丹下左膳
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:林不忘 

   土葬(どそう)水葬(すいそう)


       一

 ふしぎなことがある。
 左膳がこの焼け跡へかけつけたとき、いろいろと彼が、火事の模様などをきいた町人風の男があった。
 そのほか。
 近所の者らしい百姓風や商人体が、焼け跡をとりまいて、ワイワイと言っていたが。
 この客人大権現(まろうどだいごんげん)の森を出はずれ、銀のうろこを浮かべたような、さむざむしい三方子川(さんぼうしがわ)をすこし上流にさかのぼったところ、小高い丘のかげに、一軒の物置小屋がある。
 近くの農家が、収穫(とりいれ)どきに共同に穀物でも入れておくところらしいが……。
 空いっぱいに茜(あかね)の色が流れて、小寒い烏の声が二つ三つ、ななめに夕やけをつっきって啼きわたるころ。
 夕方を待っていたかのように、その藁(わら)屋根の小屋に、ポツンと灯がともって、広くもない土間に農具の立てかけてあるのを片づけ、人影がザワザワしている。
「イヤ、これで仕事は成就したも同様じゃ。強いだけで知恵のたらぬ伊賀の暴れン坊、今ごろは、三方子川の水の冷たさをつくづく思い知ったであろうよ、ワッハッハ」
 と、その同勢の真ん中、むしろの上にあぐらをかいて、牛のような巨体をゆるがせているのは、思いきや、あの司馬道場の師範代、峰丹波(みねたんば)。
「ほんとうにむごたらしいけれど、敵味方とわかれてみれば、これもしかたがないねえ」
 大きな丹波の肩にかくれて、見えなかったが、こう言って溜息をついたのは、お蓮様である。
 取りまく不知火(しらぬい)連中の中から、誰かが、
「ムフフ、御後室様はいまだにあの源三郎のことを……」
 お蓮様は、さびしそうな笑顔を、その声の来たうす暗いほうへ向けて、
「何を言うんです。剣で殺されるのなら、伊賀の暴れン坊も本望だろうけれど、お前達の中に誰一人、あの源様に歯のたつ者はないものだから、しょうことなしに、おとし穴の水責め……さぞ源さまはおくやしかろうと、わたしはそれを言っているだけさ」
「そうです」
 と丹波は、ニヤニヤ笑いながら一同へ、
「お蓮様は武士道の本義から、伊賀の源三に御同情なさっているだけのことだ。よけいな口をたたくものではない」
 と、わざとらしいたしなめ顔。
「そこへ、あの丹下左膳という無法者まで、飛びこんできて、頼まれもしないのに穴へ落ちてくれたのだから、当方にとっては、これこそまさに一石二鳥――」
 みなは思い思いに語をつづけて、
「もうこれで、問題のすべては片づいたというものだ。今ごろは二人で、穴の中の水底であがいているであろう」
 両手で顔をおおったお蓮さまを、ジロリと見やって、
「サア、これで夜中を待って、上からあのおとし穴をうめてしまうだけのことだ」
「何百年か後の世に、江戸の町がのびて、あの辺も町家つづきになり、地ならしでもすることがあれば、昔の三方子川という流れの下から、二つの白骨がだきあって発見さるるであろう、アハハハ」
 いい気で話しあっているこの連中を、よく見ると、みなあの焼け跡の近所をウロウロしていた農夫や、町人どもで、あれはすべて司馬道場の弟子の扮装だったのだ。それとなく火事の跡のようすを偵察していたものとみえる。
「サア、酒がきたぞ」
 大声とともに、一升徳利をいくつもかかえこんで、このとき、納屋へかけこんできた者がある。

       二

 見ると、左膳に火事のことなどを話したあの町人である。
 酒を買いにいって、いま帰ったところだ。
「サア、おのおの方、これにて祝盃をあげ、深夜を待つといたそう」
 と言う彼の口調は、姿に似げなく、侍のことばだ。
 これも、司馬道場の一人なのである。
 一同は歓声をあげて、そこここにわりあてられた徳利を中心に、いくつとなく車座をつくって飲みはじめる。
 いつのまにか、浅黄色の宵闇がしのびよっていた。こころきいた者の点じた蝋燭(ろうそく)の灯が、大勢の影法師をユラユラと壁にもつれさせる。
 皆の心がシーンとなると、とたんに、言いあわせたように胸に浮かんでくるのは、あの、自分らが誤って斬り殺し、それを焼け跡へ放置して、源三郎と見せかけた仲間の死骸。
 かたわらにころがしておいたのは、名もない茶壺で、ほんとうのこけ猿の茶壺は、とうに峰丹波の手におさめ、本郷の屋敷に安置してある……。
 と思うから、丹波は上機嫌だが、その壺が早くもあの門之丞によって盗み出され、又その門之丞が斬りたおされて、壺はすでに左膳のもとへ――。
 その左膳の手へうつった壺もお藤姐御のために、通りすがりの屑屋へおはらいものになって。
 今は?
 どこにあるかわからない。
 ……とは、峰丹波、知らなかった。
 計略が図に当たって、源三郎を罠(わな)へ落としこんだのみならず、何かと邪魔になる丹下左膳まで、飛んで火に入る夏の虫、自分から御丁寧にも、その穴へ飛びこんでくれたのだから、これこそほんとうに一網打尽(もうだじん)である。
 このうえは。
 深夜までここにじっとしていて世間の寝しずまるのを待ち、一同で手早く、地面から地下へ通ずるあの三尺ほどの竪坑(たてあな)を埋めてしまえばいい。
 そうすれば。
 人相も知れないほどに焼けただれた、あの若侍の死骸と、壺を、源三郎とこけ猿ということにして、本郷の道場へ持って帰る。
 もうその手はずがすっかりととのって、いま、この納屋の一隅には、白布をきせたその焼死体と、焼けた茶壺とが、うやうやしく置いてあるのだ。
 峰丹波、今宵ほど酒のうまいことのなかったのも、むりはない。
 狭い物置小屋に、一本蝋燭の灯が、筑紫(つくし)の不知火(しらぬい)とも燃えて、若侍の快談、爆笑……。
 さては、真っ赤に染めあがった丹波の笑顔。
 だが、その祝酒の真ん中にあって、お蓮様だけは、打ち沈んだ表情(かお)を隠しえなかったのは、道場を乗っ取るためとはいいながら、かわいい男をだまし討ちにした自責の念にかられていたのであろう。
 すると――。
 この騒ぎのきれ目切れ目に、どこからともなく風に乗って聞こえてくるのは、異様な子供のさけび声。
「父(ちゃん)?……父上(ちちうえ)! 父上!」
 一同は、フト鳴りをしずめた。
「まだ吠えておるゾ。かの餓鬼め!」
 だれかが歯ぎしりしたとき、ふたたび、悲しそうなチョビ安の声が夜風にただよって――。
「父上! 聞こえないのかい? 父上!」

       三

 遠くのチョビ安の声に、鳴りをしずめて聞きいっていた不知火の連中は、
「伊賀のやつらは、あの子供をそのままにして行ってしまったとみえるな」
「ウム、いかに連れ去ろうとしても、あの、左膳の落ちた穴のまわりにへばりついておって、どうしても離れようとせんのだ。だいぶ手古摺(てこず)っておったようだが」
「そこへ、町人体に姿をやつした拙者らが、弥次馬顔に出かけていって、斬りあいを聞きつけて役人どもが、出かけてくるところだと言いふらしたら、かかりあいになるのを恐れて、そのまま逃げちっていった。アハハハハハ」
 まったく。
 高大之進(こうだいのしん)の尚兵館組(しょうへいかんぐみ)と、結城左京(ゆうきさきょう)等の道場立てこもりの一統とは、底も知れない穴へ左膳がおちこんだのをこれ幸いと、泣きさけぶチョビ安をそのままに、そうそう引きあげてしまったのだ。
 この物置小屋から出ていった司馬道場の弟子どもが、町人、百姓姿の口々から、役人きたるとさけんだのに驚いて。
 また、その左膳のおちた地中に、自分らの探しもとめる主君柳生源三郎が、同じくとじこめられていようとは、夢にも知らずに。
「父上! あがってこられない? 父上!」
 と、それからチョビ安は、こう叫びつづけて、穴の周囲を駈けてまわっているうちに。
 めっきり長くなった日も、ようやく夕方に近づき、三方子川の川波からたちのぼる薄紫の夕闇。
 穴は、ポッカリ地上に口をひらいて、暗黒(やみ)をすいこんでいるばかり……のぞいてよばわっても、なんの答えあらばこそ。
 子供の力では、どうすることもできないのだ。
「父(ちゃん)! ああ、どうしたらいいだろうなア」
 チョビ安は気がふれたように、地団駄(じだんだ)をふむだけだ。
 とやかくするうちに――はや、夜。
「むこうの森の権現さん
ちょいときくから教えておくれ
あたいの父(ちゃん)はどこへ行った……」
 うらさびしい唄声が、夜風に吹きちらされて、あたりの木立ちへこだまする。
「ほんとに、あたいほど不運な者があるだろうか。産みの父(ちゃん)やおふくろの顔は知らず、遠い伊賀の国の生れだということだけをたよりに、こうして江戸へ出て――」
 チョビ安、穴のふちに小さな膝ッ小僧をだいてすわりながら、自分を相手にかきくどく言葉も、いつしか、幼い涙に乱れるのだった。
「こうして江戸へ出て、その父(ちゃん)やおふくろを探していたが、なんの目鼻もつかず、そのうちに、この丹下左膳てエ乞食のお侍さんを、仮りの父上と呼ぶことにはなったものの、その父上も、とうとう穴の中に埋められてしまっちゃア、もぐらの性でねえかぎり、どうも助かる見込みはあるめえ」
 ちょうどチョビ安が、こんな述懐にふけっている最中。
 ここをいささか離れた森かげの納屋では、峰丹波の下知で、いよいよ夜中の仕事にとりかかることになった。
 一同は二手にわかれた。丹波とお蓮様は数名の者に、源三郎の身がわりの死骸(なきがら)をかつがせて、泣きの涙の体よろしく、ここからただちに本郷妻恋坂の司馬道場へ帰る。
 ほかの連中が、小屋にある農具を手に、大急ぎで、あの左膳と源三郎の穴を埋めてしまおうというので。

   いのち綱(づな)


       一

「ほんとに、おめえみたいに親不孝な者ったら、ありゃアしない。その年になって嫁ももらわず、いくら屑屋(くずや)だからって、親一人子ひとりの母親を、こんな、反古(ほご)やボロッ切れや、古金なんかと同居さしといてサ、自分は平気で暇さえあれァ、そうやって酒ばっかりくらっていやアがる」
 ボーッと灯のにじむ油障子の中路地のなかの一軒に、いきなり、こう老婆のののしる声がわいた。
 ここはどこ?
 と、きくまでもなく。
 浅草(あさくさ)竜泉寺(りゅうせんじ)、お江戸名所はトンガリ長屋。
 その、とんがり長屋の奥に住む、屑竹(くずたけ)という若い屑屋の家(うち)だ。
 母ひとり子ひとりというとおり、いま、こうたんかをきったお兼というお婆さんは、この屑竹の母親なのだ。
 六畳一間ほどの家に、およそ人間の知識で考えられるかぎりの、ありとあらゆるガラクタが積まれて、……古紙、雑巾(ぞうきん)にもならない古着、古かもじ、焚きつけになる運命の古机、古文箱。
 古いお櫃(ひつ)には、古い足袋(たび)がギッシリつまり、古い空(あ)き樽(だる)の横に、古い張り板が立てかけてある始末。
 身の置きどころ、足の踏み立て場もない。
 室内のすべてのものには、上に古という字がつくのだ。
 お兼婆さんも、まさに、その古の字のつく一人で、古い長火鉢の前に、古い煙管(きせる)を斜に構えて、
「商売に出たら最後、途中で酔っぱらって、三日も四日も家へ寄りつきゃアしない。この極道者めがッ! お母(ふくろ)なんか、鼠に引かれてもかまわないっていうのかい」
 この怒号の対象たる屑竹は?
 と見ると。
 やっと二畳ほどのぞいている古だたみの真ん中に、あおむけにひっくりかえって、酒臭い息、ムニャムニャ言っている。
 二、三日前、籠を背負って、
「屑イ、屑イ、お払い物はございやせんか」
 と、駒形のほうへ出て行ったきり、この夜中に、やっと家を思いだしたようにブラリと帰って来たところだ。
 ほかには道楽はなし、邪気のない男だが、若いくせに、大の酒ッくらいなんだ、この屑竹は。
 おっかさんがおこるのも、むりはないので。
「そうして、帰ってくるかと思うと、私の言うことなんか馬の耳に念仏で、そうやって大の字なりの高鼾(いびき)だ……よし! 今日は一つ、泰軒先生に申しあげて、じっくり意見をしてもらいましょう」
 と、たちあがったお兼婆さん、
「いま、泰軒先生を呼んでくるから、逃げかくれするんじゃないよ」
「ヘン! 逃げたくったッて、足腰が立たねえや。自慢じゃアねえが、宵から三升も飲んだんだ」
「マア、ほんとに、あきれて口がきけやアしない。母親を乾干しにしておいて、自分はそんなに酒をくらって歩くなんて」
 憤然として、入口の土間に下り立ったお兼婆さん、暗がりをまたいでかけ出す拍子に、
「オ痛タタタタタ!」
 何やらけつまづいたようす。
「なんだい! こんなところへこんなものころがしといて! 危いじゃないか。オヤ、茶壺だね。マア、うすぎたない茶壺だよ」
 下駄でイヤというほど蹴っておいて、お兼は、どぶ板をならして家を出た。

       二

 これはいったい、どうしたというのだ。
 おなじトンガリ長屋の、作爺さんの家だ。
 土間から表へかけて、いっぱいに下駄がはみ出したところは、縁起(えんぎ)でもないが、まるでお通夜のようだと言いたい景色。
 家の中には、例の泰軒居士を取りまいて、長屋の男、女、お爺さん、お婆さん、青年や若い女が、ギッシリすわって、作爺さんは、出もしない茶がらをしぼって、茶をすすめるのにいそがしい。
 かわいい稚児輪(ちごわ)のお美夜ちゃんがねむそうな眼をして、それをいちいち配っている。
「だから、じゃ――」
 と、泰軒先生は、あいかわらず、肩につぎのあたった縦縞の長半纏(ながばんてん)、襟元に胸毛をのぞかせて、部屋のまん中にすわっている。合総(がっそう)の頭をユラリとさせて、かつぎ八百屋(やおや)をしている長屋の若者のほうを、ふり向いた。
「だからじゃ。そのお町という女に実意があれば、どんなに質屋の隠居が墾望しようと、また父親(てておや)や母親(おふくろ)がすすめようとも、さような、妾の口などは振りきって、おまえのところへ来るはずじゃが」
 先生は、チラと若者を見て、
「お町さんの家は、そんなに困っておるというのでもなかろうが」
「ヘエ、この先の豆腐屋(とうふや)で、もっとも、裕福というわけじゃアござんせんが、ナニ、その日に困るというほどじゃあねえので」
「しかるにお町坊は、家を助けるという口実のもとに、その伊勢屋の隠居のもとへ温石(おんじゃく)がわりの奉公に出ようというのだな」
「へえ、あんなに言いかわした、このあっしを袖にして……ちくしょうッ!」
 若い八百屋は、拳固の背中で悲憤の涙をぬぐっている。
「コレ、泣くな、みっともない。お前の話で、そのお町という女の気立てはよく読めた。そんな女は、思い切ってしまえ」
「ソ、その、思い切ることができねえので」
「ナアニ、お町以上の女房を見つけて、見返してやるつもりで、せっせとかせぐがいい。おれがおまえならそうする」
「エ? 先生があっしなら――」
 と八百屋の青年は、急にいきいきと問い返した。泰軒先生はニッコリしながら、
「ウム、おれがおまえなら、そうするなア。金に眼のくれる女なら伊勢屋に負けねえ財産を作って、その女をくやしがらせてやる」
「よし!」
 と八百屋は、歯がみをして、
「あっしも江戸ッ子だ。スッパリあきらめやした。あきらめて働きやす……へえ、かせぎやす」
「オオ、その気になってくれたら、わしも相談にのりがいがあったというものじゃ。サア、次ッ!」
「アノ、泰軒様――」
 と、細い声を出したのが、前列にすわっている赤い手柄の丸髷(まるまげ)だ。とんがり長屋にはめずらしい、色っぽい存在。
 一と月ほど前に、吉原(なか)の年(ねん)があけて、この二、三軒先の付木屋(つけぎや)の息子といっしょになったばかりの、これでも花恥ずかしい花嫁さま。
「お前さんの番か。なんじゃ」
「アノ、あたしは一生懸命につとめているつもりですけれど、お姑さんの気にいらなくて、毎日つらい朝夕を送っていますけれど――」
 泰軒先生ケロリとして、
「ふん、そのようすじゃア、お姑さんの気にいらねえのはあたりまえだ。自分では勤めているつもりですけれど……と、その、けれどが、わしにも気にいらねえ」
 こうして毎日夜になると、泰軒先生の家は、このトンガリ長屋の人事相談所。

       三

 付木屋の花嫁は、たちまち柳眉をさかだてて、
「あら、こんなことだろうと思ったよ。年寄りは年寄り同士、泰軒さんもチラホラ白髪がはえているもんだから、一も二もなくお姑さんの肩をもって」
「コレコレ、そういう心掛けだから、おもしろくないのだ。老人は先が短いもの、ときにはむりを言うのもむりではないと考えたら、お姑さんのむりがむりじゃなく聞こえるだろう」
「だって、うちのお姑さんたら、何かといえば、あたしのことを廓(くるわ)あがりだからと――」
「そう言われめえと思ったら、マア、いまわしの言ったことをよく考えて、お姑さんの言うむりをむりと聞かないような修行をしなさい。そのうちには、お前さんからもむりのひとつも言いたくなる。そのおまえさんのむりもむりではなくなる。何を言っても、むりがむりでなくなれば、一家ははじめて平隠(へいおん)じゃ、ハハハハ。おわかりかな」
「わちきには、お経のようにしか聞こえないよ」
「わちきが出(で)たナ。マア、よい。明日の晩、亭主をよこしなさい。さア、つぎッ!」
「先生ッ!」
 破(わ)れ鐘(がね)のような声。グイと握った二つ折りの手拭で、ヒョイと鼻の頭をこすりながら、このとき膝をすすめたのは、長屋の入口に陣どっている左官(さかん)の伝次だ。
「今夜は一つ、先生に白黒をつけておもらいしてえと思いやしてね。この禿茶瓶(はげちゃびん)が、癪(しゃく)に触わってたまらねえんだ。ヤイッ! 前へ出ろ、前へ!」
「こんな乱暴なやつは、見たことがねえ。泰軒先生、わっしからもお願いします。裁きをつけてもらいてえもんで」
 負けずに横合いからのり出したは、その伝次の隣家(となり)に住んでいる独身者(ひとりもの)のお爺(じい)さんで。
「先生も御承知のとおり、わっしは生得(しょうとく)、犬(いぬ)猫(ねこ)がすきでごぜえやして……」
 じっさいこのお爺さん、自分で言うとおり、犬や猫がすきで、商売は絵草紙売りなのだが、かせぎに出ることなど月に何日というくらい、毎日のように、そこらの町じゅうの捨て猫やら捨て犬をひろってきて、自分の食うものも食わずに養っているのだが。
 それがこのごろでは、猫が十六匹、犬が十二匹という盛大ぶり。
 犬猫のお爺さんでとおっている、とんがり長屋の変り者だ。
「そっちは好きでやっていることだろうが、隣に住むあっしどもは災難だ。夜っぴて、ニャアンニャアンワンワン吠えくさって、餓鬼は虫をかぶる、産前のかかアは血の道をあげるという騒ぎだ。あっしゃアこの親爺のところへ、何度となくどなりこんだんだが……」
「わが家の中で、おれがかってなことをするに、手前(てめえ)にとやかく言われるいわれはねえ」
「何をッ! 汝(われ)が好きなことなら、人の迷惑になってもかまわねえと言うのかッ」
「マア、待て!」
 と泰軒先生は、大きな手をひろげて、二人をへだてながら、
「これは爺さんに、すこし遠慮してもらわなくッちゃならねえようだ。人間は近所合壁(きんじょがっぺき)、いっしょに住む。なア、いかに好きな道でも、度をはずしては……」
「泰軒先生ッ! 屑竹(くずたけ)の婆あが、お願いがあって参じました」
 お兼婆さんの大声が、土間口から――。

       四

「そら、見ろ!」
 と左官(さかん)の伝次が犬猫の爺さんをきめつけたとき、
「先生様ッ! ちょっと自宅(うち)へ来てくださいッ。竹の野郎が、また酔っぱらって来て」
 叫びながら、人をかきわけて飛びこんできたお兼婆さん、いきなり泰軒先生の手をとって、遮二無二(しゃにむに)引きたてた。
 大は、まず小より始める。
 富士の山も、ふもとの一歩から登りはじめる……という言葉がある。
 日本の世直しのためには、まずこの江戸の人心から改めねばならぬ。
 それには、第一に、この身辺のとんがり長屋の人気を、美しいものにしなければならない。
 と、そう思いたった泰軒先生。
 乞われるままに、長屋の人々の身の上相談にのっているうちに、いつしか、毎夜こうして、先生が居候(いそうろう)をきめこんでいるこの作爺さんの家には、とんがり長屋の連中が、煩悶、不平、争論の大小すべてを持ちこんできて、押すな押すなのにぎやかさ。
 嫁と姑の喧嘩から、旅立ちの相談、恋の悩み、金儲けの方法、良人(おっと)にすてられた女房の嘆き……いっさいがっさい。
 それをまた泰軒先生、片っぱしから道を説いて、解決してやるのだった。
 まるで、この人事相談が蒲生泰軒の職業のようになってしまったが、むろん代金をとるわけではない。
 だが。
 淳朴(じゅんぼく)な長屋の人達は、先生に御厄介をかけているというので、芋が煮えたといっては持ってくるし継(つ)ぎはぎだらけのどてらを仕立ててささげてくる者もあれば……早い話が、泰軒先生にはつきものの例の貧乏徳利(びんぼうどくり)だ。
 あれは、このごろちっとも空(から)になったことがない。
 と言って、先生が自分で銭を出して買うわけではないので。
 知らぬまに長屋の連中が、お礼心に、そっと酒をつめておいてくれる――。
 泰軒先生、このとんがり長屋に来て、はじめて美しい人情を味わい、世はまだ末ではない。ここに、新しい時代をつくりだす隠れた力があると、考えたのだった。
 近ごろでは、トンガリ長屋ばかりでなく、遠く聞き伝えてあちこちから、思いあぐんだ苦しみや、途方にくれた世路艱難(かんなん)の十字路、右せんか左せんかに迷って、とんがり長屋の王様泰軒先生のところへかつぎこんでくる。
 先生が来てから、長屋の風(ふう)は、一変したのだった。
 眼に見えるところだけでも、路地には、紙屑一つ散らばっていないようになり、どぶ板には、いつも箒(ほうき)の目に打ち水――以前の、大掃除のあとのようなとんがり長屋の景色からみると、まるで隔世の感がある。
 何かというと、眼に角たてた長屋の連中も、このごろでは、
「おはようございます」
「どうもよいお天気で――何か手前にできます御用があったら、どうかおっしゃってくださいまし」
 などと、挨拶しあうありさま。
 徳化。
 その泰軒先生、いま、お兼婆さんにグングン手を引っぱられて、屑竹(くずたけ)の住居へやってきた。

       五

「酒は飲むのもよいが、盃の中に、このお母(ふくろ)の顔を思い浮かべて飲むようにいたせ。いい若い者が、酒を飲むどころか、酒に飲まれてしもうて、その体(てい)たらくはなにごとじゃッ」
 先生の大喝に、屑竹はヒョックリ起きあがり、長半纏(ながばんてん)の裾で、ならべた膝をつつみこみ、ちぢみあがっている。
 もうこれでいいだろう……と、チラと母親へ微笑を投げた泰軒、
「ほんとに先生、御足労をおかけしまして、ありがとうございました。これで竹の野郎も、どうにか性根を取りもどすでしょう。どうもお世話さまで――」
 と言うお兼婆さんのくどくどした礼を背中に聞いて、出口へさしかかると、
「オヤ……?」
 と歩をとめて、先生、足もとの土間の隅をのぞきこんだ。
「なんじゃ、これは、茶壺ではないか」
 つぶやきつつ、手に取りあげ、灯にすかしてジッとみつめていたが、「ウーム」と泰軒、うなりだした。
「ううむ、きたない壺だな。こんなきたない壺が、このとんがり長屋にあっては、長屋の不名誉じゃ。イヤ、眼ざわりになる。じつにどうも、古いきたない壺だナ」
 と、変なことを言いながら、平然として、上り框(がまち)の屑竹をかえりみ、
「竹さん、貴公、どうしてこの壺を手にいれられたかな?」
 また叱られるのかと、屑竹はビクビクしながら、
「ヘエ、まったくどうも、こぎたねえ壺で、申しわけございません」
「イヤ、そうあやまらんでもよろしい。どこで、この壺をひろってこられたか」
「いえ、ひろってきたわけではないので。駒形の高麗屋敷の、とある横町を屑イ、屑イと流していますと、乙(おつ)な年増が、チョイト屑屋さん……」
「コレコレ、仮声(こわいろ)は抜きでよろしい」
「恐れ入ります。すると、その姐さんが、これはあまりきたねえ壺で、見ていても癪(しゃく)にさわってくるから、どうぞ屑屋さん、無代(ただ)で持って行っておくれと――」
「駒形の高麗屋敷?」
 と泰軒は、瞬間、真剣な顔で小首をひねったが、すぐ笑顔にもどり、
「イヤ、そうであろう。誰とても、このよごれた壺をながめておると、胸が悪くなる。こんな不潔な壺を長屋へ置くことはできん。竹さん、わしはこの壺をもらっていって、裏のどぶッ川へ捨てようと思うが、異存はないであろうな?」
「異存のなんのって、どうぞ先生、お持ちなすって、打ちこわすなり、すてるなり……ふてえ壺だ」
 と竹さん、母親のおかげで、泰軒先生に叱られたうっぷんを、土間の茶壺にもらしている。
「では、これなる不潔な壺、ひっくくってまいるぞ」
 泰軒先生は笑い声を残して、その壺を気味悪そうにさげながら屑竹の土間から一歩路地へふみ出たが。
 同時に、その表情(かお)は別人のように、緊張した。
 長屋の洩れ灯に、だいじそうにかかえた壺をうち見やりつつ、
「こけ猿よ、とうとう吾輩(わがはい)の手に来たナ。お前は知らずに、世にあらゆる災厄を流しておる。サ、もうどこへもやらんぞ、アハハハハハ」

