丹下左膳
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著者名:林不忘 

 並木の通りから雷神門(らいじんもん)へかけて、押すな押すなの人波である。
 これはこれは!
 というふうに、越前守の笑顔が大作をふり返った。
 お江戸名物あさくさ歳(とし)の市(いち)。
 町々辻々は車をとめ、むしろを敷いて、松、注連縄(しめなわ)、歯朶(しだ)、ゆずり葉、橙(だいだい)、柚(ゆず)……。
 立ち並ぶ仮屋に売り声やかましくどよんで、臼(うす)、木鉢(きばち)、手桶(ておけ)などの市物が、真新しい白さを見せている。
 浅草橋からお蔵(くら)まえ、駒形並木(こまがたなみき)、かみなり門の往来東西に五丁ほどのあいだ、三側四側につらなって境内はもとより立錐(りっすい)の余地もない盛りよう。おまけに裏は砂利場(じゃりば)、山の宿にまでつづいて、老若男女、お武家、町方、百姓の人出が、いろとりどりの大きな渦を巻いて、閑々(かんかん)としてまた閑々と流れていた。
 冬の陽は高く銀に照って、埃と人いきれと物音が靉然(あいぜん)とひとつにからんで立ちのぼる。
 陽の斑(ふ)点と小さな影とが、通りにあふれる人々の肩に踊って、高貴な虎の皮を見るようだが、何かしら弱々しく冷たいものがそのあいだにみなぎって、さすがに今年もあますところすくないあわただしさを思わせた。
 芋(いも)を洗うような人ごみ。
 そのなかを、おしのびの南町奉行大岡越前守忠相、自邸の庭でも逍遙(しょうよう)するように片手を袖に悠然と縫ってゆく。
 すこし離れてお供をする用人伊吹大作は、ともすれば主君の影が雑踏にのまれようとするので、気が気でない。遅れてはならないと忠相の広い肩幅を眼あてに、懸命に人を掻きわけている。
 右も左も、前にもうしろにも、眼のとどく限りの町すじを埋(う)めて、人、人、人……。
 忠相はただ、まわりのすべてを受け入れ、頷(うなず)いて、あらゆる人と物に微笑みかけたい豊(ゆた)かなこころでいっぱいだった。
 そこには、位の高い知名な身の自分が、今こうして市井(しせい)の巷を庶民に伍(ご)してもまれもまれて徒歩(ひろ)っているのを誰ひとり知るものもないという、稚(おさな)い、けれども満ちたりたよろこびなどはすこしもなかった。もっとも以前ひそかにこの府内巡行をはじめた最初のうちは、彼にもそうした悪戯(いたずら)げな気もちが、まんざらないでもなく、街上をゆく者や店々に群れさわいでいる男女が、なんらかのはずみで自分が大岡越前であることを知ったら、かれらはどんなにか驚き、恐れ、且(か)つあわててそこの土に平伏することであろうか――こう考えると、忠相はいまにも誰かにみつかりそうな気がしてならなかったり、時としては、余は南町の越前である! と叫びあげたい衝動に襲(おそ)われたりしたものだが、しかし、それは昔のことである。
 いまの忠相は、すっかり枯れきっているのだ。
 かれは何らの理屈も目的もなしに、中老の一武人として、寂(さ)びた心境のなかに日向(ひなた)の町を歩いているだけで、言いかえれば、この、浅草の歳の市をひやかしてゆく、でっぷりとふとった上品なお侍は、南町の名奉行大岡越前守忠相ではなく、江戸の一市民にすぎないのだ。だから、向うから来て、自然と顔を合わせてすれちがう多くの者が、誰も気がつかずに往くのにふしぎはないのだった。
 奉行といえども二本の脚がある以上、こっそり町を歩いたとてなんの異やあらん――忠相はこう思っている。その気でどこへでも踏みこんでゆくのだから、お付きの者は人知らぬ気苦労をしなければならないので、いつもおしのびを仰せ出されると、みなこそこそいなくなったり急に腹痛(はらいた)を起こしたりするのがつねだった。
 伊吹大作は人が好いので、ほかの者に代りを押しつけられてたびたびお供をしているうちに、根がお気に入りだけに、このごろでは市内巡視には必ず大作がおつき申し上げることにいつからともなく決まってしまっているのだが、これがなかなか大汗もので、さすがの大作、正直なところ迷惑(めいわく)しごくと腹の底でこぼしている。
 ことに今日!
 ところもあろうに浅草の市なぞへおみ足が向こうとは思わなかった!
 と大作、人浪に押し返されて、くるしまぎれに恨んでいるが、この大作の心中には頓着(とんじゃく)なく、忠相は身体を斜めにしてどんどん進みながら、つと眼についた一軒の仮店に首をつっこんで、
「ふむ。海老(えび)がある」
「へい。ございます――本場物(ほんばもの)で」
「本場……と申せば、伊勢か」
「へえ、へえ、伊勢の上ものでございます」
 これを聞くと越前守忠相、山田の時代がなつかしかったものか、やにわにうしろを向いて呼ばわった。
「大作! 来て見い。みごとな伊勢海老(いせえび)じゃぞ」
 忠相の声が藪(やぶ)から棒に大きかったので、となりにしめ縄をひねくっていたおかみさんの背なかで、おびえた赤ん坊がやにわにワアッ! と泣きだした。
 市の中ほどへ出たときだった。
 突如、うしろに起こった人声を聞いて、忠相何ごころなく振り返ってみた。
 掏摸(すり)だ! 掏摸だアッ! と罵(ののし)りさわいで、背後の人々が一団となって揺れあっている。腕が飛ぶ拳が振りあがる、殴(なぐ)る蹴る。道ぜんたいが野分(のわき)のすすきのよう……。
 と!
 その、人のうずまきのなかにキラリと光った物がある。
「わアッ! 抜いたッ! 抜いたッ! 怪我をするな怪我をッ!」
 という声々がくずれたったかと思うと、旅仕度に身をかためたお店者(たなもの)らしい若い男が、振分けの小荷物を肩に、道中差しの短い刀をめちゃくちゃにふりまわしながら鼠のようにこっちへ飛んでくる、とばっちりを食って斬られてはかなわないから、通行人のむれがサッと左右にわかれたせまい無人の境を、弥次馬(やじうま)に追われて一散に駈けて来るのを見ると――つづみの与吉である。
 与吉のやつ、走りながら金(かな)切り声でどなっている。
「さあ! こうなりゃあどいつこいつの容赦(ようしゃ)はねえ。そばへ寄りゃあ、かたっぱしからぶった斬るぞッ! どいたどいたッ!」
 この勢いに辟易(へきえき)して、みな路をあけるばかり……誰ひとりとび出す者はいない。女子供の悲鳴、ごった返す人垣。としの市の真(ま)ん中(なか)にたいへんな騒ぎが勃発(ぼっぱつ)した。
 これがつづみの与吉――とは知らないが、抜刀をかざす男が近づくとみるや、大作は身を挺(てい)して前へ出るなり、すばやく忠相をかばって柄に手をかける。
「善ちゃん! こっち! こっち! 早くッ!」
 忠相の耳の下で黄いろい声が破裂した。商家の内儀風(おかみふう)の若い女が、この騒動ではぐれたらしく、その時、むこう側からヨチヨチと中間の空地を横ぎりかけた四、五歳の小児を死にもの狂いに呼んでいるのだ。
 与吉は刀身を陽にきらめかせて、もう鼻のさきへ迫ってきている。
「善ちゃん、危ないッ! いいからお帰り! そっちにッ!」
 と女が叫んだ刹那、忠相はヒラリと大作の守護を脱(だっ)して、あれよという間に、通りみちにまごつく善ちゃんを抱きかかえて向う側へ飛びこんだ。
 同時に!
