいが。あとが厄介(やっかい)だ」
「と言って、やむを得ん」
「うむ、やむを得ん」
 いう間も、多数の足音が四辺に迫って、剣妖(けんよう)左膳、パッと片肌ぬぐが早いか、側の女物の下着が色彩(いろ)あざやかに、左指にプッツリ! 魔刀乾雲ではないが鯉口押しひろげた。
 と!
 背後の樹間の人の姿が動いたと見るや、ピュウ……ッ!
 と空をきって飛来した手練の鉤縄(かぎなわ)、生(せい)あるもののように競(きそ)い立って、あわや左膳の頸へ! 触れたもほんの一瞬、銀流(ぎんりゅう)ななめに跳ねあがって小蛇とまつわる縄を中断したかと思うと、縄は低宙を突んざいていたずらに長く浪をうった。
 同時に。
 はずみをくらった投げ手が、なわ尻を取ったまま二足三あし、ひかれるようにのめり出てくる……ところを!
 電落した左膳の長剣に、ガジッ! と声あり、そぎとられた頭骸骨(ずがいこつ)の一片が、転々と地をはった。脳漿(のうしょう)草に散って、まるで髻(たぶさ)をつけたお椀を抛(ほう)り出しでもしたよう――。
 サッ! としたたか返り血を浴びた左膳、
「ペッ! ベラ棒に臭えや」
 と、左手の甲で口辺をぬぐった時、
「神妙にいたせッ!」
 大喝、おなじく捕役のひとり、土を蹴って躍りかかると、刹那(せつな)に腰をおとした左膳は、
「こ、こいつもかッ!」
 一声呻いたのが気合い、転じてその深胴(ふかどう)へザクッ! と刃を入れた。
 ――と見るより、再転した左膳、おりから、横あいに明閃(めいせん)した十手の主(ぬし)へ、あっというまに諸(もろ)手づきの早業、刀身の半ばまで胸板に埋めておいて、片脚あげて抜き倒すとともに、三転――四転、また五転、剣体一個に化して怪刃のおもむくところ血けむりこれに従い、ここに剣妖丹下左膳、白日下の独擅場(どくせんじょう)に武技入神の域を展開しはじめた。
 が、寄せ手の数は多い。
 蟻群の甘きにつくがごとく、投網(とあみ)の口をしめるように、手に手に銀磨き自慢の十手をひらめかして、詰(つめ)るかと見れば浮き立ち、退(しりぞ)くと思わせてつけ入り……朱総(しゅぶさ)紫総(しぶさ)を季(とき)ならぬ花と咲かせて。
「うぬウッ!」
 と左膳は、動発自在の下段につけて、隻眼を八方にくばるばかり……重囲脱出(じゅういだっしゅつ)の道を求めているのだ。
 暮れをいそぐ冬の陽脚。
 そして、夕月。
 樹も家も人の顔も、ただ血のように赤い夕映えの一刻に、うすれゆく日光にまじって、月はまだひかりを添えていなかった。
 刃火のほのおと燃えて天に冲(ちゅう)するところ、なんの鳥か、一羽寒ざむと鳴いて屋根を離れた。
 縁側に立って、うっとりこの力戦を眺めている源十郎は、剣香(けんこう)に酔って抜くことも忘れたものか――いわんや、おさよ婆さんなぜか足音をぬすんで、とうの昔にその座敷をまぎれ出ていたことには、かれはすこしも気がつかなかった。

 上役人に刃向かって左膳を救い出すか……それとも、友を見棄てておのれの安穏(あんのん)を全うすべきか?
 この二途に迷いながら、ひとつにはただぼんやりと、いま庭前に繰りひろげられてゆく剣豪決死の血の絵巻物に見とれている源十郎。
 かれは片手に大刀をさげ、片手で縁の柱をなでて左膳の剣が捕吏(とりて)の新血に染まるごとに、
「ひとウつ! ふたアツ! それッ! 三つだ! 三つだアッ! ほい! 四つッ!」と源十郎、子供が、木から落ちる栗でも数えるように指を突き出しては喜んでいると!
 西から東へ、一刷(は)け引いた帯のような夕焼けの雲の下に。
 その真っ赤な残光を庭一面に蹴散らし、踏み乱して、地に躍る細長い影とともに、剣妖丹下左膳、いまし奮迅(ふんじん)のはたらきを示している。
「汝等(うぬら)ア! 来いッ! かたまって来い! ちくしょう……ッ!」
 築山の中腹に血達磨(ちだるま)のごとき姿をさらして、左膳は、左剣を大上段に火を吹くような隻眼で左右を睥睨(へいげい)した。
 迫る暮色。
 暗くなっては敵を逸(いっ)する懼(おそ)れがあるので、一時も早く絡(から)め捕ってしまおうと、御用の勢は、各自手慣れの十手を円形につき突けて――さて、駈けあがろうとはあせるものの、高処(こうしょ)の左剣、いつどこに墜落(ついらく)しようも知れぬとあって、いずれも二の足、三の足を踏むばかり……この間に、石火の剣闘にみだれかけた左膳の呼吸も平常に復して、肩もしずかに、ぴったりと不動のかまえに入っている――。
 と見て、捕り手を率いる同心とおぼしき頭だったひとりが、半弧(はんこ)のうしろから大声に叱呼(しっこ)した。
「やいッ! 丹下左膳とやら。旧冬(きゅうとう)来お膝下を騒がせおった辻斬りの下手人がなんじであることは、もはやお上においては百も承知であるぞッ! これ、なんじも剣の妙手ならば、すみやかに機をさとり、その遁(のが)れられぬを観じて神妙にお縄をちょうだいしたらどうだッ! この期(ご)におよんで無益の腕立ては、なんじの罪科(ざいか)を重らすのみだぞッ!」
 あお白い左膳の顔が、声の来るほうへ微笑した。
「なんだ、辻斬りがどうしたと? いってえ誰が訴人をして、おれのいどころが知れたのか、それを言えッ、それをッ!」
 と低い冷たい声を口の隅から押し出した。
 捕役はなおも高びしゃに、
「さような儀、なんじに申し聞かすすじではないッ!」と一喝したが、思い返したものか、
「だが――」と声を落として、「なんじの相識(しりあい)……意外に近い者から出おったのだ」
 左膳の一眼が残忍(ざんにん)な光を増した。
「な、何ッ? そうか。な、おれは、友に売られたのかッ……うむ! おもしれえ! して、その、おれを訴えでた友達てえのは、どこのどいつだ? これを聞かしてくれ!」
 が、役人は左膳の言葉の終わるを待たず、
「ええイ! なんのかのと暇をとる。聞きたくば縄を打たれてからきけッ――それッ、一同かかれッ!」
 と、あとは、御用! 神妙にいたせ! と怒声がひとつにゆらいで渦を巻いたが、そのどよめきの切れ目から恨みにかすれる左膳の咽喉が哀願(あいがん)の声を振り絞っているのがかすかに聞こえた。
「おいッ! 情けだあッ! お、教えてくれ!――いッ! だ、だれがおれを裏切ったのか……そ、それを知らねえで不浄(ふじょう)縄にかかれるかッ? よ! 一言! よう! 名を言え、訴人の名を言えよ名をウ――!」
