丹下左膳
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:林不忘 

 もつまじきは因縁の名刀……しみじみとそんな気がこみあげてきて、弥生がボンヤリとまず夜泣きの両剣を腰間に帯(たい)してみようとした――その一刹那!
 忘れていた山淑の豆太郎……。
 土壇場(どたんば)へじゃまがはいって、手のうちの玉をおとした思いのところへ、見ると、弥生がもとより詳しいことはしらないが、なんでもみなが命がけの大さわぎをしてきたその本尊(ほんぞん)のふたつの刀を、ここに入手したらしいようすなので、かなわぬ恋の意趣返しに、ひとつ横あいからふんだくってやれ……どうせこの家へは、もう誰も帰ってはこねえのだ。いわば空家、かたなを取ったうえで存分にじらし謝まらせ、さていうことをきかせてやろう! こう豆太郎なみの智恵にそそのかされたのであろう、やにわに隠れていた風呂場の隅から飛び出したかれ、
「もらったぞ!」
 一こえどなるより早く、パッ! 夜泣きの大小を弥生の手からかすめとって、同時に小廊下づたいに台所へ跳びおりたかと思うと、そのまま水口の戸障子を蹴倒して戸外へ走り出た。
「ああ――!」
 としばし、わがことながらポカンとしていた弥生、秒刻をおいて気がついて見ると、じぶんの身長より高いくらいの陣太刀二口(ふり)を抱えた豆太郎が、森の木のあいだをくぐり抜けて、みるみるそれこそ豆のように小さくなっていくから、はじめて事態の容易ならぬを知った弥生、呆然から愕然へ立ち返るとともに、
「おのれッ!」
 一散に後を追いだした。
 一丁。
 二丁。
 昼なお小暗い子恋の森の真ん中である。
 斧を知らない杉、楓(かえで)、雑木の類がスクスクと天を摩(ま)して、地には、丈(たけ)なす草が八重むぐらに生いしげり、おまけに、弥生にとってぐあいの悪いことは、豆太郎がその草にのまれて、どこにひそんでいるのか皆目(かいもく)見当(けんとう)のつかないことだ。
 ただ、ザワザワと揺れる草の浪を当てに進む、と果たして!
 何か焚き火の跡らしく黒く草が燃えて、いささか開きになっている地点、両手に雲竜二刀を杖について立っている豆太郎を見いだした。
「ヘッヘッヘ! とうとうここまで来たな!」
 豆太郎がうめいた。
 弥生は無言――そろり、そろりと近づく。
 と、
 再び刀を擁(よう)して草へ跳びこまんず身がまえをつくった豆太郎、
「サ! あっしがこの森の中を駈けまわっているうちゃア、泣いてもほえても、お前さんの手には負えませんよ。ネ! あっしも男だ! いい出したことが聞かれねえとあれア、仕方がねえ。この刀をもらってずらかるばかりさ……それとも弥生さん、ここで往生して眼をつぶるかね? はっはっは、これが舞台なら、サアサアサア――とつめよるところだ!」
 いいながら、今にも身をひるがえして樹間へ走りこみそうにするから、刀を持って行かれてはたまらない弥生が、さりとてこの人猿に自由(まま)にもなれず、進退きわまって立ちすくんでいると、その弥生のようすを承諾の意ととったものか、つかつかとかえってきた豆太郎、
「弥生さん!」
 二剣を右手に、左手をまわして弥生のからだへ掛けようとした。
 思わず、身をすくませる弥生。
 嫌らしくまつわりつく一寸法師。
 その瞬間だった。
 声がしたのである……近くに!
「おうッ! ここかッ! ウム刀も! やッ! 娘もいるなッ!」
 と! 言葉といっしょに。
 独眼刀痕の馬面が、ヌッ! と草を分けて――

  水や空

「やいッ!」
 乾雲を失った左膳、一腕に大刀を振りかぶって立ち現れた。
 それと見るより、早くも豆太郎、弥生を棄てて二剣をかきいだき、みずからは、つと体を低めて懐中を探っている。
 得意の手裏剣をとりだす気。
 左膳の嗄(か)れ声が、またもや森の木の葉をゆすった。
「汝(うぬ)ア化物かッ? 化物にしろ、人語を解(かい)したら、よッくおれのいうところを聞けッ! いいか、その二つの刀とこの娘はナ、去年の秋の大試合におれが一の勝をとって、ともに賞としてもらい受けたのだ、とっくにおれのものなのだ」
 豆太郎は、口をひらかない。ただ、野犬のように白い歯をむき出して、突如、躍りあがるがごとき身ぶりをしたかと思うと、長い腕がブウン! と宙にうなって、紫電(しでん)一閃!
