丹下左膳
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著者名:林不忘 

 あとには、腹を抱えて笑う泰軒先生の大声が、また一段高々とひびいていた。

  三界風雨(さんがいふうう)

 笄橋の袂(たもと)。
 春の陽が木の間をとおして、何か高貴な敷物のような、黒と黄のまだらを織り出しているところに。
 助太刀や、とめだてはおろか、誰ひとり見る者もなく、栄三郎と左膳、各剣技の奥義(おうぎ)を示して、ここを先途と斬りむすんでいるのだった。
 刃とやいば――とよりも、むしろそれは、気と気、心と心の張りあい、そして、搏撃(はくげき)であった。
 壮観!
 早くも夏の匂いのする風が、森をとおしてどこからともなく吹き渡るごとに、立ち会う二人の着物の裾がヒラヒラとなびいて、例の左膳の女物の肌着が草の葉をなでる。
 ムッとする土と植物の香。
 ひと雨ほしいこのごろの陽気では、ただじっとしていても汗ばむことの多いのに、ここに雌雄(しゆう)を決しようとする両士、渾心(こんしん)の力を刀鋒(とうほう)にこめての気合いだから、いとも容易に動発しないとはいえ、流汗淋漓(りんり)、栄三郎の素袷(すあわせ)の背には、もはや丸く汗のひろがりがにじみ出ている。
 チチチ……とまるで生きもののように、二つの刀の先が五、六寸の間隔をおいて、かすかにふるえているのだが、どちらかの刀が少しく出て、チャリーと[#「チャリーと」は底本では「チャリー と」]小さな、けれども鋭いはがねの音を発するが早いか、双方ともに何ものかに驚いたかのごとく、パッと左右に飛びはなれて静止する。
 それからジリジリと小きざみに両士相寄ってゆくのだが、再び鋩子先(ぼうしさき)がふれたかと思うと、またもや同時に飛びすさって身を構える……同じことを繰り返して、春日遅々、外見はまことに長閑(のどか)なようだが命のやりとりをしている左膳、栄三郎の身になれば、のどかどころか、全身これ神経と化し去っているのだ。
 そのうちに!
 独眼にすごみを加えていらだって来た丹下左膳、無法の法こそ彼の身上(しんじょう)だ、突如! 左腕の乾雲をスウッ――ピタリ、おのが左側にひきおろして茫(ぼう)ッと立った。泰軒先生得意の自源流水月の構えに似ている……と見えたのはつかのま!
「うぬ! てめえなんかに暇をつぶしちゃいられねえや。もう飴(あめ)を食わせずに斬ッ伏せるから覚悟しやがれッ!」
 声とともに殺気みなぎった左膳、身を斜めにおどらせて右から左へ逆に横一文字、乾雲あわや栄三郎の血を喫したか? と思う瞬間、白蛇長閃(ちょうせん)してよく乾雲をたたきかえした新刀の剛武蔵太郎安国、流された左膳が、ツツツツ――ウッ! 思わずたたら足、土煙をあげて前のめりに泳いで来るところを!
 すかさず栄三郎。
 払った刀を持ちなおすまもあらばこそ、数歩急進すると同時に、捨て身の拝(おが)み撃(う)ち、すぐに一刀をひっかついで、
「…………」
 無言、一気にわってさげようとした――が!
 余人なら知らぬこと、月輪にあっても荒殺剣(こうさつけん)の第一人者として先代月輪軍之助に邪道視され、それがかえって国主大膳亮のめがねにかない、一徒士の身をもって直接秘命を帯び、こうして江戸に出て来たのち、幾多の修羅場をはじめ逆袈裟(ぎゃくけさ)がけの辻斬りによって、からだがなまぐさくなるほど人血を浴びて来た左膳のことだ。いかに栄三郎、神変夢想の万化剣をもつといえども、いまだ白昼の一騎勝負に左膳をたおすことはできなかった。
 と見えて。
 サッ! と電落した武蔵太郎の刃先にかかり、折りからの風に乗ってへんぽんと左膳の足をはなれたのは、着物とそうして、女物の肌着の裾だけ……。
「むちゃをやるぜオイ!」
 いつしか飛びのいて立ち木に寄った左膳が、こう白い歯を見せて洒々然(しゃしゃぜん)と笑ったとき!
 ヒュウッ!
 どこからとも知れず、宙にうなって飛来したのは、いわずもがな、人猿山椒(さんしょう)の豆太郎投ずるところの本朝の覇(は)、手裏剣の小柄!
「こりゃアいけねえ……南無三(なむさん)」
 左膳のうめきが、海底のような子恋の森の空気をゆるがせて響き渡った。

 飛びきたった豆太郎の短剣は、危うく左膳の首をよけて、ブスッと音してその寄りかかっている木の幹につき立っただけだったが、場合が場合、左膳の驚きは大きかったのであろう。彼はとっさに一、二間(けん)とびのくと同時に、ピタリ乾雲を正面に構えながら、一方栄三郎を牽制(けんせい)しつつ、大声に呼ばわった。
「出てこいッ、卑怯者めッ! 声はすれども姿は見えず……チッ! ほととぎすじゃあるめえし、出て来て挨拶をするがいいや」
 が、この左膳の大喝に答えたのは、森をぬけてかえって来る山彦ばかり、あたりは依然として静寂をきわめている。
 どこを見ても手裏剣のぬしの姿はないのだ。それも道理。
 丹下左膳がこの青山の弥生の住所を知ってかけ出したと見るや、弥生は一筆走らせて豆太郎を使いに瓦町へしらせると同時に、自らも道を急いで青山へ引っかえし、森の一隅で瓦町へ寄って来る豆太郎を待ち二人で左膳を待ち伏せるつもりだった……にもかかわらず、左膳のほうが先に来たばかりに、こうして栄三郎と斬りむすんでいる最中へ、おくればせながら弥生と豆太郎が現場近くかけつけたわけで、今もそこら近くの草のあいだに、この両人が身をひそめているに相違なかった。
 と気がつくや!
 左膳は栄三郎を飛来剣から庇護(ひご)するがごとく見せかけ、同瞬、左腕の乾雲をひらめかし、続いて飛びきたるであろう二の剣三の剣に備えながら、ニヤリ! 苦笑とともにそっとあとずさりをはじめたかと思うと、予期した剣がつづいて来ないのに刹那(せつな)安心した左膳。
「諏訪氏(すわうじ)、またくだらねえじゃまがはいったようだ。近いうちに再会いたし、その節こそは左膳、りっぱにお腰の一刀を申し受けるつもりだから、今からしかと約束いたしておこう」
 いうや否、左膳はゆっくりと身をめぐらして、突如森の奥へ駈け出しそうにするから、闘気に燃えたっている栄三郎は、あわてて身を挺して追いかけようとしたとき、眼前の笹藪(ささやぶ)がざわめいて、兎のように躍り出たのは、帯のまわりに裸の短剣をズラリとさしまわした亀背の一寸法師!
 これが弥生に使われる山椒の豆太郎であろうとは、栄三郎はもとより知るよしもないから、ハッとして立ちすくんだ刹那、その怪物のうしろに、もう一人立ち現れた覆面の人影、美しい若侍とみえて澄んだ眼が二つ、顔の黒布のあいだからジッと栄三郎を見つめたまま、しきりに手を上げて、栄三郎に停止の意味を示している。
 弥生!――とは夢にも知らない栄三郎、この、人猿めいた怪物と、その飼主らしい撫肩(なでがた)の若侍とを斬りまくってゆくくらいのことは、さして難事でもないように感じられたが、そのまに、片うでを空(くう)にうちふりつつ見る見る森の下を駈けぬけてゆく左膳のすがたが、だんだん遠ざかりつつあるのを知ると、栄三郎も追跡を断念してあらためて眼のまえの小男と、そのうしろに立っている若侍とを見なおした。
 灌木(かんぼく)と草とに、ほとんど全身を埋めて、大きな顔をニヤつかせている小男!
