安重根
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著者名:林不忘 

       8

元の隣室、集会所。

第六場の終りのままで、禹徳淳が、電燈から取った赤い紙片を読みつづけている。

禹徳淳 (大声に)かの奸悪なる老賊め
われわれ民族二千万人
滅種の後に三千里の錦綾江山を
無声の裡に奪わんと
青年らは凝然と聞き入っている。
青年J (突然叫ぶ)何でもいいや。やっつけりゃあいいんじゃねえか。(禹徳淳へ)なあ、小父さん!黄成鎬 静かにしてもらいてえね。もう何時だと思う。青年K 何時だってかまうもんか。安重根さんが来るまでは帰(けえ)らねえぞ。青年L そうだ、そうだ! みんな安さんを待って夜明かしするんだ。なあ、おい。青年M 誰が安さんのほかに、生命を投げ出して決行しようという者がある。(叫ぶ)コレア・ウラア! 安重根ウラア!禹徳淳 (手の赤紙を読み続ける)究凶究悪惨たる手段
十強国を欺きて
内臓を皆抜き取りながら
青年N それは誰の作だ。同志一 知らないのか。安さんさ。安重根が作ったんだよ。これより先、黄成鎬は右側の別室へ行って、禹徳淳が手にせると同じ赤い紙片を数多持って来て同志一、二に渡す。同志一、二はそれを青年らの間に配っている。
同志二 (配り歩きながら)みんな持ってるだろうが――。青年O いつ出したんだ。おれはもらわなかったぞ。青年P 一枚下さい。青年Q 長いんで、お終いのほう忘れちゃった。禹徳淳 三節からだ。一緒に読もう。黄成鎬 大きな声は困りますよ。ここいら露助の憲兵がちょいちょい廻って来て厳(やか)ましいんでね。青年R 何でえ。びくびくするねえ、おやじ。禹徳淳 (つづけて)十強国を欺きて
内臓を皆抜き取りながら
合唱 (はじめは低く、おいおい高く、後半は各人憤激の大声で統一を欠く)何を不足に我慾を満たさんとて
鼠の子のごとくにここかしこを駈け歩き
誰をまた欺き何れの地を奪わんとするや
されど至仁至愛のわが上主は
大韓民族二千万口を
ひとしく愛憐せられなば
かの老賊に逢わしめ給え
逢いたりな逢いたりな
ついに伊藤に逢いたりな
汝の手段の奸猾は
世界に有名なるものを
わが同胞五六の後は
われらの江山は奪われて
行楽ともになし得ざりしを
甲午年の独立と
乙巳年の新条約後
ようよう自得下行の時に
今日あるを知らざりしか
犯すものは罪せられ
徳を磨けば徳到る
汝かくなるものと思いしや
ああ我等の同胞よ
一心団結したる上
外仇を皆滅して
わが国権を恢復し
富国強民図りなば
世界のうちに誰ありて
われらの自由を圧迫し
下等の冷遇なすべきや
いでいざ早く合心し
彼らの輩も伊藤の如く
ただ速かに誅せんのみ
立て勇敢の力持て
左側の台所へ通ずる扉に青年Gが凭(よ)りかかって、先ほどからドアの向うへ注意を凝らしている。
青年G (手を上げて一同を制する)しっ! 静かにしろ。話し声が聞える――。ぴたりと音読が止む。
黄成鎬 (呆けながら不安げに)誰もいねえはずだが――。青年G (ドアの隙間に耳を当てて)安さんだ。たしかに安さんの声だ。(台所を指さして、一同へ)おい、安重根が来ているぞ!青年J なに? 安さんが来てる! 台所へか。こっそり裏からはいったんだろう。引っ張り出して演説させろ!青年L 怪しからん。おれたちがこんなに待っているのに、裏から忍び込んで知らん顔しているなんて――。青年M 馬鹿! そこが安さんの好いところじゃないか。禹徳淳 (冷然と読みつづけて)国民たる義務を尽さずして
無為平安に坐せんには
青年たちは一斉に起ち上って「われらの安重根! 安重根ウラア!」と口ぐちに歓呼している。
黄成鎬 (知らぬふりで台所のドアへ歩き出す)安さんが裏から来た? どれ見て来ましょう。白基竜 (卓子から顔を上げて呼び停める)おやじ、待て!(禹徳淳へ)言ったほうがいい。ほんとのことを――安が迷っているということを言うべきだ。しんとして一同禹徳淳を凝視める。
禹徳淳 (読み終る)国本確立は自ら成ることなかるべし。(白基竜へ、悲痛に)僕にはその勇気がないんだ。今になって、この熱烈な同志たちに、安が――言えない。僕には言えない。(台所のドアに向って大声に繰り返す)国民たる義務を尽さずして
無為平安に坐せんには
国本確立は自ら成ることなかるべし
一同呆然と、台所のドアと禹徳淳を交互に見守る時、硝子窓を荒々しく開けて朴鳳錫が顔を出す。
朴鳳錫 (大声に)スパイは来ていないか。(同志一、二ら多勢窓際に駈け寄る)同志一 スパイ――?朴鳳錫 安のやつだ。安重根はスパイなんだ。とドアから駈け込んで来る。一同は罵り噪いで取り巻く。
朴鳳錫 張首明と通じているんだ。あの床屋の張よ。先刻あいつがやって来て露(ば)れたんだが、おれは前から知っていた。安重根のやつ、伊藤公暗殺などと与太を放送しときゃがって、それを種に、おれたちの機密に食い込もうとしていたんだ。だから、いよいよというこの土壇場に、伊藤を殺っつける気なんかこれっぽっちもありゃあしない。(禹徳淳を見て)なあ徳淳、そうだろう? おれは今まで、李先生の命令で張の店を見張っていたが、白基竜は――。(白基竜を認めて)お! 白! 野郎いたか、停車場に。白基竜は無言で閉めきった台所の扉を指さす。
朴鳳錫 台所にいるのか。何故みんな――畜生!一同激昂のうちに朴鳳錫はドアへ突進する。禹徳淳が抱き停める。
禹徳淳 こら、早まったことをするな。安君の真意を突き留めてから――おい、朴を抑えろ!制しようとする者と、朴鳳錫とともに台所へ侵入しようとする者とで舞台一面に争う。禹徳淳、白基竜、黄成鎬ら台所のドアを守る。ついにドアが開かれて、電燈の暗い台所、ドアのすぐ向側に、安重根を庇って柳麗玉が立っているのがちらと見える。朴鳳錫を先頭に同志一、二、青年C、E、J、K、L等一団に雪崩れ込んで行く。