       六

「わしは、日夜何者か見張りのついておるからだだ。今宵一夜といえども、この壺を手もとに置くことはできぬ。それに、待っておる者に渡して、はよう喜ばしてもやりたいし――」
 ひとりごちた泰軒は、壺をさげて作爺さんの家へもどりながら、とほうにくれたのである。
 というのは。
 誰にこの壺を持たしてやろう?
 作爺さんは、いつぞやの病気以来、足腰(あしこし)の立たない人間になってしまった。はって、家の中のことだけはできるけれど。
 とつおいつ思案して、路地をぶらぶら歩いてくるとたん。
 とんがり長屋の角に、一丁の夜駕籠がとまったかと思うと、
「代(だい)は今やる。ちょっと待ってくんねえ」
 例によって大人(おとな)びた幼声は、まぎれもないチョビ安。
 とんぼ頭を垂れからのぞかせて、駕籠を出るが早いか、眼ざとく路地の泰軒先生を見つけたとみえて、
「オウ、お美夜ちゃんとこの居候(いそうろう)じゃアねえか」
 バタバタかけよって、
「オイ、イソ的の小父(おじ)さん、駕籠賃をはらってくんな。酒代(さかて)もたんまりやってな」
 と呼吸(いき)をはずませている。
 泰軒先生は、星の輝く夜空を仰いで、わらった。
「ワッハッハ、子供か大人かわからねえやつ……貴様は、あの丹下左膳の小姓であったナ」
「ウム、その父上左膳のことで来たんだ。とにかく居候の小父ちゃん、銭を出して、あの駕籠屋をけえしてくんなよ」
 だが、それはむりで、泰軒先生にお金があれば、左膳に右手がある。
 しかし、血相を変えているチョビ安のようすが、ただごとでないので、泰軒先生の一声に応じ、長屋の誰かれが小銭を出しあって、チョビ安の駕籠賃をはらってやった。
 この駕籠は。
 チョビ安、さきごろからこのお美夜ちゃんの家にいる泰軒先生を思い出して、この場合、その助力を借りようと思いたつが早いか、あの司馬寮の焼け跡から、通りかかった辻駕籠をひろい、一散にとばしてきたもので。
 ふところに小石を入れてふくらまし、
「金はこのとおり、いくらでも持っている。酒代も惜しみはせぬぞヨ」
 などとチョビ安、例の調子で、ポンと胸をたたいたりして見せたものだから、子供一人の夜歩き、駕籠屋はたぶんにいぶかりながらも、ここまで乗せて来たのだった。
「それで小父ちゃん、おいらが、その、父上の落ちた穴のまわりにうろついていると、夜になって、町人やら百姓のかっこうをしたやつらが、鋤(すき)や鍬(くわ)を持ってやってきて、おいらを押しのけて、ドンドン穴を埋めようとするじゃアねえか。多勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)、あたいはスタコラ逃げ出して、駕寵でここへとんできたわけだが、もう穴は埋まったに相違ねえ。ねえ小父ちゃん。お前はとっても強い人だって、丹下の父上が始終(しじゅう)言っていたよ。どうぞ後生だから、おいらといっしょに現場へいって、父上を助けておくれでないか。よウ、よウ! 拝むから」
 小さな顔を真っ赤に、涙を流して頼むチョビ安を、じっと見おろしていた泰軒居士、
「ナニ? 左膳が生きうめに? それは惜しい。使いようによっては、使える男だ。よし! 心配するな。小父ちゃんが行って助けてやろう」

       七

 けれど、この壺である。
 こけ猿の茶壺を片手に、蒲生泰軒、考えこんでいると、それに眼をつけたチョビ安、頓狂声(とんきょうごえ)をあげて、
「ヤア、あたいと父上が、一生懸命にまもってきた壺。こないだ父(ちゃん)が、どこからか持ってきたのに、どうしてここにあるんだい」
「シッ! 大きな声を出すな。この壺は、それとは違う」
「イヤ、同じ壺だ。あたいには、ちゃんと見おぼえがあらア」
「これ、この壺のことをかれこれ申すなら、左膳を助けに行ってはやらぬぞ」
「アラ、チョビ安さんだわ。チョビさんだわ」
 声を聞きつけたお美夜ちゃんが、家から走り出て来て、
「安さん! あんた、まあ、よく帰ってきたわねえ」
「オウ、お美夜ちゃんか。会いたかった、見たかった」
 なんかとチョビ安、いっぱしのことを言って、お美夜ちゃんの手をとろうとすると、ハッと何事か思いついた泰軒先生、
「コラコラ、チョビ安とやら、ただいまはそんなことを言うておる場合ではあるまい。生きうめになった丹下左膳を助け出しに……」
「オウ、そうだ! お美夜ちゃん! いずれ、つもる話はあとでゆっくり――小父ちゃん! さあ、行こう」
「待て!」
 と泰軒先生、お美夜ちゃんのそばにしゃがみこんで、
「今夜はお美夜ちゃんにも、ひと役働いてもらわねばならぬ」
 と、何事か、そっとその耳にささやけば、お美夜ちゃんは、かわいい顔を緊張させて、しきりにうなずいていた。
 それからまもなくだった。
 二組の人影が、このとんがり長屋の路地口から左右にわかれて、漆(うるし)よりも濃い江戸の闇へ消えさったのだが……。
 その一つは、泰軒先生をうながして、一路穴埋めの現場(げんじょう)へいそぐチョビ安。
 もう一つの小さな影は。
 大きな風呂敷でこけ猿の茶壺をしっかと背負ったお美夜ちゃん、淋しい夜道に、身長(せい)ほどもある小田原提灯をブラブラさせて、一人とぼとぼ歩きに歩いた末。
 生まれてから、こんなに遠く家をはなれたことのないお美夜ちゃん。
 しかも、夜中。
 両側の家は、ピッタリ大戸をおろして、犬の遠吠えのみ、まっくらな風に乗ってくる。作爺さんは足がきかないので、お役にはたたず、朝まで待てない急な御用ときかされて、怖いのも、淋しいのも忘れたお美夜ちゃんは、背中にしょったこけ猿が、疲れた小さなからだに、だんだん重みを増してくるのをおぼえながら、いくつとなく辻々を曲がり、町々をへて、やがて来かかったのは桜田門(さくらだもん)の木戸。
 番所をかためている役人が、驚いて、
「コレコレ、小娘、貴様、寝ぼけたのではあるまいな。そんな物をしょってどこへ行く?」
 六尺棒を持ったもう一人が、そばから笑って、
「おおかた、引っ越しの手伝いの夢でも見たのであろう」
「いいえ!」
 とお美夜ちゃんは、ここが大事なところと、かわいい声をはりあげ、
「あたしね、南のお奉行様のお役宅(やくたく)へ行くんですの。とおしてくださいな」

       八

「オウイ、ガラッ熊! 鳶由(とびよし)ッ!」
 真夜中のトンガリ長屋に、大声が爆発した。
 声は、まるでトンネルをつっぱしるように、長屋のはしからはしへピーンとひびいてゆく。
 叫んだのは、この長屋の入口に巣をくって、口きき役を引き受けている石屋の金さん……石金(いしきん)さん。
 名前だけでも、えらく堅そうな人物。
 その堅いところが、このとんがり長屋の住民の信用をことごとく得て、まず、泰軒先生につぐ長屋の顔役なのだ。
 今。
 その石金さんが、あわてふためいて路地を飛び出して、こうどなったのだからたまらない。
 まるで兵営に起床喇叭(らっぱ)が鳴りひびいたように、ズラリとならぶ長屋の戸口に、一時に飛び出す顔、顔、顔。
 ガラッ熊は、まっ裸の上に印ばんてん一枚引っかけて。
 鳶由(とびよし)は、つんつるてんの襦袢(じゅばん)一まいのまま。
 そのほか、灰買いの三吉。
 でろりん祭文(さいもん)の半公(はんこう)。
 傘(かさ)はりの南部浪人(なんぶろうにん)、細野殿(ほそのどの)。
 寝間着(ねまき)の若い衆、寝ぼけ眼(まなこ)のおかみさん、おどろいた犬、猫まで飛び出して、長屋はにわかに非常時風景だ。
 寝入りばなを石金の濁声(だみごえ)に起こされて、一同、何が何やらわからない。
「相手は誰だ、相手はッ?」
「なんだい、お前さん、そんな薪(まき)ざっぽうなどを持ってサ」
「や! 喧嘩じゃあねえのか」
「半鐘(はんしょう)が鳴らねえじゃねえか。火事はどこだ」
「いや、火事でもない。喧嘩でもない」
 長屋の入口につっ立った石金は路地を埋める人々へ向かって、大声に、
「オウ、おめえら、このごろすこしでも、この長屋が住みよくなり、また、困ったことがありゃア、持ち込んで行けると思って安心していられるのは、いったいどなたのおかげだか、わかってるだろうな」
 路地いっぱいの長屋の連中、ガヤガヤして、
「泰軒先生だ」
 と、いう鳶由(とびよし)の声についで、
「そのとおり! 泰軒先生は、おれたちの恩人だ」
「泰軒先生あっての、トンガリ長屋だ」
 みな大声にわめく。
「そこでだ――」
 群衆へ向かって話しかける石金の足もとへ、心きいた誰かが、横合いの芥箱(ごみばこ)を引きずり出してきて、
「サア、これへ乗っておやりなせえ、声がよく通るだろう」
 石金はその芥箱のうえに立ちあがって、
「オイ、その大恩人の泰軒先生が、いま眼の色を変えて、向島のほうへすっとんでいらしった」
 と、演説をはじめた。
 期せずして、深夜の長屋会議の光景を呈(てい)している。
「この間まで、作爺さんの隣家(となり)に住んで、おれ達の仲間だったチョビ安が、先生を迎えに来たのだ。なにやらただならぬ出来事らしいことは、チラと見た先生の顔つきで、おらア察したんだ。先生と安の話から、渋江村(しぶえむら)の司馬寮(しばりょう)の焼け跡というのを小耳にはさんだが、そこに何ごとかあって、先生はとんでいったものとみえる。おめえらも、トンガリ長屋と江戸にきこえた連中なら、よもや先生を見殺しにゃアしめえナ」

       九

 真夜中の住民大会。
 塵埃箱(ごみばこ)の上に立ちあがった委員長石金さんの舌端(ぜったん)、まさに火を発して、
「おれたちがこうしていられるのも、泰軒先生のおかげだと思やあ、これから押しだしていって、先生に加勢をするのに、誰一人異存のある者はあるめえ」
 ワーッとわいた群衆の叫びのなかに、奇声で有名なガラッ熊のたんかがひびいて、「ヤイ、石金のもうろく親爺(おやじ)め、オタンチンのげじげじ野郎め、わらじの裏みてえなつらアしやがって、きいたふうのことをぬかすねえ」
 イヤどうも、こういう、字引にもない言葉を連発する段になると、ガラッ熊、得意の壇場(だんじょう)だ。
「エ、コウ、石金め、乙(おつ)うきいたふうな口をたたくぜ。異存のある者はあるめえたア、なんでえ。誰ひとり異存があっておたまり小法師(こぼし)があるもんか、なあおい、みんな……棒っ切れでも、心張棒(しんばりぼう)でもかついでって、先生に刃向かうやつらをたたきのめしてしめぇ」
「そうだ、そうだ! 泰軒先生に助太刀するのに、文句のあるやつがあるもんか」
「石金も気をつけてものを言うがいい」
「オーイ、みんな! このままで押しだせッ」
 ワッショイ、ワッショイ……まるでお神輿(みこし)をかつぐような騒ぎ。
「細野先生!」
 と誰かが、この長屋のひとりで、尾羽(おは)打(う)ち枯らして傘をはっている南部浪人(なんぶろうにん)へ呼びかけて、
「こういうときア、痩せても枯れてもお侍だ。竹光(たけみつ)でもいいから一つ威勢よく引っこぬいて、先に立っておくんなせえ」
「言うにやおよぶ。泰軒氏のためとあらば、拙者水火もいとい申さぬ。ソレおのおの方ッ!」
 なんかと、細野先生、継ぎはぎだらけの紋つきの尻をはしょって、一刀を前半にたばさみ、ドンドンかけだした。
「ソレ、先生におくれるな」
「なにも獲物(えもの)のねえやつは、かまわねえから、相手の咽喉(のど)ッ首へくらいついてやれ」
「オイ、八百屋(やおや)の初(はつ)さん、そんなおめえ、天秤棒(てんびんぼう)などかつぎだして、どうしようってんだ」
「なあにね、これで相手の脛(すね)をかっさらってやりまさあ」
「オーオー、糊(のり)屋の婆さん、戦場に婆さんは足手まといだ。おめえはまア、家に引っこんでいなせえよ」
「何を言ってるんだよ。うちの次男坊の根性を入れかえて、悪所(あくしょ)通いをやめさせてくだすったのは、どなただと思う。みんな泰軒先生じゃないか。その先生の一大事に、婆あだって引っこんでいられますか。これだって、石の一つぐらいほうれらアね。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)南無阿弥陀仏」
 とんがり長屋の一同、どっと一団になって押しだしました。
 下帯一つにむこう鉢巻のもの、尻切れ半纏(はんてん)に鳶口(とびぐち)をひっかつぐやら、あわてて十能を持ち出したものなど。
 思い思いの武器。
 文字どおりの百鬼夜行……。
「泰軒先生を助けろ!」
「チョビ安を救え!」
 深夜の町を、このわめき声が、はるか向島のほうへとスッ飛んでゆく。
 石金、ガラッ熊、鳶由(とびよし)、細野浪人、この四天王格。先頭にたって。
 たいへんな助勢。

       十

「それでは、われらは、この源三郎身がわりの焼死体と、偽のこけ猿の焦げた壺を守って、お蓮の方ともども、これよりただちに道場へ引っ返し、源三郎の死んだことと、こけ猿の壺なるもののもう世の中からなくなったことを、すぐにも発表する手はずだから、よいか、その方(ほう)どもは一刻を争い、このおとし穴を埋めてしまえ。手ぬかりのないようにいたせよ」
 戸板にのせ、白布でおおった身がわりの死骸と。
 真っ黒に焼けた、にせのこけ猿と。
 この二つを先にたてた峰丹波の一行。
 お蓮様を中に、さながら葬式の行列よろしく、闇をふくんで粛々(しゅくしゅく)と寮の焼け跡へさしかかった。
 月のない夜は、ふむ影もない。
 つい一昼夜前まで、このあたりにめずらしい、数寄(すき)をこらした寮の建物のあったあたり、焼け木が横たわり、水と灰によごれた畳、建具がちらばり……まだ焼け跡の整理もついていない。
 何一つ落ちてもいないのに、食をあさる痩せ犬も、ものさびしい。
 行列の殿(しんがり)をおさえて行く峰丹波ガッシリしたからだをそこで立ちどまらせて、穴埋めの役割の連中へ、そう最後の命令をくだした。
 町人体、百姓風に扮した道場の弟子ども、いま、手に手に小屋にあった農具を持って、葬列を見送りかたがた、ここまでいっしょに来たところだ。
 別れるのだ、ここで。
 丹波とお蓮様は、悲しみの顔をつくって、殊勝(しゅしょう)げに、これからショボショボと妻恋坂へ。
 残る穴埋め係の中から、宰領格(さいりょうかく)の結城左京(ゆうきさきょう)が進み出て、
「御師範代、御心配無用」
 と丹波へ笑いかけ、
「これからすぐに埋めにかかれば、ナニ、さほどの仕事ではござりません。たちまちのうちにふさぎ得ましょうほどに、一刻ばかりの後には、途中で追いつくでございましょう」
「ウム、いそいでやってくれ。水はもう、だいぶ穴へたまっていることであろうな」
「むろん、すでに水浸しでござろう。この三方子川(さんぼうしがわ)の川底から、細き穴をうがち、はじめは点々と水のしたたるように仕組みおきましたが、その穴がだんだん大きくなり、ドッと水が落ちこんだにきまっています。今ごろは土左衛門が二つ、この地の底に……はっはっは」
「そこをまた土葬にするのじゃ。これでは、いかな伊賀の暴れン坊も、またかの丹下左膳といえども、二つの命がないかぎり、二度とわれらの面前に立つことはなかろう。いや、これで仕事はできあがったというものじゃ。では、われら一足先へまいるからナ」
 言葉を残して、丹波の一行はそのまま、さながら悲しみの行列のように、底深い夜の道へと消えて行く。
 お蓮様のみは、これでいよいよ源三郎が地底の鬼となるのかと思うと、さすがに、心乱れるようすで、
「今となって、源様を助けようとも思わなければ、また、もう手遅れにきまっているけれど、せめては、水につかった死骸なりと引きあげて、回向(えこう)を手向(たむ)け、菩提(ぼだい)をとむらうことにしたら……」
 その声を消そうと、峰丹波は大声に、
「御後室様、おみ足がお疲れではございませぬか。サア、出発、出発!」
 と、さけんだ。

       十一

 お蓮さまはそれでも、後ろ髪を引かれる思い。
「源様ッ!――源三郎さまッ!」
 胸をしぼるような最後のひと声。
 かけもどって、おとし穴をのぞこうとするお蓮様に、きっと眼くばせして丹波が下知。ほとんど手取り足取りにかつがんばかり……。
 前後左右からお蓮様をとりかこんで、行列は、歩をおこして去った。
 あとには、穴埋め役の一同。
 生あたたかい風の吹く深夜の焼け跡に同勢七、八人、あんまり気持よからぬ顔を見あわせて、
「穴の底におぼれてるやつを、土で埋ずめりゃア、これほど確かな墓はねえ。目印に、捨て石の一つもおっ立てておいてやるんだな」
「後年、無縁仏(むえんぼとけ)となって、源三郎塚……とでも名がつくであろうよ」
 しめった夜気に首をすくめて、誰かが大きなくさめ。
「ハアックショイ! そろそろ始めようではござらぬか」
「フン、気のきかねえ役割だ。こんな仕事は、早くすませるにかぎる」
「しかしなア、なるほど穴は、細いものにすぎぬが、下へいって、かなり大きな部屋に掘りひろげてあるというではないか。そこまで埋めるとなると、七人や八人では、朝までかかっても追いつくまい」
「そうだ、最初に、大きな石の二つ三つもころがしこんで、穴の途中をふさぎ、その上から土をかぶせればよいではないか」
 それは思いつきだとばかり、結城左京(ゆうきさきょう)をはじめ二、三人が、手ごろの石を見つけにあたりの闇へ散らばって行く。
 ほかのやつらは、鋤(すき)や鍬(くわ)をかついで、おとし穴のふちへ集まってきた。
 左膳のおちこんだときのまま、張り渡してあった、うすい焼け板が、割れ飛んでいる。
 穴の底は、一段と闇が濃く、気のせいか、轟々と水音のこもって聞こえるのは、いよいよ三方子川の底が抜けて、地下室全体、水部屋になっているのか……。
 もう、左膳も源三郎も、ふくれあがった二個の溺死体に相違ない。水に押しあげられ、土の天井にはさまれて、いかに苦しい死を……そう思うと一同、さすがに、あんまりいい気持はしないので。
 穴の中からは、うめき声ひとつあがってきません。
 濁水をのむ墓。
 チョビ安の姿も、すでに付近に見えない。人っ子ひとりいないので安心しきった七、八人、すぐ仕事にとりかかればいいのに――。
 今のいままで、物置小屋でさんざん飲んできた祝い酒。
 それが戸外(そと)へ出て、ドッと夜風に吹かれると同時に、一度に発した酔い。
「マア、そうせくこともあるまい」
 ひとりの言葉をいいことに、みんな穴のまわりにすわりこんでしまった。そして、足で土くれを落としてみながら、気味わるそうにだまりこくっている。
 石をさがしに行った結城左京ら二、三人は、近くの暗中をウロウロしているらしく、帰ってくるようすもない。
「結城どの、石はあったかナ?」
 穴のふちから、たれかがきいた。と、
「石でふさがず、貴様らのからだでふさげばよい」
 うしろで、暗黒(やみ)が答えた。

       十二

 石で穴を埋めるかわりに、貴様たちのからだで埋めるから、そう思え……。
 太い濁声(だみごえ)が、闇からわいて!……。
 ギョッとしてとびのいた、穴のまわりの連中、暗黒をすかしておよび腰だ。
「お、おい、結城殿(ゆうきどの)、左京殿(さきょうどの)。何を冗談を言うのだ――」
 最初は、ほんとに、石をさがしにいった結城左京が、こっそり帰ってきて、ふざけているのだと思ったので。
「いいかげんうすッ気味のわるい役目を引き受けて、おっかなびっくりのところだ。おどかしっこなしにしようぞ」
 そんなことを言いながら、ふと思ったことは。
 どうも、声がちがう……?
 そのとたんに、
「ウフフフフフ、だいぶ胆をひやしたようじゃが、その調子では、墓埋めなどというすごい仕事はつとまるまいテ、わっはっはっは」
 また大声が、眼の前に爆発して、暗黒が凝(こ)ったかと見える一塊(かい)の人影が、ノッソリ立ち現われた。
 それでも。
 穴のまわりのやつらは、まさかここへじゃま者が飛びこんでこようとは考えないから、あくまでも、仲間のひとりと思いこんで、
「石があったかと、きいているんだ」
「さっさと埋ずめて、引きあげようではござらぬか、結城氏(ゆうきうじ)」
 口々につぶやきながら、こわそうに二、三歩ずつ後ずさり。
 だが。
 結城左京にしては、チトからだが大きい。
 かれ左京、突然妙な服装(なり)をしてここにもどってきたのか――。
 この拍子に、暗がりで何も見えない彼らも、一時に合点がいったというのは。
 眼前の大きな黒法師の横から、子供の声がして、
「居候の小父ちゃん、この穴だよ、父上が落ちこんだのは! 早くこいつらを追っぱらって助けてちょうだいよ。ねえ、イソ的の小父ちゃん!」
「ヤヤッ! この子ッ?」
「ウム! 宵の口まで、この穴のまわりをうろつき、父上(ちゃん)、父上(ちちうえ)! と左膳を呼ばわっていたかの少年!」
 異口同音にさけんで、穴埋め組は、一度に鋤(すき)、鍬(くわ)などをふりかぶって身がまえた。
 黒い影の足もとから、小さな影が走り出て、おとし穴のふちへかけ寄り、
「父(ちゃん)! 父上! ヨウ! まだ生きているの?」
「オーイ、結城殿ゥ!」
 一同は、頭のてっぺんから出るような声で、しきりに仲間を呼び集める。
「石などは、もうどうでもよい。じゃまがはいった! こっちから先に片づけねば……」
「何イ? じゃまが?」
 あちこちの暗黒に声がして、散らばっていた結城ら二、三人が、あたふたこっちへ来るようす。
 泰軒先生はどうするかと思うと、この危機におよんでも手から離さず、トンガリ長屋から飛んでくる間ぶらさげてきた、例の一升徳利をかたむけて、グビリとひと口、飲んだものだ。まず、勢いをつけて……というわけ。
「こいつらア! あの丹下左膳てえ隻眼隻腕の化け物は、なるほど世の中に役にたたぬ代物じゃが、しかし、農工商をいじめながら徳川におべっかをつかう武士という連中にあいそをつかし、世を白眼視しておる点で、吾輩(わがはい)と一脈相通ずるところのある愉快なやつじゃ。それをなんぞや! 腕でかなわず、この奸計(かんけい)におとし入るるとは、卑怯千万……!」

