丹下左膳
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著者名:林不忘 

 必ず勝つと信じていた栄三郎が森徹馬と仕合って明らかに自敗をとった。弥生を避けて負けたのだ! 早く母に死別し、自分の手一つで美しい乙女にほころびかけている弥生が、いま花の蕾に悲恋の苦をなめようとしている! こう思うと鉄斎老人、煮え湯をのまされた心地で、栄三郎の意中をかってに見積もってあんな告げ紙を貼り出したことが、今はただ弥生にすまない! という自責の念となり、おさえきれぬ憤怒に転じてグングン胸へ突きあげてくる。
 鉄斎は起って来て、栄三郎をにらみつけた。
「これ、卑怯者、竹刀を取れ!」
 栄三郎の口唇(くちびる)は蒼白い。
「お言葉ながらいったん勝負のつきましたものを――」
「黙れ、黙れ! 思うところあってか故意に勝ちをゆずったと見たぞ。作為(さくい)は許さん! もう一度森へかかれッ!」
「しかし当人が参ったと申しております以上――」
「しかし先生」徹馬も一生懸命。
「エイッ、言うな! 今の勝負は鉄斎において異存があるのだ。ならぬ、今いちど立ち会え!」
 この騒ぎで誰も気がつかなかったが、ふと見ると、いつのまに来たものか、道場の入口に人影がある。玄関の侍が、いくら呼んでも取次ぎが出ないのでどんどんはいりこんで来たのだ。
 相変わらず片懐中手(かたふところで)、板をさげている。
 鉄斎が見とがめて、近寄っていった。
「何者だ? どこから来おった!」
「あっちから」
 ぬけぬけとした返事。上身をグッとのめらせて、声は優しい。一同があっけにとられていると、今日の仕合に優勝した仁(じん)と手合せが願いたいと言う。
 名は! ときくと、丹下左膳(たんげさぜん)と答える。流儀は? とたたみかけると、丹下流……そしてにやりとした。
「なるほど。御姓名が丹下殿で丹下流――いや、これはおもしろい。しかし、せっかくだが今日は内仕合で、他流の方はいっさいお断りするのが当道場の掟(おきて)となっておる。またの日にお越しなさい」
 ゲッ! というような音を立てて、丹下左膳と名乗る隻眼の侍、咽喉(のど)で笑った。
「またの日はよかったな。道場破りにまたの日もいつの日もあるめえ。こら! こいつら、これが見えるか」
 片手で突き出した板に神変夢想流指南(しんぺんむそうりゅうしなん)小野塚鉄斎道場と筆太の一行!
 や! 道場の看板! さては、門をはいりがけにはずして来たものと見える。おのれッ! と総立ちになろうとした時、
「こうしてくれるのだッ!」
 と丹下左膳、字看板を離して反(そ)りかえりざま、
 カアッ、ペッ!
 青痰(あおたん)を吐(ひ)っかけたは。
 はやる弟子を制して大手をひろげながら、鉄斎が森徹馬をかえりみて思いきり懲(こ)らしてやれ! と眼で言うその間に左膳は、そこらの木剣を振り試みて、一本えらみ取ったかと思うと、はやスウッ! と伸びて棒立ち。裾に、女物の下着がちらちらする。やはり右手を懐中にしたままだ。カッとした徹馬、
「右手を出せ」
 すると、
「右手はござらぬ」
「何? 右手はない? 隻腕か。ふふふ、しかし、隻腕だとて柔らかくは扱わぬぞ」
 左膳、口をへの字に曲げて無言。独眼隻腕の道場荒し丹下左膳。左手の位取りが尋常でない。
 が、相手は隻腕、何ほどのことやある?……と、タ、タッ、飄(ひょう)ッ! 踏みきった森徹馬、敵のふところ深くつけ入った横薙(な)ぎが、もろにきまった――。
 と見えたのはほんの瞬間、ガッ! というにぶい音とともに、
「う。う。う。痛(つ)う」
 と勇猛徹馬、小手を巻き込んでつっぷしてしまった。
 同時に左膳は、くるりと壁へ向きなおって、もう大声に告げ紙を読み上げている。
「栄、栄三郎、かかれッ!」
 血走った鉄斎の眼を受けて、栄三郎はひややかに答えた。
「勝抜きの森氏を破ったうえは、すなわち丹下殿が一の勝者かと存じまする」

 宵闇はひときわ濃く、曙の里に夜が来た。
 日が暮れるが早いか、内弟子が先に立って、庭に酒宴のしたくをいそぐ。まず芝生に筵(むしろ)を敷き、あちこちに、枯れ枝薪などを積み集めて焚き火の用意をし、菰被(こもかぶ)りをならべて、鏡を抜き杓柄(ひしゃく)を添える。吉例により乾雲丸と坤竜丸を帯びた一、二番の勝者へ鯣(するめ)搗栗(かちぐり)を祝い、それから荒っぽい手料理で徹宵(てっしょう)の宴を張る。
 林間に酒を暖めて紅葉(こうよう)を焚く――夜は夜ながらに焚き火が風情をそえて、毎年この夜は放歌乱舞、剣をとっては脆(もろ)くとも、酒杯にかけては、だいぶ豪の者が揃っていて、夜もすがらの無礼講(ぶれいこう)だ。
 が、その前に、乾坤の二刀を佩(は)いたその年の覇者(はしゃ)を先頭に、弥生が提灯(ちょうちん)をさげて足もとを照らし、鉄斎老人がそれに続いて、門弟一同行列を作りつつ、奥庭にまつってある稲荷(いなり)のほこらへ参詣して、これを納会(おさめ)の式とする掟になっていた。
 植えこみを抜けると、清水観音の泉を引いたせせらぎに、一枚石の橋。渡れば築山(つきやま)、稲荷はそのかげに当たる。
 月の出にはまがある。やみに木犀(もくせい)が匂っていた。
 ――丹下左膳に、ともかくおもて向ききょうの勝抜きとなっている森徹馬が打たれてみれば、いくら実力ははるか徹馬の上にあるとわかっていても、その徹馬に負けた栄三郎を今から出すわけにはゆかない。栄三郎もこの理をわきまえればこそ辞退したのだ。何者とも知れない隻腕の剣豪丹下左膳、そこで、刀痕あざやかな顔に強情な笑(えみ)をうかべ、貼り紙を楯(たて)に開きなおって、乾雲丸(けんうんまる)と娘御(むすめご)弥生どの、いざ申し受けたいと鉄斎に迫った。いや、あれは内輪(うちわ)の賞で、他流者には通用せぬと説いても、左膳はいっこうききいれない。老いたりといえども小野塚鉄斎、自ら立ち向かえば追っ払うこともできたろうが、今日は娘の身にも関係のあること、ここはあやして帰すが第一、それには乾雲丸さえ許せば、よもや娘までもと言うまい――こう考えたから、そこは年輩、ぐっとこらえて、丹下を一の勝ちとみとめた。
 で、書院から捧持(ほうじ)して来た関の孫六の夜泣きの名刀、乾雲丸は丹下左膳へ、坤竜丸(こんりゅうまる)は森徹馬へと、それぞれ一時鉄斎の手から預けられた。
 参詣の行列。
 泣きぬれた顔を化粧(けわ)いなおした弥生が、提灯を低めて先に立つと、その赤い光で、左膳はじっと弥生から眼を離さなかったが、弥生は、あとから来る栄三郎に心いっぱい占められて気がつかなかった。
 やがて、ぞろぞろと暗い庭をひとまわりして帰ると、それで刀を返上して、ただちにお開き……焚き火も燃えよう、若侍の血も躍ろう――という騒ぎだが、この時!