       9

もとの台所。
第七場の続き。安重根は外套を着て歩き廻り、柳麗玉は尊敬を罩(こ)めて見惚れている。多勢の合唱が隣室から聞えている。
安重根 (快活に)ルバシカの上から背広を着て、おまけにこのロシア人の大きな外套――とくると、考えものだぞ。日本人には見られないかもしれない。柳麗玉 (一緒に考えて)今日お買いになったのね。この洋服や何か――でも、変装のことなんか、李剛先生は何ておっしゃって?「国民たる義務を尽さずして、無為平安に坐せんには――。」禹徳淳の繰返しがはっきり聞えてくる。
安重根 (それを耳に傾けながら)日本人に見られないとすると、時節柄、怪しまれるにきまっている――。李剛先生?(苦笑)先生か。先生は、無論、暗殺そのものに反対さ。跫音人声など突如隣室の騒ぎが激しくなり、境の扉へぶつかる音がする。
柳麗玉 (隣室に注意して不安げに起つ)安さん! 何でしょう――。安重根 (熱して)正直のところ、僕は李剛さんを恨んでいる! 憎んでいる! いつだって、ああやって冷静に構えて反対しながら、その反対することによって僕を煽って、僕を使ってあいつを殺させようとしているんだ。解っている。ははは、わかっているよ。隣室の騒擾が高まって、ドアが開かれそうになる。柳麗玉はドアへ走って背中で押し止めようとする。
柳麗玉 安さん!安重根 (無関心に)あの人にとって、僕という存在は一個の暗殺用凶器にすぎない。僕にはそれがよくわかる。(力なく)わかっていてどうすることもできないのが、僕は、この自分が、自分であって自分でないような――。(狂的に叫ぶ)あの人に会うと、いつもそうだ。口では極力止めながら、眼では、伊藤を殺せ! 伊藤を殺せ! と僕を――(爆笑)はっはっはっは、なるようになるさ。柳麗玉 (必死にドアを押えながら)早く外套を脱いで、行李を――。安重根が気がついて帽子と外套をとり、卓上の衣類を行李に入れ終った時、ドアがあく。柳麗玉は安重根をかばって立つ。朴鳳錫を先頭に同志一、二、青年ら一団になだれ込んでくる。正面の廊下から黄瑞露がはいって来ておろおろしている。
朴鳳錫 (柳麗玉を押し退けて)安重根! 貴様は――。腕を振り上げて迫る。「燈を消せ!」と誰かが叫んで素早く電燈を消す。隣室から、開け放したドアの幅に光線が流れ込んでいるきり、舞台は暗黒。一同「スパイの畜生!」、「弁解を聞く必要はないっ!」、「今日の行動で明かだ。」、「さんざん俺たちを翻弄したな。」、「やっつけちまえ!」喚声を上げて包囲し、揉み合う。青年らは続々隣室から走り込んで来る。禹徳淳、白基竜、黄成鎬は渦中に割りこんで大声に怒鳴り、手を振り、鎮撫しようと努める。
柳麗玉 (朴鳳錫を止めて)何をするの? 静かに話してわからないことなの?背年C その女も食わせ物だぞ。一緒に殴(や)っちまえ。口ぐちに呼ぶ。すべてが瞬間だ――。混雑のうちに朴鳳錫が安重根を殴る。続いて多勢で罵りながら、床(ゆか)に倒れた安重根を袋叩きにする。柳麗玉は下手の裏口を開けて戸外へ駈け出る。禹徳淳、白基竜、黄成鎬、黄瑞露らは安重根を助けようとして八方停める、押し合う。椅子卓子が倒れ、皿小鉢は落ち、舞台一面に乱闘の観を呈する。
柳麗玉 (出て行って間もなく裏口から慌しく駈け込んでくる)憲兵ですよ! 憲兵ですよ!露国憲兵五六人、佩剣を鳴らして裏口から走りこんでくる。
憲兵一 (大喝)何かあ、夜中に。憲兵二 静かにしろっ! 騒ぐとぶっ放すぞ!天井へ向けて二三発拳銃の空砲を放つ。一同は安重根、禹徳淳、白基竜、黄成鎬夫妻、柳麗玉を残し先を争って戸外へ逃げ去る。憲兵出現と同時に、黄成鎬は逸早く懐中からトランプを取り出して床に撒き散らしている。
憲兵二 空砲だ。空砲だ。あわてるな。憲兵三 燈(ひ)を点(つ)けろ、燈を!点燈。青年らすべて退散したる明るい舞台に、家具食器など散乱し、格闘の跡。中央に安重根が俯臥して、柳麗玉はひざまずいて労わり、他はあるいは安重根の傍に、あるいは壁ぎわに狼狽して立っている。床一面にトランプが散らばり、裏口に寝巻姿の近所の男女数名が驚いた顔を覗かせている。
憲兵上官 (黄成鎬へ進んで)貴様か、ここの主人は。何だこの騒ぎは。どうしたんだ。黄成鎬 はい。まことにどうも申訳ございません。いんちき札を使ったとか使わねえとか、下らねえことから、何分その、気の早え野郎が揃っておりますんで、へえ。上官 何? 博奕の喧嘩か。黄成鎬 へへへへ、なに、ちょいと悪戯(わるさ)をしておりましたんで。お手数をかけまして、なんとも早や――。憲兵四 (上官へ)自分は知っておるであります。ここは有名な朝鮮人の博奕宿であります。上官 ほほう、君もちょいちょい来ると見えるね。憲兵四 違うであります。自分は――。上官 黙っておれ! (倒れている安重根を軽く蹴りながら)こいつは死んでいるのか。と黄成鎬を見て、ひそかに右手の拇指と人指指を擦り合わせて示す。眼こぼし料を要求する意。黄成鎬は手早く紙幣を取り出して、近づく。
黄成鎬 (安重根を覗いて)へへへへへ、なに、ちょいと眠ってるだけでございますよ、眠ってるだけで。自然らしく上官の傍を通る拍子に、そっとそのポケットへ紙幣を押し込む、憲兵ら一斉に咳払いをする。
憲兵上官 うう、そうか。眠っているのか。眼が覚めたら介抱してやれ。(部下へ)引上げだ。禹徳淳、白基竜ら一同博徒らしく装い小腰を屈めるなかを、憲兵裏口より退場。近所の人々は逃げて道を開き、すぐまた覗きに集まる。柳麗玉は安重根を抱き起している。
安重根 (泪に濡れた笑顔)ははははは、大丈夫、起てるよ。(禹徳淳を認めて)おう! 徳淳――!よろめいて禹徳淳の手を握る。一同呆然と見守っている。
安重根 (力強く)夜が明けたな。(裏口のそとに空が白んで、暁の色が流れ込んでいる)汽車の時間は、調べてあるのか。禹徳淳 (手を握り返して急(せ)き込む)行ってくれるか。ハルビンへ行ってくれるか。安重根 (哄笑)はっはっは、心配するな。(柳麗玉に支えられながら)旅費はあるぞ旅費は。はっはっは、たんまりあるぞ。黄瑞露は裏口の人を追って戸を閉めている。

       10[#「10」は縦中横]

ポグラニチナヤの裏町、不潔な洋風街路、劉任瞻韓薬房前。

十月十九日、夕ぐれ。

「韓国調剤学士劉任瞻薬房」と看板を掲げた、古びた間口の狭い店。草根木皮の類が軒下に下がって、硝子壜にはいった木の実、蛇の酒精漬けなど店頭(みせ)の戸外(そと)に並んでいる。左右は古着屋、乾物商などすべて朝鮮人相手の小商店。荷車、自転車など置いてあって雑然としている。低い家並みの向うは連山と、市街の屋根の重なる上に白い夕月。教会の尖塔がくっきり見えて、凹凸の石畳の下手に電柱が一本よろけている。

劉任瞻――医師兼薬剤師。老人、ロシアの農民風の服装。
劉東夏――その息子。十八歳。ルバシカに露兵の軍帽をかぶっている。
安重根、禹徳淳、柳麗玉、隣家の古着屋の老婆、ロシア人、支那人、朝鮮人等の男女の通行人。

夕闇の迫る騒がしい往来。店の前の椅子に劉任瞻が腰かけて、小笊(こざる)[#「笊」は底本では「竹/瓜」]に盛った穀物を両手に揉んでは、笊を揺すって籾殻(もみがら)を吹いている。ロシア人の裸足の子供の一隊、市場へ買出しに行った朝鮮人の女房二三、工場帰りの支那人職工の群などあわただしく通る。劉任瞻に挨拶して行く者もある。ロシア人の巡邏が長剣を鳴らして通り過ぎる。手風琴に合わして朝鮮唄の哀調が漂って来る。隣家の古着屋の老婆が、洋燈(ランプ)のほやを掃除しながら、店先いっぱいに古着の下がった間から顔を出す。