       十三

 武器を持っていないのが、一期(ご)の不覚だった。
 刀を帯しているのは、結城左京(ゆうきさきょう)ほか、二、三人だけ。
 他の連中は、商人や百姓に扮(ふん)したまま、穴埋めに出て来たのだから、納屋にころがっていた鍬(くわ)や鋤(すき)をひっかついでいる……これでは、いまここへ現われた異様な人物に、対抗のしようがない。
 物置小屋へひっかえして、両刀を取ってくる――一同の頭にひらめいたのは、このことだった。
 合惣(がっそう)を肩までたらし、むしろのような素袷(すあわせ)に尻切れ草履(ぞうり)。貧乏徳利をぶらさげて、闇につっ立っている泰軒先生――……これを泰軒先生とは知らないから、司馬道場の連中は、めっぽう気が強い。
 結城左京が一歩進み出て、
「われらは、火事に焼けた当家の者、あと片づけに来たまでのことです。どなたか存ぜぬが、何やら言いがかりをつけられるとは、近ごろもって迷惑至極――」
「夜中(やちゅう)をえらんで焼け跡の整理とは、聞こえぬ話だ。穴でも埋める仕事があるなら、わしも手つだってやろうかと思ってナ」
 左京は、つと仲間をふり返って、
「こいつはおれが引きうけた。かまわぬから、すぐ埋めにかかれ」
「小父ちゃん、居候の小父ちゃん! 早くお父上を引き出しておくれよ。両手があってもはいあがれないのに、片手じゃアどうすることもできねえだろう。もう死んだかもしれないねえ、小父ちゃん」
 穴のまわりに立ちさわぐチョビ安をめがけて、鋤や鍬が殺到した。
「えいッ、小僧、そこのけッ!」
 その一人の横顔へ、やにわに振りまわした泰軒先生の一升徳利が、グワン! と当たって、
「オッ! なんだか知らぬが、ばかにかたい、大きな拳固だぞ」
 打たれたやつは、頭をかかえてよろめきながら、感心している。
 泰軒先生に斬りつけて、みごとにかわされた結城左京(ゆうきさきょう)は、さすがに十方不知火(じっぽうしらぬい)流の使い手、瞬間に、これは容易ならぬ相手と見破りました。
「ヤ! おれ一人では手におえぬ。おのおの方、刀を! 刀を!――」
 一同は鋤や鍬をそこへ投げすてて、もと来た森かげの物置小屋へ、一散走りに引っ返してゆく。
 みなが来るまで、なんとかしてこの場をつなごうと、左京が泰軒へ白刃をつきつけて、静かな構えにはいろうとしたとき!
 嵐のような多人数の跫音(あしおと)が、地をとどろかしてこっちへ飛んでくる。
 驚いたのは、左京だけではなかった。泰軒もチョビ安も、闇をすかして振りかえると、
「先生ッ、先生イッ!」
 ガラッ熊の声だ。
「トンガリ長屋が、総出で助太刀にめえりやした」
 おどりあがったチョビ安、
「ヤア、石金の小父ちゃんだ! 鳶由(とびよし)の兄(あん)ちゃんだ! ああ、長屋の細野先生もいる」
「いかがなされました、泰軒先生」
「イヤ、これはおれが引きうけたから、早くその穴を掘りかえして――」
 泰軒先生、さっき左京の言ったのと、同じ言葉をくりかえす。それをチョビ安が、いそいで説明して、
「オウイ、長屋の衆、この穴の中に、あっしのお父上が埋ずまっているんだよ。そこらに、鍬や鋤がほうってあるだろう。オウ、みんな手を貸してくんな!」

       十四

 それは、世にもふしぎな光景だった。
 浅草(あさくさ)竜泉寺(りゅうせんじ)の横町からかけつけた、トンガリ長屋の住民ども、破れ半纏(はんてん)のお爺さんやら、まっ裸の上に火消しの刺子(さしこ)をはおった、いなせな若い者や、ねんねこ半纏で赤ん坊をしょったおかみさん、よれよれ寝間着の裾をはしょったお婆さん――まるで米騒動だ。てんでに、そこらに散らばっていた鍬(くわ)や鋤(すき)をひろいあげて、一気に穽(あな)を掘りひろげはじめた。
「この下に、あたいのお父上が埋まっているんだよ。早く、早く!」
 と、チョビ安は、穴のまわりをおどりあがって、狂いさけぶ。
 チョビ安の父?
 と聞いて、長屋の人達は、びっくりした。
 以前チョビ安は、このこけ猿騒動にまきこまれる前までは、やはり、とんがり長屋に巣を食って、夏は心太(ところてん)、冬は甘酒(あまざけ)の呼び売りをしていたのだから、その身の上は、長屋の連中がみんな知っている――。
 あたいの父(ちゃん)はどこへ行った……あの唄も、みなの耳に胝(たこ)ができるほど、朝晩聞かされたもので、このチョビ安には、父も母もないはず。
 遠い伊賀の国の出生とだけで、そのわからぬ父母をたずねて、こうして江戸へ出て、幼い身空で苦労していると聞いたチョビ安。
 その、チョビ安の父親(てておや)が、この穴の下に埋められているというんだから、とんがり長屋の人々は、驚きのつぎに、ワアーッと歓声をあげました。
「オイ、安公の親父(おやじ)が見つかったんだとよ」
「ソレッ! チョビ安のおやじを助けろッ!」
 貧しい人たちほど、涙ぐましいくらい、同情心が深いものです。
 人の身の上が、ただちに自分の身の上なのだ。トンガリ長屋の連中は、もう一生懸命。男も女も、全身の力を腕へこめて穴を掘ってゆく。
 ふだんはめっぽう喧嘩っぱやい、とんがり長屋の住人だが、この美しい人情の発露には、チョビ安も泣かされてしまいました。
「ありがてえなア。おいらの恩人は、この長屋の人たちだ。いつか恩げえしをしてえものだなあ……――」
 うれし涙をはらって、チョビ安、ひとり言。
 穴の周囲は、戦場のようなさわぎです。糊屋(のりや)のお婆さんまで、棒きれをひろってきて、土をほじくっている。これは助けになるよりも、じゃまになるようだが……――うしろのほうで突然、トンツク、トンツクと団扇太鼓(うちわだいこ)が鳴りだしたのは、法華宗(ほっけっしゅう)にこって、かたときもそれを手ばなさないお煎餅屋(せんべいや)のおかみさんが、ここへもそれを持ってきて、やにわにたたきはじめたのだ。士気を鼓舞すべく……また、南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)の法力を借りて、この穴埋めの御難を乗りきるべく――。
とんつく、とんつく!
とんとん、つくつく……!
 イヤ、お会式(えしき)のようなにぎやかさ。
 指揮をしているのは、例の石金のおやじと、南部御浪人(なんぶごろうにん)細野先生だ。
 ガラッ熊、鳶由(とびよし)、左官(さかん)の伝次――この三人の働きが、いちばんめざましい。鍬をふるい、つるはしを振りかぶり、鋤を打ちこんで、穴は、見るまに大きく掘りさげられてゆく。
 一同泥だらけになって、必死のたたかいだ。おんな子供は、その掘りだした石や土を、そばから横へはこんでゆく――深夜の土木工事。
 泰軒先生は?
 と見ると、やってる、やってる!
 むこうで、結城左京(ゆうきさきょう)をはじめ、刀を取って引っかえしてきた不知火流の七、八人を相手に、
「李白(りはく)一斗(いっと)詩(し)百篇(ひゃっぺん)――か。ううい!」
 酒臭い息をはきながら、たちまわりのまっ最中。

       十五

「李白一斗詩百篇、自(みずか)ら称(しょう)す臣(しん)はこれ酒中(しゅちゅう)の仙(せん)」
 泰軒先生、おちつきはらったものです。
 思い出したように、この、杜甫(とほ)の酒中八仙歌の一節を、朗々吟じながら――。
 棟の焼けおちた大きな丸太を、ブンブン振りまわして、だれもそばへよれない。
 のんだくれで、のんき者で、しようのない泰軒先生、実は、自源流(じげんりゅう)の奥義(おうぎ)をきわめた、こうした武芸者の一面もあるんです。
 トンガリ長屋の人たちは、この泰軒先生のかくし芸を眼(ま)のあたりに見て、ちょっと穴を掘る手を休め、
「丸太のような腕に、丸太ン棒を振りまわされちゃア、近よれねえのもむりはねえ」
「ざまアみやがれ、侍ども!」
「オウ、感心してねえで、穴掘りをいそいだ、いそいだ」
 不知火(しらぬい)の連中は、気が気ではない。泰軒一人でも持てあましぎみだったところへ、文字どおり百鬼夜行の姿をした長屋の一団が、まるで闇からわいたようにとびだしてきて、見る間に穴を掘りだしたのだから、結城左京らのあわてようッたらありません。
 それはそうでしょう。
 この穴を掘りさげていけば、柳生源三郎と、丹下左膳がとび出す。
 猫を紙袋(かんぶくろ)におしこんで、押入れにほうりこんであるからこそ、鼠どもも、外でちっとは大きな顔ができるようなものの……。
 その鋭い爪をもった猫が、しかも二匹、いまにも袋をやぶり、押入れからとび出すかもしれないのだ。
 それも、死骸であってくれれば、なんのことはないが――。
 水におぼれて、もう死んでいるには相違ないけれど……伊賀の暴れん坊と不死身の左膳のことだ、ことによると……。
 ことによると。
 まだ生きているかもしれない――。
「こいつひとりにかまってはおられぬ」
 と左京は大声に、
「早く! 早く穴のほうへまわって、あの下民(げみん)どもを追っぱらってしまえ」
 声に応じて、刀をふりかざした二、三人が、穴のまわりに働く長屋の連中のなかへ斬りこもうとするのだが――。
 ドッコイ!
 泰軒先生の丸太ン棒が、行く手ゆく手にじゃまをして、どうしても穴のそばへ行くことができない。
「筑紫の不知火も、さまで光らぬものじゃのう」
 泰軒先生の哄笑が、長く尾をひいて闇に消えたとき! 
 必死に穴を掘っていた群れに、突如、大声が起こって、
「ヤア! 水だ、水だ!」
「水脈(すいみゃく)を掘りあてたぞ!」
 それじゃアまるで井戸掘りだ……しかし、冗談ではない。しばらく掘りひろげた穴から、コンコンと水が盛れあがってくるではないか。
「こりゃいけねえ。この穴は、きっと三方子川(さんぼうしがわ)の川底につながっているに相違ねえ」
 もう、鍬(くわ)や鋤(すき)ではどうすることもできない。
 一同は思案にくれてしまった。
 水は、さながら噴水のようにわきあがってくる。
「お父上! お父上! 水の力で浮きあがってこられないの? お父上!」
 チョビ安はもう半狂乱。
「オウ、野郎ども! 三尺をとけ。下帯も――」
 なかば水音に消されながら、石金さんの胴間声(どうまごえ)がひびいた。

       十六

 穴の中から水がわき出たと聞いて、きもをつぶしたのは、結城左京の一派です。もういけない……! これ以上ここにまごまごしていたら、自分たちの身があやうい。
「だめだッ! 引きあげよう」
 ナニ、引きあげるんじゃアない。逃げるんだ。
「もうこうなったら、先へ行った峰丹波殿(みねたんばどの)の一行に追いついて、助勢を借りるよりほかみちはない」
 ささやきかわして不知火のやつらは、サッと刀を引くが早いか、一目散に闇の奥へ消え去った。源三郎と左膳が、生きているか死んでいるか、それを見きわめるひまもなく。
 泰軒先生は、丸太を投げすてて穴のふちへとんできながら、
「ナニ、水がわいたと」
「ハイ、このとおりです」
 なるほど、夜目にはハッキリと見えないが、泥をとかした真ッ赤な濁水が、まるで坊主頭(ぼうずあたま)がかさなるように、ムクムクわきあがってきて、穴は、もういっぱいの水。
 アレヨアレヨと言うまにあふれあふれて、まわりに立つ人々の足を没せんばかりの勢い……。
「ふしぎなこともあるものだ。これでチョビ安の父親(てておや)も、もはや命はあるめえ」
「居候の小父ちゃん、なんとかしてお父上を助けてよ。あたい、この水の中にもぐろうか」
「馬鹿言え。下から噴き上げる水へもぐっていくのは、よほど泳ぎの達者な者でも、むずかしいとされている」
 言いながら、泰軒先生が見まわすと。
 例の指揮者の石金です。帯をといているんだ。
 帯といっても三尺……そのよれよれの三尺をといた石金、大声をはりあげて、
「ヤイ、みんな、帯をとけ」
 長屋の連中のことだから、算盤(そろばん)絞りかなにかの白木綿の三尺――一同それをといて、つなぎ合わせてみたところで、長さはしれている。
「これじゃアしょうがねえ。下帯をときな」
 江戸っ子がそろっているから、いくら貧乏人でも、腹巻きや下帯は、切りたての晒(さら)し木綿のりゅうとしたのを身につけている。
 それをつなぎ合わせましたから、ここに長い一本の綱ができた。
 即製の、いのち綱。
「さぐりを入れるんだ。先に、何か引っかけるものをつけなくっちゃアならねえ」
 もう、足を洗うぬかるみの中に立って、一同は死にもの狂いの働きだ。
 誰かが、焼け跡から桶(おけ)のたがを見つけてきた。それを、そのつないだ帯のさきに結びつけたが、これだけでは、水のなかへ沈んでいかない。
「重りをつけろ」
 というので、そのまたたがへ、てごろの石をゆわいつけた。
 このふしぎな命綱を、静かに穴の水中へおろしてやるのだ。あせる心をおさえつつ。
 へんな夜釣りがはじまった。
「手ごたえはねえか」
 地引き網のように、五、六人で綱のはしを持ってたぐりおろしてゆくと、しばらくして、
「ウム、重くなったぞ! 何か引っかかった」
 ソレ、あげろ、引きあげろ……と言うんで、勢いこんで、ひっぱりあげてみると、何と! 大きな岩が桶のたがにひっかかっている。
 水は、いたずらにムクムクとわき出るだけ、……丹下左膳も、柳生源三郎も、影も形もあらばこそ――。

   人間(にんげん)の港(みなと)


       一

「殿――」
 伊吹大作の声だ。
 桜田門外の、南町奉行大岡越前守の役宅は、奥の書院に、まだポーッと灯がにじんで……。
 越前守様は、まだ起きていらっしゃるらしい。
 黒塗り絵散らしの文机に向かわれて、燭台を引きよせ、何やら読書をしていらっしゃる。
 書物をめくる、ひそやかな音。
 毎夜のようなお調べものなんです。
「大作か。なんです」
 下(しも)ぶくれの、柔和な越前守の笑顔が、次の間のふすまのほうへ、
「其方(そち)、まだ起きておったのか。かまわず先にやすめと申したに。ははははは、わしのつきあいはできぬであろう」
 忠相(ただすけ)は笑うと、キチンとそろえた小肥(こぶと)りの膝が、こまかくゆれる。それにつれて、かたわらの燭台も微動する。灯がチラついて、小さな影が散る――。
 ふすまの引き手の房(ふさ)が、ゆらりとゆれた。細目にあいた隙(すき)から、次の間の伊吹大作の顔が現われて、
「お精が出ますことで……申しあげます。ただいま、木戸にひっかかりましたとやらで、七、八つばかりの女の子が、重内、作三郎らに引ったてられてまいりましたが――」
 忠相の眼は、いつも義眼のように無表情なのだ。何事があっても、けっして感情をあらわさない眼……そうであろう、この人間の港、大江戸の水先案内ともいうべき奉行職を勤めることは、かれ忠相、人間として修行することであった。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、すべてこれ道場である。そう自らを練ってきているうちに、かれの眼は、びいどろ細工のように、外の物は映しても、内のものは現わさなくなった。おそろしい眼だ。あの天一坊(てんいちぼう)も、この、またたきもしない眼に看破(みやぶ)られたのである。
 いま、その眼をじっと大作にすえて、
「ナニ、女の子だと?」
「ハイ、それが、この夜ふけに一人歩いておりますので、不審を打ち、木戸へさしかかりましたところを、取り押えましたところが、奇怪にも、殿にお眼通りを願ってやまぬと申すことで、重内も作三郎も、ホトホトもてあまし、とにかく用人部屋まで連れてまいっておりますが」
「余に会いたい?」
「はあ、ただ、お奉行様にお目にかかるんだと申すだけで、あとは何をきいても、シクシク泣いております」
 ちょっと考えていた忠相は、
「どんな娘じゃ」
「貧乏な町家の娘(こ)で――何やら大きな箱を背負っております。壺だとか申すことで」
「壺じゃと?」
 あわてたことのない忠相の声に、ちょっとあわただしいものが走ったが、それは瞬間、すぐもとの、深夜の静海のような顔にかえって、
「なぜ早くそれを言わぬ」
「はア?」
「イヤ、なぜ早く壺のことを言わぬと申すのじゃ。庭へまわせ」
 大作は意外な面持(おもも)ち、
「では、あの、御自身お会いになりますので?」
「庭へまわせというに」
 くりかえした忠相(ただすけ)は、さがっていく大作の跫音を、背中に聞きながら、
「泰軒の使いじゃな」
 と、つぶやいたまま、もうそのことは忘れたように、ふたたび、卓上の書物へ眼をおとしていると、
 広縁のそとの庭先に、二、三人の跫音がからんで、
「殿、連れてまいりましたが――」
 大作の声とともに、すすりあげる女の子の泣き声。

       二

 もう、死んだ気のお美夜ちゃんだった。
 泰軒先生の言いつけだし、大好きなチョビ安兄ちゃんのためだとある――
 この重い壺の箱をしょって、遠い桜田門とやらの、こわいお奉行様のお宅まで行くように……と言われたとき、お美夜ちゃんは恐ろしさにふるえあがってしまった。
 ほんとに、どうしたらいいだろうと、作爺さんに相談してみたところが、そりゃあお前、どんなことをしても行かなくっちゃアならない。泰軒小父ちゃんと、チョビ安兄ちゃんのために――。
「泰軒小父ちゃんと、あのチョビ安兄ちゃんのためだもの」
 後ろには、自分の背(せい)ほどもある、重い重い壺の箱をしょい、前には、これもやはり自分の背ほどもある小田原提灯をぶらさげたお美夜ちゃんが、深夜の町を、一人トボトボ歩きながら、たえず、呪文のように口の中にくりかえしたのは、この言葉だった。泰軒小父ちゃんと、チョビ安兄ちゃんのため……。
 そうすると、小さなお美夜ちゃんに、ふしぎに、大きな力がわくのだった。
 物心ついてから、竜泉寺(りゅうせんじ)のとんがり長屋しか知らないお美夜ちゃん。
 桜田門なんて、まるで唐天竺(からてんじく)のような気がする。
 何百里あるのかしら。
 何千里あるのかしら。
 江戸に、こんな静かなところがあろうとは、お美夜ちゃんは、今まで知らなかった。まるで死のような町。
 白壁の塀が、とても長くつづいていたり、その中からのぞいている銀杏(いちょう)の樹を、お化けではないかと思ったり、按摩(あんま)師の笛が通ったり、夜泣きうどんと道連れになったり――。
 人にきききき、やっとのことで桜田門という辺まで来てみると、まっ暗な中に大きなお屋敷がズラリと並んでいて、とほうにくれたお美夜ちゃんの前に、このとき、左右から六尺棒をつき出して、
「コラッ、小娘、どこへゆく」
 と、誰何(すいか)したのが、越前守手付きの作三郎、重内の二人、不審訊問というやつだ。
 お美夜ちゃんはわるびれない。
「あたいね、南のお奉行様のところへ行くんだけど、小父(おじ)ちゃん、お奉行様のお家(うち)知らない?」
「なんと御同役、お聞きなされたか。あきれたものではござらぬか。ヤイヤイ、小娘、ここが、そのお奉行様のお屋敷だが……」
「ナラ、どっちの小父ちゃんがお奉行様? この人? この人?」
「イヤ、これはどうも恐れいった。お奉行様が小倉の袴の股立ちをとって、六尺棒を斜(しゃ)にかまえて、夜風に吹かれて立ってるかッてンだ。相当奇抜(きばつ)な娘だナ、こいつは」
 取りつく島がなくなって、両手を眼に、メソメソ泣き出したお美夜ちゃんだった。
 重内も作三郎も、弱りぬいたあげく、用人部屋へ引っぱってきて、伊吹大作にまでその旨(むね)を通じたというわけ。
 この壺を取られてはならないと思うから、お美夜ちゃんはもう一生懸命、両手でしっかり箱をかかえて泣きながら、その泣く合間合間(あいまあいま)に、あちこち見まわしたり、ちょっとキョトンとしたり、それからまた、急に声をはりあげたりして、畳のかたい用人部屋に待たされていると、
「コレコレ、お奉行様がお会いになるという。果報(かほう)なやつだ。こっちへ来い」
 大作、重内、作三郎の三人にとりかこまれたお美夜ちゃん、
「あたい、とうとう罪人になったの?」
 お爺ちゃんにまた会えるかしら……などと情けない思い、飛び石につまずきつまずき、広いお庭の奥へ――

       三

 縁の高い書院(しょいん)造りの部屋が、眼の前にある。
 その明るい障子が、静かに中からあいて、デップリした人影が現われたのを見たとき、庭の沓脱(くつぬ)ぎの下にすわっているお美夜ちゃんは小さなからだが、ガタガタふるえだした。
 押しこみをおさえたり、人殺しをつかまえたり……お奉行さんなんてどんなにこわい小父ちゃんだろう!
 が。
 そのとたんに。
 お美夜ちゃんの聞いた声は、ビックリするほどやさしい、親しみぶかいものであった。
「そちら三人は、さがっておるがよい」
 お美夜ちゃんをとりまいていた大作、重内、作三郎の三人は、跫音もなく庭の闇へ消えこんでゆく。
 意地のわるい三人のお武家さん――と思っていたものの、サテ、こうしてひとり取り残されて、お奉行様と相対(あいたい)になってみると、恐ろしさから、その三人が急に恋しくなって、
「小父ちゃんたち、行っちゃアいや、ここにいて!」
 とお美夜ちゃん、泣き声をはなってあとを追おうとする。
 しずかな含み笑いが、お広縁の上から。
「コレ、何もこわがることはない。この縁側へ腰をかけて、わしに、その壺というのを見せてくれぬか」
 灯をしょった顔を振りあおいで見ると、眼尻に長いしわをきざんだ、柔和な笑顔……ほんとに、これが南のお奉行様かしら?
 と、お美夜ちゃんはあやしみながら、
「あのね、あたいね、浅草のとんがり長屋から来たの」
 と、一度安心すると、子供だけにもう人見しりをしないので。
 壺をかかえて、越前守と並んで、縁側にこしかけたお美夜ちゃんに、障子をとおしてほのかな燭台の灯が踊る。
 忠相はにこやかに、片手で壺の風呂敷をときながら、
「ウム、そのトンガリ長屋なら、おまえをここへ使いによこした人は蒲生泰軒(がもうたいけん)……泰軒小父ちゃんであろう」
「うん、よく知ってるね、この壺をお奉行様に、お渡しするようにって――」
「おお、よしよし」
 忠相はお美夜ちゃんの頭をなでて、
「よくこの夜中に、ひとりでお使いにこられたな」
 言いつつ、パラリと風呂敷をとき、桐箱の紐をほどき、箱の蓋(ふた)をとり、ソッと抜き出した壺から、スガリをはずして、もう、その手は壺の蓋にかかっている。
「おまえの名は、なんという」
「あたい、作(さく)お爺(じい)ちゃんとこのお美夜ちゃんっていうんですの」
 壺の蓋をとった忠相は、そっと中をのぞいて見た。
 部屋の洩れ灯なので、よくは見えない……。
 なんだか底のほうに赤ちゃけた紙きれが入っているようでもあり、また、何もないようでもあり――。
 いずれ、後で明るい部屋で、ユックリ見直すことにしようと、忠相はそのまま蓋をかぶせつつ、
「ウム、お美夜ちゃんか。かわいい名じゃのう」
「ええ、みんながそう言うわ」
「何をごほうびにやろうかの? 泰軒小父ちゃんのお使いをして、この小父ちゃんのところへ、こんなりっぱな壺を持ってきてくれたお礼に、何かすばらしいものをあげたいのじゃが……」
 急に眼をかがやかしたお美夜ちゃん。
「ほんと? ほんとになんでもごほうびくれる?」
 と、念をおしました。

       四

 忠相はうち笑って、
「念をおすには及ばないよ。嘘は泥棒のはじめという。世の中から、その泥棒をなくするのが、このおじちゃんの務(つと)めなのだ。わかるかな?」
 お美夜ちゃんは、縁に足をブラブラさせながら、かわいい合点(こっくり)をする。
 越前守はニコニコつづけて、
「そのお役目のこの小父ちゃんが嘘をいうはずはないではないか」
「そうねえ。なら、あたいの言うこと、なんでもしてくれる?」
「言うまでもない、なんでもきいてやろう」
「じゃ、お願いしてみようかしら」
「オオ、いかなることでも申してみるがよい」
「じゃアね」
 と、お美夜ちゃん、仔細らしくちょっと考えて、
「あたいの仲よしにね、チョビ安さんって、とても元気な、おもしろい兄ちゃんがいるのよ。孤児(みなしご)なの」
 言いかけて、お美夜ちゃんがにわかに涙ぐむようすなので、越前守はやさしくのぞきこみ、
「コレ、いかがいたした。その孤児のチョビ安とやらが、どうしたというのじゃ」
 お美夜ちゃんはすすりあげて、
「あたい、自分の物なんか何もいらないの。お人形も、お着物(べべ)もいらないから、そのチョビ安兄ちゃんのお父(とっ)ちゃんとお母(っか)ちゃんを、探しだしてくださらない?」
 チョビ安を思う純真な気持……子供ながらも、それが眉のあいだに漂っているのを、忠相はじっとみつめていたが、
「ウム、このお奉行のおじちゃんが引き受けた。きっと近いうちに、そのチョビ安とやらの両親を見つけだしてやるであろう」
「ありがとうよ、小父ちゃん」
 お美夜ちゃんはもう涙声で、
「まあ、そうしたら、チョビ安兄ちゃんは、どんなに喜ぶことだろう!」
「ウム、明日(あす)かならずお美夜ちゃんにも、うれしいことがあるぞ」
 と忠相は、手をうって用人の伊吹大作を呼びよせた。そして駕籠を命じて、すぐお美夜ちゃんをトンガリ長屋へ送らせたのだったが……。
 この越前守様の言葉は、翌日さっそく、あのお美夜ちゃんがいらないと言ったお人形やら、美しい着物やらの贈り物となって、あのきたない作爺さんの家へ持ちこまれ、ほんとうにお美夜ちゃんを狂喜させたのだった。
 が、それは、あとのこと。
 お美夜ちゃんを帰すとすぐ、急に、忠相(ただすけ)の顔に真剣の色がみなぎった。
「いつもながらたのもしい泰軒じゃ。言葉を番(つが)えたことは、かならず実行する。どうして手に入れたか知らぬが、四方八方から眼の光っておるこのこけ猿、よくも泰軒の手に落ちたものじゃ」
 忠相は壺をかかえて、静かに居間へもどった。
 燭台(しょくだい)を引き寄せて、壺の蓋をとった。
 この壺のなかには。
 柳生の先祖がどこかに埋ずめてある、何百万、何千万両かの大財産の所在(ありか)を示す古い地図が、はいっているはず。
 そして。
 その秘図一つに、いまや柳生一藩の生命がかかり、また、いつの世も変わらぬ我欲妄念(がよくもうねん)の渦がわきたっているのだ。
 パッと壺の蓋をとった越前守、中をのぞいた。
 と、何ひとつはいっていないではないか!
 灯のほうへ壺の口を向けて、もう一度中をしらべてみた。
 狭い壺のなか、一度見てないものは、二度見てもない。すると、
「ハハア、そうか……」
 忠相のおだやかな顔が、ニッコリほころびた。

