丹下左膳
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著者名:林不忘 

 たらぬがちの生活にも、朝な朝なのはたきの音、お艶の女房(にょうぼう)ぶりはういういしく、泰軒は毎日のように訪ねて来ては、その帰ったあとには必ず小粒(こつぶ)がすこし上がりぐちに落ちている。大岡様から与えられた金子をそれとなく用立てているものであろう。栄三郎は押しいただいて使っていたが、そのくせいつも顔が会っても、かれも泰軒もそれについては何一ついわない。殿方(とのがた)の交際(まじわり)はどうしてああさっぱりと行きとどいているのだろうと、お艶は涙のこぼれるほどうれしかった。
 お艶のはなしによって。
 丹下左膳が、母おさよの奉公先なる本所法恩寺まえの旗本鈴川源十郎方の離庵(はなれ)にひそんでいることがわかった。
 で……。
 泰軒と栄三郎、この二、三日こっそりと談合(だんごう)をすすめていたが、お艶に知らせればむだな心配をかけるばかりだと、先刻雨の中をぶらりと銭湯に出ていった栄三郎は、じつはいまごろは泰軒としめし合わせて本所の鈴川の屋敷へ斬りこんでいる時分なのだ!
 そうとは知らないお艶、ぬれ手拭をさげた栄三郎をこころ待ちに、貧しいなかにも黙って出して喜ばせようと、しきりに口のかけた銚子(ちょうし)の燗(かん)ぐあいを気にしていると――。
 突如(とつじょ)、はでな色彩(いろどり)が格子さきにひらめいたかと思うと、山の手のお姫様ふうの若いひとが、吹きこむ雨とともに髪を振り乱して三尺の土間(どま)に立った。

 どうん! と一つ、戸外(そと)から雨戸を蹴るのが手はじめ。
 栄三郎と泰軒が、同時に左右に別れてその戸の両側に身をかくす。
 とも知らない庵内の男、夢中でごそごそ起き出たらしく、やがてめんどうくさそうに戸をあけて、
「ちえッ! 誰だ、今戸にぶつかったのは? 用があるなら声をかけろ」
 と、みなまでいわせず、刹那(せつな)、鞘をあとに躍(おど)った武蔵太郎が、銀光一過、うわあッ! と魂切(たまぎ)る断末魔(だんまつま)の悲鳴を名残りに、胴下からはすかいに撥(は)ねあげられたくだんの男、がっくりと低頭(おじぎ)のようなしぐさとともに、もう戸の隙から転び落ちて、雨に濡れる庭土を掻いてのたうちまわる。
 生きている血がカッ! と火の子のように熱(あつ)く栄三郎の足に飛び散る。
 だが! たやすく刃にかかったところを見ても、斬られたのは左膳ではなかった。現(げん)に男は二本の腕で、飛び石を噛み抱いている。
 とすると、
 庵のなかには、めざす丹下左膳がまだ沈潜(ちんせん)しているに相違ないがカタリとも物音一つしないのは、寝てか覚(さ)めてか……泰軒と栄三郎期せずして呼吸(いき)をのんだ。
 夜の氷雨(ひさめ)がシトシトと闇黒を溶かして注いでいる。樹々の葉が白く光って、降り溜まった水の重みに耐えかねて、つと傾くと、ポツリと下の草を打つ滴(しずく)の音が聞こえるようだ。松の針のさきに一つ一つ水玉がついているのが、戸の洩れ灯をうけて夜眼(よめ)にもいちじるしい。
 しみじみと骨を刺す三更(こう)の悲雨(ひう)。
 本所化物屋敷の草庵に斬りこみをかけた二人は、一枚あいた板戸の左右にひそんで、じっと耳をすまして家内をうかがった。
 お艶の口から、ここに乾雲丸の丹下左膳が潜伏していることを知り、お艶にはないしょで、今夜不意討ちに乗りこんだ諏訪栄三郎と蒲生泰軒である、来る途中で、獲物代りに道ばたの棒杭(ぼうぐい)を抜いた泰軒、栄三郎にささやいて手はずを決めた。
「あんたは専念(せんねん)丹下にかかるがよい。お艶さんの話によると、たえず四、五人から十人の無頼物(ならずもの)が屋敷に寝泊りしておるそうだが、じゃまが入れば何人でもわしが引き受けるから」
 というたのもしい泰軒の言葉に、こんどこそはいかにもして夜泣きの片割れ乾雲丸を手に入れねばならぬと、栄三郎は強い決意を眉宇(びう)に示して、ひそかに武蔵太郎を撫(ぶ)しつつ夜盗(やとう)のごとく鈴川の邸内へ忍びこんだのだった。
 深夜。暗さは暗し、折りからの雨。寝こみをおそうにはもってこいの晩である。小声にいましめあって離室(はなれ)に迫った泰軒と栄三郎は、戸をあけたひとりは栄三郎が、抜き討ちに斬って捨てたもののそれは名もない小博奕(ばくち)うちの御家悪(ごけあく)ででもあるらしく、なかには、当の左膳をはじめ何人あぶれ者が雑魚寝(ざこね)をしているかわからないから、両人といえどもうかつには踏みこめない。
 今の物音は源十郎達のいる母屋(おもや)には聞こえなかったらしいが、はなれの連中が気をつめ、いきを凝(こ)らしていることはたしかだ。が、そとに寄りそっている栄三郎泰軒の耳には、雨の滴底に夜の歩調が通うばかりで……、いつまで待ってもうんともすんとも反応がない。
 と、思っていると、
 雨戸のなかに、コソ! と人の動くけはいがして、同時にふっと枕あんどんを吹き消した。
 踏みこまねば際限(きり)がない! と気負(きお)いたった栄三郎が、泰軒にあとを頼んで戸のあいだに身を入れた間(かん)一髪(ぱつ)! 内側に待っていた氷剣、宙を切って栄三郎の肩口へ! と見えた瞬間(しゅんかん)、武蔵太郎の大鍔(おおつば)南蛮鉄、ガッ! と下から噛み返して、強打した金物のにおいが一抹(まつ)の闘気を呼んで鼻をかすめる。とたんに! 伸びきった栄三郎の片手なぐり、神変夢想流でいう如意(にょい)の剣鋩(けんぼう)に見事血花が咲いて、またもやひとり、高股をおさえて鷺跳(さぎと)びのまま□(ど)ッ! と得耐(た)えず縁に崩れる。
 かぶさってくるその傷負(てお)いを蹴ほどいて、一歩敷居に足をかけ、栄三郎、血のしたたる剛刀をやみに青眼……無言の気合いを腹底からふるいおこして。
 静寂不動(せいじゃくふどう)。
 たちまち、暗がりに慣れた栄三郎の眼に、部屋の中央に端坐(たんざ)して一刀をひきつけている人影がおぼろに浮かんできた。
「坤竜か。この雨に、よく来たなあ! 先夜は失礼した――」
 低迷する左膳の声――とともにこの時母家のほうに当たって戸のあく音がして、鈴川源十郎のがなりたてるのが聞こえた。
「なんだッ! 丹下ッ! 何事がおきたのかッ!」

