丹下左膳
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著者名:林不忘 

「フーム、これはなかなか話せるわイ――これ、ここはよい、あちらへ!」
 と対馬守、いならぶ家臣たちへ、ヒョイとあごをしゃくった。

   藪(やぶ)の白虎(びゃっこ)


       一

 簡単なことを複雑にする……。
 うつろな制度、内容の腐りかけている組織を、むりに維持してゆくためには、これよりほかはない。形式、儀礼の尊重ということは、ここから生まれるのです。
 時代をへだててみると、いかにも無用――無用どころか、滑稽としか考えられない儀礼や形式でも、当時その社会に生き、そのなかに呼吸していると、なんらの不自然もなく、そのまま受け入れることができたに相違ない。
 制度、組織の力が、そこに働いていたからだ。
 たとえば、このお茶壺というもの。
 お茶を入れる壺といってしまえば、それだけのものだが、これを宇治の茶匠まで送りとどけて、茶を詰めてかえる道中が、たいへんなものでした。
 壺の主のお大名と同じ格式をもって、宇治へ上下したものだという。一万石は一万石、十万石は十万石の権式(けんしき)で、茶壺が街道を往来するのです。
 槍を立て、その他の諸道具を並べた行列――お駕寵のなかは殿様かと思うと、そうではなく、お茶壺がひとつ、チョコナンと乗っかっていようという。
 騎馬、徒歩の警護の侍が、ズラリと壺を取りまいて、
 下におろう、下におろう……!
 平民はみな土下座をして、壺一箇を送り迎えしなければならない。
 第一日は、品川松岡屋が定宿。
「サア祝儀が出るから、こんなのんきな旅はない。ゆるゆる行こう」
 こう言って、供の人数を見まわすように振りかえったのは、石川左近将監の重臣で、竹田なにがし。
 あの日光お相役をのがれるようにと、賄賂を持って柳生藩江戸家老、田丸主水正のもとへ使者に立ったことのある人物だ。
 こんどその、石川左近将監どのの茶壺が、宇治へのぼることになったについて、竹田が道中宰領として今江戸を出発するところ。
 旅にはもってこいのいい時候。
 朝七つ時に神田連雀(れんじゃく)町の石川様の屋敷を、御門あきとともに出発した一行は、これから五十三次を、お壺だちといってそれぞれの宿場にとまりを重ねてゆくのだが、宿屋などでは身祝いをして、御馳走が出たり、名物のおみやげがめいめいの前に山と積まれたり……。
 役得根性の一同は、イヤ、もう大喜びだ。
 何日となく旅をつづけて、大磯から小田原へはいると、いわゆる箱根手前、ここは大久保加賀守の御領で、問屋役人から酒肴が出る。
 竹田の一行はすっかりいい気持で、箱根を越え、サテ、いまこの沼津へさしかかりました。水野出羽守様御領……。
 沼津名物、伊賀越え道中双六の平作と、どじょう汁。
 品川から十三番目の宿場ですな。
 三島からくだり道で、沼津の町へはいりますと、
「どうだい、右に見えるのが三国一の富士の山、左は田子の浦だ。絶景だなア!」
 お壺の駕龍が千本松原へ通りかかると、お壺休み。つきしたがう侍たちは、松の根方や石の上に腰をかけて、あたりの景色にあかず見入っています。
 警護頭の竹田も、のんびりした気持になって、お駕籠わきの床几にからだをやすめながら、煙管をとり出して一服しようとする……。
 そのときだ。
 たちならぶ松のむこう、下草などの生い茂っている草むらのなかから、ヌッと白い柱のようなものが起ちあがった。が、まだ誰も気がつかない。
「さア、ひと休みしたら、そろそろ出かけるとしようか」
 てのひらで煙管をたたいて、竹田がポンと火殻を吹いた。

       二

 恋をゆずる気持ほど、悲惨な心はないであろう。
 とすれば。
 今の丹下左膳ほど、暗い胸のうちもまたとあるまい。
 三方子川尻の漁師、六兵衛の家に、萩乃と源三郎をそのままにして、心の暁闇をいだいてたちさった左膳。
 アアもうふつふついやだ、うるさいことは……期せずして、あの櫛巻の姐御と同じ心境にたちいたったが。
 その、世を捨てた気の丹下左膳――左膳だけに、その捨て方がちょっと違う。
「おれの力ひとつで、なんとかしてこけ猿を見つけだしてえものだ。はじめ与吉が盗みだしたのを、あのチョビ安が引ったくって走り、それがおいらのふところに飛びこんだのだから、あの最初の壺こそは、真のこけ猿に相違ねえのだが、それがいつのまにか転々の、数かぎりもない偽物が現われて、こけ猿はいまどこにあるやら?――こうなりゃア、天下の茶壺という茶壺をかたっぱしから手にいれるだけだ。それには、宇治へ上下する茶壺道中をねらい……ウム! どの大名の壺にも、供の侍がおおぜいいることだから、ひさかたぶりにおれも、この濡れ燕も、思うさまあばれられようというものだ。こいつはうめえところへ気がついたぞ」
 ニンマリ笑った左膳、見つけしだい壺の行列をおそって、斬って斬ってきりまくり、それでやっと、萩乃をあきらめたせつなさを忘れようというので――旅に出るといったって、べつにしたくも何もありはしない。
 いつものまんまです。
 汗と塵によごれて、ところどころ黄色くなった白の着物に、すりきれてしんが出ていようという博多の帯を貝の口に結んで、彼にとっては女房ッ子も同様な例の濡れ燕を、グイとおとし差し……。
 ふところ手――といっても、片手ははじめからないのだから、左の手を袂のなかへ引っこめただけだ。たったひとつの眼で往来の人をジロジロにらみながら、
「どこの大名のでもいいや、壺の道中はねえかナ」
 アア人が斬りたくてたまらねえやといわぬばかりの顔で、ブラブラ歩いてゆくのだから、旅人たちはみんな片側へよけて通る。そばへきて吠えつくのは、野良犬だけだ。
「おれのからだにゃア、生き血のにおいがするとみえる。フフフヤ、犬どもが吠えるワ吠えるワ。ヤイヤイ、もっと吠えろッ! もっと吠えねえかッ!」
 幽霊のような姿で、宿はずれの辻堂に泊まったり、寺の縁の下に這いこんだり――すると、街道のむこうに見えてきたのが、宇治へのぼる途中のこの石川左近将監のお壺。
 おおぜいの足が砂塵をまきあげて、一団になって練ってゆくのを、遠く後方からのぞんだ丹下左膳、
「オオ、とうとうひとつ出会ったぞ」
 と足をはやめ、それからずっとあとになりさきになり、ここまでからみ合ってきたのですが。
 沼津の町を駆け抜けた左膳、ここに先まわりして、行列の来るのを待ちかまえていたのだ。
 名にし負う千本松原……。
 店開きにはもってこいの背景だと、たちあがった左膳、ガサガサ藪を分けて松のなかを進んでゆく。
 まるで友達とでも話しにゆくようだ。
 変な浪人が現われたナ、とじっと立ちどまってこっちを見ている竹田へ、左膳引きつったような笑顔で話しかけた。
「どなたのお壺かな?――イヤ、誰の壺でもかまわねえ。ひとつ、口あけだ。威勢よく斬らせてもらおうじゃアねえか、なア」
 左の手は、相変わらず懐中にのんだままだ。
 丹下左膳、頼むようにそう言った。

