元禄十三年
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著者名:林不忘 

「ですが、吉良さまがおっしゃるには――。」
「障子の貼りかえ、畳がえ、廊下、厠の掃除、万事念入りに、な。」
 久野と十寸見が、不思議そうに、無言の顔を見合わせていると、美濃守が、神経をぴりりとさせて、
「早くせぬか。吉良は吉良、おれにはおれのやり方がある。」
 そんなら訊かせになどやらなければいいのに、と、久野と十寸見は、不平だった。

      四

 広光院の内玄関に、人声が沸いて、吉良の一行が着いた。勅使の宿舎を、下検分に来たのだった。
 その天奏の江戸入りの日も、近かった。吉良は、先日岡部から、この宿坊のことを訊きに来たとき、ざっと掃くくらいでよいといってやってあるので、手入れなどは何もできていないであろうから、それを機会(きっかけ)に、美濃守をとっちめてやろうと、いくぶん今日をたのしみにしていた。
 いうまでもなく、とり換え得るものはすべて新しくして、隅ずみまで細かい注意を払っておくべきなのだった。
 今日になって騒いだとて、もうお着の日が迫っている。間に合わぬ――吉良は、完全に美濃守に復讐した気で、久しぶりに晴ればれと、広光院の門を潜った。
 が、まず庭に、見事に手が届いているのが、吉良の腑(ふ)に落ちなかった。そして玄関をはいると、新壁(あらかべ)と、あたらしい畳のにおいが、鼻をついた。
「すっかりやってあるわい。」つぶやいた吉良は、裏切られたような別の怒りが、こみ上げてきた。「何からなにまで、法どおりに準備(ととの)えおったらしいぞ。」
 奥から、美濃守の大声が聞こえてきていたが、取次ぎが、吉良の来たことを知らせても、出てくる気配はなかった。
 久野と十寸見に案内させて、各部屋を見て廻りながら、吉良は、歯を食いしばっていた。
「これでよい。何も申すことはござらぬ。美濃守は、手前以上に御存じでいらっしゃるから――。」
 と、ふと、座敷の隅を見て、
「あそこには屏風(びょうぶ)が一双ほしいところじゃが――。」
 閉めきった隣りの室から、声が聞こえてきた。
「兄上、ここを開けましたる次の部屋に置きます屏風は、狩野(かのう)法眼(ほうげん)永徳(えいとく)あたりが、出ず入らずのところと――。」
 そのとおりだった。永徳とは、適(かな)ったことをいうやつ――誰だろう、と吉良は、不審に思った。
 ぐっとつまって、立ちすくんだように黙っていると、隣室からは、美濃守の声で、
「これ、辰馬の申すように、永徳の屏風をひとつ、つぎの座敷へ入れておくのじゃ。」
 係の者が、承知して、頭を下げているようすだった。

      五

 平茂が、目見得に伴(つ)れてきて、ちょっと顔を見た時から、吉良は、気に入ってはいた。
 が、何となく、したしみ難いところがあった。といっても、妾(めかけ)奉公を承知で来ている女には違いなかったから、いずれは、先方から、そんな意味でのつとめを申し出るであろう、と、吉良は、そのままにして、迫らないでいるのだった。
 夜になって、吉良が寝(しん)につく世話をしてしまうと、女は、さっさと自分の部屋へ退って行った。側女(そばめ)として来ているのに、そうすることが当然であるような、女の態度だった。しかし、格別避けているようでもなかった。何でも、はきはき返辞をするし、愛想はいいのだった。
 名を訊くと、お糸といった。請人(うけにん)の平茂の話では、親元は、長谷川町のほうで仏具師をしているとのことだった。吉良には、お糸がどんなつもりでいるかわからなかったが、了解(りょうかい)しているはずのことをことごとしくいいだすのも業腹(ごうはら)だったし、それに、食べようと思えばいつでも食べられるものを、眼のまえに見ながら、いつでも食べられるだけに、そして好きなものだけに、いつまでも食べないでいるのも、老人らしい吉良の趣味に合わないでもなかった。
「変った女だ――。」
 こっちからは手出しをすまい。どういう気か、黙って見ていてやろうと吉良は思った。
 で、吉良の床をとって帰って行くお糸を、一度も引きとめはしなかった。朝、洗面の手つだいに顔を出すまで、呼びもしなかった。名ばかりの妾のまま、日が経って行っていた。
 馬鹿にされているような気がしないでもなかった。
 吉良のこころに、女性とのあいだにそういう話をすすめるという、忘れていた、若わかしい興味も起こって、
「は、ははは、一つ、今夜あたり口説(くど)いてみるかな――。」
 口のなかでつぶやいて、苦笑している時だった。
 明るい色が、控えの間のさかいに動いて、そこに何の屈託(くったく)もなさそうなお糸の顔があった。
 通りすぎるほど通っている鼻すじだった。それが、すこし険のある表情にしているのかもしれなかった。
 敷居(しきい)に、三つ指をついていた。
 重い髪を、ゆらりと上げかけて、
「あの、立花様から、お使者の方がお見えになりましてございます。夜中ながら、お役柄の儀につきまして、ちょっとお上に伺いたいことがございますとか――お通し申しましょうか。」
 お糸の白い額を見ながら、いったい、取次ぎにこの女を雇ったはずではなかった、と、吉良は思った。
 じっとお糸に眼を据えて、無言でうなずいていた。