 ガッ! あやうく左膳の首を避けた小柄、にぶい音とともにうしろの樹幹にさし立った。
「ううむ、こいつウッ! やる気だな」
 うめいた左膳さっと、足をひいたのが突進の用意、即座に、左膳、半弧をえがいて豆太郎の素っ首を掻っ飛ばそうとしたが、土をつかんで身をかわした豆太郎、逃げながらの横投げ、錦糸、星のごとく、飛翔(ひしょう)して左膳の右腕へ命中した。
 が、
 あいにくと左膳には右腕がない。
 で、右袖に突きささった短剣はそのまま一、二寸の袖の布地を縫ってとまった。
 ……のもつかの間!
 つづいて四剣、五の剣――と皓矢(こうし)、生けるもののごとく長尾をひき、陽に光り風を起こし、左膳をめがけて槍ぶすまのようにつつんだ……ものの!
 丹下左膳、もとより凡庸(ぼんよう)の剣士ではない。
 タタタタッ! と続けざまに堅い音の散ったのは、左剣上下左右に動転(どうてん)して豆太郎の小刀をたたきおとしたのだった。
「あっ!」
 この剣能に、きもをつぶして声をあげた豆太郎われ知らず、もう一度ふところに手をさし入れたが――小柄はすべて投じてしまって残りがない。
 瞬間! 泣くような顔になったかと思うと、豆太郎はすでに背をめぐらして、目前の草のしげみへ跳びこもうとした。
「待てッ! もう投げる物アねえのかッ!」
 左膳の罵声がそのあとを追った。
 豆太郎は、振り向いた。
 哀れみを乞うような、笑いかけるがごとき表情だった。
 しかし、つぎの刹那、かれは頭から、滝のような血を吹いて真っ赤になった。追いすがった左膳が冷たい微笑とともに一太刀おろしたのである。
 山淑の豆太郎、全身血達磨(ちだるま)のごときすがたで地にのたうちまわったのもしばらく、やがて草の根をつかんで動かなくなった。絶え入ったのだ。
 と見るや左膳は、
「いやなものを斬ったぜ」
 とひとりごと。
 ひきつるような蒼白の笑みとともに、大刀の血糊(ちのり)を草の葉にぬぐいながら、弥生と二剣は? と、そこらを眺めまわすと、いまのさわぎのうちに、いつの間にかまぎれさったものであろう。弥生も、夜泣きの刀も近くに影がない。
 深閑として、陽の高い森の奥。
 雨のような光線の矢が木々の梢を洩れ落ちて、草葉の末の残んの露に映(うつ)ろうのが、どうかすると雑草の花のように、七色のきらめきを見せて左膳の独眼を射る。
 ムッ! とする血のにおい――左膳は、ふたたびニヤリとして豆太郎の死体を見返ったが!
 かれは鈴川源十郎の口から、弥生がこの子恋の森に、五人組の火事装束とともに住んでいると聞いたことを思い出したので、ゆうべ不覚にも、多勢に無勢、ついに乾雲を強奪されたから、それを取り返すつもりで、もしやとこの森へ出かけて来たのだった。
 すると、果たして二刀ところを一にしているのを見は見たものの、豆太郎という邪魔者を退けているうちに、弥生ともどもどこへか消えてしまったのだ。
「なあに、どうせまだこの辺にうろついてるに違えねえ……」
 ガサガサと草を分けて歩き出した左膳の眼に、森の下を急いでゆく弥生と、彼女が小脇にかかえている陣太刀の両刀とが、チラリとうつった。
 走り出す左膳。
 弥生も、ちょっとふり向いたまま、懸命に駈けてゆく。
 追いつ追われつ、二人は森を出はずれたのだった。

 雲竜二刀を確(しか)と抱きしめて子恋の森を走り出た弥生、ゆくてを見ると、四つの駕籠がおりているので、さては得印門下の四人が、何かの用で森の家へ帰って来たのか、やれ助かった! と[#「助かった! と」は底本では「助かった!と」]なおも足を早めて近づくと、
「おうい! そこへ行ったぞウッ!」
 といううしろからの左膳の声に応じて、バラバラバラッと駕籠を出たのを眺めると、
 一難去って二難三難!
