丹下左膳
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著者名:林不忘 

「はい。ここにおります。――」
 答えかけたお艶の口は、いつのまにか忍んできた手に、途中でうしろからふさがれてしまったが、そのかわりに剣魁(けんかい)丹下左膳の声が、真正面から栄三郎を打った。
「なかなかやるなあ、おい! 手をふけよ、血ですべるだろう」
 栄三郎は、にっと笑って片手がたみに胴(どう)わきへこすった。あとの手が柄へ返る。
 同時に、
 一閃(せん)した左膳の隻腕、乾雲土砂を巻いて栄三郎の足を! と見えたが、ガッシ! とはねた武蔵太郎の剣尾(けんび)に青白い火花が散り咲いて、左膳の頬の刀痕(とうこん)がやみに浮き出た……と思うまに、
「うぬ! しゃらくせえ!」
 おめきたった左膳が、ふたたび虎乱(こらん)に踏みこもうとするとき、空を裂いて飛来した泰軒の舟板が眼前に躍った。
「なんでえ! これあ――」
 と左膳の峰(みね)打ちに、板はまっぷたつに折れて落ちるとたんに!
「舟へ!」
 という泰軒の声。
 見ると、女の影が一つの舟へころがりこむところだ。
 おお! お艶は無事でいてくれた!
 と思うより早く栄三郎も泰軒につづいて舟へとんで、追いすごして石垣から落ちる二、三人の水煙りのなかで、栄三郎がプッツリと艫綱(ともづな)を切って放すと、岸にののしる左膳らの声をあとに、満々たる潮に乗って舟は中流をさした。

 二、三人水中に転落したが、一同とともにあやうく石垣の上に踏みとどまった左膳、
「おい、逃げるてえ法(ほう)があるかッ! この乾雲は汝の坤竜にこがれてどこまでも突っ走るのだ。刀が刀を追うのだからそう思え!」
 と遠ざかる小舟に怒声を送って、あわただしく左右を見まわした時は、どうしたものか、源十郎とお藤の姿はそこらになかった。
 闇黒(やみ)をとかして、帯のように流れる大川の水。
 両岸にひろがる八百八町を押しつけて、雨もよいの空はどんよりと低かった。
 独楽(こま)のように傾いてゆるく輪をえがきながら、三人を乗せた舟は見る見る本流にさしかかる――。
 ギイッ……ギイ! 艪(ろ)べそがきしむ。
 胴のまにあったのをさっそく水へおろして、河風に裾をまかせた泰軒が、船宿の若い衆そこのけの艪さばきを見せているのだった。
「あんたはいい腕だ」
 と栄三郎をかえりみて、
「よく伸びる剣だ。神変夢想(しんぺんむそう)久しく無沙汰をしておるが、根津あけぼのの里の小野塚老人、あれの手口にそっくりだな」
 手拭をぬらして返り血をおとしていた栄三郎、思わず、
「おお! では鉄斎先生を御存じ――」
 せきこんだ声も、風に取られて泰軒へ届かないらしく、
「しかし、あの隻腕の浪人者、きゃつはどうして荒い遣(つか)い手だて」
 泰軒がつづける。
「あんたよりは殺気が強いしそれに左剣にねばりがある。まず相対(あいたい)では四分六、残念ながらあんたが四で先方が六じゃ。ははははは、いやよくいって相討(あいう)ちかな――お! 見なさい。来おるぞ、来おるぞ!」
 言われて、お米蔵の岸を望むと、左膳の乾雲丸であろう。指揮をくだす光身が暉々(きき)として夜陰に流れ、見るまに石垣を這(は)いおりて、真っ黒にかたまり合った一艘の小舟が、艪音(ろおと)を風に運ばせて矢のように漕いでくる。
「来い、こい! こっちから打ちつけてもよいぞ」と哄笑(こうしょう)した泰軒、上身をのめらせ、反(そ)らせ大きく艪を押し出した。
 と、生温い湿気がサッと水面をなでて……ポツリ、と一滴。
「雨だな」
「降って来ました」
 言っているうちに、大粒の水がバラバラと舟板を打ったかと思うと、ぞっと襟元が冷え渡って、一時に天地をつなぐ白布(はくふ)の滝(たき)河づらをたたき、飛沫(しぶき)にくもる深夜の雨だ。
 お艶は? と見ると、舟に飛びこんだ時から舳先(へさき)につっ伏したきり、女は身じろぎもしないでいる。濡れる! と思った栄三郎が、舟尻(とも)の筵(むしろ)を持って近づきながら、
「驚いたろう? 気分でも悪いか。さ、雨になったからこれをきて、もうしばらくの辛抱(しんぼう)だ……」
 と抱き起こそうとすると、
「ほほほほ! なんてまあおやさしい。すみませんねえ、ほんとに」
 という歯切れのいい声とともに栄三郎の手を払って顔をあげたのを見れば!
 思いきや――お艶ではない!
「やッ! だ、誰だお前は?」
「まあ! 怖(こわ)い顔! 誰でもいいじゃないの。ただ当り矢のお艶さんでなくてお気の毒さま」
 櫛まきお藤は白い顔を雨に預けて、鉄火(てっか)に笑った。
「でも、御心配にはおよびますまいよ、今ごろはお艶さんは、本所の殿様の手にしっくり抱かれているでしょうからねえ。ほほほ、身代りに舟へとびこんで、ここまで出てきたのはいいけれど、あたしゃ馬鹿を見ちゃった。この雨さ。とんだ濡れ場(ば)じゃあ洒落(しゃれ)にもなりゃしない……ちょいと船頭さん、急いでおくれな」
 あッ! お艶はさらわれたのだ――栄三郎はよろめく足を踏みこらえて、声も出ない。
 立て膝のお藤、舟べりに頬杖(ほおづえ)ついて、
「ねえ、ぼんやり立ってないで、どうするのさ! あたしが憎けりゃ突くなり斬るなり勝手におしよ――それより、どなたか火打ちを? でも、この降雨(ふり)じゃあ駄目か。ちッ! 煙草(たばこ)一つのめやしない」
 斬ったところで始まらぬ……泰軒と栄三郎が顔を見合わせていると突如! 垂れこめる銀幕をさいて現われた左膳の舟が! ドシン! と横ざまにぶつかるが早いか、抜きつれた明刀に雨脚を払って一度に斬りこんで来た。
 艪(ろ)を振りあげた泰軒、たちまち四、五人に水礼をほどこす。栄三郎にかわされた土生(はぶ)仙之助も、はずみを食って水音寒く川へのめりこんだ。
 沛然(はいぜん)たる豪雨――それに雷鳴さえも。
 きらめく稲妻のなかに、悪鬼のごとき左膳の形相(ぎょうそう)をみとめた栄三郎、
「汝(な)れッ! 乾雲か。来いッ!」
 とおめいたが、妙なことには相手は立ち向かうようすもなく、落ちた連中を拾いあげると、こっちの舟へ一竿つっぱって倉皇として離れてゆく。
 瞬間、蒼い雲光で見ると、騒ぎを聞きつけた番所がお役舟を出したとみえて、雨に濡れる御用提灯の灯が点々と……。
 いつのまに乗り移ったか、櫛まきお藤が去りゆく舟に膝を抱いて笑っていた。
「坤竜、また会おうぜ」
 雨に消える左膳の捨てぜりふ。
「お艶ッ! どこにいる!」
 としみじみ孤独を知った栄三郎が、こう心中に絶叫したとき、泰軒が艪に力を入れて、舟が一ゆれ揺れた。

「いや。先ほどから申すとおり、栄三郎のことなら聞く耳を持ちませぬ――」
 主人はぶっきら棒にこう言って、あけ放した縁の障子から戸外へ眼をやった。
 金砂のように陽の踊る庭に、苔(こけ)をかぶった石燈籠(いしどうろう)が明るい影を投げて、今まで手入れをしていた鉢植えの菊(きく)が澄明(ちょうみょう)な大気に香(かお)っている。
 午下(ひるさが)りの広い家には、海の底のようなもの憂(う)いしずかさが冷たくよどんでいた。
