丹下左膳
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著者名:林不忘 

 事ありげなようす! とは感じたが、もとより老下女などの顔を出すべき場合でないので、気にかかりながらもお艶の身を守る一方にとりまぎれていたけれど、いまとなって心に浮かぶのは。
 あの丹下左膳という御浪人。
 かれは亡夫宗右衛門と同じ奥州中村相馬様の藩士で、自分やお艶とも同郷の仲だが、それがなんでもお刀探索(かたなたんさく)密命を帯びてこうして江戸にひそんでいるとかと、いつかの夜のお居間のそとで立ち聞いたことがある。
 道理で、辻斬りが流行(はや)るというのにこのごろはなお何かに呼ばれるように左膳は夜ごとの闇黒(やみ)に迷い出る――もう一口(ひとふり)の刀さがしに!
 しかるに!
 源十郎にないしょにお艶のもとに忍んで話しこんでいるうちに栄三郎のその後の模様もだいぶ知れたが、お艶の口によると、栄三郎はいま、二本の刀のうち一本をもって、他のひとつを必死に物色しているとのこと。
 さては! と即座に胸に来たおさよだったが、その場はひとりのみこんで何気(なにげ)なくよそおったものの、納戸(なんど)のお艶が、それとなく窓から左膳の出入りをうかがっては、いかにもして栄三郎へしらせたがっていることも、おさよはとうから見ぬいていたから、いよいよ左膳と栄三郎は敵同士(かたきどうし)、たがいに一対の片割れを帯して、その二刀をわが手に一つにしたいと求めあっているに相違ない……これだけのことが、湯気(ゆげ)をとおして見るようにぼんやりながらおさよの頭にもわかっていた。
 ところが今、源十郎はお艶の一生を所望している! おめかけとはいえ、終身奉公ならば奥方同然で老いさきの短い母の自分も何一つ不自由なく往(ゆ)くところへ行けようというもの。それに、お艶の素性(すじょう)が知れて武家出とわかれば、おもてだって届けもできれば披露(ひろう)もあろう。
 そうなれば、かわいいお艶の出世とともに、自分はとりもなおさず五百石の楽隠居!――と欺(だま)されやすいおさよは、頭から源十郎のでたらめを真に受けて、ここは一つ栄三郎への手切れのつもりで、何よりもそのほしがっている一刀を、追って殿様の源十郎に頼んで、左膳から奪って下げ渡してもらおう……おさよはさっそくこう考えた。
 母の庇護(ひご)があればこそ、これまで化物屋敷に無事でいたお艶! その母の気が変わって、今後どうして栄三郎へ操(みさお)を立て通し得よう?
 人身御供(ひとみごくう)の白羽の矢……それはじつに目下のお艶のうえにあった。
 が、源十郎よくおさよの乞いをいれて、左膳と乾雲丸(けんうんまる)とを引き離すであろうか。
 ――思案に沈んでおさよが、耳のそばに、
「お藤が、おれに加担(かたん)してお艶をかどわかしたために、刀をうばいそこねたといってな、左膳め、先日から猛(たけ)りたっておるのだから、そのつもりで年寄り役にとりしずめてくれ」
 という源十郎の声でわれに返ると、膝までの草を分けていつのまにかもう離室(はなれ)のまえ。
 カッ! とただよう殺気をついて左膳の罵声がする。
「うぬッ! 誰に頼まれてじゃまだてしやがった? いわねえか、この野郎ッ……!」
 つづいて、ぴしり! と鞭でも食わす音。
「ほほほほ、お気の毒さま! 野郎はとんだお門(かど)ちがいでしたねえ」
櫛まきお藤はすっかりくさっているらしい。
「やいッ! 汝(うぬ)あいってえなんだって人の仕事に茶々(ちゃちゃ)を入れるんだ? こらッ、こいつッウ!……てッ、てめえのおかげで、奪(と)れる刀もとれなかったじゃねえかッ! な、なんとか音を立てろいッ音を!」
「ほほほ、音を立てろ――だと! 八丁堀(はっちょうぼり)もどきだね」
「なにいッ!」
 咆吼(ほうこう)する左膳、棕櫚(しゅろ)ぼうきのような髪が頬の刀痕にかぶさるのを、頭を振ってゆすりあげながら、一つしかない眼を憎悪に燃やして足もとのお藤をにらみすえた。
 細松の幹を思わせる、ひょろ高い筋骨、それに、着たきり雀(すずめ)の古袷(あわせ)がはだけて、毎夜のやみを吸って生きる丹下左膳、さらぬだに地獄絵の青鬼そのままなところへ――左手に握った乾雲丸を鞘(さや)ぐるみふりあげるたびに空(から)の右袖がぶきみな踊りをおどる。
 せまい六畳の部屋。
 源十郎の父宇右衛門は、老後茶道でも楽しんで、こころしずかに余生を送るつもりで建てた離庵(はなれ)であろうが星移りもの変わるうちに、それがどうだ! 荒れはてて檐(のき)は傾き、草にうずもれて、しかも今は隻眼片腕の狂怪丹下左膳が、憤怒(ふんぬ)のしもとをふるって女身を鞭うつ責め苦の庭となっているのだ。
 くもり日の空は灰色。
 本所もこのへんは遠く家並みをはずれて、雲の切れ目から思い出したように陽が照るごとに、淡い光が横ざまにのぞいては、仁王立ちの左膳の裾とそれにからまるお藤を一矢彩(いろど)ると見るまに、すぐまたかげってゆくばかりで、前の法恩寺橋を渡る人もないらしく、ひっそりとして陽(ひ)あしの早い七つどきだった……。
 夜具や身のまわりの物を片隅に蹴こんだ寒ざむしい室内。わずかにとった真ん中の空所(あき)に、投げつけられたような櫛まきお藤の姿がふてぶてしくうつぶしていた。
 ぐるりと四、五人男が取り巻いている。
 土生(はぶ)仙之助、つづみの与吉(よきち)などの顔がそのなかに見られたが、みな血走った眼を凝(こ)らして左膳とお藤を交互に眺めているだけで言葉もない。
 たださえ痩せほうけた丹下左膳、それが近ごろの夜あるきで露を受け霜に枯れて、ひとしお凄烈(せいれつ)の風を増したのが、カッ! と開いた隻眼に残忍な笑いを宿したと思うと、
 またもや!
「おいッ! なんとか言えい! 畜生ッ、こ、これでもいわねえか! うぬ、これでも……ッ!」
 と、わめくより早く、乾雲の鞘尻弧(こ)を切ってはっし! お藤の背を打ったが――。
 アッ! と歯を噛んで畳を抱いたきり――お藤は眠ったように動かない。
 水のような薄明の底にふだん自慢の櫛まきがねっとりと流れて着ている物のずっこけたあいだから、襟くび膝頭と脂(あぶら)ののりきった白い膚が、怪異な花のように散り咲いているぐあい、怖ろしさを通りこして、観(み)ようによっては艶(えん)な情景だったのだろう、両手を帯へ突っこんだ土生仙之助は、舌なめずりをしながらそうしたお藤の崩態(ほうたい)にあかず見入っていたが、つづみの与吉は眼をそむけて……といってとりなす術(すべ)もなく、ただおろおろするばかりだった。
 この、毎日の責め折檻(せっかん)。
 それが、きょうも始まったところだ。
 なんのため!
 ほかでもない――あの首尾の松の下に乱闘の夜、左膳が栄三郎へ斬りつけた刹那に、櫛まきお藤がお艶をよそおって小舟へとんだため、栄三郎とあの乞食がすばやくつづいて舟を出してしまった。おかげでもう一歩というところであたら長蛇(ちょうだ)を逸(いっ)したのは、すべてお藤のしわざで、ひっこんでいさえすれば、見事若造を斬り棄てて坤竜丸を収め得たものを! さ、いったい全体だれに頼まれて、あんなところへお艶の身代りにとび出したのだ? はじめからあの場へ水を差して、こっちの手はずをぐれはまにするつもりだったに相違ねえ。ふてえ女(あま)だ。なぶり殺しにしてくれる!