 月輪の援隊(えんたい)、三十一人が三人に減ったその残剣一同、首領月輪軍之助、各務房之丞、山東平七郎……これが左膳とともに駕籠を駆って来ていた。その網のまん中へ、われから飛びこんだ小魚のような弥生の立場!
「あれイ……ッ!」
 と、もう本然の女にかえっている弥生、一声たまぎるより早く、ただちに元来た方へとって返そうとしたが!
 ことわざにもいう前門の虎、後門の狼! あとは左膳がおさえてくるのだ。
 右せんか左すべきかと立ち迷ううちに四人のために、手取りにされた弥生、夜泣きの二剣とともに駕籠のひとつにほうりこまれるや否や、同じくそれへ左膳が割りこもうとした。
 その一刻に!
 これもゆうべ。
 多勢に無勢、風雨中の乱戦に、得印五人組のために坤竜丸を奪い去られた栄三郎と泰軒、おくればせながら左膳の一行をつけて駈けてきた。
 そして!
 諏訪栄三郎、そのさまを見るより、昨夜来、血に飽いている武蔵太郎を打(ちょう)ッ! とひるがえして、左膳へ斬りこむ。
「来たなッ!」
 大喝した左膳、栄三郎、泰軒の中間へわざと体を入れながら、
「月輪氏(うじ)、かまわず先へやってくれッ! 落ちあう場所はかねての手はずどおり……あとは拙者が引きうけたから、娘と刀をシカとお預け申したぞ……! サ拙者を残して、一ッ飛ばしにやってくれいッ……」
 わめき立てた。
 同時に。
「ハイッ! いくぜ相棒!」
「合点(がってん)だッ!」
 と駕籠屋の威勢。
「しからば丹下殿、あとを――」
「心得申した、一時も早く!」
 駕籠の内外、左膳と軍之助が言葉を投げあったかと思うと、四つの駕籠がツウと地をういて――。
 二、三歩、足がそろいだすや、腰をすえて肩の振りも一様に、雨後のぬかるみに飛沫(ひまつ)をあげて、たちまち道のはずれに見えずなった。
 チラと見送って安心した左膳、皮肉な笑いを顔いっぱいにただよわせて、泰軒、栄三郎を顧みた。
「ながらく御厄介になり申したが、手前もこれにておいとまつかまつる。刀と娘御は、拙者が試合に勝って鉄斎どのより申し受けた品々……はッはッはは、ありがたく頂戴(ちょうだい)いたすとしよう」
 栄三郎が、口をひらくさきに、泰軒が大笑した。
「まだその大言壮語にはちと早かろうぞ! 貴公の剣、それを正道に使うこころはないかな、惜しいものじゃテ」
「何をぬかしゃアがる! 正道もへったくれもあるもんか。おれアこれでも主君のために……」
「ウム! いいおったナ」
 泰軒は一歩すすみ出た。
「主君のために! おお、そうであろう、いかにもそうであろう! 藩主相馬大膳亮どのの蒐刀(しゅうとう)のために――はははは、越前もそう申しておった……」
 キラリ眼を光らせた左膳、
「越前……とは、かの南の奉行か?」
「そうよ! 越前に二つはあるまい!」
 と、聞くより左膳、
「チェッ! その件に越州(えっしゅう)が首を突っこんでおるのか……ウウム! それではまだ、てめえのいうとおり、おれも安心が早すぎたかも知れねえ! や! こりゃアこうしちゃあいられねえぞ」
 声とともに左膳は、パッ! おどり立って一刀を振ったかと思うと、それッ! と構えた泰軒栄三郎のあいだをつと走り抜けて、折りから、むこうの小みちづたいに馬をひいて来た百姓のほうへスッとんでゆく。
 左膳が百姓を突きとばすのと、かれがその裸馬へ飛び乗るのと、驚いた馬が一散に駈け出すのと左膳がまた馬上ながらに手を伸ばして立ち木の枝を折り取り、ピシィリ! 一鞭(むち)、したたかに奔馬をあおりたてたのと、これらすべてが同瞬の出来事だった。
 鞍上(あんじょう)人なく、鞍下(あんか)馬なし矣。
 左膳はほしとなり点となって、刻々に砂塵のなかに消え去ってゆくのだ。
 その時だった。
 唖然(あぜん)としていた泰軒と栄三郎が耳ちかく悍馬(かんば)のいななきを聞いたのは。
 時にとって何よりの助けの神!