 与吉と、与吉の道中差しは、鉄砲玉のように空(くう)になって疾駆(しっく)し去った。
 とおりがかりの浪人や鳶(とび)の者がぶつかりあいながら与吉を追っかけて行く。それッ! という忠相の眼顔にこたえて、大作もただちに追っ手に加わった。
「この雑踏に抜きゃあがるとは、無茶(むちゃ)な野郎もあったもんですね」
「掏摸(すり)だそうですよ。なんにしても人さわがせなやつで」
 あとには、市の人出が一面にざわめいて、そこにもここにも立ち話がはずんでいる。
 忠相も口をだした。
「掏摸か。それにしても道中姿は珍しいな」
「へえ。あれがあの輩(てあい)の手なんで……一つまちがえばその足で遠国へずらかろうという――」
「なるほどな」
 人品卑(いや)しからぬお侍だが、どこの誰とも知らないから皆気やすに言葉をかわしている。
「なんでもお若いお武家とかの袂へ悪戯(わるさ)をするところを感づかれて、すんでのことでつかまろうとしたのを、まあ奴(やつ)にとっちゃあこの人混みを幸(さいわい)に暴れだしたんだそうで――とにかく、えらい逃げ足の早え野郎でごぜえます」
 忠相は、首を振って感心してみせた。
「袂にわるさをしたと申して、何か奪ったのであろうがな」
「そいつあ知りませんが、なんにしてもあんなけだものは寄ってたかってぶちのめしてさ、沢庵(たくあん)石でも重りにして大川へ沈めをかけるのが一番でさあ。南町に大岡様てえ名奉行が目を光らせていらっしゃるのに、そのお膝下(ひざもと)でこの悪足掻(わるあがき)だ。いけッ太え畜生じゃありませんか、ねえ」
 越前守忠相、くすぐったそうにうなずいて、ほほえみながら立ち去ろうとすると、善ちゃんの手を引いた若い母親があらためて礼を言っている。
「いや……」
 と笑った忠相の眼は、折りからまたひとり、血相を変えて人を分けてくる若い浪人者の上にとまった。
 諏訪(すわ)栄三郎だ――手に紙片を握っている。
 本所化物屋敷の斬りこみは、火事装束の一隊という思わぬ横槍がはいって、四、五の敵をむなしく殺(あや)めたほか、めざす左膳には薄傷(うすで)をおわせたにすぎなかったが、きょうにも乾雲丸に再会せぬものでもないと、歳の市の人中をぶらりと歩いていた諏訪栄三郎。
 ふと袖にさわるもののあるのを感じて、何ごころなく見返ると……。
 思いきや! 鈴川源十郎の腰巾着(こしぎんちゃく)、つづみの与吉が、どういう料簡(りょうけん)か旅のしたくを調えて、今や自分の袖口に何か手紙様(よう)のものを押し入れようとしている。
 コヤツ! 何をするッ!
 と考える先に、栄三郎の手はもう与吉の肘(ひじ)にかかっていた。
「おのれッ!」
「あ! ごめんなさい。人違いでございます」
「黙(だま)れッ! 貴様は過日(いつぞや)の――うむ、よし! そこまで来いッ!」
 引ったてようとする。ひたすらあやまって逃げようとする。この二人の争いに、気の早い周囲の江戸っ児がすぐにきんちゃく切りがやり損じたと取って、そこで、掏摸(すり)だ、掏摸だ! とばかりに与吉をかこんで袋だたきにし始めると、かなわぬと見た与吉、やにわに道中差しを抜いて通路を開きながら突っ走ってしまった。
 有難迷惑な弥次馬のおかげ、与吉をおさえそこねた栄三郎が、念のために袂をさぐってみると、出てきたのは、いま与吉が投げこんでいった丹下左膳から栄三郎へ……すなわち、夜泣きの刀乾雲丸から同じ脇差坤竜丸へあてた一通の書状!
 混雑中ながら猶予(ゆうよ)はならぬ。手早く封を切って読みくだした栄三郎なにごとかサッ! と顔色を変えたと思うと、手紙を、武蔵太郎の柄がしらといっしょにグッと握りしめて遅ればせだが、与吉の去った方へしゃにむに急ぎだした。
 剣怪左膳の筆跡――そもそも何がしたためてあったか? 妖刀乾雲、左膳の筆を藉(か)りていかなる文言をその分身坤竜にもたらしたことか?
 それはさておき。
 人を左右に突きのけてくる栄三郎の浪人姿を、群集の頭越しにみとめた忠相は、あれが今の掏摸にあった侍というささやきを耳にするや、何を思ったか、いきなり足を早めて彼をつけだした。
 カッ! と血が頭脳にのぼっているらしい栄三郎、人浪を押しわけてよろめき進む。男をはねのける。女はつきとばす、子供も蹴散らしてゆくがむしゃらぶり。
 忠相も、いそいでそれに続いたが、嫌というほど誰かの足を踏んで、痛いッ! と泣き声をあげられた時は、大岡越前守忠相、にこやかな笑顔を向けて丁寧(ていねい)に詫びた。
 しかし、
 駒形を行きつくして、浅草橋近くなったころは、与吉も追っ手も影を失って、栄三郎もはじめてあきらめたものか、悄然(しょうぜん)とゆるんだ歩を、そこから折れて瓦町のとある露地へ運び入れた……市のにぎわいをうしろに。
 忠相が後から声をかけた。
「彼奴(きゃつ)、稀代の韋駄天(いだてん)、駿足(しゅんそく)でござるな、はははは、それはそうと、貴殿、落とし物はござらぬかの?」
 振り返った栄三郎は、そこに、見おぼえのない上品な武士が立っているので、思わずむっとして問い返した。
「拙者に何か仰(おお)せられましたか」
「いや、ただいまのさわぎ……彼者(かのもの)は、貴殿にこの書面を捻じこんでいったに相違ござるまいと存ずる。なに、これはただ拙者の推量だが、はははは、いかがでござるな?」
 との忠相の言葉に、栄三郎は、はっと気がついたようにじろりと忠相を見やりながら踵(くびす)をめぐらそうとしたが!
 今のいままで手につかんでいたはずの左膳の手紙が! どこでいつ落としたものかなくなっているので、おや! と忠相の手もとを見ると!
