元禄十三年
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著者名:林不忘 

 が、美濃守は、たたみかけるように、
「御老中連名のお次第書だ。天奏衆御出発の用意等、出ておるであろう。こちらから老中へ返納いたす。出せ!」
 どうして、お次第書などというものがあることを、この美濃は知っているのだろう――吉良は、相手になるまいとした。
 美濃守は、にやりとして、
「これだけの心得がなくて、本役をお受けできるか――勅使両山御霊屋へ御参詣、お目付お徒士頭(かちがしら)が出る。定例じゃぞ。十三日が、天奏衆御馳走のお能。高砂(たかさご)に、三番叟(さんばそう)。名人鷺太夫がつとめる。御三家、老若譜代大名、諸番がしら、物頭、お医師まで拝観、とある。おぼえておけ。」
 吉良は、死人のような顔いろになって、美濃守を白眼(にら)んで立った。

      二

「や、どうも、おっそろしく混みいった注文だったもんで、すっかり手間を食っちゃいましたが、やっとできましたよ。」
 京都の御影堂本家の主人は、店に、本尊法然(ほうねん)の像をまつって、時宗だったから、僧形で妻帯していたが、円頂で扇をつくって京の名物男だった。
 それに、負けず劣らずだった、江戸の御影堂は、坊主ではなかったが、口の荒い職人膚だった。やはり、一風かわった人物だった。
 辰馬が、吉良家から来たといって、でき上った扇を受け取りに行くと、奥の、手文庫のようなものから、自分で出してきた。
 手のうえに置いて、離すのが惜しいといったように、惚(ほ)れぼれと眺めた。
 辰馬は、屋敷侍らしい着つけで来ていた。口も、そんなようにきいて、
「いかさま、見事――眼の果報じゃ。」
「なにしろ、凝ってこって凝り抜いたもんでわしょう? どうですい、この扇骨(ほね)の色は。十本物だが、磨きは、自慢じゃあねえが、蘭法でも、ちょいと新しい式でね、いや、職人泣かせでしたよ、まったく。」
「うなずかれる――。」
「吉良のお殿様が、何を思いたって、こんな途方もねえものをお誂えになったか知らねえが――。」御影堂は、急に、声を落とした。
「噂ですぜ。うわさだから、間違ったらごめんなさい。お妾が、いうことを肯かねえで、こんな変ったものを考え出して、それができたら、へへへへ――するてえと、今まで殿様あお預けを食ってらしったんですね。ざまあねえや。道理で、値は構わねえから、早く、早くと――。」
「松がまた、よく描けておるな。」
 辰馬は、扇を手にして、眼のさきにかざしてみた。
「細かい松じゃな。うむ、どこからどこまで、いい細工(さいく)だて――これで、松の数は、三万三千三百三十三あるのか。」
「ございますとも。虫眼鏡で、お算え下さいまし――殿様がお待ちかねです。あっしも、もうすこし、ゆっくり見ていてえが、お持ち帰り願いましょう。」
「見れば、見るほど精巧なる出来栄に、殿も、およろこび下さろう。代は、後から屋敷へ取りにまいれ。」
「ええ、そんなもの、いつだって――。」
 歩きかけた辰馬の手から、自然らしく、扇が落ちて、土間を打った。
 辰馬が、おとしたのだった。
 扇面が破れて、一、二本、骨が折れた。
「お! これは、とんだ――。」
 叫んだ時、御影堂が、足袋はだしで駆け降りて来た。
「何をしやがる! 直すのに、また何日かかると思うんだ――。」
「粗相だ。許せ!」
 もう一度、よろめいて、わざとでないように、扇を踏みにじりながら、辰馬は、微笑をふくんで、逃げ出していた。