 真十五枚甲伏(かぶとぶせ)の法を作り出して新刀の鍛練(たんれん)に一家をなした大村加卜(かぼく)。
 かぶと伏せは俗に丸鍛(まるぎた)えともいい、出来上がり青味を帯びて烈(はげ)しい業物(わざもの)であるという。もと鎌倉藤源次助真が自得(じとく)したきりで伝わらなかったのを、加卜これを完成し、世の太刀は死に物なり甲伏は活太刀(かったち)なりと説破して一代に打つところ僅かに百振りを出なかった。
 武蔵太郎安国は、この大村加卜の門人である。
 いまこの、武蔵太郎つくるところの一刀をピッタリ青眼につけた諏訪栄三郎、闇黒に沈む庵内に眼をこらして、長駆してくるはずの乾雲丸にそなえていると。
 別棟(べつむね)の母家のほうがざわめき渡って、鈴川源十郎、土生仙之助、つづみの与吉、その他十四、五人の声々が叫びかわしているようす。
 今にも庭へ流れ出てくれば、闇中の乱刃に泰軒ひとりでは心もとない……とふと栄三郎の心が戸外へむくと、うしろの戸口に!
「栄三郎殿ッ! ここは拙者が引き受けたぞ。こころおきなく丹下をしとめられい!」
 との凜(りん)たる泰軒の声に、栄三郎は決然として後顧(こうこ)のうれいを絶ったが、しとめられい! と聞いて、にっとくらがりに歯を見せて笑ったのは、まだ膝をそろえてすわっている丹下左膳だった。
「ここへ斬りこんでくるとは、てめえもいよいよ死期が近えな」
 と剣妖左膳、ガチリと鍔が鳴ったのは、乾雲の柄を握った片手に力がこもったのであろう。同時に、
「では、そろそろ参るとしようかッ」
 と、おめきざま、紫電(しでん)低く走って栄三郎の膝へきた。跳びのいた栄三郎、横に流れた乾雲がバリバリッ! と音をたてて、障子の桟(さん)を斬り破ったと見るや、長光を宙になびかせて左膳の頭上に突進した。
 が、さいたのは敷蒲団と畳の一部。
 その瞬間に、いながらにして跳ね返った左膳は、煙草盆(たばこぼん)を蹴倒しながら後ろの壁にすり立って濛々(もうもう)たる灰神楽(はいかぐら)のなかに左腕の乾雲を振りかぶった左膳の姿が生き不動のように見えた。
「野郎(やろう)ッ! さあ、その細首をすっ飛ばしてくれるぞッ!」
 大喝(たいかつ)した左膳の言葉は剣裡(けんり)に消えた。息をもつがせず肉迫した栄三郎が、足の踏みきりもあざやかに跳舞して上下左右にヒタヒタッ! とつけ入ってくるからだ。剣に死んでこそ剣に生きる。もう生死を超脱(ちょうだつ)している栄三郎にとっては、左膳も、左膳の剣も、ふだん道場に竹刀をとりあう稽古台(けいこだい)の朋輩(ほうばい)と変わりなかった。身を捨てて浮かぶ瀬を求めようと、防禦の構えはあけっぱなしに、まるで薪でも割ろうとする人のようにスタスタと寄って来てはサッ! と打ちこむ。法を無視しておのずから法にかなった凄い太刀風であった。
 これが、平素から弄剣(ろうけん)に堕す気味のある左膳の胆心(たんしん)を、いささか寒からしめたとみえて、さすがの左膳、いまはすこしく受身の形で、ひたすら庭へとびおりて源十郎と勢いの合する機を狙うもののごとく、しきりに雨の吹きこむ戸ぐちをうかがつているが、早くもこれを察知した栄三郎が、はげしく刃をあわせながらも、体をもって戸外の道をふさぐことだけは忘れずにいるから、左膳思わず焦(いら)立ち逆上(あが)った。
「コ、コイッ! うるせえ真似(まね)をしやあがる!」とにわかに攻勢に出てその時諸手(もろて)がけに突いてきた栄三郎をツイとはずすが早いか、乾雲丸の皎閃(こうせん)、刹那に虹をえがいて栄三郎のうえへくだった。
 はじきとめた武蔵太郎が、鉄と鉄のきしみを伝えて、柄の栄三郎の手がかすかにしびれる。とたんに一歩さがった彼は、不覚(ふかく)にも敷居ぎわの死体につまずいて仰向(あおむ)けに倒れた。
 と見た左膳、腸をつく鋭い気合いとともにすかさず追いすがって二の太刀を……。
 闇黒ながらに相手が見えるふたり。
 火花を散らす剣気が心眼に映じて昼のようだ。
 斬りさげる左膳。
 はねあげる栄三郎。
 あいだに! ウワアッと! 喚発(かんぱつ)した悲叫は、左膳か、それとも栄三郎か?

 本所鈴川の化物屋敷が刀影下に没して、冷雨のなかを白刃相搏(あいう)つ血戦の場と化しさったころ。
 ここ瓦町の露地(ろじ)の奥、諏訪栄三郎の留守宅にも、それにおとらない、凄じいひとつの争闘が開始されていた。
 男子のたたかいは剣と腕(かいな)。
 だが、女子のあらそいに用いられる武器は、ゆがんだ微笑と光る涙と、針を包んだことば……そうして、火の河のようにその底を流れる二つの激しい感情とであった。
 たがいの呪い、憎みあう二匹の白蛇。
 それが今、茶の間……といってもその一室きりない栄三郎の侘住居(わびずまい)に、欠け摺鉢(すりばち)に灰を入れた火鉢をへだてて向かいあっているのだ。
 お艶(つや)と弥生(やよい)。
 だまったまま眼を見合って、さきにその眼を伏せたほうが負けに決まっているかのように双方ゆずろうともしない――視線合戦(しせんがっせん)。
 が、さすがにお艶は、水茶屋をあつかってきただけに弥生よりは世(よ)慣れていた。お艶は、さっきから何度もしているように、丁寧(ていねい)に頭をさげると、ほどよく微笑をほころばせながら、それでも充分の棘(とげ)を含んで同じ言葉をくり返した。「あの、それでは、あなたさまが弥生様でいらっしゃいますか。おはつにお目にかかります。お噂(うわさ)はしじゅう良人(たく)から伺っておりますが……わたくしは栄三郎の妻のお艶(つや)と申すふつつか者でございます。どうぞよろしく……ほほほほ、主人はちょっとただいまお風呂(ふろ)へ参りまして、でも、もうお湯をおとした時分でございますから、おッつけ帰るだろうとは存じますが、どこかへまわりましたのかも知れませんでございますよ。まあ、ごゆっくり遊ばして」
 と、栄三郎の妻という句に力を入れて、これだけいうのがお艶には一生懸命だった。茶屋女上がりと馬鹿にされまい。まともな挨拶もできないとあっては、じぶんよりも栄三郎様のお顔にかかわる。こう引き締まったお艶のこころに、まあなんといっても、いま栄三郎の心身をひとりじめにしているのはこのわたしだという勝ちほこった気が手伝って、お艶にこれだけスラスラと初対面の口上(こうじょう)を言わせたのだったが、そのあとで、
「良人がいろいろと御厄介になりましたそうで……」
 と口にしかけたお艶は、突如、いい知れぬ嫉妬の雲がむらむらとこみあげてきて、急に眼のまえが暗くなるのを覚えた。
 しかし、弥生は無言だった。
 この家にはいって以来、彼女はお艶の顔に眼を離さずに、低頭(じぎ)はおろか口ひとつきかないですわっているのだ。
 ものをいうのもけがらわしい!
 と強く自らを叱□(しった)している弥生は、それでも、これがあの栄三郎のおすまいかと思うと、今にも眼がしらが熱くなってきそうで、そこらにある乏(とぼ)しい世帯道具の一つ一つまでが、まるで久しく取り出さずに忘れている自分の物のように懐しまれてならなかった。
 けれど、面前(まえ)にいるこの女?
 栄三郎様の妻と自身で名乗っている。
 ああ……これが話に聞いた当り矢のお艶か。でも、妻だなどとはとんでもない!
 いいえ! いいえ! 妻で――妻であろうはずはありません! 決してありません!
 と胸に絶叫して、凝然(ぎょうぜん)とお艶を見つめた弥生は、ふとなんのつもりで自分はこの雨のなかをこんなところへ乗りこんできたのだろうか? とその動機がわからなくなると同時に、じぶんの立場がこの上なくみじめなものに見えてきて、猛(たけ)りたった心が急に折れるのを感じたかと思うと、はやぽうっと眼界をくもらす涙とともに噛(か)みしめた歯の間からゆえ知らぬ泣き声が洩れて出た。
 文(ふみ)つぶてにひかれて土屋多門の屋敷を出た弥生は、待っていた櫛まきお藤につれられて、雨にぬかるむ路をここまで来たのである。
「まあまあ! なんておいたわしい。ほんとにお察し申しますよ」
 こう言ってお藤は、なんのゆかりもないものだが、あまりに報われない弥生の悲恋をわがことのように思いなして、頼まれもしないのにお艶、栄三郎の隠れ家へ案内をする気になったのだと、弁解(いいわけ)のように途々(みちみち)話した。そして、
「じつはねえお嬢さま、あたくしもちょうどあなた様と同じように、いくら思っても情(つれ)なくされる殿御(とのご)がありますのさ」
 と、左膳を思いうかべながら、この娘! この娘! この娘なんだ! どうしてくれようとちらと横眼で見ると恋と妬心(としん)に先を急ぐ弥生は、同伴(つれ)のお藤が何者であろうといっさい頓着(とんじゃく)ないもののように、折りからの吹き降りにほつれ毛を濡らしきって口を結んでいたのだった。

