安重根
◇ピンチです!◇
★暇つぶし何某★

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著者名:林不忘 

時。一九〇九年八月、十月。
所。小王嶺、ウラジオストック、ボグラニチナヤ、蔡家溝、ハルビン。
人。安重根(あんじゅうこん)、禹徳淳(うとくじゅん)、曹道先(そうどうせん)、劉東夏(りゅうとうか)、劉任瞻(りゅうにんせん)、柳麗玉(りゅうれいぎょく)、李剛(りごう)、李春華(りしゅんか)、朴鳳錫(ぼくほうしゃく)、白基竜(はっきりゅう)、鄭吉炳(ていきつへい)、卓連俊(たくれんしゅん)、張首明(ちょうしゅめい)、お光、金学甫(きんがくほ)、黄成鎬(こうせいこう)、黄瑞露(こうずいろ)、金成白(きんせいはく)、クラシノフ、伊藤公、満鉄総裁中村是公以下その随員、ニイナ・ラファロヴナ、日本人のスパイ、売薬行商人、古着屋の老婆、ロシア人の売春婦、各地の同士多勢、青年独立党員。
 蔡家溝駅長オグネフ、同駅駐在中隊長オルダコフ大尉、同隊付セミン軍曹、チチハル・ホテル主人ヤアフネンコ、露国蔵相ココフツォフ、随行員、東清鉄道関係者、露支顕官、各国新聞記者団、写真班、ボウイ、日本人警部、日露支出迎人、露支両国儀仗兵、軍楽隊、露国憲兵、駅員。
(朝鮮人たちはルバシカ、背広、詰襟、朝鮮服、蒙古服等、長髪もあり、ぐりぐり坊主もあり、帽子なども雑然と、思い思いの不潔な服装。日清露三国の勢力下にある明治四十二年の露領から北満へかけての場面だから、風物空気、万事初期の殖民地らしく、猥雑混沌をきわめている。多分に開化風を加味しても面白いと思う)

       1

一九〇九年――明治四十二年――八月下旬の暑い日。
ウラジオストックの田舎、小王嶺の朝鮮人部落。

部落の街路。乾割れのした土塀。土で固めた低い屋根。陽がかんかん照って、樹の影が濃い。蝉の声がしている。牛や鶏の鳴く声もする。蝉はこの場をつうじて片時も止まずに啼きつづける。

安重根、三十一歳。国士風の放浪者。ウラジオの韓字新聞「大東共報」の寄稿家。常に読みかけの新聞雑誌の類を小脇に抱えている。左手の食指が半ばからない。ほかにこの場の人物は、老人、青年、女房、娘、子供等、部落民の朝鮮人の群集と、売薬行商人など。

樹の下でルバシカ姿の安重根が演説している。男女の朝鮮人の農民が、ぼんやり集まって、倦怠(ものう)そうに路上に立ったりしゃがんだりしている。みな朝鮮服で、長煙管(ながぎせる)をふかしている者、洋傘(こうもり)をさしているものもある。

