丹下左膳
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著者名:林不忘 

 水をぶっかけられて消えたあとに、まっ黒ぐろに焼けのこった蛇の醜骸(しゅうがい)。
 復讐!
 櫛まきお藤ともあろうものが小むすめ輩(やから)に男を奪られて人の嘲笑(わらい)をうけてなろうか――身もこころも羅刹(らせつ)にまかせたお藤は胸に一計あるもののごとく、とっぷりと降りた夜のとばりにまぎれて、ひそかに母屋の縁へ。
 縁の端は納戸。
 その納戸の障子に、大きな影法師が二つ。もつれあってゆれていた……。
「ねえお艶、そういうわけで」とお艶の手を取った老母さよの声は、ともすれば、高まるのだった。
「殿様も一生おそばにおいてくださるとおっしゃるんだから、お前もその気でせいぜい御機嫌(ごきげん)を取り結んだらどうだえ。あたしゃ決してためにならないことは言わないよ。栄三郎さんのほうだって、殿様にお願いして丹下さまのお腰の物を渡してやったら、文句なしに手を切るだろうと思うんだがねえ」
 お艶は、行燈のかげに身をちぢめる。
「まあ! お母さんたら、情けない! 今になってそんな人非人(ひとでなし)のことが――」
「だからさ、だから何も早急におきめとは言ってやしないじゃないか。ま、とにかくちょっとお化粧(けしょう)をしてお酒の席へだけは出ておくれよ。ね! 笑って、後生だからにこにこして……! さっきからお艶はまだかってきつい御催促なんだよ。さ、いい年齢(とし)をしてなんだえ、そんなにお母さんに世話をやかせるもんじゃないよ。あいだに立ってわたしが困るばかりじゃないか――はいただいま参ります! ねえ、さ、髪をなおしてあげるから」
「いやですったら嫌ですッ!」
 とお艶が必死に母の手を払った時、障子のそとに静かな衣(きぬ)ずれの音がとまった。
「今晩は……」
「こんばんは……おさよさんはいますか」障子のむこうに忍ぶ低声(こごえ)がしたかと思うと、そっと外部(そと)からあけたのを見て、おさよははっと呼吸をつめた。
 濃(こ)いみどりいろの顔面、相貌(そうぼう)夜叉(やしゃ)のごとき櫛まきお藤が、左膳の笞(しもと)の痕(あと)をむらさきの斑点(ぶち)に見せて、変化(へんげ)のようににっこり笑って立っているのだ。
 ずいとはいりこむと、べったりすわって斜めにうしろの縁側(えんがわ)を見返ったお藤、「おさよさん、お前さん何をそんなにびっくりしているのさ。殿様がお呼びだよ。お燗(かん)がきれたってさっきから狂気みたいにがなっているんだ。行ってみておやりな」
「ええ、ですから、とても、一人じゃ手がまわりませんから、このお艶――さんに助けてもらおうと思いましてね。それに殿様の御意(ぎょい)もあることだし……さあお艶さん、おとなしく離室(はなれ)のほうへおいで。ね、お咎(とが)めのないうちに」これ幸いと再びおさよがお艶の手を取りせきたてるのを、お藤は、所作(しょさ)そのままの手でぴたりとおさえておいて、凄味(すごみ)に冷え入る剣幕(けんまく)をおさよへあびせた。
「いいじゃないの、ここは! お艶さんには、いろいろ殿様に頼まれた話もあるんだから、お前さんはあっちへお行きってば!」
「でも、お艶をつれてくるようにと――」
「しつこい婆さんだねえ。あたしが連れていくからいいじゃないか。それより、癇癪(かんしゃく)持ちがそろっているんだ。また徳利でも投げつけられたって知らないよ。早くさ! ちょッ! さっさと消えちまいやがれッ!」
 おどかされたおさよが、逃げるように廊下を飛んでゆくと、その跫音(あしおと)の遠ざかるのを待っていたお藤は急に眼を笑わせて部屋の隅のお艶を見やった。
 もう五刻(いつつ)をまわったろう。
 魔(ま)の淵(ふち)のようなしずけさの底に、闇黒(やみ)とともに這いよる夜寒の気を、お艶は薄着の肩にふせぐ術(すべ)もなく、じっと動かないお藤の凝視(ぎょうし)に射すくめられた。
 酒を呼ぶ離庵(はなれ)の声が手にとるよう……堀沿(ほりぞ)いの代地(だいち)を流す按摩の笛が、風に乗って聞こえてくる。
 膝を進めたお藤は、横に手を突いて行燈のかげをのぞいた。
「お艶さん、お前、かわいそうにすこし痩せたねえ。おうお! むりもないとも。世間の苦労をひとりで集めたような――あたしゃいつも与の公なんかに言っていますのさ。ほんとに納戸の娘さんはお気の毒だって」
 積もる日の辛苦(しんく)に、たださえ気の弱いお艶、筋ならぬ人の慰め言と空耳(そらみみ)にきいても、つい身につまされて熱い涙の一滴に……ややもすれば頬を濡らすのだった。
 そこをお藤がすり寄って、
「ねえ、お前さんあたしを恨んでおいでだろうねえ? いいえさ、そりゃ怨まれてもしようがないけれど、実あね、あたしも当家の殿様に一杯食わされた組でね、言わばまあお前さんとは同じ土舟の乗合いさ。これも何かの御縁だろうよ。こう考えて、お前さんをほっといちゃあ今日様(こんにちさま)にすまないのさ、これから力になったりなられたり、なんてわけでね。それでお近づきのしるしに、あたしゃ、ちょいと、ほほほほ、仁義にまかり出たんだよ」
 お艶がかすかに頭をさげると、お藤は、
「これを御覧(ごらん)!」と袂(たもと)からわらじの先を示して、「ね、このとおり生れ故郷の江戸でさえあたしゃ旅にいるんだ。江戸お構え兇状持(きょうじょうも)ち。いつお役人の眼にとまっても、お墓まいりにきのう来ましたって、ほほほほ。こいつをはいて見せるのさ。まあ、あたしはそれでいいけれどお前さんにはかわいい男があったねえ」
 お艶は、海老(えび)のようにあかくなって二つに折れる。
「男ごころとこのごろのお天気、あてにならないものの両大関ってね」
「え!」と、ぼんやりあげたお艶の顔へお藤の眼は鋭かった。
「弥生さまとかって娘さん、あれは今どこにいるかお前知ってるだろう?」
「ええ。なんでも三番町のお旗本土屋多門さま方に引き取られているとかと聞きましたが――」
これだけ言わせれば用はないようなものだが、
「さ。それがとんだ間違いだから大笑い」と真顔を作ったお藤、「お前さん泣いてる時じゃないよ。男なんて何をしてるか知れやしない。他人事(ひとごと)だけれど、あんまりお前って者が踏みつけにされてるからあたしゃ性分(しょうぶん)で腹が立って……さ、しっかりおしよ、いいかえ、弥生さんはお前のいい人と家を持ってるんだとさ」
 ええッ! まあ! と思わずはじけ反(そ)るお艶に、お藤はそばから手を添えて、
「じぶんで乗りこんで、いいたいことを存分(ぞんぶん)に言ってやるがいいのさ。今からあたしが案内してあげよう!」
 一石二鳥。源十郎への復讐にお艶を逃がし、左膳への意趣(いしゅ)返しには弥生のいどころを知ったお藤、ひそかに何事か胸中にたたんで、わななくお艶をいそがせて庭に立ったが、まもなく化物屋敷の裏木戸から、取り乱した服装の女性嫉妬(しっと)の化身(けしん)が二つ、あたりを見まわしながら無明の夜にのまれ去ると、あとには、立ち樹の枝に風がざわめき渡って、はなれに唄声(うたごえ)がわいた。