 自分の坤竜丸と左膳の乾雲丸とをまとめて返しに行くつもりで、しきりに左膳の姿を捜していた徹馬が、突如驚愕(おどろき)の叫びをあげた。
「おい、いないぞ! あの、丹下という飛入り者が見えないッ!」
 この声は、行列が崩れたばかりでがやがやしていた周囲を落雷のように撃った。
「なにイ! タ、丹下がいない?」
「しかし、今までそこらにうろうろしてたぞ」
 たちまち折り重なって、徹馬をかこんだ。
「彼刀(あれ)をさしたままか?」
 その中の誰かがきくと、徹馬は声が出ないらしく、
「うん……」
 続けざまにうなずくだけ――。
 乾雲丸を持って丹下左膳が姿を消した。
 降って湧いたこの椿事(ちんじ)!
 離れたが最後、雲竜相応じて風を起こし雨を呼び、いかなる狂瀾怒濤(きょうらんどとう)、現世の地獄をもたらすかも知れないと言い伝えられている乾坤二刀が、今や所を異にしたのだ!
 ……凶の札は投げられた。
 死肉の山が現出するであろう! 生き血の河も流れるだろう。
 剣の林は立ち、乱闘の野はひらく。
 そして! その屍山(しざん)血河(けっか)をへだてて、宿業(しゅくごう)につながる二つの刀が、慕いあってすすり泣く……!
 非常を報ずる鉄斎道場の警板があけぼのの里の寂寞(しじま)を破って、トウ! トトトトウッ! と鳴りひびいた。
 変異を聞いて縁に立ちいでた鉄斎、サッと顔色をかえて下知(げじ)をくだす。
 もう門を出たろう!
 いや、まだ塀内にひそんでいるに相違ない。
 とあって、森徹馬を頭に、二隊はただちに屋敷を出て、根津の田圃に提灯の火が蛍のように飛んだ。
 同時に、バタン! バタン! と表裏の両門を打つ一方、庭の捜査は鉄斎自身が采配をふるって、木の根、草の根を分ける抜刀に、焚火の反映が閃々(せんせん)として明滅する。
 ひとりそのむれを離れた諏訪(すわ)栄三郎、腰の武蔵太郎安国(むさしたろうやすくに)に大反りを打たせて、星屑をうかべた池のほとりにたった。
 夜露が足をぬらす。
 栄三郎は裾を引き上げて草を踏んだ。と、なんだろう――歩(あし)にまつわりつくものがある。
 拾ってみると、緋縮緬の扱帯(しごき)だ。
 はてな! 弥生様のらしいがどうしてこんなところに! と首を傾けた……。
 とたんに?
 闇黒を縫って白刃が右往左往する庭の片隅から、あわただしい声が波紋のようにひろがって来た。
「やッ! いた、いたッ! ここに!」
「出会えッ!」
 この二声が裏木戸のあたりからしたかと思うと、あとはすぐまた静寂に返ってゾクッ! とする剣気がひしひしと感じられる。
 声が切れたのは、もう斬りむすんでいるらしい。
 散らばっている弟子達が、いっせいに裏へ駈けて行くのが、夜空の下に浮いて見える。
 ぶつりと武蔵太郎の鯉口を押しひろげた栄三郎、思わず吸いよせられるように足を早めると、チャリ……ン!
「うわあッ!」
 一人斬られた。
 ――星明りで見る。
 片袖ちぎれた丹下左膳が大松の幹を背にしてよろめき立って、左手に取った乾雲丸二尺三寸に、今しも血振るいをくれているところ。
 別れれば必ず血をみるという妖刀が、すでに血を味わったのだ。
 松の根方、左膳の裾にからんで、黒い影がうずくまっているのは、左膳の片袖を頭からすっぽりとかぶせられた弥生の姿であった。
 神変夢想の働きはこの機! とばかり、ずらりと遠輪に囲んだ剣陣が、網をしめるよう……じ、じ、じッと爪先刻(きざ)みに迫ってゆく。
 刀痕(とうこん)鮮かな左膳の顔が笑いにゆがみ、隻眼が光る。
「この刀で、すぱりとな、てめえ達の土性(どしょう)ッ骨を割り下げる時がたまらねえんだ。肉が刃を咬んでヨ、ヒクヒクと手に伝わらあナ――うふっ! 来いッ、どっちからでもッ!」
 無言。光鋩(こうぼう)一つ動かない。
 鉄斎は? 見ると。
 われを忘れたように両手を背後に組んで、円陣の外から、この尾羽(おは)打枯(うちか)らした浪人の太刀さばきに見惚れている。敵味方を超越して、ほほうこれは珍しい遣(つか)い手だわいとでもいいたげなようす!
 焦(いら)立ったか門弟のひとり、松をへだてて左膳のまうしろへまわり、草に刀を伏せて……ヒタヒタと慕い寄ったと見るまに、
「えいッ!」
 立ち上がりざま、下から突きあげたが、
「こいつウ!」
 と呻いた左膳の気合いが寸刻早く乾雲空(くう)を切ってバサッと血しぶきが立ったかと思うと、突いてきた一刀が彗星(すいせい)のように闇黒に飛んで、身体ははや地にのけぞっている。
 弥生の悲鳴が、尾を引いて陰森(いんしん)たる樹立ちに反響(こだま)した。
 これを機会に、弧を画いている刃襖(はぶすま)からばらばらと四、五人の人影が躍り出て、咬閃(こうせん)入り乱れて左膳を包んだ。
 が、人血を求めてひとりでに走るのが乾雲丸だ。しかも! それが剣鬼左膳の手にある!
 来たなッ! と見るや、膝をついて隻手の左剣、逆に、左から右へといくつかの脛(すね)をかっ裂いて、倒れるところを蹴散らし、踏み越え、左膳の乾雲丸、一気に鉄斎を望んで馳駆(ちく)してくる。
 ダッ……とさがった鉄斎、払いは払ったが、相手は丹下左膳ではなく魔刀乾雲である。引っぱずしておいて立てなおすまもなく、二の太刀が肘(ひじ)をかすめて、つぎに、乾雲丸はしたたか鉄斎の肩へ食い入っていた。
「お! 栄ッ! 栄三――」
 そうだ栄三郎は何をしている? 言うまでもない。武蔵太郎安国をかざして飛鳥ッ! と撃ちこんだ栄三郎の初剣は、虚を食ってツウ……イと流れた。
「おのれッ!」
 と追いすがると、左膳は、もうもとの松の根へとって返し、肉迫する栄三郎の前に弥生を引きまわして、乾雲丸の切先であしらいながら、
「斬れよ、この娘を先に!」
 白刃と白刃との中間に狂い立った弥生、血を吐くような声で絶叫した。
「栄三郎様ッ、斬って! 斬って! あなたのお手にかかれば本望ですッ……さ、早く」
 栄三郎がひるむ隙に、松の垂れ枝へ手をかけた左膳、抜き身の乾雲丸をさげたまま、かまきりのような身体が塀を足場にしたかと思うと、トンと地に音して外に降り立った。
 火のよう――じんの声と拍子木(ひょうしぎ)。
 それが町角へ消えてから小半刻(こはんとき)もたったか。麹町(こうじまち)三番町、百五十石小普請(こぶしん)入りの旗本土屋多門(つちやたもん)方の表門を、ドンドンと乱打する者がある。
「ちッ。なんだい今ごろ、町医じゃあるめぇし」寝ようとしていた庭番の老爺(ろうや)が、つぶやきながら出て行って潜(くぐ)りをあけると、一拍子に、息せききって、森徹馬がとびこんで来た。
「おう! あなた様は根津の道場の――」
 御主人へ火急の用! と言ったまま、徹馬は敷き台へ崩れてしまった。
 土屋多門は鉄斎の従弟、小野塚家にとってたった一人の身寄りなので、徹馬は変事を知らせに曙の里からここまで駈けつづけて来たのだ。