 なんという奇怪な! こんな奇妙な人間は見たことがないと……思うとたんに、栄三郎は、一瞬悪寒(おかん)が背筋を走るのをおぼえて、こんどは、この男の主人らしい若侍へ目を移した。
 やせぎすの小男……黒のふくめんをしているので、その面立(おもだ)ちは見きわめるよしもないが、切れ長のうつくしい目がやきつくように栄三郎のおもてに射られて、それが、単に気のせいか、なみだにうるんでいるごとく栄三郎には思われるのだ。
 栄三郎はキッとなった。
「助剣のおつもりかは知らぬが、いらぬことをなされたものでござる……」
 すると、
「エヘヘヘ」
 笑い出した男をつと片手に制して、若侍は無言のままきびすを返して、森の奥へはいろうとする。
 その、回転の動作に、なんとなく栄三郎の記憶を呼びおこすものがあった。
「お!」栄三郎はあえいだ。
「や、弥生どの――ではござりませぬかッ!」
 が、弥生は返事はおろか、見かえりもしないで、豆太郎をうながし、森の中のむらさき色へ消えようとしている。
「弥生どのッ! オオそうだッ、弥生どのだッ!」
 という栄三郎の声に、弥生が逃げるように足を早めると、ならんで歩いている豆太郎が、横から顔を振りあおいだ。
「弥生の伊織さんか……ヘッヘッヘ、本名弥生さんてンですね、あんたは」
 刹那、またしても、
「弥生どの、お待ちくだされ――!」
 栄三郎の声が、あわただしく追ってくる。
 その日のそぼそぼ暮れであった。
 江戸の夕ぐれはむらさきに、悩ましい晩春の夜のおとずれを報じている。
 陽の入りがおそくなった。
 空高く西の雲に残光が朱(あけ)ににじんで鳶(とび)に追われる鳥のむれであろう、ごまを撒(ま)いたように点々として飛びかわしていた。
 そして。
 地には、水いろの宵風がほのかに立ちそめようとするころ。
 本所法恩寺まえの化物屋敷、鈴川源十郎の離庵(はなれ)に、ひとりは座敷にすわり、他は縁に腰かけて、ふたりの人影が何かしきりに話しあっている。
 やぐら下のまつ川を泰軒の手から逃げ出して来た源十郎と――。
 青山長者ヶ丸子恋の森で、栄三郎の斬先(きっさき)と豆太郎の飛来剣をあやうくかわしてきた丹下左膳と。
 左膳は源十郎の口から弥生の居場所を聞き、源十郎は、また左膳によって、お艶がいることとのみ思いこんでまつ川へのりこんだのだから、たがいに言い分はあるはず。
「おい源十!」
 左膳はもう喧嘩ごしだ。
「てめえッてやつはなんて友達がいのねえ野郎だ! 汝(うぬ)アおれに出放題をぬかしておびき出し、子恋の森であの人猿めに一本投げさせて命を奪る算段だったに相違ねえ。が、そうは問屋がおろさねえや。源的! こうしてピンピンしていらっしゃる左膳さまのめえに、手前、よくイケしゃあしゃあとそのあばたづらをさらせるな。たった今この乾雲の錆(さび)にしてくれるから、待ったはきかねえぞッ!」
 縁にかけている源十郎は、鯉口(こいくち)を切った大刀を側近く引きつけてつめたく笑った。
「まあ考えても見ろ。貴様のいうことを真に受けて、テッキリお艶が隠れているものと信じ、おっとり刀で障子をあけたところが、かの、泰軒とか申す乞食がふんぞり返っておるではないか。仕方がないで、一刀をぬいて暴れぬいて逃げて参ったのだが、源十郎この年歳(とし)になるまで、きょうほど業(ごう)さらしな目にあったことはない。恨みは、こっちからこそいうべき筋だ。左膳、いったい貴様は、お艶が夢八とか名乗って、やぐら下のまつ川から羽織に出ておるということを誰に聞いたのだ!」
「ウウム!」
 左膳は、うなり出してしまった。
「てめえのほうにもそんな手違いがあったとしてみると、おれも手前に、そう強くは当たられねえわけだが……ハアテふしぎ! それより源の字、弥生が子恋の森の一軒家に住んでおると汝(うぬ)に話したのはだれだ!」
 腕を組んだ源十郎、
「こりゃア貴公のいうとおり、われら両人がともに謀(はか)られたものにちがいあるまい。貴公と拙者、争いはいつでもできる。まずそのまえに、われらをたばかったものを突きとめ、きゃつらの心組みを糺明(きゅうめい)いたそうではないか」
「うむ」
「いわばわれら両人は同じ災厄におうたようなもの。ここはいたずらに恨みあう場合でないとぞんずる。どうじゃ!」
「それあまアそうだ。だが、源十、てめえに弥生のことを告げたのは誰だと、それをきいておるではないか」
「そうか。それならいうが、じつは突然、かの櫛まきお藤がたずねて参ってナ――」
「ナニ! お藤ッ!」
 みなまで聞かずに、左膳は片手に乾雲をひっさげて突ったった。かた目が夕陽にきらめく。
「お藤かッ……チ、畜生ッ! どこにいるのだ、真ッ二つにしてくれる――」
「まア待て!」
 源十郎も立ちあがった。
「もうおらん、ここにはおらん。すぐ帰っていった……しかし、貴様にお艶のいどころを深川のまつ川とふきこんだ本人はだれなのか貴公、まだそれをいわんではないか」
 左膳の頬の刀痕が笑いに引っつる。
「なあに、それは与の公――例のつづみの与吉から聞いたのだ」
「与吉!」
 とおうむ返しに源十郎が驚き、
「さては、お藤めの意趣がえしであったか……」
 左膳が同じく歯を噛(か)んだちょうどそのときに、ビクビクもののつづみの与吉が、全身に汗をかいて荒れ庭の地を這い、ソウッと左膳の離室を遠ざかろうとしていた。
「こりゃアいけねえ! いまみつかったら百年目、いきなりバッサリやられるにきまってる……桑原(くわばら)桑原!」
 土をなめながら、与吉はつぶやいた。
「姐御(あねご)! 姐御ッ! 大変だッ!」
 というあわただしい声が、まっくらな穴ぐらの入口から飛びこんでくると、櫛まきお藤は暗い中でムックリと身を起こした。
 第六天……篠塚(しのづか)いなりの地下、非常の場合に捕り手をまく穴に、お藤はさきごろからひとり籠(こ)もっているのだった。
「なんだい、そうぞうしいねえ」
 チッ! と軽く舌打ちをしたものの、ただならぬ与吉のようすに、お藤の声も思わずうわずっていた。
 お藤が、そのあぶないからだを稲荷の穴へひそめて、ながらく外部(そと)へ出ずにいても、いつも世の動きを耳へ入れておくことのできたのは、このつづみの与吉があいだに立って絶えず報知(しらせ)をもちこんできていたからで、誰知らぬ場所とはいえ、与の公だけはとうからこのお藤姐御が一代の智恵をしぼった隠れ家を心得ていたのだ。
 今、
 その与吉が、いつになくあわてふためいて駈けこんで来たのだから、さすがのお藤が胆(きも)をつぶしたのももっともで、
「なんだねえ、与のさん、ただ大変じゃアわからないじゃないか。何がどうしたッていうのさ」
 こう落着きをよそおってききながらも、お藤は不安らしくジリジリしていると、天地のあかるい夕焼けの一刻から急に黒暗々の地室へ走りこんだので目が見えなくなったも同然になったつづみの与の公、腰を抜かすように、ペッタリ破れ筵(むしろ)にしりもちをつくなり、
「おちついてちゃアいけねえ! と、とにかく大変! く、首が飛びます首がッ!」