老婆 劉さんかね。もうランプを点(つ)けなさいよ。東夏さんはいないのかえ。劉任瞻 馬鹿な野郎だ。先刻まだ早いうちに、また独立党の会があるとか言ってな、出かけて行ったきり帰らないのだ。帰って来たらどなりつけてやろうと思って、ここに出張って待っているのさ。老婆 おや、それじゃあきっと自家(うち)の若い人たちと一緒ですよ。安重根とかいう人が来たと言って、商売をおっぽり出して駈け出して行きましたから。劉任瞻 困ったものだ。わしはいつも東夏に言って聞かせているのだが、職業や勉強を蔑(ないがしろ)にして何が国家だ。何が社会だ。独立が聞いて呆れる。ちっとやそっとの人間が騒いだところで、世の中はどう変るものでもないのだよ。長い間生きて来て、わしや古着屋のお婆さんが一番よく知っているはずだ。なあ、お婆さん。老婆 そうですともさ。劉任瞻 世の中は理窟ではない。いや、たった一つ理窟があるとすれば、それは、強い者が勝ち、弱いものが負けるという理窟だけだ。強い者は勝って得をし、弱いやつは負けて損をする。しかし、その強い者もいつまでも強いというわけではなし、弱いものもやがては強くなる時があろう。上が下になり、下が上になるのだ。こうして世の中は、大きく浪を打って進んで行くので、百万陀羅議論を唱えても、どうなるというものではない。待つのだ。強い者が弱くなり、弱い者が強くなる時を待つのだ。ははははは、じっと待つのだよ。待ちさえすれば、その時機は必ず来る――。反対隣りの乾物屋に灯が点く。手風琴と唄声は消えようとして続いている。間。
老婆 そんなものでしょうねえ、ほんとに。(下手を見て)おや、誰か来ましたよ。うちの人たちかもしれない。どれ、ランプに灯を入れておこう。と古着屋に入る。
劉任瞻 東は東、西は西。若い者は若い者、年寄りは年寄りだ。劉任瞻は穀物の笊を片附け、椅子を引きずって家へはいる。すぐその店と古着屋から灯りがさす。街路に光りが倒れて、もうすっかり夜の景色。下手から話し声がして、劉東夏を仲に安重根と禹徳淳が出て来る。
劉東夏 (自宅を指して)ここです。ちょっと待っていて下さい。家へはいろうとする。
禹徳淳 (追い止めて)君、大丈夫か。一人でお父さんをうんと言わせられる自信があるのか。安重根 独立党の仕事で、僕らと一緒に行くなどと言ってはいけないぜ。劉東夏 (英雄に対するごとく、安重根へ)そんなこと言やしません。私はしじゅう父の命令(いいつけ)でハルビンへ薬を買いに行くんです。今度もその用で、二三日中に行くことになっているんですから、急に思い立って今夜これから発つと言っても、父は何とも言いはしません。禹徳淳 (安重根へ)だが、今日この劉東夏君に会ってよかったな。僕も君も、露語と来るとまるきり駄目だからなあ。そこへ、ロシア人よりも露語の達者な劉君が一緒に行ってくれると言うんだから、まったく心強いよ。安重根 いや、おれは劉君のことは以前から聞いていた。いつかウラジオの李剛先生が雑談的に話したことがある。ポグラニチナヤに劉東夏という、若いがロシア語の上手な人がいる。露領の奥へ出かけるようなことがあったら、その人を通訳に頼みたまえ――僕はそれを思い出して、ぜひ劉君に会って頼むつもりでいたんだ。このポグラニチナヤに途中下車したのも、劉君に同行してもらうためだったのさ。禹徳淳 (劉東夏へ)ハルビンの用は大したことじゃあないんだ。では、これからすぐ薬を買いにハルビンへ行くと言って、ぜひお父さんの許可を得るんだな。僕と安君は一足先に停車場へ行って待っている。劉東夏は家に入る。
安重根と禹徳淳は急ぎ下手へ歩き出す。
禹徳淳 あいつのロシア語は手に入ったものだ。それにかなり党の仕事にも熱心だし、情報を集めたりなんか、連絡係りには持って来いだが、君はどの程度まで打ち明けるつもりでいるんだい。安重根 何と言ってもまだ少年(こども)だからねえ。そのうちにうすうす感づくのは仕方がないが、何も知らせないほうがいいだろう。汽車の切符を買ったり、道を訊いたりするのに使うんだね。禹徳淳 (突然立ち停まって安重根の腕を握り、下手を覗く)君! 柳さんじゃないか。そうだ。柳麗玉さんだ。二人が下手に眼を凝らしつつ古着屋の前の電柱の陰へ隠れる時、柳麗玉が現れる。ウラジオから今着いたところで旅に疲れた様子。一尺四方程の箱包を糸で縛って抱えて、家を探す態で軒並みに見上げながら、不安げに歩いて来る。
安重根 (やり過しておいて)柳さん!―― やっぱり君だったか。柳麗玉 あら! 安さん。よかったわ。まあ、徳淳さんも――。安重根 (嬉しそうに柳麗玉の肩へ手を置こうとし、自制して後退りする)何しに来たんだ。何しに君はこんなところへ来たんです。(不機嫌に)僕らの今度の目的は、君も知っているはずだ。柳麗玉 (いそいそと)ああよかった。後を追っかけて来たんですわ。夢中でしたわ。でも、ここでお眼にかかれて、ほんとに――。禹徳淳 (苦々し気に)とうしたんです。柳さんはよく理解して、あの朝、ウラジオの停車場で気持ちよく見送ってくれたじゃないですか。柳麗玉 (安重根へ)すぐつぎの汽車でウラジオを発って、今着いたところですの。李剛先生が、きっとこのポグラニチナヤの劉任瞻というお薬屋に寄っているだろうとおっしゃって――。安重根と禹徳淳は顔を見合わせる。
柳麗玉 (にこにこして)忘れ物をなすったんですってね。あたし李剛先生に頼まれて、その忘れものを届けにまいりましたのよ。禹徳淳 忘れ物――って何だろう。柳麗玉 (紙包みを出して)何ですかあたしも知らないんですけれど――あなが方がお発ちになったすぐ後、李剛先生があたしを呼んで、二人が大変な忘れ物をして行った。非常に大切な物だ。ないと困る品だ。安さんは必ずポグラニチナヤに途中下車して、まだそこの劉任瞻という薬屋にいるだろうから、あたしに後を追って渡すようにと言うんでしょう。大あわてにあわててつぎの汽車に乗ったんですの。禹徳淳 どうして先生は、おれたちがここへ寄ったことを知ってるんだろう。安重根 (笑って)そら、さっき話したじゃないか。いつか李剛さんが何気なく、ここの劉東夏の噂をしたことがあるって。あの人の言動は、その時は無意味に響いても、後から考えるといちいち糸を引いているんだ。わかってるじゃないか。その時分から僕に東夏を使わせる計画だったんだよ。(柳麗玉へ)いや、ありがとう。御苦労。開けてみよう。包みを受け取って地面にしゃがみ、ひらく。紙箱が出る。
禹徳淳 (覗き込んで)何だい、ばかに厳重に包んであるじゃないか。安重根は無言で箱の覆を取る。拳銃が二個はいっている。
安重根 (ぎょっとして覆をする。静かに柳麗玉を見上げる)李剛さんが、僕らがこれを忘れて行ったと言ったって?柳麗玉 あら! (素早く箱の中を見て)ええ。ですけれど、あたし、そんな物がはいっているとは知らずに――。安重根 そして李先生は、これを僕らに届けるために君を走らせた――。と再び箱を開けて、禹徳淳に示す。二人は黙って顔を見合う。間。
安重根 (苦笑)二挺ある。何方でも採りたまえ。禹徳淳 ははははは、まるで決闘だな。しかし、李剛主筆の深謀遠慮には、いつものことながら降参するよ。安重根 (拳銃の一つを取り上げて灯にすかして見ながら)スミット・ウェトソン式だ。十字架が彫ってある。六連発だな。この銃身のところに何か書いてあるぞ。(横にして読む)――コレアン・トマス。禹徳淳 朝鮮人(コレアン)トマス? 面白い。それを君の名前にするか。二人はじっとめいめいの拳銃に見入っている。手風琴と唄声が聞こえて来る。
柳麗玉 (決然と)面白くなって来たわね。あたしだって働けるわ。ね、安さん、いっしょにハルビンに行くわ。安重根は二挺の拳銃を箱に納めて、手早く元通りに包んでいる。
禹徳淳 そうだ。女づれだと、かえって警戒線を突破するのに便利かもしれないな。夕刊売りの少年が上手から駈けて来る。
夕刊売り 夕刊! 夕刊! ハルビンウェストニック夕刊!三人の様子に好奇気(ものずきげ)に立ち停まる。禹徳淳が夕刊を買って下手へ追いやる。
禹徳淳 (新聞を拡げて、大声に)おい、出てるぞ。(紙面の一個所を叩いて安重根に示す)何だ?――「東清鉄道の事業拡張に関する自家の意見を確定するため極東巡視の途に上りたるココフツォフ蔵相は、二十一日ハルビン到着の予定。なお北京駐在露国公使コロストウェツの特に任地より来あわせる等の事実より推測すれば、時を同じゅうして来遊の噂ある伊藤公爵とわが蔵相との会見は、なんらか他に重大なる使命を秘するもののごとく想像に難からずと、某消息通は語れり。」――まだある。この後が大変なんだ。(活気づいて高声に読み続ける)「因に東清鉄道会社は、翌二十二日のため長春ハルビン間に特別列車を用意したり。」どうだい、こいつあ愉快なニュースだ。いよいよこうしちゃあいられない――。柳麗玉 (勢い込んで、安重根へ)あたし其包(それ)持ってくわ。安重根 いや、いかん。君はウラジオへ帰れ。帰って、李剛先生に礼を言ってくれ。忘れ物を届けてやったら、安重根は大喜びだったと。(禹徳淳へ)事務的に、ココフツォフの動きにさえ注意していたら、間違いなく、伊藤は向うからわれわれのふところへ飛び込んで来るよ。長春からハルビンまでの特別列車? 二十二日だって?禹徳淳 (紙面を白眼んで)うむ。逢いたりな逢いたりな、ついに伊藤に逢いたりな――。安重根 二日早くなったな。曹道先は知ってるんだろうな。禹徳淳 無論すっかり手配して待ってるとも。おい、もう劉東夏が出て来るころだ。停車場へ行っていよう。安重根は拳銃の包みを抱えて、禹徳淳とともに急ぎ下手へ入る。柳麗玉は勇ましげに見送ったのち、気がついて後を追う。薬屋の店から劉父子が出て来る。劉東夏は旅行の仕度をしている。
劉任瞻 (戸口に立ち停まって)用が済んだらすぐ帰るんだぞ。ハルビンは若い者の長くおるところじゃない。劉東夏 (気が急いて)え。すぐ帰ります。じゃ、行ってまいります。走り去る。

