丹下左膳
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著者名:林不忘 

 というこの四方八方にゆきとどいたさばきで、源六郎はおもてむきどこまでも百姓の子が乱心したていに仕立てられて、かろうじて罪をのがれ、面倒もなくてすんだのだったが、後の八代将軍吉宗たる源六郎もちろん愚昧(ぐまい)ではない。天下の大法と紀州の若君との苦しい板ばさみに介(かい)して法も曲げず、源六郎をもそこなわず、自分の役儀も立てたあっぱれな忠相の扱いにすっかり感服して、伊勢山田奉行の大岡忠右衛門と申すは情知(じょうち)兼ねそなわった名判官(はんがん)である。
 と、しっかり頭にやきついた源六郎は、その後、淳和奨学両院別当(じゅんなしょうがくりょういんべっとう)、源氏の長者八代の世を相続して、有徳院(うとくいん)殿といった吉宗公になったとき、忠右衛門を江戸表へ呼びだして、きょうは将軍家として初のお目通りである。
 越前守忠相と任官された往年の忠右衛門ぴったり平伏してお言葉のくだるのを待っていると――。
 しッ、しい――ッ、と側で警蹕(けいひつ)の声がかかる。
 と、濃(こ)むらさきの紐が、葵(あおい)の御紋散しでふちどった御簾(みす)をスルスルと捲きあげて、金襴(きんらん)のお褥(しとね)のうえの八代将軍吉宗公を胸のあたりまであらわした。
 裃(かみしも)の肘を平八文字に張って、忠相のひたいが畳にすりつく。
 お声と同時に、吉宗の膝が一、二寸刻み出た。
「越前、そのほう、余を覚えておろうな?」
 はっとした忠相、眼だけ起こして見ると、中途にとまった御簾の下から白い太い羽織の紐がのぞいて……その上に細目(こまかめ)をとおして、吉宗の笑顔がかすんでいた。
 むかし、山田奉行所の白洲の夜焚き火のひかりに、昂然(こうぜん)と眉をあげた幼い源六郎のおもかげ。
 忠相の眼にゆえ知らぬ涙がわいて手を突いている畳がぽうっとぼやけた。
 が、かれはふしぎそうに首をひねった。
「恐れ入り奉りまする――なれど、いっこうわきまえませぬ」
 すると吉宗、何を思ったか、いきなり及(およ)び腰に自ら扇子(せんす)で御簾をはねると、ぬっと顔を突き出した。
「越前、これ、これじゃよ。この顔だ。存じおろうが」
 忠相は、下座からその面をしげしげ見入っているばかり……じっと語をおさえて。
 引っこみのつかない将軍がいらいらしだして、お小姓はじめ並みいる一同、取りなしもできず度を失ったとき、
「さようにござりまする」
 憎いほど落ちつき払った越前守の声に、お側御用お取次ぎ高木伊勢守などは、まずほっとしてひそかに汗のひくのを感じた。
「うむ。どうだな?」
「恐れながら申しあげまする――上(かみ)には、よほど以前のことでございまするが、忠相が伊勢の山田奉行勤役中、殺生厳禁(せっしょうげんきん)の二見ヶ浦へ網を入れました小俣(おまた)村百姓源兵衛と申す者の伜、源蔵という狂人によく似ていられまする」
 狂者にそっくりとはなんという無礼!
 と理由を知らない左右の臣がささやき渡ると、
「そうか。源蔵に似ておるか」
 にっこりした吉宗、御簾の中から上機嫌に、
「小俣村の源蔵めも、そのほうごときあっぱれな奉行のはからいを、今さぞ満足に思い返しておるであろう……これよ、越前、こんにちをもって江戸おもて町奉行を申しつくる。吉宗の鑑識(めがね)、いやなに、源蔵の礼ごころじゃ。このうえともに、な、精勤(せいきん)いたせ。頼むぞ」
「はっ、おそれ入り――」
 と言いかけた忠相のことばを切って、音もなく御簾がおりると、そそくさと立ちあがる吉宗の姿が、夢のようにすだれ越しに見えたのだったが……。
 かつて自分が叱りつけた源六郎さま。
 それがもうあんなりっぱに御成人あそばされて――お笑いになる眼だけがもとと変わらぬ。
 ほほえみと泪(なみだ)。
 すり足で退出するお城廊下の長かったことよ。
 あの日、大役をお受けしてからこのかた。
 南町奉行としての自分は、はたして何をし、そして、なにを知ったか?
 思えば、風も吹き、雨も降った。が、いますべてを識りつくしたあとに、たった一つ残っている大きな謎(なぞ)。
 それは、人間である。
 人のこころの底の底まで温く知りぬいて、善玉(ぜんだま)悪玉(あくだま)を一眼見わけるおっかない大岡様。
 たいがいの悪がじろりと一瞥(べつ)を食っただけで、思わずお白洲の砂をつかむと言われている古今に絶した凄いすごいお奉行さまにも、煎(せん)じつめれば、この世はやはりなみだと微笑のほか何ものでもなかった……かも知れない。
 夢。
 ――という気が、忠相はしみじみとするのだった。
 で、うっとりした眼をそばの泰軒へ向けると、会話(はなし)のないのにあいたのか、いつのまにやらごろりと横になった蒲生泰軒、徳利に頭をのせてはや軽い寝息を聞かせている。
 ばっさりと倒れた髪。なかば開いた口。
 強いようでも、流浪(るろう)によごれた寝顔はどこかやつれて悲しかった。
「疲れたろうな。寝ろ寝ろ」
 とひとり口の中でつぶやいた忠相は、急に何ごとか思いついたらしくすばやく手文庫(てぶんこ)を探った。
「こいつ、金がないくせに強情な! 例によって決して自分からは言い出さぬ。起きるとまたぐずぐずいって受け取らぬにきまっとるから、そうだ! このあいだに――」
 忠相が、そこばくの小判を紙に包んでそっと泰軒の袂(たもと)へ押し入れると、眠っているはずの泰軒先生、うす眼をあけて見てにっことしたが、そのまま前にも増して大きないびきをかき出した。
 とたんに、
 庭前を飛んで来たあわただしい跫音(あしおと)が縁さきにうずくまって、息せききった大作の声が障子を打った。
「申しあげます」
「なんだ」さッとけわしい色が、瞬間越前守忠相の顔を走った。

   緑面女夜叉(りょくめんにょやしゃ)

「なんだ騒々しい! 大作ではないか。なんだ」
 忠相(ただすけ)が室内から声をはげますと、そとの伊吹大作はすこしく平静をとりもどして、
「出ました、辻斬(つじぎ)りが! あのけさがけの辻斬り……いま御門のまえで町人を斬り損じて、当お屋敷の者と渡りあっております」
「辻斬り? ふんそうか」
 とねむたそうにうなずいた越前守は、それでも、これだけではあんまり気がなさそうに聞こえると思ったものか、取ってつけるようにいいたした。
「それは、勇ましいだろうな」
「いかが計らいましょう?」
「どれ、まずどんなようすか」
 ようよう腰をあげた忠相が、障子をあけて縁端ちかく耳をすますと、
 月も星もない真夜中。
 広い庭を濃闇(のうあん)の霧が押し包んで、漆黒(しっこく)の矮精が樹から木へ躍りかわしているよう――遠くに提灯の流れて見えるのは、邸内を固める手付きの者であろう。
 池の水が白く光って風は死んでいた。
 ただ、深々と呼吸(いき)づく三更(こう)の冷気の底に、
 声のない気合い、張りきった殺剣(さつけん)の感がどこからともなくただよって、忠相は、満を持して対峙(たいじ)している光景(さま)を思いやると、われ知らず口調が鋭かった。
「曲者は手ごわいとみえるが、誰が向かっておる」
「岩城(いわき)と新免(しんめん)にござりますが、なにぶん折りあしくこの霧(きり)で……」
「門前――と申したな。斬られた者はいかがいたした?」
「商家の手代風(てだいふう)の者でございますが、この肩さきから斜めに――いやもう、ふた目と見られませぬ惨(むご)い傷で……」
「長屋で手当をしてつかわしておりますが、所詮(しょせん)助かりはすまいと存じまする」
 言うまも、剣を中に気押し合うけはいが、はちきれそうに伝わってくる。
「無辜(むこ)の行人をッ! 憎いやつめ! しかも大岡の屋敷まえと知っての挑戦であろう」
 太い眉がひくひくとすると、忠相は低く足もとの大作を疾呼(しっこ)した。
「よし! いけッ! 手をかしてやれ、斬り伏せてもかまわぬ」
 そして、柄をおさえて走り去る大作を見送って、しずかに部屋へ帰りながら、血をみたような不快さに顔をしかめた忠相は、ひとり胸中に問答していた。
 このけさ掛け斬りの下手人が、左腕の一剣狂であることは、自分は最初から見ぬいていた。それをさっき泰軒に、やれ左ききであろうの、数人に相違ないのと言ったのは、泰軒といえども自分以外の者である以上、あくまでも探査の機密を尊(たっと)んでおいて、ただそれとなくその存意をたぐり出すために過ぎなかったのだが――。
 なかでは、泰軒が帯を締めなおしていた。
 天下何者にも低頭(ていとう)しないかれも、大岡越前のためにはとうから身体を投げ出しているのだ。
「聞いたぞ、おれが出てみる」
「よせ!」忠相は笑った。
「貴様に怪我(けが)でもされてはおれがすまん」
「なあに、馬鹿な」
 一言吐き捨てた泰軒は、
「帰りがけにのぞくだけだ……では、また来る」
 と、もう闇黒(やみ)の奥から笑って、来た時とおなじように庭に姿を消すが早いか、気をつけろ! と追いかけた忠相の声にもすでに答えなかった。
 無慈悲の辻斬り! かかる人鬼の潜行いたしますのも、ひとえに忠相不徳のなすところ――と慨然(がいぜん)と燈下に腕をこまぬく越前守をのこして、陰を縫って忍び出た泰軒が、塀について角へかかった時!