 が、役人どもは、すでに懸命の十手さばきにかたく口を結んで、こたえる気色(けしき)もいとまもない。雨と降り、風と吹きまくる御用十手の暴風雨のなかから、この時ふと左膳の眼についたのは、縁に立つて茫然自失の態(てい)で、この自分の難を眺めている鈴川源十郎のすがたであった。
 見るより左膳、たちまち脳裏(のうり)にひらめいたものあるごとく、
「や! 源十! こらッ源公! て、てめえだなッおれを訴えたのはッ!」
 おめきざま、乾雲丸ではないが、左膳の剣に一段の冴えが加わって、かれは即座に左右にまつわる捕り手の二、三をばらり――ズン! 薙伏(なぎふ)せたかと思うと、怨恨(えんこん)と復讐(ふくしゅう)にきらめく一眼を源十郎の上に走らせ、長駆(ちょうく)、地を踏みきって、むらがる十手の中を縁へ向かって疾駆(しっく)し来(きた)った。
 とたんに。
 ズウウウン! と一発、底うなりのする砲声が冬木立ちの枝をゆるがせて、屋敷のそとからとどろき渡った。

 本所化物屋敷の荒れ庭に、血沫(ちしぶき)をあげて逆巻(さかま)く十手の浪と左手の剣風……。
 奇刀乾雲丸は、不可解の一団に持ち去られたと称して手もとにないものの、剣狂左膳の技能は、あえて乾雲を俟(ま)たなくても自在に奔駆(ほんく)した。
 そうして。
 ひそかに自分を訴えでたのは、てっきりこの家のあるじ鈴川源十郎に相違ないと、ひとりぎめに確信した左膳が、今や、算を乱し影をまじえて、むらがる捕吏(ほり)を突破し、長駆一躍して、縁の源十郎へ殺到した刹那に!
 突(とつ)! 薄暮紺色の大気をついて一発炸然(さくぜん)と鳴りひびいたふところ鉄砲の音であった。
 やッ! 飛び道具の助勢!……と不意をうたれた驚愕の声が、捕吏の口を洩れて、一同、期せずして銃声の方を見やると――。
 南蛮渡来(なんばんとらい)の短筒(たんづつ)を擬した白い右手をまっすぐに伸ばして、その袖口を左手でおさえた女の立ち姿が、そろりそろりと庭の立ち木のあいだを近づいて来ていた。
 思いがけなくも櫛まきお藤である!
 それが、これもお尋ね者のお藤ッ! と気がついて捕吏の面々はあらたにいろめき渡ったのだが、お藤は、ゆっくりと歩を運んで、幹を小楯(こだて)に、ずらりと並ぶ捕役(とりやく)の列に砲口を向けまわして、
「さ、丹下様ッ! お早くッ!――お藤でございます。お迎いに参りました。ここはあたしがおさえておりますから、あなたはなにとぞ裏ぐちから……お藤もすぐにつづきますッ!」
 と叫ぶ甲(かん)高い声を聞いて、左膳は、何はともあれ脱出するのが目下の急務だから、依然(いぜん)縁さきに佇立(ちょりつ)する源十郎をしりめにかけて、
「やいッ、鈴源! おれあ手前に咬(か)まれようたあ思わなかったぞ!」
 源十郎は冷然と、
「ばかを申せ! 拙者が貴公を訴人したなどとは、徹頭徹尾(てっとうてつび)貴様の誤解だ! 邪推(じゃすい)じゃ!」
「だまれッ! いずれ探ればわかること。早晩(そうばん)この返報(しかえし)はするからそう思え」
「そうとも! いずれ探れば分明(はっきり)することだ――それより丹下、いまは一刻も早くこの場を……!」
「何をお利益(ため)ごかしに! おおきにお世話だッ!」
 左膳と源十郎、こうして短い会話(やりとり)をとりかわしながらも、
「お前さんたち、動くと撃(う)つよ!……この異人の玩具(おもちゃ)は気が早くてねえ、ほほほ」
 と突きつけるお藤の短筒に、捕吏の陣が、瞬間、気を抜かれてぽかんとしていると、左膳、一眼を皮肉に笑わせて、すばやくお藤のうしろにまわったが……。
 ポン! ポン! と裾を払い、衣紋(えもん)をなおしたかと思うと、べったり返り血に彩られたまま、やがて、さがりそめた夜のとばりに紛れて、ぶらりと裏門を出ていった。乾雲ではない別の大刀を、何事もなかったように落としざして。
 と、ただちに。
 お藤も、懐中(ふところ)鉄砲の先で、役人のまえに円をえがきながら、にっこと縁の源十郎に意味ふかい蒼白の笑みを投げておいて、あとずさりに木の間を縫って四、五間(けん)遠のくや、いなや、パッ! と身を躍らして左膳のあとを追った。
 みるみる去りゆく剣魔と女怪の二つの影。
 それッ! と激しい下知がくだって、捕吏の一団が小突きあいつつふたりの足跡を踏んだ時は、すでに塀のそとには人かげらしいものもなく、道路をはさむ畑に薄夜の靄気(あいき)がこめて、はるかの伏屋(ふせや)に夕餉(ゆうげ)のけむりが白く長くたなびくばかり――法恩寺橋のたもとに、宿なし犬が一匹、淡い宵月の面を望んで吠え立てていた。
 ……櫛まきお藤、そも左膳を助けだしてどこへ伴おうというのであろうか。
 そしてまた、あとに残った源十郎は?
 否! それよりもかのおさよはどこに――?
 たとえ乾坤二刀、夜泣きの刀のいきさつはなくとも、昨秋あけぼのの里の試合に勝って、当然じぶんのものと信じている弥生のこころが、当の剣敵諏訪栄三郎に傾(かたむ)きつくしていると知っては、丹下左膳の心中はなはだ穏かならぬものがあったことは言うまでもない。
 故(ゆえ)に。
 栄三郎に対する左膳の気もちは、つるぎに絡(から)む恋のうらみが多分に含まれていたのだが……。
 それはさておき。
 主君相馬大膳亮(そうまだいぜんのすけ)殿の秘旨(ひし)を帯びる左膳としては、ここにどう考えてもふしぎでならない一事があった。ほかでもない。それは、かの、栄三郎と泰軒が鈴川の屋敷に斬りこみをかけて、細雨に更(ふ)ける一夜を乱戟に明かし、ようやく暁(あかつき)におよばんとしたとき、まぼろしのごとく現われて、自分等のみならず栄三郎とも刃を合わせたのち、ほどなく東雲(しののめ)の巷(ちまた)に紛れさった五梃駕籠……火事装束の武士たちの正体、ならびにそのこころざしであった。
 かれらもまた乾坤二口(ふたふり)をひとつにせんがため! であることはあの時、交戦の隙(すき)に首領らしい老人が宣示(せんじ)したところによって明らかであるが、それが、怪しきことこのうえなしと言うべきは。
 そもそも……。
 左膳の密命に端を発して、はからずも、過般来(かはんらい)栄三郎と左膳の間に一大争奪戦が開始されていることは、局にあたる両者と、それをとりまく少数のもの以外、そして、世動運行をあやつる宿命の神のほかは、他に識(し)る者もないはずなのに!