 宵から降りだした雨をついて、その夜鈴川の屋敷には、いつものばくちの連中が集まり、更けるまではずんだ声で勝負を争っていたが、それもいつしかこわれて、寄り合っていた悪旗本や御家人(ごけにん)くずれの常連(じょうれん)が、母屋で、枕を並べて寝についたその寝入りばなを、逆に扱(こ)くように降ってわいた斬りこみであった。
 その夜は二十人あまりの仲間が鈴川方に泊まって、なかの二人が、左膳とともに離庵(はなれ)に寝ていたのだが、これらは栄三郎が踏みこむと同時に前後して武蔵太郎の犠牲にのぼって、声を聞きつけたおもやの源十郎、仙之助、与吉らほか十四人が雨戸を排(はい)して戸外をのぞいた時は、真夜中の雨は庭一面を包み、植えこみをとおして離庵のほうからただならぬ気配が漂(ただよ)ってきた。
 口々に呼んでも左膳の答はない。
 のみならず、つい先刻まで濡れた闇黒に丸窓を浮き出させていた離室の灯が消えている。
 変事(へんじ)出来(しゅったい)!
 と、とっさに感じとると同時に、ただちに源十郎指揮をくだして、一同寝巻(ねまき)の裾をからげ、おのおの大刀をぶちこんで密(そっ)と庭におり立った。
 雨中を、数手にわかれて庵室をさして進む。
 ピシャピシャピシャというその跫音(あしおと)が、おのずから衿(えり)もとに冷気を呼んで、降りそそぐ雨に周囲の闇黒は重かった。
 この多勢の人影を、かれらが母屋を離れる時から見さだめていた泰軒は、一声なかの栄三郎を励ましておいて、つと地に這うように駈けるが早いか、母屋からの小径に当たる石燈籠(どうろう)のかげに隠れて先頭(せんとう)を待った。
 庭とはいえ、化物屋敷の名にそむかず、荒れはてた草むらつづきである。
 さきに立った土生(はぶ)仙之助が、抜刀を雨にかばいながら濡れ草を分けて、
「起きて来たのはいいが、泰山(たいざん)鳴動(めいどう)して鼠(ねずみ)一匹じゃあねえかな……よく降りゃあがる」
 独語(ひとりご)ちつつその前にさしかかった時だった。
 パッと横ざまに飛び出した泰軒の丸太ん棒、
「やッ! 出たぞ!」
 と愕(おどろ)きあわてた仙之助の身体はそのまま草に投げ出されて、あとに続く人々の眼にうつったのは、仙之助のかわりにそこに立ちはだかっている異形(いぎょう)ともいうべき乞食(こじき)の姿だった。
 そしてその手には、いますばやく仙之助から奪いとった抜(ぬ)き身(み)の一刀がかざされているのだ。
「うむ! こいつだツ!」
「それ! 一時にかかってたたっ斬ってしまえ!」
 源十郎をはじめ大声に叫びかわして、雨滴に光る殺剣(さつけん)の陣がぐるりと泰軒をとりまく。
 が、豪快(ごうかい)蒲生泰軒、深くみずからの剣技にたのむところあるもののごとく、地を蹴って寄り立った石燈籠を小楯(こたて)に、自源流中青眼――静中物化を観るといった自若(じじゃく)たる態(てい)。
 薩州島津家の刀家瀬戸口備前守(せとぐちびぜんのかみ)精妙の剣を体得したのち伊王(いおう)の滝において自源坊(じげんぼう)に逢い、その流旨(りゅうし)の悟りを開いたと伝えられているのがこの自源(じげん)流だ。
 泰軒先生、自源流にかけてはひそかに海内無二(かいだいむに)をもって自任していた。
 いまその気魄(きはく)、その剣位(けんい)に押されて、遠巻きの一同、すこしくひるむを見て、
「ごめん! 拙者がお相手つかまつるッ!」
 と躍り出た源十郎、去水(きょすい)流居合ぬきの飛閃、サッ! と雨を裂いて走ったと見るや! 時を移さず跳びはずして、逆に、円陣の一部をつきくずした泰軒の尖刀が即座に色づいて、泰軒先生、今は余儀(よぎ)なく真近(まぢか)のひとりを血祭りにあげた。
 雑草の根を掻きむしって悶絶するうめき声。
 とともに、四、五の白刃、きそい立って泰軒に迫ったが、たちまち雨の暗中にひときわ黒い飛沫(しぶき)がとんだかと思うと、はや一人ふたり、あるいは土に膝をついて刀にすがり、あるいは肩をおさえて起ちも得ない。
 迅来(じんらい)する泰軒。
 その疾駆し去ったあとには、負傷(てお)いの者、断末魔(だんまつま)の声が入りみだれて残る。こうして庭じゅうをせましと荒れくるう泰軒が、突然、捜し求めていた源十郎とガッ! と一合、刃をあわせる刹那、絶えず気になっていた離庵の中から、たしかに斬った斬られたに相違ない血なまぐさい叫びが一声、筒(つつ)抜けに聞こえてきた。
 と、まもなく生き血に彩られて、光を失った刀をさげて、黒い影がひとつ。ころがるように庵を出てくるのが見える。
 剣を持っているその手! それは右腕か左腕か?
 右ならば栄三郎、左腕なら左膳だが……。
 と、思わず泰軒が眼をとられた瞬間!
「えいッ!」
 と炸破(さくは)した気合いといっしょに、源十郎の長剣、突風をまきおこして泰軒に墜下(ついか)した。