       11[#「11」は縦中横]

十月二十三日、夜中。ハルビン埠頭区レスナヤ街、曹道先洗濯店。

屋上の物乾し台。屋根の上に木を渡して設えたる相当広き物乾し。丸太、竹の類を架けて、取り込み残した洗濯物が二三、夜露に湿って下っている。下は、いっぱいに近隣の屋根。物乾し場の下手向う隅に昇降口、屋根を伝わって梯子あり。遠く近く家々の窓の灯が消えて往く。一面の星空、半闇。

曹道先――洗濯屋の主人。情を知って安重根のために働いている。四十歳前後。カラーなしで古い背広服を着ている。
ニイナ・ラファロヴナ――曹道先妻、若きロシア婦人。
金成白――近所の朝鮮雑貨商。安重根の個人的知人。朝鮮服。三十歳ぐらい。

他に安重根、禹徳淳、柳麗玉、劉東夏。

物乾し台の一隅に安重根と柳麗玉がめいめい毛布をかぶって、肩を押し合ってしゃがんでいる。長いことそうして話しこんでいる様子。足許にカンテラを一つ置き、一条の光りが横に長く倒れている。

安重根 (露地や往来が気になるごとく、凭りかかっている手摺りからしきりに下を覗きながら)だからさ、僕が伊藤を殺(や)っつける――とすると、それはあくまで僕自身の選択でやるんだ。同志などという弥次馬連中に唆(そその)かされたんでもなければ、それかと言って、禹徳淳のように、例えば今日伊藤を殺しさえすれば、同時にすべての屈辱が雪がれて、明日にも韓国が独立して、皆の生活がよくなり、自分の煙草の行商もおおいに売行きが増すだろうなどと――(笑う)実際徳淳は、心からそう信じきっているんだからねえ。だが、僕は、不幸にも、あの男ほど単純ではないんだ。柳麗玉 (寄り添って)そりゃそうだわ。徳淳さんなんかと、較べものにならないわ。安重根 (独語)ほんとうに心の底を叩いてみると、おれはなぜ伊藤を殺そうとしているのかわからなくなったよ。柳麗玉 (びっくりして離れる)まあ、安さん! あなた何をおっしゃるの――?安重根 ここまで来て、伊藤を殺さなければならない理由が解らなくなってしまった――。(自嘲的に)祖国の恨みを霽らして独立を計るため――ふふん、第一、国家より先に、まずこの安重根という存在を考えてみる。(ゆっくりと)ところで、おれ個人として、伊藤を殺して何の得るところがあるんだ。柳麗玉 (熱心に縋りついて)どうしたのよ、安さん! 今になってそんな――あたしそんな安さんじゃないと思って――。安重根 (思いついたように)おい、こっそりどこかへ逃げよう。そっして二人で暮らそう!柳麗玉 (強く)嫌です! こんな意気地のない人とは知らなかったわ。なんなの、伊藤ひとり殺(や)っつけるぐらい――。安重根 (急き込む)ポグラニチナヤへ引っ返すか、さもなければチタあたりの、朝鮮人の多いところへ紛れ込むんだ。学校にでも勤めて、君一人ぐらい楽に食べさせていけるよ。僕あこれでも小学教員の免状があるんだからな。(懸命に)おい、そうしよう。天下だとか国家だとか、そんなことは人に任せておけばいいじゃないか。おれたちは俺たちきりで、小さく楽しく生活するんだ。自分のことばかり考えて、周囲(まわり)に自分だけの城を築いて暢気に世の中を送るやつが――思いきってそういうことのできるやつが、結局一番利口なんじゃないかな。柳麗玉 (起ち上る)ははははは、馬鹿を見たような気がするわ。今に人をあっと言わせる安さんだと思ったから、あたし、こんなことになったんだわ。安重根 (笑って)冗談だよ。今のは冗談だよ。そんなことほんとにするやつがあるかい。沈思する。間。
安重根 (苦しそうに)しかし、おれは今まで、一心に伊藤を恨み、伊藤を憎んで生きて来た。伊藤に対する憎悪と怨恨にのみ、おれはおれの生き甲斐を感じていたんだ。が、考えてみると、それも伊藤が生きていればこそだ。ははははは、ねえ、柳さん、君は伊藤という人間を見たことがあるか。柳麗玉 いいえ。写真でなら何度も見たわ。安重根 (急に少年のように快活に)ちょっと下品なところもあるけれど、こう髯を生やして、立派な老人だろう?柳麗玉 (微笑)ええ、まあそうね。偉そうな人だわ。でも、あたしあんな顔大嫌い。安重根 僕は三年間、あの顔をしっかり心に持っているうちに――さあ、何と言ったらいいか、個人的に親しみを感じ出したんだ。柳麗玉 (かすかに口を動かして)まあ!安重根 ははははは、やり方は憎らしいが、人間的に面白いところもあるよ。決して好きな性格じゃないが――。柳麗玉は無言を続けている。
安重根 (下の道路に注意を払いつつ)僕が伊藤を憎むのも、つまりあいつに惹かれている証拠じゃないかと思う(間、しんみりと)なにしろこの三年間というもの、伊藤は僕の心を独占して、僕はあいつの映像を凝視(みつ)め続けてきたんだからなあ。三年のあいだ、あの一個の人間を研究し、観察し、あらゆる角度から眺めて、その人物と生活を、僕は全的に知り抜いているような気がする。まるで一緒に暮らしてきたようなものさ。他人とは思えないよ。(弱々しく笑う)このごろでは、僕が伊藤なんだか、伊藤が僕なんだか――。柳麗玉 解るわ、その気持ち。安重根 白状する。僕は伊藤というおやじが嫌いじゃないらしいんだ。きっとあいつのいいところも悪いところも、多少僕に移っているに相違ない。顔まで似て来たんじゃないかという気がする。柳麗玉 (気を引き立てるように噴飯(ふきだ)す)ぷっ、嫌よ、あんなやつに似ちゃあ――。で、どうしようっていうの?安重根 (間、独語的にゆっくりと)伊藤は現実に僕の頭の中に住んでいる。こうしていても僕は、伊藤のにおいを嗅ぎ、伊藤の声を聞くことができるんだ。いや、おれには伊藤が見える。はっきり伊藤が感じられる!柳麗玉 (気味悪そうに)安さん! あたし情けなくなるわ。安重根 (虚ろに)伊藤がおれを占領するか、おれが伊藤を抹殺するか――自衛だ! 自衛手段だ! が、右の半身が左の半身を殺すんだからなあ、こりゃあどのみち自殺行為だよ。柳麗玉 (うっとりと顔を見上げて)そうやって一生懸命に何か言っている時、安さんは一番綺麗に見えるわね。安重根 もう駄目だ。ハルビンへ来て四日、日本とロシアのスパイが間断なく尾けている。(ぎょっとして起ち上る)今この家の周りだって、すっかりスパイで固まってるじゃないか。柳麗玉 (びっくり取り縋って)そんなことないわ。そんなことあるもんですか。みんな安さんの錯覚よ。強迫観念よ。ほら、(手摺りから下の露路を覗いて)ね、誰もいないじゃないの。ニイナ・ラファロヴナが物乾しの台の上り口に現れる。
ニイナ まあ、お二人ともこんなところで何をしているの? 寒かないこと?柳麗玉 (安重根から離れて)あら、うっかり話しこんでいましたのよ。安重根 何か用ですか。曹君はどうしました。ニイナ いいえね、今夜でなくてもいいんでしょうと思いましたけれど、これを持って来ましたの。手に持っている鏡を差し出す。
安重根 あ、鏡ですね。ニイナ 鏡ですねは心細いわ。さっきあなたが鏡がほしいようなことを言ってらしったから、これでも、家じゅう探して見つけて来たんですの。でも、こんな暗いところへ鏡を持って来てもしようがありませんわね。安重根 いいんです。ここでいいんです。と鏡を受け取ろうとする。
ニイナ (驚いて)まあ、安さん、その手はどうしたんですの。安重根 手? 僕の手がどうかしていますか。ニイナ どうかしていますかって、顫えてるじゃないの、そんなに。安重根はニイナへ背中を向けて、自分の手を凝視める。自嘲的に爆笑する。
安重根 (手を見ながら)そうですかねえ。そんなに、そんなに顫えていますかねえ。はっはっは、こいつあお笑い草だ。ニイナ 笑いごっちゃありませんわ。まるで中気病みですわ。水の容物(いれもの)を持たしたら、すっかりこぼしてしまいますわ。安重根はふっと沈思する。
ニイナ (何事も知らぬ気に)あたしなんかにはいっこう解りませんけれど、それでも、いま安さんが立役者だということは、女の感というもので知れますわ。うちの曹道先なども、この間じゅうから、今日か明日かと安重根さんの来るのを待ったことと言ったら、そりゃあおかしいようでしたわ。安重根は手摺りに倚って空を仰いでいる。
ニイナ そんなに持てている安さんじゃあないの。何をくよくよしているんでしょう。ねえ、安さん、そんなことでは――。安重根 (どきりとして顔を上げて、鋭く)何です。ニイナ まあ、なんて怖(こわ)い顔! そんなことでは柳さんに逃げられてしまうって言うのよ。ねえ、柳さん。安重根 (ほっとして)あ、柳ですか。柳に逃げられますか。そうですねえ。ニイナ 何を言ってるのよ。妙にぼうっとしているわね。冗談一つ言えやしない。ニイナは降りて行く。安重根は片手に鏡、片手にカンテラを取り上げて黙って顔を映して見る。長い間。
柳麗玉 その鏡どうなさるの?安重根 屋下(した)へ降りて、もう一度最後にあの変装をして鏡に映してみようと思って――。あわただしい跫音とともに昂奮した禹徳淳が物乾し台へ駈け上って来る。
禹徳淳 (安重根の腕を取る)おい! いま東夏のやつが調べて来た。とうとう決まったぞ。明日(あす)の晩か明後日の朝、出迎えの特別列車がハルビンから長春へ向って出発する。安重根 (禹徳淳の手を振り放して、ぼんやりと)そうか――。禹徳淳 (いらいらして)どうしたんだ君あ! (どなる)こんな素晴しいレポがはいったのに何をぽかんとしている。安重根 (間。禹徳淳と白眼み合って立つ。急に眼が覚めたように)徳淳! それはたしかか。すると、その汽車で来るんだな。(考えて)途中でやろうか。禹徳淳 (勢い込んで)これからすぐ南へ発って――。安重根 (別人のように活気を呈している)そうだ! 三夾河まで行こう! ハルビンで決行する方が都合がいいか、他の停車場へ行ってやるのがいいか、単に視察のつもりでも無意味じゃないぞ。禹徳淳 どうせ明日一日ここにぶらぶらしていたってしようがない。安重根 それにハルビンは軍隊が多いし、いざとなると近づけないかもしれない。ことにココフツォフも来ている。警戒は倍に厳重なわけだ。  曹道先を案内に劉東夏が駈け上って来る。劉東夏 (息を切らして)蔡家溝(さいかこう)で三十分停車するそうです! はっきりわかりました。この先の蔡家溝です。あすこだけ複線になっているので、臨時列車なんか三十分以上停車するかもしれないと言うんです!安重根 (きびきびした口調)護照のほうはどうだ。大丈夫か。禹徳淳 東夏君にすっかりやってもらってある。安重根 汽車はまだあるな。劉東夏 急げば間に合います。禹徳淳 蔡家溝までか。安重根 馬鹿言え。どうなるかわからない。三夾河まで買わせろ。と先に立って急ぎ物乾しを降りかける。
禹徳淳 (続いて)写真を撮(うつ)しておけばよかったなあ、君と僕と――。安重根 写真なんか、まだ撮せるよ、明日蔡家溝ででも。金成白が駈け上って来て、上り口で衝突しそうになる。
金成白 (安重根へ)先生、いよいよ――。安重根は無言で、力強く金成白と握手する。「三夾河行き」、「いや、蔡家溝で下車」、「三人で停車場まで走るんだ」など安重根、禹徳淳、劉東夏の三人、口ぐちに大声に言いながら勢いよく屋根を降りて行く。柳麗玉も勇躍して、見送りに走り下りる。曹道先と金成白は手摺りに駈け寄って下を覗く。

