丹下左膳
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著者名:林不忘 

 と見るより、とっさの驚愕から立ちなおった左膳と月輪の勢、ピタリ! 踏みとどまると同時に、もういっせいに皎剣(こうけん)の鞘を払って、月の斑(ふ)がうろこのように鍛鉄の所々に光った。
 おのずから半月の陣!
 その背後から、しわがれた左膳の声が物の怪(け)のごとく走った。
「オオ坤竜か。これから参ろうとしているところへ、そちらから出かけて来るたアいよいよ運の尽(つ)きたしるしかナ。いかさま汝のいうとおりまだ短夜じゃアねえ……では、一晩こころおきなく斬りむすぶとしようか」
 いいながら左膳、隻腕の袖をグイと脱ぐと、例の女物の下着が月を受けて浮きたつ。
 不敵なほほえみが、その、刀痕の眼だつ顔をいびつに見せていた。
 風雲急!
 栄三郎は沈黙。
 ただ、霜がこいの藁で法勝寺三郎の血を拭き終った武蔵太郎を、かれはしずかに正面に持しただけである――神変夢想の平青眼(ひらせいがん)。
 と!
 タ! タ! と二、三あし、履物を棄てて草を踏みつつ、栄三郎の前へ進み出た長剣の士、月輪の道場にあって三位を保(たも)つ轟玄八だ。
 玄八。平潟(ひらかた)船(ふな)番士で、その剣筋、幅もあれば奥ゆきもゆたかに、年配は四十に手のとどく円熟練達の盛年。
 ガッシリした体躯に心もち肩をおとして、濡れ手拭を絞るようにやんわりと柄をささえ、
「参れッ! ウム!」
 大喝、誘いの声だ。と、ともに、スウッ! 手もとをおろして突きにいくがごとく見せかけ、老巧狷介(けんかい)の刀士、もろに足をあおって栄三郎の頭上へ!……飛刀、白弧をひいて舞いくだった瞬間、体を斜めに腰かわした栄三郎の剣、チャリーン! 青光一散、見事に流すが早いか、ただちにとって車返(くるまがえ)し武蔵太郎、血に渇して玄八の左肩を望んだ。
 が、轟玄八、即時左手を放して柄尻(つかじり)で受ける。
 そして!
 刹那、妙機の片手なぐり、グウンと空にうなった燐閃(りんせん)が、備えのあいた栄三郎の脇胴へ来た。
 竹刀ならばお胴一本取られただけですむかも知れない。しかしこれは真剣も真剣……見守る一同、秒刻ののちには上下半身を異にしている栄三郎を見ることと思った。
 ――にもかかわらず、ガッ! と音を発して玄八の刀をそらした栄三郎、すかさずつけ入ってヒタヒタと鍔(つば)を押している。
 これは見物(みもの)!
 といった色めきが、半月の列を渡った。
 ガッキ! と咬(か)み合ったまま微動だにしない鍔と鍔。
 諏訪栄三郎と轟玄八。
 一同が、眼をそばだてて熟視するなかにしばらくは双方、伯仲(はくちゅう)の力をあつめて保(も)ち合いの形と見えたが――。
 雲が出た。
 月の影が、さまざまの綾を地上に織りなす。
 やがて!
 いかなる隙ありと見たのか、玄八、やにわに、
「ううむ」
 一声! これが気合い、同時に、満身の筋力を刀手にこめて押しかかる――と思わせて、じつは逆に、スウッと張りを抜きながら数歩、引きこむようにさがろうとしたのは、いわずもがな、誘い入れの一手。
 栄三郎もさる者、離れゆく玄八をあえて追おうとはしなかった。
 不動。
 で。
 間余(けんよ)の間隔をおいた、ふたりいたずらに鋩子(ぼうし)先に月の白光を割いて、ふたたび対立静止の状をつづけだした。
 風死んで、露のしたたりが明日の晴天をしらせる。
 凄寂(せいじゃく)たる深更の剣気……。
 月輪軍之助以下北藩の援士は、抜きつらねた明刃をグルリと円列につくって、青眼の林、捲発(けんぱつ)する闘気をもって微動だにしない。
 左膳は、軍之助とともに剣列の背後にあった。
 誰ひとり声を出すものもない。はち切れそうな殺気に咽喉をつまらせて、一同ものをいう余裕などはなかったのだ。
 ジイ――ッと薄光の底に停止するおびただしい刀身を、春の夜の月が白く照らしている。
 突如!
 その氷柱(つらら)のごとき一剣が銀鱗をひらめかして上下に走ったと見るや、またもや玄八、これでは際限がないと思ったものかやにわに刀を起こして大上段……真っ向から栄三郎の前額を指して振りおろした。
 パチリッ! 柄近く受けとめた武蔵太郎、つづいてジャアッと刀がかたなを滑って、ほの青い火花が一瞬、うすやみの空(くう)をいろどった。
 と!
 この時まで受身の形だった栄三郎は、鼻を打つ鉄の香にひとしお強烈な戦志を呼びさまされたものか、はたしていきなり攻勢に出て、新刀を鍛えて東海にその人ありと聞こえた武蔵太郎安国晩年入神の一剣、突発して玄八を襲うが早いか、そのひるむところを、すかさず追うと見せて瞬転、横一文字に払った斬先に見事にかかって、刀を杖にたじろいだのも暫時(しばし)、モンドリうってその土に倒れたのは、月輪剣門の一士若松大太郎だった。
 大太郎といえども選に当たって江戸くんだりへ生命のやりとりに出てくるくらいだから、もとより刀のたたない男ではなかったが、油の乗りはじめた栄三郎には、所詮(しょせん)、敵ではなかった。
 腰の蝶番(ちょうつがい)へしたたか刃を打ちこまれた大太郎、全身の重みで土をたたいたのが、かれの最後だった。
 と見るや!
 気負いたった月輪の剣列、犇(ひし)ッ! とおめいて一栄三郎をなますにせんものと、燐閃(りんせん)、乱れ飛んで栄三郎に包みかけたが、かいくぐった栄三郎、最寄(もよ)りの一人に□(どう)ッ! 体あたりをくれると同時に、ただちに振り返って、おりから拝み撃ちに来ようとしていた山東平七郎へ!
「おウッ!」
 片手の突き!
「うむ!」
 平七郎、パッと払ってニッコリした。
「なかなかやるナ……来いッ!」
 息もしずかに、栄三郎はもう平青眼に返っている。
 月の端を雲がかすめた。

 夜明けが薄らいだ。
 月の端に雲がかかったのだ。
 ふかがわ富ヶ岡八幡の社地内に乾雲に乗ずる一団をむこうにまわして、武蔵太郎に殺剣乱跳(さつけんらんちょう)を舞わせる諏訪栄三郎、ツゥ……ツと刀をさげて下段のかまえ、取り巻く自余の者へは眼もくれずに前面の豪敵山東平七郎をめざして血のにじむ気あいを振りしぼった。
「エイッ」
 平七郎、ピタリ一刀、中青眼にかすかに微笑をふくんで応ずる。
「やッ!」
 と、この時。
 わざと誘いに乗ったとみせた栄三郎、俄然! 太郎安国を躍らせて平七郎の右脇へ!――と思うまもなく、たちまち銀閃(ぎんせん)ななめに走って、栄三郎、相手の腋(わき)の下を上へはねあげようと試みた。
 が!