       五

 柳の影が、トロリと水にうつって、団々(だんだん)たる白い雲の往来(ゆきき)を浮かべた川が、遠く野の末にかすんでいる。
 三方子川(さんぼうしがわ)の下流は、まるで水郷のおもかげ……。
 鳴きかわす鶏(とり)の声で、夜が明けてみると、あちこちに藁葺きの家が三軒、四軒。
 渡しの船頭や、川魚をとる漁師の住いだ。
 その一つ――。
 前の庭には網をほし、背戸口から裏にかけては畑がつくってあろうという、半農半漁の檐(のき)かたむいた草屋根です。
「どうじゃな、お客人。気がつかれましたかな」
 火のない炉ばたに大あぐらをかいて、鉈豆煙管(なたまめぎせる)でパクリ、パクリ、のんきにむらさきのけむりをあげていたこの家(や)の主人(あるじ)、漁師体(てい)のおやじが、そう大声に言って、二間(ふたま)きりないその奥の部屋をふりかえった。
「ウウむ……」
 とその座敷に、うめき声がわいて、
「オオ! ここはどこだ!」
誰やら起きあがったようす。おやじはのそりと立って行って、奥の間をのぞく。不愛想だが、人のよさそうな、親切らしい老人だ。
「ウム、どうじゃな、気分は」
 すると……。
 ふしぎなこともあるものです。床の上にけげんな顔をしてすわっているのは、丹下左膳――この漁師の家で着せられたらしい、継(つ)ぎはぎだらけのゆかたを着て、一眼を空(くう)に見はり、ひとりごと。
「あの川床の天井が落ちて、ドッと落ちこむ水にあおられ、運よく穴から川面へ浮きあがったまではおぼえているが――」
 いぶかしげにあたりを見まわした左膳、横の床に、まだあおい顔をして死人のごとく昏々(こんこん)とねむっている柳生源三郎に眼が行くと、
「オオ、貴公もぶじだったか」
 まったく、奇跡というほかはない。
 一条の穴から落ちこむ水は、刻々に量(かさ)をまして、胸をひたし、首へせまり――ぬけ出るみちといっては、高い天井に、落ちてきたときの堅坑(たてあな)が、細くななめに通じているだけ、この生きうめの穴蔵が水びたしになっては!
 左膳も源三郎も、そう覚悟をきめた。チョビ安は地面で、一人でかけまわっているらしいが、救いの手はのびてきそうもない。
 頭の上には、三方子川の激流が流れている。
 と、このとき、まるで最期の宣告をくだすように、その川底が破れ落ちたのである……すさまじい勢いで。
 土砂と川水とが、一度にドッと落ちかかったのだが、そのあおりで流れ落ちる水に巻かれながら、左膳は無意識に三方子川へ浮かびあがったのである――たった一つの左腕に、ぐったりとなっている源三郎のからだを、しっかり抱きかかえたまま。
 これが最期と思ったのが、かえって、生へひらく唯一の道だったのだ。
 流れただようまも、左膳は源三郎をはなさなかった。この家の親爺の六兵衛が、夜の川釣りに、その下流に糸を垂れていて、浮きつ沈みつしてくる二人を見つけるが早いか、近所の者の手を借りて舟を出したのである。
 救い上げたときは、左膳も源三郎も、すっかり意識をうしなっていた。隻眼隻腕の異様な浪人姿と、由緒(ゆいしょ)ありげな美男の若侍と今夜の夜釣りには、ふしぎな獲物があったものだと、六兵衛はそのまま、二人をこの自宅に運びいれて、まず、濡れた着物を着かえさせ、一晩ねんごろに看病して、……サテ、この朝である。
「お同伴(つれ)はまだ気を失っておるようじゃの。まあ、こんなところだが、ゆるゆる逗留(とうりゅう)して、からだの回復をお待ちなせえ」
「オオオ、そうだ。こけ猿――ウウム、こけ猿を……!」
 と、思い出したように、左膳がうなった。

       六

 引き潮、満ち潮……。
 港の岸に立って、足もとの浪を見おろす人は、その干満の潮にのって、いろいろの物が流れよっているのを見るであろう。
 緒(お)の切れた下駄、手のとれた人形、使いふるした桶(おけ)、など、など、など……そのすべてが、人間の生活に縁の近いものであることが、いっそう奇怪な哀愁感をよぶ。
 港の潮は、何をただよわしてくるかしれない。
 大江戸は、人間の港なのだった。
 海に、港に、潮のさしひきがあるように、この大江戸にも、眼に見えない人間のみち潮、ひき潮――。
 お美夜ちゃんという小さな人間の一粒が、こけ猿の壺をしょって飛ぶ鳥を落とすお奉行大岡越前守様のお前に現われたのも、その人間の港の潮のなす、ふしぎな業(わざ)であったといえよう。
 また。
 自分の背中の、きたない古い茶壺のなかに、そんな何百人、何千人の大人たち――伊賀の侍たちをはじめ、こわいお侍(さむらい)さんの大勢に、こんな生き死にの騒ぎをさせるような、巨万の財宝がかくされてあろうなどとは、もとより知るよしもないお美夜ちゃん……まるで、塗りのはげた木履(ぽっくり)に小判がのっかって、港の石垣に流れよって来たようなもの。
 そして、一方では。
 三方子川の漁師六兵衛(ろくべえ)の網に、隻眼隻腕の痩せ浪人と、青白い美男とが引っかかった――。
 たいへんな獲物。
 これも、人間の港のはかり知ることのできない、浪の動きというべきであろう。
 人間の港は、雨につけ風につけ、三角浪をたて、暗く、明るくさかまいて、思いもよらない運命のはしはしを、その石垣の岸へうち寄せる……お江戸八百八町の潮のふしぎ。
 千代田の濠(ほり)はいかに深く、その城壁はどんなに高くとも、この、人間の港の潮を防ぐことはできない。
 お庭をわたる松風の音(ね)と、江戸の町々のどよめきとが、潮騒(しおさい)のように遠くかすかに聞こえてくる、ここは、お城の表と大奥との境目――お錠口(じょうぐち)。
 おもては、政務をみるお役所。大奥は将軍の住い。
 その中間の関所ともいうべき、このお錠口は、用向きはいちいちここで取り次いで、なんびとといえどもかってに出はいりを許されない。
 なんびとといえども――と言ったがただ一人の例外は、例の千代田の垢すり旗本、愚楽老人だ。
 お錠口をはいったお廊下のすぐ横手に、お部屋をいただいて、そこに無礼ごめんをきめこんでいるのが、天下にこわい者のない愚楽さん。
 今も。
 老人腹這(はらんば)いになって、何か書見をしている。
 まだ宵の口。
 実にどうもこっけいな光景です。三尺そこそこの、まるで七、八つのこどものようなからだに、顔だけはいっぱし大きな分別くさい年よりづら。それが、背中に大きなこぶをしょって、お部屋の真ん中にペタンと寝そべり、両足でかわるがわるパタン、パタンと畳をたたきながら、しきりにしかつめらしい漢籍を読んでいる。
 お城でこんな無作法な居ずまいをする者は愚楽老人のほかにはない。
 これは、まず、怪異なかっこうをした亀の子が、上げ潮にうちあげられてきれいな砂浜で日向(ひなた)ぼっこをしている形。
 とたんに、そとの廊下を、やさしい跫音(あしおと)がすべるように近づいて来たかと思うと、静かにふすまを開いて、顔をのぞかせたのは、奥女中の一人だ。
「あの、南のお奉行様が、至急御老人にお眼にかかりたいとのことで……」

   玉手箱(たまてばこ)


       一

 夜分、大岡越前が、至急自分に会いたい……と聞いた愚楽老人(ぐらくろうじん)、スックとたちあがった。
 スックと――なんていうと、馬鹿に背(せい)が高いようですが、三尺ほどの愚楽老人なんですから、たてになっても横になっても、たいした違いはないんで。
 壺! こけ猿!
 と、すぐピンと頭脳(あたま)にきたが、静かな声で女中へ、
「どうぞこれへお通しくだされ」
 と言った老人、チョコチョコと隅へ行って、衣桁(いこう)に掛けてある羽織をひっかけた。
 葵(あおい)の御紋これ見よがしの、拝領のお羽織。
 愚楽さんは、この羽織を着なければ人に会わないことにしているんです。子供みたいなからだに、大人(おとな)の羽織をはおったのだから、まるで打ちかけをひきずったよう――しかつめらしい渋い顔で、ピタリ着座して待ちかまえているところへ、
「御老人、こちらかな?」
 微笑をふくんだ越前守の声。
 つづいて、音もなくふすまがすべって、恰幅(かっぷく)のいい忠相(ただすけ)の姿が、うす闇をしょってはいってきた。老人の眼は、あわただしく、この夜の訪問者の手もとへゆく。が、忠相は何も持っていない……。
 手ぶら?
 と、愚楽老人の顔に失望の色がはしったとき、
「大作、其品(それ)をそこへ置いて、その方は溜りで待つがよい」
 忠相がうしろを振りかえって言った。用人の伊吹大作がついてきていたのだ。声に応じて大作は、大きな箱包みを室内へすべらせておいて――無言。
 平伏。愚楽老人に挨拶したのち、あとずさりにさがってゆく。
 壺の包みを引きよせた越前守忠相は、愚楽の前に静かに座をかまえて、いつまでもほほえんでいる。
「――――?」
 と、愚楽老人は、眼できいた。
「例の品でござるか、越州殿(えっしゅうどの)」
「まあ、さようで」
「ホホウ、どうしてお手に?」
「かの泰軒が引き受けた以上、成らぬということはありませぬ」
 愚楽老人は、それを心から肯定するように、大きくうなずいたのち、
「シテ、その泰軒は、いかなる手段により、いかなる方面より壺を入手したものでござろうのう」
「サア、それは……小娘が使者となって持ってきただけで、委細のことはわかりませんが――」
 言いながら忠相は、壺の風呂敷をときにかかる。
 おしとどめた愚楽老人、
「貴公、壺をひらいてごらんになったか」
「ウム、いかにもあけてみました」
「して、紙片は? 埋宝の所在(ありか)を示す古図は?」
 たたみかけて、つめよるごとき愚楽老人の顔を、越前守はじっとみつめて、
「中にはござらぬ」
「中にない?――壺の中にない……とすると?」
「サ、そこでござる、御老人。壺の中にないとすれば?」
「壺に物をかくすとすれば、壺の中にきまっておる。その壺の中にないならば、こりゃ――ないのであろう」
「と、拙者も最初は考えましたが……」
「待った!」
 愚楽老人、大きな手をひろげて、越前守の言葉をさえぎった。そして、ハタと膝をうった。
「ハハア、そうか。なるほど、そうか――」

       二

 夜詰めの近侍たちが、お次の間にしりぞいてから、もうよほどになる。上段の間に御寝(ぎょしん)なされた吉宗公は、うつらうつらとして夢路にはいろうとしていた。
 と、いくつか間(ま)をへだてた遠くの部屋で、なにか押し問答をしているような、大きな声がする。
 上様(うえさま)に取り次いでくれ、いや、お取り次ぎ申すわけにはまいらぬ……そんなことを言い合っているようだ。
 はじめは、水の底で風の音を聞くような、ボンヤリした気持でいた将軍吉宗も、あまりその人声がいつまでも続くので、眠りにおちようとしていた意識を呼びもどされた。
 むろん、眠りのじゃまになるというほどではない。遠くかすかに、低く伝わってくるのだが、耳についてならないので、吉宗は、枕もとの鈴をふった。
 近習の一人が、お夜着の裾はるかの敷居際に、手をついて、
「お召しでございましょうか」
「ウム、愚楽の声がするようだが」
「ハ、お耳にとまって恐れ入ります。愚楽様と、南町奉行大岡越前守様御同道で、夜中(やちゅう)この時ならぬ時刻にお目通り願いいでておりまする。おそば御用、間瀬(ませ)日向守様(ひゅうがのかみさま)が、おことわり申しあげておりますので」
「ナニ、愚楽と越前とが、余に会いたいと申すか」
「壺? こけ猿?」
 ハハア、来たな……と思うと、吉宗公は、さっとお夜着をはねのけて、起きあがった。白倫子(しろりんず)に葵(あおい)の地紋を散らしたお寝間着の襟を、かきあわせながら、
「苦しゅうない。両人ともこれへまかり出るように、間瀬にそう申せ」
 とこの時はずれの夜中(やちゅう)、御寝所でお眼通りをおおせつける――よほどの大事件に相違ないと、近侍は眼をまるくしてさがってゆく。
 しばらくすると、おおいばりの愚楽老人の声が近づいてきて、
「だから、わしは言うたじゃないか。上様のお耳にはいれば、わけなくお眼通りをお許しくださるにきまっておると。何も知らぬお手前らが、中途で邪魔だてするとはけしからん」
 御座(ぎょざ)近くまでほとんどどなりちらさんばかりの勢いで来るのは、愚楽老人、いつもの癖が出たとみえる。
 上段の間のふすまを左右に開かせて吉宗公はじっと愚楽を見やった。たって、やっとふすまの引き手に頭のとどくほどの愚楽老人と、上背(うわぜい)もたっぷり、小肥りの堂々たる越前守忠相とがならんで、双方すり足でお次の間へはいってくるところは、その珍妙なこと、とうとう八代様をふきださせて、
「ウフフフフフフ……愚楽、そちの抱いておるのは、そりゃ、なんじゃ」
 愚楽老人は、大きな壺の箱を、持てあますように前に置いて、すわりながら、
「エヘヘヘヘ、とうとう伊賀のこけ猿が、大岡越前の入手するところとなりまして」
 その横に着座した越前守忠相、
「夜中をもかえりみませず、お眼通りを願い出ました無礼、おとがめもなく、かくは直々(じきじき)お言葉をたまわり、ありがたきしあわせに存じまする。いつもながらごきげんうるわしく拝したてまつり、恐悦至極に存じまする」
 つつしんで御挨拶申し上げているのに愚楽老人は、そういう儀礼はいっさい抜きで、いきなり、友達かなんぞのように将軍様へ話しかけて、
「どうしてこの壺が、越前の手にはいりましたか、そこらの筋道は、なにとぞおたずねなきよう」
「ホホウ、例の大金の所在を知るこけ猿とやら――どれどれ」
 乗り出す吉宗公……愚楽老人はまるで自分が悪戦苦闘ののち、やっと手に入れたような顔つきだ。

       三

 吉宗公はせきこんで、
「愚楽、越前。お前たちはもうその壺をあけて見たであろうな」
「ハッ」
 と越前は平伏して、
「ところが、紙片などは中にはいっておりません――」
 言いかけるそばから、愚楽老人は、まるでお風呂場で背中を流しているときのように、気やすに膝をすすめて、
「それが、上様、ふしぎじゃあございませんか。何もはいっていないんで」
 吉宗公は腕組みをして、眼をつぶった。
「フウム、はいっておらぬ。スルト、柳生の埋宝というのは、ひとつの伝説……いや、とんでもない作りごとにすぎなかったのかな」
 ニヤニヤした愚楽老人、
「上様、おたずね申しあげます」
「ウ? なんじゃ」
「およそ紙きれなどを壺にかくすといたしますれば、まず、どこでございましょうな?」
「何をいう。壺に封じこめる――つまり、壺の中に決まっておるではないか」
「それが、ソノ、なんども申すとおり、はいっておりませんので」
「それならば、はじめからないのであろう」
「サ、そこです。とそう、私も考えましたが、いま一度お考え願えませんでしょうか」
「ウム、わかった! ハハハハハ、わかったぞ」
 眼をかがやかした吉宗公は、力をこめて小膝を打ちながら、
「二重底だな?」
 越前守と愚楽老人は、チラと眼を見かわす。
 沈黙におちると、もう夜のふけわたったことが、錐(きり)で耳を刺すように、しんしんと感じられます。おそば御用、近侍の者たち、ことごとく遠ざけられて、今この御寝(ぎょしん)の間に額を集めているのは、八代将軍吉宗様を中に、天下ごめんの垢すり旗本愚楽さんと、今をときめく南のお奉行大岡忠相の三人のみ。
 黒地(くろじ)金蒔絵(きんまきえ)のお燭台の灯が、三つの影法師をひとつに集めて、大きく黒く、畳から壁へかけてゆれ倒している。
 一町奉行(まちぶぎょう)が、いかに重大な事件だからといって、夜間(やかん)将軍と膝をつきあわせて話すということなどは絶対にない……ナンテことは言いッこなし。物には例外というものがある。これがその、最も意外な例外の場合のひとつなので……正史には出ておりませんけど、このときの三人の真剣さは、じっさいたいへんなものでございました。
 愚楽老人の眼くばせを受けて、越前守は、壺の風呂敷をとき、古色蒼然たる桐の箱を取り出した。
 時代で黒光りがしている。やがてその蓋を取りのぞき、そっと御前に出したのは、すがりという赤の絹紐の網のかかった、これぞ、まぎれもないこけ猿の茶壺……。
 多くの人をさわがせ、世に荒波をかきたてたとも見えず、何事も知らぬ顔にヒッソリと静まり返っているところは、さすが大名物(おおめいぶつ)だけに、にくらしいほどのおちつきと、品位。
 人に頭をさげさせるだけで、自分の頭をさげたことのない八代(だい)有徳院(うとくいん)殿も、このとき、このこけ猿に面と向かったときだけは、おのずと頭のさがるのをおぼえたと申し伝えられております。
 ウーム、とうなった吉宗様、壺を手近に引きよせて、つくづくとごらんになり、
「りっぱな作(さく)ゆきじゃなあ。品行といい、味わいといい、たいしたものじゃナ」
 幾金(いくら)ぐらいだろう……そんな骨董屋みたいなことはおっしゃいません。

       四

「あけてくやしき玉手箱――スウッと煙が出て、この吉宗、たちまち其方(そち)のような老人になるやもしれぬぞ」
 ごきげんのいいときは、お口の軽い八代様、そんなことをおっしゃって、愚楽へ笑いかけながら、パッと壺の蓋をとった。
 何もはいっていない。
 もとより、煙も出ない。
 拍子抜けのした玉手箱……吉宗公は壺をひっくりかえして、底をポンポンとおたたきになっては、首をかしげてしきりに音を聞いてらっしゃる。縁日で桶を買うようなかっこうだ。底が二重になっているかどうか、それをあらためているのです。
 越前守と愚楽は、笑いの眼をかわしたのち、愚楽が、
「どうです、上様。底に種仕掛けはございますまい」
「イヤ、これは降参いたした」
 吉宗はそう言って、壺を畳へ置きなおし、
「この壺に秘図が入っておらんとなると、柳生の埋宝それ自身がちとあやしい話じゃな」
「そう……かもしれません」
「かもしれんではないぞ、愚楽。柳生はああいう武弁一方の貧乏藩じゃが、先祖の隠した大金がある。それをそのままにしておいては危険じゃから、日光を当てて吐き出させてしまえ――と、余に向かってそう進言したのは、愚楽、其方(そち)ではないか」
「ヘエ、上様のおっしゃるとおりで」
「ヘエではないぞ。それで、ああして柳生の金魚を死なしたのじゃが、日光をふり当てられた柳生では、一風とやら申す茶師の言(げん)を頼りに、それ以来、死にもの狂いでこれなるこけ猿の壺の行方をさがし求めてきた……これ、その壺をいまあけてみれば、ただ空気がはいっているだけとは、愚楽、これはすべて貴様の責任だぞ」
 むりな理屈だが、楽しみにしていた壺をひらいてみると、何も出てこないので、吉宗公、ちょっと駄々(だだ)をこねはじめたのかもしれない。将軍をはじめ、昔の大名なんてものは、みんな、子供のようなわがまま者が多かった。
 あわてるかと思うと、さにあらず、愚楽老人は平然として、
「上様、蓋をまだお持ちでございますな」
 ときいた。
 なるほど……気がつくと、八代様はさっき蓋をあけたとき取った蓋を、そのまままだ右手に持っていらっしゃる。
「ウム、これが――これがどういたした」
 と吉宗は、つくづくその蓋をみつめている。
 御存じのとおり、茶壺の蓋は、木をまるくけずったものであります。それに、奉書の紙が、一枚一枚と貼りかためてある。
「別になんの奇もない、ただの茶壺の蓋ではないか」
 と吉宗は、それをポンと畳へほうり出した。蓋は、ころころと輪をえがいてころがりながら、越前守の膝先へ来て、ピタリと倒れた。
 手にとった忠相は、おそるおそる口を開いて、
「毎年、新茶の候になりますと、諸藩から茶壺を宇治の茶匠へつかわします。茶匠はなかなか権威のありますもので、おあずかり申した諸侯のお茶壺を、それぞれ棚がありまして、それへ飾っておくのでございますが、そのとき……」
 と、ひとくさり茶壺の説明をはじめました。
 ひっそりとした大奥の夜気に、太い、おちつきはらった越前守の声が、静かな波紋をえがく。吉宗も愚楽も、いつのまにか緊張して、聞き入っています。

   宇治(うじ)は茶(ちゃ)どころ


       一

 越前守は、静かな声でつづけて、
「御存じのとおり、茶壺にはいろいろの焼きがございますが、各大名の壺をあずかりました茶匠においては、禄高、城中の席順に関係なく、壺の善悪(よしあし)によって、棚の順位を決めるのでござります。いかに大藩の茶壺でも、壺そのものが名品でなければ、上位には据えられませぬ。また、小藩の茶壺なりとも、名器でござりますれば、上位を与えられますのが、これが、宇治の茶匠の一つの権威とでも申しましょうか? イヤ、上様の前をはばかりもせず、先刻御承知のことを、かように談義めかしておそれ入りまする」
 ひれ伏そうとする忠相を、愚楽老人がそばから、制するような手つきとともに、
「イヤ、話にはおのずと、順序というものがござる、かまわずお続けめされい」
 吉宗様も、ニッコリおうなずきになって、
「それで?」
 と、うながされる。
「ハッ……それで、各大名は、おのずと壺の順位を争いまして、万金を投じて伝来の茶壺をあがない求めまするありさま。かくして、新茶が詰まりますまで、壺はその宇治の茶匠のもとに、飾られてあるのでございます」
「すると、このこけ猿の茶壺も、柳生藩から毎年、その新茶を入れに宇治の茶匠へつかわされたものであろうかの?」
 上様の御下問に、越前守、はッと答えて、
「御意(ぎょい)にござりまする。昔から茶匠の棚において、一の位をゆずったことのないこけ猿の茶壺――この壺あるがゆえに、わずかの禄にもかかわらず、御三家をはじめ、御譜代外様(とざま)を通じての大大名をも後(しり)えにおさえて、第一の席は、ずっと柳生家の占むるところでござりました」
「この名壺(めいこ)じゃからな、むりもない」
「それほどの壺をまた、柳生ではどうして、弟の源三郎へなどくっつけて、この江戸の司馬十方斎へゆずろうとしたのであろう……解(げ)せぬ」
 と愚楽老人が、首をひねる。
「サ、それは、なんとかして弟を世に出そうという、兄対馬守(つしまのかみ)の真情でもござりましょうか。弟の源三郎と申すは、剣をとっては稀代の名誉なれど、何分恐ろしい乱暴者で、とかくの噂(うわさ)もあり、末が気づかわれますところから、天下の人間道場たる江戸へ出して、広い世間を見せてやろうとの兄のはからいに相違ござりませぬ。マ、それはそれといたしまして、サテ、宇治では、各大名の茶壺に新茶を詰め終わりますると、これなる蓋をいたし、この蓋の上から、ピッタリと奉書の紙をはりまして、壺の口に封をいたします」
「フム、それは余も存じておる」
「おそれいります。その封をした茶壺を、それぞれ藩へ持ちかえり、藩公の面前において、お抱えのお茶師が封を切り、新茶をおすすめまいらする……これを封切りのお茶事と申しまして、お茶のほうでは非常にやかましい年中行事の一つでございます」
 愚楽老人は、せっかちに、背中の瘤(こぶ)と膝を、いっしょにゆるがせてすすみ出ながら、
「イヤ、そこらのことは、よくわかり申した。が、わからぬことがたったひとつある。このこけ猿も、毎年宇治へ往復して新茶の詰めかえをしたものなら、中に古い地図などがはいっておったら、とうに人眼につかずにはおかぬはず。とっくの昔に誰かが見つけて、もう宝は掘り出されたあとかもしれぬテ。さようではごわせんか、上様」
「そうも考えられるが、さもなければ、その図は、はじめから壺の中ではなく、壺は壺でも他の場所に――」
 言いかける吉宗の言葉を、愚楽が横から折って、
「えらい! さすがは天下の八代様。これなる越前も、愚楽も、まず、そこらのところとにらんでおります」