       12[#「12」は縦中横]

翌二十四日、深夜。蔡家溝駅前、チチハル・ホテル。

木賃宿の如きホテルの階上の一室。灰色の壁、低い天井、裸かの床(ゆか)、正面に廊下に通ずる扉(ドア)、ドアの傍に椅子一つ。窓はなし。片隅に毀れかかった鉄製の寝台が二つあるのみ、他に家具はない。

安重根、禹徳淳、劉東夏、蔡家溝駅長オグネフ、同駅駐在中隊長オルダコフ大尉、同隊付セミン軍曹、チチハル・ホテル主人ヤアフネンコ、支那人ボウイ、兵卒、ロシア人の売春婦三人、相手の男達。

隅に二つ並んだ寝台に、安重根と禹徳淳が寝ている。禹徳淳は鼾(いびき)を立てて熟睡し、安重根はしきりに寝返りを打つ。寝台の裾に二人の衣類が脱ぎ懸けられ、安重根のベッドの下には、ウラジオから持って来た行李が押し込んである。扉(ドア)の傍の椅子に、大きな外套を着て劉東夏が居眠りしている。薄暗い電燈。廊下の時計が二時を打つ。長い間。ドアが細目にあいて、ロシア人の女が覗き込む。劉東夏の眠っているのを見すまし、そっと手を伸ばして鼻を摘もうとする。劉東夏は口の中で何か呟いて払う。