 それだのに!
 火事装束の五人組は、最初からすべてを見守っていたもののように、雲竜一庭に会して二つ巴(どもえ)をえがいているその期をねらって、ああして忽然と現場に割りこんで来たのであった。
 剣の立つ逞(たくま)しい侍が五人一隊をなして、左膳からは乾雲丸を、栄三郎からは坤竜丸を取りあげんものと、虎視眈々(こしたんたん)と暗中に策動しつつあるに相違ないのだ。
 と仮りにきめたところで。
 さて、雲と竜との相ひく二剣を一所におさめ得たとしても、五人組はそれをいったいどうしようというのだろう?
 だが、こうなるとまた疑点(ぎてん)はあとへ戻って、この一団の目的を推測するためには、何よりもまず彼奴らの本体を知らねばならぬ。
 何者?
 あるいは何者の手先!
 ……と、いくら坐して首をひねったとて、左膳に見当のつきようはなかったが、いままでも栄三郎の太刀風なかなかに鋭く、かつ真剣の修羅場(しゅらば)を経(へ)てその上達もことのほか早く、おまけに蒲生泰軒(がもうたいけん)という鬼に金棒までついているので、左膳の乾雲、そうそうたやすくは栄三郎の坤竜を呼ぶことあたわずそのうえに、助力の約をむすんである鈴川源十郎なるものが、平素の性行から観て今後頼みにならないことおびただしい――そこへ、疾風のように出現したのがあの五人組の怪士連だ。
 そこで左膳も、しばしば刀を措(お)いて熟考せねばならぬこととなって、これはかの斬りこみ直後のある日だったが、隻腕につるぎを扼(やく)するほかあまり頭の内部を働かしたことのない左膳、すっかり困惑しきって、ちょうどその草廬(そうろ)に腰をおろして駄弁をろうしていたつづみの与吉へ、
「なあおい、与の公」
「へえ。さようで」
「ウフッ! 何がさようだ? まだ、なにも申さぬではないか」
「あッそうだった。けれど殿様、あのこってげしょう……例の、ほら、火消し仕度のお侍(さむれえ)さ。ねえ! 金的(きんてき)だ。当たりやしたろうこいつア――」
「うむ! いかさま的中(てきちゅう)いたした。貴様、読心の術を心得おると見えるな」
「へっへ。御冗談。そんなシチ難(むずか)しいこたあ知りませんがね。どうしたもんでごわしょう、この件は」
「サ、それだ。どうしたものであろうな」
 と相談しあっているうちに、打てばひびく、たたけば応ずる鼓(つづみ)の異名(いみょう)をとっているだけに、いささか小才のきく与吉、どう捏(こ)ねまわして何を思いついたものか、二こと三ことささやくと、左膳はたちまち与吉の進言をいれて、隻眼によろこびの色をうかべながら会心の小膝を打った。
 いずれ事成ったのちに相応の賞を与えようと誓(ちか)ったのであろうが、ふたりはなおも密談(みつだん)数刻ののち、とうとう議一つに決してただちに実行に着手したのだった。
 これは、あの大岡越前守忠相が浅草の歳の市にあらわれて、栄三郎へあてた左膳の書面を手に入れた数日前のこと……つまり、まだ年のあらたまらないうちであった。
 で、そのつづみの与の公一代の悪智恵(わるぢえ)というのは、こうである。
 さて、つづみの与吉の策略によって――左膳は即座に筆を執(と)って、あの、栄三郎に宛てた一札を認めたのだった。
 その文言は、彼の五人組に秘刀乾雲を奪い去られて、いま手もとにないこと。
 そして、こうして自分が乾雲丸を所持していない以上は、もはや栄三郎とも仇敵(かたき)同士に別れてねらいあう意味のないこと。
 のみならず、これからのちは、左膳が栄三郎に腕をかして、栄三郎の腰に残っている坤竜丸の引力により、再び乾雲を呼びよせて火事装束に鼻を明かしてやりたいが雲煙霧消(むしょう)、従来のことはすっぱりと忘れて改めてこの左膳を味方にお加えくださる気はござらぬか。
 ――という欺誑(ぎきょう)と譎詐(きっさ)に満ちた休戦状でありまた誠(まこと)に虫のいい盟約の申し込みでもあった。
 さしずめこの手紙を栄三郎へ渡して、しばしなりとも坤竜の動きをおさえて置くあいだに。
 さ、その間にどうする?
 という段になって、左膳と与吉、いっそう語らいをすすめた末。
 今は、坤竜を佩(はい)する栄三郎と、その助太刀泰軒ばかりではなく、じつに得体の知れない火事装束の五人組というものを向うへまわさなければならないので、いかに至妙の剣手とはいえ、丹下左膳ひとりではおぼつかない。あまつさえ身を寄せる家のあるじ、鈴川源十郎は、老下女おさよにとりいってお艶、栄三郎を離間しようとのみ腐心し、決然剣を取って左膳に組し、栄三郎を亡き者にしようという当初の意気ごみをしだいに減じつつあるこんにち。
 なるほど、諏訪栄三郎は左膳にとっては剣の敵。
 源十郎にとっては恋のかたき……。
 ではあるが、はじめ何ほどのことやあろう、ただちに乾坤二刀をひとつに手挟(たばさ)んで郷藩中村へ逐電(ちくでん)しようと考えていた左膳の見こみに反して、坤竜栄三郎は思ったより強豪、そこへ泰軒という快侠の出現、いままた五人組の登場と、こう予期しないじゃまに続出されてみれば源十郎が左膳と別の戦法を用いだすにつれて、広い江戸中に孤立無援の丹下左膳、がらになくいささか心細くなって暗々然と隻腕に乾雲を撫(ぶ)さざるを得なかった。
 鈴川源十郎がかくも頼むにたらぬ!
 と気がついてみると、そもこの左膳の万難千苦の根因はと言えば相馬大膳亮様の慾炎(よくえん)――厳命にあることだから、ここはどうしても故里(くに)おもてから屈強の剣士数十名の来援を乞(こ)うて、一つには五人組にそなえ、同時に多勢不意に襲撃し、栄三郎、泰軒を踏み潰し、一気に坤竜を入手せねばならない!
 こう事況が逼迫(ひっぱく)したうえは、早いが勝ち。
 一日遅れれば一にち損!
