丹下左膳
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著者名:林不忘 

 すっかり素人(しろうと)ふうになったお艶が、身重(みおも)のからだを帯にかくして、常盤(ときわ)橋の袂にたたずんでいた。
 青あらしは、柳の枝も吹けば、道ゆく女の裾もなぶる。
 かろやかな初夏の街。
 すべてが、陰にあって、よかれと糸を引いてくだすった南町奉行大岡越前守忠相さまのたまものである。
 お艶は、大岡様の手によってまつ川から受け出されて羽織の足を洗い、おさよは、これも大岡様から家主喜左衛門へ急使が立って喜左衛門が鈴川源十郎方へ掛けあいにいって救われた。
 そうして今。
 母娘(おやこ)ふたりは、あさくさ田原町三丁目喜左衛門の家に厄介になっているのだが、同じく大岡様のおことばで、鳥越の大久保藤次郎も、留守中の弟栄三郎に勘当を許し、栄三郎は江戸へ帰りしだい、和田家へ入夫してお艶と正式に夫婦(めおと)となり、おさよとともに三人、いや、お艶の腹の子をいれて四人づれで、和田宗右衛門の遺志どおり、相馬中村へ帰藩して和田家を継(つ)ぐことになっているのだ。
 そして、もし栄三郎さまが、夜泣きの刀を入手してくれば、帰藩と同時に其刀(それ)を献上におよび、左膳のものとなるべきはずだったあらゆる賞美と栄誉は、すべてこれ和田栄三郎の有(ゆう)に帰(き)する……と、お艶はいま、あけても暮れても海へ行った栄三郎の帰府と、かれが持ちかえるであろう関の孫六の両剣とを、神仏に念じて、一日も早かれ! と祈っているのだった。
 その、栄三郎の船の入江も近い。
 きょうは十五日――。
 麹町永田馬場の日吉山王、江城(こうじょう)の産土神(うぶすながみ)として氏子(うじこ)もっとも多く、六月十五日はその祭礼である。
 江都第一の大祭。
 別当勧理院(かんりいん)、神主は樹下民部(じゅげみんぶ)。
 神輿(みこし)の通りすじは往来を禁じ、町屋に桟敷(さじき)がかかる。幕毛氈(もうせん)きらびやかにして、脇小路小路は矢来にて仕切り、桜田辺(へん)の大名方より神馬をひかれ、あるいは長柄の供奉(ぐぶ)、御町与力同心のお供あり、神輿三社、獅子二かしら。法師武者とてよろいを着したる馬上の衆徒十騎。出し屋台、ねり物。番数四十六番。町かずおよそ百三十余町。一の鳥居のまえへ詰(つ)め、お通り筋は、星野山より半蔵御門へ入り、吹上竹橋御門、大下馬(おおげば)より常盤橋、本町、十間店本石町、鉄砲町、小船町、小網町、れいがん橋を過ぎ、茅場(かやば)町お旅所にて奉幣(ほうへい)のことあり、それより日本橋通町すじ、姫御門を抜けて霞ヶ関お山に還御(かんぎょ)也。隔年(かくねん)、丑(うし)卯(う)巳(み)未(ひつじ)酉(とり)亥(い)。
 ……とあって。
 きょうのお祭りは、日柄(がら)よし。幸いの好天気、まことに押すな押すなの人出である。
 警護の者が往来往来と人を払ってくるうちに、だんだんと曳(ひ)いて来る三十番雉子町の花車(だし)、それに続いて踊り屋台と順に乗りくみ、そこへ神田橋のほうからも御上覧がすんで三十五番三十六番とワッショイワッショイ! で繰りこむ――大変なさわぎ。
 おどり屋台の滝夜叉姫(たきやしゃひめ)。
 お顔の赤い山王(さんのう)のお猿さん……。
 ふとうしろに声がするので、お艶は、何ごころなく振り返ってみた。
 見物人のなかで、町人達がしゃべりあっている。
「なア由公(よしこう)。たいしたものだなあ!」
「そうよ。だがナ、この祭礼の日に、本所へお捕方が向かったっていうじゃねえか」
「へえい! 本所のどこへ?」
「鈴川という旗本のやしきだとよ」
「アアあの化物屋敷か。それなら何もふしぎはねえやな」
「なんでも、東海道三島の宿で、浅草三間町の鍛冶屋富五郎てエ野郎が飯盛(めしもり)の女を買って金をやったとこがお前、その小判がまえから廻状のまわっていた丸にワの字の極印(ごくいん)つきだからたまらねえや。すぐに両替屋の触帳(ふれちょう)から足がついてナ、その鍛冶屋を江戸へ送ってしらべてみるてえと、なんとかてエ婆さんが鈴川源十郎の手から持って来たことがわかった。その丸にワの字は出羽様の印で、いつかそら、銀町の棟梁伊兵衛親方が相川町で奪(と)られたものだから、ここはなんとあっても、その鈴川てえお旗本が伊兵衛親方をバッサリ殺(や)ったものに違えねえのさ」
「そうとも! それにきまってらアな、南のお奉行様が、いざ手におくだしになるまでにゃアすっかりお調べがとどいているんだ。その御眼力にはずれはねえ。しかもお前、そのめしもりの女ッてエのが、また途法(とほう)もねえ阿婆摺(あばず)れだってえじゃアねえか」
「そうよそうよ! 櫛まきのお藤と言ってナ、江戸お構えだったのが、江戸で見つかったんだけれど、お情けの筋あって東海道へ放されたんだそうだが、こんどは引き売りてえ新手(あらて)の詐偽(かたり)を働いて、そいつもいっしょにつかまったとよ。ひき売りてえのは、お前のめえだが、男がお藤を宿場へ売って、あとから行ってすぐに連れ出すのよ。つづみの与吉てエ野郎だそうな、相手の男は」
「するてえと、お藤と与吉と鍛冶富と三人お手あてになったわけかえ?」
「アアそうよ。鍛冶富はかかりあいだが、みんな江戸へ送られてナ、きょうはいよいよ本所の鈴川様へ御用十手が飛びこんだのだ」
「化物旗本め、今ごろは手がうしろへまわっているに相違ねえ」
 この話し声を、わが身に縁のうすいことのようにボンヤリと聞きながら、お艶がふらふらと橋の欄干に寄ると、世は移り変わり、象(かたち)はちがっても、我欲(がよく)をあらわに渦をまく人の浪。
 茜(あかね)いろの夕陽が天地をこめて、お艶の影を、四辻の土に黒く長くななめに倒している。
 河岸に灯がはいって……夢のよう。
 江戸の祭りは、そのまま夜に入る。




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