女 (低く笑って)門番さん! ちょいと門番さんてば! 何だってそんなところに頑張ってんのさ。寒いわ。わたしんとこへ来ない? はいってもいい?劉東夏は眼を覚ます。
女 (小声に)まあ、あんた子供じゃないの? 可愛がって上げるわ。いらっしゃいよ。あたしの部屋へさ。廊下の突き当りよ。劉東夏 いけないよ、そんなところから顔を出しちゃあ。叱られるぞ。禹徳淳が寝台に起き上る。女はあわててドアを閉めて去る。
禹徳淳 また淫売かい。劉東夏 (笑って)ええ、あいつとてもうるさいんです。禹徳淳 何時だい。劉東夏 さあ――今三時打ったようですよ。禹徳淳 かわろうか。劉東夏 いいんです。もう少ししたら――。禹徳淳 起したまえ。かわるから。禹徳淳が再び寝台に横になると同時に、弾かれたように安重根が起き上る。
安重根 ひどい汗だ。(腋の下へ手をやって)こんなに寝汗をかいている。禹徳淳 (ベッドから)よく眠っていたよ。君は朝までぐっすり眠らなくちゃあ。僕と劉君が代り番こに起きているから大丈夫だ。安重根もふたたび枕に就き、劉東夏は戸口の椅子で居眠りを続け、しんとなる。長い間。
安重根 (独り言のように、突然)徳淳、君は黄海道のほうはあんまり知らないようだねえ。(間。禹徳淳は答えない)僕のおやじは安泰勲と言って、黄海道海州の生れさ。科挙に及第して進士なんだ。(長い間。次第に述懐的に)そうだ、僕の家に塾があってねえ、あのポグラニチナヤの趙康英や、ハルビンの金成白、それに僕の弟の安定根と安恭根など、みんな一緒に漢文を習ったものさ。童蒙先習、通鑑、それから四書か。はっはっは、勉強したよ。(間)その後僕は、信川で、天主教の坊さんで洪神文と言ったフランス人に就いてフランス語を教わったこともある。僕の家はみんな天主教だが、僕が洗礼を受けたのはたしか十七の春だった。うむ、洪神文というんだ。君は識らないかなあ。禹徳淳は空寝入りをして鼾をかいている。長い間がつづく。
安重根 おやじの安泰勲が倹約家(しまつや)で、少しばかり不動産があってねえ、鎮南浦に残して来た僕の家族は、それで居食いしているわけだが、それも、今では二三百石のものだろう。故里(くに)を出たきり補助するどころではないから、さぞ困っているだろうと思うよ。叩戸(ノック)といっしょにドアを蹴り開けて、蔡家溝駅駐在セミン軍曹と部下四五人が、支那人ボウイを案内に荒々しく踏み込んで来る。
軍曹 (大喝)起きろ! 検査だ!安重根と禹徳淳は起き上る。劉東夏は椅子を離れて直立する。兵卒たちは早くも室内を歩き廻って、衣類や手廻品に触れてみている。
安重根 何だ。夜中に他人(ひと)の部屋へどなり込んで来るやつがあるか。何の検査だ。軍曹 (大声に)何だと? 生意気言うな。何の検査でもよいっ! 日本の高官が当駅(ここ)を御通過になるので失礼のないように固めているんだ。(安重根へ進んで)貴様は何者か。禹徳淳 (急いで寝台を下りて)済みません。わたくしどもは飴屋でございます。こいつは宵の口に一杯呑(や)って酔っておりますんで、とんだ失礼を申し上げました。(懸命に安重根へ眼配せする)軍曹 飴屋か。道具はどこにある、道具は。禹徳淳 はい。道具は、預けてございます。軍曹 どこに預けてあるのか。禹徳淳 この町の親方のところに預けてございます。軍曹 たしかにそうだな。嘘をつくと承知せんぞ。儲かるか。禹徳淳 へ?軍曹 飴屋は儲かるかと訊いているんだ。軍曹は安重根を白眼みつけて、部下を纏めてさっさと出て行く。支那人のボウイが、その背ろ姿に顔をしかめながら扉(ドア)を閉めて続く。
禹徳淳 笑わせやがらあ。あんでえ! 威張りくさりやがって。まるで日本人みてえな野郎だ。(劉東夏へ)驚いたろう。安重根 (寝台に腰掛けて)僕は徳淳が羨しいよ。明日にも、世界中がびっくりするようなことをやろうというのに、とっさに上手に飴屋に成り済ましたりなんか――神経が太いぞ。禹徳淳 (勢いよく寝台に滑り込んで、大声に)そうだ! いよいよおれたちがやっつけたとなると、騒ぎになるぜ。××戦争の戦端を切るんだ。愉快だなあ!安重根 ××戦争? 不思議なことを言うねえ。誰が戦争をするんだ。禹徳淳 何を言ってるんだ。おれたちが敢然と起ったのを見て、鶏林八道から露領、満洲にかけての同志が安閑としていると思うか。大戦争だよ。これは、大戦争になる。安重根 (哄笑)笑わせないでくれ。だから僕は、君が羨しいと言うんだ。禹徳淳 (むっくり起き上って)何? じゃあ、安君、君は、同志が僕らを見殺しにするとでも考えているのか。安重根 (話題を外らすように、劉東夏へ)十二時ごろに汽車の音がしたねえ。夢心地に聞いていた。禹徳淳 (激しく)安君! 君は同志を信じないのか。劉東夏 (戸口の椅子から)あれは貨物です。安重根 汽車はあれきり通らないようだねえ。(禹徳淳へ笑って)三夾河まで行った方がよかったかな。禹徳淳 しかし、蔡家溝は小さな駅だが、列車の行き違うところで、停車時間が長いというから降りたんじゃないか。安重根 (劉東夏へ)列車往復の回数はわかっていますね。禹徳淳 (吐き出すように)もちろんここは大事を決行するに便利なところじゃないよ。見慣れぬ人間がうろついていると、眼についてしょうがない。三人なんか張り込んでいる必要はないんだ。先刻の支那人ボウイを従えて駅長オグネフがはいって来る。
駅長 (にこにこして)ちょっと調べさせて頂きます。禹徳淳 (俯向けに寝台に寝転がる)またか――うんざりするなあ。駅長 (劉東夏を見て)あなたはなぜそんなところに掛けているんですか。劉東夏 ベッドが二つしかないもんですから――。駅長 なるほど。(禹徳淳へ微笑)このホテルは駅に接続しております関係上、私の管轄になっておりますんで、御迷惑でしょうが、お答え願います。禹徳淳 はいはい、(元気よく起き上って肘を張る)答えますとも! さあ、何でも訊いて下さい。駅長 なに、ほんの形式ですよ。安重根 先刻も軍隊のほうから審(しら)べが来ました。うるさくて寝られやしません。いったいどうしたというんです。駅長 (とぼけて)さあ、何ですか、私どもは上司の命令で動いているだけですから――(禹徳淳へ)三人御一緒ですか。禹徳淳 はい。そうです。駅長 どちらからおいででした。禹徳淳 旅の飴屋なんです。ハルビンから来ました。駅長 これからどちらへ?禹徳淳 明朝三夾河、寛城子の方へ発(た)つつもりです。駅長 ありがとう。お邪魔しました。駅長去る。支那人ボウイは顔をしかめて随(つ)いて行く。駅長はただちにドアの真向うの部屋へはいって、同じことを言っているのが聞こえて来る。間。