 と、馬のいななきに、泰軒と栄三郎がふり返ってみると!
 覆面の侍がひとり、二頭の馬のくつわをとって、いつのまにやら立っている。
 ふたりはギョッとしていましめ合ったが、黒頭巾の士は、馬をひいてツカツカと歩みより、
「お召しなされ! これから追えば、かの馬上左腕の仁のあとをたどることも容易でござろう。いざ、御遠慮なく!」
「かたじけない!」
 泰軒は低頭して、
「どなたかは知らぬが、思うところあって御助力くださるものと存ずる」
「いかにも! すべて殿の命(めい)でござる。いたるところに疾(とく)に手配してあるによって、安堵して追いつめられい!」
 という意外な情けの言葉に、
「殿(との)……とは?」
 泰軒が問い返すと、
「サ、それはお答えいたしかねる。とにかく一刻を争う場合、瞬時も早くこの馬を駆って――」
 終わるのを待たで御免! とばかり鞍にまたがった泰軒と栄三郎、左膳の去った方をさしてハイドウッ! まっしぐらに馳せると、いくこと暫時にして左膳の姿を認めだしたが、左膳、馬術をもよくするとみえて、なかなかに追いつけない。三頭の馬が砂ほこりを上げて江戸の町を突っきり、ついにいきどまって浜辺へ出た。
 汐留(しおどめ)の海である。
 見ると、ヒラリ馬から飛びおりた左膳は、前から用意してあったらしく、そこにもやってある一艘の伝馬船(てんません)へ乗り移ったかと思うとブツリ……綱を切り、沖をさして漕(こ)ぎ出した。
 船には、さっき月輪の三人が、弥生と乾坤二刀を積みこんで待っていたのだ。
 さては! 海路をとって相馬中村へ逃げる気とみえる! と栄三郎と泰軒が船をにらんで地団駄(じだんだ)をふんだとき。
 スウッと背後に影のように立った、またもや覆面の士!
 ふたりには頓着なく、
「これへ!」
 とさし招くと、艪(ろ)の音も勇ましく船べりを寄せてきた一隻の大伝馬がある。
「乗られい!」
 侍がいった。
 その声に、泰軒はおぼえがあるらしく、
「オ! 貴公は大……!」
 いいかけると、侍が手を振った。だまって船を指さしている。
「わかった! すべて、貴公の胆(きも)いり――かくまで手配がとどいていたのか。ありがたい! さすが南の……オッと……何にもいわぬ! これだッ!」
 と泰軒、手を合わせて件(くだん)の侍を拝むと、侍は頭巾の裏で莞爾(かんじ)としているものとみえて、しきりにうなずきながら、早く乗り移れ! と手真似をする。そして!