 ゆく手の門前に二、三大声がくずれかかるかと思うと、フラフラと眼のまえに迷い立った煙のような人影?
 ぎょッ! として立ちどまったのをすかし見ると、長身痩躯(そうく)、乱れた着前(まえ)に帯がずっこけて、左手の抜刀をぴったりとうしろに隠している。
「せっかく生きとる者を殺して、何がおもしろい?」
 泰軒の声は痛烈なひびきに沈んだ。
「うん? 何がおもしろい? お前には地獄のにおいがするぞ」
「…………」
 が、相手は黙ったまま、生き血に酔ったようによろめいてくる。刀の尖(さき)が小石をはじいてカチ! と鳴った。
「おれとお前、見覚えがあるはずだ。さ! 来い! 斬ってみろ俺を」
 こういい放った泰軒は、同時にすくなからず異様な気持にうたれて前方(まえ)をのぞいた。片腕の影がすすり泣いていると思ったのは耳のあやまりで、ケケケッ! と、けもののように咽喉笛(のどぶえ)を鳴らして笑っていたのだった。
「斬れ! どうだ、斬れまいが! 斬れなけりゃあおとなしくおれについて来い」
 悠然と泰軒が背をめぐらした間髪、発! と、うしろに跳剣(ちょうけん)一下して、やみを割った白閃が泰軒の身にせまった。

 垣根に房楊枝(ふさようじ)をかけて井戸ばたを離れた栄三郎を、孫七と割りめしが囲炉裡(いろり)のそばに待っていた。
 千住(せんじゅ)竹の塚。
 ほがらかな秋晴れの朝である。
 軒の端の栗の梢に、高いあおぞらがのぞいて、キキと鳴く小鳥の影が陽にすべる。
「百舌(もず)だな……」
 栄三郎はこういって膳に向かった。そして、
「いかにも田舎(いなか)だ。閑静でいい。こういうところにいると人間は長生きをする」
 と、改めてめずらしそうにまえの広場に大根を並べ乾(ほ)してそれにぼんやりと、うすら寒い初冬の陽がさしているのを眺めていた。
 孫七は黙って飯をほおばっていた。
 鶏が一羽おっかなびっくりで土間へはいろうとして、片脚あげて思案している。
「七五三は人が出ましたろう。神田明神(かんだみょうじん)なぞ――」
 お兼(かね)婆さんが給仕盆を差しだしながら、穂(ほ)をつぐように話しかけると、
「お兼もいっしょに食べたらどうだ? そう客あつかいをされては厄介者の私がたまらぬ」
 と栄三郎はすすめてみたが、お兼も箸をとろうともしなければ、息子の孫七も口を添えないので、三人はそれきり言葉がとぎれて、黒光りのする百姓家のなかに貧しい朝餉(あさげ)の音が森閑(しんかん)と流れた。
 心づくしとはわかっていても、悩みをもつ栄三郎には咽喉(のど)へ通らない食事であった。
 やがて無口の孫七は、むっつりして粗朶(そだ)を刈りに立つ。
 食客(いそうろう)の栄三郎は、いつものようにすぐに野猿梯子(やえんばしご)を登って与えられた自室へ。
 と言っても頭のつかえる天井(てんじょう)うらだ。
 所在なさに横になった諏訪栄三郎。
 思うまいとして眼さきをよぎるのはお艶のすがたであった。
 あの首尾の松の夜。
 闘間(とうかん)にお艶を失った彼は、風雨のなかを御用提灯に追われ追われて対岸へ漕ぎつき、上陸(あが)るとすぐ泰軒とも別れて腰の坤竜丸(こんりゅうまる)を守って街路に朝を待ったが……あかつきの薄光(はっこう)とともに心に浮かんだのが、この千住竹の塚に住むお兼母子のことであった。
 栄三郎が生まれたとき、母の乳の出がわるくて千住の農婦お兼を乳母(うば)として屋敷へ入れた。お兼には孫七という栄三郎と同(おな)い年の息子があったが、それをつれて一つ屋根の下に起き臥(ふ)ししているうちにいつしかお兼は栄三郎を実子のように思い、栄三郎もまたお兼をまことの母のごとくに慕うようになった。これは栄三郎が乳ばなれしてお兼に暇が出たのちもずっとつづいて、盆暮(ぼんく)れには母子そろって挨拶にくるのを欠かさない――いまは息子の孫七があとをとって、自前(じまえ)の田畑を耕し、ささやかながら老母を養っている。
 口重(くちおも)で人のいい乳兄弟の孫七といつまでも自分の子供と思っている乳母のお兼。
 かれらこそはしばらくこの傷ついたこころをかばってくれるであろう……まずさしあたり雨露のしのぎに。
 こう考えて、栄三郎がこの竹の塚の孫七方へ顎(あご)をあずけてからもう何日かたったが、武士には武士の事情があろうと、お兼婆さんも孫七も何にもきかぬし、栄三郎も何もいわなかった。だが、それだけ、ひとりで背負(しょ)わねばならぬ栄三郎の苦しみは、身体があけばあくほど大きかったといわなければならない。
 油じみた蒲団掻巻(かいまき)に包まれて、枕頭の坤竜を撫(ぶ)しながら、かれはいくたび眠られぬ夜の涙を叱ったことであろうか。
 半夜(はんや)夜夢さめて呼ぶお艶の名。
 が、もとより恋の流れに棹(さお)さしていさえすればよい栄三郎ではなかった。若い血のときめきと武門の誓い!
 お艶と乾雲(けんうん)!