 杯盤狼藉(はいばんろうぜき)酒池肉林(しゅちにくりん)――というほどの馳走でもないが、沢庵(たくあん)の輪切りにくさやを肴(さかな)に、時ならぬ夜ざかもりがはずんで、ここ離庵の左膳の居間には、左膳、源十郎、仙之助に与吉。
 赤鬼青鬼地獄酒宴(じごくしゅえん)の図。
「おいッ! 源十、源的、源の字、ああいや、鈴川源十郎殿ッ! 一献(こん)参ろう」
 左膳、大刀乾雲丸を膝近く引きつけて、玉山崩(くず)れようとして一眼ことのほか赤い。
「す、鈴川源十郎殿、ときやがらあ! しかしなんだぞ、ううい、貴公はなかなかもって手性(てしょう)がいいや、こうつけた青眼に相当重みがある。さそいに乗らねえところがえらい。去水流ごときは畢竟(ひっきょう)これ居合の芸当だな。見事おれに破られたじゃあねえか。あっはっは」
 底の知れない微笑とともに、源十郎は左膳に、盃(さかずき)を返して、
「貴様の殺剣とは違っておれのは王道(おうどう)の剣だ」
 すると左膳は手のない袖をゆすって嘯笑(しょうしょう)した。
「殺人剣即活人剣。よく殺す者またよく活(い)かす……はははは。貴様はかわいやつだよなあ、おれの兄貴だ。ま、無頼の弟と思って、末ながく頼むよ」
 と左膳、源十郎ともにけろりとしている。
 左膳が隻腕の肘(ひじ)をはって型ばかりの低頭(じぎ)をすると、土生仙之助が手をうった。
「そうだ、そうだ! 言わば兄弟喧嘩だ。根に持つことはない」
「へえ。土生の御前のおっしゃるとおりでございます」いつのまにか来て末座につらなっている与吉も、両方の顔いろを見ながら口を出す。
「ただ、このうえは皆様がお手貸(てか)しなすって、丹下の殿様が首尾よくお刀をお納めになるようにと、へえ、手前も祈らねえ日はございません……あっしみてえな三下でも何かお役に立つことがありましたら、申しつけくださいまし」
「うむ」刀痕の深い顔を酒に輝かせて、快然と笑った左膳、「まあ、いいや。話が理に落ちた。しかし、あんな若造の一匹や二匹おれの手ひとつで片のつかねえわけはねえが、総髪ひげむくじゃらの乞食がひとりついている。あいつには、この左膳もいささか手を焼いた」
 と語り出したのは。
 いつぞやの夜、大岡の邸前に辻斬りを働いた節(せつ)。
 おぼえのあるこじき浪人の偉丈夫に見とがめられて、先方が背をめぐらしたところを乾雲を躍らして斬りつけたが、や! 損じたかッ! と気のついた時は、すでに相手は動発して身をかわし、瞬間、こっちの肘に指力を感じたかと思うと、肩の闇黒に一声。
 馬鹿めッ
 と! もう姿は真夜(しんや)の霧に消えていた――。
「あのときだけはおれも汗をかいたよ」
 こう左膳が結ぶと、
「上には上があるものだな」
「へえい! だが、丹下さまより強いやつなんて、ねえ殿様、そいつあまあ天狗(てんぐ)でげしょう」
 などと仙之助と与吉、それぞれに追従(ついしょう)を忘れないが、源十郎は、ひとり杯のふちをなめながら中庭の足音をこころ待ちしている……気を入れかえたお艶が、いまにもあでやかな笑顔を見せるであろうと。
 赤っぽい光を乱して、四人の影が入りまじる。さかずきが飛ぶ。箸が伸びる。徳利の底をたたく――長夜の飲(いん)。言葉が切れると、夜の更ける音が耳をつき刺すようだ。
 左膳は、剣を抱いて横になる。
「お藤はどうした?」
「へえ。さっき帰りました」
「すこし手荒かったかな、ははははは」
 と左膳が虹のような酒気を吐いたとき、おさよの声が土間口(ぐち)をのぞいた。
「殿様、ちょっとお顔を拝借(はいしゃく)……」
 起きあがった源十郎は、
「お艶が待っていると申すぞ。ひとりで眺めずにここへつれて参れ」
 という左膳の揶揄(やゆ)を背中に聞いておさよと並んで母屋のほうへ歩き出した。
 霜に凝(こ)ろうとする夜露に、庭下駄の緒(お)が重く湿(しめ)る。
 風に雨の香がしていた。
「殿様」
「なんだ」
「あの、お艶のことでございますが」
「うん。どうじゃな? 靡(なび)きそうか」
「はい。いろいろといい聞かせましたところが、一生おそばにおいてくださるなら――と申しております」
「そうか。御苦労(ごくろう)。いずれ後から貴様にも礼を取らせる」
「いいえ、そんな――けれど、殿様」
「なんだ?」
「あのう、わたくしはお艶の……」
 いいながらおさよが納戸(なんど)をあけると、一眼なかを見た源十郎、むずと老婆の手をつかんだ。
「やッ! 見ろッ! おらんではないかお艶はッ! あ! 縁(えん)があいとる! に、逃がしたな貴様ッ!」

 関の孫六の鍛刀乾雲丸。
 夜泣きの刀のいわれは、脇差坤竜丸と所をべつにすれば……かならず丑満(うしみつ)のころあいに迷雲、地中の竜を慕ってすすり哭(な)くとの伝奇(でんき)である。
 いまや山川草木(さんせんそうもく)の霊さえ眠る真夜なか。
 この、本所鈴川の屋敷の離室(はなれ)で。
 左膳は、またしてもその泣き声を聞いたのだった。
 妖剣乾雲、いかなる涙をもって左膳に話しかけたか――。
 おどろおどろとして何ごとかを陳弁(ちんべん)する老女のごとき声が、酔い痴(し)れた左膳の耳へ虫の羽音のようにひびいてくる。かれは、隻眼を吊(つ)り開けて膝元の乾雲を凝視した。
 おのが手の脂(あぶら)に光る赤銅の柄(つか)にむら雲の彫り、平糸を巻きしめた鞘……陣太刀乾雲丸は、鍔(つば)をまくらに、やぶれ畳にしっとりと刀姿を横たえて、はだか蝋燭(ろうそく)の赤いかげが細かくふるえている。