 胸に邪計をいだく櫛まきお藤。
 じぶんの恋する左膳が思いをかけている弥生という娘。これがまた左膳の仇敵(かたき)諏訪栄三郎を死ぬほどこがれている――つまり弥生と、先夜源十郎方から逃がしてやったお艶とは激しい恋がたきだと知るや、お藤はここに弥生を突ついて、その心をひたむきに栄三郎へ向けて左膳に一泡ふかせてやろうとたくらんだのだ。
 それには、文つぶての思いつき。
 恋と嫉妬(しっと)は同じこころのうら表だ。離るべくもない。
 しかも、以前から人知れず強い憎悪(にくしみ)の矢を放って、お艶という女を呪いつづけてきた弥生のことである。このお藤の傀儡(かいらい)に使われるとは、もとより気づこうはずがない。一も二もなくお藤の投げた綱に手繰(たぐ)りよせられて、送り狼と相々傘(あいあいがさ)、夢みるような心もちのうちにこの瓦町の家へ届けられてきたのだが……。
 さてこうしてお艶、栄三郎の暮しを目(ま)のあたりに見て、現にお艶と向かいあいながら、さて、その憎い女の口から主人の栄三郎は――などといわれてみると、根が武家そだちの一本気な弥生だけに、世の中を知らぬ強さがすぐこの場合弱さに変わって、はかなさ情けなさが胸へつきあげてきた弥生はただもう泣くよりほかはなかった。
 弥生は泣いた。さめざめと泣いた。
 が、うつ伏せに折れるでもなければ、手や袂(たもと)で泣き顔をおおうでもない。
 両手を膝に重ねて、粛然(しゅくぜん)と端坐してお艶に対したまま、弥生は顔中を涙に濡らして嗚咽(おえつ)しているのだ。
 その泣き声が、傘をすぼめて戸外の露地に立ち聞くお藤の耳にはいると、櫛まきお藤、細い眉を八の字によせていまいましそうに舌打ちをした。
「チェッ! なんだろう、まあだらしのない! 自分の男をとった女と向きあってメソメソ泣くやつもないもんだ。お嬢さまなんてみんなああ気が弱いのかしら――じれったいねえ! 嫌になっちゃうよほんとに」
 こうつぶやいてなおも戸口に耳をつけると、雨の音に増して、弥生の泣き声がだんだん高くなる。
 まことに弥生は、やぶれ行燈(あんどん)に顔をそむけようともせず、流れる涙をそのままお艶へ見せて、オホッ! オホッ! と咳入るように泣いているのだが、それをお艶は、はじめはふしぎなものに思って、あっけにとられて眺めていた。
 美しくやつれた白い顔が、クシャクシャと引きつるように真ん中へよったかと思うと、口がゆがみ、小鼻のあたりが盛り上がってきて、無数の皺(しわ)の集まった両の眼から、押し出されるように涙の粒が……あとから後からと光って落ちて、青い筋の浮いている手の甲や、膝を包む友禅をしとどに濡らす。
 その顔をまっすぐにあげた弥生、いまは恥も外聞(がいぶん)も気位もなく、噛みしめた歯ももう泣き声を押し戻すことはできずよよとばかりに、声をたてて慟哭(どうこく)している――からだはすこしも動かさずに。
 しかし、骨をあらわした壁に、弥生の影が大きくぼやけて、その肩の辺が細かくふるえて見えるのは、あながち油のたりない裸燈心(はだかとうしん)のためばかりではなかったろう……弥生はいながらに身を涙の河に投じて、澎湃(ほうはい)とよせてくる己(おの)が情感に流されるままに、何かしらそこに甘(あま)い満足を喫(きっ)しているふうだった。
 おさむらいの娘というものは、こうも手放しで泣くのか――と頭の隅であきれながら、ただまじまじと弥生の涙を見つめていたお艶も、女の涙のわかるのは女である。そのうちに一度、この場にいない栄三郎のことが胸中に閃(ひらめ)くと、自分の思いに照らしあわせて弥生のこころがひしとうってくるのを感じて、いつしかお艶も眼のふちをうるませていた。
 それは、互いに一人の男を通して、やがてひとつに溶け合おうとする淡い入悟(にゅうご)の心もちであった。がそれまでに円くなるには、まだまだ二つの魂が擦れあい打ちあって角々をおとさねばならぬ……よしそのために火を発して、自他ともに焼き滅ぼすことがあろうとも。
 長い沈黙である。
 と、この時、弥生の泣き声のなかに言葉らしきものが混じっているのに気がついて、お艶は、
「は? なんでございます――?」
 ときき返したつもりだったが、じぶんでも驚いたのは、お艶の口を出たのがやはり泣き声のほか何ものでもなかった。
 いまにつかみあいではじまるだろうと、おもてに聞いていたお藤、
「おやおや! 嫌にしめっぽくなっちゃったねえ。お葬式じゃああるまいし……なんだい! ふたりで泣いてやがらあ!」
 と当てのはずれた腹立ちまぎれにトンと一つ黒襟(くろえり)を突きあげて、相手なしの見得を切ったが。
 ちょうどそのころ、本所鈴川の屋敷では――。

 闇黒に冷えゆく屍骸(しがい)につまずいて、栄三郎が倒れるそこを左膳が斬りおろす……。
 が、その時!
 下からささえた武蔵太郎は刃ごたえがあって、一声肝腑(かんぷ)をえぐる叫びをあげたのは剣狂丹下左膳であった。
 人を斬ってばかりいて、近ごろ斬られたことのない左膳、しばらく忘れていた鉄の味を身に感じて、獣(けもの)のようなおめきとともにたたら足を踏んで縁にのめり出たが、あらためるまでもなく、傷は、右膝に食い入ったばかりで、骨には達していない。大事ないと見きわめるや、かれは再び猛然と乾雲丸を取りなおした。
 隻眼隻腕、おまけに顔に金創の溝ふかい怪物……このうえ跛者とくりゃあ世話アねえや! ととっさに考えるとそこは老獪(ろうかい)の曲者(くせもの)、火急の場にも似ず、痛みを耐えるようににっと歯を噛んだ――笑ったのだ。
「さあ己(おの)れッ! この礼はすぐに返してやる!」
「…………」
 答のかわりにはね起きた栄三郎は、直ちに跳躍して追撃を重ねる。それを左右に払いつつ、左膳は戸口を背に一歩一歩さがってゆく。
 せまい庵内なればこそ、八転四通の左膳の剣自由ならず、道場の屋根の下に慣れた栄三郎も五分五分に往けるのだが、一度野天に放したが最後、地物(ちぶつ)に拠(よ)り、加勢をあつめ、奔逸(ほんいつ)の剣手鬼神の働きを増すことは知れている。ことに戸外では、泰軒が多勢を相手に悪戦しているのだ。そこへ左膳を送り、自分が出て行けば、泰軒とともに苦境におちることは眼に見えてあきらかだ。
 なんとかして室内にくいとめておかねば――と栄三郎が右からまわって退路を絶とうとしたとき、左膳の左手がビク! と動いたと見るやはや乾雲風を裂いて飛躍しきたったので、突っ離すつもりで身をひいたとたん、土間に降りた足音がして、六尺棒のような左膳の身体がスルスルと戸ぐちをすべり出た。
 その出たところを泰軒が見たのだった。
 泰軒は、ちらと一瞥(いちべつ)をくれた……だけだったが、その間隙(すき)が期せずして源十郎に機会を与えて、泥を飛ばして踏みこんだ鈴川源十郎、流光雨中に尾をえがいて振りおろした――。
 のはいいが。
 あいだに張り出た立ち樹の枝に触(ふ)れて、くだかれた木肌や葉が、露を乱してバラバラッ! と散り飛ぶのをいちはやくそれと感知して、泰軒、身を低めて背(しり)えに退いたから源十郎はすんでのことでわれと吾が足を愛刀の鋩子(さき)にかけるところだった。
 剣閃(けんせん)、雨に映え、人は草を蹂躪(じゅうりん)して縦横に疾駆する。
 たけなわ。
 さもなくば、初冬細雨(さいう)の宵。
 浅酌(せんしゃく)低唱によく、風流詩歌を談ずるにふさわしい静夜だが……。
 いま、この化物屋敷には、暗澹(あんたん)として雲のたれる空の下に、戟渦(げきか)巻きあふれて惨雨(さんう)いつやむべしとも見えない。
 血に染んだ草の葉を打つ雨の音。
 斬られた者のうめき声が、泥濘(でいねい)にまみれてそこここに断続(だんぞく)する。濡れた刀が飛び違い、きらめき交わして、宛然(えんぜん)それは時ならぬ蛍合戦(ほたるがっせん)の観があった。
 源十郎の鋭刃に虚をくらわせた泰軒。
 同時にうしろに、氷(ひょう)ッ! と首すじを吹き渡る剣風を覚えて、危なく振りむいた――のが早かったかそれとも、離室を出た一拍子に、泰軒の姿をみとめて駈けよりざま、乾雲をひるがえして背撃にきた左膳のほうが遅かったか……とにかく左膳のたたっ斬ったのは、やみを彩る数条の雨線だけで、泰軒先生最初にぶんどった土生仙之助の大業物(わざもの)を車返しに、意表にでて後ろの源十郎へ一薙(なぎ)くれたかと思うと、このときはもう慕いよる半月形の散刀に対して、無念無想(むねんむそう)、ふたたび静に帰(き)した不破(ふわ)の中青眼。
「乞食野郎(こじきやろう)ッ! 味をやるぜ!」
 心から感嘆した左膳の声だ。
 乾雲を追って部屋を走り出た坤竜。栄三郎が雨をすかして庭面(にわも)を見渡すと、向うにささやかな開きをなしている草むらのあたりに、泰軒を囲んでいるとおぼしき一団の剣光がある。
「うぬッ! こうなれば一人ずつ武蔵太郎に血をなめさせてくれる!」
 と、栄三郎が先方を望んでまっしぐらに馳(は)せかかった刹那! その出足に絡むように、つと闇黒からわいて現われた黒影!
「一手、所望(しょもう)でござる!」
 立ちふさがって、しずかな声だった。