 何事が起こったのか……と、寝巻姿に提(さ)げ刀で立ち現われた多門へ、徹馬は今宵の騒ぎを逐一(ちくいち)伝える。
 ――丹下左膳という無法者が舞いこみ、大事の仕合に一の勝ちをとって乾雲丸を佩受(はいじゅ)したこと、そして、さしたまま逃亡しようとして発見され鉄斎先生はじめ十数人を斬って脱出した……しかも、刀が乾雲丸の故か、斬られた者は、重軽傷を問わずすべて即死! と聞いて、多門はせきこんだ。
「老先生もかッ」
「ざ、残念――おいたわしい限りにございます」
「チエイッ! 御老人は年歳(とし)は年齢だが、お手前をはじめ諏訪など、だいぶ手ききが揃っておると聞いたに、なななんたる不覚――」
 徹馬は、外へ探しに出ていて、裏塀を乗り越えるところを見つけて斬りつけたが、なにしろこの暗夜、それに乾雲丸の切先鋭(するど)く、とうとう門前町(もんぜんちょう)の方角へ丹下の影を見失ってしまった。こう弁解らしくつけたしたかれの言葉は、もはや多門の耳へははいらなかった。
 お駕籠を、と老爺が言うのを、
「なに、九段で辻待ちをつかまえる」
 と、したくもそこそこに、多門は徹馬とつれ立って屋敷を走り出た……。
 行く先は、いうまでもなく根津曙の里。
 その曙の里の道場。
 奥の書院に、諏訪栄三郎と弥生が、あおざめた顔をみつめあって、息づまる無言のまま対座している。
 鉄斎をはじめ横死者(おうししゃ)の遺骸は、道場に安置されて、さっきから思いがけない通夜(つや)が始まっている。二人はその席を抜けて、そっとこの室へ人眼を避けたのだ。悲しみの極を過ぎたのだろう、もう泣く涙もないように、弥生はただ異様にきらめく眼で、憮然(ぶぜん)として腕を組んだ栄三郎の前に、番(つがい)を破られて一つ残った坤竜丸が孤愁(こしゅう)を託(かこ)つもののごとく置かれてあるのを見すえている。
 遠く近く、ジュウン……ジュンという音のするのは焚き火に水を打って消しているのである。いきなり障子の桟(さん)でこおろぎが鳴き出した。
「まったく、なんと申してよいやら、お悔(くや)みの言葉も、ありませぬ」
 一句一句切って、栄三郎は何度もいって言葉をくり返した。
「御秘蔵の乾雲丸が先生のお命を絶とうとは、何人(なんびと)も思い設けませんでした。がしかし、因縁(いんねん)――とでも申しましょうか、離れれば血を見るという乾雲は、離れると第一に先生のお血を……」
「栄三郎様!」
「いや、こうなりましたうえは、いたずらに嘆き悲しむより、まず乾雲を取り返して後難を防ぐのが上分別かと――」
「栄三郎さまッ!」
「それには、私に一策ありと申すのが、刀が刀を呼ぶ。乾雲と坤竜は互いにひきあうとのことですから、もし、私に、この坤竜丸を帯して丹下左膳めをさがすことをお許しくださるなら、刀同士が糸を引いて、必ずや左膳に出会いたし……」
「栄三郎さまッ!」
「はい」
「あなたというお人は、なんとまあお気の強い――刀も刀ですけれど弥生の申すことをすこしもお聞きくださらずに」
「あなたのおっしゃること――とはまたなんでございます?」
「まあ! しらじらしい! あなたさえ今日勝つべき仕合にお勝ちくださったら、こ、こんなことにはならなかったろうと……それを思うと――栄三郎様ッ、お恨み、おうらみでございます」
「勝負は時の運。私は他意なく立ち合いました」
「うそ! 大うそ!」
「ちとお謹(つつし)み――」
「いいえ。あなたのようなひどい方がまたとございましょうか。わたしの心は百も御承知のくせに、女の身としてこの上もない恥を、弥生は、きょう初めて……」
「弥生様。道場には先生の御遺骸もありますぞ」
「ええ……この部屋で、父はどんなに嬉しそうににっこりしてあの貼り紙を書きましたことか――」
「――それも、余儀ありませぬ」
「栄三郎さまッ! あ、あんまりですッ!」
 わッ! と弥生が泣き伏した時、廊下を踏み鳴らしてくる多門の跫音(あしおと)がした。
 おののく白い項(うなじ)をひややかに見やって栄三郎は坤竜丸を取りあげた。
「では、この刀は私がお預かりいたします。竜は雲を招き、雲は竜を待つ、江戸広しといえども、近いうちに坤竜丸と丹下の首をお眼にかけましょう――」
 こうして、戦国の昔を思わせる陣太刀作(じんだちづく)りの脇差が、普通の黒鞘(くろざや)武蔵太郎安国と奇妙な一対をなして、この夜から諏訪栄三郎の腰間(こし)に納まることとなった。

   化物屋敷(ばけものやしき)

 うすあばたの顔に切れの長い眼をとろんとさせて、倒した脇息(きょうそく)を枕に、鈴川源十郎はほろ酔いに寝ころんでいる。
 年齢は三十七、八。五百石の殿様だが、道楽旗本だから髪も大髻(おおたぶさ)ではなく、小髷(こまげ)で、鬢(びん)がうすいので、ちょっと見ると、八丁堀に地面をもらって裕福に暮らしている、町奉行支配の与力(よりき)に似ているところから、旗本仲間でも源十郎を与力と綽名(あだな)していた。
 父は鈴川宇右衛門といって大御番組頭(おおおばんくみがしら)だったが、源十郎の代になって小普請(こぶしん)に落ちている。去水流居合(きょすいりゅういあい)の達人。書も相応に読んだはずなのが、泰平無事の世に身を持てあましてか、このごろではすっかり市井(しせい)の蕩児(とうじ)になりきっている――伸ばした足先が拍子をとって動いているのは、口三味線(くちじゃみせん)で小唄でも歌っているらしく、源十郎は陶然として心地よさそうである。
 秋の夜なが。
 本所(ほんじょ)法恩寺(ほうおんじ)まえの鈴川の屋敷に常連が集まってお勘定と称してひとしきりいたずらが盛ったあとは、こうして先刻からにわか酒宴がはじまって、一人きりの召使おさよ婆さんが、一升徳利をそのまま燗(かん)をして持ち出すやら、台所をさらえて食えそうな物ならなんでも運びこむやら、てんてこまいをしている騒ぎ。
「なんだ、鈴川、新しい婆(ばば)あが来ておるではないか」
 土生(はぶ)仙之助が珍しそうにおさよを見送って言う。
「うむ。前のは使いが荒いとこぼして暇を取っていった。あれは田原町(たわらちょう)三丁目の家主(やぬし)喜左衛門(きざえもん)と鍛冶屋富五郎(かじやとみごろう)鍛冶富(かじとみ)というのを請人(うけにん)にして雇い入れたのだ。よく働く。眼をかけてやってくれ。どうも下女は婆あに限るようだて。当節の若いのはいかん」
「へっへっへっへっ」隅(すみ)で頓狂(とんきょう)に笑い出したのは、駒形(こまがた)の遊び人与吉だ。
「ヘヘヘ、使いが荒いなんて、殿様、なんでげしょう、ちょいとお手をお出しなすったんで……こう申しちゃなんですけれど、こちらの旦那と来た日にゃ悪食(あくじき)だからね」源十郎は苦笑して、生き残った蛾が行燈に慕いよるのを眺めている。