「前々から彼奴(きゃつ)ら一派の動静は細大洩らさず探ってあって、きょうの手はずもとうにできておった。それからナ彼奴にはもう何人(なんびと)の呼吸もかかっておらぬぞ。よいか、外桜田に相馬の上屋敷がある。そこの江戸家老を呼んでいささかおどかしたのじゃ。ついに、刀を集める左腕独眼の剣士、そんなものは知らぬといわせてやった。はっはっは、これならばもう彼は相馬の士ではない。いわば野良犬……な、斬ろうと張ろうと、北の方角から文句の出るおそれはないわい。存分に……」
「そうかッ! よしッ」
「奉行いたずらに賢人ぶるにおいては――ではないが、わしにも眼がある。黙っておってもやるだけのことはやるよ。江戸の始末はわしに任(まか)せておいて、どこまでもあの船を追ってゆくがよい。早ういけ! あんなに小そうなったぞ!」
 黙ってこの侍に頭を下げた泰軒、栄三郎を促して、差しまわしの船に飛び乗った。
 屈強の船方がそろっている。
 すぐに櫓なみをはずませて、左膳の船のあとを追い出した。
 しおどめ。
 左に仙気(せんき)稲荷。
 一望、ただ水。
 広やかな眺めである。
 ギイギイと櫓べそのきしむ音。
 二艘の船は、こうして江戸を船出したのだった。
 藍(あい)いろの海。
 うす青い連山。
 かえり見ると、磯に下り立つ覆面のさむらいの姿は、針の先となって視界のそとに没し去ろうとしていた。
 ……水と空のみが、船と船のゆくてにあった。

  夕陽(ゆうひ)の辻(つじ)

 似よりの船あし。
 風のない昼夜。
 油を流したような入(い)り海(うみ)に、おなじ隔(へだ)たりがふたつの船のあいだに何日となくつづいた。
 白い水尾(みお)[#ルビの「みお」は底本では「みを」]を引く左膳の船のあとに乗って、栄三郎、泰軒の船があきもせずについてゆくばかり……。
 敵意も戦意も失せそうな、だるい航海のあけくれだった。
 その間、左膳の船では。
 むりやりに担(かつ)ぎこみはしたものの、いざそばに見るとその気高(けだか)い処女の威におされて、さすがの左膳も弥生には手が出せず、今はただ雲竜双刀のみを守って弥生は大切に取り扱い、ひたすら一路相馬中村に近い松川浦へ船の入る日を待っているのだった。
 月輪の三士、軍之助、各務房之丞、山東平七郎とても同じこと。
 血筆帳(けっぴつちょう)の旅で江戸へ出たとき、かれらのうち誰がこんにちのさびしさを思ったものがあろう!
 三十一人わずか三人に減じられて、落人(おちうど)のごとく胴の間にさらされているのだ。
 栄枯盛衰(えいこせいすい)――そうした言葉が、軍之助の胸を去来してやまなかった。
 板子(いたこ)一枚下は地獄。
 海の旅は、同船のものをしたしくする。
 追う船も、追われる船も、おなじ天候の支配を受けて、ただ追い、ただ追われているのみだった。
 先の船には弥生。
 あとの船には栄三郎。
 どんな思いで、たがいの帆を望み、綱のうなりを聞き、鴎(かもめ)のむれを見たことであろう。
 昼は、雲の峰。
 夜は月のしずく。
 そうして。
 八幡の宿。
 王井(おうい)。
 畦戸(あぜと)の浜。
 大貫。佐貫の村々。
 富田岬をかわして、安房(あわ)の勝山、走水(はしりみず)。
 観音崎から、那古、舟形(ふながた)。
 三崎……城ヶ島。
 このあたりのたびたびの通り雨、両船にて、茶碗、盥(たらい)等、あらゆる凹器を持ち出し、あま水を受く。飲料なり。
 それより北条の町の灯。
 九重(ここのえ)安信神社の杉森。
 野島崎。しらはま。和田の浦。江見。安房(あわ)鴨川。東浪見――。
 そと海に出て、九十九里浜。
 松尾。千潟(ちがた)。外川(とがわ)。
 屏風(びょうぶ)ヶ浦より犬吠(いぬぼう)。
 飯沼観音のながめ。
 大利根を左、海鹿(あじか)島を右に、鹿島灘(かしまなだ)へ出て銚子、矢田部。
 北上して――。
 大洗から磯浜、平磯、磯崎……磯前(いそざき)[#「磯前」は底本では「礎前」]神社あり。
 つぎに阿漕(あこぎ)、松川磯の小木津。
 関本。勿来(なこそ)。小名浜。江名。草野。四ツ倉。竜田。夜の森。浪江。
 このへんより松川浦にかかって小高、原の町、日立木の漁村つづき。
 仙台湾。
 名にし負う塩釜(しおがま)神社に近く、右手の沖は、鮎川のながれを受ける金華山(きんかざん)。
 怒濤(どとう)……。
 江戸を出て九日目の夕ぐれだった。
 午すぎからあやぶまれていた空模様は、夜とともに大粒な雨をおとして、それに風さえくわわり、二つの船は見るみる金華山沖へ流れていったが!