      六

 玉虫靱負(ゆきえ)は、立花出雲守の公用人だった。一間に案内されて、待っていた。
 正面のふすまが、左右にひらいて、ふところ手の吉良が、せかせかした足どりではいって来た。
 腰元らしい女をひとりしたがえているのを、玉虫は、平伏しながら、上眼づかいに見ていた。
「どうもおそく参上いたしまして――。」
「いや、なに、かまいません。」
 吉良が、痩せた膝を座蒲団にならべると、女も、そのうしろに引きそうように、すわった。
 用談を持ってきた客には、吉良は、気が短かった。
「お役目のことといえば、御主人出雲殿の饗応お添役についてでしょうが、どういう――。」
 すぐ、吉良からきりだした。
 用人の左右田(そうだ)孫三郎が、縁の障子の根に、ななめに顔を見せていた。
「申し上げます。ただ今、立花様より、家老へ白銀十枚――。」
「これは、これは。そうたびたび、恐縮ですな。」
 吉良は、礼のための礼のように、冷淡をよそおっても、出雲守へ好意を示したいこころが、声に滲(にじ)んでいた。
「お役上、何か御不審でも――。」
「は。御饗応にさし上げますお料理のことでございます。」
「その料理を――。」
「当日は、清らかなお席、生臭(なまぐさ)を断(た)って精進(しょうじん)精物でございましょうか。」
「いや、精物というは、潔(きよ)きものという意です。堂上方が、初春慶賀のため御下向なさる。たとえ精進日であっても、江戸お着の当日は必ず御精進はいたされません。魚類は結構、と申すより、魚類でなければなりません。」
「ありがとうございました。じつは、お精進ものであると申すものと、いや、魚類だという者と、二派に別れまして――そのため、たしかなことを承(うけたまわ)りに上りましたようなわけで。」
 吉良は、権威者らしい微笑を漂わせていた。
「精進だなどと、どなたがそんなことをいったかしらんが、断じて精進ではない。今申したように、精進日でも、魚類です。」
 吉良の背ろに控えているお糸が、玉虫と同じように、終始緊張して聴いていた。
 礼を述べて、起とうとする玉虫へ、吉良が、いった。
「元来このお役は、難しいといえばいうようなものの、先例もあり、いくらお手前でも、万事は上野(こうずけ)が引き受けます。お指図をいたしますから、何なりとお訊き下すって、大丈夫安心いたされまするよう。一度ならず丁寧な御挨拶に預かり、かえって痛みいります。出雲殿へ、よろしく、申し伝えられたい。」
 お糸は、何か胸中にうなずいている態(てい)で、玉虫を送りに、つづいた。