 これはまたどうしたというのだ。
 いつ、どこで拾ったものか、皺くちゃのその手紙がちゃんと忠相の手にあるではないか。
「やッ! そ、それは――」
 と、あわてふためいた栄三郎が、われを忘れて跳びかかろうとするとヒョイとさがった越前守忠相、手にした封書の裏おもてを、じらすように栄三郎の面前にかざしてにっこりした。

諏訪栄三郎殿
隻腕(せきわん)居士 丹下左膳拝
「いかにもその手紙は、拙者の落としたもの。不覚……ともなんとも言いようがござらぬ、恥じ入ります。お拾いくだされた貴殿にありがたく厚くお礼を申します。いざ、お渡しを願いたい――」
 これが町奉行の大岡越前守とは知る由もない栄三郎、よし零落(おちぶ)れて粗服(そふく)をまとうとも、面識のない武士には対等に出る。かれは必死に狼狽(ろうばい)を押しつつんで、こう言って二、三歩進み出たが、忠相は同時にあとへさがって、
「お手前が諏訪栄三郎といわるる。それはよいが、これ、裏に丹下左膳――隻腕居士拝とある。そこで諏訪氏貴殿におたずね申すが、この片腕は左腕でござろうの? いや、左腕でなくてはかなわぬところ、どうじゃ」
 ときいた忠相のあたまに、電光のようにひらめいたのは、当時府内を震憾(しんかん)させている逆けさがけの辻斬り、その下手人(げしゅにん)も左剣でなければならない一事だった。
 で、然り――という意をふくめて驚きながら栄三郎がうなずくのを見ると、忠相は、
「然らばこの一書、貴殿にお返し申すことは相成らぬ」
 きっぱり断わって、さっさと懐中へしまいこんでしまった。
 無体(むたい)なことを! 刀にかけても奪還せねば! と栄三郎が面色をかえてつめよった時、見ると、相手のつれらしい侍が急ぎ足に近づいてくるので、残念ながらこの曰(いわ)くありげな二人に挟まれて、種々問いただされてはよけいなあやまちを重ねるのみと、栄三郎は倉皇(そうこう)として忠相を離れ、逃げるように露地の奥へ消えていった。
「御前(ごぜん)、こんな所にいらっしゃろうとは存じませぬゆえ、ほうぼうおさがし申しましてござります」
 という声に、忠相がふり向くと与吉を追っていった伊吹大作である。
 多勢とともに追跡してみたが、なにしろあの人出、一度は旅合羽(がっぱ)へ手をかけたもののスルリと抜けられて、ついそこの通りでとうとう与吉の影を見失ったという。
「面目(めんぼく)次第もござりませぬ、いやはや掏摸をはたらこうというだけあって、なんと身軽なやつで」
「掏摸? 誰が掏摸じゃ?」
「は? あの男――」
「あれは掏摸ではない」
「すると巾着切(きんちゃくき)りで? それともちぼ……」
「たわけめ。同じではないか」
「恐れ入りましてござります」
「なあ大作。他人の懐中物(かいちゅうもの)を機をもって掠(かす)めとるを掏摸と申す」
「は」
「機によって人の袂に物品を投ずる――こりゃすりではあるまい。きゃつはある者の依頼を受けて、あの人の袂に封書を投げ入れたのじゃ。よって越前、かの町人を掏摸とは呼ばぬぞ」
「あの、手紙を? なれど御前、どうしてそのようなことがおわかりになりまする?」
 と眼を円くしている大作を無言にうながして、忠相はしんから愉快そうに、左膳の書をのんだふところをぽんと一つたたいて歩き出した。
「ははあ。なるほど委細(いさい)そこに!」大作は自分の胸を打つ真似(まね)をして、
「いや、さようでございましょうとも! さようでございましょう!」
 感に耐(た)えて首を振りながらお供につづこうとすると、忠相はぼんやりと立ちどまって、いま栄三郎のはいって行った露地の口を見守った。
 狭い裏横みち。
 角(かど)にささやかな空地(あきち)。
 材木が積んであって、子供が十四、五人がやがや遊んでいる。
 空高く、陽は滋雨(じう)のごとく暖かだ。
 ひさしぶりに満ちたりるまで巷の気を吸い、民の心と一つに溶けた大岡忠相、カンカン照る日光のなかで子供と同じ無心に返ってそのさざめきを眺めている。
 一段高い積み木の上に正座した年かさの子。
「南町奉行大岡越前であるぞ。これ面(おもて)をあげい。そのほう儀……」
 お白洲(しらす)ごっこだ。道理で、地面に茣蓙(ござ)を敷(し)いて、あれが科人(とがにん)であろう、ひとりの子供が平伏している。左右にいながれるお調べ方、つくばい同心格の子供達、眉(まゆ)を吊(つ)りあげ、頬をふくらせたその真面目(まじめ)顔。
 越前守が苦笑しているうちに、あとの大作はぷッとふきだしてしまった。
 はるかむこうに、さっき田原町を出て来た家主喜左衛門と鍛冶富、また大岡に会ったと外(よそ)ながら慇懃(いんぎん)に小腰をかがめる。本所の鈴川方へ行く途中とみえる。これを見ると忠相は、さては誰か顔を知っておる者にみつかったな! と足を早めて立ち去ったが、あるかなしかの風が白い砂ほこりを低く舞わせて、うしろに子供の大岡様の声がしていた。
「そのほう儀、去る二十九日、横町の質屋の猫を天水桶(てんすいおけ)に突っこんで、そのまま窓からほうりこんだに相違あるまい。まっすぐに申し立ていッ――」

「姐御ッ」
 と飛びこんで来たけたたましい与吉の声に、長火鉢(ながひばち)の向うからお藤は物憂(ものう)い眉をあげた。
「なんだね、そうぞうしい」
 立て膝のまま片手で畳をなでているのは、煙管(きせる)を探すつもりらしい。
 櫛まきお藤の隠(かく)れ家(が)である。
「いけねえ。落ち着いてちゃあいけねえ!」と与吉は、わらじをとくまも呼吸(いき)を切らしているが、家内のお藤は大欠伸(おおあくび)だ。
「また始まったよ、この人は」
 てんで相手にしそうもないようすだけれど、それでもさすがに、ぬっとあがって来た与吉の道中姿を見るとお藤もちょっと意外そうに顔を引きしめて、
「おや! お旅立ち?」
「ヘヘヘヘ」与吉は悪党らしく小刻みに笑って、「なあにね、ちょっくら芝居(しばい)を打って来ました」
「芝居を!」
「あい」
 どっかりとすわった与吉、お藤の差しだす茶碗の冷酒(ひや)をぐっとあおって、さて、上機嫌(じょうきげん)に話しだしたのは……。
 左膳の手紙の一件。
 あの雨の夜の乱刃に、化物屋敷で斬り殺された者が総計七名、これはすべて泊まり合わせていた博奕(ばくち)仲間で、負傷者は左膳の軽傷以下十指に近かった。
 しかも、栄三郎と泰軒には一太刀もくらわさないうちに、あの、得体(えたい)の知れない火事装束の一団が乗りこんできて、これには左膳、源十郎もしばし栄三郎方と力を合わせて当たってみたが、その間に泰軒は屋敷をのがれ出てしまった。
 頭(かしら)だった火事装束が刀影をついて放言したことには、彼らもまた夜泣きの一腰、乾雲坤竜の二刀を求めているものだと。
 つまりこの一隊の異形(いぎょう)の徒(と)は、左膳の乾雲、栄三郎の坤竜にとって、ともに同じ脅威(きょうい)であった。
 そこで剣豪左膳、いま一度左腕に縒(よ)りをかけて、力闘数刻、ようやく明け方におよんだが!
 時、左膳に利あらず、火事装束の五人組に稀刀(きとう)乾雲丸を横奪(おうだつ)されて、すぐに塀外へ駈け出てみたときは、すでに五梃の駕籠がいずくともなく消え失せていたあとだったというのだ。
 乾雲が持ち去られた。
 すると今、奇剣乾雲は左膳の手を離れて、何者ともはっきりしない五梃駕籠の一つにでもひそんでいるのであろう! お藤は白い顔にきっとくちびるをかんだ。
「与(よ)の公(こう)、ほんとうかい、それ」
 つづけざまに合点(がてん)合点をした与吉、なおも語をついで、こうして乾雲丸が左膳の手もとにない以上、もういたずらに栄三郎とはりあう要もないと、さてこそ、その旨を書いた左膳の手紙を、こっそり栄三郎へ届ける役を言いつかったつづみの与吉、歳の市の雑踏裡(ざっとうり)に栄三郎を見かけてうまく書状を袖からおとしこんだまではいいが……。
「掏摸とまちがえられてえらい目にあいましたよ。光る刀を引っこぬいてどんどん駈けてきましたがね。いや、あぶねえ芸当(げいとう)さ、ははははは」
 与吉は事もなげに笑っているが聞いているうちにお藤の目は疑(うたが)わしそうにすわってきた。
 もしそれがほんとなら、丹下左膳が自分で栄三郎を訪れて、さらりと和解を申しこみそうなもの。そのほうがまた、どんなにあの人らしいか知れやしない――。
 第一、あの丹下様が、あんなに命をかけていた乾雲丸をそうやすやすととられるだろうか?