 カーン……カーン! ときょうも近所の刀鍛冶で鎚(つち)を振る音がまのびして聞こえる。
 長閑(のどか)。
 その音を数えるように、主人はしばらく空をみつめていたが、やがてほろにがい笑いをうかべると、思い出したようにあとをつづけた。
「なるほど。それは、わたくしに近ごろまで栄三郎とか申す愚弟(ぐてい)がひとりあるにはありましたが、ただいまではあるやむなき事情のために勘当(かんどう)同様になっておりまして、言わばそれがしとは赤の他人。どうぞわたくしの耳に届くところであれの名をお口へのぼされぬよう当方からお願い申したい」と結んだ主人は、折から縁の日向(ひなた)におろしてある鳥籠に小猫がじゃれているのを見ると、起(た)って行って猫を追い、籠を軒(のき)に吊るしておいて座に帰った。
 諏訪(すわ)栄三郎の兄、大久保藤次郎(おおくぼとうじろう)である。
 あさくさ鳥越(とりごえ)の屋敷。
 その奥座敷に、床ばしらを背に沈痛な面もちで端坐している客は、故小野塚鉄斎の従弟(いとこ)で、鉄斎亡きこんにち、娘の弥生(やよい)を養女格にひきとって、何かと親身に世話をしている麹町(こうじまち)三番町の旗本土屋多門(つちやたもん)であった。
「しかし、その御事情なるものが」藤次郎のしとねになおるのを待ってきり出した多門は、いいかけてやたらに咳ばらいをした。「いや、くわしいことはいっこうに存じませぬが、その、あの、下世話(げせわ)に申す若気のあやまち――とでもいうようなところならば、はっはっは、私が栄三郎殿になりかわってこの通りお詫びつかまつるゆえ、一つこのたびだけはごかんべんのうえ――」
「いやいや、初対面の貴殿におとりなしを受ける筋はござらぬ」
「ま、そう申されてはそれだけのものだが……」
「わざわざ御自身でおいでくだされて、あの痴(うつ)け者を婿養子(むこようし)にとのお言葉さえあるに、恐れ入ったただいまの御仕儀(ごしぎ)。これが尋常(よのつね)の兄じゃ弟じゃならば、当方は蔵前取りで貴殿は地方(じがた)だ。ゆくゆくお役出でもすれば第一にあれにとって身のため、願ってもない良縁と、私からこそお頼み申すところだが、さ、それが兄のわたくしの心としてそうは参らぬというものが、全体この話は、じつを申せば当家の恥、それがしの家事不取締りをさらすようなことながら、さて、いわば御合点(ごがってん)がゆくまいし……心中察しくだされたい」
「はて、栄三郎殿がどのようなことをなされたかな?」
「口にするもけがらわしいが、お聞きくだされ、三社前の茶屋女とかにうつつを抜かし――」
 ちょっと多門の顔色が動いたが、すぐに笑い消して、
「ははははは、何かと思えば、お若い方にはありがちな――貴殿にも、似よった思い出の一つ二つ、まんざらないこともござるまい。いや、これは失礼!」
「のみならず、栄三郎め、その女に貢(みつ)ぐ金に窮して、いたし方もあろうに蔵宿から騙(かた)り盗(と)った! 用人白木重兵衛がそのあとへ行って調べて参りました」
 部屋住みの分け米が僅少なことを察してやれば、ちょいと筆の先で帳面をつくろってすむのに、なんという気のきかない用人だろう! 多門が黙っていると、藤次郎は語をつないで、
「それからこっち、とんと屋敷にもいつきませぬ。先夜も雨中の大川に多人数の斬り合いがあって、船番所から人が出たそうだが、栄三郎もどこにどうしているかと……いや、なんの関係もない者、思ってみたこともござらぬ。はははは」
 多門は思わずうつむいた。
「割ってのお話、よくわかりました。が、それでもなお、私としてはなんとしても栄三郎殿を養子に申し受けたい。というのが……お笑いくださるな」
「なんでござる?」
「その栄三郎の嫁となるべき当方の娘――」
「ははあ、弥生どのとか申されましたな」
「それが命がけの執心で、そばで見ているそれがしまで日夜泣かされます」
「あの、うちの栄三郎めに?」
「仮りにも親となっている身、弥生の心を思いやるといてもたってもおられませぬ。御推量(すいりょう)あってひとこと栄三郎どのを私かたへ――」
「いや。百万言をついやしても同じこと。彼のごとき不所存者を差しあげるなど思いもよりませぬ」
「これほどその不所存者が所望じゃと申しても?」
「いささかくどうはござらぬか。ご辞退申す」
「よろしい! だが、大久保氏、さっき赤の他人といわれたことをお忘れあるまいな、赤の他人なら本人しだいで貴殿にはなんの言い分もないはず」
「むろん、御勝手じゃ!」
 決然と畳を蹴立(けた)てた多門へ、ひしゃげたような藤次郎の声が追いすがった。
「土屋氏!」
「なんじゃ?」
「貴殿栄三郎に会わるるか」
「会うても仔細(しさい)あるまいが!」
「会うたら……おうたら、兄が達者で暮らせといったとお伝えください」
 プイと横を向いた藤次郎の眼に何やら光ったもののあったのを多門は見た。
 夕映えの空に、遠鳴りのような下町のどよめきが反響(こだま)して、あわただしいなかに一抹(いちまつ)の哀愁をただよわせたまま、きょうも暮れてゆく大江戸の一日だった。
 麹町三番町の屋敷まちには、炊(かし)ぎのけむりが鬱蒼(うっそう)たる樹立ちにからんで、しいんと心耳(しんじ)に冴えわたるしずけさがこめていた。
 たださえ、人をこころの故郷(ふるさと)に立ち返らさずにはおかない黄昏(たそがれ)どき……まして、ものを思う身にはいっそう思慕の影を深める。
 うっすらとした水色が、もう畳を這っているのに、弥生はこの土屋多門方の一間(ひとま)に身動きもしないで、灯を入れるしたくをすら忘れて見えるのだった。
 庭前の山茶花(さざんか)が紅貝(べにかい)がらのような花びらを半暗(はんあん)に散らしている。
 ふと顔をあげた弥生は、思いがけない運命の鞭(むち)を、あまりにもつぎつぎに受けたせいであろうか、しばらくのあいだに頬はこけ肩はげっそりと骨ばって、世のけがれを知らなかったつぶらな眼もくぼみ、まるで別人のようないたいたしいすがたであった。
「ああ――」
 思わず洩れる吐息(といき)が、すぐと力ない咳に変わって、弥生は袂(たもと)に顔を押し包んで、こほん! こほん! とつづけざまに身をふるわせた。
 このごろ胸郭(むね)が急にうつろになって、そこを秋風が吹くような気がする。ことに夕方は身もこころも遣瀬(やるせ)なく重い。弥生はいつしか肺の臓をむしばまれて、若木の芽に不治の病(やまい)をはびこらせつつあったのだ。
 心の荷を棄てねば快(よ)くならぬ。
 とそれを知らぬ弥生ではなかったが、思っても、思っても、思ってもなお思いたりない栄三郎様をどうしよう!
 こうして叔父多門方に娘分として引き取られているいま、寸刻も弥生のこころを離れないのは、父鉄斎の横死(おうし)でもなく、乾坤(けんこん)二刀の争奪でもなく、死んでも! と自分に誓った諏訪栄三郎のおもざしだけだった。
 もとより、父の死は悲しともかなしい。そしてその仇敵は草を分けても討たねばならぬ。
 夜泣きの刀も、言うまでもなく、万難を排してわが手へとりもどすべきであるが……。
 その仇を報じ、その宝刀をうばい返してくださるのが、やっぱりあの栄三郎さまではないか。
 強い、やさしい栄三郎さま!