 と左膳はお藤を自室に幽閉して日々打つ殴る蹴るの呵責(かしゃく)を加えているのだが、お藤は源十郎のために、お艶をさらう便宜をはかったにすぎないことは、左膳にもよくわかっていたから、ただひとこと殿様に頼まれて……とお藤が洩らすのを証(あかし)に源十郎へ掛け合うつもりでいるものの、それをお藤は、頑固に口を結んでいっかないわぬ。
 がお藤にしてみれば。
 自分がこんな憂目(うきめ)を見ている以上、今にきっと源十郎が割って出て、万事をつくろってくれるものと信じているのだが、源十郎はお艶のことでいっぱいで、左膳へ橋渡しをすると誓ったお藤との約束はもちろん、いまのお藤のくるしみも見てみぬふり、聞いて聞かぬ顔ですぎてきたのだった。
 ほれた弱味――でもあるまいが江戸の姐御(あねご)だ。左膳を見あげたお藤が、ひとすじ血をひいた口もとをにっことほころばせると、一同顔が上がり端(ばた)へ向いた。
 庭へ開いた戸ぐちを人影がふさいでいる。

 例の女物の長襦袢をちらつかせた左膳、乾雲丸を引っさげてつかつかと進みながら、
「なんだ? 源十におさよじゃねえか。てめえたちに用のあるところじゃねえ! なにしに来た?」
 と立ち拡がったが、源十郎はにやり笑ってそっとおさよを突いた。
「さ、老役(ふけやく)には持ってこいだ。な、よろしく謝(あやま)ってやれ」
 ささやかれたおさよ、恐怖に気も顛倒(てんとう)して左膳の顔を見ないように、口のなかでごもごも言ってやつぎばやに頭をさげると、左膳は、「うるせえッ! 婆あの出る幕じゃねえッ」と一喝(かつ)し去って、おさよを越えてうしろの源十郎へ皮肉にからんできた。
「鈴源! 貴様は昼も晩も納戸(なんど)の女にくッついてるんじゃねえのか。珍しいな出てくるとは――どうだ、あの女はお艶と言ったなあ、うまくいったか」
 あざけりつつ、そろりそろりと室内へ引き返す左膳を、源十郎は眼で追って、さもお艶との仲が上首尾らしく、色男ぶった薄わらいをつづけていると、
「おれの女はこれだッ!」
 と、左膳はやにわにお藤を蹴返して、
「こらッ、お藤! 誰のさしがねで刀のさまたげをしたか、それを吐(ぬ)かせ!」
 叫びざま左手に髪を巻きつけて引きずりまわす――が、この狂乱の丹下左膳に身もこころも投げかけているかのように、お藤は蒼白の顔に歯を食いしばって、されるがまま、もう声を立てる気力もないのか、振りほどけた着物をなおそうともしないで、ただがっくりと左膳の脚にとりすがっている。
 この日ごろの打擲(ちょうちゃく)に引きむしられた頭髪がちらばって、部屋じゅうに燃える眼に見えぬ執炎業火(しゅうえんごうか)。
 あまりの態(てい)におさよはすべるように逃げて行ったが、来てみて、思った以上の狼藉(ろうぜき)に胆を消した源十郎、お藤に対してももはや黙っていられないと駈けあがろうとした時!
 阿修羅王(あしゅらおう)のごとく狂い逆上した左膳が、お藤の手をねじあげて身体中ところ嫌わず踏みつけるその形相(ぎょうそう)に! 思わずぎょっとして尻(しり)ごみしていると、陰にふくんだ声が惻々(そくそく)として洩れてきた。
「殿様かい?」
 お藤が、左膳の足の下から、顔をおおう毛髪を通して源十郎へ恨(うら)みの眼光(まなざし)を送っているのだ。
「へん! 殿様がきいてあきれらあ! あたしの念(おもい)を届けてやるからそのかわり隙(すき)をうかがってお艶と見せて舟へ転げこんでくれ――あとのことは悪いようにはしないから、なんてうまいことを言ったのはどこの誰だい」
 源十郎はあわてた。
「これお藤、貴様、のぼせて、何をとりとめもないことを……」
「だまれッ、源十!」
 がなりつけたのは左膳だった。同時に、髪をつかんでお藤を引き起こすと、痛さにあまったお藤は左膳をあおいで悲叫(ひきょう)した。
「よしてください頭だけは! あたしゃお前さんにどうされようと首ったけなんだからね、それゃあ殺すというなら殺されもしようさ。えええ、りっぱに殺されましょうともさ! けど、ちっとでもかわいそうだと思ったら、ねえ丹下様、後生(ごしょう)だからすっぱり斬って、こんな痛いめにあわせないで、あたしも櫛まきお藤だ! あなたのお刀ならいつでも笑って受けましょうよ。だがお待ち、死ぬまえに、あたしにすこし言いぶんがあるんだ」
 と左膳の手を離れて、ふらふらッ! と立ってきたあがり框(がまち)、源十郎の鼻先にべったり崩れて、
「いらっしゃい。おひさしぶりですねえ、ほほほ、その顔! あなたのおかげでお藤もこんなに血だらけになりましたよ」
 にっこりしたかと思うと、左膳をはじめ一同があっけにとられているまえで、お藤の全身が源十郎を望んでおののきわたった。
「二本(りゃん)をきめたのが殿様なら、目ざしはみんな殿様だ! なんだい! 三社まえでだって、頼む時はあんなに程(てい)のいいことを並べやがってそのために人がひどいめにあってるのに、今度あ知らぬ顔の半兵衛だ! そんなのがお侍かい! ちょッ江戸っ児の風上へもおけやしねえ……」
「姐御、姐御、そう気が立っちゃあ話にならねえ。よ、これあ当家の御前(ごぜん)だ。めったなことを……」
 と与吉が気をもんで耳打ちするのを、左膳が横から突きのけた。
「与の公、ひっこんでろッ!」
「そうだとも!」お藤は血腫(ちば)れのした顔をまわして、「与の公なんざ恐れ入って見物してるがいいのさ……ええ、あたしゃこうなったら言うだけのことはいうんだからね――ねえ、そこの殿様、お前さんに頼まれてお艶さんをさらい出す手助けをしたばっかりに、あたしゃ丹下様に叱られてこの始末さ。でも、いっそ嬉しい! 他人と思えば、よもやねえ、こんなお仕置(しお)きはできますまいもの」
 はっと息づまるなかに、痙攣(けいれん)のような笑(え)みを浮かべた左膳、しずかにお藤をどかせて、きらめく一眼を源十郎の面上に射ながら、隻手はもう血に餓える乾雲丸の鯉口(こいぐち)にかかっていた。
「おい、鈴川……」
 と、たいらに呼びかけた左膳の濁声(だみごえ)には、いつ炸裂(さくれつ)するか知れない危険なものが沈んでいた。
「なあ源的、おれと貴公との仲はきのうきょうの交際ではないはずだ。したがって、いかにおれが一身一命を賭して坤竜丸を狙っておるか貴公、とうから百も承知ではないか、しかるにだ――」
 言いながら土間におりた左膳は、みるみる顔いろを変えて、
「しかるに!」
 と一段調子をはりあげた時は、もう自分とじぶんの激情を没して、一剣魔丹下左膳本然の鬼相をあらわしていた。
「おれに助力して坤竜を奪うと誓約しておきながら、なんだッ! 小婦の姿容(しよう)に迷って友を売るとは? やい源十ッ、見さげはてたやつだなてめえはッ!」
 咬(か)みつくようにどなるにつれて左手の乾雲がカタカタカタと鍔(つば)をふるわす。
 風、地に落ちてはちきれそうな沈黙(しずまり)。
 土生仙之助、お藤、与吉ほか二、三の者は、端(はし)近く顔を並べて、戸口の敷居をまたいだままの源十郎と、それに一間のあいだをおいて真向い立っている左膳とを呼吸(いき)もつかず見くらべているのだった。
 ふところ手の源十郎、一桁(ひとけた)うえをいってくすりと笑った。
「丹下!」と低声。「貴様も、そう容易にいきりたつところを見ると、案外子供だなあ! おれは何も貴様のじゃまをしようと思って企(たく)らんだのではないのだ――」
「やかましいッ! だ、黙って、おれに斬らせてくれ貴様を!」
 左膳、だしぬけに眼を細くしてうっとりとなった。怪刀の柄ざわりが、ぐんぐん胸をつきあげてきて、理非曲直(きょくちょく)は第二に、いまは生き血の香さえかげばいい丹下左膳、右頬の剣創(けんそう)をひきゆがめて白い唇が蛇鱗(だりん)のようにわななく……。
 所を異(こと)にする夜泣きの刀の妄念(もうねん)、焔と化してめらめらとかれの裾から燃えあがると見えた。
 生躍(せいやく)する人肉を刃に断(た)つ!