禹徳淳 (安重根を凝視した後)君はどう考えているか知らんが、僕らは決して個人の挌で(低声に)伊藤を殺(や)っつけるんじゃあないんだ。人数こそ尠いが、この行為は戦争だよ。立派な××戦争だよ。君は義兵の参謀中将として指揮をし、僕はその義軍に参加しているのだ。事成れば、戦時の捕虜として潔く縛(ばく)に就く覚悟でいる。安重根 (続けさまに巻煙草を吹かして歩き廻りながら、苦笑)解った、わかった! 僕も今さらこんなことを言いたくはないが、本国では、外部も工部も法部も、いや、通信機関まですべて日本の経営なんだぜ。いまわかったことじゃないが、考えてみると、これじゃとても大仕掛けに事を挙げるなんて思いも寄らない。例えば、ここで僕らが何かやったって、果して僕らの目的、僕らの意思が、大衆に徹底するかどうか――。禹徳淳 (顔色を変える)おいおい、今になって君は何を言い出すんだ――。安重根 (冷笑して)また徳淳のお株が始まるぞ。そのつぎは、(大言壮語の口調で)「われにしてもし武力あらば、軍艦に大砲を積んで朝鮮海峡へ乗り出し、伊藤公の乗って来る船を撃ち沈める」――という、いつもの、そら、十八番(おはこ)が出るんだろう。禹徳淳がむっとして何か言わんとする時、室外(そと)の廊下に「嫌ですよう、引っ張っちゃあ! 行きますよ。行ったら文句はないんでしょう。」と叫ぶ肝高い女の声、「来いっ! 貴様も一緒に来るんだ!」などと男の怒声、続いてけたたましい女の泣き声と、多人数の走り廻る音がして、突然ドアが開き、寝巻姿のロシア人の売春婦三人と、客の朝鮮人支那人の男たちが逃げ込んで来る。劉東夏と禹徳淳は呆然と見守っている。安重根は寝台の下から行李を引き出して、茶色のルバシカ、同じ色の背広、円い運動帽子、大きな羊皮外套等、ウラジオで調えた衣類を取り出し、片隅で静かに着がえにかかっている。が、誰も気がつかない。
女一 (禹徳淳へ低声に)ちょっと此室(ここ)を貸して下さいね。侵入者一同は部屋の三人に頓着なくささやき続ける。
男一 いや、あわてた、あわてた。眼も当てられやしない。女二 サアシャさんはやられたらしいわね。男二 ざまったらないよ。今夜にかぎってばかに脅かしやがる。女三 えらい人が汽車で通るからって、家の中で何をしようとかまわないじゃないのねえ。男三 憲兵のやつ何か感違いしてるらしいんだ。とんだ災難だよ。女一 (耳を澄まして)しっ!口に指を当てる。ドアが細く開いてホテルの主人ヤアフネンコの禿頭が現れる。
女一 あら、ヤアフネンコのお父つぁん、もう大丈夫?ヤアフネンコ やれやれ、一組挙げて帰ったらしいよ。そっと部屋へ帰んな。静かに――いいか、静かにな。女たちは銘めいの男を伴って音を忍ばせて出て行く。
ヤアフネンコ (ドアから顔だけ入れて)お騒がせしましたな。はい、お休みなさい。禹徳淳 (安重根が着がえしたのに気づいて愕く)なんだい、今からそんな物を着込んで。(駈け寄る)どこへ行くんだ?安重根 (着がえを済まして)おれは嫌だよ。(戸口へ進む)ハルビンへ帰るんだ。禹徳淳 (血相を変えて追い停めようとする)安重根! 君――なにを馬鹿な!安重根 何をするんだ! (振り払う)禹徳淳 (激昂して)貴様、貴様――変節したな。裏切るつもりか。安重根 (ドアの前で振り返って、静かに)変節も裏切りもしない。おれはただ、もう伊藤を殺してしまったような気がするだけだ。禹徳淳 (呆然と佇立していたが、気がついたように戸口(ドア)へよろめいて立ち塞がる)それは何のことだ。安重根 (冷然と)伊藤を殺してしまったような気がして、淋しくて仕様がないんだ。僕はハルビンへ帰るよ。禹徳淳 ようし! (怒りに顫えて掴みかかろうとし、どなる)卑怯者! 卑怯だ。こいつ――!安重根 (禹徳淳の手を抑えて一語ずつ力強く)徳淳! いいか、伊藤は、おれの伊藤だぞ。おれだけの伊藤だぞ。殺(や)るならおれ自身やらなくちゃならない必要があってやるんだ。が――。禹徳淳 (じっと睨んで)詭弁を弄すな、詭弁を。安重根 殺そうと生かそうとおれの伊藤なんだ。おれがあいつを殺すと言い出した以上、今度は、助けるのもおれの権利にある。おれはあいつを生かしておこう! 殺すと同じ意味で助けるのだ!言い終って禹徳淳を突き放し、身を翻して室外に出るや否、ドアを閉める。
禹徳淳 (劉東夏へ)外套を取ってくれ! 外套のポケットにピストルがあるんだ。畜生! 射ち殺してやる。警察へ駈け込むかも知れないから、早く――。劉東夏があわてて寝台に掛けてあった外套を持って来て渡す時、扉(ドア)がいっぱいにひらいて、警備中隊長オルダコフ大尉が、兵卒四五名と何食わぬ顔のヤアフネンコ、支那人ボウイを随えて厳然と立っている。
大尉 (ヤアフネンコへ)飴屋というのはこいつらか。三人と聞いたが二人しかおらんじゃないか。(はいって来る)貴様ら朝鮮人だろう。出ることならん! 特別列車が通過するまで明日一日この部屋に禁足だ! 待て! 今、一応身体検査をする。大尉の合図を受けて兵卒たちがのっそりとはいって来る。劉東夏はぼんやり立ち竦み、禹徳淳は驚愕して背ろへよろめく。

       13[#「13」は縦中横]

十月二十六日、朝。東清鉄道長春ハルビン間の特別列車、食堂車内。

金色燦然たる万国寝台車(ワゴンリイ)の貴賓食堂車内部。列車の振動で動揺している。正面一列の窓外は枯草の土手、ペンキ塗りの住宅、赤土の丘、牧場、松花江(スンガリイ)の水、踏切りなどのハルビン郊外。近景は汽車の後方に流れるように飛び去り、遠景は汽車について緩く大きく廻る。車内は椅子卓子を片付けてリセプション・ルウムのごとく準備してある。車輪とピストンの規則正しい轟音。車窓の外の明徹な日光に粉雪が踊っている。