 こう思うと、今この身の上も、もとはと言えば、すべてあの人が自敗を選んだことから――とひややかに理を追ってみても、弥生はすこしも栄三郎を恨む気になれないどころか、ますますかれを自分以外のものとして考えることができなくなるのだった。
 剣に鋭かった亡父(ちち)の気性を、弥生はそのまま恋に生かしているのかも知れない。はじめて男を思う武士の娘には、石をもとかす焦熱慕念(しょうねつぼねん)のほか、何ものもなく、ひとりいて栄三郎さま! と低声(こごえ)に呼べば、いつでもしんみりと泣けてくるのが、自らおかしいほどだった。
 この純情を察して、きょうこっそりと叔父の多門が、鳥越の栄三郎の実家へ養子の掛け合いに行ったことは、弥生もうすうす感づいているが――そのためか、この高鳴る胸はなんとしたものであろう?
 霜に悩む秋草のように、ほっそりとやつれた弥生が、にわかに暗くなったあたりに驚いて、行燈(あんどん)をとりに立とうとした時、ちょうど眼のまえの空に、天井(てんじょう)から糸を垂れて降りてきた一匹の子蜘蛛(こぐも)を見つけた。弥生が懐紙(かいし)で上部を払うと、蜘蛛は音もなく畳に落ちたが、同時に、あわてて逃げようとする。
 夜の蜘蛛は親と思っても殺せ――それとも昼の蜘蛛だったかしら?
 と弥生が迷っているうちに子蜘蛛は、しすましたり! と懸命に這ってゆく。
 その小さな努力が珍しく弥生をほほえませた。
「そんなに急いでどこへ行くのこれ、お前には心配もなにもなくていいね」
 こう言って弥生が往手(いくて)をふさぐと、蜘蛛はすこしためらったのち、すぐ右へ抜けようとする。弥生が右へ手をやる。蜘蛛は左に出ようとあせる。弥生の手が先をおさえる。思案にくれた蜘蛛は、弥生の手にかこまれて神妙にすくんだ。
「ほほほほ、そう! ね、じっとしておいで、じっと!」
 と弥生がさびしく笑ったとき、玄関に駕籠がおりたらしく出迎えの声がざわめいて、まもなく、女中のささげる雪洞(ぼんぼり)が前の廊下を過ぎるとつづいて土屋多門が、用人をしたがえて通りかかった。
 やみに手を突いて頭をさげた弥生の眼にうつったのは、板廊を踏んでゆく白足袋と袴(はかま)の裾だけだったが、わざと弥生に聞かせる気の多門の大声が、しきりにうしろの用人を振り返っていた。
「世にずいぶんと男は多い。しかるに、一人に心をとられて、他が見えぬとは狭いぞ! もしまたそのひとりが水茶屋ぐるいでもしおったらいかがいたす? な、そうであろう。はははは」
「御意(ぎょい)にございます」用人は何がなにやらわからずに答えている。
 はっとして突っ立った弥生は、じぶんの踵(かかと)の下で、いまの蜘蛛がぶつッ! と音がしてつぶれたのを知らなかった。

「大作」
 と次の間へ声をかけながら、大岡越前(おおおかえちぜん)は、きょう南町奉行所から持ち帰った書類を、雑と書いた桐(きり)の木箱へ押しこんで、煙管(きせる)を通すつもりであろう。反古(ほご)を裂いて観世縒(かんぜよ)りをよりはじめた。
 夕食後、いつものようにこの居間にこもって、見残した諸届け願書の類に眼を通し出してから、まださほど刻(とき)が移ったとも思われないのに、晩秋(ばんしゅう)の夜は早く更(ふ)ける。あけ放した縁のむこうに闇黒(やみ)がわだかまって、ポチャリ! とかすかに池の鯉のはねる音がしていた。
 越前守忠相(ただすけ)は、返辞がないのでちょっと襖(ふすま)ごしに耳をそばだてたが、用人の伊吹(いぶき)大作は居眠ってでもいるとみえて、しんとして凝(こ)ったようなしずけさだ。
 ただ遠くの子供部屋で、孫の忠弥(ちゅうや)が乳母に枕でもぶつけているらしいざわめきが、古い屋敷の空気をふるわせて手に取るように聞こえる。
「小坊主め、また寝しなにさわぎおるな」
 という微笑が、下ぶくれの忠相の温顔を満足そうにほころばせた時、バタバタと小さな跫音(あしおと)が廊下を伝わってきて、とんぼのような忠弥の頭が障子のあいだからおじぎをした。
「お祖父(じい)ちゃま、おやすみなちゃい」
 忠相が口をひらく先に、忠弥は逃げるように飛んで帰ったが、その賑(にぎや)かさにはっとして隣室につめている大作が急にごそごそしだすけはいがした。
「大作、これよ、大作」
「はッ」
 と驚いて大声に答えた伊吹大作、ふすまを引いてかしこまると、大岡越前守忠相はもうきちんと正座して書台の漢籍(かんせき)に眼をさらしている。
「お呼びでござりますか」
「ああ。わしにかまわずにやすみなさい」忠相の眼じりに優しい小皺(こじわ)がよる。「わしはまだ調べ物もあるし読書もしたい……だがな、大作――」
 と肥った身体が脇息(きょうそく)にもたれると、重みにきしんでぎしと鳴った。
「さきほど役所で見ると、浅草田原町三丁目の家主喜左衛門というのから店子(たなこ)のお艶、さよう、三社まえの掛け茶屋当り矢のお艶とやら申す者の尋(たず)ね書が願い立てになっておったが、些細(ささい)な事件ながら、越前なんとなく気にかかってならぬ。いや、奉行の職義から申せば市井(しせい)の瑣事(さじ)すなわち天下の大事である。そこで大作、この婦人の失踪に関連して何ごとかそのほうに思いあたる節(ふし)はないかな?」
「さあ、これと申してべつに……」
 大作は面目なさそうに首をひねった。すると忠相は何かひとくさり低音に謡曲(うたい)を口ずさんでいたが、やがて気がついたようになかば独(ひと)りごちた。
「――あの櫛まきのお藤と申す女、かれはもと品川の遊女で、のち木挽(こびき)町の芝居守田勘弥(かんや)座の出方(でかた)の妻となったが、まもなく夫と死別し、性来の淫奔大酒(いんぽんたいしゅ)に加うるにばくちを好み、年中つづみの与吉などというならずものをひきいれて、二階は常賭場(じょうとば)の観を呈しておることはわしの耳にもはいっておる。それのみではない。ゆすり騙(かた)りとあらゆる悪事を重ねて、かれら仲間においても、なんと申すか、ま、大姐御(おおあねご)である。それはそれとして、このお藤は、先年来十里四方お構いに相成りおるはずなのが、目下江戸府内(ふない)に潜入しておる形跡(けいせき)があると申すではないか」
 いつものことだが、主君越前守の下賤(げせん)に通ずる徹眼(てつがん)、その強記にいまさらのごとくおどろいた大作、恐縮して顔を伏せたまま、
「おそれながら例によって墓参を名とし、ひそかにはいりこみおるものかと存ぜられまする」
「さよう。まずそこらであろう……が、お藤が江戸におるとすれば、このたび喜左衛門店のお艶なる者が誘拐されたこととなんらの関係が全然(まるで)ないとは思えぬ。ま、これは、ほんのわしのかんにすぎんが、今までもお藤には婦女をかどわかした罪条(ざいじょう)が数々ある。してみれば、わしのこの勘考も当たらずといえども遠からぬところであろう。な、そち、そう思わぬか」
「お言葉ごもっともにござりまする。なれど、同心をはじめ江戸じゅうの御用の者ども、何を申すにもただいまはあの辻斬りの件に狂奔(きょうほん)しておりまして――」
 大作がこう申しあげて顔色をうかがうと、前面の庭面を見つめてふっと片手をあげた大岡越前、事もなげに大作を振り返って、
「評判の袈裟(けさ)掛けの辻斬りか……うむ、もうよいから引き取りなさい。わしも寝所へ入るとしましょう」
 と言ったが立ちあがりもしない。
 府内を席捲(せっけん)しつつある袈裟掛けの闇斬(やみぎ)り!