 毒酒のごときその陶酔が、白昼のまぼろしとなって左膳の五感をしびれさせつつあるのだ。
「き、斬らせてくれ! なあ源公、よう! 斬らせてくれよう、あはははは」
 左膳は、しなだれかかるように二、三歩まえへよろめいた。愕然(がくぜん)! として飛びのいた源十郎。
「わからないやつだな――なるほど、おれはあの晩お艶をひっかついで一足さきに帰った。そりゃあ貴公らと行動をともにしなかったのは、重々おれが悪い。その点はあやまる。な、このとおり、幾重にも詫びる……しかしだなあ丹下、お藤が舟へとびこんで、そのお藤をお艶と見誤って敵が即座に舟へ移って逃げたところで、そ、それはおれの知ったことではないぞ」
 すると、聞いていたお藤が、
「まだあんなことをいってる! 殿様、あなたもずいぶん往生(おうじょう)ぎわが悪いねえ、みんなお前さんのあたまから出たことじゃないか」
 いい出すのを与吉がおさえた。
「姐御! ね、もうようがしょう、殿様も折れてらっしゃる――」
「それ見ろ!」左膳は、勝ち誇った眼をお藤から源十郎へ返して、
「貴様の火事泥(かじどろ)さえなけりゃあ俺はあの夜坤竜を手に入れて、これ、この」と左剣を振り鳴らしながら、
「この刀といっしょにしてやることができたのだ――鈴川、貴様に裏切られようとは思わなかったぞ」
「貴公も執念(しゅうねん)ぶかい男だな。なんにしても過ぎたこと。宜(よ)いではないかもう……」
「そっちはよかろうが、こっちはいっこうよくねえ。おれの執念ではない。刀の執念だ。こ、この乾雲の執念なのだッ!」
「フフン!」源十郎はせせら笑った。「おもしろいな。それで何か、毎夜辻斬りにお出ましになるてえわけか」
 すぱりと吐いた。
 と!
「ぶッ!」面色蒼白の度をました左膳、たちまちぽうっとふしぎな紅潮(あからみ)を呈して、「どうして知っとった?」
「や! とうとう口を割ったな。なに、おおかたそんなところと、ちょっとかまを掛けたんだが、なあ丹下、江戸中の不浄役人がかぎまわっている今評判の逆袈裟(けさ)がけの闇斬り……南町の奉行は、たしか大岡越前とかいう名判官だったけなあ! 恐れながら――とひとことおれが駈けこめば! どうだ! あとは自分で考えてみろッ!」
「ううむ! その前に汝(うぬ)をぶった斬るんだ」
「おれは事は好まん」
「き、斬れるぞ源十! け、乾雲が、斬れきれと泣いておる。この声が貴様に聞こえんか」
「事は好まん……が、やむを得ん!」
 源十郎、土気色(つちけいろ)の微笑を突如与吉へふり向けた。
「座敷からおれの刀を持ってこい!」
 芝生――とは名ばかりの、久しく鎌(かま)を知らない中庭の雑草に腰をおろした左膳、手ぢかの道しばの葉を一本抜きとって、
「これ、見ろ、こいつにこんなにくれが来ている。してみると、二百十日から二十日までのあいだに一つ大暴風雨がくるかな。昔からの言いつたえに間違いはない」
 などとのんきなことをいっていたが、やがて、つづみの与吉がひっ返してきて、こわごわ源十郎に大刀を渡すのを見ると、さすがにすっくと起きあがった。
「では、いよいよやるかな」
 左膳の青眼(せいがん)は薄日(うすび)に笑う。
「源十、死ぬ前にひとこと礼を言わせてくれ」
「死ぬ……とは誰が死ぬのだ?」
「きまってるじゃねえか。てめえが今死ぬんだ――」
「うふふ! 死ぬのは貴様だろう。なんでも言え。聞こう」
「だいぶ長く厄介になったな。ありがてえぞ……これだけだ!」
「ははははは」源十郎の笑声はどこかうつろだった。「鳥のまさに死なんとするやその声悲し。人のまさに死なんとするやその言うところ善(よ)しとかや――おい丹下、貴様ほんとに討合(はたしあ)いを望んでおるのか」
「あたりめえよ!」
 一歩さがった左膳、タタタ! と平糸巻きの鞘を抜きおとして、蒼寒く沈む乾雲丸の鏡身(きょうしん)を左手にさげた。こともなげに微笑(ほほえ)んでいる。
「てめえのおかげで坤竜を取り逃がしたので、おれはともかく、この乾雲が貴様を恨んで、ぜひ斬りてえといってしようがねえのだ。まあ、貴様にしたところで生きていてえつごうもいろいろあろうが、ここは一つ万障(ばんしょう)繰(く)り合わせて俺の手にかかってくれ」
「笑わせてはいかん。どうもあきれるほどしつこいやつだな」
「しつこくなけりゃあできん仕事をしておるでな。われながらゆえあるかなだ。第一、おれの辻斬りを感づいた以上、なんとあっても生かしてはおけん」
「そうか……では! それほどまでに所望なら、鈴川源十郎、いかにもお相手つかまつろう! だがしかし後悔さきに立たず、一太刀食らってから待ったは遅いぞ!」
「何を言やがるッ! 腰抜けめッ! てめえの血が赤えか白いか、それをみてやるんだ。おいッ! 来いよ早く! 往くぞッ、こなけりゃあ――ッ! はっはっは」
 哄笑(こうしょう)とともに伸びてきた乾雲丸の閃鋩(せんぼう)、眼前三寸のところに渦輪を巻いて挑む。
 もはや応(おう)ずるより途(みち)はない! と観念した源十郎、しずかな声だった。
「大人気ない。が、参るぞ丹下ッ! ……こうだッ」
 とうめくより早く、土を蹴散らした足の開き、去水流相伝(きょすいりゅうそうでん)網笠撥(あみがさは)ねの居合(いあい)に、豪刀ななめに飛んでガッ! と下から乾雲を払った。
 引き退いた左膳、流れるままにじわじわと左へ寄ってくる。同時に、源十郎は右へ二、三歩、さきまわりして機を制した。
 暮れをいそぐ陽が二つの剣面を映えて、白い円光が咲いては消える。霜枯れの庭に凄壮(せいそう)の気をみなぎらして。
 仔猫(こねこ)が垣根から両人をのぞいてつまらなそうに草の穂にたわむれているのを、左膳はちらりと見て刀痕をくねらせて――笑ったのだ。
「鈴川」と別人のように軽明な語調。「おれあこうやってる時だけ生きているという気がするのだ。因果(いんが)な性得(しょうとく)よなあ! 貴様が壺を伏せたりあけたりする手つきと、女を連れこむ遣口(やりくち)は見て知っておるが太刀筋は初めてだ。存分に撃ちこんで来いよ!」
 源十郎は無言。
 青眼にとった柄元を心もちおろすと、うしろへ踏みしめた左足の爪先に、思わず力が入って土くれを砕いた。
 双方(そうほう)不動。あごをひいた左膳がかすかに左剣にたるみをくれて、隻眼をはすに棒のように静止したままペッペッと唾を吐きちらしているのは、いつもの癖で、満身の闘志が洩れて出るのだ……。
 どっちも、まさか抜きはすまい。こう思っていたのが、この立合い、飛ばっちりを食ってはたまらぬとお藤と与吉は早々に姿を消して、残っている仙之助も、手をつけかねてうろうろするばかり。
 新影、宝山二流を合(がっ)した去水(きょすい)流。
 法の一字を割って去水(きょすい)と読ませたのだという。
 始祖(しそ)は浅田九郎兵衛門下の都築(つづき)安右衛門。
 鈴川源十郎、なかなかこの去水流をよくするとみえて、剣に先立って気まず人を呑むていの丹下左膳も、みだりに発しない……のかと思っていると、スウッと刀をひいた左膳、やにわにゲラゲラ笑い出した。
「ははは、よせよ。源公! てめえはもう死んでらあ!」