 剣精(けんせい)のうったえ。
 それが左膳にはっきり聞こえるのだ。
「血、血、血……人を斬ろう、人を斬ろう」
 というように。
 左膳はにっこりした。が、かれはふしぎな気がした。何故? いままでも左膳はよく深夜に刀の泣き声らしいものをきいたことがあるが、それはいつもきまって若い女のすすりなきだったけれど、今夜のはたしかに老婆の涕泣(ていきゅう)だからだ。
 その愁声(しゅうせい)が、地の底からうめくように断続して左膳の酔耳に伝わると、はっとした彼は、あたりをぬすみ見て乾雲丸を取りあげた。
 源十郎はおさよといっしょにさっき出て行ったきりである。飲食(のみくい)のあとが、ところ狭いまでに散らかったなかに仙之助と与吉はいつしか酔いつぶれて眠っていた。
 深々と更けわたる夜気。
 と、またもや鬼調(きちょう)を帯びた声が……乾雲丸の刀身から?
 左膳は一、二寸、左手に乾雲を抜いてみた。同時に、突き上げられたように起(た)ったかと思うと、彼はすでにその大刀を落とし差しに、足音を忍ばせて庵室の土間に降り立った。
 人は眠りこけている。見るものはない。それなのに左膳は、すばやく懐中を探って黒布を取り出し、片手で器用に顔を包んだ。音のしないように離室を出ると、酒に熱した体に闇黒(やみ)を吹く夜風が快よかった。こうして一個のほそ長い影と化した左膳、乾雲丸を横たえて植えこみづたいに屋敷をぬけてゆく。
 どこへ?
 江戸の辻々に行人を斬りに。
 なんのため?
 ただ斬るため。
 しかし、そのうち雲竜相応じ、刀の手引きで諏訪(すわ)栄三郎に会うであろうと、左膳は一心にそれを念じていたのだったが、いまは斬らんがために斬り、ひたすら殺さんがために殺す左膳であった。
 一対(つい)におさまっていれば何事もないが、番(つがい)を離れたが最後、絶えず人血を欲してやまないのが奇刃(きじん)乾雲である。その剣心に魅(み)し去られて、左膳が刀を差すというよりも刀が左膳をさし、左膳が人を斬り殺すというよりも刀が人を斬り殺す辻斬りに、左膳はこうして毎夜の闇黒をさまよい歩いているのだったが、ちらと乾雲の刃を見ると、人を斬らずにはいられなくなる左膳、このごろでは彼は、夜生温(なまぬる)い血しぶきを浴びることによってのみ、昼間はかろうじていささかの睡眠に神気を休め得るありさまだった。
 が、刀が哭(な)くと聞いたのは、左膳邪心の迷いで、いままでの若い女性の声は納戸のお艶(つや)、今夜の老婆の泣き声は、お艶の代りにそこにとじこめられたおさよの声であった。
 左膳の出て行ったあと。
 納戸では、源十郎がおさよを詰問(きつもん)している。
「どうも俺は、以前から変だとは思っていたが、これ! さよ! 貴様がお艶を逃亡させたに相違ない。いったい貴様はあの女の何なのだ? ううん? いずれ近い身寄りとはにらんでおるが、真直(まっす)ぐに申し立てろッ」
 籠の鳥に飛び去られた源十郎、与力の鈴源と言われるだけあって泣き伏すおさよの前にしゃがんでこうたたみかけた。
「伯母(おば)か、知合いか、なんだ?」
 おさよは弁解も尽きたらしく、もう強情に黙りこくっていると、源十郎は、
「いずれ身体にきいていわせてみせるが、お艶が俺の手に帰るまでは、貴様をここから出すことはならぬ」
 いい捨てて、先に懲(こ)りたものか、今度は板戸に錠をおろして立ち去って行った。きょうまで娘のいた部屋に、その母を幽閉して――。

   文つぶて

 どこか雲のうらに月があると見えて、灰色を帯びた銀の光が、降るともなく、夢のようにただよっている夜だった。
 もう明(あ)け方(がた)にまもあるまい。
 右手の玉姫(たまひめ)神社の方角が東にあたっているのだろう。はや白じらとした暁のいろが森のむこうにわき動いていた。
 人通りのない小塚原(こづかっぱら)の往還(おうかん)を、男女ふたりの影がならんでいそぐ――当り矢のお艶と蒲生泰軒。
 山谷(さんや)の堀はかなり前に渡った。けれど泰軒は足をとめるようすもなく、そしてじぶん達のまえには長いながい道路が夜眼に埃を舞わせて遠く細く走って、末はかすむように消えているのだ……千住(せんじゅ)の里へ。
 歩きなれないお艶は、じゃまになる裾まえをおさえながら、ともすれば遅れがちの足を早めて、われとわが身をいたわるような溜息(ためいき)といっしょに、泰軒へ追いついた。
「ねえ先生、どこまでゆくのでございましょうか。ずいぶん遠うございますねえ。ここはもう江戸ではございますまい?」
 泰軒の笑い顔が振り向いた。
「そうさ。江戸ではない。が、日本のうちだ。安心してついて来なさい。だいたい発足した時から、遠いがええかとわしは念を押したはずだ。夜みちをかけてかわいい男に会いにいこうというのに、そう気の弱いことではしようがないな、ははははは」
「でも――」とお艶はあえいだ。
「でも……なんじゃな?」
「でもね先生、後生ですからうちあけておっしゃってくださいましよ。あの、栄三郎様は、ほんとにその千住の竹の塚とやらにおいでになるのでございますか」
「行ってみりゃあわかる。一番の早道だ」
「そして――そして、おひとりで……?」
「さ、それもこれから寝こみを襲えばすぐわかろう」
 じらすように泰軒が言うと、お艶は情けなさそうにうつむいてかぶっている手拭(てぬぐい)のはしを前歯に噛んだ。
 罪だ……とは思うが、どうせ後から笑いばなしになることと、泰軒は微笑の顔を見せないように先に立つ。
 あとに続くお艶の心中は、嫉妬と不安とはかない喜びにかきむしられて、もつれもつれた麻糸の玉だった。
 櫛まきお藤に手をとられて、本所法恩寺橋まえの鈴川の屋敷をのがれ出てから。
 小一丁も来たかと思うころ、お艶はお藤を見失ってしまった。それはお藤としては、お艶の口から恋がたき弥生のいどころを知って、そのうえ源十郎への意趣晴らしにお艶をつれ出した以上は、もはやお艶は足手まといにすぎないと、そこでさっそく夜の町にまいてしまったのだが、弥生と栄三郎が家を持っている――と聞いただけで、なに町のどこに? ともまだお藤に質(ただ)さなかったお艶は、夜更けの街上にひとりですっかり途方にくれた。
 あの若殿さまにかぎって、まさか!
 と一度は強く打ち消してもみるが、夏の沖に立つ綿雲(わたぐも)の峰のように疑念が、あとからあとからと胸にひろがってはてはどうしても事実としか思えなくなったお艶、栄三郎と弥生を据え置いて面罵(めんば)し、二人を呪(のろ)い殺さなくてはならぬ……と狂乱に浪打つ激しいこころを抱いて、どこをどう歩きまわったものか、やがてわれに返って気がついてみると、吸われるように立ち寄っていたが、あの、思い出すさえ嬉し恥ずかしい首尾(しゅび)の松……。
 おお、そうだ! 泰軒先生におすがりして! と、黒い河水にのまれた三つの小石、暗(やみ)にも白い手が袖口にひらめいて。
 ポトン! ポトンポトン!
 苫(とま)をはぐって一艘の舟から現われた泰軒は、お艶のその後のとらわれの次第、場所、そしてそこに乾雲丸をもつ隻眼隻手の客丹下左膳がひそんでいることなどを話したのち、せきこんで栄三郎様は? とたずねると、泰軒は平然と、かれは田舎(いなか)にいるから二人この足で押しかけよう――こう言っていきなり歩き出したのだった。
 貧乏徳利をさげた乞食と服装(なり)ふりかまわぬ若い女……それは奇妙な道行きであった。
 で。
 さっきから無言に落ちて、あらぬ空想(おもい)に身をまかせていたお艶が、怒りと悲しみに思わず眼を上げて薄明のあたりを見まわすと、
「あれ! あれが仕置(しお)き場(ば)だ」という泰軒の声。
「まあ! こわい……」
「はははは、だから、急ぐとしよう」
 が、泰軒はぴたッと立ちどまって、うしろのお艶をかばうようにかまえた。
 田圃(たんぼ)にはさまれた杉並木(なみき)。
 ほのかに白い道のむこうに、杉の幹にはりついて黒い影がある。
 と、お艶の忘れられない若々しい詩吟の声が、ゆく手の半暗をさいて流れて来た。
「日暮(にちぼ)、帰りて剣血(けんけつ)を看(み)る」
 坤竜丸、夜泣きの脇差の秘告(ひこく)であろうか。
 平巻きの鞘が先へさきへと腰を押すような気がして、ただじっとしていられなかった栄三郎が、明けから江戸の町をあるくつもりで千住街道を影とふたりづれで小塚原の刑場へまで来ると――。
 眼のすみを横切って、ちらと動いたものがある。それが、右に立ち並ぶ木の根を離れたかと思うと、タッタッ! と二足ばかり、うしろに迫る人の気配を感じて、栄三郎は振り返った。
 その時。
 長星。闇黒に飛来して、刃のにおいが鼻をかすめる。来たなッ! と知った栄三郎、とびさがれば斬尖(きっさき)にかかる――ままよ! とかえって踏みこんでいったのが、きっぱりと敵の体に当たって、栄三郎は何者とも知れない覆面の剣手をつかんでいた。
 それが、左腕の片手!
 刀は乾雲丸……きょうが日まで捜しあぐんでいた丹下左膳だ。
「これ! 乾雲だなッ」
「や! 貴様は坤竜! うめえところで会ったな」
 つるぎにかけては狷介不覊(けんかいふき)な左膳、覆面の底で、しんから嬉しそうににたりとする。
 辻斬りの相手を求めて、乾雲丸の指し示すがままに道をこのほうへとってきたのだったが、初太刀をはずされた当の獲物が坤竜丸とわかってみれば!
 もう何も言うことはない。
 七つ刻(どき)。はるかの田の面に低い三日月の薄光を乱して、二つの影がパッ! と一本みちの左右へ。
 呼吸を測って押しあった二人、離れた時は真剣のはずみでとっさに四、五間のへだたりがあった。
 ここで栄三郎は、かぶっていた編み笠を路傍へ捨てて、しずかに愛刀武蔵太郎安国の鞘をはらう。
 濡れ手拭をしぼるように、やんわりと持った柄の手ざわりにも、今宵(こよい)こそ! と思う強い闘志をそそられて、栄三郎の平青眼はおのずと固(かた)かった。
 と、うしろに。
「やわらかに」
 という声がする。ふしぎ! 誰? と振りむこうにも、前方には左膳の隻腕一文字に伸びてツツ……と迫ってくるのだ。乾雲の鋩子(ぼうし)先を一点の白光と見せて。
「汝(うぬ)をどんなに探したことか――ふふふ、運の尽きだ! いくぜ、おいッ」
 蒼白の麗顔に汗をにじませて、栄三郎は無言。
 小ゆるぎもせずに大刀を片手につけた左膳、右に開いた身体にあかつきの微風を受けて、うしろの右足がツウッ! と前の左足のかかとにかかったと見るや、棒立ちの構えから瞬間背を低めて、またもやひだり足の爪さきに地をきざませて這い寄る。それから再びソロソロと右足が……こうして道路を斜めに栄三郎をつめながら、覆面のかげから隻眼が笑う……どうでえ、青二才! あんまりいい気もちはしめえが! というように。
 押されるともなく、追われるでもなく、いつしか片側の松の幹までさがった栄三郎、思わずはっとして気をしめた。
「若殿様! 栄三郎さまッ! お艶が参っております! どうぞしっかりあそばして」
 近いところからこの声が。
 もとより心の迷い、いたずらなから耳――と思った栄三郎だったが、これがかれを渾身(こんしん)からふるいたたせて、つぎの刹那(せつな)、うなりを生じた武蔵太郎安国、左膳の前額を望んで奔駆(ほんく)していた。
 が、余人ではない。左膳だ。
 払うどころか、躍動する刀影を眼前に、さッと乾雲の手もとがおのが胴へ引いたと見るや、上身をそらせて栄三郎の鋭鋒を避けながら、右下からはすに、乾雲、鍔(つば)まで栄三郎を串刺(くしざ)しに。
 と見えたが……。
 虚を斬りさげた武蔵太郎の柄におさえられて、乾雲のさきにいささかの血が走ったのは、余勢、栄三郎の手の甲をかすったのだ。
「うぬッ!」
 と歯を噛(か)む音が左膳の口を洩れる。そこを! 体押しにかかった栄三郎、満身の力をこめて突き離そうとしたが、磐石(ばんじゃく)の左膳、大地に根が生えたように動かない。
 両方からひしッ! と合して、人の字形に静止――つばぜりあいだ。
 近ぢかと寄った乾雲坤竜。
 吐く息がもつれて敵意の炎と燃えあがるのを、並木のかげから二つの顔がのぞいていた。

