仇討たれ戯作
是非お友達にも!
★暇つぶし何某★

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著者名:林不忘 

      一

 六樹園石川(いしかわ)雅望(まさもち)は、このごろいつも不愉快な顔をして、四谷内藤新宿の家に引き籠って額に深い竪皺を刻んでいた。
 彼はどっちを向いても嫌なことばかりだと思った。陰惨な敵討の読物が流行するのが六樹園は慨嘆に耐えなかったのである。
 客あれば彼はよくこの風潮を論じて真剣に文学の堕落を憂えたものであった。
 一度三馬が下町の真ん中からぶらりとこの山の手の六樹園大人(たいじん)を訪れたことがあった。文化三年の火事に四日市の古本店を焼け出されて、本石町新道(ほんこくちょうじんみち)に移ってからで、式亭(しきてい)三馬はその戯作道の頂天にある時代だった。酒飲みで遊び好きの三馬は、またよく人と争い、人を罵って、当時の有名な京伝(きょうでん)、馬琴(ばきん)などの文壇人とも交際がなかった。ことに曲亭(きょくてい)とは犬猿の仲であった。馬琴の眼には三馬などは市井(しせい)の俗物としか映らなかったし、三馬は馬琴をその傲岸憎むべしとなしていた。この驕々たる三馬が一日思い立って日本橋から遠い四谷の端れまで駕輿(かご)をやったのは、狂歌師宿屋(やどや)飯盛(めしもり)としての雅望と、否、それよりも六樹園の本来の面目である国文学の研究に少からず傾到するところがあったからだ。
 婢(ひ)が書斎の六樹園の許に刺を通じて、
「菊池太助さまとおっしゃる方がお見えになりましてござりますが。」
 と言った時六樹園は誰だかわからなかった。もう一度訊き返せと命じて婢を玄関へ去らせた。するとすぐ引きかえして来て、
「しゃらくさい、とおっしゃるだけで。」
 と女中は口を覆って笑った。
「洒落斎(しゃらくさい)、おう、式亭どのか。」
 と六樹園はその一代の名著雅言集覧(がげんしゅうらん)の校正の朱筆を投じて立って三馬を迎い入れた。
 語る相手欲しい時だったので六樹園は雀躍(じゃくやく)せんばかりで、談はすぐ最近の文壇の傾向へ入って行った。
 どうせ無頼な戯作者だと六樹園は三馬を卑しめて見ていたが、この男と言葉を交える前に日頃から不審に耐えないと思っている彼の態度についてまずこの機会に訊いてみたいと六樹園は思った。
 で、話が進む前に六樹園は切り出した。
「尊家は仙方延寿丹(せんぽうえんじゅたん)、または江戸の水とやら申す化粧水を売り出し、引札を書き、はなはだしきは御著作の中にその効能を広告なさるということですが、真実(ほんとう)ですか。もしほんとうならどういうおこころでそういうことをなさるるかそれを伺いたい。」
 三馬は意外だという顔をした。
「さようなことは私ばかりではげえせん。京伝の煙草入れ、煙管(きせる)、近くは読書丸、ともに自ら引札も書き、また作品のなかで広告をいたしておりやす。」
「いや、山東氏は山東氏として、足下のお気持を聞きたいのです。」
「人間は何でも売る物が多ければ多いほど生活(くらし)がよくなりやすからな。延寿丹も江戸の水も、私の戯作も、みなこれ旦暮(たんぼ)の資のためでげす。」
