丹下左膳
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著者名:林不忘 

 左膳の手紙を、大岡さまとは知らないが、由ありげな武士に拾われてしまった諏訪栄三郎が、気の抜けたように露地の奥の自宅(うち)へ立ち帰って、ぼんやりと格子戸をあけると!
 水茶屋の足を洗って以来、いつもぐるぐる巻きにしかしたことのない髪を、何を思ってかお艶はきょうは粋(いき)な銀杏(いちょう)返しに取りあげて、だらしのない横ずわりのまま白い二の腕もあらわに……あわせ鏡。
「だれ? おや! はいるならあとをしめておはいりよ。なんだい。ほこりが吹きこむじゃないか。ちッ。またお金に縁(えん)のない顔をさげてさ。ああ、嫌だ、いやだ!」
 うらと表の合わせかがみ――この変わりよう果たしてお艶の本心であろうか?

   煩悩外道(ぼんのうげどう)

 あさくさ田原町の家主喜左衛門と鍛冶屋富五郎との口ききでおさよが鈴川源十郎方へ住みこんだ始めのころは。
 五百石のお旗本だが、小普請(こぶしん)で登城をしないから馬もなければ馬丁もいない。下女もおさよひとりという始末。
 狐(きつね)でも出そうな淋しいところで家といっては鈴川の屋敷一軒しかない。
 それでも御奉公大事につとめていると、丹下左膳(たんげさぜん)、土生仙之助(はぶせんのすけ)、櫛(くし)まきお藤(ふじ)、つづみの与吉をはじめ、多勢の連中が毎夜のように集まって来ては、ある時は何日となく寝泊りをして天下禁制(てんかきんせい)のいたずらがはずむ、車座に勝負を争う――ばくちだ。本所の化物屋敷としてわる御家人旗本のあいだに知られていたのがこの鈴川源十郎の住居であった。
 しかしそういう寄り合いがあって忙しい思いをしたあくる朝は、膳部(ぜんぶ)のあとで必ず、
「おい土生、ゆうべは貴公が旗上げだ、いくらかおさよに小遣(こづかい)をやれ」
「よし! 悪銭(あくせん)身につかず。いくらでも取らせる。これ、さよ……と言ったな前へ出ろ」
 などと四百くらいの銭をポウンとなげうってくれるので、そのたびにもらった二、三百の銭を……。
 おさよの考えでは、こうして臨時にいただいたお鳥目(ちょうもく)をためたら、半分には極(き)めのお給金よりもこのほうが多かろう。そうすれば、三年のあいだ辛抱したら、娘お艶の男栄三郎がちっと大きな御家人の、……株を買う足(た)しにもなろうというもの……と、先を思って一心に働いていたが、そのうちにふと立ち聞きしたのが食客丹下左膳の身の上と密旨(みっし)、並びに、夜泣きの大小とやらにからんで栄三郎にまつわる黒い影であった。
 が、同藩の仲と知っても、おさよはひとり胸にたたんで、ただそれとなく左膳のようすに眼をつけているとやがて、降(ふ)ってわいた大変ごとというべきは、むすめのお艶がある夜殿様の源十郎にさらわれて来て奥の納戸(なんど)へとじこめられた。
 それを、親娘(おやこ)と気どられないように、かげにあって守りとおさねばならなかった。おさよの苦心はいかばかりであったろう。
 しかるに。
 源十郎がお艶を生涯のめかけにほしいと誠心をおもてに表わして言うので、おさよといえども何も慾(よく)にからんで鞍替(くらが)えをしたわけではないが、老いの身のまず考えるのは自分ら母娘ふたりの行く末のことだ。ここらで思いきってお艶と栄三郎を引き離し、お艶は内実(ないじつ)は五百石の奥方。じぶんはそのお腹様という栄達(えいたつ)に上ろうとさかんに源十郎に代わってお艶をくどいてみたものの、栄三郎に恋いこがれているお艶はなんとすすめても承知しなかった。
 手切れのしるしには、栄三郎が生命を的(まと)にさがしている乾雲丸を、源十郎の助力によって左膳から奪って与えればいいとまで私(ひそ)かに思案が決まったところ、かんじんのお艶にこっそり逃げられてしまったのだった。
 これは櫛まきお藤が源十郎へのはらいせにつれ出したのだが、源十郎はそうとは知らずにその尻(しり)をそっくりおさよ婆さんへ持ってきて、今までお艶を幽閉(ゆうへい)しておいた納戸へこんどはおさよを押しこめ、第一におさよお艶のかかわりあいから聞き出そうと毎日のように折檻(せっかん)した。
 その間に栄三郎泰軒の救いの手が、ついそこまで伸びて来て届かなかったのが、この、源十郎の詰問(きつもん)の結果。
 はい。じつはわたくしはお艶の母、あれはわたくしの娘でございます。
 とおさよの口から一言洩(も)れると源十郎、高だかと会心の哄笑をゆすりあげて、
「いや、そのようなことであろうと思っておった。さてはやはり、いつか話に聞いた娘というのはあのお艶のこと、男の旗本の次男坊は諏訪栄三郎であったか。だが、はっきりそうわかってみれば、思う女の生みの母御(ははご)なら、この源十郎にとっても義理ある母だ。こりゃ粗略(そりゃく)には扱われぬ。知らぬこととは言い条(じょう)、いままでの非礼の段々平(ひら)におゆるしありたい」
 と、奸智(かんち)にたけた鈴川源十郎、たちまちおさよを実の母のごとく敬(うやま)って手をついて詫びぬばかり、ただちに招(しょう)じて小綺麗(こぎれい)な一間(ま)をあたえ、今ではおさよ、何不自由なく、かえって源十郎につかえられているありさま。
 将(しょう)を射(い)んと欲(ほっ)せばまず馬を射よ。あるいは曰(いわ)く、敵は本能寺(ほんのうじ)にありというわけで、源十郎はこのおふくろをちょろまかして、それからおいおいお艶を手に入れようと、今日もこうしておさよに暖かそうな、小袖か何か着せて、さも神妙に日の当たる座敷によもやまのはなし相手をつとめていると――。
「ごめんくださいまし……」
 と裏口に案内を求める町人らしい声。

「こんちは……ごめんくださいまし。おさよさんはいませんかね?」
 と喜左衛門が大声をあげても、誰も出てくるようすはないから、こんどは鍛冶屋富五郎が引き取っていっそうがなりたてている。
「おさよさアン! おさよ婆あさん! ちッ! いねえのかしら……? じれってえなあ」
 と、この声々が奥へつつぬけてくるから、おさよも源十郎のお相手とはいえ、じっとしてはいられない。すぐに裏口へ立って行こうとするのを鈴川源十郎、実の母にでも対するように慇懃(いんぎん)にとめて、
「まま、そのままに、そのままに。なに、出入りの商人であろう。拙者が出る」
 と懐手(ふところで)、のっそりと台所に来てみると、水口の腰高障子(こしだか)から二つの顔がのぞいている。
 あさくさ田原町三丁目の家主喜左衛門と三間町の鍛冶富――おさよの請人(うけにん)がふたりそろってまかり出て来たので源十郎、さては悪い噂でも聞きこんだな、内心もうおもしろくない。
「なんだ? おさよ殿に何か用かな?」
 押っかぶせるように仁王立ちのまんまだ。
 おさよどの! と殿様の口から! 聞いて胆(きも)をつぶした喜左衛門に鍛冶富、すくなからず気味がわるい。
 挨拶もそこそこに、源十郎の顔いろをうかがいながら、お屋敷のごつごうさえよろしければ、ちと手前どものほうにわけがあって、一時おさよ婆あさんを引き取りたいと思うから、きょうにでもおさげ願いたく、こうして引請人(ひきうけにん)が頭を並べてお伺いした……と!