       三

 剣意しきりに動く丹下左膳。
 こういうときの左膳は、ふだんとグッと人が変わるのである。へいぜいは石炭がらのように、人ざわりのガラガラした、無口な、変な隻眼を光らせている男だが……。
 腰間(こし)の濡れ燕に催促されて、「人が斬りたい、人が斬りたい!」と、ジリジリ咽喉(のど)がかわくような気分になったときの丹下左膳は。
 とてもにこやかな、やさしい人間になるんです。蝋のような蒼白い頬に、ポッと赤らみがさして、しきりに唇をなめるのは、なんのしるしか。
「なあおい、せっかくここまで、あとをつけて来たのだから、この濡れ燕に」
 と左膳、腰の一刀を左の手でたたくと、ガチャリ! 鞘のなかで刀身が泣く。
「なア、この濡れ燕に、むだをさせたくねえのだ」
 今までの生涯に、いく十人となく斬ってきた人のあぶらが、一時に噴き出すような、妙にねっとりした口調だ。
 夢みるように、からだを小さく前後にゆすぶって、立っている。
「狂人じゃ!」
 竹田ははき捨てるように言って、お壺の駕籠へむかい、
「かまわずやれ……なんだ、この千本松原に、白昼、かような化けものが出るとは! さがれ、さがれッ!」
 ぐいと左膳をにらんで、そのまま歩きだす。
 お駕寵は静かに地をはなれて、ギイッときしみながら、ゆらゆら揺れてまいります。蝋色ぶちにまいらの引き戸、袴の股だちを高くとった屈強の若侍が、左右に三人ずつ引き添って――さながら、主君石川左近将監その人が、道中しているような厳戒ぶりだ。
 左膳は?……と見ると、遠く海のむこうを見ているような片眼。左手を帯の前へさしこみ、足を片方ずつ上げて、かわるがわるにかかとですねをこするのは、虫でも刺したか。
 ちょっとさわれば、ぶっ倒れそうだ。
 警護の侍たちはおもしろがって、一人が、
「農工商のうえだと申しても、武士もこうなっては形(かた)なしだ」
 笑いながら、通りすがりに、ドンと左膳の胸をついてゆく。
 左膳は無言、ニヤニヤしながらよろめいています。
「オイオイ、気ふれ殿、行列の中へまいこんでは、邪魔になって歩けぬではないか」
 ほかの一人がそう言って、うしろからグンとこづく。
「これでも、刀を二本さしているから、お笑い草じゃテ」
 一つの手が、左から左膳をつきとばす。
「ワッハッハッハ、竹を二本さしているなら、まず目刺しじゃろうな」
 もう一つの手が、右から左膳を押しかえす。
「気狂(きちが)いも女なら、桜の枝か何か持って、ソレ、芝居にもよく出るやつだが、武士(さむらい)の気狂いでは色気もござらぬ」
「これでも昔は、いずれかの藩に仕官したこともあるであろうに……かわいそうに」
 同情めいたことをつぶやいてゆくやつもある。一同は前後左右から、左膳をつつきまわしながら、多勢の跫音が、ザクッ! ザクッ! と白い砂を蹴って、通り過ぎる。
 しんがりに立っていた、色の真っ黒な、口の大きな侍が、
「エイッ、馬鹿者ッ! 邪魔だッ!」
 ふらふらしている左膳の腰を、通りぬけざま、ドウッ! 足をあげて蹴たおした。
 空(くう)を泳いだ左膳、ヒトたまりもなくペタンと砂に尻餅をついたまま、行列の遠ざかるのを、しばらくじっと見送っている。
 長い長い千本松原に、槍の柄が光り、お定紋に潮騒がまつわって、だんだん小さくなってゆきます。絵のよう……。
「ウフフ!」
 小鼻で笑った左膳、砂をはらって起きあがりました。

       四

 その松原も、もはや出はずれようとするころ。
 さっき左膳を、最後に蹴とばしてきた色の黒い侍。
「イヤ、そのときおれは、それは筋道が違うと、榊原に言ってやったのじゃ。いくら養子の身だからとて、そうまで遠慮する必要は、おれはないと思うのじゃが、何しろ、相手が相手じゃから……」
 と同僚の噂話であろう。横にならんで行く、浅黄のぶっ裂き羽織を着た四十あまりの士(ひと)と、しきりに話しこんでゆく。
 と!
 ふとうしろに、人の気配がした。なにごころなく振りかえってみると、まるでくびすを踏みそうに、さっきのみすぼらしい乞食浪人が、尻きれ草履を鳴らしてピタピタあとを追ってくる。
「こやつ、いつのまに――?」
 噛みつきそうににらむと、その白衣の浪人は平気で、なおも背中がくっつきそうに追いすがってくるのだ。
「オイ、いいかげんにせんか。見れば貴殿も侍のなれのはて、いくら狂人でも、詮ない悪戯はよしたがよかろう」
 ぶっさき羽織が、
「マア、よい。さような者にかまうな。そこで榊原の問題だが、本人の心底は、いったいどういうのであろうな」
 二人とも左膳などは、眼中にない。世間話をつづけて、ふたたび歩をすすめようとするとたん。
 すぐ背後で、しゃがれた声がした。
「心底か。うふふ、おれの心底を見せてやろうかの?」
 人の話に割りこむように左膳二人をかきわけてなかへはいってくる。
「うるさいッ! エイッ! とめどのないやつじゃッ!」
 かんしゃく袋を破裂させた色黒の武士、しろがねの光が、突如横に流れたかとおもうと、抜いたんだ、やにわに左膳を目がけて……。
「オットットット! あぶねえあぶねえ」
 左膳、はじめて声を出した。愉快でたまらなそうな笑い声だ。が、依然としてふところ手のまま、
「抜いたな、ぬいたな。オイ、いったん刀を抜いた以上、そのままじゃア引っこみがつくめえ。いやいやながら丹下左膳、お相手つかまつるとしようかノ」
 頬の肉をピクピクさせて、顔をななめにつきだして相手を見ながら、ソロリソロリ左手を出す。同時に左膳、びっくりするような大きなあくびをした。
「ああウあ! そうだ、思い出したぞ。丸に一の字引きは、石川家だな。うむ、石川左近将監……」
 左膳があくびをするのは、鬱勃たる剣魔の殺情が、こみあげてくるときで。
 ところが、相手は、そんな危険な人物とはすこしも知らないから、
「狂人のくせに何を申す。たたッ斬ってしまうぞ!」
 一刀のもとに……と思ったのでしょう、いきおいこんで真っ正面から、打ちおろした。
 が! ふしぎ! 左膳はいつ抜いたのか、そして、いつ斬ったのか、ただ左手をこともなく左へはらったように見えたのだが、もう、腰の濡れ燕は鞘だけ。その鞘もとに、細長い三角形の穴が黒々とあいて、、刀身はすでに、左膳の片手にブランと持たれている。
 それよりも。
 その濡れ燕から一筋の赤い血潮が、斬尖(きっさき)を伝わって白い砂に、吸われる、吸われる。
 どうしたのだろう!……と見れば、色の黒い、口の大きな侍、腹を巻きこんで砂にすわったまま、動かない。一太刀に胴をえぐられたのだ。
「おい! 返せ、返せ。狼藉者だッ!」
 ぶっさき羽織が、さきへゆく行列へ呼ばわった。

