丹下左膳
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著者名:林不忘 

   夜泣きの刀

 しずかに更(ふ)けてゆく秋の夜。
 風が出たらしく、しめきった雨戸に時々カサ! と音がするのは庭の柿の病葉(わくらば)が散りかかるのであろう。その風が隙間を洩れて、行燈(あんどん)の灯をあおるたびに、壁の二つの人影が大入道のようにゆらゆらと揺ぐ――。
 江戸は根津権現(ねづごんげん)の裏、俗に曙(あけぼの)の里といわれるところに、神変夢想流(しんぺんむそうりゅう)の町道場を開いている小野塚鉄斎(おのづかてっさい)、いま奥の書院に端坐して、抜き放った一刀の刀身にあかず見入っている。霜をとかした流水がそのまま凝(こ)ったような、見るだに膚寒い利刃(りじん)である。刀を持った鉄斎の手がかすかに動くごとに、行燈の映(うつ)ろいを受けて、鉄斎の顔にちらちらと銀鱗が躍る。すこし離れて墨をすっている娘の弥生(やよい)は、何がなしに慄然(ぞっ)として襟(えり)をかきあわせた。
「いつ見ても斬れそうだのう」
 ひとりごとのように鉄斎がいう。
「はい」
 と答えたつもりだが、弥生の声は口から外へ出なかった。
「年に一度しか取り出すことを許されない刀だが、明日はその日だ――誰が此刀(これ)をさすことやら」
 鉄斎というよりも刀が口をきいているようだ。が、ちらと娘を見返った鉄斎の老眼は、父親らしい愛撫と、親らしい揶揄(からかい)の気味とでいつになく優しかった。すると弥生は、なぜか耳の付け根まであかくなって、あわてて墨をする手に力を入れた。うなだれた首筋は抜けるように白い。むっちりと盛りあがった乳房のあたりが、高く低く浪を打っている。
 轟(ど)ッ――と一わたり、小夜嵐(さよあらし)が屋棟(むね)を鳴らして過ぎる。
 鉄斎は、手にしていた一刀を、錦の袋に包んだ鞘(さや)へスウッ、ピタリと納めて、腕を組んで瞑目(めいもく)した。
 膝近く同じ拵(こしら)えの刀が二本置いてある。
 関(せき)の孫六(まごろく)の作に、大小二口(ふたふり)の稀代(きだい)の業物(わざもの)がある。ともに陣太刀作りで、鞘は平糸巻き、赤銅(しゃくどう)の柄(つか)に刀には村雲(むらくも)、脇差には上(のぼ)り竜(りゅう)の彫り物があるというところから、大を乾雲丸(けんうんまる)、小を坤竜丸(こんりゅうまる)と呼んでいるのだが、この一対(つい)の名刀は小野塚家伝来の宝物で、諸国の大名が黄金を山と積んでも、鉄斎老人いっかな手放そうとはしない。
 乾雲、坤竜の二刀、まことに天下の逸品(いっぴん)には相違ない。だが、この刀がそれほど高名なのは、べつに因縁(わけ)があるのだと人はいいあった。
 ほかでもないというのは。
 二つの刀が同じ場所に納まっているあいだは無事だが、一朝(ちょう)乾雲と坤竜が所を異(こと)にすると、凶(きょう)の札をめくったも同然で、たちまちそこに何人かの血を見、波瀾万丈、恐ろしい渦を巻き起こさずにはおかないというのだ。
 そして刀が哭(な)く。
 離ればなれの乾雲丸と坤竜丸が、家の檐(のき)も三寸下がるという丑満(うしみつ)のころになると、啾々(しゅうしゅう)としてむせび泣く。雲は竜を呼び、竜は雲を望んで、相求め慕(した)いあい二ふりの刀が、同じ真夜中にしくしくと泣き出すという。
 明日は、十月へはいって初の亥(い)の日で、御玄猪(ごげんちょ)のお祝い、大手には篝火(かがりび)をたき、夕刻から譜代大名が供揃い美々(びび)しく登城して、上様(うえさま)から大名衆一統へいのこ餅をくださる――これが営中年中行事の一つだが、毎年この日に曙の里小野塚鉄斎の道場に秋の大試合が催されて、高点者に乾雲丸、次点の者に坤竜丸を、納めの式のあいだだけ佩用(はいよう)を許す吉例(きちれい)になっている。もっとも、こういう曰(いわ)くのある刀なのですぐに鉄斎の手へ返すのだけれど、たとえ一時にもせよ、乾坤の刀をさせば低い鼻も高くなるというもの。今年の乾雲丸はぜひとも拙者が――いや、それがしは坤竜をなどと、門弟一同はそれを目的(めあて)に平常の稽古(けいこ)を励むのだった。
 その試合の前夜、鉄斎はこうして一年ぶりに刀を出してしらべている。
「お父様、あの、墨がすれましてございます」弥生にいわれてぽっかり眼をあけた鉄斎、サラサラと紙をのべながら、夢でも見ているように突然(だしぬけ)にいい出した。
「明日は諏訪(すわ)が勝ち抜いて、この乾雲丸をさすにきまっておる。ついでだが、そち、栄三郎をどう思う?」
 諏訪栄三郎! と聞いて、娘十八、白い顔にぱっと紅葉が散ったかと思うと、座にも居耐(た)えぬように身をもんで、考えもなく手が畳をなでるばかり――返辞はない。
 墨の香が部屋に流れる。
「はっはっは、うむ! よし! わかっとる」
 大きくうなずいた鉄斎老人、とっぷり墨汁をふくんだ筆を持ちなおすが早いか、雄渾(ゆうこん)な字を白紙の面に躍らせて一気に書き下した。

本日の試合に優勝したる者へ乾雲丸に添えて娘弥生を進ず
小野塚鉄斎
「あれ! お父さまッ!」
 と叫んで弥生の声は、嬉しさと羞(はじ)らいをごっちゃにして、今にも消え入りそうだった。
 広やかな道場の板敷き、正面に弓矢八幡の大額(がく)の下に白髪の小野塚鉄斎がぴたりと座を構えて、かたわらの門弟の言葉に、しきりにうなずきながら、微笑をふくんだ眼を、今し上段に取った若侍の竹刀(しない)から離さずにいる。
 乱立(らんだ)ちといおうか、一風変わった試合ぶりだ。
 順もなければ礼もない。勝負あったと見るや、一時に五、六人も跳び出して、先を争って撃ってかかるが、最初に一合あわせた者がその敵に立ち向かって、勝てば続けて何人でも相手にする。しかし一度引っこむと二度は出られない。こうして最後に勝ちっ放したのが一の勝者という仕組みである。
 出たかと思うと。すぐ参った! とばかり、帰りがけに早々(そうそう)お面をはずしてくる愛嬌者もある。早朝から試合がつづいて、入れ代わり立ちかわり、もう武者窓を洩れる夕焼けの色が赤々と道場を彩(いろど)り、竹刀をとる影を長く板の間に倒している。
 内試合とは言え、火花が散りそう――。
 時は、徳川八代将軍吉宗(よしむね)公の御治世(ごじせい)。
 人は久しく泰平に慣れ、ともすれば型に堕(お)ちて、他流には剣道とは名ばかりで舞いのようなものすらあるなかに、この神変夢想流は、日ごろ、鉄斎の教えが負けるな勝て! の一点ばりだから、自然と一門の手筋が荒い。ことに今日は晴れの場、乾坤の刀――とそれに!
 道場の壁に大きな貼り紙がしてある。
 勝った者へ弥生をとらせる! 先生のひとり娘、曙小町の弥生様が賭競(かけど)りに出ているのだ。なんという男冥利、一同こころひそかに弓矢八幡と出雲の神をいっしょに念じて、物凄い気合いをただよわせているのもむりではない。誰もが一様に思いを寄せている弥生、剣家の娘だから恨みっこのないように剣で取れ――こう見せかけながら、実は鉄斎の腹の中で技倆(うで)からいっても勝つべき若者――婿(むこ)として鑑識(めがね)にかなった諏訪栄三郎という高弟がひとりちゃんと決まっていればこそ、こんな悪戯(いたずら)をする気にもなったのだろうが、これは栄三郎を恋する娘ごころを思いやって、鉄斎老人が、父として粋をきかしたのだった。
「誰だ? お次は誰だ?」
 今まで勝ち抜いて来た森徹馬(てつま)、道場の真中に竹刀を引っさげて呼ばわっている。いろんな声がする。
「かかれ、かかれ! 休ませては損だ」
「誰か森をひしぐ者はないか――諏訪! 諏訪はどうした? おい、諏訪氏!」
「そうだ、栄三郎はどこにいる!」
 やがてこのざわめきのなかに、浅黄刺子(さしこ)の稽古着に黒塗(くろぬり)日の丸胴をつけた諏訪栄三郎が、多勢の手で一隅から押し出されると、上座の鉄斎のあから顔がにっこりとして思わず肩肘(かたひじ)をはって乗り出した。
 と、母家(おもや)と廊下つづきの戸の隙間に、派手な娘友禅がちらと動いた。
 栄三郎は、浅草鳥越(とりごえ)に屋敷のある三百俵蔵前取りの御書院番、大久保藤次郎の弟で当年二十八歳、母方の姓をとって早くから諏訪と名乗っている。女にして見たいような美男子だが、底になんとなく凜(りん)としたところがあって冒(おか)しがたいので、弥生より先に鉄斎老人が惚れてしまった。
 ぴたり――相青眼(あいせいがん)、すっきり爪立った栄三郎の姿に、板戸の引合せから隙見している弥生の顔がぽうっと紅をさした。まだ解けたことのない娘島田を傾けて、袖屏風(そでびょうぶ)に眼を隠しながら一心に祈る――何とぞどうぞ栄三郎さま、弥生のためにお勝ちなされてくださいますよう!
 勝負は時の運とかいう。が、よもや! と思っていると、チ……と竹刀のさきが触れ合う音が断続して、またしいんと水を打ったよう――よほどの大仕合らしい。
 と、掛け声、跫音(あしおと)、一合二合と激しく撃ちあう響き!
 あれ! 栄三郎様、勝って! 勝って! と弥生が気をつめた刹那、□(どう)ッ――と倒れるけはいがして、続いて、
「参った! お引きくだされ、参りました」という栄三郎の声、はっとして弥生がのぞくと、竹刀を遠くへ捲(ま)き飛ばされた諏訪栄三郎、あろうことか、板の間に両手をついている!
 わざとだ! わざと負けたのだ! と心中に叫んだ弥生は、きっと歯を噛(か)んで駈け戻ったが、こみ上げる涙は自分の居間へ帰るまで保たなかった。障子をあけるやいなや、弥生はそこへ哭(な)き伏した。
「わたしを嫌ってわざと負けをお取りになるとは、栄三郎さま、お恨みでございます! おうらみでございます。ああ――わたしは、わたしは」
 胸を掻き抱いて狂おしく身をもむたびに、緋鹿子(ひかのこ)が揺れる。乱れた前から白い膚がこぼれるのも知らずに、弥生はとめどもない熱い涙にひたった。
 この時、玄関に当たって人声がした。
「頼もう!」
 根岸あけぼのの里、小野塚鉄斎のおもて玄関に、枯れ木のような、恐ろしく痩せて背の高い浪人姿が立っている。
 赤茶けた髪を大髻(おおたぶさ)に取り上げて、左眼はうつろにくぼみ、残りの、皮肉に笑っている細い右眼から口尻へ、右の頬に溝のような深い一線の刀痕がめだつ。
 たそがれ刻(どき)は物の怪(け)が立つという。
 その通り魔の一つではないか?――と思われるほど、この侍の身辺にはもうろうと躍る不吉の影がある。
 右手をふところに、左手に何やら大きな板みたいな物を抱えこんで奥をのぞいて、
「頼もう――お頼み申す」
 と大声だが、夕闇とともに広い邸内に静寂がこめて裏の権現様の森へ急ぐ鳥の声が空々と聞こえるばかり。侍はチッ! と舌打ちをして、腋(わき)の下の板を揺り上げた。
 道場は大混乱だ。
 必ず勝つと信じていた栄三郎が森徹馬と仕合って明らかに自敗をとった。弥生を避けて負けたのだ! 早く母に死別し、自分の手一つで美しい乙女にほころびかけている弥生が、いま花の蕾に悲恋の苦をなめようとしている! こう思うと鉄斎老人、煮え湯をのまされた心地で、栄三郎の意中をかってに見積もってあんな告げ紙を貼り出したことが、今はただ弥生にすまない! という自責の念となり、おさえきれぬ憤怒に転じてグングン胸へ突きあげてくる。
 鉄斎は起って来て、栄三郎をにらみつけた。
「これ、卑怯者、竹刀を取れ!」
 栄三郎の口唇(くちびる)は蒼白い。
「お言葉ながらいったん勝負のつきましたものを――」
「黙れ、黙れ! 思うところあってか故意に勝ちをゆずったと見たぞ。作為(さくい)は許さん! もう一度森へかかれッ!」
「しかし当人が参ったと申しております以上――」
「しかし先生」徹馬も一生懸命。
「エイッ、言うな! 今の勝負は鉄斎において異存があるのだ。ならぬ、今いちど立ち会え!」
 この騒ぎで誰も気がつかなかったが、ふと見ると、いつのまに来たものか、道場の入口に人影がある。玄関の侍が、いくら呼んでも取次ぎが出ないのでどんどんはいりこんで来たのだ。
 相変わらず片懐中手(かたふところで)、板をさげている。
 鉄斎が見とがめて、近寄っていった。
「何者だ? どこから来おった!」
「あっちから」
 ぬけぬけとした返事。上身をグッとのめらせて、声は優しい。一同があっけにとられていると、今日の仕合に優勝した仁(じん)と手合せが願いたいと言う。
 名は! ときくと、丹下左膳(たんげさぜん)と答える。流儀は? とたたみかけると、丹下流……そしてにやりとした。
「なるほど。御姓名が丹下殿で丹下流――いや、これはおもしろい。しかし、せっかくだが今日は内仕合で、他流の方はいっさいお断りするのが当道場の掟(おきて)となっておる。またの日にお越しなさい」
 ゲッ! というような音を立てて、丹下左膳と名乗る隻眼の侍、咽喉(のど)で笑った。
「またの日はよかったな。道場破りにまたの日もいつの日もあるめえ。こら! こいつら、これが見えるか」
 片手で突き出した板に神変夢想流指南(しんぺんむそうりゅうしなん)小野塚鉄斎道場と筆太の一行!
 や! 道場の看板! さては、門をはいりがけにはずして来たものと見える。おのれッ! と総立ちになろうとした時、
「こうしてくれるのだッ!」
 と丹下左膳、字看板を離して反(そ)りかえりざま、
 カアッ、ペッ!
 青痰(あおたん)を吐(ひ)っかけたは。
 はやる弟子を制して大手をひろげながら、鉄斎が森徹馬をかえりみて思いきり懲(こ)らしてやれ! と眼で言うその間に左膳は、そこらの木剣を振り試みて、一本えらみ取ったかと思うと、はやスウッ! と伸びて棒立ち。裾に、女物の下着がちらちらする。やはり右手を懐中にしたままだ。カッとした徹馬、
「右手を出せ」
 すると、
「右手はござらぬ」
「何? 右手はない? 隻腕か。ふふふ、しかし、隻腕だとて柔らかくは扱わぬぞ」
 左膳、口をへの字に曲げて無言。独眼隻腕の道場荒し丹下左膳。左手の位取りが尋常でない。
 が、相手は隻腕、何ほどのことやある?……と、タ、タッ、飄(ひょう)ッ! 踏みきった森徹馬、敵のふところ深くつけ入った横薙(な)ぎが、もろにきまった――。
 と見えたのはほんの瞬間、ガッ! というにぶい音とともに、
「う。う。う。痛(つ)う」
 と勇猛徹馬、小手を巻き込んでつっぷしてしまった。
 同時に左膳は、くるりと壁へ向きなおって、もう大声に告げ紙を読み上げている。
「栄、栄三郎、かかれッ!」
 血走った鉄斎の眼を受けて、栄三郎はひややかに答えた。
「勝抜きの森氏を破ったうえは、すなわち丹下殿が一の勝者かと存じまする」

 宵闇はひときわ濃く、曙の里に夜が来た。
 日が暮れるが早いか、内弟子が先に立って、庭に酒宴のしたくをいそぐ。まず芝生に筵(むしろ)を敷き、あちこちに、枯れ枝薪などを積み集めて焚き火の用意をし、菰被(こもかぶ)りをならべて、鏡を抜き杓柄(ひしゃく)を添える。吉例により乾雲丸と坤竜丸を帯びた一、二番の勝者へ鯣(するめ)搗栗(かちぐり)を祝い、それから荒っぽい手料理で徹宵(てっしょう)の宴を張る。
 林間に酒を暖めて紅葉(こうよう)を焚く――夜は夜ながらに焚き火が風情をそえて、毎年この夜は放歌乱舞、剣をとっては脆(もろ)くとも、酒杯にかけては、だいぶ豪の者が揃っていて、夜もすがらの無礼講(ぶれいこう)だ。
 が、その前に、乾坤の二刀を佩(は)いたその年の覇者(はしゃ)を先頭に、弥生が提灯(ちょうちん)をさげて足もとを照らし、鉄斎老人がそれに続いて、門弟一同行列を作りつつ、奥庭にまつってある稲荷(いなり)のほこらへ参詣して、これを納会(おさめ)の式とする掟になっていた。
 植えこみを抜けると、清水観音の泉を引いたせせらぎに、一枚石の橋。渡れば築山(つきやま)、稲荷はそのかげに当たる。
 月の出にはまがある。やみに木犀(もくせい)が匂っていた。
 ――丹下左膳に、ともかくおもて向ききょうの勝抜きとなっている森徹馬が打たれてみれば、いくら実力ははるか徹馬の上にあるとわかっていても、その徹馬に負けた栄三郎を今から出すわけにはゆかない。栄三郎もこの理をわきまえればこそ辞退したのだ。何者とも知れない隻腕の剣豪丹下左膳、そこで、刀痕あざやかな顔に強情な笑(えみ)をうかべ、貼り紙を楯(たて)に開きなおって、乾雲丸(けんうんまる)と娘御(むすめご)弥生どの、いざ申し受けたいと鉄斎に迫った。いや、あれは内輪(うちわ)の賞で、他流者には通用せぬと説いても、左膳はいっこうききいれない。老いたりといえども小野塚鉄斎、自ら立ち向かえば追っ払うこともできたろうが、今日は娘の身にも関係のあること、ここはあやして帰すが第一、それには乾雲丸さえ許せば、よもや娘までもと言うまい――こう考えたから、そこは年輩、ぐっとこらえて、丹下を一の勝ちとみとめた。
 で、書院から捧持(ほうじ)して来た関の孫六の夜泣きの名刀、乾雲丸は丹下左膳へ、坤竜丸(こんりゅうまる)は森徹馬へと、それぞれ一時鉄斎の手から預けられた。
 参詣の行列。
 泣きぬれた顔を化粧(けわ)いなおした弥生が、提灯を低めて先に立つと、その赤い光で、左膳はじっと弥生から眼を離さなかったが、弥生は、あとから来る栄三郎に心いっぱい占められて気がつかなかった。
 やがて、ぞろぞろと暗い庭をひとまわりして帰ると、それで刀を返上して、ただちにお開き……焚き火も燃えよう、若侍の血も躍ろう――という騒ぎだが、この時!
 自分の坤竜丸と左膳の乾雲丸とをまとめて返しに行くつもりで、しきりに左膳の姿を捜していた徹馬が、突如驚愕(おどろき)の叫びをあげた。
「おい、いないぞ! あの、丹下という飛入り者が見えないッ!」
 この声は、行列が崩れたばかりでがやがやしていた周囲を落雷のように撃った。
「なにイ! タ、丹下がいない?」
「しかし、今までそこらにうろうろしてたぞ」
 たちまち折り重なって、徹馬をかこんだ。
「彼刀(あれ)をさしたままか?」
 その中の誰かがきくと、徹馬は声が出ないらしく、
「うん……」
 続けざまにうなずくだけ――。
 乾雲丸を持って丹下左膳が姿を消した。
 降って湧いたこの椿事(ちんじ)!
 離れたが最後、雲竜相応じて風を起こし雨を呼び、いかなる狂瀾怒濤(きょうらんどとう)、現世の地獄をもたらすかも知れないと言い伝えられている乾坤二刀が、今や所を異にしたのだ!
 ……凶の札は投げられた。
 死肉の山が現出するであろう! 生き血の河も流れるだろう。
 剣の林は立ち、乱闘の野はひらく。
 そして! その屍山(しざん)血河(けっか)をへだてて、宿業(しゅくごう)につながる二つの刀が、慕いあってすすり泣く……!
 非常を報ずる鉄斎道場の警板があけぼのの里の寂寞(しじま)を破って、トウ! トトトトウッ! と鳴りひびいた。
 変異を聞いて縁に立ちいでた鉄斎、サッと顔色をかえて下知(げじ)をくだす。
 もう門を出たろう!
 いや、まだ塀内にひそんでいるに相違ない。
 とあって、森徹馬を頭に、二隊はただちに屋敷を出て、根津の田圃に提灯の火が蛍のように飛んだ。
 同時に、バタン! バタン! と表裏の両門を打つ一方、庭の捜査は鉄斎自身が采配をふるって、木の根、草の根を分ける抜刀に、焚火の反映が閃々(せんせん)として明滅する。
 ひとりそのむれを離れた諏訪(すわ)栄三郎、腰の武蔵太郎安国(むさしたろうやすくに)に大反りを打たせて、星屑をうかべた池のほとりにたった。
 夜露が足をぬらす。
 栄三郎は裾を引き上げて草を踏んだ。と、なんだろう――歩(あし)にまつわりつくものがある。
 拾ってみると、緋縮緬の扱帯(しごき)だ。
 はてな! 弥生様のらしいがどうしてこんなところに! と首を傾けた……。
 とたんに?
 闇黒を縫って白刃が右往左往する庭の片隅から、あわただしい声が波紋のようにひろがって来た。
「やッ! いた、いたッ! ここに!」
「出会えッ!」
 この二声が裏木戸のあたりからしたかと思うと、あとはすぐまた静寂に返ってゾクッ! とする剣気がひしひしと感じられる。
 声が切れたのは、もう斬りむすんでいるらしい。
 散らばっている弟子達が、いっせいに裏へ駈けて行くのが、夜空の下に浮いて見える。
 ぶつりと武蔵太郎の鯉口を押しひろげた栄三郎、思わず吸いよせられるように足を早めると、チャリ……ン!
「うわあッ!」
 一人斬られた。
 ――星明りで見る。
 片袖ちぎれた丹下左膳が大松の幹を背にしてよろめき立って、左手に取った乾雲丸二尺三寸に、今しも血振るいをくれているところ。
 別れれば必ず血をみるという妖刀が、すでに血を味わったのだ。
 松の根方、左膳の裾にからんで、黒い影がうずくまっているのは、左膳の片袖を頭からすっぽりとかぶせられた弥生の姿であった。
 神変夢想の働きはこの機! とばかり、ずらりと遠輪に囲んだ剣陣が、網をしめるよう……じ、じ、じッと爪先刻(きざ)みに迫ってゆく。
 刀痕(とうこん)鮮かな左膳の顔が笑いにゆがみ、隻眼が光る。
「この刀で、すぱりとな、てめえ達の土性(どしょう)ッ骨を割り下げる時がたまらねえんだ。肉が刃を咬んでヨ、ヒクヒクと手に伝わらあナ――うふっ! 来いッ、どっちからでもッ!」
 無言。光鋩(こうぼう)一つ動かない。
 鉄斎は? 見ると。
 われを忘れたように両手を背後に組んで、円陣の外から、この尾羽(おは)打枯(うちか)らした浪人の太刀さばきに見惚れている。敵味方を超越して、ほほうこれは珍しい遣(つか)い手だわいとでもいいたげなようす!
 焦(いら)立ったか門弟のひとり、松をへだてて左膳のまうしろへまわり、草に刀を伏せて……ヒタヒタと慕い寄ったと見るまに、
「えいッ!」
 立ち上がりざま、下から突きあげたが、
「こいつウ!」
 と呻いた左膳の気合いが寸刻早く乾雲空(くう)を切ってバサッと血しぶきが立ったかと思うと、突いてきた一刀が彗星(すいせい)のように闇黒に飛んで、身体ははや地にのけぞっている。
 弥生の悲鳴が、尾を引いて陰森(いんしん)たる樹立ちに反響(こだま)した。
 これを機会に、弧を画いている刃襖(はぶすま)からばらばらと四、五人の人影が躍り出て、咬閃(こうせん)入り乱れて左膳を包んだ。
 が、人血を求めてひとりでに走るのが乾雲丸だ。しかも! それが剣鬼左膳の手にある!
 来たなッ! と見るや、膝をついて隻手の左剣、逆に、左から右へといくつかの脛(すね)をかっ裂いて、倒れるところを蹴散らし、踏み越え、左膳の乾雲丸、一気に鉄斎を望んで馳駆(ちく)してくる。
 ダッ……とさがった鉄斎、払いは払ったが、相手は丹下左膳ではなく魔刀乾雲である。引っぱずしておいて立てなおすまもなく、二の太刀が肘(ひじ)をかすめて、つぎに、乾雲丸はしたたか鉄斎の肩へ食い入っていた。
「お! 栄ッ! 栄三――」
 そうだ栄三郎は何をしている? 言うまでもない。武蔵太郎安国をかざして飛鳥ッ! と撃ちこんだ栄三郎の初剣は、虚を食ってツウ……イと流れた。
「おのれッ!」
 と追いすがると、左膳は、もうもとの松の根へとって返し、肉迫する栄三郎の前に弥生を引きまわして、乾雲丸の切先であしらいながら、
「斬れよ、この娘を先に!」
 白刃と白刃との中間に狂い立った弥生、血を吐くような声で絶叫した。
「栄三郎様ッ、斬って! 斬って! あなたのお手にかかれば本望ですッ……さ、早く」
 栄三郎がひるむ隙に、松の垂れ枝へ手をかけた左膳、抜き身の乾雲丸をさげたまま、かまきりのような身体が塀を足場にしたかと思うと、トンと地に音して外に降り立った。
 火のよう――じんの声と拍子木(ひょうしぎ)。
 それが町角へ消えてから小半刻(こはんとき)もたったか。麹町(こうじまち)三番町、百五十石小普請(こぶしん)入りの旗本土屋多門(つちやたもん)方の表門を、ドンドンと乱打する者がある。
「ちッ。なんだい今ごろ、町医じゃあるめぇし」寝ようとしていた庭番の老爺(ろうや)が、つぶやきながら出て行って潜(くぐ)りをあけると、一拍子に、息せききって、森徹馬がとびこんで来た。
「おう! あなた様は根津の道場の――」
 御主人へ火急の用! と言ったまま、徹馬は敷き台へ崩れてしまった。
 土屋多門は鉄斎の従弟、小野塚家にとってたった一人の身寄りなので、徹馬は変事を知らせに曙の里からここまで駈けつづけて来たのだ。
 何事が起こったのか……と、寝巻姿に提(さ)げ刀で立ち現われた多門へ、徹馬は今宵の騒ぎを逐一(ちくいち)伝える。
 ――丹下左膳という無法者が舞いこみ、大事の仕合に一の勝ちをとって乾雲丸を佩受(はいじゅ)したこと、そして、さしたまま逃亡しようとして発見され鉄斎先生はじめ十数人を斬って脱出した……しかも、刀が乾雲丸の故か、斬られた者は、重軽傷を問わずすべて即死! と聞いて、多門はせきこんだ。
「老先生もかッ」
「ざ、残念――おいたわしい限りにございます」
「チエイッ! 御老人は年歳(とし)は年齢だが、お手前をはじめ諏訪など、だいぶ手ききが揃っておると聞いたに、なななんたる不覚――」
 徹馬は、外へ探しに出ていて、裏塀を乗り越えるところを見つけて斬りつけたが、なにしろこの暗夜、それに乾雲丸の切先鋭(するど)く、とうとう門前町(もんぜんちょう)の方角へ丹下の影を見失ってしまった。こう弁解らしくつけたしたかれの言葉は、もはや多門の耳へははいらなかった。
 お駕籠を、と老爺が言うのを、
「なに、九段で辻待ちをつかまえる」
 と、したくもそこそこに、多門は徹馬とつれ立って屋敷を走り出た……。
 行く先は、いうまでもなく根津曙の里。
 その曙の里の道場。
 奥の書院に、諏訪栄三郎と弥生が、あおざめた顔をみつめあって、息づまる無言のまま対座している。
 鉄斎をはじめ横死者(おうししゃ)の遺骸は、道場に安置されて、さっきから思いがけない通夜(つや)が始まっている。二人はその席を抜けて、そっとこの室へ人眼を避けたのだ。悲しみの極を過ぎたのだろう、もう泣く涙もないように、弥生はただ異様にきらめく眼で、憮然(ぶぜん)として腕を組んだ栄三郎の前に、番(つがい)を破られて一つ残った坤竜丸が孤愁(こしゅう)を託(かこ)つもののごとく置かれてあるのを見すえている。
 遠く近く、ジュウン……ジュンという音のするのは焚き火に水を打って消しているのである。いきなり障子の桟(さん)でこおろぎが鳴き出した。
「まったく、なんと申してよいやら、お悔(くや)みの言葉も、ありませぬ」
 一句一句切って、栄三郎は何度もいって言葉をくり返した。
「御秘蔵の乾雲丸が先生のお命を絶とうとは、何人(なんびと)も思い設けませんでした。がしかし、因縁(いんねん)――とでも申しましょうか、離れれば血を見るという乾雲は、離れると第一に先生のお血を……」
「栄三郎様!」
「いや、こうなりましたうえは、いたずらに嘆き悲しむより、まず乾雲を取り返して後難を防ぐのが上分別かと――」
「栄三郎さまッ!」
「それには、私に一策ありと申すのが、刀が刀を呼ぶ。乾雲と坤竜は互いにひきあうとのことですから、もし、私に、この坤竜丸を帯して丹下左膳めをさがすことをお許しくださるなら、刀同士が糸を引いて、必ずや左膳に出会いたし……」
「栄三郎さまッ!」
「はい」
「あなたというお人は、なんとまあお気の強い――刀も刀ですけれど弥生の申すことをすこしもお聞きくださらずに」
「あなたのおっしゃること――とはまたなんでございます?」
「まあ! しらじらしい! あなたさえ今日勝つべき仕合にお勝ちくださったら、こ、こんなことにはならなかったろうと……それを思うと――栄三郎様ッ、お恨み、おうらみでございます」
「勝負は時の運。私は他意なく立ち合いました」
「うそ! 大うそ!」
「ちとお謹(つつし)み――」
「いいえ。あなたのようなひどい方がまたとございましょうか。わたしの心は百も御承知のくせに、女の身としてこの上もない恥を、弥生は、きょう初めて……」
「弥生様。道場には先生の御遺骸もありますぞ」
「ええ……この部屋で、父はどんなに嬉しそうににっこりしてあの貼り紙を書きましたことか――」
「――それも、余儀ありませぬ」
「栄三郎さまッ! あ、あんまりですッ!」
 わッ! と弥生が泣き伏した時、廊下を踏み鳴らしてくる多門の跫音(あしおと)がした。
 おののく白い項(うなじ)をひややかに見やって栄三郎は坤竜丸を取りあげた。
「では、この刀は私がお預かりいたします。竜は雲を招き、雲は竜を待つ、江戸広しといえども、近いうちに坤竜丸と丹下の首をお眼にかけましょう――」
 こうして、戦国の昔を思わせる陣太刀作(じんだちづく)りの脇差が、普通の黒鞘(くろざや)武蔵太郎安国と奇妙な一対をなして、この夜から諏訪栄三郎の腰間(こし)に納まることとなった。