 源十郎、眉をつりあげて威猛高(いたけだか)だ。
「なにィ! ちと理由(わけ)があっておさよどのをもらいさげに参った? これこれ、喜左衛門に富五郎と申したな」
「へえへえ、鍛冶屋富五郎、かじ富てんで」
「なんでもよい。両人とも前へ出ろ。申し聞かせるすじがある」
 言い捨てて源十郎、スタスタ奥へはいっていったから、はて! 何事が始まるのだろう? と二人ともおっかなびっくりでしりごみしているところへ、ただちにとってかえした源十郎を見ると、刀をとりに行ったものであろう左手に長い刀を下緒(さげお)といっしょに引っつかんで、その面相羅刹(らせつ)のごとく、どうも事態(じたい)がおだやかでない。
 何がなんだかいっこうに合点(がてん)がいかないものの喜左衛門と鍛冶富は今にも逃げ出しそうだ。
 そこへ源十郎の怒声。
「こらッ、もちっと前へ出ろ! 出ろッ! ウヌ! 出ろと申すにッ!」
 と与力の鈴源だけあって、声にもっともらしい渋味(しぶみ)がこもり、おどしが板についていて、町人づらをふるえあがらすには充分である。
「はい。出ます、出ます。こうでございますか」
 ふたりがびくびくもので、一、二寸前へ刻み出たとき、源十郎は、大刀に鍔(つば)鳴りを[#「鍔(つば)鳴りを」は底本では「鎧(つば)鳴りを」]させて叱□(しった)した。
「何者かが当屋敷に関してよけいなことを申したのを、市井匹夫(しせいひっぷ)の浅はかさに真(ま)にうけたものであろう。どうじゃ?」
「へ?」
 ときき返したが、両人ともよくわからないので、モジモジ黙っていると、源十郎は続けて、
「おさよ殿を従前どおりおれの手もとにおいたとて、貴様らに迷惑の相かかるようなことはいたさぬ。源十郎、不肖(ふしょう)なりといえども、年長者の敬すべきは存じておる。いま貴様らに見せるものがあるから庭先へまわれッ!」
 ホッとして喜左衛門と富五郎、うら口を離れてひだりを見ると、中庭へ通ずる折り戸がある。それを押して、おそるおそる奥座敷の縁下、沓脱(くつぬぎ)のまえにうずくまると、
「両人! 面(おもて)をあげい! おさよ殿じゃ」
 という源十郎の声に、おさよがあとをとって、
「おや。喜左衛門さんに富五郎どんかえ。ひさしく御無沙汰(ごぶさた)をしましたが、おふたりともいつもお達者で何よりですねえ、はい……」
 はてな! と顔をあげてよく見ると、奉公にあがったはずのおさよ婆さんが、これはまたなんとしたことか、殿様の御母堂然と上品ぶって、ふっくらとしたしとねの上から淑(しと)やかに見おろしている。
 眼どおり許す――といわんばかり。
 プッ! と吹きだしそうになるのを、喜左衛門と鍛冶富、互いにそっと肘(ひじ)で小突きあってこらえているうちに、かたわらの源十郎が威儀(いぎ)をただして、しんみりとこんなことを言い出した。
「他人の空似(そらに)とはよく申したものでおさよ殿は、死なれた拙者の母御に生き写し……よく瓜を二つに割ったようなというが、これはまた割らんでそのまま並べたも同然――なあ、孝行のしたい時分には親はなし、さればとて石に蒲団も着せられず……こうしておさよどのを眺めていても、源十郎、おなつかしさにどうやら眼のうらがあつくなるようだ」
 と源十郎、芝居めかして、しきりに眼ばたきをしている。

 煙(けむ)にまかれて、喜左衛門と鍛冶富は、ぽかんとしたまま帰ってゆく。
「驚きましたね、喜左衛門どん」
「いや、おどろいたね、富さん」
「一体全体どうしたんでごわしょう? へっへ、まるで女隠居(いんきょ)。ふたりとも壮健にて祝着至極(しゅうちゃくしごく)……なァんかんと来た時にあ、テヘヘ、あっしぁ眼がくらくらッとしたね、じっさい」
「まあさ、殿様のおっしゃることにぁ、おさよさんが死んだ母御によく似ているから、ほんとの母と思って孝行をつくしている――てんだがわしぁどうも気のせいか、ちっとべえ臭えと思う」
「くせえ? とは何がさ?」
「なにか底にからくりがあるんじゃあねえかと――いや、これあ取り越し苦労だろうが、富さんの前だが年寄りはいつも先の先まで見えるような心もちして、心配が絶えませんよ。損な役さね」
「だけど、おさよ婆さんにしたところで、ほかにちゃあんとした因縁(わけ)がなくちゃあ、死んだ殿様のお袋(ふくろ)に似てるぐれえなことで、ああいい気に奉られている道理はねえ。ここはなるほど、喜左衛門どんのいうとおり、何か曰(いわ)くがあるのかも知れねえ」
「殿様ってお方がまともじゃねえからね」
「くわせものでさあね。あの侍(さんぴん)は」
 ヒソヒソささやきながら屋敷を出て、法恩寺橋の通りへかかろうとすると、片側は鈴川の塀、それに向かって一面の畑。
 頃しも冬の最中だから眼にはいる青い物の影もなく、見渡すかぎりの土のうねり……ところどころの積(つ)み藁(わら)に水底のような冷えた陽がうっすらと照った。立ちぐされの案山子(かかし)に烏が群れさわいでいるけしき――蕭条(しょうじょう)として襟(えり)寒い。
 はるかむこうに草葺き屋根の百姓家が一軒二軒……。
 どこかで人を呼んでいる声がする。
 風。
「オオ寒(さむ)!」
 思わず二人いっしょに口にだして、喜左衛門と鍛冶富、小走りに足を早めようとすると! 畑のまえの路ばたに道祖神(どうそじん)の石がある。
 そのかげから、突如、躍り出た二、三人の人! はッとして見ると鎖(くさり)入りの鉢巻に白木綿の手襷(てだすき)、足ごしらえも厳重な捕物の役人ではないか。
 それがばらばらッととりまいて中のひとり、
「お前たちは今そこの鈴川の屋敷から出て参ったな?」
 と詰(つ)めよられて、おどろきあわてつつも、口きき大家と言われるだけあって、喜左衛門はすぐに平静に返ってはっきりと応対する。
「はい、わたくしは浅草田原町三丁目の家主喜左衛門と申す者、またこれなるは三間町の鍛冶屋富五郎といいまして、この鈴川様のお屋敷へ下女をお世話申しあげましたについて――」
「どうもあんまりお屋敷の評判がよくねえから」と鍛冶富も口を添え、「きょう貰(もら)いさげにでましたところが、その婆あさんがこう高え所にかまえて、おお両人とも壮健にて重畳(ちょうじょう)重畳……」
「これ、何を申す!」
 叱りつけておいて、役人達は二こと三こと相談したのち、
「いや、ほかでもないが、ただいま、浅草橋の番所へ女手の書状を投げこんだ者があって、その文面によると、ひさしくお上(かみ)において御探索(たんさく)中であったかの逆袈裟(ぎゃくけさ)がけ辻斬りの下手人が当屋敷に潜伏(せんぷく)いたしおるとのことであるが、お前ら屋敷内にさよう胡乱(うろん)な者をみとめはしなかったか」
 いいえ!――とふたりが力をこめて首を振ると、べつに引きとめておくほどのものどもでもないとみてか、
「よし、いけ、足をとめて気の毒だったな」
 と許された喜左衛門と富五郎、にげるように先を争って駈け出したが……。
 こわいもの見たさに。
 塀の曲り角からのぞいてみると、
 同じしたくのお捕り役が二、三人ずつ、もうぐるりと手がまわったらしく、屋敷をめぐって樹のかげ、地物の凹(くぼ)みにぴったりと伏さっている――その数およそ二、三十人。
「えらいことになったな」
「だから先刻、婆あさんの手でも取ってしゃにむに引っぱり出せあよかった」