 この一つのために他を棄てさることのできないところに栄三郎のもだえは深かったのだ。
 毎夜のように首尾の松の下に立って、河へ石を三つなげて泰軒に会ってはくるが、お艶の行方も乾雲丸の所在(ありか)も、せわしない都にのまれ去って杳(よう)として知れなかった。
 加うるに弥生のこと。
 鳥越の兄藤次郎のこと。
 夜泣きの刀とともに泣く栄三郎の心だった。
 ――裏山のかけひの音が、くすぐるようにごろ寝している栄三郎の耳に通う。かれはむっくりと起きあがって、窓明りに坤竜丸の鞘を払った。
 うすぐらい部屋に、一方の窓から流れこむ陽が坤竜丸の剣身に映えて、煤(すす)だらけの天井に明るい光線(ひかり)がうつろう。
 冬近い閑寂(かんじゃく)な日、栄三郎は、千住竹の塚、孫七の家の二階にすわって、ながいこと無心に夜泣きの脇差を抜いて見入っている。鍔元(つばもと)から鋩子先(ぼうしさき)と何度もうら表を返して眺めているうちに、名匠の鍛えた豪胆不撓(ごうたんふとう)の刀魂が見る見る自分に乗り移ってくるようにおぼえて、かれは眼をあげて窓のそとを見た。
 竹格子(たけごうし)を通じて瑠璃(るり)いろの空が笑っている。
 小猫の寝すがたに似た雲が一つ、はるか遠くにぽっかりと浮かんでいるのが、江戸の空であろう……栄三郎は刀をしまうと、こんどはぽつんと壁によりかかって、眼をつぶって考え出した。
 世の中はすべて思うままにならないことの多いなかに、一ばん自分でどうにでもできそうで、それでいていかんともなし難いものがみずからの心であるような気を、彼はこのごろ身にしみて味わわなければならなかった。
 それはことに、かれが鉄斎先生の娘弥生どのを思いおこすごとに、百倍もの金剛力をもって若い栄三郎を打つのだった。
 嫌いではない。決してきらいではない!
 が、単に嫌いでないくらいのことでは、どうあってもひたすらに心を向けるわけにはいかないところへ、先方から押しつけるように持ってこられると、ついその気もなくはね返したくなるのが男女恋戯(れんぎ)のつねだという。
 栄三郎は弥生を、きらい抜くというのではなかったが、いかに努めても好きになれない自分のこころを彼は自分でどうすることもできなかったのだ。なぜ? ときかれても栄三郎は答え得なかったろうし、ただつとめて好きになる要もなければ、また、なれもしないばかりか、かえってその気もちが負債(おいめ)のように栄三郎をおさえて、それが彼を弥生から離していったのかも知れなかった。
 が、理屈として、
 そこに栄三郎の胸に、三社まえの掛け茶屋当り矢のお艶という女があったがためであることはいうまでもない。武家の娘の生(き)一本に世を知らぬ、そして知らぬがゆえに強い弥生の恋情よりも、あら浪にもまれもてあそばれて寄って来て海草(うみくさ)の花のような、あくまでも受身なお艶という可憐な姿に、栄三郎のすべてをとらえて離さぬきずなの力のあったことは、考えてみればべつにふしぎではなかった。
 そのお艶。
 あの大川の夜、身代りとして舟へ飛びこんだ莫蓮女(ばくれんもの)の口では、お艶は本所の殿様とやらに掠(さら)われたとのことだったが、……どうしてるだろう? こう思うと、栄三郎はいつでもいてもたってもいられぬ焦燥(しょうそう)に駆られて、狂いたつように、手慣れの豪刀武蔵太郎安国をひっつかんでみる。
 しかしその刀と並んでいる坤竜丸を眼にするたびに、かれは何よりも先に一時斬って棄てねばならぬわが心中の私情に気がついて、卒然(そつぜん)として襟を正し肩を張るのだった。
 乾雲丸と坤竜丸!
 剣妖(けんよう)丹下左膳は、乾雲に乗って天を翔(かけ)り闇黒(やみ)に走って、自分のこの坤竜を誘(いざな)い去ろうとしている――それに対し、われは白日坤竜を躍らせ、長駆(ちょうく)して乾雲を呼ぶのだ!
 こうしてはいられぬ!
 恋愛慕情のたてぬきにからまれて身うごきもとれぬとは! 咄(と)ッ! なんたるざまだッ!
 切り離せ! そうだ、左膳を斬るまえにまずお艶への妄念(もうねん)をこの坤竜丸の冷刃で斬って捨て、すっぱりと天蓋無執(てんがいむしゅう)、何ものにもわずらわされない一剣士と化さなくては、とうてい自由な働きは期し得ない!
 百もわかっている。が、やっぱりお艶のうえを思うと、栄三郎は剣を第二にこのほうへ! と心がはやる……それは情智のあらそいであった。
 だが?
 おとなしくしていて養子にでもやられては、お艶も刀もそれきりになってしまう。それではたまらぬと、そこで兄藤次郎にはすまぬと影に手を合わせながら、わざと種々の放埓(ほうらつ)に兄を怒らせて、こうして実家(いえ)へもよりつかずに繋累(けいるい)を断った栄三郎ではないか。
 律気(りちぎ)な兄者人はどんなに怒っていることであろう!
 あの五十両もかわいいお艶のためとはいえ、何もあんなことをしなくてもまともな途(みち)で才覚のつかないわけではなかったが、あれも兄へのあいそづかし――いまも胸底ひそかに兄に詫びてはいるもののそれもこれ、一心を賭して乾坤(けんこん)二刀をひとつにせんがためではなかったか?
 お艶! 恨んでくれるな。今にきっと探しだして助けるから。
 こう低声(こごえ)に口走った栄三郎が、なんとなく再び闘機の近いことをひしと感じて、カッ! と血のさかのぼった眼を見ひらいた時、うらの寺にまのぬけた木魚の音が起こった。
「若様、お茶がはいりましたが――」
 梯子段の中途にお兼婆さんの声がした。

「お艶(つや)や! お艶や」
 と、あたりをはばかる声で、お艶は午後のうたた寝からさめた。
 気がつくと夢を見ていた。
 自分の身が人魚と化して、海底の岩につながれている。青蚊帳(かや)をすかして見るような、紺いろにぼけた世界だった。藻(も)の林が身辺においしげって、ふしぎなことには、その尖端(さき)に一つ一つ果(み)のように人の顔がついていた。源十郎だった。お藤だった。与吉だった。隻眼で、こわい傷のある左膳とかいう侍の首だった。それが四方八方から今にも咬(か)みつきそうに自分をめざして揺れ集まってくる。
 お艶が恐ろしさに身ぶるいして逃げようとしても、昆布(こんぶ)のような物が脚腰(あしこし)にからみついていて一寸も動かれない。懸命に助けを呼んでも、口から大きな泡の玉が立ち昇るだけで、自分の声が自分にも聞こえなかった。
 なんという情けない!……
 と胸を掻きむしって上を仰ぐと、陽の光が斜めに縞のようにぼやけている水面を、坤竜丸を差した栄三郎が泳いでゆく、何度も何度も頭上高く輪をかいて泳ぎまわっているが、おりてはこないし、お艶も浮かびあがれなかった。
 ああ! じれったい!
 あんなにわたしの上をまわっていて、これが見えないのかしら? 見てももう救い出してくださるお気はないのかしら?
 首尾の松の小舟で……あれほど固く誓ったものを!
 人魚になったお艶が源十郎の首にすりよせられて思わず泣き叫ぼうとしたとき、
「お艶! お艶!」
 と呼ぶ声が水の層を通してだんだんはっきりと聞こえてきた。
 あ! 栄三郎さまがおいでくだすった!