   親抱きの松

      一

 饗応役の打合せに当てられた、城中の仕度部屋だった。
 不意の声が、美濃守の首を捻(ね)じ向けた。
「岡部殿!」
 吉良だった。
 美濃守は、無言で、眼で訊いた。
「――――。」
「お手前は、私に何ごともお尋ねないが、元より御本役をお引受けなされたくらい、万事心得ておらるるであろうの。」
 うそぶくように、美濃守が、
「ところが、何も知らぬ。われながら、笑止。」
「とすましておられて、それでよいのか。」
「よいも悪いも、知らぬことはどうにもならぬげな。」
 憎さげに口びるを噛んで、吉良は、もう、顔いろが変りかけてきた。
「知らぬことは、どうにもならぬ? よく、さような口が――。」
「が、また、そこはよくしたもので、こうしておれば、貴殿のような親切な仁(じん)が、何かと教えてくれるであろうから、まあ、どうにかなるでしょう。などと考えて、あえてあわてませぬ。」
「多用です。お手前ごときを弄して、暇を欠かしてはおられん。が、当日さし上げるお料理の儀は、いうまでもなく御存じでありましょう。」
「それも御存じないから、呆れたものですな。」
「美濃殿!」
 吉良は、この岡部美濃という人間は、莫迦なのか偉いのか、わからなくなって、焦(いら)だった声を出した。
「おふざけ召さるる場合でない。手前の落度になりますから、これだけ申し上げておく――お着の日、御饗餐(ごきょうさん)は、魚類をいといます。精進料理ですぞ。」
 美濃守は、弟の辰馬と、このごろまるで筆談のようなことをしているのだった。
 今朝も、出がけに辰馬がそっと机上に書いておいた紙片を、美濃守は見ないふりをして、素早く読んできていた。
 にっと、笑って、
「いや、吉良殿ともあろう者が、それはとんでもないお間違いです。精物というは、清らかなるものという意、堂上方が、初春(はつはる)の慶賀に御下向なさるに、何で精進料理ということがありましょうや。たとえ精進日であっても、江戸お着の当日は、けっして精進はいたされません。魚類で結構、どころか、魚類でなければならぬ。手前は、誰が何といっても、魚類を進ぜるつもりです。」
 吉良は、背骨が棒に化(な)ったように硬直して、唾を呑(の)んでいるだけだった。
 手が、自動的に、ひらいたり閉じたりして、袴の膝を握りしめていた。

      二

「いえ、けっして、お思召しに添わないなどと、さようなことを申すのではございません。ただ――。」
 押さえ来かかった吉良の手だった。それを、あまり強く払ったことに気づいて、お糸は、はっとしていた。
 ここで、こんなことで露顕しては――と、お糸の糸重は、無理に艶(つや)やかな媚笑(わらい)を作った。
「そのお約束で、御奉公に上っております糸でございます。何で御意(ぎょい)に抗(さから)いましょう。殿様さえお心変りなさらなければ、末長く――でも、きっとすぐお飽きになって――。」
 いいながら、いくら間者(かんじゃ)としても、心にもない言(こと)を――と思いながらも、糸重は、現在、良人、良人の兄、自分を苦しめている吉良へ、こんなことまで口にして、媚(こび)を、と、ぞっとした。
 刺し殺したいほど、吉良への憎悪に燃えた。
「ただ、何だ――それなら、なぜ肯(き)かれぬ、と申すのじゃ。」
 蒲団にすわった吉良は、みょうに白けた顔で、眼が、異常に光っていた。
 はらわれた手のやり場に困って、襟をかき合わせた。
 乾いた音だった。
「妾が――意に添うも添わぬもないはず。理由(わけ)を申してみい。」
 いつものように、吉良の就寝を見て、自室(へや)へ引きとろうとしていた糸重だった。軽くあらそった衣紋の崩れをなおして、夜着の裾のほうに、遠くすわっていた。
「わけと申して、べつに――。」
 吉良は、何気なくよそおっていた。が、老人(としより)らしくもなく、手出しして拒(は)ねられたという照れ臭さが、寝巻きの肩のあたりに見られた。
 しかし、お糸は、はじめから妾に来たのだった。妾に、こんな手間ひまのかかる女が、あってもいいものだろうか、と、吉良は、不思議な気がした。ばかばかしく思った。
 いっそ暇を――が、そうもならなかった。それは、たんに未知へのあこがれかもしれなかったが、いつの間にか、愛着らしいもののできているのも、いなめなかった。平茂と、本人のお糸への、意地もあった。
 何だか、考えこんでいる吉良を見ていて、糸重は、良人の辰馬の顔を思い出してみた。同時に、吉良が気の毒のような感情も、ふっと横切ったりした。
 糸重は、泣いていた。
 吉良が、いつになくやさしく、
「何を泣く――?」
 一寸逃(のが)れを、いわなければならなかった。
「ほしいものがございます。それさえ下されましたら――。」
「ほほう、物が欲しい。」吉良は、にこにこして、「子供よのう。必ずともに寵愛いたす――との証拠(しるし)にな。面白いぞ。して何が所望(しょもう)じゃ。」
 とっさの思いつきに、困って、
「あの――。」
 と、部屋中を走った糸重の視線は、違い棚の扇箱にとまった。
「あれか。はっはっは、あの扇箱か。」
 糸重は、あわてた。
「はい――いえ、あれに、扇をお入れ下さいまして――そうして、その扇に、ちょっと好みがございます。」
 ほっとして、いった。