   化物屋敷(ばけものやしき)

 うすあばたの顔に切れの長い眼をとろんとさせて、倒した脇息(きょうそく)を枕に、鈴川源十郎はほろ酔いに寝ころんでいる。
 年齢は三十七、八。五百石の殿様だが、道楽旗本だから髪も大髻(おおたぶさ)ではなく、小髷(こまげ)で、鬢(びん)がうすいので、ちょっと見ると、八丁堀に地面をもらって裕福に暮らしている、町奉行支配の与力(よりき)に似ているところから、旗本仲間でも源十郎を与力と綽名(あだな)していた。
 父は鈴川宇右衛門といって大御番組頭(おおおばんくみがしら)だったが、源十郎の代になって小普請(こぶしん)に落ちている。去水流居合(きょすいりゅういあい)の達人。書も相応に読んだはずなのが、泰平無事の世に身を持てあましてか、このごろではすっかり市井(しせい)の蕩児(とうじ)になりきっている――伸ばした足先が拍子をとって動いているのは、口三味線(くちじゃみせん)で小唄でも歌っているらしく、源十郎は陶然として心地よさそうである。
 秋の夜なが。
 本所(ほんじょ)法恩寺(ほうおんじ)まえの鈴川の屋敷に常連が集まってお勘定と称してひとしきりいたずらが盛ったあとは、こうして先刻からにわか酒宴がはじまって、一人きりの召使おさよ婆さんが、一升徳利をそのまま燗(かん)をして持ち出すやら、台所をさらえて食えそうな物ならなんでも運びこむやら、てんてこまいをしている騒ぎ。
「なんだ、鈴川、新しい婆(ばば)あが来ておるではないか」
 土生(はぶ)仙之助が珍しそうにおさよを見送って言う。
「うむ。前のは使いが荒いとこぼして暇を取っていった。あれは田原町(たわらちょう)三丁目の家主(やぬし)喜左衛門(きざえもん)と鍛冶屋富五郎(かじやとみごろう)鍛冶富(かじとみ)というのを請人(うけにん)にして雇い入れたのだ。よく働く。眼をかけてやってくれ。どうも下女は婆あに限るようだて。当節の若いのはいかん」
「へっへっへっへっ」隅(すみ)で頓狂(とんきょう)に笑い出したのは、駒形(こまがた)の遊び人与吉だ。
「ヘヘヘ、使いが荒いなんて、殿様、なんでげしょう、ちょいとお手をお出しなすったんで……こう申しちゃなんですけれど、こちらの旦那と来た日にゃ悪食(あくじき)だからね」源十郎は苦笑して、生き残った蛾が行燈に慕いよるのを眺めている。
 本所の化物屋敷と呼ばれるこの家に今宵とぐろをまいている連中は、元小(もとこ)十人、身性が悪いので誘い小普請入りをいいつかっている土生仙之助を筆頭に、いずれも化物に近い変り種ばかりで、仙之助は、着流しのうしろへ脇差だけを申しわけにちょいと横ちょに突き差して肩さきに弥蔵(やぞう)を立てていようという人物。それに本所きっての悪御家人旗本が十人ばかりと、つづみの与吉などという大一座に、年増(としま)ざかりの仇っぽい女がひとり、おんなだてらに胡坐(あぐら)をかいて、貧乏徳利を手もとにもうだいぶ眼がすわっている。
「お藤(ふじ)、更けて待つ身は――と来るか、察するぞ」
 誰かがどなるように声をかけるのを、櫛(くし)まきお藤はあでやかに笑い返して、またしても白い手が酒へのびる。
「なんとか言ってるよ……主(ぬし)に何とぞつげの櫛、どこを放っつきまわってるんだろうねえ、あの人は。ほんとにじれったいったらありゃしない」
「手放し恐れ入るな。しかしお藤、貴様もしっかりしろよ。あいつ近ごろしけこむ穴ができたらしいから――」
「あれさ、どこに?」
「いけねえ、いけねえ」与吉があわてて両手を振った。
「そう水を向けちゃあいけませんやあねえ。姐御(あねご)、姐御は苦労人だ。辛気(しんき)臭くちゃ酒がまずいや、ねえ?」
 どッ! と浪のような笑いに座がくずれて、それを機に、一人ふたり帰る者も出てくる。
 櫛まきお藤は、美しい顔を酒にほてらせて、男のように胡坐の膝へ両手をつっ張ったまま、頤(あご)を引いて、帰って行く人を見上げている。紅い布が半開の牡丹のように畳にこぼれて、油を吸った黄楊(つげ)の櫛が、貝細工のような耳のうしろに悩ましく光っている風情(ふぜい)、散りそめた姥桜にかっと夕映えが照りつけたようで、熟(う)れ切った女のうまみが、はだけた胸元にのぞく膚の色からも、黒襟かけた糸織のなで肩からも、甘いにおいとなって源十郎の鼻をくすぐる。
 この女はこれでおたずね者なのだ――こう思うと源十郎は、自分が絵草紙の世界にでも生きているような気がした。
「姐御、皆さんお帰りです。お供しやしょう」与吉にうながされて、ひとり残っていたお藤は、片手をうしろに膝を立てた。
「そうだねえ。実(じつ)のない人はいつまで待っていたってしようがない。じゃ、お神輿(みこし)をあげるとしようか。お殿様おやかましゅうございました。おやすみなさい」
「うむ帰るか」
 と源十郎は横になったまんまだ。
 食べ荒らした皿小鉢や、倒れた徳利に蒼白い光がさして、畳の目が読める。
 軒低く、水のような月のおもてに雁(かり)がななめに列(つら)なっていた。
 与吉がお藤を送って、浅草の家へ帰って行くと、しばらくして、寝ころんでいた源十郎が、むくりと起き上がっておさよを呼んだ。
「はいはい」
 と出てきたおさよ婆さん、いつのまにか客が帰ってがらんとしているのにびっくりして、
「おやまあ、皆さまお帰りでござんしたか。ちっとも存じませんで――ここはすぐに片づけますけれど、あのお居間のほうへお床をとっておきましたから」
「まあ、いい、それより、戸締りをしてくれ」
 縁の戸袋から雨戸をくり出しかけたおさよの手が、思わず途中で休んでしまう。
 藍絵(あいえ)のような月光。
 近いところは物の影がくっきりと地を這って、中(なか)の郷(ごう)のあたり、甍(いらか)が鱗(うろこ)形に重なった向うに、書割(かきわり)のような妙見(みょうけん)の森が淡い夜霧にぼけて見える。どこかで月夜鴉(がらす)のうかれる声。
 おさよは源十郎をふりかえった。
「殿様、いい月でございますねえ」
 すると源十郎。
「おれは月は大嫌いだ」
 と、はねつけるよう。
「まあ、月がお嫌い――さようでございますか。ですけれど、なぜ……でござんしょう?」
「なぜでも嫌いだ。月を見るとものを思う。人間ものを思えば苦しくもなる。そのため――かも知れぬな」
「お別れになった奥様のことでも思い出して、おさびしくなるのでございましょうよ」
「ふふふ、そうかも知れぬ。ま、早くしめるがいい」
 すっかり戸締りができると、源十郎はまた寝そべって、
「さよ、ここへ来て、ちょっと肩へつかまってくれ」
 按摩を、と言う。
 おさよは襷(たすき)のまま座敷へはいって、源十郎の肩腰を揉(も)み出した。
「もう何刻(なんとき)かな?」
「つい今し方回向院(えこういん)の八つが鳴るのを聞きました」
「そうか。道理で眠いと思った。あああああ!」
 大欠伸(おおあくび)をしながら、
「貴様、年寄りだけあって眠がらんな。身体が達者とみえる」
「ええええ、そりゃもういたって丈夫なほうで、その上、年をとるにつれて、なかなか夜眼が合わなくなりますのでございますよ。ですから、これから寝(やす)ませていただいてもお天道さまより先に起きてしまいます」
「だいぶ凝(こ)ってるようだ。うん、そこを一つ強く頼む――貴様、何か、子供はないのか」
「ございます、ひとり」
「男か女か」
「女でございます」
「女か――それでも、楽しみは楽しみだな」
「なんの、殿様、これがもし男の子でしたら、伝手(つて)を求めてまた主取(しゅど)りをさせるという先の望みもございましょうが、女ではねえ……それに――」
「主取りと申すと、貴様武家出か」
「はい。お恥ずかしゅうございます」
「ほほう。それは初耳だな。して藩はどこだ?」
「殿様、そればかりはおゆるしを。こうおちぶれてお主(しゅ)のお名を出しますことは――」
「それはそうだ。これはおれが心なかったな。しかし、さしずめ永の浪々のうちに配合(つれあい)をなくして、今の境涯に落ちたという仔細(しさい)だろう?」
「お察しのとおりでございます」
「それで、その娘というのはいかがいたした?」
「宿元へ残して参りましたが、それが殿様、ほんとに困り者なんでございますよ」
「どうしてだ?」
「いえね。まあ、この婆あとしては、幸い資本(もとで)を見てやろうとおっしゃってくださる方もありますから、しかるべき、と申したところで身分相当のところから婿(むこ)を迎えて、細くとも何か堅気な商売でも出さしてやりたいと思っているのでございますが、親の心子知らずとはよくいったもので、なんですか、このごろ悪い虫がつきましてねえ」
「浮気か」
「泣かされますでございますよ」
「なんだ、相手は」
「どこかお旗本の御次男だとか――」
「よいではないか。他人まかせの養子というやつには、末へいって困却(こんきゃく)する例がままある。当人同士が好きなら、それが何よりだ。お前もせいぜい焚きつけて後日左団扇(うちわ)になおる工面をしたがよい。おれが一つまとめてやろうか、はははは」
「まあ、殿様のおさばけ方――でも、どうもおうちの首尾がおもしろくございませんでねえ」
 つと、源十郎は聞き耳を立てた。
 びょうびょうと吠える犬の声に追われて、夜霧を踏む跫音が忍んで来たかと思うと、
 しッ! しッ!
 と庭に犬を叱る低声(こごえ)とともに、コトコトコトと秘めやかに雨戸が鳴って、
「おい! 源十、鈴源(すずげん)、俺だ……おれだよ。あけてくれ」

 ――帰って来たな、とわかると、源十郎の眉が開いて、あちらへ行っておれと顎でおさよを立ち去らせるが早いか、しめたばかりの戸をまたあける。
 夜妖(やよう)の一つのように、丹下左膳が音もなくすべりこんだ。
「おそかったな。今ごろまでどこへ行っていた?」
 それには答えず、左膳は用心深く室内をうかがって、
「連中は?」
「今帰ったところだ」
 左膳は先に立って行燈(あんどん)の光のなかへはいって行ったが、続いた源十郎はちょっとどきりとした。
 左膳の風体(ふうてい)である。
 巷(ちまた)の埃りに汚れているのは例のことながら、今夜はまたどうしたというのだ! 乱髪が額をおおい、片袖取れた黒七子(くろななこ)の裾から襟下へかけて、スウッと一線、返り血らしい跡がはね上がっている。隻眼(せきがん)隻腕(せきわん)、見上げるように高くて痩せさらばえた丹下左膳。猫背のまま源十郎を見すえて、顔の刀痕が、引っつるように笑う。
「すわれ!」
 源十郎は、夜寒にぞっとして丹前を引きよせながら、
「殺(や)って来たな誰かを」
「いや、少々暴れた。あははははは」
「いいかげん殺生(せっしょう)はよしたがよいぞ」
 こう忠言めかしていった源十郎は、そのとき、胡坐(あぐら)になりながら左膳が帯からとった太刀へ、ふと好奇な眼を向けて、
「なんだそれは? 陣太刀ではないか」
 すると左膳は、得意らしく口尻をゆがめたが、
「ほかに誰もおらんだろうな?」
 と事々しくそこらを見まわすと、思いきったように膝を進めて、
「なあ鈴川、いやさ、源的、源の字……」
 太い濁声(だみごえ)を一つずつしゃくりあげる。
「なんだ? ものものしい」源十郎は笑いをふくんでいる。「それよりも貴公色男にはなりたくないな。先刻までお藤が待ちあぐんで、だいぶ冠を曲げて帰ったぞ、たまには宵の口に戻って、その傷面を見せてやれ、いい功徳(くどく)になるわ。もっともあの女、貴様のような男に、どこがよくて惚れたのか知らんが、一通り男を食い散らすと、かえって貴様みたいな人(にん)三化(ばけ)七がありがたくなるものと見えるな。不敵な女じゃが、貴様のこととなるとからきし意気地がなくなって、まるで小娘、いやもう、見ていて不憫(ふびん)だよ。貴様もすこしは冥加(みょうが)に思うがいい」
 源十郎の吹きつける煙草の輪に左膳はプッ! と顔をそむけて、
「四更(しこう)、傾月(けいげつ)に影を踏んで帰る。風流なようだが、露にぬれた。もうそんな話あ聞きたくもねえや。だがな鈴源、俺が貴様ん所に厄介になってから、これで何月になるかなあ?」
「今夜に限って妙に述懐めくではないか。しかし、言って見ればもうかれこれ半歳(とし)にはなろう」
「そうなるか。早いものだな、俺はそのあいだ、真実貴様を兄貴と思って来た――」
「よせよ! 兄と思ってあれなら弟と思われては何をされるかわからんな。ははははは」
「冗談じゃあねえ。俺あ今晩ここに、おれの一身と、さる北境の大藩とに関する一大密事をぶちまけようと思ってるんだ」
 前かがみに突然陣太刀作りの乾雲丸(けんうんまる)を突き出した左膳。
「さ、此刀(これ)だ! 話の緒(いとぐち)というのは」
 と語り出した。源十郎が、灯心を摘んで油をくれると、ジジジジイと新しい光に、濃い暁闇(ぎょうあん)が部屋の四隅へ退く。が、障子越しの廊下にたたずんでいる人影には、二人とも気がつかなかった。
 左膳の言葉。
 この風のごとき浪士丹下左膳、じつは、江戸の東北七十六里、奥州中村六万石、相馬大膳亮(そうまだいぜんのすけ)殿の家臣が、主君の秘命をおびて府内へ潜入している仮りの相(すがた)であった。
 で、その用向きとは?
 れっきとした藩士が、なぜ身を痩狗(そうく)の形にやつして、お江戸八百八丁の砂ほこりに、雨に、陽に、さらさなければならなかったか。
 そこには、何かしら相当の原因(いわく)があるはず。
 珍しく正座した左膳の態度につりこまれて、源十郎の顔からも薄笑いが消えた。
 二人を包む深沈(しんちん)たる夜気に、はや東雲(しののめ)の色が動いている。
 ただ廊下に立ち聞くおさよは、相馬中村と聞いて、危うく口を逃げようとしたおどろきの声を、ぐっと両掌(りょうて)で押し戻した。
 六万石相馬様は外様衆(とざましゅう)で内福の家柄である。当主の大膳亮は大の愛刀家――というより溺刀(できとう)の組で、金に飽かして海内(かいだい)の名刀稀剣(きけん)が数多くあつまっているなかに、玉に瑕(きず)とでも言いたいのは、ただ一つ、関七流の祖孫六(まごろく)の見るべき作が欠けていることだった。
 そこで、
 どうせ孫六をさがすなら、この巨匠が、臨終の際まで精根を涸(か)らし神気をこめて鍛(う)ったと言い伝えられている夜泣きの大小、乾雲丸と坤竜丸(こんりゅうまる)を……というので、全国に手分けをして物色すると、いまその一腰(ひとふり)は、江戸根津権現のうら曙の里の剣道指南小野塚鉄斎方に秘蔵されていると知られたから、江戸の留守居役をとおして金銀に糸目をつけずに交渉(あた)らせてみたが、もとより伝家の重宝、手を変え品をかえても、鉄斎は首を縦にふらない。
 とてもだめ。
 とわかって、正面の話合いはそれで打ち切りになったが、大膳亮の胸に燃える慾炎は、おさまるどころか新たに油を得たも同様で、妄念は七十六里を飛んで雲となり、一図に曙の里の空に揺曳(ようえい)した。
 物をあつめてよろこぶ人が、一つことに気をつめた末、往々にして捉われる迷執(めいしゅう)である。業火(ごうか)である。
 領主大膳亮が、あきらめられぬとあきらめたある夜、おりからの闇黒(やみ)にまぎれて、一つの黒い影が、中村城の不浄門(ふじょうもん)から忍び出て城下を出はずれた。そのあくる日、お徒士(かち)組丹下左膳の名が、ゆえしれず出奔した廉(かど)をもって削られたのである。
 血を流しても孫六を手にすべく、死を賭した決意を見せて、不浄門から放された剣狂丹下左膳、そのころはもう馬子唄のどかに江戸表へ下向の途についていた。
 おもて向きは浪々でも、その実、太守の息がかかっている。
 この乾坤二刀を土産に帰れば、故郷には、至上の栄誉と信任、莫大な黄金と大禄が待っているのだ。
 出府と同時に、本所法恩寺前の鈴川源十郎方に身をよせた左膳は、日夜ひそかに鉄斎道場を見ていると、年に一度の秋の大仕合に、乾雲坤竜が一時の佩刀(はいとう)として賞に出るとの噂(うわさ)。
 それ以来、待ちに待っていた十月初の亥(い)の日。
 横紙破りの道場荒しも、刀の番(つがい)をさこうという目的があってのことだった――。
「老主を始め、十人余りぶった斬って持ち出したのだ。抜いて見ろ」
 ……なが話を結んだ左膳、片眉上げて大笑する。重荷の半ばをおろした心もちが、怪物左膳をいっそう不覊(ふき)にみせていた。
 すわりなおした源十郎、懐紙をくわえて鞘を払い、しばし乾雲丸の皎身(こうしん)に瞳を細めていたが、やがて、
「見事。――鞘は平糸まき。赤銅(しゃくどう)の柄(つか)に叢雲(むらくも)の彫りがある。が、これは刀、一本ではしかたがあるまい」
「ところが、しかたがあるのだ。源十、貴様はまだ知らんようだが、雲は竜を招き、竜は雲を呼ぶと言う。な、そこだ! つまり、この刀と脇差は、刀同士が探しあって、必ず一対に落ち合わねえことには納まらない」
「と言うと?」
「わかりが遅いな。差し手はいかに離れていようとも、刀と刀が求め合って、早晩(そうばん)一つにならずにはおかねえというのだ。乾雲と坤竜とのあいだには、眼に見えぬ糸が引きあっている」
「うむ。言わば因縁の綾(あや)だな」
「そうだ。そこでだ、俺は明日からこの刀をさして江戸中をぶらつくつもりだが、先方でも誰か腕の立つ奴が坤竜を帯(たい)して出歩くに相違ねえから、そこでそれ、雲竜相ひいて、おれとそいつと必ず出会する。その時だ、今から貴公の助力を求めるのは」
「助太刀か、おもしろかろう。だが、その坤竜を佩(は)いて歩く相手というのは?」
「それはわからん。がしかし、色の生っ白い若えので、ひとり手性のすごいやつがおったよ。俺あそいつの剣で塀から押し出されたようなものだ」
「ふうむ。やるかな一つ」
「坤竜丸はこれと同じこしらえ、平巻きの鞘に赤銅の柄、彫りは上り竜だから、だれの腰にあっても一眼で知れる」
 近くの百姓家で鶏(とり)が鳴くと、二人は期せずして黙りこんで、三つの眼が、あいだに置かれた乾雲丸の刀装(とうそう)に光った。
 かくして、戦国の昔をしのぶ陣太刀作りが、普通の黒鞘の脇差と奇体な対をなして、この時から丹下左膳の腰間を飾ることとなった。
 この一伍一什(いちぶしじゅう)を立ち聞きしていた老婆おさよ、
「すると丹下様は中村から――」
 と知っても、名乗っても出ず、何事かひとり胸にたたんだきりだった。
 というのが、死んだおさよの夫和田宗右衛門(わだそうえもん)というのは、世にあったころ、同じ相馬様に御賄頭(おんまかないがしら)を勤めた人だから、さよと左膳は、同郷同藩たがいに懐しがるべき間がらである。

   首尾(しゅび)の松(まつ)

 底に何かしら冷たいものを持っていても、小春日和(こはるびより)の陽ざしは道ゆく人の背をぬくめる。
 店屋つづきの紺暖簾(こんのれん)に陽炎(かげろう)がゆらいで、赤蜻蛉(あかとんぼ)でも迷い出そうな季節はずれの陽気。
 蔵前の大通りには、家々の前にほこりおさえの打ち水がにおって、瑠璃(るり)色に澄み渡った空高く、旅鳥のむれがゆるい輪を画いている。
 やでん帽子の歌舞伎役者について、近処の娘たちであろう、稽古帰りらしいのが二、三人笑いさざめいて来る。それがひとしきり通り過ぎたあとは、ちょっと往来がとだえて、日向(ひなた)の白犬が前肢(まえあし)をそろえて伸びをした。
 ずらりと並んでいる蔵宿の一つ、両口屋嘉右衛門の店さき、その用水桶のかげに、先刻からつづみの与吉がぼんやりと人待ち顔に立っている。
 打てばひびく、たたけば応ずるというので、鼓(つづみ)の名を取ったほど、駒形(こまがた)でも顔の売れた遊び人。色の浅黒い、ちょいとした男。
「ちッ! いいかげん待たせやがるぜ、殿様もあれで、銭金(ぜにかね)のことになるてえと存外気が長えなあ――できねえもんならできねえで、さっさと引き上げたらいいじゃあねえか。この家ばかりが当てじゃああるめえし。なんでえ! おもしろくもねえ!」
 両口屋の暗い土間をのぞいては、ひとり口の中でぶつくさ言っている。
 外光の明るさにひきかえ、土蔵作りの両口屋の家内には、紫いろの空気が冷たくおどんで、蔵の戸前をうしろに、広びろとした框(かまち)に金係りお米係りの番頭が、行儀よくズーッと居列(いなら)んでいるのだが、この札差(ふださ)しの番頭は、首代といっていい給金を取ったもので、無茶な旗本連を向うへまわして、斬られる覚悟で応対する。
 いまも現に、蔵前中の札差し泣かせ、本所法恩寺の鈴川源十郎が、自分で乗りこんで来て、三十両の前借をねだって、こうして梃子(てこ)でも動かずにいる。
 五百石のお旗本に三十両はなんでもないようだが、相手が危ないからおいそれとは出せない。
 取っ憑(つ)かれた番頭の兼七、すべったころんだど愚図(ぐず)っている。
 負けつづけて三十金の星を背負わされた源十郎にしてみれば、盆の上の借りだけあって、堅気の相対ずくよりも気苦労なのだろう。今日はどうあっても調達しなければ……と与吉を供に出かけて来たのだが、埓(らち)のあかないことおびただしい。できしだい、与吉を飛ばして、先々へ届けさせるつもりで戸外に待たしてあるので、源十郎も一段と真剣である。
「そりゃ今までの帳面(ちょうづら)が、どうもきれいごとにいかんというのは、俺が悪いと言えば、悪いさ。しかしなあ兼公(かねこう)、人間には見こみはずれということもあるでな。そこらのところを少し察してもらわにゃ困る」
「へい。それはもう充分にお察し申しておりますが、先ほどから申しますとおり、何分にも殿様のほうには、だいぶお貸越しに願っておりますんで、へい一度清算いたしまして、なんとかそこへ形をつけていただきませんことには……手前どもといたしましても、まことにはや――」
 源十郎のこめかみに、見る見る太いみみずが這ってくる。羽織をポンとたたき返すと、かれは腰ふかくかけなおして、
「しからば、何か。こうまで節(せつ)を屈して頼んでも、金は出せぬ、三十両用だてならぬと申すのだな?」
「一つこのたびだけは、手前どもにもむりをおゆるし願いたいんで」
「これだけ事をわけて申し入れてもか」
「相すみません」
 起き上がりざま、ピンと下緒(さげお)にしごきをくれた源十郎、
「ようし! もう頼まぬ。頼まなけれあ文句はあるまい。兼七、いい恥をかかせてくれたな」
 と歩きかけたが、すぐまた帰って来て、
「おい。もう一度考える暇(いとま)をつかわす。三十両だぞ。上に千も百もつかんのだ。ただの三十両、どうだ?」
 この時、番頭はプイと横を向いて、源十郎への面(つら)あてに、わざとらしい世辞笑いを顔いっぱいにみなぎらせながら、
「いらっしゃいまし――おや! これは鳥越(とりごえ)の若様、お珍しい……」
 釣られて源十郎が振り向くと、三座の絵看板からでも抜けて来たような美男の若侍が、ちょうど提(さ)げ刀をしてはいってくるところ。
 兼七の愛嬌には眼でこたえて、そのまま二、三人むこうの番頭へ声をかけた。
「やあ、彦兵衛(ひこべえ)。今日は用人の代理に参った」
「それはそれは、どうも恐れ入ります。さ、さ、おかけなすって……これ、清吉(せいきち)、由松(よしまつ)、お座蒲団を持ちな。それからお茶を――」
 源十郎、これで気がついてみると、自分にはお茶も座蒲団も出ていない。

 用人の代理といって札差し両口屋嘉右衛門の店へ来た諏訪栄三郎のようすを、それと知らずに、じっとこちらから見守っていた源十郎は、ふと眼が栄三郎が袖で隠すようにしている脇差の鐺(こじり)へおちると、思わずはっとして眼をこすった。
 平糸まき陣太刀づくり……ではないか!
 とすれば?
 もちろん、それは左膳の話に聞いた坤竜(こんりゅう)丸、すなわち夜泣きの刀の片割れに相違あるまい。
 刀が刀をひいて、早くも、左膳につながる自分の眼に触れたのか――こう思うと、源十郎もさすがにうそ寒く感じて、しばし、
「どうすればよいか?」
 と、とっさの途(みち)に迷ったが、すぐに、
「なに、左膳は左膳、俺は俺だ。もう少しこの青二才を見きわめて、その上で左膳へしらせるなりなんなりしても遅くはあるまい。それに、こんな男女郎(おとこじょろう)の一束(そく)や二束、あえて左膳をわずらわさなくとも、おれ一人で、いや与吉ひとりで片づけてしまう」
 ひとり胸に答えて、なおも、さりげなく眼を離さずにいると、そんなこととは知らないから、栄三郎はさっそく要談にとりかかる。
「用人の白木重兵衛(しらきじゅうべえ)が参るべきところであるが、生憎(あいにく)いろいろと用事が多いので、きょうは拙者が用人代りに来たのだ。実は、鳥越の屋敷の屋根が痛んだから瓦師(かわらし)を呼んだところが、総葺替(そうふきか)えにしなければならないと言うので、かなり手数がかかる。兄も、ここちょっと手もとがたらなくて、いささか困却(こんきゃく)しておるのだが、三期の玉落ちで、元利(がんり)引き去って苦しくないから、どうだろう、五十両ばかり用だってもらえまいか」
 番頭は二つ返事だ。
 いったい札差しは、札差料(ふださしりょう)などと言ってもいくらも取れるわけのものではなく、旗本御家人に金を貸して、利分を見なければ立っていかないのだが、栄三郎の兄大久保藤次郎は、若いが嗜(たしな)みのいい人で、かつて蔵宿から三文も借りたことがないから、さっぱり札差しのもうからないお屋敷である。
 ところへ、五十両借りたいという申込み。
 三百俵の高で五十両はおやすい御用だ。
「恐れ入りますが、御印形(ごいんぎょう)を?」
「うむ、兄の印を持参いたした」
 なるほど、藤次郎の実印に相違ないから、番頭の彦兵衛、チロチロチロとそこへ五十両の耳をそろえて、
「へい。一応おしらべの上お納めを願います」
 ここまで見た源十郎は、ああ、自分は三十両の金につまっておるのに、あいつら、この若造へはかえって頼むようにして五十両貸しつけようとしている……刀も刀だが、五十両はどこから来ても五十両だ――と、何を思いついたものか、栄三郎をしりめにかけて、ぶらりと、両口屋の店を立ち出でた。
「殿様」
 待ちくたびれていたつづみの与吉が、源十郎の姿にとび出してきて、
「ずいぶん手間どったじゃあありませんか。おできになりましたかえ?」
 駈けよろうとするのを、
「シッ! 大きな声を出すな」
 と鋭く叱りつけて、源十郎はそのまま、蔵宿の向う側森田町の露地(ろじ)へずんずんはいり込む。
 変だな。と思いながら、与吉もついて露地にかくれると、立ちどまった源十郎、
「金はできなかった。が、今、貴様の働き一つで、ここに五十両ころがりこむかも知れぬ」
「わたしの働きで五十両? そいつあ豪気(ごうき)ですね。五十両まとまった、あのズシリと重いところは、久しく手にしませんが忘れられませんね。で、殿様、いってえなんですい、その仕事ってのは?」
「今、あそこの店から若い侍が出て来るから、貴様と俺と他人のように見せて、四、五間おくれてついてこい。俺が手を上げたら、駈け抜けて侍に声をかけるんだ。丁寧に言うんだぞ――ええ、手前は、ただいまお出なすった店の若い者でございますが、お渡し申した金子(きんす)に間違いがあるようですから、ちょいと拝見させていただきたい。なに、一眼見ればわかるというんだ。でな、先が金包みを出したら、かまわねえから引っさらって逃げてしまえ。あとは俺が引き受ける」
 与吉はにやにや笑っている。
「古い手ですね。うまくいくでしょうか」
「そこが貴様の手腕(うで)ではないか」
「ヘヘヘ、ようがす。やってみましょう」
 うなずき合ったとたん
「来たぞ! あれだ」
 源十郎が与吉の袖を引く。
 見ると着流しに雪駄履(せったば)き、ちぐはぐの大小を落し差しにした諏訪栄三郎、すっきりとした肩にさんさんたる陽あしを浴びて大股に雷門のほうへと徒歩(ひろ)ってゆく。
 栄三郎が正覚寺(しょうがくじ)門前にさしかかった時だった。
 前後に人通りのないのを見すました源十郎が、ぱっと片手をあげるのを合図に、スタスタとそのそばを通り抜けて行ったつづみの与吉。
「もし、旦那さま――」
 あわただしく追いつきながら、
「あの、もしお武家さま、ちょいとお待ちを願います」
 と声をかけて、律儀(りちぎ)そうに腰をかがめた。
「…………?」
 栄三郎が、黙って振り向くと、前垂れ姿のお店者(たなもの)らしい男が、すぐ眼の下で米搗(つ)きばったのようにおじぎをしている。
「はて――見知らぬ人のようだが、拙者に何か御用かな?」
 栄三郎は立ちどまった。
「はい。道ばたでお呼びたて申しまして、まことに相すみませんでございます――」
「うむ。ま、して、その用というのは?」
「へえ、あの……」
 と口ごもったつづみの与吉、両手をもみあわせたり首筋をなでたり、あくまでも下手に出ているところ、どうしても、これが一つ間違えばどこでも裾をまくってたんかをきる駒形名うての兄哥(あにい)とは思えないから、栄三郎もつい気を許して、
「何事か知らぬが、話があらば聞くとしよう」
 こう自ら先に、楼門(ろうもん)の方へ二、三歩、陽あしと往来を避けて立った。
 そのとき、はじめて栄三郎の顔を正面に見た与吉は、相手の水ぎわだった男ぶりにちょっとまぶしそうにまごまごしたが、すぐに馬鹿丁寧な口調で、
「エエ手前は、ただいまお立ち寄りくだすった両口屋の者でございますがなんでございますかその、お持ち帰りを願いました金子(きんす)に間違いが――ありはしなかったかと番頭どもが申しておりまして、それで手前がおあとを追って、失礼ながらお金を拝見させていただくようにと、へい、こういうことで出て参りましたが、いかがでございましょう。ちょっとお見せくださいますわけには?……」
 言葉を切って、与吉はじっと栄三郎の顔色をうかがった。
 正覚寺の山門をおおいつくして、このあたりで有名な振袖銀杏(いちょう)の古木がおいしげっている。黄いろな葉をまばらにつけた梢が、高い秋空を低くさえぎって、そのあいだから降る日光の縞に、栄三郎の全身には紫の斑(ふ)が踊っていた。
 無言のまま与吉を見すえていた栄三郎、何を思ったかくるりと踵(きびす)を返して、いそぎ足に寺の境内(けいだい)へはいりかけた。
「あの、旦那さま!」
 与吉の声が追いかける。
「ついて来るがいい」
 と一言、栄三郎は本堂をさしてゆく。
 すこし離れて、置き捨ての荷車のかげからようすを眺めていた源十郎は、栄三郎に従って与吉も寺内へはいって行くのを見すますと、跫音を忍ばせて銀杏の幹に寄りそった。
 急に参詣てのはへんだが――! はて? どこへ行くのだろう?……と、源十郎がのぞいているうちに、本堂まえの横手、陰陽(いんよう)の石をまつってあるほこらのそばで、ぴたりと足をとめた栄三郎が、与吉を返りみてこういい出すのが聞こえた。
「あすこは往来だ。立ち入った話はできぬ。が、ここなら人眼もない。なんだ?――さっきのことを今一度申してみなさい」
「いろいろとお手間をとらせて恐れ入ります。じつはお渡し申した小判に手前どもの思い違いがございまして」
「どうもいうことがはっきりしないな。数えちがいならとにかく、金子(きんす)に思い違いというのはあるまい」
「へ? いえ、ところがその……」
「待て、お前は両口屋のなんだ」
「若い者でございます」
「若い者といえば走り使いの役であろう。それに大切な金の用向きがわかるか――これ、番頭が並べて出し、拙者があらためて受け取って、証文に判をついてきた金にまちがいのあるわけはない」
「へえ。それがその、番頭さんの思い違い……」
「まだ申すか。なんという番頭だ?」
「う……」
 と思わず舌につかえる与吉を、栄三郎はしりめにかけて、
「それ見ろ。第一、両口屋の者なら拙者を存じおるはず。拙者の名をいえ!」
「はい。それはもう、よく承知いたしております。ヘヘヘヘ、若殿様で――」
「だまれッ! 侍の懐中物に因縁(いんねん)をつけるとは、貴様、よほど命のいらぬ奴とみえるな」
「と、とんでもない! 手前はただ……」
「よし! しからば両口屋へ参ろう、同道いたせ」
 と! 踏み出した栄三郎のうしろから、こと面倒とみてか、男が美(い)いだけの腰抜け侍とてんから呑んでいるつづみの与吉、するりとぬいだ甲斐絹(かいき)うらの半纒(はんてん)を投網(とあみ)のようにかぶらせて、物をもいわずに組みついたのだった。