 いいながらなおもうかがっていると、捕り手はパッと片手をかざしあって合図をした。と見るや、ツウと地をはうようにたちまち正門裏門をさして寄ってゆく。
 が、喜左衛門、富五郎をはじめ、役人のうち誰も、さきほどから、鈴川方の塀の上に張り出ている欅(けやき)の大木の梢(こずえ)、その枝のしげみに、毒蛇のような一眼がきらめいて、その始終(しじゅう)を見おろしていたことを知らなかった。

 明るい陽をうけた障子に、チチと鳥影が動くのを、源十郎はしばらくボンヤリと眺めていた。
 うすら寒い静寂(しずけさ)である。
 おさよのおさまりように胆をつぶし、狐(きつね)につままれたような心持で、家主喜左衛門と鍛冶富が帰っていったあとの、化物屋敷の奥の一間。
 源十郎は、何か物思いに沈みながら、体(からだ)についたごみの一つ一つをつかんでいると、おさよの茶をすする音が、その瞬間の部屋を占めた。
「さて、おさよどの」と源十郎は、思いきったように、しおらしく膝を進めて、「今もかの町人どもに申し聞かせたとおり、わしはそこもとを他人とは思わぬ。なくなった母にそっくりなのみか、恥を言わねばわからぬが、拙者も母の生存中は心配ばかりかけたもの――いや、存命中にもう少し孝行をしておけばよかったと、これは愚痴(ぐち)じゃが、いま考えても、あとの祭りだ。そこでなあ、おさよどの、亡母(はは)によく似ている年とったそこもとをよく労(いたわ)って進ぜたなら、草葉のかげで母もさぞかし喜ぶであろうとこう思うによって、これからはそこもとを実の母同様に扱うから、そちも、何か拙者に眼にあまることがあったら違慮(えんりょ)なく叱言(こごと)をいってもらいたい」
 口巧者(こうしゃ)な源十郎、一気にこれだけしゃべって、チラリとおさよの顔を盗み見ると、おさよは今までにも、すっかり食わされているから、この源十郎の深謀を知る由もなく、もうすっかりその母親、五百石の女隠居になった気で、この時もせいぜい淑(しと)やかに軽く頭をさげただけだ。
「いいえもう殿様、それはわたくしからこそ……」と、有頂天(うちょうてん)に近い挨拶である。
 第一段のはかりごと。
 わがこと半ばなれり矣、と源十郎は、真正面に肩をはって、今日はちと改まった話がござる――という顔つき。
「おさよどの、そこでじゃ……」
 源十郎、がらになくかたくなっている。
「はい」
「そこでじゃ、そこもとの身の上ばなしも、委細(いさい)承(うけたまわ)ったが、養子というものは、いわばまあ、富くじみたよう――当たらぬことには、これほどつまらぬ話はない。近い例が、その御身じゃ。年をとって、こうして下女奉公をするのも、いってみればお艶どのの男が甲斐性(かいしょう)のない証拠。な、おさよどのそうではござらぬかな」
「はい」
「ところで、ものは相談じゃが、どうだな、おさよどの、娘御を生涯おれの側女(そばめ)にくれる気はないかな」と、のぞきこむように、下から見あげて、源十郎、あわててつけ加えた。「いや、側女と申したとてそれは表面、内実は五百石の奥方、そこもとはとりもなおさず、そのお腹さま――いかがのものであろうな?」
「はい、まことにそうなれば……」
「ふむ、そうなれば?」
「そうなりますれば、わたしばかりか娘にとってこの上ない出世――ではござりますが、しかし……」
「しかし――なんじゃ?」
「はい。しかし、諏訪(すわ)栄三郎と申しますものが」
「うむ。存じておる。だが、諏訪氏は諏訪氏として」
「でも、栄三郎様もお艶ゆえに実家を勘当(かんどう)されている身でございますから、この際、離縁(りえん)をとりますには、いくらかねえ……でないと、お話が届きますまいと存じますよ」
 源十郎はぐっと反身(そりみ)になって、
「手切(てぎ)れ金か、いやもっとも。話は早いがいい。どのくらいで諏訪氏その離縁状を出すだろうの?」
「さようでございます。まとまったお金は五十両一度におもらい申したことがありますが、お兄上様とおもしろくなくなったのはそれからでございますから、今五十両渡しましたら、栄三郎様もお艶と手を切って……」
 あのいつかの五十金、駒形の寺内でつづみの与吉を使って一時手に入れたのを、そばからすぐに泰軒に取り戻された金子(きんす)のことを思いうかべて、源十郎は含み笑いを殺しながら、
「よし、わかった。そんならその金は拙者が引き受けて才覚(さいかく)いたす。それはよいが、掛け合いには誰が参る?」
「それはあの、だれかれと申さずに私が参りましょう」
「そうか、では、何分よろしく頼む」
 と、源十郎が、ぴょこりと辞儀(じぎ)をしたその耳もとへ、おさよはすばやく口を持っていって、
「それからあの、栄三郎が命がけでほしがっているものが――」
「うむ、うむ! か、刀であろうが? なれど、おさよどの、あれは、あれは左膳が……」
「ですけれど殿様」
 にじり寄ったおさよが、何事か源十郎にささやいたが、その咽喉仏(のどぼとけ)が上下に動き終わった時、鈴川源十郎、思わずアッと驚愕(きょうがく)した――とたんに!
 ぬっと障子に人影がさして怪物丹下左膳のしゃがれ声。
「おいッ! 源十ッ! 八丁堀が参った。また一つ、剣の舞いだぜ」
 と! うわあッ! というおめきが屋敷の四囲に!
 御用ッ!
 御用ッ! 御用ッ!
 と声々がドッとわき起こるのを耳にした鈴川源十郎が、障子を蹴開いた面前に、独眼隻腕の丹下左膳、乾雲丸は火事装束の五人組に奪い去られたとあって、普通の大小(だいしょう)だが、左剣手だけに右腰にぐっと落とし差しのまま、かた手を使ってその上から器用に帯を結びなおしているところ。
 縁の上下に、源十郎と左膳、さぐるがごとき眼を見合ってしばし無言がつづいた。
 山雨(さんう)まさに到らんとして、風(かぜ)楼(ろう)に満つ。
 左膳は、
 何ごとか戸外にあわただしいようすを感じて、そっと離室を忍び出た拍子に、ちらと垣根のむこうに動く捕吏(とりて)の白襷(だすき)を見つけたので、そのまま、塀からそとの往来に突き出ている欅(けやき)の大木に猿のごとくスルスルとよじのぼって下をうかがうと……。
 陽にきらめいて寄せて来る十手の浪。
 地をなでて近づく御用の風。
 さてはッ! 逆袈裟(ぎゃくけさ)がけ辻斬りの一件がばれたなッ! と思うより早く、剣鬼左膳のあたまを掠(かす)めたのは、そも何者が訴人(そにん)をしてかくも捕り手のむれをさしむけたのか?――という疑惑(ぎわく)とふしぎ感だったが、そんな穿鑿(せんさく)よりも刻下(いま)は身をもってこの縦横無尽に張り渡された捕縄(ほじょう)の網を切り破るのが第一、と気がつくと同時に長身の左膳、もう塀外へ降りても途(みち)はないから、左手に老幹(ろうかん)を抱いて庭にずり落ちざま、ただちに、源十郎がおさよと差し向いでいるこの座敷のそとへ飛んで来たのだった。
 刀痕(とうこん)の深い左膳の蒼顔(そうがん)、はや生き血の香をかぐもののごとく、ニッと白い歯を見せた。
「来たぞ源的!」
「上役人か。斬るのもいいが。あとが厄介(やっかい)だ」
「と言って、やむを得ん」
「うむ、やむを得ん」
 いう間も、多数の足音が四辺に迫って、剣妖(けんよう)左膳、パッと片肌ぬぐが早いか、側の女物の下着が色彩(いろ)あざやかに、左指にプッツリ! 魔刀乾雲ではないが鯉口押しひろげた。
 と!