 江戸の町々を寒く濡らして、更けゆく夜とともに繁くなる雨脚(あまあし)……。
 地流れをあつめて水量の増した溝から、泥くさい臭気がぷうんとお藤の鼻をつく。
 両側の軒が迫り合って、まるで屋根の下のような露地の奥。さしかけた傘を、庇(ひさし)を伝わりおちる滴(しずく)が正しく間(ま)をおいて打って、びっくりするほど大きくこもって聞こえた。
 雨に寝しずまる長屋つづき。
 屋内では、お艶と弥生が、たがいの涙にまた新しい涙を誘われて、何かクドクドと掻きくどいているらしい。
 丹下左膳が思いをかけている弥生を煽(あお)りたてて栄三郎への慕念をたきつけ、それによって恋のうずまきをまんじに乱してやろうと、頼まれもしない嫉性鬼女(しっしょうきじょ)のお節介(せっかい)に、この雨のなかを、こうして麹町くんだりからわざわざ恋がたきをつれ出してきたお藤、御苦労にもおもてに立っていくら聞き耳を立てていても掴みあいはおろか、いっこうにいい募(つの)るようすだに見えない。
 お艶、栄三郎のむつまじい住いを見せてやっただけでも、お藤は相当に弥生をいじめ得たわけだが、もっともっと弥生が恥をかくようなことにならなければ、お藤としては腹の虫が納まりかねるのだ。ところが、いつまで待っても二人は泣き合っているばかり……これでは櫛まきお藤、初めの目算(もくさん)ががらりはずれたわけで、いまさら引っこみもつかず、なおも格子の隙に耳をすりつけていると――。
 先刻から、露地口をこっちへ、犬のように忍んでいる黒い影があった。
 それがこの時まで、すこしむこうの溝板(どぶいた)の上にうずくまっていたが、いよいよお藤の姿を確かめ得たとみたものか、急に隠れるように後へ戻って、そっと往来へ走り消えた……のをお藤は、家の中へばかり意を注いでいて、気がつかなかった。
 その家の中では。
 おなじ恋の辛さに、女同士のなみだを分けるお艶と弥生。
 ――弥生様は、どうしてわたし達の隠れ家を突きとめて、しかもこの雨の深夜に、何しにいきなり乗りこんでいらしったのだろう? とこれが一ばん先にお艶の頭へきたのだったが、座に着いてから今まで、言葉もなくただ泣きくれている弥生を見ているうちに、なんということなしに自分も涙をおさえきれなくなって、ほろりと一つ落としてからは、あとはもう言うべきことのすべてが失(う)せて姉妹のように手をとり合わぬばかり、泣いて泣いて、泣きつくせぬ両人であった。
 うしなった恋に涙を惜しまぬ弥生と。
 得た恋の不安、負けた相手への思いやりに、またべつの嘆きをもつお艶と……。
 ようよう泪を払って、弥生がしんみりとお艶に物語ったところは。
 栄三郎へかたむけた自らの恋ごころ。亡父鉄斎の意企(たくらみ)。夜泣きの大小の流別。おのが病のこと……など、など。
 そして、
「わたしはもう帰ります。なんのためにおじゃまにあがったのか、じぶんでもわかりません。栄三郎様にはお眼にかからぬほうがよろしゅうございます……ただおふたりともお身体をお大事に」
 起ちあがりながら、弥生はつけたした。
「お艶さま。どうぞわたしの分もいっしょに栄三郎様へお尽くしなすってください。あの方は、道場にいらっしゃるころから、寒中でも薄着がお好きで、これから寒さへ向かいますのに、もしやお風邪(かぜ)でもと、ほほほ、あなたというお人がいらっしゃるのに、とんだよけいなことを申しました。では、わたしの参りましたことは、おっしゃらないように――夜中失礼いたしました」
 と、強い弥生は、もういつもの強い弥生であった。
 が、それと同時に、弱いお艶はすでにいつもの弱いお艶に返って勝った恋のくるしさに耐え得でか、わッ! と声をあげて哭(な)き伏したので、これを耳にした戸外のお藤、
「なんだい一体! おもしろくもない愁嘆場(しゅうたんば)だよ。また泣きだしゃがった!」
 われ知らず口にのぼしてつぶやいた拍子に!
 雨音を乱して近づく多人数の人の気!
 はっとして露地の入口に向けたお藤の眼に、ほの光る銀糸の玉すだれをとおして映ったのは、いつのまにどこから湧いたか、真っ黒ぐろに折り重なった捕手(とりて)の山! 十手の林! しいんと枚(ばい)をふくんで。
 おやッ! と胆を消しながらもそこは櫛まきの大姐御(おおあねご)、にっと闇黒に歯を見せてすばやく左右の屋根を仰ぐと、どっこい! 人狩りの網に洩れ目はなく、御用の二字を筆太に読ませた提灯(ちょうちん)が、黄っぽい光を雨ににじませて、そこにもここにも高く低く……。
 ふくろ小路(こうじ)だ。にげみちはない。
 と、とっさに看取した櫛まきお藤、おちょぼ口を袖でおさえると、ひとりでに嬌態(しな)をつくった。
「あれさ、野暮(やぼ)ったいじゃないか、いやに早い手まわしだねえ!」