 けれど、ものにはすべて機(はず)みということもある。
 丹下左膳といえども魔神ではない……こう考えてくると、お藤は与吉がうそをついているとも、左膳に欺(だま)されているとも思えないのだった。要するに、何がなんだかわからないお藤。
「そうかい」
 とおもしろくもなさそうにつぶやくと、頭痛でもするのか、しきりにこめかみをもみ出した。かと思うと今度は丹念(たんねん)に火鉢の灰をかきならしている。
 あたまの中ではいろんな思いがさわがしく駈けめぐっているが、外見(そとみ)はいかにも閑々(かんかん)としてお妾のごとく退屈そうだ。
 撫で肩に自棄(やけ)に引っかけた丹前、ほのかに白粉(おしろい)の移っている黒襟(えり)……片膝立てた肉置(ししおき)もむつちりと去りかけた女盛りの余香(よこう)をここにとどめている景色――むらさきいろの煙草の輪が、午さがりの陽光のなかをプカリプカリと棚の縁起物(えんぎもの)にからんで。
 つづみの与の公、この白昼いささかごてりと参って、お藤のようすを斜めに眺めている。
 丹下の殿様も気が知れねえ、こんな油の乗りきってる女を振りぬくなんて、と。

 吐き出すように、お藤がいう。
「すると何かえ、丹下さまはもうお刀をその火事装束とやらの五人組にとられてしまって、お手もとに持っていないということを文にして、それをお前が、あの方の命令(いいつけ)で栄三郎の袂へ入れて来たと言うんだねえ?」
「へえ。いかにもそのとおり……大骨を折りましたよ」
 与吉は、お藤の香が漂ってくるようで、まだぼんやりと夢をみている心地だ。つと癇(かん)走ったお藤、熱く焼けた長煙管(ながぎせる)の雁首(がんくび)を、ちょいと伸ばして与吉の手の甲に当てて、
「しっかりおしよ、与の公! なんだい、ばかみたいな顔をしてさ。夕涼みの糸瓜(へちま)じゃあるまいし」
「あッ! 熱(あ)つつつ――」
 とびのいた与吉は、大仰(おおぎょう)に顔をしかめつつ甲をなめて、
「ひでえや姐御。あついじゃありませんか……おお熱(あつ)!」
「ほほほ、お気の毒だったねえ。だからさ、だから責められないうちに白状(はくじょう)おしよ」
「へ? 白状って? あっしゃ何も櫛まきの姐御に包み隠しはいたしませんよ。そこへ突然あつういやつをニュウッ! と来たもんだ。へっへ、人が悪いぜ姐御」
「何を言ってやんだい! そんならきくけど、その旅仕度はどうしたのさ?」
「あ! これか」と与吉は頓狂(とんきょう)に頭をかいて、「これあ、なんだ、私が味噌(みそ)をしぼった化けこみなんだ。てえのが、姐御も知ってのとおり、わたしも浅草じゃあ駒形のつづみとかってちったあ知られた顔だから、おまけにあの栄三郎てえ若造にあ覚えられてもいるしね、きょうの仕事に当たって、素(す)じゃあどうもおもしろくねえ。かといって変に細工をして扮装(つく)りゃあかえって人眼につくしさ、さんざ考えたあげくのはてが、この旅人すがたと洒落(しゃれ)たんでございます。どうです、似合いましょうヘヘヘ」
「ああ、そうかい」軽く受けながらも、お藤はきらりと与吉の顔へ瞳を射った。「じゃ、どこへも走るんじゃないんだね?」
「正直のところ、姐御がいらっしゃる間は、与吉も江戸を見限りはいたしません」
「うまいこといってるよ。左膳様は?」
「さあ――鈴川さんとこにおいででげしょう」
「げしょうとはなんだい、知らないのかい?」
「このごろ、あの屋敷にはお上の眼が光っておりますから、あっしもここすこし足を抜いております」
「そんならいいけれど、与の公、お前はどうも左膳さまとは同じ穴の狸(むじな)らしいね」
「と、とんでもない!」
 とあわてる与吉を、お藤はじろりと冷やかに見て、
「とにかく、お前と左(さ)の字とは何をもくろんでるか知れやしない。あたしゃこんな性分で中途はんぱなことが大嫌いさ。どうせ袖にされたんだから、これからずっと何かと丹下さまのじゃまをするつもりだよ、もう当分お前をこの家から出さないからね。いいかい、そう思っておいで」
「姐御、そいつあ一つ勘弁(かんべん)願いてえ」
 と剽軽(ひょうきん)に頭をさげながら、与吉が、めいわくそうな、それでいて嬉しそうな顔を隠すように伏せていると、お藤が下からのぞきこんだ。
「お前の、左の字に頼まれて弥生(やよい)さんをねらっておいでだろうねえ? ところが与の公、あの娘(こ)は先日から行方知れずさ」
 弥生が行方不明(ゆくえふめい)に!
 事実、いつぞや雨の朝早く、しょんぼりと瓦町の栄三郎の家を出て以来、弥生は番町の養家多門方へも帰らなければ、その後だれひとり姿を見たものもない……。
 生きてか死んでか――弥生の消息はばったりと絶えたのだった。
 不審(ふしん)! といえば、もうひとつ。同じ明け方に、この櫛まきお藤は、第六天篠塚稲荷の前で捕り手に囲まれて、すでに危うかったはずではないか、それが、鉄火(てっか)とはいえ、女の手だけでどうしてあの重囲(じゅうい)を切り抜けて、ここにこうして、今つづみの与吉を、なかば色仕掛(いろじかけ)で柔らかい捕虜(とりこ)にしようとしているのであろう。
 謎(なぞ)は謎を生み、わからないことずくめだが、それより、もっと合点(がってん)のいかない一事は。
 ちょうど同じころおい。
 左膳の手紙を、大岡さまとは知らないが、由ありげな武士に拾われてしまった諏訪栄三郎が、気の抜けたように露地の奥の自宅(うち)へ立ち帰って、ぼんやりと格子戸をあけると!
 水茶屋の足を洗って以来、いつもぐるぐる巻きにしかしたことのない髪を、何を思ってかお艶はきょうは粋(いき)な銀杏(いちょう)返しに取りあげて、だらしのない横ずわりのまま白い二の腕もあらわに……あわせ鏡。
「だれ? おや! はいるならあとをしめておはいりよ。なんだい。ほこりが吹きこむじゃないか。ちッ。またお金に縁(えん)のない顔をさげてさ。ああ、嫌だ、いやだ!」
 うらと表の合わせかがみ――この変わりよう果たしてお艶の本心であろうか?