 山東平七郎は、北州の雄剣月輪軍之助の門下にあって、師範代各務房之丞の次席、各務、山東、轟をもって月輪の三羽烏と呼ばれたその中堅だ。
 小野塚鉄斎の遺道に即して、栄三郎いかに神変夢想をよくすといえども、いまだ平七郎の生き血を刃に塗ることはできなかった……のであろう、平七郎、つと栄三郎の剣動を察して、一歩さがると同時に、パッ! 伸び来る刀鋩(とうぼう)を柄で叩くが早いか、側転! そのまま打ちおろして、手をかけた障子が自ら滑り出したように思わず空(くう)を泳いでいた栄三郎を、見事に真っ向から割りつけた――と思われた刹那、よろめきながら必死の機、栄三郎の刀尖、平七郎の剣をはじき流して、かろうじて危地を脱した栄三郎、強打を伝えて銀盤のごとくふるえ鳴る武蔵太郎を、こんどは車形にうち振りつつ、
「おウッ!」
 おめきざま、月輪の刃(やいば)ぶすまの真っただなかへ、身を斜(はす)かいに斬りこんでいった。
 乱戦――。
 空高く風が渡っているらしい。
 雲の流れが早いとみえて、月光を照ったりかげったり……そのたびに、樹間の広場に皎剣(こうけん)をひらめかす人のむれを、あるいは明るく小さく、またはただの一色のやみに押しつつんで、さながら舞台の幕が開閉するかのように見えた。
 豆を炒(い)るような剣人のうごき。
 飛びちがえては斬り結び、入りみだれたかと思うとサッと左右に別れ、草を踏みにじり木の葉を散らしてまさにここは神変夢想対月輪一刀の、二流優劣の見せ場となった。
 剣戟(けんげき)のひびきは、一種耳底をつらぬいて背骨を走る鋭烈な寒感(おかん)を帯びている。
 それが、助けをいそぐ夜の空気に霜ばしらのごとく立ち伝わってかけ声、風を起こす一進一退――気の弱い者を即殺するにたる凄壮な闘意が、烟霧のようにみなぎって地を這いだした。
 闇黒をこめる戦塵……。
 その刃渦(じんか)の底をすこしく離れた木かげに隠れて、さっきからこの剣闘をうかがっていたひとりの女があった。
 いうまでもなくお艶、いや、今は羽織芸者のまつ川の夢八だ。
 彼女は。
 うるさい客の鍛冶屋富五郎に、せいぜいなびくがごとく見せかけて酒をすすめ、その間にぬけ出て泰軒を呼び返し、左膳ら今宵の策動を未然に報じてこの対計を採らしめたのだが、こうしてここから眺めていても、斬り合っているのは栄三郎一個、頼みに思う泰軒先生はいまだに姿をあらわさないのだ。
 なるほど、今のうちは栄さまひとりでどうやら太刀打ちをしていけそうだが、なにしろこっちは一人に相手は多勢――どうなることであろうか? と、わが身も忘れてお艶はしきりにハラハラしているけれど!
 逆にここに待ち伏せして、出てくるところをこうして不意に襲ったくせに、栄三郎にだけ剣をとらして、泰軒はいったいどこにひそんでいるのか……?
 となおも見守っていると!
 あせりだした栄三郎、群刀をすかしてその背後をのぞめば、鞘ぐるみのかたなを杖に、しずかに会話(はなし)つつ観戦のていとしゃれている二人の人かげ――月輪軍之助と丹下左膳である。
「乾雲! そ、そこにいたのかッ!」
 声とともに躍りあがった栄三郎がいままでに何人か月輪の士の肉を咬み骨を削った武蔵太郎を正面にかざして打(ちょう)ッ! 撃ちこもうとしたとき、列を進んで中間にはいったのが土生(はぶ)仙之助だ。
「おのれッ! 邪魔立てするかッ!」
「何を言やアがる! さ、来いイッ!」
 仙之助、栄三郎に真向い立ってぴったりとつけたとたん! 足もとの草むらから沸き起こった破(わ)れ鐘(がね)のような笑い声がかたわらの左膳を振りむかせた。
「わっはッは! やりおる! やりおる! こりゃ儂(わし)は出んでもええらしいテ」

「うむ」
 早くも声の主をみてとったらしく、左膳は例になく沈痛な調子だった。
「乞食坊主であろう? そこで何か申しておるのは」
 いつのまにか一同のそば近く割りこんで来て、草の根に一升徳利をまくらに寝ていた泰軒先生は、すでに笑いながらゆっくりと立ちあがっていた。
 これも我流我伝(がりゅうがでん)の忍びの怪術か。かれ泰軒は、栄三郎とともに繁みに隠れて左膳の一行を待っていたにもかかわらず、栄三郎が躍り出て先頭の法勝寺三郎を斬り捨てると同時に、誰も気がつかないうちにコッソリ敵のうしろへまわったが、そうかといって背後をつくでもなければ虚を狙うでもなくこの修羅場をまえにして今までのんこのしゃあと草露にゴロリと寝ころんで見物していたのは、べつに栄三郎に不実なわけではない。まったくのところこれが泰軒先生独特の持ち前で、その証拠には逸(いち)はやく乾雲を鞘走らせた隻眼(せきがん)片腕の刃妖左膳と、一歩さがって大刀の柄に手をかけた月輪軍之助の両剣妙を前面にひかえて、泰軒先生、このとおりニヤニヤと鬚を動かしているだけだ。
「乞食坊主とはいささか的をはずれたぞ、いかさま拙者は乞食かも知れぬが、坊主ではない。以後ちと気をつけてものをいわっしゃい」
「よけいなことを吐(ぬ)かしくさる! たった今その舌の根をとめてつかわすからそう思え!」
「ホホウ! それは耳よりな! おもしろかろう」
 と、うそぶいた蒲生泰軒。貧乏徳利を片手にさげて半ば眼をつぶり、身体ここにあって心は遠く旅しているがごとく、ただボンヤリと佇立(ちょりつ)しているように見えて……そうではない。
 剣は手にしないが、その体置きの眼のくばりが、そっくり法にかなった自源流(じげんりゅう)水月(すいげつ)の構相――。
 たかの知れた白面柔弱の江戸ざむらいとあなどっていた栄三郎に、先刻から同志の三人まで斬り伏せられて、月輪の一統、すくなからず武蔵太郎の鋭鋒を持てあまし気味のところへ、相馬からの道中さんざ悩まされた血筆帳(けっぴつちょう)のもち主、ヌウッとしてつかまえどころのない例のひげ男が出て来たので、のこりの連中、急に浮き足が立ちはじめた――とみた援軍の盟主月輪軍之助、手にした霜冽(そうれつ)三尺の秋水にぶうんと、空振りの唸りをくれながら、あたりの乱陣に聞こえるような大声に呼ばわった。
「月輪軍之助、お相手つかまつる。いざ、おしたくを……」
 すると泰軒。
「ナニ、したく? したくも何もいらぬ。どこからでも打ちこんでくるがよい」
 放言。依然として身うごきだにしない。
「しからば……」
 いいかけた軍之助の声は宙に消えて、同時に、早瀬をさかのぼる魚鱗(ぎょりん)のごとき白線、一すじ伸びきって泰軒の胸元ふかく!
 と思われた瞬間!