 やがて。
 真夜中ごろであろうか、一大音響をたてて船が衝突すると、あらしをついて栄三郎、泰軒が、左膳の船中へ乗り入り、まもなく月輪の三士をことごとく斬りふせたとき! かなわぬと見た左膳。
 ただちに手にした夜泣きの大小を海中へ投じたが、すかさず! 栄三郎が水へもぐって、沈まんとして流れてきた二刀を拾い上げ、船へ泳ぎ戻った。
 そして!
 その二剣を、船中に倒れていた弥生の手に握らせた時、ニッコリした弥生は、それを改めて栄三郎へ返してただひとこと。
「どうぞお艶さまと……」
 かすかに洩らしたのが最期。
 さびしい――けれども、いい知れぬ平和な満足が、金華山洋上あらしの夜、弥生の死顔のうえにかがやいたのだった。
 泪をぬぐった栄三郎が、泰軒の指す方を見やると、はるか暗い浪のあいだに、船板をいかだに組んで、丹下左膳の長身が、生けるとも死んでともなく、遠く遠くただよい去りつつあった。
 遠く遠く、やがて白むであろう東の沖へ……。
 なんという長い月日であったろう!

 かくしてここに、乾雲坤竜の二剣、再び諏訪栄三郎の手に返ったのだった。
 青葉若葉……。
 六月のなかばの江戸である。
 すっかり素人(しろうと)ふうになったお艶が、身重(みおも)のからだを帯にかくして、常盤(ときわ)橋の袂にたたずんでいた。
 青あらしは、柳の枝も吹けば、道ゆく女の裾もなぶる。
 かろやかな初夏の街。
 すべてが、陰にあって、よかれと糸を引いてくだすった南町奉行大岡越前守忠相さまのたまものである。
 お艶は、大岡様の手によってまつ川から受け出されて羽織の足を洗い、おさよは、これも大岡様から家主喜左衛門へ急使が立って喜左衛門が鈴川源十郎方へ掛けあいにいって救われた。
 そうして今。
 母娘(おやこ)ふたりは、あさくさ田原町三丁目喜左衛門の家に厄介になっているのだが、同じく大岡様のおことばで、鳥越の大久保藤次郎も、留守中の弟栄三郎に勘当を許し、栄三郎は江戸へ帰りしだい、和田家へ入夫してお艶と正式に夫婦(めおと)となり、おさよとともに三人、いや、お艶の腹の子をいれて四人づれで、和田宗右衛門の遺志どおり、相馬中村へ帰藩して和田家を継(つ)ぐことになっているのだ。
 そして、もし栄三郎さまが、夜泣きの刀を入手してくれば、帰藩と同時に其刀(それ)を献上におよび、左膳のものとなるべきはずだったあらゆる賞美と栄誉は、すべてこれ和田栄三郎の有(ゆう)に帰(き)する……と、お艶はいま、あけても暮れても海へ行った栄三郎の帰府と、かれが持ちかえるであろう関の孫六の両剣とを、神仏に念じて、一日も早かれ! と祈っているのだった。
 その、栄三郎の船の入江も近い。
 きょうは十五日――。
 麹町永田馬場の日吉山王、江城(こうじょう)の産土神(うぶすながみ)として氏子(うじこ)もっとも多く、六月十五日はその祭礼である。
 江都第一の大祭。
 別当勧理院(かんりいん)、神主は樹下民部(じゅげみんぶ)。
 神輿(みこし)の通りすじは往来を禁じ、町屋に桟敷(さじき)がかかる。幕毛氈(もうせん)きらびやかにして、脇小路小路は矢来にて仕切り、桜田辺(へん)の大名方より神馬をひかれ、あるいは長柄の供奉(ぐぶ)、御町与力同心のお供あり、神輿三社、獅子二かしら。法師武者とてよろいを着したる馬上の衆徒十騎。出し屋台、ねり物。番数四十六番。町かずおよそ百三十余町。一の鳥居のまえへ詰(つ)め、お通り筋は、星野山より半蔵御門へ入り、吹上竹橋御門、大下馬(おおげば)より常盤橋、本町、十間店本石町、鉄砲町、小船町、小網町、れいがん橋を過ぎ、茅場(かやば)町お旅所にて奉幣(ほうへい)のことあり、それより日本橋通町すじ、姫御門を抜けて霞ヶ関お山に還御(かんぎょ)也。隔年(かくねん)、丑(うし)卯(う)巳(み)未(ひつじ)酉(とり)亥(い)。