 ふっと笑いやんだ左膳は、あっけにとられている源十郎を尻眼にかけて、
「自分でじぶんの参ったのを知らなきゃ世話あねえ……俺はいま、活眼(かつがん)を開いてこの斬り合いの先を見越したのだ。いいか、おれが乾雲を躍らせて貴様の胴へ打ちこんだ――と考えてみた。と、貴様は峰をかわして見事におさえた。うん、おさえたにはおさえた。がだ、すぐさま俺はひっぱずして貴様の右肩(うけん)を望んで割りつけた、と思ったのが……ははは、りっぱにきまったぞ源十、おれあ貴様の血が虹(にじ)のように飛ぶのを見た。たしかに見たのだ!」
 源十郎はくしゃみをする前のような奇妙な顔をした。
「…………」
「だから貴様はすでに死んだ。おれに斬り殺されたのだ。そこに立っておるのは貴様の亡者だよ。あはははは、戦わずして勝敗を知る。剣禅(けんぜん)一致(ち)の妙諦(みょうてい)だな」
 源十郎も蒼い頬に苦笑を浮かべて、
「勝手なことをいう――」
 と刀をおろした時、周囲をまごまごしていた土生仙之助が仲にはいった。
「同士討ちの機ではござるまい。まま御両所、ここは仙之助に免じておひきください」
 左膳は口を曲げて笑った。
「なんでえ今ごろ! 気のきかねえ野郎だなあ!」
 そして乾雲丸を鞘におさめて、さっさと離庵(はなれ)へはいっていった。
 立ち去ろうとする源十郎を、仙之助がぶらさがるように抱きとめて戸内へつれこむ。
 まもなく手が鳴っておさよが呼ばれたのは、庵室の三人、これから夜へかけて仲なおりの酒盛り……例によってそのうちお艶が引き出されることだろうが――。
 うら木戸のそばに納屋(なや)がある。
 薪(たきぎ)、柴(しば)など積みあげてあるそのかげ。
 昼間でさえ陽がとどかないで、年中しめった木の臭気(しゅうき)がむれている小屋のうしろ。いまは夕ぐれ間近いうそ寒さがほの暗くこめて、上にかぶさる椎(しい)の枝から落葉が雨と降るところに。
 一組の男女。
 櫛まきお藤とつづみの与吉が、地にしゃがんで話しこんでいた。
 お藤は、燃える眼を与吉の口もとに注いで、半纒(はんてん)の裾を土に踏むのもかまわず、とびつくようににじり寄っている。
「それじゃあ何かえ、お前の言うこと、うそじゃあないんだね?」
 その声のうわずっているのに、与吉はびっくりしてあたりを見まわした。
「姐御、そう肝(かん)が高ぶっちゃ話がしにくい。いえね、あっしもよっぽど黙ってようかと考えたんだが、あんまり姐御がかわいそうだから思いきってぶちまけるだけでね、何も姐御にこんな嘘をついたっておもしろおかしくもなかろうじゃありませんか。いえさ、これあただあっしの見当じゃあねえんだ。まあいわば丹下の殿様が白状したようなもんだから、まず動きのねえところでしょうぜ」
 さっとお藤の顔から血の気が引くと、悪寒(おかん)に襲われたように細かくふるえ出して、
「白状……って、丹下さまが何かおいいだったかえ?」
「さあ、そうきかれると困るんだが」と与吉はわざとひょうきんに頭をかいて、「白状でもねえな。じつあ寝言なんでさあ。へえ、その寝言を聞いてね、あっしが内密に探りを入れると――」
 こう言いさして、棒片(ぼうきれ)でしきりに地面を突ついている与吉は、お藤にうながされてあとをつづけた。
 それによると。
 このごろ左膳のようすがどことなく変わってきていることは、思いをかけているだけにお藤は誰よりも先に気がついていたが、朝夕出入りして親しく身辺の世話をする与吉にはそれがいっそう眼についてならなかった。
 溜息(ためいき)する左膳。
 考えこむ左膳。
 ――ついぞ見たことのない左膳である。で、それとなく注意していると、左膳はよく寝言をいう。弥生(やよい)という名。
 弥生と言えば、女に相違ない……!
 と、それから与吉こっそりかぎまわってみると、はたして! もと乾雲丸を蔵していた根津あけぼのの里の剣道指南小野塚鉄斎の娘に弥生というのがあって、左膳のために父と刀を失ってから行方も知れずになっているという。
「この弥生ってえのに丹下様が御執心(ごしゅうしん)なりゃこそ、ちっとのことでああ姐御(あねご)をひでえめにあわせるんだ。それを思うと、あっしゃあ口惜しくてならねえ!」
 いい気持にしゃべりながら何ごころなくひょいとお藤を見あげた与吉、思わずどうッ! と尻もちをついて叫んだ。
「あ! 姐御! なんて顔をするんだ!」
 恋の神様が桃色なら?
 嫉妬(しっと)の神は全身呪詛(じゅそ)のみどりに塗(ぬ)られていよう!
 その緑面の女夜叉(おんなやしゃ)を与吉はいま眼のあたりに見たのだった。

 靄然(あいぜん)として暮色の迫るところ。
 物置小屋のかげに、つづみの与吉はつばをのんで、蹌踉(そうろう)と椎の老幹に身をささえているお藤のようすを心配げに見あげた。
 丹下左膳が弥生という娘を恋している――と聞いたお藤は、さてはッ! と思うと身体じゅうの血が一時に凍って、うつろな眼があらぬ方へ走るのだった……紙のような唇をわなわなとおののかせて。
 嫉心鬼心(しっしんきしん)。
 それが眼に見えぬほむらとなって、櫛まきお藤の凄艶(せいえん)な立ち姿を蒼白いたそがれのなかに浮き出している。
 与吉はわれ知らず面を伏せて、心中に足もとの土へ話しかけた。こいつあとんだことをしたぞ! まさかこんなに相(そう)まで変えようとは思わなかったが、ちえッ! 黙っていりゃあよかった……。
 と、頭のうえで、夢でもみているような、しらけきったお藤の声がした。
「きれいな娘だろうねえ、その弥生さんとかってのは」
「へ?」と顔を上げた与吉は、とたんに、三斗の冷水を襟元からつぎこまれた感がして、「へえ、なんでもあけぼの小町といわれたくらいですから、それあもう――」
 と語尾を濁して黙りこんだ。
 仮面のようなお藤の顔が、こわばった笑いにゆがんだのを見て、与吉は慄然(ぞっ)としたのだった。
「それはそうだろうさ。あたしみたいなお婆あさんなんか足もとへも寄れやあしまい。はははは、知ってるよ! でも与の公、お前いいことをしらせておくれだったね。ほんの少しだけれど、さ、お礼だ、取っといておくれ」
 黒襟のあいだを白い手が動いたかと思うと、ちゃりいん! と一つ、澄んだ音とともに、小判が与吉の眼前におどった。
 同時に。
 ぽかんとしている与吉をその場に残して、お藤は、夕ぐれの庭に息づく雑草を踏んで歩き出した。嫉妬(しっと)にわれを忘れたお藤、よろめく足を千鳥に踏みしめて、さながら幽明(ゆうめい)のさかいを往(ゆ)くように。
 声のない笑いがお藤の口を洩れる――。
 今さら男を慕うの恋するのという自分ではない。それが、丹下左膳のもっている何ものかにひきつけられて、あの隻眼隻手のどこがいいのかと傍人(ひと)もわらえば自らもふしぎに耐えないくらい思いをよせているのに、針の先ほども通じないばかりか、先夜来すこしのことを根に持ってあの責め折檻(せっかん)が続いたのも、あの方に弥生という相手があってこのあたしとあたしの真実をじゃまにすればこそであったのか。
 それにしても――
 源十郎の殿様は、まあなんというお人だろう!