 パアッと砕け散ったのは、泰軒先生愛用の一升徳利で、それとともに泰軒は、ついと軍之助の腕の下をくぐり抜けて、近くの月輪のひとりをダッ! 足蹴(あしげ)にしたかと思うと、その、はずみをくらって取りおとす大刀を拾い取るが早いか、やはり、のっそりの仁王立ちの、流祖自源坊案不破水月(ふわすいげつ)のかまえ。
 つねに刀を佩(はい)しない巷の流人(るにん)泰軒居士、例によって敵のつるぎで敵をたおすつもりと見えるが、無剣の剣、できれば、これこそ剣法の奥極かも知れない。
 しののめとともに月輪のざわめき。
 それは、またもやこの乞食が刃物をとったという驚きと戒めの声々であった。
 しかし、泰軒は泰軒として、
 今宵の諏訪栄三郎のはたらきは神わざに近かった――。
 かれは、はじめに法勝寺三郎を斬り、それから四人を地にのめらせたのだが、この長時の剣戦に疲れるどころか、蒼白(そうはく)の顔にほほえみさえうかべ、殺眼に冷たい色を加えて、神変夢想の技(わざ)ますます冴えわたり、
「やッ!」
 と捲(ま)き剣、当面の相手土生仙之助のまえに武蔵太郎の斬っ先を円くまわしていたと見るや、
「うヌ! 参るぞ!」
 一喚! 終わらぬに先んじてッ……慕いよるまもなく、縦横になぎたてたその一下が仙之助の虚につけいって、ザクリッと右肩を割りさげられた仙之助、
「うわアッ! 痛ウウウ――!」
 おさえる気で肩へやった左手が手首まではいりこむほどの重傷だ。
 月のひかりに、アングリと口を開けた自分の肩を、仙之助はちょっと不思議なものと見た。
 が、つぎの一瞬、かれは再び栄三郎の一刀を臓腑(ぞうふ)に感じて、焼けるような痛苦のうちにみずから呼吸をひきとりつつあるのを知った。
 ぷうんと新しい血の香。
 その時だった! どこからともなく飛来した一本の短剣が、折りから栄三郎へかかろうとしていた岡崎兵衛の咽喉ぼとけに射(い)立ったのは……!

 猛鳥のごとく、宙を裂いて来た一梃の小剣、あわや跳躍に移ろうとしていた岡崎兵衛の顎下へガッ! と音してくいこんだ。
 と見る!
 数条の血線、ながく闇黒に飛散して、兵衛はたちまちはりきっていた力が抜け、あやつり人形の糸が切れたように二、三度泳ぐような手つきをしたかと思うと、そのままガックリと地にくずれてのけぞった。
 思わぬ時に意外な伏勢!
 しかも、薄明の夜に防ぎようのない魔の手裏剣である!
 即座に、一同のあたまに電光のごとくひらめいたのが、あの、過ぐる夜半、本所化物屋敷の庭に突如として現われ、またたくまに二、三月輪の剣士を亡き者にしてはてた猿のような一寸法師と彼の投剣術だ……。
 なんじらは順次にわが手裏剣の的(まと)なり――。
 この威嚇(いかく)の文句も、いまだかれらの眼にこびりついている……そのやさき、こうしてなんの前ぶれもなく、小刀、どの方角からとも知れずに疾飛しきたって、またもや剣を取っては錚々(そうそう)たるひとりの同志を、まるで流れ矢にでも当たったように他愛なく射殺したのだから月輪の剣連、瞬間、栄三郎をも泰軒をも忘れて、ひとしく驚愕と畏怖にたじろいだ。
 事実!
 かのふしぎな、手裏剣手は岡崎兵衛を倒したのみにあきたらず今、夜はどこまでもその入神錬達の技を見せるつもりらしく、つづいて二の剣、三の剣と月光をついてシュッ! シュッ! という妖奇な音が、ながくあとを引いて木の間の空に走り出した。
 と思うと、
 ちょうどその時、刀を引っさげて、小剣来たる方を見さだめようとあたりを眺めまわしていた藤堂粂三郎の横腹へ命中して、粂三郎、二つに折れ曲がって傷口をおさえ、ウウム! と一こえ、うなり声もものすごく夜陰にこだまするが早いか、すでに彼は、ばったり土に仰向いて、空を蹴ろうとするように足を高く上げたのも、二、三度――まもなく草の根をつかんで静止……悶絶してしまった。
 そして!
 再びざわめき渡る月輪の一同へつぎの手裏剣! こんどは、燐閃、河魚(かわうお)のごとく躍って各務房之丞の鬢(びん)をかすめ、ガッシ! とうしろの樹幹に突き立ったから、ここに月輪の残士たち、はじめて短秒間のおどろきから立ちなおって、一団にかたまりあっていたのが、わアッ! と叫んで四方に散ずると同時に危険を実感したらしい首領軍之助のどら声が、指令一下、葉末の露を振るいおとしてひびき渡った。
「伏せ! 伏せ! ピッタリ腹をつけて土に寝ろ! 早く散って……早く!」
 これでようやく対策を得た月輪組、あわてふためきながらもソレッ! と蜘蛛の子のように跳び隠れて、一瞬のうちには、みなあちこちの地上に腹這いになったものらしく、見わたす八幡の底に立てる人影もなく、ただ草を濡らす血潮と死体から腥風(せいふう)いたずらにふき立って月の面をかげるばかり剣闘の場も一時は常の春の夜に返ったと見えた。
 騒擾(そうじょう)の夜の静寂は、ひとしお身にしみる。
 ことに夜……その不気味な休戦には、いっそ血を浴びていたほうが、まだましだと思わせる緊張がはらまれていた。
 早いあけぼの。
 栄三郎と山東平七郎は。
 泰軒と月輪軍之助は。
 また、かの丹下左膳は。
 かれらも、共同の敵なるこの玄妙飛来剣のまえには勝負を中止せざるを得なかったとみえて、どこにもそこらには立ち姿の見えないのは、いいあわしたように草に伏しているのであろう――。
 じっさい、かの手裏剣は左膳をはじめ、月輪組を襲うのみならず栄三郎泰軒をも目標にしているものに相違なかった。
 というのは、一度ならず二度、三度までも、例の小柄(こづか)が泰軒栄三郎の身辺に近く飛んで来て、ひとつは、栄三郎の腰なる武蔵太郎の鞘を殺(そ)いで落ちたことさえあったことだ。
 この得体の知れない飛び道具にはせっかく腕に油の乗りかけて来た栄三郎も、また天下に怖いもののないはずの泰軒先生も、ちょっと扱いようがなくて、とにかくとっさに相手の月輪とともに地に伏さっているのだった。
 左膳もどこかに這っているのであろう……しいんとした夜気に明け近い色がただよって、低く傾いた月は漸次に光を失いつつある。
 ところどころに小高く見えるのは、斬り殺された月輪の士の死体だ。
 この上に東天紅(とうてんこう)のそよ風なびいて、葉摺(はず)れの音をどくろの唄と聞かせている。
 この休止のままに夜があけるのであろうか?――と、こちらの木かげからのぞき見るお艶がひとり気をもんだとき、白煙のような朝靄(もや)のなかを小走りに遠ざかりゆく大小ふたつの人影が眼にはいったのだった。
 猿まわしと小猿……夢を見ているのではないかと、お艶は眼をこすった。

  さくら暦(ごよみ)

 あすか山。この享保年中に植えしものには、立春より七日目ごろもっとも盛んなり。
 王子権現(ごんげん)。同七十七日目ごろよし。古木五、六株あり。八重にて匂いふかし。
 すみだ川。おなじく六十四、五日ごろをよしとす。水辺(みずべ)ゆえ眺め殊(こと)にすぐれたり。
 御殿山(ごてんやま)。七十日目ごろさかん也(なり)。房総(ぼうそう)の遠霞(えんか)海辺の佳景、最もよし。
 大井村。七十五日ごろさかん也。品川のさき、来福寺、西光寺二カ所あり。
 柏木村。四谷の先、薬師堂まえ右衛門桜という。さかり同じころ也。
 金王桜。しぶや八幡の社地。おなじころよし。
 当時評判東都花ごよみ桜花の巻一節。
 さて――はな季節である。
 どんよりと濁った空。
 砂ほこり……そして雨。
 一あめごとのあたたかさという。
 咲き始めた。いや、さきそろった。もう散った――などとこのあわただしさが、さくらのさくらたる命だと聞くが、風呂屋や髪床のような人寄り場に、桜花より先に、花のうわさにはなが咲く……そうした一日の午後だった。