       五

 長い行列の先頭に立っていた竹田なにがし。
 うしろのほうから、人のくずれたつ騒ぎが伝わってきても、はじめは、それほどの大事とは思わなかった。
「たいせつの御用だ。喧嘩はひかえろッ、ひかえろッ!」
 同士打ちと思ったのです。
 二、三人の若侍を引き連れて、砂をまき上げてしんがりのほうへかけかえってみると、すでに五、六人の供の者が、浪打ちぎわや松の根もとに、あるいはうずくまり、あるいはのたうちまわって、浅黄色のぶっさき羽織を着た一人などは、あわてふためいて海のほうへかけだして倒れたらしく、遠浅のなぎさにのけぞった彼の死骸。
 その平和な死顔を、駿河湾の浪が静かになでている。
「竹田氏、竹田氏ッ! さきほどの痩せ浪人ですッ!」
「イヤ、おどろきいった腕前、またたくうちにこのありさま」
「かような手ききは、見たことも聞いたこともない」
 と一同、口をそろえてわめきたてたが――それはそうだろう、おどろくほうがどうかしている、何しろ相手は、丹下左膳だもの。
 が、こうなっても竹田は、自分が今、この千本松原でいのちを落とすことになろうとは、夢にも思いません。
 思わないから、えらい元気で、剣輪のなかの左膳をどなりつけました。
「不所存者めがッ! 石川様のお壺行列へ斬りこむとは、いのち知らずの大たわけめ、そこ動くなッ!」
 動くななんて言わなくたって、壺を手にしない以上、左膳のほうこそ、金輪際動く気はない。
 数十人の石川家家臣に取りまかれた丹下左膳は、柄(つか)もとまで血によごれた濡れ燕を、左手にぶらさげて、眠ったようにたっている。
 胸がはだけ、裾はみだれて、女もののはでな長襦袢に、さわやかな潮風が吹く。
 いつのまにかはだしになり、脱いだ草履を裏あわせに、帯の横ちょへはさんで、今にもくずれそうにヒョロッとつっ立っているんですから、姿は無気味だが、見たところ、とても弱そう……。
 つい今しがた、これらの人間を斬り捨てた左膳の働きを、もし竹田が見ていたら、もうすこし警戒もし、また他に取るべき手段もあったでしょうが、何しろ行列の先頭にいて、知らないんです。左膳の左膳たるところを。
 倒れている仲間は、あわてすぎて、たがいの剣がふれたのだろう、ぐらいに考えた竹田某は、
「竹田殿ッ、御用心なさらぬと……」
 などと注意する声を背中に聞いて、いきなり抜刀をひっさげ、ツカツカと左膳の前へ出かけて行った。
「ほほう、でえじにすりゃア一生使える命、そんなに斬ってもれえてえのか」
 左膳はそう言って、薄く笑った。そして、下唇を突き出して、フッフッと息を吹き上げるのは、ひたいに垂れかかる乱髪が邪魔になるのです。
 竹田の存在など、てんで眼にもはいらないように、いつまでも毛を吹き上げている。
「地獄の迎えだッ!」
 うめいた左膳、割り箸を開くように、二本のほそいあしがパッととびちがえたかと思うと、その上体はたいらにおどって、竹田の右肩から左脇腹へかけて一閃の白い電光がはしったと見る!
 それきりです。
 いばりかえった顔のまんま砂まみれに二、三度ころがった竹田の死骸。
 一同は、わけのわからない叫びをあげて、ちらばりだした。

       六

 異様な微笑をもらした左膳、追いすがりに、タタタと砂をならして踏みきるがはやいか、また一人二人、うしろから袈裟(けさ)がけに……。
 なめきっていた相手に、この、神(しん)に似た剣腕があろうとは!
 石川左近将監の家来一統は、白い砂浜にごまを散らすように、バラバラバラッと――。
 宰領の竹田が、血煙たてて倒れたのですから、もう壺どころのさわぎではない。
 お壺の駕籠をそこへおっぽりだしたまま。
 雲をかすみ。
 みごとな黒塗りのお駕籠が、砂にまみれてころがっている。
 走り寄った左膳は、ニッコリ顔をゆがめながら――これがほんとうの思う壺だ。
 手の濡れ燕をもって、バリバリッと駕籠の引き戸を斬り破り、錦の袋につつまれた茶壺を、刀の先に引っかけてとりだした。
 石川左近将監自慢の、呂宋(ルソン)古渡(こわた)りのお茶壺です。
 濡れ燕を砂に突き立てた左膳。
 ひとつきりの左手と、歯を使って、袋の結び目をといてみた。出てきたのは、朱紐(しゅひも)で編んだスガリをかけた、なるほど茶壺には相違ないが、目ざすこけ猿とは似ても似つかない。
 が、左膳はべつに失望もいたしません。
 これがこけ猿の茶壺でないことは、はじめからわかっている。
 こうやって、宇治の茶匠のあいだを往来(ゆきき)する大名の壺を、かたっぱしからおそっているうちには、どういうはずみでか、何者かの手にはいった真のこけ猿に出会わないともかぎらない。こういう左膳の肚ですから、なんでもいい、壺とさえ見れば掠奪するのだ。
 今日はその第一着手。
 煮しめたような博多の帯に、左膳、矢立をさしている。
 それを抜き取って、つぎに懐中から、懐紙を二つに折った横綴の帳面を取りだした。
 表紙を見ると、左膳一流の曲がったような、一風格のある字で、
心願百壺あつめ
   享保――年七月吉日
 と書いてある。
 大名の茶壺行列へ斬りこんで、これから百個の壺を集めようというのらしい。七月吉日とありますが、斬りこまれるほうにとっては、どう考えて[#「考えて」は底本では「孝えて」]もあんまり吉日ではありません。
 これは、その筆初め。
 片膝ついたうえに、その帳面の第一ページを開いた丹下左膳。
 片手ですから、こういうときはとても不便だ。
 矢立を砂に置き、筆を左手に持ちかえて、たっぷり墨をふくませたかとおもうと、
「石川左近将監殿御壺一個、百潮(ももしお)の銘(めい)あり
   駿州千本松原にて」
 と、サラサラとしたため終わった。
 そして、片手に壺を握るやいなや、
「百潮というからには、海へ帰りゃあ本望だろう」
 ドブーン――!
 うちよせる波へ、その壺を投げこんでおいて、あとをも見ずにスタスタ歩きだした。
 ほんとに、百の壺を集めるうちには、どういういきさつで真のこけ猿が現われないものでもないと、左膳はまったく信じているのだろうか。
 そんなことは、どうでもいいので。
 茶壺というものに対して、魔のような迷執を持ちはじめた丹下左膳、ただ、壺を手にすればいいのだ。いや、濡れ燕に人血を浴びさせればいいのだ。ひょうひょうとして左膳はたちさって行きます。