 瞬刻を争って相馬中村から剣客の一団を呼び寄せよう! へえ殿様、それが何よりの上分別(じょうふんべつ)、このさい一番の思いつきでございます……とあって、左膳は、成功後の賞美(ほうび)を約して密々のうちに、つづみの与吉を奥州中村へ潜行させることになった。
 だから……。
 乾雲丸が強奪されて、いま左膳の手にないというものも、いわば一時の苦肉の計、なんとかして応援が着府するまで、このうその手紙によって栄三郎と和の状態をつづけたいというまでにすぎない。
 与吉が同藩の剣勢を引きつれてくれば?
 あとはもう占めたもの!
 が、その期間、泰軒、栄三郎がこの書面を真(ま)に受けてじっと[#「じっと」は底本では「じって」]していてくれればよいが……と、なかば危ぶみ半ば祈りながら、左膳が件(くだん)の書状を与吉に渡すと――。
 すべては己(おの)が方寸から出たことで委細承知したつづみの兄哥(あにい)。
「殿様、はばかりながら御安心なせえまし。きっとあっしが引き受けてこの書を栄三郎へ届け、すぐその足で奥州をさして発足(ほっそく)いたしますから」
「そうか。それでは中村へ参っての口上は……」と左膳は、噛(か)んで含めるように使いのおもむきを繰り返したうえ、「な、こういう次第だからとよく申して、同勢をすぐり、貴様には気の毒だが、その夜にでも彼地(あちら)をたって江戸へ急行してもらいたい。礼は後日のぞみ放題(ほうだい)にとらせる」
「おっと! 水くせえや殿様。私とあなた様の仲じゃアありませんか、礼なんて――へっへへへ」
 と、ここに話し成って、まもなく与吉は自宅(うち)へ帰ってしたくにかかると同時に!
 夜中、やみに紛れて左膳は、こっそりと……真(しん)にこっそりと、夜泣きの刀の大、乾雲丸を、鈴川庭内の片隅に土を掘って埋めたのだが――。
 たれ識(し)らぬと思いきや!
 ここにひとり、この左膳の乾雲埋没(まいぼつ)をひそかに目睹(もくと)していたものがあった。
 あれから数日。
 さてこそ、あのものものしい旅装をととのえたつづみの与吉。はたして今ごろは奥州口をひたすら北へ北へと指して、いそいでいることであろうか。
 とにかく今日まで、離庵(はなれ)の丹下左膳のうえに、なんとなく心もとない起居(おきふし)が続いていたのだった。

 左膳のために求援(きゅうえん)の秘使にたったつづみの与吉。
 さっそく、旅仕度をして、なんとかして栄三郎を突きとめたいと、浅草歳の市をぶらついていると、折りよく栄三郎の姿を見かけて手紙を押しこんだまでは上出来だったが――。
 掏摸(すり)とまちがわれて追っかけられ、ようよう櫛まきお藤の家へ飛びこんでほっと安心――するまもなくその旅装から左膳との謀計(ぼうけい)を疑われて、お藤の嬌媚(きょうび)で骨抜きの捕虜にされてしまった形。
 色っぽい眸ひとつにぐにゃりと降参した与の公は、こうして左膳の期待を裏切り、いまだにお藤の二階にブラブラしていることかも知れない。
 左膳の身になれば、これほどの手違いはまたとあるまい。だが、それと、そうして、左膳の文によって栄三郎がいかに考え、まさに左膳の言い分を真実ととりはしなかったろうが、今後の処置をどう決したか? ということはしばらく天機(てんき)のうちに存するとして。
 また、栄三郎が左膳の手紙を取り落として、それが、人もあろうに、越前守忠相に拾われて今その手にあることもここに問わず……。
 ただ、お藤である。
 彼女は、与吉の口から、乾雲丸が左膳のもとにないと聞くや、ただちにそのからくりを見破って、与の公までが左膳に肩を入れるのがくやしくてならなかった。
 恋しい左膳さま――それはいまも変りがないが、容れられてこそ恋は恋。
 あのように嫌いぬかれて、なおもこころ私(ひそ)かに男を思うなどということは、お藤の性(さが)でも、またそんなしおらしい年齢でもなく、頭からできない芸当であった。
 ばかりでなく。
 じぶんを見向きもしないで、かの弥生にのみ走っている左膳の心を思うと、責め折檻(せっかん)された覚えもあり、なんとかして一矢(し)左膳に報いる機会を待っていたお藤だった。
 手に入らぬものなら壊(こわ)してしまえ!
 どうせ他人なら遠慮はいらぬ! あくまでも左膳を呪(のろ)って、いっそあの人の何もかもをめちゃくちゃにしてやれ!
 こう決心した妬婦(とふ)お藤、与吉をちょろまかして足をとめておくが早いか自らはスルリと抜けて、辻斬りの下手人浪人丹下左膳の所在を訴状にしてポン! と浅草橋詰の自身番へほうりこんだ。文字は女手だが訴人のところへ鈴川源十郎と大書して。
 これに緒(いとぐち)を発したあのお手入れ……御用騒ぎがあったが!
 本所の化物屋敷へ捕吏のむれが殺到するとすぐ、むらむらと胸中にわいて来た何やらさびしい気もちを、お藤はさすがにどうすることもできなかった。
 丹下様へお縄を!
 それも、あたしがちょっと細工をしたばっかりに!
 と思うと、たまらなくなったお藤、いてもたってもいられないのは人情自然の発露で、やにわに、愛蔵の短銃をふところに本所めざして駈け出した。
 何しに?
 おのが陥(おとしい)れた穽(あな)から左膳を引きあげるために!
 魔女の辛辣(しんらつ)と江戸っ児の殉情を兼ね備えている櫛まきの姐御には相違ないが、どっちもお藤本然の相(すがた)とすれば、売ったあとから捕り手のかかとを踏んでスタコラ救助に出かけるなどは、ずいぶん御念の入ったあわてようだったと言わなければならない。
 しかし、矛盾(むじゅん)――ではなかった。
 なぜ……? と言えば。
 これは、町すじを走りながらお藤のあたまに浮かんだのだが、いま左膳を、自分の手で救い出せば、何よりも左膳に、この上もない大恩を被(き)せることになって、あとでよく心づくしを見せたり話したりしたなら、いかな丹下さまでも、今度はふっつり弥生のまぼろしを追い払って、こっちの実(じつ)にほだされるかも知れない。いや、そうなるにきまっている。
 しかも、訴状のおもては本所の殿様のお名になっているのだから、これでりっぱに左膳と源十郎の仲をも割(さ)いて早晩一度は、左膳の剣に源十郎の血を塗ることもできようというもの――橋わたしの約束にそむいて、わがことしか考えない、憎(にく)い源十郎の殿様!
 恩だ!
 恩だ!