「いや、ようよう、我善坊(がぜんぼう)の伯父御隈井九郎右衛門殿から五十両立て換えてもらって、おれもこれでほっといたした。どうもこの節はふところ工合が悪く、そこもとにいろいろと心配をかけて相すまない。が、マア、こうして手切れの金もできたのだから、この上は一刻も早く栄三郎に渡して離縁状を取って来てくれるよう……源十郎、このとおり頼み入る」
「ま! 殿様、なんでございます、おじぎなんぞなさいまして!」
「ははは、不見識だといわるるか。ハテ、実は母者人(ははじゃびと)に生きうつしのそこもと、これからはまたお艶のお腹さまとして拙者にとっては二つとない大切な御隠居、そのお人に頭をさげるに、なんで異なことがござろう?」
「ホホホホ、それはまあそうでしょうけれど……ではあの五十枚たしかに」
 しずかな声が曇った春の陽のうつろう縁の障子をポソポソと洩れ出ている。
 本所法恩寺前――化物やしきと呼ばれる五百石小ぶしん入りの旗本、鈴川源十郎の奥座敷である。
 定斎屋(じょうさいや)の金具の音がのんびりと橋を渡って消えてゆくと、近くの武家の塀内で、去年の秋から落ち葉を焼くけむりが、白くいぶったままこの部屋の端にまでたゆって来ている。
 春長うして閑居。
 明窓浄几(めいそうじょうき)とはいかなくても、せめて庭に対して経(きょう)づくえの一脚をすえ、それに面して書見するなり、ものにはならないまでも、詩箋のひとつもひねくろうというのなら、さすがは徳川幕下直参(じきさん)の士、源十郎もすこしは奥ゆかしかろうというものだが、どうしてどうしてこの鈴川のお殿様ときた日には、書物といえば博奕(ばくち)の貸借をつける帳面以外には見たこともなく、筆なんか其帳(それ)へ記入する時のほか手にしたこともないという仁だから、いくら錆(さ)びた庭面に春の日が斑(まだら)に滑ろうが、あるかなしかの風に浮かれて桜の花びらが破れ畳に吹きこんでこようが、いっこうに風流雅味(がみ)のこころを動かされるふうもなく、きょうも先刻から、とうのむかしに抱きこんである老婆さよを呼び入れて、こうしてしきりに五十金の縁切り状だのと春らしくもないことを並べたてているのは、さては源十郎、いよいよお艶を手に入れる策略を現にめぐらしはじめたものとみえる。
 さてこそ、ふたりの中間に、山吹色――というといささか高尚だが、佐渡の土を人間の欲念で固めた黄金が五十枚、銅臭芬々(ふんぷん)として耳をそろえているわけ。
 俗物源十郎の妄執(もうしゅう)、炎火と燃えたってついにお艶におよばないではおかないのであろうか?
 邸前の野に、雲に入るひばりの声……。
 それも、買わんかな、売らんかなの両人の耳には入らぬらしく、源十郎、したり顔に膝を進めてつと声をおとした。
「サ! おさよ殿、これなる五十両を受け取って、約束どおりに栄三郎から三行半(みくだりはん)を取って来てもらいたい。いかがでござる?――よもや嫌とは……」
「いやだなどとめっそうもない! それではお殿様、はい、この五十両はわたくしがお預り申して」
 と何も知らないおさよは、眼を射る小判の色に眩惑(げんわく)されて、一枚二枚と小声で数えながら金を拾いあげはじめたが! その一つ一つに、出羽様の極印(ごくいん)で、丸にワの字が小さく押してあるのには、おさよはもとより、よく検(あら)ためもしなかったので、源十郎じしんさえすこしも気がつかなかった。
 血のにじんだ小判!
 大工伊兵衛の死相をうかべた金面!
 それが一つずつ老婆の貪欲(どんよく)の手に握りあげられてゆくとき、左膳と月輪の雑居した離室に、どッ! と雪崩(なだれ)のような笑い声が湧いて消えた。
 この室内のしじまにチロチロと金の触れるひびき……。

 怨霊(おんりょう)を宿した金子(きんす)に手をふれておさよの皮膚は焼けただれたか……というに、べつにそうしたこともなく、丸にワの字の出羽様の極印も両人とも知らぬが仏で、世のつねの小判のように、おさよはそのまま五十両を数え終わって、ちょっと改まって源十郎へ向きなおった。
「はい。たしかに五十枚。まことにありがとうございました。これでどうやらお艶の身の振り方もつき、またわたしもこの年になって安楽(らく)ができ、いわばわたしども母娘(おやこ)の出世の――いとぐちと申すべきもの、では、これからさっそく参りまして……」
「ア、そうしてもらいたい」
 源十郎は上々機嫌だ。
「なに、財布がない。では、これを持っていかれるがよい」
 と、これが世にいう運のつきであろうとは後になって思い合わされたところで、この時は源十郎お艶ほしさの一念でいっぱいだから後日の証拠のなんのということはいっこうに心が働かない。ごく気軽に自分の財布を取り出して内容をはたき、これに件(くだん)の五十金を入れておさよに渡すと、おさよは大切に昼夜帯(はらあわせ)のあいだへしまいこんで、
「じゃ、一っ走り――」
 起とうとするところを、ちょいとおさえた源十郎、
「何の中でも、当節(とうせつ)五十両といえばまず大金の部である。こころおぼえのために栄三郎から離縁状を取って戻るまで、受取りをひとつ書いてもらいたいものだが……」
 もっともと思ったおさよが、そこで、筆紙と硯を借りて文面は源十郎の言うとおり――。まず差入れ申す一札のこと……と、書きはじめて、やっと筆をおいた。その文言はこうだった。
差入れ申す一札のこと
一金五十両也。上記のとおり確かにお受取り申し候。娘艶儀、御前様へ生涯(しょうがい)抱切(かかえき)りお妾に差上げ申し候ところ実証なり。婿栄三郎方は右金子をもって私引き受け毛頭違背(いはい)無御座候。為後日証文依而如件(よってくだんのごとし)。
 享保四年四月十一日。
艶母    さよ
鈴川源十郎様
 御用人衆様
 この誓文(せいもん)を書き残したおさよは源十郎が棟梁伊兵衛を殺して奪った金……内いくらかは松平出羽守お作事方の払い金と、大部分はたらぬとはいい条、現在むすめお艶が羽織に身売りしたその代とを〆(し)めて五十になる。それを持ってイソイソと本所の鈴川様おやしきを立ち出たのだった。
 一歩、屋根の下を離れると、忘れていた春の最中である。
 もう早い夏のにおいが町の角々にからんで、祭りの日のような、何がなしに楽しい心のときめきがふと老いたおさよの胸をかすめる。
 幼いころの淡い哀愁であろうかその記憶が、陽光のちまたを急ぎゆく老女のおぼつかない感懐をすらそそらずにはおかないのだった。
 これも、春のなすすさびであろう。
 正直なかわりに単純そのもののようなおさよは、この、人血に染む金で娘のみさおを渡し、それによって展(ひら)かれるであろうはかない最後の安逸(あんいつ)を、早くもぼんやりと脳裡にえがいて、ひとりでに足の運びもはかどるのであった。
 本所を出て、あれから浅草へ歩を向ける。
 まばらな人家のあいだに空き地がひろがって、うす紅の海棠(かいどう)は醒めやらぬ暁夢(ぎょうむ)を蔵して真昼の影をむらさきに織りなし、その下のたんぽぽの花は、あるいはほうけあるは永日ののどかさを友禅(ゆうぜん)のごと点々といろどっているけしき……いつの間にやら、春はどこにでも来ていた。
 南の風。
 そこにもここにも、さくら、さくら、さくら――。
 気がついてみると、今日は吉野(よしの)の花会式(はなえしき)である。
 なつかしい心もち。
 そういったものがひたひたとおさよの身内に押し寄せて来て、彼女は、しばし呆然と道の端に立ちどまっていた。
 どこへ行こう?……と考える。
 栄三郎さんの瓦町の家は、じぶんも一度、刀を掘り出し持って行ったことがあるから知っているが、のっけからこの離縁ばなしをあそこへ持ちこんでゆくのはおもしろくない。
 第一、いまお艶はどこで何をしているのか、それはわからないにしても、瓦町にいないことだけは人の口に聞いて確実なのだから……。
 はて! 金と引き換えに証文まで書き、こうして殿様に受け合って出て来たのはいいが、いったいまずどこへ行って、誰に相談したものであろう?