 必ず丹下さまとの仲をとりもってやるから、そのかわりに……という堅い約束のもとに、お艶を連れ出す手伝いをしたはずなのに! こっちの気をつたえるどころか、そのため、はからずも左膳さまの激しい怒りを買ってもあのとおり最後まで知らぬ顔の半兵衛をきめていやがるッ!
 眼中人のない丹下左膳に、何もかも知りつくした心を向けていた櫛まきお藤、もうこうなれば、もとより眼中に人はないのだ。
 娘の恋が泪(なみだ)の恋なら、お藤の恋は火の恋だ。
 水をぶっかけられて消えたあとに、まっ黒ぐろに焼けのこった蛇の醜骸(しゅうがい)。
 復讐!
 櫛まきお藤ともあろうものが小むすめ輩(やから)に男を奪られて人の嘲笑(わらい)をうけてなろうか――身もこころも羅刹(らせつ)にまかせたお藤は胸に一計あるもののごとく、とっぷりと降りた夜のとばりにまぎれて、ひそかに母屋の縁へ。
 縁の端は納戸。
 その納戸の障子に、大きな影法師が二つ。もつれあってゆれていた……。
「ねえお艶、そういうわけで」とお艶の手を取った老母さよの声は、ともすれば、高まるのだった。
「殿様も一生おそばにおいてくださるとおっしゃるんだから、お前もその気でせいぜい御機嫌(ごきげん)を取り結んだらどうだえ。あたしゃ決してためにならないことは言わないよ。栄三郎さんのほうだって、殿様にお願いして丹下さまのお腰の物を渡してやったら、文句なしに手を切るだろうと思うんだがねえ」
 お艶は、行燈のかげに身をちぢめる。
「まあ! お母さんたら、情けない! 今になってそんな人非人(ひとでなし)のことが――」
「だからさ、だから何も早急におきめとは言ってやしないじゃないか。ま、とにかくちょっとお化粧(けしょう)をしてお酒の席へだけは出ておくれよ。ね! 笑って、後生だからにこにこして……! さっきからお艶はまだかってきつい御催促なんだよ。さ、いい年齢(とし)をしてなんだえ、そんなにお母さんに世話をやかせるもんじゃないよ。あいだに立ってわたしが困るばかりじゃないか――はいただいま参ります! ねえ、さ、髪をなおしてあげるから」
「いやですったら嫌ですッ!」
 とお艶が必死に母の手を払った時、障子のそとに静かな衣(きぬ)ずれの音がとまった。
「今晩は……」
「こんばんは……おさよさんはいますか」障子のむこうに忍ぶ低声(こごえ)がしたかと思うと、そっと外部(そと)からあけたのを見て、おさよははっと呼吸をつめた。
 濃(こ)いみどりいろの顔面、相貌(そうぼう)夜叉(やしゃ)のごとき櫛まきお藤が、左膳の笞(しもと)の痕(あと)をむらさきの斑点(ぶち)に見せて、変化(へんげ)のようににっこり笑って立っているのだ。
 ずいとはいりこむと、べったりすわって斜めにうしろの縁側(えんがわ)を見返ったお藤、「おさよさん、お前さん何をそんなにびっくりしているのさ。殿様がお呼びだよ。お燗(かん)がきれたってさっきから狂気みたいにがなっているんだ。行ってみておやりな」
「ええ、ですから、とても、一人じゃ手がまわりませんから、このお艶――さんに助けてもらおうと思いましてね。それに殿様の御意(ぎょい)もあることだし……さあお艶さん、おとなしく離室(はなれ)のほうへおいで。ね、お咎(とが)めのないうちに」これ幸いと再びおさよがお艶の手を取りせきたてるのを、お藤は、所作(しょさ)そのままの手でぴたりとおさえておいて、凄味(すごみ)に冷え入る剣幕(けんまく)をおさよへあびせた。
「いいじゃないの、ここは! お艶さんには、いろいろ殿様に頼まれた話もあるんだから、お前さんはあっちへお行きってば!」
「でも、お艶をつれてくるようにと――」
「しつこい婆さんだねえ。あたしが連れていくからいいじゃないか。それより、癇癪(かんしゃく)持ちがそろっているんだ。また徳利でも投げつけられたって知らないよ。早くさ! ちょッ! さっさと消えちまいやがれッ!」
 おどかされたおさよが、逃げるように廊下を飛んでゆくと、その跫音(あしおと)の遠ざかるのを待っていたお藤は急に眼を笑わせて部屋の隅のお艶を見やった。
 もう五刻(いつつ)をまわったろう。
 魔(ま)の淵(ふち)のようなしずけさの底に、闇黒(やみ)とともに這いよる夜寒の気を、お艶は薄着の肩にふせぐ術(すべ)もなく、じっと動かないお藤の凝視(ぎょうし)に射すくめられた。
 酒を呼ぶ離庵(はなれ)の声が手にとるよう……堀沿(ほりぞ)いの代地(だいち)を流す按摩の笛が、風に乗って聞こえてくる。
 膝を進めたお藤は、横に手を突いて行燈のかげをのぞいた。
「お艶さん、お前、かわいそうにすこし痩せたねえ。おうお! むりもないとも。世間の苦労をひとりで集めたような――あたしゃいつも与の公なんかに言っていますのさ。ほんとに納戸の娘さんはお気の毒だって」
 積もる日の辛苦(しんく)に、たださえ気の弱いお艶、筋ならぬ人の慰め言と空耳(そらみみ)にきいても、つい身につまされて熱い涙の一滴に……ややもすれば頬を濡らすのだった。
 そこをお藤がすり寄って、
「ねえ、お前さんあたしを恨んでおいでだろうねえ? いいえさ、そりゃ怨まれてもしようがないけれど、実あね、あたしも当家の殿様に一杯食わされた組でね、言わばまあお前さんとは同じ土舟の乗合いさ。これも何かの御縁だろうよ。こう考えて、お前さんをほっといちゃあ今日様(こんにちさま)にすまないのさ、これから力になったりなられたり、なんてわけでね。それでお近づきのしるしに、あたしゃ、ちょいと、ほほほほ、仁義にまかり出たんだよ」
 お艶がかすかに頭をさげると、お藤は、
「これを御覧(ごらん)!」と袂(たもと)からわらじの先を示して、「ね、このとおり生れ故郷の江戸でさえあたしゃ旅にいるんだ。江戸お構え兇状持(きょうじょうも)ち。いつお役人の眼にとまっても、お墓まいりにきのう来ましたって、ほほほほ。こいつをはいて見せるのさ。まあ、あたしはそれでいいけれどお前さんにはかわいい男があったねえ」
 お艶は、海老(えび)のようにあかくなって二つに折れる。
「男ごころとこのごろのお天気、あてにならないものの両大関ってね」
「え!」と、ぼんやりあげたお艶の顔へお藤の眼は鋭かった。
「弥生さまとかって娘さん、あれは今どこにいるかお前知ってるだろう?」
「ええ。なんでも三番町のお旗本土屋多門さま方に引き取られているとかと聞きましたが――」
これだけ言わせれば用はないようなものだが、
「さ。それがとんだ間違いだから大笑い」と真顔を作ったお藤、「お前さん泣いてる時じゃないよ。男なんて何をしてるか知れやしない。他人事(ひとごと)だけれど、あんまりお前って者が踏みつけにされてるからあたしゃ性分(しょうぶん)で腹が立って……さ、しっかりおしよ、いいかえ、弥生さんはお前のいい人と家を持ってるんだとさ」
 ええッ! まあ! と思わずはじけ反(そ)るお艶に、お藤はそばから手を添えて、