安重根 (前からの続き)そういうわけで、百姓は農業にいそしみ、商人は算盤(そろばん)大事に、学生は勉強をして、めいめい本分とする稼業に精を出すことが第一です。この、韓国民の教育をはかるといる大目的のために、また一つには、私は本国の義兵参謀中将ですから、こうしてこの三年間、国事に奔走(ほんそう)しているのであります。私の国家思想は、数年前から持っておりましたが、非常に感じましたのは、四年前、日露戦争の当時からであります。それから以後になって五カ条の日韓条約が成立し、なお続いて七カ条の条約が締結されました。これを機会に私は故国(くに)を出て、この露領の各村落を遊説して来たのであります。聴衆の大部分は聞いていない。あちこちにグルウプを作って、世間話をしたり、ささやき合ったりしている。一隅で欠伸(あくび)する者がある。
安重根 そうすると、韓国の前途について、どういう風にしなければならないか。私の考えを申しますれば、千八百九十五年の日露開戦に際して、日本皇帝陛下の宣戦の詔勅(しょうちょく)によれば、東洋の平和を維持し、かつ韓国の独立を鞏固(きょうこ)ならしむるという御趣旨であったから、その当時韓国人は非常に感激いたしまして、とにかく日本人のつもりで日露戦争に働いた人も尠からざることで、日露の媾和が成立して日本軍が凱旋(がいせん)することになりました時のごときは、韓国人は自国の凱旋のごとくに喜んで、いよいよこれから韓国の独立が鞏固になると言っておりましたところが、その後伊藤公爵が韓国の統監として赴任して以来、前に申しました五カ条の協約を締結しましたが、それはまったく先に宣言せられた韓国の独立を鞏固ならしむるという意に反しておりましたために、尠からず韓国上下の感情を害して、それに対し不服を唱えておりました。のみならず、千八百九十七年にいたりまして、またもや七カ条の協約というものが締結されましたが、これも先の五カ条と同様、韓国皇帝陛下が親ら玉璽(ぎょくじ)を□せられたのではなく、また韓国の総理大臣が同意したものでもない。じつに伊藤統監が強(し)いて圧迫をもって締結されたのであります。聴衆は無関心に、じっとしている。眠っている者もある。
安重根 でありますから、この条約に対して、韓国人はことごとくこれを否認し、ついには憤激のあまり――。若い女が頭に水甕(みずがめ)を載せて出て来る。地面に胡座(あぐら)をかいている青年一が呼び停める。
青年一 水か。待ってた。飲ましてくれ。女 冗談じゃないよ。お炊事に使うんだから。青年一 咽喉が乾いて焼けつきそうなんだ。女 勝手に井戸へ行って飲んで来たらいいじゃないの。青年一 ちっ! 面倒くせえや。わざわざ起って行くくらいなら我慢すらあ。傍らから青年二が女の甕を奪って飲みはじめる。女は争う。
女 いけないったら、いけないよ、あらあら! こぼして――。青年二 因業(いんごう)なこと言うなよ。新しいの汲んで来てやったら文句はないだろう。飲みつづける。青年一をはじめ、二三人集まって、甕を廻して飲む。笑声が起る。この間も安重根は続けている。
安重根 (一段大声に)憤激のあまり、この事情を世界に発表しようとするくらいにまで覚悟しておりました。もともとわが韓国は四千年来武の国ではなく、文筆によって立ってきた国です。子供が出て来て安重根の前に進む。
子供 (手を出して)小父ちゃん! 仁丹ある? ひとふくろ。安重根 (子供を無視して)この国家的思想を鼓吹(こすい)するために――。子供 小父ちゃん! お母(っか)ちゃんがね、仁丹おくれって。お銭(ぜぜ)持って来たよ、これ。安重根 (子供に)小父ちゃんは薬売りじゃないよ。さ、あっちへおいで――私はこの国家的思想を鼓吹するために煙秋(エンチュウ)、水青、許発浦、サムワクウ、アジミイなどこの近在の各地を遊説しているものでありますが、国権を回復するまでは、農業にまれ商業にまれ、おのおのその天賦の職業に精励して、いかなる労働も忍んで国家のために尽さなければならない。また場合によっては、戦争もしなければならないのであります。遠くから声がする。
声 貞露! 貞露!――しようがないねえ。どこ行ったんだろう、洗濯物を持ったまんま。群集の中から、濡れた洗濯ものを持った女が逃げるように、塀にそって急ぎ足に去る。男の一人が見送る。