 思案のうちに、ハタと何かを思いついたらしいおさよ、ひとり頻(しき)りにうなずきながらまたあるきだした。
 まばゆい日光が、浮世の辛苦にやつれた老婆の肩に、細く痛々しくおどっている。
 駒が勇めば花が散る……。
 これは駒ではないが、細工場でおもい槌(つち)をふるって、真赤に焼けた金を錬(なら)すごとに、そのひのひびきに応じて土間ぐちに近く一本立っている桜の木から、雪のような白い花びらがヒラヒラ舞い落ちる。
 テンカアン、テンカアン! と一番槌の音。
 あさくさ三間町の鍛冶富、鍛冶屋富五郎の店さきである。
「サ、吉公、そこんところをもうすこし、裏をよく焼くんだぞ!」
 いそぎの請負仕事であるとみえて、きょうは富五郎、桜花をよそに弟子の吉公をむこうへまわして相変わらず口こごとだらけ。
「ふいごが弱えんじゃねえかナ。あんまり赤がまわらねえじゃねえか。なんでえ、飯ばかり一人前食いやがってしっかりしろい!」
 ――と、それでも珍しく自分で仕事場に立って真っ黒になっているところへ――。
「はい。ごめんなさい、富五郎さん」
 という薹(とう)の立ちすぎた女の声が、藪(やぶ)から棒に聞こえて来たから、富五郎が槌の手を休めてヒョイと戸口の方を見やると、田原町の家主喜左衛門といっしょにいろいろ面倒を見てやった、奥州相馬の御浪人和田宗右衛門さまの後家おさよ婆さんが、妙にニヤニヤ笑ってのぞいているので、
「イヨウ!」
 と驚いた鍛冶富、
「やア、おさよさんじゃアねえか」
「どうも申しわけもございません。お世話になりっぱなしでまだその御恩返しの万分の一もできずに、しじゅうわがことにばかりかまけて御無沙汰つづきでおります。そのうえ、今日はまた折り入ってお願いがあって参りましたので」
「ウムウム。ああそうかい、そりゃまアよく来なすった。いま仕事の最中で挨拶もできねえから、さ、かまわずズンズン奥へあがんなさい……といったところで、知ってのとおりの手狭なあばら家だ。ずうっとはいりこむのはいいが、とたんに裏へ抜けちまうからナ、そこは何だ、いいかげんのところにとまって待っていておくんなさい、はははは、ナニ、すぐにこいつを仕上げて、ひさしぶりだ、いろいろ話も聞こうし報(し)らせてえこともある。さ、ま、遠慮しねえで――」
 いいところへ彼のお艶の母が舞いこんで来たものだ。こいつは一番、このおさよ婆さんにこのごろのお艶の始末をうちあけ、さよから先に納得(なっとく)させてお艶を手に入れてやろうと、さっそくに考えをきめた富五郎、まるで天からぼた餅が降ってきたようなさわぎで、
「こらッ吉ッ! きょうはお客が見えたからこれで遊ばせてやる。いますこし励んだらしまいにして手前(てめい)はよくあと片づけしておけ」
 ジュウンと火熱の鉄を水につっこんで、富五郎はまっくろになった手と顔を洗い、上り端(ばな)の六畳へ来てみると、ふだんから小さなおさよ婆さんがいっそう小さくしぼんで、眼をしょぼつかせながらすわっている。
 そこで。
 どっかりと長火鉢の向うにあぐらをかいた富五郎と、出された座布団をちょいと膝でおさえたおさよとが、無音のわびやら何やらにまたひとしきり挨拶があったのちに、
「おさよさん――」とあらたまって鍛冶富が口をきったのだった。
「どうだえ? 眼がさめなすったかい?」低声になって、「俺ア毎度田原町とも、それからうちのおしんともお前のうわさをしているよ。あんな縹緻(きりょう)のいい娘を持ってサ、おれならお絹物(かいこ)ぐるみの左団扇(ひだりうちわ)、なア、気楽に世を渡る算段をするのに、なんぼ男がよくっても、ああして働きのねえ若造にお艶坊をあずけて、それでお艶さんを埋(う)もらせるばかりか、はええはなしがお前さんまでその年をしてお屋敷奉公に肩を凝(こ)らせる、なんてまあ馬鹿げた仕打ちだと、しじゅうおしんとも語りあっておらアお前さんのために惜しんでいた。が、そこはマア若え女のほうがじきに熱くもなりゃあ冷めるのも早えや、お艶坊はお前、とっくの昔にスッパリ栄三郎さんと手を切ってヨ。今じゃア……」
 いいかけて口をつぐんだ富五郎へおさよはいきなりすがりつくように乗り出したのだった。
「え? うすうすは聞いてもいましたが、それじゃアあの、お艶はすっかり栄三郎と別れて――して今はどこに何をして?」
「これおさよさん!」
 眼を鈍く光らせて、鍛冶富は急によそよそしくなった。
「同じ江戸にいながら、母として娘の所在も生活(くらし)も知らねえとは、おさよさん! おめえ情けねえとは思わねえか」
 さも慨然(がいぜん)と腕を組んだ富五郎のまえに、おさよは始めて欲得(よくとく)のない母の純心を拾い戻した気がして、ながらく忘れていたいとおしい涙が、お艶に対してこみあげるのを覚えた。
 そのようすに、鍛冶富の片頬が、しめたッ! とばかりにかすかに笑みくずれる。
 おさよは、しずかに鼻をかんだ。
「あ! そういえば、あの、おしんさんは?」
 おさよは顔をあげてきいた。富五郎はうそぶく。
「なに、かかあかい、かかあは先刻湯へ行きましたよ」
「道理で、影が見えないと思いました。おふたりともいつもお達者で結構でございますねえ」
「いんや、あんまり結構でもねえのさ」
 と、ほろにがい調子で富五郎が答えている時に、ちょうど露地づたいに近所の風呂から帰って来た富五郎女房のおしん、何ごころなく裏口からあがろうとすると、誰やら客らしい声がいやにしんみりと流れてくるから、おや! どなただろう? と障子の破れからのぞいてみたところが、かねがね亭主の富五郎がひそかに懸想(けそう)していることを自分も感づいているお艶の母のおさよなので、ハテ、珍しくなんの用だろう――? そのまま水ぐちにしゃがんで耳をすましている……とは知らない鍛冶富。
「女房と畳はたびたびかえるがいいそうでネ。ハハハハ、いや、こいつあ冗談だが、さて今の話で、お艶さんがこの日ごろどこに何して暮らしているかは、おさよさん、実はわっしも知らねえんだよ」
 おさよは、いつしか眼のふちを赤くしていた。
「ですけれど親方、ついさっき、何もかも御存じのような口ぶりを洩らしたじゃありませんか。後生ですから――」
「はっはっは! そりゃア事の次第によっちゃアまんざら吐きださねえこともねえかも知らねえが、と、当分、おれは何ものんでやしねえものと思っていてもらいてえ。が、ものは相談だから、お前さんがわしの念をとどけさせるというのならおれもここで一肌ぬいで、ちと大時代だが、御親子対面の場を取りはからわねえとも限らない……」
「親分、なんでございますね、そのお前さんの念(ねん)というのは」
「ウフフフ、なんだネそんなまじめな顔をして! お前さんにそう真っ向から問いただされちゃア、おれも困るじゃないか」
「――――」
「まあよい。こっちのことは第二にして、お前さんも、そうやってわざわざ出て来なすったからにゃア、何か大切な用があってのことだろう? そいつを一つ、即(そく)に聞こうじゃねえか」