「は、はい――お艶はここにおりますッ!」
「お艶」
 という最後の声が耳のそばで大きくひびいたので、お艶がはっと眼をあけてみると……。
 栄三郎ではない――母のおさよが盆に何かのせて来て、しゃがんでいた。
「お艶、お前、好きだったよねえ。お汁粉(しるこ)ができたから持って来たよ。さ、起きておあがり」
 おさよは娘をのぞきこんで、
「お前、なんだかうなされていたようだね」
「ええ、こわい夢……夢でよかった」
 まだぼんやりして上身を起こしたお艶は、ほつれた髪を手早く掻きあげながら、眠りのなかで泣いていたものとみえて、巻いて枕にしていた座蒲団のはしが涙に濡れているのに気がつくと、そっとうしろへかくして悲しく笑った。
 寝起きの頬に赤くあとがついて、男ごころをそそらずにはおかない悩ましさ。
 母と娘、せまい幽室(ゆうしつ)に無言のまま向かいあっている。
 本所(ほんじょ)法恩寺(ほうおんじ)橋まえ鈴川源十郎屋敷の一間(ひとま)である。
 櫛まきお藤のさしがねで、刀渦(とうか)にまぎれ、巧妙にお艶の身柄をさらい出した源十郎は、深夜の往来に辻駕籠(つじかご)を拾ってまんまと本所の家へ運びこんだまではよかったが……。
 いつぞや老下女おさよの話に出た娘というのがこのお艶であろうとは、さすがの源十郎、ゆめにも気がつかなかった。
 駕籠からひきずり出されたお艶を見て、おさよはのけぞるほど愕(おどろ)いたが、そこは年の功、日ごろの源十郎を知っているので、母親ということをさとられずに、かげになりそれとなくお艶の身を守るのが、この際第一の上分別ととっさに考えた。おさよはすばやくお艶に眼くばせしてその意を送り、おもてはあくまでも源十郎の命を大事にすると見せかけて、お艶を奥にあらあらしく監禁(かんきん)しながら、うらへまわっては、母親としてどれだけの切ない心づかいをしなければならなかったろう。運はお艶を見すてず、押しこめられた鬼の窟(あな)にありがたい母の手が待っていたのである。
 奥まった納戸(なんど)。
 くる日も来る日も、お艶にはかびくさい囚(とら)われの朝夕があるだけ――しかしお艶の起居を看視するのはおさよの役だったので、おさよは誰にも疑われずに今のようにそっとお艶の部屋へ忍んでは話しこんで慰(なぐさ)めることも、好きな食物も運び得たのだったが母と娘……とはまだ屋敷じゅうひとりとして見ぬいたものはない。
 酒の場には必ずお艶がひきだされる。
 それでお艶は、窓から見える草間の離室(はなれ)へ、あさに晩にこっそり出入りしている隻眼(せきがん)のお侍が、栄三郎様と同じ作りの陣太刀を佩(は)いていることを知って、なんとかして栄三郎様へしらせてあげたいとは思うが――翼(はね)をとられた小鳥同様の身。
 が、源十郎はあせるだけで、ゆっくりお艶のそばへもよれず、どうすることもできなかった。いつでも口説(くど)きにかかったりしていると、きまって風のようにおさよが敷居に手を突いて、人が来たという。何か御用は? と顔を出す。源十郎は舌打ちするばかりだった。
 いまも、その源十郎のかん走った声が、あし音とともに廊下を近づいてくる。
「さよ! さよ! こらッ、さよはおらぬか」
 たちまち身をすくませるお艶を制して、おさよはあわてて部屋を出た。
「あれ、お母さん! またこっちへ来ますよ。早く行っておさえてください……」
 お艶が隅に小さくなるのを、おさよは、
「いいからお前は黙ってまかせておおきってば!」
 と低声に叱って障子をしめると、おもて座敷をさして廊下を急いだが、そのまも、
「おさよッ!……はて、どこへ行ったあの婆あは?」
 という源十郎の声が、突き刺すように近づいてくる。
 本所の化物屋敷鈴川の家には、午(ひる)さがりながら暗い冷気が鬱(うっ)して、人家のないこのあたりは墓所のようにひっそりしていた。
 小走りに角をまがったおさよ、出あいがしらに源十郎のふところに飛びこんだ。
「なんだ? 婆あか。俺に抱きついてどうする? ははははは、それよりもおさよ、あんなに呼んだのになぜ返事をせん! また、お艶の部屋へ行きおったな」
 源十郎は瞬間太い眉をぴくつかせて、
「どうも変だぞ? 貴様、あの娘となんぞ縁故でもあるのか」
 とおさよをのぞくと、どきりとしたおさよはすぐさま惨(みじ)めに笑いほごした。
「いいえ殿様、とんでもない! ただ若いくせにあんまり強情な娘で、それに殿様がお優しくいらっしゃるので、いい気になりましてねえ、そばで見ていてもはがゆいようでございますから、この婆あがちょくちょく搦手(からめて)から攻めているんでございますよ」
 とおさよはなんとかしてあやなす気でいっぱいだ。
「そうか。おれも荒いことは好まんから恥ずかしながらあのままにしてあるが……まま貴様、なにぶん頼む。じっくり言いきかせてくれ」
「ええええ。そうでございますよ。いまはまだ本人も気がたっておりますから、殿様の御本心もなかなか通じませんけれど、あれでねえ、とっくりと損得を考えますれば、ほほほ、いずれ近いうちには折れて出ましょうとも」
 うそも方便とはいえ、現在の母たるものがなんたる! と思えばおさよも心中に泪をのまざるを得なかった。
「それにねえ殿様、あんな堅いのに限って――得てあとは自分からうちこんで参るものだとか申しますから、まあ、この婆あにまかせて、お気を長くお持ち遊ばせ」
 源十郎は上機嫌、廊下の板に立ちはだかって、襟元からのぞかせた手でしきりと顎をなでては、ひとり悦に入りながら、
「うむ、そういうものかな、はははは、いや、大きにそうであろう。おれは何も、あれを一時の慰(なぐさ)み物にするというのではないのだ」
「それはもう……わたくしも毎日よっく申しきかせておりますんでございますよ、はい」
「と申したところで、水茶屋では公儀へのきこえもあることだからとても正妻(せいさい)になおすというわけにはいかんが、一生その、なんだな、ま、妾(めかけ)ということにしてだな、そばへおいて寵愛(ちょうあい)したいと思う」
 と源十郎は、口から出まかせにさもしんみりとして見せるが、一生そばへおいて――と聞いて、貧窮(ひんきゅう)のどん底から下女奉公にまで出ているおさよの顔にちらりと引きしまったものが現われた。
「殿様」
「なんだ? 改まって……」
「ただいまのおことば、ほんとうでございましょうね?」
「はてな! おれが、何かいったかな」
「まあ! 心細い! それではあんまりあの娘(こ)がかわいそうではございませんか」
「なんのことだ? おれにはわからん」
「一生おそばにおいて――とおっしゃった……あれは御冗談でございましょう?」
 源十郎は横を向いて笑った。
「なんの! 冗談をいうものか。いやしくも人間一匹の生涯を決めるに戯(たわむ)れごとではかなうまい。真実おれはあのお艶をとも白髪(じらが)まで連れ添うて面倒を見る気でおる。これは偽りのない心底(しんてい)だ」
 もし事実そうなったら、お艶のためにも自分のためにも……とっさに思案する老婆さよの表情(かお)に、いっそのこと、ここでお艶に因果(いんが)をふくめて思いきって馬を鹿に乗りかえさせようかと、早くも真剣の気のみなぎるのを、源十郎はいぶかしげに見守った。
「さよ、貴様、あれのことというといやにむきになるな」
「いえいえ! け、決してそんなことはございません!」おさよはどぎまぎして、「ただ、あのただ、わたくしにもちょうど同じ年ごろの娘があるもんでございますから、つい思い合わせまして、あのお艶が……いえ、お艶さんが一生お妾にでもあがるようなことになりましたら、さぞ楽をするであろうと――」
「そうだ。本人のためはいうにおよばず、もし血につながるものがあったら、父なり母なり探し出して手厚く世話をしてやるつもりだから、内実は五百石の後室とそのお腹だ。まず困るということはないな」
 こう源十郎がいいきると、おさよは思わずとりすがるように、
「殿様ッ! それはあの、御本心でございますか」
 すると源十郎、
「な、何を申す! 武士に二言のあろうはずはないッ!」
 といい気もちにそり返りざま、両刀をゆすぶるつもりで――左へ手をやったが、生憎(あいにく)丸腰。
 で、何かいい出しそうにじッ! とおさよを見すえた刹那(せつな)! 裂帛(れっぱく)の叫び声がどこからともなく尾をひいて陰々たる屋敷うちに流れると……。
 源十郎とおさよ、はた! と無言の眼を合わせた。

 と! またしても声が――
 ヒイッ……という、思わず慄然(ぞっ)とする悲鳴はたしかに、女の叫びだ!