 本所の化物屋敷と呼ばれるこの家に今宵とぐろをまいている連中は、元小(もとこ)十人、身性が悪いので誘い小普請入りをいいつかっている土生仙之助を筆頭に、いずれも化物に近い変り種ばかりで、仙之助は、着流しのうしろへ脇差だけを申しわけにちょいと横ちょに突き差して肩さきに弥蔵(やぞう)を立てていようという人物。それに本所きっての悪御家人旗本が十人ばかりと、つづみの与吉などという大一座に、年増(としま)ざかりの仇っぽい女がひとり、おんなだてらに胡坐(あぐら)をかいて、貧乏徳利を手もとにもうだいぶ眼がすわっている。
「お藤(ふじ)、更けて待つ身は――と来るか、察するぞ」
 誰かがどなるように声をかけるのを、櫛(くし)まきお藤はあでやかに笑い返して、またしても白い手が酒へのびる。
「なんとか言ってるよ……主(ぬし)に何とぞつげの櫛、どこを放っつきまわってるんだろうねえ、あの人は。ほんとにじれったいったらありゃしない」
「手放し恐れ入るな。しかしお藤、貴様もしっかりしろよ。あいつ近ごろしけこむ穴ができたらしいから――」
「あれさ、どこに?」
「いけねえ、いけねえ」与吉があわてて両手を振った。
「そう水を向けちゃあいけませんやあねえ。姐御(あねご)、姐御は苦労人だ。辛気(しんき)臭くちゃ酒がまずいや、ねえ?」
 どッ! と浪のような笑いに座がくずれて、それを機に、一人ふたり帰る者も出てくる。
 櫛まきお藤は、美しい顔を酒にほてらせて、男のように胡坐の膝へ両手をつっ張ったまま、頤(あご)を引いて、帰って行く人を見上げている。紅い布が半開の牡丹のように畳にこぼれて、油を吸った黄楊(つげ)の櫛が、貝細工のような耳のうしろに悩ましく光っている風情(ふぜい)、散りそめた姥桜にかっと夕映えが照りつけたようで、熟(う)れ切った女のうまみが、はだけた胸元にのぞく膚の色からも、黒襟かけた糸織のなで肩からも、甘いにおいとなって源十郎の鼻をくすぐる。
 この女はこれでおたずね者なのだ――こう思うと源十郎は、自分が絵草紙の世界にでも生きているような気がした。
「姐御、皆さんお帰りです。お供しやしょう」与吉にうながされて、ひとり残っていたお藤は、片手をうしろに膝を立てた。
「そうだねえ。実(じつ)のない人はいつまで待っていたってしようがない。じゃ、お神輿(みこし)をあげるとしようか。お殿様おやかましゅうございました。おやすみなさい」
「うむ帰るか」
 と源十郎は横になったまんまだ。
 食べ荒らした皿小鉢や、倒れた徳利に蒼白い光がさして、畳の目が読める。
 軒低く、水のような月のおもてに雁(かり)がななめに列(つら)なっていた。
 与吉がお藤を送って、浅草の家へ帰って行くと、しばらくして、寝ころんでいた源十郎が、むくりと起き上がっておさよを呼んだ。
「はいはい」
 と出てきたおさよ婆さん、いつのまにか客が帰ってがらんとしているのにびっくりして、
「おやまあ、皆さまお帰りでござんしたか。ちっとも存じませんで――ここはすぐに片づけますけれど、あのお居間のほうへお床をとっておきましたから」
「まあ、いい、それより、戸締りをしてくれ」
 縁の戸袋から雨戸をくり出しかけたおさよの手が、思わず途中で休んでしまう。
 藍絵(あいえ)のような月光。
 近いところは物の影がくっきりと地を這って、中(なか)の郷(ごう)のあたり、甍(いらか)が鱗(うろこ)形に重なった向うに、書割(かきわり)のような妙見(みょうけん)の森が淡い夜霧にぼけて見える。どこかで月夜鴉(がらす)のうかれる声。
 おさよは源十郎をふりかえった。
「殿様、いい月でございますねえ」
 すると源十郎。
「おれは月は大嫌いだ」
 と、はねつけるよう。
「まあ、月がお嫌い――さようでございますか。ですけれど、なぜ……でござんしょう?」
「なぜでも嫌いだ。月を見るとものを思う。人間ものを思えば苦しくもなる。そのため――かも知れぬな」
「お別れになった奥様のことでも思い出して、おさびしくなるのでございましょうよ」
「ふふふ、そうかも知れぬ。ま、早くしめるがいい」
 すっかり戸締りができると、源十郎はまた寝そべって、
「さよ、ここへ来て、ちょっと肩へつかまってくれ」
 按摩を、と言う。
 おさよは襷(たすき)のまま座敷へはいって、源十郎の肩腰を揉(も)み出した。
「もう何刻(なんとき)かな?」
「つい今し方回向院(えこういん)の八つが鳴るのを聞きました」
「そうか。道理で眠いと思った。あああああ!」
 大欠伸(おおあくび)をしながら、
「貴様、年寄りだけあって眠がらんな。身体が達者とみえる」
「ええええ、そりゃもういたって丈夫なほうで、その上、年をとるにつれて、なかなか夜眼が合わなくなりますのでございますよ。ですから、これから寝(やす)ませていただいてもお天道さまより先に起きてしまいます」
「だいぶ凝(こ)ってるようだ。うん、そこを一つ強く頼む――貴様、何か、子供はないのか」
「ございます、ひとり」
「男か女か」
「女でございます」
「女か――それでも、楽しみは楽しみだな」
「なんの、殿様、これがもし男の子でしたら、伝手(つて)を求めてまた主取(しゅど)りをさせるという先の望みもございましょうが、女ではねえ……それに――」
「主取りと申すと、貴様武家出か」
「はい。お恥ずかしゅうございます」
「ほほう。それは初耳だな。して藩はどこだ?」
「殿様、そればかりはおゆるしを。こうおちぶれてお主(しゅ)のお名を出しますことは――」
「それはそうだ。これはおれが心なかったな。しかし、さしずめ永の浪々のうちに配合(つれあい)をなくして、今の境涯に落ちたという仔細(しさい)だろう?」
「お察しのとおりでございます」
「それで、その娘というのはいかがいたした?」
「宿元へ残して参りましたが、それが殿様、ほんとに困り者なんでございますよ」
「どうしてだ?」
「いえね。まあ、この婆あとしては、幸い資本(もとで)を見てやろうとおっしゃってくださる方もありますから、しかるべき、と申したところで身分相当のところから婿(むこ)を迎えて、細くとも何か堅気な商売でも出さしてやりたいと思っているのでございますが、親の心子知らずとはよくいったもので、なんですか、このごろ悪い虫がつきましてねえ」
「浮気か」
「泣かされますでございますよ」
「なんだ、相手は」
「どこかお旗本の御次男だとか――」
「よいではないか。他人まかせの養子というやつには、末へいって困却(こんきゃく)する例がままある。当人同士が好きなら、それが何よりだ。お前もせいぜい焚きつけて後日左団扇(うちわ)になおる工面をしたがよい。おれが一つまとめてやろうか、はははは」
「まあ、殿様のおさばけ方――でも、どうもおうちの首尾がおもしろくございませんでねえ」
 つと、源十郎は聞き耳を立てた。
 びょうびょうと吠える犬の声に追われて、夜霧を踏む跫音が忍んで来たかと思うと、
 しッ! しッ!