   煩悩外道(ぼんのうげどう)

 あさくさ田原町の家主喜左衛門と鍛冶屋富五郎との口ききでおさよが鈴川源十郎方へ住みこんだ始めのころは。
 五百石のお旗本だが、小普請(こぶしん)で登城をしないから馬もなければ馬丁もいない。下女もおさよひとりという始末。
 狐(きつね)でも出そうな淋しいところで家といっては鈴川の屋敷一軒しかない。
 それでも御奉公大事につとめていると、丹下左膳(たんげさぜん)、土生仙之助(はぶせんのすけ)、櫛(くし)まきお藤(ふじ)、つづみの与吉をはじめ、多勢の連中が毎夜のように集まって来ては、ある時は何日となく寝泊りをして天下禁制(てんかきんせい)のいたずらがはずむ、車座に勝負を争う――ばくちだ。本所の化物屋敷としてわる御家人旗本のあいだに知られていたのがこの鈴川源十郎の住居であった。
 しかしそういう寄り合いがあって忙しい思いをしたあくる朝は、膳部(ぜんぶ)のあとで必ず、
「おい土生、ゆうべは貴公が旗上げだ、いくらかおさよに小遣(こづかい)をやれ」
「よし! 悪銭(あくせん)身につかず。いくらでも取らせる。これ、さよ……と言ったな前へ出ろ」
 などと四百くらいの銭をポウンとなげうってくれるので、そのたびにもらった二、三百の銭を……。
 おさよの考えでは、こうして臨時にいただいたお鳥目(ちょうもく)をためたら、半分には極(き)めのお給金よりもこのほうが多かろう。そうすれば、三年のあいだ辛抱したら、娘お艶の男栄三郎がちっと大きな御家人の、……株を買う足(た)しにもなろうというもの……と、先を思って一心に働いていたが、そのうちにふと立ち聞きしたのが食客丹下左膳の身の上と密旨(みっし)、並びに、夜泣きの大小とやらにからんで栄三郎にまつわる黒い影であった。
 が、同藩の仲と知っても、おさよはひとり胸にたたんで、ただそれとなく左膳のようすに眼をつけているとやがて、降(ふ)ってわいた大変ごとというべきは、むすめのお艶がある夜殿様の源十郎にさらわれて来て奥の納戸(なんど)へとじこめられた。
 それを、親娘(おやこ)と気どられないように、かげにあって守りとおさねばならなかった。おさよの苦心はいかばかりであったろう。
 しかるに。
 源十郎がお艶を生涯のめかけにほしいと誠心をおもてに表わして言うので、おさよといえども何も慾(よく)にからんで鞍替(くらが)えをしたわけではないが、老いの身のまず考えるのは自分ら母娘ふたりの行く末のことだ。ここらで思いきってお艶と栄三郎を引き離し、お艶は内実(ないじつ)は五百石の奥方。じぶんはそのお腹様という栄達(えいたつ)に上ろうとさかんに源十郎に代わってお艶をくどいてみたものの、栄三郎に恋いこがれているお艶はなんとすすめても承知しなかった。
 手切れのしるしには、栄三郎が生命を的(まと)にさがしている乾雲丸を、源十郎の助力によって左膳から奪って与えればいいとまで私(ひそ)かに思案が決まったところ、かんじんのお艶にこっそり逃げられてしまったのだった。
 これは櫛まきお藤が源十郎へのはらいせにつれ出したのだが、源十郎はそうとは知らずにその尻(しり)をそっくりおさよ婆さんへ持ってきて、今までお艶を幽閉(ゆうへい)しておいた納戸へこんどはおさよを押しこめ、第一におさよお艶のかかわりあいから聞き出そうと毎日のように折檻(せっかん)した。
 その間に栄三郎泰軒の救いの手が、ついそこまで伸びて来て届かなかったのが、この、源十郎の詰問(きつもん)の結果。
 はい。じつはわたくしはお艶の母、あれはわたくしの娘でございます。
 とおさよの口から一言洩(も)れると源十郎、高だかと会心の哄笑をゆすりあげて、
「いや、そのようなことであろうと思っておった。さてはやはり、いつか話に聞いた娘というのはあのお艶のこと、男の旗本の次男坊は諏訪栄三郎であったか。だが、はっきりそうわかってみれば、思う女の生みの母御(ははご)なら、この源十郎にとっても義理ある母だ。こりゃ粗略(そりゃく)には扱われぬ。知らぬこととは言い条(じょう)、いままでの非礼の段々平(ひら)におゆるしありたい」
 と、奸智(かんち)にたけた鈴川源十郎、たちまちおさよを実の母のごとく敬(うやま)って手をついて詫びぬばかり、ただちに招(しょう)じて小綺麗(こぎれい)な一間(ま)をあたえ、今ではおさよ、何不自由なく、かえって源十郎につかえられているありさま。
 将(しょう)を射(い)んと欲(ほっ)せばまず馬を射よ。あるいは曰(いわ)く、敵は本能寺(ほんのうじ)にありというわけで、源十郎はこのおふくろをちょろまかして、それからおいおいお艶を手に入れようと、今日もこうしておさよに暖かそうな、小袖か何か着せて、さも神妙に日の当たる座敷によもやまのはなし相手をつとめていると――。
「ごめんくださいまし……」
 と裏口に案内を求める町人らしい声。

「こんちは……ごめんくださいまし。おさよさんはいませんかね?」
 と喜左衛門が大声をあげても、誰も出てくるようすはないから、こんどは鍛冶屋富五郎が引き取っていっそうがなりたてている。
「おさよさアン! おさよ婆あさん! ちッ! いねえのかしら……? じれってえなあ」
 と、この声々が奥へつつぬけてくるから、おさよも源十郎のお相手とはいえ、じっとしてはいられない。すぐに裏口へ立って行こうとするのを鈴川源十郎、実の母にでも対するように慇懃(いんぎん)にとめて、
「まま、そのままに、そのままに。なに、出入りの商人であろう。拙者が出る」
 と懐手(ふところで)、のっそりと台所に来てみると、水口の腰高障子(こしだか)から二つの顔がのぞいている。
 あさくさ田原町三丁目の家主喜左衛門と三間町の鍛冶富――おさよの請人(うけにん)がふたりそろってまかり出て来たので源十郎、さては悪い噂でも聞きこんだな、内心もうおもしろくない。
「なんだ? おさよ殿に何か用かな?」
 押っかぶせるように仁王立ちのまんまだ。
 おさよどの! と殿様の口から! 聞いて胆(きも)をつぶした喜左衛門に鍛冶富、すくなからず気味がわるい。
 挨拶もそこそこに、源十郎の顔いろをうかがいながら、お屋敷のごつごうさえよろしければ、ちと手前どものほうにわけがあって、一時おさよ婆あさんを引き取りたいと思うから、きょうにでもおさげ願いたく、こうして引請人(ひきうけにん)が頭を並べてお伺いした……と!