 それが、井戸の底からでも揺れあがってくるように、怪しくこもったまま四隣(あたり)の寂寞(せきばく)に吸われて消える。
 源十郎は委細承知らしく、にが笑いの顔をおさよへ向けた。が、口にしたのはやはりお艶のことだった。
「では、さよ、貴様もあの娘の件にはばかに肩を入れておるようだが、いずれそこらの曰(いわ)くはあとで聞くとして――」
「いえ。曰くも何もございません。わたくしは先へ話をするつごうもあり、それにつけても何より大事な殿様のお心持をしっかり伺(うかが)っておきたいと存じましただけで……それも今度はよくわかりましてございます。はい。ほんとにお艶さんはしあわせだ」
 と、正直一図のおさよは、だんだん源十郎に感謝したい気になってきた。
「うむ、まあ、そういったようなものだが」
 狡猾(こうかつ)な笑(え)みをひそめた源十郎、つづけざまにうなずいて、
「いつまでも立ちばなしでもあるまい。近くゆっくりと談合して改めて頼むつもりでおる」
「頼むなどとは、殿様、もったいのうございます! わたしこそお艶に代わって……」
 言いかけて、おさよがあわてて口をつぐむのを、源十郎は知らん顔に聞き流して声を低めた。
 言うところは、こうである。
 あの、女のさけび声。
 あれは、狂暴丹下左膳が、離室(はなれ)で櫛まきお藤を責め苛(さいな)んでいるのだという。
 そう聞けば、おさよにも思いあたる節(ふし)があった。
 源十郎がお艶の駕籠をかつぎこませた暴風雨(あらし)の晩、夜更(よふ)けて、というよりも明け方近く、庭口にあたってただならぬ人声を耳にしたおさよが、そっと雨戸をたぐってのぞくと、濡れそぼれた丹下左膳、土生(はぶ)仙之助の一行が、ひややかに構えたお藤を憎さげにひったてて、今や離室の戸をくぐるところだったが――。
 それからこっち、お藤は浅草の自宅(いえ)へも帰されずに、離室からは毎日のように左膳の怒号(どごう)にもつれてお藤の泣き声が洩(も)れているのだ。
 事ありげなようす! とは感じたが、もとより老下女などの顔を出すべき場合でないので、気にかかりながらもお艶の身を守る一方にとりまぎれていたけれど、いまとなって心に浮かぶのは。
 あの丹下左膳という御浪人。
 かれは亡夫宗右衛門と同じ奥州中村相馬様の藩士で、自分やお艶とも同郷の仲だが、それがなんでもお刀探索(かたなたんさく)密命を帯びてこうして江戸にひそんでいるとかと、いつかの夜のお居間のそとで立ち聞いたことがある。
 道理で、辻斬りが流行(はや)るというのにこのごろはなお何かに呼ばれるように左膳は夜ごとの闇黒(やみ)に迷い出る――もう一口(ひとふり)の刀さがしに!
 しかるに!
 源十郎にないしょにお艶のもとに忍んで話しこんでいるうちに栄三郎のその後の模様もだいぶ知れたが、お艶の口によると、栄三郎はいま、二本の刀のうち一本をもって、他のひとつを必死に物色しているとのこと。
 さては! と即座に胸に来たおさよだったが、その場はひとりのみこんで何気(なにげ)なくよそおったものの、納戸(なんど)のお艶が、それとなく窓から左膳の出入りをうかがっては、いかにもして栄三郎へしらせたがっていることも、おさよはとうから見ぬいていたから、いよいよ左膳と栄三郎は敵同士(かたきどうし)、たがいに一対の片割れを帯して、その二刀をわが手に一つにしたいと求めあっているに相違ない……これだけのことが、湯気(ゆげ)をとおして見るようにぼんやりながらおさよの頭にもわかっていた。
 ところが今、源十郎はお艶の一生を所望している! おめかけとはいえ、終身奉公ならば奥方同然で老いさきの短い母の自分も何一つ不自由なく往(ゆ)くところへ行けようというもの。それに、お艶の素性(すじょう)が知れて武家出とわかれば、おもてだって届けもできれば披露(ひろう)もあろう。
 そうなれば、かわいいお艶の出世とともに、自分はとりもなおさず五百石の楽隠居!――と欺(だま)されやすいおさよは、頭から源十郎のでたらめを真に受けて、ここは一つ栄三郎への手切れのつもりで、何よりもそのほしがっている一刀を、追って殿様の源十郎に頼んで、左膳から奪って下げ渡してもらおう……おさよはさっそくこう考えた。
 母の庇護(ひご)があればこそ、これまで化物屋敷に無事でいたお艶! その母の気が変わって、今後どうして栄三郎へ操(みさお)を立て通し得よう?
 人身御供(ひとみごくう)の白羽の矢……それはじつに目下のお艶のうえにあった。
 が、源十郎よくおさよの乞いをいれて、左膳と乾雲丸(けんうんまる)とを引き離すであろうか。
 ――思案に沈んでおさよが、耳のそばに、
「お藤が、おれに加担(かたん)してお艶をかどわかしたために、刀をうばいそこねたといってな、左膳め、先日から猛(たけ)りたっておるのだから、そのつもりで年寄り役にとりしずめてくれ」
 という源十郎の声でわれに返ると、膝までの草を分けていつのまにかもう離室(はなれ)のまえ。
 カッ! とただよう殺気をついて左膳の罵声がする。
「うぬッ! 誰に頼まれてじゃまだてしやがった? いわねえか、この野郎ッ……!」
 つづいて、ぴしり! と鞭でも食わす音。
「ほほほほ、お気の毒さま! 野郎はとんだお門(かど)ちがいでしたねえ」
櫛まきお藤はすっかりくさっているらしい。
「やいッ! 汝(うぬ)あいってえなんだって人の仕事に茶々(ちゃちゃ)を入れるんだ? こらッ、こいつッウ!……てッ、てめえのおかげで、奪(と)れる刀もとれなかったじゃねえかッ! な、なんとか音を立てろいッ音を!」
「ほほほ、音を立てろ――だと! 八丁堀(はっちょうぼり)もどきだね」
「なにいッ!」
 咆吼(ほうこう)する左膳、棕櫚(しゅろ)ぼうきのような髪が頬の刀痕にかぶさるのを、頭を振ってゆすりあげながら、一つしかない眼を憎悪に燃やして足もとのお藤をにらみすえた。
 細松の幹を思わせる、ひょろ高い筋骨、それに、着たきり雀(すずめ)の古袷(あわせ)がはだけて、毎夜のやみを吸って生きる丹下左膳、さらぬだに地獄絵の青鬼そのままなところへ――左手に握った乾雲丸を鞘(さや)ぐるみふりあげるたびに空(から)の右袖がぶきみな踊りをおどる。
 せまい六畳の部屋。
 源十郎の父宇右衛門は、老後茶道でも楽しんで、こころしずかに余生を送るつもりで建てた離庵(はなれ)であろうが星移りもの変わるうちに、それがどうだ! 荒れはてて檐(のき)は傾き、草にうずもれて、しかも今は隻眼片腕の狂怪丹下左膳が、憤怒(ふんぬ)のしもとをふるって女身を鞭うつ責め苦の庭となっているのだ。
 くもり日の空は灰色。
 本所もこのへんは遠く家並みをはずれて、雲の切れ目から思い出したように陽が照るごとに、淡い光が横ざまにのぞいては、仁王立ちの左膳の裾とそれにからまるお藤を一矢彩(いろど)ると見るまに、すぐまたかげってゆくばかりで、前の法恩寺橋を渡る人もないらしく、ひっそりとして陽(ひ)あしの早い七つどきだった……。
 夜具や身のまわりの物を片隅に蹴こんだ寒ざむしい室内。わずかにとった真ん中の空所(あき)に、投げつけられたような櫛まきお藤の姿がふてぶてしくうつぶしていた。
 ぐるりと四、五人男が取り巻いている。
 土生(はぶ)仙之助、つづみの与吉(よきち)などの顔がそのなかに見られたが、みな血走った眼を凝(こ)らして左膳とお藤を交互に眺めているだけで言葉もない。
 たださえ痩せほうけた丹下左膳、それが近ごろの夜あるきで露を受け霜に枯れて、ひとしお凄烈(せいれつ)の風を増したのが、カッ! と開いた隻眼に残忍な笑いを宿したと思うと、
 またもや!