 来たな!
 と思うと、栄三郎は、このごまの蠅(はえ)みたいな男の無鉄砲におどろくとともに、ぐっと小癪(こしゃく)にさわった。同時に、おどろきと怒りを通りこした一種のおかしみが、頭から与吉の半纒をかぶった栄三郎の胸にまるで自分が茶番(ちゃばん)でもしているようにこみ上げてきた。
 ぷッ! こいつ、おもしろいやつ! というこころ。
 で、瞬間、なんの抵抗(あらそい)も示さずに、充分抱きつかせておいて、……調子に乗りきったつづみの与吉が、
「ざまあ見やがれ、畜生! 御託(ごたく)をならべるのはいいが、このとおり形なしじゃあねえか」
 と!
 見得ばかりではなく、江戸の遊び人のつねとして、喧嘩の際にすばやくすべり落ちるように絹裏(きぬうら)を張りこんでいる半纒に、栄三郎の顔を包んで一気にねじ倒そうとするところを――!
 するりと掻いくぐった栄三郎。ダッ! と片脚あげて与吉の脾腹(ひばら)を蹴ったと見るや、胡麻(ごま)がら唐桟(とうざん)のそのはんてんが、これは! とよろめく与吉の面上に舞い下って、
「てツ! しゃらくせえ……!」
 立ちなおろうとしたが、もがけばいっそう絡(から)みつくばかり。あわてた与吉が、自分の半纒をかぶって獅子(しし)舞いをはじめると……。
「えいッ!」
 霜の気合い。
 栄三郎の手に武蔵太郎が鞘走って、白い光が、横になびいたと思うと、もう刀は鞘へ返っている。
 血――と見えたのは、そこらにカッと陽を受けている雁来紅(はげいとう)だった。
 門前、振袖銀杏のかげからのぞいていた源十郎は、この居合抜きのあざやかさに肝(きも)を消して、もとより与吉は真っ二つになったことと思った。
 が、二つになったのは、与吉ではなくてはんてんだった。まるで鋏で断ち切ったように、左右に分かれて地に落ちている。
 ぽかんと気が抜けて立った与吉は、
「貴様ごときを斬ったところで刀がよごれるばかり、これにこりて以後人を見てものを言え」
 という栄三郎の声に、はっとしてわれに返ったのはいいが、どうして半纒が取られたのか知らないから、怖いものなしだ。
「何をッ! 生意気な」
 うめくより早く、蹴あげた下駄を空で引っつかんで打ってかかった。にっこりした栄三郎、ひょいとはずして、思わず泳ぐ与吉の腰をとんと突く。はずみを食った与吉は、参詣の石だたみをなめて長くなったが……。
 かれもさる者。
 いつのまに栄三郎の懐中をかすめたものか、手にしっかと五十両入りの財布を握って、起き上がると同時に門外をさして駈け出した。
 もう容赦はならぬ。追い撃ちに一刀!
 と柄を前半におさえてあとを踏んだ栄三郎は、門を出ようとする銀杏の樹かげに、ちらと動いた人影に気がつかなかった。
 ましてや、門を出がけに、与吉がその影へ向かって財布を投げて行ったことなどは、栄三郎は夢にも知らない。
 往来で二、三度左右にためらった末、与吉は亀のように黒船町の角へすっ飛んで行く。まがれば高麗(こうらい)屋敷。町家が混んでいて露地抜け道はあやのよう――消えるにはもってこいだ。
 おのれ! 剣のとどきしだい、脇の下からはねあげてやろうと、諏訪栄三郎、腰をおとして追いすがって行った。
 それを見送って、振袖銀杏のかげからにっと笑顔を見せたのは、鈴川源十郎である。
 手に、ずしりと重い財布を持っている。
 斬られたと思った与吉が駈け出して来て、手ぎわよく財布を渡して行ったのだから、源十郎は、あとは野となれ山となれで、食客の丹下左膳が眼の色をかえてさがしている坤竜丸の脇差が、あの若侍の腰にあったことも、この五十両から見ればどうでもよかった。
 見ていたものはない。してやったり! と薄あばたがほころびる。
 ひさしぶりにふところをふくらませた源十郎、前後に眼をやってぶらりと歩き出そうとすると……。
 風もないのにカサ! と鳴る落ち葉の音。
 気にもとめずに銀杏の下を離れようとするうしろから、突如、錆びたわらい声が源十郎の耳をついた。
「はっはっはっは、天知る地知る人知る――悪いことはできんな」

 ぎょっとしてふり返ったが、人影はない。
 雨のような陽の光とともに、扇形の葉が二ひら三ひら散っているばかり――。
 銀杏が口をきいたとしか思われぬ。
 気の迷い!
 と自ら叱って、源十郎が再びゆきかけようとしたとき、またしても近くでクックックッという忍び笑いの声。
 思わず柄に手をかけた源十郎、銀杏の幹へはねかえって身構えると……。
 正覚寺の生け垣にそって旱魃(ひでり)つづきで水の乾いた溝がある。ちょうど振袖銀杏の真下だから、おち敷いた金色の葉が吹き寄せられて、みぞ一ぱいに黄金の小川のようにたまっているのだが、その落ち葉の一ところがむくむくと盛り上がったかと思うとがさがさと溝のなかで起き上がったものがある。
 犬? と思ったのは瞬間で、見すえた源十郎の瞳にうつったのは、一升徳利をまくらにしたなんとも得体(えたい)の知れないひとりの人間だった。
「き、貴様ッ! なんだ貴様は?」
 おどろきの声が、さしのぞく源十郎の口を突っぱしる。
 ところが相手は、答えるまえに、落ち葉の褥(しとね)にゆっくりと胡坐(あぐら)を組んで、きっと源十郎を見返した。
 熟柿(じゅくし)の香がぷんと鼻をつく。
 乞食にしても汚なすぎる風体。
 だが、肩になでる総髪、酒やけのした広い額、名工ののみを思わせる線のゆたかな頬。しかも、きれながの眼には笑いと威がこもって、分厚な胸から腕へ、小山のような肉(しし)おきが鍛えのあとを見せている。
 年齢は四十にはだいぶまがあろう。着ているものは、汗によごれ、わかめのようにぼろの下がった松坂木綿の素袷(すあわせ)だが、豪快の風(ふう)あたりをはらって、とうてい凡庸(ぼんよう)の相ではない。
 あっけにとられた源十郎が、二の句もなく眺めている前で、男はのそりと溝を出て来た。
 ぱっぱっと身体の落ち葉は払ったが、あたまに二、三枚銀杏の葉をくッつけて、徳利を片手に、微風に胸毛をそよがせている立ち姿。せいが高く、岩のような恰幅(かっぷく)である。
 偉丈夫――それに、戦国の野武士のおもかげがあった。
 すっかり気をのまれた源十郎はそれでも充分おちつきを示して、この正体の知れない風来坊をひややかな眼で迎えている。
 一尺ほど面前でぴたりととまると、男は両手を腰において、いきなり、馬がいななくように腹の底から笑いをゆすりあげた。
 その声が、銀杏の梢にからんで、秋晴れの空たかく煙のように吸われてゆく。
 いつまでたっても相手が笑っているから、源十郎もつりこまれて、なんだか無性(むしょう)におかしくなった。
 で、にやりとした。
 すると男はふっと笑いをやんで、
「お前は、八丁堀か」
 と、ぶつけるように横柄(おうへい)な口調である。
 小銀杏の髪、着ながした博多(はかた)の帯、それに雪駄(せった)という源十郎のこしらえから、町与力あたりとふんだのだ。与力の鈴源といわれるくらいで、源十郎はしじゅう役人に間違われるが、先方が勝手にそうとる以上は、かれもこのことは黙っているほうが得だと考えて、この時もただ、ぐっとにらんで威猛高(いたけだか)になった。
「無礼者! 前に立つさえあるにいまの言葉はなんだ?」
 男は眼じりに皺をよせて、
「おれのひとりごとを聞いて、お前のほうでもどってきたのではないか。天知る地知る人知る……両刀を帯して徳川の禄(ろく)を食(は)む者が、白昼追い落としを働くとは驚いたな」
「なにいッ!」
 思わず柄へ走ろうとする源十郎の手を、やんわり指さきでおさえた男、
「この溝の中で、はじめから見物していたのだ。あの男の投げていった財布を出せ」いいながら指に力を入れる。
「う、うぬ、手を離せッ!」源十郎はいらだった。「この刀が眼に入らぬとは、貴様よほど酔うとるな――これ、離せというに、うぬ[#「うぬ」は底本では「うね」]、離さぬか……」
「酔ってはいる。が、しかしこの汚濁(おだく)の世では、せめて酔ってるあいだが花だて」
 と奇怪な男、ううい! と酒くさい息を吹いて手の徳利を振った。
 指をふりほどこうとあせった源十郎も、虚静(きょせい)を要とし物にふれ動かず――とある擁心流(ようしんりゅう)は拳の柔(やわら)と知るや、容易ならぬ相手とみたものか、小蛇のようにからんでくる指にじっと手を預けたまま、がらりと態度をあらためて、
「いや。さい前からの仔細(しさい)をごらんになったとあらば、余儀ない。拙者も四の五のいわずに折れますから、まず山分け――金高の半というところでごかんべんねがいたい」
 源十郎はふところから五十両入りの栄三郎の財布をとり出した。
 すると男は、源十郎の手をゆるめながら、
「だまれッ!」と肩をそびやかして、
「おれはまだ盗人のあたまをはねたことはないぞ! 財布ごとそっくりよこせ!」
「で、この金をどうなさる?」
「知れたこと。所有主へ返すのだ」
 源十郎はせせら笑った。
「それは近ごろ奇特なおこころざし――といいたいが、いったい貴公は何者でござるかな?」
「おれか? おれは天下を家とする隠者だ」
「なに、隠者? して、御尊名は?」
「名なぞあるものか。しいて言えば、名のない男というのが名かな」
「なるほど。いや、これはおもしろい。しからばこの金子(きんす)、このまま貴殿へお渡し申そう」
 あきらめたとみえて、源十郎もあっさりしている。財布は男の手へ移った。
「ふん! あんまりおもしろいこともあるまいが……政事(まつりごと)を私(わたくし)[#ルビの「わたくし」は底本では「わたく」]し、民をしぼる大盗徳川の犬だけあって、放火盗賊あらためお役が、賊をはたらく、このほうがよっぽどおもしろいぞ」
 この毒舌に源十郎はかっとなって、
「乞食の身で、言わせておけば限りがない――汝は金を返してやるといったが、さてはあの若侍の住所氏名を知っているのか」
「知らん。が、いずれ今ここへ帰ってくるだろう」と、名のない男の言葉が終わらないうちに、裏みちでつづみの与吉を見失った諏訪栄三郎が、ぼんやりとそこの横町から往来へ出て来た。
 思案投げ首といった態(てい)。
 それを見ると男は、源十郎がはっとするまに大きな声で呼びかけて、ちらりと源十郎を見やったのち、近づいてくる栄三郎へ、
「これ! 金はここにある。この八丁堀のお役人が、あの男をとっちめて取り戻してくだすったのだ。礼はこの人へ言うがいい」
 と見事に源十郎を立てておいて財布を栄三郎に渡すが早いか、まごついている二人を残して、それなり風のように立ち去って行った……頭髪へ銀杏の葉をのせて、片手に徳利をさげたまんまで。
 世にも奇体(きたい)な名のない男!
 ことに、不敵にも公儀へ対して異心を抱くらしい口ぶり――はてどこの何やつであろう?
 ――と、あとを見送る源十郎へ何も知らない栄三郎はしきりに礼をのべて、やがてこれも雷門のほうへいそいでゆく。
 みょうな顔で挨拶を返した鈴川源十郎、眼は、遠ざかる栄三郎の腰に吸われていた。
 はなしに聞いた陣太刀づくりの脇差に、九刻(ここのつ)さがりの陽ざしが躍っている。
 孤独を訴える坤竜丸の気魂(きこん)であろうか。栄三郎のうしろ姿には一抹(まつ)のさびしさが蚊ばしらのように立ち迷って見えた。
「よし! 五十両がふいになった以上は、あくまでもあの男をつけ狙って、丹下のやつをたきつけ、おもしろい芝居を見てやろう。乾雲と、坤竜、刀が刀を呼ぶと言ったな。それにしてもあの若造は、たしかに鳥越の――」
 源十郎が小首をひねったとき、先をゆく栄三郎がまた振り返って頭をさげた。
 ふふふ、馬鹿め! とほくそ笑(え)んだ源十郎、ていねいにじぎをしていると、ぽんと肩をたたく者があって、
「ほほほ、いやですよ殿様。狐憑(つ)きじゃああるまいし、なんですねえ、ひとりでおじぎなんかして……」
 という櫛まきお藤の声。気がつくと、いつのまにか与吉もそばに立っているのだった。
 すんでのことで栄三郎に追いつかれて、武蔵太郎を浴びそうになった与吉は、ほど近いお藤の家へ駈けこんで危ういところを助かった。で、もうよかろうと姐御を引っぱり出して来てみると、かんじんの金は、名のない男というみょうな茶々(ちゃちゃ)がはいって元も子もないという――。
 お藤は黒襟をつき上げて、身をくの字に腹をよった。が、そのきゃんな笑いもすぐに消えて真顔に返った。
 丹下左膳のために手をかしてもらいたいという源十郎のことば。
 何かは知らぬ。しかし、左膳と聞いて、恋する身は弱い。お藤はもう水火をも辞せない眼いろをしている。
 しかも、いつない源十郎の意気ごみが二人の胸へもひびいて、与吉は中継(なかつ)ぎとしてここにのこり、お藤と源十郎が栄三郎のあとを追うことになった。
 屋敷をつきとめしだい、どっちかがひっかえして与吉にしらせる。与吉はそれをもたらして本所法恩寺橋の鈴川の屋敷へ走り、左膳を迎えて今夜にでも斬りこもうという相談。
 勇み立ったお藤が、源十郎とともに、だんだん小さくなる栄三郎をめざして小走りにかかると、すうっと片雲に陽がかげって、うそ寒い紺色がはるか並木の通りに落ちた。
 このとき、うしろの蔵宿(くらやど)両口屋から出てきた老人の侍が、おなじく小手(こて)をかざして栄三郎を望見していた。

「どれ、日の高いうちにひとまわりと出かけましょうか。はい、大きに御馳走さま――姐(ねえ)さん、ここへお茶代をおきますよ。どっこいしょッ! と」
「どうもありがとうございます。おしずかにいらっしゃいまし」
 吉原を顧客(とくい)にしている煙草売りが、桐の積み箱をしょって腰をあげると、お艶(つや)はあとを追うようにそとへ出た。
 人待ち顔に仁王門のほうへ眼を凝(こ)らして、
「もう若殿様のお見えになるころだけれど、どうなすったんだろうね。あんなごむりをお願いして、もしや不首尾で……」
 と口の中でつぶやいたが、それらしい影も見えないので、またしょんぼりと葦簾(よしず)のかげへはいった。
 階溜まりに鳩がおりているきり、参詣の人もない。
 浅草三社前。
 ずらりと並んでいる掛け茶屋の一つ、当り矢という店である。
 紺の香もあたらしいかすりの前かけに赤い襷(たすき)――お艶が水茶屋姿の自分をいとしいと思ってからまだ日も浅いけれど、諏訪栄三郎というもののあるきょうこのごろでは、それを唯一つの頼りに、こうして一服(ぷく)一文の往きずりの客にも世辞のひとつも言う気になっているのだった。
 ちいんと薬罐(やかん)にたぎる湯の音。
 ちょっと釜の下をなおしてから、手を帯へさしこんだお艶は、白い頤(おとがい)を深ぶかと襟へおとしてわれ知らず、物思いに沈む。
 隣の設楽(しがらき)の店で、どっとわいた笑いも耳にはいらないようす。鬢(びん)の毛が悩ましくほつれかかって、なになにえがくという浮世絵の風情(ふぜい)そのままに――。
 このお艶は。
 夜泣きの刀を手に入れるために剣鬼丹下左膳を江戸おもてへ潜入させた奥州中村の領主相馬大膳亮(そうまだいぜんのすけ)につかえ、お賄頭(まかないがしら)をつとめていた実直の士に、和田宗右衛門(わだそうえもん)という人があった。
 水清ければ魚住まずというたとえのとおり、同役の横領にまきぞえを食って永のお暇(いとま)となった宗右衛門。今さら二君にまみえて他家の新参になるものもあるまいと、それから江戸に立ちいで気易(きやす)な浪人の境涯。浅草三間町の鍛冶屋富五郎、かじ富という、これがいささかの知人でいろいろと親切に世話をしてくれるから、このものの口ききで田原町(たわらまち)三丁目喜左衛門の店に寺小屋を開いて、ほそぼそながらもその日のけむりを立てることになったが……。
 妻おさよとのあいだに、もう年ごろの娘があってお艶という。
 どうか一日も早く婿養子をとり、それに主取りをさせて和田の家を興(おこ)したいと、明けくれ老夫婦が語りあっているうちに、宗右衛門はどっと仮りそめの床についたのが因(もと)で、おさよお艶をはじめ家主喜左衛門やかじ富が、医者よ薬よとさわいだかいもなく、夢のようにこの世を去ったのであった。
 あら浪の浮き世に取りのこされた母娘(おやこ)ふたり。涙にひたることも長くはゆるされなかった。明日からの生計(くらし)の途(みち)が眼のまえにせまっている。老母おさよは、ちょうどその時下女を探していた本所法恩寺の旗本鈴川源十郎方へ、喜左衛門とかじ富が請人(うけにん)になって奉公に上がり、ひとりになったお艶のところへ喜左衛門が持ちこんできたのが、この三社前の水茶屋当り矢の出物であった。
 武士の娘が茶屋女に――とは思ったが、それも時世(ときよ)時節(じせつ)でしかたがないとあきらめたお艶は、田原町の喜左衛門からこうして毎日三社前に通っているのである。
 世話にくだけた風俗が、持って生まれた容姿(かおかたち)をひとしお引き立たせて、まだ店も出してまもないのに、当り矢のお艶といえばもう浅草で知らないものはない。
 世が世ならば……思うにつけはやればはやるほど気のふさぐお艶だった。
 ところへ、また――。
 人の親切ほどあてにならないものはない。
 あれほど親身に親子の面倒を見てくれたかじ富が、それも今から思えば何かためにしようの肚(はら)だったらしいがこのごろ、その時どきに用立てた金を通算して、大枚五十両というものを矢のように催促[#「催促」は底本では「催足」]してくるのである。
 あと月のある日、観音詣りの帰りに立ち寄ってから毎日かかさず来てくれる栄三郎へ、お艶はふとこの心にあまる辛苦をうちあけると、栄三郎は二つ返事で五十両の金策に飛び出したのだが――。
 まだ帰ってこない。
「申しわけございません。はじめからお金をねだるようで、はしたない茶屋女とおぼしめしましょうが」
 ほっと深い吐息がお艶の口から洩れた。