      三

 勅使が、玄関に着こうとしていた。吉良上野介は、お掛縁(かけえん)に控えて、最後に、すべての配(くば)りはよいかと、あたりを見廻した。
 岡部美濃守が、じぶんとおなじように、玄関に着座しているのに、気がついた。
 いままでは、強情我慢で、そしてまた、どこからか聞きだしてきては勤めてきたが、身についていないということは、争(あらそ)えないと吉良は思った。
 仕方がなかった。それが、ここに現われたのだった――そう考えて、吉良は、ちょっとおかしかった。
 吉良は、高家筆頭だから、そこにいるのが当然だったが、
「岡部が、ここに出しゃばっておるとはなにごと! 今に、顔の上らないほど、手きびしくたしなめてやろう――。」
 扇箱以来の美濃守への不愉快さが、吉良に、この報復の機会を得たことを、痛快がらせた。横眼に、美濃守を見やって、待っていた。
 勅使の一行が、近くへ来たとき、吉良は、わざと低声だった。
「美濃殿――。」
 聞こえないらしかった。
「美濃殿!」
 のっそりと、美濃守が、答えた。
「何じゃい。」
「お席が違いますぞ。」
「はあ?」
 吉良は、面白くなってきた。
「お席が違う。」急調子に、「お席が違うというに。これ、お席――。」
「なに? 何をぶつぶついわれおる。」
 美濃守は、大きな肩を丘のように据えて、動こうともしなかった。
「本座にお直りなさい、本座に!」
「本座? 本座とはどこですかな。」
「しっ! さような大声を――早く、本座へ!」
「わからぬことをいうなっ。本座とはどこだ。」
「何を申す!」吉良が、きっとなった。「急場になって、本座はどこだなどと訊いておるどころではない! ええいっ! 本座へ控えるのだ、本座へ。」
 つと起った美濃守が、小腰をかがめて、すり足に、見事に、お抽斗(ひきだし)へ直(なお)るのを見ると、吉良は、かっとした。
 美濃守は、はじめから知っていて、自分を揶揄していたのであったことに気がついた。
 翻弄(ほんろう)されぬいていた――眼のまえに、何か赤いものが躍(おど)り立つように、吉良は、感じた。

      四

「関東の武家、名は何といわるる?」
 正親町(おおぎまち)中納言が、ものずきに、岡部美濃守をふり返って、訊いた。
 饗応役は、勅使にしたがって、松の廊下まで来かかっていた。
「岡部美濃守です。」
 ぶっきら棒にいうと、中納言は、笑って、
「関東は武をもって治むる国である。頼母(たのも)しい御体格ですな。定めしお力があろう。見たい。」
「心得ました。」
 と、それを掛け声に、美濃守は、やにわに、すぐ前を往く吉良に手をかけた。
「何をなさる! 乱心――。」
 □(もが)いたが、枯れた吉良のからだは、美濃守の両手に差しあげられて、頭のうえを高く、空に泳いでいた。
 烏帽子(えぼし)がまがり、中啓(ちゅうけい)が、飛んだ。と、吉良は、美濃守に受けとめられて、すうっと、労(いた)わるように、抱き下ろされていた。
 武骨な座興(ざきょう)――として、笑い声をあとに、天奏衆は、もう、かなり先へ進んで行っていた。出雲守をはじめ、あっけにとられた人々の顔が、まわりにあった。
 吉良は口がきけなかった。なんという暴!――もはや、これまでだと思った。
「美濃、待てっ!」
 叫んだ――ような気がした。同時に、家を捨て、身を忘れて、腰の小さな刀に手を――かけた自分を、とっさに、想像してみた。
 美濃守は、すでに、平気で、むこうへ歩いて行こうとしていた。
 刃傷(にんじょう)だった。吉良は、それを、一瞬にこころに描いた。
 殿中だった。松の廊下だった。たとえ誤ちでも、鯉口(こいぐち)三寸ひろげれば、大変なことになるのだった。
 が、勘忍(かんにん)ぶくろの緒(お)が切れた。じぶんは、どうなってもよかった。乱心といわれても、切腹でも、そんなことは、かまっていられなかった。
 吉良は、心中に、刀を抜いた。そして、恨み重なる美濃守へ斬りつけるところを、考えた。
 松の廊下――ちょうど、隅の柱六本目のかげだった。
 初太刀(しょだち)は、烏帽子の金具に当って、流れた。二の太刀は、伸びて肩先へ行った。
 美濃は、逃げようとして、戸にぶつかって倒れた。起き上ろうとするところを、ここだ、と振り下ろしたが、その時、吉良は、うしろから、しっかり抱きとめられているのを知った。梶川(かじかわ)与惣兵衛(よそべえ)だった。大力の人で、すっかり羽掻(はが)い締(じ)めに、うごきが取れなかった――吉良は、身をゆすぶった。
「残念――。」
「いかがめされた、吉良殿!」
 ゆらゆらと立っていた吉良だった。梶川与惣兵衛が、にこにこして、うしろから手を廻して支えていてくれた。
「抛(ほう)り上げられて、眼が廻ります。どうも乱暴だ。」
「いくら天奏衆の御機嫌を取り結ぶのが饗応役とはいえ、御老体を――。」梶川は笑った。「歩けますかな?」
 吉良も、仕方なしに、苦笑していた。
「まったく、美濃殿は、いささか荒いようです。」
 勅使に随(つ)いて、廊下の端に、美濃守のすがたが小さく見えていた。




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