 いわれた時におさよは、その鍛冶富も疾(と)うからお艶に心をよせて、今はまたお艶が夢八と名乗って深川のまつ川から羽織に出ている事実をつきとめている唯一の人間……ということなどは思いもおよばないで、きかれるままに渡りに船とばかりきょう尋ねて来た用むきをポツリ、ポツリと話し出したのだった。
 どうも栄三郎がああいう柔和な人間でまことに結構だが、いってみれば働きがなく、末の見こみというものがない。殊には富五郎のいうとおり、もうお艶栄三郎がキッパリ別れているならなおのこと、いまおさよの奉公先本所法恩寺前で五百石のお旗本鈴川源十郎様が、きつう娘に御執心(ごしゅうしん)なされて、一度はお屋敷に閉じこめてわがものにしようとしたが、栄三郎ときれいに手を切って娘を生涯の妾にくれるならば、内々のところは奥様にして、そうならばこのさよも五百石の女隠居、眼をつぶるまで世話をしてやろうといってくださる。栄三郎にはいささか不実だが、これもなんともいたし方がない。しかもすでに離れているものなら、さほど生木を割くというわけでもなし、世の中はまず自分の楽をはかるのが当世かと思う。ついては、いかになんでもわたしから栄三郎へは掛合いがしにくいから、富五郎さんおいそがしいところをお頼み申して心ないが、どうだろう、ここに殿様からいただいた小判が五十両――これだけあれば、いつぞやお前さんに返金するために栄三郎に立て替えてもらった金の埋めもついて、ほかにうるさいことをいわれるおぼえはないはず。その五十金がこのとおりソックリ財布にはいっている。これを手切れにして、一つ出向いて栄三郎を説き伏せて来てはくれまいか……。
 富五郎は沈黙。
 白っぽい場末の静寂が、おさえつけるように真昼の街をこめている。
 弟子の吉公が、またお向うの質屋の小僧と喧嘩をはじめたらしくうわずった声がおもての往来に流れていたが台所にひそむおしんは、何も耳にはいらないふうで、ひたすら室内の富五郎の返答を待った――うなだれて固唾(かたず)をのむおさよ婆さんとともに。
 いわば恋がたきである――源十郎と鍛冶富。
 その鈴川の殿様のために、手切れの使者に立って金を渡し、はなしをまとめてくれとおさよ婆さんに頼まれたときに、鍛冶屋の富五郎、味もそっけもなくポンとはねつける。
 と、思いのほか。
 逆に、グッと一つそり返りざま、胸のあたりを大きくたたいて見得をきった。
「ようがす!」
 と容易(たやす)く受け合う。
 立ち聞くおしんは、案に相違して、お艶を源十郎にやろうという良人(おっと)のことばに燃えかかっていた嫉妬のほむらもちょっとしずまって、いささか安心したらしいようすだが思ったよりこともなく承知(うけあ)ってくれたのに、かえってさよのほうがびっくりし、
「え? それではアノ――?」
 せきこんでききかえすと、ますます鷹揚(おうよう)に合点をした富五郎親方。
「わかりました、おさよさん。お前さんの心はよっく理解がつきましたよ。なアるほどネ、子を思う親の誠に二つはねえとは、よくいったもんだ。お前さんはつまりお艶さんにこのうえの苦労をさせたくねえ。なんとかして鈴川様へさしあげて、すこしでも楽な身分にしてやりてえという腹でいっぺえで、いってみりゃア自分のことなど二の次なんだろう。そうなくちゃアならねえ……うム……親ッてえものはありがてえもんだなあ! おらあおさよさん、この年になって初めて親の恩を知りましたよ。あああ、焼野(やけの)の鶴に夜のきぎす――」
 なんかと富五郎、何を思い出したのかそこらのお寺の説法にでも聞いたらしい文句を並べだしたりはいいが、どうもいうことがさかさまである。
 にもかかわらず。
 涙っぽいその調子に誘われて、おさよが思わずさしうつむくと、うら口のおしんまでが湯帰りの濡れ手拭とまちがえて、雑巾(ぞうきん)で眼じりをこすっている。
 春の日の午さがりだけあって、いかにも間の抜けた愁嘆場(しゅうたんば)……。
 なまあったかい風が、ほこりを舞わせて家をつつむ。
 世の中があくびをしているよう……いかにも眠いもの憂さである。
 おさよが、赤くなった眼をあげた。
「では、瓦町へ出かけて行ってお金を渡し、栄三郎さんから離縁状を取って来てくださるというんでございますね」
「そうともサ! お前さんの言うとおり、世の中は真直ばかりでもいかねえ。おまけに、手前の女房を食わせることもできずに追ん出てゆかれた栄三郎さんだ。そりゃア先様はまた先様で、なんのかのとほかに心をつかうこともあるんだろうけれど、なあに先方の都合なんざア聞く耳もいらねえ。これからすぐに瓦町へ行って栄三郎さんをおだて、ニッコリ笑って縁切り状を書かせて来てみせるから、お前さんはマアわしに任(まか)せて、なんの心配することアねえやな、今におしんも帰ってくるから、ユックリ話して休んでいなさるがいい」
「ほんとに普段は勝手ばかり、用がなければおたずねもしないくせに、とんだ御迷惑なお願いをして――」
「マアいいとも、いいとも、そんなことは言いなさんな、勝手はお互いだ」
「恐れ入りますでございます」
「ナアニ! ところでもうおっつけかかあの帰って来る時分だが……畜生! 何をしてやがるんだろう? 碌でもねえ面の皮の引んむけるほど、おびんずる様みてえに磨きたてやがって――」
 と、これを聞いたおしん、そっと足音を忍ばせてもう一度戸外へ出たが、気がつくと、もしも話の模様がじぶんを突きだしてお艶を入れるようなことにでもなったら、これを振りまわして暴れこんでやろうと、さっきから手にしてたたずんでいた擂粉木(すりこぎ)を、まだ握ったまんまなので、われながらアッ! とふきだしそうになるのをおさえつつ、ほどよいところから、エヘン! 一つさりげなく咳払いをして、
「あれ! どなたかお客さまでござんしたか」
 わざとあわただしく駈けあがって障子をガラリ、
「まあおさよさん! お珍しい!」
 とニコニコ顔のおしん、これでうちの亭主野郎もどうやらお艶さんをあきらめるであろうと思うからそのはなしを持ちこんできたおさよ婆さんを下へも置かずもてなしだすと、
「おしんや。あっちの羽織を出してくんな……それじゃアおさよさん、ちょっくら瓦町へ行って来ますよ。おしん、おさよさんは飲(い)ける口だ。晩にゃア一本つけてナ、帰途に俺が魚甚へ寄って何かよさそうな物を見つくろって来るから――」
「行ってらっしゃい」
 おしん、おさよに送り出されて三間町の己(おの)が鍛冶店をあとにした富五郎、もう二度とわが家の近くへ立ち寄らないつもりだから、さすがにうしろ髪を引かれる思い、町かどで、叱りじまいに小僧の吉公をどなりつけたまま五十両をふところに浅草瓦町とは違う方角へ、逃げるがごとく、足早に消えていった。
 それからまもなく――。
 三間町を出はずれた鍛冶屋富五郎は、ひとり思案に沈みながら人通りのすくない町すじを選んで歩いていた。
 ときどき、ふところへ手をやる。
 と、五十両入りの財布をのんだ懐中はあったかくふくらんで、中年過ぎのこのごろになってともすれば投げやりに傾こうとする富五郎のこころを躍らせずにはおかないのだった。
 十両からは首の台がとぶころである。
 五十といえば、もちろん大金であった。