 ……とあって。
 きょうのお祭りは、日柄(がら)よし。幸いの好天気、まことに押すな押すなの人出である。
 警護の者が往来往来と人を払ってくるうちに、だんだんと曳(ひ)いて来る三十番雉子町の花車(だし)、それに続いて踊り屋台と順に乗りくみ、そこへ神田橋のほうからも御上覧がすんで三十五番三十六番とワッショイワッショイ! で繰りこむ――大変なさわぎ。
 おどり屋台の滝夜叉姫(たきやしゃひめ)。
 お顔の赤い山王(さんのう)のお猿さん……。
 ふとうしろに声がするので、お艶は、何ごころなく振り返ってみた。
 見物人のなかで、町人達がしゃべりあっている。
「なア由公(よしこう)。たいしたものだなあ!」
「そうよ。だがナ、この祭礼の日に、本所へお捕方が向かったっていうじゃねえか」
「へえい! 本所のどこへ?」
「鈴川という旗本のやしきだとよ」
「アアあの化物屋敷か。それなら何もふしぎはねえやな」
「なんでも、東海道三島の宿で、浅草三間町の鍛冶屋富五郎てエ野郎が飯盛(めしもり)の女を買って金をやったとこがお前、その小判がまえから廻状のまわっていた丸にワの字の極印(ごくいん)つきだからたまらねえや。すぐに両替屋の触帳(ふれちょう)から足がついてナ、その鍛冶屋を江戸へ送ってしらべてみるてえと、なんとかてエ婆さんが鈴川源十郎の手から持って来たことがわかった。その丸にワの字は出羽様の印で、いつかそら、銀町の棟梁伊兵衛親方が相川町で奪(と)られたものだから、ここはなんとあっても、その鈴川てえお旗本が伊兵衛親方をバッサリ殺(や)ったものに違えねえのさ」
「そうとも! それにきまってらアな、南のお奉行様が、いざ手におくだしになるまでにゃアすっかりお調べがとどいているんだ。その御眼力にはずれはねえ。しかもお前、そのめしもりの女ッてエのが、また途法(とほう)もねえ阿婆摺(あばず)れだってえじゃアねえか」
「そうよそうよ! 櫛まきのお藤と言ってナ、江戸お構えだったのが、江戸で見つかったんだけれど、お情けの筋あって東海道へ放されたんだそうだが、こんどは引き売りてえ新手(あらて)の詐偽(かたり)を働いて、そいつもいっしょにつかまったとよ。ひき売りてえのは、お前のめえだが、男がお藤を宿場へ売って、あとから行ってすぐに連れ出すのよ。つづみの与吉てエ野郎だそうな、相手の男は」
「するてえと、お藤と与吉と鍛冶富と三人お手あてになったわけかえ?」
「アアそうよ。鍛冶富はかかりあいだが、みんな江戸へ送られてナ、きょうはいよいよ本所の鈴川様へ御用十手が飛びこんだのだ」
「化物旗本め、今ごろは手がうしろへまわっているに相違ねえ」
 この話し声を、わが身に縁のうすいことのようにボンヤリと聞きながら、お艶がふらふらと橋の欄干に寄ると、世は移り変わり、象(かたち)はちがっても、我欲(がよく)をあらわに渦をまく人の浪。
 茜(あかね)いろの夕陽が天地をこめて、お艶の影を、四辻の土に黒く長くななめに倒している。
 河岸に灯がはいって……夢のよう。
 江戸の祭りは、そのまま夜に入る。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:759 KB

担当:undef