 源十郎、眉をつりあげて威猛高(いたけだか)だ。
「なにィ! ちと理由(わけ)があっておさよどのをもらいさげに参った? これこれ、喜左衛門に富五郎と申したな」
「へえへえ、鍛冶屋富五郎、かじ富てんで」
「なんでもよい。両人とも前へ出ろ。申し聞かせるすじがある」
 言い捨てて源十郎、スタスタ奥へはいっていったから、はて! 何事が始まるのだろう? と二人ともおっかなびっくりでしりごみしているところへ、ただちにとってかえした源十郎を見ると、刀をとりに行ったものであろう左手に長い刀を下緒(さげお)といっしょに引っつかんで、その面相羅刹(らせつ)のごとく、どうも事態(じたい)がおだやかでない。
 何がなんだかいっこうに合点(がてん)がいかないものの喜左衛門と鍛冶富は今にも逃げ出しそうだ。
 そこへ源十郎の怒声。
「こらッ、もちっと前へ出ろ! 出ろッ! ウヌ! 出ろと申すにッ!」
 と与力の鈴源だけあって、声にもっともらしい渋味(しぶみ)がこもり、おどしが板についていて、町人づらをふるえあがらすには充分である。
「はい。出ます、出ます。こうでございますか」
 ふたりがびくびくもので、一、二寸前へ刻み出たとき、源十郎は、大刀に鍔(つば)鳴りを[#「鍔(つば)鳴りを」は底本では「鎧(つば)鳴りを」]させて叱□(しった)した。
「何者かが当屋敷に関してよけいなことを申したのを、市井匹夫(しせいひっぷ)の浅はかさに真(ま)にうけたものであろう。どうじゃ?」
「へ?」
 ときき返したが、両人ともよくわからないので、モジモジ黙っていると、源十郎は続けて、
「おさよ殿を従前どおりおれの手もとにおいたとて、貴様らに迷惑の相かかるようなことはいたさぬ。源十郎、不肖(ふしょう)なりといえども、年長者の敬すべきは存じておる。いま貴様らに見せるものがあるから庭先へまわれッ!」
 ホッとして喜左衛門と富五郎、うら口を離れてひだりを見ると、中庭へ通ずる折り戸がある。それを押して、おそるおそる奥座敷の縁下、沓脱(くつぬぎ)のまえにうずくまると、
「両人! 面(おもて)をあげい! おさよ殿じゃ」
 という源十郎の声に、おさよがあとをとって、
「おや。喜左衛門さんに富五郎どんかえ。ひさしく御無沙汰(ごぶさた)をしましたが、おふたりともいつもお達者で何よりですねえ、はい……」
 はてな! と顔をあげてよく見ると、奉公にあがったはずのおさよ婆さんが、これはまたなんとしたことか、殿様の御母堂然と上品ぶって、ふっくらとしたしとねの上から淑(しと)やかに見おろしている。
 眼どおり許す――といわんばかり。
 プッ! と吹きだしそうになるのを、喜左衛門と鍛冶富、互いにそっと肘(ひじ)で小突きあってこらえているうちに、かたわらの源十郎が威儀(いぎ)をただして、しんみりとこんなことを言い出した。
「他人の空似(そらに)とはよく申したものでおさよ殿は、死なれた拙者の母御に生き写し……よく瓜を二つに割ったようなというが、これはまた割らんでそのまま並べたも同然――なあ、孝行のしたい時分には親はなし、さればとて石に蒲団も着せられず……こうしておさよどのを眺めていても、源十郎、おなつかしさにどうやら眼のうらがあつくなるようだ」
 と源十郎、芝居めかして、しきりに眼ばたきをしている。

 煙(けむ)にまかれて、喜左衛門と鍛冶富は、ぽかんとしたまま帰ってゆく。
「驚きましたね、喜左衛門どん」
「いや、おどろいたね、富さん」
「一体全体どうしたんでごわしょう? へっへ、まるで女隠居(いんきょ)。ふたりとも壮健にて祝着至極(しゅうちゃくしごく)……なァんかんと来た時にあ、テヘヘ、あっしぁ眼がくらくらッとしたね、じっさい」
「まあさ、殿様のおっしゃることにぁ、おさよさんが死んだ母御によく似ているから、ほんとの母と思って孝行をつくしている――てんだがわしぁどうも気のせいか、ちっとべえ臭えと思う」
「くせえ? とは何がさ?」
「なにか底にからくりがあるんじゃあねえかと――いや、これあ取り越し苦労だろうが、富さんの前だが年寄りはいつも先の先まで見えるような心もちして、心配が絶えませんよ。損な役さね」
「だけど、おさよ婆さんにしたところで、ほかにちゃあんとした因縁(わけ)がなくちゃあ、死んだ殿様のお袋(ふくろ)に似てるぐれえなことで、ああいい気に奉られている道理はねえ。ここはなるほど、喜左衛門どんのいうとおり、何か曰(いわ)くがあるのかも知れねえ」
「殿様ってお方がまともじゃねえからね」
「くわせものでさあね。あの侍(さんぴん)は」
 ヒソヒソささやきながら屋敷を出て、法恩寺橋の通りへかかろうとすると、片側は鈴川の塀、それに向かって一面の畑。
 頃しも冬の最中だから眼にはいる青い物の影もなく、見渡すかぎりの土のうねり……ところどころの積(つ)み藁(わら)に水底のような冷えた陽がうっすらと照った。立ちぐされの案山子(かかし)に烏が群れさわいでいるけしき――蕭条(しょうじょう)として襟(えり)寒い。
 はるかむこうに草葺き屋根の百姓家が一軒二軒……。
 どこかで人を呼んでいる声がする。
 風。
「オオ寒(さむ)!」
 思わず二人いっしょに口にだして、喜左衛門と鍛冶富、小走りに足を早めようとすると! 畑のまえの路ばたに道祖神(どうそじん)の石がある。
 そのかげから、突如、躍り出た二、三人の人! はッとして見ると鎖(くさり)入りの鉢巻に白木綿の手襷(てだすき)、足ごしらえも厳重な捕物の役人ではないか。
 それがばらばらッととりまいて中のひとり、
「お前たちは今そこの鈴川の屋敷から出て参ったな?」
 と詰(つ)めよられて、おどろきあわてつつも、口きき大家と言われるだけあって、喜左衛門はすぐに平静に返ってはっきりと応対する。
「はい、わたくしは浅草田原町三丁目の家主喜左衛門と申す者、またこれなるは三間町の鍛冶屋富五郎といいまして、この鈴川様のお屋敷へ下女をお世話申しあげましたについて――」
「どうもあんまりお屋敷の評判がよくねえから」と鍛冶富も口を添え、「きょう貰(もら)いさげにでましたところが、その婆あさんがこう高え所にかまえて、おお両人とも壮健にて重畳(ちょうじょう)重畳……」
「これ、何を申す!」
 叱りつけておいて、役人達は二こと三こと相談したのち、
「いや、ほかでもないが、ただいま、浅草橋の番所へ女手の書状を投げこんだ者があって、その文面によると、ひさしくお上(かみ)において御探索(たんさく)中であったかの逆袈裟(ぎゃくけさ)がけ辻斬りの下手人が当屋敷に潜伏(せんぷく)いたしおるとのことであるが、お前ら屋敷内にさよう胡乱(うろん)な者をみとめはしなかったか」
 いいえ!――とふたりが力をこめて首を振ると、べつに引きとめておくほどのものどもでもないとみてか、
「よし、いけ、足をとめて気の毒だったな」
 と許された喜左衛門と富五郎、にげるように先を争って駈け出したが……。
 こわいもの見たさに。
 塀の曲り角からのぞいてみると、
 同じしたくのお捕り役が二、三人ずつ、もうぐるりと手がまわったらしく、屋敷をめぐって樹のかげ、地物の凹(くぼ)みにぴったりと伏さっている――その数およそ二、三十人。
「えらいことになったな」
「だから先刻、婆あさんの手でも取ってしゃにむに引っぱり出せあよかった」
 いいながらなおもうかがっていると、捕り手はパッと片手をかざしあって合図をした。と見るや、ツウと地をはうようにたちまち正門裏門をさして寄ってゆく。
 が、喜左衛門、富五郎をはじめ、役人のうち誰も、さきほどから、鈴川方の塀の上に張り出ている欅(けやき)の大木の梢(こずえ)、その枝のしげみに、毒蛇のような一眼がきらめいて、その始終(しじゅう)を見おろしていたことを知らなかった。

 明るい陽をうけた障子に、チチと鳥影が動くのを、源十郎はしばらくボンヤリと眺めていた。
 うすら寒い静寂(しずけさ)である。
 おさよのおさまりように胆をつぶし、狐(きつね)につままれたような心持で、家主喜左衛門と鍛冶富が帰っていったあとの、化物屋敷の奥の一間。
 源十郎は、何か物思いに沈みながら、体(からだ)についたごみの一つ一つをつかんでいると、おさよの茶をすする音が、その瞬間の部屋を占めた。
「さて、おさよどの」と源十郎は、思いきったように、しおらしく膝を進めて、「今もかの町人どもに申し聞かせたとおり、わしはそこもとを他人とは思わぬ。なくなった母にそっくりなのみか、恥を言わねばわからぬが、拙者も母の生存中は心配ばかりかけたもの――いや、存命中にもう少し孝行をしておけばよかったと、これは愚痴(ぐち)じゃが、いま考えても、あとの祭りだ。そこでなあ、おさよどの、亡母(はは)によく似ている年とったそこもとをよく労(いたわ)って進ぜたなら、草葉のかげで母もさぞかし喜ぶであろうとこう思うによって、これからはそこもとを実の母同様に扱うから、そちも、何か拙者に眼にあまることがあったら違慮(えんりょ)なく叱言(こごと)をいってもらいたい」