男 おい。貞さん、今夜行くぜ。女 馬鹿お言いでないよ。笑声。眠っている者はびっくりして眼を覚ます。
安重根 伊藤統監の施政方針はどうしても破壊しなければならない。そのためにはどういうことでもしなければならぬ。若い者は戦争に出て、老人は自分の職業に従事して兵粮や何かの補助をし、子供に対しては相当の教育を授けて第二の国民たる素養を造らねばならぬということを、私は力説したいのであります。売薬の名を大きく墨書した白洋傘(こうもり)をさして、学童の鞄を下げた朝鮮服の男が、安重根と反対側に立って大声に言いはじめる。
薬売り (鞄から蛇の頭を覗かせて)そうら! 蛇だぞ! ははははは、驚いてはいけない。蛇というとすぐ顔色を変える人がある。ところが、この蛇というやつはまことに可愛いもので、おまけにただ可愛いだけではない。人間さまにとってこれほどありがたい生き物はないんだが、どういうものか毛嫌いする人が多いようです。もっとも、こいつ、あんまり感心した恰好ではないからね。群集はかすかに興味を示して、薬売りの周囲へ集まって行く。安重根は手持ち不沙汰に立っている。
薬売り なに、蛇なんざあ珍しくねえ? そこらの藪っぺたを突っつけばいくらでも飛び出す? だだ誰だ、そんなこと言うのは――ちぇっ! そりゃあ夏の蛇だ。夏の蛇ですよ。そんな蛇とは蛇が違う。ねえ、夏の蛇は薬にはならないよ。私がこう言ったら、そんならお前の蛇は何かの薬になるのかと訊いた人がある。なあ、これから九月、十月、十一月もなかばになると、満洲の冬は早いです。名物の空っ風が、ぴゅうっ、ぴゅうっ、ねえ、朝起きてみると、白いものが地面に下りて、霜だ。おお寒い寒い! 皆さん手に息を吹っかけて、家ん中へはいってオンドルの上に縮(ちぢ)こまる。へへん、笑いごっちゃあねえ。蛇だって寒いから、穴籠(あなごも)りだ。山の奥へと持って行って穴を掘って、蛇の先生、飲まず食わずでじいっ――冬眠してやがる。ね、そこを、私らみてえな蛇屋さんが、へん、商売商売だね、竹の棒で起こして廻るんだが、どっこい、どの山の蛇でもいいかと言うと、そうではない。これから北へ行って金崔浩(きんさいこう)さんの所有山(もちやま)、南では車錫山、まず大した蛇山だねえ。蛇追いと言って、これから蛇を追い出して油を取る。御存じの支那の竜門から産(で)ると言われていた視力若返りの霊剤、あれなんかもじつはこの満洲蛇の油だということが、最近偉い博士先生方の御研究によって判明をいたしました。何にきくかと言うと――眼の悪い人はいないかね? 眼の悪い人は前へ出なさい。老眼、近眼、あるいは乱視といって物がいくつにも見える。捨てて置いてはいけない。それから脳病一般、リュウマチス、それに喘息(ぜんそく)だ。この喘息という病は、今日の医学界ではまだその病源についていろいろと説があって、したがって治療法も発見されておりません。学者先生が多勢お集まりになって、腕を拱(く)んで首を捻っていなさる。はて、わからねえ――。薬売りは腕を組んで、首を捻って考え込む態をする。群集はすっかり安重根に背中を向けて、薬売りを取りまいて熱心に聴き入っている。低い塀の上にも、中から覗いている顔がいくつも並んでいる。安重根は憮然として群集を凝視めている。

       2

同年十月十七日、午前十時ごろ。

ウラジオストック、朝鮮人街、鶏林理髪店の土間。罅のはいった大鏡二つ。粗末な椅子器具等、すべて裏町の床屋らしき造り。入口に近く、卓子腰掛けなどあって、順番を待つ場所になっている。正面に住いへ通ずるドア。日本郵船のポスタア、新聞の付録の朝鮮美人の石版画、暦など飾ってある。
禹徳淳(うとくじゅん)――煙草行商人。安重根の同志。四十歳。
張首明――鶏林理髪店主。日本のスパイ。
お光――張首明の妻。若い日本婦人。
他に、安重根、下剃り金学甫、客、近所の朝鮮人の男、ロシアの売春婦二人、日本人のスパイ。

椅子の一つに安重根が張首明に顔を剃らしている。もう一つの椅子にも客がいて、金学甫が髪を刈りて終ろうとしている。
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