 大久保藤次郎家用人白木重兵衛が、その日、用があって蔵宿両口屋へ立ちよると、つい今しがた、主人の弟の栄三郎が藤次郎の実印を持ってきて、こういうはなしで五十両借りて行ったという。
 判をちょろまかして大金をかたるとはいかに若殿様でもすておけないとあって、白髪頭をふりたてた重兵衛、飛びだして小手をかざすと――。
 秋らしく遠見のきく白い町すじ。
 三々五々人の往来する蔵前の通りを、はるか駒形(こまがた)から雷門(かみなりもん)をさしていそぐ栄三郎の姿が、豆のようにぽっちりと見える。与吉を伝送(でんそう)の中つぎに残して、あとをつけてゆく源十郎とお藤の影は、もとよりただの通行人としか重兵衛の眼にはうつらなかった。
「うちうちなら宜(え)えが、札差しを痛めつけられるようでは、栄三郎さまの行く末が思われる。ぶるるッ! これはどうあっても殿様へ申し上げねばならぬ……殿様へ申しあげねばならぬ」
 と正直一途(いちず)に融通のきかない重兵衛は、それからすぐに鳥越の屋敷へ取って返す。そんなことは知らないが、なんでこの若侍も鳥越へ?
 と源十郎が前方の栄三郎をみつめているうち、花川戸(はなかわど)のほうへ下らずに、栄三郎はまっすぐに仁王門から観音(かんのん)の境内へはいりこむ。
 はてな、道がちがうがどこへ行くのだろう? 源十郎はお藤に眼くばせして歩を早めた。
 栄三郎にしてみれば。
 あの根津の曙の里の故小野塚鉄斎先生の娘弥生(やよい)に思われて、嫌ってはすまぬと知りながら、ああしてみずから敗をとって弥生を泣かした。のみならず、それから事件が起こって老師は不慮の刃にたおれ、夜泣きの刀は二つに別れて坤竜(こんりゅう)はいま自分の腰にある。栄三郎とてもいたずらに弥生をしりぞけ、師の望みにそむくものではない。あの夜、泣く泣く麹町(こうじまち)の親戚(しんせき)土屋多門方へ引き取られて行った弥生に、かれはかたい使命を誓ったのだった。
 相手は乾雲丸の丹下左膳。
 がしかし、弥生の恋をふみにじって、事ここにいたったのも、栄三郎としては、ここに三社前の水茶屋当り矢のお艶というものがあればこそであった。
 恋し恋されるこころのあがきだけは、人の世のつねの手綱では御(ぎょ)されない。
 一眼惚れとでもいうのか、はじめて見た時からずっとひきこんだ恋慕風(れんぼかぜ)を栄三郎はどうすることもできなかった。
 その思う女に持ちかけられた五十両の才覚である。栄三郎はとび立つ思いで引き受けたものの、さて部屋住みの身にそれだけの工面がつくはずがない。とほうに暮れたあげく、悪いことだが、ふと思いついたのが、兄藤次郎の名で札差しから引き出すことだ。で、さっそく実印を盗みだし、その足で両口屋に用だたせてきたこの五十両。
 途中でへんなやつに掠(さら)われたがそれもまた、もうひとり変り種があらわれて取り返してくれた――あの一くせある、風格の乞食はいったい何者であろう?
 ものを思って歩く道は近い。
 お! それにしてもさぞお艶が待ちくたびれているだろうな。
 と、顔を上げた栄三郎が急ぎ足になったとき、気がつくともう水茶屋並びで、むこうの、金的に矢の立つ当り矢の貼(は)り行燈(あんどん)の下に、白いお艶の顔が栄三郎に笑いかけている。
 栄三郎は、上々吉、できたぞという心で、小判にふくらんだ懐中をたたいて見せた。
「ほんとに、とんでもないことをお願いして、もう来てくださらないかと案じておりましたが、でもお顔を見ただけでどうやら安心しました」
 においこぼれる口もとの笑(え)みを前垂れで受けながら、こういって栄三郎を見上げた澄んだ瞳には、若いたましいを嬌殺(きょうさつ)しないではおかないものがあった。栄三郎は、つと身も世もない歓喜(よろこび)が背筋を走るのを覚えつつ、
「ま、はいりましょう――」
 と先に立って葦簾(よしず)張りをくぐるとすぐ、
「さ、五十両ある」
 大きく笑って、重い財布をそこの腰かけへほうり出した。
 お艶はすぐに取りあげもならず、はじらいを包んだ流眄(ながしめ)を栄三郎へ送ってうつむいた。
「なんともすみません――ねえ、若殿様、おなじみも浅いのにはやお金のことを申しあげたりして、やはりはしたない茶屋女だけのことはあるとおぼしめすでございましょうねえ。わたしはそれが辛くて――」
「なんの。不如意(ふにょい)の節は誰しも同じこと。早くこれを持って行って、その鍛冶富とやらへ借利(かり)を払ってやりなさい。私が店番をしている」
「まあ! なにから何まで――では、母へも知らせてお礼はあとから改めて申しあげますが、せっかくのおなさけでございますからすがらせていただいて、ちょっとひとッ走り行って返して参ります。あの、すぐそこでございますよ」
 いそいそと前掛けをはずしたお艶が、袖を胸に重ねて走り出したところで、とんとぶつかりそうになった女づれの侍がある。源十郎だ。
「あれ! ごめん下さいまし」
 そのまま内股(うちまた)に駈けてゆくお艶のうしろ姿に、源十郎の眼がじいっと焼きついたと見ると、
「殿様、あれが浅草名代の当り矢のお艶でございますよ――まあきれいですことねえ!」
 そそのかすようにお藤がささやいた。
 褄(つま)を乱して急ぎ去るお艶の影に、みだらな笑をたたえた源十郎は「お藤」とふり向いて、
「美(い)い女だなあ! 当り矢のお艶という? ふうむ、そうか」
 お藤は、いたずららしい眼で源十郎を叱った。
「あれさ、殿さまいけませんよ。またそろそろ浮気の虫が……」
 苦笑した源十郎、五十両を持った若侍をつけてきたのは、かれの腰にある陣太刀づくりの脇差――坤竜丸にひかれてのことである。いまは茶屋女の裾さばきに見惚れている場合でないと、そっとお藤を押しのけて前の茶屋を見やると――。
 葦簾のかげに緋毛氈(ひもうせん)敷いた腰かけが並んで、茶碗に土瓶(どびん)、小暗い隅には磨きあげた薬罐(やかん)が光り、菓子の塗り箱が二つ三つそこらに出ている――ありきたりの水茶屋のしつらえ。
 むこう向きにかけた侍ひとり。その羽織の下からのぞいている平巻きの鞘を見つけると、源十郎は忍びになって、常夜燈のかげへお藤をさし招いた。
「いる」
「いますか……では、与(よ)の公(こう)が待っていますから、わたしはすぐ引っ返して――」
 と手早く片裾からげるお藤へ、源十郎はにやりと笑いかけて、
「左膳はこの若造を死身(しにみ)になってさがしているのだ。わけはいずれあとでわかるが、左膳の大事であってみれば、おれも、いや、お前こそは――はっははは、まんざら力瘤(ちからこぶ)のはいらぬというわけはあるまいな。その気でぬからず頼む。お前の左膳へのこころもちはおれから伝えてもあるし、今後は決して悪くははからわんつもりだ」
 左膳……といわれて、櫛まきお藤ともあろうものがぽっとさくら色に染まって、凄いまでに沈んだ口調だ。
「いまのお言葉――反古(ほご)になさるとききませんよ」
 陽(ひ)かげのせいか、源十郎はうそ寒く感じた。
「大丈夫だ。早く行って与吉を走らせろ……あ! それからな、さっきのお艶、あれの店(たな)はどこか、またいかなる身分のものか、そこらのところを御苦労だが洗ってきてもらえまいか」
 たしなめるようににっと歯をみせたお藤は、それでももうおもしろそうに大きくうなずいて、鐘撞堂(かねつきどう)からお水屋へと影づたいに粋(いき)な姿を消して行った。
 振袖銀杏の下に待っているつづみの与吉へ。
 そして、しらせを受け取った与吉は、ただちに本所法恩寺橋へ宙を飛んで、いま浅草三社まえのかけ茶屋当り矢に坤竜丸が来ていると丹下左膳へ注進する手はず。
 ひとりあとに残った源十郎は、しばらく石になったように動かなかった。
 やがて。
「鳥越の若様という侍が、この当り矢へ来ておる。すると、きゃつとお艶と――だが待てよ、おれには百の坤竜よりも生きたお艶のほうがよっぽどありがたいわい。こりゃあ一つ考えものだぞ」
 とひねった首をしゃんとなおすが早いか、思いついたことがあるらしく、源十郎ぐっと豪刀の柄(つか)を突き出して目釘を舐(な)めた。
 雪駄をぬいでふところへ呑む。ツウ……とぬすみ足、寄りそったのが当り矢の前だ。
 と思うと、突如!
 ザザザアッ! とうしろに葦簾(よしず)をかっさばいた白光に、早くも身を低めた栄三郎が腰掛けを蹴返したとたん、ものをいわずに伸びきった源十郎の狂刀が、ぞッと氷気を呼んで栄三郎の頭上に舞った。
 去水流居合(きょすいりゅういあい)、鶺鴒剣(せきれいけん)の極意(ごくい)。
 が、この時すでに、あやうくとびずさった栄三郎の手には、武蔵太郎安国が延べかがみのように光っていた。
 源十郎、追い撃ちをひかえて上段にとる。
 栄三郎は神変夢想の平青眼だ。
 せまい茶屋のなか。外光をせおった源十郎は、前からはただ黒い影としか見えない。
「何奴(なにやつ)! 狂者か。白昼この狼藉――うらみをうける覚えはないぞッ! 引けッ」
 上眼づかいに栄三郎が叱□(しった)する。源十郎は笑った。
「できる。が、呼吸がととのわん。道場の剣法、人を斬ったことはあるまいな」
「エイッ! なに奴かッ! 名を名乗れ、名を」
「丹下左膳……といえば聞いたことがあろう」
「なな何ッ? た、丹下、あの丹下左膳――?」
 栄三郎が思わず体を崩してすかして見たとき、スウッとしずかに源十郎の刀が鞘へすべりこんで、
「まず――まず、人きり庖丁(ぼうちょう)をしまわれて、おかけなされ。話がある」
 とあっけにとられている栄三郎へは眼もくれず、源十郎は、この真昼間なんのしらせもなしに降ってわいた斬り合いに胆をつぶして、怖いもの見たさにもう店の前に輪を書いていた隣の設楽(しがらき)の客や通行人のむれに、いきなりかみなりのような怒声を浴びせかけた。
「馬鹿ッ! こいつらア! 何を見とる? 見世物じゃないッ! いけッ!」
「はなしは早いがいい。女と刀の取っかえっこだ。どうだな?」
 源十郎は藪から棒に、突き刺すように言って顎をしゃくった。
 片面に影がよどんで、よく相手の顔が見えない栄三郎にも、いまこの男が、さっき正覚寺門前で財布をとり返してくれた上役人らしいことはわかったが、それがまた何しに言葉もかけずに斬りこんできたか? 刀と女との交換とはなにを意味する? と思うと、うっかり口はきけない。かたくなって源十郎を見すえた。
 左膳によれば、この坤竜(こんりゅう)丸の若者なかなかに腕が立つという。が、どのくらいかと当たる意(こころ)で斬りつけた源十郎は、武蔵太郎の皎鋩(こうぼう)に容易ならぬ気魄(きはく)を読むと、今後これを向うへまわす左膳と自分もめったに油断はならぬわいと思いながら、急にくだけて出たのだった。
「先刻の非礼、幾重(いくえ)にもお詫びつかまつる」
 というのをきり出しに、自分が丹下左膳と乾雲(けんうん)丸の所在を知っていることを物語って、次第によっては刀を取りもどして来て進ぜてもよいとむすんだ。
 どこに? とせきこむ栄三郎の問いには、江戸の片隅とのみ答えて、源十郎声をおとした。
「さ、そこでござる。お手前はその坤竜をもって左膳の乾雲を呼ばんとし、左膳は乾雲に乗じて貴殿の生命と坤竜を狙っておる。あいだに立っておもしろがっているのが、まあ、この拙者だ。さて、ものは相談だが、貴殿との話しあいいかんによっては、拙者が左膳を丸めるなり片づけるなりして、乾雲丸をお手もとへ返したいと思うが、お聞き入れくださるか」
 栄三郎は解(げ)しかねる面もち。
「それは刀のこと。して、刀に換わる女と申されたは?」
「ここのお艶を拙者におゆずりくださらぬか」
「笑止!」と突ったった栄三郎、
「なにをたわけたことを! なるほど、刀の一件も大切でござるが、左膳ごとき、わたくし一人にて充分、そのために二世をちぎりし女を売るなど栄三郎思いもよりませぬ。土台、人のこころを品物ではなし、ゆずるのゆずらぬのと……」
「二世をちぎった? ははははは、これは恐れ入った。お若い! で、御不承か」
「もちろん!」
「しからば余儀ない。拙者、いずれ左膳に助力してその坤竜丸を申し受けるが、ついでに、お艶ももはや拙者のものと観念めされい」
「御随意に。丹下殿へもよろしく伝えられたい」
「ごめん」
 と源十郎が歩き出したとき、さっき帰って来たものの、自分の名を耳にしてはいりかねていたお艶が栄三郎の真身(しんみ)に感きわまったものか、花びらのように転びこんで、白い腕が栄三郎の首にすがったかと思うと、ことばもなく顔を男の胸にうずめて……
 そのさまに、こりゃたまらぬ! と馬鹿を見た源十郎、
「その女、しばらく預けておくとしよう」
 捨てぜりふとともに袂(たもと)をたたいて、ぶらりと当り矢の店を出て行った。
 おなじ時刻に。
 夜も昼もない常闇(とこやみ)の世界。
 八つ下りの陽がかんかん照りつけるのに、乾割れの来そうな雨戸をぴったりとしめきって、法恩寺まえの鈴川の屋敷では丹下左膳がいびきをかいていた。
 茶室めかした六畳の離庵(はなれ)。
 足の踏み立て場もなくちらかしたまん中に、四布蒲団(よのぶとん)の柏餅から毛脛を二本投げ出して、夜出歩く左膳はこうして昼眠っているのだ。
 垢とあぶらに重くにごった室内に、板の隙を洩れる細い光線がふしぎな縞を織り出している。
 あの夜――乾雲丸を手に入れて以来、栄三郎の坤竜を気に病む左膳ではないが、何者かに憑(つ)かれ悩んでいるらしかった。癖せた身体がいっそう骨張って、食もほそり、酒さえすすまぬ案山子(かかし)のような姿で夜ごと曙の里あたりを徘徊(はいかい)するのが見られたが、主(しゅ)を失った鉄斎道場の門は固くしまって弥生のゆくえはどことも知れなかった。
 大主にふくめられた秘旨(ひし)は忘れぬ。またお藤のなさけも感ぜぬではないが、あの娘は仕合に勝って取ったのだと思うと、咲きほこる海棠(かいどう)のような弥生の姿が、四六時中左膳の隻眼にちらつく――恋の丹下左膳。
 隻腕の身の片思い。
 恋慕の糸のもつれは利刀(りとう)乾雲でも断ち切れなかった。
 夢に提灯をさげて築山の裾をゆく弥生がうかぶ。ううむ! と左膳が寝返りをうった時、やにわに! 紙を貼った戸の節穴(ふしあな)に人影がさして、
「左膳さま――丹下の殿様!」
 と呼ぶ与吉の声に、ぱッと枕頭(ちんとう)の乾雲丸をつかんではね起きた左膳、板戸を引くと庭一ぱいの雑草に日光が踊って、さわやかな風が寝巻の裾をなぶる。
 与吉のしらせを聞いた左膳は、やにのたまった一眼を見ひらいて、打ッ! と乾雲の鍔(つば)を鳴らした。
「なに、源十が見張っておると? だが、夜の仕事だなこりゃあ――貴様、いまのうちに駈けずりまわって、土生(はぶ)仙之助をはじめ十五、六人連中を狩り集めてこい」
 きりきり舞いをした与吉は、糸の切れた奴凧(やっこだこ)みたいにそのまま裏門からすっ飛んでゆく。
 闇黒に水のにおいが拡がっている――。
 月のない夜は、まだ宵ながらひっそりと静まって、石垣の根を洗う河音がそうそうとあたりを占めていた。
 あさくらお米蔵(こめぐら)の裏手。
 一番から八番まで、舟入りの掘割(ほりわり)が櫛の歯のようにいりこんでいる岸に、お江戸名物の名も嬉しい首尾の松が思い合った影をまじえて、誰のとも知らぬ小舟が二、三舫(もや)ってあった。
 その一艘(いっそう)の胴(どう)の間(ま)に、うるさい世をのがれてきた若い男女。
 当り矢の店をしまうとすぐ、お艶と栄三郎は、灯のつきそめた町々をあてどもなくさまよって、知らず識らず暗いところを選ぶうちにここまで来たのだった……そして舟のなかへ。
 話さなければならぬことが山ほどある。
 が、ただそんな気がするだけで、膝(ひざ)のうえにお艶の手をとった栄三郎、もう何もいわなくてもよかった。
 川向うは、本所の空。
 火の見やぐらの肩に星がまたたいて加納遠江(かのうとおとうみ)や松浦豊後守(まつうらぶんごのかみ)の屋敷屋敷の洩れ灯が水に流れ、お竹ぐらの杉がこんもりと……。
 人目はない。
 お艶の胸のときめきが握られた手を通じて栄三郎に伝わると、かれは睡蓮(すいれん)のようなほの白い顔をのぞきこんだ。
「もう夜寒の冬も近い。こうしていては冷えよう――」
 いいながら羽織をぬいで、お艶の背へ着せようとする。
「え、いいえ、あれ! もったいない……それではかえってあなた様が……」
 とお艶は軽く争ったが男の羽織が、ふわりと肩に落ちると同時にされるがままにもたれてくるのを、栄三郎はかき抱くように引きよせて、
「お艶」
「若殿さま」
 眼と眼。
 顔と顔。
 四つの目からはずむ輝きが火のようにかちあう。
 恋する者の忘れられない初めての遭逢(そうほう)であった。
 栄三郎は、しずかにお艶の顎(あご)に手をかけて顔をあおむかせた。
「お艶、拙者の心は以前からわかっていてくれたろうが、今後とも決して変わるまいぞ、な」
「はい。身にあまったお言葉……お艶はうれしゅうございます。このまま死にましても――」
「死んでも? はて、何を不吉(ふきつ)なことを! 死なばともにだ!」
 いっそう深ぶかと胸をすりよせたお艶は、そっと身をくねらして栄三郎を見上げた。
「ええ。いつまでもどんなことがあっても! でも、いろんなことがございましょうねえ、わたしどもの行く手には」
「うむ。まずそれは覚悟しておいてよかろう。さしあたり、先刻途(みち)みち話してきた夜泣きの刀だが……」
「いいえ」お艶はだだをこねるように首をふって、「そのお刀の取り戻しは、あなた様の手腕一つでりっぱになさること。お武家には何事につけても強い意志があると亡父(ちち)からもよく聞かされました。ましてお腰の物の張り合い、それをとやかく申してお心をにぶらせるお艶ではございません。いえ、それはもう、その左膳とやらいう無法者があなた様をつけ狙っていると思えば、うかがっただけで生命のちぢまるほど怖うはございますものの、女の身でお手伝いもならず、足手まといの自分が情けないばかり、つゆうらめしいとは存じませんが、ただ、あの――」
「ただあの?――とは、ほかに何か……」
「はい。道場の――」
「道場の?」
「おはなしに聞いたお嬢さまが気になってなりませぬ」
「弥生(やよい)どのか。ば、ばかな! たとえ弥生どのがどのように持ちかけようと、よいか、このわたしさえしっかりしておれば、お前は何も案ずることはないではないか」
「けれど、茶屋女とあなた様はあんまり身分が違いますゆえ、つり合わぬなんとか……とそれを思うと空おそろしゅうございます」
 お艶の声は泣いていた。互いに高鳴る血の音に身をゆだねてから……何刻(なんとき)たったろう。
 首尾の松が風にざわめいた。
 ふとお艶は、上気した頬にこころよい夜気を受けて舷側(ふなべり)にうつ伏した。その肩へ、栄三郎の手がいたわるように伸びてゆくと――
「えへん!」
 耳近く、舟のなかに咳(せき)ばらいの音がする。

   綾糸車(あやいとぐるま)

 えへん! という咳ばらいはたしかに小舟のなかから――。
 二人はぱっと左右に分かれて耳をそばだてた。
 が聞こえるものは、遠くの街をゆく夜泣きうどん屋の売り声と、岸高く鳴る松風の音ばかり――もう夜もだいぶ更(ふ)けたらしく、大川の水が杙(くい)にからんで黒ぐろと押し流れて、対岸の家の灯もいつとはなしに一つ二つと消えていた。
 寂とした大江戸の眠り。
「いま何か声がしたようだな」
 栄三郎がひとりごとに首をかたむけた時、
「いや、恋路(こいじ)のじゃまをしてはなはだすまんが、わしもちと退屈して来た。もう出てよかろう」
 と野太(のぶと)い声が艫(とも)にわいたかと思うと、船具の綱でもまとめて、菰(こも)をかぶせてあると見えたかたまりが、片手に筵(むしろ)を払ってむっくりと起きなおった。
「やッ! 何者ッ!」
 思わず叫んだ栄三郎、飛びのくお艶をうしろに、左腰をひねって流し出した武蔵太郎の柄をタッ! と音してつかんだ。
 すべり開いたはばき元が一、二寸、夜光に映(は)えてきらりと眼を射る。
 舟尻(とも)にすわっている男は山のように動かなかった。
 蓬髪(ほうはつ)垢面(こうめん)――酒の香がぷんとただよう。
 見たことのある顔……と栄三郎が闇黒をすかす前に、男の笑い声が船をゆすってひびいた。
「はっはっは、またひょんなところで逢ったな」
 言われてみれば、まぎれもない、鈴川源十郎をやりこめて五十両取り返してくれた、あの、名のない男だ。
 ちょっとでも識(し)った顔とわかって、恥ずかしさが先にたつ若いふたりがどぎまぎすると、かえって男のほうが気の毒そうにあわてて、
「こりゃいかん! わしが悪かった。ひょいと眼ざめて面を出したが申しわけない! また寝る、また寝る――」
 いいつつ板の間に横になって、またごそごそ菰をかぶろうとする。
 こんどは栄三郎がまごついた。
「いえ。そ、それにはおよびませぬ」
 相変わらずの破れ着、貧乏徳利を枕に、名のない男は筵を夜具にすましている。
「ははあ。起きてもさしつかえないのか」
「先ほどからのわたしどもの会話(はなし)耳にはいりましたか」
「うむ。刀のところまで聞いた。あとは知らぬ。おもしろそうなはなしだったな」
「あの、しからば、刀のことを――?」
「さよう。悪かったかな?」
 栄三郎の眼がけわしい光をおびてくる。
「いくら悪くても、もう聞いてしまったのだからいたしかたあるまい」男は平気だ。「それより、あんたにはほかに助力がなければ、わしが手をかしてもいいと思っておる。が、密事を知ったが肯(うなず)かれんと言うならどうとも勝手にするがよい。第一よその家へ断りもなしにはいりこむほうがふとどきだ」
「なに? 助力を? はははははは」
 栄三郎は膝をうって不敵に笑った。すると男は、
「そうだ。おれの助太刀がほしければ、ひとこと頼むと頭をさげろ」
「何を無礼な!」かっとなった栄三郎、「いわせておけばすきな熱を! 誰が頼むものかッ」
「頼まぬ? そうか」
 男がにっこりすると、白い歯がちかときらめく。
「そうか。頼まぬか。それなら一つ、おれから頼んで一肌(はだ)ぬがせてもらおうかな」
「…………?」
「いや、なに、人に頭をさげぬ人にはわしが頭をさげたい。援助を頼まぬというところがたのもしい」
 と首を伸ばしてお艶をのぞきながら、
「御新造(ごしんぞ)、小才子(しょうさいし)のはびこるこの世に、あんたあ珍しい大魚を釣り上げましたなあ、でかした、でかした! はっははは、大事にしてあげなさい」
 御新造――と呼ばれて火のようになったお艶も、何かしら胸にこみあげる感激に突如眼のうちが熱くなって栄三郎の背に顔を押しつけた。
 栄三郎は、のめるようにどたりと板に手をついて、
「先刻からの無礼、平におゆるしありたい。改めてお力添えお願い申す」
「承知した! が、それでは痛み入る。まずお手を、ささ、手を上げられい」
「さだめし世に聞こえし隠者(いんじゃ)、御尊名は?」
「隠とは隠れた者、ところがこのとおりどこにでも現われる。名か。そいつは……」
 と口ごもったから、また名のない男と答えるかと思うと、
「蒲生泰軒(がもうたいけん)と申す」
「してただいま、人の家へ断りなしに――と言われましたが、お住いは?」
「困ったな。この舟でござる――いや、べつにこの舟とは限らん。いつもここらにつないである舟はすべてわしの宿だ。ははははは、天(あめ)が下(した)に屋根のない気楽な身分。わしに用のある時は、この首尾の松の下へ来て、川へ石を――さようさ三つほうることに決めよう。石を三つ水に投げれば、どの舟からかわしが起き上がる……」
 と、この時!
 ぐらぐらと舟が傾いて、お艶は危なく栄三郎に取りすがったが、ふしぎ! 流潮(ながれ)に乗って張りきったもやいの綱を岸でたぐるものがあるらしく、あっというまに舟が石垣にぶつかったかと思うと、頭の上に多人数の跫音(あしおと)が乱れ立って、丹下左膳のどら声が河面(かわも)を刷(は)いた。
「おいッ! 乾雲が夜泣きをしてしようがねえから、片割れをもらいに来たんだ。へッ、坤竜丸よ。おいでだろうな、そこに!」
 河も岸も空も、ただ一色の墨。
 その闇黒が凝(こ)って散らばったように、二十にあまる黒法師が、堀をはさんで立つ松の木下にピタッと静止していた。
 左膳、源十郎を頭に、本所化物屋敷の百鬼が、深夜にまぎれて群れ出てきたのだ。
 文字どおり背水の陣。
 岸のふち、舟板を手にのっそりと構える蒲生泰軒に押し並んで、諏訪栄三郎は、もうこころ静かに武蔵太郎安国の鞘を払っていた。われにもなくまつわり立つお艶の身を、微笑とともにそっと片手でかばいながら、
「てめえ達が上陸(あが)るまでは斬らねえから安心してここまで来い」
 という左膳のことばを笑い返して、手を貸しあって小舟を離れた三人だった。
 うしろは大川。石垣の下の暗い浪にもまれて、ひたひたと船底の鳴る音がする。
 前面と左右をぐるりと囲んだ影に、一線ずつ氷の棒があしらわれて見えるのは、いうまでもなくひた押しに来る青眼陣の剣林だ。
 寂として、物みな固化(こか)したよう。
「逃げるくふうを……ね! ごしょうですから逃げるくふうを――」
 お艶の熱声を頬に感じて、栄三郎はちらと泰軒を見やった。
 あがりぎわに一枚引きめくって来た艫(とも)の板をぶらさげて、泰軒は半眼をうっとりと眠ってでもいるよう……自源流(じげんりゅう)水月(すいげつ)の相(すがた)。
 すると! 声がした。
「若えの! 行くぜ、おいッ!」
 左膳だ。
 と、味方の声につられたか、吸われるように寄ってきた黒妖(こくよう)の一つ、小きざみの足から、
「――――!」
 無言のまま跳躍にかかろうとするところを! 同じく、無韻(むいん)の風を起こして撃発した栄三郎の利剣が無残! ザクッと胴を割ったかと見るや、左足を踏み出して瞬間刀を預けていた栄三郎、スウッ! とねばりつつ引き離すが早いか、とっさに右転して、またひとりうめき声とともに土をつかませた。
 が、この時すでに、銀星上下に飛んで、三人は一度にまんじの闘渦(とうか)に没し去っていた。
 この騒ぎをよそに、鈴川源十郎はすこし離れて、何かお藤とささやきかわしていたが、刀下をかいくぐって木かげに転びついたお艶の、闇に慣れた瞳に映じたのは、彼女の初めて見る恋人栄三郎であった。
 あの、やさしく自分を抱いてくれた手が血のたれる大刀を振りかぶって、チラチラと左右へ走らせる眼には、冷々たる笑いをふくんでいる。
「泰軒先生ッ!」
「おう……そら! うしろへまわったぞ、ひとり!」
 いつしか二手に別れて、板一枚で一団を引き受けている蒲生泰軒、伸び上がり、闇をすかして、群らがり立つ頭越しに声をかける。
 さながら何かしら大きな力が戦機をかき乱しては制止するようだ――。
 ひとしきり飛び違えてはサッと静まり、またひと揺れもみ渡ってはそのまま呼吸をはかりあう。
 そのたびに一人ふたり、よろめきさがるもの、地に伏さって鬼哭(きこく)を噛(か)む者。
 飛肉骨片。鉄錆(てつさび)に似た生き血の香が、むっと河風に動いて咽(む)せかえりそう……お艶は、こみあげてくる吐き気をおさえて、袂(たもと)に顔をおおった。
 が、見よ!
 神変夢想流の鷹(たか)の羽(は)使い――鷹の翼を撃つがごとく、左右を一気に払って間髪(かんぱつ)を入れない栄三郎、もはや今は近よる者もないと見て、
「お艶! どこにいる?」
 と刃影のなかからさけぶと、
「はい。ここにおります。――」
 答えかけたお艶の口は、いつのまにか忍んできた手に、途中でうしろからふさがれてしまったが、そのかわりに剣魁(けんかい)丹下左膳の声が、真正面から栄三郎を打った。
「なかなかやるなあ、おい! 手をふけよ、血ですべるだろう」
 栄三郎は、にっと笑って片手がたみに胴(どう)わきへこすった。あとの手が柄へ返る。
 同時に、
 一閃(せん)した左膳の隻腕、乾雲土砂を巻いて栄三郎の足を! と見えたが、ガッシ! とはねた武蔵太郎の剣尾(けんび)に青白い火花が散り咲いて、左膳の頬の刀痕(とうこん)がやみに浮き出た……と思うまに、
「うぬ! しゃらくせえ!」
 おめきたった左膳が、ふたたび虎乱(こらん)に踏みこもうとするとき、空を裂いて飛来した泰軒の舟板が眼前に躍った。
「なんでえ! これあ――」
 と左膳の峰(みね)打ちに、板はまっぷたつに折れて落ちるとたんに!
「舟へ!」
 という泰軒の声。
 見ると、女の影が一つの舟へころがりこむところだ。
 おお! お艶は無事でいてくれた!
 と思うより早く栄三郎も泰軒につづいて舟へとんで、追いすごして石垣から落ちる二、三人の水煙りのなかで、栄三郎がプッツリと艫綱(ともづな)を切って放すと、岸にののしる左膳らの声をあとに、満々たる潮に乗って舟は中流をさした。

 二、三人水中に転落したが、一同とともにあやうく石垣の上に踏みとどまった左膳、
「おい、逃げるてえ法(ほう)があるかッ! この乾雲は汝の坤竜にこがれてどこまでも突っ走るのだ。刀が刀を追うのだからそう思え!」
 と遠ざかる小舟に怒声を送って、あわただしく左右を見まわした時は、どうしたものか、源十郎とお藤の姿はそこらになかった。
 闇黒(やみ)をとかして、帯のように流れる大川の水。
 両岸にひろがる八百八町を押しつけて、雨もよいの空はどんよりと低かった。
 独楽(こま)のように傾いてゆるく輪をえがきながら、三人を乗せた舟は見る見る本流にさしかかる――。
 ギイッ……ギイ! 艪(ろ)べそがきしむ。
 胴のまにあったのをさっそく水へおろして、河風に裾をまかせた泰軒が、船宿の若い衆そこのけの艪さばきを見せているのだった。
「あんたはいい腕だ」
 と栄三郎をかえりみて、
「よく伸びる剣だ。神変夢想(しんぺんむそう)久しく無沙汰をしておるが、根津あけぼのの里の小野塚老人、あれの手口にそっくりだな」
 手拭をぬらして返り血をおとしていた栄三郎、思わず、
「おお! では鉄斎先生を御存じ――」
 せきこんだ声も、風に取られて泰軒へ届かないらしく、
「しかし、あの隻腕の浪人者、きゃつはどうして荒い遣(つか)い手だて」
 泰軒がつづける。
「あんたよりは殺気が強いしそれに左剣にねばりがある。まず相対(あいたい)では四分六、残念ながらあんたが四で先方が六じゃ。ははははは、いやよくいって相討(あいう)ちかな――お! 見なさい。来おるぞ、来おるぞ!」
 言われて、お米蔵の岸を望むと、左膳の乾雲丸であろう。指揮をくだす光身が暉々(きき)として夜陰に流れ、見るまに石垣を這(は)いおりて、真っ黒にかたまり合った一艘の小舟が、艪音(ろおと)を風に運ばせて矢のように漕いでくる。
「来い、こい! こっちから打ちつけてもよいぞ」と哄笑(こうしょう)した泰軒、上身をのめらせ、反(そ)らせ大きく艪を押し出した。
 と、生温い湿気がサッと水面をなでて……ポツリ、と一滴。
「雨だな」
「降って来ました」
 言っているうちに、大粒の水がバラバラと舟板を打ったかと思うと、ぞっと襟元が冷え渡って、一時に天地をつなぐ白布(はくふ)の滝(たき)河づらをたたき、飛沫(しぶき)にくもる深夜の雨だ。
 お艶は? と見ると、舟に飛びこんだ時から舳先(へさき)につっ伏したきり、女は身じろぎもしないでいる。濡れる! と思った栄三郎が、舟尻(とも)の筵(むしろ)を持って近づきながら、
「驚いたろう? 気分でも悪いか。さ、雨になったからこれをきて、もうしばらくの辛抱(しんぼう)だ……」
 と抱き起こそうとすると、
「ほほほほ! なんてまあおやさしい。すみませんねえ、ほんとに」
 という歯切れのいい声とともに栄三郎の手を払って顔をあげたのを見れば!
 思いきや――お艶ではない!
「やッ! だ、誰だお前は?」
「まあ! 怖(こわ)い顔! 誰でもいいじゃないの。ただ当り矢のお艶さんでなくてお気の毒さま」
 櫛まきお藤は白い顔を雨に預けて、鉄火(てっか)に笑った。
「でも、御心配にはおよびますまいよ、今ごろはお艶さんは、本所の殿様の手にしっくり抱かれているでしょうからねえ。ほほほ、身代りに舟へとびこんで、ここまで出てきたのはいいけれど、あたしゃ馬鹿を見ちゃった。この雨さ。とんだ濡れ場(ば)じゃあ洒落(しゃれ)にもなりゃしない……ちょいと船頭さん、急いでおくれな」
 あッ! お艶はさらわれたのだ――栄三郎はよろめく足を踏みこらえて、声も出ない。
 立て膝のお藤、舟べりに頬杖(ほおづえ)ついて、
「ねえ、ぼんやり立ってないで、どうするのさ! あたしが憎けりゃ突くなり斬るなり勝手におしよ――それより、どなたか火打ちを? でも、この降雨(ふり)じゃあ駄目か。ちッ! 煙草(たばこ)一つのめやしない」
 斬ったところで始まらぬ……泰軒と栄三郎が顔を見合わせていると突如! 垂れこめる銀幕をさいて現われた左膳の舟が! ドシン! と横ざまにぶつかるが早いか、抜きつれた明刀に雨脚を払って一度に斬りこんで来た。
 艪(ろ)を振りあげた泰軒、たちまち四、五人に水礼をほどこす。栄三郎にかわされた土生(はぶ)仙之助も、はずみを食って水音寒く川へのめりこんだ。
 沛然(はいぜん)たる豪雨――それに雷鳴さえも。
 きらめく稲妻のなかに、悪鬼のごとき左膳の形相(ぎょうそう)をみとめた栄三郎、
「汝(な)れッ! 乾雲か。来いッ!」
 とおめいたが、妙なことには相手は立ち向かうようすもなく、落ちた連中を拾いあげると、こっちの舟へ一竿つっぱって倉皇として離れてゆく。
 瞬間、蒼い雲光で見ると、騒ぎを聞きつけた番所がお役舟を出したとみえて、雨に濡れる御用提灯の灯が点々と……。
 いつのまに乗り移ったか、櫛まきお藤が去りゆく舟に膝を抱いて笑っていた。
「坤竜、また会おうぜ」
 雨に消える左膳の捨てぜりふ。
「お艶ッ! どこにいる!」
 としみじみ孤独を知った栄三郎が、こう心中に絶叫したとき、泰軒が艪に力を入れて、舟が一ゆれ揺れた。