       二

 これより先。この壺をあけて、中に、あるべき古図のないことを知ったとき、越前守は、一度は驚き、失望もしたが、たちまち、何か思い当たったことがあるらしく、
「ハハア、そうか」
 と、言った……。
 そしてまた。
 愚楽老人も、さっき自分の部屋で、壺の中がからっぽと聞いて、しばらく考えたのち、これも同じように、何か考えがあるとみえて、
「ハハア、そうか」
 とうなずいたが……。
 馬鹿な人間の考えることは、たいがい同じようなものだが、知者の知恵も、また似たようなもの。
 この天下の知恵者が二人まで、ハハア、そうかと、自信ありげにほくそえんだのですから、まだ悲観するのは早い。秘密の地図は、壺のどこかにかくされてあるのだろうけれど。
 これを言いかえれば、柳生家初代の殿様もまた、相当の知恵者だったということになる。
 すると、です。
 今。
 じっと考えていらっしった八代将軍吉宗公、ニッコリ微笑をお洩らしになったかと思うと、
「ハハア、そうか」
 まるで口まねだ。
 と同時に、手にしていた壺をキッと見すえた吉宗、
「この中だな、この蓋の……」
「恐れ入りましてございます」
 越前守と愚楽老人、一度にそこへ平伏した。畳をなめそうに、忠相は口を開いて、
「新茶の封に宇治で貼りました奉書は、封切りの茶事で縁を切りますだけで、蓋の奉書はそのまま残ります。その上へ、翌年また奉書を貼り、そのつぎの年は、またその上へ……年一枚と、上から上へ奉書が貼り重ねられまして、古い茶壺の蓋は、厚さ何分にも達する奉書の層ができておりまする。上様! 御慧眼のとおり、問題の地図は、その奉書のなかに貼りこめられてあるものと察せられまする」
「なるほど、考えたものだナ」
 感心した吉宗は、一刻も早くその秘密の地図を取り出したいものだと、にわかに興奮に駆られるようす。
「誰かある。何か、この紙を剥がすものはないか」
 ヘヤ・ピンではどうで……小姓が顔を出すのを待ちかねて、吉宗は叱りつけるように、
「コレ、何か薄刃のものはないか。小刀でもよい。とく持て」
 やがて小姓の捧げて来た小刀と茶壺の蓋とを、吉宗は愚楽老人へ突きだして、
「爺(じい)、貴様は手先の器用を自慢にしておる。ていねいに剥がしてみろ」
 これは、大任です。
 何しろ、毎年糊で奉書をベッタリ貼りつけて、毎年その上へ上へと貼ってきたのが、何十年、イヤ、百年の余も貼り重なっているのだから、もうスッカリかたまって、一個のかたい物質に変化しつつある。
 しかも、ただ削り落としてしまえばよいのではない。
 一枚一枚、小刀の先で上から順々に剥がすのですから、愚楽老人たいへんな役目を言いつかったものだ。
 初代の柳生が隠したのですから、どうせ下のほうであろうけれど、もし傷つけでもしては、今までの苦心が水の泡。第一、日光御造営を目前にひかえて、柳生一藩、浮かぶ瀬のないことになる……と小刀のさきで蓋の紙をせせくる老人の額には、いつのまにか玉の汗が――。

       三

 めったに緊張したことのない愚楽老人、このときだけは、小刀で蓋の紙を剥がす手が、ワナワナとふるえたといいます。
 それはそうでしょう。
 何しろ……。
 貧乏と剣術をもって天下に鳴る柳生藩に、莫大な財産がかくされてあるとの、諸国潜行の隠密、お庭番の報告を土台に、このたびの日光大修営の建築奉行を柳生対馬守におとすべく吉宗公に進言したのは、そのお庭番の総帥(そうすい)たるこの愚楽老人……今この壺の蓋から埋宝の個所を明記した古図が出てこない日には、愚楽さんの責任問題だ。
 だが、しかし――百年もの長いあいだ、毎年上から上へと、糊と奉書で貼りかため、そいつがうずたかい層をなしているんだから、ちっとやそっとではうまく剥がれっこありません。
 もし小刀の先で傷つけでもしようものなら、元も子もなくなる……。
 上から削るように、紙を剥がしてゆく老人のしわ深い額には、水晶のような汗の玉が――そしてまた、その愚楽の手もとを見守る八代将軍吉宗様と、大岡越前守の手にも、いつのまにか汗が握られているので。
 壺一つを中に、当時天下をおさえた三賢人の吐く息が、刻々熱く、荒らくなる。
 物事の肝どころをツボと言いますが、それは、このこけ猿の茶壺から起こったのです。
「紙というものは……こうしてみると――わりかた……丈夫な――ものとみえる」
 愚楽老人、そう一言ひと言、切って言いながら、心気のすべてを小刀のさきに集めて、一生懸命、
「世辞をかためて浮気でこねて――じゃアねえ、糊でかためて時代がたって……まるで岩のようじゃわい」
 と愚楽、あまりに緊張しすぎた室内の空気を、笑いほごそうとするかのように、そんなことを言った。
 が、その気分の緩和策も、なんの役にもたたない。
 紙はめくり進んで、もう柳生時代のころに達したらしく、糊と紙のあいだにいつのまにか虫がわいたとみえて、模様のような虫食いの跡が見えてきた。それと同時に、息づまるような三人の力の入れ方もいっそうせまって、今はもう、部屋の空気そのものが固化したよう……緊張の爆発点。
 と! そのときでした。
「オヤッ!」
 と、愚楽老人が叫んだのです。そして、手の小刀をほうり出して、
「あった! 出てきた! ホレ、上様、越州、字が書いてある? ソラ、この下の紙に、うっすらと字が見えまするぞ」
「ドレドレ! ホホウ、なるほど、何やら墨の跡がすけて見えるわい」
「御老人、早く、その上の紙をお取りなされ」
「損じてはならぬぞ」
「心得ております。ここが千番に一番の掛け合い――」
 愚楽老人は、紙の端にそっと爪をかけて、静かに、しずかに剥(む)きはじめた。上の奉書が注意深く剥がされるにつれて、下から出てきたのは、何やら文字と地図らしいものの描かれた、一枚の古びた紙!
 こけ猿の壺の秘密は、いま明るみへ出ようとしている。
 何百万、何千万両とも知れない。柳生の埋宝!
 老人の手が、上の紙を剥ぎ終わりました。六つの眼が、凝然とひとつに集まる。
 押しつぶしたような無言ののちに、声に出してその文字を読んだのは、吉宗公であった。
「常々あ○○心驕○て――」

       四

「常々あ○○心驕(おご)○て湯水のごとく費(つか)い、無きも○○なるは、黄金なり。よって後世一○事ある秋(とき)の用に立てんと、左記の場所へ金八○○両を埋め置くもの也――」
 そこまで読んだ八代公は、紙片から顔をあげて、のぞきこんでいる愚楽と越前守を見まわした。
「ところどころ虫が食っておって、よく読めぬ。わからん個所には字を当てて、判読せねばならぬが」
 横合いから、愚楽老人がスラスラと読んだ。
「常々あれば心驕(おご)りて湯水のごとく費(つか)い、無きも同然なるは黄金なり。よって後世(こうせい)一朝(ちょう)事(こと)ある秋(とき)の用に立てんと、左記の場所へ金――サア、これはわからぬ。八百万両やら八千万両やら、それとも八十五両やら、とにかく、八の字のつく大金」
「シテ、その埋ずめある場所は?」
 忠相の問いに、八代公は、その古びた紙を灯にすかして見ながら、
「武蔵国――アア、どうしたらよいか。このとおり虫が食っておってあとは読めぬ」
 愕然として他の二人は、同時に左右から首をさしのべて、
「いや、それはたいへんなことでござります。せっかくここまでこぎつけたのに、肝腎の個所が虫食いとは……?」
「図のほうではわかりませんか」
 文字の下に、小さな地図がついているのだけれど、それはいっそう虫のくった跡がはげしく、ほとんど何が書いてあるかわからない。
 消えた線を、指先でたどっていた吉宗、
「これはハッキリ読めたところで、たいした頼りにはならぬであろう。ほんのその一個所の地図にすぎぬから……ホラ、この、山中の小みちが辻になっておるところに立って、右手を望めば、二本の杉の木があって――あとはどうにも読めぬが、苔むした大いなる捨石(すていし)のところより、左にはいり……とある」
「山の中の小みちが四つに合し、その辻から二本の杉が見えて、捨て石があって……これが武蔵国のどことも知れぬとは、もはや探索の手も切れたも同然」
 暗然たる愚楽老人の言葉に、越前守は、膝をすすめて、
「しかし、埋宝のあることは、事実でござりますな。だが、大さわぎをしたこけ猿の茶壺は、ただ、これだけのことであったのか」
 愚楽老人は憂わしげに、
「柳生はどうするでありましょう」
 吉宗公が、
「どうするとは?」
「イエ、さしあたっての日光修営の費用――柳生は、この壺だけを頼りにしておりますのに、武蔵国とだけでは、まるで雲をつかむような話。こうなると、剣にかけては腕達者揃いの柳生藩、苦しまぎれに天下をさわがせねばよいが」
「上様」
 と改まった声で、両手をついたのは、越前守忠相、
「柳生を救うため、また、日光御造営に関して、不祥(ふしょう)な出来事を防ぎますために、ここは上様、一計が必要かと存じますが」
「事、権現様の御廟に関してまいります」
 愚楽老人も、そばから口を添えるのを、聞いていた吉宗公は、ややあって、
「ウム、みなまで言うにはおよばぬ。そのように取りはからえ」
「ハッ。それでは、日光に必要なだけの金額を……」
「そうじゃ、どこかに埋めて――」
「その所在を図に認めて、これなる壺に納め、それとなく伊賀の柳生の手へ送りとどけますことに……」
 御寝の間に謀議は、いつまでも続きます。

       五

「しかし、上様……」
 愚楽老人は何事か思いつめたように、
「ちょっと、その、張りこめてあった地図を拝見――」
「誰が見たとて同じことじゃ」
 将軍様のさしだす、古びた小さな紙片を、愚楽老人は受け取って、
「フーム、あれほど禍乱の因(もと)となったこけ猿が、ただこれだけの物であろうとは、チト受け取りかねる。のう越前殿、この紙の虫食いの跡を、貴殿はなんとごらんになるかナ?」
「古文書に虫の食ったように見せかけるには、線香で細長く焼いて、たくみに穴をあけるということを申しますが、まさかそんなからくりがあろうとも――」
「イヤ、わからぬ。わかりませぬ――」
 と愚楽老人は、からだに不釣合いな長い腕を、ガッシと組んで、考えこみました。
「これほど用心をして、大金を隠した初代の柳生、念には念を入れたに相違ない。これはことによると、同じようなこけ猿の壺が、まだほかに、一つ二つあるのかもしれませぬぞ」
「考えられぬことではない」
 と沈思の底から呻(うめ)いたのは、八代吉宗公で、
「大切な手がかりを、ただ一つの壺に納めたのでは、紛失、または盗難のおそれもある。戦国の世の影武者のごとく、同じような壺を二つ三つ作り、そのうちの一つに真実の文書を隠しておくということは、これは、ありそうなことじゃわい」
 どうやら、三人の話の模様では。
 この壺もほんとうのこけ猿かどうか、危くなってきた。
 そうすると……。
 あの、最初に婿入りの引出物として、伊賀の暴れん坊が柳生の郷(さと)から持ってきたあれも、果たして本当のこけ猿? もしあれが真のこけ猿の茶壺でないとすれば、本物はまだ柳生家にあるのか?――
 無言の三人のうえに、城中の夜の静寂が、重い石のようにおおいかぶさる。
「ま、壺の真偽は第二といたしまして、日光を眼の前に控えて、柳生は今や死にもの狂いのありさまでございますから、御造営に必要なだけの金は、さっそく、それとなく授けますように、お取り計らいを願いたいと存じまする」
 越前守の言葉に、吉宗と愚楽は、われに返ったよう。
「ウム、それはそうだ。では、さきほどの案を、取り急ぎ実行するように」
 日光着手の日が近づいている今となっては、何よりも、まず財政的に柳生をたすけて、とにかく、御修理に着手させるのが、目下の急務である。
 隠してある財産などがあっては、その子孫に、いつなんどき、謀叛骨の高いのが現われて、天下の騒ぎを起こさないともかぎらない。それを防ぐために、財産を吐き出させようと、大金のかかる日光大修営の籤(くじ)を落としたのだけれど。
 今は、あべこべに。
 将軍様が機密費を出して、それで名家柳生を救わなければならないことになった。
 これじゃアまるで、天へ向かって唾をしたようなもので、あの金魚籤で死んだ不幸な金魚が、ざまアみやがれと言ったといいます。
 だが、ただ公儀から金がおりたというのでは、柳生も体面上受けとりにくいし、他の諸侯へのきこえもある。
 愚楽老人は、せかせかと手をたたいて、お小姓を呼んだ。
「料紙と硯箱、それに、線香を一本持ってきてくださらぬか」

       六

 それから二、三日した明け方のことです。
 麻布林念寺前の、柳生の上屋敷。
 その邸内の一角、尚兵館(しょうへいかん)と名づけられた道場に、わざわざ伊賀から下向した壺探索の一隊を引きつれて寝とまりしている高大之進――イヤ、驚きました。
 驚いたわけです。
 春眠暁(あかつき)を覚えず……夢うつつの境で、ウトウトとしていた横っ腹を、イヤというほど蹴りつけた者がある。
「ヤッ、何やつ?」
 がばとはね起きてみると、ナニ、蹴ったんじゃアない。若い伊賀侍の一人が、何かに驚きあわてて部屋へとびこんでくる拍子に、大之進の胴ッ腹につまずいたんです。
「ナ、何をする」
「何をするじゃアございません。たいへんです。たいへんです! ふしぎなこともあるもので、いま私が、朝早く起きて、庭で……」
 と、その言うところは、こうだ。
 この若い弟子、いつも恐ろしく寝坊なんだが、今朝にかぎってすこし早起きをして、庭へ出てラジオ体操――じゃアない、木剣を振っておおいに三文のとくを味わおうとしていると、
「これが驚かずにいられますか。あのお庭の根あがり松に、何がぶらさがっていたとおぼしめす、高隊長殿」
「まさか、天人の羽衣でもあるまい」
 まわりに寝ていた連中も、ゴソゴソ起き出て、
「首くくりでもブラさがっていたのか」
「何を不吉なことを申す」
 若侍は躍起になって、
「天人の羽衣よりも、もっと貴重な品ですぞ、隊長殿。こけ猿の壺に縄がついて、あの根あがり松の下枝に、ひっかかっておるではござらぬか。それが、さわやかな朝風に吹かれて、ブラーリ、ブラリ……」
「寝ぼけたな、貴様」
「夢にもこけ猿を忘れぬゆえに貴公、かわいそうに乱心めされて、さような幻影を見るようにあいなったか」
「こけ猿が松の木などに、ぶらさがっていてたまるものか」
「嘘だと思うなら、出て来て見るのがいちばんの早道だ」
 一同はがやがや言いながらその発見者の若侍に付き従って、ゾロゾロ庭先へ立ちおりてみると、高大之進をはじめ、尚兵館の一同、イヤ、驚きました。
 驚くわけです。
 庭隅の築山のふもと、江戸家老田丸主水正(もんどのしょう)が、何よりの自慢にしている一本松……。
 その梢に、黒い西瓜(すいか)のようにブラリとひっかかっているのは、紛れもないこけ猿の茶壺でございます。
 ポカンと口をあけた高大之進、
「ああ、わが輩も、寝てもさめてもこけ猿、こけ猿と思ううちに、かような怪しの幻を見るようになったか」
 とつぶやいて、思わず眼をこすったといいますが、それはそうでしょう。何しろ、そのこけ猿のためには、今まで多勢の人間が血を流し、またそのために、いま、若き主君伊賀の源三郎は行方知れず……丹下左膳などという余計者(よけいもの)まで飛び出して、まんじ巴の必死の争いを描きだしているその中心――こけ猿の茶壺が、ぶらりとさがって、見つけた若侍の言い草ではないが、さわやかな朝の微風にそよいでいるのですから……。尚兵館の連中、声もない。

       七

「ウーム、皮肉な壺だナ……」
 うめいた高大之進、松の木へかけよって、壺をにらみあげながら、
「探すときには姿も見せず、とほうにくれておると、こうして松の木などにぶらさがっている。だが、いったい何者の仕業であろうナ?」
 あたりの伊賀侍たちをジロジロ眺めまわしたが、こいつだけは誰にも返事ができない。
 とにかく。
 おそろしく変わった風景です。茶壺を荒縄で縛りあげて、そいつがブランと松の枝にひっかかっているんですから。
「昨夜深更に、何奴かが忍びいって……」
「しかし、これが真のこけ猿の茶壺とすれば、そやつは、よほどわれわれに好意を持っておる者と思わねばならぬ」
 屈強の若侍達が、壺を見上げて、ワイワイ言ってる。何かからくりがありそうで、うっかり手出しのできない気持――。
「おろせ!」
 大之進の命令に、一人が、おっかなびっくり背のびをして、そっと壺を、松の根方の芝へ取りおろしました。
「誰かその蓋をあけてみろ」
 こんどは一同尻ごみして、誰も手をかける者がない。
「スーッと一筋、怪しの煙が立ち昇ったかと見るまに、空中に、変怪(へんげ)の形をとって、うらめしや伊賀ざむらい……ナンテことになるんじゃないかな」
「世相険悪じゃから、爆弾でも入っているのかもしれぬ」
 そんなことを言うやつはありません。
 中に勇敢なひとりが、芝生に片膝ついて、壺の蓋をとりにかかった。
「御油断めさるな、おのおの方!」
 誰かが、大時代の叫びをあげた。同時に、皆はパッと足(そく)を開き、腰の一刀の柄に手をかけて、居合の構え――これには何者かの深い魂胆があるに相違ないと思うから、ビックリ箱をあけるような緊張だ。
 最初五分ほど、そっと蓋をずらして、中をのぞいてみたが、べつに煙も出なければ格別あやしい仕掛けもなさそうなので、また一寸ほど蓋を持ちあげてようすをうかがった。それでも、なんのこともないので、安心してぐっと中をのぞき、
「オヤ! 何もはいっていない……」
「ハテナ、空の壺を、こうして曰(いわ)くありげに当屋敷へ届けたとは――悪戯にしては、あまりにも埒(らち)もない。何か仔細がなくてはかなわぬところじゃが」
 何もはいっていないとわかると一同大きに強くなって、ガヤガヤ始める。
「一応御家老へ届けいでずばなるまい」
 高大之進はその壺の口をつかんで片手にぶらさげ、庭を横ぎって田丸主水正の居間のほうへと、歩きだした。
 ひとりが、あとに落ちていた壺の蓋を拾いあげて、
「高先生! 蓋が――」
「蓋などいらん、捨ててしまえ」
「しかし」
 と追いすがって、
「壺についておるものですから……」
「そうか。じゃ、まア、蓋も持って行こう」
 めんどうくさそうに受けとった高大之進、その、丸い木の上へ奉書を幾重にも貼りかためた壺の蓋を、グイと懐(ふところ)へねじこんで、片手の壺を大きく振りながら、主水正の居間の外へとやって来た。
「御家老様、まだおやすみですか」
「馬鹿なことを言いなさい、年よりは早く眼がさめて困るものじゃ。さきほどから庭がやかましいようじゃが、何かナ? 小判でも掘り当てたかの?」

       八

 埋宝のことが絶えず頭にあるものだから、、何かというとすぐ、小判を掘り当てたか……なんて、まるでリュウリック号みたいなことばかり言う。
「ごめんを――」
 と大之進は、高縁の階(きざはし)をあがって、つぎの間の障子をあけた。
 書院造りの居間。
 柳生家江戸家老、田丸主水正は、鼈甲(べっこう)縁の眼鏡を額部(ひたい)へ押しあげて何か書見をしていた経机から、大之進のほうを振りかえった。
「オ、なんじゃ。そんなうすぎたないものを座敷に持ちこみおって……」
 と小言をいいかけた主水正、二度見なおして、イヤ、驚きましたネ。
 驚くわけです。
 夢にも忘れないこけ猿の茶壺……主水正は、操り人形が糸につられるように踊るように、両手を空(くう)に泳がせて、フワフワッとたちあがろうとした。
「こ、これ、とうとう――お壺を、手に入れてくれたか、いや、でかした、でかしたぞ! 大之進」
「いえ、御家老、落ちついてください。何者が、いかなる考えあっての仕業かは存じませんが、昨夜お庭へ忍びこんで、この壺を縄で松の木へぶらさげたやつがあるんです。いま見つけて、大騒ぎをしたうえあけてみましたところが……」
「ウム! はいっておったか?」
「ですから、落ちついてくださいと申しあげるのです。何もはいっておりませぬ」
「ナニ、壺はから……!」
 夢みるように、じっと考えていた田丸主水正――すると、です。たちまち、ニッと微笑を洩らしたかと思うと、
「ハハア、そうか」
 ここに越前守、愚楽、吉宗公の三人と同じ言葉をつぶやいた田丸老人、きっと高大之進へ眼をすえて、
「蓋がないではないか、これ、この壺の蓋はどうした」
 急にあわてだした家老のようすに、大之進もいっしょにあわてて、
「蓋……と。蓋などは、さっき捨ててしまいましたが――」
「ナ、何? 壺の蓋をすてたと? 馬鹿者めッ! 棄てたとて、まだお庭にころがっておろう。早々(そうそう)に拾ってまいれ、痴(たわ)けがッ!」
 はッ!――とお辞儀をしようとした大之進、なんだか懐中に硬(こわ)ばった物がはいっているから、フト思い出して、
「あ! ここにございました。手前、受けとって懐中へ入れてまいりましたのを、とんと失念。とんだ粗忽をいたしました」
「言い訳はよい。出しなさい、早く」
 こんな壺の蓋なんか、どうでもよさそうなものだのに、お爺さん、年のせいでどうかしてるな――と大之進、心中おかしくてたまらないが、相手が家老ですから、
「中がからっぽで、おまけに蓋がなければ、これこそほんとに身も蓋もない――あいすみません」
 差し出す丸い蓋を、主水は待ちきれぬようにひったくって、しばらくジッとみつめていたが、
「うん、そうだ。この、年々上から上へと張り重ねてきた奉書の封の下に、貼りこめてあるに相違ない。イヤ、こことは誰も気がつかぬであろう。大之進! お家は助かりましたぞ。その床の間のわしの刀の小柄を取ってくれ――待っておれよ。今ここに、柳生の大財産の所在(ありか)をしるした、御先祖の地図を取り出してみせるからな。早く小柄を持ってまいれと言うに。えいッ。何をしておるのだ!」

       九

 壺の蓋をおしいただいた田丸主水正、大之進の抜きとってきた小柄で、丁寧に紙を剥ぎながら、
「高、儀作は?」
 若党儀作のことです。
「おります、さっき庭へ出ておりましたが……お呼びいたしましょうか」
「イヤ、旅立ちのしたくをさせてくれ」
「どこかへ御出発になるので?」
「いま埋宝の所在が明らかになるから、そうしたら、さっそく儀作を国おもてへ知らせに走らせようと思ってな」
「しかし、まだ……」
 ハテナ? と主水正は首をひねった。なんとなく、蓋に貼り重ねてある紙に、最近手をつけたような感じが見られる。だがそれも、ちょっと変だと思っただけで、つぎの瞬間、あせりにあせって紙をめくりすすんでいくと、
「ア、あった! 出てきたぞ」
 さけんだ主水正は、喜びにふるえる手で、剥ぎとった一枚の紙片を高大之進のほうへ突き出した。
 見ると……。
 虫食いのあとのいちじるしい紙に、何やら文字と、地図らしいものがしたためてある。
 虫食いのあとは、線香で細長く焼いたので。
 蓋に貼りこんであった古い奉書の一枚に、薄墨でそれらしく、愚楽老人が書いたのを、いま言ったように線香で焼いたり、ところどころ番茶でよごしたりして、古めかしく見せたものなのです。
「常々あ○○心驕(おご)○て」
 というあたりは、原物のとおりだが……どうも巧みに作ったものです。これなら誰が見ても、御先祖の書き物としか思えない。愚楽老人、実に達者なものだ。千代田の大奥で上様のお背中なんか流しているより、ほかに商売がありそうです。
 ただ日光の金が将軍家から柳生へおりるでは、造営奉行に当たったものが費用万端を受け持つという、在来の慣習が破れてしまう。柳生も受け取ることはできなかろうと、そこで、吉宗、愚楽、大岡越前が相談のうえ、この細工をしたことは、前に言ったとおりですが、主水正、そんなことは知らないから、かぶりつくように読んでゆくと、文句は、ところどころ虫くいらしく線香で焼いてあって、よく読めないが、地図は……。
 地図のほうまでわからなくしてしまっては、なんにもなりません。
 どうやらおぼえのある地図――その下に、一行の文字が走っていて、武蔵国(むさしのくに)江戸(えど)麻布(あざぶ)林念寺前(りんねんじまへ)柳生藩(やぎうはん)上屋敷(かみやしき)。
 オヤ! 主水正、大声をあげた。見おぼえがあるわけで、いま現に自分の住んでいる屋敷の図面ではないか。庭の隅の築山のかげのところに、×の印がついているのは、財産はここに埋ずめてあるというのであろう。主水正と大之進は、顔を見合わせた。双方唾をのみこむだけで、いつまでもだまっている。
 やっとのことで、大之進が、
「御家老、このお上屋敷は、御当家御初代の時代から、ずっとここにお住まいになっていたのでございましょうか」
 主水正は答えません。じっと考えこんでいるうちに、はじめて彼は、思い当たった。
「これは、真のこけ猿ではないのだ」
「えッ? 本物ではない……だが御家老、こうして古い書きつけまで現われ、埋ずめてある場所も、わかったではございませんか。しかも、この屋敷の庭の隅と――」
「大之進、至急したくをしてくれ。お城へあがって……そうじゃ、愚楽様にお目にかかるのじゃ」