「じぶんで乗りこんで、いいたいことを存分(ぞんぶん)に言ってやるがいいのさ。今からあたしが案内してあげよう!」
 一石二鳥。源十郎への復讐にお艶を逃がし、左膳への意趣(いしゅ)返しには弥生のいどころを知ったお藤、ひそかに何事か胸中にたたんで、わななくお艶をいそがせて庭に立ったが、まもなく化物屋敷の裏木戸から、取り乱した服装の女性嫉妬(しっと)の化身(けしん)が二つ、あたりを見まわしながら無明の夜にのまれ去ると、あとには、立ち樹の枝に風がざわめき渡って、はなれに唄声(うたごえ)がわいた。

 杯盤狼藉(はいばんろうぜき)酒池肉林(しゅちにくりん)――というほどの馳走でもないが、沢庵(たくあん)の輪切りにくさやを肴(さかな)に、時ならぬ夜ざかもりがはずんで、ここ離庵の左膳の居間には、左膳、源十郎、仙之助に与吉。
 赤鬼青鬼地獄酒宴(じごくしゅえん)の図。
「おいッ! 源十、源的、源の字、ああいや、鈴川源十郎殿ッ! 一献(こん)参ろう」
 左膳、大刀乾雲丸を膝近く引きつけて、玉山崩(くず)れようとして一眼ことのほか赤い。
「す、鈴川源十郎殿、ときやがらあ! しかしなんだぞ、ううい、貴公はなかなかもって手性(てしょう)がいいや、こうつけた青眼に相当重みがある。さそいに乗らねえところがえらい。去水流ごときは畢竟(ひっきょう)これ居合の芸当だな。見事おれに破られたじゃあねえか。あっはっは」
 底の知れない微笑とともに、源十郎は左膳に、盃(さかずき)を返して、
「貴様の殺剣とは違っておれのは王道(おうどう)の剣だ」
 すると左膳は手のない袖をゆすって嘯笑(しょうしょう)した。
「殺人剣即活人剣。よく殺す者またよく活(い)かす……はははは。貴様はかわいやつだよなあ、おれの兄貴だ。ま、無頼の弟と思って、末ながく頼むよ」
 と左膳、源十郎ともにけろりとしている。
 左膳が隻腕の肘(ひじ)をはって型ばかりの低頭(じぎ)をすると、土生仙之助が手をうった。
「そうだ、そうだ! 言わば兄弟喧嘩だ。根に持つことはない」
「へえ。土生の御前のおっしゃるとおりでございます」いつのまにか来て末座につらなっている与吉も、両方の顔いろを見ながら口を出す。
「ただ、このうえは皆様がお手貸(てか)しなすって、丹下の殿様が首尾よくお刀をお納めになるようにと、へえ、手前も祈らねえ日はございません……あっしみてえな三下でも何かお役に立つことがありましたら、申しつけくださいまし」
「うむ」刀痕の深い顔を酒に輝かせて、快然と笑った左膳、「まあ、いいや。話が理に落ちた。しかし、あんな若造の一匹や二匹おれの手ひとつで片のつかねえわけはねえが、総髪ひげむくじゃらの乞食がひとりついている。あいつには、この左膳もいささか手を焼いた」
 と語り出したのは。
 いつぞやの夜、大岡の邸前に辻斬りを働いた節(せつ)。
 おぼえのあるこじき浪人の偉丈夫に見とがめられて、先方が背をめぐらしたところを乾雲を躍らして斬りつけたが、や! 損じたかッ! と気のついた時は、すでに相手は動発して身をかわし、瞬間、こっちの肘に指力を感じたかと思うと、肩の闇黒に一声。
 馬鹿めッ
 と! もう姿は真夜(しんや)の霧に消えていた――。
「あのときだけはおれも汗をかいたよ」
 こう左膳が結ぶと、
「上には上があるものだな」
「へえい! だが、丹下さまより強いやつなんて、ねえ殿様、そいつあまあ天狗(てんぐ)でげしょう」
 などと仙之助と与吉、それぞれに追従(ついしょう)を忘れないが、源十郎は、ひとり杯のふちをなめながら中庭の足音をこころ待ちしている……気を入れかえたお艶が、いまにもあでやかな笑顔を見せるであろうと。
 赤っぽい光を乱して、四人の影が入りまじる。さかずきが飛ぶ。箸が伸びる。徳利の底をたたく――長夜の飲(いん)。言葉が切れると、夜の更ける音が耳をつき刺すようだ。
 左膳は、剣を抱いて横になる。
「お藤はどうした?」
「へえ。さっき帰りました」
「すこし手荒かったかな、ははははは」
 と左膳が虹のような酒気を吐いたとき、おさよの声が土間口(ぐち)をのぞいた。
「殿様、ちょっとお顔を拝借(はいしゃく)……」
 起きあがった源十郎は、
「お艶が待っていると申すぞ。ひとりで眺めずにここへつれて参れ」
 という左膳の揶揄(やゆ)を背中に聞いておさよと並んで母屋のほうへ歩き出した。
 霜に凝(こ)ろうとする夜露に、庭下駄の緒(お)が重く湿(しめ)る。
 風に雨の香がしていた。
「殿様」
「なんだ」
「あの、お艶のことでございますが」
「うん。どうじゃな? 靡(なび)きそうか」
「はい。いろいろといい聞かせましたところが、一生おそばにおいてくださるなら――と申しております」
「そうか。御苦労(ごくろう)。いずれ後から貴様にも礼を取らせる」
「いいえ、そんな――けれど、殿様」
「なんだ?」
「あのう、わたくしはお艶の……」
 いいながらおさよが納戸(なんど)をあけると、一眼なかを見た源十郎、むずと老婆の手をつかんだ。
「やッ! 見ろッ! おらんではないかお艶はッ! あ! 縁(えん)があいとる! に、逃がしたな貴様ッ!」

 関の孫六の鍛刀乾雲丸。
 夜泣きの刀のいわれは、脇差坤竜丸と所をべつにすれば……かならず丑満(うしみつ)のころあいに迷雲、地中の竜を慕ってすすり哭(な)くとの伝奇(でんき)である。
 いまや山川草木(さんせんそうもく)の霊さえ眠る真夜なか。
 この、本所鈴川の屋敷の離室(はなれ)で。
 左膳は、またしてもその泣き声を聞いたのだった。
 妖剣乾雲、いかなる涙をもって左膳に話しかけたか――。
 おどろおどろとして何ごとかを陳弁(ちんべん)する老女のごとき声が、酔い痴(し)れた左膳の耳へ虫の羽音のようにひびいてくる。かれは、隻眼を吊(つ)り開けて膝元の乾雲を凝視した。
 おのが手の脂(あぶら)に光る赤銅の柄(つか)にむら雲の彫り、平糸を巻きしめた鞘……陣太刀乾雲丸は、鍔(つば)をまくらに、やぶれ畳にしっとりと刀姿を横たえて、はだか蝋燭(ろうそく)の赤いかげが細かくふるえている。

 剣精(けんせい)のうったえ。
 それが左膳にはっきり聞こえるのだ。
「血、血、血……人を斬ろう、人を斬ろう」
 というように。
 左膳はにっこりした。が、かれはふしぎな気がした。何故? いままでも左膳はよく深夜に刀の泣き声らしいものをきいたことがあるが、それはいつもきまって若い女のすすりなきだったけれど、今夜のはたしかに老婆の涕泣(ていきゅう)だからだ。
 その愁声(しゅうせい)が、地の底からうめくように断続して左膳の酔耳に伝わると、はっとした彼は、あたりをぬすみ見て乾雲丸を取りあげた。
 源十郎はおさよといっしょにさっき出て行ったきりである。飲食(のみくい)のあとが、ところ狭いまでに散らかったなかに仙之助と与吉はいつしか酔いつぶれて眠っていた。
 深々と更けわたる夜気。
 と、またもや鬼調(きちょう)を帯びた声が……乾雲丸の刀身から?