「いや。先ほどから申すとおり、栄三郎のことなら聞く耳を持ちませぬ――」
 主人はぶっきら棒にこう言って、あけ放した縁の障子から戸外へ眼をやった。
 金砂のように陽の踊る庭に、苔(こけ)をかぶった石燈籠(いしどうろう)が明るい影を投げて、今まで手入れをしていた鉢植えの菊(きく)が澄明(ちょうみょう)な大気に香(かお)っている。
 午下(ひるさが)りの広い家には、海の底のようなもの憂(う)いしずかさが冷たくよどんでいた。
 カーン……カーン! ときょうも近所の刀鍛冶で鎚(つち)を振る音がまのびして聞こえる。
 長閑(のどか)。
 その音を数えるように、主人はしばらく空をみつめていたが、やがてほろにがい笑いをうかべると、思い出したようにあとをつづけた。
「なるほど。それは、わたくしに近ごろまで栄三郎とか申す愚弟(ぐてい)がひとりあるにはありましたが、ただいまではあるやむなき事情のために勘当(かんどう)同様になっておりまして、言わばそれがしとは赤の他人。どうぞわたくしの耳に届くところであれの名をお口へのぼされぬよう当方からお願い申したい」と結んだ主人は、折から縁の日向(ひなた)におろしてある鳥籠に小猫がじゃれているのを見ると、起(た)って行って猫を追い、籠を軒(のき)に吊るしておいて座に帰った。
 諏訪(すわ)栄三郎の兄、大久保藤次郎(おおくぼとうじろう)である。
 あさくさ鳥越(とりごえ)の屋敷。
 その奥座敷に、床ばしらを背に沈痛な面もちで端坐している客は、故小野塚鉄斎の従弟(いとこ)で、鉄斎亡きこんにち、娘の弥生(やよい)を養女格にひきとって、何かと親身に世話をしている麹町(こうじまち)三番町の旗本土屋多門(つちやたもん)であった。
「しかし、その御事情なるものが」藤次郎のしとねになおるのを待ってきり出した多門は、いいかけてやたらに咳ばらいをした。「いや、くわしいことはいっこうに存じませぬが、その、あの、下世話(げせわ)に申す若気のあやまち――とでもいうようなところならば、はっはっは、私が栄三郎殿になりかわってこの通りお詫びつかまつるゆえ、一つこのたびだけはごかんべんのうえ――」
「いやいや、初対面の貴殿におとりなしを受ける筋はござらぬ」
「ま、そう申されてはそれだけのものだが……」
「わざわざ御自身でおいでくだされて、あの痴(うつ)け者を婿養子(むこようし)にとのお言葉さえあるに、恐れ入ったただいまの御仕儀(ごしぎ)。これが尋常(よのつね)の兄じゃ弟じゃならば、当方は蔵前取りで貴殿は地方(じがた)だ。ゆくゆくお役出でもすれば第一にあれにとって身のため、願ってもない良縁と、私からこそお頼み申すところだが、さ、それが兄のわたくしの心としてそうは参らぬというものが、全体この話は、じつを申せば当家の恥、それがしの家事不取締りをさらすようなことながら、さて、いわば御合点(ごがってん)がゆくまいし……心中察しくだされたい」
「はて、栄三郎殿がどのようなことをなされたかな?」
「口にするもけがらわしいが、お聞きくだされ、三社前の茶屋女とかにうつつを抜かし――」
 ちょっと多門の顔色が動いたが、すぐに笑い消して、
「ははははは、何かと思えば、お若い方にはありがちな――貴殿にも、似よった思い出の一つ二つ、まんざらないこともござるまい。いや、これは失礼!」
「のみならず、栄三郎め、その女に貢(みつ)ぐ金に窮して、いたし方もあろうに蔵宿から騙(かた)り盗(と)った! 用人白木重兵衛がそのあとへ行って調べて参りました」
 部屋住みの分け米が僅少なことを察してやれば、ちょいと筆の先で帳面をつくろってすむのに、なんという気のきかない用人だろう! 多門が黙っていると、藤次郎は語をつないで、
「それからこっち、とんと屋敷にもいつきませぬ。先夜も雨中の大川に多人数の斬り合いがあって、船番所から人が出たそうだが、栄三郎もどこにどうしているかと……いや、なんの関係もない者、思ってみたこともござらぬ。はははは」
 多門は思わずうつむいた。
「割ってのお話、よくわかりました。が、それでもなお、私としてはなんとしても栄三郎殿を養子に申し受けたい。というのが……お笑いくださるな」
「なんでござる?」
「その栄三郎の嫁となるべき当方の娘――」
「ははあ、弥生どのとか申されましたな」
「それが命がけの執心で、そばで見ているそれがしまで日夜泣かされます」
「あの、うちの栄三郎めに?」
「仮りにも親となっている身、弥生の心を思いやるといてもたってもおられませぬ。御推量(すいりょう)あってひとこと栄三郎どのを私かたへ――」
「いや。百万言をついやしても同じこと。彼のごとき不所存者を差しあげるなど思いもよりませぬ」
「これほどその不所存者が所望じゃと申しても?」
「いささかくどうはござらぬか。ご辞退申す」
「よろしい! だが、大久保氏、さっき赤の他人といわれたことをお忘れあるまいな、赤の他人なら本人しだいで貴殿にはなんの言い分もないはず」
「むろん、御勝手じゃ!」
 決然と畳を蹴立(けた)てた多門へ、ひしゃげたような藤次郎の声が追いすがった。
「土屋氏!」
「なんじゃ?」
「貴殿栄三郎に会わるるか」
「会うても仔細(しさい)あるまいが!」
「会うたら……おうたら、兄が達者で暮らせといったとお伝えください」
 プイと横を向いた藤次郎の眼に何やら光ったもののあったのを多門は見た。
 夕映えの空に、遠鳴りのような下町のどよめきが反響(こだま)して、あわただしいなかに一抹(いちまつ)の哀愁をただよわせたまま、きょうも暮れてゆく大江戸の一日だった。
 麹町三番町の屋敷まちには、炊(かし)ぎのけむりが鬱蒼(うっそう)たる樹立ちにからんで、しいんと心耳(しんじ)に冴えわたるしずけさがこめていた。
 たださえ、人をこころの故郷(ふるさと)に立ち返らさずにはおかない黄昏(たそがれ)どき……まして、ものを思う身にはいっそう思慕の影を深める。
 うっすらとした水色が、もう畳を這っているのに、弥生はこの土屋多門方の一間(ひとま)に身動きもしないで、灯を入れるしたくをすら忘れて見えるのだった。
 庭前の山茶花(さざんか)が紅貝(べにかい)がらのような花びらを半暗(はんあん)に散らしている。
 ふと顔をあげた弥生は、思いがけない運命の鞭(むち)を、あまりにもつぎつぎに受けたせいであろうか、しばらくのあいだに頬はこけ肩はげっそりと骨ばって、世のけがれを知らなかったつぶらな眼もくぼみ、まるで別人のようないたいたしいすがたであった。
「ああ――」
 思わず洩れる吐息(といき)が、すぐと力ない咳に変わって、弥生は袂(たもと)に顔を押し包んで、こほん! こほん! とつづけざまに身をふるわせた。
 このごろ胸郭(むね)が急にうつろになって、そこを秋風が吹くような気がする。ことに夕方は身もこころも遣瀬(やるせ)なく重い。弥生はいつしか肺の臓をむしばまれて、若木の芽に不治の病(やまい)をはびこらせつつあったのだ。
 心の荷を棄てねば快(よ)くならぬ。
 とそれを知らぬ弥生ではなかったが、思っても、思っても、思ってもなお思いたりない栄三郎様をどうしよう!
 こうして叔父多門方に娘分として引き取られているいま、寸刻も弥生のこころを離れないのは、父鉄斎の横死(おうし)でもなく、乾坤(けんこん)二刀の争奪でもなく、死んでも! と自分に誓った諏訪栄三郎のおもざしだけだった。
 もとより、父の死は悲しともかなしい。そしてその仇敵は草を分けても討たねばならぬ。
 夜泣きの刀も、言うまでもなく、万難を排してわが手へとりもどすべきであるが……。
 その仇を報じ、その宝刀をうばい返してくださるのが、やっぱりあの栄三郎さまではないか。
 強い、やさしい栄三郎さま!
 こう思うと、今この身の上も、もとはと言えば、すべてあの人が自敗を選んだことから――とひややかに理を追ってみても、弥生はすこしも栄三郎を恨む気になれないどころか、ますますかれを自分以外のものとして考えることができなくなるのだった。
 剣に鋭かった亡父(ちち)の気性を、弥生はそのまま恋に生かしているのかも知れない。はじめて男を思う武士の娘には、石をもとかす焦熱慕念(しょうねつぼねん)のほか、何ものもなく、ひとりいて栄三郎さま! と低声(こごえ)に呼べば、いつでもしんみりと泣けてくるのが、自らおかしいほどだった。
 この純情を察して、きょうこっそりと叔父の多門が、鳥越の栄三郎の実家へ養子の掛け合いに行ったことは、弥生もうすうす感づいているが――そのためか、この高鳴る胸はなんとしたものであろう?
 霜に悩む秋草のように、ほっそりとやつれた弥生が、にわかに暗くなったあたりに驚いて、行燈(あんどん)をとりに立とうとした時、ちょうど眼のまえの空に、天井(てんじょう)から糸を垂れて降りてきた一匹の子蜘蛛(こぐも)を見つけた。弥生が懐紙(かいし)で上部を払うと、蜘蛛は音もなく畳に落ちたが、同時に、あわてて逃げようとする。
 夜の蜘蛛は親と思っても殺せ――それとも昼の蜘蛛だったかしら?
 と弥生が迷っているうちに子蜘蛛は、しすましたり! と懸命に這ってゆく。
 その小さな努力が珍しく弥生をほほえませた。
「そんなに急いでどこへ行くのこれ、お前には心配もなにもなくていいね」
 こう言って弥生が往手(いくて)をふさぐと、蜘蛛はすこしためらったのち、すぐ右へ抜けようとする。弥生が右へ手をやる。蜘蛛は左に出ようとあせる。弥生の手が先をおさえる。思案にくれた蜘蛛は、弥生の手にかこまれて神妙にすくんだ。
「ほほほほ、そう! ね、じっとしておいで、じっと!」
 と弥生がさびしく笑ったとき、玄関に駕籠がおりたらしく出迎えの声がざわめいて、まもなく、女中のささげる雪洞(ぼんぼり)が前の廊下を過ぎるとつづいて土屋多門が、用人をしたがえて通りかかった。
 やみに手を突いて頭をさげた弥生の眼にうつったのは、板廊を踏んでゆく白足袋と袴(はかま)の裾だけだったが、わざと弥生に聞かせる気の多門の大声が、しきりにうしろの用人を振り返っていた。
「世にずいぶんと男は多い。しかるに、一人に心をとられて、他が見えぬとは狭いぞ! もしまたそのひとりが水茶屋ぐるいでもしおったらいかがいたす? な、そうであろう。はははは」
「御意(ぎょい)にございます」用人は何がなにやらわからずに答えている。
 はっとして突っ立った弥生は、じぶんの踵(かかと)の下で、いまの蜘蛛がぶつッ! と音がしてつぶれたのを知らなかった。

「大作」
 と次の間へ声をかけながら、大岡越前(おおおかえちぜん)は、きょう南町奉行所から持ち帰った書類を、雑と書いた桐(きり)の木箱へ押しこんで、煙管(きせる)を通すつもりであろう。反古(ほご)を裂いて観世縒(かんぜよ)りをよりはじめた。
 夕食後、いつものようにこの居間にこもって、見残した諸届け願書の類に眼を通し出してから、まださほど刻(とき)が移ったとも思われないのに、晩秋(ばんしゅう)の夜は早く更(ふ)ける。あけ放した縁のむこうに闇黒(やみ)がわだかまって、ポチャリ! とかすかに池の鯉のはねる音がしていた。
 越前守忠相(ただすけ)は、返辞がないのでちょっと襖(ふすま)ごしに耳をそばだてたが、用人の伊吹(いぶき)大作は居眠ってでもいるとみえて、しんとして凝(こ)ったようなしずけさだ。
 ただ遠くの子供部屋で、孫の忠弥(ちゅうや)が乳母に枕でもぶつけているらしいざわめきが、古い屋敷の空気をふるわせて手に取るように聞こえる。
「小坊主め、また寝しなにさわぎおるな」
 という微笑が、下ぶくれの忠相の温顔を満足そうにほころばせた時、バタバタと小さな跫音(あしおと)が廊下を伝わってきて、とんぼのような忠弥の頭が障子のあいだからおじぎをした。
「お祖父(じい)ちゃま、おやすみなちゃい」
 忠相が口をひらく先に、忠弥は逃げるように飛んで帰ったが、その賑(にぎや)かさにはっとして隣室につめている大作が急にごそごそしだすけはいがした。
「大作、これよ、大作」
「はッ」
 と驚いて大声に答えた伊吹大作、ふすまを引いてかしこまると、大岡越前守忠相はもうきちんと正座して書台の漢籍(かんせき)に眼をさらしている。
「お呼びでござりますか」
「ああ。わしにかまわずにやすみなさい」忠相の眼じりに優しい小皺(こじわ)がよる。「わしはまだ調べ物もあるし読書もしたい……だがな、大作――」
 と肥った身体が脇息(きょうそく)にもたれると、重みにきしんでぎしと鳴った。
「さきほど役所で見ると、浅草田原町三丁目の家主喜左衛門というのから店子(たなこ)のお艶、さよう、三社まえの掛け茶屋当り矢のお艶とやら申す者の尋(たず)ね書が願い立てになっておったが、些細(ささい)な事件ながら、越前なんとなく気にかかってならぬ。いや、奉行の職義から申せば市井(しせい)の瑣事(さじ)すなわち天下の大事である。そこで大作、この婦人の失踪に関連して何ごとかそのほうに思いあたる節(ふし)はないかな?」
「さあ、これと申してべつに……」
 大作は面目なさそうに首をひねった。すると忠相は何かひとくさり低音に謡曲(うたい)を口ずさんでいたが、やがて気がついたようになかば独(ひと)りごちた。
「――あの櫛まきのお藤と申す女、かれはもと品川の遊女で、のち木挽(こびき)町の芝居守田勘弥(かんや)座の出方(でかた)の妻となったが、まもなく夫と死別し、性来の淫奔大酒(いんぽんたいしゅ)に加うるにばくちを好み、年中つづみの与吉などというならずものをひきいれて、二階は常賭場(じょうとば)の観を呈しておることはわしの耳にもはいっておる。それのみではない。ゆすり騙(かた)りとあらゆる悪事を重ねて、かれら仲間においても、なんと申すか、ま、大姐御(おおあねご)である。それはそれとして、このお藤は、先年来十里四方お構いに相成りおるはずなのが、目下江戸府内(ふない)に潜入しておる形跡(けいせき)があると申すではないか」
 いつものことだが、主君越前守の下賤(げせん)に通ずる徹眼(てつがん)、その強記にいまさらのごとくおどろいた大作、恐縮して顔を伏せたまま、
「おそれながら例によって墓参を名とし、ひそかにはいりこみおるものかと存ぜられまする」
「さよう。まずそこらであろう……が、お藤が江戸におるとすれば、このたび喜左衛門店のお艶なる者が誘拐されたこととなんらの関係が全然(まるで)ないとは思えぬ。ま、これは、ほんのわしのかんにすぎんが、今までもお藤には婦女をかどわかした罪条(ざいじょう)が数々ある。してみれば、わしのこの勘考も当たらずといえども遠からぬところであろう。な、そち、そう思わぬか」
「お言葉ごもっともにござりまする。なれど、同心をはじめ江戸じゅうの御用の者ども、何を申すにもただいまはあの辻斬りの件に狂奔(きょうほん)しておりまして――」
 大作がこう申しあげて顔色をうかがうと、前面の庭面を見つめてふっと片手をあげた大岡越前、事もなげに大作を振り返って、
「評判の袈裟(けさ)掛けの辻斬りか……うむ、もうよいから引き取りなさい。わしも寝所へ入るとしましょう」
 と言ったが立ちあがりもしない。
 府内を席捲(せっけん)しつつある袈裟掛けの闇斬(やみぎ)り!
 それよりも、なにか庭に、自分に見えない物が、主人の瞳にだけうつるらしいのが大作には気になったが、ほとんど命令するような忠相の口調におされて、平伏のままかれは座をさがったのだった。

 用人の伊吹大作が唐紙に呑まれて、やがて跫音の遠ざかるのを待っていた忠相は、灯(あか)りを手に、つとたちあがって縁に出ると、庭のくらがりを眼探(まさぐ)って忍びやかに呼びかけた。
「蒲生(がもう)か――泰軒(たいけん)であろう、そこにいるのは」
と、沓脱(くつぬ)ぎから三つ四つむこうの飛び石の上に、おなじく低い声があった。
「何やら役向きの話らしいから遠慮しておった。じゃまならこのまま帰る」
いい捨てて早くもきびすを返そうとするようすに、忠相はあわてて、
「遠慮は貴様の柄でないぞ、ははははは、なにじゃまなものか。ひさしぶりだ。よく来たな。さ、誰もおらん。まあ、こっちへあがれ」
 満腹の友情にあふれる笑い口から誘われて、ぬっと手燭(てしょく)の光野へ踏みこんできた人影を見ると……つんつるてんのぼろ一枚に一升徳利。
 この夜更けに庭からの訪客はなるほど蒲生泰軒をおいてあり得なかった。
 泥足(どろあし)のまま臆(おく)するところもなく自ら先に立って室内へ通った泰軒居士(こじ)、いきなり腰をおろしながらひょいと忠相の書見台をのぞいて、
「なんだ? なにを読みおる? うむ、旱雲賦(かんうんぷ)か。賈誼(かぎ)の詩だな――はるかに白雲の蓬勃(ほうぼつ)たるを望めば……か、あははははは」
 とこの豁達(かったつ)な笑いに忠相もくわわって、ともに語るにたる親交の醍醐味(だいごみ)が、一つにもつれてけむりのように立ちこめる。
 裾をたたいて着座した南町奉行大岡越前守忠相。
 野飼いの奇傑(きけつ)蒲生泰軒は、その面前にどっかと大あぐらを組むと、ぐいと手を伸ばして取った脇息を垢(あか)じみた腋(わき)の下へかいこんで、
「楽(らく)だ」
 光沢(つや)のいい忠相の豊頬(ほうきょう)にほほえみがみなぎる。
「しばらくであったな」
「まったくひさしぶりだ」
 で、またぽつんと主客眼を見合って笑っている。多く言うを要しない知己(ちき)の快(こころよ)さが、胸から胸へと靉靆(あいたい)としてただよう。
 夜風にそっと気がついて、忠相は立って行って縁の障子をしめた。帰りがけに泰軒のうしろをまわりながら、
「痩(や)せたな、すこし」
「俺か……」と泰軒は首すじをなで、「何分餌(えさ)がようないでな、はははは。しかし、そういえば、このごろおぬし眼立って肥った。やはり徳川の飯はうまいとみえる」
 越前はいささかまぶしそうに、
「相変わらず口が悪いな。どこにおるかと案じておったぞ」
「どこにもおりゃせん。と同時に、どこにでもおる。いわば大気じゃな。神韻(しんいん)漂渺(ひょうびょう)として捕捉しがたしじゃ――はははは、いや、こっちは病知らずだが、おぬしその後、肩はどうだ? 依然として凝(こ)るか」
「なに、もうよい。さっぱりいたした」
「それは何より」
「互いに達者で重畳(ちょうじょう)」
 ふたりはいっしょにぴょこりと頭をさげあって、哄然(こうぜん)と上を向いて笑った。
 が、泰軒は忠相の鬢(びん)に、忠相は泰軒のひげに、初霜に似た白いものをみとめて、何がなしにこころわびしく感じたのであろう。双方(そうほう)ふっと黙りこんで燭台の灯影に眼をそらした。
 中間部屋(ちゅうげんべや)に馬鹿ばなしがはずんでいるらしく、どっと起こる笑い声が遠くの潮騒(しおさい)のように含んで聞こえる。
 秋の夜の静寂は、何やら物語を訴うるがごとくその縷々(るる)たる烏有(うゆう)のささやきに人はともすれば耳を奪われるのだった。
 対座して無言の主客。
 一は、いま海内(かいだい)にときめく江戸南町奉行大岡越前守忠相。他は、酒と心中しよか五千石取ろかなんの五千石……とでも言いたい、三界(がい)無宿(むしゅく)、天下の乞食先生蒲生泰軒。
 世にこれほど奇怪な取りあわせもまたとあるまい。しかも、この肝胆(かんたん)あい照らしたうちとけよう。ふしぎといえばふしぎだが、男子刎頸(ふんけい)の交わりは表面のへだてがなんであろう。人のきめた浮き世の位、身の高下がなんであろう! 人間忠相に対する人間泰軒――思えば、青嵐(せいらん)一過して汗を乾かす涼しいあいだがらであった。
 とは言え。
 大岡さまの前へ出て、これだけのしたい三昧(ざんまい)……巷の一快豪(かいごう)蒲生泰軒とはそも何者?

   いすず川

「貴様、どこからはいりおった? 例によってまた塀を乗りこえて来たのか」
 忠相(ただすけ)はこう眼を笑わせて、悠然と髯(ひげ)をしごいている泰軒を見やった。
 泰軒の肩が峰のようにそびえる。
「べつに乗り越えはせん。ちょっとまたいできた、はははは甲賀流忍術(こうがりゅうにんじゅつ)……いかなる囲みもわしにとけんということはないて、いや、これは冗談だが、こうして夜、植えこみの下を這ってきて奉行のおぬしに自ままに見参するなんざあ、俺でなくてはできん芸当であろう」
「うむ。まず貴様ぐらいのものかな。それはいいが」
 と越前守忠相の額に、ちらりと暗い影が走ると、かれはこころもち声をおとして、「手巧者(てこうしゃ)な辻斬りが出おるというぞ。夜歩きはちと控えたがよかろう」
 すると泰軒、貧乏徳利を平手でピタピタたたきながら、
「噂(うわさ)だけは聞いた。袈裟掛(けさが)け――それも、きまって右肩からひだりのあばらへかけて斜め一文字に斬りさげてあるそうではないか。一夜に十人も殺されたとは驚いたな。もとより腕ききには相違ないが――」
「刀も業物(わざもの)、それは言うまでもあるまい。武士、町人、町娘、なんでもござれで、いや無残な死にざまなそうな。だが、一人の業(わざ)ではないらしい。青山、上野、札(ふだ)の辻(つじ)、品川と一晩のうちに全然方角を異(こと)にして現われおる。そのため、ことのほか警戒がめんどうじゃ」
「うん。いまも来る途中に、そこここの木戸に焚き火をして固めておるのを見た。しかし、おぬしは数人の仕事だというが、おれは、切れ味といい手筋といい、どうも下手人は一人としか思えぬ」
「はて何か心当りでもあるのか」
「ないこともない」
 と泰軒は言葉を切って、胸元から手を差しこんでわき腹をかいていたが、
「いいか。おぬしも考えてみろ……右の肩口から左の乳下へ、といえば、どうじゃな、その刀を握るものは逆手(さかて)でなくてはかなうまい?」
「ひだりききとは当初からの見こみだが、江戸中には左ききも多いでな」
「そこで! 百尺竿頭(しゃくかんとう)一歩を進めろ!」
 どなるように泰軒がいうと、忠相はにっこりして大仰(おおぎょう)に膝を打った。
「いや、こりゃまさに禅師(ぜんじ)に一喝(かつ)を食ったが、いくら江戸でも、左腕の辻斬りがそう何人もいて、みな気をそろえて辻斬りを働こうとも考えられぬ」
「だから、おれは初めから、これは隻腕の一剣客が闇黒(やみ)に左剣をふるうのかも知れぬといっておるではないか」
「ふうむ。なるほど、一理あるぞこれは! して、何奴(なにやつ)かな、その狂刃の主(ぬし)は?」
「まあ待て。今におれが襟がみ取って引きずって来て面を見せてやるから」
 大笑すると、両頬のひげが野分(のわき)の草のようにゆらぐ、忠相は心配そうな眼つきをした。
「また豪(えら)そうな! 大丈夫か。けがでもしても知らんぞ」
「ばかいえ、自源流(じげんりゅう)ではまず日本広しといえどもかく申す蒲生泰軒の右に出る者はあるまいて」
 言い放って袖をまくった泰軒、節(ふし)くれだった腕を戞(かっ)! と打ったまではいいが、深夜の冷気が膚にしみたらしく、その拍子にハアクシャン! と一つ大きなくしゃみをすると、自分ながらいまの稚心(ちしん)がおかしかったとみえ、
「新刀試し胆(きも)だめしならば一、二度ですむはず……きょうで七、八日もこの辻斬りがつづくというのは、何百人斬りの願(がん)でも立てたものであろうと思われるが――」
 となかば問いかける忠相の話を無視して、かれはうふふとふくみわらいをしながら、勝手に話題を一転した。
「お奉行さまもええが、小うるさい件が山ほどあろうな」
「うむ。山ほどある。たまには今夜のように庭から来て、知恵をかしてくれ」
「まっぴらだ。天下を奪った大盗のために箒(ほうき)一本銭(ぜに)百文の小盗を罰して何がおもしろい?」
 こう聞くと、忠相が厳然とすわりなおした。
「天下は、呉越(ごえつ)いずれが治めても天下である。法は自立だ」
「それが昔からおぬしのお定り文句だった、ははははは」
「越前、かつて人を罰したことはない。人の罪を罰する。いや、人をして罪に趨(はし)らしめた世を罰する――日夜かくありたいと神明に祈っておる」
 泰軒は忠相の眼前で両手を振りたてた。
「うわあ! 助からんぞ! わかった、わかった、理屈はわかった! だがなあ、聞けよおぬし、人間一悟門(ごもん)に到達してすべてがうるさくなった時はどうする? うん? 白雲先生ではないが、旧書をたずさえ取って旧隠(きゅういん)に帰る……」
「野花啼鳥(やかていちょう)一般(いっぱん)の春(はる)、か」
 と忠相がひきとると、ふたりは湧然(ゆうぜん)と声を合わせて笑って、切りおとすように泰軒がいった。
「おぬしも、まだこの心境には遠いな」
 さびしいと見れば、さびしい。
 ことばに懐古の調があった。秋夜孤燈(しゅうやことう)、それにつけても思い出すのは……。
 十年一むかしという。
 秩父(ちちぶ)の山ふところ、武田の残党として近郷にきこえた豪族(ごうぞく)のひとりが、あてもない諸国行脚(あんぎゃ)の旅に出でて五十鈴(いすず)川の流れも清い伊勢の国は度会(わたらい)郡山田の町へたどりついたのは、ちょうど今ごろ、冬近い日のそぼそぼ暮れであった。

 外宮(げくう)の森。
 旅人宿の軒行燈に白い手が灯を入れれば……訛(なま)りにも趣(おもむき)ある客引きの声。
 勢州(せいしゅう)山田、尾上(おのえ)町といえば目ぬきの大通りである。
 弱々しい晩秋の薄陽がやがてむらさきに変わろうとするころおい、その街上(まち)なかに一団の人だかりがして、わいわい罵(ののし)りさわぐ声がいやがうえにも行人(こうじん)の足をとめていた。
 往き倒れだ。
 こじきの癲癇(てんかん)だ。
 よっぱらいだ。
 いろんな声が渦をまく中央に、浪人とも修験者(しゅげんじゃ)とも得体の知れない総髪(そうはつ)の男が、山野風雨の旅に汚れきった長半纒(ながはんてん)のまま、徳利を枕に地に寝そべって、生酔いの本性たがわず、口だけはさかんに泡といっしょに独り講釈をたたいているのだった。酒に舌をとられて、いう言葉ははっきりしないが、それでも徳川の世をのろい葵(あおい)の紋をこころよしとしない大それた意味あいだけは、むずかしい漢語のあいだから周囲の人々にもくみ取ることができた。
 代々秩父の山狭(さんきょう)に隠れ住む武田の残族(ざんぞく)蒲生泰軒。
 冬夜の炉辺(ろへん)に夏の宵の蚊(か)やりに幼少から父祖古老に打ちこまれた反徳川の思念が身に染み、学は和漢に剣は自源(じげん)、擁心流(ようしんりゅう)の拳法(けんぽう)、わけても甲陽流軍学にそれぞれ秘法をきわめた才胆をもちながら、聞き伝えて、争って高禄と礼節をもって抱えようとする大藩諸侯の迎駕(げいが)を一蹴して、飄々然(ひょうひょうぜん)と山をおりたかれ泰軒は、一時京師鷹司(たかつかさ)殿に雑司(ぞうし)をつとめたこともあるが、磊落不軌(らいらくふき)の性はながく長袖(ちょうしゅう)の宮づかえを許さず、ふたたび山河浪々の途にのぼって、まず生を神州にうけた者の多年の宿望をはたすべく、みちを伊勢路(いせじ)にとって流れついたのがこの山田の町であった。
 人に求めるところがあれば、人のためにわれを滅(めっ)する。
 世から何ものをか獲(え)んとすれば世俗に没して真我(しんが)をうしなう。
 といって、我に即すればわれそのものがじゃまになる。
 金も命も女もいらぬ蒲生泰軒――眼中人なく世なくわれなく、まことに淡々として水のごとき一野児であった。
 この秀麗な気概(きがい)は、当時まだひらの大岡忠右衛門といって、山田奉行を勤めていた壮年の越前守忠相の胸底に一脈あい通ずるものがあったのであろう。不屈な泰軒が前後に一度、きゃつはなかなか話せると心から感嘆したのは大岡様だけで、人を観(み)るには人を要す。忠相もまた変物(へんぶつ)泰軒(たいけん)の性格学識をふかく敬愛して初対面から兄弟のように、師弟のように陰(いん)に陽(よう)に手をかしあってきた仲だったが、四十にして家を成(な)さず去就(きょしゅう)つねならぬ泰軒の乞食ぶりには忠相もあきれて、ただその端倪(たんげい)すべからざる動静を、よそながら微笑をもって見守るよりほかはなかった。
 だから、八代吉宗公に見いだされた忠相が、江戸にでて南町奉行の顕職(けんしょく)についたのちも、泰軒はこうして思い出したように訪ねてきては、膝をつき合わしてむかしをしのび世相を談ずる。が、いつも庭から来て庭から去る泰軒は家中の者の眼にすらふれずに、それはあくまでも忠相のこころのなかの畏友(いゆう)にとどまっていたのだった。
 それはそれとして。
 この秋の夜半。
 いま奉行屋敷の奥座敷に忠相と向かいあっている泰軒は、何ごとか古い記憶がよみがえったらしく、いきなり眼をほそくして忠相の顔をのぞいた。
「おぬし、おつる坊はどうした? 相変わらず便(たよ)りがあるか」
 すると老いた忠相が、ちょっと照れたように畳をみつめていたが、
「もう坊でもなかろう。婿(むこ)をとって二、三人子があるそうな。先日、みごとな松茸を一籠(かご)届けてくれた。貴様にもと思ったが分けようにもいどころが知れぬ――」
「なに、おぬしさえ食うてやればおつる坊も満足じゃろうが、お互いにあのころは若かったなあ」
「うむ、若かった、若かった! おれも若かったが、貴様も若かったぞ、ははははは」
 と忘れていた軽い傷痕(きずあと)がうずきでもするように、忠相は寂然(じゃくねん)と腕を組んで苦笑をおさえている。
 泰軒もうっとり思い出にふけりながら、徳利をなでてまをまぎらした。
 怖いとなっているお奉行さまに過ぎし日を呼び起こさせるおつる坊とは?
 話は、ここで再び十年まえの山田にかえる。
 神の町に行き着いたよろこびのあまり、無邪心(むじゃしん)小児のごとき泰軒が、お神酒(みき)をすごして大道に不穏な気焔をあげている時、山田奉行手付の小者が通りかかって引き立てようとすると、ちょうど前の脇本陣茶碗屋の店頭から突っかけ下駄の若い娘が声をかけて出て来た。