 一手所望(しょもう)だ……という男の声は、算(さん)をみだした闘場において、確かなひびきをもって栄三郎の耳をうった。
 鼻と鼻がくッつきそう――闇黒をのぞくまでもなく、相手は、ふり注ぐ雨に全身しぼるほど濡れたりっぱな武士!
 鈴川源十郎の化物屋敷には、まだ雨中剣刃の浪がさかまいているのだ。
 泰軒があぶない! と見て踏み出した栄三郎も、眼前に立ち現われたこの侍の相形(そうぎょう)には、思わず愕然(ぎょっ)として呼吸を切った。
 正規の火事装束(しょうぞく)――それもはっきりと真新しく、しかるべき由緒(ゆいしょ)を思わせる着こなし。
 それが抜き放った大刀をじっと下目につけたまま、栄三郎の気のゆえか、どうやら角頭巾(かくずきん)の下から眼を笑わせているようだが、剣構品位(けんこうひんい)尋常でなく、この場合、おのずと立ち向かった栄三郎、何やらゾクッ! と不気味でならなかった。
 なに奴(やつ)?
 地からせり上がったか、それとも闇黒が凝(こ)ったか――とにかく、鈴川邸内の者とは見えない。
 とすれば?
 駈けつけた敵の助勢であろうか、それにしても、このものものしい火事場の身固めと、なんとなく迫ってくる威圧、倨傲(きょごう)の感とは、なんとしたことだ……。
 刀をつけながらも、不審(ふしん)にたえない栄三郎が、さまざまに思い惑って、ちらとそばのやみに眼をくばると、ふしぎ! にも落ち残った葉を雨にたれた木立ちのかげに、同じ装束(しょうぞく)の四、五人がそれぞれ手を柄頭に整然とひかえている。
 通りがかりか、ないしは志あってか、この一団の火事装束、いま血戦の最中にこっそり邸内に忍び入って来たものに相違ない。
 夜陰(やいん)に跳梁(ちょうりょう)する群盗の一味(み)!
 それが偶然にもこの修羅(しゅら)場に落ちあったものであろう。逡巡(しゅんじゅん)するはいたずらに時刻の空費と考えた栄三郎、躍動に移る用意に、体と剣に細かくはずみをくれだすと、機先(きせん)を制(せい)してくるかと思いのほか、正体の知れない火事装束の武士、あくまでも迎え撃ちにかまえて、揶揄(やゆ)するごとく一刀を振り立てながら、
「お手前は――? 坤竜かの?」落ち着き払った、老人らしい声音である。
 栄三郎は、ふたたび愕然(がくぜん)とした。
 自分と左膳とのあいだの乾坤二刀の争奪……誰も知る者のないはずなのに、この、突如としてあらわれた異装の一隊は、そのいきさつを委細(いさい)承知(しょうち)してわれからこの場へ踏みこんできたらしい口ぶりだ。
 何者かはわからぬが、容易ならぬ一団!
 ことに、いま栄三郎と立ち合っている恰幅(かっぷく)のいい侍はその首領とみえて、剣手体置きすべてが世のつねの盗人とは思われない。
 左膳、栄三郎、泰軒、源十郎、その他を抱きこんでよどむ夜泣きの刀渦(とうか)に、また一つ謎の大石が投げられたのだ!
 二剣、その所をべつにしたが最後、波瀾(はらん)は激潮(げきちょう)を生み、腥風(せいふう)は血雨を降らすとの言い伝えが、まさに讖(しん)をなしたのである。
 あせりたった栄三郎、こうなった以上身を全うするにしくはなしと、
「えいッ!」
 と迸(ほとば)しらせた空(から)気合いとともに、打ちこむと見せてサッ! と引くが早いか、
「先を急ぎまする、ごめん!」
 ひとこと残して泰軒の方へ走り去ろうとすると、剣光、栄三郎の背後に乱れ飛んで、火事装束の武士達一丸(がん)となって追い迫ったが、先ほどからこの不意の闖入者(ちんにゅうしゃ)をみとめて、泰軒を捨てて馳せ集まっていた化物屋敷の面々、今は自分の頭上の火の子だから、栄三郎ともども、ひとつに包んでかかってきた。
 見ると、泰軒はむこうで左膳ひとりを相手に斬りむすんでいる。一刻も早く屋敷のそとへ! と決した栄三郎、ぶつかった鈴川方の一人をパッサリ! と割りさげておいて、泥沫(はね)をあげて左膳を襲い、そのダッとなるところをすかさず、泰軒をうながして母家(おもや)の縁(えん)へ駈けあがった。
 追ってくるようすはない。
 一同、火事装束の新手(あらて)を迎えて、何がなにやらわからないながらも、降雨の白い庭に力闘の真最中だ。
「泰軒先生ッ! 思わぬじゃまが入りました!」
「なんだ、あの連中はッ」
「やはり、乾雲坤竜をねらう輩(やから)と見えまする」
「すりゃ、左膳とあんたにとって共同の敵じゃな――しかし手ごわそうな!」
「は。残念ながらひとまずこの家は引きあげたほうが……」
「それがよろしい。互いに無傷(むきず)なのが何よりだ。まもなく夜も明けよう」
 そうだ。まもなく夜も明けよう。
 縁(えん)の端(はし)、納戸のあたりにぼうっと朝の訪れが白んで見える。
「こう行こう!」
 と歩き出した二人は、おさよ婆さんのとらわれている納戸のまえにさしかかった。