       七

 東海道の道筋に、白衣をまとったおそろしく腕のたつ浪人者が、伏せっていて、やにわに路傍の藪からおどり出ては、それも奇妙に、茶壺の道中だけをねらう……。
 というので、人呼んで藪の白虎。
 これが宿場宿場の辻々に評判になって、人々みな恐れをなしたのは、このときである。
「駿河の国にいたりぬ、宇津の山にいたれば、蔦(つた)、楓(かえで)はえ茂りて道いと細う暗きに、修行者に逢いたり。かかる道をば――」
 伊勢物語の一節。
 この宇津谷峠(うつのやとうげ)で出会ったのは、修行者だったからいいようなもの――。
 安倍川(あべかわ)を西に越えると、右のほうにえんえんたる帯のような、山つづきが眺められる。箱根から西で名の高い、宇津谷峠というのはこれだ。山のいきおいは流れて、高草山となり、ものすごく海にせまっている。
 宇治の茶匠からの帰り、茶のいっぱい詰まった壺を、例によってお駕籠へ乗せ、大勢で守護して通りかかったのは、堀口但馬守のお喫料(のみりょう)を、これから江戸屋敷へ届けようという一行。
「なんの。これだけの人数のそろっておるところへ、その藪の白狐とやらが現われたところで」
 と、供のなかで、そう大声をあげたのは、額の抜け上がった四十五、六の侍だ。
「白狐ではない。白虎じゃ」
 一人が訂正して、
「イヤ、いずくの藩中でも、お壺の守護はおろそかにはいたさぬに相違ないが、それでも、噂によれば、かなりやられておるということだぞ。岡本能登守様、井上大膳亮殿、これらがみんな壺を奪われ、あまつさえ、すくなからぬ人命を失ったとのことじゃ」
「ナアニ、いかに腕が立てばとて、相手は浪人者ひとり、なにほどのことやある」
 とまたべつの一人が、こう時代な言葉でいばってみせたときだ。
 すぐうしろで、
「箱根を越してしまやア、もうこっちのものよ。箱根からむこう、お江戸とのあいだにゃア、化け物はいねえからの」
 という鉄火な声!
 ギョッとして振りむいた一同の眼にうつったのは、ちょうど一行が通りかかっている路傍に、大きな杉の老木……その杉の木の幹によりかかって、ニヤニヤ笑ってこっちを見ている、隻眼隻腕の立ち姿。
 噂をすれば影!――出たんです、案の定。
 それからのち、またたくうちに、その宇津谷峠の山道の草は、たんまり人の血のこやしをあびて、おまけに、丹下左膳のふところ帳「心願百壺あつめ」には、堀口但馬守おん壺、銘(めい)東雲(しののめ)、宇津谷峠にて……と、書き加えられていた。
 これはいくつ目か、わからない。
 一、秋元淡路守殿御壺、銘(めい)福禄寿(ふくろくじゅ)、日坂宿手前、菊川べりにて。
 一、大滝壱岐守殿おん壺、春日野(かすがの)の銘(めい)あり。
 一、藤田監物(けんもつ)……の場合などは、これはからの壺を守って、宇治へ急ぐ途中でしたが、夕方、丸子の宿へかかろうとするとき、霧のように襲う夕闇に、誰も気がつかなかったのだが、あわただしい一人のさけびにフト心づくと、いつのまにまぎれこんだものか、左膳チャンと行列のなかにはいって、足なみそろえていっしょに歩いていた。
 藤田家重代の、松の下露の銘ある宝壺が、このときみごとに奪われたことは、言うまでもない。だが、心願の百までは、まだいくつあることやら。
 恋の憂さを忘れようと、街道に狂刃をふるう丹下左膳。

   お山(やま)四十里(り)


       一

 江戸へ着いた柳生対馬守(つしまのかみ)一行。麻布林念寺前(りんねんじまえ)の上(かみ)やしきで、出迎えた在府(ざいふ)の家老田丸主水正(たまるもんどのしょう)を、ひと眼見た対馬守は、
「主水ッ! 御公儀のお情けで、名もなき壺に秘図を封じこめ、屋敷の庭隅に大金が埋ずめあるなどと……貴様、いいようにされて、つかまされたなッ」
 とどなった。
 剣眼隼(はやぶさ)よりも鋭い柳生対馬守さすがに、あの、上様と愚楽と、越前守とで編みだしたからくりを、まだ話を聞かぬ先に、みごとに見抜いてしまったのだ。
「恐れながら、かの愚楽老人より、それとなく申しふくめられまして……日光は迫るワ、こけ猿(ざる)は見つからぬワ、という御当家にとり危急存亡の場合、ともかく、このお庭隅に一夜づけに埋ずめました金銀を掘り出しまして、さっそくの御用にあい立てましたほうが、策の得たるものかと存じまして――」
 対馬守は、不機嫌に黙りこんだ。
 これは主水正の言うとおりで――将軍吉宗の考えとしても、日光に事よせて、隠してある金を使わせるのが目的。こけ猿がなければ日本一の貧乏藩に、大金のかかる日光を押しつけて、柳生家を取り潰してしまおうというのは、決して本意ではない。
 柳生だって、ない袖は振られぬから、そこで、どんな騒動が持ちあがらないともかぎらない。苦しまぎれに暴れだして、天下の禍根とならないともかぎらない……というので、今になって、いわば救いの手をさしのべたわけだ。
 これは、愚楽老人と大岡越前守の献策。
 いかに剛情我慢の対馬守でも、今の場合、これをこけ猿によって得たもののごとくよそおって、掘り出さざるをえない。
「いつもながら上様のおこころ配り、行きとどいたものじゃ。ありがたいかぎりじゃテ」
 苦笑を浮かべてつぶやいた対馬守は、やがて、声をひそめて、
「そこで田丸、真(しん)のこけ猿じゃが――まだわからぬかの?」
「は、なにぶんどうも、偽物(ぎぶつ)ばかり現われまして……いつどこで紛(まぎ)れて、何者の手に入りましたやら、とんと行方知れずにあいなり、まことに遺憾至極ながら、手前、勘考いたしまするに、こけ猿なるものは、もはや世にないのではないかと……」
「なに、もはや世にない?」
 眼を怒らせた対馬守が、老家老を睨(ね)めつけたとき、
「オヤ、殿様、こちらでしたか。あら、このお爺さんは?」
 伝法な女の声が、横手のふすまをあけて、このお上屋敷の主従対座の席へはいってきた。
 人を人とも思わない言葉に、主水正がびっくりして見あげると、櫛巻お藤!……ということは、もとより田丸主水正は知らない。
 椎(しい)たけ髱(たぼ)にお掻取(かいと)り、玉虫色の口紅(くちべに)で、すっかり対馬守お側(そば)つきの奥女中の服装(なり)をしているが、言語(ことば)つきや態度は、持ってうまれた尺取り横町のお藤姐御(あねご)だ。
 それが、くわえ楊枝(ようじ)でぶらりとはいってきて、殿様の横へべったりすわったんですから――いかさま妙な取りあわせ。
 田丸老人がおどろいたのは、もっともで。
「殿、この女(もの)はいったい――旅のお慰みとしても、チトどうもお見苦しくは……」
「イヤ、さような儀ではない。いたって野育ちの女芸人、余にチト考えがあって、かように虜(とりこ)にいたしておくのじゃ。側女(そばめ)などでは断じてない。安心せい、安心せい」
「ホホホ、お大名のお妾なんて、そんな窮屈な役目は、こっちからこそごめんだよ。お爺さん、安心おしよ。なんてキョトンとした顔してるのさ」