 背後の樹間の人の姿が動いたと見るや、ピュウ……ッ!
 と空をきって飛来した手練の鉤縄(かぎなわ)、生(せい)あるもののように競(きそ)い立って、あわや左膳の頸へ! 触れたもほんの一瞬、銀流(ぎんりゅう)ななめに跳ねあがって小蛇とまつわる縄を中断したかと思うと、縄は低宙を突んざいていたずらに長く浪をうった。
 同時に。
 はずみをくらった投げ手が、なわ尻を取ったまま二足三あし、ひかれるようにのめり出てくる……ところを!
 電落した左膳の長剣に、ガジッ! と声あり、そぎとられた頭骸骨(ずがいこつ)の一片が、転々と地をはった。脳漿(のうしょう)草に散って、まるで髻(たぶさ)をつけたお椀を抛(ほう)り出しでもしたよう――。
 サッ! としたたか返り血を浴びた左膳、
「ペッ! ベラ棒に臭えや」
 と、左手の甲で口辺をぬぐった時、
「神妙にいたせッ!」
 大喝、おなじく捕役のひとり、土を蹴って躍りかかると、刹那(せつな)に腰をおとした左膳は、
「こ、こいつもかッ!」
 一声呻いたのが気合い、転じてその深胴(ふかどう)へザクッ! と刃を入れた。
 ――と見るより、再転した左膳、おりから、横あいに明閃(めいせん)した十手の主(ぬし)へ、あっというまに諸(もろ)手づきの早業、刀身の半ばまで胸板に埋めておいて、片脚あげて抜き倒すとともに、三転――四転、また五転、剣体一個に化して怪刃のおもむくところ血けむりこれに従い、ここに剣妖丹下左膳、白日下の独擅場(どくせんじょう)に武技入神の域を展開しはじめた。
 が、寄せ手の数は多い。
 蟻群の甘きにつくがごとく、投網(とあみ)の口をしめるように、手に手に銀磨き自慢の十手をひらめかして、詰(つめ)るかと見れば浮き立ち、退(しりぞ)くと思わせてつけ入り……朱総(しゅぶさ)紫総(しぶさ)を季(とき)ならぬ花と咲かせて。
「うぬウッ!」
 と左膳は、動発自在の下段につけて、隻眼を八方にくばるばかり……重囲脱出(じゅういだっしゅつ)の道を求めているのだ。
 暮れをいそぐ冬の陽脚。
 そして、夕月。
 樹も家も人の顔も、ただ血のように赤い夕映えの一刻に、うすれゆく日光にまじって、月はまだひかりを添えていなかった。
 刃火のほのおと燃えて天に冲(ちゅう)するところ、なんの鳥か、一羽寒ざむと鳴いて屋根を離れた。
 縁側に立って、うっとりこの力戦を眺めている源十郎は、剣香(けんこう)に酔って抜くことも忘れたものか――いわんや、おさよ婆さんなぜか足音をぬすんで、とうの昔にその座敷をまぎれ出ていたことには、かれはすこしも気がつかなかった。

 上役人に刃向かって左膳を救い出すか……それとも、友を見棄てておのれの安穏(あんのん)を全うすべきか?
 この二途に迷いながら、ひとつにはただぼんやりと、いま庭前に繰りひろげられてゆく剣豪決死の血の絵巻物に見とれている源十郎。
 かれは片手に大刀をさげ、片手で縁の柱をなでて左膳の剣が捕吏(とりて)の新血に染まるごとに、
「ひとウつ! ふたアツ! それッ! 三つだ! 三つだアッ! ほい! 四つッ!」と源十郎、子供が、木から落ちる栗でも数えるように指を突き出しては喜んでいると!
 西から東へ、一刷(は)け引いた帯のような夕焼けの雲の下に。
 その真っ赤な残光を庭一面に蹴散らし、踏み乱して、地に躍る細長い影とともに、剣妖丹下左膳、いまし奮迅(ふんじん)のはたらきを示している。
「汝等(うぬら)ア! 来いッ! かたまって来い! ちくしょう……ッ!」
 築山の中腹に血達磨(ちだるま)のごとき姿をさらして、左膳は、左剣を大上段に火を吹くような隻眼で左右を睥睨(へいげい)した。
 迫る暮色。
 暗くなっては敵を逸(いっ)する懼(おそ)れがあるので、一時も早く絡(から)め捕ってしまおうと、御用の勢は、各自手慣れの十手を円形につき突けて――さて、駈けあがろうとはあせるものの、高処(こうしょ)の左剣、いつどこに墜落(ついらく)しようも知れぬとあって、いずれも二の足、三の足を踏むばかり……この間に、石火の剣闘にみだれかけた左膳の呼吸も平常に復して、肩もしずかに、ぴったりと不動のかまえに入っている――。
 と見て、捕り手を率いる同心とおぼしき頭だったひとりが、半弧(はんこ)のうしろから大声に叱呼(しっこ)した。
「やいッ! 丹下左膳とやら。旧冬(きゅうとう)来お膝下を騒がせおった辻斬りの下手人がなんじであることは、もはやお上においては百も承知であるぞッ! これ、なんじも剣の妙手ならば、すみやかに機をさとり、その遁(のが)れられぬを観じて神妙にお縄をちょうだいしたらどうだッ! この期(ご)におよんで無益の腕立ては、なんじの罪科(ざいか)を重らすのみだぞッ!」
 あお白い左膳の顔が、声の来るほうへ微笑した。
「なんだ、辻斬りがどうしたと? いってえ誰が訴人をして、おれのいどころが知れたのか、それを言えッ、それをッ!」
 と低い冷たい声を口の隅から押し出した。
 捕役はなおも高びしゃに、
「さような儀、なんじに申し聞かすすじではないッ!」と一喝したが、思い返したものか、
「だが――」と声を落として、「なんじの相識(しりあい)……意外に近い者から出おったのだ」
 左膳の一眼が残忍(ざんにん)な光を増した。
「な、何ッ? そうか。な、おれは、友に売られたのかッ……うむ! おもしれえ! して、その、おれを訴えでた友達てえのは、どこのどいつだ? これを聞かしてくれ!」
 が、役人は左膳の言葉の終わるを待たず、
「ええイ! なんのかのと暇をとる。聞きたくば縄を打たれてからきけッ――それッ、一同かかれッ!」
 と、あとは、御用! 神妙にいたせ! と怒声がひとつにゆらいで渦を巻いたが、そのどよめきの切れ目から恨みにかすれる左膳の咽喉が哀願(あいがん)の声を振り絞っているのがかすかに聞こえた。
「おいッ! 情けだあッ! お、教えてくれ!――いッ! だ、だれがおれを裏切ったのか……そ、それを知らねえで不浄(ふじょう)縄にかかれるかッ? よ! 一言! よう! 名を言え、訴人の名を言えよ名をウ――!」
 が、役人どもは、すでに懸命の十手さばきにかたく口を結んで、こたえる気色(けしき)もいとまもない。雨と降り、風と吹きまくる御用十手の暴風雨のなかから、この時ふと左膳の眼についたのは、縁に立つて茫然自失の態(てい)で、この自分の難を眺めている鈴川源十郎のすがたであった。
 見るより左膳、たちまち脳裏(のうり)にひらめいたものあるごとく、
「や! 源十! こらッ源公! て、てめえだなッおれを訴えたのはッ!」
 おめきざま、乾雲丸ではないが、左膳の剣に一段の冴えが加わって、かれは即座に左右にまつわる捕り手の二、三をばらり――ズン! 薙伏(なぎふ)せたかと思うと、怨恨(えんこん)と復讐(ふくしゅう)にきらめく一眼を源十郎の上に走らせ、長駆(ちょうく)、地を踏みきって、むらがる十手の中を縁へ向かって疾駆(しっく)し来(きた)った。
 とたんに。
 ズウウウン! と一発、底うなりのする砲声が冬木立ちの枝をゆるがせて、屋敷のそとからとどろき渡った。

 本所化物屋敷の荒れ庭に、血沫(ちしぶき)をあげて逆巻(さかま)く十手の浪と左手の剣風……。
 奇刀乾雲丸は、不可解の一団に持ち去られたと称して手もとにないものの、剣狂左膳の技能は、あえて乾雲を俟(ま)たなくても自在に奔駆(ほんく)した。
 そうして。
 ひそかに自分を訴えでたのは、てっきりこの家のあるじ鈴川源十郎に相違ないと、ひとりぎめに確信した左膳が、今や、算を乱し影をまじえて、むらがる捕吏(ほり)を突破し、長駆一躍して、縁の源十郎へ殺到した刹那に!