「ホホホホ!」お藤は笑い出した。
「そりゃア、与の公、お前らしくもない。いまに始まったことじゃアないじゃないか。お互いさま、いつ首が飛ぶか知れない身の上なんだから考えてみると、おとなしくしているだけ損なわけさね」
 与吉は、ことばより先に、大きく頭上に両手を振りみだして、
「チョッ! そ、そんな……そんなのんきなんじゃアねえ! なにしろ姐御(あねご)、本所の殿様と左膳さまが、あっしと姐御を重ねておいて二つにしようってんだから――」
「おや! それあおもしろい! けど嫌だよ、お前といっしょにふたつにされるなんて……不義者じゃアあるまいし」
「さ! そこだ!」
 と与吉は乗り出して、
「さっきわたしが左膳さまのはなれへちょいと顔出ししようと思ってネ、ぼんやりあそこの前まで行くてえと、なんだか話し声がするじゃアございませんか」
「そのなかに、与吉、お藤てエのが聞こえたから、こりゃアあやしい、なんだろう?――こう思ってジッと聞いてみるてえと――」
「そうすると?」
「驚きましたね」
「何がサ?」
「イヤハヤ! おどろき桃(もも)の木山椒(さんしょう)の木で、さあ!」
「うるさいねえ。なんでそう驚いたのさ」
「いえね姐御、お前さん鈴川の殿様に、弥生さんのいどころを知らせておやんなすったろう?」
「ああ。ちょいと考えがあって知らせてやったのさ。それがどうかしたのかえ?」
「そいつだ! 実ア姐御、あッしもちょっかいを出して左膳様にお艶の居場所を教えたんだが、ところがお前さん、ふたりがさっそくしらせあってすぐとめいめいの女のところへ駈け出したらしいんだが、どっちもおあいにくで、おまけに恥をかくやら命があぶなくなるやら、両方ともほうほうのていで逃げ帰ってネ、あやうく果たしあいになるところで、たがいに話の仕入れ先がわかったもんだから、それで急にこっちへ火さきが向いて来て、なんでも鈴川の殿様と左膳さまは、姐御とあッしをみつけしだい殺(ば)らしてしまうと、それはそれはたいした意気込みですぜ」
 与吉のはなしの中途で立ちあがって、くらいなかに帯を締めなおしていた櫛まきのお藤が、このとき低い声で、うめくようにいったのだった。
「与の公、したくをおし! サ、長いわらじをはこうよ。だが、その前に……」
 あとは耳打ち――与吉はただ、眼を見はって、つづけざまにうなずいていた。

 外桜田(そとさくらだ)……南町奉行大岡越前守忠相の役宅。
 まだ宵のくちだった。
 奥の一間に、夕食ののちのひと刻を、腰元のささげてくる茶に咽喉をうるおしつつ、何思うともなく、庭前のうす暗闇に散りかかる牡丹(ぼたん)の花を眺めている忠相を、うら木戸の方に当たってわき起こったあわただしいののしり声が、ちょうど静かな水面に一つの石の投ぜられたように、突如として驚かしたのだった。
 何ごとであろう? また、黒犬めが悪戯(わるさ)でもしおったのではないか――。
 と、忠相が聞き耳を立てたとき、用人の伊吹大作が、ことごとく恐縮して敷居ぎわにかしこまった。
「なんじゃナ、大作」
 忠相は、にこやかな顔を向けた。
「は。お耳に入りまして恐れ入りまする。実はソノ、ただいま、なんでございます、気のふれた女がひとりお裏門へさしかかりまして……」
「ほほう! 気がふれた女か?」
「御意(ぎょい)にござります。しかもその気のふれようが大(だい)それておりまして……」
「よい、よい! 大切に介抱してつかわし、さっそくに身もとを探すがよかろう」
 やさしい目が細く糸を引いて、その見知らぬ女に対する忠相の思いやりがしのばれる。
 めっそうな! というふうに、大作はいそがしく言葉をつづけた。
「ところが――でござりまする。その狂いようたるや、とうていなみたいていではございませんので」
「フウム! どうなみたいていではないかナ? そちのもとへ押しかけ女房にでも参ったのか」
「これはお言葉、はははは……いえ、そのようなことなれば、わたくしにもまた覚悟がございますが、ただ君に拝顔を願っておりますしだいで――」
「なに、わしに会いたい?」
 忠相は、ふしぎそうに目をしばたたいた。
「さようでござりまする」と一膝乗り出した大作、
「御前様に気のふれた女のちかづきがあろうとは、大作きょういままで夢にも……」
「ハッハッハ! ただいまの返報か――うむ、それはいかにも忠相の負けじゃ。はははは、しかし、それなる女何の故をもってわしに面接を願い出ているのかナ?」
「さあ、それは――なにしろどうも狂女の申すことでまことにとりとめがございませぬが、たって拝顔を願ってお裏門にしがみつき、どうあやして帰そうといたしましてもますます哭(な)き叫ぶばかり、お耳に達して恐縮のいたりでございますが、一同先刻よりほとほと当惑いたしておりまする」
「して、どこの何者ともわからぬのか」
 ききながら、忠相はもう立ちあがっている。
 大作は、驚いて押しとどめた。
「御前! どちらへお越しでござります? よもや女のところへ……いえ、じつは、女が舞いこみましてまもなく、弟と申す若い町人が探し当てて参りまして、われわれともどもなだめてつれ戻ろうと骨を折っておりますが、女め、いっこうに動こうとはせず、暴れくるうておりまする」
 とめる大作を軽く振り払って、着流しの突き袖、南町奉行の越前守忠相は、もはや気軽に庭づたいに女のとびこんで来たという裏門のほうへ足早に歩き出していた。
 お中庭を抜けて背戸口。
 植えこみのむこうに小者の長屋が見える。
 もうすっかり夜になろうとして、灯が、あちこちの樹の間を洩れていた。
 ぽつり……雨である。
 さっきから、なんだか妙に生あたたかく曇っていると思ったら、とうとう降りだしたか。
 ――忠相が空をあおぐと、星一つない真ッ暗な一天から、また一粒の水が額部(ひたい)をうった。
 声が聞こえる。
 近い。
 つと歩を早めて、忠相が裏門ぐちの広場へ出てみると……。
 なるほど、これが大作のいった気のふれた女であろう。下町づくりのひとりの女が、見るも無残に取り乱して地に横臥し、何かしきりにわめいているのだ。
 取り巻く中間折助のうしろからそっとのぞきみた忠相は、何を思ってか、続いてきた大作に命じて一同を立ち去らせ、あたりに人なきを待って、女と、その弟と称してかたわらに土下座する町人ていの男とのまえに、つかつかと進みよった。
「お藤! 櫛まきお藤であろう、汝は! 狂人をよそおって何を訴えに参った?」
 忠相はしゃがんだ。
「お奉行様、いかにもそのお藤でございます。スッパリと泥をはいて、いっさいを申し上げますから、どうぞそのかわりに……」
「目をつぶって、江戸をおとせ――と申すか」
 ジロリと、忠相の目が、そばの男へ走った。
「与吉であろう? つづみの」雨が、しげくなった。

 雨と風と稲妻と……。
 九刻(ここのつ)ごろから恐ろしいあらしの夜となった。樹々のうなり、車軸を流す地水。天を割り地を裂かんばかりに、一瞬間に閃めいては消える青白光の曲折。
 この時!