      三

「骨は――と、木を用いて、変り材のごとく観すること、か。厄介なことを思いつきやがったなあ!」
 職人のひとり言だった。
 吉良からの注文書を置くと、すぐ、奇科百種新述(きかひゃくしゅしんじゅつ)と標題のある工学書を参考して、
「ええと、何だって?――木地を塗りて玳瑁(たいまい)あるいは大理石(マルメル)の観をなさしむる法、とくらあ。まず材をよく磨きてのち、鉛丹(たん)に膠水(にかわ)、または尋常(よのつね)の荏油(えのゆ)仮漆(かしつ)を和(あわ)せたる、黄赤にしてたいまい色をなすところの元料(もと)を塗る。さてこれに、血竭二羅度(らど)、焼酎十六度よりなる越幾斯(エキス)にて、雲様の斑点(とらふ)を模彩(うつ)す。かつ、あらかじめ原色料(くすり)をよく乾かすよう注意(きをつけ)、清澄たる洋漆を全面(そうたい)へ浴(あ)びせるべし。」
 常磐橋(ときわばし)の東の、石町(こくちょう)一丁目にあって、御影堂(みかげどう)として知られた、扇をつくる家だった。京都五条の橋の西の御影堂が本家で、敦盛(あつもり)の後室(こうしつ)が落飾して尼になり、阿古屋扇(あこやおうぎ)を折って売り出したのが、いまに伝わっているといわれていた。おうぎ形の槻板(つきいた)に、大きく屋号を書いた招牌(かんばん)が、さがっていた。
 そこの工作(しごと)場だった。
 扇工は、その、指南書のさきを読みつづけた。
「大理石の様模(はだ)をあたうるには、随意(おもう)ところの一色を塗り、これに脈理を施して天然のものに擬(まぎら)し、後に落古(ラッカ)を被(き)せて艶(つや)出しするを善(よし)とす――。」
 そして、この式にしたがって、扇の骨に加工しているのだった。
 それができ上れば、吉良の意に任す――それまでは、枕を交(かわ)すことはできない、と、糸重が、難題として、吉良に持ちかけた扇子なのだった。
 風流人をもって自ら許している吉良だった。この糸重の申し出を、面白い――と笑って、さっそく御影堂へ注文しないわけにはいかなかった。
 義兄美濃守が、無事に饗応役を果すまで――それまでにでき上らない扇でさえあれば、何でもよかった。なるたけ時日の費(かか)りそうな、むずかしい扇を、でたらめに考え出した。扇が、例の扇箱に納められて、吉良から下げられない前に、美濃守は、役目を解かれるに相違なかった。そうすれば、糸重は、そっと吉良から脱けて、元のままのからだで辰馬の許へ帰れるはずだった。
 吉良は、この扇のことを、女との交渉のまえの、ちょっとした遊戯として、興がっていた。
 毎日のように、御影堂へ催促が飛んだ。もうできかかっているのだった。