 と庭に犬を叱る低声(こごえ)とともに、コトコトコトと秘めやかに雨戸が鳴って、
「おい! 源十、鈴源(すずげん)、俺だ……おれだよ。あけてくれ」

 ――帰って来たな、とわかると、源十郎の眉が開いて、あちらへ行っておれと顎でおさよを立ち去らせるが早いか、しめたばかりの戸をまたあける。
 夜妖(やよう)の一つのように、丹下左膳が音もなくすべりこんだ。
「おそかったな。今ごろまでどこへ行っていた?」
 それには答えず、左膳は用心深く室内をうかがって、
「連中は?」
「今帰ったところだ」
 左膳は先に立って行燈(あんどん)の光のなかへはいって行ったが、続いた源十郎はちょっとどきりとした。
 左膳の風体(ふうてい)である。
 巷(ちまた)の埃りに汚れているのは例のことながら、今夜はまたどうしたというのだ! 乱髪が額をおおい、片袖取れた黒七子(くろななこ)の裾から襟下へかけて、スウッと一線、返り血らしい跡がはね上がっている。隻眼(せきがん)隻腕(せきわん)、見上げるように高くて痩せさらばえた丹下左膳。猫背のまま源十郎を見すえて、顔の刀痕が、引っつるように笑う。
「すわれ!」
 源十郎は、夜寒にぞっとして丹前を引きよせながら、
「殺(や)って来たな誰かを」
「いや、少々暴れた。あははははは」
「いいかげん殺生(せっしょう)はよしたがよいぞ」
 こう忠言めかしていった源十郎は、そのとき、胡坐(あぐら)になりながら左膳が帯からとった太刀へ、ふと好奇な眼を向けて、
「なんだそれは? 陣太刀ではないか」
 すると左膳は、得意らしく口尻をゆがめたが、
「ほかに誰もおらんだろうな?」
 と事々しくそこらを見まわすと、思いきったように膝を進めて、
「なあ鈴川、いやさ、源的、源の字……」
 太い濁声(だみごえ)を一つずつしゃくりあげる。
「なんだ? ものものしい」源十郎は笑いをふくんでいる。「それよりも貴公色男にはなりたくないな。先刻までお藤が待ちあぐんで、だいぶ冠を曲げて帰ったぞ、たまには宵の口に戻って、その傷面を見せてやれ、いい功徳(くどく)になるわ。もっともあの女、貴様のような男に、どこがよくて惚れたのか知らんが、一通り男を食い散らすと、かえって貴様みたいな人(にん)三化(ばけ)七がありがたくなるものと見えるな。不敵な女じゃが、貴様のこととなるとからきし意気地がなくなって、まるで小娘、いやもう、見ていて不憫(ふびん)だよ。貴様もすこしは冥加(みょうが)に思うがいい」
 源十郎の吹きつける煙草の輪に左膳はプッ! と顔をそむけて、
「四更(しこう)、傾月(けいげつ)に影を踏んで帰る。風流なようだが、露にぬれた。もうそんな話あ聞きたくもねえや。だがな鈴源、俺が貴様ん所に厄介になってから、これで何月になるかなあ?」
「今夜に限って妙に述懐めくではないか。しかし、言って見ればもうかれこれ半歳(とし)にはなろう」
「そうなるか。早いものだな、俺はそのあいだ、真実貴様を兄貴と思って来た――」
「よせよ! 兄と思ってあれなら弟と思われては何をされるかわからんな。ははははは」
「冗談じゃあねえ。俺あ今晩ここに、おれの一身と、さる北境の大藩とに関する一大密事をぶちまけようと思ってるんだ」
 前かがみに突然陣太刀作りの乾雲丸(けんうんまる)を突き出した左膳。
「さ、此刀(これ)だ! 話の緒(いとぐち)というのは」
 と語り出した。源十郎が、灯心を摘んで油をくれると、ジジジジイと新しい光に、濃い暁闇(ぎょうあん)が部屋の四隅へ退く。が、障子越しの廊下にたたずんでいる人影には、二人とも気がつかなかった。
 左膳の言葉。
 この風のごとき浪士丹下左膳、じつは、江戸の東北七十六里、奥州中村六万石、相馬大膳亮(そうまだいぜんのすけ)殿の家臣が、主君の秘命をおびて府内へ潜入している仮りの相(すがた)であった。
 で、その用向きとは?
 れっきとした藩士が、なぜ身を痩狗(そうく)の形にやつして、お江戸八百八丁の砂ほこりに、雨に、陽に、さらさなければならなかったか。
 そこには、何かしら相当の原因(いわく)があるはず。
 珍しく正座した左膳の態度につりこまれて、源十郎の顔からも薄笑いが消えた。
 二人を包む深沈(しんちん)たる夜気に、はや東雲(しののめ)の色が動いている。
 ただ廊下に立ち聞くおさよは、相馬中村と聞いて、危うく口を逃げようとしたおどろきの声を、ぐっと両掌(りょうて)で押し戻した。
 六万石相馬様は外様衆(とざましゅう)で内福の家柄である。当主の大膳亮は大の愛刀家――というより溺刀(できとう)の組で、金に飽かして海内(かいだい)の名刀稀剣(きけん)が数多くあつまっているなかに、玉に瑕(きず)とでも言いたいのは、ただ一つ、関七流の祖孫六(まごろく)の見るべき作が欠けていることだった。
 そこで、
 どうせ孫六をさがすなら、この巨匠が、臨終の際まで精根を涸(か)らし神気をこめて鍛(う)ったと言い伝えられている夜泣きの大小、乾雲丸と坤竜丸(こんりゅうまる)を……というので、全国に手分けをして物色すると、いまその一腰(ひとふり)は、江戸根津権現のうら曙の里の剣道指南小野塚鉄斎方に秘蔵されていると知られたから、江戸の留守居役をとおして金銀に糸目をつけずに交渉(あた)らせてみたが、もとより伝家の重宝、手を変え品をかえても、鉄斎は首を縦にふらない。
 とてもだめ。
 とわかって、正面の話合いはそれで打ち切りになったが、大膳亮の胸に燃える慾炎は、おさまるどころか新たに油を得たも同様で、妄念は七十六里を飛んで雲となり、一図に曙の里の空に揺曳(ようえい)した。
 物をあつめてよろこぶ人が、一つことに気をつめた末、往々にして捉われる迷執(めいしゅう)である。業火(ごうか)である。
 領主大膳亮が、あきらめられぬとあきらめたある夜、おりからの闇黒(やみ)にまぎれて、一つの黒い影が、中村城の不浄門(ふじょうもん)から忍び出て城下を出はずれた。そのあくる日、お徒士(かち)組丹下左膳の名が、ゆえしれず出奔した廉(かど)をもって削られたのである。
 血を流しても孫六を手にすべく、死を賭した決意を見せて、不浄門から放された剣狂丹下左膳、そのころはもう馬子唄のどかに江戸表へ下向の途についていた。
 おもて向きは浪々でも、その実、太守の息がかかっている。
 この乾坤二刀を土産に帰れば、故郷には、至上の栄誉と信任、莫大な黄金と大禄が待っているのだ。
 出府と同時に、本所法恩寺前の鈴川源十郎方に身をよせた左膳は、日夜ひそかに鉄斎道場を見ていると、年に一度の秋の大仕合に、乾雲坤竜が一時の佩刀(はいとう)として賞に出るとの噂(うわさ)。
 それ以来、待ちに待っていた十月初の亥(い)の日。
 横紙破りの道場荒しも、刀の番(つがい)をさこうという目的があってのことだった――。
「老主を始め、十人余りぶった斬って持ち出したのだ。抜いて見ろ」
 ……なが話を結んだ左膳、片眉上げて大笑する。重荷の半ばをおろした心もちが、怪物左膳をいっそう不覊(ふき)にみせていた。
 すわりなおした源十郎、懐紙をくわえて鞘を払い、しばし乾雲丸の皎身(こうしん)に瞳を細めていたが、やがて、