 本所化物屋敷の離庵(はなれ)では。
 相馬藩援剣(えんけん)の残党、月輪軍之助、各務房之丞、山東平七郎、轟玄八の四名とともに枕を並べて眠っている剣妖丹下左膳が――夢をみていた。
 五臓(ぞう)の疲れ――であろうか。
 左膳の夢は。
 静夜、野に立って空をあおいでいる左膳であった。
 明るい紫紺の展(ひろ)がりが、円く蓋(ふた)をなしてかれのうえにある。
 大きな月。
 星が、そのまわりをまわっていた。
 と、左膳が見ているまに、星の一つがつうッと流れたかと思うとたちまち縦横にみだれ散った。
 そして――。
 おのれの立っているところを野と思ったのは誤りで、かれは、茫洋(ぼうよう)たる水の上に、さながら柱のごとく、足のうらを水につけて起立しているのだった。
 海だろうか?
 それとも、池かも知れない……。
 左膳がこう考えたとき、頭上の月が、クッキリと水面にうつって、死のような冷たい光を放っているのを彼は見た。
 同時に、目がさめたのである。
 グッショリと寝汗をかいた左膳は、重いあたまを枕の上にめぐらして部屋じゅうを眺めた。
 やぶれ行燈が、軍之助の一張羅(ちょうら)であろう、黒木綿の紋付を羽織って、赤茶けた薄あかりが、室内の半分から下を陰惨に浮き出さしている。
 そこに、月輪の四人が、思い思いの形に寝こんで、かすかな鼾声(かんせい)を聞かせているのは平七郎らしかった。
 耳に食い入るような夜更けのひびき……音のない深夜の音、地の呼吸(いき)づかいである。
 左膳は、一つしかない手で身を起こすと、そのまま腹這いになって考えこんだ。
 いま見た夢である。
 剣鬼左膳、夢を気にするがらでもなく、また坊間(ぼうかん)婦女子のごとくそれに通じているわけでもないが……。
 当節(とうせつ)流行(はやり)の夢判断。
 それによると。
 月の水に映る夢は、諸事(しょじ)早く見切るべし。
 星の飛ぶ夢は、色情の難(なん)あり。
 ――とある。
 すべて早く見切るに限る。しかも、身に女難が迫っているというのだ。
「ウム! 容易ならんぞ、これは!」
 こう冗談めかしてひとりごちながら左膳がニッとほほえんだとたんに彼はあきらかに再び、片割れ乾雲丸が啾々乎(しゅうしゅうこ)として夜泣きする声を聞いたのだった。
 どこから?
 といぶかしんで、左膳は、その剃刀のように長い顔を上げた。
 ジジジイ……ッと、灯が油を吸う音。
 乾雲は、見まわすまでもなく、まくらもとにある。
 陣太刀作り、平糸(ひらいと)まきの古刀――左膳が、独眼を据えてその剣姿を凝視していると!
 やはり、声がする。
 夜泣きの刀! の名にそむかないものか、訴うるがごとく哀れみを乞うがごとく、あるいは何かをかきくどくように、風雨のなかを断続して伝わってくる女の泣きごえであった。
 それも、老女――に相違ない。
 そして、母屋(おもや)の方から!
 と見当をつけた左膳のにらみははずれなかった。
 と言うのが。
 ちょうどその暴風雨の真夜中、化物やしきの本殿、鈴川源十郎の居間では……。

 お艶の母おさよは……。
 栄三郎への手切れ金として五十両の金を源十郎から受け取り、その掛合い方を頼みに、浅草三間町の鍛冶屋富五郎のところへ、出かけたところが、同じくお艶に思いを寄せている鍛冶富が、預かった金を持って逐電(ちくでん)してしまったので、しばらくは富五郎の女房おしんとともに帰りを待ってみたものの、富五郎はお伊勢まいりと洒落(しゃれ)て東海道へ出たのだから、そう早く戻ってくるわけはない。
 といって。
 いつまでも他人のうちに無駄飯(むだめし)を食べていることもできず、おまけにおしんが、お艶と富五郎の仲を疑って日ごとにつらく当たりだすので、とうとういたたまらなくなったおさよ婆さん、わけを話して詫(わ)びを入れ暫時(ざんじ)待ってもらおうと、来にくいところを、今夜思いきって化物やしきの裏をたたいたのだったが――。
 金とともに出て行ったきり帰らないおさよを、毎日カンカンになって怒っていた源十郎のことだからフラリと、狐憑(きつねつ)きのようにはいってきたおさよ婆さんを見ると、源十郎、われにもなくカッとなって、いいわけのことばも聞かばこそ、おのれッ! とわめきざま、やにわにおさよを板の間へ押しつけて、
「これッ さよッ! 母に似ておるなどと申し、奉っておいたをいいことに、貴様、なんだナ、おれから五十両かたりとって、お艶と栄三郎をいずくにか隠したものに相違あるまい。いや、初めから三人で仕組んだ芝居であろう! ふとい婆アめ! どの面(つら)さげてメソメソと帰りおった――ウヌッ」
 というわけで、おさよには碌(ろく)にものも言わせず、いきなり責め折檻(せっかん)にかかったから、五十六歳になるおさよ婆さん、苦しさのあまりあたりかまわず悲鳴を上げる。
 ……その声が!
 戸外のあらしを貫いて、離れの左膳の耳にまで達したのだった。
 たださえ。
 すさまじい風雨の夜ふけ。
 その物音にまじって漂う老婆の哀泣(あいきゅう)である。これには、さすが刃魔の心臓をすら寒からしめるものがあったとみえて、ひとり眼ざめて夢判断をしていた左膳が、思わずブルルル! 身ぶるいとともに夜着をひっかぶろうとしたとき!
 どこからともなく……。
「乾雲! これ、坤竜が慕うて参ったぞ! 坤竜が来たのだ! あけろ!」
 低声(こごえ)である。
 それが、たとえば隙洩る風のように左膳の耳にひびいたから、ハッ! としながらも――。
 耳のせい……ではないか?
 と!
 たしかめようとして、左膳が枕をあげた――いや、あげようとした、その瞬間であった。
 左膳と、むこう側の月輪軍之助の臥(ね)ているところとのあいだに、たたみ一畳のあきがあって、のみかけの茶碗や水差しが、どっちからでも手がとどくように、乱雑に置いてあるのだが!
 ふしぎ!
 左膳が、地震ではないか?……と思ったことには。
 その茶碗や水さしがひとりでに動き出して、オヤ! と眼をこすって見ているまに!
 ムクムクと下から持ちあがった畳!
 それが、パッ! と撥ね返されると!
 驚くべし――。
 いつのまにやら床板がめくりとられて、ぱっくりと口をあいた根太(ねだ)の大穴。
 しかも。
 そこに、まるで縁の下から生えたように突ったちあがった二人の人物……諏訪栄三郎に蒲生泰軒。
 あらしの音にまぎれて忍びこみ、下から板をはがしたものであろう。ふたりとも襷(たすき)に鉢巻、泰軒先生までが今夜は一刀を用意してきて、すでに鞘を払っている。
「起きろッ! 夜討ちだアッ!」
 どなりつつ、のけぞりながら左膳一振、早くも乾雲の皎刀(こうとう)を構えた左膳、顔じゅうを口にして二度わめいた。
「起きねえかッ、月輪ッ」
 が!
 同時に、
 ウウム……断末魔のうめき。
 泰軒の刀鋩(とうぼう)が、轟玄八のひばらを刺したのだ。
 栄三郎は、蒼白いほほえみとともに、もうノッソリと穴から部屋の中へあがっていた。
 立ち樹が揺れて、梢が屋根をなでる音――。

 夜着のうえから一突きにされて、声もあげ得ずに悶絶した轟玄八のようすに、白河夜船をこいでいた他の三人も、パチリと眼がさめてとび起きた。
 見ると!
