安重根
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:林不忘 

時。一九〇九年八月、十月。
所。小王嶺、ウラジオストック、ボグラニチナヤ、蔡家溝、ハルビン。
人。安重根(あんじゅうこん)、禹徳淳(うとくじゅん)、曹道先(そうどうせん)、劉東夏(りゅうとうか)、劉任瞻(りゅうにんせん)、柳麗玉(りゅうれいぎょく)、李剛(りごう)、李春華(りしゅんか)、朴鳳錫(ぼくほうしゃく)、白基竜(はっきりゅう)、鄭吉炳(ていきつへい)、卓連俊(たくれんしゅん)、張首明(ちょうしゅめい)、お光、金学甫(きんがくほ)、黄成鎬(こうせいこう)、黄瑞露(こうずいろ)、金成白(きんせいはく)、クラシノフ、伊藤公、満鉄総裁中村是公以下その随員、ニイナ・ラファロヴナ、日本人のスパイ、売薬行商人、古着屋の老婆、ロシア人の売春婦、各地の同士多勢、青年独立党員。
 蔡家溝駅長オグネフ、同駅駐在中隊長オルダコフ大尉、同隊付セミン軍曹、チチハル・ホテル主人ヤアフネンコ、露国蔵相ココフツォフ、随行員、東清鉄道関係者、露支顕官、各国新聞記者団、写真班、ボウイ、日本人警部、日露支出迎人、露支両国儀仗兵、軍楽隊、露国憲兵、駅員。
(朝鮮人たちはルバシカ、背広、詰襟、朝鮮服、蒙古服等、長髪もあり、ぐりぐり坊主もあり、帽子なども雑然と、思い思いの不潔な服装。日清露三国の勢力下にある明治四十二年の露領から北満へかけての場面だから、風物空気、万事初期の殖民地らしく、猥雑混沌をきわめている。多分に開化風を加味しても面白いと思う)

       1

一九〇九年――明治四十二年――八月下旬の暑い日。
ウラジオストックの田舎、小王嶺の朝鮮人部落。

部落の街路。乾割れのした土塀。土で固めた低い屋根。陽がかんかん照って、樹の影が濃い。蝉の声がしている。牛や鶏の鳴く声もする。蝉はこの場をつうじて片時も止まずに啼きつづける。

安重根、三十一歳。国士風の放浪者。ウラジオの韓字新聞「大東共報」の寄稿家。常に読みかけの新聞雑誌の類を小脇に抱えている。左手の食指が半ばからない。ほかにこの場の人物は、老人、青年、女房、娘、子供等、部落民の朝鮮人の群集と、売薬行商人など。

樹の下でルバシカ姿の安重根が演説している。男女の朝鮮人の農民が、ぼんやり集まって、倦怠(ものう)そうに路上に立ったりしゃがんだりしている。みな朝鮮服で、長煙管(ながぎせる)をふかしている者、洋傘(こうもり)をさしているものもある。

安重根 (前からの続き)そういうわけで、百姓は農業にいそしみ、商人は算盤(そろばん)大事に、学生は勉強をして、めいめい本分とする稼業に精を出すことが第一です。この、韓国民の教育をはかるといる大目的のために、また一つには、私は本国の義兵参謀中将ですから、こうしてこの三年間、国事に奔走(ほんそう)しているのであります。私の国家思想は、数年前から持っておりましたが、非常に感じましたのは、四年前、日露戦争の当時からであります。それから以後になって五カ条の日韓条約が成立し、なお続いて七カ条の条約が締結されました。これを機会に私は故国(くに)を出て、この露領の各村落を遊説して来たのであります。聴衆の大部分は聞いていない。あちこちにグルウプを作って、世間話をしたり、ささやき合ったりしている。一隅で欠伸(あくび)する者がある。
安重根 そうすると、韓国の前途について、どういう風にしなければならないか。私の考えを申しますれば、千八百九十五年の日露開戦に際して、日本皇帝陛下の宣戦の詔勅(しょうちょく)によれば、東洋の平和を維持し、かつ韓国の独立を鞏固(きょうこ)ならしむるという御趣旨であったから、その当時韓国人は非常に感激いたしまして、とにかく日本人のつもりで日露戦争に働いた人も尠からざることで、日露の媾和が成立して日本軍が凱旋(がいせん)することになりました時のごときは、韓国人は自国の凱旋のごとくに喜んで、いよいよこれから韓国の独立が鞏固になると言っておりましたところが、その後伊藤公爵が韓国の統監として赴任して以来、前に申しました五カ条の協約を締結しましたが、それはまったく先に宣言せられた韓国の独立を鞏固ならしむるという意に反しておりましたために、尠からず韓国上下の感情を害して、それに対し不服を唱えておりました。のみならず、千八百九十七年にいたりまして、またもや七カ条の協約というものが締結されましたが、これも先の五カ条と同様、韓国皇帝陛下が親ら玉璽(ぎょくじ)を□せられたのではなく、また韓国の総理大臣が同意したものでもない。じつに伊藤統監が強(し)いて圧迫をもって締結されたのであります。聴衆は無関心に、じっとしている。眠っている者もある。
安重根 でありますから、この条約に対して、韓国人はことごとくこれを否認し、ついには憤激のあまり――。若い女が頭に水甕(みずがめ)を載せて出て来る。地面に胡座(あぐら)をかいている青年一が呼び停める。
青年一 水か。待ってた。飲ましてくれ。女 冗談じゃないよ。お炊事に使うんだから。青年一 咽喉が乾いて焼けつきそうなんだ。女 勝手に井戸へ行って飲んで来たらいいじゃないの。青年一 ちっ! 面倒くせえや。わざわざ起って行くくらいなら我慢すらあ。傍らから青年二が女の甕を奪って飲みはじめる。女は争う。
女 いけないったら、いけないよ、あらあら! こぼして――。青年二 因業(いんごう)なこと言うなよ。新しいの汲んで来てやったら文句はないだろう。飲みつづける。青年一をはじめ、二三人集まって、甕を廻して飲む。笑声が起る。この間も安重根は続けている。
安重根 (一段大声に)憤激のあまり、この事情を世界に発表しようとするくらいにまで覚悟しておりました。もともとわが韓国は四千年来武の国ではなく、文筆によって立ってきた国です。子供が出て来て安重根の前に進む。
子供 (手を出して)小父ちゃん! 仁丹ある? ひとふくろ。安重根 (子供を無視して)この国家的思想を鼓吹(こすい)するために――。子供 小父ちゃん! お母(っか)ちゃんがね、仁丹おくれって。お銭(ぜぜ)持って来たよ、これ。安重根 (子供に)小父ちゃんは薬売りじゃないよ。さ、あっちへおいで――私はこの国家的思想を鼓吹するために煙秋(エンチュウ)、水青、許発浦、サムワクウ、アジミイなどこの近在の各地を遊説しているものでありますが、国権を回復するまでは、農業にまれ商業にまれ、おのおのその天賦の職業に精励して、いかなる労働も忍んで国家のために尽さなければならない。また場合によっては、戦争もしなければならないのであります。遠くから声がする。
声 貞露! 貞露!――しようがないねえ。どこ行ったんだろう、洗濯物を持ったまんま。群集の中から、濡れた洗濯ものを持った女が逃げるように、塀にそって急ぎ足に去る。男の一人が見送る。
男 おい。貞さん、今夜行くぜ。女 馬鹿お言いでないよ。笑声。眠っている者はびっくりして眼を覚ます。
安重根 伊藤統監の施政方針はどうしても破壊しなければならない。そのためにはどういうことでもしなければならぬ。若い者は戦争に出て、老人は自分の職業に従事して兵粮や何かの補助をし、子供に対しては相当の教育を授けて第二の国民たる素養を造らねばならぬということを、私は力説したいのであります。売薬の名を大きく墨書した白洋傘(こうもり)をさして、学童の鞄を下げた朝鮮服の男が、安重根と反対側に立って大声に言いはじめる。
薬売り (鞄から蛇の頭を覗かせて)そうら! 蛇だぞ! ははははは、驚いてはいけない。蛇というとすぐ顔色を変える人がある。ところが、この蛇というやつはまことに可愛いもので、おまけにただ可愛いだけではない。人間さまにとってこれほどありがたい生き物はないんだが、どういうものか毛嫌いする人が多いようです。もっとも、こいつ、あんまり感心した恰好ではないからね。群集はかすかに興味を示して、薬売りの周囲へ集まって行く。安重根は手持ち不沙汰に立っている。
薬売り なに、蛇なんざあ珍しくねえ? そこらの藪っぺたを突っつけばいくらでも飛び出す? だだ誰だ、そんなこと言うのは――ちぇっ! そりゃあ夏の蛇だ。夏の蛇ですよ。そんな蛇とは蛇が違う。ねえ、夏の蛇は薬にはならないよ。私がこう言ったら、そんならお前の蛇は何かの薬になるのかと訊いた人がある。なあ、これから九月、十月、十一月もなかばになると、満洲の冬は早いです。名物の空っ風が、ぴゅうっ、ぴゅうっ、ねえ、朝起きてみると、白いものが地面に下りて、霜だ。おお寒い寒い! 皆さん手に息を吹っかけて、家ん中へはいってオンドルの上に縮(ちぢ)こまる。へへん、笑いごっちゃあねえ。蛇だって寒いから、穴籠(あなごも)りだ。山の奥へと持って行って穴を掘って、蛇の先生、飲まず食わずでじいっ――冬眠してやがる。ね、そこを、私らみてえな蛇屋さんが、へん、商売商売だね、竹の棒で起こして廻るんだが、どっこい、どの山の蛇でもいいかと言うと、そうではない。これから北へ行って金崔浩(きんさいこう)さんの所有山(もちやま)、南では車錫山、まず大した蛇山だねえ。蛇追いと言って、これから蛇を追い出して油を取る。御存じの支那の竜門から産(で)ると言われていた視力若返りの霊剤、あれなんかもじつはこの満洲蛇の油だということが、最近偉い博士先生方の御研究によって判明をいたしました。何にきくかと言うと――眼の悪い人はいないかね? 眼の悪い人は前へ出なさい。老眼、近眼、あるいは乱視といって物がいくつにも見える。捨てて置いてはいけない。それから脳病一般、リュウマチス、それに喘息(ぜんそく)だ。この喘息という病は、今日の医学界ではまだその病源についていろいろと説があって、したがって治療法も発見されておりません。学者先生が多勢お集まりになって、腕を拱(く)んで首を捻っていなさる。はて、わからねえ――。薬売りは腕を組んで、首を捻って考え込む態をする。群集はすっかり安重根に背中を向けて、薬売りを取りまいて熱心に聴き入っている。低い塀の上にも、中から覗いている顔がいくつも並んでいる。安重根は憮然として群集を凝視めている。