      四

 立花出雲守の使者に渡すはずのお次第書を、糸重は、こっそり懐中していた。
 お次第書は、追加の御沙汰といって、当の式の順序を認(したた)めた、重要な書類だった。饗応役のもっとも大切な一日を、具体的に説明しているものだった。
 人気(ひとけ)のないのを見すまして、背戸の柴折(しお)り戸をあけた。
 いつものように、宵闇に紛(まぎ)れて、折助(おりすけ)すがたに装(つく)った辰馬が、ぼんやり佇(た)っていた。
 手早く、お次第書を渡しながら、糸重が、
「これは、饗応役の一ばん大事の日のことを、細ごまと書いた、申せば、お役のこつなそうにございます。立花様から受取りに来られれば、失くなったことがわかって、おっつけ騒ぎになりましょう。」
 辰馬は、頬被りの奥から、
「ほかに、心得は?」
「当日は、必ず大紋烏帽子(だいもんえぼし)のこと――。」
「その他――気が急(せ)く。」
 垣根を離れて、行こうとするので、
「それから勅使院使さまがお上りのとき、吉良とお取持役おふたりが、お出迎えなされます。」
「うむ。それで?」
「その節、吉良は、高家筆頭の格式でお掛縁(かけえん)とやらまで出ますそうでございますが、兄上さまと立花様は、本座に――。」
「本座――ではわからぬ。どこだ、本座と申すのは。」
「何でも、おひき出しと申す場所だと――。」
「よし。お抽斗(ひきだし)だな。」
 去りかけた辰馬が、引っかえしてきて、
「扇は、は、ははははは、まだであろうな。」
「はい。まだでございます。でも、もうすぐ――危のうございますので、変り骨だけでは心細いと、あとから、いま一つ、難題を加えてやりました。吉良の知行、下野の稲葉の里に、親抱きの松というのがございまして、常から吉良が自慢にいたしております。いつぞや順礼がその松の下で相果てましたので、土地の者が、葬いのしるしに、それなる老木の傍に若松を一本植えましたところが、小松が枝を伸ばして、親松の幹を押さえましたそうで――さながら枝で支えようとしております恰好から、吉良が命名(なづ)けまして親抱きの松と呼んでおります。これから考えつきまして、扇面いっぱいに、三万三千三百三十三の松の絵を、梨地蒔絵(なしじまきえ)で、幸阿弥(こうあみ)風に――面倒な注文でございますが、御影堂では、夜も昼も、職人から主人からかかりきりで、それもやがて、仕上げに近いと聞きましてございます。心配でございますが、どうすることもならず――。」


   影絵を見る

      一

 お白書院(しろしょいん)に、飾りつけができていた。
 大広間上席、帝鑑の間、柳の間、雁の間、菊の間と、相役が席についた。
 静寂が、城中に渡って、柳原大納言、正親町(おおぎまち)中納言、甘露寺(かんろじ)中納言の三卿が、お上りという時だった。
 服装のことなど、教えてないはずだから、場違いの長裃(ながかみしも)でも着けていはしまいか――そうだと面白いのだが、と、吉良が、美濃守の姿を求めると、立派に大紋烏帽子だった。
 吉良は、拍子抜けがして、美濃守が前へ来ても、このあいだからのように、何か一こと敵意を示してやるだけの気にも、なれなかった。
 口を切ったのは、美濃守だった。
「御次第書とかいうものがあろうかの。見せられい。」
 横柄(おうへい)なことばつきになっていた。
 吉良は、無言で、相手を凝視(みつ)めた。
「おい、御次第書は、どうした。ないのか。本役の美濃である。一応、眼を通しておかなければ、不都合だ。さし出すがよい。」
 眼に見えて、吉良は、ふるえてきた。
「ござらぬ。」
「紛失いたしたな。」
「いや、持っておる。が、このほうは高家筆頭じゃ。わしが見ておれば、それで充分。お手前に関係したことではない。」
「なに、御饗応のお次第書が、本役のおれの知ったことではないと――。」
 吉良は、生えぎわに汗を見せて、
「まあさ、そう大きな声をされんでも――今にも天奏衆がお着きになる。その銅鑼声(どらごえ)がお耳にはいっては、おそれ多い。」
 が、美濃守は、たたみかけるように、
「御老中連名のお次第書だ。天奏衆御出発の用意等、出ておるであろう。こちらから老中へ返納いたす。出せ!」
 どうして、お次第書などというものがあることを、この美濃は知っているのだろう――吉良は、相手になるまいとした。
 美濃守は、にやりとして、
「これだけの心得がなくて、本役をお受けできるか――勅使両山御霊屋へ御参詣、お目付お徒士頭(かちがしら)が出る。定例じゃぞ。十三日が、天奏衆御馳走のお能。高砂(たかさご)に、三番叟(さんばそう)。名人鷺太夫がつとめる。御三家、老若譜代大名、諸番がしら、物頭、お医師まで拝観、とある。おぼえておけ。」
 吉良は、死人のような顔いろになって、美濃守を白眼(にら)んで立った。