       十

 それから一刻(いっとき)、二時間ののちに。
 千代田城の一室で、膝を突きあわせんばかりに対座しているのは愚楽老人と、柳生藩の江戸家老田丸主水正の二人。
「ははア、それはおめでたいことで――こけ猿の茶壺が、そうたやすく見つかって、大金の所在(ありか)も判明いたしたとは、祝着(しゅうちゃく)至極、お喜び申しあげる」
 そう言う老人の顔を、主水正は、じっとみつめてニヤニヤ笑いながら、
「それが、その、ふしぎなことには、林念寺前の手まえども上屋敷の、庭隅に埋めてあるというので、ヘヘヘヘヘ」
 けろりとした愚楽老人、
「それはまた、たいそう近いところで、便利でござるな。これが奥州の山奥とか、九州のはずれとかいうのだと、旅費もかかる。掘り出す人夫その他、第一、他領ならば渡りをつけねばならんしな」
「ハイ、おっしゃるとおりで」
「そんなことをしておっては、ちっとやそっとの財産は、それで元も子もなくなってしまう。掘り出す費用と、掘り出す財産と、ちょうどトントンなどというのでは、やりきれんからな」
「ハイ、おっしゃるとおりで」
「さすが思慮深い御先祖だけあって、埋めるときまでに、そこらの点も御考慮になったものとみえる、イヤ、恐れ入った。持つべきはいい先祖だな」
「恐れ入ります。ところで、ふしぎなことがございますので――」
 よけいなことを言わせてはならないと、愚楽は大急ぎに、おっかぶせるように、
「それで、もはやその庭の隅をお掘りになったかな?」
「イエ、まだでございます。とりあえずこちら様へ、お礼言上に……」
「お礼? なんの、わしに礼を言うことがあるものか。――ウム、ナニ、自分の屋敷の隅なら、掘ろうと思えばいつでも掘れる。マア、そうあわてるにおよぶまいからな」
「ところが、ふしぎなことがございますので……」
 主水正、まだやってる。
 チェッ! 血のまわりの悪い親爺を、家老だなんて飼っておくもんだ。こっちの心づかいを察して、だまって掘り出しゃアいいのに――と愚楽老人は、ジリジリしながら、
「ふしぎ……とは、何がふしぎで?」
「ヘヘヘヘヘ、実はどうも、なんともはや、申しわけございませんしだいで」
 と主水正、急に懸命にあやまりだしたから、サアこんどは愚楽老人のほうがわからない。眼をパチクリさせていると、主水正は首筋をかきかき、言いにくそうに、
「実は、お屋敷替えになって、ただいまの林念寺前に移りましたのは、一昨年のことでございます」
 ア! そうか!――と、そこまでは気がつかなかった愚楽老人、大狼狽(だいろうばい)をかくして、
「ホホウ、そうでござったかな」
「それまであそこは、京極左中様のお屋敷で、どうも手前どもの先祖は、人様のお屋敷へ忍びこんで、財産を埋めたものと見えまして、なんともハヤ、不調法を働きましたしだい、実に、どうも――」
 そんなことを洗いたてずに、ありがたくちょうだいしておけばいいのに、剣術の家柄の家老だけに、いやにカチカチの、融通のきかない親爺じゃな――愚楽老人はおかしいのをこらえて、
「イヤ、すると、当時あの辺は、野原か森ででもあったのでしょう」

       十一

 愚楽老人と主水正とのあいだに、いかなる長話があったものか……。
 それはわかりませんが。
 老人、スッカリうち明けて、この頑固一徹の柳生家在府家老を説いたものとみえます。
 ピッタリ両手をついてひれふしている主水正の前へ、愚楽さんは、ニヤニヤした顔を突き出して、
「じゃから、そういうわけじゃから、御藩をとりつぶそうのなんのというのが、決して御公儀の考えであるわけはなし、いわば、こけ猿の蔵しておる秘財の何分の一、イヤ、何十分の一――それは、真のこけ猿がみつかり、宝の所在が明らかにならねば、いかほどまでに莫大なる財産かわからぬから、しかとしたことは言えぬが、とにかくその一部分を日光につかわせようというのが、将軍家のありがたいおぼしめし……」
 あんまりありがたくもありませんが、そう言われる以上、主水正、いかにもありがたそうに白髪頭をいっそう畳にこすりつける。
 愚楽さんは静かに説きすすめて、
「しかるに、こけ猿に意外の邪魔がはいり、真偽いずれともしれぬ壺が、いくつとなく現われた」
「ハッ、その儀は、手前ども柳生藩の者一同、実にどうも、近ごろ迷惑しごくのことに存じおりまするしだいで」
「イヤ、そうであろう。黄金(こがね)のうずたかきところ、醜きまでにあらわな我欲迷執(めいしゅう)の集まることは、古今その軌(き)を一つにする。上様におかせられても、お手前らの困憊(こんぱい)がお耳に達し、なんとかして公儀の手をもって真のこけ猿(ざる)を発見してやりたいものじゃと、わしにお言葉が下がったので、届かぬながらもこの愚楽が、大岡越前守殿と相談のうえ、ある巷の侠豪……その者の名は言えぬが――に頼んでナ、ひたすら捜索してもらったのじゃ」
「ありがたき御芳志(ほうし)、手前主人にもなれなく取りつぎまする考え、いかに感佩(かんぱい)いたしますことか……」
「ところで、貴殿にうかがうが、いったい柳生のこけ猿と申すは、いくつあるのかな?」
「ハ?」
 と、ふしぎそうな顔を上げた主水正、
「いくつと申して――むろんそれは、一つにきまっております。他はすべて贋物」
「サア、それはわかっておるが、その贋のこけ猿が、二つ三つ御藩の手もとにも昔から伝わっておるのではないかな?」
「イヤさようなことはないと存じまするが、しかし、こけ猿の儀につきましては、国元なる一風宗匠と申す藩のお茶師にきいてみねば、何事も手前一存にては申しあげかねまする」
「そうであろう。先日某所より入手いたした茶壺、これこそは真のこけ猿に相違なしと、上様と越州と、拙者といきおいこんでその壺の紙を剥ぎ取りたるところ、なるほど虫食いのあとはげしき古図一枚、現われはしたものの、文言地図等簡略をきわめ、とても、思慮ある柳生家御先祖の真の書き物とは思われぬ。その虫食いのあとなどもナ、はなはだ怪しきもので――じゃが、こういつまでも本物のこけ猿がお手にはいらぬようでは、柳生殿の御迷惑こそ思いやらるる。でナ、こけ猿の詮索はしばらく第二に、御造営に入用な額だけは、上様のポケット・マネイを……ということになったのじゃ。マア、何も言わずに、お庭の隅を掘ってみなされ。正直爺さんポチが鳴く。大判小判、ザック、ザク――あっはっはっは」

   お鍬祭(くわまつり)


       一

「つつしみつつしみて申す。わが先祖(おおおや)ここに地下(ちのした)に黄金(こがね)を埋ずめ給いてより、梵天帝釈(ぼんてんたいしゃく)、天の神、地の神、暗の財宝(たから)を守り護り給うて……つつしみつつしみて申す」
 変な文句だが――。
 これでも田丸主水正、その白髪頭に、もう四、五本白いのをふやして、ひと晩かかって、やっと考えぬいた、これが、いわばまア、即席の祝詞(のりと)なんです。
 高大之進をはじめ尚兵館の若侍一同、今日は裃を着て、くすぐったそうに並んでいる。
 場処(ところ)は、麻布林念寺前なる、柳生対馬守のお上屋敷。
 お稲荷様をまつってある築山のかげ。
 きょうはそのお稲荷さまなんか、あれどもなきがごときありさまで、今その祠(ほこら)のうしろの庭隅に、この壮大なお祭りが開かれようとしています。
 称して……お鍬祭。
 土を掘る縁起祝いだ。
 愚楽老人に対面して、急いでお城をさがった主水正、ひそかににせ猿の示した庭の隅へ行ってみるとなるほど、そこが三尺四方ほど新しい土を見せている。たしかにゆうべあたり掘り返して、何か埋ずめてあるらしい形跡。
 愚楽老人配下の忍びの者が五、六人、ゆうべこっそりこの邸内へ潜入して、ここに日光の費用を埋ずめ、またあの細工入りの壺を、松の木にひっかけていったというわけ。
 今は主水正、すべてが明らかだが、人心の動揺を思っては、これはあくまで先祖の埋ずめたもの、あの壺はどこまでも正真正銘のこけ猿ということに見せかけて、苦しい一時を糊塗せねばならぬ。
「殿の御出府を待って、しかるうえに、お手ずからお掘り願うとしよう。それまでは、何者もこの庭隅に近よることはならぬ。昼夜交替に見はりをいたせ」
 つい一昨年(おととし)まで他人の住まいだった屋敷に、こけ猿の財産が埋ずめてあるなんてエのは、どう考えてもうなずけない話だから、藩士一同、それこそ、お稲荷さまの眷族(けんぞく)に化かされたような形。
 それでも。
 埋宝発見の心祝いに、潔めの式をせねばならぬと言われて、こうして正装に威儀をただし、ズラリと変な顔を並べている。
 屋敷の庭の一隅が、急に聖地になりました。
 一坪の地面に青竹をめぐらし、注連縄(しめなわ)をはり、その中央に真新しい鍬を、土に打ちこんだ形に突きさして、鍬の柄(え)に御幣を結び、前なる三方には、季節の海のもの山のものが、ところ狭いまでにそなえてある。
 田丸主水正、いま前に進み出て……つつしみつつしみて申す、とやったところだ。
 若侍の一人が、となりの袂を引っぱって、
「ウフッ、どうかと思うね」
「こういうてがあるとは、知らなかったよ」
「こんなインチキをしていいのかしら」
 高大之進が振りかえって、
「もろもろはだまっておれ」
 めでたく式は終わって、これから大広間で酒宴に移ろうとしていると、合羽姿もりりしく、手甲脚絆、旅のこしらえをすました若党儀作が、やっと人をかき分けて、主水正に近づき、
「御家老、それでは私は、これからただちに伊賀のほうへ――」
「ウム、急いで発足してくれ。道中気をつけてナ」

       二

 東海道を風のようにスッ飛ぶ超特急燕、あれでもおそいなどと言う人がある。もっとも、亜米利加の二十世紀急行、倫敦(ロンドン)巴里(パリー)間の金矢列車(ゴールド・アロウ)、倫敦エディンバラ間の「飛ぶ蘇格蘭人(フライング・スカッチマン)」……これらは、世界一早い汽車で。
 人間には、欲のうえにも欲がある。その欲が、進歩を作りだすのですが。
 どこへゆくにもスタコラ歩いた昔は、足の早い人がそろっていたとみえます。
 早足は、修練を要する一つの技術だった。
 歩きじょうずの人の草鞋(わらじ)は、つまさきのほうがすり切れても、かかとには、土ひとつつかなかったものだそうで、つまり、足の先で軽くふんで、スッスッと行く。
 呼吸をととのえ、わき眼をふらずに、周囲の風光とすっかり溶けあって、無念無想、自然のひとつのように、規則正しく歩を運ばせる。
 この早足については、いろんな話がのこっております。水のいっぱいはいった茶碗をささげて、一日歩いても、一滴もこぼさなかったなんてことをいう、完全にからだの平均がとれて、一つもむだな動きがないから、全精力をあげて歩くほうに能力があがったというわけでありましょう。
 また。
 あるおそろしく足の早い人は、胸へ紙一枚当てて歩いて、けっして落ちなかったという。
 そうかと思うと、ある人の通り過ぎたあとには、あまりの勢いに空気が渦をまいて、屋根瓦が舞いあがるやら……そんなのは当てにならない。
 林念寺のお上屋敷をあとにした柳生家の若党儀作、たった一人で、伊賀の国をさして江戸を出はずれました。
 妙な荷物をかついでいる。
 例の松の木にぶらさがっていた贋のこけ猿を、ぐるぐるッと風呂敷包みにして、ヒョイと背中へはすかいに――。
 この壺の一伍一什(いちぶしじゅう)を知らせに走るのだから、証拠物件としてしょって来たのだ。
 同時に。
 壺の騒ぎを知る人に対しては、こけ猿ここにあり、という宣伝にもなる、が、何も御存じない連中には、大きな茶壺をしょって粋狂な! としか見えません。
 品川から大森の海辺へかけては、海苔をつけるための粗朶(そだ)が、ズーッと垣根のように植えられています。名物ですなア。
 これが、江戸(えど)の江戸らしいものと別(わか)れる最後(さいご)。
 急ぎの旅だから、いい景色も眼にはいりません。六郷の水は、ゆるやかに流れて、広い河口のあたり、蘆のあいだに上下する白帆が隠見する。
 やがて神奈川、狩野川をはさんだ南北に細長い町。海に面した見はらしのいい場所に、茶店が軒を並べております。おなじみの広重の絵を見ましても、玉川、たるやなどとありますとおり。
 有名な文句の、
「おやすみなさいやアせ。あったかい冷飯もござりやアす」
「旦那さん、煮たてのさかなのさめたのもござりやアす。おやすみなさいやアせ」
 細い坂みちに姐さんたちが出ばって、口々に客を引く。儀作もようやく咽喉の乾きをおぼえましたので、潮風の吹きあげる縁台に腰かけて、
「日中はなかなかむすじゃあねえか」
 額の汗をふいておりますと、
「おやすみなさいやアせ」
 表のほうに、客引き女の黄色い声がわいて、儀作のあとを追うように、ズカリとその茶店へはいってきた一人の男。
 唐桟(とうざん)の袷をつぶに着て、キリッとしりばしょりをしている……小意気な、ちょいとした男前。

       三

 ひさしぶりに、鼓(つづみ)の与吉。
 彼は。
 同じような茶壺がいくつも出てきて、与吉、とほうにくれてしまったんです。
 そのうえ、丹下の殿様も、酷(むげ)えことをしたもので、あの伊賀の暴れん坊といっしょに、渋江の寮の焼け跡で穴埋めにされてしまった。
 あのあとから、泰軒坊主とトンガリ長屋の連中がおしかけて、掘り返したそうだが、出てきたのは、水、水――水だけだったと聞いたが……それはそうと、若き主君を失った源三郎づきの伊賀侍たちは玄心斎、谷大八をはじめ、一同まだ妻恋坂の司馬の道場にがんばっている。あの若者にかぎって、奸計におちいるようなおひとではない。かならずや近いうちに、どこからかブラリと現われるに相違ない。相変わらず蒼白い顔に、不得要領の笑みを浮かべて、ふらっと懐手をしたまんま。
 そう信じて、みんな今か今かと、源三郎の帰りを待ちかまえている。同じ屋敷内の峰丹波一味と、いまだに睨み合いをつづけたなりで。
 本物の壺がどこにあるかわからないから、どっちについていいか見当のつかない鼓の与の公。
 おっかなビックリで訪ねて行った尺取り横町のお藤姐御の家には貸家札がななめに貼られて……。
 近処の人に、それとなく聞いてみると、
「サア、なんですかね。もうだいぶ前ですけれど、姐さんはバタバタ家をたたんで、どこか旅に出るとかって、フラッといなくなりましたよ。もう江戸にはいないと思いますがね」
 という返事だ。
 そこで。
 鼓の与吉。
 あちこちへ眼(まなこ)をはなって、世間のようすをながめると――。
 チョビ安は泰軒先生に引き取られてトンガリ長屋の作爺さんの家に、お美夜ちゃんを加えて四人、水いらずの楽しい暮し……というところだが、泰軒とチョビ安、大小二人のかわり者が、作爺さんの屋根の下に居候にころがりこんでいるわけ。
「あのチョビ安を抱きこんで、ここでなんとか一芝居うってみてえものだが――」
 とは思うものの、与の公、頭をかいて、
「どうも、あの泰軒てえ乞食野郎がいるあいだは、恐ろしくて寄りつけもしねえ」
 手も足も出ない与吉。それでもまあどうやら丹波の御機嫌を取りなおして、妻恋坂道場の供待ち部屋にごろっちゃらしながら毎日、麻布林念寺前の柳生の上屋敷のあたりをうろついていますと……。
 ある日のこと。庭の隅がガヤガヤするから、武者塀の上からヒョイとのぞいて見ると、注連縄を張りめぐらし、ありがたそうに鍬を拝んで……お鍬祭。
 ふしぎなことをすると思った与の公、とび帰って峰丹波に報告する。
 さすがは、不知火流の師範代として、智も略もある人物。じっと眼をつぶってしばらく考えていたが、
「与吉、すまぬが、すぐに草鞋(わらじ)だ」
「ヘエ、あっしがはきますんで。だが、どっちの方角へ向けてネ?」
「ウム、今日にも林念寺の屋敷から、国おもて柳生藩をさして、急使がたつに相違ない。貴様、そのあとをつけてナ、ようすをさぐるのじゃ。源三郎の兄対馬守が出府するようなことがあっては、当方にとってこのうえもない痛手じゃからのう」
 みなまで聞かずに、気も足も早い与吉兄哥(あにい)、オイきたとばかり、すぐその場からお尻をはしょって、東海道をくだってきたのです。

   旅(たび)は道(みち)づれ


       一

 一本道の街道筋。
 チラホラ先へ行く旅人のなかに壺をしょって、恐ろしく早足にすっとんで行く若党姿を認めたのは与吉が六郷の川を渡って、川崎の宿へはいりかけたころだった。
 たびたびのことで懲(こ)りているから、それをけっしてほん物のこけ猿だとは思わないが。
 なにしろマア、ここでひさしぶりに茶壺らしい物を拝むとは、幸先(さいさき)がいい。おおぜいの人数で、大さわぎしてまもって行く壺こそ、贋物かもしれねえが、こうやって若党一人が、何気なく見せかけて、ヒョイと肩へかついでゆく壺……こいつはおおいに怪しいぞ。
 芝居気のあるやつで、道の真ん中に立ち止まり、左の袖口へ右手を入れて、沈思黙考の体よろしく、与の公、首をひねったものだ。
 それから。
 腰の手拭をバラリと抜いて、スットコかぶり、あんまり相のよくない風態です。
 すたすたと足を早めたまではいいが、先方の若党も、おっそろしく足がきく。
 はじめ、与吉の考えでは。
 柳生藩の急使という以上、すくなくとも五人や十人の供を連れて宿継ぎの駕籠かなにかで、ホイ! 駕籠! ホイ! とばかり、五十三次を飛ばして行くに相違ない。
 自分はひとまずさきに街道へ出て、どこかの立場茶屋にでも腰をかけ、眼を光らせていれば、金輪際にがしっこはないのだ。見つけしだい、あとをつければいいと、そう思って、柳生の使いより先に旅に出たつもりなのだが……。
 いくら振りかえっても、早駕籠はおろか、急使らしいもののかげも見えない。
 ハテナ?
 と与の公、小首をかしげたとたんに、六郷の宿で、この、さきへ行く壺の姿を見つけたというわけなんだ。
 儀作の足も早いが、与吉の韋駄天は有名なものです。
 今まで毎々(まいまい)ヤバイからだになって、一晩のうちに何十里と、江戸を離れてしまわなければならない必要にせまられるから、いやでも応でも、早足は渡世道具のひとつ。
 で……やっと追いついたのが、この神奈川の腰かけ茶屋。
「おやすみなさいやアせ」
「何を言やアがる。やすむなといったって、おいらアこの家に用があるんだ。今ここへ、茶壺がへえったろう」
 オットットット! 口をおさえた与吉、見ると、土間をつっきった奥の腰かけに、その茶壺のつつみをそばに引きつけた若党が、渋茶か何かで咽喉をうるおしているから、イヤ、与の公、ことごとくよろこんじまって、
「これは、どうも。よい風が吹きますなあ。そのお腰かけの端のほうを、あっしにも拝借させていただきやしょう」
 口のうまいやつで、そんなことを言いながら、
「あれが安房(あわ)上総(かずさ)の山々、イヤ、絵にかいたような景色とは、このことでしょうナ。海てエものは、いつ見ても気持のいいもので」
 一人でしゃべりちらして、海にみとれるふう……かたわらにある儀作の飲みかけの茶碗をとって、口に持ってゆこうとする。儀作がおどろいて、
「ああもしもし、それは私の茶碗だが――」
「オヤ! そうでしたね。イヤ、これはとんだ粗忽(そこつ)を。だがね、あなた様のお飲みかけなら、あっしは、ちっともきたないとは思いません。イエ、お流れをちょうだいいたしたいくらいのもので」
「何をつまらんことを言いなさる。ソレ、お前さんの茶碗は、ここにあるよ」

       二

「なるほど、あらそわれねえものだ。あっしの茶碗は、ちゃんとここにあらアヘヘヘヘ」
 なんかと与の公、何があらそわれねえものなのか……しきりに感心している。
 ガブリとひとつ茶を飲んで、何やかや一人で弁じだした。
 口前(くちまえ)ひとつで人にとりいることは、天才といっていいほどの鼓の与吉。
 武家奉公で世間もせまく、年も若い儀作は、これが機会(しお)となって、うまうままるめこまれたと見える。
「旅は道づれ、世は情けてえことがありまさあ」
 与吉のやつ、古い文句をならべて、
「オウ、姐さん、茶代はここへ置くよ。このお侍さんの分もナ」
 チャリンと二つ三つ、小粒を盆へ投げだす。
 儀作はおどろいて、
「イヤ、私の分まで置いてもらうわけはない。どうぞ、さような心づかいは御無用に願いたい」
 与吉は平手で額をたたいて、
「そうおかたいことをおっしゃるもんじゃあござんせん。ナニ、ほんのお近づきのおしるし、ヘヘヘヘヘ、手前の志でございますよ」
 相手にものを言わせまいと、与吉は大声に、
「へらへらへったら、へらへらへ! へらへったら、へらへらへ――サア、めえりやしょう。あっしゃアね、真実、旦那の気性(きっぷ)に惚れこみやした。実にどうも、お若いに似ずたいしたもので。さすがはお侍様……あっしみてえな下司な者と同道しやすのは、さぞ御迷惑ではござりましょうが、そこがソレ、ただいまもいう旅は道づれ、へらへったら、へらへら……」
 先に立って腰かけを離れた与の公は、ごく自然に壺へ手を出して、
「お荷物、お持ちやしょう」
 と壺を取りあげようとするから儀作は胆をつぶし、
「アイヤ、それは主君よりおあずかりの大切なお品。手を触れてはならぬぞ」
 旦那とかお侍とか、さかんにおだてられて、若党儀作、ちょいといい気持になってしまった。いっぱしの武家らしく、言葉使いも急に角ばってきたのは、与吉のおべんちゃらが即効を呈したのでございましょう。
 人間の弱点。
 それを見ぬいている与吉は、
「マアマアそうおっしゃらずに。持ち逃げしようとは申しません。旦那の家来とおぼしめして、あっしにお荷物をかつがせておくんなせえ」
 とめる暇はなかった。
 つつしんで壺の包みを持って、与吉のやつたちあがってしまったから儀作もしかたない。ナニ、すこしでもあやしいふしが見えたら、そのときとっておさえればいいのだと、
「おもしろい町人だ。では、ソクソクまいるとしようか」
 いつも家来の身が、急に家来ができたのですから、にわかにそっくりかえって、茶店をあとにしました。
 袖すり合うも他生(たしょう)の縁。
 つまずく石も縁の端。
 いろいろ便利な言葉がある……この場合、与吉にとって。
 そんなことをベラベラ弁じたてながら、与吉は儀作から一歩さがって、お追従たらたらについてゆく。
 もとより、気を許しはしない。
 変なそぶりが見えたら、抜きうちに……儀作が心を配って行くと、
「オヤッ! あれはッ!」
 不意に手をあげて、与の公、前方(まえ)を指さした。
「なんじゃ! 何が見える」
 儀作がつりこまれて、爪立(つまだ)ちして道のむこうを望み見たとき。パッともと来たほうへかけだしたんです、与吉の野郎。

   鎧櫃(よろいびつ)