       2

同年十月十七日、午前十時ごろ。

ウラジオストック、朝鮮人街、鶏林理髪店の土間。罅のはいった大鏡二つ。粗末な椅子器具等、すべて裏町の床屋らしき造り。入口に近く、卓子腰掛けなどあって、順番を待つ場所になっている。正面に住いへ通ずるドア。日本郵船のポスタア、新聞の付録の朝鮮美人の石版画、暦など飾ってある。
禹徳淳(うとくじゅん)――煙草行商人。安重根の同志。四十歳。
張首明――鶏林理髪店主。日本のスパイ。
お光――張首明の妻。若い日本婦人。
他に、安重根、下剃り金学甫、客、近所の朝鮮人の男、ロシアの売春婦二人、日本人のスパイ。

椅子の一つに安重根が張首明に顔を剃らしている。もう一つの椅子にも客がいて、金学甫が髪を刈りて終ろうとしている。入口に近い腰掛けにロシア女二人と近所の男が掛けている。

女一 (髪を束ね直しながら)さ、お神輿(みこし)を上げようかね、朝っぱらから据わり込んでいても、いい話もなさそうだし――。女二 あああ、ゆうべは羽目を外しちゃった。近所の男 (女一へ)この人の旦那ってのは、まだあの、鬚をぴんと生やして、拍車のついた長靴を引きずってる、露助(ろすけ)の憲兵さんかい。女一 やあだ。そうじゃないわよ。あんなのもう何でもないわねえ。今度の人は――言ってもいいわね。日本人の荒物屋さんよ。男 へっ、日本人(ヤポンスキイ)か。女二 あ、そうそう。今日か明日、また日本の軍艦が入港(はい)るんですって。港務部へ出てる、あたしの知ってる人がそ言ってたわ。女一 あら、ほんと? 大変大変!男 そら始まった。大変はよかったね。日本の水兵が来ると言うと、すぐあれだ。眼の色を変えて騒ぎやがる。張首明 (安重根の顔を剃りながら)情夫(いろおとこ)でも乗ってるというのかい。奥へ通ずる正面のドアから張首明妻お光が出て来る。
お光 情夫ですって? 面白そうなお話しね。(一同へ)あら、いらっしゃい――日本の水兵さんは、みんなロシア娘の情夫(いろおとこ)なんですとさ。近所の男 どこがよくてそう日本人なんかに血道を上げるんだろう。気が知れねえ。お光 おや、ここにも一人日本人がいますよ、ははは。髪を刈っている客 (金学甫の椅子から)そうだ。日本人と言えば、ハルビンは騒ぎのようだね。ロシアの大蔵大臣のココフツォフとかいう人が来て、日本の伊藤公爵を待ち合わせるんだそうだ。張首明 伊藤公爵って、この六月まで韓国統監をしていた伊藤さんかね。女一 さよなら。女二 あたしも行こう。油を売っちゃいられないわ。近所の男 張さん、じゃまた、後で来るぜ。張首明 そうかい。もうすぐだがね。女三人と近所の男は、張首明夫婦に挨拶して去る。入れ違いに、よごれた朝鮮服に鳥打帽をかぶり、煙草の木箱を抱えた禹徳淳がはいって来て、安重根とちらと顔を見合って腰掛けに坐る。張首明は素早く二人を見較べる。
お光 (張首明へ)あら、煙草まだあったわね。禹徳淳 煙草じゃありませんよ。髪刈りに来たんですよ。髪を刈っている客 伊藤さんは今度帰ると、満洲太守という位につくんだという評判だよ。張首明 そうですかね。豪勢なもんさね。それで、なんですかい、ハルビンへおいでになるのは、その瀬踏みってわけでしょうかね。なんだか満鉄の整理に見えるとかって聞きましたが――。客 そんなこともあるかもしれない。中村とかいう満鉄の総裁が一緒に来るそうだから。金学甫 (客を済まして)一服おつけなさいまし。張首明は安重根と禹徳淳へそれとなく注意している。
お光 金ちゃん、お前、朝御飯まだだったね。(張首明へ)あんたも、ちょっと待っていただいてすましちまったらどう?客 ここへ置きますよ。代を残して去る。張首明は安重根と禹徳淳に会釈(えしゃく)し、お光、金学甫とともに、三人正面のドアから奥へはいる。禹徳淳は、安重根と並んで空き椅子に腰掛けて、しばらく双方ともじっと動かず黙っている。
安重根 (低声に)手紙見たな。禹徳淳 言って来たとおり調べてある。二十四日の晩の汽車らしい。安重根 今もここにいた客がその話をしていたが、(考えて)夜か――。禹徳淳 二十三日に寛城子を出発するそうだ。ハルビンのほうは、情報を集めるように曹道先に電報を打っておいた。遼東報にも大東共報にもかなり詳しく報道されているが、まちまちでねえ。李剛さんに会ったか。安重根 まださ。いま着いたばかりだよ。君と打ち合わしておいたとおりに、すぐここへやって来たんだが――しかし、なあ徳淳、おれは考えたよ。じつは、すこし考えたことがあるんだ。禹徳淳 夜着くというのが心配なんだろう。それはおれも、全然考えないじゃない。まったく、夜はいっそう警戒が厳重だろうから――だが、それだけまたこっちにしてみれば、昼よりは紛れ込むに都合がいいわけだからねえ。安重根 そんなことじゃあないんだ。会って話さなけりゃわからないことだから、手紙には書かなかったが、(笑って)会って話したところで、君は人の細かい気持ちなど解る人間じゃあなかったね。禹徳淳 (熱心に)君は何を考えているか知らないが、君がウラジオへ出て来ると決ってから、同志の熱狂ぶりは大変なものだ。まるで救世主の再臨を待つように騒いでいる。どこから聞き出したか、下宿の連中まで知っていてねえ、今日来るそうだがどこで僕と落ち合うことになっているかとうるさく訊くじゃあないか。(戸外を見て)ひょっとすると、探しに来るかもしれないぜ。安重根 救世主だ? 馬鹿な! 君までそんなことを言う。だから君には、僕の心持ちは解らないというんだ。禹徳淳 じゃあ、考えているって何を考えているんだ。安重根 (半ば独り言のように)ハルビンへ行くよ。なあ、ハルビンへ行こう――。禹徳淳 もちろんだとも。今になって計画を中止するなんて、そんなことは考えられない。期待に燃えている同志をはじめ、ここまで突き詰めているおれのことも考えてくれ。安重根 (気軽な調子で)だからさ、行くよハルビンへ。