 すっかり身じたくをした諏訪栄三郎に蒲生泰軒、ともに、あんどんの薄光を受けて青くよどむ秋水(しゅうすい)を持して、部屋の左右に別れているから、三人、帯をしめなおすまもない。
 てんでに刀へ走って、鞘をおとした。
 左膳は?
 と気がつくと、床下づたいに広庭へおびき出すつもりか。ソロリソロリと後ずさりに、いま、泰軒栄三郎の出てきた根太板の穴のほうへ近づきつつある。
 荒夜の奇襲。
 つとに満身これ剣と化している栄三郎、声――は、胆(たん)をしぼって沈んでいた。
「丹下どの?……今宵は最後とおぼしめされい!」
 左膳は、一眼を細めて笑った。
「この暴(あ)れじゃアどうドタバタ騒いでもそとへ物音の洩れっこはねえ。なア若えの、ゆっくり朝まで斬りあうぞ」
 泰軒が一喝した。
「多弁無用! 参れッ!」
 と……。
 これが誘引した乱刃跳舞(ちょうぶ)。
 真っ先に剣発した月輪軍門の次席山東平七郎、陀羅尼将監(だらにしょうげん)勝国の一刀にはずみをくれて、
「えいッ!」
 わざと空(から)気合いを一つ投げて、直後! 泰軒めがけて邁進(まいしん)すると同時に、
 ツ――ウッ!
 横に薙(な)いだつるぎの端に、あわよくば栄三郎をかける気。
 ……であったろうが!
 そこは秩父(ちちぶ)に残存する自源流をもっておのが剣技をつちかいきたった泰軒先生のことだ。
 自源流は速を旨とし、いちめん禅機に富む。
 この平七郎雪崩(なだれ)おちの手さばきを知察した泰軒、われからすすんで平七郎の剣をはねるや、体を左に流して栄三郎を庇(かば)ったから、栄三郎は、手なれの豪刀武蔵太郎を引くと同時にくり出して、左膳の胸部を狙って板割りの突きの一手……。
 同瞬!
 落ちこまんとした穴を、ふち伝いにうしろに避けた左膳、柄をひるがえして下から上へ、クアッ! 太郎安国をたたきあげるが早いか、そのまま振りかぶった稀剣(きけん)乾雲、左腕、うなりを生じて真っ向から栄三郎の面上へ!
「こうだッ!」
 と一声。
 閃落(せんらく)した――と思いのほか!
 刀下一寸にして側転した栄三郎神変夢想でいう心空身虚、刹那に足をあげたと見るや、栄三郎グッ! と、平七郎のわきばらを一つ、見事にあおっておいてまた逆返し。
 今度は!
 右うでのない左膳の右横から、声もかけず拝みうちに撃ちこんだので、防ぎ得ず左膳、血けむり立てて□(どう)ッ! そこに倒れた……と見えたその濛々(もうもう)たる昇煙は。かわしながら、左膳がとっさに足にかけた煙草盆の灰神楽(はいかぐら)で、左膳自身は早くも壁を背負って立った猪突の陣、独眼火をふいて疾呼(しっこ)した。
「サ! 骨をけずってやる。此剣(これ)でヨ、ガジガジとナ……ヘヘヘヘ、来いッ野郎ッ……」
 相対した栄三郎、下目につけた不動の青眼、寂……として双方、林のごとく静止。
 泰軒はいかに?
 と観れば……。
 北国の雄師月輪軍之助、一の遣い手各務房之丞、二番山東平七郎の三角剣の中央に仁王立ち――相も変わらず両眼をなかばとじて無念無想、剣手をダラリと側にたらした体置きは、先生にして初めて実応し、この修羅場に処して機発如意(きはつにょい)なる自源流本然のすがた水月の構刀(こうとう)だ。
 ピタッと幾秒かのあいだ、屋内の剣戦が、相互に呼吸をはかりあう状に入って休断すると……ゴウッと風のひびき。
 雨戸を打つ大粒な雨あし。
 依然として紋つきを着た枕あんどんの光が、ふとんにくるまった轟玄八の死骸を、まるで安眠しているかのように、おだやかに照らしている。
 が、しかし!
 この不動対立は長くは続かなかった。
 たちまちにして闘機(とうき)再発し、せまい離室に剣閃矢と飛び、刀気猛火のごとく溢れたったがために。
 この時すでに!
 はなれの外(そと)に五人の火事装束が猫のように忍びよって、グルリと取り巻いて折りをうかがっていたのを、誰も知るものはなかった。
 朝が来た。
 あらしののちの静寂(しじま)には、一種の疲れがはらまれている。
 金色の陽の矢が青山子恋の森に射しそめたころおい……。
 弥生は、いつものとおり朝の湯につかっていた。
 起きぬけに入浴するのが弥生のならわしになっていたので、彼女は一日もかかさずに続けて来たのだったが。
 ゆうべは。
 じぶんと豆太郎を留守(るす)において得印(とくいん)兼光老士は、門弟の火事装束の士四名と、平鍛冶を人足に仕立てた十人の大男に駕籠をかつがせて本所の化物やしきを夜襲したままいまだ帰ってこない――でユックリと風呂にはいっている気もしないのだったが、それでも、湯がわいたと豆太郎が知らせに来たとき彼女は思いきって湯殿へ立ったのである。
 昨夜、鈴川方に、栄三郎が坤竜を佩(はい)して夜討ちに来ていることはきのうの午さがりから豆太郎の偵査(ていさ)によって当方にはわかっていた。
 いわば、そうして雲竜二刀が双巴(ふたつどもえ)の渦をまいているところへ、横あいから飛びこんで、ふたつの剣を同時に掠(かす)めとろうというので、さくやは一同、ことのほか勢いこんで出かけたわけだが……うまく左膳から乾雲を、栄三郎から坤竜をとりあげて、関の孫六の末得印兼光はたして流祖の秘文水火の合符(がっぷ)を入手するであろうか?
 湯にひたりながら風雨のあとのなごんだ空を窓に見て、小野塚伊織の弥生、しきりに思いめぐらしている。
 もとより、栄三郎さまにはお怪我のないよう――間違いのないようにと、得印老人をはじめ四人の部下によく頼んでおいたものの、仔細を知らぬ栄三郎が、そうやすやすと秘刀坤竜を渡すはずがない、必ずや大いに剣闘したことであろうが、そのはずみにもしや栄三郎さまに……と思うと弥生、留守を預っているとはいえ、とてものんきに風呂なぞつかっていられなくなって、
「まだ戻られぬとは、どうしたのであろう?」
 われ知らずひとりごと、急にあがりじたくをはじめて身体を拭(ふ)きだした。
 弥生はやはり弥生、いまだに栄三郎を恋い慕う純なこころを失わずにいるのだった。
 それはいいが!
 この風呂場の羽目板の節穴からひとつの眼がのぞいて、弥生の入浴を終始見守っていた者がある。
 甲州無宿山椒(さんしょう)の豆太郎だ――。
 かれは、最初、まつりの日に弥生に見いだされて雇われた時から、弥生のいわゆる伊織が男であるということに対して、いささかの疑いをもっていたのだったが、それが過日、子恋の森はずれで瓦町の若侍を助けて、彼が伊織を弥生と呼ぶのを聞いて以来、いっそうその疑念を深め、おりあらば確かめてやろうと機会をねらっていたのだったが、とうとう今朝(けさ)[#「今朝(けさ)」は底本では「今朝(けさ)」]!
 人なき家に、ひとり弥生が入浴しているので、よろこんだ豆太郎、そっと隙見(すきみ)をしてみると!