       二

 対馬守は、ふと思い出したように、
「源三郎はいかがいたした」
「ハイ、それが、その、実は……」
 と主水正は、言いよどんだが、
「たびたび御書面をもって、上申(じょうしん)つかまつりましたとおり、司馬(しば)先生生前より、妻恋坂の道場に容易ならぬ陰謀がありまして――」
「イヤ、それは聞いた、聞いた。その後どうなったかとたずねておるのじゃ」
「あくまで源三郎さまを排除申しあげんという一味の秘謀らしく、源三郎様には、先ごろより行方知れずになられ――」
 それを知りながら、なぜ腕をこまねいておるかッ? 高大之進(こうだいのしん)をはじめ、腕ききの者をそろえて出府させてある。それよりも、源三郎つきの安積玄心斎(あさかげんしんさい)、谷大八(たにだいはち)等は、いったい何をしておるのじゃッ!……と、頭ごなしにどなりつけられるかと主水正首をすくめて、今にも雷の落ちるのを待っている気持。
 と。
 笑いだしたのだ、対馬守は、肩をゆすぶり、腹をかかえて。
「はっはっは、イヤ、心配いたすな。あの源三郎にかぎって、自分の身ひとつ始末のできん男ではない。ことには、玄心斎と申す老輩もついておること。司馬道場の儀は、源三郎にまかせておけばよい。婿にやった以上、いわば彼の一家内の紛争じゃ。それくらいの取りしきりができんようで、この対馬の弟と言われるか、アッハッハッハッ」
 剛腹な笑いを頭から浴びて、主水正は、ホット助かった心地――相変わらず太っ腹なお殿様だと、たのもしさが涙とともにこみ上げてくる。
 ふと対馬守は、遠いところを見るような眼(まなこ)になって、
「どこにいるかの……源三郎は、この兄の出てまいったことも、知らぬであろう。からださえ達者なら、大事ないが……」
 あらそわれぬ兄弟の情です。
 が、対馬守はそれを振りきるように、ふたたび主水正へ、
「当ててみようかノ?」
「何を、でございます」
「上様のお手で、一夜のうちにこの屋敷の隅に埋ずめた金額を――サア、まず、日光修覆にカッキリ必要なだけ。それより百両と多くもなく、また、百両とすくなくもないであろう」
「まずさようなところかと……なにしろ、あの愚楽老人のやることでございますから」
 と主水正(もんどのしょう)は、はじめて微笑をもらした。
「田丸、上様に日光の金を出してもらうなどと、イヤ、とんだ恥をかいたの。だが、わが藩に金を使わせる気で、その金を御丁寧に、こっそり庭の隅に埋ずめておかねばならん羽目にたちいたったとは、徳川もいい味噌(みそ)をつけたものじゃ」
 主水正はギョッとして、
「これッ、殿!」
 と口で制しながら、眼は、鋭くかたわらのお藤へ。
 その警戒を見てとって、お藤姐御(あねご)はニッコリ、
「フン、あたしの前で、公方様の悪口を言ったって、なにもそんなに用心することはありゃアしない。将軍様にしろ、隻眼隻腕の浪人さまにしろ、お侍の悪口なら、こっちが先に立って言いたいくらいだよ」
「こういう女じゃ」
 対馬守は愉快そうに笑って、主水正へ、
「別所信濃(べっしょしなの)へ、早々(そうそう)余の到着を知らせたがよいぞ」

       三

 元和(げんな)二年、家康が駿府(すんぷ)に死ぬと、はじめ久能山(くのうざん)に葬ったが、のちに移霊の議が起こって、この年の秋から翌年の春にわたって現在の地に建立されたのが、大猷廟(だいゆうびょう)をはじめ日光の古建築である。
 これが元和の造営。
 その後さらに、寛永に大改造が行なわれて、だいたい今見るような善美壮麗をきわめた建物となったのです。
 この寛永の大造営には、酒井(さかい)備後守(びんごのかみ)、永井(ながい)信濃守(しなののかみ)、井上(いのうえ)主計頭(かずえのかみ)、土井(どい)大炊頭(おおいのかみ)、この四名連署の老中書付、ならびに造営奉行秋元(あきもと)但馬守(たじまのかみ)のお触れ書が伝えられている。
 寛永八年ごろから、ボツボツ準備して、実際の仕事に取りかかったのが十一年の秋。約一年半で、工事を終わった。その間に仮殿をつくり、遷宮をして、それから本殿の古い建物を壊し、そこへ新築したのだから、一年半でこれらの大工作が終わったとは、実におどろくほど神速であったと言わなければならない。
 付属の建物は、その後にできたものも多いが、宝塔はこのとき石造りに改められ、その他、日光造営帳によると、本社を中心におもな建造物はみなで二十三屋、たいへんな事業でありました。
 有名な水屋前の銅の鳥居も、この寛永寺の造築に、鋳物師椎名兵庫(しいなひょうご)がつくったものであります。
 この鳥居の費用が二千両、今(いま)でいうと七、八万円(まんえん)だそうですから、いかに豪勢なものか想像にあまりある。
「まず、だいたいにおいて、この寛永の御造営を模(も)して、これにしたがってゆこうではござらぬか」
 林念寺前の上屋敷、奥の広書院に客を招じた対馬守は、主客席が定まってひととおりの挨拶ののち、すぐこう言って、相手を見た。
 相手というのは。
 対馬守入府の通知を受けて、いま小石川第六天の自邸から、打ちあわせに来た別所信濃守です。
 賄賂(わいろ)の出し方が少ないというので、今度の日光修営に、副役ともいうべきお畳奉行を当てられた人で。
 屋敷の門を出るまで、
「名誉じゃ、名誉じゃ。イヤ、運の悪い名誉じゃテ」
 と、ほとんどべそをかかんばかりだったが。
 名指しを受けた以上、否応(いやおう)はありません。
 くすぐったいような、泣き出しそうな顔で、いま対馬守の前にすわっている。
 蒼(あお)い頬、痩せたからだ。金のかかるお畳奉行は、なるほど重荷に相違ない……貧相な人だ。
 ここでひとことでも対馬守が、ほんとに今度はえらい目にあって――とでもいうようなことを言ったら、同病あいあわれむで、すぐ本音を吐(は)き、愚痴をならべ出す気の別所信濃守だが。
 主役たる造営奉行の肚(はら)がわからないから、めったに不平(こぼ)すことはできない。
 へたに迷惑らしいことをいおうものなら、公儀へ筒ぬけともかぎらないので。
 対馬守も同じ心だ。
 たぶんまいっているのだろうとは思うが、相手の気持がハッキリしないので、うち明けて、どうも困ったことに……とは言えない。
「諸侯のうらやむお役を引き当てましたことは、一身一藩の栄誉、御同慶至極に存じまする」
「さようで。拙者一度は、この日光のおつとめをいたしたいものじゃと、こころがけておりましたが、やっとその念願がとどいたわけで」
 と二人は、しごくまじめ顔だ。
 本心をさぐり合うような眼を交わしている。
「ところで――」別所信濃守は言いにくそうに、しばらくモジモジしていたが、
「あの、おしたくは?」
 思いきったようにきいた。