 突(とつ)! 薄暮紺色の大気をついて一発炸然(さくぜん)と鳴りひびいたふところ鉄砲の音であった。
 やッ! 飛び道具の助勢!……と不意をうたれた驚愕の声が、捕吏の口を洩れて、一同、期せずして銃声の方を見やると――。
 南蛮渡来(なんばんとらい)の短筒(たんづつ)を擬した白い右手をまっすぐに伸ばして、その袖口を左手でおさえた女の立ち姿が、そろりそろりと庭の立ち木のあいだを近づいて来ていた。
 思いがけなくも櫛まきお藤である!
 それが、これもお尋ね者のお藤ッ! と気がついて捕吏の面々はあらたにいろめき渡ったのだが、お藤は、ゆっくりと歩を運んで、幹を小楯(こだて)に、ずらりと並ぶ捕役(とりやく)の列に砲口を向けまわして、
「さ、丹下様ッ! お早くッ!――お藤でございます。お迎いに参りました。ここはあたしがおさえておりますから、あなたはなにとぞ裏ぐちから……お藤もすぐにつづきますッ!」
 と叫ぶ甲(かん)高い声を聞いて、左膳は、何はともあれ脱出するのが目下の急務だから、依然(いぜん)縁さきに佇立(ちょりつ)する源十郎をしりめにかけて、
「やいッ、鈴源! おれあ手前に咬(か)まれようたあ思わなかったぞ!」
 源十郎は冷然と、
「ばかを申せ! 拙者が貴公を訴人したなどとは、徹頭徹尾(てっとうてつび)貴様の誤解だ! 邪推(じゃすい)じゃ!」
「だまれッ! いずれ探ればわかること。早晩(そうばん)この返報(しかえし)はするからそう思え」
「そうとも! いずれ探れば分明(はっきり)することだ――それより丹下、いまは一刻も早くこの場を……!」
「何をお利益(ため)ごかしに! おおきにお世話だッ!」
 左膳と源十郎、こうして短い会話(やりとり)をとりかわしながらも、
「お前さんたち、動くと撃(う)つよ!……この異人の玩具(おもちゃ)は気が早くてねえ、ほほほ」
 と突きつけるお藤の短筒に、捕吏の陣が、瞬間、気を抜かれてぽかんとしていると、左膳、一眼を皮肉に笑わせて、すばやくお藤のうしろにまわったが……。
 ポン! ポン! と裾を払い、衣紋(えもん)をなおしたかと思うと、べったり返り血に彩られたまま、やがて、さがりそめた夜のとばりに紛れて、ぶらりと裏門を出ていった。乾雲ではない別の大刀を、何事もなかったように落としざして。
 と、ただちに。
 お藤も、懐中(ふところ)鉄砲の先で、役人のまえに円をえがきながら、にっこと縁の源十郎に意味ふかい蒼白の笑みを投げておいて、あとずさりに木の間を縫って四、五間(けん)遠のくや、いなや、パッ! と身を躍らして左膳のあとを追った。
 みるみる去りゆく剣魔と女怪の二つの影。
 それッ! と激しい下知がくだって、捕吏の一団が小突きあいつつふたりの足跡を踏んだ時は、すでに塀のそとには人かげらしいものもなく、道路をはさむ畑に薄夜の靄気(あいき)がこめて、はるかの伏屋(ふせや)に夕餉(ゆうげ)のけむりが白く長くたなびくばかり――法恩寺橋のたもとに、宿なし犬が一匹、淡い宵月の面を望んで吠え立てていた。
 ……櫛まきお藤、そも左膳を助けだしてどこへ伴おうというのであろうか。
 そしてまた、あとに残った源十郎は?
 否! それよりもかのおさよはどこに――?
 たとえ乾坤二刀、夜泣きの刀のいきさつはなくとも、昨秋あけぼのの里の試合に勝って、当然じぶんのものと信じている弥生のこころが、当の剣敵諏訪栄三郎に傾(かたむ)きつくしていると知っては、丹下左膳の心中はなはだ穏かならぬものがあったことは言うまでもない。
 故(ゆえ)に。
 栄三郎に対する左膳の気もちは、つるぎに絡(から)む恋のうらみが多分に含まれていたのだが……。
 それはさておき。
 主君相馬大膳亮(そうまだいぜんのすけ)殿の秘旨(ひし)を帯びる左膳としては、ここにどう考えてもふしぎでならない一事があった。ほかでもない。それは、かの、栄三郎と泰軒が鈴川の屋敷に斬りこみをかけて、細雨に更(ふ)ける一夜を乱戟に明かし、ようやく暁(あかつき)におよばんとしたとき、まぼろしのごとく現われて、自分等のみならず栄三郎とも刃を合わせたのち、ほどなく東雲(しののめ)の巷(ちまた)に紛れさった五梃駕籠……火事装束の武士たちの正体、ならびにそのこころざしであった。
 かれらもまた乾坤二口(ふたふり)をひとつにせんがため! であることはあの時、交戦の隙(すき)に首領らしい老人が宣示(せんじ)したところによって明らかであるが、それが、怪しきことこのうえなしと言うべきは。
 そもそも……。
 左膳の密命に端を発して、はからずも、過般来(かはんらい)栄三郎と左膳の間に一大争奪戦が開始されていることは、局にあたる両者と、それをとりまく少数のもの以外、そして、世動運行をあやつる宿命の神のほかは、他に識(し)る者もないはずなのに!
 それだのに!
 火事装束の五人組は、最初からすべてを見守っていたもののように、雲竜一庭に会して二つ巴(どもえ)をえがいているその期をねらって、ああして忽然と現場に割りこんで来たのであった。
 剣の立つ逞(たくま)しい侍が五人一隊をなして、左膳からは乾雲丸を、栄三郎からは坤竜丸を取りあげんものと、虎視眈々(こしたんたん)と暗中に策動しつつあるに相違ないのだ。
 と仮りにきめたところで。
 さて、雲と竜との相ひく二剣を一所におさめ得たとしても、五人組はそれをいったいどうしようというのだろう?
 だが、こうなるとまた疑点(ぎてん)はあとへ戻って、この一団の目的を推測するためには、何よりもまず彼奴らの本体を知らねばならぬ。
 何者?
 あるいは何者の手先!