       一

 あれから、何日たったろう。
 それとも、もう十何日?
 とにかく……。
 今になっても、柳生源三郎が現われないところをみると、あのとき、あの穴の底で三方子川の水にひたされて、お陀仏になったにきまっている――。
 とは、峰丹波一味の、たれしも思うところ。
「ああ、自分ほどあわれなものがあろうか。恋しいと思う人を、あんな手段で亡きものにしなければならなかったとは」
 かってな人もあったもので、こんなことを考えてひとりふさいでいるのは、司馬十方斎先生の御後室、お蓮様。
「でも、あの方もあまり強情すぎたから、こんなことになったんだわ」
 胸に問い、胸に答えて、このごろは部屋にとじこもって考えこんでばかりである。
 ふしぎなのは、同じ屋敷内の奥まった部屋部屋にがんばっている安積玄心斎、谷大八等、伊賀から婿入り道中にくっついてきた連中です。
 主君の仇敵(かたき)は、同じ邸内のこの丹波とお蓮様の一味とわかっているはずなのに。
 源三郎はいてもいなくても、同じことだと言わぬばかり、なんのかわりごともなかったかのごとく、今までと同じく朝夕を続けているだけ。
 渋江の寮の火事から、この妻恋坂の道場へ引きあげた当座は、今にも、奥座敷の伊賀侍から斬り込みがくるかと、日夜刀の目釘を湿し、用心をおこたらなかった丹波の一党も、何日過ぎてもなんのこともないので、だんだん気がゆるみ、
「柳生一刀流などと申しても、しょせんは、一人二人の秀抜な剣士をとり巻く烏合(うごう)の勢にすぎぬとみえますなあ」
「さようさ。まず柳生対馬守と源三郎、恐るべきはあの兄弟だけで、ほかには骨のある者ひとりもおらぬとみえる。主人に害を加えたは、われらとわかっておっても、復仇(ふっきゅう)ひとつくわだてるではなし、ああやってのんべんだらりと日を送っているとは、イヤハヤ、見さげはてた腰ぬけの寄りじゃテ」
「ひとつ、笑ってやれ、そうじゃ、皆そろって、笑ってくれようではござらぬか」
 などと、ものずきな若いやつらが五、六人、縁側へ出て、奥庭のほうをむいてワッハッハッ、ハッハッハッ……と、頼まれもしないのに、御苦労さまに笑い声を合わせる。
 妻恋坂上一帯を領している、宏大もない司馬の屋敷。
 植えこみやら、芝生の小山やらをへだてて、はるかむこうの棟に、伊賀の連中がいすわっているのですが、しんとしずまりかえって、ウンともスンとも答えない。
 はやる若侍たちを一手におさえて、師範代安積玄心斎が、
「マア、待て! 早まったことをしてはならぬ。今にも殿がお帰りになろうもしれぬ。その話をうけたまわったうえで、御命令ひとつでは、剣の林はおろか、血の池へもとびこみ、しかばねの山を築こうわれらではないか。コレ、しばらく忍べ」
 と、必死にしずめているのです。
 事実、今にも源三郎が、フラッと帰ってくるに相違ない――玄心斎は、そうかたく信じて疑わぬので。
 しかし。
 亡くなった老先生に、萩乃の夫と懇望され、藩主対馬守とのあいだにかたい話し合いがついて、それで乗りこんできたこの婿入り先なのに、その不知火流の道場には、意外な陰謀が渦を巻いていて、肝腎の若君はいま行方不明……。
 源三郎に陰膳すえて、道場方とにらみ合い――ふしぎな生活がつづいている。

       二

「御気分はいかがで」
 峰丹波は、大きなからだに入側(いりかわ)の縁をきしませて……表むきはどこまでも、御後室様と臣です。申し訳にそっと片膝ついて障子をあけながら、そう、面ずれの跡のどぎつい顔を、お蓮さまのお部屋へさしいれた。
 侍女をも遠ざけて、ただひとり。
 脇息(きょうそく)に、ほっそりした被布(ひふ)姿をよりかからせていたお蓮様は、ホッと長い溜息とともに、眉のあとの赤い顔をあげるのも、ものうそう……。
「何度も言うようじゃが、寝覚めが悪いねえ、丹波」
「またさようなことを――!」
 眼も口も、人の倍ほどもある大柄な丹波の顔に、すごい微笑(えみ)がみなぎって、
「お蓮様ともあろう方が、あんな青二才のことをいつまでも――はっはっはっは、イヤ、私はまるで胸がつかえるようなうっとうしい気持です。あっちへまいれば、萩乃様は萩乃様で、源三郎をおもって、シクシク泣いてばかりおいでになる。こっちへ来ればこっちで、あなた様が同じ源三郎をあきらめきれずに、この気っ伏せのありさま。どうもおもしろくない」
 と、はいって来て、
「いけませんな。そうクヨクヨなされては。なくなった大先生のおぼしめしどおり、源三メを萩乃様に添わせて、われらはこの道場を立ちのくか――面目にかけてそれができぬ以上、あれくらいの荒療治は当然ではござりませぬか。サ、御後室様、お気をなおして、すこしお庭先でもお歩きになっては」
 お蓮様は返事もしない。頭痛でもするのか、白い華奢(きゃしゃ)な指さきで、しきりにこめかみを押え、額に八の字を寄せてだまりこくっている。
 丹波もしばらく無言。ジットそのようすをみつめていたが、やがて、ズイと双膝(もろひざ)をすすめて、
「御相談……」
「なんだエ? また御相談――ほほほ、お前の相談というのは、悪いたくらみにきまっている」
「同じ穴の狸ではござらぬか、そうどうも信用がなくては、ははははは」
 声だけで笑った丹波、キラリと眼を光らせると、声を低めて、
「もう今となっては、万が一にも柳生源三郎が、生きてかえる心配はございませぬ。今日まで待ってなんの音沙汰もないところをみると、もはや大丈夫……そこで今日にでも拙者が、亡き先生のお跡目になおり、この道場をいただくという流名相続の披露をいたしたいものでござるが」
 予定の計画ですから、お蓮様はいまさら驚くこともない。むしろ自分から出た陰謀だ。もしあの源三郎に、恋を感じてさえいなければ、永年の願望がやっときょう成就すると聞いて、お蓮様はどんなにかこおどりしたことでしょうが――運命の皮肉、先妻の娘萩乃の婿に迎えた源三郎を、こんなに、心ひそかにしたっている現在のお蓮さまとしては……。
「そうねえ。もう、そうするよりほか、ないだろうねえ」
「ナ、何を――今となって、何を言わるる!」
 丹波は……。
 この盛大な十方不知火流の道場とともに、お蓮様とも天下晴れて……だがお蓮様よりは、道場のほうがありがたいのが、丹波の本心です。しかし、それも、故先生の後釜に、お蓮様のもとへ入夫する形でこそ、道場も自然におのが懐(ふところ)へころげこもうというものですから、この土壇場へ来て、こうもにえきらないお蓮さまの態度を見せられては、
「出るところへ出て、拙者がこの口をひらこうものなら、同罪ですぞ、お蓮様」
 詰め寄りました。
 丹波も懸命です。

       三

 ものうい初夏の午後だ。はるか妻恋坂の下からのどかな余韻を引いてあがってくる、苗売りの呼び声……。
 お蓮様にしたところで、十分この道場には未練があるし、それに、もともと丹波はきらいではないのですから、二言と否(いな)は申しません。
 さっそく峰丹波をもって、この道場の相続に立てるという……すっかり準備がととのって、その夜、ただいまの時間でいえば、午後七時ごろに、道場の正面に亡き十方斎先生の位牌を飾り、その前に遺愛の木剣を置いて――これがまず式場です。
 この不知火道場のしきたりとして、何かあらたまった式事の場合にはかならず家重代に伝わる鎧櫃(よろいびつ)を取り出して、その前でおごそかにとりおこなうということになっている。
 新しい入門者があって、現代でいえば宣誓式のようなことをするのも、この鎧櫃の前。
 免許皆伝の奥ゆるしをとった者が、その披露をする座にも、その鎧櫃を飾る。
 ふだんは土蔵にしまってありますのを、むろん今日は、相続披露の式場へ運び出すことになりまして、二、三人の若い弟子が、
「貴公、そっちを持て。からだから軽いだろうが、大切な品だから、粗忽(そこつ)のないように、皆で気をつけて持ってゆかねばならぬ」
「そうだ。オイ、青木、お前も手を貸せ」
「よしきた。しかし、なんだな、峰先生は、やっと本願を達したというものだな。え、馬鹿を見たのはあの伊賀の暴れん坊だよ。婿の約束はぐれはまになる。こけ猿の茶壺は盗まれる、故先生のとむらいの席へのりこんで、りっぱに見得をきったまではいいが……」
「そうだテ、あとがよくねえ。本人だけは、あくまで萩乃様の良人のつもりでいても、内祝言(ないしゅうげん)はおろか、朝夕ろくに顔を見たこともない。おまけに、ああやって家来を連れて、無茶ながんばりをやっておるうちに峰先生のペテンにかかって、火事にまぎれておとし穴とは、よくよく運の悪いやつだな」
「しかし、それがしは萩乃さまがお気の毒でならぬよ。毎日毎日ああ泣いてばかりおられては、今に黒眼が流れてしまいはせぬかと――」
「まったくだテ。あの悲しみに沈んでおられた萩乃様を、どうで今夜の席へ引っぱり出すのかと思うと、おいたわしくてならぬ」
「サアサ、むだ口はあとにして、はよう席をととのえねばならぬ。峰先生がお待ちかねだ。よいか、そっちの端を持ったか、山口」
「ウム、サアゆこう……オヤ、これはどうした!」
「ヤ! おどろいたな、どうも……からだと思ったのに、これはいったいどうしたのだ。ヤケに重いぞ、この鎧櫃は」
 山口達馬に青砥伊織(あおといおり)という、名前だけは一人前(いちにんまえ)の若い門弟が二人軽いつもりで持ち上げようとしたその鎧櫃が、めっぽう重いので、ビックリ顔を見あわし、ポカンと立っておりますと……。
 青木三左衛門という、この方はすこし年をとっております。横鬢(よこびん)のところが、こう禿げあがっていて、分別顔。
「ナニ、そんなに重いはずがあるものか。具足がはいっておるかもしれんから、ことによると多少は重いであろうが――さア、手を貸そう」
「ウム」
 と、三人のかけ声で、やっと鎧櫃を持ち上げてみると、なるほど重い。
 だが、鎧やら何やらはいっているだろうと、青木三左衛門、山口達馬、青砥伊織の三人、べつにそうふしぎにも思わず、小倉の袴をバサバサ言わせて、式場なる道場までかついでまいって、正面に置きました。

       四

 サア、何十畳敷けるでしょう……。
 広い板の間の道場。
 正面には、故司馬先生の筆になる十方不知火の大額をかかげ、その下の、一段小高い畳の壇上、老先生、老先生ありし日には、あの白髪赭顔(しゃがん)のおごそかな姿が、鉄扇を斜(しゃ)に構えて、そこにすわっていられたものだが。
 今そのかわりに、金唐革(きんからかわ)の鎧櫃が、ドッシリと飾られて――。
 蔵からここまで持ってきた山口達馬、青砥伊織、青木三左衛門の三人は、その、異様に重い鎧櫃に、格別不審をいだきませんでした。
 筑紫の名家、司馬家です。鎧、兜、刀剣など、代々伝わる武具だけでも、おびただしい数にのぼっている。それを誰かが、鎧櫃へ入れておいたのだろうと、そう思うまでで。
 別棟に陣どっている、源三郎手付きの伊賀侍たちが、当てもなく若君の帰館を待っているあいだに、彼らに気づかれぬよう、そっとこの式をあげてしまわねばならぬ。
 峰丹波がこの不知火流の名跡(みょうせき)を継ぎ、司馬十方斎のあとを襲うとの披露をしてしまったあとで、あの柳生一刀流の連中に正式にかけあって、邸外へおっぽり出してしまおうという魂胆。
 紋付袴に威儀を飾った不知火の弟子一同、静かに道場へはいってきて、壁を背に、左右に居流れる。正面壇上には、いくつとなく燭台を置いて、かがやくばかり……諸士の前には、ほどよきところに、ズーッと百目蝋燭を立てつらね、それが、武者窓をもれるあわい夜光と交錯して、道場全体、夢のような気にしずんで見える。
 鎧櫃の前に、裃を着(ちゃく)した峰丹波が、大きな背中を見せて端坐。
 その横に、被布(ひふ)の襟をかすかにふるわせて、お蓮様がうつむいている……ひそかに絹ずれの音が、一方の入口から近づいて、なみいる一同の眼がそっちへ向いた。
 泣きたおれんばかりの萩乃である。
 常ならば、澄みきった湖心のような美しい眼が、赤くはれあがっているのは、いまの今まで涙にくれていたものとみえる。二人の侍女に左右から助けられて、ソロリソロリと、足を運ばせてくる姿は、さながら重病人のようだ。
 席がきまると、
「エヘン……」
 出もしない咳(せき)ばらいをして上座(かみざ)にたちあがったのは、結城左京――あの、穴埋めの宰領をつとめた男。小腰をかがめて、ツツツウと丹波の横手へ進み、皆のほうを向いて、懐中から何やら書き物を取り出しました。
 奉書。
 つごうのいいかってなことがならべてあるに相違ない――左京、とっておきの声を張りあげて、読みはじめたのを聞くと、
「先師、司馬十方斎先生亡きのち、当道場のお跡目いまだ定まらず、もはやこれ以上延引いたす場合は、御公儀のきこえもいかがかと案じらるるまま……」
 なんかと、うまいことが書きつらねてあって、結局、峰丹波先生にとっては、これほど御迷惑なことはないであろうけれども、門弟一同の総意として御推挙申しあげるのであるから、どうぞどうぞお願いだから、この道場のあるじになっていただきたい――。
「……以上、道場総代、結城左京」
 読み終わった彼、一統のほうへ向いておごそかに、
「さて、諸君! 峰先生を流師とあおぐことに、誰も異議はあるまいな?」
 みんな黙って、いっせいに頭をさげた。と、そのとき、
「異議あるぞ」
 どこからか、小さな声が……!

       五

 異議あるぞ!――という妙にこもった声が、しんとした空気をふるわせて、ハッキリと一同の耳にはいったから、さア、野郎ども、ぎょっとした。
 膝に置いた両手で、そのまま袴をギュッとつかんで、思わず身をかたくしました。
 誰よりも驚いたのは、当の丹波とお蓮様、左京の三人――その結城左京の手にしている口上書の紙が、恐怖にカサカサと鳴るのが、聞こえる。
 ピンの落ちる音も、大きな波紋のようにひびくという静寂の形容はこういう息づまる瞬間のことを言うのでありましょう。
 唇を真っ白にした左京、かすれた声をあげて、もう一度、
「峰丹波先生が、当道場のあるじに直られることについて、むろん、誰一人として異議を唱える者はないであろうな?」
「いいや! おれは不服だ! おれは不承だ!」
 地の底? 地獄の釜の下――陰々たる声が……。
 とてもはやかった、そのときの一同の動作は。
 パッと弟子どもが片膝をたてた刹那、なかからあいたんです、鎧櫃の蓋が。
 お蓮様は、うしろざまに手をついて、今にも失神せんばかり――萩乃はかたわらの侍女の手をグッと握って、はりさけそうに眼をみはっている。
「何者だッ!」
 叫んだ丹波、とっさに腰を浮かすと同時、引きつけた大刀の柄に大きな手をかけながら、
「出入口に締りをしろッ!」
 門弟のほうへ向かってあわただしい大声。この相手は何者にしろ、道場から一歩も出さずに、押っ取りかこんで斬りふせてしまおうというので。
「ワッハッハッハ、だいぶおもしろそうな芝居だったが、イヤ、この狭いなかに身をかがめておるのは、丹下左膳、近ごろもって窮屈しごくでナ」
 声とともにその鎧櫃の中から、スックと立ち上がった白衣(びゃくえ)の異相を眼にしたときには、傲岸奸略(ごうがんかんりゃく)、人を人とも思わない丹波も、ア、ア、アと言ったきり、咽喉がひきつりました。
 大髻(おおたぶさ)の乱れ髪が、蒼白い額部(ひたい)に深い影を作り、ゲッソリ痩せた頬。オオ! その右の頬に、眉のなかばから口尻へかけて、毛虫のはっているような一線の疵(きず)跡……しかもその右の眼は、まるで牡蠣(かき)の剥身(むきみ)のように白くつぶれているではないか!――ひさしぶりに丹下左膳。
 道場いっぱいに、騒然とどよめきわたったのは、ほんの一、二秒。さながら何か大きな手で制したように、シンとしずまりかえったなかで、左膳、からっぽの右の袖をダラリと振った。枯れ木に白い着物をかぶせたようなからだが、ゆらゆらとゆらいだ。笑ったのだ、声なき笑いを。
「出口入口の締りをしろ! 今夜てエ今夜こそは、一人残らず、不知火燃ゆる西の海へ……イヤ、十万億土へ送りこんでくれるからナ」
 ケタケタと響くような、一種異様な笑い声をたてた左膳は、細いすねに女物の長襦袢をからませて、鎧櫃をまたいで出た。
「サ、サ、したくをしねえか、したくをヨ! こ、この濡れ燕はナ、手前たちのなまあったけえ血に濡れてえといって、さっきから羽搏(はばた)きをしてきかねえのだ。ソーラ! この羽ばたきの音がてめえたちには聞こえねえかッ!」
 と左膳、左腰に差した大刀の鍔元を、一本しかない左手に握って、体(たい)を落としざま、ゆすぶった。
 カタカタと、鍔が鳴る。
 一同は立ちすくんでいます……すわっているのは、丹波だけ。
 先生、腰が抜けたんじゃアあるまいな。

   おいらが手引きを


       一

「丹波ア……!」
 鬼哭(きこく)を噛むような、左膳の声が。
「汝アこの女――」
 と左膳、かたわらにいすくむお蓮様へ、キラリと一眼をきらめかせたのち、
「汝アこの女と、同じ穴の狸だな、イヤさ、同臭のやからだな」
 ぐっと調子をさげて、
「おもしれえ。おれア伊賀の源三郎に、なんの恨みつらみもねえ痩せ浪人。だがナ、人間にゃア縁ごころてえものがある。またこの丹下左膳の胸には、男の意気というものがあるのだ!ッ」
 ひとことずつ言葉を句ぎって、そのたびに左膳、一歩一歩と峰丹波に近づく。
 どうしてこの鎧櫃のなかに、人もあろうに、この白面の殺人鬼がひそんでいたのだ?
 愕然呆然たる丹波の胸中を、雨雲のごとく、あわただしく去来するのは他(た)なし、この疑念のみ。
 だが。
 そんな詮索は、今のところゆとりがない。たぶん、この煙のような刃妖左膳のことだから、いつのまにか土蔵へ忍びこみ、鎧櫃へ……としか推量のくだしようがないのだ。
 そんなことは、さておき。
 あわよく跡目を相続して、表むきこの道場を乗っとろうとする間際に、このもっとも恐れているじゃま者が、鎧櫃からわき出たのですから、さすがの短気丹波、口がきけないのもむりはない。
 ビックリ箱からお化けが出た形。
 半顔の刀痕をゆがめ、あごをななめに突き出した左膳、なにかこう押しつけるように、ソロリソロリと自分の前へせまってくるから、丹波、仰天した。
 そのとたんに、声が出た。子供のシャックリは、驚かせると止まりますが、ちょうどあんなようなもので。
「ブ、ブ、無礼者! 諸子、何をしておるッ! かかれ! かかれッ!」
 たてつづけにさけんだ。同時に、腰も立った。
 起つと同時に、パッとはねた裃の片袖、そいつが丹波の背中に、やっこ凧のようにヒラヒラして、まるで城中刃傷の型……からだが大きくて、押し出しがりっぱですから、さながら名優の舞台を見るよう。
 早くもその手には、引き抜かれた一刀が、秋の小川と光って――。これが、不知火流でいう沖の時雨(しぐれ)。
 サッと水をきるように、そして、しぐれの一過するようにひらめくという、居合の奥許しなんだ。
 同秒……。
 今まで唖然としていた門弟一同の手にも、それぞれしろがねの延べ棒のようなものが、百目蝋燭の灯にチラチラと映えかがやく。剣林一度に立って、左膳をかこみました。
 萩乃は? お蓮様は? と見れば、すでにこのとき、女二人の影はありません。二、三の弟子や侍女に助けられて、血の予想に顔をおおったお蓮様と萩乃の跫音(あしおと)が、そそくさと乱れつつ、はるか廊下を遠ざかって行く。
 そのとき、司馬の一同、ギョッと声をのんだのは、四ツ竹のような左膳の笑い声が、低く、低く、道場の板敷いっぱいに低迷したからで。
「ウフフ、うふふ、そっちが同じ穴の狸なら、こっちは、おれと源三郎は、同じ穴の虎だ。恩も恨みもねえ伊賀の暴れん坊だが、左膳を動かすのは、義と友情の二つあるだけ。おれは源三郎になりかわって、すまねえが、丹波の首をもらいに来たのだよ」
 いつのまにか斬尖(きっさき)、床を指さしている濡れ燕……。
 下段の構えだ。

       二

 世の中に、こわいもの知らずほど厄介なものはありません。
 いま、抜刀を下目につけて、喪家の痩せ犬のように、曲(きょく)もなく直立している左膳の姿を眼の前にして。
 これを、組みしやすしとみたのが不知火流の若侍二、三人。
 おのが剣眼が、そこまでいっておりませんから、相手の偉さ、すごさというものがすこしもわからない……こわいもの知らずというのは、ここのことです。
「身のほど知らずのやつメ、鬼ぞろいといわれる当道場へ、よくも一人で舞いこみおったな」
「鎧櫃から化け物浪人とかけて、なんと解く――晦日(みそか)の月と解く。心は、出たことがない」
 なんかと、なかにはのんきなやつがあって、そんな軽口をたたきながら、もうすっかりあいてをのんでかかった気。
 抜きつれるが早いか、前後左右、正眼にとって――。
 よしゃアよかったんです。
 痩せこけた左膳の頬肉が、虫のはうようにピクピクと動いた。
「よいか。血の雨のなかを、縦横無尽に飛び交わしてくれよ濡れ燕」
 じっと自分の剣を見おろして、そうつぶやいたかとおもうと! 殺(や)った!
 そのはやいのなんの……右側にいた一人、ガクリと膝をついたとみると、その膝っ小僧から一時にふき出す血、血。
 プクプクとおもしろいようにわき出る血綿、血糊が、みるみる袴のすそを染め、板の間にひろがって、
「わッ! ウーム!」
 大刀をいだいて、ころがってしまった。
 足を斬ったからあしからず……左膳、そんなくだらない洒落は申しません。
 無言だ、もう。
 ひさしぶりに血を味わった濡れ燕は、左膳の片腕からとびたとうとするもののごとく、すでにこのときは、またもや正面の一人をななめ胴に下から斬りあげて、そいつの手を離れた一刀、はずみというものはおそろしいもので、ピューッと流星のようにとんで板壁につきささった。刀の持主は、すでに上下身体を異にして……だから、言わないこっちゃアない。
 あまりのめざましさに、一同、瞬間ぼんやりしてしまったが、
「屋内では不利! 戸外(そと)へおびき出せッ!」
 声に気がついてみると、峰丹波だ。どうもひどく要領のいいやつで、うしろのほうへ来て、足ぶみなんかしてしきりに下知している。安全地帯。
 が、さっきの丹波の命令で、道場の出口入口、厳重に戸じまりをしてしまったから、オイソレとはあきません。一方、左膳はもう、一団の白い風のようだ。白衣をなびかせて、低く、高く、飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ濡れ燕……。
 何人斬ったか、何刻(なんどき)たったか。
 このすさまじい道場の物音に、身をふるわせて自室(へや)につっぷしていた萩乃。跫音が廊下を走ってきて、やにわにふすまを引きあける者があるので、振りかえってみると、どうだ! 血達磨のような左膳が、かこみを切りやぶって此室(ここ)まで来たのだ。
「萩乃さんとかいいましたね。サ、おいらといっしょに来るんだ」
 サテは、恋に狂ったか丹下左膳。
 泣きさけぶ萩乃を、一本しかない左手にギュッと抱きかかえ、口に濡れ燕をくわえた丹下左膳。そのまま縁の雨戸を蹴やぶって、庭へ、暗黒(やみ)の樹だちのかげへ。