 ふくよかな乳房もあらわに、雪の肌に一糸もまとわぬ湯あがりの女性裸身……。
 豆太郎は、亀背の小男という生れつきで、今まで女という女に相手にされたおぼえがないから、いま、この森の中の一軒家に、若侍に化けた女とふたりきりでいるということは、豆太郎を狂暴にするに十分だった。
 しかも……。
 のぞき見た弥生の裸形――豆太郎は、呼吸が苦しくなった。
 で……。
 じっと湯殿の戸のそとに立って待ちぶせている――。
 とは知らない弥生が、そそくさと着物を羽織って戸を開けた時だった。
「見たぞ!」
 うわずった豆太郎の声である。
 ドキン! としながらも、弥生は笑いにまぎらそうとした。
「なんだ! 豆ではないか……何を見たと申す?」
「見たぜ!」
 豆太郎の顔が、ゆがみつつ寄ってくる。
「だから、何を見たと申すのだ?――どけ……そこをどけ!」
「いンや、どかねえ! エッヘッヘ、お前さんが女子だってエことをちゃんとみてとった以上、この豆太郎に、ちっとお願いがあるんでネ……」
 弥生は、醜く光る豆太郎の眼におされて、思わずタタタ! 二あし、三あし湯殿のなかへ後戻りした。
 ピシャリ! つづいてはいって来た豆太郎が、うしろ手に戸をとざしたのだ。
 気ちがいのようにつかみかかってくる豆太郎を、弥生が必死に防いでいる時だった。
 せまい湯殿の中のあらそいだから、身体の小さな豆太郎には都合がいい。その上弥生はすっかり女のこころもちに返ってしまって、ともすれば負かされ気味に、そこへねじふせられそうになる。
 小熊のように肉置(ししお)きのいい豆太郎が、煩悩(ぼんのう)のほのおに燃えたって襲ってくるのだ。その、大きな醜悪な顔を間近に見たとき、弥生はもはや観念のまなこをつぶろうとした。
 飼い犬に手を咬まれるとはこのこと。
 弥生は、生ける心地もなく、それでも今にも得印老士の一行が帰ってこないものでもないからのがれられるだけのがれるつもりでなおも抗争をつづけていると……。
 食いしばった歯のあいだから、哀願するごとく豆太郎がいう。
「ねえ弥生さん! わたしゃ今までお前さんのために無代(ただ)で働いて来た。何ひとつ、礼をもらったことがねえ。それというのも、女としてのお前さんにあッしゃアたった一つのこの望みがあったからだ。よう、そう没義道(もぎどう)なこといわねえで――!」
 と、こんどは手を合わして拝まんばかりにあわれっぽくもちかけてくるのを、決然として飛びのいた弥生は、手早く着くずれをなおしながら、
「さがれッ! 言語道断な奴めッ! かならずその分には捨ておかぬぞッ!」
 小野塚伊織のいきで大喝すると!
「エイ! もうこれまでだッ!」
 わめいた山椒の豆太郎、いっそう荒れ狂って跳(と)びついてくる。
 流し場……すべる。
 足場がわるい。
 ツルリと足をとられて倒れた弥生へ、半狂乱の豆太郎が獣(けもの)のごとく躍りかかって――落花狼藉(らっかろうぜき)……。
 と見えた刹那……。
 ドン!
 ドン!
 どんどんドン! と湯殿の戸をたたく音がして、
「伊織さん! 伊織さんいませんかえ?」
 という男の声だ。
 ハッとしてひるむ豆太郎をつきのけ、弥生が走りよって戸をあけると!
 この家の駕籠舁(かごか)きのひとり、得印門下平鍛冶(ひらかじ)の大男、ゆうべ五梃かごをかついで来たのが、一人であわただしく駈け戻ってきたらしく肩でゼイゼイ声も出ずに、
「オ! これだ!」
 と!
 やにわに弥生の眼前へつきだしたのを見ると!
 乾雲坤竜――夜泣きの刀の一対!
「やッ! ついに二剣ところを一に? そんならアノ、ゆうべの斬りこみで……」
 いいかける弥生を手で制した平鍛冶の駕籠屋、
「いそぎますから長ばなしはできねえが、まアよんべ乾雲と坤竜が撃ちあってる最中へうちの大将が跳びこんでね、どうも大層なチャンバラだったが、とどのつまりわしら十人のお駕籠者まで加勢して左膳と栄三郎をおさえつけ、やっと二つの刀をとりあげましたよ、サ、そこで……」
「おウ、そこで?」
「夜明けのうちに八ツ山下まで突っ走って駕籠の中で老先生が、この両剣の柄、赤銅(あかがね)のかぶせをはずしてみると――」
「うむ?」
「出て来ましたね」
「水火の秘文(ひもん)がかッ?」
「はい! 細い紙きれへこまかい字でビッシリ書いて、しっかり中心に巻き締めてありました」
「フウム! よかったなア……」
「その時、得印先生はハラハラと涙をこぼされましたが、イヤ、わしどももみんな泣きましたぜ。正直、うれし泣き……ねえ伊織さま、涙が、なみだがボロボロ――畜生ッ! こぼれやがったッ……ハッハッハ!」
「それは、そうであろう。伊織も衷心(ちゅうしん)からおよろこび申しあげる。多年の本懐を達せられた御老人の心中こそ察せられるなあ」
「へえ、そのとおりで」
 と、男は、今さらのように握り拳で鼻のあたまをこすりあげていたが、
「お! そうだ! こうしちゃいられねえ――伊織さん、先生がいうにゃア、自分はこれからただちに水火の秘符(ひふ)を持って美濃(みの)の関(せき)へ帰るが、ついてはこの二刀はもともとお前さまのお家の物、先生としちゃア文状(もんじょう)さえ手に入れれば夜泣きの刀には用はねえ。このまま正式のもち主のあんたへ返すから、今までどおり世々代々大切に伝えてもらいたい……また会うこともなかろうからくれぐれも身体を大事に……とね、こういう伝言でごぜえましたので、わたし一人がこの二剣を持ってちょっと帰って来ましたが、先生はじめ一同は、品川に駕籠をとめて待っております。では伊織さん確かにお渡ししましたぜ!」
 声と、乾坤(けんこん)双刀とを弥生に残して、男は、もう森の中の小径(こみち)を走り去っていた。
 はっとわれに返った弥生、眼を凝(こ)らして見るまでもなく、いま駕籠かきの大男が残していった乾坤二剣夜泣きの刀が、わが手にある!
 此剣(これ)[#「此剣(これ)」は底本では「此剣(これ)」]のために、父鉄斎とは幽明(ゆうめい)さかいを異にし、恋人栄三郎を巷に失った不離剣(ふりけん)……去年(こぞ)の秋以来眼を触れたこともなく、今また幾年月その包蔵していた水火の割り文を柄の裡(うち)より吐きさったにかかわらず、その間、何事もなかったかのように、弥生の白い手に抱きあげられている一番(ひとつがい)の珍剣稀刀――。
 思えば、乱麻の悪夢であった。
 もつまじきは因縁の名刀……しみじみとそんな気がこみあげてきて、弥生がボンヤリとまず夜泣きの両剣を腰間に帯(たい)してみようとした――その一刹那!