行くと言ってるじゃないか。(急に述懐的に)三年間――長い三年だったなあ。禹徳淳 そうだ。長い三年だった。安重根 三年の間、おれは故郷(くに)の家族に一度も会わずに来た。禹徳淳 (吐き出すように)何だ、そんなことを言ってるのか。安重根 話したかしら――おれが十六の時、十七の家内を貰ったんだよ。もう三十二のお婆さんだ。子供が三人あってねえ、女一人男の児が二人さ。禹徳淳 (うるさそうに)聞いたよ。みんな達者にきまってるよ。それより、黄成鎬のところへは、今日行くと報せてあるのか。安重根 徳淳、君あ趙康英(ちょうこうえい)という人を知っているかね?禹徳淳 趙康英? 聞いたことがある。煙秋(エンチュウ)の田舎の下里で戸籍係をしている男だろう?安重根 今じゃあ出世してねえ、ポグラニチナヤの税関の主事をしているよ。禹徳淳 君、早く李剛主筆に会ったほうがいいぜ。一緒に行こう。安重根 (しんみりと)やはり故里(くに)の人間でねえ、僕んところから三里ほどしか離れてないんだが、今度休暇を取って、ちょっと帰国(かえ)るんだそうだ。それで、手紙を出して頼んであるけれど、僕あポグラニチナヤへ行って、よく相談しようと思っている。故里(くに)のほうに都合がついたら、趙君に面倒を見てもらって、帰りに、ハルビンまで家族(うち)のやつらを伴れて来てもらうつもりだ。旅券の関係で、ウラジオへ呼ぶということは厄介だからねえ。禹徳淳 (驚いて)ほんとに君は、その用でハルビンへ行くのか。安重根 そうさ。僕はハルビンで、三年振りに妻や子供に会うんだ。禹徳淳 何を言ってるんだ――。安重根 (希望に満ちた様子で)金成白ねえ、君も知ってるだろう? あの金成白の店から、品物を融通してもらって雑貨商でもはじめて、多分、ハルビンに落ち着くことになるだろう。禹徳淳 (考えたのち笑い出して)ははははは、おれにまで、ははははは、おれにまでそんな用心をしなくてもいい。安重根 まったく、考えてみると、お互い下らないことに向気(むき)になってたもんさ。こうして外国に出て不自由をしながら、国事だとか言ってみたって始まらないからねえ。同じ苦労するなら、女房や子供を呼んで、すこしでもうまい飯を食わせるように苦労してみる気になったよ――。(笑う)間が続く、禹徳淳は沈思している。急に憤然と椅子を起つ。
禹徳淳 安君――。奥に大きな話し声とともに正面のドアがあいて、楊子をくわえた張首明が出て来る。立っている禹徳淳を見て驚く。
張首明 おや、お帰りですか。禹徳淳 (狼狽して)急な用事を思い出したんです。後で来ます。張首明 そうですか。どうもすみません。お急ぎじゃないと思って、ちょっと飯をやってたもんだから――。禹徳淳はじろりと安重根を見て、考えながら出て行く。張首明は再び安重根を刈りはじめる。長い間。
張首明 ははは、飯を食っててお客を逃がしちゃった。しかし、腹が減っちゃあ軍はできませんからね。安重根 まったく。張首明 旦那は鎮南浦の方ですね。安重根 (ぎょっとして)どうしてわかる。張首明 どうしてって、言葉の調子でわかりまさあ。安重根 そうですよ。鎮南浦の安重根というんです。張首明 ここの新聞社の社長さんも鎮南浦の方ですね。李剛先生っていう、御存じですか。と表てに気を配る。戸外に、そっと金学甫が案内して、日本人のスパイが来ている。背広服、紳士体の男。安重根は張首明の様子でそれと気づき、何気なく装う。お光が正面の戸を細目に開けて覗いている。
スパイ (はいって来る)こんちわ。空(す)いてるかね?安重根 (大声に)そうだ。その李先生に伝言(ことづけ)を頼もう――。スパイ ここへ坐るかな。空き椅子に腰を下ろす。
張首明 どうぞ――。(奥へどなる)金公! 何してやがるんだろうな。お客さまだぞ。金学甫が裏から廻って出て来る。安重根は続けている。
安重根 (なかばスパイに)たいした用じゃあないよ。ただ李って人はよく知らないでね、一つ僕を君の友達ということにして、紹介する意味で言っておいてもらいたいんだが――。スパイは金学甫と談笑しながら、安重根の言葉に聞耳を立てている。

       3

同じくウラジオストック。鶏林理髪店付近の場末の民家屋根裏、朝鮮字新聞「大東共報」社。編輯局兼印刷工場。同時に主筆李剛夫妻の住居でもある、大東共報社のみすぼらしい全部だ。

片隅に壊れかかった寝台。傍らの壁には衣類など雑然とかかり、床は、食器炊事道具など散乱し、おびただしい洋書、新聞紙の類が山積している。反対側にささやかな植字台、旧式の手刷りの印刷機、その他の器具必要品など乱雑に置かれて、中央に李主筆の大机、それを取りまいて古びた椅子四五脚。

正面に小窓二つ。下手に耳戸(くぐり)のような扉(ドア)。ドアを開けると急傾斜の階段の上り口が見える。窓を通して、人家の屋根、ニコライ堂、禿山などのウラジオ風景。遠くに一線の海。

壁は、露語と朝鮮語の宣伝びらや、切抜きや楽書でいっぱいだ。漢字で「八道義兵」、「大韓独立」、「民族自決」と方々に大書してある。正面の窓の間に旧韓国の国旗を飾って、下に西洋の革命家の写真など懸っている。天井は低く傾き、壁は落ちかかり、すべてが塵埃と貧窮と潜行運動によごれきった、歪んだ屋根裏の景色。

前場と同日、十月十七日の夕刻。二つの窓から夕焼けが射し込んで、室内は赤あかと照り映えている。

李剛――五十歳。大東共報主筆。露領の朝鮮人間に勢力ある独立運動の首領。親分肌の学者で、跛者(びっこ)だ。すっかり露化していて、ルバシカに、室内でも山高帽をかぶっている。
李春華――李剛の若い妻。
柳麗玉――ミッション上りの同志で安重根の情婦。ロシアの売春婦のような鄙びた洋装。二十七歳ぐらい。
卓連俊――老人の売卜乞食。
朴鳳錫――大東共報記者、青年独立党員。
鄭吉炳――安重根の同志。独立運動の遊説家。
クラシノフ――亡命中の露西亜革命党員。李剛の食客。他同志一、二。