 雨をはらんだ夜空は低かった。
 窓の下の縞笹(しまざさ)にバラバラと夜露のこぼれるのが、気のせいか雨の音のように聞こえる。
 屋敷町の宵の口はかえって、深更(しんこう)よりものしずかで、いずれよからぬ場所へ通う勤番者(きんばんもの)のやからであろう、酔った田舎(いなか)言葉が声高におもて通りを過ぎて行ったあとは、また寂然(ひっそり)とした夜気があたりを占めて、水を含んだ風がサッと吹きこんでは弥生の枕もとをつめたくなでる。
 弥生は、掻巻(かいまき)の襟を噛むようにしてはげしく咳(せき)入った。
 麹(こうじ)町三番町――土屋多門の屋敷の一間。
 肺の病に臥す弥生の部屋である。
 このごろ人を厭(いと)うて看病(みとり)の者さえあまり近づけない弥生……若い乙女の病室とも思われなく寒々しくとり乱れて、さっき女中が運んで来た夕餉(ゆうげ)の膳にさえまだ箸がつけてない。
 床の中で眼をつぶった弥生が、またしても思うのは――あの諏訪栄三郎さまのこと。
 栄三郎様は、浅草三社まえとかの女と懇(ねんごろ)になさっている。と、それとなく言って叔父多門の口から、手繰(たぐ)りだすようにすべてを知った弥生だったが、それですこしは諦めるかと思った多門の心を裏切って、弥生の愛欲思炎(あいよくしえん)は高まる一方――かてて加えて病勢とみに進んで、朝夕の体熱(ねつ)に浮かされるように口走るのが、やはり栄三郎の名――それは、恋と病に娘ざかりの身を削(そ)がれてゆく、あさましいまでに痩せ細った弥生のすがたであった。
 日々これを眼にする多門の苦しみも大きかったが、そのなかにも一つの悦(よろこ)びといっていいのは、さしも一時は危ないとまでに思われた胸のやまいが、このごろではどうやら持ちなおして、心の持ちようと養生一つでは、肺の悩みも決して不治(ふじ)ではない。不治どころかなおし方さえ知ってみれば、とんとん拍子に快(よ)くなるばかり……という強い信念を、当(とう)の弥生をはじめ多門も持ち得るようになったことだ。
 ところが、こうして病気が快方に向かうにつれて、栄三郎に対する弥生の思いは募りにつのって、それも当初の生一本の娘ごころの恋情とは違って、あいだにお艶というものがあるだけに、いっそう悪強い、人の世の裏をいく執拗(しつよう)な妬婦(とふ)の胸中に変わろうとしていた。
 恋の競(せ)り合(あ)い――あまりにも露骨(むきだし)な、われとわがこころの愛憎に驚きながらも、弥生は日夜そのお艶とやらを魔神にかけて呪(のろ)わずにはいられなかったのだ……。
 よくなりつつあるとはいえ、まだ床は出られない。
 今宵(こよい)も弥生が、おのが友禅(ゆうぜん)を着せた行燈の灯影に、寝つかれぬままに枕に頬をすって、思うともなく眼にうかぶ栄三郎の姿を追い、同時に、翻(ひるがえ)ってまだ見ぬお艶とやらへ恨みの繰(く)り言(ごと)をひとり口の中につぶやいていると……。
 音もなく流れこむしめっぽい夜風。
 とたんに、またひとしきり咳(せ)いた弥生は、
「おや! 窓をしめ忘れて……」
 と独語(ひとりご)ちながら、わざわざ人を呼ぶほどのこともないと、静かに夜着をはねて起きあがったが。
 そのときだった。
 今にも降り出しそうな戸外(そと)の闇黒から、何やら白い礫(つぶて)のような物が、窓の桟(さん)のあいだを飛んできて畳を打った。
 ふしぎそうに首を傾けた弥生、こわごわ拾いあげてみると、紙片で小石を包んで捻(ひね)ってある――文(ふみ)つぶて。
 なんだろう? と思うより早く、弥生がいそいで開くと、小石が一つ足もとにころげ落ちて、手に残ったのは巻紙のきれはし。
 誰の字とも弥生はもとより知る由もないが、金釘流(かなくぎりゅう)の文字が野路(のじ)の時雨(しぐれ)のように斜めに倒れて走っている。