 ガラリ……格子戸があいたので、お艶と弥生が同時に顔を向けると、しずくのたれる傘をさげた櫛まきのお藤。
「ごめんなさいよ。ちょいと通さして――」といいながら、もう傘と足駄(あしだ)をつまんであがって来たかと思うと、ひらりと二人のあいだを走りすぎて、すぐ裏口から抜け出て行った。
 うらは別の露地へひらいて、右へ切れてまっすぐに行けば第六天篠塚稲荷(しのづかいなり)のまえへ出る。
 軒づたいにそこまで逃げのびたお藤は、ほっとしてうしろを振り返った。
 追って来る御用提灯もなく、夜の雨が遠くの町筋を仄(ほの)白くけむらせている――あれほどはりつめた捕手の網もどうやらくぐりぬけ得たらしい。が、ゆすり騙(かた)り博奕兇状(ばくちきょうじょう)で江戸お構えになっている自分の身に今さらのように気がついてみると、いまのさわぎといい、ここらは全部手がまわっているらしく、
「こりゃうっかりできないよ!」
 とお藤がひとり言を洩らした時!
「これ! 女ひとりか。この夜更けにどこへ参る?」
 という太い声が前面からドキリとお藤の胸をうった。
「は。いえ、あの、わたしはそこの長屋の女でございますが、ただいま夜中に急病人がでまして――」
「医者を迎えに行くというのか」
「はい」
「よし。気をつけてゆけ」
「有難うございます」
 で、二、三歩歩きかけた背後から!
「櫛まきお藤ッ! 神妙(しんみょう)にお縄を頂戴(ちょうだい)いたせッ!」
 と一声!
 行き過ぎた捕役の手にキラリ十手が光って!
「何をッ! おふざけでないよ!」
 構えたお藤、ちらちらと周囲を見ると、雨に伏さった御用の小者が、襷(たすき)十字も厳重にぐるりと巻いてしめてくる。
「あめの中から金太さん……て唄はあるけれど、そうすると、ここに待っていたのかえ。ほほほほほ」
 不敵にほほえみながら、懐中に隠し持った匕首(あいくち)、逆手に握ると見るまに、寄ってきた一人の脇腹をえぐるが早いか、櫛まきお藤は脱兎(だっと)のごとく稲荷の境内に駈けこんで、祠(ほこら)をたてに白い腕を振りかぶった。
「御用ッ!」
「櫛まきッ! 御用ッ!」
 ビュウッ! と捕縄(ほじょう)をしごいて口々に叫びかわす役人のむれ、社前のお藤をかこんでジリジリッとつめてゆく。
 うしろざまに階段へ一足かけたお藤の姿は、作りつけのように動かなかった。
 風のごとく表から飛びこんで来たお藤が、風のごとく裏へ吹き抜けて行ってからまもなく。
 お艶と弥生、あっけにとられた顔を見合わせているところへ、先刻お藤をかぎつけた御用聞きをさきに数人の捕吏がどやどやとなだれこんできて、
「いま、ここへ女がはいって来たろう?」
 と威猛高(いたけだか)だ。
 すばやく眼を交わした弥生お艶、何がなしに同じ意を汲みあって、まるで約束していたように等(ひと)しくとぼけた。
「いいえ、どなたも……」
「はてな?」
 と多勢が首を傾けたからさては踏みあがってくるかな? と見ていると、それでは他家(よそ)だったかも知れないと一同急いで出て行った。
 露地から屋根まで御用提灯でいっぱいで、めざす女を逃がした役人達がくやしそうになおも右往左往している。時ならぬ雨中の騒ぎに長屋の者も軒並みに起き出たようす。
「張りこみに手落ちがねえから、どっかでひっかかりやしたろう」
 どぶ板を踏み鳴らしながら、話し過ぎる岡(おか)っ引(ぴ)きの高声……お艶と弥生は、たがいに探るように瞳の奥を見つめていたが、筒抜けていったお藤については、ふたりとも何も言わずに、そのうちに戸外の物音もしずまりかけると、羊のように怖(お)じすくんでいたふたりの心もゆるんで、お艶、弥生、はじめて若い女らしく笑いあった。
 と、それを機会(しお)に、弥生はそこそこに戸口に出て、女と女の長い挨拶ののちに、露地をゆく跫音(あしおと)がやがて消え去った。
 この雨の明け方を、弥生さまはおひとりで番町(ばんちょう)とやらへおかえりになるつもりであろうが、なんというお強い方であろう! と送りだしたお艶が気がついてみると、風呂(ふろ)へ行ったはずの栄三郎様がまだ帰宅していない!
 これは、何ごとか突発したのだ! とにわかに暗い不安の底に突きおとされたお艶だったが、かれが畳に崩(くず)折れて考えこんだのは、いま出ていった弥生さまへの義理! 義理! 義理!
 水茶屋の苦労までなめただけあって、浮き世の義理には脆(もろ)すぎるほど脆いお艶であった。
 中庭に入りまじる剣戟(けんげき)の音に身をすくませて、おさよが納戸の隅にふるえていると――。
 あし音とともに、泰軒と栄三郎の話し声が近づいてくるので、おさよはいっそう闇黒の奥に縮まった。
 誰か知らないが暴れ者がふたりやって来た……こう思って見つかっては大変と、息を凝(こ)らしている。
 そとの廊下では、納戸のまえに二人が足をとめたようすで、
「お! こんなところに部屋があります」
 という若い声。すると年老った声がそれに答えて、
「ほほう。ここから戸外(そと)へ出られぬかな?」といっているから、さてははいってくるかも知れぬと思うまもなく、サッと板戸があいて、老若ふたりの浪人姿が黒い影となって戸口をふさいだ。そして暗い室内をしばらくのぞいているようだったが、やがて、ここからは出られぬことを見たものらしく、軽い失望の言葉を捨てて戸を閉(し)めた。
 二人の足音が遠ざかって、そのうちに台所ぐちからでも屋敷を出離れて行ったけはい。
 これを娘お艶の男の栄三郎と知らぬおさよは、ほっとしてまた耳を傾けた。
 今ふたり出ていったにもかかわらず、庭にはまだ剣のいきおいが漂(ただよ)って、撃ちあうひびき、激しい気合いが伝わってくる。
 栄三郎に泰軒としては。
 この鈴川の屋敷に、お艶の母おさよ婆さんが下女奉公にあがっていて、それがお艶が逃げたことから源十郎にひどいめにあわされているらしいと知っていたので、ついでに助け出したいとも思って納戸まであけてみたのだったが、世の中にはこういう変なことがすくなくない。救いを求める人と、救う目的でさがす人とが一度はこんなに近く寄りながら、たがいに相手を知らずにそのまま過ぎてしまう――これも人間一生の運命(さだめ)を作る小さなはずみのひとつかも知れなかった。
 夜もすがらの雨に、ようやく明けてゆこうとする江戸の朝。
 やがて……。
 泰軒と栄三郎が、遠く鈴川の屋敷をはなれたころ。
 ほかの側の外塀(そとべい)にぴったりついて、先刻から供(とも)待ち顔に底をおろしている五梃の駕籠(かご)があった。
 江戸の町では見かけない山駕籠ふうの粗末なつくりだが、陸尺(ろくしゃく)は肩のそろった屈強なのがずらりと並んでいて、
「エオ辰(たつ)ウ、コウ、いやに長く待たせるじゃあねえか」
「さようなあ。もういいかげん出てきそうなもんだが、こう長くかかるところを見るてえと、こりゃあひょっとすると大物のチャンバラだぜ。なあ勘(かん)」
「あたりめえよ。荒療治(あらりょうじ)だなあ。ちったあ手間のとれるなあ知れきったこった」
「それあいいが先にもだいぶんできてるのがいるっていうじゃあねえか」
「そのかわり、こっちだって一粒選(よ)りだ。なあに、案ずることあねえやな」
「俺(おれっ)チだっていざとお声がかかりゃあ飛びこんでって暴れるんだ。先生ら、こう、ぴかつく刀を振りまわしてよ、エエッ……なんてんで、畜生ッ、うまくやってるぜ」
「全くだ。おれも乗りこんでやってみてえなあ」
「シッ! おおい、みんな! 声が高えぞ!」
「黙ってろ黙ってろ! それより、用意はいいな。お出になったらすぐ往くんだ。コウレ、七公、尻(けつ)ウさげろってことよ」
 わいわい言いあっているが――。
 多少わけ知りらしい口調といい、ことに、この十人の男が、いずれも六尺近い、仁王のような頑丈(がんじょう)なのばかりがそろっていることといい、決して普通の駕籠舁(か)きとはうけとれない。
 この、力士のような堂々たる人足(にんそく)が十人、いっせいに鈴川方の塀の木戸へ眼をあつめていると、はたして、パッと内部から戸を蹴りあげて走り出た五人の火事装束!
 首領らしい老人を先頭に、それぞれ抜き身を手に、すばやく駕籠へおさまると、
「そら来た! やるぜ!」と合図の声。
 五つの駕籠がギイときしんで地を離れたかと思うと、棒鼻(ぼうはな)をそろえて――。
 エイ、ハアッ!
 ハラ、ヨウッ!
 見るまに駈け出した五つの駕籠、早くも朝寒の雨にのまれて、通り魔の行列のように、いずくともなく消えてしまったが、それは実に驚くべき迅速(じんそく)な訓練であった。
 どこから来てどこへ去ったとも知れない五つの駕籠!
 その中の火事装束の五人の武士。
 かれらもまた、乾坤二刀を奪ってひとつにせんとするものであろうか?……とにかく、江戸の巷に疾風のごとき五梃駕籠が現われたのはこの時からで、あとには、一夜の剣闘に荒らされた鈴川の屋敷に、朝の光になごむ氷雨がまたシトシトとけむっていた。

   合(あ)わせ鏡(かがみ)