 三馬はけろりとして答えた。六樹園は喫驚(きっきょう)して客の顔を見つめた。
「なにごとも生活(たつき)のためと仰せらるる。」
「さよう。大人の御勉強、御著述も、早く言えば生活のためでげしょう。」
「いや、拙(せつ)はさようなことは考えませぬ。拙は文学道のためにのみ筆をとります。」
 六樹園は昂然として言った。今度は三馬がびっくりした。
「文学道――さようなものはどこにあるか一度めぐり会いてえものでげす。」
 と三馬はにたにたして語をつないだ。
「なるほど、六樹園大人は小伝馬町の名だたる旅亭(りょてい)糠屋(ぬかや)のおん曹子(ぞうし)、生涯衣食に窮せぬ財を擁してこそ、はじめて文学道の何のときいた風な口がきけやす。文を売って右から左に一家の口を糊(のり)する輩は、正直に売文を名乗ったほうがまだ茶気があるだけでも助かりやす。」
 ずいぶんものの考え方が違うものだと六樹園は思った。度し難い気がして黙ってしまった。同じ文字のことに携(たずさわ)ってながらこんなに立場が違うのはどういうわけであろうと倉皇(そうこう)のあいだに考えてみた。すると三馬がいま言った生活という言葉が深く自分の心に残っているのに六樹園は気がついた。
 それはこの雅言集覧などにはおよそ収録することのできない、巷の埃(ほこ)り臭い言語だと思った。だが、その生活という言葉のどこかに生々しい光沢(つや)があって、それが六樹園に今まで知らなかった新しい光りものを見せられたような感じを起させた。
 はじめから気持が食い違って主客はちょっと気まずい無言をつづけていた。
 ややあって六樹園が言った。
「仇討ち物の流行はどうです。いくら女子供相手の草双紙(くさぞうし)でも、あの荒唐無稽ぶりは私は許せないと思います。睡気ざましの、いや、夜床の中で眠気を誘うための読物だからとて、ああまで時代の考証を無視していいものだとは下拙(げせつ)には考えられませぬ。面白ければいいのだという考えが間違っているのだと私は思う。考証を蹂躙(じゅうりん)しては拙などにはいっこう面白くござらぬ。考証も尊び、面白くもあるという風にはまいらぬものでしょうか。読物としての興味と考証の尊重とが相反するとは私にはどうしても思われませぬが。」
 すると三馬はこんな言葉を吐いた。
「いや、考証を尊んでは面白い物は絶対に書けやせんね。考証と読物の興味とは永遠の喧嘩相手でげす。あっしは考証を無視するのが作者の唯一の仕事だとまで思いやすよ。その古典を引証するがごときはあえて精確なるを要しやせん。一、二仮托(かたく)して可なりでげす。あっしは曲亭のように、余は悪書を作りその代金もて広く良書を購(あがな)うものなりなどと、さような気障なせりふを言って万巻の書を買い集めはしやせんが、自分が著作する刻苦を思えば他書もまたこれを粗略にすることはできやせん。本は大切に扱っておりやすも、見ぬ世の昔のことをよく知り、考証の力あってその考証を乗り越え、考証を考証と見せぬのがまず作者の理想でげしょうな。」
 と言った。
 六樹園は、下素下人相手の人気取り専門の下らぬ作家とのみ思っていた式亭を、ちょっと見直す気もちになって自ずと対談の心構えが変って来た。