失礼ながら一筆申しあげそろ。
お艶栄三郎どのがたのしく世帯(しょたい)を持って夫婦ぐらしのさまを見るにつけ、おん前さまがいじらしくてならず、いらぬこととは存じつつお知らせ申しそろ。その場へおいでのお心あらば、わたしがこれよりおつれ申すべく早々におしたくなされたくそろ――ごぞんじより。

 はっとよろめいた弥生、窓につかまってさしのぞくと、御存じよりとはあるが、見たこともない女がひとり、いつのまにどうしてはいりこんだものか、小雨に煙る庭の立ち木の下に立って、白い顔に傘(かさ)をすぼめておいでおいでをしている。
 憑(つ)かれたように立ちなおった弥生が、見るまに血相をかえて手早く帯を締(し)め出したとき、やにわに本降りに変わって、銀に光る太い雨脚(あまあし)が檐(のき)をたたいた。

 世帯道具(しょたいどうぐ)――といったところで茶碗皿小鉢に箸(はし)が二組と、それにささやかな炊事(すいじ)の品々だが、その茶碗と箸も正直なところできることなら同じ一つですませたいぐらい。
 何はなくとも、栄三郎とお艶にとっては、高殿玉楼(こうでんぎょくろう)にまさる裏店(うらだな)の住いだった。
 家じゅうがらんとして……というと相応に広そうだが、あさくさ御門に近い瓦町(かわらまち)の露地の奥、そのまた奥の奥というややこしい九尺二間の棟割(むねわり)である。せまいなどというのを通りこして、まっすぐに寝れば足が戸口に食(は)み出るほどだったが――。
 その、せまく汚ないのがおかしいといってお艶が笑えば栄三郎も微笑(ほほえ)む。笊(ざる)、味噌(みそ)こしの新しいのさえ、こころ嬉しくも恥ずかしい若いふたりの恋の巣であった。
 お艶と栄三郎、思いが叶ってここに家をかまえたまではいいが、自分が逃げたためにもしやお母さんに疑いがかかって、本所の屋敷であの源十郎の殿様にいじめられていはせぬかと思うと、こうしていてもお艶は気が気でなかったとともに、それにつけて、思い出してもふしぎなのは、じぶんを逃がしてくれたお藤さんという女の振舞(ふるまい)とその言葉である。
 栄三郎様と弥生さまとが……と聞いてむちゅうで駈け出したお艶が、泰軒とつれだって千住をさして急いだ途中。
 あの小塚原のあけ方、左膳と栄三郎が刃を合わせた。
 四分六といつか泰軒が評(ひょう)したことばのとおりに剣胆(けんたん)二つながらに備えてはいても、何しろ左膳ほど刀下をくぐっていない栄三郎、ともすれば受け太刀になって、しかも手の甲をさいた傷口から鮮血はとどまるべくもなく、下半身を伝わって、いたずらに往来の土にしみる。それでも、物陰からかけるエイッ! ヤッ! という泰軒の気合いにわれ知らず励(はげ)まされて、あれから五、六合はげしく渡りあっていたが、そのうちに! 誰ともなく加勢の声ありと聞きとった左膳は、長居(ながい)はめんどうと思ったものか、阿修羅(あしゅら)のごとき剣幕(けんまく)で近く後日の再会を約すとそのまま傾く月かげに追われて江戸の方へと走り去ったのだった。
 お艶栄三郎、明けはなれてゆくうす紅(くれない)の空の下でひさしぶりに手をとりあった。
 お艶が、手拭を食いさいて傷の手当をしながらきくと、なるほど泰軒のいうとおり、栄三郎は今まで千住竹の塚の乳兄弟(ちきょうだい)孫七方にころがりこんでいたものと知れて、お藤にふきこまれたお艶の疑念(ぎねん)はあとかたもなくはれわたったが、なんのためにあんな嘘をついたのかとそれを思い惑(まど)うよりも、お艶はただ、すぐと栄三郎と家を持つ楽しい相談に頬を赤らめるばかりだった。
「もうわしがおっては邪魔であろう。これ以上ここらにうろうろすれば憎まれるだけだ。犬に食われんうちに退散(たいさん)退散」
 こう粋(すい)をきかして泰軒が立ち去ったのち、二人は、あれでどれほど長く玉姫神社の階段に腰をかけて語り合っていたものか――気がついた時は、陽はすでに斜(なな)めに昇って、朝露に色を増した青い物の荷車が、清々(すがすが)しい香とともに江戸の市場へと後からあとから千住(せんじゅ)街道につづいていた。
 それからまもなく。
 泰軒のいる首尾の松へも近いというところから、三人で探して借りたこの家であった。
 たらぬがちの生活にも、朝な朝なのはたきの音、お艶の女房(にょうぼう)ぶりはういういしく、泰軒は毎日のように訪ねて来ては、その帰ったあとには必ず小粒(こつぶ)がすこし上がりぐちに落ちている。大岡様から与えられた金子をそれとなく用立てているものであろう。栄三郎は押しいただいて使っていたが、そのくせいつも顔が会っても、かれも泰軒もそれについては何一ついわない。殿方(とのがた)の交際(まじわり)はどうしてああさっぱりと行きとどいているのだろうと、お艶は涙のこぼれるほどうれしかった。
 お艶のはなしによって。
 丹下左膳が、母おさよの奉公先なる本所法恩寺まえの旗本鈴川源十郎方の離庵(はなれ)にひそんでいることがわかった。
 で……。
 泰軒と栄三郎、この二、三日こっそりと談合(だんごう)をすすめていたが、お艶に知らせればむだな心配をかけるばかりだと、先刻雨の中をぶらりと銭湯に出ていった栄三郎は、じつはいまごろは泰軒としめし合わせて本所の鈴川の屋敷へ斬りこんでいる時分なのだ!
 そうとは知らないお艶、ぬれ手拭をさげた栄三郎をこころ待ちに、貧しいなかにも黙って出して喜ばせようと、しきりに口のかけた銚子(ちょうし)の燗(かん)ぐあいを気にしていると――。
 突如(とつじょ)、はでな色彩(いろどり)が格子さきにひらめいたかと思うと、山の手のお姫様ふうの若いひとが、吹きこむ雨とともに髪を振り乱して三尺の土間(どま)に立った。