 ……と、いくら坐して首をひねったとて、左膳に見当のつきようはなかったが、いままでも栄三郎の太刀風なかなかに鋭く、かつ真剣の修羅場(しゅらば)を経(へ)てその上達もことのほか早く、おまけに蒲生泰軒(がもうたいけん)という鬼に金棒までついているので、左膳の乾雲、そうそうたやすくは栄三郎の坤竜を呼ぶことあたわずそのうえに、助力の約をむすんである鈴川源十郎なるものが、平素の性行から観て今後頼みにならないことおびただしい――そこへ、疾風のように出現したのがあの五人組の怪士連だ。
 そこで左膳も、しばしば刀を措(お)いて熟考せねばならぬこととなって、これはかの斬りこみ直後のある日だったが、隻腕につるぎを扼(やく)するほかあまり頭の内部を働かしたことのない左膳、すっかり困惑しきって、ちょうどその草廬(そうろ)に腰をおろして駄弁をろうしていたつづみの与吉へ、
「なあおい、与の公」
「へえ。さようで」
「ウフッ! 何がさようだ? まだ、なにも申さぬではないか」
「あッそうだった。けれど殿様、あのこってげしょう……例の、ほら、火消し仕度のお侍(さむれえ)さ。ねえ! 金的(きんてき)だ。当たりやしたろうこいつア――」
「うむ! いかさま的中(てきちゅう)いたした。貴様、読心の術を心得おると見えるな」
「へっへ。御冗談。そんなシチ難(むずか)しいこたあ知りませんがね。どうしたもんでごわしょう、この件は」
「サ、それだ。どうしたものであろうな」
 と相談しあっているうちに、打てばひびく、たたけば応ずる鼓(つづみ)の異名(いみょう)をとっているだけに、いささか小才のきく与吉、どう捏(こ)ねまわして何を思いついたものか、二こと三ことささやくと、左膳はたちまち与吉の進言をいれて、隻眼によろこびの色をうかべながら会心の小膝を打った。
 いずれ事成ったのちに相応の賞を与えようと誓(ちか)ったのであろうが、ふたりはなおも密談(みつだん)数刻ののち、とうとう議一つに決してただちに実行に着手したのだった。
 これは、あの大岡越前守忠相が浅草の歳の市にあらわれて、栄三郎へあてた左膳の書面を手に入れた数日前のこと……つまり、まだ年のあらたまらないうちであった。
 で、そのつづみの与の公一代の悪智恵(わるぢえ)というのは、こうである。
 さて、つづみの与吉の策略によって――左膳は即座に筆を執(と)って、あの、栄三郎に宛てた一札を認めたのだった。
 その文言は、彼の五人組に秘刀乾雲を奪い去られて、いま手もとにないこと。
 そして、こうして自分が乾雲丸を所持していない以上は、もはや栄三郎とも仇敵(かたき)同士に別れてねらいあう意味のないこと。
 のみならず、これからのちは、左膳が栄三郎に腕をかして、栄三郎の腰に残っている坤竜丸の引力により、再び乾雲を呼びよせて火事装束に鼻を明かしてやりたいが雲煙霧消(むしょう)、従来のことはすっぱりと忘れて改めてこの左膳を味方にお加えくださる気はござらぬか。
 ――という欺誑(ぎきょう)と譎詐(きっさ)に満ちた休戦状でありまた誠(まこと)に虫のいい盟約の申し込みでもあった。
 さしずめこの手紙を栄三郎へ渡して、しばしなりとも坤竜の動きをおさえて置くあいだに。
 さ、その間にどうする?
 という段になって、左膳と与吉、いっそう語らいをすすめた末。
 今は、坤竜を佩(はい)する栄三郎と、その助太刀泰軒ばかりではなく、じつに得体の知れない火事装束の五人組というものを向うへまわさなければならないので、いかに至妙の剣手とはいえ、丹下左膳ひとりではおぼつかない。あまつさえ身を寄せる家のあるじ、鈴川源十郎は、老下女おさよにとりいってお艶、栄三郎を離間しようとのみ腐心し、決然剣を取って左膳に組し、栄三郎を亡き者にしようという当初の意気ごみをしだいに減じつつあるこんにち。
 なるほど、諏訪栄三郎は左膳にとっては剣の敵。
 源十郎にとっては恋のかたき……。
 ではあるが、はじめ何ほどのことやあろう、ただちに乾坤二刀をひとつに手挟(たばさ)んで郷藩中村へ逐電(ちくでん)しようと考えていた左膳の見こみに反して、坤竜栄三郎は思ったより強豪、そこへ泰軒という快侠の出現、いままた五人組の登場と、こう予期しないじゃまに続出されてみれば源十郎が左膳と別の戦法を用いだすにつれて、広い江戸中に孤立無援の丹下左膳、がらになくいささか心細くなって暗々然と隻腕に乾雲を撫(ぶ)さざるを得なかった。
 鈴川源十郎がかくも頼むにたらぬ!
 と気がついてみると、そもこの左膳の万難千苦の根因はと言えば相馬大膳亮様の慾炎(よくえん)――厳命にあることだから、ここはどうしても故里(くに)おもてから屈強の剣士数十名の来援を乞(こ)うて、一つには五人組にそなえ、同時に多勢不意に襲撃し、栄三郎、泰軒を踏み潰し、一気に坤竜を入手せねばならない!
 こう事況が逼迫(ひっぱく)したうえは、早いが勝ち。
 一日遅れれば一にち損!
 瞬刻を争って相馬中村から剣客の一団を呼び寄せよう! へえ殿様、それが何よりの上分別(じょうふんべつ)、このさい一番の思いつきでございます……とあって、左膳は、成功後の賞美(ほうび)を約して密々のうちに、つづみの与吉を奥州中村へ潜行させることになった。
 だから……。
 乾雲丸が強奪されて、いま左膳の手にないというものも、いわば一時の苦肉の計、なんとかして応援が着府するまで、このうその手紙によって栄三郎と和の状態をつづけたいというまでにすぎない。
 与吉が同藩の剣勢を引きつれてくれば?
 あとはもう占めたもの!
 が、その期間、泰軒、栄三郎がこの書面を真(ま)に受けてじっと[#「じっと」は底本では「じって」]していてくれればよいが……と、なかば危ぶみ半ば祈りながら、左膳が件(くだん)の書状を与吉に渡すと――。
 すべては己(おの)が方寸から出たことで委細承知したつづみの兄哥(あにい)。
「殿様、はばかりながら御安心なせえまし。きっとあっしが引き受けてこの書を栄三郎へ届け、すぐその足で奥州をさして発足(ほっそく)いたしますから」
「そうか。それでは中村へ参っての口上は……」と左膳は、噛(か)んで含めるように使いのおもむきを繰り返したうえ、「な、こういう次第だからとよく申して、同勢をすぐり、貴様には気の毒だが、その夜にでも彼地(あちら)をたって江戸へ急行してもらいたい。礼は後日のぞみ放題(ほうだい)にとらせる」
「おっと! 水くせえや殿様。私とあなた様の仲じゃアありませんか、礼なんて――へっへへへ」
 と、ここに話し成って、まもなく与吉は自宅(うち)へ帰ってしたくにかかると同時に!
 夜中、やみに紛れて左膳は、こっそりと……真(しん)にこっそりと、夜泣きの刀の大、乾雲丸を、鈴川庭内の片隅に土を掘って埋めたのだが――。
 たれ識(し)らぬと思いきや!