      二

 草双紙はもう行き詰まったと言われていた。ずいぶん前からそういわれながら、あとから後からと同じような趣向のものが出て、それがかなり消化されて行くところを見ると、まだまだ人気があるに相違なかった。
 その筋立は千篇一律である。君父の不慮の死、お家重代の宝物の紛失、忠臣の難儀、孝子の旅立ち、忠僕の艱苦、道中の雲助、大井川の川止め、江戸へ出ると三社前の水茶屋女、見覚えのある編笠姿、たそや行燈、見返り柳、老父の病いを癒すべく朝鮮人蔘を得るための娘の身売り、それを助ける若侍、話し合ってみればそれが幼時に別れた兄妹、それから手掛りがついて仇敵の所在がわかり、そこで鎖帷子(くさりかたびら)、名乗り合い、本懐遂げて帰参のよろこび、国許に待つ許婚と三々九度といったようなどれもこれも同じようなものであった。忍術とか鬼火、妖狐、白髪の仙人、夢枕というような場面が全巻いたるところに散見して、一様に血みどろの暗い物語であった。
 貼外題(はりげだい)の黄色がいつからともなく表紙の色となって一般に黄表紙と呼ばれるようになってから、仇うち物の血生臭さはいっそう度を増したように思われた。長さも長くなった。一冊の紙数五枚となっていたのを幾巻か合わせるようになってこれを合巻と呼んだ。長いほうが読みでがあるので合巻は歓迎された。草双紙とも絵草紙ともいったがそれはともに合巻を指した。京伝の義弟山東京山がその作「先読(まずよんで)三国小女郎」のなかで「今じゃ合巻といえば子供までが草双紙のことだと思いやす」とある、これは文化九年のことだが、この三馬と六樹園の会ったころは合巻の出はじめたころで、その合巻に先鞭をつけたのはじつに三馬その人であった。
 こうして長篇全盛の世となるに及んで、作者は競って工夫を凝らし、仇敵討物はますます凄惨な作意に走ってその残酷面(おもて)を外向(そむ)けしむるものが多かった。洒落を生命としていた巷間の戯作は、江戸風のいわゆる通人生活の描写から、悪ふざけが嵩(こう)じて遊里の評判、時の政道のそれとない批判まで織りこむようになり、寛政度のお叱りにあって一転し、善玉悪玉の教訓物となったが、やがてそれもあかれて今この実説風の敵討物万能となったのである。
 六樹園ははじめこの流行に苦笑していたが、あまり度を外した血腥(ちなまぐさ)い趣向立てに、婦女童子に害あり、人心を誤るものという意見で非常に憤慨していた。
「忠臣孝子に思わぬ辛苦を舐(な)めさせ、読む者をして手に汗を握らしむるのはいいが、君子は庖丁を遠ざくと言います。御存じでしょうが、ここに面白いことが書いてある。」
 そう言って六樹園は立って行って本箱をしばらく探していたが、やがて一冊の草紙を持って座に帰ったのを見ると、それは文化二年に出た、竹塚(たけづか)東子(とうし)の「父母怨敵現腹鼓(おやのかたきうつつのはらづつみ)」であった。
 六樹園はその序を開いて三馬の前に読み上げた。
「今や報讐(かたきうち)の稗史(そうし)世に行われて童児これを愛す。実(げ)にや忠をすすめ孝にもとづくること、索(なわ)もて曳くがごとし。しかしその冊中面白からんことを専にして死亡の体(てい)を多くす。頗(すこぶ)る善を勧め悪を懲すの一助なるべけれど、君子は庖丁を遠ざくるの語あり。」
 その冊中面白からんことを専にして死亡の体を多くす、と六樹園はそこを二度繰り返して読んだ。そして滔々(とうとう)たる悪趣味に身震いせんばかりの顔で三馬を見やった。
 三馬は黙ってにやにやしていた。六樹園が訊いた。
「尊家はこの愚劣なる敵討物にはあまり筆をお染めにならんようでありますな。宇田川町の大人もたしかに才人ではあったが、悪い風を作られたものです。」
 宇田川町の大人とは敵討物の大御所南仙笑(なんせんしょう)楚満人(そまびと)のことであった。楚満人の作は三百余種もあったが代表作敵討三組盃をはじめそのほとんど全部が仇うち物であった。楚満人が持て囃されてから作者は皆敵討ものに引きずられて、よりいっそう事件を複雑にし、新奇を求め、刺激を強くするために、眼を覆いたいような惨忍な文章と絵を、つとめて一斉に仕組むようになったのであった。まったくこれでもかこれでもかといった風で中でも最近に出た「復讐熊腹帯(かたきうちくまのはらおび)」京山作、歌川豊広画くなどはまさにその絶頂の観があった。
「私は敵討物はあまり好みません。」
 と三馬が答えた。
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