李春華は一隅で、石油の古罐に炭火をおこして粥を煮て、葱(ねぎ)の皮をむいている。傍で卓連俊がその手伝いをしながら、生葱を食べている。クラシノフは、中央の机に腰かけて露語新聞を読み、鄭吉炳は箒でそこらを掃き、その間を李剛は、何か呟きながら探し物の態で、部屋じゅう跛足を引いて歩き廻っている。隅の卓子で、柳麗玉が手紙を書いているのを、朴鳳錫は印刷機を掃除しながら、ちらちらとその手許を覗く。

柳麗玉 (手で、書いている紙片を覆って)お止しなさいよ、覗くの――人の書いてるものや読んでるものを覗くのは、失礼よ。朴鳳錫 おや! まるで公爵家の家庭教師の言い草だ。ははあ、恋愛は昔から多くの惜しい同志を反動家にして来た。してみると、それは安さんへ書いているんですね。しかし、安さんなら、もうこのウラジオへ来てるはずですよ。鄭吉炳 (箒をとめて)十七日にはそっちへ行くという、煙秋(エンチュウ)から出した安さんの手紙が先生んとこへ届いたのは、いつだったっけな。一昨日(おととい)でしたね、先生。李剛 (歩きながら)そうだ。朴鳳錫 (誰にともなく大声に)おい! 白基竜はどうしたんだ。安さんは、今朝早くやって来る予定なのに、こう夕方になっても顔を見せないから、おおいに歓迎しようと待ち構えていた同志たちは拍子抜けがして、ああやってたびたび訊き合わせに来るし、今度は、李先生まで心配して、さっき黄成鎬の家へ白基竜のやつを様子見にやったんだが――。柳麗玉 ええ。安さんはウラジオへ出て来れば、黄成鎬さんとこへ泊るにきまっていますけれど、今度だけはあたし、まっすぐここへ来るはずだと思うわ。先生はじめ同志の方が、皆こんなに待っていることは、安さんだって知っているんですもの。卓連俊 待ってるのあ、仲間や先生だけじゃああるまいってね。李春華 お爺さん、しょうがないね。そうやって剥(む)く傍から葱を食べちまって。それより、水をいっぱい汲んで来ておくれよ。卓連俊はバケツを提げてドアの階段口から降りる。
李春華 (李剛へ)あなた、何をさっきからうろうろ歩き廻っているんです。また探し物ですか。李剛 うむ。君は知らないかな。今朝衛生局から廻って来た通知書なんだが、あれに、この辺の種痘は何日から始めるとあったか覚えていないか。李春華 さあ。私はよく見もしませんでしたけれど、あれなら、今し方鄭さんが読んでいたようですよ。ねえ鄭さん、ほら、市庁から来た青い紙。どこへやって?鄭吉炳 どこだったか、そこらへ置きましたよ。ありませんか。李剛 見つからなくて弱ってるんだ。明日の新聞にちょいと書いといてやろうと思うんだが――。クラシノフ ねえ。李さん。ハルビンのノウワヤ・ジイズニ新聞がこんなことを言ってる。(読み上げる)「今回当地における伊藤公とわが北京公使ならびに大蔵大臣ココフツォフとの会見につき、本社は確かなる筋より左のごとき説話を聴けり。今回の会見は、満洲における日露両国の地位に関し、過般来日清露間に継続したる談判の結果にして、決して偶然の出来事にあらず。ポウツマス条約は単に紙上に締結せられたるのみ。これが実行の場合、全局の政策と衝突するの点尠しとせず。ことに北満における日露の商工的利害に関し最も然りとなす。しこうして清国はこの間に立ちて独り漁夫の利を占めつつあるなり。」――とこう言うんだが、この新聞は社会党の機関紙だ。社会党のやつらまで、急にこんなに関心を持ち出したところを見ると、やっぱり噂どおり、伊藤とココフツォフはハルビンで会うことに確定してるんだな。李剛 (まだ探しながら)そんなことより、こっちは植え疱瘡(ぼうそう)の通知書だ。近いうちに、市の医者がこの近所へ出張して来て、種痘をすると言って来たから、その期日をだしておかなくちゃあ――未来の労働者と兵隊がみんな疱瘡に罹(かか)って死んでしまったら、プリンス伊藤もココフツォフも困るだろう。柳麗玉 あ、これじゃありませんか。何だろうと思って、今も見ていたんですけれど、気がつきませんでした。と自分の卓子の上から青い紙片を取って李剛に渡す。李剛は中央の大机に帰って、通知書を参考しながら原稿を書き出す。同志一と二があわただしく駈け上って来て扉(ドア)から顔を出す。
同志一 安重根さんは来ていませんか。同志二 たしかに今朝ウラジオへ着いたらしいんですが――。鄭吉炳 (むっとして)何度来たって、いないものはいませんよ。こっちでも、あちこち心当りのところへ人をやって探してる最中なんです。朴鳳錫 (戸口へ進みながら)君らは、今朝からそうやって入りかわり立ちかわり安君を探しに来るが、僕らが安君を隠しているとでも思ってるのか。同志一 (鄭吉炳へ)そうですか。(独言のように)変だなあ――けさ着いたまではわかってるんだが、すると、それからどこへ廻ったんだろう?同志二 (朴鳳錫へ)いや、そういうわけじゃあありません。あんまり皆が待ってるもんだから、じっとしていられなくて、ことによると、もうここへ来てるかもしれないと思って来てみたんですが――そうですか。じゃあ、また――。二人は急いで降りて行く。
朴鳳錫 変だなあ実際。安君はいったいどうしたんだろう?李剛 (気がついたように)白基竜はまだ帰らないか。朴君、窓から見てごらん。朴鳳錫 自転車で行ったんですし、それに、そんなに遠いところじゃなし、もうとうに帰ってなくちゃならないんですが、(正面の窓に立って下の往来を覗き、すぐ背伸びして遠くの港を見る)船が入港(はい)って来た。軍艦らしい――そうだ。日本の軍艦だ。クラシノフ (舌打ちして)またか。今にぞろぞろ日本の水兵が上陸して来る。そうすると、ここらの露路うらから、化物のように白粉を塗りまくったロシアの女房たちが、まるで革命のように繰り出して行って、桟橋通りを埋めつくすのだ。そして、街全体は瞬く間に、唄と笑いと火酒(ウオッカ)の暴動だ。ははははは、女たちの仕事は、実行の上で、僕らよりずっと国境を越えているんだからかなわないよ。李春華 ロシアの女ばかりじゃあありませんわ。このごろでは、この辺の朝鮮の女まで、日本の水兵と聞くと、眼の色を変えて騒いでいますわ。李剛は、これらの話し声をよそに、机上に頬仗をついてパイプをふかしながら、凝然と考えこんでいる。窓の残光徐々に薄らいで、この時は室内に半暗が漂っている。
柳麗玉 (書き物を続けながら)いいじゃあありませんか。何もできない人は、そんなことでもして、日本人からうんとお金を搾(しぼ)ってやるといいんだわ。卓連俊が、水のはいっているバケツを提げて、あわただしく上って来る。
卓連俊 (戸口に立ち停って階下を見下ろす)どうもいけ図々しい野郎だ! 角の床屋です。いけねえって言うのに、どんどん上って来やあがる――。朴鳳錫 (ドアへ走って)角の床屋? 角の床屋って、あの、スパイの張首明か。卓連俊 先生に用があると言って肯(き)かねえのだ。いま都合を訊いて来てやるから待っていろと言っても、あん畜生、おれを突き退(の)けるようにして上って来ようとする――や! 来た、来た! 上って来やあがった!鄭吉炳 あいつ、俺たちに白眼(にら)まれてることを知らないわけじゃあるまい。承知の上で押し掛けて来たとすると、スパイめ、何か魂胆があるかもしれないぞ。李春華 燈火(あかり)をつけましょうか。クラシノフ (不安げに立って)いやいや、暗いほうがいいです。朴鳳錫 上げちゃあまずい。よし。どんな用か、僕が行って会ってやる。鄭吉炳 (李剛へ)僕も行ってみましょうか。李剛 (苦笑して)そうしてくれたまえ。朴君は喧嘩っ早いから、ひとりじゃあ心配だよ。朴鳳錫と鄭吉炳は、ドアを出て階段を駈け降りて行く。一同じっと聞耳を立てている。「何だ、何だ。」「何の用だ。ここは貴様の来るところじゃない!」などと二人の大声や跫音に混って、張首明の低い声が聞えて来る。