      二

「や、どうも、おっそろしく混みいった注文だったもんで、すっかり手間を食っちゃいましたが、やっとできましたよ。」
 京都の御影堂本家の主人は、店に、本尊法然(ほうねん)の像をまつって、時宗だったから、僧形で妻帯していたが、円頂で扇をつくって京の名物男だった。
 それに、負けず劣らずだった、江戸の御影堂は、坊主ではなかったが、口の荒い職人膚だった。やはり、一風かわった人物だった。
 辰馬が、吉良家から来たといって、でき上った扇を受け取りに行くと、奥の、手文庫のようなものから、自分で出してきた。
 手のうえに置いて、離すのが惜しいといったように、惚(ほ)れぼれと眺めた。
 辰馬は、屋敷侍らしい着つけで来ていた。口も、そんなようにきいて、
「いかさま、見事――眼の果報じゃ。」
「なにしろ、凝ってこって凝り抜いたもんでわしょう? どうですい、この扇骨(ほね)の色は。十本物だが、磨きは、自慢じゃあねえが、蘭法でも、ちょいと新しい式でね、いや、職人泣かせでしたよ、まったく。」
「うなずかれる――。」
「吉良のお殿様が、何を思いたって、こんな途方もねえものをお誂えになったか知らねえが――。」御影堂は、急に、声を落とした。
「噂ですぜ。うわさだから、間違ったらごめんなさい。お妾が、いうことを肯かねえで、こんな変ったものを考え出して、それができたら、へへへへ――するてえと、今まで殿様あお預けを食ってらしったんですね。ざまあねえや。道理で、値は構わねえから、早く、早くと――。」
「松がまた、よく描けておるな。」
 辰馬は、扇を手にして、眼のさきにかざしてみた。
「細かい松じゃな。うむ、どこからどこまで、いい細工(さいく)だて――これで、松の数は、三万三千三百三十三あるのか。」
「ございますとも。虫眼鏡で、お算え下さいまし――殿様がお待ちかねです。あっしも、もうすこし、ゆっくり見ていてえが、お持ち帰り願いましょう。」
「見れば、見るほど精巧なる出来栄に、殿も、およろこび下さろう。代は、後から屋敷へ取りにまいれ。」
「ええ、そんなもの、いつだって――。」
 歩きかけた辰馬の手から、自然らしく、扇が落ちて、土間を打った。
 辰馬が、おとしたのだった。
 扇面が破れて、一、二本、骨が折れた。
「お! これは、とんだ――。」
 叫んだ時、御影堂が、足袋はだしで駆け降りて来た。
「何をしやがる! 直すのに、また何日かかると思うんだ――。」
「粗相だ。許せ!」
 もう一度、よろめいて、わざとでないように、扇を踏みにじりながら、辰馬は、微笑をふくんで、逃げ出していた。

      三

 勅使が、玄関に着こうとしていた。吉良上野介は、お掛縁(かけえん)に控えて、最後に、すべての配(くば)りはよいかと、あたりを見廻した。
 岡部美濃守が、じぶんとおなじように、玄関に着座しているのに、気がついた。
 いままでは、強情我慢で、そしてまた、どこからか聞きだしてきては勤めてきたが、身についていないということは、争(あらそ)えないと吉良は思った。
 仕方がなかった。それが、ここに現われたのだった――そう考えて、吉良は、ちょっとおかしかった。
 吉良は、高家筆頭だから、そこにいるのが当然だったが、
「岡部が、ここに出しゃばっておるとはなにごと! 今に、顔の上らないほど、手きびしくたしなめてやろう――。」
 扇箱以来の美濃守への不愉快さが、吉良に、この報復の機会を得たことを、痛快がらせた。横眼に、美濃守を見やって、待っていた。
 勅使の一行が、近くへ来たとき、吉良は、わざと低声だった。
「美濃殿――。」
 聞こえないらしかった。
「美濃殿!」
 のっそりと、美濃守が、答えた。
「何じゃい。」
「お席が違いますぞ。」
「はあ?」
 吉良は、面白くなってきた。
「お席が違う。」急調子に、「お席が違うというに。これ、お席――。」
「なに? 何をぶつぶついわれおる。」
 美濃守は、大きな肩を丘のように据えて、動こうともしなかった。
「本座にお直りなさい、本座に!」
「本座? 本座とはどこですかな。」
「しっ! さような大声を――早く、本座へ!」
「わからぬことをいうなっ。本座とはどこだ。」
「何を申す!」吉良が、きっとなった。「急場になって、本座はどこだなどと訊いておるどころではない! ええいっ! 本座へ控えるのだ、本座へ。」
 つと起った美濃守が、小腰をかがめて、すり足に、見事に、お抽斗(ひきだし)へ直(なお)るのを見ると、吉良は、かっとした。
 美濃守は、はじめから知っていて、自分を揶揄していたのであったことに気がついた。
 翻弄(ほんろう)されぬいていた――眼のまえに、何か赤いものが躍(おど)り立つように、吉良は、感じた。