 が、金そのものよりも、鍛冶富をうらやませてやまないのは、その金が買い得るあの艶の身膚(みはだ)であった。
 聞けば、本所の殿様は、この五十金をおさよ婆さんに渡して、これで栄三郎からきれいにお艶をもらってこいといったそうな。評判の貧乏旗本で身持ちの悪い鈴川様が、どうして五十とまとまったものを調達できたのか、これが第一の不審だが、それはそれとしても、我欲に眼のくらんだおさよが、選(よ)りに選(よ)って自分のところへ交渉方(かけあいかた)を持ちこんで来たのは、富五郎にとってはこのうえもない幸であった。
 よろしい! 承知した! と大きく胸をたたいて婆さんを安心させたのみか、親の恩なぞと並べ立ててちょっぴり泣かせたのち、いと殊勝に縁切りの使者にたつふうに見せかけて家を出て来た鍛冶富だったが、まともに先方に話をつけて五十両おいてこようとは、かれは始めから考えていないのだった。
 突然おさよ婆さんが訪れてきた時、彼はちょうど女房(にょうぼう)のおしんも留守なので、きょうこそはお艶所望の件を持ち出して、妾(めかけ)で承服なら妾、また家へ入れてくれなければ嫌だというのなら、どうせ前々からあきあきしている古女房だから、すぐにもおしんに難癖をつけて追い出し、その後釜にお艶をすえてやろうから、どうか母のお前さんからもとりなしてくれ。ついては、これはわしだけしか知る者はないのだが、お艶さんはいま、まつ川の夢八という名で深川から芸者に出ているから、会いたいならすぐにもあわせてあげよう――とこうすべてをぶちまけて恩にきせ、お艶のもらい受けを頼みこむつもりでいたやさき、おさよ婆さんがきりだした来訪の要件というのを聞いてみると、鈴川の殿様のほうが先口で、しかもここに五十両という手切れの現金、おまけに五百石の女隠居というのに婆さんコロリと参っているふうだから、こりゃア今になって俺がどんなに割りこもうとしたところで所詮相手が旗本ではかないっこない。
 といって、黙って見ていたんじゃあ、おれが行かなくても婆さんなり誰かなりが出かけて話をまとめ、ことによったら鈴川様はお艶坊を手活(ていけ)の花と眺めるかも知れない。あのお艶を、鈴川だろうが何川だろうが、金で買わせてなるものか!
 ――と、ひどく心中にりきみかえってしまった鍛冶屋の親方富五郎、お艶を本所へやらないためには、じぶんがこの五十両を持って逃げるに限る。そうすれば、おさよも手ぶらではお屋敷へ帰れず、またお艶のありかを知る者は自分以外にないのだから、鈴川様の手がお艶にとどくことはない。――
 そうだ。一つ五十金を路用にして、当分江戸をずらかることにしよう?
 なんとしても、あの菊石(あばた)の殿様にお艶さんを自儘(じまま)にさせることはできねえ!
 どうも女房のおしんにはあきの差しているところだ。一番ゆくえをくらまして、この金のつづく限り、おもしろおかしく旅の飯を食ってこよう……と、おのが手にはいらない物は他人(ひと)にもとらせたくないのが下司(げす)の人情、金を持って瓦町へ行くとは真っ赤なうそで、おしんやおさよをちょろまかし、しばらく家をあける気で飛び出して来た富五郎だが――。
 いよいよとなってこうして町を歩きながら考えると、ハテどこへ旅立ったものやら、いっこうに勘得(かんとく)がつかない。
 で、鍛冶富、ブラリブラリと徒歩(ひろ)ってゆくのだが、そのうちに、ふと思いついたのが子供のころから望んでいて、まだ一度も出かけたことのないお伊勢詣りだ。
 ウム! それがいい、伊勢詣りと洒落(しゃれ)よう。
 こう心に決めたかれは、どうもひどいやつで、鈴川源十郎が伊兵衛棟梁を殺して奪った五十両を我物とし、丸にワの字は出羽様の極印(ごくいん)が打ってあるとも知らずに、それからただちに辻駕籠を拾って六郷の渡船場まで走らせ、川を越せば川崎、道中駕籠を宿つぎ人足を代えて早打ちみたよう――夜どおし揺られて箱根の峠にさしかかるあたりで明日の朝日を拝もうという早急(さっきゅう)さ。
「おウッ! 駕籠え! いそぎだ、酒代(さかて)エはずむぜ、肩のそろったところを、エコウ、あらららうアイ! てッんだ。やってくんねえ!」
 気の早いおやじもあったもので、そのまま桜花にどよめくお江戸の春をあとに、ハラヨッ! とばかり、ドンドン東海道を飛ばして伊勢へ下りにかかった。

  水火秘文状(すいかひもんじょう)

 藍色(あいいろ)の夕闇がうっすらと竹の林に立ちこめて、その幹の一つ一つに、西ぞらの残光が赤々と照り映えていた。
 ほの冷たい風に、蜘蛛の糸が銀にそよぐのを見るような、こころわびしいかわたれのひと刻である。
 城西、青山長者ヶ丸。子恋の森の片ほとり……。
 そこの藪かげに、名ばかりの生け垣をめぐらし、草ぶきの屋根も傾いて住みふるした一軒の平屋が、世を忍ぶ人のすがたを語るかにおぼつかなく建っていた。
 野中の森はずれ――ひさしくあいていたその家にこのごろ、いつからともなく二十人ばかりの正体のはっきりしない男達が移ってきて、出入りともにさだめなく、ひそやかな日夜を送っているのだった。
 もとは、相当裕福な武家の隠居所にでも建てたのであろう、木口、間取り、家つきの調度の品々までなかなかに凝(こ)った住居(すまい)ではあるが、ながらく無人、狐狸(こり)の荒らすにまかせてあったうえに、いまの住人というのがまた得体(えたい)の知れない男ばかりの寄合い世帯なので、片づけや手入れをするものもなく、荒廃乱雑をきわめているぐあい、さながらこれも化物屋敷といいたいくらい……。
 この、安達(あだち)ヶ原(はら)ならぬ一つ家の土間に、似合しからぬ五梃の駕籠がきちんと、並べておろしてあるのだった。
 そして。
 その上の壁に、五人分の火事装束がズラリと釘にかかっている――かの五人組火消し装束の不思議な住居。
 首領――とよりは、むしろ長老と呼びたい白髪の翁のもとに。
 四肢のごとく動く屈強な武士が四名。
 ふだんは掃除水仕事や家の警備に当たり、一朝出動の際はただちに駕籠舁(かごかき)と早変りする、六尺近い、筋骨隆々たる下男が十人。
 それに。
 中途から一団に加わった小野塚伊織の弥生と、そのまた弥生が稀腕(きわん)を見こんで招じ入れた手裏至妙剣(しゅりしみょうけん)の小魔甲州無宿山椒(さんしょう)の豆太郎と、〆めて十七人の大家内に、森かげの隠れ家には、それでも賑やかな朝夕がつづいているのだった。
 丹下左膳と、諏訪栄三郎の中間にあって等しく両者をねらい、左膳から乾雲を、栄三郎から坤竜を奪って雲竜二刀をひとつにせんとしている謎の一群!
 頭(かしら)立つ老人は小野塚鉄斎の化身とでもいうのであろうか? 弥生までが黒髪を断ち切ってこの五人組に加担し、あまつさえ豆太郎などという変り種までとりこんで戦備をととのえ、じっさい着々活躍しつつあるとは、たとえ弥生の伊織と五人組とのあいだに、どんな了解(わけあい)がついているにせよ、それは、老翁はじめ五人組の正体同様、なんとも外からは想像をゆるさない秘情であった。
 白髪童顔の老人は、そも何者か?