 恩を売るのだ! あのお方だって木でも石でもないはず、ことにお武家は恩儀にだけは感ずるという――。
 いよいよ痛切に左膳に対する己(おの)が恋慕をたかめたお藤は、恩! 恩! おん、おん! と拍子をとるように心いっぱい、胸のはりさけるほど無言の絶叫をつづけながら足を宙(ちゅう)に左膳の危難に駈けつけて短銃一挺(ちょう)の放れわざ。あわやというところで丹下左膳を助け出し、そして!
 どこへ……つれて行くかは、彼女にはちゃんと当てがあったのだ。
 あそこ――お藤のほか誰も人の知らない彼地(あそこ)へ!

 本所鈴川の屋敷で、剣怪左膳をとりまいて十手と光刃(こうじん)がよどんでいる最中……。
 櫛まきお藤が忽然(こつねん)と姿を見せてふところ鉄砲ひとつで左膳を庇(かば)ってともに落ちのびていった、そのすこし前のことだった。
 うす靄(もや)のような暮気があたりを包んで、押上(おしあげ)、柳島(やなぎしま)の空に夕映(ゆうばえ)の余光がたゆたっていたのも束(つか)のま、まず平河山法恩寺をはじめとして近くに真成(しんせい)、大法(たいほう)、霊山(れいざん)、本法(ほんぽう)、永隆(えいりゅう)、本仏(ほんぶつ)など寺が多い、それらの鐘楼(しょうろう)で撞木(しゅもく)をふる音が、かわたれの一刻を長く尾をひいて天と地のあいだに消えてゆく。
 暮れ六つ。
 鈴川方化物屋敷の裏手、髪を振りみだした狂女のようにそそり立つ椎(しい)の老樹の下にこわれかかった折り戸と並んで、ささやかな物置小屋が一つ、古薪木や柴に埋もれて忘れられたように建っている。
 かつて、櫛まきお藤が与吉の口から弥生に対する丹下左膳の恋ごころを聞かされて一変、緑面(りょくめん)の女夜叉(にょやしゃ)と化したあの場所だが。
 今は。
 這いよる宵やみのなかに剣打のひびき阿□(あうん)の声が奥庭から流れてくるばかり――座敷まえの芝生には、お捕方を相手に左膳が隻腕一刀の乱劇を演じていることであろうが、うらに面したここらは人影もなく、ただ空低く風が渡るかして、椎の梢が、思い出したようにうなりながら、寒天にちりばめた星くずをなでているだけだった。
 もの淋しい夕景色。
 と! この時。
 物(もの)の怪(け)にでも憑(つ)かれたように、フラフラとこの庭隅に立ち現われた一つの黒法師(くろぼうし)がある。
 しばらく物置の戸に耳をつけて表のかた、周囲に耳を傾けていたが、やがて、いま、屋敷は御用の騒動にのまれて誰も近づいてくる者もないと見るや、しずかに小屋のなかへはいって――すぐに出て来た。
 言うまでもなく、源十郎と対談しているところへ、左膳と捕吏の剣闘(けんとう)が始まったので、こっそり部屋を脱けて出たおさよ婆さんであった。
 手に、物置から取りだした鍬(くわ)を握っている。
 夕方鍬などを持ち出して、こんなところで何をするのか……と見ていると!
 おさよは瞬時(しゅんじ)もためらわずに、やにわに鍬を振りあげて、小屋のかげ、椎の根元を掘りはじめたが――。
 ふしぎ! 近ごろ誰かが鍬を入れたあとらしく、表面が固まりかけているだけで、一打ち、二打ちとうちこむにしたがい、やわらかい土がわけもなく金物の先に盛られて、おさよの足もとに掬(すく)い出される。
 薄やみに鍬の刃が白く光って、土に食い入るにぶい音が四辺の寂寞(せきばく)を破るたびに、穴はだんだんと大きくなっていって。
 はッ! はッ! と肩で呼吸(いき)づく老婆おさよ、人眼を偸(ぬす)んでこの小屋のかげに何を掘り出そうとしているのだろう……?
 それは――。
 過般(かはん)、ある夜。
 老人のつねとして寝そびれたおさよが、ふと不浄(ふじょう)に起きて、見るともなしに、小窓から戸外(そと)の闇黒をのぞくと、はなれに眠っているはずの丹下左膳、今ちょうどそこを掘りさげて、襤褸(ぼろ)と油紙に幾重にも包んだ細長い物を埋めようとしているところだった。
 深夜にまぎれて、食客左膳の怪しいふるまい……これは、乾雲丸を一時こうして隠匿(いんとく)して、かの五人組の火事装束に奪い去られたと称し、栄三郎をはじめ屋敷内の者をさえ偽ろうという極密(ごくみつ)の計であったが、始終(しじゅう)を見とどけたおさよは、さっきのことを源十郎に話したとおり、今の混雑を利用して刀を掘り出し、お艶に別れる手切れの一部として、さっそく栄三郎へ渡そうと思っているのだ。
 老女おさよの手によって、うちおろされる鍬の数!……。
 土が飛ぶ。石ころがはねる。そしてついに、地中の竜ではない、土中の乾雲がおさよの目前にあらわれたとき! 櫛まきお藤の撃った左膳を助ける銃声がひびいた。
 離別以来幾旬日(いくじゅんじつ)、坤竜を慕って孤愁(こしゅう)に哭(な)き、人血に飽いてきた夜泣きの刀の片割れ――人をして悲劇に趨(はし)らせ、邪望をそそってやまない乾雲丸が、ここにはじめて丹下左膳の手を離れたのだ。
 ……転ぶようにしゃがんで穴底から重い刀を抱きあげたおさよ。
 暗中にぱっぱッと音がしたのは包みの土を払ったのだ。

 宵闇(よいやみ)にふくまれ去ったお藤と左膳を追って、捕方の者もあわただしく庭を出て行ったあとで。
 源十郎は長いこと、ひとりぽかんとして縁に立っていた。
 今にも同心でも引き返して来て自分に対しても審(しら)べがあるだろう。ことによると、奉行所へ出頭方を命ぜられるかも知れないが、それには一応、小普請支配がしら青山備前守(びぜんのかみ)様のほうへ話をつけて、手続きをふまねばならぬから、まず今夜は大丈夫。そのあいだに、ゆっくり弁口(べんこう)を練っておけば、ここを言い抜けるぐらいのことはなんでもあるまい――と源十郎、たかをくくって、いまの役人の帰ってくるのを待ってみたが、追っ手は早くも法恩寺橋を渡って、横川の河岸に散っていったらしく、つめたい気をはらむ風が鬢(びん)をなでて、つい、いまし方まで剣渦戟潮(けんかげきちょう)にゆだねられていた、庭面(にわも)には、かつぎさられた御用の負傷者の血であろう、赤黒いものが、点々と草の根を染めていた。
 とっぷりと暮れた夜のいろ。
 源十郎はいつまでも動かなかった。
 丹下左膳は、あくまでも自分がかれを売って訴人をしたようにとっているが、役人どもがいかにして左膳の居所を突きとめたかは、源十郎にとっても、左膳と同じく、全くひとつの謎であった。
「きゃつ、おれをうらんでおったようだが、馬鹿なやつだて」