「おいッ! なんとか言えい! 畜生ッ、こ、これでもいわねえか! うぬ、これでも……ッ!」
 と、わめくより早く、乾雲の鞘尻弧(こ)を切ってはっし! お藤の背を打ったが――。
 アッ! と歯を噛んで畳を抱いたきり――お藤は眠ったように動かない。
 水のような薄明の底にふだん自慢の櫛まきがねっとりと流れて着ている物のずっこけたあいだから、襟くび膝頭と脂(あぶら)ののりきった白い膚が、怪異な花のように散り咲いているぐあい、怖ろしさを通りこして、観(み)ようによっては艶(えん)な情景だったのだろう、両手を帯へ突っこんだ土生仙之助は、舌なめずりをしながらそうしたお藤の崩態(ほうたい)にあかず見入っていたが、つづみの与吉は眼をそむけて……といってとりなす術(すべ)もなく、ただおろおろするばかりだった。
 この、毎日の責め折檻(せっかん)。
 それが、きょうも始まったところだ。
 なんのため!
 ほかでもない――あの首尾の松の下に乱闘の夜、左膳が栄三郎へ斬りつけた刹那に、櫛まきお藤がお艶をよそおって小舟へとんだため、栄三郎とあの乞食がすばやくつづいて舟を出してしまった。おかげでもう一歩というところであたら長蛇(ちょうだ)を逸(いっ)したのは、すべてお藤のしわざで、ひっこんでいさえすれば、見事若造を斬り棄てて坤竜丸を収め得たものを! さ、いったい全体だれに頼まれて、あんなところへお艶の身代りにとび出したのだ? はじめからあの場へ水を差して、こっちの手はずをぐれはまにするつもりだったに相違ねえ。ふてえ女(あま)だ。なぶり殺しにしてくれる!
 と左膳はお藤を自室に幽閉して日々打つ殴る蹴るの呵責(かしゃく)を加えているのだが、お藤は源十郎のために、お艶をさらう便宜をはかったにすぎないことは、左膳にもよくわかっていたから、ただひとこと殿様に頼まれて……とお藤が洩らすのを証(あかし)に源十郎へ掛け合うつもりでいるものの、それをお藤は、頑固に口を結んでいっかないわぬ。
 がお藤にしてみれば。
 自分がこんな憂目(うきめ)を見ている以上、今にきっと源十郎が割って出て、万事をつくろってくれるものと信じているのだが、源十郎はお艶のことでいっぱいで、左膳へ橋渡しをすると誓ったお藤との約束はもちろん、いまのお藤のくるしみも見てみぬふり、聞いて聞かぬ顔ですぎてきたのだった。
 ほれた弱味――でもあるまいが江戸の姐御(あねご)だ。左膳を見あげたお藤が、ひとすじ血をひいた口もとをにっことほころばせると、一同顔が上がり端(ばた)へ向いた。
 庭へ開いた戸ぐちを人影がふさいでいる。

 例の女物の長襦袢をちらつかせた左膳、乾雲丸を引っさげてつかつかと進みながら、
「なんだ? 源十におさよじゃねえか。てめえたちに用のあるところじゃねえ! なにしに来た?」
 と立ち拡がったが、源十郎はにやり笑ってそっとおさよを突いた。
「さ、老役(ふけやく)には持ってこいだ。な、よろしく謝(あやま)ってやれ」
 ささやかれたおさよ、恐怖に気も顛倒(てんとう)して左膳の顔を見ないように、口のなかでごもごも言ってやつぎばやに頭をさげると、左膳は、「うるせえッ! 婆あの出る幕じゃねえッ」と一喝(かつ)し去って、おさよを越えてうしろの源十郎へ皮肉にからんできた。
「鈴源! 貴様は昼も晩も納戸(なんど)の女にくッついてるんじゃねえのか。珍しいな出てくるとは――どうだ、あの女はお艶と言ったなあ、うまくいったか」
 あざけりつつ、そろりそろりと室内へ引き返す左膳を、源十郎は眼で追って、さもお艶との仲が上首尾らしく、色男ぶった薄わらいをつづけていると、
「おれの女はこれだッ!」
 と、左膳はやにわにお藤を蹴返して、
「こらッ、お藤! 誰のさしがねで刀のさまたげをしたか、それを吐(ぬ)かせ!」
 叫びざま左手に髪を巻きつけて引きずりまわす――が、この狂乱の丹下左膳に身もこころも投げかけているかのように、お藤は蒼白の顔に歯を食いしばって、されるがまま、もう声を立てる気力もないのか、振りほどけた着物をなおそうともしないで、ただがっくりと左膳の脚にとりすがっている。
 この日ごろの打擲(ちょうちゃく)に引きむしられた頭髪がちらばって、部屋じゅうに燃える眼に見えぬ執炎業火(しゅうえんごうか)。
 あまりの態(てい)におさよはすべるように逃げて行ったが、来てみて、思った以上の狼藉(ろうぜき)に胆を消した源十郎、お藤に対してももはや黙っていられないと駈けあがろうとした時!