伊藤公出迎えのため便乗せる東清鉄道民政部長アファナアシェフ少将、同営業部長ギンツェ、護境軍団代表ヒョウドロフ大佐、他二三の露国文武官。ハルビン総領事川上俊彦、日本人居留民会会長河井松之助、満鉄代理店日満商会主、他二三。日露人すべて礼装。

一同が下手の車扉に向って立ち、無言で慎ましやかに待っているところへ、満鉄総裁中村是公、同理事田中清次郎、同社員庄司鐘五郎を伴い、濃灰色(オックスフォード・グレイ)のモウニングに、金の飾りのついた握り太のステッキをついた伊藤公がドアに現れる。人々は静かに低頭する。伊藤公は庄司に扶けられて車室の中央に進む。その時葉巻用のパイプを取り落す。庄司が急いで拾って恭しく手に持っている。伊藤は葉巻を手に、にこやかに人々を見廻す。

アファナアシェフ少将 (きらびやかな軍服。伊藤の前に進んで)公爵閣下には御疲労であらせられましょうが、到着前に一場のお慰みにもなりましょうし、またお見識りの栄を得たく、御出席を願いましたるところ、幸いに御快諾下さいまして、光栄に存じます。東清鉄道民政部のアファナアシェフと申します。(握手する)伊藤 自分がこのたびハルビンを訪問致すのは、なんら政治外交上の意味があるのではなく、ただ新しい土地を観、天下の名士ココフツォフ氏その他に偶然会見するのを楽しみにして行くに過ぎませぬ。庄司が背後から椅子を奨めるが伊藤は掛けない。
伊藤 一度見ておきたいと思った満洲に、政務の余暇を利用し、皇帝陛下の御許可を得て視察の途に上ると、たまたま自分のかねて尊敬措(お)く能わざる大政治家たる貴国大蔵大臣が、東洋へお出ましになるということで、途もさして遠くはなしお眼にかかりたいと思いついて何の計画するところもなく、いささか日露親和の緒にもならんかと思うて罷り出で、計らずもここに諸君にお眼にかかることのできたのは、余輩のまことに満足に思うところである。従来自分は、日露両国間にいっそう親密なる関係の進展する必要を感ずる、いたって切なるものでありますが、どうかこの親和の関係が、敬愛する諸君と同席の栄を得たるこの汽車の中に始まって、汽車の進むがごとく、ますます鞏固なる親交を助長するように期したいのである。諸君の健康を祝したいのでありまするが、朝であるから酒杯は略しましょう。ギンツェ営業部長 (一揖(いちゆう)して)公爵閣下の仰せのとおり、いかなる障害、いかなる困難がありましても、吾人は決して、その困難、はたまた障害のために、両国の親交を損ずることはあるまいと信じます。伊藤 (ちょっと鋭くギンツェを見て)これは珍しいお説である。(すこし不機嫌そうに)いや、障害、困難のごとき、余輩は老眼のせいか、さらにこれを認めませぬ。日露両国の関係は、この列車の疾走するがごとく、益ます前進しつつあるように見受けられる。(すぐ微笑して)余は露人を愛す(ヤ・リュブリュウ・ルウスキフ)。(ギンツェと握手する)伊藤はこの「ヤ・リュブリュウ・ルウスキフ」を棒読みに、不器用に繰り返しながら、順々に握手する。一同微笑する。

       14[#「14」は縦中横]

パントマイム

同日午前九時、ハルビン駅構内、一二等待合室。

正面中央に改札口ありて、ただちにプラットフォウムに続く。改札口を挟んで、左右は舞台横一面に、腰の低い硝子窓。下手奥、窓の下にストウブを囲んで卓子と椅子二三脚。混雑に備えて取り片づけて、広く空地を取ってある。壁には大時計、列車発着表、露語の広告等掛けあり。下手は食堂(バフェ)の売台、背後に酒壜の棚、菓子の皿などを飾り、上手は三等待合室に通じている。

正面の窓の外はプラットフォウム、窓硝子の上の方に向うの線路が見える。寒い朝で雪が積もり、細かい雪が小止みもなく、降りしきっている。

窓のすぐ外、改札口の右側に露国儀仗兵、左側に清国儀仗兵が、こっちに背中を向けて一列に並んでいるのが、硝子越しに見える。

舞台一ぱいの出迎人だが、この場は物音のみで、人はすべて無言である。礼装の群集がぎっしり詰まって動き廻っている。そこここに一団を作って談笑している。知った顔を見つけて遠くから呼ぶ。人を分けて挨拶に行く。肩を叩いて笑う。久濶を叙している。それらの談笑挨拶等、その意(こころ)で口が動くだけでいっさい発音しない。汽車を待つ間のあわただしい一刻。群集の跫音、煙草のけむり、声のないざわめき。

美々しい礼服の日清露の顕官が続々到着する。その中に露国蔵相ココフツォフの一行、東清鉄道副総裁ウェンツェリ、同鉄道長官ホルワット少将、交渉局長ダニエル、清国吉林外交部の大官、ハルビン市長ベルグなどがいる。ボンネットの夫人連も混っている。日本人側は居留民会役員、満鉄代理店日満商会員、各団体代表者、一般出迎人。及び各国領事団。

日本人が大部分である。将校マント、フロック、モウニング、シルクハット、明治四十二年の紳士。和服も多い。紋付袴に二重廻し、山高帽。婦人達もすべて明治の礼装だ。群集は縦横に揺れ動いて、口だけ動く無言の歓談が続く、特務将校ストラゾフと領事館付岡本警部が、駅員を指揮して整理に右往左往している。出迎人は、後からあとからと詰めかけて来る。写真班が名士の集団に八方からレンズを向ける。

やがて鈴(ベル)が鳴ると、ココフツォフを先頭に一同ぞろぞろと、改札口から舞台の、奥の雪で明るいプラットフォウムへ出て行く。遠くから汽車の音が近づいて来ている。群集は改札口を出て雪の中を左右のプラットフォウムに散る。汽車の音はだんだん近く大きくなる。出迎人はすっかり改札口を出て待合室は空になる。改札口には誰もいない。ただ一人、下手窓下の椅子に安重根が掛けている。今まで群集に紛れて観客の眼にとまらなかったのだ。卓子に片肘ついてぼんやりストウブに当っている。茶いろのルバシカ、同じ色の背広、大きな羊皮外套、円い運動帽子。何思うともなき顔。ただ右手を外套のポケットに深く突っ込んでいるのはピストルを握り締めているのだ。

誰もいない待合室だ。安重根は無心に、刻一刻近づいて来る汽車の音に、聞き入っている。長い間。轟音を立てて汽車がプラットフォウムに突入して来る。耳を聾する響き。窓硝子を撫でて沸く白い蒸気。プラットフォウムとすれずれに眼まぐるしく流れ去る巨大な車輪とピストンの動きが、窓の上方、人垣の脚を縫って一線に見える。幾輛か通り過ぎて速力は漸次に緩まり、音が次第に低くなって、停車する。正面、改札口向うに、飴色に塗った貴賓車が雪と湯気に濡れて静止している。号令の声が聞こえて、露支両国の儀仗兵が一斉に捧げ銃する。

同じに喨々たる奏楽の音が起って、しいんとなる。安重根は魅されたように起ち上る。右手をポケットに、微笑している。そのまま前へよろめく。だんだん急ぎ足に、改札口からプラットフォウムへ吸い込まれるようにはいって行く。




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