 それよりも、なにか庭に、自分に見えない物が、主人の瞳にだけうつるらしいのが大作には気になったが、ほとんど命令するような忠相の口調におされて、平伏のままかれは座をさがったのだった。

 用人の伊吹大作が唐紙に呑まれて、やがて跫音の遠ざかるのを待っていた忠相は、灯(あか)りを手に、つとたちあがって縁に出ると、庭のくらがりを眼探(まさぐ)って忍びやかに呼びかけた。
「蒲生(がもう)か――泰軒(たいけん)であろう、そこにいるのは」
と、沓脱(くつぬ)ぎから三つ四つむこうの飛び石の上に、おなじく低い声があった。
「何やら役向きの話らしいから遠慮しておった。じゃまならこのまま帰る」
いい捨てて早くもきびすを返そうとするようすに、忠相はあわてて、
「遠慮は貴様の柄でないぞ、ははははは、なにじゃまなものか。ひさしぶりだ。よく来たな。さ、誰もおらん。まあ、こっちへあがれ」
 満腹の友情にあふれる笑い口から誘われて、ぬっと手燭(てしょく)の光野へ踏みこんできた人影を見ると……つんつるてんのぼろ一枚に一升徳利。
 この夜更けに庭からの訪客はなるほど蒲生泰軒をおいてあり得なかった。
 泥足(どろあし)のまま臆(おく)するところもなく自ら先に立って室内へ通った泰軒居士(こじ)、いきなり腰をおろしながらひょいと忠相の書見台をのぞいて、
「なんだ? なにを読みおる? うむ、旱雲賦(かんうんぷ)か。賈誼(かぎ)の詩だな――はるかに白雲の蓬勃(ほうぼつ)たるを望めば……か、あははははは」
 とこの豁達(かったつ)な笑いに忠相もくわわって、ともに語るにたる親交の醍醐味(だいごみ)が、一つにもつれてけむりのように立ちこめる。
 裾をたたいて着座した南町奉行大岡越前守忠相。
 野飼いの奇傑(きけつ)蒲生泰軒は、その面前にどっかと大あぐらを組むと、ぐいと手を伸ばして取った脇息を垢(あか)じみた腋(わき)の下へかいこんで、
「楽(らく)だ」
 光沢(つや)のいい忠相の豊頬(ほうきょう)にほほえみがみなぎる。
「しばらくであったな」
「まったくひさしぶりだ」
 で、またぽつんと主客眼を見合って笑っている。多く言うを要しない知己(ちき)の快(こころよ)さが、胸から胸へと靉靆(あいたい)としてただよう。
 夜風にそっと気がついて、忠相は立って行って縁の障子をしめた。帰りがけに泰軒のうしろをまわりながら、
「痩(や)せたな、すこし」
「俺か……」と泰軒は首すじをなで、「何分餌(えさ)がようないでな、はははは。しかし、そういえば、このごろおぬし眼立って肥った。やはり徳川の飯はうまいとみえる」
 越前はいささかまぶしそうに、
「相変わらず口が悪いな。どこにおるかと案じておったぞ」
「どこにもおりゃせん。と同時に、どこにでもおる。いわば大気じゃな。神韻(しんいん)漂渺(ひょうびょう)として捕捉しがたしじゃ――はははは、いや、こっちは病知らずだが、おぬしその後、肩はどうだ? 依然として凝(こ)るか」
「なに、もうよい。さっぱりいたした」
「それは何より」
「互いに達者で重畳(ちょうじょう)」
 ふたりはいっしょにぴょこりと頭をさげあって、哄然(こうぜん)と上を向いて笑った。
 が、泰軒は忠相の鬢(びん)に、忠相は泰軒のひげに、初霜に似た白いものをみとめて、何がなしにこころわびしく感じたのであろう。双方(そうほう)ふっと黙りこんで燭台の灯影に眼をそらした。
 中間部屋(ちゅうげんべや)に馬鹿ばなしがはずんでいるらしく、どっと起こる笑い声が遠くの潮騒(しおさい)のように含んで聞こえる。
 秋の夜の静寂は、何やら物語を訴うるがごとくその縷々(るる)たる烏有(うゆう)のささやきに人はともすれば耳を奪われるのだった。
 対座して無言の主客。
 一は、いま海内(かいだい)にときめく江戸南町奉行大岡越前守忠相。他は、酒と心中しよか五千石取ろかなんの五千石……とでも言いたい、三界(がい)無宿(むしゅく)、天下の乞食先生蒲生泰軒。
 世にこれほど奇怪な取りあわせもまたとあるまい。しかも、この肝胆(かんたん)あい照らしたうちとけよう。ふしぎといえばふしぎだが、男子刎頸(ふんけい)の交わりは表面のへだてがなんであろう。人のきめた浮き世の位、身の高下がなんであろう! 人間忠相に対する人間泰軒――思えば、青嵐(せいらん)一過して汗を乾かす涼しいあいだがらであった。
 とは言え。
 大岡さまの前へ出て、これだけのしたい三昧(ざんまい)……巷の一快豪(かいごう)蒲生泰軒とはそも何者?