「見事。――鞘は平糸まき。赤銅(しゃくどう)の柄(つか)に叢雲(むらくも)の彫りがある。が、これは刀、一本ではしかたがあるまい」
「ところが、しかたがあるのだ。源十、貴様はまだ知らんようだが、雲は竜を招き、竜は雲を呼ぶと言う。な、そこだ! つまり、この刀と脇差は、刀同士が探しあって、必ず一対に落ち合わねえことには納まらない」
「と言うと?」
「わかりが遅いな。差し手はいかに離れていようとも、刀と刀が求め合って、早晩(そうばん)一つにならずにはおかねえというのだ。乾雲と坤竜とのあいだには、眼に見えぬ糸が引きあっている」
「うむ。言わば因縁の綾(あや)だな」
「そうだ。そこでだ、俺は明日からこの刀をさして江戸中をぶらつくつもりだが、先方でも誰か腕の立つ奴が坤竜を帯(たい)して出歩くに相違ねえから、そこでそれ、雲竜相ひいて、おれとそいつと必ず出会する。その時だ、今から貴公の助力を求めるのは」
「助太刀か、おもしろかろう。だが、その坤竜を佩(は)いて歩く相手というのは?」
「それはわからん。がしかし、色の生っ白い若えので、ひとり手性のすごいやつがおったよ。俺あそいつの剣で塀から押し出されたようなものだ」
「ふうむ。やるかな一つ」
「坤竜丸はこれと同じこしらえ、平巻きの鞘に赤銅の柄、彫りは上り竜だから、だれの腰にあっても一眼で知れる」
 近くの百姓家で鶏(とり)が鳴くと、二人は期せずして黙りこんで、三つの眼が、あいだに置かれた乾雲丸の刀装(とうそう)に光った。
 かくして、戦国の昔をしのぶ陣太刀作りが、普通の黒鞘の脇差と奇体な対をなして、この時から丹下左膳の腰間を飾ることとなった。
 この一伍一什(いちぶしじゅう)を立ち聞きしていた老婆おさよ、
「すると丹下様は中村から――」
 と知っても、名乗っても出ず、何事かひとり胸にたたんだきりだった。
 というのが、死んだおさよの夫和田宗右衛門(わだそうえもん)というのは、世にあったころ、同じ相馬様に御賄頭(おんまかないがしら)を勤めた人だから、さよと左膳は、同郷同藩たがいに懐しがるべき間がらである。

   首尾(しゅび)の松(まつ)

 底に何かしら冷たいものを持っていても、小春日和(こはるびより)の陽ざしは道ゆく人の背をぬくめる。
 店屋つづきの紺暖簾(こんのれん)に陽炎(かげろう)がゆらいで、赤蜻蛉(あかとんぼ)でも迷い出そうな季節はずれの陽気。
 蔵前の大通りには、家々の前にほこりおさえの打ち水がにおって、瑠璃(るり)色に澄み渡った空高く、旅鳥のむれがゆるい輪を画いている。
 やでん帽子の歌舞伎役者について、近処の娘たちであろう、稽古帰りらしいのが二、三人笑いさざめいて来る。それがひとしきり通り過ぎたあとは、ちょっと往来がとだえて、日向(ひなた)の白犬が前肢(まえあし)をそろえて伸びをした。
 ずらりと並んでいる蔵宿の一つ、両口屋嘉右衛門の店さき、その用水桶のかげに、先刻からつづみの与吉がぼんやりと人待ち顔に立っている。
 打てばひびく、たたけば応ずるというので、鼓(つづみ)の名を取ったほど、駒形(こまがた)でも顔の売れた遊び人。色の浅黒い、ちょいとした男。
「ちッ! いいかげん待たせやがるぜ、殿様もあれで、銭金(ぜにかね)のことになるてえと存外気が長えなあ――できねえもんならできねえで、さっさと引き上げたらいいじゃあねえか。この家ばかりが当てじゃああるめえし。なんでえ! おもしろくもねえ!」
 両口屋の暗い土間をのぞいては、ひとり口の中でぶつくさ言っている。
 外光の明るさにひきかえ、土蔵作りの両口屋の家内には、紫いろの空気が冷たくおどんで、蔵の戸前をうしろに、広びろとした框(かまち)に金係りお米係りの番頭が、行儀よくズーッと居列(いなら)んでいるのだが、この札差(ふださ)しの番頭は、首代といっていい給金を取ったもので、無茶な旗本連を向うへまわして、斬られる覚悟で応対する。
 いまも現に、蔵前中の札差し泣かせ、本所法恩寺の鈴川源十郎が、自分で乗りこんで来て、三十両の前借をねだって、こうして梃子(てこ)でも動かずにいる。
 五百石のお旗本に三十両はなんでもないようだが、相手が危ないからおいそれとは出せない。
 取っ憑(つ)かれた番頭の兼七、すべったころんだど愚図(ぐず)っている。
 負けつづけて三十金の星を背負わされた源十郎にしてみれば、盆の上の借りだけあって、堅気の相対ずくよりも気苦労なのだろう。今日はどうあっても調達しなければ……と与吉を供に出かけて来たのだが、埓(らち)のあかないことおびただしい。できしだい、与吉を飛ばして、先々へ届けさせるつもりで戸外に待たしてあるので、源十郎も一段と真剣である。
「そりゃ今までの帳面(ちょうづら)が、どうもきれいごとにいかんというのは、俺が悪いと言えば、悪いさ。しかしなあ兼公(かねこう)、人間には見こみはずれということもあるでな。そこらのところを少し察してもらわにゃ困る」
「へい。それはもう充分にお察し申しておりますが、先ほどから申しますとおり、何分にも殿様のほうには、だいぶお貸越しに願っておりますんで、へい一度清算いたしまして、なんとかそこへ形をつけていただきませんことには……手前どもといたしましても、まことにはや――」
 源十郎のこめかみに、見る見る太いみみずが這ってくる。羽織をポンとたたき返すと、かれは腰ふかくかけなおして、
「しからば、何か。こうまで節(せつ)を屈して頼んでも、金は出せぬ、三十両用だてならぬと申すのだな?」
「一つこのたびだけは、手前どもにもむりをおゆるし願いたいんで」
「これだけ事をわけて申し入れてもか」
「相すみません」
 起き上がりざま、ピンと下緒(さげお)にしごきをくれた源十郎、
「ようし! もう頼まぬ。頼まなけれあ文句はあるまい。兼七、いい恥をかかせてくれたな」
 と歩きかけたが、すぐまた帰って来て、
「おい。もう一度考える暇(いとま)をつかわす。三十両だぞ。上に千も百もつかんのだ。ただの三十両、どうだ?」
 この時、番頭はプイと横を向いて、源十郎への面(つら)あてに、わざとらしい世辞笑いを顔いっぱいにみなぎらせながら、
「いらっしゃいまし――おや! これは鳥越(とりごえ)の若様、お珍しい……」
 釣られて源十郎が振り向くと、三座の絵看板からでも抜けて来たような美男の若侍が、ちょうど提(さ)げ刀をしてはいってくるところ。
 兼七の愛嬌には眼でこたえて、そのまま二、三人むこうの番頭へ声をかけた。
「やあ、彦兵衛(ひこべえ)。今日は用人の代理に参った」
「それはそれは、どうも恐れ入ります。さ、さ、おかけなすって……これ、清吉(せいきち)、由松(よしまつ)、お座蒲団を持ちな。それからお茶を――」
 源十郎、これで気がついてみると、自分にはお茶も座蒲団も出ていない。

 用人の代理といって札差し両口屋嘉右衛門の店へ来た諏訪栄三郎のようすを、それと知らずに、じっとこちらから見守っていた源十郎は、ふと眼が栄三郎が袖で隠すようにしている脇差の鐺(こじり)へおちると、思わずはっとして眼をこすった。
 平糸まき陣太刀づくり……ではないか!
 とすれば?