      四

「関東の武家、名は何といわるる?」
 正親町(おおぎまち)中納言が、ものずきに、岡部美濃守をふり返って、訊いた。
 饗応役は、勅使にしたがって、松の廊下まで来かかっていた。
「岡部美濃守です。」
 ぶっきら棒にいうと、中納言は、笑って、
「関東は武をもって治むる国である。頼母(たのも)しい御体格ですな。定めしお力があろう。見たい。」
「心得ました。」
 と、それを掛け声に、美濃守は、やにわに、すぐ前を往く吉良に手をかけた。
「何をなさる! 乱心――。」
 □(もが)いたが、枯れた吉良のからだは、美濃守の両手に差しあげられて、頭のうえを高く、空に泳いでいた。
 烏帽子(えぼし)がまがり、中啓(ちゅうけい)が、飛んだ。と、吉良は、美濃守に受けとめられて、すうっと、労(いた)わるように、抱き下ろされていた。
 武骨な座興(ざきょう)――として、笑い声をあとに、天奏衆は、もう、かなり先へ進んで行っていた。出雲守をはじめ、あっけにとられた人々の顔が、まわりにあった。
 吉良は口がきけなかった。なんという暴!――もはや、これまでだと思った。
「美濃、待てっ!」
 叫んだ――ような気がした。同時に、家を捨て、身を忘れて、腰の小さな刀に手を――かけた自分を、とっさに、想像してみた。
 美濃守は、すでに、平気で、むこうへ歩いて行こうとしていた。
 刃傷(にんじょう)だった。吉良は、それを、一瞬にこころに描いた。
 殿中だった。松の廊下だった。たとえ誤ちでも、鯉口(こいぐち)三寸ひろげれば、大変なことになるのだった。
 が、勘忍(かんにん)ぶくろの緒(お)が切れた。じぶんは、どうなってもよかった。乱心といわれても、切腹でも、そんなことは、かまっていられなかった。
 吉良は、心中に、刀を抜いた。そして、恨み重なる美濃守へ斬りつけるところを、考えた。
 松の廊下――ちょうど、隅の柱六本目のかげだった。
 初太刀(しょだち)は、烏帽子の金具に当って、流れた。二の太刀は、伸びて肩先へ行った。
 美濃は、逃げようとして、戸にぶつかって倒れた。起き上ろうとするところを、ここだ、と振り下ろしたが、その時、吉良は、うしろから、しっかり抱きとめられているのを知った。梶川(かじかわ)与惣兵衛(よそべえ)だった。大力の人で、すっかり羽掻(はが)い締(じ)めに、うごきが取れなかった――吉良は、身をゆすぶった。
「残念――。」
「いかがめされた、吉良殿!」
 ゆらゆらと立っていた吉良だった。梶川与惣兵衛が、にこにこして、うしろから手を廻して支えていてくれた。
「抛(ほう)り上げられて、眼が廻ります。どうも乱暴だ。」
「いくら天奏衆の御機嫌を取り結ぶのが饗応役とはいえ、御老体を――。」梶川は笑った。「歩けますかな?」
 吉良も、仕方なしに、苦笑していた。
「まったく、美濃殿は、いささか荒いようです。」
 勅使に随(つ)いて、廊下の端に、美濃守のすがたが小さく見えていた。




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