   いすず川

「貴様、どこからはいりおった? 例によってまた塀を乗りこえて来たのか」
 忠相(ただすけ)はこう眼を笑わせて、悠然と髯(ひげ)をしごいている泰軒を見やった。
 泰軒の肩が峰のようにそびえる。
「べつに乗り越えはせん。ちょっとまたいできた、はははは甲賀流忍術(こうがりゅうにんじゅつ)……いかなる囲みもわしにとけんということはないて、いや、これは冗談だが、こうして夜、植えこみの下を這ってきて奉行のおぬしに自ままに見参するなんざあ、俺でなくてはできん芸当であろう」
「うむ。まず貴様ぐらいのものかな。それはいいが」
 と越前守忠相の額に、ちらりと暗い影が走ると、かれはこころもち声をおとして、「手巧者(てこうしゃ)な辻斬りが出おるというぞ。夜歩きはちと控えたがよかろう」
 すると泰軒、貧乏徳利を平手でピタピタたたきながら、
「噂(うわさ)だけは聞いた。袈裟掛(けさが)け――それも、きまって右肩からひだりのあばらへかけて斜め一文字に斬りさげてあるそうではないか。一夜に十人も殺されたとは驚いたな。もとより腕ききには相違ないが――」
「刀も業物(わざもの)、それは言うまでもあるまい。武士、町人、町娘、なんでもござれで、いや無残な死にざまなそうな。だが、一人の業(わざ)ではないらしい。青山、上野、札(ふだ)の辻(つじ)、品川と一晩のうちに全然方角を異(こと)にして現われおる。そのため、ことのほか警戒がめんどうじゃ」
「うん。いまも来る途中に、そこここの木戸に焚き火をして固めておるのを見た。しかし、おぬしは数人の仕事だというが、おれは、切れ味といい手筋といい、どうも下手人は一人としか思えぬ」
「はて何か心当りでもあるのか」
「ないこともない」
 と泰軒は言葉を切って、胸元から手を差しこんでわき腹をかいていたが、
「いいか。おぬしも考えてみろ……右の肩口から左の乳下へ、といえば、どうじゃな、その刀を握るものは逆手(さかて)でなくてはかなうまい?」
「ひだりききとは当初からの見こみだが、江戸中には左ききも多いでな」
「そこで! 百尺竿頭(しゃくかんとう)一歩を進めろ!」
 どなるように泰軒がいうと、忠相はにっこりして大仰(おおぎょう)に膝を打った。
「いや、こりゃまさに禅師(ぜんじ)に一喝(かつ)を食ったが、いくら江戸でも、左腕の辻斬りがそう何人もいて、みな気をそろえて辻斬りを働こうとも考えられぬ」
「だから、おれは初めから、これは隻腕の一剣客が闇黒(やみ)に左剣をふるうのかも知れぬといっておるではないか」
「ふうむ。なるほど、一理あるぞこれは! して、何奴(なにやつ)かな、その狂刃の主(ぬし)は?」
「まあ待て。今におれが襟がみ取って引きずって来て面を見せてやるから」
 大笑すると、両頬のひげが野分(のわき)の草のようにゆらぐ、忠相は心配そうな眼つきをした。
「また豪(えら)そうな! 大丈夫か。けがでもしても知らんぞ」
「ばかいえ、自源流(じげんりゅう)ではまず日本広しといえどもかく申す蒲生泰軒の右に出る者はあるまいて」
 言い放って袖をまくった泰軒、節(ふし)くれだった腕を戞(かっ)! と打ったまではいいが、深夜の冷気が膚にしみたらしく、その拍子にハアクシャン! と一つ大きなくしゃみをすると、自分ながらいまの稚心(ちしん)がおかしかったとみえ、
「新刀試し胆(きも)だめしならば一、二度ですむはず……きょうで七、八日もこの辻斬りがつづくというのは、何百人斬りの願(がん)でも立てたものであろうと思われるが――」
 となかば問いかける忠相の話を無視して、かれはうふふとふくみわらいをしながら、勝手に話題を一転した。
「お奉行さまもええが、小うるさい件が山ほどあろうな」
「うむ。山ほどある。たまには今夜のように庭から来て、知恵をかしてくれ」
「まっぴらだ。天下を奪った大盗のために箒(ほうき)一本銭(ぜに)百文の小盗を罰して何がおもしろい?」
 こう聞くと、忠相が厳然とすわりなおした。
「天下は、呉越(ごえつ)いずれが治めても天下である。法は自立だ」
「それが昔からおぬしのお定り文句だった、ははははは」
「越前、かつて人を罰したことはない。人の罪を罰する。いや、人をして罪に趨(はし)らしめた世を罰する――日夜かくありたいと神明に祈っておる」
 泰軒は忠相の眼前で両手を振りたてた。
「うわあ! 助からんぞ! わかった、わかった、理屈はわかった! だがなあ、聞けよおぬし、人間一悟門(ごもん)に到達してすべてがうるさくなった時はどうする? うん? 白雲先生ではないが、旧書をたずさえ取って旧隠(きゅういん)に帰る……」
「野花啼鳥(やかていちょう)一般(いっぱん)の春(はる)、か」
 と忠相がひきとると、ふたりは湧然(ゆうぜん)と声を合わせて笑って、切りおとすように泰軒がいった。
「おぬしも、まだこの心境には遠いな」
 さびしいと見れば、さびしい。
 ことばに懐古の調があった。秋夜孤燈(しゅうやことう)、それにつけても思い出すのは……。
 十年一むかしという。
 秩父(ちちぶ)の山ふところ、武田の残党として近郷にきこえた豪族(ごうぞく)のひとりが、あてもない諸国行脚(あんぎゃ)の旅に出でて五十鈴(いすず)川の流れも清い伊勢の国は度会(わたらい)郡山田の町へたどりついたのは、ちょうど今ごろ、冬近い日のそぼそぼ暮れであった。

 外宮(げくう)の森。
 旅人宿の軒行燈に白い手が灯を入れれば……訛(なま)りにも趣(おもむき)ある客引きの声。
 勢州(せいしゅう)山田、尾上(おのえ)町といえば目ぬきの大通りである。
 弱々しい晩秋の薄陽がやがてむらさきに変わろうとするころおい、その街上(まち)なかに一団の人だかりがして、わいわい罵(ののし)りさわぐ声がいやがうえにも行人(こうじん)の足をとめていた。
 往き倒れだ。
 こじきの癲癇(てんかん)だ。
 よっぱらいだ。
 いろんな声が渦をまく中央に、浪人とも修験者(しゅげんじゃ)とも得体の知れない総髪(そうはつ)の男が、山野風雨の旅に汚れきった長半纒(ながはんてん)のまま、徳利を枕に地に寝そべって、生酔いの本性たがわず、口だけはさかんに泡といっしょに独り講釈をたたいているのだった。酒に舌をとられて、いう言葉ははっきりしないが、それでも徳川の世をのろい葵(あおい)の紋をこころよしとしない大それた意味あいだけは、むずかしい漢語のあいだから周囲の人々にもくみ取ることができた。
 代々秩父の山狭(さんきょう)に隠れ住む武田の残族(ざんぞく)蒲生泰軒。
 冬夜の炉辺(ろへん)に夏の宵の蚊(か)やりに幼少から父祖古老に打ちこまれた反徳川の思念が身に染み、学は和漢に剣は自源(じげん)、擁心流(ようしんりゅう)の拳法(けんぽう)、わけても甲陽流軍学にそれぞれ秘法をきわめた才胆をもちながら、聞き伝えて、争って高禄と礼節をもって抱えようとする大藩諸侯の迎駕(げいが)を一蹴して、飄々然(ひょうひょうぜん)と山をおりたかれ泰軒は、一時京師鷹司(たかつかさ)殿に雑司(ぞうし)をつとめたこともあるが、磊落不軌(らいらくふき)の性はながく長袖(ちょうしゅう)の宮づかえを許さず、ふたたび山河浪々の途にのぼって、まず生を神州にうけた者の多年の宿望をはたすべく、みちを伊勢路(いせじ)にとって流れついたのがこの山田の町であった。
 人に求めるところがあれば、人のためにわれを滅(めっ)する。
 世から何ものをか獲(え)んとすれば世俗に没して真我(しんが)をうしなう。
 といって、我に即すればわれそのものがじゃまになる。
 金も命も女もいらぬ蒲生泰軒――眼中人なく世なくわれなく、まことに淡々として水のごとき一野児であった。
 この秀麗な気概(きがい)は、当時まだひらの大岡忠右衛門といって、山田奉行を勤めていた壮年の越前守忠相の胸底に一脈あい通ずるものがあったのであろう。不屈な泰軒が前後に一度、きゃつはなかなか話せると心から感嘆したのは大岡様だけで、人を観(み)るには人を要す。忠相もまた変物(へんぶつ)泰軒(たいけん)の性格学識をふかく敬愛して初対面から兄弟のように、師弟のように陰(いん)に陽(よう)に手をかしあってきた仲だったが、四十にして家を成(な)さず去就(きょしゅう)つねならぬ泰軒の乞食ぶりには忠相もあきれて、ただその端倪(たんげい)すべからざる動静を、よそながら微笑をもって見守るよりほかはなかった。
 だから、八代吉宗公に見いだされた忠相が、江戸にでて南町奉行の顕職(けんしょく)についたのちも、泰軒はこうして思い出したように訪ねてきては、膝をつき合わしてむかしをしのび世相を談ずる。が、いつも庭から来て庭から去る泰軒は家中の者の眼にすらふれずに、それはあくまでも忠相のこころのなかの畏友(いゆう)にとどまっていたのだった。
 それはそれとして。
 この秋の夜半。
 いま奉行屋敷の奥座敷に忠相と向かいあっている泰軒は、何ごとか古い記憶がよみがえったらしく、いきなり眼をほそくして忠相の顔をのぞいた。
「おぬし、おつる坊はどうした? 相変わらず便(たよ)りがあるか」
 すると老いた忠相が、ちょっと照れたように畳をみつめていたが、
「もう坊でもなかろう。婿(むこ)をとって二、三人子があるそうな。先日、みごとな松茸を一籠(かご)届けてくれた。貴様にもと思ったが分けようにもいどころが知れぬ――」
「なに、おぬしさえ食うてやればおつる坊も満足じゃろうが、お互いにあのころは若かったなあ」
「うむ、若かった、若かった! おれも若かったが、貴様も若かったぞ、ははははは」
 と忘れていた軽い傷痕(きずあと)がうずきでもするように、忠相は寂然(じゃくねん)と腕を組んで苦笑をおさえている。
 泰軒もうっとり思い出にふけりながら、徳利をなでてまをまぎらした。
 怖いとなっているお奉行さまに過ぎし日を呼び起こさせるおつる坊とは?