 忘れていた山淑の豆太郎……。
 土壇場(どたんば)へじゃまがはいって、手のうちの玉をおとした思いのところへ、見ると、弥生がもとより詳しいことはしらないが、なんでもみなが命がけの大さわぎをしてきたその本尊(ほんぞん)のふたつの刀を、ここに入手したらしいようすなので、かなわぬ恋の意趣返しに、ひとつ横あいからふんだくってやれ……どうせこの家へは、もう誰も帰ってはこねえのだ。いわば空家、かたなを取ったうえで存分にじらし謝まらせ、さていうことをきかせてやろう! こう豆太郎なみの智恵にそそのかされたのであろう、やにわに隠れていた風呂場の隅から飛び出したかれ、
「もらったぞ!」
 一こえどなるより早く、パッ! 夜泣きの大小を弥生の手からかすめとって、同時に小廊下づたいに台所へ跳びおりたかと思うと、そのまま水口の戸障子を蹴倒して戸外へ走り出た。
「ああ――!」
 としばし、わがことながらポカンとしていた弥生、秒刻をおいて気がついて見ると、じぶんの身長より高いくらいの陣太刀二口(ふり)を抱えた豆太郎が、森の木のあいだをくぐり抜けて、みるみるそれこそ豆のように小さくなっていくから、はじめて事態の容易ならぬを知った弥生、呆然から愕然へ立ち返るとともに、
「おのれッ!」
 一散に後を追いだした。
 一丁。
 二丁。
 昼なお小暗い子恋の森の真ん中である。
 斧を知らない杉、楓(かえで)、雑木の類がスクスクと天を摩(ま)して、地には、丈(たけ)なす草が八重むぐらに生いしげり、おまけに、弥生にとってぐあいの悪いことは、豆太郎がその草にのまれて、どこにひそんでいるのか皆目(かいもく)見当(けんとう)のつかないことだ。
 ただ、ザワザワと揺れる草の浪を当てに進む、と果たして!
 何か焚き火の跡らしく黒く草が燃えて、いささか開きになっている地点、両手に雲竜二刀を杖について立っている豆太郎を見いだした。
「ヘッヘッヘ! とうとうここまで来たな!」
 豆太郎がうめいた。
 弥生は無言――そろり、そろりと近づく。
 と、
 再び刀を擁(よう)して草へ跳びこまんず身がまえをつくった豆太郎、
「サ! あっしがこの森の中を駈けまわっているうちゃア、泣いてもほえても、お前さんの手には負えませんよ。ネ! あっしも男だ! いい出したことが聞かれねえとあれア、仕方がねえ。この刀をもらってずらかるばかりさ……それとも弥生さん、ここで往生して眼をつぶるかね? はっはっは、これが舞台なら、サアサアサア――とつめよるところだ!」
 いいながら、今にも身をひるがえして樹間へ走りこみそうにするから、刀を持って行かれてはたまらない弥生が、さりとてこの人猿に自由(まま)にもなれず、進退きわまって立ちすくんでいると、その弥生のようすを承諾の意ととったものか、つかつかとかえってきた豆太郎、
「弥生さん!」
 二剣を右手に、左手をまわして弥生のからだへ掛けようとした。
 思わず、身をすくませる弥生。
 嫌らしくまつわりつく一寸法師。
 その瞬間だった。
 声がしたのである……近くに!
「おうッ! ここかッ! ウム刀も! やッ! 娘もいるなッ!」
 と! 言葉といっしょに。
 独眼刀痕の馬面が、ヌッ! と草を分けて――

  水や空

「やいッ!」
 乾雲を失った左膳、一腕に大刀を振りかぶって立ち現れた。
 それと見るより、早くも豆太郎、弥生を棄てて二剣をかきいだき、みずからは、つと体を低めて懐中を探っている。
 得意の手裏剣をとりだす気。
 左膳の嗄(か)れ声が、またもや森の木の葉をゆすった。
「汝(うぬ)ア化物かッ? 化物にしろ、人語を解(かい)したら、よッくおれのいうところを聞けッ! いいか、その二つの刀とこの娘はナ、去年の秋の大試合におれが一の勝をとって、ともに賞としてもらい受けたのだ、とっくにおれのものなのだ」
 豆太郎は、口をひらかない。ただ、野犬のように白い歯をむき出して、突如、躍りあがるがごとき身ぶりをしたかと思うと、長い腕がブウン! と宙にうなって、紫電(しでん)一閃!
 ガッ! あやうく左膳の首を避けた小柄、にぶい音とともにうしろの樹幹にさし立った。
「ううむ、こいつウッ! やる気だな」
 うめいた左膳さっと、足をひいたのが突進の用意、即座に、左膳、半弧をえがいて豆太郎の素っ首を掻っ飛ばそうとしたが、土をつかんで身をかわした豆太郎、逃げながらの横投げ、錦糸、星のごとく、飛翔(ひしょう)して左膳の右腕へ命中した。
 が、
 あいにくと左膳には右腕がない。
 で、右袖に突きささった短剣はそのまま一、二寸の袖の布地を縫ってとまった。
 ……のもつかの間!
 つづいて四剣、五の剣――と皓矢(こうし)、生けるもののごとく長尾をひき、陽に光り風を起こし、左膳をめがけて槍ぶすまのようにつつんだ……ものの!
 丹下左膳、もとより凡庸(ぼんよう)の剣士ではない。
 タタタタッ! と続けざまに堅い音の散ったのは、左剣上下左右に動転(どうてん)して豆太郎の小刀をたたきおとしたのだった。
「あっ!」
 この剣能に、きもをつぶして声をあげた豆太郎われ知らず、もう一度ふところに手をさし入れたが――小柄はすべて投じてしまって残りがない。
 瞬間! 泣くような顔になったかと思うと、豆太郎はすでに背をめぐらして、目前の草のしげみへ跳びこもうとした。
「待てッ! もう投げる物アねえのかッ!」
 左膳の罵声がそのあとを追った。
 豆太郎は、振り向いた。
 哀れみを乞うような、笑いかけるがごとき表情だった。
 しかし、つぎの刹那、かれは頭から、滝のような血を吹いて真っ赤になった。追いすがった左膳が冷たい微笑とともに一太刀おろしたのである。
 山淑の豆太郎、全身血達磨(ちだるま)のごときすがたで地にのたうちまわったのもしばらく、やがて草の根をつかんで動かなくなった。絶え入ったのだ。
 と見るや左膳は、
「いやなものを斬ったぜ」
 とひとりごと。
 ひきつるような蒼白の笑みとともに、大刀の血糊(ちのり)を草の葉にぬぐいながら、弥生と二剣は? と、そこらを眺めまわすと、いまのさわぎのうちに、いつの間にかまぎれさったものであろう。弥生も、夜泣きの刀も近くに影がない。
 深閑として、陽の高い森の奥。
 雨のような光線の矢が木々の梢を洩れ落ちて、草葉の末の残んの露に映(うつ)ろうのが、どうかすると雑草の花のように、七色のきらめきを見せて左膳の独眼を射る。
 ムッ! とする血のにおい――左膳は、ふたたびニヤリとして豆太郎の死体を見返ったが!
 かれは鈴川源十郎の口から、弥生がこの子恋の森に、五人組の火事装束とともに住んでいると聞いたことを思い出したので、ゆうべ不覚にも、多勢に無勢、ついに乾雲を強奪されたから、それを取り返すつもりで、もしやとこの森へ出かけて来たのだった。
 すると、果たして二刀ところを一にしているのを見は見たものの、豆太郎という邪魔者を退けているうちに、弥生ともどもどこへか消えてしまったのだ。
「なあに、どうせまだこの辺にうろついてるに違えねえ……」
 ガサガサと草を分けて歩き出した左膳の眼に、森の下を急いでゆく弥生と、彼女が小脇にかかえている陣太刀の両刀とが、チラリとうつった。
 走り出す左膳。
 弥生も、ちょっとふり向いたまま、懸命に駈けてゆく。
 追いつ追われつ、二人は森を出はずれたのだった。

 雲竜二刀を確(しか)と抱きしめて子恋の森を走り出た弥生、ゆくてを見ると、四つの駕籠がおりているので、さては得印門下の四人が、何かの用で森の家へ帰って来たのか、やれ助かった! と[#「助かった! と」は底本では「助かった!と」]なおも足を早めて近づくと、
「おうい! そこへ行ったぞウッ!」
 といううしろからの左膳の声に応じて、バラバラバラッと駕籠を出たのを眺めると、
 一難去って二難三難!