       4

大東共報社の階下。民家の物置きにて、古家具、新聞雑誌、穀物の袋等積み重なり、手車なども引き込んである。そこここの床に食客たちが寝泊りするマトレスが敷いてある。下手寄りに、出入口のドアが開け放されて、街路の灯りがかすかに流れ込んでいる。正面中央に、階上の大東共報社へ昇る階段が、下から三分の二ほど見える。舞台はほとんど闇黒。

前の場の続き。前場の人々全部と、理髪師張首明、白基竜、安重根。白基竜は朴鳳錫と同じ若い独立党員で、大東共報記者。

正面の階段を、理髪師の白衣を着た張首明が、突き落されるように降りて来る。朴鳳錫と鄭吉炳は、階段の中途に立ち停まって足だけ見えている。

張首明 (階段の根に身を支えて)何をするんです。乱暴な! 李先生に用があるんですよ。朴鳳錫の声 何だ。だから、何の用だと訊いてるじゃないか。鄭吉炳の声 張さん、ここは君の来るところじゃないぜ。用があるなら、僕らに言いたまえ。先生に取り次ぐから――。張首明 私も来たかありませんがね、伝言(ことづけ)を頼まれたから、仕方なしに来たんです。朴鳳錫 (駈け降りて来る)こいつ! 貴様が先生に用のあるはずはない。おい、鄭君、こんなやつと真向(まとも)に口利くことないんだ。抛り出しちまおう。鄭吉炳 (続いて駈け降りて朴鳳錫を制する)待てよ。いいから待てよ。(張首明へ)君も強情だな。僕らが取り次ぐと言ったら、ともかくその用というのを話したらいいじゃないか。張首明 (朴鳳錫へせせら笑って)おれの身体にさわると、大変なことになるのを知らねえか。おれは、ただの床屋の張さんじゃあねえぞ。朴鳳錫 (鄭吉炳を押し退(の)けようとしながら)なにを! 貴様、日本のスパイだと言いたいんだろう。同じ朝鮮人のくせに、日本人から女房と金を貰って、金斗星先生や安――。鄭吉炳 朴君!朴鳳錫 金斗星先生の独立運動をスパイしてやがる。こっちだって、そんなことはちゃんと知ってるんだ。てめえのような裏切者は――(鄭吉炳へ)放せ。放せよ。畜生! 張の野郎を殴り殺してやるんだ。と鄭吉炳を振り払って掴みかかろうとする時、階段の上に薄い灯りがさして李剛の声がする。
李剛の声 (静かに)張さんですか。張首明 (階段の上を覗いて)おや、先生。李先生ですね。へへへ、どうも、真っ暗で――。李剛の声 張さんですね。張首明 ちょっとお話ししたいことがあるんですが――。李剛の声 何です。朴鳳錫 (開け放しのドアを指して、張首明へ)二階へ上るなら、戸を閉めて来い。張首明 いえ、こちらで結構ですよ。なにも、あなた方のように、年中秘密の相談があるというわけではなし――。朴鳳錫 (再び掴みかかろうしして鄭吉炳に停められる)嫌なやつだなあ、こいつ。鄭吉炳 まあ朴君、そう君のように――とにかく、先生に話しがあるといって来ているんだから、言うことだけ言わして、早く帰そうじゃないか。張首明 安重根という人に頼まれて来たんです。裸か蝋燭を持って、李剛が跛足(びっこ)を引きながら降りて来ている。
李剛 (呆けて)安重根?――さあ、聞いたような名だが、よく知りません。どういう話です。鄭吉炳 (急き込む)張さん、君はその安という人と以前から識り合いなのか。李春華と柳麗玉が降りて来る。柳麗玉は蝋燭を持っていて、李剛のと二本で舞台すこしく明るくなる。
張首明 以前から識りあいというわけでもありませんが、まあ、そうです。安重根さんは私たちの仲間です。鄭吉炳 君たちの仲間――と言うと、その人も床屋なんだね?張首明 いえ。安さんは床屋じゃあありません。鄭吉炳 同業ではないけれど、仲間だと言うのかい。すると――。朴鳳錫 (激昂して)解ってるじゃあないか。やっぱり安のやつ、張の一味なんだ。あいつも密偵(いぬ)だったんのだ。道理で、何だか変だと思っていたよ。第一、今日なんか、ウラジオへ着いたらすぐ、先生のところへ顔出しすべきじゃないか。それが――。柳麗玉 (鋭く)朴さん、何を言うんです。張首明 そのことですよ。今朝早く店へ安重根という人が見えて、髪を刈ったり鬚を剃ったりして、お正午(ひる)ごろまで遊んでいましたが、午後ちょっと買物をして来ると言って町へ出て行きました。その時、出がけに、今夜晩くなってからこちらの先生をお訪ねするからそう伝えておいてくれ、と私に頼んで行ったから、ちょっとそれを言いに来たんです。李剛は空箱に腰かけ、一同は張首明と李剛を取りまいて立っている。顔を見合って、しばらく間がつづく。
朴鳳錫 (李剛へ駈け寄って)それごらんなさい、先生。僕は前から、安重根は怪しいと白眼(にら)んでいたんです。今朝、太陽と一しょにウラジオへ来ているくせに、正午までこんなやつのところにごろごろしていて、何を話したんだか知れたもんじゃあない。暗くなってから来るとか何とか、いい加減なことを言って、見ていらっしゃい。きっと来ませんから――でたらめな計画を吹聴しといて、自分はスパイを稼いでやがる。来られた義理じゃあないんだ。もし来たら、この長靴のように伸ばしやる!李剛 (沈思の態にて、静かに張首明へ)なるほど。その安重根という人は、あなたの店でいろいろ話し込んだ上、あなたに伝言を頼んで、午後町へ出て行ったというんですね。張首明 そうです。なんだか皆さんのお話しの模様では、御存じの方らしいじゃありませんか。朴鳳錫 そんなことは余計だ。用が済んだらさっさと帰れ。張首明 帰れと言わなくたって帰りますよ。(独言のように)なんだか知らねえが、まるで支那祭りの爆竹みてえにぽんぽんしてやがる!と帰りかけて、戸口からそとを覗く。
張首明 誰か来ましたよ、自転車で――あ、白さんだ。白基竜さんだ。言いながら出て行く。この間に李春華が二階へ上って、羊燈に灯を入れて持って来て傍らの古家具の上に置く。張首明と入れ違いに白基竜がはいって来る。
白基竜 (戸口に自転車を立て掛けながら外を振り返って)今のは床屋の張ですね。不思議なお客だな。何しに来たんです。李剛 遅かったじゃないか。安重根君はどうした。白基竜 それが、どうも変なんです。黄成鎬さんのところへも、今日早く着くからという報せがあったそうで、あちらへもわいわい詰めかけて待っていますし、僕も、いま来るか今くるかと思って、こんなに晩くまで待ってみましたが――。階段の上にクラシノフが現れて下を覗く。
クラシノフ どうしたい。だいぶ大きな声がしてたようだが、床屋のやつ、もう帰ったのか。降りて来る。
白基竜 何かの都合で一日延びたんじゃないでしょうか。朴鳳錫 なあに、こっちにはすっかりわかっているんだ。君のいないあいだに、今の床屋の口から大変なことが露(ば)れたのだ。白基竜 安さんのことでか? 何だ。どんなことだ。李剛 (決定的に)朴君、私はあの張首明という人間が気になってならない。君、すぐ出かけて行って、あいつの家を見張ってみたらどうだろう、出て来たら、無論、後を尾けるのだ。李春華 (階段を上りながら)いま熱いお粥ができましたから、皆さんでちょっとすましてから――。李剛 (激しく)いかん、いかん! 急ぐんだ。それから白基竜君、君は停車場の待合室へ行って、腰掛けにごろ寝している連中のなかに安重根がいないか見て来てくれたまえ。白基竜 僕にはさっぱり解らないが、安さんがどうかしたんですか。いったい何があったんです。朴鳳錫が促して、二人は急いで出ていく。
李春華 では、あとの人だけで御飯にしましょうか。李剛 (いらいらして)いや。二人が帰ってから、みんな一緒に食おう。鄭吉炳 (ばつの悪い空気を感じて)今日は十七日でしたね。誰も答えない。開け放したドアの外を行李を抱えた安重根が通って、すぐ物蔭に隠れる。
鄭吉炳 ワデルフスキイ街(まち)に七の日の縁日がありますから、それでは私は、その間にちょっと××運動のアジ演説をやって来ようかな。あすこの市(いち)には、朝鮮人の人出が多いから、わりに効果があるんです。クラシノフ 僕も弥次りに行こう。飯にならないんじゃあ、いま家にいたってしようがない。ははははは。李剛 (ぼんやりと)そうだ。そうしてくれたまえ。クラシノフ 救世軍の前でやろうじゃないか。やつらの楽隊を人寄せに利用するのだ。鄭吉炳 しかし、咽喉が耐りませんよ。あの太鼓とタンバリンに勝とうとすると、いい加減声が潰れてしまう――おや! 卓さんは? あの人を引っ張って行って卜(うらな)いの夜店を出させると、うまく往きゃあ煙草銭ぐらいにはなるんだがな。クラシノフ 名案だ。卓さんはどこにいる。李春華 二階に寝ていますわ。鄭吉炳 相変らず要領がいいな。駈け上って行く。間もなく寝呆けている卓連俊を引き立てて降りて来る。
鄭吉炳 お爺さんしっかり頼むぜ。ワデルフスキイの縁日へ商売に行くんだ。眼をぱっちり開けなよ。卓連俊 (よろよろしながら)卜い者に自分の運命がわからねえように、あんたにゃあ民族の運命がわからねえ、皮肉(ひにく)だね。お互いに無駄なこった。クラシノフ はっはっは、洒落たことを吐(ぬ)かしたね。商売道具を持ってついて来たまえ。一緒にやろうじゃないか。卓連俊は自分の寝床のそばへ売卜の道具のはいった小鞄を取りに行こうとして、上着の下から火酒の壜が転がり出る。
鄭吉炳 なんだ、臭いと思ったら、爺さん、早いとこ呑(や)ってやあがら。さ、出かけよう。すこしパンフレットを持って行こう。鄭吉炳とクラシノフは小冊子の束を抱えて出て行く。古ぼけた手鞄を提げて卓連俊が続く。李剛はパイプを吹かして、じっと洋燈の灯に見入っている。間。
李春華 (静かに李剛へ近づいて)あなた、みんな外へお出しになったのね。何かお考えがあるんでしょう?李剛 (気がついたように)うむ。考えがあるのだ、君も、今のうちに柳さんを伴れて、いつものように洪沢信のところへ貰い湯に行って来たらどうだ。李春華 そうね。そうしましょう――では、柳さん、このひまに一風呂浴びて来ましょうか。柳麗玉 (物思いから呼び覚まされて快活を装い)え? ええ。お供しますわ。と李剛の様子に眼を配りながら、柳麗玉は李春華とともに入浴の道具をまとめて去る。李剛はそそくさと起って、いま女たちが閉めて出た表のドアを開けて来る。そして、階段のほどよい段に洋燈(ランプ)を移し、第一段に腰かけて人待ち顔に洋燈の下でパイプの掃除にかかる。遠くで汽笛が転がる。朝鮮服の安重根がちょっと室内を覗いたのち、足早やにはいって来る。革紐で縛った古行李を引きずるように提げている。すぐ李剛と向い合って行李に腰かける。
安重根 (微笑して)しばらくでした。不安らしく階段の上に耳を澄ます。
李剛 (パイプの掃除に熱中を装い、無愛想に)大丈夫です。誰もいない。君の伝言(ことづけ)どおりにみんな出してやった。が、そこらでうちのやつに会わなかったですか。安重根 すぐ前の往来で奥さんと柳に会いましたが、二人とも気がつかないようでしたから、黙って擦れ違って来ました。李剛は無言でうなずいて、起ってドアのほうへ歩き出しながら、そっとルバシカの下へ手を入れて財布に触ってみる。安重根も行李を抱えて続こうとする。
李剛 (戸口で振り返って)君、洋燈(ランプ)を――。消す手真似をして出て行く。安重根は引っ返して洋燈を吹き消し、急ぎ足に李剛のあとを追って出る。