 話は、ここで再び十年まえの山田にかえる。
 神の町に行き着いたよろこびのあまり、無邪心(むじゃしん)小児のごとき泰軒が、お神酒(みき)をすごして大道に不穏な気焔をあげている時、山田奉行手付の小者が通りかかって引き立てようとすると、ちょうど前の脇本陣茶碗屋の店頭から突っかけ下駄の若い娘が声をかけて出て来た。

 わき本陣の旅籠(はたご)茶碗屋のおつるは、乙女(おとめ)ごころにただ気の毒と思い、役人の手前、その場は知人のようにつくろって、往来にふんぞり返っていばっている泰軒を店へ招(しょう)じ入れたのだった。
 仔細(しさい)ありげな遠国の武士――と見て、洗足(すすぎ)の水もみずからとってやる。
 湯をつかわせて、小ざっぱりした着がえをすすめた、が泰軒はすまして古布子(ふるぬのこ)を手に通して、それよりさっそく酒を……というわがままぶり。
 一に酒、二に酒、三に酒。
 あんな猩々(しょうじょう)を飼っておいて何がおもしろいんだろう? と家中の者が眉をひそめるなかに、おつるは、なんの縁故もない泰軒を先生と呼んで一間(ひとま)をあたえ、かいがいしく寝食の世話を見ていた。
 明鏡のようにくもりのないおつるの心眼には、泰軒の大きさが、漠然(ぼんやり)ながらそのままに映ったのかも知れぬ。
 また泰軒としても、思いがけないこの小娘のまごころを笑って受けて辞退もしなければ礼一ついうでもなく、まるで自宅へ帰ったような無遠慮のうちにきょうあすと日がたっていったが――。
 狭い市(まち)。
 脇本陣に、このごろ山伏体(やまぶしてい)のへんな男がとまっているそうだとまもなくぱっとひろまって、ことに手先の口から、その怪しき者が大道で公儀の威信に関する言辞を弄(ろう)していたことが大岡様のお耳にもはいったから、役目のおもて捨ててもおけない。即座に引き抜いて来て、仮牢(かりろう)へぶちこませた。
 その夜、後年の忠相、当時山田奉行大岡忠右衛門が、どんな奴か一つ虚をうかがってやれとこっそり牢屋に忍んでのぞくと……。
 君子は独居(どっきょ)をつつしむという。
 人は、ひとりいて、誰も見る者がないと思う時にその真骨頂(しんこっちょう)が知られるものだ。
 板敷きに手枕して鼻唄まじり、あれほど獄吏(ごくり)をてこずらせていると聞いた無宿者が、いま見れば閉房(へいぼう)の中央に粛然(しゅくぜん)と端坐して、何やら深い瞑想にふけっているようす。
 室のまんなかに座を占めたところに、行住座臥(ぎょうじゅうざが)をもいやしくしない、普通(ただ)ならぬ武道のたしなみが読まれた。
 しかも! 土器の油皿、一本燈心(とうしん)の明りに照らしだされた蒼白い額に観相(かんそう)に長じている忠相は、非凡の気魂、煥発(かんぱつ)の才、雲のごとくただようものをみたのである。
 これは、一人傑。
 ととっさに見きわめて、畳のうえに呼び入れて差し向かい、一問一答のあいだに掬(きく)すべき興趣(きょうしゅ)滋味(じみ)こんこんとして泉のよう――とうとう夜があけてしまった。そして、朝日の光は、そこに職分を忘れた奉行と、心底を割った囚人とがともに全裸の人間として男と男の友愛、畏敬(いけい)、信頼に一つにとけ合っているのを見いだしたのだった。
 このお方はじつは千代田の密偵、将軍おじきのお庭番として名を秘し命を包んでひそかに大藩の内幕を探り歩いておらるるのだから、万事そのつもりで見て見ぬふりをするように……というような苦しい耳うちで下役の前を弥縫(びほう)した忠相も、自分に先んじて風来坊泰軒を高くふんだ茶碗屋おつるの無識の眼力にはすくなからず心憎く感じたのだろう。かれは、泰軒をおつるに預けさげたのちも、たびたびお微行(しのび)で茶碗屋の暖廉(のれん)をくぐったが、それがいつしか泰軒を訪れるというよりも、その席へ茶菓を運んでくるおつるの姿に接せんがため――ではないか? と忠相自身もわれとわが心中に疑いだしたある日、ずばりと泰軒が図星(ずぼし)をさした。
「おぬしは、おつる坊を見にくるのだな。はははは。かくすな、かくすな。いや、そうあってこそ奉行も人だ。おもしろい」
 忠相はなんとも言わずに、胸を開いて大笑した。
 ただそれだけだった。
 これが恋であろうか。よしや恋は曲者にしても、お奉行大岡様と宿屋の娘……それはあまりにも奇(く)しき情痴のいたずらに相違なかった。
 が、爾来(じらい)いく星霜(せいそう)。
 身は栄達して古今の名奉行とうたわれ、世態(せたい)人情の裏のうらまで知りつくしたこんにちにいたるまで、忠相はなお、かつて伊勢の山田のおつるへ動きかけた淡い恋ごころを、人知れず、わが世の恋と呼んでいるのだった。
 陽の明るい縁などで、このごろめっきりふえた白髪を抜きながら、忠相がふと、うつらうつらと蛇籠(じゃかご)を洗う五十鈴(いすず)川の水音を耳にしたりする時、きまって眼に浮かぶのはあのふくよかなおつるの顔。
 まことにおつるは、色彩(いろどり)のとぼしい忠相の生涯における一紅点(こうてん)であったろう。たとえ、いかに小さくそして色褪(いろあ)せていても。
 そのおつるの家に、泰軒が寄寓してからまもなくだった。山田奉行忠相の器量を試みるにたるひとつの難件がもちあがったのは。
 そのころ松坂の陣屋に、大御所十番目の御連枝(ごれんし)紀州中納言光定(きしゅうちゅうなごんみつさだ)公の第六の若君源六郎(げんろくろう)殿が、修学のため滞在していて、ふだんから悪戯(いたずら)がはげしく、近在近郷の町人どもことごとく迷惑をしていたが、葵(あおい)の紋服におそれをなして誰ひとり止め立てをする者もなかった。
 源六郎、ときに十四、五歳。
 それをいいことにして、おつきの者の諫(いさ)めるのもきかずに、はては殺生禁断の二見ヶ浦へ毎夜のように網を入れては、魚籠(びく)一ぱいの獲物に横手をうってほくほくしていると、このことが広く知れ渡ったものの、なにしろ紀伊(きい)の若様だから余人とちがってすぐさま捕りおさえるわけにもゆかず、一同もてあましていたが、これを聞いた山田奉行の大岡忠右衛門、法は天下の大法である、いかに紀州の源六郎さまでもそのまま捨ておいては乱れの因(もと)だというので、ひそかに泰軒ともはからい、手付きのものを連れて一夜二見ヶ浦に張りこんでさっさと源六郎を縛(しば)りあげた。
 そして。
 無礼! 狼藉(ろうぜき)! この源六郎に不浄の縄をかけるとは何ごと……などとわめきたてるのも構わず奉行所へ引ったてて、左右に大篝火(おおかがりび)、正面に忠右衛門が控えて夜の白洲(しらす)をひらいた。
「これ! 不届至極(ふとどきしごく)! そのほうは何者か、乱心いたしたな?」