 阿修羅王(あしゅらおう)のごとく狂い逆上した左膳が、お藤の手をねじあげて身体中ところ嫌わず踏みつけるその形相(ぎょうそう)に! 思わずぎょっとして尻(しり)ごみしていると、陰にふくんだ声が惻々(そくそく)として洩れてきた。
「殿様かい?」
 お藤が、左膳の足の下から、顔をおおう毛髪を通して源十郎へ恨(うら)みの眼光(まなざし)を送っているのだ。
「へん! 殿様がきいてあきれらあ! あたしの念(おもい)を届けてやるからそのかわり隙(すき)をうかがってお艶と見せて舟へ転げこんでくれ――あとのことは悪いようにはしないから、なんてうまいことを言ったのはどこの誰だい」
 源十郎はあわてた。
「これお藤、貴様、のぼせて、何をとりとめもないことを……」
「だまれッ、源十!」
 がなりつけたのは左膳だった。同時に、髪をつかんでお藤を引き起こすと、痛さにあまったお藤は左膳をあおいで悲叫(ひきょう)した。
「よしてください頭だけは! あたしゃお前さんにどうされようと首ったけなんだからね、それゃあ殺すというなら殺されもしようさ。えええ、りっぱに殺されましょうともさ! けど、ちっとでもかわいそうだと思ったら、ねえ丹下様、後生(ごしょう)だからすっぱり斬って、こんな痛いめにあわせないで、あたしも櫛まきお藤だ! あなたのお刀ならいつでも笑って受けましょうよ。だがお待ち、死ぬまえに、あたしにすこし言いぶんがあるんだ」
 と左膳の手を離れて、ふらふらッ! と立ってきたあがり框(がまち)、源十郎の鼻先にべったり崩れて、
「いらっしゃい。おひさしぶりですねえ、ほほほ、その顔! あなたのおかげでお藤もこんなに血だらけになりましたよ」
 にっこりしたかと思うと、左膳をはじめ一同があっけにとられているまえで、お藤の全身が源十郎を望んでおののきわたった。
「二本(りゃん)をきめたのが殿様なら、目ざしはみんな殿様だ! なんだい! 三社まえでだって、頼む時はあんなに程(てい)のいいことを並べやがってそのために人がひどいめにあってるのに、今度あ知らぬ顔の半兵衛だ! そんなのがお侍かい! ちょッ江戸っ児の風上へもおけやしねえ……」
「姐御、姐御、そう気が立っちゃあ話にならねえ。よ、これあ当家の御前(ごぜん)だ。めったなことを……」
 と与吉が気をもんで耳打ちするのを、左膳が横から突きのけた。
「与の公、ひっこんでろッ!」
「そうだとも!」お藤は血腫(ちば)れのした顔をまわして、「与の公なんざ恐れ入って見物してるがいいのさ……ええ、あたしゃこうなったら言うだけのことはいうんだからね――ねえ、そこの殿様、お前さんに頼まれてお艶さんをさらい出す手助けをしたばっかりに、あたしゃ丹下様に叱られてこの始末さ。でも、いっそ嬉しい! 他人と思えば、よもやねえ、こんなお仕置(しお)きはできますまいもの」
 はっと息づまるなかに、痙攣(けいれん)のような笑(え)みを浮かべた左膳、しずかにお藤をどかせて、きらめく一眼を源十郎の面上に射ながら、隻手はもう血に餓える乾雲丸の鯉口(こいぐち)にかかっていた。
「おい、鈴川……」
 と、たいらに呼びかけた左膳の濁声(だみごえ)には、いつ炸裂(さくれつ)するか知れない危険なものが沈んでいた。
「なあ源的、おれと貴公との仲はきのうきょうの交際ではないはずだ。したがって、いかにおれが一身一命を賭して坤竜丸を狙っておるか貴公、とうから百も承知ではないか、しかるにだ――」
 言いながら土間におりた左膳は、みるみる顔いろを変えて、
「しかるに!」
 と一段調子をはりあげた時は、もう自分とじぶんの激情を没して、一剣魔丹下左膳本然の鬼相をあらわしていた。
「おれに助力して坤竜を奪うと誓約しておきながら、なんだッ! 小婦の姿容(しよう)に迷って友を売るとは? やい源十ッ、見さげはてたやつだなてめえはッ!」
 咬(か)みつくようにどなるにつれて左手の乾雲がカタカタカタと鍔(つば)をふるわす。
 風、地に落ちてはちきれそうな沈黙(しずまり)。
 土生仙之助、お藤、与吉ほか二、三の者は、端(はし)近く顔を並べて、戸口の敷居をまたいだままの源十郎と、それに一間のあいだをおいて真向い立っている左膳とを呼吸(いき)もつかず見くらべているのだった。
 ふところ手の源十郎、一桁(ひとけた)うえをいってくすりと笑った。
「丹下!」と低声。「貴様も、そう容易にいきりたつところを見ると、案外子供だなあ! おれは何も貴様のじゃまをしようと思って企(たく)らんだのではないのだ――」
「やかましいッ! だ、黙って、おれに斬らせてくれ貴様を!」
 左膳、だしぬけに眼を細くしてうっとりとなった。怪刀の柄ざわりが、ぐんぐん胸をつきあげてきて、理非曲直(きょくちょく)は第二に、いまは生き血の香さえかげばいい丹下左膳、右頬の剣創(けんそう)をひきゆがめて白い唇が蛇鱗(だりん)のようにわななく……。
 所を異(こと)にする夜泣きの刀の妄念(もうねん)、焔と化してめらめらとかれの裾から燃えあがると見えた。
 生躍(せいやく)する人肉を刃に断(た)つ!
 毒酒のごときその陶酔が、白昼のまぼろしとなって左膳の五感をしびれさせつつあるのだ。
「き、斬らせてくれ! なあ源公、よう! 斬らせてくれよう、あはははは」
 左膳は、しなだれかかるように二、三歩まえへよろめいた。愕然(がくぜん)! として飛びのいた源十郎。
「わからないやつだな――なるほど、おれはあの晩お艶をひっかついで一足さきに帰った。そりゃあ貴公らと行動をともにしなかったのは、重々おれが悪い。その点はあやまる。な、このとおり、幾重にも詫びる……しかしだなあ丹下、お藤が舟へとびこんで、そのお藤をお艶と見誤って敵が即座に舟へ移って逃げたところで、そ、それはおれの知ったことではないぞ」
 すると、聞いていたお藤が、
「まだあんなことをいってる! 殿様、あなたもずいぶん往生(おうじょう)ぎわが悪いねえ、みんなお前さんのあたまから出たことじゃないか」
 いい出すのを与吉がおさえた。
「姐御! ね、もうようがしょう、殿様も折れてらっしゃる――」
「それ見ろ!」左膳は、勝ち誇った眼をお藤から源十郎へ返して、
「貴様の火事泥(かじどろ)さえなけりゃあ俺はあの夜坤竜を手に入れて、これ、この」と左剣を振り鳴らしながら、
「この刀といっしょにしてやることができたのだ――鈴川、貴様に裏切られようとは思わなかったぞ」
「貴公も執念(しゅうねん)ぶかい男だな。なんにしても過ぎたこと。宜(よ)いではないかもう……」
「そっちはよかろうが、こっちはいっこうよくねえ。おれの執念ではない。刀の執念だ。こ、この乾雲の執念なのだッ!」
「フフン!」源十郎はせせら笑った。「おもしろいな。それで何か、毎夜辻斬りにお出ましになるてえわけか」
 すぱりと吐いた。
 と!