 ひとりごとが源十郎の口を洩れる。同時にかれは、寒さ以外のものを襟頸(えりくび)に感じて慄然(ぞっ)とした――物凄いとも言いようのない左膳の剣筋を、そして、狂蛇のようなその一眼を、源十郎は歴然(れきぜん)と思いうかべたのだ。が、彼は、たそがれの空を仰いでニッと笑った。
「左膳、何ほどのことやある! 第一、なんて言われても俺の知ったことではない」
 と、あとのほうはどうやら弁解のようにモゾモゾ口のなかでつぶやいて源十郎、部屋へはいろうとしたが、考えてみると、もっとふしぎに耐えないのは、あれよというどたん場(ば)に際して、あの櫛まきお藤が飛び出したことである。
 ふうむ! お藤か……。
 味わうようにこの一語を噛みしめたとたんに、源十郎にはすべての経路が見えすいたような気がして、彼は柱にもたれてクルリと背をめぐらしながら、身をずらしてくすりとほほえんだ。と思うと、わっはっはッ! と大きな笑い声が、腹の底から揺りあげてきて、
「お藤か。あッははは、お藤の仕事か――」
 と、はてしもなく興に乗じていたが。
 やがて。
「おさよ……おさよどの……!」
 声をかけて座敷のなかをのぞきこんだとき、そこに老婆のすがたのないのを発見すると、源十郎、ふッと笑いやんで、聞き耳をたてた。
 木々を吹きわたる夕風の音ばかり――逢魔(おうま)が刻(とき)のしずけさは深夜よりも骨身にしみる。
 チラチラチラと闇黒に白い物の舞っているのは、さては降雪(ゆき)になったとみえる。
 源十郎は、急に思い出したことがあって、そそくさと庭におり立った。
 さっきおさよが耳打ちをした乾雲丸の一条……丹下左膳が、あの刀を物置のかげに埋めているところを見たから、すぐにもこっそり掘り出し、源十郎からとして、お艶の代償に栄三郎へ渡してやりたい。こうおさよは言っていたが、もうおさよは、土をあばいて一物を持ち去ったかも知れない。そうすると、その尻もいずれ左膳から自分に来るであろう。夜泣きの大小にかけては命を投げ出している剣鬼左膳、何をしでかすかしれたものではない――。
 と考えると源十郎、いささか気になりだしたので、庭下駄を突っかけて、いそぎ足に裏へまわった。
 雪が、頬を打って消える。
 椎(しい)の木。そのかげに朽ち果てた薪小屋。
 樹の根を見ると! まさしく穴が掘ってある。
 暗い、細長い土穴に、白い蝶のような雪片が後からあとから飛びこんでいた。
「おさよめ、とうとう左膳に鼻をあかして、乾雲丸を持ち出したな。これは丹下に対し、すこウし困ったことになったぞ」
 こう胸中にくり返しながら、源十郎はあたまの雪を払って座敷に戻った。
 しかし彼は、乾雲丸のことよりも、きょうおさよに約束した栄三郎への手切れ金五十両の工面(くめん)に、はたといきづまっていたのだった。
 五百石のお旗本が五十両にさしつかえるとは……考えられないようだが不義理だらけで首もまわらず、五十はおろかただの五両にも事欠く源十郎であった。
 煩悩(ぼんのう)は人を外道(げどう)に駆(か)る。
 ひとつ――殺(や)るかな……。
 と、やみに刀をふるう手真似をしながら、かれが縁にあがりかけると、いつのまに来たのか、障子のなかに土生(はぶ)仙之助の鼻唄が聞こえていた。
 江戸に、その冬はじめて雪の降った宵だった。

   ふたつの涙(なみだ)

「ええ。どうせわたしはやくざ女ですともさ。そりゃアどこかの剣術の先生のお嬢さんのように、届きはいたしませんよ。ヘン! おあいにくさまですねえ」
 お艶はちょっと口をへの字に曲げて憎(にく)さげに栄三郎を見やった。
 不貞腐(ふてくさ)れの横すわり――
 紅味を帯びたすべっこい踵(かかと)が二つ投げ出されたように畳にこぼれているのを、栄三郎は苦しそうに眺めて眼をそらした。
 どんよりと曇った冬の日だ。
 いまにも泣きだしそうな空模様の下に、おもて通りの小間物屋のほし物が濡れたまましおたれ気にはためいているのが、窓の桟(さん)のあいだから見える……もの皆が貧しくてうす汚(きたな)い瓦町の露地の奥。と、突然、となりの左官の家で山の神のがなり立てる声が起こった。
「なんだい、この餓鬼(がき)アッ! またこんなところに灰をまきゃアがって! ほんとに、ほんとに性懲(しょうこ)りのねえ野郎だよ。父(ちゃん)にそっくりだッ!」
 つづいて、ピシャリ! と頭でもくらわすらしい音。わアッ! と張りあげる子供の泣き声――ピシャピシャピシャとおかみの平手は、自暴(やけ)に子供の頬へ飛んでゆくようすである。
 なんという暗い、ジメジメした世の中であろう!……若い栄三郎のこころは、その悩ましい重みに耐えられない気がしてきて、無理にも作った和(なご)やかな笑顔を、かれはお艶へむけた。
「ぱっとしない天気だな。雨……いや、雪になろうも知れぬ。お前、頭痛はどうだ?」
 お艶が、ふん! とそっぽを向くと、こめかみに貼った頭痛膏(こう)が、これ見よがしに栄三郎の眼にはいる。
 かれは再び、にがにがしく眉を寄せた。
 ぽつん――と、不自然に切れた静寂のなかに、険悪な気がふたりを押し包んでいる。
 まことに雨、雪、いや、暴風雨にもなろうも知れぬ不穏なたたずまい……。
 間(ま)。
 お艶はちょいと襟あしを抜いてその手の爪を噛みながら、なかばひとりごとのようにしんみりといいだした。
「いくらわたしがばかだからって茶屋女風情(ふぜい)がこうしてあなたというおりっぱなお武家の、奥様で候(そうろう)の、奥方でござりますのと、まあ、言っていられるだけで見つけものだってことは、これでもお艶はよウく知っているつもりでございますよ。でもね、人間てものは、どうやらこうやらお飯(まんま)がいただけて、それできょう日(び)がすごしていけりゃあア、それでいいってもんじゃありませんからね。あたしだって小綺麗な着物の一枚や二枚、世間の女なみにたまには着てみたいと思うこともありますのさ」
 また始まった!――というように、栄三郎は顔をしかめて、思わず白い眼に棘(とげ)を含ませて部屋じゅうを睨(ね)めまわした。
 なんと変わり果てたお艶であろう。
 あれほど手まめだったお艶が、ちかごろでは針いっぽん、ほうき一つ手にしたことがなく、栄三郎も彼女も着ている物といえばほころびだらけ、汚点(しみ)だらけ……そのうち、一間しかないこの座敷の隅ずみに、埃がうずたかく積もって、ぬぎ捨てた更(か)え着がはげちょろけの紅(もみ)裏を見せてひっくり返っているかと思うと、そばには昼夜帯(はらあわせ)がふてぶてしいとぐろを巻いているという態(てい)たらく。