       四

 おしたく……下賤の者ならば、おや指と人さし指で、丸い輪を作って見せるところだが。
 そんなことはしない。
 問いを受けた対馬守は、源三郎によく似た鋭い眼を、ほほえませて、
「御貴殿は?」
 とききかえした。
 信濃守は、ちょっと頭を下げて、
「ハア、どうやらこうやら……御尊家(ごそんか)には、とうにこけ猿の茶壺が見つかったという評判で」
「そのとおり。某所(ぼうしょ)に埋ずめてあった伝来(でんらい)の財宝も、とどこおりなく掘り出すことができました。すなわちあれに――」
 と対馬守、すました顔で、床の間のほうへ眼をやった。
 別所信濃守も、これではじめて気がついたというわけではない。
 実は、さっきこの広い書院に通されたときから、それが気になっていたのだが……。
 その床の間には。
 小判をいくつか白紙で包んだらしい、細長いものを、山のように積み上げた三宝が、ところせましとまでならべられ、二段三段に重ねて置いてある。
 床脇(とこわき)の違い棚まで、小判を満載した三宝がならべられて……。
 この上屋敷へついた翌朝のこと、対馬守は主水正の案内で、その庭の隅、築山のかげへ行ってみたのです。将軍家からの救いの手として、愚楽老人はその部下の甲賀者を使い、一夜のうちに埋ずめておいた黄金(おうごん)。
 その場所には、主水正のはからいで、もっともらしく注連縄(しめなわ)が張りめぐらされ、昼夜見はりの番士が立っている騒ぎ。
 幕府の心がわかっている以上、これを掘り出して目前の日光修覆の用に当てればよいだけのことだ。
 ここは芝居をする気の対馬守、いかにも先祖伝来の大財産を、あのこけ猿の壺によって掘り出すといったおごそかなようすでした。
 斎戒沐浴(さいかいもくよく)して、お鍬(くわ)入れの儀式と称し、対馬守が自身で第一の鍬を振りおろす。
 もっとも、これは始球式みたいなもので、ほんのまねごと。
 対馬守の鍬が、そっと掃(は)くように地面をなでると、裃姿(かみしもすがた)の田丸主水正が、大まじめでお喜びを言上(ごんじょう)した。
 どこまでも、こけ猿の茶壺が発見(みつ)かって、それによってこの宝掘りになったということを、家臣の口から世間へ伝えさせ、信じさせるために、あの一風宗匠までがこのお鍬入れに引っぱり出されたのは、なんとも御苦労な話で。
 で、殿様につぐ第二の鍬は、一風宗匠。
 非常な老齢ですから、立っているだけでせいいっぱいだ。むろん、とても鍬なんか持てやしない。高大之進が鍬を持って掘るまねをすると、人の介添(かいぞえ)で一風がちょっと手を添えただけだ。
 こうして地中から取り出した金は、案の定、やっと日光の費用に間に合う程度だったが、これで柳生は、ともかく助かったというもの。
 ここに、床の間いっぱいにあふれるように、三宝にのせて飾ってあるのが、こうしたからくりのひそむ金であります。
 そんなこととは知らないから、信濃守はうらやましそう。しきりに感心していると、柳生対馬守は事務的に相談を進めて、
「サテ、お山止(やまど)めの儀でござるが……」
 と、言い出したとき、
「殿――」
 はるか廊下のかなたに、何ごとか知らせに来た侍(さむらい)の平伏する頭が、見えた。

       五

 はるか下がって、廊下に額を押し当てた若侍の声、
「申し上げます。ただいま……」
 ところが。
 だいたいこの柳生対馬守は、剛腹な人間の通例として、非常に片意地なところのあった人で、ふだんでも、気がむかないと、誰がなんと話しかけても知らん顔、返事ひとつしないことがある。
 おまけに、今は。
 お畳奉行別所信濃守様と、たいせつな日光着手の打ちあわせの最中ですから、対馬守、うるさいと言わぬばかり、ちょっと眉をひそめただけで、何事もなげに信濃守へ向かって、
「御承知のとおり、江戸から日光への往復の諸駅、通路、橋等の修理の儀は、公領のところは代官、私領は城主、地頭寺社領にいたるまで、すべてわれわれにおいて監督いたし、万(ばん)手落ちのないようにしなければならぬのですから――」
「お話ちゅうまことにおそれいりますが……」
 取次ぎの若侍が、そう一段声を高めるのを、対馬守はまた無視して、
「で、日光造営奉行が、拙者ときまりましてから、江戸にいる家老に申しつけて、日光を中心にした四十里の地方と、江戸からの道中筋、駅馬などを残らず吟味(ぎんみ)させましたところが」
「殿様! ちょっとお耳を!」
 どこ吹く風かと、対馬守はつづける。
「ところが、五石七石の田畑もちの小百姓はむろんのこと、田畑を多く持っている者も、馬を飼っている者は非常に少ない。まずこの、運搬に使用する馬の才覚が、このさい第一かと考えますが」
 若侍は、取りつく島もなく、黙ってしまった。
「全く」
 と別所信濃守は、うれい深げに腕組みをして、
「百姓は近年、なみなみならぬ困りようでございますが、穀種を他(た)から借り受けて、ようやく植えつけをすまし、本面(ほんづら)の額(たか)を手ずから作る者は、いたってすくないとのことです」
「実に窮乏の体(てい)に見えます。そこで、このたびの東照宮御普請は、各領その高々に応じて、人別で沙汰するようにするのですナ」
「殿、おそれながら……」
「日光山から四十里のあいだは、御修覆ができあがるまで、住民の旅立ち、その他すべて、人の出入りを禁ずることは、お山止(やまど)めと言って、これは先例のとおりです。各所に関所を設けて、この見張りを厳(げん)にせねばならぬ」
「さよう。それから、いっさいの雑役は、たしか宗門を改めたうえで、各村から人足を出させるのでございましたな」
「そうです。壮年組は二十五歳から五十歳まで、少青年組は十五歳から二十三歳までをかぎって、村々から人夫を取りたて、昼夜の手当と、昼飯料(ちゅうはんりょう)をとらせねばならぬ」
 対馬守は、今度のお役につき調べたところを、ボツボツ思い出しながら、
「すべてこの日光を取りまく四十里の地が、御修理に力を合わせることになるわけで、女子(おなご)にもつとめが科せられるはずだとおぼえておる。十三歳から二十歳までの女一人に、一か月につき木綿糸(もめんいと)一反分(たんぶん)を上納させるんですな――」
 いつまで続くかわからない。たまりかねた取次ぎの若侍。
「殿! 司馬道場より、安積玄心斎殿がお見えになりました」
 思わずそう言いかけると、対馬守、クルリと膝を向けかえて、
「ナ、何? 玄心斎がまいったと? ナ、なぜ早く言わぬッ!」
 言おうと思っても、いう機会を与えなかったくせに。

   水打(みずう)つ姿(すがた)


       一

 女の子が人形の毛をむしったり、こわしてしまったりするのと、同じ心理。
 女性には、得(え)てこういうところがあるのかもしれない……大事な品でも、じぶんの手に入れることができないとわかれば、いっそ破壊してしまおうという本能が湧(わ)く。
 この場合は、それに嫉妬(しっと)が手伝って。
 父六兵衛(ろくべえ)の家を、パッと飛び出した娘のお露(つゆ)。
 外はまだまっ暗だが、これから朝へ向かうのだから気が強い。しっとり露を含んだ地面に、下駄の歯を鳴らして、お露はいつしか、白い素足も乱れがちの小走りになっていた。
 目の前の闇よりも、彼女の心の暁暗(ぎょうあん)。
 それというのが……。
 父が三方子川(ぽうしがわ)から救いあげてきた柳生源三郎、わが家の奥座敷に病(やまい)を養い、このお露が、朝夕ねんごろに看病(みとり)をするうちに、見る人が思わずおどろきの声を発するほどの、すごいような美男源三郎ですから、お露はいつからともなく、三方子川の川波よりもさわがしい胸を、源三郎に対していだくことになったので。
 由緒(ゆいしょ)のある人――もとより、はじめからそうにらんではいた。言(げん)を左右にして身分を明かさないところがなおいっそう、そう思われたのだが。
 しかし、知らなかった……知らなかった!
 あれが、本郷の有名な道場のお婿さんで、あんなきれいな――あんなきれいな奥様があろうとは!
「たしか本郷妻恋坂、司馬道場とやらの……」
 さっき、つぎの間のふすまのかげで、そっと立ち聞いたところでは、ボンヤリとだが、なんでもそういう話。
「でも、ほんとうにもう奥様なのかどうか――どうも二人の話では、ハッキリしないけれど、お互いに思い思われた同士のことは、あの模様でもよくわかる。それに、何やらあのお侍さんは、お婿入り先の道場とのあいだに事情があって、どうやら死んだことにでもなっているようす」
 両の袖をしっかり胸におさえてお露は足を早めながら、心の闇から外の暗(やみ)へ、苦しいひとり言(ごと)を吐(は)きつづける。
「とてもいわくがありそうだわ。ひとつ、その妻恋坂の道場とかへ知らせてやったら、どういうことになるかしらん――」
 深いことは知らないお露、ただもう嫉妬の焔に眼がくらんで……きっとあのお侍のいどころが知れれば、その道場から人が来て、あのお嬢さんとの仲を引きさくに相違ない。そうして、あの美しいお武家様が一人になったら、また自分へ、色よい言葉をかけてくださるかもしれぬ……。
 お露の頭には、このこと以外何もありません。こうして彼女が源三郎の所在(ありか)を道場へ通じることが、どう事件を浪(なみ)だたせて、自分は無意識のうちに、どんな運命の一役を買っているのか、そんなことを思うひまは、お露にはないのだった。
 ころがるように急ぐ道に、だんだん小石の影や、土の色がうっすらと見えてきた。東が白みかけたのだ。まもなく、途中ですっかり夜が明けはなれたので、疲れきったお露は、通りかかった辻駕籠(つじかご)を呼び止めて、早朝の女の一人歩きにいぶかしげな顔をしている駕籠かきへ、
「あの、駕籠屋さん、お父(とっ)さんが急病なんですが、お父さんのかかりつけのお医者様が、本郷の妻恋坂にいましてね、そこまでいそいで迎いに行きたいんですけれどやってくださいな」
 とお露、さっそくの機転でそう言った。そして、駕籠屋のうなずき合うのを待って、裾で足を包んだお露、スルリと乗りこんだのです。