 もちろん、それは左膳の話に聞いた坤竜(こんりゅう)丸、すなわち夜泣きの刀の片割れに相違あるまい。
 刀が刀をひいて、早くも、左膳につながる自分の眼に触れたのか――こう思うと、源十郎もさすがにうそ寒く感じて、しばし、
「どうすればよいか?」
 と、とっさの途(みち)に迷ったが、すぐに、
「なに、左膳は左膳、俺は俺だ。もう少しこの青二才を見きわめて、その上で左膳へしらせるなりなんなりしても遅くはあるまい。それに、こんな男女郎(おとこじょろう)の一束(そく)や二束、あえて左膳をわずらわさなくとも、おれ一人で、いや与吉ひとりで片づけてしまう」
 ひとり胸に答えて、なおも、さりげなく眼を離さずにいると、そんなこととは知らないから、栄三郎はさっそく要談にとりかかる。
「用人の白木重兵衛(しらきじゅうべえ)が参るべきところであるが、生憎(あいにく)いろいろと用事が多いので、きょうは拙者が用人代りに来たのだ。実は、鳥越の屋敷の屋根が痛んだから瓦師(かわらし)を呼んだところが、総葺替(そうふきか)えにしなければならないと言うので、かなり手数がかかる。兄も、ここちょっと手もとがたらなくて、いささか困却(こんきゃく)しておるのだが、三期の玉落ちで、元利(がんり)引き去って苦しくないから、どうだろう、五十両ばかり用だってもらえまいか」
 番頭は二つ返事だ。
 いったい札差しは、札差料(ふださしりょう)などと言ってもいくらも取れるわけのものではなく、旗本御家人に金を貸して、利分を見なければ立っていかないのだが、栄三郎の兄大久保藤次郎は、若いが嗜(たしな)みのいい人で、かつて蔵宿から三文も借りたことがないから、さっぱり札差しのもうからないお屋敷である。
 ところへ、五十両借りたいという申込み。
 三百俵の高で五十両はおやすい御用だ。
「恐れ入りますが、御印形(ごいんぎょう)を?」
「うむ、兄の印を持参いたした」
 なるほど、藤次郎の実印に相違ないから、番頭の彦兵衛、チロチロチロとそこへ五十両の耳をそろえて、
「へい。一応おしらべの上お納めを願います」
 ここまで見た源十郎は、ああ、自分は三十両の金につまっておるのに、あいつら、この若造へはかえって頼むようにして五十両貸しつけようとしている……刀も刀だが、五十両はどこから来ても五十両だ――と、何を思いついたものか、栄三郎をしりめにかけて、ぶらりと、両口屋の店を立ち出でた。
「殿様」
 待ちくたびれていたつづみの与吉が、源十郎の姿にとび出してきて、
「ずいぶん手間どったじゃあありませんか。おできになりましたかえ?」
 駈けよろうとするのを、
「シッ! 大きな声を出すな」
 と鋭く叱りつけて、源十郎はそのまま、蔵宿の向う側森田町の露地(ろじ)へずんずんはいり込む。
 変だな。と思いながら、与吉もついて露地にかくれると、立ちどまった源十郎、
「金はできなかった。が、今、貴様の働き一つで、ここに五十両ころがりこむかも知れぬ」
「わたしの働きで五十両? そいつあ豪気(ごうき)ですね。五十両まとまった、あのズシリと重いところは、久しく手にしませんが忘れられませんね。で、殿様、いってえなんですい、その仕事ってのは?」
「今、あそこの店から若い侍が出て来るから、貴様と俺と他人のように見せて、四、五間おくれてついてこい。俺が手を上げたら、駈け抜けて侍に声をかけるんだ。丁寧に言うんだぞ――ええ、手前は、ただいまお出なすった店の若い者でございますが、お渡し申した金子(きんす)に間違いがあるようですから、ちょいと拝見させていただきたい。なに、一眼見ればわかるというんだ。でな、先が金包みを出したら、かまわねえから引っさらって逃げてしまえ。あとは俺が引き受ける」
 与吉はにやにや笑っている。
「古い手ですね。うまくいくでしょうか」
「そこが貴様の手腕(うで)ではないか」
「ヘヘヘ、ようがす。やってみましょう」
 うなずき合ったとたん
「来たぞ! あれだ」
 源十郎が与吉の袖を引く。
 見ると着流しに雪駄履(せったば)き、ちぐはぐの大小を落し差しにした諏訪栄三郎、すっきりとした肩にさんさんたる陽あしを浴びて大股に雷門のほうへと徒歩(ひろ)ってゆく。
 栄三郎が正覚寺(しょうがくじ)門前にさしかかった時だった。
 前後に人通りのないのを見すました源十郎が、ぱっと片手をあげるのを合図に、スタスタとそのそばを通り抜けて行ったつづみの与吉。
「もし、旦那さま――」
 あわただしく追いつきながら、
「あの、もしお武家さま、ちょいとお待ちを願います」
 と声をかけて、律儀(りちぎ)そうに腰をかがめた。
「…………?」
 栄三郎が、黙って振り向くと、前垂れ姿のお店者(たなもの)らしい男が、すぐ眼の下で米搗(つ)きばったのようにおじぎをしている。
「はて――見知らぬ人のようだが、拙者に何か御用かな?」
 栄三郎は立ちどまった。
「はい。道ばたでお呼びたて申しまして、まことに相すみませんでございます――」
「うむ。ま、して、その用というのは?」
「へえ、あの……」
 と口ごもったつづみの与吉、両手をもみあわせたり首筋をなでたり、あくまでも下手に出ているところ、どうしても、これが一つ間違えばどこでも裾をまくってたんかをきる駒形名うての兄哥(あにい)とは思えないから、栄三郎もつい気を許して、
「何事か知らぬが、話があらば聞くとしよう」
 こう自ら先に、楼門(ろうもん)の方へ二、三歩、陽あしと往来を避けて立った。
 そのとき、はじめて栄三郎の顔を正面に見た与吉は、相手の水ぎわだった男ぶりにちょっとまぶしそうにまごまごしたが、すぐに馬鹿丁寧な口調で、
「エエ手前は、ただいまお立ち寄りくだすった両口屋の者でございますがなんでございますかその、お持ち帰りを願いました金子(きんす)に間違いが――ありはしなかったかと番頭どもが申しておりまして、それで手前がおあとを追って、失礼ながらお金を拝見させていただくようにと、へい、こういうことで出て参りましたが、いかがでございましょう。ちょっとお見せくださいますわけには?……」
 言葉を切って、与吉はじっと栄三郎の顔色をうかがった。
 正覚寺の山門をおおいつくして、このあたりで有名な振袖銀杏(いちょう)の古木がおいしげっている。黄いろな葉をまばらにつけた梢が、高い秋空を低くさえぎって、そのあいだから降る日光の縞に、栄三郎の全身には紫の斑(ふ)が踊っていた。
 無言のまま与吉を見すえていた栄三郎、何を思ったかくるりと踵(きびす)を返して、いそぎ足に寺の境内(けいだい)へはいりかけた。
「あの、旦那さま!」
 与吉の声が追いかける。
「ついて来るがいい」
 と一言、栄三郎は本堂をさしてゆく。
 すこし離れて、置き捨ての荷車のかげからようすを眺めていた源十郎は、栄三郎に従って与吉も寺内へはいって行くのを見すますと、跫音を忍ばせて銀杏の幹に寄りそった。
 急に参詣てのはへんだが――! はて? どこへ行くのだろう?……と、源十郎がのぞいているうちに、本堂まえの横手、陰陽(いんよう)の石をまつってあるほこらのそばで、ぴたりと足をとめた栄三郎が、与吉を返りみてこういい出すのが聞こえた。
「あすこは往来だ。立ち入った話はできぬ。が、ここなら人眼もない。なんだ?――さっきのことを今一度申してみなさい」
「いろいろとお手間をとらせて恐れ入ります。じつはお渡し申した小判に手前どもの思い違いがございまして」
「どうもいうことがはっきりしないな。数えちがいならとにかく、金子(きんす)に思い違いというのはあるまい」
「へ? いえ、ところがその……」
「待て、お前は両口屋のなんだ」
「若い者でございます」
「若い者といえば走り使いの役であろう。それに大切な金の用向きがわかるか――これ、番頭が並べて出し、拙者があらためて受け取って、証文に判をついてきた金にまちがいのあるわけはない」
「へえ。それがその、番頭さんの思い違い……」
「まだ申すか。なんという番頭だ?」
「う……」
 と思わず舌につかえる与吉を、栄三郎はしりめにかけて、
「それ見ろ。第一、両口屋の者なら拙者を存じおるはず。拙者の名をいえ!」
「はい。それはもう、よく承知いたしております。ヘヘヘヘ、若殿様で――」
「だまれッ! 侍の懐中物に因縁(いんねん)をつけるとは、貴様、よほど命のいらぬ奴とみえるな」
「と、とんでもない! 手前はただ……」
「よし! しからば両口屋へ参ろう、同道いたせ」
 と! 踏み出した栄三郎のうしろから、こと面倒とみてか、男が美(い)いだけの腰抜け侍とてんから呑んでいるつづみの与吉、するりとぬいだ甲斐絹(かいき)うらの半纒(はんてん)を投網(とあみ)のようにかぶらせて、物をもいわずに組みついたのだった。

 来たな!