「ぶッ!」面色蒼白の度をました左膳、たちまちぽうっとふしぎな紅潮(あからみ)を呈して、「どうして知っとった?」
「や! とうとう口を割ったな。なに、おおかたそんなところと、ちょっとかまを掛けたんだが、なあ丹下、江戸中の不浄役人がかぎまわっている今評判の逆袈裟(けさ)がけの闇斬り……南町の奉行は、たしか大岡越前とかいう名判官だったけなあ! 恐れながら――とひとことおれが駈けこめば! どうだ! あとは自分で考えてみろッ!」
「ううむ! その前に汝(うぬ)をぶった斬るんだ」
「おれは事は好まん」
「き、斬れるぞ源十! け、乾雲が、斬れきれと泣いておる。この声が貴様に聞こえんか」
「事は好まん……が、やむを得ん!」
 源十郎、土気色(つちけいろ)の微笑を突如与吉へふり向けた。
「座敷からおれの刀を持ってこい!」
 芝生――とは名ばかりの、久しく鎌(かま)を知らない中庭の雑草に腰をおろした左膳、手ぢかの道しばの葉を一本抜きとって、
「これ、見ろ、こいつにこんなにくれが来ている。してみると、二百十日から二十日までのあいだに一つ大暴風雨がくるかな。昔からの言いつたえに間違いはない」
 などとのんきなことをいっていたが、やがて、つづみの与吉がひっ返してきて、こわごわ源十郎に大刀を渡すのを見ると、さすがにすっくと起きあがった。
「では、いよいよやるかな」
 左膳の青眼(せいがん)は薄日(うすび)に笑う。
「源十、死ぬ前にひとこと礼を言わせてくれ」
「死ぬ……とは誰が死ぬのだ?」
「きまってるじゃねえか。てめえが今死ぬんだ――」
「うふふ! 死ぬのは貴様だろう。なんでも言え。聞こう」
「だいぶ長く厄介になったな。ありがてえぞ……これだけだ!」
「ははははは」源十郎の笑声はどこかうつろだった。「鳥のまさに死なんとするやその声悲し。人のまさに死なんとするやその言うところ善(よ)しとかや――おい丹下、貴様ほんとに討合(はたしあ)いを望んでおるのか」
「あたりめえよ!」
 一歩さがった左膳、タタタ! と平糸巻きの鞘を抜きおとして、蒼寒く沈む乾雲丸の鏡身(きょうしん)を左手にさげた。こともなげに微笑(ほほえ)んでいる。
「てめえのおかげで坤竜を取り逃がしたので、おれはともかく、この乾雲が貴様を恨んで、ぜひ斬りてえといってしようがねえのだ。まあ、貴様にしたところで生きていてえつごうもいろいろあろうが、ここは一つ万障(ばんしょう)繰(く)り合わせて俺の手にかかってくれ」
「笑わせてはいかん。どうもあきれるほどしつこいやつだな」
「しつこくなけりゃあできん仕事をしておるでな。われながらゆえあるかなだ。第一、おれの辻斬りを感づいた以上、なんとあっても生かしてはおけん」
「そうか……では! それほどまでに所望なら、鈴川源十郎、いかにもお相手つかまつろう! だがしかし後悔さきに立たず、一太刀食らってから待ったは遅いぞ!」
「何を言やがるッ! 腰抜けめッ! てめえの血が赤えか白いか、それをみてやるんだ。おいッ! 来いよ早く! 往くぞッ、こなけりゃあ――ッ! はっはっは」
 哄笑(こうしょう)とともに伸びてきた乾雲丸の閃鋩(せんぼう)、眼前三寸のところに渦輪を巻いて挑む。
 もはや応(おう)ずるより途(みち)はない! と観念した源十郎、しずかな声だった。
「大人気ない。が、参るぞ丹下ッ! ……こうだッ」
 とうめくより早く、土を蹴散らした足の開き、去水流相伝(きょすいりゅうそうでん)網笠撥(あみがさは)ねの居合(いあい)に、豪刀ななめに飛んでガッ! と下から乾雲を払った。
 引き退いた左膳、流れるままにじわじわと左へ寄ってくる。同時に、源十郎は右へ二、三歩、さきまわりして機を制した。
 暮れをいそぐ陽が二つの剣面を映えて、白い円光が咲いては消える。霜枯れの庭に凄壮(せいそう)の気をみなぎらして。
 仔猫(こねこ)が垣根から両人をのぞいてつまらなそうに草の穂にたわむれているのを、左膳はちらりと見て刀痕をくねらせて――笑ったのだ。
「鈴川」と別人のように軽明な語調。「おれあこうやってる時だけ生きているという気がするのだ。因果(いんが)な性得(しょうとく)よなあ! 貴様が壺を伏せたりあけたりする手つきと、女を連れこむ遣口(やりくち)は見て知っておるが太刀筋は初めてだ。存分に撃ちこんで来いよ!」
 源十郎は無言。
 青眼にとった柄元を心もちおろすと、うしろへ踏みしめた左足の爪先に、思わず力が入って土くれを砕いた。
 双方(そうほう)不動。あごをひいた左膳がかすかに左剣にたるみをくれて、隻眼をはすに棒のように静止したままペッペッと唾を吐きちらしているのは、いつもの癖で、満身の闘志が洩れて出るのだ……。
 どっちも、まさか抜きはすまい。こう思っていたのが、この立合い、飛ばっちりを食ってはたまらぬとお藤と与吉は早々に姿を消して、残っている仙之助も、手をつけかねてうろうろするばかり。
 新影、宝山二流を合(がっ)した去水(きょすい)流。
 法の一字を割って去水(きょすい)と読ませたのだという。
 始祖(しそ)は浅田九郎兵衛門下の都築(つづき)安右衛門。
 鈴川源十郎、なかなかこの去水流をよくするとみえて、剣に先立って気まず人を呑むていの丹下左膳も、みだりに発しない……のかと思っていると、スウッと刀をひいた左膳、やにわにゲラゲラ笑い出した。
「ははは、よせよ。源公! てめえはもう死んでらあ!」

 ふっと笑いやんだ左膳は、あっけにとられている源十郎を尻眼にかけて、
「自分でじぶんの参ったのを知らなきゃ世話あねえ……俺はいま、活眼(かつがん)を開いてこの斬り合いの先を見越したのだ。いいか、おれが乾雲を躍らせて貴様の胴へ打ちこんだ――と考えてみた。と、貴様は峰をかわして見事におさえた。うん、おさえたにはおさえた。がだ、すぐさま俺はひっぱずして貴様の右肩(うけん)を望んで割りつけた、と思ったのが……ははは、りっぱにきまったぞ源十、おれあ貴様の血が虹(にじ)のように飛ぶのを見た。たしかに見たのだ!」
 源十郎はくしゃみをする前のような奇妙な顔をした。
「…………」
「だから貴様はすでに死んだ。おれに斬り殺されたのだ。そこに立っておるのは貴様の亡者だよ。あはははは、戦わずして勝敗を知る。剣禅(けんぜん)一致(ち)の妙諦(みょうてい)だな」
 源十郎も蒼い頬に苦笑を浮かべて、
「勝手なことをいう――」
 と刀をおろした時、周囲をまごまごしていた土生仙之助が仲にはいった。
「同士討ちの機ではござるまい。まま御両所、ここは仙之助に免じておひきください」
 左膳は口を曲げて笑った。
「なんでえ今ごろ! 気のきかねえ野郎だなあ!」
 そして乾雲丸を鞘におさめて、さっさと離庵(はなれ)へはいっていった。
 立ち去ろうとする源十郎を、仙之助がぶらさがるように抱きとめて戸内へつれこむ。
 まもなく手が鳴っておさよが呼ばれたのは、庵室の三人、これから夜へかけて仲なおりの酒盛り……例によってそのうちお艶が引き出されることだろうが――。
 うら木戸のそばに納屋(なや)がある。
 薪(たきぎ)、柴(しば)など積みあげてあるそのかげ。
 昼間でさえ陽がとどかないで、年中しめった木の臭気(しゅうき)がむれている小屋のうしろ。いまは夕ぐれ間近いうそ寒さがほの暗くこめて、上にかぶさる椎(しい)の枝から落葉が雨と降るところに。
 一組の男女。
 櫛まきお藤とつづみの与吉が、地にしゃがんで話しこんでいた。
 お藤は、燃える眼を与吉の口もとに注いで、半纒(はんてん)の裾を土に踏むのもかまわず、とびつくようににじり寄っている。
「それじゃあ何かえ、お前の言うこと、うそじゃあないんだね?」
 その声のうわずっているのに、与吉はびっくりしてあたりを見まわした。
「姐御、そう肝(かん)が高ぶっちゃ話がしにくい。いえね、あっしもよっぽど黙ってようかと考えたんだが、あんまり姐御がかわいそうだから思いきってぶちまけるだけでね、何も姐御にこんな嘘をついたっておもしろおかしくもなかろうじゃありませんか。いえさ、これあただあっしの見当じゃあねえんだ。まあいわば丹下の殿様が白状したようなもんだから、まず動きのねえところでしょうぜ」

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