 と、上段の忠右衛門がはったとにらむと、
「乱心? 馬鹿を申せ。われは松平源六郎である。縄をとけッ」
「だまれ」忠右衛門も声をはげまして「松平源六郎とは恐れ多いことを申すやつじゃ。なるほど紀州第六の若様は源六郎殿とおおせられるが、いまだ御幼年ながら聡明叡智(そうめいえいち)のお方で、殺生禁断(せっしょうきんだん)の場所へ網をおろすような不埓(ふらち)はなさらんぞ。そのほうまさしく乱心いたしおるとみえる、狂人であろう汝は」
「狂人とは何事! 余はまったく紀州の源六郎に相違ない」
「またしても申す。これ、狂人、二度とさような言をはくにおいてはその分にさしおかんぞ。汝がすみやかに白状せん以上、待て! いま見せてやるものがある」
 こう言って忠右衛門が呼びこませたのが、小俣(おまた)村の百姓源兵衛という男、名主そのほか差添えがついている。
「源兵衛、面(おもて)をあげい。とくと見て返答いたせ。これに控(ひか)えおるはそのほうの伜(せがれ)源蔵と申す者に相違なかろう? どうじゃ」
 そのときに、くだんの源兵衛、お白洲(しらす)をもはばからず源六郎のそばへ走りよって、「ひゃあ、伜か、お前気がふれて行方をくらましたで、みんなが、はあ、どんなに心配ぶったか知んねえだよ。やっとのこってこのお奉行所へ来てるとわかって、いま名主(なぬし)どんに頼んで願えさげに突ん出たところだあな。だが、よくまあ達者で……」
 驚いたのは源六郎だ。
「さがれッ! えいッ、寄るな。伜とはなんだ。見たこともないやつ」
 と懸命に叱りつけたが、百姓源兵衛に名主をはじめ組合一統がそれへ出て、口々に、
 現在の親を忘れるとはあさましいこった。
 どうか、はあ、気をしずめてくんろよ。
 これ源蔵や、よく見ろ。われの親父(おやじ)でねえか。
 などと揃いもそろって狂人応対(あつかい)をするので、源六郎歯ぎしりをしながら見事に気がふれたことにされてしまった。
 そのありさまに終始ほほえみを送っていた忠右衛門は、やおら言いわたした。
「さ、この狂者は小俣(おまた)村百姓源兵衛のせがれ源蔵なるものときまった。親子でいて父の顔を忘れ、見さかいがつかんとは情けないやつだが、掟(おきて)を犯して二見ヶ浦で漁をするくらいの乱心なれば、そういうこともあり得ようと、狂気に免じ、今日のところは心あってそむいたものとみとめず、よって源蔵儀は父源兵衛に引き渡しつかわす。十分に手当をしてやるがよい――源蔵ッ! 狂人の所業(しょぎょう)とみなしてこのたびは差し許す、重ねてかようなことをいたさんよう自ら身分を尊(とうと)び……ではない、第一に法をたっとばんければいかん。わかったな、うむ、一同、立ちませい」
 というこの四方八方にゆきとどいたさばきで、源六郎はおもてむきどこまでも百姓の子が乱心したていに仕立てられて、かろうじて罪をのがれ、面倒もなくてすんだのだったが、後の八代将軍吉宗たる源六郎もちろん愚昧(ぐまい)ではない。天下の大法と紀州の若君との苦しい板ばさみに介(かい)して法も曲げず、源六郎をもそこなわず、自分の役儀も立てたあっぱれな忠相の扱いにすっかり感服して、伊勢山田奉行の大岡忠右衛門と申すは情知(じょうち)兼ねそなわった名判官(はんがん)である。
 と、しっかり頭にやきついた源六郎は、その後、淳和奨学両院別当(じゅんなしょうがくりょういんべっとう)、源氏の長者八代の世を相続して、有徳院(うとくいん)殿といった吉宗公になったとき、忠右衛門を江戸表へ呼びだして、きょうは将軍家として初のお目通りである。
 越前守忠相と任官された往年の忠右衛門ぴったり平伏してお言葉のくだるのを待っていると――。
 しッ、しい――ッ、と側で警蹕(けいひつ)の声がかかる。
 と、濃(こ)むらさきの紐が、葵(あおい)の御紋散しでふちどった御簾(みす)をスルスルと捲きあげて、金襴(きんらん)のお褥(しとね)のうえの八代将軍吉宗公を胸のあたりまであらわした。
 裃(かみしも)の肘を平八文字に張って、忠相のひたいが畳にすりつく。
 お声と同時に、吉宗の膝が一、二寸刻み出た。
「越前、そのほう、余を覚えておろうな?」
 はっとした忠相、眼だけ起こして見ると、中途にとまった御簾の下から白い太い羽織の紐がのぞいて……その上に細目(こまかめ)をとおして、吉宗の笑顔がかすんでいた。
 むかし、山田奉行所の白洲の夜焚き火のひかりに、昂然(こうぜん)と眉をあげた幼い源六郎のおもかげ。
 忠相の眼にゆえ知らぬ涙がわいて手を突いている畳がぽうっとぼやけた。
 が、かれはふしぎそうに首をひねった。
「恐れ入り奉りまする――なれど、いっこうわきまえませぬ」
 すると吉宗、何を思ったか、いきなり及(およ)び腰に自ら扇子(せんす)で御簾をはねると、ぬっと顔を突き出した。
「越前、これ、これじゃよ。この顔だ。存じおろうが」
 忠相は、下座からその面をしげしげ見入っているばかり……じっと語をおさえて。
 引っこみのつかない将軍がいらいらしだして、お小姓はじめ並みいる一同、取りなしもできず度を失ったとき、
「さようにござりまする」
 憎いほど落ちつき払った越前守の声に、お側御用お取次ぎ高木伊勢守などは、まずほっとしてひそかに汗のひくのを感じた。
「うむ。どうだな?」
「恐れながら申しあげまする――上(かみ)には、よほど以前のことでございまするが、忠相が伊勢の山田奉行勤役中、殺生厳禁(せっしょうげんきん)の二見ヶ浦へ網を入れました小俣(おまた)村百姓源兵衛と申す者の伜、源蔵という狂人によく似ていられまする」
 狂者にそっくりとはなんという無礼!
 と理由を知らない左右の臣がささやき渡ると、
「そうか。源蔵に似ておるか」
 にっこりした吉宗、御簾の中から上機嫌に、
「小俣村の源蔵めも、そのほうごときあっぱれな奉行のはからいを、今さぞ満足に思い返しておるであろう……これよ、越前、こんにちをもって江戸おもて町奉行を申しつくる。吉宗の鑑識(めがね)、いやなに、源蔵の礼ごころじゃ。このうえともに、な、精勤(せいきん)いたせ。頼むぞ」
「はっ、おそれ入り――」
 と言いかけた忠相のことばを切って、音もなく御簾がおりると、そそくさと立ちあがる吉宗の姿が、夢のようにすだれ越しに見えたのだったが……。
 かつて自分が叱りつけた源六郎さま。
 それがもうあんなりっぱに御成人あそばされて――お笑いになる眼だけがもとと変わらぬ。
 ほほえみと泪(なみだ)。
 すり足で退出するお城廊下の長かったことよ。
 あの日、大役をお受けしてからこのかた。
 南町奉行としての自分は、はたして何をし、そして、なにを知ったか?