 それに仕うる血気の四士?
 また、彼らと行動をともにする男装の弥生の心中は? 栄三郎への彼女の悲慕哀恋(ひぼあいれん)はいったいどうしたというのだろう?
 これらすべてが、火事装束に包まれる青白いほのお、やがては燃え抜いてあらわれんとする密事の火種であらねばならない。
 この、去来突風のごとく把握すべからざる火事装束五人組と弥生豆太郎の住家のうえに、今や武蔵野の落日が血のいろを投げて、はるかの雑木ばやしに□唖(いあ)と鳴きわたる烏群の声、地に長い痩竹(そうちく)の影、裏に水を汲むはねつるべの音、かまどの煙、膳立てのけはい――浮世の普通(なみ)に、もの悲しくあわただしいなかに、きょうもはや宵を迎えようとする風情が噪然(そうぜん)として漂っていた。
 たそがれ。
 あかね色。
 ……輝き初(そ)める明星。
 その時、夕まけて寒風の立つ背戸ぐちの竹やぶに、ふたつの影がしゃがんでいた。
 弥生と、そうして豆太郎である。何かの話のつづきらしく、豆太郎は顔をあげずにいいはじめた。見ると、彼は小刀をといでいるのだ。
 例の殺人手裏剣用の短剣を、何梃(なんちょう)となく地べたに並べて、かたわらの手桶の水をヒョイヒョイとかけながら、豆太郎は器用な手つきでせっせと小柄をとぎすましている。
 青黒く空の色を沈めて横たわる小さな刃……それが血を夢みて心から微笑んでいるようだ。
「なあに伊織さん、あの二人だって、あれだけおどかしときゃアたくさんでさあ。へっへっへ、みんな肝をつぶして突っぷしゃがったっけ」
 いいながら豆太郎、手の小剣を鼻さきにかざして、しかめッ面(つら)で刃をにらんだが、まだ気に入らないとみえて、
「チッ! こいつめ!」
 またゴシゴシ磨石(といし)にかけ出したが、あの二人と聞いて、弥生が急にもの思いにあらぬ方を見やったとたん、
「伊織どの! 伊織殿! 伊織殿はおられぬかな?」
 奥から、老翁の声が流れてきた。
「そうさ。乾雲一味の者は大分たおしたようだから、まずあれで上出来であった……あの紅絵売りの若侍と乞食とはああして威嚇(いかく)するだけでよいのだ、怪我があってはならぬ」
 起きあがりながら、こうそそくさと弥生がいうと、豆太郎はちょっと不審げな顔を傾けて、
「へえい! そういうことになりますかね。なんだか俺チにゃあわからねえ」
 で、弥生がまた、なにか口にしようとしているところへ、さっきから呼びつづけていた老人の声が、こんどはひときわ甲高(かんだか)に聞こえてきた。
「伊織どの! そこらに伊織殿はおらぬかな?」
 手裏剣を磨く手も休めもせずに豆太郎が注意した。
「伊織さん、呼んでるぜ、大将が」
 弥生はうなずいて家内(なか)へはいった。
 奥の書院へ通る。
 何一つ家具らしいもののない八畳の部屋、水のような暮色がしずかに隅々からはいよるその中央に褪(あ)せた緋(ひ)もうせんを敷いて一人の翁が端座している。
 銀糸を束ねた白髪、飛瀑(ひばく)を見るごとき白髯、茶紋付(ちゃもんつき)に紺無地甲斐絹(かいき)の袖なしを重ねて、色光沢(つや)のいい長い顔をまっすぐに、両手を膝にきちんとすわっているところ、これで赤いちゃんちゃんこでも羽織れば、老いて愚に返った喜(き)の字の祝いのようで、まるで置き物かなんぞのように至極穏当な好々爺(こうこうや)としか見えない。
 さて、何者にせよ、火事装束の四闘士と十人の荒らくれ男をピッタリおさえて、自ら先に乾坤の刀争裡(とうそうり)に馳駆するだけあって、その眼は鷲のような鋭光を放ち、固く結んだ口もと、肉(しし)おきの凝(こ)りしまった肩から腕の外見、一瞥(べつ)してこの老士とうてい尋常の翁ではないことを語っている。
 松の古木のような、さびきったその身辺に、夕ぐれとはいえ、何やらうそ寒いものが漂っているのを感得して、
「は、お呼びでございましたか」
 と入って来た弥生は、思わずぶるッと小さく身ぶるいをしながら黙りこくっている老翁のまえへ、いざりよって座を占めた。
 うす暗い。
 となりは、ほとんどもう闇黒に近い室内。
 そこに、神鏡のように茫(ぼう)ッと白く浮かんでいる老人の顔を見ると、弥生は、はじめて気がついたようにあたりを見まわした。
「あれ! まだお灯が入っておりませんでございましたか。どうも不調法を……ただいま持って参りまする」
 と弥生、そこは天性で、もとを知られているこの老人の前へ出ると、小野塚伊織のはずの弥生、いつも本来の女性に立ち返って、じぶんでもふしぎなくらい自然に、言葉さえもただの弥生になるのだった。
 四六時ちゅう、みずから意を配って男のように立ち振舞っているだけに、こうしてしばらくにしろ、その甲冑(かっちゅう)を脱ぎ捨てて女の自分に戻ることは、泣きたいような甘いこころを、つと弥生の胸底にわかさずにはおかない。
 老士は口を開かない。
 が、この弥生の心もちを伝え知ったかのように、剃刀(かみそり)のように冷やかだった眼色にやさしみが加わって、やがて、ぽつりといいきった声には不愛想ながらも、どこかに児に対するごとき一脈親愛の情がのぞき見られた。
「灯はいらぬ」
 そして、珍しく、かすかな笑顔が小さく闇黒に揺れた。
「暗うても会話(はなし)は見えるでな」
「ホホホ! それはそうでございます」若侍の伊織が、娘の弥生として笑う。
 そこに、妙に奇異な艶(なま)めかしさが動くのだった。
「して、そのおはなしと申しますのは?――なんでございましょう?」
 すると、老人はしばらく沈思していたが、
「伊織どの! いや、弥生殿……のう、伊織が弥生であることに、まだ誰も気づいた者はありませぬかな」
 ギョッ! としたらしく弥生はにわかに肩をかくばらせて男のていに返りながら、
「はじめから御存じの先生とお弟子衆のほかは、たれ一人として知るものはないはずにござりまする」
「うむ。かの、豆太郎とか申した人猿めは?」
「は。きゃつとて何条疑いましょう! いうまでもなく、わたしを男と思いこんでいるふうにござりまするが、今宵に限って、先生には何しにさようなことをおたずねなされますか」
 老士の膝が、一、二寸前方へ刻み出た。
「いささか気になるによって聞いたまでで、大事ない。だが弥生どの、ぬかりはござるまいが、けどられぬよう十分にナ……」
 弥生がうなずいた拍子に、それを合図に待っていたかのごとく、うらの竹やぶに咽喉自慢の豆太郎の唄声。
坂は照る照る。
鈴鹿(すずか)は曇る。
あいの土山(つちやま)、雨が降(ふ)る。

上り下りのおつづら馬や
さても見事な手綱(たづな)染めかえナア
馬子衆のくせか高声に
鈴をたよりにおむろ節(ぶし)
坂は照る照る
すずかは曇る
間の土山、雨が降ウる
はいッ!
シャン、シャン、か――。
 暮れ迫る森かげの家を、手裏剣をとぎながら、ひとりうかれ調子の豆太郎の声が、ころがるように筒ぬけてゆく。
 唄にあわせて砥石(といし)にかけているものらしく、拍子をとって、声に力がはいっている。

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