 と思うと、栄三郎は、このごまの蠅(はえ)みたいな男の無鉄砲におどろくとともに、ぐっと小癪(こしゃく)にさわった。同時に、おどろきと怒りを通りこした一種のおかしみが、頭から与吉の半纒をかぶった栄三郎の胸にまるで自分が茶番(ちゃばん)でもしているようにこみ上げてきた。
 ぷッ! こいつ、おもしろいやつ! というこころ。
 で、瞬間、なんの抵抗(あらそい)も示さずに、充分抱きつかせておいて、……調子に乗りきったつづみの与吉が、
「ざまあ見やがれ、畜生! 御託(ごたく)をならべるのはいいが、このとおり形なしじゃあねえか」
 と!
 見得ばかりではなく、江戸の遊び人のつねとして、喧嘩の際にすばやくすべり落ちるように絹裏(きぬうら)を張りこんでいる半纒に、栄三郎の顔を包んで一気にねじ倒そうとするところを――!
 するりと掻いくぐった栄三郎。ダッ! と片脚あげて与吉の脾腹(ひばら)を蹴ったと見るや、胡麻(ごま)がら唐桟(とうざん)のそのはんてんが、これは! とよろめく与吉の面上に舞い下って、
「てツ! しゃらくせえ……!」
 立ちなおろうとしたが、もがけばいっそう絡(から)みつくばかり。あわてた与吉が、自分の半纒をかぶって獅子(しし)舞いをはじめると……。
「えいッ!」
 霜の気合い。
 栄三郎の手に武蔵太郎が鞘走って、白い光が、横になびいたと思うと、もう刀は鞘へ返っている。
 血――と見えたのは、そこらにカッと陽を受けている雁来紅(はげいとう)だった。
 門前、振袖銀杏のかげからのぞいていた源十郎は、この居合抜きのあざやかさに肝(きも)を消して、もとより与吉は真っ二つになったことと思った。
 が、二つになったのは、与吉ではなくてはんてんだった。まるで鋏で断ち切ったように、左右に分かれて地に落ちている。
 ぽかんと気が抜けて立った与吉は、
「貴様ごときを斬ったところで刀がよごれるばかり、これにこりて以後人を見てものを言え」
 という栄三郎の声に、はっとしてわれに返ったのはいいが、どうして半纒が取られたのか知らないから、怖いものなしだ。
「何をッ! 生意気な」
 うめくより早く、蹴あげた下駄を空で引っつかんで打ってかかった。にっこりした栄三郎、ひょいとはずして、思わず泳ぐ与吉の腰をとんと突く。はずみを食った与吉は、参詣の石だたみをなめて長くなったが……。
 かれもさる者。
 いつのまに栄三郎の懐中をかすめたものか、手にしっかと五十両入りの財布を握って、起き上がると同時に門外をさして駈け出した。
 もう容赦はならぬ。追い撃ちに一刀!
 と柄を前半におさえてあとを踏んだ栄三郎は、門を出ようとする銀杏の樹かげに、ちらと動いた人影に気がつかなかった。
 ましてや、門を出がけに、与吉がその影へ向かって財布を投げて行ったことなどは、栄三郎は夢にも知らない。
 往来で二、三度左右にためらった末、与吉は亀のように黒船町の角へすっ飛んで行く。まがれば高麗(こうらい)屋敷。町家が混んでいて露地抜け道はあやのよう――消えるにはもってこいだ。
 おのれ! 剣のとどきしだい、脇の下からはねあげてやろうと、諏訪栄三郎、腰をおとして追いすがって行った。
 それを見送って、振袖銀杏のかげからにっと笑顔を見せたのは、鈴川源十郎である。
 手に、ずしりと重い財布を持っている。
 斬られたと思った与吉が駈け出して来て、手ぎわよく財布を渡して行ったのだから、源十郎は、あとは野となれ山となれで、食客の丹下左膳が眼の色をかえてさがしている坤竜丸の脇差が、あの若侍の腰にあったことも、この五十両から見ればどうでもよかった。
 見ていたものはない。してやったり! と薄あばたがほころびる。
 ひさしぶりにふところをふくらませた源十郎、前後に眼をやってぶらりと歩き出そうとすると……。
 風もないのにカサ! と鳴る落ち葉の音。
 気にもとめずに銀杏の下を離れようとするうしろから、突如、錆びたわらい声が源十郎の耳をついた。
「はっはっはっは、天知る地知る人知る――悪いことはできんな」

 ぎょっとしてふり返ったが、人影はない。
 雨のような陽の光とともに、扇形の葉が二ひら三ひら散っているばかり――。
 銀杏が口をきいたとしか思われぬ。
 気の迷い!
 と自ら叱って、源十郎が再びゆきかけようとしたとき、またしても近くでクックックッという忍び笑いの声。
 思わず柄に手をかけた源十郎、銀杏の幹へはねかえって身構えると……。
 正覚寺の生け垣にそって旱魃(ひでり)つづきで水の乾いた溝がある。ちょうど振袖銀杏の真下だから、おち敷いた金色の葉が吹き寄せられて、みぞ一ぱいに黄金の小川のようにたまっているのだが、その落ち葉の一ところがむくむくと盛り上がったかと思うとがさがさと溝のなかで起き上がったものがある。
 犬? と思ったのは瞬間で、見すえた源十郎の瞳にうつったのは、一升徳利をまくらにしたなんとも得体(えたい)の知れないひとりの人間だった。
「き、貴様ッ! なんだ貴様は?」
 おどろきの声が、さしのぞく源十郎の口を突っぱしる。
 ところが相手は、答えるまえに、落ち葉の褥(しとね)にゆっくりと胡坐(あぐら)を組んで、きっと源十郎を見返した。
 熟柿(じゅくし)の香がぷんと鼻をつく。
 乞食にしても汚なすぎる風体。
 だが、肩になでる総髪、酒やけのした広い額、名工ののみを思わせる線のゆたかな頬。しかも、きれながの眼には笑いと威がこもって、分厚な胸から腕へ、小山のような肉(しし)おきが鍛えのあとを見せている。
 年齢は四十にはだいぶまがあろう。着ているものは、汗によごれ、わかめのようにぼろの下がった松坂木綿の素袷(すあわせ)だが、豪快の風(ふう)あたりをはらって、とうてい凡庸(ぼんよう)の相ではない。
 あっけにとられた源十郎が、二の句もなく眺めている前で、男はのそりと溝を出て来た。
 ぱっぱっと身体の落ち葉は払ったが、あたまに二、三枚銀杏の葉をくッつけて、徳利を片手に、微風に胸毛をそよがせている立ち姿。せいが高く、岩のような恰幅(かっぷく)である。
 偉丈夫――それに、戦国の野武士のおもかげがあった。
 すっかり気をのまれた源十郎はそれでも充分おちつきを示して、この正体の知れない風来坊をひややかな眼で迎えている。

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