       5

港の見える丘。前の場のすぐ後。

砂に雑草が生えている。暗黒。崖縁の立樹を通して、はるか眼下に港が見える。碇泊船の灯。かすかに起重機の音。星明り。

安重根と李剛が話しながら出て来る。安重根は行李を抱え、李剛は跛足(びっこ)を引き、パイプをふかしている。

李剛 朝鮮の着物には個性がないからねえ、忍術には持ってこいだよ。安重根 何と言いましたっけね、あの角の床屋、来ましたか。李剛 張首明か。(港に向って草の上に腰を下ろす)歩くのは降参だ。うむ。来たよ。あの男の言葉から、僕は君の意思を察したつもりで、ああして皆を外出させて待っていたのだ。安重根 (並んで坐る)今朝着いて、あの床屋の店で徳淳に会ったきり、どこへも顔出しせずに、午後いっぱい買物をしていました。ちょっと旅行に出るもんですから、着物や何か――。(行李を叩いて)今夜一晩、黄成鎬さんのところへ泊って、明日(あした)発(た)ちます。李剛 あした発(た)つ? それはまた急だねえ。だが、日本の客は予定よりすこし早く着くことになった様子だから、なるほど。安重根 (弁解的に)先生、私は家族を迎えにハルビンへ行くんです。李剛 (笑う)それもいいだろう。安重根 (懸命に)ほんとに家族を迎えに行くんです。李剛 (いっそう哄笑(わら)って)まあ、いいですよ。解っている。あのスパイの張首明に、仲間であるようなことを言わせて、うちへ使いに寄こした君の心持ちもわかるような気がする。が、もう今ごろは、ウラジオ中の同志のあいだに、君が密偵(いぬ)臭いという評判が往き渡っていることだろう。安重根 すると張首明は、頼んでとおりに、私と親しくしているような口振りだったんですね。李剛 (心配そうに)朴鳳錫だの白基竜だの、言うなといっても言わずにはいられない人間だからねえ。安重根 ははははは、そう思ってしたことです。朴君なり白君なりの口を出る時は、「あいつ臭いぞ。用心しろ」ぐらいのところでしょうが、それが、人から人と伝わっていくうちに、「安重根は日本に買われている」となり、「彼奴(きゃつ)はその金でさかんに女房の名で故郷(くに)に土地を買っているそうだ」などと、まことしやかな話が出て来るに決まっています。ははははは、私も昨今運動に入ったのではありませんから、そういうゴシップの製造過程はまるで眼に見るようにわかります。李剛 まさかそんなことも言うまいが、しかし、若い連中の失望と恐慌は、相当大きなものだろう。なにしろ、今度の計画が知れてからというものは、安重根という名は彼らのあいだに一つの神聖な偶像になっているからねえ。安重根 (不愉快げに)そんなこと言わないで下さい。だからこそ今日、わざわざあの日向臭い床屋の店で、張首明とかいう人に調子を合わせて、小半日も油を売ったのですが、すると、それも、私の期待したとおりの結果を生みそうですね。(淋しく笑う)裏口から使いが走って、日本人のスパイを呼んで来ましたよ。李剛 (皮肉に)君も偉くなったねえ――。(鋭く)安君! 君は、あとで、同志の人たちに迷惑を及ぼしたくないと考えて、そうやってわざとグルウプから除外されようとしているのだろうが、僕は、そのちっぽけな心遣いが気に食わないのだ。安重根 (独り言のように)そう見えますかねえ。ふん、先生らしい考え方だ。私はただ、みんなに会いたくないんです。会いたくない――と言うより、会うのが恐しいのです。李剛 なぜです。僕にはよくわかっている。いよいよ決行に近づいて、君は同志の信を裏切ったように見せかけて一人になろうとしている。なるほど、愚かな同志は、君の狙い通りに君を排斥するだろうさ。しかし、それはほんのしばらくの間だということは、誰よりも君自信が一番よく知っている。後になって君の挙を聞いて、一同はじめてその真意を覚る――。(苦笑)昔から君のすることは万事芝居がかりだった。安重根 (苦しそうに)同志? 先生は、何かと言うと同志です。僕は、同志などというものから解放されて、自分の意思で行動することはできないのか――。李剛 (冷淡に)それもいいさ。だが、自分の名を美化するためには、人の純情を翻弄してもかまわないものかね。安重根 (淋しく)そんなことより、僕はいま、僕自身を持て余しているんです。(起ち上る)この気持が解ってもらえると思って来たんですが――僕は、ここへも来るのじゃあなかった。李剛 君も知っているだろう。今日は煙秋(エンチュウ)から安重根が出て来るというので、ウラジオじゅうの同志が、まるで国民的英雄を迎えるように興奮して、泪ぐましいほど大騒ぎをしていた。安重根 (憤然と)止して下さい! 馬鹿馬鹿しい。(歩き廻る)あなたは人が悪いですね。何もかも御承知のくせに、じつに人が悪い。李剛 (笑い出して)それはどういう論理かね?安重根 そうじゃありませんか。先生はさっきからしきりに同志同志と言いますが、僕はこのごろ、その同志というやつが重荷のように不愉快なんです。(突然、叫ぶように)いったい同志とは何です! 同志なんて決して、実現しない空想の下に、めいめい、その決して実現しないことを百も知り抜いていればこそ、すっかり安心しきって集っている卑怯者の一団に過ぎません! お互いに感激を装って、しじゅう他人の費用で面白い眼にありつこうとしている――。李剛 (微笑)まったくそのとおりだ――。(間)おお、君、飯はまだだろう?安重根 この私の場合がそうです。なるほど私は、この計画を二、三のいわゆる同志に打ち明けて相談したことがあります。(李剛の傍に坐る)ええ、まだです。じつは、朝から何も食べずに、今まで考えながら歩いていたのです。李剛 自宅(うち)へ行くと何かあるようだが――。(とルバシカの懐中から紙入れを引き出して、そっと紙幣を数えながら)しかし、それは君、君自身の心持ちに、外部から突っかえ棒を与えて、いっそう決行を期そうとしたのじゃないかな!安重根 そういう気持ちも、あるにはありました。ところがです、それがいつの間にかこの辺一帯の同志のあいだに拡まってしまって、このごろでは、私が伊藤を殺すことは、まるで既定の事実か何ぞのように言われているのです。李剛 (冷く)それほど期待されていれば、結構じゃないですか。僕個人としては、前にもたびたび言ったように、この計画には絶対に不賛成なのだが――。安重根 先生、私も嫌になりました。上っ面な賞讃と激励で玩具にされているような気がして、同志という連中の無責任さに反撥を感じているんです。私はさっき、同志に会いたくない、会うのが恐しくて、今朝ウラジオへ出て来ても一日逃げ隠れていたと言いましたね。国士めかした、重要ぶったやつらの顔が癪なんです。