 左膳は一、二寸、左手に乾雲を抜いてみた。同時に、突き上げられたように起(た)ったかと思うと、彼はすでにその大刀を落とし差しに、足音を忍ばせて庵室の土間に降り立った。
 人は眠りこけている。見るものはない。それなのに左膳は、すばやく懐中を探って黒布を取り出し、片手で器用に顔を包んだ。音のしないように離室を出ると、酒に熱した体に闇黒(やみ)を吹く夜風が快よかった。こうして一個のほそ長い影と化した左膳、乾雲丸を横たえて植えこみづたいに屋敷をぬけてゆく。
 どこへ?
 江戸の辻々に行人を斬りに。
 なんのため?
 ただ斬るため。
 しかし、そのうち雲竜相応じ、刀の手引きで諏訪(すわ)栄三郎に会うであろうと、左膳は一心にそれを念じていたのだったが、いまは斬らんがために斬り、ひたすら殺さんがために殺す左膳であった。
 一対(つい)におさまっていれば何事もないが、番(つがい)を離れたが最後、絶えず人血を欲してやまないのが奇刃(きじん)乾雲である。その剣心に魅(み)し去られて、左膳が刀を差すというよりも刀が左膳をさし、左膳が人を斬り殺すというよりも刀が人を斬り殺す辻斬りに、左膳はこうして毎夜の闇黒をさまよい歩いているのだったが、ちらと乾雲の刃を見ると、人を斬らずにはいられなくなる左膳、このごろでは彼は、夜生温(なまぬる)い血しぶきを浴びることによってのみ、昼間はかろうじていささかの睡眠に神気を休め得るありさまだった。
 が、刀が哭(な)くと聞いたのは、左膳邪心の迷いで、いままでの若い女性の声は納戸のお艶(つや)、今夜の老婆の泣き声は、お艶の代りにそこにとじこめられたおさよの声であった。
 左膳の出て行ったあと。
 納戸では、源十郎がおさよを詰問(きつもん)している。
「どうも俺は、以前から変だとは思っていたが、これ! さよ! 貴様がお艶を逃亡させたに相違ない。いったい貴様はあの女の何なのだ? ううん? いずれ近い身寄りとはにらんでおるが、真直(まっす)ぐに申し立てろッ」
 籠の鳥に飛び去られた源十郎、与力の鈴源と言われるだけあって泣き伏すおさよの前にしゃがんでこうたたみかけた。
「伯母(おば)か、知合いか、なんだ?」
 おさよは弁解も尽きたらしく、もう強情に黙りこくっていると、源十郎は、
「いずれ身体にきいていわせてみせるが、お艶が俺の手に帰るまでは、貴様をここから出すことはならぬ」
 いい捨てて、先に懲(こ)りたものか、今度は板戸に錠をおろして立ち去って行った。きょうまで娘のいた部屋に、その母を幽閉して――。

   文つぶて

 どこか雲のうらに月があると見えて、灰色を帯びた銀の光が、降るともなく、夢のようにただよっている夜だった。
 もう明(あ)け方(がた)にまもあるまい。
 右手の玉姫(たまひめ)神社の方角が東にあたっているのだろう。はや白じらとした暁のいろが森のむこうにわき動いていた。
 人通りのない小塚原(こづかっぱら)の往還(おうかん)を、男女ふたりの影がならんでいそぐ――当り矢のお艶と蒲生泰軒。
 山谷(さんや)の堀はかなり前に渡った。けれど泰軒は足をとめるようすもなく、そしてじぶん達のまえには長いながい道路が夜眼に埃を舞わせて遠く細く走って、末はかすむように消えているのだ……千住(せんじゅ)の里へ。
 歩きなれないお艶は、じゃまになる裾まえをおさえながら、ともすれば遅れがちの足を早めて、われとわが身をいたわるような溜息(ためいき)といっしょに、泰軒へ追いついた。
「ねえ先生、どこまでゆくのでございましょうか。ずいぶん遠うございますねえ。ここはもう江戸ではございますまい?」
 泰軒の笑い顔が振り向いた。
「そうさ。江戸ではない。が、日本のうちだ。安心してついて来なさい。だいたい発足した時から、遠いがええかとわしは念を押したはずだ。夜みちをかけてかわいい男に会いにいこうというのに、そう気の弱いことではしようがないな、ははははは」
「でも――」とお艶はあえいだ。
「でも……なんじゃな?」
「でもね先生、後生ですからうちあけておっしゃってくださいましよ。あの、栄三郎様は、ほんとにその千住の竹の塚とやらにおいでになるのでございますか」
「行ってみりゃあわかる。一番の早道だ」
「そして――そして、おひとりで……?」
「さ、それもこれから寝こみを襲えばすぐわかろう」
 じらすように泰軒が言うと、お艶は情けなさそうにうつむいてかぶっている手拭(てぬぐい)のはしを前歯に噛んだ。
 罪だ……とは思うが、どうせ後から笑いばなしになることと、泰軒は微笑の顔を見せないように先に立つ。
 あとに続くお艶の心中は、嫉妬と不安とはかない喜びにかきむしられて、もつれもつれた麻糸の玉だった。
 櫛まきお藤に手をとられて、本所法恩寺橋まえの鈴川の屋敷をのがれ出てから。
 小一丁も来たかと思うころ、お艶はお藤を見失ってしまった。それはお藤としては、お艶の口から恋がたき弥生のいどころを知って、そのうえ源十郎への意趣晴らしにお艶をつれ出した以上は、もはやお艶は足手まといにすぎないと、そこでさっそく夜の町にまいてしまったのだが、弥生と栄三郎が家を持っている――と聞いただけで、なに町のどこに? ともまだお藤に質(ただ)さなかったお艶は、夜更けの街上にひとりですっかり途方にくれた。
 あの若殿さまにかぎって、まさか!
 と一度は強く打ち消してもみるが、夏の沖に立つ綿雲(わたぐも)の峰のように疑念が、あとからあとからと胸にひろがってはてはどうしても事実としか思えなくなったお艶、栄三郎と弥生を据え置いて面罵(めんば)し、二人を呪(のろ)い殺さなくてはならぬ……と狂乱に浪打つ激しいこころを抱いて、どこをどう歩きまわったものか、やがてわれに返って気がついてみると、吸われるように立ち寄っていたが、あの、思い出すさえ嬉し恥ずかしい首尾(しゅび)の松……。
 おお、そうだ! 泰軒先生におすがりして! と、黒い河水にのまれた三つの小石、暗(やみ)にも白い手が袖口にひらめいて。
 ポトン! ポトンポトン!