 月輪の援隊(えんたい)、三十一人が三人に減ったその残剣一同、首領月輪軍之助、各務房之丞、山東平七郎……これが左膳とともに駕籠を駆って来ていた。その網のまん中へ、われから飛びこんだ小魚のような弥生の立場!
「あれイ……ッ!」
 と、もう本然の女にかえっている弥生、一声たまぎるより早く、ただちに元来た方へとって返そうとしたが!
 ことわざにもいう前門の虎、後門の狼! あとは左膳がおさえてくるのだ。
 右せんか左すべきかと立ち迷ううちに四人のために、手取りにされた弥生、夜泣きの二剣とともに駕籠のひとつにほうりこまれるや否や、同じくそれへ左膳が割りこもうとした。
 その一刻に!
 これもゆうべ。
 多勢に無勢、風雨中の乱戦に、得印五人組のために坤竜丸を奪い去られた栄三郎と泰軒、おくればせながら左膳の一行をつけて駈けてきた。
 そして!
 諏訪栄三郎、そのさまを見るより、昨夜来、血に飽いている武蔵太郎を打(ちょう)ッ! とひるがえして、左膳へ斬りこむ。
「来たなッ!」
 大喝した左膳、栄三郎、泰軒の中間へわざと体を入れながら、
「月輪氏(うじ)、かまわず先へやってくれッ! 落ちあう場所はかねての手はずどおり……あとは拙者が引きうけたから、娘と刀をシカとお預け申したぞ……! サ拙者を残して、一ッ飛ばしにやってくれいッ……」
 わめき立てた。
 同時に。
「ハイッ! いくぜ相棒!」
「合点(がってん)だッ!」
 と駕籠屋の威勢。
「しからば丹下殿、あとを――」
「心得申した、一時も早く!」
 駕籠の内外、左膳と軍之助が言葉を投げあったかと思うと、四つの駕籠がツウと地をういて――。
 二、三歩、足がそろいだすや、腰をすえて肩の振りも一様に、雨後のぬかるみに飛沫(ひまつ)をあげて、たちまち道のはずれに見えずなった。
 チラと見送って安心した左膳、皮肉な笑いを顔いっぱいにただよわせて、泰軒、栄三郎を顧みた。
「ながらく御厄介になり申したが、手前もこれにておいとまつかまつる。刀と娘御は、拙者が試合に勝って鉄斎どのより申し受けた品々……はッはッはは、ありがたく頂戴(ちょうだい)いたすとしよう」
 栄三郎が、口をひらくさきに、泰軒が大笑した。
「まだその大言壮語にはちと早かろうぞ! 貴公の剣、それを正道に使うこころはないかな、惜しいものじゃテ」
「何をぬかしゃアがる! 正道もへったくれもあるもんか。おれアこれでも主君のために……」
「ウム! いいおったナ」
 泰軒は一歩すすみ出た。
「主君のために! おお、そうであろう、いかにもそうであろう! 藩主相馬大膳亮どのの蒐刀(しゅうとう)のために――はははは、越前もそう申しておった……」
 キラリ眼を光らせた左膳、
「越前……とは、かの南の奉行か?」
「そうよ! 越前に二つはあるまい!」
 と、聞くより左膳、
「チェッ! その件に越州(えっしゅう)が首を突っこんでおるのか……ウウム! それではまだ、てめえのいうとおり、おれも安心が早すぎたかも知れねえ! や! こりゃアこうしちゃあいられねえぞ」
 声とともに左膳は、パッ! おどり立って一刀を振ったかと思うと、それッ! と構えた泰軒栄三郎のあいだをつと走り抜けて、折りから、むこうの小みちづたいに馬をひいて来た百姓のほうへスッとんでゆく。
 左膳が百姓を突きとばすのと、かれがその裸馬へ飛び乗るのと、驚いた馬が一散に駈け出すのと左膳がまた馬上ながらに手を伸ばして立ち木の枝を折り取り、ピシィリ! 一鞭(むち)、したたかに奔馬をあおりたてたのと、これらすべてが同瞬の出来事だった。
 鞍上(あんじょう)人なく、鞍下(あんか)馬なし矣。
 左膳はほしとなり点となって、刻々に砂塵のなかに消え去ってゆくのだ。
 その時だった。
 唖然(あぜん)としていた泰軒と栄三郎が耳ちかく悍馬(かんば)のいななきを聞いたのは。
 時にとって何よりの助けの神!
 と、馬のいななきに、泰軒と栄三郎がふり返ってみると!
 覆面の侍がひとり、二頭の馬のくつわをとって、いつのまにやら立っている。
 ふたりはギョッとしていましめ合ったが、黒頭巾の士は、馬をひいてツカツカと歩みより、
「お召しなされ! これから追えば、かの馬上左腕の仁のあとをたどることも容易でござろう。いざ、御遠慮なく!」
「かたじけない!」
 泰軒は低頭して、
「どなたかは知らぬが、思うところあって御助力くださるものと存ずる」
「いかにも! すべて殿の命(めい)でござる。いたるところに疾(とく)に手配してあるによって、安堵して追いつめられい!」
 という意外な情けの言葉に、
「殿(との)……とは?」
 泰軒が問い返すと、
「サ、それはお答えいたしかねる。とにかく一刻を争う場合、瞬時も早くこの馬を駆って――」
 終わるのを待たで御免! とばかり鞍にまたがった泰軒と栄三郎、左膳の去った方をさしてハイドウッ! まっしぐらに馳せると、いくこと暫時にして左膳の姿を認めだしたが、左膳、馬術をもよくするとみえて、なかなかに追いつけない。三頭の馬が砂ほこりを上げて江戸の町を突っきり、ついにいきどまって浜辺へ出た。
 汐留(しおどめ)の海である。
 見ると、ヒラリ馬から飛びおりた左膳は、前から用意してあったらしく、そこにもやってある一艘の伝馬船(てんません)へ乗り移ったかと思うとブツリ……綱を切り、沖をさして漕(こ)ぎ出した。
 船には、さっき月輪の三人が、弥生と乾坤二刀を積みこんで待っていたのだ。
 さては! 海路をとって相馬中村へ逃げる気とみえる! と栄三郎と泰軒が船をにらんで地団駄(じだんだ)をふんだとき。
 スウッと背後に影のように立った、またもや覆面の士!
 ふたりには頓着なく、
「これへ!」
 とさし招くと、艪(ろ)の音も勇ましく船べりを寄せてきた一隻の大伝馬がある。
「乗られい!」
 侍がいった。
 その声に、泰軒はおぼえがあるらしく、
「オ! 貴公は大……!」
 いいかけると、侍が手を振った。だまって船を指さしている。
「わかった! すべて、貴公の胆(きも)いり――かくまで手配がとどいていたのか。ありがたい! さすが南の……オッと……何にもいわぬ! これだッ!」
 と泰軒、手を合わせて件(くだん)の侍を拝むと、侍は頭巾の裏で莞爾(かんじ)としているものとみえて、しきりにうなずきながら、早く乗り移れ! と手真似をする。そして!
「前々から彼奴(きゃつ)ら一派の動静は細大洩らさず探ってあって、きょうの手はずもとうにできておった。それからナ彼奴にはもう何人(なんびと)の呼吸もかかっておらぬぞ。よいか、外桜田に相馬の上屋敷がある。そこの江戸家老を呼んでいささかおどかしたのじゃ。ついに、刀を集める左腕独眼の剣士、そんなものは知らぬといわせてやった。はっはっは、これならばもう彼は相馬の士ではない。いわば野良犬……な、斬ろうと張ろうと、北の方角から文句の出るおそれはないわい。
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