 わき本陣の旅籠(はたご)茶碗屋のおつるは、乙女(おとめ)ごころにただ気の毒と思い、役人の手前、その場は知人のようにつくろって、往来にふんぞり返っていばっている泰軒を店へ招(しょう)じ入れたのだった。
 仔細(しさい)ありげな遠国の武士――と見て、洗足(すすぎ)の水もみずからとってやる。
 湯をつかわせて、小ざっぱりした着がえをすすめた、が泰軒はすまして古布子(ふるぬのこ)を手に通して、それよりさっそく酒を……というわがままぶり。
 一に酒、二に酒、三に酒。
 あんな猩々(しょうじょう)を飼っておいて何がおもしろいんだろう? と家中の者が眉をひそめるなかに、おつるは、なんの縁故もない泰軒を先生と呼んで一間(ひとま)をあたえ、かいがいしく寝食の世話を見ていた。
 明鏡のようにくもりのないおつるの心眼には、泰軒の大きさが、漠然(ぼんやり)ながらそのままに映ったのかも知れぬ。
 また泰軒としても、思いがけないこの小娘のまごころを笑って受けて辞退もしなければ礼一ついうでもなく、まるで自宅へ帰ったような無遠慮のうちにきょうあすと日がたっていったが――。
 狭い市(まち)。
 脇本陣に、このごろ山伏体(やまぶしてい)のへんな男がとまっているそうだとまもなくぱっとひろまって、ことに手先の口から、その怪しき者が大道で公儀の威信に関する言辞を弄(ろう)していたことが大岡様のお耳にもはいったから、役目のおもて捨ててもおけない。即座に引き抜いて来て、仮牢(かりろう)へぶちこませた。
 その夜、後年の忠相、当時山田奉行大岡忠右衛門が、どんな奴か一つ虚をうかがってやれとこっそり牢屋に忍んでのぞくと……。
 君子は独居(どっきょ)をつつしむという。
 人は、ひとりいて、誰も見る者がないと思う時にその真骨頂(しんこっちょう)が知られるものだ。
 板敷きに手枕して鼻唄まじり、あれほど獄吏(ごくり)をてこずらせていると聞いた無宿者が、いま見れば閉房(へいぼう)の中央に粛然(しゅくぜん)と端坐して、何やら深い瞑想にふけっているようす。
 室のまんなかに座を占めたところに、行住座臥(ぎょうじゅうざが)をもいやしくしない、普通(ただ)ならぬ武道のたしなみが読まれた。
 しかも! 土器の油皿、一本燈心(とうしん)の明りに照らしだされた蒼白い額に観相(かんそう)に長じている忠相は、非凡の気魂、煥発(かんぱつ)の才、雲のごとくただようものをみたのである。
 これは、一人傑。
 ととっさに見きわめて、畳のうえに呼び入れて差し向かい、一問一答のあいだに掬(きく)すべき興趣(きょうしゅ)滋味(じみ)こんこんとして泉のよう――とうとう夜があけてしまった。そして、朝日の光は、そこに職分を忘れた奉行と、心底を割った囚人とがともに全裸の人間として男と男の友愛、畏敬(いけい)、信頼に一つにとけ合っているのを見いだしたのだった。
 このお方はじつは千代田の密偵、将軍おじきのお庭番として名を秘し命を包んでひそかに大藩の内幕を探り歩いておらるるのだから、万事そのつもりで見て見ぬふりをするように……というような苦しい耳うちで下役の前を弥縫(びほう)した忠相も、自分に先んじて風来坊泰軒を高くふんだ茶碗屋おつるの無識の眼力にはすくなからず心憎く感じたのだろう。かれは、泰軒をおつるに預けさげたのちも、たびたびお微行(しのび)で茶碗屋の暖廉(のれん)をくぐったが、それがいつしか泰軒を訪れるというよりも、その席へ茶菓を運んでくるおつるの姿に接せんがため――ではないか? と忠相自身もわれとわが心中に疑いだしたある日、ずばりと泰軒が図星(ずぼし)をさした。
「おぬしは、おつる坊を見にくるのだな。はははは。かくすな、かくすな。いや、そうあってこそ奉行も人だ。おもしろい」
 忠相はなんとも言わずに、胸を開いて大笑した。
 ただそれだけだった。
 これが恋であろうか。よしや恋は曲者にしても、お奉行大岡様と宿屋の娘……それはあまりにも奇(く)しき情痴のいたずらに相違なかった。
 が、爾来(じらい)いく星霜(せいそう)。
 身は栄達して古今の名奉行とうたわれ、世態(せたい)人情の裏のうらまで知りつくしたこんにちにいたるまで、忠相はなお、かつて伊勢の山田のおつるへ動きかけた淡い恋ごころを、人知れず、わが世の恋と呼んでいるのだった。
 陽の明るい縁などで、このごろめっきりふえた白髪を抜きながら、忠相がふと、うつらうつらと蛇籠(じゃかご)を洗う五十鈴(いすず)川の水音を耳にしたりする時、きまって眼に浮かぶのはあのふくよかなおつるの顔。
 まことにおつるは、色彩(いろどり)のとぼしい忠相の生涯における一紅点(こうてん)であったろう。たとえ、いかに小さくそして色褪(いろあ)せていても。
 そのおつるの家に、泰軒が寄寓してからまもなくだった。山田奉行忠相の器量を試みるにたるひとつの難件がもちあがったのは。
 そのころ松坂の陣屋に、大御所十番目の御連枝(ごれんし)紀州中納言光定(きしゅうちゅうなごんみつさだ)公の第六の若君源六郎(げんろくろう)殿が、修学のため滞在していて、ふだんから悪戯(いたずら)がはげしく、近在近郷の町人どもことごとく迷惑をしていたが、葵(あおい)の紋服におそれをなして誰ひとり止め立てをする者もなかった。
 源六郎、ときに十四、五歳。
 それをいいことにして、おつきの者の諫(いさ)めるのもきかずに、はては殺生禁断の二見ヶ浦へ毎夜のように網を入れては、魚籠(びく)一ぱいの獲物に横手をうってほくほくしていると、このことが広く知れ渡ったものの、なにしろ紀伊(きい)の若様だから余人とちがってすぐさま捕りおさえるわけにもゆかず、一同もてあましていたが、これを聞いた山田奉行の大岡忠右衛門、法は天下の大法である、いかに紀州の源六郎さまでもそのまま捨ておいては乱れの因(もと)だというので、ひそかに泰軒ともはからい、手付きのものを連れて一夜二見ヶ浦に張りこんでさっさと源六郎を縛(しば)りあげた。
 そして。
 無礼! 狼藉(ろうぜき)! この源六郎に不浄の縄をかけるとは何ごと……などとわめきたてるのも構わず奉行所へ引ったてて、左右に大篝火(おおかがりび)、正面に忠右衛門が控えて夜の白洲(しらす)をひらいた。
「これ! 不届至極(ふとどきしごく)! そのほうは何者か、乱心いたしたな?」
 と、上段の忠右衛門がはったとにらむと、
「乱心? 馬鹿を申せ。われは松平源六郎である。縄をとけッ」
「だまれ」忠右衛門も声をはげまして「松平源六郎とは恐れ多いことを申すやつじゃ。なるほど紀州第六の若様は源六郎殿とおおせられるが、いまだ御幼年ながら聡明叡智(そうめいえいち)のお方で、殺生禁断(せっしょうきんだん)の場所へ網をおろすような不埓(ふらち)はなさらんぞ。そのほうまさしく乱心いたしおるとみえる、狂人であろう汝は」
「狂人とは何事! 余はまったく紀州の源六郎に相違ない」
「またしても申す。これ、狂人、二度とさような言をはくにおいてはその分にさしおかんぞ。汝がすみやかに白状せん以上、待て! いま見せてやるものがある」
 こう言って忠右衛門が呼びこませたのが、小俣(おまた)村の百姓源兵衛という男、名主そのほか差添えがついている。
「源兵衛、面(おもて)をあげい。とくと見て返答いたせ。これに控(ひか)えおるはそのほうの伜(せがれ)源蔵と申す者に相違なかろう? どうじゃ」
 そのときに、くだんの源兵衛、お白洲(しらす)をもはばからず源六郎のそばへ走りよって、「ひゃあ、伜か、お前気がふれて行方をくらましたで、みんなが、はあ、どんなに心配ぶったか知んねえだよ。やっとのこってこのお奉行所へ来てるとわかって、いま名主(なぬし)どんに頼んで願えさげに突ん出たところだあな。だが、よくまあ達者で……」
 驚いたのは源六郎だ。
「さがれッ! えいッ、寄るな。伜とはなんだ。見たこともないやつ」
 と懸命に叱りつけたが、百姓源兵衛に名主をはじめ組合一統がそれへ出て、口々に、
 現在の親を忘れるとはあさましいこった。
 どうか、はあ、気をしずめてくんろよ。
 これ源蔵や、よく見ろ。われの親父(おやじ)でねえか。
 などと揃いもそろって狂人応対(あつかい)をするので、源六郎歯ぎしりをしながら見事に気がふれたことにされてしまった。
 そのありさまに終始ほほえみを送っていた忠右衛門は、やおら言いわたした。
「さ、この狂者は小俣(おまた)村百姓源兵衛のせがれ源蔵なるものときまった。親子でいて父の顔を忘れ、見さかいがつかんとは情けないやつだが、掟(おきて)を犯して二見ヶ浦で漁をするくらいの乱心なれば、そういうこともあり得ようと、狂気に免じ、今日のところは心あってそむいたものとみとめず、よって源蔵儀は父源兵衛に引き渡しつかわす。十分に手当をしてやるがよい――源蔵ッ! 狂人の所業(しょぎょう)とみなしてこのたびは差し許す、重ねてかようなことをいたさんよう自ら身分を尊(とうと)び……ではない、第一に法をたっとばんければいかん。わかったな、うむ、一同、立ちませい」
 というこの四方八方にゆきとどいたさばきで、源六郎はおもてむきどこまでも百姓の子が乱心したていに仕立てられて、かろうじて罪をのがれ、面倒もなくてすんだのだったが、後の八代将軍吉宗たる源六郎もちろん愚昧(ぐまい)ではない。天下の大法と紀州の若君との苦しい板ばさみに介(かい)して法も曲げず、源六郎をもそこなわず、自分の役儀も立てたあっぱれな忠相の扱いにすっかり感服して、伊勢山田奉行の大岡忠右衛門と申すは情知(じょうち)兼ねそなわった名判官(はんがん)である。
 と、しっかり頭にやきついた源六郎は、その後、淳和奨学両院別当(じゅんなしょうがくりょういんべっとう)、源氏の長者八代の世を相続して、有徳院(うとくいん)殿といった吉宗公になったとき、忠右衛門を江戸表へ呼びだして、きょうは将軍家として初のお目通りである。
 越前守忠相と任官された往年の忠右衛門ぴったり平伏してお言葉のくだるのを待っていると――。
 しッ、しい――ッ、と側で警蹕(けいひつ)の声がかかる。
 と、濃(こ)むらさきの紐が、葵(あおい)の御紋散しでふちどった御簾(みす)をスルスルと捲きあげて、金襴(きんらん)のお褥(しとね)のうえの八代将軍吉宗公を胸のあたりまであらわした。
 裃(かみしも)の肘を平八文字に張って、忠相のひたいが畳にすりつく。
 お声と同時に、吉宗の膝が一、二寸刻み出た。
「越前、そのほう、余を覚えておろうな?」
 はっとした忠相、眼だけ起こして見ると、中途にとまった御簾の下から白い太い羽織の紐がのぞいて……その上に細目(こまかめ)をとおして、吉宗の笑顔がかすんでいた。
 むかし、山田奉行所の白洲の夜焚き火のひかりに、昂然(こうぜん)と眉をあげた幼い源六郎のおもかげ。
 忠相の眼にゆえ知らぬ涙がわいて手を突いている畳がぽうっとぼやけた。
 が、かれはふしぎそうに首をひねった。
「恐れ入り奉りまする――なれど、いっこうわきまえませぬ」
 すると吉宗、何を思ったか、いきなり及(およ)び腰に自ら扇子(せんす)で御簾をはねると、ぬっと顔を突き出した。
「越前、これ、これじゃよ。この顔だ。存じおろうが」
 忠相は、下座からその面をしげしげ見入っているばかり……じっと語をおさえて。
 引っこみのつかない将軍がいらいらしだして、お小姓はじめ並みいる一同、取りなしもできず度を失ったとき、
「さようにござりまする」
 憎いほど落ちつき払った越前守の声に、お側御用お取次ぎ高木伊勢守などは、まずほっとしてひそかに汗のひくのを感じた。
「うむ。どうだな?」
「恐れながら申しあげまする――上(かみ)には、よほど以前のことでございまするが、忠相が伊勢の山田奉行勤役中、殺生厳禁(せっしょうげんきん)の二見ヶ浦へ網を入れました小俣(おまた)村百姓源兵衛と申す者の伜、源蔵という狂人によく似ていられまする」
 狂者にそっくりとはなんという無礼!
 と理由を知らない左右の臣がささやき渡ると、
「そうか。源蔵に似ておるか」
 にっこりした吉宗、御簾の中から上機嫌に、
「小俣村の源蔵めも、そのほうごときあっぱれな奉行のはからいを、今さぞ満足に思い返しておるであろう……これよ、越前、こんにちをもって江戸おもて町奉行を申しつくる。吉宗の鑑識(めがね)、いやなに、源蔵の礼ごころじゃ。このうえともに、な、精勤(せいきん)いたせ。頼むぞ」
「はっ、おそれ入り――」
 と言いかけた忠相のことばを切って、音もなく御簾がおりると、そそくさと立ちあがる吉宗の姿が、夢のようにすだれ越しに見えたのだったが……。
 かつて自分が叱りつけた源六郎さま。
 それがもうあんなりっぱに御成人あそばされて――お笑いになる眼だけがもとと変わらぬ。
 ほほえみと泪(なみだ)。
 すり足で退出するお城廊下の長かったことよ。
 あの日、大役をお受けしてからこのかた。
 南町奉行としての自分は、はたして何をし、そして、なにを知ったか?
 思えば、風も吹き、雨も降った。が、いますべてを識りつくしたあとに、たった一つ残っている大きな謎(なぞ)。
 それは、人間である。
 人のこころの底の底まで温く知りぬいて、善玉(ぜんだま)悪玉(あくだま)を一眼見わけるおっかない大岡様。
 たいがいの悪がじろりと一瞥(べつ)を食っただけで、思わずお白洲の砂をつかむと言われている古今に絶した凄いすごいお奉行さまにも、煎(せん)じつめれば、この世はやはりなみだと微笑のほか何ものでもなかった……かも知れない。
 夢。
 ――という気が、忠相はしみじみとするのだった。
 で、うっとりした眼をそばの泰軒へ向けると、会話(はなし)のないのにあいたのか、いつのまにやらごろりと横になった蒲生泰軒、徳利に頭をのせてはや軽い寝息を聞かせている。
 ばっさりと倒れた髪。なかば開いた口。
 強いようでも、流浪(るろう)によごれた寝顔はどこかやつれて悲しかった。
「疲れたろうな。寝ろ寝ろ」
 とひとり口の中でつぶやいた忠相は、急に何ごとか思いついたらしくすばやく手文庫(てぶんこ)を探った。
「こいつ、金がないくせに強情な! 例によって決して自分からは言い出さぬ。起きるとまたぐずぐずいって受け取らぬにきまっとるから、そうだ! このあいだに――」
 忠相が、そこばくの小判を紙に包んでそっと泰軒の袂(たもと)へ押し入れると、眠っているはずの泰軒先生、うす眼をあけて見てにっことしたが、そのまま前にも増して大きないびきをかき出した。
 とたんに、
 庭前を飛んで来たあわただしい跫音(あしおと)が縁さきにうずくまって、息せききった大作の声が障子を打った。
「申しあげます」
「なんだ」さッとけわしい色が、瞬間越前守忠相の顔を走った。

   緑面女夜叉(りょくめんにょやしゃ)

「なんだ騒々しい! 大作ではないか。なんだ」
 忠相(ただすけ)が室内から声をはげますと、そとの伊吹大作はすこしく平静をとりもどして、
「出ました、辻斬(つじぎ)りが! あのけさがけの辻斬り……いま御門のまえで町人を斬り損じて、当お屋敷の者と渡りあっております」
「辻斬り? ふんそうか」
 とねむたそうにうなずいた越前守は、それでも、これだけではあんまり気がなさそうに聞こえると思ったものか、取ってつけるようにいいたした。
「それは、勇ましいだろうな」
「いかが計らいましょう?」
「どれ、まずどんなようすか」
 ようよう腰をあげた忠相が、障子をあけて縁端ちかく耳をすますと、
 月も星もない真夜中。
 広い庭を濃闇(のうあん)の霧が押し包んで、漆黒(しっこく)の矮精が樹から木へ躍りかわしているよう――遠くに提灯の流れて見えるのは、邸内を固める手付きの者であろう。
 池の水が白く光って風は死んでいた。
 ただ、深々と呼吸(いき)づく三更(こう)の冷気の底に、
 声のない気合い、張りきった殺剣(さつけん)の感がどこからともなくただよって、忠相は、満を持して対峙(たいじ)している光景(さま)を思いやると、われ知らず口調が鋭かった。
「曲者は手ごわいとみえるが、誰が向かっておる」
「岩城(いわき)と新免(しんめん)にござりますが、なにぶん折りあしくこの霧(きり)で……」
「門前――と申したな。斬られた者はいかがいたした?」
「商家の手代風(てだいふう)の者でございますが、この肩さきから斜めに――いやもう、ふた目と見られませぬ惨(むご)い傷で……」
「長屋で手当をしてつかわしておりますが、所詮(しょせん)助かりはすまいと存じまする」
 言うまも、剣を中に気押し合うけはいが、はちきれそうに伝わってくる。
「無辜(むこ)の行人をッ! 憎いやつめ! しかも大岡の屋敷まえと知っての挑戦であろう」
 太い眉がひくひくとすると、忠相は低く足もとの大作を疾呼(しっこ)した。
「よし! いけッ! 手をかしてやれ、斬り伏せてもかまわぬ」
 そして、柄をおさえて走り去る大作を見送って、しずかに部屋へ帰りながら、血をみたような不快さに顔をしかめた忠相は、ひとり胸中に問答していた。
 このけさ掛け斬りの下手人が、左腕の一剣狂であることは、自分は最初から見ぬいていた。それをさっき泰軒に、やれ左ききであろうの、数人に相違ないのと言ったのは、泰軒といえども自分以外の者である以上、あくまでも探査の機密を尊(たっと)んでおいて、ただそれとなくその存意をたぐり出すために過ぎなかったのだが――。
 なかでは、泰軒が帯を締めなおしていた。
 天下何者にも低頭(ていとう)しないかれも、大岡越前のためにはとうから身体を投げ出しているのだ。
「聞いたぞ、おれが出てみる」
「よせ!」忠相は笑った。
「貴様に怪我(けが)でもされてはおれがすまん」
「なあに、馬鹿な」
 一言吐き捨てた泰軒は、
「帰りがけにのぞくだけだ……では、また来る」
 と、もう闇黒(やみ)の奥から笑って、来た時とおなじように庭に姿を消すが早いか、気をつけろ! と追いかけた忠相の声にもすでに答えなかった。
 無慈悲の辻斬り! かかる人鬼の潜行いたしますのも、ひとえに忠相不徳のなすところ――と慨然(がいぜん)と燈下に腕をこまぬく越前守をのこして、陰を縫って忍び出た泰軒が、塀について角へかかった時!
 ゆく手の門前に二、三大声がくずれかかるかと思うと、フラフラと眼のまえに迷い立った煙のような人影?
 ぎょッ! として立ちどまったのをすかし見ると、長身痩躯(そうく)、乱れた着前(まえ)に帯がずっこけて、左手の抜刀をぴったりとうしろに隠している。
「せっかく生きとる者を殺して、何がおもしろい?」
 泰軒の声は痛烈なひびきに沈んだ。
「うん? 何がおもしろい? お前には地獄のにおいがするぞ」
「…………」
 が、相手は黙ったまま、生き血に酔ったようによろめいてくる。刀の尖(さき)が小石をはじいてカチ! と鳴った。
「おれとお前、見覚えがあるはずだ。さ! 来い! 斬ってみろ俺を」
 こういい放った泰軒は、同時にすくなからず異様な気持にうたれて前方(まえ)をのぞいた。片腕の影がすすり泣いていると思ったのは耳のあやまりで、ケケケッ! と、けもののように咽喉笛(のどぶえ)を鳴らして笑っていたのだった。
「斬れ! どうだ、斬れまいが! 斬れなけりゃあおとなしくおれについて来い」
 悠然と泰軒が背をめぐらした間髪、発! と、うしろに跳剣(ちょうけん)一下して、やみを割った白閃が泰軒の身にせまった。

 垣根に房楊枝(ふさようじ)をかけて井戸ばたを離れた栄三郎を、孫七と割りめしが囲炉裡(いろり)のそばに待っていた。
 千住(せんじゅ)竹の塚。
 ほがらかな秋晴れの朝である。
 軒の端の栗の梢に、高いあおぞらがのぞいて、キキと鳴く小鳥の影が陽にすべる。
「百舌(もず)だな……」
 栄三郎はこういって膳に向かった。そして、
「いかにも田舎(いなか)だ。閑静でいい。こういうところにいると人間は長生きをする」
 と、改めてめずらしそうにまえの広場に大根を並べ乾(ほ)してそれにぼんやりと、うすら寒い初冬の陽がさしているのを眺めていた。
 孫七は黙って飯をほおばっていた。
 鶏が一羽おっかなびっくりで土間へはいろうとして、片脚あげて思案している。
「七五三は人が出ましたろう。神田明神(かんだみょうじん)なぞ――」
 お兼(かね)婆さんが給仕盆を差しだしながら、穂(ほ)をつぐように話しかけると、
「お兼もいっしょに食べたらどうだ? そう客あつかいをされては厄介者の私がたまらぬ」
 と栄三郎はすすめてみたが、お兼も箸をとろうともしなければ、息子の孫七も口を添えないので、三人はそれきり言葉がとぎれて、黒光りのする百姓家のなかに貧しい朝餉(あさげ)の音が森閑(しんかん)と流れた。
 心づくしとはわかっていても、悩みをもつ栄三郎には咽喉(のど)へ通らない食事であった。
 やがて無口の孫七は、むっつりして粗朶(そだ)を刈りに立つ。
 食客(いそうろう)の栄三郎は、いつものようにすぐに野猿梯子(やえんばしご)を登って与えられた自室へ。
 と言っても頭のつかえる天井(てんじょう)うらだ。
 所在なさに横になった諏訪栄三郎。
 思うまいとして眼さきをよぎるのはお艶のすがたであった。
 あの首尾の松の夜。
 闘間(とうかん)にお艶を失った彼は、風雨のなかを御用提灯に追われ追われて対岸へ漕ぎつき、上陸(あが)るとすぐ泰軒とも別れて腰の坤竜丸(こんりゅうまる)を守って街路に朝を待ったが……あかつきの薄光(はっこう)とともに心に浮かんだのが、この千住竹の塚に住むお兼母子のことであった。
 栄三郎が生まれたとき、母の乳の出がわるくて千住の農婦お兼を乳母(うば)として屋敷へ入れた。お兼には孫七という栄三郎と同(おな)い年の息子があったが、それをつれて一つ屋根の下に起き臥(ふ)ししているうちにいつしかお兼は栄三郎を実子のように思い、栄三郎もまたお兼をまことの母のごとくに慕うようになった。これは栄三郎が乳ばなれしてお兼に暇が出たのちもずっとつづいて、盆暮(ぼんく)れには母子そろって挨拶にくるのを欠かさない――いまは息子の孫七があとをとって、自前(じまえ)の田畑を耕し、ささやかながら老母を養っている。
 口重(くちおも)で人のいい乳兄弟の孫七といつまでも自分の子供と思っている乳母のお兼。
 かれらこそはしばらくこの傷ついたこころをかばってくれるであろう……まずさしあたり雨露のしのぎに。
 こう考えて、栄三郎がこの竹の塚の孫七方へ顎(あご)をあずけてからもう何日かたったが、武士には武士の事情があろうと、お兼婆さんも孫七も何にもきかぬし、栄三郎も何もいわなかった。だが、それだけ、ひとりで背負(しょ)わねばならぬ栄三郎の苦しみは、身体があけばあくほど大きかったといわなければならない。
 油じみた蒲団掻巻(かいまき)に包まれて、枕頭の坤竜を撫(ぶ)しながら、かれはいくたび眠られぬ夜の涙を叱ったことであろうか。
 半夜(はんや)夜夢さめて呼ぶお艶の名。
 が、もとより恋の流れに棹(さお)さしていさえすればよい栄三郎ではなかった。若い血のときめきと武門の誓い!
 お艶と乾雲(けんうん)!
 この一つのために他を棄てさることのできないところに栄三郎のもだえは深かったのだ。
 毎夜のように首尾の松の下に立って、河へ石を三つなげて泰軒に会ってはくるが、お艶の行方も乾雲丸の所在(ありか)も、せわしない都にのまれ去って杳(よう)として知れなかった。
 加うるに弥生のこと。
 鳥越の兄藤次郎のこと。
 夜泣きの刀とともに泣く栄三郎の心だった。
 ――裏山のかけひの音が、くすぐるようにごろ寝している栄三郎の耳に通う。かれはむっくりと起きあがって、窓明りに坤竜丸の鞘を払った。
 うすぐらい部屋に、一方の窓から流れこむ陽が坤竜丸の剣身に映えて、煤(すす)だらけの天井に明るい光線(ひかり)がうつろう。
 冬近い閑寂(かんじゃく)な日、栄三郎は、千住竹の塚、孫七の家の二階にすわって、ながいこと無心に夜泣きの脇差を抜いて見入っている。鍔元(つばもと)から鋩子先(ぼうしさき)と何度もうら表を返して眺めているうちに、名匠の鍛えた豪胆不撓(ごうたんふとう)の刀魂が見る見る自分に乗り移ってくるようにおぼえて、かれは眼をあげて窓のそとを見た。
 竹格子(たけごうし)を通じて瑠璃(るり)いろの空が笑っている。
 小猫の寝すがたに似た雲が一つ、はるか遠くにぽっかりと浮かんでいるのが、江戸の空であろう……栄三郎は刀をしまうと、こんどはぽつんと壁によりかかって、眼をつぶって考え出した。
 世の中はすべて思うままにならないことの多いなかに、一ばん自分でどうにでもできそうで、それでいていかんともなし難いものがみずからの心であるような気を、彼はこのごろ身にしみて味わわなければならなかった。
 それはことに、かれが鉄斎先生の娘弥生どのを思いおこすごとに、百倍もの金剛力をもって若い栄三郎を打つのだった。
 嫌いではない。決してきらいではない!
 が、単に嫌いでないくらいのことでは、どうあってもひたすらに心を向けるわけにはいかないところへ、先方から押しつけるように持ってこられると、ついその気もなくはね返したくなるのが男女恋戯(れんぎ)のつねだという。
 栄三郎は弥生を、きらい抜くというのではなかったが、いかに努めても好きになれない自分のこころを彼は自分でどうすることもできなかったのだ。なぜ? ときかれても栄三郎は答え得なかったろうし、ただつとめて好きになる要もなければ、また、なれもしないばかりか、かえってその気もちが負債(おいめ)のように栄三郎をおさえて、それが彼を弥生から離していったのかも知れなかった。
 が、理屈として、
 そこに栄三郎の胸に、三社まえの掛け茶屋当り矢のお艶という女があったがためであることはいうまでもない。武家の娘の生(き)一本に世を知らぬ、そして知らぬがゆえに強い弥生の恋情よりも、あら浪にもまれもてあそばれて寄って来て海草(うみくさ)の花のような、あくまでも受身なお艶という可憐な姿に、栄三郎のすべてをとらえて離さぬきずなの力のあったことは、考えてみればべつにふしぎではなかった。
 そのお艶。
 あの大川の夜、身代りとして舟へ飛びこんだ莫蓮女(ばくれんもの)の口では、お艶は本所の殿様とやらに掠(さら)われたとのことだったが、……どうしてるだろう? こう思うと、栄三郎はいつでもいてもたってもいられぬ焦燥(しょうそう)に駆られて、狂いたつように、手慣れの豪刀武蔵太郎安国をひっつかんでみる。
 しかしその刀と並んでいる坤竜丸を眼にするたびに、かれは何よりも先に一時斬って棄てねばならぬわが心中の私情に気がついて、卒然(そつぜん)として襟を正し肩を張るのだった。
 乾雲丸と坤竜丸!
 剣妖(けんよう)丹下左膳は、乾雲に乗って天を翔(かけ)り闇黒(やみ)に走って、自分のこの坤竜を誘(いざな)い去ろうとしている――それに対し、われは白日坤竜を躍らせ、長駆(ちょうく)して乾雲を呼ぶのだ!
 こうしてはいられぬ!
 恋愛慕情のたてぬきにからまれて身うごきもとれぬとは! 咄(と)ッ! なんたるざまだッ!
 切り離せ! そうだ、左膳を斬るまえにまずお艶への妄念(もうねん)をこの坤竜丸の冷刃で斬って捨て、すっぱりと天蓋無執(てんがいむしゅう)、何ものにもわずらわされない一剣士と化さなくては、とうてい自由な働きは期し得ない!
 百もわかっている。が、やっぱりお艶のうえを思うと、栄三郎は剣を第二にこのほうへ! と心がはやる……それは情智のあらそいであった。
 だが?
 おとなしくしていて養子にでもやられては、お艶も刀もそれきりになってしまう。それではたまらぬと、そこで兄藤次郎にはすまぬと影に手を合わせながら、わざと種々の放埓(ほうらつ)に兄を怒らせて、こうして実家(いえ)へもよりつかずに繋累(けいるい)を断った栄三郎ではないか。
 律気(りちぎ)な兄者人はどんなに怒っていることであろう!
 あの五十両もかわいいお艶のためとはいえ、何もあんなことをしなくてもまともな途(みち)で才覚のつかないわけではなかったが、あれも兄へのあいそづかし――いまも胸底ひそかに兄に詫びてはいるもののそれもこれ、一心を賭して乾坤(けんこん)二刀をひとつにせんがためではなかったか?
 お艶! 恨んでくれるな。今にきっと探しだして助けるから。
 こう低声(こごえ)に口走った栄三郎が、なんとなく再び闘機の近いことをひしと感じて、カッ! と血のさかのぼった眼を見ひらいた時、うらの寺にまのぬけた木魚の音が起こった。
「若様、お茶がはいりましたが――」
 梯子段の中途にお兼婆さんの声がした。