 ここにひとり、この左膳の乾雲埋没(まいぼつ)をひそかに目睹(もくと)していたものがあった。
 あれから数日。
 さてこそ、あのものものしい旅装をととのえたつづみの与吉。はたして今ごろは奥州口をひたすら北へ北へと指して、いそいでいることであろうか。
 とにかく今日まで、離庵(はなれ)の丹下左膳のうえに、なんとなく心もとない起居(おきふし)が続いていたのだった。

 左膳のために求援(きゅうえん)の秘使にたったつづみの与吉。
 さっそく、旅仕度をして、なんとかして栄三郎を突きとめたいと、浅草歳の市をぶらついていると、折りよく栄三郎の姿を見かけて手紙を押しこんだまでは上出来だったが――。
 掏摸(すり)とまちがわれて追っかけられ、ようよう櫛まきお藤の家へ飛びこんでほっと安心――するまもなくその旅装から左膳との謀計(ぼうけい)を疑われて、お藤の嬌媚(きょうび)で骨抜きの捕虜にされてしまった形。
 色っぽい眸ひとつにぐにゃりと降参した与の公は、こうして左膳の期待を裏切り、いまだにお藤の二階にブラブラしていることかも知れない。
 左膳の身になれば、これほどの手違いはまたとあるまい。だが、それと、そうして、左膳の文によって栄三郎がいかに考え、まさに左膳の言い分を真実ととりはしなかったろうが、今後の処置をどう決したか? ということはしばらく天機(てんき)のうちに存するとして。
 また、栄三郎が左膳の手紙を取り落として、それが、人もあろうに、越前守忠相に拾われて今その手にあることもここに問わず……。
 ただ、お藤である。
 彼女は、与吉の口から、乾雲丸が左膳のもとにないと聞くや、ただちにそのからくりを見破って、与の公までが左膳に肩を入れるのがくやしくてならなかった。
 恋しい左膳さま――それはいまも変りがないが、容れられてこそ恋は恋。
 あのように嫌いぬかれて、なおもこころ私(ひそ)かに男を思うなどということは、お藤の性(さが)でも、またそんなしおらしい年齢でもなく、頭からできない芸当であった。
 ばかりでなく。
 じぶんを見向きもしないで、かの弥生にのみ走っている左膳の心を思うと、責め折檻(せっかん)された覚えもあり、なんとかして一矢(し)左膳に報いる機会を待っていたお藤だった。
 手に入らぬものなら壊(こわ)してしまえ!
 どうせ他人なら遠慮はいらぬ! あくまでも左膳を呪(のろ)って、いっそあの人の何もかもをめちゃくちゃにしてやれ!
 こう決心した妬婦(とふ)お藤、与吉をちょろまかして足をとめておくが早いか自らはスルリと抜けて、辻斬りの下手人浪人丹下左膳の所在を訴状にしてポン! と浅草橋詰の自身番へほうりこんだ。文字は女手だが訴人のところへ鈴川源十郎と大書して。
 これに緒(いとぐち)を発したあのお手入れ……御用騒ぎがあったが!
 本所の化物屋敷へ捕吏のむれが殺到するとすぐ、むらむらと胸中にわいて来た何やらさびしい気もちを、お藤はさすがにどうすることもできなかった。
 丹下様へお縄を!
 それも、あたしがちょっと細工をしたばっかりに!
 と思うと、たまらなくなったお藤、いてもたってもいられないのは人情自然の発露で、やにわに、愛蔵の短銃をふところに本所めざして駈け出した。
 何しに?
 おのが陥(おとしい)れた穽(あな)から左膳を引きあげるために!
 魔女の辛辣(しんらつ)と江戸っ児の殉情を兼ね備えている櫛まきの姐御には相違ないが、どっちもお藤本然の相(すがた)とすれば、売ったあとから捕り手のかかとを踏んでスタコラ救助に出かけるなどは、ずいぶん御念の入ったあわてようだったと言わなければならない。
 しかし、矛盾(むじゅん)――ではなかった。
 なぜ……? と言えば。
 これは、町すじを走りながらお藤のあたまに浮かんだのだが、いま左膳を、自分の手で救い出せば、何よりも左膳に、この上もない大恩を被(き)せることになって、あとでよく心づくしを見せたり話したりしたなら、いかな丹下さまでも、今度はふっつり弥生のまぼろしを追い払って、こっちの実(じつ)にほだされるかも知れない。いや、そうなるにきまっている。
 しかも、訴状のおもては本所の殿様のお名になっているのだから、これでりっぱに左膳と源十郎の仲をも割(さ)いて早晩一度は、左膳の剣に源十郎の血を塗ることもできようというもの――橋わたしの約束にそむいて、わがことしか考えない、憎(にく)い源十郎の殿様!
 恩だ!
 恩だ!
 恩を売るのだ! あのお方だって木でも石でもないはず、ことにお武家は恩儀にだけは感ずるという――。
 いよいよ痛切に左膳に対する己(おの)が恋慕をたかめたお藤は、恩! 恩! おん、おん! と拍子をとるように心いっぱい、胸のはりさけるほど無言の絶叫をつづけながら足を宙(ちゅう)に左膳の危難に駈けつけて短銃一挺(ちょう)の放れわざ。あわやというところで丹下左膳を助け出し、そして!
 どこへ……つれて行くかは、彼女にはちゃんと当てがあったのだ。
 あそこ――お藤のほか誰も人の知らない彼地(あそこ)へ!

 本所鈴川の屋敷で、剣怪左膳をとりまいて十手と光刃(こうじん)がよどんでいる最中……。
 櫛まきお藤が忽然(こつねん)と姿を見せてふところ鉄砲ひとつで左膳を庇(かば)ってともに落ちのびていった、そのすこし前のことだった。
 うす靄(もや)のような暮気があたりを包んで、押上(おしあげ)、柳島(やなぎしま)の空に夕映(ゆうばえ)の余光がたゆたっていたのも束(つか)のま、まず平河山法恩寺をはじめとして近くに真成(しんせい)、大法(たいほう)、霊山(れいざん)、本法(ほんぽう)、永隆(えいりゅう)、本仏(ほんぶつ)など寺が多い、それらの鐘楼(しょうろう)で撞木(しゅもく)をふる音が、かわたれの一刻を長く尾をひいて天と地のあいだに消えてゆく。
 暮れ六つ。
 鈴川方化物屋敷の裏手、髪を振りみだした狂女のようにそそり立つ椎(しい)の老樹の下にこわれかかった折り戸と並んで、ささやかな物置小屋が一つ、古薪木や柴に埋もれて忘れられたように建っている。
 かつて、櫛まきお藤が与吉の口から弥生に対する丹下左膳の恋ごころを聞かされて一変、緑面(りょくめん)の女夜叉(にょやしゃ)と化したあの場所だが。
 今は。
 這いよる宵やみのなかに剣打のひびき阿□(あうん)の声が奥庭から流れてくるばかり――座敷まえの芝生には、お捕方を相手に左膳が隻腕一刀の乱劇を演じていることであろうが、うらに面したここらは人影もなく、ただ空低く風が渡るかして、椎の梢が、思い出したようにうなりながら、寒天にちりばめた星くずをなでているだけだった。
 もの淋しい夕景色。
 と! この時。
 物(もの)の怪(け)にでも憑(つ)かれたように、フラフラとこの庭隅に立ち現われた一つの黒法師(くろぼうし)がある。
 しばらく物置の戸に耳をつけて表のかた、周囲に耳を傾けていたが、やがて、いま、屋敷は御用の騒動にのまれて誰も近づいてくる者もないと見るや、しずかに小屋のなかへはいって――すぐに出て来た。
 言うまでもなく、源十郎と対談しているところへ、左膳と捕吏の剣闘(けんとう)が始まったので、こっそり部屋を脱けて出たおさよ婆さんであった。
 手に、物置から取りだした鍬(くわ)を握っている。
 夕方鍬などを持ち出して、こんなところで何をするのか……と見ていると!
 おさよは瞬時(しゅんじ)もためらわずに、やにわに鍬を振りあげて、小屋のかげ、椎の根元を掘りはじめたが――。
 ふしぎ! 近ごろ誰かが鍬を入れたあとらしく、表面が固まりかけているだけで、一打ち、二打ちとうちこむにしたがい、やわらかい土がわけもなく金物の先に盛られて、おさよの足もとに掬(すく)い出される。
 薄やみに鍬の刃が白く光って、土に食い入るにぶい音が四辺の寂寞(せきばく)を破るたびに、穴はだんだんと大きくなっていって。
 はッ! はッ! と肩で呼吸(いき)づく老婆おさよ、人眼を偸(ぬす)んでこの小屋のかげに何を掘り出そうとしているのだろう……?