 思えば、風も吹き、雨も降った。が、いますべてを識りつくしたあとに、たった一つ残っている大きな謎(なぞ)。
 それは、人間である。
 人のこころの底の底まで温く知りぬいて、善玉(ぜんだま)悪玉(あくだま)を一眼見わけるおっかない大岡様。
 たいがいの悪がじろりと一瞥(べつ)を食っただけで、思わずお白洲の砂をつかむと言われている古今に絶した凄いすごいお奉行さまにも、煎(せん)じつめれば、この世はやはりなみだと微笑のほか何ものでもなかった……かも知れない。
 夢。
 ――という気が、忠相はしみじみとするのだった。
 で、うっとりした眼をそばの泰軒へ向けると、会話(はなし)のないのにあいたのか、いつのまにやらごろりと横になった蒲生泰軒、徳利に頭をのせてはや軽い寝息を聞かせている。
 ばっさりと倒れた髪。なかば開いた口。
 強いようでも、流浪(るろう)によごれた寝顔はどこかやつれて悲しかった。
「疲れたろうな。寝ろ寝ろ」
 とひとり口の中でつぶやいた忠相は、急に何ごとか思いついたらしくすばやく手文庫(てぶんこ)を探った。
「こいつ、金がないくせに強情な! 例によって決して自分からは言い出さぬ。起きるとまたぐずぐずいって受け取らぬにきまっとるから、そうだ! このあいだに――」
 忠相が、そこばくの小判を紙に包んでそっと泰軒の袂(たもと)へ押し入れると、眠っているはずの泰軒先生、うす眼をあけて見てにっことしたが、そのまま前にも増して大きないびきをかき出した。
 とたんに、
 庭前を飛んで来たあわただしい跫音(あしおと)が縁さきにうずくまって、息せききった大作の声が障子を打った。
「申しあげます」
「なんだ」さッとけわしい色が、瞬間越前守忠相の顔を走った。

   緑面女夜叉(りょくめんにょやしゃ)

「なんだ騒々しい! 大作ではないか。なんだ」
 忠相(ただすけ)が室内から声をはげますと、そとの伊吹大作はすこしく平静をとりもどして、
「出ました、辻斬(つじぎ)りが! あのけさがけの辻斬り……いま御門のまえで町人を斬り損じて、当お屋敷の者と渡りあっております」
「辻斬り? ふんそうか」
 とねむたそうにうなずいた越前守は、それでも、これだけではあんまり気がなさそうに聞こえると思ったものか、取ってつけるようにいいたした。
「それは、勇ましいだろうな」
「いかが計らいましょう?」
「どれ、まずどんなようすか」
 ようよう腰をあげた忠相が、障子をあけて縁端ちかく耳をすますと、
 月も星もない真夜中。
 広い庭を濃闇(のうあん)の霧が押し包んで、漆黒(しっこく)の矮精が樹から木へ躍りかわしているよう――遠くに提灯の流れて見えるのは、邸内を固める手付きの者であろう。
 池の水が白く光って風は死んでいた。
 ただ、深々と呼吸(いき)づく三更(こう)の冷気の底に、
 声のない気合い、張りきった殺剣(さつけん)の感がどこからともなくただよって、忠相は、満を持して対峙(たいじ)している光景(さま)を思いやると、われ知らず口調が鋭かった。
「曲者は手ごわいとみえるが、誰が向かっておる」
「岩城(いわき)と新免(しんめん)にござりますが、なにぶん折りあしくこの霧(きり)で……」
「門前――と申したな。斬られた者はいかがいたした?」
「商家の手代風(てだいふう)の者でございますが、この肩さきから斜めに――いやもう、ふた目と見られませぬ惨(むご)い傷で……」
「長屋で手当をしてつかわしておりますが、所詮(しょせん)助かりはすまいと存じまする」
 言うまも、剣を中に気押し合うけはいが、はちきれそうに伝わってくる。
「無辜(むこ)の行人をッ! 憎いやつめ! しかも大岡の屋敷まえと知っての挑戦であろう」
 太い眉がひくひくとすると、忠相は低く足もとの大作を疾呼(しっこ)した。
「よし! いけッ! 手をかしてやれ、斬り伏せてもかまわぬ」
 そして、柄をおさえて走り去る大作を見送って、しずかに部屋へ帰りながら、血をみたような不快さに顔をしかめた忠相は、ひとり胸中に問答していた。
 このけさ掛け斬りの下手人が、左腕の一剣狂であることは、自分は最初から見ぬいていた。それをさっき泰軒に、やれ左ききであろうの、数人に相違ないのと言ったのは、泰軒といえども自分以外の者である以上、あくまでも探査の機密を尊(たっと)んでおいて、ただそれとなくその存意をたぐり出すために過ぎなかったのだが――。
 なかでは、泰軒が帯を締めなおしていた。
 天下何者にも低頭(ていとう)しないかれも、大岡越前のためにはとうから身体を投げ出しているのだ。
「聞いたぞ、おれが出てみる」
「よせ!」忠相は笑った。
「貴様に怪我(けが)でもされてはおれがすまん」
「なあに、馬鹿な」
 一言吐き捨てた泰軒は、
「帰りがけにのぞくだけだ……では、また来る」
 と、もう闇黒(やみ)の奥から笑って、来た時とおなじように庭に姿を消すが早いか、気をつけろ! と追いかけた忠相の声にもすでに答えなかった。
 無慈悲の辻斬り! かかる人鬼の潜行いたしますのも、ひとえに忠相不徳のなすところ――と慨然(がいぜん)と燈下に腕をこまぬく越前守をのこして、陰を縫って忍び出た泰軒が、塀について角へかかった時!
 ゆく手の門前に二、三大声がくずれかかるかと思うと、フラフラと眼のまえに迷い立った煙のような人影?
 ぎょッ! として立ちどまったのをすかし見ると、長身痩躯(そうく)、乱れた着前(まえ)に帯がずっこけて、左手の抜刀をぴったりとうしろに隠している。
「せっかく生きとる者を殺して、何がおもしろい?」
 泰軒の声は痛烈なひびきに沈んだ。
「うん? 何がおもしろい? お前には地獄のにおいがするぞ」
「…………」
 が、相手は黙ったまま、生き血に酔ったようによろめいてくる。刀の尖(さき)が小石をはじいてカチ! と鳴った。
「おれとお前、見覚えがあるはずだ。さ! 来い! 斬ってみろ俺を」
 こういい放った泰軒は、同時にすくなからず異様な気持にうたれて前方(まえ)をのぞいた。片腕の影がすすり泣いていると思ったのは耳のあやまりで、ケケケッ! と、けもののように咽喉笛(のどぶえ)を鳴らして笑っていたのだった。
「斬れ! どうだ、斬れまいが! 斬れなけりゃあおとなしくおれについて来い」
 悠然と泰軒が背をめぐらした間髪、発! と、うしろに跳剣(ちょうけん)一下して、やみを割った白閃が泰軒の身にせまった。

 垣根に房楊枝(ふさようじ)をかけて井戸ばたを離れた栄三郎を、孫七と割りめしが囲炉裡(いろり)のそばに待っていた。
 千住(せんじゅ)竹の塚。
 ほがらかな秋晴れの朝である。
 軒の端の栗の梢に、高いあおぞらがのぞいて、キキと鳴く小鳥の影が陽にすべる。
「百舌(もず)だな……」
 栄三郎はこういって膳に向かった。そして、
「いかにも田舎(いなか)だ。閑静でいい。こういうところにいると人間は長生きをする」
 と、改めてめずらしそうにまえの広場に大根を並べ乾(ほ)してそれにぼんやりと、うすら寒い初冬の陽がさしているのを眺めていた。
 孫七は黙って飯をほおばっていた。
 鶏が一羽おっかなびっくりで土間へはいろうとして、片脚あげて思案している。
「七五三は人が出ましたろう。神田明神(かんだみょうじん)なぞ――」
 お兼(かね)婆さんが給仕盆を差しだしながら、穂(ほ)をつぐように話しかけると、

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