それに、どういうものか私はあの連中に会うと、不思議な圧迫を感じて、是が非でも伊藤を殺さなければならない気持ちにさせられる。それが恐しいのです。(笑って)この私は、皆から、あの一人の人間を殺すためにだけ生れて来たものと頭から決められているんですからねえ。なかには、もう決行したかのように、私を、あなたの言葉でいえば「国民的英雄」扱いして喜んでいる者もあります。何と言っていいか、じつにやりきれない気持ちです。李剛 (低声に)人気者は気骨が折れると諦めるさ。安重根 先生は冷淡です。僕がこんなに苦しんでいるのに、すこしも同情を持とうとしない。誰も僕のことなんかこれっぽっちも考えてはいないんです。なんでもいいから、一日も早く僕が伊藤を殺しさえすれば、それでみんな満足するんでしょう。だから、やれ決死の士だの、やれ、韓国独立の犠牲だのと、さんざん空虚な美名で僕を祭り上げて、寄って集(たか)って僕を押し出して、この手で伊藤を殺させようとしているんです。(独語)誰がその手に乗るもんか。李剛 (不思議そうに)君は何を苦しんでいるのかね。安重根 (仰向けに寝転ぶ)人間なんて滑稽なもんですねえ。以前は私なんかに洟(はな)も引っかけなかった連中まで、一度今度の計画が知れると、まるで手の平を返すように、どこへ行っても別扱いです。みんな十年の知己のように馴々しく手を差し伸べて来るか、さもなければ、まるで仏像でも見るような眼をします。それが私には、死者に対する冷い尊敬と、一種の憐愍の情のようにしか打って来ないんです――たまりません!李剛 (平静に)はっはっは、君の言うことを聞いていると、まるで他人(ひと)の命令で、今度のことを思いついたように聞えるが、すくなくとも僕だけは、はじめから反対だったのだからねえ。今だって反対です。一プリンス伊藤を斃したところで、日本のジンゴイズムはどうなるものでもない。韓国の独立という大目的のためにも、何ら貢献するところはないと思う。単なるデモとしたって、計画的に後が続かなくちゃあ、一つだけでは何の効果もないのだ。安重根 (低く笑って)しかし先生、私はどういうものか、この計画は、何らかの形で最初あなたから暗示を受けたような気がしてならないんですがねえ。李剛はぎょっとして起ち上る。安重根は草に寝たまま、感情を抑えた声で続けている。
安重根 解っていますよ。それは、言葉の表面では、先生は初めから反対でした。ははははは。李剛 (狼狽を隠して)言葉の表面? 何のことです。僕は今も明白にその反対の理由を話したばかりだが――第一、そういう内面的な経過は、僕の知ったことではない。安重根 (起き上る)先生ばかりじゃあありません。同志と称する連中は、私が伊藤を殺すのを面白がって待っているんです。(ぼんやり草を□りながら)みんな何よりの、秘密な楽しみにしているんです。だからこのごろ、あの連中に会うと、「まだこいつは決行しないな。何をぐずぐずしているのだ。機会がないなんて、東京へ行って伊藤公の邸へ押しかけたらいいじゃないか」と、そんな顔をしています。まるで何か約束の履行を迫られているような気がします。(興奮して)しかし私は、誰とも、必ずあいつを殺すと約束した覚えはないんです。それでも私は、この、同志たちに課せられた不当な負債を生命(いのち)を的にして払わなければならないものでしょうか。李剛 (凝然と立っている)驚いた。君という人間は、実に女性的だねえ。負債? 何が負債です。君はどうかしている。何もそんな考え方をする必要はないのだ。(なかば独り言のように)やはり病気のせいかも知れない――このごろ、胸のほうはどうです。安重根 (激昂して起ち上る)負債じゃあありませんか。僕は自由人を標榜(ひょうぼう)して伊藤公暗殺――。李剛 安君! 君、そんなことを大きな声で言っていいのか。安重根 (声を落して)自由人を標榜して伊藤公暗殺を計画したんです。ところが、滑稽なことには、その計画が知れると同時に、その瞬間から、僕は同志によって自由人でなくされてしまった。みんなの共有の奴隷になってしまったんです。(激して)嫌です! 断じて嫌です。こうなったら、同志を相手にあくまでも戦うだけです。戦って、この束縛から□き出るんです。李剛 (笑いながら)いったい君はどうしようというのだ。安重根 同志が聞いて呆れる。あいつらはただ、私を追い詰めて騒いでいれば幸福なんです――。李剛 君、飯はまだだと言ったね? (手の紙幣(さつ)束を突き出して)これで何かそこらでやってくれたまえ。僕もつきあえるといいんだが、社にちょっと用があるから、失敬する。(歩きかける)安重根 (機械的に受取って)御免です! 同志なんかというおめでたい集団力に動かされて――嫌なこってす。誰が他人(ひと)のお先棒になるもんか! 僕はそんなお人好しじゃあないんだ。と手の札束に気がついて愕く。
安重根 (追いかけて)先生、これ、どうしたんです。こんなにたくさん――。李剛 飯を食って、余ったら旅費のたしにするさ。安重根 (警戒的に)旅費――?李剛 (声を潜めて)安君、金は充分か。安重根 (ぎょっとして飛び退(の)く)金?――何の金です。李剛 (迫るように寄る)君はさっき、今夜一晩黄成鎬のところへ泊って、明日発つと言ったね。旅費さ。旅費だよ。(意味あり気に)旅に出ると、金が要るからねえ。安重根 (熱心に)先生、ほんとに僕は途中ちょっとポグラニチナヤへ寄って、それから、家族を迎えに(ハルビンへ)行くんです。それだけなんです。李剛 (強く)よろしい! 家族を迎えにハルビンへ行きたまえ。二人は探るように顔を見合って立っている。長い間。
李剛 (低声で)今となっては同志が黙っていまいよ。こんなに知れていることだからねえ。間。
安重根 今日一日それを考えたんです――仕方がありません。ハルビン行きは止めます。止めて、自首します。李剛 (冷く)自首! それもいいだろう。いまさかんに日本の御機嫌を取っているロシアのことだから、警察は大よろこびだ。安重根 (間)こんなに苦しむより、いっそ自首して出たほうがどんなにましだかしれやしません。(泪ぐんで)自首します。自首すれば、とにかく問題は解決して、先生も安心でしょう。僕も安心です。謀殺未遂というやつですねえ。結構です。安重根は革紐で行李を引きずり、俯向いて歩き出しながら、ゆっくり自分に言い続ける。
安重根 そうだ。自首してやれ。何でもいい。自首して、あいつらに鼻を明かしてやりさえすれば、それでいいのだ。自首だ。今まできいたふうな口を叩いていた見物人は驚くだろうなあ。今度は生やさしい間諜の噂ぐらいではないぞ。(決然と)腹の底から引っくり返るようにやつらに、背負い投げを食わしてやるのだ――。と急ぎ去る。李剛は微笑を含んで見送っている。