 まるで宿場女郎をぬいてきて嬶(かか)ア大明神にすえたよう――。
 そればかりではない。態度口振りからいうことまで、ガラリと自堕落(じだらく)にかわったお艶であった。
 こうではなかった。すこし以前までこうではなかった。と考えるにつけ、栄三郎は、何がかくまでお艶を変えたのか? その理由と動機(きっかけ)を思い惑(まど)うよりも、もうかれは、日常の瑣事(さじ)に何かと気に入らないことのみ多く、つい眼に角(かど)をたててしまうのだった。
 そのために、いまも昔も変りのない、犬も食わない夫婦喧嘩に花が咲いて、今日もきょうとて……。
 先刻、塗りのはげたお膳を中に、ふたりが朝飯にかかった時だった。
 なんぼなんでも、他にしようもあろうに、はぶけるだけ手をはぶいた、名ばかりの味噌汁(みそしる)と沢庵(たくあん)のしっぽのお菜を栄三郎が、あんまりうまそうに口へ運ばなかったからと言って、例によって、お艶がまず、待っていたように火ぶたを切ったのだ。
「まあ! まずいッたらしいお顔! なんでそんなお顔をなさるの?」
「…………」
「あたしのこしらえた物が、そんなに汚いんですかッ!」
「ま、お前、何もそう――」
「いいえ! こう申しちゃ[#「いいえ! こう申しちゃ」は底本では「いいえ!こう申しちゃ」]なんですが、そりゃあお金さえあればねえ、あたしだってもうすこしなんとかできますけれど……フン! だ」
 これから起こったことだった。

 栄三郎は、横を向いてほかのことに紛(まぎ)らそうとした。
「泰軒どのもひさしくお見えにならぬが、どうしておらるるかな。この寒ぞらに船住いもなかなかであろう」
 と、さむ空……という言葉に初めて気がついたように、急にブルルと身ぶるいをして、消えかかった火鉢の火に炭をつごうとした。
「あなた!」
 お艶の声は、底にいまも噴(ふ)き出しそうな何ものかを含んで、懸命におさえていた。
「あなたッ!」
「なんだ?」
 栄三郎の手に、炭をはさんだ火箸(ひばし)がそのまま宙にとまる。
「なんだ、そんな顔をして」
 ジロリと白い一瞥(いちべつ)を栄三郎へ投げて、お艶はしばらく黙っていたが、
「そんな顔こんな顔って、これがあたしの顔なんですもの、今さらどう張りかえようたって無理じゃアありませんか」
「なに?」
「いいえね、万事あの根津のお嬢さんのようにはいきませんてことさ」
「お艶、お前、何を言うんだ?」
「馬子(まご)にも衣装(いしょう)髪かたちッてね――それゃアあたしだってピラシャラすれば、これでちったあ見なおすでしょうよ。けど、お金ですよ。それにゃア……お、か、ね! わかりましたか」
「ばかな! お前はこのごろどうかしている」
 栄三郎は取りあおうともせずにしずかに炭のすわりをなおしだしたが、内心の激情はどうすることもできないらしく、火箸のさきがブルブルとふるえて、立てるそばから炭をくずした。
 ふたりとも蒼い顔。紙のように白いくちびる――。
 あくまでもこの喧嘩、売らずにはおかないといったように、お艶が突如いきおいこんで乗り出すと、膝頭が膝にぶつかって、番茶の茶碗が思いきりよく倒れた。
 むッ! とした栄三郎、
「ナ、何をするんだ!」
「なんだいこんなもの!」
 お艶はもう一度、膳の角をつかんで荒々しくゆすぶった。瀬戸物がかち合って、はげしい音をたてる。
「お艶ッ!」
「だってそうじゃありませんか。この世の中に何ひとつお金でできないことがありますか。あたし、あなたといっしょになる時、まさかこんなに困ろうとは思わなかった……このごろのようにこんなみじめな装(なり)じゃあ――」とお艶は、自分の着ている継(つ)ぎはぎだらけの黄八丈の袖をトンと引っ張って、「恥ずかしくってお豆腐一つ買いに出られやしない。あたし、呉服屋のまえを通るときなんか、眼をおさえて駈けるんですよ」
「……すまない」
「すむもすまないもないじゃあありませんか、年が年中ピイピイガラガラ、家んなかは火の車だ。お正月が来たからって、お餅一つ搗(つ)けるじゃなし、持ってきた物さえ片っぱしからお蔵(くら)へ運んで、ヘン、たまるのは質札ばかりだ――ごらんなさいッ! もうその質ぐさもないじゃありませんか」
「まあ、そうガミガミ言うな。となり近所の手前もある」
「アレだ! 何かってえとヤレ手前、やれ恥辱(ちじょく)――ふん! お武士(さむらい)さんは違ったもんですよウ、だ!」
「これ、お艶!」
「はい」
「貴様、このごろいったいどうしたのだ?」
「どうもしやしませんよ」
「そうかな。見るところ、ガラリとようすが変わったようだが――」
「いいえ。どうもしやしませんけれど、あたしつくづく考えていることがあります」
「ふうむ。なんだそれは? 言ってみなさい」
「…………」
「拙者が嫌(いや)になったらいやになったと、何ごともはっきり申したらよいではないか」
 ことばもなくうなだれたお艶の横顔が、どうやら涙ぐんでいるふうなのに、栄三郎もふと甘いこころに返って、
「さ、いうがよい。な、改まって聞こう」
 とのぞきこんだとき、ホホホホ! と蓮葉(はすっぱ)な嬌笑とともに、栄三郎を振り払ったお艶、こともなげに軽くいい放った。
「あなた、およしなさい。お刀の探索なんか……いまどき流行(はや)りませんよ」

 夜泣きの刀、乾雲丸の取り戻し方を思いとどまってくれ……というお艶のことばは、さながら弊履(へいり)を棄(す)てよとすすめるに等(ひと)しい口ぶりだ。
 この、うって変わった一言には、さすがの栄三郎も思わずカッ! となった。が、かれも大事を控(ひか)えて分別(ふんべつ)ある士、そうやすやすと憤激(ふんげき)の情(じょう)をおもてにあらわしはしなかった。しかし、わざとしずかにきりだした低声は、彼の自制を裏ぎって微(かす)かにふるえていた。
「なぜ?――何故また今になって、さようなことを申すのだ? わたしが一命を賭(と)して乾雲を求めておることはそちも以前からよく知っているはず。言わば承知のうえで、拙者と……このようなことになったのではないか……」
「ええ――それはわかっております」
 襟(えり)もとに顎(あご)をうずめて、お艶は上眼づかいに栄三郎を見た。