 口巧者(こうしゃ)な源十郎、一気にこれだけしゃべって、チラリとおさよの顔を盗み見ると、おさよは今までにも、すっかり食わされているから、この源十郎の深謀を知る由もなく、もうすっかりその母親、五百石の女隠居になった気で、この時もせいぜい淑(しと)やかに軽く頭をさげただけだ。
「いいえもう殿様、それはわたくしからこそ……」と、有頂天(うちょうてん)に近い挨拶である。
 第一段のはかりごと。
 わがこと半ばなれり矣、と源十郎は、真正面に肩をはって、今日はちと改まった話がござる――という顔つき。
「おさよどの、そこでじゃ……」
 源十郎、がらになくかたくなっている。
「はい」
「そこでじゃ、そこもとの身の上ばなしも、委細(いさい)承(うけたまわ)ったが、養子というものは、いわばまあ、富くじみたよう――当たらぬことには、これほどつまらぬ話はない。近い例が、その御身じゃ。年をとって、こうして下女奉公をするのも、いってみればお艶どのの男が甲斐性(かいしょう)のない証拠。な、おさよどのそうではござらぬかな」
「はい」
「ところで、ものは相談じゃが、どうだな、おさよどの、娘御を生涯おれの側女(そばめ)にくれる気はないかな」と、のぞきこむように、下から見あげて、源十郎、あわててつけ加えた。「いや、側女と申したとてそれは表面、内実は五百石の奥方、そこもとはとりもなおさず、そのお腹さま――いかがのものであろうな?」
「はい、まことにそうなれば……」
「ふむ、そうなれば?」
「そうなりますれば、わたしばかりか娘にとってこの上ない出世――ではござりますが、しかし……」
「しかし――なんじゃ?」
「はい。しかし、諏訪(すわ)栄三郎と申しますものが」
「うむ。存じておる。だが、諏訪氏は諏訪氏として」
「でも、栄三郎様もお艶ゆえに実家を勘当(かんどう)されている身でございますから、この際、離縁(りえん)をとりますには、いくらかねえ……でないと、お話が届きますまいと存じますよ」
 源十郎はぐっと反身(そりみ)になって、
「手切(てぎ)れ金か、いやもっとも。話は早いがいい。どのくらいで諏訪氏その離縁状を出すだろうの?」
「さようでございます。まとまったお金は五十両一度におもらい申したことがありますが、お兄上様とおもしろくなくなったのはそれからでございますから、今五十両渡しましたら、栄三郎様もお艶と手を切って……」
 あのいつかの五十金、駒形の寺内でつづみの与吉を使って一時手に入れたのを、そばからすぐに泰軒に取り戻された金子(きんす)のことを思いうかべて、源十郎は含み笑いを殺しながら、
「よし、わかった。そんならその金は拙者が引き受けて才覚(さいかく)いたす。それはよいが、掛け合いには誰が参る?」
「それはあの、だれかれと申さずに私が参りましょう」
「そうか、では、何分よろしく頼む」
 と、源十郎が、ぴょこりと辞儀(じぎ)をしたその耳もとへ、おさよはすばやく口を持っていって、
「それからあの、栄三郎が命がけでほしがっているものが――」
「うむ、うむ! か、刀であろうが? なれど、おさよどの、あれは、あれは左膳が……」
「ですけれど殿様」
 にじり寄ったおさよが、何事か源十郎にささやいたが、その咽喉仏(のどぼとけ)が上下に動き終わった時、鈴川源十郎、思わずアッと驚愕(きょうがく)した――とたんに!
 ぬっと障子に人影がさして怪物丹下左膳のしゃがれ声。
「おいッ! 源十ッ! 八丁堀が参った。また一つ、剣の舞いだぜ」
 と! うわあッ! というおめきが屋敷の四囲に!
 御用ッ!
 御用ッ! 御用ッ!
 と声々がドッとわき起こるのを耳にした鈴川源十郎が、障子を蹴開いた面前に、独眼隻腕の丹下左膳、乾雲丸は火事装束の五人組に奪い去られたとあって、普通の大小(だいしょう)だが、左剣手だけに右腰にぐっと落とし差しのまま、かた手を使ってその上から器用に帯を結びなおしているところ。
 縁の上下に、源十郎と左膳、さぐるがごとき眼を見合ってしばし無言がつづいた。
 山雨(さんう)まさに到らんとして、風(かぜ)楼(ろう)に満つ。
 左膳は、
 何ごとか戸外にあわただしいようすを感じて、そっと離室を忍び出た拍子に、ちらと垣根のむこうに動く捕吏(とりて)の白襷(だすき)を見つけたので、そのまま、塀からそとの往来に突き出ている欅(けやき)の大木に猿のごとくスルスルとよじのぼって下をうかがうと……。
 陽にきらめいて寄せて来る十手の浪。
 地をなでて近づく御用の風。
 さてはッ! 逆袈裟(ぎゃくけさ)がけ辻斬りの一件がばれたなッ! と思うより早く、剣鬼左膳のあたまを掠(かす)めたのは、そも何者が訴人(そにん)をしてかくも捕り手のむれをさしむけたのか?――という疑惑(ぎわく)とふしぎ感だったが、そんな穿鑿(せんさく)よりも刻下(いま)は身をもってこの縦横無尽に張り渡された捕縄(ほじょう)の網を切り破るのが第一、と気がつくと同時に長身の左膳、もう塀外へ降りても途(みち)はないから、左手に老幹(ろうかん)を抱いて庭にずり落ちざま、ただちに、源十郎がおさよと差し向いでいるこの座敷のそとへ飛んで来たのだった。
 刀痕(とうこん)の深い左膳の蒼顔(そうがん)、はや生き血の香をかぐもののごとく、ニッと白い歯を見せた。
「来たぞ源的!」
「上役人か。斬るのもいいが。あとが厄介(やっかい)だ」
「と言って、やむを得ん」
「うむ、やむを得ん」
 いう間も、多数の足音が四辺に迫って、剣妖(けんよう)左膳、パッと片肌ぬぐが早いか、側の女物の下着が色彩(いろ)あざやかに、左指にプッツリ! 魔刀乾雲ではないが鯉口押しひろげた。
 と!
 背後の樹間の人の姿が動いたと見るや、ピュウ……ッ!
 と空をきって飛来した手練の鉤縄(かぎなわ)、生(せい)あるもののように競(きそ)い立って、あわや左膳の頸へ! 触れたもほんの一瞬、銀流(ぎんりゅう)ななめに跳ねあがって小蛇とまつわる縄を中断したかと思うと、縄は低宙を突んざいていたずらに長く浪をうった。
 同時に。
 はずみをくらった投げ手が、なわ尻を取ったまま二足三あし、ひかれるようにのめり出てくる……ところを!
 電落した左膳の長剣に、ガジッ! と声あり、そぎとられた頭骸骨(ずがいこつ)の一片が、転々と地をはった。脳漿(のうしょう)草に散って、まるで髻(たぶさ)をつけたお椀を抛(ほう)り出しでもしたよう――。
 サッ! としたたか返り血を浴びた左膳、
「ペッ! ベラ棒に臭えや」
 と、左手の甲で口辺をぬぐった時、
「神妙にいたせッ!」
 大喝、おなじく捕役のひとり、土を蹴って躍りかかると、刹那(せつな)に腰をおとした左膳は、
「こ、こいつもかッ!」
 一声呻いたのが気合い、転じてその深胴(ふかどう)へザクッ! と刃を入れた。
 ――と見るより、再転した左膳、おりから、横あいに明閃(めいせん)した十手の主(ぬし)へ、あっというまに諸(もろ)手づきの早業、刀身の半ばまで胸板に埋めておいて、片脚あげて抜き倒すとともに、三転――四転、また五転、剣体一個に化して怪刃のおもむくところ血けむりこれに従い、ここに剣妖丹下左膳、白日下の独擅場(どくせんじょう)に武技入神の域を展開しはじめた。
 が、寄せ手の数は多い。
 蟻群の甘きにつくがごとく、投網(とあみ)の口をしめるように、手に手に銀磨き自慢の十手をひらめかして、詰(つめ)るかと見れば浮き立ち、退(しりぞ)くと思わせてつけ入り……朱総(しゅぶさ)紫総(しぶさ)を季(とき)ならぬ花と咲かせて。
「うぬウッ!」
 と左膳は、動発自在の下段につけて、隻眼を八方にくばるばかり……重囲脱出(じゅういだっしゅつ)の道を求めているのだ。
 暮れをいそぐ冬の陽脚。
 そして、夕月。
 樹も家も人の顔も、ただ血のように赤い夕映えの一刻に、うすれゆく日光にまじって、月はまだひかりを添えていなかった。
 刃火のほのおと燃えて天に冲(ちゅう)するところ、なんの鳥か、一羽寒ざむと鳴いて屋根を離れた。
 縁側に立って、うっとりこの力戦を眺めている源十郎は、剣香(けんこう)に酔って抜くことも忘れたものか――いわんや、おさよ婆さんなぜか足音をぬすんで、とうの昔にその座敷をまぎれ出ていたことには、かれはすこしも気がつかなかった。

 上役人に刃向かって左膳を救い出すか……それとも、友を見棄てておのれの安穏(あんのん)を全うすべきか?