 どうん! と一つ、戸外(そと)から雨戸を蹴るのが手はじめ。
 栄三郎と泰軒が、同時に左右に別れてその戸の両側に身をかくす。
 とも知らない庵内の男、夢中でごそごそ起き出たらしく、やがてめんどうくさそうに戸をあけて、
「ちえッ! 誰だ、今戸にぶつかったのは? 用があるなら声をかけろ」
 と、みなまでいわせず、刹那(せつな)、鞘をあとに躍(おど)った武蔵太郎が、銀光一過、うわあッ! と魂切(たまぎ)る断末魔(だんまつま)の悲鳴を名残りに、胴下からはすかいに撥(は)ねあげられたくだんの男、がっくりと低頭(おじぎ)のようなしぐさとともに、もう戸の隙から転び落ちて、雨に濡れる庭土を掻いてのたうちまわる。
 生きている血がカッ! と火の子のように熱(あつ)く栄三郎の足に飛び散る。
 だが! たやすく刃にかかったところを見ても、斬られたのは左膳ではなかった。現(げん)に男は二本の腕で、飛び石を噛み抱いている。
 とすると、
 庵のなかには、めざす丹下左膳がまだ沈潜(ちんせん)しているに相違ないがカタリとも物音一つしないのは、寝てか覚(さ)めてか……泰軒と栄三郎期せずして呼吸(いき)をのんだ。
 夜の氷雨(ひさめ)がシトシトと闇黒を溶かして注いでいる。樹々の葉が白く光って、降り溜まった水の重みに耐えかねて、つと傾くと、ポツリと下の草を打つ滴(しずく)の音が聞こえるようだ。松の針のさきに一つ一つ水玉がついているのが、戸の洩れ灯をうけて夜眼(よめ)にもいちじるしい。
 しみじみと骨を刺す三更(こう)の悲雨(ひう)。
 本所化物屋敷の草庵に斬りこみをかけた二人は、一枚あいた板戸の左右にひそんで、じっと耳をすまして家内をうかがった。
 お艶の口から、ここに乾雲丸の丹下左膳が潜伏していることを知り、お艶にはないしょで、今夜不意討ちに乗りこんだ諏訪栄三郎と蒲生泰軒である、来る途中で、獲物代りに道ばたの棒杭(ぼうぐい)を抜いた泰軒、栄三郎にささやいて手はずを決めた。
「あんたは専念(せんねん)丹下にかかるがよい。お艶さんの話によると、たえず四、五人から十人の無頼物(ならずもの)が屋敷に寝泊りしておるそうだが、じゃまが入れば何人でもわしが引き受けるから」
 というたのもしい泰軒の言葉に、こんどこそはいかにもして夜泣きの片割れ乾雲丸を手に入れねばならぬと、栄三郎は強い決意を眉宇(びう)に示して、ひそかに武蔵太郎を撫(ぶ)しつつ夜盗(やとう)のごとく鈴川の邸内へ忍びこんだのだった。
 深夜。暗さは暗し、折りからの雨。寝こみをおそうにはもってこいの晩である。小声にいましめあって離室(はなれ)に迫った泰軒と栄三郎は、戸をあけたひとりは栄三郎が、抜き討ちに斬って捨てたもののそれは名もない小博奕(ばくち)うちの御家悪(ごけあく)ででもあるらしく、なかには、当の左膳をはじめ何人あぶれ者が雑魚寝(ざこね)をしているかわからないから、両人といえどもうかつには踏みこめない。
 今の物音は源十郎達のいる母屋(おもや)には聞こえなかったらしいが、はなれの連中が気をつめ、いきを凝(こ)らしていることはたしかだ。が、そとに寄りそっている栄三郎泰軒の耳には、雨の滴底に夜の歩調が通うばかりで……、いつまで待ってもうんともすんとも反応がない。
 と、思っていると、
 雨戸のなかに、コソ! と人の動くけはいがして、同時にふっと枕あんどんを吹き消した。
 踏みこまねば際限(きり)がない! と気負(きお)いたった栄三郎が、泰軒にあとを頼んで戸のあいだに身を入れた間(かん)一髪(ぱつ)! 内側に待っていた氷剣、宙を切って栄三郎の肩口へ! と見えた瞬間(しゅんかん)、武蔵太郎の大鍔(おおつば)南蛮鉄、ガッ! と下から噛み返して、強打した金物のにおいが一抹(まつ)の闘気を呼んで鼻をかすめる。とたんに! 伸びきった栄三郎の片手なぐり、神変夢想流でいう如意(にょい)の剣鋩(けんぼう)に見事血花が咲いて、またもやひとり、高股をおさえて鷺跳(さぎと)びのまま□(ど)ッ! と得耐(た)えず縁に崩れる。
 かぶさってくるその傷負(てお)いを蹴ほどいて、一歩敷居に足をかけ、栄三郎、血のしたたる剛刀をやみに青眼……無言の気合いを腹底からふるいおこして。
 静寂不動(せいじゃくふどう)。
 たちまち、暗がりに慣れた栄三郎の眼に、部屋の中央に端坐(たんざ)して一刀をひきつけている人影がおぼろに浮かんできた。
「坤竜か。この雨に、よく来たなあ! 先夜は失礼した――」
 低迷する左膳の声――とともにこの時母家のほうに当たって戸のあく音がして、鈴川源十郎のがなりたてるのが聞こえた。
「なんだッ! 丹下ッ! 何事がおきたのかッ!」

 真十五枚甲伏(かぶとぶせ)の法を作り出して新刀の鍛練(たんれん)に一家をなした大村加卜(かぼく)。
 かぶと伏せは俗に丸鍛(まるぎた)えともいい、出来上がり青味を帯びて烈(はげ)しい業物(わざもの)であるという。もと鎌倉藤源次助真が自得(じとく)したきりで伝わらなかったのを、加卜これを完成し、世の太刀は死に物なり甲伏は活太刀(かったち)なりと説破して一代に打つところ僅かに百振りを出なかった。
 武蔵太郎安国は、この大村加卜の門人である。
 いまこの、武蔵太郎つくるところの一刀をピッタリ青眼につけた諏訪栄三郎、闇黒に沈む庵内に眼をこらして、長駆してくるはずの乾雲丸にそなえていると。
 別棟(べつむね)の母家のほうがざわめき渡って、鈴川源十郎、土生仙之助、つづみの与吉、その他十四、五人の声々が叫びかわしているようす。
 今にも庭へ流れ出てくれば、闇中の乱刃に泰軒ひとりでは心もとない……とふと栄三郎の心が戸外へむくと、うしろの戸口に!
「栄三郎殿ッ! ここは拙者が引き受けたぞ。こころおきなく丹下をしとめられい!」
 との凜(りん)たる泰軒の声に、栄三郎は決然として後顧(こうこ)のうれいを絶ったが、しとめられい! と聞いて、にっとくらがりに歯を見せて笑ったのは、まだ膝をそろえてすわっている丹下左膳だった。
「ここへ斬りこんでくるとは、てめえもいよいよ死期が近えな」
 と剣妖左膳、ガチリと鍔が鳴ったのは、乾雲の柄を握った片手に力がこもったのであろう。同時に、
「では、そろそろ参るとしようかッ」
 と、おめきざま、紫電(しでん)低く走って栄三郎の膝へきた。跳びのいた栄三郎、横に流れた乾雲がバリバリッ! と音をたてて、障子の桟(さん)を斬り破ったと見るや、長光を宙になびかせて左膳の頭上に突進した。
 が、さいたのは敷蒲団と畳の一部。
 その瞬間に、いながらにして跳ね返った左膳は、煙草盆(たばこぼん)を蹴倒しながら後ろの壁にすり立って濛々(もうもう)たる灰神楽(はいかぐら)のなかに左腕の乾雲を振りかぶった左膳の姿が生き不動のように見えた。
「野郎(やろう)ッ! さあ、その細首をすっ飛ばしてくれるぞッ!」
 大喝(たいかつ)した左膳の言葉は剣裡(けんり)に消えた。息をもつがせず肉迫した栄三郎が、足の踏みきりもあざやかに跳舞して上下左右にヒタヒタッ! とつけ入ってくるからだ。剣に死んでこそ剣に生きる。もう生死を超脱(ちょうだつ)している栄三郎にとっては、左膳も、左膳の剣も、ふだん道場に竹刀をとりあう稽古台(けいこだい)の朋輩(ほうばい)と変わりなかった。身を捨てて浮かぶ瀬を求めようと、防禦の構えはあけっぱなしに、まるで薪でも割ろうとする人のようにスタスタと寄って来てはサッ! と打ちこむ。法を無視しておのずから法にかなった凄い太刀風であった。
 これが、平素から弄剣(ろうけん)に堕す気味のある左膳の胆心(たんしん)を、いささか寒からしめたとみえて、さすがの左膳、いまはすこしく受身の形で、ひたすら庭へとびおりて源十郎と勢いの合する機を狙うもののごとく、しきりに雨の吹きこむ戸ぐちをうかがつているが、早くもこれを察知した栄三郎が、はげしく刃をあわせながらも、体をもって戸外の道をふさぐことだけは忘れずにいるから、左膳思わず焦(いら)立ち逆上(あが)った。
「コ、コイッ! うるせえ真似(まね)をしやあがる!」とにわかに攻勢に出てその時諸手(もろて)がけに突いてきた栄三郎をツイとはずすが早いか、乾雲丸の皎閃(こうせん)、刹那に虹をえがいて栄三郎のうえへくだった。
 はじきとめた武蔵太郎が、鉄と鉄のきしみを伝えて、柄の栄三郎の手がかすかにしびれる。とたんに一歩さがった彼は、不覚(ふかく)にも敷居ぎわの死体につまずいて仰向(あおむ)けに倒れた。
 と見た左膳、腸をつく鋭い気合いとともにすかさず追いすがって二の太刀を……。
 闇黒ながらに相手が見えるふたり。
 火花を散らす剣気が心眼に映じて昼のようだ。
 斬りさげる左膳。
 はねあげる栄三郎。
 あいだに! ウワアッと! 喚発(かんぱつ)した悲叫は、左膳か、それとも栄三郎か?