       二

 ずいぶん気の長い話……だが、双方、意地になっているのだ。
 妻恋坂、司馬道場の屋敷内には、まだふしぎな頑張(がんば)り合いがつづいている。
 軒を貸して母家(おもや)を取られる――ということわざがあるが、まさにそのとおり。
 宏大な屋敷のほんの一部に、お蓮様、峰丹波など、以前からの不知火(しらぬい)道場の連中が追いつめられて、これは、小さく暮らしているに反し、奥のいちばんよい住居(すまい)のほうは、伊賀侍の一団が占領して日夜無言のにらみ合い。
 若君源三郎はいなくても、安積玄心斎、谷大八等、すこしもあわてません。
「なんの、源三郎様にかぎって、まちがいなどのあろうはずはない。かならず今にも、あのとおり蒼白いお顔で、ブラリと御帰還になるにきまっている」
 一同、こうかたく信じて疑わないから、源三郎がいなくても平気なものだ。あい変わらず傍若無人に振る舞って頑張(がんば)っている。
 ただ。ゆうべの今朝(けさ)。
 そのゆうべ、隻眼隻腕の浪人が道場のほうへあばれこんで、多勢(おおぜい)の司馬の弟子どもを斬りたおし、萩乃をさらって立ち去った……あのさわぎには、玄心斎をはじめ谷大八、どっちへついていいかとまちまちの議論が沸(わ)いたが、朝になってようすをうかがうと、お蓮様や丹波は、何事もなかったかのようにヒッソリとしている。
「たとい祝言はまだでも、萩乃様は若殿の奥方様じゃ。これはこうしてはおられぬ」
 という考えが、伊賀の連中のあいだにだいぶ有力だったのだが、これには何か仔細(しさい)ありとにらんだ玄心斎、今日(きょう)にも明日(あす)にも、どこからか手がかりの糸がほぐれてくるに相違ない。このさいいたずらにあわてまわるのは、策(さく)の得たものではないと、信ずるところあるもののごとく、玄心斎はそう言って、やっとみなをおさえているのだ。
 ところで、この司馬の屋敷は、門をはいると道が二つにわかれて、一方は板敷の大道場を中心にしたひと構(かま)え、ここに、お蓮様丹波の一党が巣を喰っているのです。
 そして。
 もう一つの道は、そのまま奥庭へ通じて、庭のむこうの壮麗をきわめた一棟――源三郎の留守を守る伊賀の連中が、神輿(みこし)をすえているのはここだ。
 で、道をまちがえたのだ。お露は。
 来てみると、想像していた以上に大きな屋敷である。
 まず、りっぱな御門におどかされたお露は、とみにははいれずに、しばし門の前をいったり来たりしたが、これでは果(は)てしがない……。
「こちらのお嬢さまが、いま自分の家にいる若殿様を慕って、ゆうべからこっそり会いに来ていると知れたら、どんな騒ぎになるだろう。イエ、大騒ぎにしないではおかない」
 萩乃と源三郎のことを思うと、弱いお露が、ぐっと嫉妬で強くなった。スタスタと門をくぐって、数奇(すき)をきわめた植えこみのあいだを、奥のほうへ――。
 もうとうに朝飯のすんだ時刻。
 ほがらかな陽が、庭木いっぱいに黄金(こがね)の雨のように降りそそいで、その下を急ぐお露の肩に、白と黒の斑(ふ)を躍(おど)らす。
 さいわい誰にも見とがめられずに、奥座敷の縁側のそばまで来たお露は、沓(くつ)ぬぎにうずくまるように身をかがめて、低声(こごえ)。
「あの、モシ、どなたかおいでではございませんでしょうか」
「アア、びっくりした!」
 座敷の真ん中に、大の字なりに寝ころんでいた谷大八が、ムックリ起きあがった。

       三

 ものを言うたびに、首を振る。すると、大髻(おおたぶさ)がガクガクゆらぐ。
 これが、谷大八の癖(くせ)だ。
「なんだ、娘。貴様はどこからまいった」
「アノ、わたくしは、葛飾(かつしか)の三方子(ぽうし)川尻(かわじり)の六兵衛と申す漁師の娘で、お露という者でございますが――」
「ナニ、漁師の娘? それが何しにここへ……誰がここへ通した。門番へことわってきたのか」
「いえ、ただスルリとはいってまいりましたが――アノ、お侍様たいへんなことができましてございます。源三郎様のところへ、昨晩こちらのお嬢様が逃げていらっしゃいまして」
「ナニ? 源三郎様のところへ? コ、コレ、源三郎さまはどこにおいでだ。イヤ、若君にはいずくに……」
「そして、まア、くやしいのなんのって、お二人で膝がくっつきそうにすわって、ほっぺたを突つき合ったり、会いたかったの見たかったのッて、そのいやらしいッたら、とても見ちゃアいられませんの」
「コレコレ、順序を立ててものを言え。漁師六兵衛とやらの娘とかいったな。シテ、源三郎様は、貴様の家においであそばすのか」
「ハイ、お父(とっ)さんが川から助けてきて、それからずっと、わたしの家の裏座敷に、寝たり起きたりしていらっしゃいます」
「ウム、そうかッ!」
 大八ははやりたつ両手で、自分の膝をわしづかみにしながら、
「して、昨晩その源三郎様のもとへ、萩乃さまが会いにおいでになった、と申すのだな?」
「ハイ、あの丹下様という、隻眼隻腕の怖(こわ)らしいお侍さんにつれられて――」
 突然、突っ立った谷大八、廊下のほうへ向かって大声に、
「オイ、玄心斎どの、イヤ、皆の者、殿のお隠れ家(が)が判明いたしたぞ」
 と呼ばわりますと、今まで隣室の大広間で、ワイワイゆうべの騒ぎを話題にしていた一同は、玄心斎を先頭に立てて、なだれこんできた。
「ナニ? そうか。イヤそうだろうと思った。伊賀の暴れん坊とも言われるあの若君にかぎって、丹波などの奸計(かんけい)におちいるお方ではないのだ。それはめでたい、めでたい。すぐさまお迎えに!」
「そうだ、お迎えだ! お迎えだ!」
 こうなると、知らせてくれた三方子村(ぼうしむら)のお露は第一の殊勲者、伊賀侍の眼には、救いの女神とも映るので。
「婦人の身をもって、早朝から遠路まことに御苦労でござりました。サ、サ、まずおあがりなされて」
「コレ、大恩人じゃ。粗相があってはならぬぞ。お座蒲団を持て。誰かある、お茶を――」
「はッ、粗茶ながら、ひとつお口湿(くちしめ)しを……」
 と急に、下へもおかぬもてなし。
 何が何だかわからないお露、手を取らんばかりに引き上げられて、床の間の前の上座へすわらせられてしまった。
 きっと騒動が持ち上がるに相違ないと、それを楽しみに、駈け込み訴えのように飛んで来たのに、その目算(もくさん)はガラリはずれて、一同は涙ぐむほどの感謝ぶりだ。
「では、さっそく貴殿方(きでんがた)へ出向いて、源三郎様と萩乃さまをこちらへお迎え申す。殿がお帰りになれば、またお言葉も下(さ)がるであろうから、お露どのと申したナ、なにとぞ貴殿は、それまでこちらにごゆるりと御休息あって――」
 お露はポカンとしながら、玄心斎、大八ら、五、六人のおもだった者が、にわかのしたく、あわてふためいて邸(やしき)を出て行くのを、ぼんやり見送っていた。