 この二途に迷いながら、ひとつにはただぼんやりと、いま庭前に繰りひろげられてゆく剣豪決死の血の絵巻物に見とれている源十郎。
 かれは片手に大刀をさげ、片手で縁の柱をなでて左膳の剣が捕吏(とりて)の新血に染まるごとに、
「ひとウつ! ふたアツ! それッ! 三つだ! 三つだアッ! ほい! 四つッ!」と源十郎、子供が、木から落ちる栗でも数えるように指を突き出しては喜んでいると!
 西から東へ、一刷(は)け引いた帯のような夕焼けの雲の下に。
 その真っ赤な残光を庭一面に蹴散らし、踏み乱して、地に躍る細長い影とともに、剣妖丹下左膳、いまし奮迅(ふんじん)のはたらきを示している。
「汝等(うぬら)ア! 来いッ! かたまって来い! ちくしょう……ッ!」
 築山の中腹に血達磨(ちだるま)のごとき姿をさらして、左膳は、左剣を大上段に火を吹くような隻眼で左右を睥睨(へいげい)した。
 迫る暮色。
 暗くなっては敵を逸(いっ)する懼(おそ)れがあるので、一時も早く絡(から)め捕ってしまおうと、御用の勢は、各自手慣れの十手を円形につき突けて――さて、駈けあがろうとはあせるものの、高処(こうしょ)の左剣、いつどこに墜落(ついらく)しようも知れぬとあって、いずれも二の足、三の足を踏むばかり……この間に、石火の剣闘にみだれかけた左膳の呼吸も平常に復して、肩もしずかに、ぴったりと不動のかまえに入っている――。
 と見て、捕り手を率いる同心とおぼしき頭だったひとりが、半弧(はんこ)のうしろから大声に叱呼(しっこ)した。
「やいッ! 丹下左膳とやら。旧冬(きゅうとう)来お膝下を騒がせおった辻斬りの下手人がなんじであることは、もはやお上においては百も承知であるぞッ! これ、なんじも剣の妙手ならば、すみやかに機をさとり、その遁(のが)れられぬを観じて神妙にお縄をちょうだいしたらどうだッ! この期(ご)におよんで無益の腕立ては、なんじの罪科(ざいか)を重らすのみだぞッ!」
 あお白い左膳の顔が、声の来るほうへ微笑した。
「なんだ、辻斬りがどうしたと? いってえ誰が訴人をして、おれのいどころが知れたのか、それを言えッ、それをッ!」
 と低い冷たい声を口の隅から押し出した。
 捕役はなおも高びしゃに、
「さような儀、なんじに申し聞かすすじではないッ!」と一喝したが、思い返したものか、
「だが――」と声を落として、「なんじの相識(しりあい)……意外に近い者から出おったのだ」
 左膳の一眼が残忍(ざんにん)な光を増した。
「な、何ッ? そうか。な、おれは、友に売られたのかッ……うむ! おもしれえ! して、その、おれを訴えでた友達てえのは、どこのどいつだ? これを聞かしてくれ!」
 が、役人は左膳の言葉の終わるを待たず、
「ええイ! なんのかのと暇をとる。聞きたくば縄を打たれてからきけッ――それッ、一同かかれッ!」
 と、あとは、御用! 神妙にいたせ! と怒声がひとつにゆらいで渦を巻いたが、そのどよめきの切れ目から恨みにかすれる左膳の咽喉が哀願(あいがん)の声を振り絞っているのがかすかに聞こえた。
「おいッ! 情けだあッ! お、教えてくれ!――いッ! だ、だれがおれを裏切ったのか……そ、それを知らねえで不浄(ふじょう)縄にかかれるかッ? よ! 一言! よう! 名を言え、訴人の名を言えよ名をウ――!」
 が、役人どもは、すでに懸命の十手さばきにかたく口を結んで、こたえる気色(けしき)もいとまもない。雨と降り、風と吹きまくる御用十手の暴風雨のなかから、この時ふと左膳の眼についたのは、縁に立つて茫然自失の態(てい)で、この自分の難を眺めている鈴川源十郎のすがたであった。
 見るより左膳、たちまち脳裏(のうり)にひらめいたものあるごとく、
「や! 源十! こらッ源公! て、てめえだなッおれを訴えたのはッ!」
 おめきざま、乾雲丸ではないが、左膳の剣に一段の冴えが加わって、かれは即座に左右にまつわる捕り手の二、三をばらり――ズン! 薙伏(なぎふ)せたかと思うと、怨恨(えんこん)と復讐(ふくしゅう)にきらめく一眼を源十郎の上に走らせ、長駆(ちょうく)、地を踏みきって、むらがる十手の中を縁へ向かって疾駆(しっく)し来(きた)った。
 とたんに。
 ズウウウン! と一発、底うなりのする砲声が冬木立ちの枝をゆるがせて、屋敷のそとからとどろき渡った。

 本所化物屋敷の荒れ庭に、血沫(ちしぶき)をあげて逆巻(さかま)く十手の浪と左手の剣風……。
 奇刀乾雲丸は、不可解の一団に持ち去られたと称して手もとにないものの、剣狂左膳の技能は、あえて乾雲を俟(ま)たなくても自在に奔駆(ほんく)した。
 そうして。
 ひそかに自分を訴えでたのは、てっきりこの家のあるじ鈴川源十郎に相違ないと、ひとりぎめに確信した左膳が、今や、算を乱し影をまじえて、むらがる捕吏(ほり)を突破し、長駆一躍して、縁の源十郎へ殺到した刹那に!
 突(とつ)! 薄暮紺色の大気をついて一発炸然(さくぜん)と鳴りひびいたふところ鉄砲の音であった。
 やッ! 飛び道具の助勢!……と不意をうたれた驚愕の声が、捕吏の口を洩れて、一同、期せずして銃声の方を見やると――。
 南蛮渡来(なんばんとらい)の短筒(たんづつ)を擬した白い右手をまっすぐに伸ばして、その袖口を左手でおさえた女の立ち姿が、そろりそろりと庭の立ち木のあいだを近づいて来ていた。
 思いがけなくも櫛まきお藤である!
 それが、これもお尋ね者のお藤ッ! と気がついて捕吏の面々はあらたにいろめき渡ったのだが、お藤は、ゆっくりと歩を運んで、幹を小楯(こだて)に、ずらりと並ぶ捕役(とりやく)の列に砲口を向けまわして、
「さ、丹下様ッ! お早くッ!――お藤でございます。お迎いに参りました。ここはあたしがおさえておりますから、あなたはなにとぞ裏ぐちから……お藤もすぐにつづきますッ!」

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