「お艶(つや)や! お艶や」
 と、あたりをはばかる声で、お艶は午後のうたた寝からさめた。
 気がつくと夢を見ていた。
 自分の身が人魚と化して、海底の岩につながれている。青蚊帳(かや)をすかして見るような、紺いろにぼけた世界だった。藻(も)の林が身辺においしげって、ふしぎなことには、その尖端(さき)に一つ一つ果(み)のように人の顔がついていた。源十郎だった。お藤だった。与吉だった。隻眼で、こわい傷のある左膳とかいう侍の首だった。それが四方八方から今にも咬(か)みつきそうに自分をめざして揺れ集まってくる。
 お艶が恐ろしさに身ぶるいして逃げようとしても、昆布(こんぶ)のような物が脚腰(あしこし)にからみついていて一寸も動かれない。懸命に助けを呼んでも、口から大きな泡の玉が立ち昇るだけで、自分の声が自分にも聞こえなかった。
 なんという情けない!……
 と胸を掻きむしって上を仰ぐと、陽の光が斜めに縞のようにぼやけている水面を、坤竜丸を差した栄三郎が泳いでゆく、何度も何度も頭上高く輪をかいて泳ぎまわっているが、おりてはこないし、お艶も浮かびあがれなかった。
 ああ! じれったい!
 あんなにわたしの上をまわっていて、これが見えないのかしら? 見てももう救い出してくださるお気はないのかしら?
 首尾の松の小舟で……あれほど固く誓ったものを!
 人魚になったお艶が源十郎の首にすりよせられて思わず泣き叫ぼうとしたとき、
「お艶! お艶!」
 と呼ぶ声が水の層を通してだんだんはっきりと聞こえてきた。
 あ! 栄三郎さまがおいでくだすった!
「は、はい――お艶はここにおりますッ!」
「お艶」
 という最後の声が耳のそばで大きくひびいたので、お艶がはっと眼をあけてみると……。
 栄三郎ではない――母のおさよが盆に何かのせて来て、しゃがんでいた。
「お艶、お前、好きだったよねえ。お汁粉(しるこ)ができたから持って来たよ。さ、起きておあがり」
 おさよは娘をのぞきこんで、
「お前、なんだかうなされていたようだね」
「ええ、こわい夢……夢でよかった」
 まだぼんやりして上身を起こしたお艶は、ほつれた髪を手早く掻きあげながら、眠りのなかで泣いていたものとみえて、巻いて枕にしていた座蒲団のはしが涙に濡れているのに気がつくと、そっとうしろへかくして悲しく笑った。
 寝起きの頬に赤くあとがついて、男ごころをそそらずにはおかない悩ましさ。
 母と娘、せまい幽室(ゆうしつ)に無言のまま向かいあっている。
 本所(ほんじょ)法恩寺(ほうおんじ)橋まえ鈴川源十郎屋敷の一間(ひとま)である。
 櫛まきお藤のさしがねで、刀渦(とうか)にまぎれ、巧妙にお艶の身柄をさらい出した源十郎は、深夜の往来に辻駕籠(つじかご)を拾ってまんまと本所の家へ運びこんだまではよかったが……。
 いつぞや老下女おさよの話に出た娘というのがこのお艶であろうとは、さすがの源十郎、ゆめにも気がつかなかった。
 駕籠からひきずり出されたお艶を見て、おさよはのけぞるほど愕(おどろ)いたが、そこは年の功、日ごろの源十郎を知っているので、母親ということをさとられずに、かげになりそれとなくお艶の身を守るのが、この際第一の上分別ととっさに考えた。おさよはすばやくお艶に眼くばせしてその意を送り、おもてはあくまでも源十郎の命を大事にすると見せかけて、お艶を奥にあらあらしく監禁(かんきん)しながら、うらへまわっては、母親としてどれだけの切ない心づかいをしなければならなかったろう。運はお艶を見すてず、押しこめられた鬼の窟(あな)にありがたい母の手が待っていたのである。
 奥まった納戸(なんど)。
 くる日も来る日も、お艶にはかびくさい囚(とら)われの朝夕があるだけ――しかしお艶の起居を看視するのはおさよの役だったので、おさよは誰にも疑われずに今のようにそっとお艶の部屋へ忍んでは話しこんで慰(なぐさ)めることも、好きな食物も運び得たのだったが母と娘……とはまだ屋敷じゅうひとりとして見ぬいたものはない。
 酒の場には必ずお艶がひきだされる。
 それでお艶は、窓から見える草間の離室(はなれ)へ、あさに晩にこっそり出入りしている隻眼(せきがん)のお侍が、栄三郎様と同じ作りの陣太刀を佩(は)いていることを知って、なんとかして栄三郎様へしらせてあげたいとは思うが――翼(はね)をとられた小鳥同様の身。
 が、源十郎はあせるだけで、ゆっくりお艶のそばへもよれず、どうすることもできなかった。いつでも口説(くど)きにかかったりしていると、きまって風のようにおさよが敷居に手を突いて、人が来たという。何か御用は? と顔を出す。源十郎は舌打ちするばかりだった。
 いまも、その源十郎のかん走った声が、あし音とともに廊下を近づいてくる。
「さよ! さよ! こらッ、さよはおらぬか」
 たちまち身をすくませるお艶を制して、おさよはあわてて部屋を出た。
「あれ、お母さん! またこっちへ来ますよ。早く行っておさえてください……」
 お艶が隅に小さくなるのを、おさよは、
「いいからお前は黙ってまかせておおきってば!」
 と低声に叱って障子をしめると、おもて座敷をさして廊下を急いだが、そのまも、
「おさよッ!……はて、どこへ行ったあの婆あは?」
 という源十郎の声が、突き刺すように近づいてくる。
 本所の化物屋敷鈴川の家には、午(ひる)さがりながら暗い冷気が鬱(うっ)して、人家のないこのあたりは墓所のようにひっそりしていた。
 小走りに角をまがったおさよ、出あいがしらに源十郎のふところに飛びこんだ。
「なんだ? 婆あか。俺に抱きついてどうする? ははははは、それよりもおさよ、あんなに呼んだのになぜ返事をせん! また、お艶の部屋へ行きおったな」
 源十郎は瞬間太い眉をぴくつかせて、
「どうも変だぞ? 貴様、あの娘となんぞ縁故でもあるのか」
 とおさよをのぞくと、どきりとしたおさよはすぐさま惨(みじ)めに笑いほごした。
「いいえ殿様、とんでもない! ただ若いくせにあんまり強情な娘で、それに殿様がお優しくいらっしゃるので、いい気になりましてねえ、そばで見ていてもはがゆいようでございますから、この婆あがちょくちょく搦手(からめて)から攻めているんでございますよ」
 とおさよはなんとかしてあやなす気でいっぱいだ。
「そうか。おれも荒いことは好まんから恥ずかしながらあのままにしてあるが……まま貴様、なにぶん頼む。じっくり言いきかせてくれ」
「ええええ。そうでございますよ。いまはまだ本人も気がたっておりますから、殿様の御本心もなかなか通じませんけれど、あれでねえ、とっくりと損得を考えますれば、ほほほ、いずれ近いうちには折れて出ましょうとも」
 うそも方便とはいえ、現在の母たるものがなんたる! と思えばおさよも心中に泪をのまざるを得なかった。
「それにねえ殿様、あんな堅いのに限って――得てあとは自分からうちこんで参るものだとか申しますから、まあ、この婆あにまかせて、お気を長くお持ち遊ばせ」
 源十郎は上機嫌、廊下の板に立ちはだかって、襟元からのぞかせた手でしきりと顎をなでては、ひとり悦に入りながら、
「うむ、そういうものかな、はははは、いや、大きにそうであろう。おれは何も、あれを一時の慰(なぐさ)み物にするというのではないのだ」
「それはもう……わたくしも毎日よっく申しきかせておりますんでございますよ、はい」
「と申したところで、水茶屋では公儀へのきこえもあることだからとても正妻(せいさい)になおすというわけにはいかんが、一生その、なんだな、ま、妾(めかけ)ということにしてだな、そばへおいて寵愛(ちょうあい)したいと思う」
 と源十郎は、口から出まかせにさもしんみりとして見せるが、一生そばへおいて――と聞いて、貧窮(ひんきゅう)のどん底から下女奉公にまで出ているおさよの顔にちらりと引きしまったものが現われた。
「殿様」
「なんだ? 改まって……」
「ただいまのおことば、ほんとうでございましょうね?」
「はてな! おれが、何かいったかな」
「まあ! 心細い! それではあんまりあの娘(こ)がかわいそうではございませんか」
「なんのことだ? おれにはわからん」
「一生おそばにおいて――とおっしゃった……あれは御冗談でございましょう?」
 源十郎は横を向いて笑った。
「なんの! 冗談をいうものか。いやしくも人間一匹の生涯を決めるに戯(たわむ)れごとではかなうまい。真実おれはあのお艶をとも白髪(じらが)まで連れ添うて面倒を見る気でおる。これは偽りのない心底(しんてい)だ」
 もし事実そうなったら、お艶のためにも自分のためにも……とっさに思案する老婆さよの表情(かお)に、いっそのこと、ここでお艶に因果(いんが)をふくめて思いきって馬を鹿に乗りかえさせようかと、早くも真剣の気のみなぎるのを、源十郎はいぶかしげに見守った。
「さよ、貴様、あれのことというといやにむきになるな」
「いえいえ! け、決してそんなことはございません!」おさよはどぎまぎして、「ただ、あのただ、わたくしにもちょうど同じ年ごろの娘があるもんでございますから、つい思い合わせまして、あのお艶が……いえ、お艶さんが一生お妾にでもあがるようなことになりましたら、さぞ楽をするであろうと――」
「そうだ。本人のためはいうにおよばず、もし血につながるものがあったら、父なり母なり探し出して手厚く世話をしてやるつもりだから、内実は五百石の後室とそのお腹だ。まず困るということはないな」
 こう源十郎がいいきると、おさよは思わずとりすがるように、
「殿様ッ! それはあの、御本心でございますか」
 すると源十郎、
「な、何を申す! 武士に二言のあろうはずはないッ!」
 といい気もちにそり返りざま、両刀をゆすぶるつもりで――左へ手をやったが、生憎(あいにく)丸腰。
 で、何かいい出しそうにじッ! とおさよを見すえた刹那(せつな)! 裂帛(れっぱく)の叫び声がどこからともなく尾をひいて陰々たる屋敷うちに流れると……。
 源十郎とおさよ、はた! と無言の眼を合わせた。

 と! またしても声が――
 ヒイッ……という、思わず慄然(ぞっ)とする悲鳴はたしかに、女の叫びだ!
 それが、井戸の底からでも揺れあがってくるように、怪しくこもったまま四隣(あたり)の寂寞(せきばく)に吸われて消える。
 源十郎は委細承知らしく、にが笑いの顔をおさよへ向けた。が、口にしたのはやはりお艶のことだった。
「では、さよ、貴様もあの娘の件にはばかに肩を入れておるようだが、いずれそこらの曰(いわ)くはあとで聞くとして――」
「いえ。曰くも何もございません。わたくしは先へ話をするつごうもあり、それにつけても何より大事な殿様のお心持をしっかり伺(うかが)っておきたいと存じましただけで……それも今度はよくわかりましてございます。はい。ほんとにお艶さんはしあわせだ」
 と、正直一図のおさよは、だんだん源十郎に感謝したい気になってきた。
「うむ、まあ、そういったようなものだが」
 狡猾(こうかつ)な笑(え)みをひそめた源十郎、つづけざまにうなずいて、
「いつまでも立ちばなしでもあるまい。近くゆっくりと談合して改めて頼むつもりでおる」
「頼むなどとは、殿様、もったいのうございます! わたしこそお艶に代わって……」
 言いかけて、おさよがあわてて口をつぐむのを、源十郎は知らん顔に聞き流して声を低めた。
 言うところは、こうである。
 あの、女のさけび声。
 あれは、狂暴丹下左膳が、離室(はなれ)で櫛まきお藤を責め苛(さいな)んでいるのだという。
 そう聞けば、おさよにも思いあたる節(ふし)があった。
 源十郎がお艶の駕籠をかつぎこませた暴風雨(あらし)の晩、夜更(よふ)けて、というよりも明け方近く、庭口にあたってただならぬ人声を耳にしたおさよが、そっと雨戸をたぐってのぞくと、濡れそぼれた丹下左膳、土生(はぶ)仙之助の一行が、ひややかに構えたお藤を憎さげにひったてて、今や離室の戸をくぐるところだったが――。
 それからこっち、お藤は浅草の自宅(いえ)へも帰されずに、離室からは毎日のように左膳の怒号(どごう)にもつれてお藤の泣き声が洩(も)れているのだ。
 事ありげなようす! とは感じたが、もとより老下女などの顔を出すべき場合でないので、気にかかりながらもお艶の身を守る一方にとりまぎれていたけれど、いまとなって心に浮かぶのは。
 あの丹下左膳という御浪人。
 かれは亡夫宗右衛門と同じ奥州中村相馬様の藩士で、自分やお艶とも同郷の仲だが、それがなんでもお刀探索(かたなたんさく)密命を帯びてこうして江戸にひそんでいるとかと、いつかの夜のお居間のそとで立ち聞いたことがある。
 道理で、辻斬りが流行(はや)るというのにこのごろはなお何かに呼ばれるように左膳は夜ごとの闇黒(やみ)に迷い出る――もう一口(ひとふり)の刀さがしに!
 しかるに!
 源十郎にないしょにお艶のもとに忍んで話しこんでいるうちに栄三郎のその後の模様もだいぶ知れたが、お艶の口によると、栄三郎はいま、二本の刀のうち一本をもって、他のひとつを必死に物色しているとのこと。
 さては! と即座に胸に来たおさよだったが、その場はひとりのみこんで何気(なにげ)なくよそおったものの、納戸(なんど)のお艶が、それとなく窓から左膳の出入りをうかがっては、いかにもして栄三郎へしらせたがっていることも、おさよはとうから見ぬいていたから、いよいよ左膳と栄三郎は敵同士(かたきどうし)、たがいに一対の片割れを帯して、その二刀をわが手に一つにしたいと求めあっているに相違ない……これだけのことが、湯気(ゆげ)をとおして見るようにぼんやりながらおさよの頭にもわかっていた。
 ところが今、源十郎はお艶の一生を所望している! おめかけとはいえ、終身奉公ならば奥方同然で老いさきの短い母の自分も何一つ不自由なく往(ゆ)くところへ行けようというもの。それに、お艶の素性(すじょう)が知れて武家出とわかれば、おもてだって届けもできれば披露(ひろう)もあろう。
 そうなれば、かわいいお艶の出世とともに、自分はとりもなおさず五百石の楽隠居!――と欺(だま)されやすいおさよは、頭から源十郎のでたらめを真に受けて、ここは一つ栄三郎への手切れのつもりで、何よりもそのほしがっている一刀を、追って殿様の源十郎に頼んで、左膳から奪って下げ渡してもらおう……おさよはさっそくこう考えた。
 母の庇護(ひご)があればこそ、これまで化物屋敷に無事でいたお艶! その母の気が変わって、今後どうして栄三郎へ操(みさお)を立て通し得よう?
 人身御供(ひとみごくう)の白羽の矢……それはじつに目下のお艶のうえにあった。
 が、源十郎よくおさよの乞いをいれて、左膳と乾雲丸(けんうんまる)とを引き離すであろうか。
 ――思案に沈んでおさよが、耳のそばに、
「お藤が、おれに加担(かたん)してお艶をかどわかしたために、刀をうばいそこねたといってな、左膳め、先日から猛(たけ)りたっておるのだから、そのつもりで年寄り役にとりしずめてくれ」
 という源十郎の声でわれに返ると、膝までの草を分けていつのまにかもう離室(はなれ)のまえ。
 カッ! とただよう殺気をついて左膳の罵声がする。
「うぬッ! 誰に頼まれてじゃまだてしやがった? いわねえか、この野郎ッ……!」
 つづいて、ぴしり! と鞭でも食わす音。
「ほほほほ、お気の毒さま! 野郎はとんだお門(かど)ちがいでしたねえ」
櫛まきお藤はすっかりくさっているらしい。
「やいッ! 汝(うぬ)あいってえなんだって人の仕事に茶々(ちゃちゃ)を入れるんだ? こらッ、こいつッウ!……てッ、てめえのおかげで、奪(と)れる刀もとれなかったじゃねえかッ! な、なんとか音を立てろいッ音を!」
「ほほほ、音を立てろ――だと! 八丁堀(はっちょうぼり)もどきだね」
「なにいッ!」
 咆吼(ほうこう)する左膳、棕櫚(しゅろ)ぼうきのような髪が頬の刀痕にかぶさるのを、頭を振ってゆすりあげながら、一つしかない眼を憎悪に燃やして足もとのお藤をにらみすえた。
 細松の幹を思わせる、ひょろ高い筋骨、それに、着たきり雀(すずめ)の古袷(あわせ)がはだけて、毎夜のやみを吸って生きる丹下左膳、さらぬだに地獄絵の青鬼そのままなところへ――左手に握った乾雲丸を鞘(さや)ぐるみふりあげるたびに空(から)の右袖がぶきみな踊りをおどる。
 せまい六畳の部屋。
 源十郎の父宇右衛門は、老後茶道でも楽しんで、こころしずかに余生を送るつもりで建てた離庵(はなれ)であろうが星移りもの変わるうちに、それがどうだ! 荒れはてて檐(のき)は傾き、草にうずもれて、しかも今は隻眼片腕の狂怪丹下左膳が、憤怒(ふんぬ)のしもとをふるって女身を鞭うつ責め苦の庭となっているのだ。
 くもり日の空は灰色。
 本所もこのへんは遠く家並みをはずれて、雲の切れ目から思い出したように陽が照るごとに、淡い光が横ざまにのぞいては、仁王立ちの左膳の裾とそれにからまるお藤を一矢彩(いろど)ると見るまに、すぐまたかげってゆくばかりで、前の法恩寺橋を渡る人もないらしく、ひっそりとして陽(ひ)あしの早い七つどきだった……。
 夜具や身のまわりの物を片隅に蹴こんだ寒ざむしい室内。わずかにとった真ん中の空所(あき)に、投げつけられたような櫛まきお藤の姿がふてぶてしくうつぶしていた。
 ぐるりと四、五人男が取り巻いている。
 土生(はぶ)仙之助、つづみの与吉(よきち)などの顔がそのなかに見られたが、みな血走った眼を凝(こ)らして左膳とお藤を交互に眺めているだけで言葉もない。
 たださえ痩せほうけた丹下左膳、それが近ごろの夜あるきで露を受け霜に枯れて、ひとしお凄烈(せいれつ)の風を増したのが、カッ! と開いた隻眼に残忍な笑いを宿したと思うと、
 またもや!
「おいッ! なんとか言えい! 畜生ッ、こ、これでもいわねえか! うぬ、これでも……ッ!」
 と、わめくより早く、乾雲の鞘尻弧(こ)を切ってはっし! お藤の背を打ったが――。
 アッ! と歯を噛んで畳を抱いたきり――お藤は眠ったように動かない。
 水のような薄明の底にふだん自慢の櫛まきがねっとりと流れて着ている物のずっこけたあいだから、襟くび膝頭と脂(あぶら)ののりきった白い膚が、怪異な花のように散り咲いているぐあい、怖ろしさを通りこして、観(み)ようによっては艶(えん)な情景だったのだろう、両手を帯へ突っこんだ土生仙之助は、舌なめずりをしながらそうしたお藤の崩態(ほうたい)にあかず見入っていたが、つづみの与吉は眼をそむけて……といってとりなす術(すべ)もなく、ただおろおろするばかりだった。
 この、毎日の責め折檻(せっかん)。
 それが、きょうも始まったところだ。
 なんのため!
 ほかでもない――あの首尾の松の下に乱闘の夜、左膳が栄三郎へ斬りつけた刹那に、櫛まきお藤がお艶をよそおって小舟へとんだため、栄三郎とあの乞食がすばやくつづいて舟を出してしまった。おかげでもう一歩というところであたら長蛇(ちょうだ)を逸(いっ)したのは、すべてお藤のしわざで、ひっこんでいさえすれば、見事若造を斬り棄てて坤竜丸を収め得たものを! さ、いったい全体だれに頼まれて、あんなところへお艶の身代りにとび出したのだ? はじめからあの場へ水を差して、こっちの手はずをぐれはまにするつもりだったに相違ねえ。ふてえ女(あま)だ。なぶり殺しにしてくれる!
 と左膳はお藤を自室に幽閉して日々打つ殴る蹴るの呵責(かしゃく)を加えているのだが、お藤は源十郎のために、お艶をさらう便宜をはかったにすぎないことは、左膳にもよくわかっていたから、ただひとこと殿様に頼まれて……とお藤が洩らすのを証(あかし)に源十郎へ掛け合うつもりでいるものの、それをお藤は、頑固に口を結んでいっかないわぬ。
 がお藤にしてみれば。
 自分がこんな憂目(うきめ)を見ている以上、今にきっと源十郎が割って出て、万事をつくろってくれるものと信じているのだが、源十郎はお艶のことでいっぱいで、左膳へ橋渡しをすると誓ったお藤との約束はもちろん、いまのお藤のくるしみも見てみぬふり、聞いて聞かぬ顔ですぎてきたのだった。
 ほれた弱味――でもあるまいが江戸の姐御(あねご)だ。左膳を見あげたお藤が、ひとすじ血をひいた口もとをにっことほころばせると、一同顔が上がり端(ばた)へ向いた。
 庭へ開いた戸ぐちを人影がふさいでいる。

 例の女物の長襦袢をちらつかせた左膳、乾雲丸を引っさげてつかつかと進みながら、
「なんだ? 源十におさよじゃねえか。てめえたちに用のあるところじゃねえ! なにしに来た?」
 と立ち拡がったが、源十郎はにやり笑ってそっとおさよを突いた。
「さ、老役(ふけやく)には持ってこいだ。な、よろしく謝(あやま)ってやれ」
 ささやかれたおさよ、恐怖に気も顛倒(てんとう)して左膳の顔を見ないように、口のなかでごもごも言ってやつぎばやに頭をさげると、左膳は、「うるせえッ! 婆あの出る幕じゃねえッ」と一喝(かつ)し去って、おさよを越えてうしろの源十郎へ皮肉にからんできた。
「鈴源! 貴様は昼も晩も納戸(なんど)の女にくッついてるんじゃねえのか。珍しいな出てくるとは――どうだ、あの女はお艶と言ったなあ、うまくいったか」
 あざけりつつ、そろりそろりと室内へ引き返す左膳を、源十郎は眼で追って、さもお艶との仲が上首尾らしく、色男ぶった薄わらいをつづけていると、
「おれの女はこれだッ!」
 と、左膳はやにわにお藤を蹴返して、
「こらッ、お藤! 誰のさしがねで刀のさまたげをしたか、それを吐(ぬ)かせ!」
 叫びざま左手に髪を巻きつけて引きずりまわす――が、この狂乱の丹下左膳に身もこころも投げかけているかのように、お藤は蒼白の顔に歯を食いしばって、されるがまま、もう声を立てる気力もないのか、振りほどけた着物をなおそうともしないで、ただがっくりと左膳の脚にとりすがっている。
 この日ごろの打擲(ちょうちゃく)に引きむしられた頭髪がちらばって、部屋じゅうに燃える眼に見えぬ執炎業火(しゅうえんごうか)。
 あまりの態(てい)におさよはすべるように逃げて行ったが、来てみて、思った以上の狼藉(ろうぜき)に胆を消した源十郎、お藤に対してももはや黙っていられないと駈けあがろうとした時!
 阿修羅王(あしゅらおう)のごとく狂い逆上した左膳が、お藤の手をねじあげて身体中ところ嫌わず踏みつけるその形相(ぎょうそう)に! 思わずぎょっとして尻(しり)ごみしていると、陰にふくんだ声が惻々(そくそく)として洩れてきた。
「殿様かい?」
 お藤が、左膳の足の下から、顔をおおう毛髪を通して源十郎へ恨(うら)みの眼光(まなざし)を送っているのだ。
「へん! 殿様がきいてあきれらあ! あたしの念(おもい)を届けてやるからそのかわり隙(すき)をうかがってお艶と見せて舟へ転げこんでくれ――あとのことは悪いようにはしないから、なんてうまいことを言ったのはどこの誰だい」
 源十郎はあわてた。
「これお藤、貴様、のぼせて、何をとりとめもないことを……」
「だまれッ、源十!」
 がなりつけたのは左膳だった。同時に、髪をつかんでお藤を引き起こすと、痛さにあまったお藤は左膳をあおいで悲叫(ひきょう)した。
「よしてください頭だけは! あたしゃお前さんにどうされようと首ったけなんだからね、それゃあ殺すというなら殺されもしようさ。えええ、りっぱに殺されましょうともさ! けど、ちっとでもかわいそうだと思ったら、ねえ丹下様、後生(ごしょう)だからすっぱり斬って、こんな痛いめにあわせないで、あたしも櫛まきお藤だ! あなたのお刀ならいつでも笑って受けましょうよ。だがお待ち、死ぬまえに、あたしにすこし言いぶんがあるんだ」
 と左膳の手を離れて、ふらふらッ! と立ってきたあがり框(がまち)、源十郎の鼻先にべったり崩れて、
「いらっしゃい。おひさしぶりですねえ、ほほほ、その顔! あなたのおかげでお藤もこんなに血だらけになりましたよ」
 にっこりしたかと思うと、左膳をはじめ一同があっけにとられているまえで、お藤の全身が源十郎を望んでおののきわたった。
「二本(りゃん)をきめたのが殿様なら、目ざしはみんな殿様だ! なんだい! 三社まえでだって、頼む時はあんなに程(てい)のいいことを並べやがってそのために人がひどいめにあってるのに、今度あ知らぬ顔の半兵衛だ! そんなのがお侍かい! ちょッ江戸っ児の風上へもおけやしねえ……」
「姐御、姐御、そう気が立っちゃあ話にならねえ。よ、これあ当家の御前(ごぜん)だ。めったなことを……」
 と与吉が気をもんで耳打ちするのを、左膳が横から突きのけた。
「与の公、ひっこんでろッ!」
「そうだとも!」お藤は血腫(ちば)れのした顔をまわして、「与の公なんざ恐れ入って見物してるがいいのさ……ええ、あたしゃこうなったら言うだけのことはいうんだからね――ねえ、そこの殿様、お前さんに頼まれてお艶さんをさらい出す手助けをしたばっかりに、あたしゃ丹下様に叱られてこの始末さ。でも、いっそ嬉しい! 他人と思えば、よもやねえ、こんなお仕置(しお)きはできますまいもの」
 はっと息づまるなかに、痙攣(けいれん)のような笑(え)みを浮かべた左膳、しずかにお藤をどかせて、きらめく一眼を源十郎の面上に射ながら、隻手はもう血に餓える乾雲丸の鯉口(こいぐち)にかかっていた。
「おい、鈴川……」
 と、たいらに呼びかけた左膳の濁声(だみごえ)には、いつ炸裂(さくれつ)するか知れない危険なものが沈んでいた。
「なあ源的、おれと貴公との仲はきのうきょうの交際ではないはずだ。したがって、いかにおれが一身一命を賭して坤竜丸を狙っておるか貴公、とうから百も承知ではないか、しかるにだ――」
 言いながら土間におりた左膳は、みるみる顔いろを変えて、
「しかるに!」
 と一段調子をはりあげた時は、もう自分とじぶんの激情を没して、一剣魔丹下左膳本然の鬼相をあらわしていた。
「おれに助力して坤竜を奪うと誓約しておきながら、なんだッ! 小婦の姿容(しよう)に迷って友を売るとは? やい源十ッ、見さげはてたやつだなてめえはッ!」
 咬(か)みつくようにどなるにつれて左手の乾雲がカタカタカタと鍔(つば)をふるわす。
 風、地に落ちてはちきれそうな沈黙(しずまり)。
 土生仙之助、お藤、与吉ほか二、三の者は、端(はし)近く顔を並べて、戸口の敷居をまたいだままの源十郎と、それに一間のあいだをおいて真向い立っている左膳とを呼吸(いき)もつかず見くらべているのだった。
 ふところ手の源十郎、一桁(ひとけた)うえをいってくすりと笑った。
「丹下!」と低声。「貴様も、そう容易にいきりたつところを見ると、案外子供だなあ! おれは何も貴様のじゃまをしようと思って企(たく)らんだのではないのだ――」
「やかましいッ! だ、黙って、おれに斬らせてくれ貴様を!」
 左膳、だしぬけに眼を細くしてうっとりとなった。怪刀の柄ざわりが、ぐんぐん胸をつきあげてきて、理非曲直(きょくちょく)は第二に、いまは生き血の香さえかげばいい丹下左膳、右頬の剣創(けんそう)をひきゆがめて白い唇が蛇鱗(だりん)のようにわななく……。
 所を異(こと)にする夜泣きの刀の妄念(もうねん)、焔と化してめらめらとかれの裾から燃えあがると見えた。
 生躍(せいやく)する人肉を刃に断(た)つ!
 毒酒のごときその陶酔が、白昼のまぼろしとなって左膳の五感をしびれさせつつあるのだ。
「き、斬らせてくれ! なあ源公、よう! 斬らせてくれよう、あはははは」
 左膳は、しなだれかかるように二、三歩まえへよろめいた。愕然(がくぜん)! として飛びのいた源十郎。
「わからないやつだな――なるほど、おれはあの晩お艶をひっかついで一足さきに帰った。そりゃあ貴公らと行動をともにしなかったのは、重々おれが悪い。その点はあやまる。な、このとおり、幾重にも詫びる……しかしだなあ丹下、お藤が舟へとびこんで、そのお藤をお艶と見誤って敵が即座に舟へ移って逃げたところで、そ、それはおれの知ったことではないぞ」
 すると、聞いていたお藤が、
「まだあんなことをいってる! 殿様、あなたもずいぶん往生(おうじょう)ぎわが悪いねえ、みんなお前さんのあたまから出たことじゃないか」
 いい出すのを与吉がおさえた。
「姐御! ね、もうようがしょう、殿様も折れてらっしゃる――」
「それ見ろ!」左膳は、勝ち誇った眼をお藤から源十郎へ返して、
「貴様の火事泥(かじどろ)さえなけりゃあ俺はあの夜坤竜を手に入れて、これ、この」と左剣を振り鳴らしながら、
「この刀といっしょにしてやることができたのだ――鈴川、貴様に裏切られようとは思わなかったぞ」
「貴公も執念(しゅうねん)ぶかい男だな。なんにしても過ぎたこと。宜(よ)いではないかもう……」
「そっちはよかろうが、こっちはいっこうよくねえ。おれの執念ではない。刀の執念だ。こ、この乾雲の執念なのだッ!」
「フフン!」源十郎はせせら笑った。「おもしろいな。それで何か、毎夜辻斬りにお出ましになるてえわけか」
 すぱりと吐いた。
 と!
「ぶッ!」面色蒼白の度をました左膳、たちまちぽうっとふしぎな紅潮(あからみ)を呈して、「どうして知っとった?」
「や! とうとう口を割ったな。なに、おおかたそんなところと、ちょっとかまを掛けたんだが、なあ丹下、江戸中の不浄役人がかぎまわっている今評判の逆袈裟(けさ)がけの闇斬り……南町の奉行は、たしか大岡越前とかいう名判官だったけなあ! 恐れながら――とひとことおれが駈けこめば! どうだ! あとは自分で考えてみろッ!」
「ううむ! その前に汝(うぬ)をぶった斬るんだ」
「おれは事は好まん」
「き、斬れるぞ源十! け、乾雲が、斬れきれと泣いておる。この声が貴様に聞こえんか」
「事は好まん……が、やむを得ん!」
 源十郎、土気色(つちけいろ)の微笑を突如与吉へふり向けた。
「座敷からおれの刀を持ってこい!」
 芝生――とは名ばかりの、久しく鎌(かま)を知らない中庭の雑草に腰をおろした左膳、手ぢかの道しばの葉を一本抜きとって、
「これ、見ろ、こいつにこんなにくれが来ている。してみると、二百十日から二十日までのあいだに一つ大暴風雨がくるかな。昔からの言いつたえに間違いはない」
 などとのんきなことをいっていたが、やがて、つづみの与吉がひっ返してきて、こわごわ源十郎に大刀を渡すのを見ると、さすがにすっくと起きあがった。
「では、いよいよやるかな」
 左膳の青眼(せいがん)は薄日(うすび)に笑う。
「源十、死ぬ前にひとこと礼を言わせてくれ」
「死ぬ……とは誰が死ぬのだ?」
「きまってるじゃねえか。てめえが今死ぬんだ――」
「うふふ! 死ぬのは貴様だろう。なんでも言え。聞こう」
「だいぶ長く厄介になったな。ありがてえぞ……これだけだ!」
「ははははは」源十郎の笑声はどこかうつろだった。「鳥のまさに死なんとするやその声悲し。人のまさに死なんとするやその言うところ善(よ)しとかや――おい丹下、貴様ほんとに討合(はたしあ)いを望んでおるのか」
「あたりめえよ!」
 一歩さがった左膳、タタタ! と平糸巻きの鞘を抜きおとして、蒼寒く沈む乾雲丸の鏡身(きょうしん)を左手にさげた。こともなげに微笑(ほほえ)んでいる。
「てめえのおかげで坤竜を取り逃がしたので、おれはともかく、この乾雲が貴様を恨んで、ぜひ斬りてえといってしようがねえのだ。まあ、貴様にしたところで生きていてえつごうもいろいろあろうが、ここは一つ万障(ばんしょう)繰(く)り合わせて俺の手にかかってくれ」
「笑わせてはいかん。どうもあきれるほどしつこいやつだな」
「しつこくなけりゃあできん仕事をしておるでな。われながらゆえあるかなだ。第一、おれの辻斬りを感づいた以上、なんとあっても生かしてはおけん」
「そうか……では! それほどまでに所望なら、鈴川源十郎、いかにもお相手つかまつろう! だがしかし後悔さきに立たず、一太刀食らってから待ったは遅いぞ!」
「何を言やがるッ! 腰抜けめッ! てめえの血が赤えか白いか、それをみてやるんだ。おいッ! 来いよ早く! 往くぞッ、こなけりゃあ――ッ! はっはっは」
 哄笑(こうしょう)とともに伸びてきた乾雲丸の閃鋩(せんぼう)、眼前三寸のところに渦輪を巻いて挑む。
 もはや応(おう)ずるより途(みち)はない! と観念した源十郎、しずかな声だった。
「大人気ない。が、参るぞ丹下ッ! ……こうだッ」
 とうめくより早く、土を蹴散らした足の開き、去水流相伝(きょすいりゅうそうでん)網笠撥(あみがさは)ねの居合(いあい)に、豪刀ななめに飛んでガッ! と下から乾雲を払った。
 引き退いた左膳、流れるままにじわじわと左へ寄ってくる。同時に、源十郎は右へ二、三歩、さきまわりして機を制した。
 暮れをいそぐ陽が二つの剣面を映えて、白い円光が咲いては消える。霜枯れの庭に凄壮(せいそう)の気をみなぎらして。
 仔猫(こねこ)が垣根から両人をのぞいてつまらなそうに草の穂にたわむれているのを、左膳はちらりと見て刀痕をくねらせて――笑ったのだ。
「鈴川」と別人のように軽明な語調。「おれあこうやってる時だけ生きているという気がするのだ。因果(いんが)な性得(しょうとく)よなあ! 貴様が壺を伏せたりあけたりする手つきと、女を連れこむ遣口(やりくち)は見て知っておるが太刀筋は初めてだ。存分に撃ちこんで来いよ!」
 源十郎は無言。
 青眼にとった柄元を心もちおろすと、うしろへ踏みしめた左足の爪先に、思わず力が入って土くれを砕いた。
 双方(そうほう)不動。あごをひいた左膳がかすかに左剣にたるみをくれて、隻眼をはすに棒のように静止したままペッペッと唾を吐きちらしているのは、いつもの癖で、満身の闘志が洩れて出るのだ……。
 どっちも、まさか抜きはすまい。こう思っていたのが、この立合い、飛ばっちりを食ってはたまらぬとお藤と与吉は早々に姿を消して、残っている仙之助も、手をつけかねてうろうろするばかり。
 新影、宝山二流を合(がっ)した去水(きょすい)流。
 法の一字を割って去水(きょすい)と読ませたのだという。
 始祖(しそ)は浅田九郎兵衛門下の都築(つづき)安右衛門。
 鈴川源十郎、なかなかこの去水流をよくするとみえて、剣に先立って気まず人を呑むていの丹下左膳も、みだりに発しない……のかと思っていると、スウッと刀をひいた左膳、やにわにゲラゲラ笑い出した。
「ははは、よせよ。源公! てめえはもう死んでらあ!」