 沈黙におちると、鉄瓶(てつびん)の湯がチインと松風の音をたてて、江戸の真ん中にいながら、奥まった露地のはずれだけに、まるで人里はなれた山家ずまいの思いがするのだった。
 お向うの庇(ひさし)ごしに、申しわけのような曇りめの陽が射しこんで、赤茶けた破れだたみをぼんやり照らしている。
 朝寒の満潮のような遣瀬(やるせ)ない心地が、ヒタヒタと栄三郎の胸にあふれる。
 お艶がつづける。
「それはわかっております。けれどあたし、自分達の暮しを第二第三にして、そうやってお刀のことに夢中になっていらっしゃるあなたを見ると……」
「嫌気がさす――というのか」
 栄三郎の声は、口がかわいてうわずっていた。
「…………」
「おいッ!」
「まあ! なんて声をなさります!」
 お艶はたしなめるように言って、すぐに鼻のさきでせせら笑ったが、
「ええ。そうでございます! さようでございますよ」
 と、いいきった彼女の声は、叫びに近かった。
 そして、つと身体を斜めにいっそうだらしなく崩折れると、口ばやに甲(かん)高に、堰(せき)を落とすようにしゃべりだした。
「ええ! さようでございます! あなたのようなどちらにもいい子になろうとするお人は、あたしゃ大嫌い! 刀を手に入れたい、あたしともいっしょにいたい――それじゃアまるで両天秤(りょうてんびん)で、どっちか一つがおろそかになるのはきまりきってるじゃアありませんか」
「な、なんだと? どちらにもいい子とはなんだ? いつおれが貴様をおろそかにした?」
「おろそかにしてるじゃありませんか。あたしより刀のほうがお大事なんでございましょう? 刀さえとれれば、あたしなんか野たれ死にをしようとおかまいはございますまい」
「たわけめ! 勝手にしろ!」
 吐き出すようにつぶやいて、栄三郎はやおら起ちあがった。お艶はそれをキッと下からにらみあげて、
「あなたッ!」
「なんだ、うるさい!」
「どうせうるそうございましょうよ!――いっしょになる時はなんだかんだとチヤホヤなさって、うるさいは恐れ入りましたね。ちっと旗色が悪くなると、いつでもどっかへお出ましだ。そんな卑怯な真似をなさらないで、お武士ならおさむらいらしくはっきりと話をつけてくださいッ!――どこへお出かけでございます?……存じております! 戌亥(いぬい)の方。麹町でございましょう? えええ、あのお嬢さんはあなたにとってお主筋(しゅうすじ)に当たる方、それにお生れがお生れですから女芸万般(にょげいばんぱん)ねえ、何ひとつおできにならないということはなし、そりゃアあたしとは雪と墨、月とすっぽんほども違いましょうともさ。せいぜいお大事になすっておあげなさいましよ」
 栄三郎は聞かぬ態(てい)――ゆがんだ微笑をうかべて、まわしまわし帯を結びなおしている。
 その、擦り切れた帯の端が、畳をなでてお艶の前にすべってくると、彼女は膝をあげてしっかとおさえた。
「サ! きっぱり話をつけてくださいッてば! 二つにひとつ、乾雲丸かあたしか、あなたはどちらを……」
「お艶!」栄三郎の眼は悲しかった。「――な、聞き分けのよい女だ。わたしはちょっとこれからホラ! これの才覚にとびまわってくる。鳥目(ちょうもく)だ。ははははは、そんなにおれを苦しめずに、おとなしく留守をしてくれ。な、わかったな」
「嫌でございますッ! 御冗談もいいかげんになさいまし。あたしもこれで当り矢のお艶と言われた女。あなたばかりが男じゃござんせんからね」
 栄三郎の眼が細まって、異様な光を添えた。

「お艶ッ! き、貴様ッ……坐れ、そこへ!」
「すわってるじゃございませんか。あなたこそお坐りなすったらいかがです」
「よく一々口を返すやつだな。貴様、このごろどうかいたしおるな。何か心中に思うところあって、それでさように事につけ物に触(ふ)れ、拙者に楯(たて)を突くのであろう。どうだ?――いや、得てはしたない言葉から醜(みにく)いあらそいを生ずる。いいかげんにしなさい」
「まあ、虫のいい! いいかげんにはできませんよ」
「お前はすっかり人間が変わったな」
「変わりたくもなろうじゃございませんか。こんな貧乏(びんぼう)暮しをしているんですもの」
「ふたことめには貧乏貧乏と申す……それほど貧乏がいやか」
「癇(かん)のせいか、あんまりゾッといたしませんねえ。そりゃそうと、どうおっしゃるのですか……乾雲丸か、このあたしか」
「黙れッ! おのれお艶、痩せても枯れても武士の妻ともあろう者が、正邪(せいじゃ)の別、恩愛(おんあい)義理(ぎり)をもわきまえず、言わせておけば際限もなく、よッくノメノメとさようなことがいえるな。貴様は魔に魅入(みい)られておるのだから、拙者も真面目には相手にせぬ。ひとり胸に手を置いて考えてみるがよい」
「またお談義(だんぎ)! 何かというと武士、刀の手前――どうも当り矢のお艶も、おかげさまでこんなかたッくるしい言葉をおぼえましたけれど、あたしはそんなえらそうなことを言って、自分達は食べるか食べないで、たかがお刀一本に眼色顔いろを変えて、明けても暮れても駈けずりまわっているお人よりも、町人でもお百姓でもようござんすから、あたしひとりを大事にしてくださる方に、しっくりかわいがってもらいたい……ただそれだけでございます」
「ううむ、見損(みそこな)ったかな――」
「ほほほ、そりゃアお互いさま」
「で、いかがいたせというのだ?」
「まず乾雲丸のことをフッツリお忘れなすって、それからその厳(いか)つい大小をさらりと捨てて、あたまも小粋に取りあげてさっぱりした縞物か何かでおもしろおかしく……」
「ぶるる、馬鹿ッ! 何を申す! 貴様、そ、それが本心かッ?」
「ほんしんでございますとも。あたしだってちったあ眼先が見えますよ。あなたは、あの弥生さまとごいっしょにおなりなさりたくても、お刀がなければ押しかけ婿にもいかれないので、あれがお手にはいるまで、あたしってものをこうしてだしに使っていて、刀を取るが早いか、あたしを棄ててその刀を引出物(ひきでもの)に弥生さまのところへ納まろうというんでございましょう? そんなこと、こちらは先刻(せんこく)御承知でございますよ。ほほほ」
「お艶!――キ、貴様、気がふれたナ! 夜泣きの刀の分離も、もとはと言えば拙者から起こったこと。
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