 本所鈴川の化物屋敷が刀影下に没して、冷雨のなかを白刃相搏(あいう)つ血戦の場と化しさったころ。
 ここ瓦町の露地(ろじ)の奥、諏訪栄三郎の留守宅にも、それにおとらない、凄じいひとつの争闘が開始されていた。
 男子のたたかいは剣と腕(かいな)。
 だが、女子のあらそいに用いられる武器は、ゆがんだ微笑と光る涙と、針を包んだことば……そうして、火の河のようにその底を流れる二つの激しい感情とであった。
 たがいの呪い、憎みあう二匹の白蛇。
 それが今、茶の間……といってもその一室きりない栄三郎の侘住居(わびずまい)に、欠け摺鉢(すりばち)に灰を入れた火鉢をへだてて向かいあっているのだ。
 お艶(つや)と弥生(やよい)。
 だまったまま眼を見合って、さきにその眼を伏せたほうが負けに決まっているかのように双方ゆずろうともしない――視線合戦(しせんがっせん)。
 が、さすがにお艶は、水茶屋をあつかってきただけに弥生よりは世(よ)慣れていた。お艶は、さっきから何度もしているように、丁寧(ていねい)に頭をさげると、ほどよく微笑をほころばせながら、それでも充分の棘(とげ)を含んで同じ言葉をくり返した。「あの、それでは、あなたさまが弥生様でいらっしゃいますか。おはつにお目にかかります。お噂(うわさ)はしじゅう良人(たく)から伺っておりますが……わたくしは栄三郎の妻のお艶(つや)と申すふつつか者でございます。どうぞよろしく……ほほほほ、主人はちょっとただいまお風呂(ふろ)へ参りまして、でも、もうお湯をおとした時分でございますから、おッつけ帰るだろうとは存じますが、どこかへまわりましたのかも知れませんでございますよ。まあ、ごゆっくり遊ばして」
 と、栄三郎の妻という句に力を入れて、これだけいうのがお艶には一生懸命だった。茶屋女上がりと馬鹿にされまい。まともな挨拶もできないとあっては、じぶんよりも栄三郎様のお顔にかかわる。こう引き締まったお艶のこころに、まあなんといっても、いま栄三郎の心身をひとりじめにしているのはこのわたしだという勝ちほこった気が手伝って、お艶にこれだけスラスラと初対面の口上(こうじょう)を言わせたのだったが、そのあとで、
「良人がいろいろと御厄介になりましたそうで……」
 と口にしかけたお艶は、突如、いい知れぬ嫉妬の雲がむらむらとこみあげてきて、急に眼のまえが暗くなるのを覚えた。
 しかし、弥生は無言だった。
 この家にはいって以来、彼女はお艶の顔に眼を離さずに、低頭(じぎ)はおろか口ひとつきかないですわっているのだ。
 ものをいうのもけがらわしい!
 と強く自らを叱□(しった)している弥生は、それでも、これがあの栄三郎のおすまいかと思うと、今にも眼がしらが熱くなってきそうで、そこらにある乏(とぼ)しい世帯道具の一つ一つまでが、まるで久しく取り出さずに忘れている自分の物のように懐しまれてならなかった。
 けれど、面前(まえ)にいるこの女?
 栄三郎様の妻と自身で名乗っている。
 ああ……これが話に聞いた当り矢のお艶か。でも、妻だなどとはとんでもない!
 いいえ! いいえ! 妻で――妻であろうはずはありません! 決してありません!
 と胸に絶叫して、凝然(ぎょうぜん)とお艶を見つめた弥生は、ふとなんのつもりで自分はこの雨のなかをこんなところへ乗りこんできたのだろうか? とその動機がわからなくなると同時に、じぶんの立場がこの上なくみじめなものに見えてきて、猛(たけ)りたった心が急に折れるのを感じたかと思うと、はやぽうっと眼界をくもらす涙とともに噛(か)みしめた歯の間からゆえ知らぬ泣き声が洩れて出た。
 文(ふみ)つぶてにひかれて土屋多門の屋敷を出た弥生は、待っていた櫛まきお藤につれられて、雨にぬかるむ路をここまで来たのである。
「まあまあ! なんておいたわしい。ほんとにお察し申しますよ」
 こう言ってお藤は、なんのゆかりもないものだが、あまりに報われない弥生の悲恋をわがことのように思いなして、頼まれもしないのにお艶、栄三郎の隠れ家へ案内をする気になったのだと、弁解(いいわけ)のように途々(みちみち)話した。そして、
「じつはねえお嬢さま、あたくしもちょうどあなた様と同じように、いくら思っても情(つれ)なくされる殿御(とのご)がありますのさ」
 と、左膳を思いうかべながら、この娘! この娘! この娘なんだ! どうしてくれようとちらと横眼で見ると恋と妬心(としん)に先を急ぐ弥生は、同伴(つれ)のお藤が何者であろうといっさい頓着(とんじゃく)ないもののように、折りからの吹き降りにほつれ毛を濡らしきって口を結んでいたのだった。