 苫(とま)をはぐって一艘の舟から現われた泰軒は、お艶のその後のとらわれの次第、場所、そしてそこに乾雲丸をもつ隻眼隻手の客丹下左膳がひそんでいることなどを話したのち、せきこんで栄三郎様は? とたずねると、泰軒は平然と、かれは田舎(いなか)にいるから二人この足で押しかけよう――こう言っていきなり歩き出したのだった。
 貧乏徳利をさげた乞食と服装(なり)ふりかまわぬ若い女……それは奇妙な道行きであった。
 で。
 さっきから無言に落ちて、あらぬ空想(おもい)に身をまかせていたお艶が、怒りと悲しみに思わず眼を上げて薄明のあたりを見まわすと、
「あれ! あれが仕置(しお)き場(ば)だ」という泰軒の声。
「まあ! こわい……」
「はははは、だから、急ぐとしよう」
 が、泰軒はぴたッと立ちどまって、うしろのお艶をかばうようにかまえた。
 田圃(たんぼ)にはさまれた杉並木(なみき)。
 ほのかに白い道のむこうに、杉の幹にはりついて黒い影がある。
 と、お艶の忘れられない若々しい詩吟の声が、ゆく手の半暗をさいて流れて来た。
「日暮(にちぼ)、帰りて剣血(けんけつ)を看(み)る」
 坤竜丸、夜泣きの脇差の秘告(ひこく)であろうか。
 平巻きの鞘が先へさきへと腰を押すような気がして、ただじっとしていられなかった栄三郎が、明けから江戸の町をあるくつもりで千住街道を影とふたりづれで小塚原の刑場へまで来ると――。
 眼のすみを横切って、ちらと動いたものがある。それが、右に立ち並ぶ木の根を離れたかと思うと、タッタッ! と二足ばかり、うしろに迫る人の気配を感じて、栄三郎は振り返った。
 その時。
 長星。闇黒に飛来して、刃のにおいが鼻をかすめる。来たなッ! と知った栄三郎、とびさがれば斬尖(きっさき)にかかる――ままよ! とかえって踏みこんでいったのが、きっぱりと敵の体に当たって、栄三郎は何者とも知れない覆面の剣手をつかんでいた。
 それが、左腕の片手!
 刀は乾雲丸……きょうが日まで捜しあぐんでいた丹下左膳だ。
「これ! 乾雲だなッ」
「や! 貴様は坤竜! うめえところで会ったな」
 つるぎにかけては狷介不覊(けんかいふき)な左膳、覆面の底で、しんから嬉しそうににたりとする。
 辻斬りの相手を求めて、乾雲丸の指し示すがままに道をこのほうへとってきたのだったが、初太刀をはずされた当の獲物が坤竜丸とわかってみれば!
 もう何も言うことはない。
 七つ刻(どき)。はるかの田の面に低い三日月の薄光を乱して、二つの影がパッ! と一本みちの左右へ。
 呼吸を測って押しあった二人、離れた時は真剣のはずみでとっさに四、五間のへだたりがあった。
 ここで栄三郎は、かぶっていた編み笠を路傍へ捨てて、しずかに愛刀武蔵太郎安国の鞘をはらう。
 濡れ手拭をしぼるように、やんわりと持った柄の手ざわりにも、今宵(こよい)こそ! と思う強い闘志をそそられて、栄三郎の平青眼はおのずと固(かた)かった。
 と、うしろに。
「やわらかに」
 という声がする。ふしぎ! 誰? と振りむこうにも、前方には左膳の隻腕一文字に伸びてツツ……と迫ってくるのだ。乾雲の鋩子(ぼうし)先を一点の白光と見せて。
「汝(うぬ)をどんなに探したことか――ふふふ、運の尽きだ! いくぜ、おいッ」
 蒼白の麗顔に汗をにじませて、栄三郎は無言。
 小ゆるぎもせずに大刀を片手につけた左膳、右に開いた身体にあかつきの微風を受けて、うしろの右足がツウッ! と前の左足のかかとにかかったと見るや、棒立ちの構えから瞬間背を低めて、またもやひだり足の爪さきに地をきざませて這い寄る。それから再びソロソロと右足が……こうして道路を斜めに栄三郎をつめながら、覆面のかげから隻眼が笑う……どうでえ、青二才! あんまりいい気もちはしめえが! というように。
 押されるともなく、追われるでもなく、いつしか片側の松の幹までさがった栄三郎、思わずはっとして気をしめた。
「若殿様! 栄三郎さまッ! お艶が参っております! どうぞしっかりあそばして」
 近いところからこの声が。
 もとより心の迷い、いたずらなから耳――と思った栄三郎だったが、これがかれを渾身(こんしん)からふるいたたせて、つぎの刹那(せつな)、うなりを生じた武蔵太郎安国、左膳の前額を望んで奔駆(ほんく)していた。
 が、余人ではない。左膳だ。
 払うどころか、躍動する刀影を眼前に、さッと乾雲の手もとがおのが胴へ引いたと見るや、上身をそらせて栄三郎の鋭鋒を避けながら、右下からはすに、乾雲、鍔(つば)まで栄三郎を串刺(くしざ)しに。
 と見えたが……。
 虚を斬りさげた武蔵太郎の柄におさえられて、乾雲のさきにいささかの血が走ったのは、余勢、栄三郎の手の甲をかすったのだ。
「うぬッ!」
 と歯を噛(か)む音が左膳の口を洩れる。そこを! 体押しにかかった栄三郎、満身の力をこめて突き離そうとしたが、磐石(ばんじゃく)の左膳、大地に根が生えたように動かない。
 両方からひしッ! と合して、人の字形に静止――つばぜりあいだ。
 近ぢかと寄った乾雲坤竜。
 吐く息がもつれて敵意の炎と燃えあがるのを、並木のかげから二つの顔がのぞいていた。

 雨をはらんだ夜空は低かった。
 窓の下の縞笹(しまざさ)にバラバラと夜露のこぼれるのが、気のせいか雨の音のように聞こえる。
 屋敷町の宵の口はかえって、深更(しんこう)よりものしずかで、いずれよからぬ場所へ通う勤番者(きんばんもの)のやからであろう、酔った田舎(いなか)言葉が声高におもて通りを過ぎて行ったあとは、また寂然(ひっそり)とした夜気があたりを占めて、水を含んだ風がサッと吹きこんでは弥生の枕もとをつめたくなでる。
 弥生は、掻巻(かいまき)の襟を噛むようにしてはげしく咳(せき)入った。
 麹(こうじ)町三番町――土屋多門の屋敷の一間。
 肺の病に臥す弥生の部屋である。
 このごろ人を厭(いと)うて看病(みとり)の者さえあまり近づけない弥生……若い乙女の病室とも思われなく寒々しくとり乱れて、さっき女中が運んで来た夕餉(ゆうげ)の膳にさえまだ箸がつけてない。
 床の中で眼をつぶった弥生が、またしても思うのは――あの諏訪栄三郎さまのこと。
 栄三郎様は、浅草三社まえとかの女と懇(ねんごろ)になさっている。と、それとなく言って叔父多門の口から、手繰(たぐ)りだすようにすべてを知った弥生だったが、それですこしは諦めるかと思った多門の心を裏切って、弥生の愛欲思炎(あいよくしえん)は高まる一方――かてて加えて病勢とみに進んで、朝夕の体熱(ねつ)に浮かされるように口走るのが、やはり栄三郎の名――それは、恋と病に娘ざかりの身を削(そ)がれてゆく、あさましいまでに痩せ細った弥生のすがたであった。
 日々これを眼にする多門の苦しみも大きかったが、そのなかにも一つの悦(よろこ)びといっていいのは、さしも一時は危ないとまでに思われた胸のやまいが、このごろではどうやら持ちなおして、心の持ちようと養生一つでは、肺の悩みも決して不治(ふじ)ではない。不治どころかなおし方さえ知ってみれば、とんとん拍子に快(よ)くなるばかり……という強い信念を、当(とう)の弥生をはじめ多門も持ち得るようになったことだ。

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