       6

その真夜中。博徒黄成鎬の家。

往来に面した部屋。正面いっぱいの横に長い硝子窓に、よごれた白木綿のカアテンがかかっている。中央に戸外に開くドアあり。左右にも扉があって閉まっている。左は台所、右は別室へ通ずるところ。真ん中に、火のはいっていないストウブを取り巻いて毀れかかった椅子数脚。あちこちに粗末な卓子、腰掛けなど数多ありて、集会所に当ててある。腰掛けの一つは逆さまに倒れ、紙屑、煙草の吸殻など散らばり、乱雑不潔なるさま。赤い紙片で包んだ電燈が低く垂れ下っている。

黄成鎬――博徒。独立党の同情者、五十前後。ほかに禹徳淳、朴鳳錫、白基竜、安重根、柳麗玉、第三場の同志一、二および青年独立党員四五十人。

朝鮮服、ルバシカ、破れたる背広等を著たる青年独立党員が、舞台を埋めて立ったり掛けたりしながら、安重根を待って、激越な調子で議論をし合っている。同志一、二の一団はストウブを取り巻き、黄成鎬は離れた卓子に腰かけて他の青年らと話し込んでいる。青年らはテンポの速い会話で、がやがや言っているように聞こえる。

青年A (一隅から)韓国を踏台にして満洲へ伸びようとする日本の野心は、誰に指摘されなくたってわかっているんだ。青年B (他の側から)おい、そう言えば、今度伊藤が来るのも、ハルビン寛城子間の東清鉄道を買収するためだと言うじゃないか。青年C (起ち上って)今でさえ日本は、満洲から露領へかけてのさばり返っている。そんなことになろうものなら、俺たちの運動はいったいどうなるというんだ。黄成鎬 (前からのつづきで周囲の青年達へ)なるほど私は学問はない。が、こうして独立党の方々にお近づきを願って、八道義兵総指揮官金斗星先生にまで、黄さん黄さんと友達づきあいにされている身だし、お前さん方をはじめ党の若い人たちも、なあにウラジオへ行きゃあ黄成鎬のおやじがいるというんで、皆さんここで草鞋を脱いで下さるから、まあ、そんなこんなでこの数年、だいぶ独立党員の面倒を見て来たつもりだが、私はいつも言っていますよ。見てろ、あの安重根という人は今に何かでっかいことをやっつけるぞ――。青年らはしきりに首肯く。
同志一 (ストウブの前から青年Aへ言っている)それは君、噂だけだよ。実際前にも一度そんな話があったけれど、条件が折合わないで廃棄されたんだ。青年D (他の隅から)が、今度蔵相のココフツォフは、全権として重大な使命を帯びて来るというから、伊藤と会えば、あるいはその問題が再燃するかもしれない。青年C (大声に)そんなことはどうでもいい。おれはたった一つのことだけ知っている!青年E (腰掛けに仰臥していたのがむっくり起き上って)そうだ! ぐずぐずしていると、おれたちの運動は眼も当てられないことになるんだ――。これに和して、激した声が騒然と起る時、遠くから「コレア・ウラア! コレア・ウラア!」と二三人の叫び声が近づいて来る。一同は瞬間しんとして聞耳を立てる。
青年E 安重根だ!とドアへ走る。青年四五人が「安重根だ。安重根が来た!」と叫びながら続いて、青年Fを先頭に戸外へ駈け出る。
声 コレア・ウラア! コレア・ウラア!家の前へ来かかる。室内でも皆足踏みに合わして、「コレア・ウラア」の合唱になる。同志一、二をはじめ多勢窓へ駈け寄って硝子戸を開ける。
同志一 安君! 安重根君!いま出て行った青年Fらとともに禹徳淳と白基竜が下手の窓外を通り、すぐにドアからはいって来る。
同志二 (失望して)何だ、案重根じゃないのか。禹徳淳 (昂然と)コレア・ウラア! やあ、みんな揃ってるな。一同はがやがやはいって来て元の位置に戻る。白基竜は悄然と隅の腰掛けにつき、卓子に俯伏す。
同志一 (禹徳淳へ)いったい安重根さんはどうしたんです。どこにいるんです。禹徳淳 (ストウブへ進んで)もうストウブが出ているのか。こりゃあ気がきいてる。まったく、夜そとを歩いていると、海から吹いて来る風で頬っぺたが切れそうだからなあ。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:100 KB

担当:undef