 宵から降りだした雨をついて、その夜鈴川の屋敷には、いつものばくちの連中が集まり、更けるまではずんだ声で勝負を争っていたが、それもいつしかこわれて、寄り合っていた悪旗本や御家人(ごけにん)くずれの常連(じょうれん)が、母屋で、枕を並べて寝についたその寝入りばなを、逆に扱(こ)くように降ってわいた斬りこみであった。
 その夜は二十人あまりの仲間が鈴川方に泊まって、なかの二人が、左膳とともに離庵(はなれ)に寝ていたのだが、これらは栄三郎が踏みこむと同時に前後して武蔵太郎の犠牲にのぼって、声を聞きつけたおもやの源十郎、仙之助、与吉らほか十四人が雨戸を排(はい)して戸外をのぞいた時は、真夜中の雨は庭一面を包み、植えこみをとおして離庵のほうからただならぬ気配が漂(ただよ)ってきた。
 口々に呼んでも左膳の答はない。
 のみならず、つい先刻まで濡れた闇黒に丸窓を浮き出させていた離室の灯が消えている。
 変事(へんじ)出来(しゅったい)!
 と、とっさに感じとると同時に、ただちに源十郎指揮をくだして、一同寝巻(ねまき)の裾をからげ、おのおの大刀をぶちこんで密(そっ)と庭におり立った。
 雨中を、数手にわかれて庵室をさして進む。
 ピシャピシャピシャというその跫音(あしおと)が、おのずから衿(えり)もとに冷気を呼んで、降りそそぐ雨に周囲の闇黒は重かった。
 この多勢の人影を、かれらが母屋を離れる時から見さだめていた泰軒は、一声なかの栄三郎を励ましておいて、つと地に這うように駈けるが早いか、母屋からの小径に当たる石燈籠(どうろう)のかげに隠れて先頭(せんとう)を待った。
 庭とはいえ、化物屋敷の名にそむかず、荒れはてた草むらつづきである。
 さきに立った土生(はぶ)仙之助が、抜刀を雨にかばいながら濡れ草を分けて、
「起きて来たのはいいが、泰山(たいざん)鳴動(めいどう)して鼠(ねずみ)一匹じゃあねえかな……よく降りゃあがる」
 独語(ひとりご)ちつつその前にさしかかった時だった。
 パッと横ざまに飛び出した泰軒の丸太ん棒、
「やッ! 出たぞ!」
 と愕(おどろ)きあわてた仙之助の身体はそのまま草に投げ出されて、あとに続く人々の眼にうつったのは、仙之助のかわりにそこに立ちはだかっている異形(いぎょう)ともいうべき乞食(こじき)の姿だった。
 そしてその手には、いますばやく仙之助から奪いとった抜(ぬ)き身(み)の一刀がかざされているのだ。
「うむ! こいつだツ!」
「それ! 一時にかかってたたっ斬ってしまえ!」
 源十郎をはじめ大声に叫びかわして、雨滴に光る殺剣(さつけん)の陣がぐるりと泰軒をとりまく。
 が、豪快(ごうかい)蒲生泰軒、深くみずからの剣技にたのむところあるもののごとく、地を蹴って寄り立った石燈籠を小楯(こたて)に、自源流中青眼――静中物化を観るといった自若(じじゃく)たる態(てい)。
 薩州島津家の刀家瀬戸口備前守(せとぐちびぜんのかみ)精妙の剣を体得したのち伊王(いおう)の滝において自源坊(じげんぼう)に逢い、その流旨(りゅうし)の悟りを開いたと伝えられているのがこの自源(じげん)流だ。
 泰軒先生、自源流にかけてはひそかに海内無二(かいだいむに)をもって自任していた。
 いまその気魄(きはく)、その剣位(けんい)に押されて、遠巻きの一同、すこしくひるむを見て、
「ごめん! 拙者がお相手つかまつるッ!」
 と躍り出た源十郎、去水(きょすい)流居合ぬきの飛閃、サッ! と雨を裂いて走ったと見るや! 時を移さず跳びはずして、逆に、円陣の一部をつきくずした泰軒の尖刀が即座に色づいて、泰軒先生、今は余儀(よぎ)なく真近(まぢか)のひとりを血祭りにあげた。
 雑草の根を掻きむしって悶絶するうめき声。
 とともに、四、五の白刃、きそい立って泰軒に迫ったが、たちまち雨の暗中にひときわ黒い飛沫(しぶき)がとんだかと思うと、はや一人ふたり、あるいは土に膝をついて刀にすがり、あるいは肩をおさえて起ちも得ない。
 迅来(じんらい)する泰軒。
 その疾駆し去ったあとには、負傷(てお)いの者、断末魔(だんまつま)の声が入りみだれて残る。こうして庭じゅうをせましと荒れくるう泰軒が、突然、捜し求めていた源十郎とガッ! と一合、刃をあわせる刹那、絶えず気になっていた離庵の中から、たしかに斬った斬られたに相違ない血なまぐさい叫びが一声、筒(つつ)抜けに聞こえてきた。
 と、まもなく生き血に彩られて、光を失った刀をさげて、黒い影がひとつ。ころがるように庵を出てくるのが見える。
 剣を持っているその手! それは右腕か左腕か?
 右ならば栄三郎、左腕なら左膳だが……。
 と、思わず泰軒が眼をとられた瞬間!
「えいッ!」
 と炸破(さくは)した気合いといっしょに、源十郎の長剣、突風をまきおこして泰軒に墜下(ついか)した。

 胸に邪計をいだく櫛まきお藤。
 じぶんの恋する左膳が思いをかけている弥生という娘。これがまた左膳の仇敵(かたき)諏訪栄三郎を死ぬほどこがれている――つまり弥生と、先夜源十郎方から逃がしてやったお艶とは激しい恋がたきだと知るや、お藤はここに弥生を突ついて、その心をひたむきに栄三郎へ向けて左膳に一泡ふかせてやろうとたくらんだのだ。
 それには、文つぶての思いつき。
 恋と嫉妬(しっと)は同じこころのうら表だ。離るべくもない。
 しかも、以前から人知れず強い憎悪(にくしみ)の矢を放って、お艶という女を呪いつづけてきた弥生のことである。このお藤の傀儡(かいらい)に使われるとは、もとより気づこうはずがない。一も二もなくお藤の投げた綱に手繰(たぐ)りよせられて、送り狼と相々傘(あいあいがさ)、夢みるような心もちのうちにこの瓦町の家へ届けられてきたのだが……。
 さてこうしてお艶、栄三郎の暮しを目(ま)のあたりに見て、現にお艶と向かいあいながら、さて、その憎い女の口から主人の栄三郎は――などといわれてみると、根が武家そだちの一本気な弥生だけに、世の中を知らぬ強さがすぐこの場合弱さに変わって、はかなさ情けなさが胸へつきあげてきた弥生はただもう泣くよりほかはなかった。
 弥生は泣いた。さめざめと泣いた。
 が、うつ伏せに折れるでもなければ、手や袂(たもと)で泣き顔をおおうでもない。
 両手を膝に重ねて、粛然(しゅくぜん)と端坐してお艶に対したまま、弥生は顔中を涙に濡らして嗚咽(おえつ)しているのだ。
 その泣き声が、傘をすぼめて戸外の露地に立ち聞くお藤の耳にはいると、櫛まきお藤、細い眉を八の字によせていまいましそうに舌打ちをした。
「チェッ! なんだろう、まあだらしのない! 自分の男をとった女と向きあってメソメソ泣くやつもないもんだ。お嬢さまなんてみんなああ気が弱いのかしら――じれったいねえ! 嫌になっちゃうよほんとに」
 こうつぶやいてなおも戸口に耳をつけると、雨の音に増して、弥生の泣き声がだんだん高くなる。
 まことに弥生は、やぶれ行燈(あんどん)に顔をそむけようともせず、流れる涙をそのままお艶へ見せて、オホッ! オホッ! と咳入るように泣いているのだが、それをお艶は、はじめはふしぎなものに思って、あっけにとられて眺めていた。
 美しくやつれた白い顔が、クシャクシャと引きつるように真ん中へよったかと思うと、口がゆがみ、小鼻のあたりが盛り上がってきて、無数の皺(しわ)の集まった両の眼から、押し出されるように涙の粒が……あとから後からと光って落ちて、青い筋の浮いている手の甲や、膝を包む友禅をしとどに濡らす。
 その顔をまっすぐにあげた弥生、いまは恥も外聞(がいぶん)も気位もなく、噛みしめた歯ももう泣き声を押し戻すことはできずよよとばかりに、声をたてて慟哭(どうこく)している――からだはすこしも動かさずに。
 しかし、骨をあらわした壁に、弥生の影が大きくぼやけて、その肩の辺が細かくふるえて見えるのは、あながち油のたりない裸燈心(はだかとうしん)のためばかりではなかったろう……弥生はいながらに身を涙の河に投じて、澎湃(ほうはい)とよせてくる己(おの)が情感に流されるままに、何かしらそこに甘(あま)い満足を喫(きっ)しているふうだった。
 おさむらいの娘というものは、こうも手放しで泣くのか――と頭の隅であきれながら、ただまじまじと弥生の涙を見つめていたお艶も、女の涙のわかるのは女である。そのうちに一度、この場にいない栄三郎のことが胸中に閃(ひらめ)くと、自分の思いに照らしあわせて弥生のこころがひしとうってくるのを感じて、いつしかお艶も眼のふちをうるませていた。
 それは、互いに一人の男を通して、やがてひとつに溶け合おうとする淡い入悟(にゅうご)の心もちであった。がそれまでに円くなるには、まだまだ二つの魂が擦れあい打ちあって角々をおとさねばならぬ……よしそのために火を発して、自他ともに焼き滅ぼすことがあろうとも。
 長い沈黙である。
 と、この時、弥生の泣き声のなかに言葉らしきものが混じっているのに気がついて、お艶は、
「は? なんでございます――?」
 ときき返したつもりだったが、じぶんでも驚いたのは、お艶の口を出たのがやはり泣き声のほか何ものでもなかった。
 いまにつかみあいではじまるだろうと、おもてに聞いていたお藤、
「おやおや! 嫌にしめっぽくなっちゃったねえ。お葬式じゃああるまいし……なんだい! ふたりで泣いてやがらあ!」
 と当てのはずれた腹立ちまぎれにトンと一つ黒襟(くろえり)を突きあげて、相手なしの見得を切ったが。

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