 ふっと笑いやんだ左膳は、あっけにとられている源十郎を尻眼にかけて、
「自分でじぶんの参ったのを知らなきゃ世話あねえ……俺はいま、活眼(かつがん)を開いてこの斬り合いの先を見越したのだ。いいか、おれが乾雲を躍らせて貴様の胴へ打ちこんだ――と考えてみた。と、貴様は峰をかわして見事におさえた。うん、おさえたにはおさえた。がだ、すぐさま俺はひっぱずして貴様の右肩(うけん)を望んで割りつけた、と思ったのが……ははは、りっぱにきまったぞ源十、おれあ貴様の血が虹(にじ)のように飛ぶのを見た。たしかに見たのだ!」
 源十郎はくしゃみをする前のような奇妙な顔をした。
「…………」
「だから貴様はすでに死んだ。おれに斬り殺されたのだ。そこに立っておるのは貴様の亡者だよ。あはははは、戦わずして勝敗を知る。剣禅(けんぜん)一致(ち)の妙諦(みょうてい)だな」
 源十郎も蒼い頬に苦笑を浮かべて、
「勝手なことをいう――」
 と刀をおろした時、周囲をまごまごしていた土生仙之助が仲にはいった。
「同士討ちの機ではござるまい。まま御両所、ここは仙之助に免じておひきください」
 左膳は口を曲げて笑った。
「なんでえ今ごろ! 気のきかねえ野郎だなあ!」
 そして乾雲丸を鞘におさめて、さっさと離庵(はなれ)へはいっていった。
 立ち去ろうとする源十郎を、仙之助がぶらさがるように抱きとめて戸内へつれこむ。
 まもなく手が鳴っておさよが呼ばれたのは、庵室の三人、これから夜へかけて仲なおりの酒盛り……例によってそのうちお艶が引き出されることだろうが――。
 うら木戸のそばに納屋(なや)がある。
 薪(たきぎ)、柴(しば)など積みあげてあるそのかげ。
 昼間でさえ陽がとどかないで、年中しめった木の臭気(しゅうき)がむれている小屋のうしろ。いまは夕ぐれ間近いうそ寒さがほの暗くこめて、上にかぶさる椎(しい)の枝から落葉が雨と降るところに。
 一組の男女。
 櫛まきお藤とつづみの与吉が、地にしゃがんで話しこんでいた。
 お藤は、燃える眼を与吉の口もとに注いで、半纒(はんてん)の裾を土に踏むのもかまわず、とびつくようににじり寄っている。
「それじゃあ何かえ、お前の言うこと、うそじゃあないんだね?」
 その声のうわずっているのに、与吉はびっくりしてあたりを見まわした。
「姐御、そう肝(かん)が高ぶっちゃ話がしにくい。いえね、あっしもよっぽど黙ってようかと考えたんだが、あんまり姐御がかわいそうだから思いきってぶちまけるだけでね、何も姐御にこんな嘘をついたっておもしろおかしくもなかろうじゃありませんか。いえさ、これあただあっしの見当じゃあねえんだ。まあいわば丹下の殿様が白状したようなもんだから、まず動きのねえところでしょうぜ」
 さっとお藤の顔から血の気が引くと、悪寒(おかん)に襲われたように細かくふるえ出して、
「白状……って、丹下さまが何かおいいだったかえ?」
「さあ、そうきかれると困るんだが」と与吉はわざとひょうきんに頭をかいて、「白状でもねえな。じつあ寝言なんでさあ。へえ、その寝言を聞いてね、あっしが内密に探りを入れると――」
 こう言いさして、棒片(ぼうきれ)でしきりに地面を突ついている与吉は、お藤にうながされてあとをつづけた。
 それによると。
 このごろ左膳のようすがどことなく変わってきていることは、思いをかけているだけにお藤は誰よりも先に気がついていたが、朝夕出入りして親しく身辺の世話をする与吉にはそれがいっそう眼についてならなかった。
 溜息(ためいき)する左膳。
 考えこむ左膳。
 ――ついぞ見たことのない左膳である。で、それとなく注意していると、左膳はよく寝言をいう。弥生(やよい)という名。
 弥生と言えば、女に相違ない……!
 と、それから与吉こっそりかぎまわってみると、はたして! もと乾雲丸を蔵していた根津あけぼのの里の剣道指南小野塚鉄斎の娘に弥生というのがあって、左膳のために父と刀を失ってから行方も知れずになっているという。
「この弥生ってえのに丹下様が御執心(ごしゅうしん)なりゃこそ、ちっとのことでああ姐御(あねご)をひでえめにあわせるんだ。それを思うと、あっしゃあ口惜しくてならねえ!」
 いい気持にしゃべりながら何ごころなくひょいとお藤を見あげた与吉、思わずどうッ! と尻もちをついて叫んだ。
「あ! 姐御! なんて顔をするんだ!」
 恋の神様が桃色なら?
 嫉妬(しっと)の神は全身呪詛(じゅそ)のみどりに塗(ぬ)られていよう!
 その緑面の女夜叉(おんなやしゃ)を与吉はいま眼のあたりに見たのだった。

 靄然(あいぜん)として暮色の迫るところ。
 物置小屋のかげに、つづみの与吉はつばをのんで、蹌踉(そうろう)と椎の老幹に身をささえているお藤のようすを心配げに見あげた。
 丹下左膳が弥生という娘を恋している――と聞いたお藤は、さてはッ! と思うと身体じゅうの血が一時に凍って、うつろな眼があらぬ方へ走るのだった……紙のような唇をわなわなとおののかせて。
 嫉心鬼心(しっしんきしん)。
 それが眼に見えぬほむらとなって、櫛まきお藤の凄艶(せいえん)な立ち姿を蒼白いたそがれのなかに浮き出している。
 与吉はわれ知らず面を伏せて、心中に足もとの土へ話しかけた。こいつあとんだことをしたぞ! まさかこんなに相(そう)まで変えようとは思わなかったが、ちえッ! 黙っていりゃあよかった……。
 と、頭のうえで、夢でもみているような、しらけきったお藤の声がした。
「きれいな娘だろうねえ、その弥生さんとかってのは」
「へ?」と顔を上げた与吉は、とたんに、三斗の冷水を襟元からつぎこまれた感がして、「へえ、なんでもあけぼの小町といわれたくらいですから、それあもう――」
 と語尾を濁して黙りこんだ。
 仮面のようなお藤の顔が、こわばった笑いにゆがんだのを見て、与吉は慄然(ぞっ)としたのだった。
「それはそうだろうさ。あたしみたいなお婆あさんなんか足もとへも寄れやあしまい。はははは、知ってるよ! でも与の公、お前いいことをしらせておくれだったね。ほんの少しだけれど、さ、お礼だ、取っといておくれ」
 黒襟のあいだを白い手が動いたかと思うと、ちゃりいん! と一つ、澄んだ音とともに、小判が与吉の眼前におどった。
 同時に。
 ぽかんとしている与吉をその場に残して、お藤は、夕ぐれの庭に息づく雑草を踏んで歩き出した。嫉妬(しっと)にわれを忘れたお藤、よろめく足を千鳥に踏みしめて、さながら幽明(ゆうめい)のさかいを往(ゆ)くように。
 声のない笑いがお藤の口を洩れる――。
 今さら男を慕うの恋するのという自分ではない。それが、丹下左膳のもっている何ものかにひきつけられて、あの隻眼隻手のどこがいいのかと傍人(ひと)もわらえば自らもふしぎに耐えないくらい思いをよせているのに、針の先ほども通じないばかりか、先夜来すこしのことを根に持ってあの責め折檻(せっかん)が続いたのも、あの方に弥生という相手があってこのあたしとあたしの真実をじゃまにすればこそであったのか。
 それにしても――
 源十郎の殿様は、まあなんというお人だろう!
 必ず丹下さまとの仲をとりもってやるから、そのかわりに……という堅い約束のもとに、お艶を連れ出す手伝いをしたはずなのに! こっちの気をつたえるどころか、そのため、はからずも左膳さまの激しい怒りを買ってもあのとおり最後まで知らぬ顔の半兵衛をきめていやがるッ!
 眼中人のない丹下左膳に、何もかも知りつくした心を向けていた櫛まきお藤、もうこうなれば、もとより眼中に人はないのだ。
 娘の恋が泪(なみだ)の恋なら、お藤の恋は火の恋だ。
 水をぶっかけられて消えたあとに、まっ黒ぐろに焼けのこった蛇の醜骸(しゅうがい)。
 復讐!
 櫛まきお藤ともあろうものが小むすめ輩(やから)に男を奪られて人の嘲笑(わらい)をうけてなろうか――身もこころも羅刹(らせつ)にまかせたお藤は胸に一計あるもののごとく、とっぷりと降りた夜のとばりにまぎれて、ひそかに母屋の縁へ。
 縁の端は納戸。
 その納戸の障子に、大きな影法師が二つ。もつれあってゆれていた……。
「ねえお艶、そういうわけで」とお艶の手を取った老母さよの声は、ともすれば、高まるのだった。
「殿様も一生おそばにおいてくださるとおっしゃるんだから、お前もその気でせいぜい御機嫌(ごきげん)を取り結んだらどうだえ。あたしゃ決してためにならないことは言わないよ。栄三郎さんのほうだって、殿様にお願いして丹下さまのお腰の物を渡してやったら、文句なしに手を切るだろうと思うんだがねえ」
 お艶は、行燈のかげに身をちぢめる。
「まあ! お母さんたら、情けない! 今になってそんな人非人(ひとでなし)のことが――」
「だからさ、だから何も早急におきめとは言ってやしないじゃないか。ま、とにかくちょっとお化粧(けしょう)をしてお酒の席へだけは出ておくれよ。ね! 笑って、後生だからにこにこして……! さっきからお艶はまだかってきつい御催促なんだよ。さ、いい年齢(とし)をしてなんだえ、そんなにお母さんに世話をやかせるもんじゃないよ。あいだに立ってわたしが困るばかりじゃないか――はいただいま参ります! ねえ、さ、髪をなおしてあげるから」
「いやですったら嫌ですッ!」
 とお艶が必死に母の手を払った時、障子のそとに静かな衣(きぬ)ずれの音がとまった。
「今晩は……」
「こんばんは……おさよさんはいますか」障子のむこうに忍ぶ低声(こごえ)がしたかと思うと、そっと外部(そと)からあけたのを見て、おさよははっと呼吸をつめた。
 濃(こ)いみどりいろの顔面、相貌(そうぼう)夜叉(やしゃ)のごとき櫛まきお藤が、左膳の笞(しもと)の痕(あと)をむらさきの斑点(ぶち)に見せて、変化(へんげ)のようににっこり笑って立っているのだ。
 ずいとはいりこむと、べったりすわって斜めにうしろの縁側(えんがわ)を見返ったお藤、「おさよさん、お前さん何をそんなにびっくりしているのさ。殿様がお呼びだよ。お燗(かん)がきれたってさっきから狂気みたいにがなっているんだ。行ってみておやりな」
「ええ、ですから、とても、一人じゃ手がまわりませんから、このお艶――さんに助けてもらおうと思いましてね。それに殿様の御意(ぎょい)もあることだし……さあお艶さん、おとなしく離室(はなれ)のほうへおいで。ね、お咎(とが)めのないうちに」これ幸いと再びおさよがお艶の手を取りせきたてるのを、お藤は、所作(しょさ)そのままの手でぴたりとおさえておいて、凄味(すごみ)に冷え入る剣幕(けんまく)をおさよへあびせた。
「いいじゃないの、ここは! お艶さんには、いろいろ殿様に頼まれた話もあるんだから、お前さんはあっちへお行きってば!」
「でも、お艶をつれてくるようにと――」
「しつこい婆さんだねえ。あたしが連れていくからいいじゃないか。それより、癇癪(かんしゃく)持ちがそろっているんだ。また徳利でも投げつけられたって知らないよ。早くさ! ちょッ! さっさと消えちまいやがれッ!」
 おどかされたおさよが、逃げるように廊下を飛んでゆくと、その跫音(あしおと)の遠ざかるのを待っていたお藤は急に眼を笑わせて部屋の隅のお艶を見やった。
 もう五刻(いつつ)をまわったろう。
 魔(ま)の淵(ふち)のようなしずけさの底に、闇黒(やみ)とともに這いよる夜寒の気を、お艶は薄着の肩にふせぐ術(すべ)もなく、じっと動かないお藤の凝視(ぎょうし)に射すくめられた。
 酒を呼ぶ離庵(はなれ)の声が手にとるよう……堀沿(ほりぞ)いの代地(だいち)を流す按摩の笛が、風に乗って聞こえてくる。
 膝を進めたお藤は、横に手を突いて行燈のかげをのぞいた。
「お艶さん、お前、かわいそうにすこし痩せたねえ。おうお! むりもないとも。世間の苦労をひとりで集めたような――あたしゃいつも与の公なんかに言っていますのさ。ほんとに納戸の娘さんはお気の毒だって」
 積もる日の辛苦(しんく)に、たださえ気の弱いお艶、筋ならぬ人の慰め言と空耳(そらみみ)にきいても、つい身につまされて熱い涙の一滴に……ややもすれば頬を濡らすのだった。
 そこをお藤がすり寄って、
「ねえ、お前さんあたしを恨んでおいでだろうねえ? いいえさ、そりゃ怨まれてもしようがないけれど、実あね、あたしも当家の殿様に一杯食わされた組でね、言わばまあお前さんとは同じ土舟の乗合いさ。これも何かの御縁だろうよ。こう考えて、お前さんをほっといちゃあ今日様(こんにちさま)にすまないのさ、これから力になったりなられたり、なんてわけでね。それでお近づきのしるしに、あたしゃ、ちょいと、ほほほほ、仁義にまかり出たんだよ」
 お艶がかすかに頭をさげると、お藤は、
「これを御覧(ごらん)!」と袂(たもと)からわらじの先を示して、「ね、このとおり生れ故郷の江戸でさえあたしゃ旅にいるんだ。江戸お構え兇状持(きょうじょうも)ち。いつお役人の眼にとまっても、お墓まいりにきのう来ましたって、ほほほほ。こいつをはいて見せるのさ。まあ、あたしはそれでいいけれどお前さんにはかわいい男があったねえ」
 お艶は、海老(えび)のようにあかくなって二つに折れる。
「男ごころとこのごろのお天気、あてにならないものの両大関ってね」
「え!」と、ぼんやりあげたお艶の顔へお藤の眼は鋭かった。
「弥生さまとかって娘さん、あれは今どこにいるかお前知ってるだろう?」
「ええ。なんでも三番町のお旗本土屋多門さま方に引き取られているとかと聞きましたが――」
これだけ言わせれば用はないようなものだが、
「さ。それがとんだ間違いだから大笑い」と真顔を作ったお藤、「お前さん泣いてる時じゃないよ。男なんて何をしてるか知れやしない。他人事(ひとごと)だけれど、あんまりお前って者が踏みつけにされてるからあたしゃ性分(しょうぶん)で腹が立って……さ、しっかりおしよ、いいかえ、弥生さんはお前のいい人と家を持ってるんだとさ」
 ええッ! まあ! と思わずはじけ反(そ)るお艶に、お藤はそばから手を添えて、
「じぶんで乗りこんで、いいたいことを存分(ぞんぶん)に言ってやるがいいのさ。今からあたしが案内してあげよう!」
 一石二鳥。源十郎への復讐にお艶を逃がし、左膳への意趣(いしゅ)返しには弥生のいどころを知ったお藤、ひそかに何事か胸中にたたんで、わななくお艶をいそがせて庭に立ったが、まもなく化物屋敷の裏木戸から、取り乱した服装の女性嫉妬(しっと)の化身(けしん)が二つ、あたりを見まわしながら無明の夜にのまれ去ると、あとには、立ち樹の枝に風がざわめき渡って、はなれに唄声(うたごえ)がわいた。

 杯盤狼藉(はいばんろうぜき)酒池肉林(しゅちにくりん)――というほどの馳走でもないが、沢庵(たくあん)の輪切りにくさやを肴(さかな)に、時ならぬ夜ざかもりがはずんで、ここ離庵の左膳の居間には、左膳、源十郎、仙之助に与吉。
 赤鬼青鬼地獄酒宴(じごくしゅえん)の図。
「おいッ! 源十、源的、源の字、ああいや、鈴川源十郎殿ッ! 一献(こん)参ろう」
 左膳、大刀乾雲丸を膝近く引きつけて、玉山崩(くず)れようとして一眼ことのほか赤い。
「す、鈴川源十郎殿、ときやがらあ! しかしなんだぞ、ううい、貴公はなかなかもって手性(てしょう)がいいや、こうつけた青眼に相当重みがある。さそいに乗らねえところがえらい。去水流ごときは畢竟(ひっきょう)これ居合の芸当だな。見事おれに破られたじゃあねえか。あっはっは」
 底の知れない微笑とともに、源十郎は左膳に、盃(さかずき)を返して、
「貴様の殺剣とは違っておれのは王道(おうどう)の剣だ」
 すると左膳は手のない袖をゆすって嘯笑(しょうしょう)した。
「殺人剣即活人剣。よく殺す者またよく活(い)かす……はははは。貴様はかわいやつだよなあ、おれの兄貴だ。ま、無頼の弟と思って、末ながく頼むよ」
 と左膳、源十郎ともにけろりとしている。
 左膳が隻腕の肘(ひじ)をはって型ばかりの低頭(じぎ)をすると、土生仙之助が手をうった。
「そうだ、そうだ! 言わば兄弟喧嘩だ。根に持つことはない」
「へえ。土生の御前のおっしゃるとおりでございます」いつのまにか来て末座につらなっている与吉も、両方の顔いろを見ながら口を出す。
「ただ、このうえは皆様がお手貸(てか)しなすって、丹下の殿様が首尾よくお刀をお納めになるようにと、へえ、手前も祈らねえ日はございません……あっしみてえな三下でも何かお役に立つことがありましたら、申しつけくださいまし」
「うむ」刀痕の深い顔を酒に輝かせて、快然と笑った左膳、「まあ、いいや。話が理に落ちた。しかし、あんな若造の一匹や二匹おれの手ひとつで片のつかねえわけはねえが、総髪ひげむくじゃらの乞食がひとりついている。あいつには、この左膳もいささか手を焼いた」
 と語り出したのは。
 いつぞやの夜、大岡の邸前に辻斬りを働いた節(せつ)。
 おぼえのあるこじき浪人の偉丈夫に見とがめられて、先方が背をめぐらしたところを乾雲を躍らして斬りつけたが、や! 損じたかッ! と気のついた時は、すでに相手は動発して身をかわし、瞬間、こっちの肘に指力を感じたかと思うと、肩の闇黒に一声。
 馬鹿めッ
 と! もう姿は真夜(しんや)の霧に消えていた――。
「あのときだけはおれも汗をかいたよ」
 こう左膳が結ぶと、
「上には上があるものだな」
「へえい! だが、丹下さまより強いやつなんて、ねえ殿様、そいつあまあ天狗(てんぐ)でげしょう」
 などと仙之助と与吉、それぞれに追従(ついしょう)を忘れないが、源十郎は、ひとり杯のふちをなめながら中庭の足音をこころ待ちしている……気を入れかえたお艶が、いまにもあでやかな笑顔を見せるであろうと。
 赤っぽい光を乱して、四人の影が入りまじる。さかずきが飛ぶ。箸が伸びる。徳利の底をたたく――長夜の飲(いん)。言葉が切れると、夜の更ける音が耳をつき刺すようだ。
 左膳は、剣を抱いて横になる。
「お藤はどうした?」
「へえ。さっき帰りました」
「すこし手荒かったかな、ははははは」
 と左膳が虹のような酒気を吐いたとき、おさよの声が土間口(ぐち)をのぞいた。
「殿様、ちょっとお顔を拝借(はいしゃく)……」
 起きあがった源十郎は、
「お艶が待っていると申すぞ。ひとりで眺めずにここへつれて参れ」
 という左膳の揶揄(やゆ)を背中に聞いておさよと並んで母屋のほうへ歩き出した。
 霜に凝(こ)ろうとする夜露に、庭下駄の緒(お)が重く湿(しめ)る。
 風に雨の香がしていた。
「殿様」
「なんだ」
「あの、お艶のことでございますが」
「うん。どうじゃな? 靡(なび)きそうか」
「はい。いろいろといい聞かせましたところが、一生おそばにおいてくださるなら――と申しております」
「そうか。御苦労(ごくろう)。いずれ後から貴様にも礼を取らせる」
「いいえ、そんな――けれど、殿様」
「なんだ?」
「あのう、わたくしはお艶の……」
 いいながらおさよが納戸(なんど)をあけると、一眼なかを見た源十郎、むずと老婆の手をつかんだ。
「やッ! 見ろッ! おらんではないかお艶はッ! あ! 縁(えん)があいとる! に、逃がしたな貴様ッ!」

 関の孫六の鍛刀乾雲丸。
 夜泣きの刀のいわれは、脇差坤竜丸と所をべつにすれば……かならず丑満(うしみつ)のころあいに迷雲、地中の竜を慕ってすすり哭(な)くとの伝奇(でんき)である。
 いまや山川草木(さんせんそうもく)の霊さえ眠る真夜なか。
 この、本所鈴川の屋敷の離室(はなれ)で。
 左膳は、またしてもその泣き声を聞いたのだった。
 妖剣乾雲、いかなる涙をもって左膳に話しかけたか――。
 おどろおどろとして何ごとかを陳弁(ちんべん)する老女のごとき声が、酔い痴(し)れた左膳の耳へ虫の羽音のようにひびいてくる。かれは、隻眼を吊(つ)り開けて膝元の乾雲を凝視した。
 おのが手の脂(あぶら)に光る赤銅の柄(つか)にむら雲の彫り、平糸を巻きしめた鞘……陣太刀乾雲丸は、鍔(つば)をまくらに、やぶれ畳にしっとりと刀姿を横たえて、はだか蝋燭(ろうそく)の赤いかげが細かくふるえている。

 剣精(けんせい)のうったえ。
 それが左膳にはっきり聞こえるのだ。
「血、血、血……人を斬ろう、人を斬ろう」
 というように。
 左膳はにっこりした。が、かれはふしぎな気がした。何故? いままでも左膳はよく深夜に刀の泣き声らしいものをきいたことがあるが、それはいつもきまって若い女のすすりなきだったけれど、今夜のはたしかに老婆の涕泣(ていきゅう)だからだ。
 その愁声(しゅうせい)が、地の底からうめくように断続して左膳の酔耳に伝わると、はっとした彼は、あたりをぬすみ見て乾雲丸を取りあげた。
 源十郎はおさよといっしょにさっき出て行ったきりである。飲食(のみくい)のあとが、ところ狭いまでに散らかったなかに仙之助と与吉はいつしか酔いつぶれて眠っていた。
 深々と更けわたる夜気。
 と、またもや鬼調(きちょう)を帯びた声が……乾雲丸の刀身から?
 左膳は一、二寸、左手に乾雲を抜いてみた。同時に、突き上げられたように起(た)ったかと思うと、彼はすでにその大刀を落とし差しに、足音を忍ばせて庵室の土間に降り立った。
 人は眠りこけている。見るものはない。それなのに左膳は、すばやく懐中を探って黒布を取り出し、片手で器用に顔を包んだ。音のしないように離室を出ると、酒に熱した体に闇黒(やみ)を吹く夜風が快よかった。こうして一個のほそ長い影と化した左膳、乾雲丸を横たえて植えこみづたいに屋敷をぬけてゆく。
 どこへ?
 江戸の辻々に行人を斬りに。
 なんのため?
 ただ斬るため。
 しかし、そのうち雲竜相応じ、刀の手引きで諏訪(すわ)栄三郎に会うであろうと、左膳は一心にそれを念じていたのだったが、いまは斬らんがために斬り、ひたすら殺さんがために殺す左膳であった。
 一対(つい)におさまっていれば何事もないが、番(つがい)を離れたが最後、絶えず人血を欲してやまないのが奇刃(きじん)乾雲である。その剣心に魅(み)し去られて、左膳が刀を差すというよりも刀が左膳をさし、左膳が人を斬り殺すというよりも刀が人を斬り殺す辻斬りに、左膳はこうして毎夜の闇黒をさまよい歩いているのだったが、ちらと乾雲の刃を見ると、人を斬らずにはいられなくなる左膳、このごろでは彼は、夜生温(なまぬる)い血しぶきを浴びることによってのみ、昼間はかろうじていささかの睡眠に神気を休め得るありさまだった。
 が、刀が哭(な)くと聞いたのは、左膳邪心の迷いで、いままでの若い女性の声は納戸のお艶(つや)、今夜の老婆の泣き声は、お艶の代りにそこにとじこめられたおさよの声であった。
 左膳の出て行ったあと。
 納戸では、源十郎がおさよを詰問(きつもん)している。
「どうも俺は、以前から変だとは思っていたが、これ! さよ! 貴様がお艶を逃亡させたに相違ない。いったい貴様はあの女の何なのだ? ううん? いずれ近い身寄りとはにらんでおるが、真直(まっす)ぐに申し立てろッ」
 籠の鳥に飛び去られた源十郎、与力の鈴源と言われるだけあって泣き伏すおさよの前にしゃがんでこうたたみかけた。
「伯母(おば)か、知合いか、なんだ?」
 おさよは弁解も尽きたらしく、もう強情に黙りこくっていると、源十郎は、
「いずれ身体にきいていわせてみせるが、お艶が俺の手に帰るまでは、貴様をここから出すことはならぬ」
 いい捨てて、先に懲(こ)りたものか、今度は板戸に錠をおろして立ち去って行った。きょうまで娘のいた部屋に、その母を幽閉して――。

   文つぶて

 どこか雲のうらに月があると見えて、灰色を帯びた銀の光が、降るともなく、夢のようにただよっている夜だった。
 もう明(あ)け方(がた)にまもあるまい。
 右手の玉姫(たまひめ)神社の方角が東にあたっているのだろう。はや白じらとした暁のいろが森のむこうにわき動いていた。

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