       四

 人間は、思うこと意のごとくならず、心細く感ずる瞬間に、本心にたち返るものだ。
 今のお蓮様(れんさま)がそうである。
 故司馬先生の在世中から、代稽古峰丹波(みねたんば)とぐるになって、この不知火(しらぬい)道場の乗っ取りを策してきた彼女、それからこっち手違いだらけだ、策動にも、気持のうえにも。
 第一に、義理ある娘萩乃の婿として乗り込んできた伊賀の暴れん坊に、お蓮様が横恋暴。道場も横領したいし、源三郎も手に入れたいし……これでは、お蓮様の鋭鋒(えいほう)もすっかりにぶってしまって、峰丹波の眼から見ると、はがゆいことばっかりなのはむりもない。
 丹波もお蓮様も、柳生源三郎などはどうでもいいのだった。それよりも、彼が婿引手として持ってくる柳生家重代の秘宝、こけ猿の茶壺をねらって、壺を手に入れたうえで源三郎を排斥しようとしたあの運動が、最初から、いすかのはしと食いちがって……。
 が、なんといっても源三郎を恋しはじめたのが、お蓮様にとって、思いがけない自己違算の第一歩。
 ここは納戸のかげの、ちょっと離れた隠れ座敷です。
 軒も暗むまでに、鬱蒼と茂った樹木が、室内いっぱいにうすら冷たい影を沈ませて、昼ながら畳の目も読めないほど。
 木の葉の余影で、人の顔も蒼く見える――この頃ここが、ひとりものを考えるときのお蓮様の逃避所になっているのだ。
 だが、
 いまこの部屋の真ん中にぽつねんとうなだれているお蓮様の横顔が死人のごとく蒼白いのは、木々の照り返しのためだろうか。
「まだ死骸は出ないけれど、とても生きていらっしゃろうとは思えない」
 敵であるはずの源三郎……彼に対して恋心をいだいたばっかりに、丹波と二人でしくんだせっかくの芝居はいまだにらちがあかない。
 あのにくらしい、慕わしい伊賀の暴れん坊!
「丹波と申しあわせて、何度か殺そうとしたけれど、そのたびに自分は、命乞いをしたくなったっけ――」
 最後に、あの穴の中におとしこんで、三方子川の水を引いてせめ殺した……。
 お蓮様は、ぞっと身ぶるいをして、
「ああ、ほんとうにかわいそうなことをした」
 あの白衣(びゃくえ)の浪人が暴れこんで、道場の跡目に直(なお)ろうとしていたまぎわの、峰丹波にじゃまを入れ、多くの門弟を斬ったのみか、萩乃をつれて消えうせた。あの騒ぎなどは、お蓮様の心のどこにもないのだった。それはみんな自分になんの関係もない、遠い国の、しかも、大昔の出来ごととしか思えないほど、彼女の胸は、源三郎に対する悔恨でいっぱいなのだ。
「ああ、もうなんの欲(よく)も得(とく)もない。源様さえ生きていてくだすったら……」
 司馬道場、峰丹波、それらへの興味はすっかりなくなって、この頃のお蓮様は、まるで別人のように、うち沈んでいるのである。
 萩乃なぞ、あの片腕の浪人にひっさらわれて、どんな目にでもあうがいい。
 今も今。
 無意識にそうひとり言(ごと)を口にしながら、お蓮様が、きっと、血の気のない唇をかみしめたときです。
 故十方斎先生は、此室(ここ)で皆伝(かいでん)の秘密の口述(くちず)をしたもので、大廊下からわかれてこっちへ通ずる小廊下の床(ゆか)が、鶯張(うぐいすば)りになっている。踏(ふ)むと音がするんです。
 忍んで来ることができない。盗み聞きは不可能。
 今そのうぐいす張りの細廊下がキューッとふしぎな音をたてて鳴いた、人の体重を受けて。
「誰です、そこにいるのは?」
 お蓮様は低声(こごえ)にとがめた。
「誰だときいているに、誰? 何者です……」

       五

「誰です」
 お蓮様は、繰り返した。
 鶯張りの板がきしんで、それに答えるように鳴るだけ……返事はない。
 舌打(したう)ちしたお蓮さまは、ツと立って、障子をひらいた。
 丹波(たんば)である――峰丹波が、ノッソリと突っ立っているのだが。
 その顔をひと眼見たお蓮様、あっとおどろきの叫びをあげた。
 血相をかえた丹波、右手を大刀の柄(つか)にかけて、居合腰(いあいごし)で、部屋の外の小廊下に立っているではないか。
「マア、おまえ! どうしたというのです、わたしを斬ろうとでも……」
 それには答えず、丹波はハッハッとあえぎながら、
「どこにいます。どこにいます?」
 そう言いながら、眼を室内に放って、四隅(すみ)をにらみまわすようす。
 および腰に体(たい)をひねって、今にもキラリと抜きそう……ただごとではない。
「どこにいる、今たしかに、この座敷の中で彼奴(きゃつ)の声がしましたが」
「どこにいるとは、誰がです。あいつとはエ?」
 丹波の剣幕におどろき恐れて、お蓮様は一歩一歩、一隅へ下がりながら、ふと思った――峰丹波、乱心したのではあるまいか、と。
 が、そうでもないらしく、丹波は大刀を握りしめたまま、じっとお蓮さまをみつめて、
「今あなたは、このへやで誰と密談しておられた。いやさ、たれを相手に、お話しておられた?」
「誰を相手に? まあ、丹波。おまえは何を言うのです。わたしはここに、さっきから一人で……」
 沈思にふけっていたお蓮様、胸の思いが声に出て、思わず、あれやこれやとひとり言(ごと)をもらしていたことは、彼女自身気がつかない。
 もう、いつのまにか夕暮れです。夏の暮れ方は、一種あわただしいはかなさをただよわして、うす紫の宵闇(よいやみ)が、波のように、そこここのすみずみから湧(わ)きおこってきている。
 どこか坂下(さかした)の町家(ちょうか)でたたく、追いかけるような日蓮宗の拍子木(ひょうしぎ)の音(ね)。
 やっと丹波は納得したらしく、ふしぎそうに首をかしげると同時に、グット刀(とう)をおし反(そ)らした。

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