 冬らしくもない陽がカッと照りつけて、こうして日向(ひなた)に出ていると、どうかすると汗ばむくらいだ。
 ウラウラと揺れる日の光のにおいが、障子に畳にお神棚(かみだな)に漂って、小さなつむじ風であろう、往来の白い土と乾いた馬糞(ばふん)とがおもしろいようにキリキリと舞いあがって消えるのが、格子戸ごしに眺められる。
 裏の銭湯で三助を呼ぶ番台の拍子木(ひょうしぎ)が、チョウン! チョウン! と二つばかり、ゆく年の忙(せわ)しいなかにも、どこかまだるく音波を伝える。と、それを待っていたかのように、隣家の杵屋(きねや)にいっせいにお稽古の声が湧いて、きイちゃん、みイちゃんの桃割れ達が賑やかに黄色い声をはりあげた。
 くろウ、かアみイの、ツンテン。
 むすウぼオれエた――るうウウ。
 錆(さ)びたお師匠(ししょう)さんの声が、即(つ)かず離れず中間を縫ってゆく。
 ……聞いている喜左衛門(きざえもん)の皺(しわ)の深い顔に、思わず明るい微笑がみなぎると、かれは吸いかけた火玉をプッ――と吹いて、ついで吐月峰(はいふき)のふちをとんとたたいた。
 三十番神の御神燈に、磨(みが)き抜いた千本格子。
 あさくさ田原町三丁目家主喜左衛門の住居である。
 長火鉢のまえに膝をそろえた喜左衛門は、思いついたように横の茶箪笥(ちゃだんす)から硯箱(すずりばこ)をおろして、なにごとか心覚えにしたためだした。
 こう押しつまると、年内にかたづけたい公事用が山のようにたまっているところへ、きょうも朝から何やかやと町内の雑事を持ちこまれて、茶一つゆっくりのんでいられないのだった。
 走り奴(やっこ)の久太(きゅうた)が、三が日(にち)の町飾りや催し物の廻状(かいじょう)を持ってきたあとから、頭(かしら)の使いが借家の絵図面を届けてくる。角の穀屋(こくや)が無尽(むじん)の用で長いこと話しこんで行ったばかりだ。
「いやはや!」と喜左衛門はつぶやいた。「こういそがしくちゃ身体が二つあってもたりねえ」
 と、ふと彼は考えこんで、そのまま筆を耳にはさんで腕を組んだ。
 屈託顔(くったくがお)。
 もとの店子(たなこ)おさよ婆さんの一件である。
 三間町の鍛冶(かじ)屋富五郎、鍛冶富に頼まれて、奥州の御浪人和田宗右衛門(わだそうえもん)とおっしゃる方を世話してこの三丁目の持店(もちだな)のひとつに寺子屋を開かせた。が、まもなく宗右衛門は死んでしまう、あとに残ったおさよお艶(つや)の親娘(おやこ)の身の振り方については、鍛冶富ともよく談合したうえ、おさよ婆さんのほうは、じぶんと富五郎が請人(うけにん)にたって本所法恩寺橋まえの五百石お旗本鈴川源十郎様方へ下女にあげ、娘のお艶には、これも自分が肝(きも)いりで、当時売り物に出ていた三社(さんじゃ)前の掛け茶屋当り矢を買いとってやらせてみたのだったが……。
 鍛冶富は、人のうわさによれば、だいぶお艶に食指が動いてそのために、金もつぎこめば、また到底(とうてい)そのほうの望みがないとわかってからは、かなり激しく貸し金の催促もしたようだけれど。
 おれはただ、店子といえば子も同然、大家といえば親も同然――という心もちから、慾得(よくとく)離れてめんどうをみただけのことなのだ。
 それだのに。
 お屋敷へあがったおさよからは、便りどころかことづて一つあるではなし、娘は娘で、勝手に男をこしらえて今はどこにどうしているとも知れず店をしめて突っ走ってしまった。
 お艶は何をいうにも若い女のこと、ただ折角(せっかく)のこの家に敷居が高くなるだけで、それも言ってみれば自業自得(じごうじとく)だが、婆さんは年をくっているくせにあんまりとどかなすぎる。が、そんなことを一々怒っていた日には、家主は癇癪(かんしゃく)が破裂して一日とつとまらぬ。とはいえ、聞くところでは鈴川様は、大して御評判のよくないお屋敷だとの人の口もある。あれやこれやを思い合わせると、苦労性だけに喜左衛門は、お艶の身の上といい、とりわけおさよ婆さんのことがどうもこのごろ気にかかってならないのだ。
「娘っこも娘っこだが、おふくろもおふくろだて」
 われ知らず口に出た喜左衛門へ、女房が茶(ちゃ)の間(ま)へはいってきて受け答えをした。
「お前さん、おさよさんとお艶坊(ぼう)のことを気におやみだねえ」
「うん。虫の知らせと言おうか。なんとなくこう胸騒(むなさわ)ぎがしてならねえ」
「そうだねえ。そう言えばわたしもこの二、三日あの親娘の夢見が悪いのさ。どうだろう、いっそ本所のお屋敷へうかがってみては?」
「うん……そうよなあ」
 と喜左衛門が生(なま)返事を洩らした時、勢いよく格子があいて、
「おうッ、喜左衛門どん、いるかね!」

「押しつまりましたね」
 鍛冶富は、すわるとすぐ煙草(たばこ)入れをスポンと抜いてから言った。
「御多用でごわしょう……」
 ぽつんとこたえて、喜左衛門は気がなさそうである。鍛冶富はクシャクシャと顔中をなでまわして、
「いえね。なんてえこともなく、ただこう無闇(むやみ)に気ぜわしくてね、ははは、やりきれません」
 で、今さら、年の瀬の町の騒音が身にしみるようにそしてそれを噛んで味わうように、二人はちょっと下を向いてめいめいの手の甲をみつめた。
 喜左衛門の女房(にょうぼう)が茶を入れてすすめる。
 ふたりはいっしょに音を立ててすすった。
 喜左衛門は髪も白いほうが多く、六十の声をかなり前に聞いたらしい年配だが、富五郎は稼業(かぎょう)がら、おまけに今でも自ら重い槌(つち)を振っているだけあった。年齢も喜左衛門よりははるかに下だけれど、それにしても頑丈な身体つきをしている。腕っぷしなぞ松の木のようだ。
「なあ喜左衛門どん」
「はい」
 しばらく何かもそもそしていた鍛冶富は、やがて思いきったように口をひらいた。
「おさよさんのこってすがね――」
 と聞いて、喜左衛門が、ほん、ほん! というような声を立てて急に膝を乗り出すと、鍛冶富もそれに勢いがでて、
「いや、お笑いになるかも知れねえが、ちょいとその、鈴川様のお屋敷について嫌なことを聞きこみしたんでね……」
「ほ! なんですい?」
「まあさ、あそこへおさよさんを入れたのは、お前さんとわたしが請人(うけにん)。請人と言えば親もと代りのもんだから先方から変な噂を耳にするにつけて、わたしもいろいろと気をもんでいましたがね、今度はどうも聞きっ放しにならねえから、こうしてお話しにあがったようなわけで――」
「はい。いや、殿様のお身持ちのよくねえことやなんかは、わしもちょくちょく聞いておりましたがな、はい、一体全体まあどんなことが起こりましたい? 実はな富さん、おさよ婆さんのことといい、あのお艶坊のほうといい、今度の和田さんの後始末にだけはこの爺(じじ)いも手をやきましたよ。もう人の世話はこりごりだといつも婆(ばあ)さんとこぼしているくらいさ。ま、お前さんのまえだが、わしもこの件にはえらく気を使ってな、いっそのこと出かけていって、おさよさんを願いさげてお前さんにでも引きとってもらおうかと、今も、なあ婆さんや、はい、これとね、まあ、話しておりましたところですよ」
「ヘヘヘ、お艶さんもどうも困りもんだがあれはお奉行所へも捜(さが)し方を願ってあることだし、それより今日のはなしは……なにね、あっしの友達に御用聞きの下で働いている野郎(やろう)がありましてね、そいつが言うんだが、先日なんだってえじゃあありませんか。あの雨の晩にお屋敷に斬りこみがあって、死人や怪我(けが)人がうんと出たそうじゃあありませんか。何か、お聞きになりませんでしたかね?」
「はい。そう言えば、そんなようなこともちらと小耳にははさみましたが――それでなんですい、その暴れこんだ連中てのは? 意趣遺恨(いしゅいこん)とでもいうような筋あいですかい?」
「それがさ、その下っ引きの言うことにゃあ、なんでも同じ晩に二組殴りこみをかけたらしいんだが、あとから来たのは火事装束のお侍が五人――というんですけれど、さあ、なんのための斬り合いだか、そいつが皆目(かいもく)わからねえ」
「火事装束? へんな話だね。なんにしても押し迫ってから物騒(ぶっそう)な」
「さいでげす。でね、その野郎は眼を皿のようにしてかぎまわっているんですがね、さあ、口裏をひいてみるてえと、こんなこたあ大きな声じゃ言えねえが、どうも鈴川様はだいぶお上(かみ)に眼をつけられてるらしいね。ことによると近々お手入れがあるか知れねえと。いや、これあね、わたし一人の考えだが、ははは……ね、とまあ、言ったような次第さ。どうしたもんでごわしょう?」
「事件が起こったあとじゃあ、おさよさんもかわいそうだし――」
「それに、係りあいでこちとらの名が出るようなこたあまっぴらだ」
「ようがす!」喜左衛門は考えていた腕をほどいて、
「お前さんも、今のところ乗りかけた船でしかたがねえとあきらめて、どうだね、せわしい身体だろうが、一つこれから私といっしょに本所に出向いてくれませんかい……おい! 婆さんや、あっちの羽織(はおり)を出してもらおう。ちッ! 用のある時はきまってそこらにいやあしない。いい年をしやがって、あんな金棒引(かなぼうひ)きもないもんだ。ばあさん!――しようがねえなあ。婆あッ!」
 家主喜左衛門、だんだんカンカンになって、ポッポと湯気をあげている。

 客――でもないが、鍛冶屋富五郎が来ているあいだに、ちょっと家のまえの往来でも掃(は)いておこうと、喜左衛門の女房は箒(ほうき)を持って表へ出た。
 いいお天気。

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