 それは――。
 過般(かはん)、ある夜。
 老人のつねとして寝そびれたおさよが、ふと不浄(ふじょう)に起きて、見るともなしに、小窓から戸外(そと)の闇黒をのぞくと、はなれに眠っているはずの丹下左膳、今ちょうどそこを掘りさげて、襤褸(ぼろ)と油紙に幾重にも包んだ細長い物を埋めようとしているところだった。
 深夜にまぎれて、食客左膳の怪しいふるまい……これは、乾雲丸を一時こうして隠匿(いんとく)して、かの五人組の火事装束に奪い去られたと称し、栄三郎をはじめ屋敷内の者をさえ偽ろうという極密(ごくみつ)の計であったが、始終(しじゅう)を見とどけたおさよは、さっきのことを源十郎に話したとおり、今の混雑を利用して刀を掘り出し、お艶に別れる手切れの一部として、さっそく栄三郎へ渡そうと思っているのだ。
 老女おさよの手によって、うちおろされる鍬の数!……。
 土が飛ぶ。石ころがはねる。そしてついに、地中の竜ではない、土中の乾雲がおさよの目前にあらわれたとき! 櫛まきお藤の撃った左膳を助ける銃声がひびいた。
 離別以来幾旬日(いくじゅんじつ)、坤竜を慕って孤愁(こしゅう)に哭(な)き、人血に飽いてきた夜泣きの刀の片割れ――人をして悲劇に趨(はし)らせ、邪望をそそってやまない乾雲丸が、ここにはじめて丹下左膳の手を離れたのだ。
 ……転ぶようにしゃがんで穴底から重い刀を抱きあげたおさよ。
 暗中にぱっぱッと音がしたのは包みの土を払ったのだ。

 宵闇(よいやみ)にふくまれ去ったお藤と左膳を追って、捕方の者もあわただしく庭を出て行ったあとで。
 源十郎は長いこと、ひとりぽかんとして縁に立っていた。
 今にも同心でも引き返して来て自分に対しても審(しら)べがあるだろう。ことによると、奉行所へ出頭方を命ぜられるかも知れないが、それには一応、小普請支配がしら青山備前守(びぜんのかみ)様のほうへ話をつけて、手続きをふまねばならぬから、まず今夜は大丈夫。そのあいだに、ゆっくり弁口(べんこう)を練っておけば、ここを言い抜けるぐらいのことはなんでもあるまい――と源十郎、たかをくくって、いまの役人の帰ってくるのを待ってみたが、追っ手は早くも法恩寺橋を渡って、横川の河岸に散っていったらしく、つめたい気をはらむ風が鬢(びん)をなでて、つい、いまし方まで剣渦戟潮(けんかげきちょう)にゆだねられていた、庭面(にわも)には、かつぎさられた御用の負傷者の血であろう、赤黒いものが、点々と草の根を染めていた。
 とっぷりと暮れた夜のいろ。
 源十郎はいつまでも動かなかった。
 丹下左膳は、あくまでも自分がかれを売って訴人をしたようにとっているが、役人どもがいかにして左膳の居所を突きとめたかは、源十郎にとっても、左膳と同じく、全くひとつの謎であった。
「きゃつ、おれをうらんでおったようだが、馬鹿なやつだて」
 ひとりごとが源十郎の口を洩れる。同時にかれは、寒さ以外のものを襟頸(えりくび)に感じて慄然(ぞっ)とした――物凄いとも言いようのない左膳の剣筋を、そして、狂蛇のようなその一眼を、源十郎は歴然(れきぜん)と思いうかべたのだ。が、彼は、たそがれの空を仰いでニッと笑った。
「左膳、何ほどのことやある! 第一、なんて言われても俺の知ったことではない」
 と、あとのほうはどうやら弁解のようにモゾモゾ口のなかでつぶやいて源十郎、部屋へはいろうとしたが、考えてみると、もっとふしぎに耐えないのは、あれよというどたん場(ば)に際して、あの櫛まきお藤が飛び出したことである。
 ふうむ! お藤か……。
 味わうようにこの一語を噛みしめたとたんに、源十郎にはすべての経路が見えすいたような気がして、彼は柱にもたれてクルリと背をめぐらしながら、身をずらしてくすりとほほえんだ。と思うと、わっはっはッ! と大きな笑い声が、腹の底から揺りあげてきて、
「お藤か。あッははは、お藤の仕事か――」
 と、はてしもなく興に乗じていたが。
 やがて。
「おさよ……おさよどの……!」
 声をかけて座敷のなかをのぞきこんだとき、そこに老婆のすがたのないのを発見すると、源十郎、ふッと笑いやんで、聞き耳をたてた。
 木々を吹きわたる夕風の音ばかり――逢魔(おうま)が刻(とき)のしずけさは深夜よりも骨身にしみる。
 チラチラチラと闇黒に白い物の舞っているのは、さては降雪(ゆき)になったとみえる。
 源十郎は、急に思い出したことがあって、そそくさと庭におり立った。
 さっきおさよが耳打ちをした乾雲丸の一条……丹下左膳が、あの刀を物置のかげに埋めているところを見たから、すぐにもこっそり掘り出し、源十郎からとして、お艶の代償に栄三郎へ渡してやりたい。こうおさよは言っていたが、もうおさよは、土をあばいて一物を持ち去ったかも知れない。そうすると、その尻もいずれ左膳から自分に来るであろう。夜泣きの大小にかけては命を投げ出している剣鬼左膳、何をしでかすかしれたものではない――。
 と考えると源十郎、いささか気になりだしたので、庭下駄を突っかけて、いそぎ足に裏へまわった。
 雪が、頬を打って消える。
 椎(しい)の木。そのかげに朽ち果てた薪小屋。
 樹の根を見ると! まさしく穴が掘ってある。
 暗い、細長い土穴に、白い蝶のような雪片が後からあとから飛びこんでいた。
「おさよめ、とうとう左膳に鼻をあかして、乾雲丸を持ち出したな。これは丹下に対し、すこウし困ったことになったぞ」
 こう胸中にくり返しながら、源十郎はあたまの雪を払って座敷に戻った。
 しかし彼は、乾雲丸のことよりも、きょうおさよに約束した栄三郎への手切れ金五十両の工面(くめん)に、はたといきづまっていたのだった。
 五百石のお旗本が五十両にさしつかえるとは……考えられないようだが不義理だらけで首もまわらず、五十はおろかただの五両にも事欠く源十郎であった。
 煩悩(ぼんのう)は人を外道(げどう)に駆(か)る。
 ひとつ――殺(や)るかな……。
 と、やみに刀をふるう手真似をしながら、かれが縁にあがりかけると、いつのまに来たのか、障子のなかに土生(はぶ)仙之助の鼻唄が聞こえていた。
 江戸に、その冬はじめて雪の降った宵だった。

   ふたつの涙(なみだ)

「ええ。どうせわたしはやくざ女ですともさ。そりゃアどこかの剣術の先生のお嬢さんのように、届きはいたしませんよ。ヘン! おあいにくさまですねえ」
 お艶はちょっと口をへの字に曲げて憎(にく)さげに栄三郎を見やった。
 不貞腐(ふてくさ)れの横すわり――
 紅味を帯びたすべっこい踵(かかと)が二つ投げ出されたように畳にこぼれているのを、栄三郎は苦しそうに眺めて眼をそらした。
 どんよりと曇った冬の日だ。
 いまにも泣きだしそうな空模様の下に、おもて通りの小間物屋のほし物が濡れたまましおたれ気にはためいているのが、窓の桟(さん)のあいだから見える……もの皆が貧しくてうす汚(きたな)い瓦町の露地の奥。と、突然、となりの左官の家で山の神のがなり立てる声が起こった。

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