       三

 左膳の口にくわえている濡れ燕……五月雨(さみだれ)に濡れた燕ならで、これは、血に濡れた怪鳥(けちょう)、濡れ燕。
 その妖刀から、何人かの冷たい血潮が、刃を伝わってしたたり落ちる。
 雲のどこかに、新月が沈んでいるのであろう。庭木の影の重なるあたりに、あるかなしかの夜光が、煙のように浮動している――あわい闇夜。
 なかば気を失った萩乃は、左膳の口の濡れ燕から、しずくのように落ちる血が、その白い首筋に、二筋三筋の赤縞をえがいているであろうのを、かすかに意識しただけだった。
 口をきけば、刃が、愛する萩乃の上へ……左膳は、重い大刀をグッと歯にかんだまま、ハッハッと吐く荒い息が、萩乃の顔へ、肩へ。
「あなたは、いつぞや門之丞を斬ったお浪人、どうして今夜、またあの鎧櫃のなかへなど忍んで――そして、わたくしをさらい出して、どうなさろうというのでございます」
 必死にもがく萩乃、匹田(ひった)の帯あげがほどけかかって、島田のほつれが夜風になびき、しどけない美しさ。乱れた裾前に、処女(むすめ)の素足は、夜目にもクッキリと――。
 答えぬ左膳の恐ろしさに、萩乃は、はじめて気がついたように、
「アレイ、誰か来て! 狼藉者……!」
 さけぼうとする口を、横ざまに萩乃の胸にかかっていた左膳の左手が、ムズとふさぐ。
 振りかえれば、灯のもれる道場は、大混乱だ。何人、何十人、イヤいく十人かの死体が、そこにころがっているのであろう。人々は、左膳を追うことも忘れているらしく、屋敷ぜんたい、異様に静まりかえっている。
 ヒタヒタと庭の苔を踏んで、……ギイ、バタン! そっと裏木戸を出た左膳、萩乃を引きずり、ひったて歩かせながら、土塀に沿って魔のように、真夜中の妻恋坂を駈けておりてゆく。
 この妻恋坂の途中……ちょうど司馬の屋敷の真下に当たるところにちょっとした空地がございます。
 もと小普請入りの御家人の住居だったのが、あまり古びたのでとりこわし、まだそのままになっている。ものすごい雲の流れを背に、立ち木が二、三本ヒョロヒョロと立って、くずれた石垣のあいだに、チチチと、耳鳴りのような音(ね)をたてて鳴いているのは、あれは、なんの地虫?
 左膳は萩乃を引っかかえて、そのあき地へ切れこんだ。小暗い隅へ走りこむと、やっと萩乃をはなして、左手に持ちかえた濡れ燕を、自分の着物の裾でスウーッとふきつつ、
「萩乃さんとやら、おどろくことはねえ。おれはこのあぶない橋をわたって、おめえさんをむけえに来たのだ」
 牡丹の大輪が落ち散るように、萩乃は地面に居くずれたまま、身動きもしない。言葉もない。
 その、あやしくも美しい萩乃のさまを眼のあたりにして、左膳の胸は麻と乱れざるをえませんでした。
 あらゆる世の約束を断ち切り、男と男のあいだの問題を解決するには左膳の手に利刃濡れ燕がある。だがこの恋の迷い、おのが心のきずなだけは――。
 このひとに宛てて、あの恥ずかしい、まわらぬ筆の恋文を、書いたこともあったっけ。
 今その当の萩乃は、こうして自分の足もとに、おそれおののいている。
 手をのばせば、すべてじぶんのものに……。
 虹のような、熱い長い息とともに、左膳はひとこと。
「泣きなさんな。なア、おめえさん、源三郎を思っていなさるだろう。その恋しい源三に、会わしてやろうじゃアねえか。おいらが手引きを……」
「え?」

   心(こころ)の暁闇(ぎょうあん)


       一

「え?」
 と、涙に濡れた顔を上げた萩乃、左膳は、その夜眼にも白い顔から、苦しそうに眼をそらして、
「何もおどろくことはねえ。まさかおめえさんまで、あの丹波などといっしょになって、源三郎はもう死んだものと思っていたわけじゃアあるめえが――なア、江戸じゅうの人間が、みんな源三郎をなきものときめてしまっても、萩乃さん、おめえだけは、どこかに生きていると信じていたことだろう」
 萩乃は、もうとびたつ思い、すがりつかんばかりに、
「あの、それでは、アノ、源三郎様は御無事で……まあ! シテ、どちらに?」
 その満面にあふれる喜色は、左膳の一眼に、そのまま、針のようなつらさと映る。
 微苦笑というのは、昔からあったのです。左膳は今それをもらして、
「ウフン、おめえを源三郎にあわせてえと思って、おれアこっそり道場へまぎれこんでいたんだ。源三郎もおめえさんのことを――」
「え? では、あのお方も、このわたくしのことを?」
「マアさ、あいつもおめえのことを、おもっているだろうと思うんだ。これアおいらの推量だが――何しろ、口をきかねえ野郎だから、あの伊賀の暴れん坊の胸のうちだけは、誰にもわからねえ」
「ハイ……」
「サア、お起ちなせえ。すこし遠いが、おいらが案内役だ。こう来なせえよ」
 バタバタと裾の土をはらって、立ちあがった萩乃、左膳にしたがってその空地を出ようとすると!
「うぬ、あの化けもの。侍、いずくへまいった」
「ソレ、とりにがしてはならぬぞ」
「ナニ、拙者が見つけて、一刀両断に――」
 提灯の灯といっしょに、司馬道場の若侍の声々が、妻恋坂をすっとんでゆく。大丈夫もうそこらにいないと見きわめをつけたうえで、いばっているんだから世話はない。
 その連中の通り過ぎるの待って、左膳は萩乃をつれて、妻恋坂をあとにしました。折りよく通りがかったのは、二丁の空駕籠。左膳と萩乃と二人の姿は、その駕籠にのまれたが――。
 ゆく手は?
 ちょうど、この同じ時刻。
 話はここで、この二丁駕籠の先まわりをして……三方子川の下流です。
 川釣りの漁師、六兵衛の住居。
 奥の六畳……といっても、ふすまはすすけ、障子は破れ、柱などは鰹節のように真っ黒な――真ん中に、垢じみた薄い夜具を着て、まだ病の枕から頭があがらずにいるのは、柳生源三郎でございます。
 伊賀の暴れン坊の面影は、今この、病む人の身辺に、わずかに残っているにすぎない。あの穴埋め水責めの危機の際に、悪い水を飲んだらしいのです。衰弱したからだに余病を発して、あれからずっと、この川網六兵衛の家に寝たッきりなのだ。
 看病するのは、あの痩せ鬼のような左膳。かれのどこに、そんなやさしい心根があるのか、まるでもう親身のようなこまかい心づかい、
 それと、この家の娘、お露――。
「あの、御気分はいかがで……」
 いまも、そう言って枕もとにいざりよって来たのが、六兵衛のひとり娘お露です。破れ行燈の灯を受けて、手織りのゴツゴツした縞木綿(もめん)、模様もさだかならぬ帯をまいて、見るかげもない田舎娘ですが……その顔の美しさ! 着飾らして江戸の大通りを歩かせたら、振りかえらぬ人はないであろう。ことにその眼! 今その眼が、艶に燃えているのは、ハテ、どういうわけでありましょう?

       二

 年齢(とし)は十七? それとも八?
 ポッと上気した顔を、恥ずかしそうに灯にそむけて、お露は枕もとへ膝をすすめ、
「アノ、もうお薬をめしあがる時刻で……」
「ウム」
 やっと腹(はらん)ばいになった源三郎、のびた月代(さかやき)を枕に押し当てたまま、
「イかいお世話になるなア。あの左膳とともに、あなたの父上にあぶないところを救われてから、もうよほどになる。左膳はあのとおり、すぐ恢復いたしたが、おれは濁水を飲んだのがあたったとみえて、いまだにこのありさまとは、われながら情けない」
 身もだえする源三郎のようすに、お露は美しい眉をひそめて寄りそい、
「すこしおみ足でもおさすりいたしましょうか。マア、そんなにおじれにならずに、ゆっくり御養生あそばしますように――」
「こんどというこんどは、おれも、人の情けが身にしみた。あの左膳……本来なら敵味方、おれにかまわずにどこへでも行ってくれと、毎日頼むように言うのだが、このおれが達者になるのを見すますまでは、どんなことがあってもわしのそばを離れぬと言う。そして、お露どのもごらんのとおり、あの、かゆいところへ手のとどくような左膳の看護(みとり)じゃ。男を泣かすのは男の友情だということを、わしはこんどはじめて、つくづくと知ったよ」
 左膳のことばかり言われるのがお露には、少女らしい胸に、不服なのか、
「はい。ほんとうに……」
 と言ったきり、うつむいている。源三郎も、すぐその心中に気がついた体(てい)で、
「ハハハハハ、左膳ばかりではない。親爺六兵衛殿といい、イヤ、誰よりもお露さんの親切、生涯胆に銘じて忘れはいたさぬ」
「そんなお義理のようなお礼など――」
 お露は、ちょっとすねて。
「それよりも、どうぞいつまでも……いつまでも御病気のまま、アノ、あまり早くよくおなりにならないように――」
「これは異なことを、いつまでも病気でおれとは――」
「でも御病気なればこそ、このむさくるしいあばら屋においであそばして、わたくしのような者まで、朝夕お側近くお世話させていただいておりますが、おなおりになれば、りっぱな御殿へお帰りあそばして、美しい奥方をはじめ、大勢の腰元衆に取りかこまれ……」
 パッと顔をかくしたお露の耳は、火のように赤い。それよりもまごついたのは源三郎で、自分が伊賀の柳生源三郎ということは、知らしてない、どこの何者とも身分をつつんでいるのですから、
「何を言わるる。私はそんな者ではない。左膳と同じ、御家人くずれのやくざ侍……」
「それならば、なお心配で。江戸には、美しい娘さんが、たくさんいなさるとのこと――」
「しかし、お露さんほどきれいなのは、そうたんとはあるまいテ」
 と源三郎、意識して言うわけではありませんが、ふと、こんな言葉が口を出るのが、そこがソレ、女にかけて不良青年たる源三郎のゆえんでありましょう。自分がそんなことを言えば、それがどんなに強く相手の胸にひびくかも考えないで。
「アラ、あんなことばっかり……」
 お露が、両手で顔をおおって、指のあいだからじっと源三郎をみつめたとき、縁にむかった障子がガラッとあいて、
「源三エ、みやげだ。ソレ受け取れッ!」
 左膳の片手に押されて、はなやかな風のように、バタバタと部屋へはいってすわったのは、萩乃……。
 左膳もその横手に、ガッキとあぐらを組んだが、お露は、もうはじかれたように逃げだして、その姿はすでに室内になかった。

       三

 あらっぽい左膳の友情……。
 萩乃は、その左膳に押されて、くずおれるように座敷へはいったとき、むこうのふすまのかげに、チラと赤い帯の色が動いて、誰か若い女が出て行ったようす。
 逃げるようにお露の去ったのを萩乃は眼ざとく、眼のすみで意識しながら、たえてひさしい源三郎の前に、お屋敷育ちの三つ指の挨拶。
「源三郎さま、おひさしぶりでございます。あなた様は、もうどうおなりあそばしたかと、お案じ申しあげておりましたに、よくまア御無事で――源三郎さま、おなつかしゅうございます」
 やっとひとりの女が去ったかと思うと、また一人。
 女難に重なる女難に、源三郎は、その切れのながい眼をパチクリさせて、かたわらにすわっている左膳をかえりみ、
「これはいったいなんとしたのだ、左膳」
「ワハハハハハ、おれがいたとて、遠慮は無用だ。だきつくなり、手を取るなりするがよい。それとも、こんな化け物でも、人間のはしくれであってみれば、人前でイチャツクことはできねえと言うのなら、おらア、ドロドロと消えるとしよう。アッハッハッハ」
 豪快な笑いの底に流れる、身を切るような一抹の哀愁……源三郎も萩乃も、それに気のつくすべのないのは、やむをえないが。
 左膳が、火のように恋している萩乃は、いま、死んだと思ったすきな男を眼の前にして、この、狂気のような喜びようである。それを見ていなければならない左膳の苦悩は、煮えたぎる鉛の沼。
 剣魔左膳の恋は、誰も知らない。誰も知らない。病犬のように痩せほそった左膳の肋(あばら)骨の奥と、膝わきに引きつけた妖刀濡れ燕のほかは。
 どうして萩乃がここへ――。
 と、源三郎は、なおも不審顔です。
 左膳の一眼、萩乃と源三郎をかたみに見ながら、
「おれは今朝、源三にだまってブラリとここを出たが、あの足ですぐ妻恋坂の道場へ行ってみると、何やら今夜儀式があるとかで、屋敷じゅうざわめいているじゃねえか。これはさいわいと土蔵へ忍びこみ、鎧櫃にひそんでいると……ナア源三郎、これがおめえのまだ運のつきねえところというのだろう。夜になると、そのおれのはいった鎧櫃が、道場の正面へかつぎ出されて、その前で遺跡(あとめ)相続のかためが始まったのだ。道場のあるじに直ろうとしているのは言うまでもなく峰丹波」
 萩乃があとを受けついで、
「ハイ、丹波は、二世十方斎の名と、継母(はは)お蓮の方とを天下はれて手に入れようとの魂胆でございます。そのために、わたくしの……」
 言いさした萩乃の頬は、行燈の灯を受けて、秋の入り陽にはえる紅葉のように赤い。
 むすめ心にためらったが、やがて思いきって、
「わたくしの――夫ときまった源三郎様を亡き者にしようとし、また、このわたくしをも押しこめ同様に……」
 すると、左膳、思い出したように笑って、手近な大刀を引きよせてホトホトと鞘(さや)をたたきながら、
「コレ、濡れ燕、おめえもよく働いてくれたが、残念だったなア、丹波をうちもらしたのは」
 じっと何か考えこんでいたが、不意にほがらかに、
「サ、これでいい。萩乃と源三郎を会わしてしまえば、丹下左膳の役目はすんだのだ。サア、おれはこれから……」
 濡れ燕をトンと杖について、左膳、やにわに起とうとするから、源三郎はあわてて、
「オイ、ちょっと待ってくれ。萩乃とおれを二人きりにして――困るなア、どうも」

       四

 左膳は中腰のまま、
「惚れられた女と二人きりになって、困るってやつもなかろうじゃアねえか、ハッハッハッハ」
「イヤ、ところがその、実は、その……」
 と源三郎は、しどろもどろだ。
 真っかにはにかんでいる萩乃を左膳は首を動かして、チラと見ながら……左の眼しかないので、首ごと動かさないと横のほうは見えないのだ。
 かわいそうな丹下左膳、泣くように苦笑して、
「イヤ、どう考えても、おらアこの場のよけいもんだよ。萩乃さんにうらまれねえさきに、消えてなくなったほうがかしこそうだぜ」
「イエ、あの、けっしてそんなことは――」
 やっとそれだけ口にした萩乃、自分に対する左膳の胸中など、知る由もないから、なんというこまかい心づかいをしてくださる苦労人であろう! こわいばかりがこの方の身性ではない。ほんとうに思いやりのある!……と、眼に千万無量の感謝をこめて左膳を見あげ、
「なんとお礼を申しあげてよいやら――あの、源三郎さま、こちら様のおかげで、こうしてあなた様のもとへ連れて来ていただくことができました。どうかお礼をおっしゃって」
 源三郎は迷惑顔、
「だが、何もおれが、萩乃さんをつれて来てくれと頼んだわけじゃアなし――」
「コレ、源三! てめえ何を言う。おれはおめえのためにしたんじゃアねえのだ。萩乃さんの心を察して、この出しゃばりな役をつとめたのだよ。こんなにおめえ一人を思っている萩乃さんの心中を、すこしでも考えたら、こら、源三、そんな口はきけめえが」
 起ちあがった左膳は、濡れ燕の鞘尻で帯をさぐりながら、ぐっと落し差し……一本きりの左の手を、懐(ふところ)ふかくのんで、ブラリと歩きだしながら、
「源三、こんなに女の子に思われるのは、あだやおろそかなことじゃアねえぞ……」
 そういう左膳の声は、かすかにふるえて、
 源三郎はいつしか、キチンと床の上にすわりなおしていた。
「しかし、弱ったなあ。今ここへ萩乃を置き去りにされても……マア、左膳、頼むから、もうすこしおれといっしょにいてくれ」
「いたくても、萩乃さんの邪魔になる。このひとがどんなにおめえを恋いしたっているか――それを思ったら源三、な、すこしもはやくからだを丈夫にして、首尾よくあの道場を乗っ取れよ。なア、そのときあこの丹下左膳、大手を振って遊びにゆくぞ、ハッハッハ」
「こ、これ、あなたもいっしょに、左膳を止めてください」
 と源三郎は、萩乃へ、
「私があぶないところを助かったのは、みなこの左膳のおかげだ。穴の底から三方子川へ浮かびあがることのできたのも、また、この家のあるじ漁師六兵衛に救われたのも、みんな左膳がいたればこそだ。萩乃、こころから左膳に礼を言ってくれ」
 萩乃は、あらたまって左膳の前に両手をつき、
「なにから何まで、ほんとうにありがとうございました。源三郎様のことといい、今夜のことといい、御恩は生涯忘れはいたしません」
 その、身も世もなくよろこばしそうなようすを、左膳はしばらくじっと見おろしていたが、
「イヤ、萩乃さん、あんたにそう言われただけで、おれは、このうえの満足はない。無事な源三の顔が見られて、うれしいだろうなア萩乃さん」
「ハ、はい……」
「ははははは、そうだろうなあ。大事にしてあげなさいよ。源三、行くぜ」
「さ、さ、左膳。ド、どこへゆく?」
「どこへ? それはおれにもわからぬ。この腰の濡れ燕にきいてくれ」

       五

 夜明けの一刻(いっとき)前……。
 闇黒(やみ)がひときわ濃いときがあるといいます。明け方の闇は、夜中の闇よりもいっそう深沈として――その暁闇(ぎょうあん)につつまれた左膳、源三郎、萩乃の三人は、それぞれの立場で、凝然と考えこんだままだ。
 だが、このほかにもう一人。
 うば玉の暗黒(やみ)よりも濃い心の暗闇に、すすり泣きの音(ね)をこらえている女がひとり――それは、次の間のふすまのかげに、この一伍一什(いちぶしじゅう)をもれ聞いたこの家の娘、お露でした。
 思う源三郎には、自分よりさきに、あんなにあの方をしたっているこの萩乃とやらいう美しいお嬢様がある……と知って、彼女の心は暁闇にとざされたのでした。
 萩乃は萩乃で、こんなにまでしたっている源三郎が、すこしもその愛の反応を見せてくれないのが、まるで、くらやみの山道に迷ったように、こころ寂しい。
 当の源三郎は……。
 たぶんに不良性のある彼のことだ、萩乃にしろ、お露にしろ、女という女には、面とむかえば、おざなりに、すいたらしい言葉の一つや二つは吐こうというものだが、そのすぐあとで、けろりと忘れてしまうのが、この源三郎の常なので。
 女にかけては悪魔的な源三郎。それに思いを寄せるとは、萩乃もお露も、因果なことになったものといわなければなりません。
 それよりも。
 恋する女を友情ゆえに、思いきるばかりか、こうして自分がなかだちとなって、その二人をまとめてやろうとする丹下左膳の心中、そのつらさはどんなでしょう! 四人四様に黒い霧のような心の暁闇。
「ゲッ、おれはなんだって、こんなところに、ぼんやり立って考えこんでいるんだ。ホイ、焼きがまわったか丹下左膳」
 そう思い出したように苦笑した左膳は、
「それじゃア源三、しっかり萩乃さんをかあいがってやれよ。手鍋さげてもの心意気でナ」
 もう、とめるまはなかった。
 病みほうけた源三郎が、片膝おこして追おうとしたとき、白鞘(しらざや)の刀を見るような丹下左膳の姿は、すでに部屋から、小庭から、そして木戸から、戸外(そと)のあかつきの闇黒(やみ)へのまれさっていたのでした。
「ほんとによけいなことをする人! あんなお屋敷のお嬢さんなどを、わざわざ源様のところへ引っぱってきたりなんかして、人の気も知らないで、いけすかないったらありゃアしない!」
 人知れずお露は、唐紙(からかみ)のかげで歯ぎしりをして、泣き沈んだのでしたが、これはたちさってゆく左膳の耳にはむろん、となりの部屋の萩乃、源三郎にも聞こえなかった。
 朝の闇にとけさった丹下左膳は、このつぎどこに、あの濡れ燕を駆って現われることでしょうか?
 それはしばらく、そのままにして。
 ばつの悪い思いで萩乃様の前に残されたのは、伊賀の暴れん坊です。
 許婚(いいなずけ)どころか、自分としては、もう妻という建て前で、それで丹波とお蓮様一党に対してがんばってきたのですが、こうして萩乃さまとさしむかいになってみると、伊賀の源三、てれることおびただしい。
 相手は几帳面なお嬢様育ち。それが、おもう男の前ですから、いやにかたくなっている。源三郎、すっかりもてあまし気味で、
「えへん、ウフン、ええと、イヤそのなんです。おいおい夏めいてまいりました」
 なんかと、やっている。

   畳(たた)み三味線(じゃみせん)


       一

「は?」
 と上げた萩乃の顔は、パッと美しく上気している。
 それを源三郎はじっとみつめて、
「イヤ、その、実にソノ、なんです……ときに萩乃どの、よく長いあいだ、拙者を思っていてくだされましたなア」
 と伊賀の暴れン坊、心にもないことを、例によってそんな殺し文句を吐く。
 火に油をそそぐようなもの、源三郎、よせばいいのに――でも女たらしの彼、こんなことをいうのが癖になっているものとみえる。
 日ごろの思いがやっとむくわれたように、萩乃は感じて、娘の恥ずかしさもうち忘れ、そそくさと膝をすすめた。
「あたくしほんとうに、もうもうどうなるかと思いましたわ。お兄上対馬守様とのかたいお約束によって、りっぱに道場にお乗り込みになったあなたさまを、今になって筋もなくしりぞけるのみか、あの丹波が継母(はは)うえと心をあわせて、司馬の家を乗り取ろうとしているなんてなんという恐ろしい……そのうえ、弟子どもの噂でふっとこの小耳にはさみましたところでは、あなた様を、なんでも穴とやらへ埋めてしまったとのこと。萩乃の胸は、つぶれるばかりでございました」
「イヤ、そうたやすく死ぬ伊賀の暴れン坊ではござらぬ」
 頼もしそうに萩乃はほほえんで、
「でも、源さまはよい御朋友をお持ちなされて、おしあわせでございます。あなた様にも、それから、このあたくしにとっても」
「ハテ、よい朋友?」
「は。あの、丹下左膳とやらいう……」
「おお、彼にはこの源三郎、近ごろもって感銘いたした。余の恩人であるのみならず、聞けば今宵、まさに丹波の手に渡らんとした道場を、邪魔だてしてすくってくれたのも、かの左膳――」
「それよりも」
 と萩乃は、もじもじあかくなりながら、
「わたくしをここへ連れてくれましたのが、何よりうれしくて……部屋へふみこまれていきなり横ざまに、抱きかかえられたときには、この身はどうなることかと思いましたけれど――」
 明け方の色の、かすかに動きそめた室内。源三郎はこの萩乃など、なんとも思っていないくせに、さもさも恋人同士のよう、膝を突き合わせんばかりに話しこんでいる。その言葉に伴奏をいれるかのように、あるかなしの音をたてて背戸口から流れこんでくるのは、岸を洗う三方子川の夜の水。
 相手が女でさえあれば、変に思わせぶりなそぶりを見せるのが、この不良青年柳生源三郎の、いつもの手なんだ。
 そんなこととは知らないから、かわいそうに萩乃、もうこの人のためには家もいらない、命もいらないとまで思いこんでいるようす。
 あんなに自分をしたう左膳の胸中は、つゆほども知らずに、悪魔的な源三郎を恋いこがれるなんて、人の心はどうしてこう食いちがうのでしょう。
 すると、です!
 さっきから、隣室(となり)の境のふすまのかげに、ソッときき耳をたてていた六兵衛の娘、お露さん……。
 くわしいことはわからないが、二人の話で、だいたいの模様は察しられます。
 許婚(いいなずけ)なんだわ、このふたりは――とそう思うと、眼の先に赤い布を見た牛のように、お露は、カッとして起ちあがっていた。
 父六兵衛の寝息をうかがって、しずかに土間へおりたお露、潜戸(くぐり)をあけた。
 そして、パッととびだしたんです。コレ! どこへ? 嫉妬に狂って。

       二

 パッととびだした……パッとかけだした鼓の与吉。
 もう、夢中です。
 若党でも、儀作、侍のはしくれだけに、刀一本をぶっさしている。
 まさか竹光じゃアあるまい。
 今にもうしろから、バッサリ斬られる――と思うから、イヤ与の公、このときの逃げ足のはやかったことといったら、それこそ、見せたいようでした。
 とっさの機転のきくやつで、背中に壺のつつみを引っしょって走るのは、追いすがりざまに斬られるときの、これが用心で。
 楯を背中にしている気だ。
 真昼近い神奈川宿の出はずれ。一方は雑木林の山で、いまの今まで鳴き連れていた名も知れない鳥の群れが、この時ならぬ人の気配にびっくりしたものか、ハタと音(ね)をしずめて、明るい深夜のようなものすごさだ。
 反対側は崖です。下には、段々畑がひろがって、遠くにお百姓の使う鍬が、ときどきキラリと眼を射る。
 あっけにとられたのは、若党儀作でした。
 調子のいいことを言って、壺をかついであとについてきていた、そのいなせな若い者が、拍子を見てだしぬけにかけぬけて、ドンドンスッとんでゆくんですから、アレヨアレヨと言うひまもない。人間、あんまりおどろくと、即座にからだが動かないものだ。火事のときなどそうです。人がたちさわぐのに、ただひとりボンヤリ立って、ニヤニヤ笑っている人などがある。
 あとで皆が感心して、
「どうもあの人は、偉い。いかにも落ちついたものだて。あのおめえ、となりから火が出たという騒ぎのなかに、口もきかねえで、キッと立っているなんてエことは、ちっとやそっとの度胸ではできることじゃアねえやナ」
 などと申します。
 そう言われるから、本人はべつに否定もせずに、イヤ、ナニ、それほどでも……などと、あごをなでておりますが、いずくんぞ知らん、動かないのではない、動けないので。
 ハッとすると、脳の働きがしびれてしまって、口がカラカラにかわき、とたんに舌がまきこむ。まず何を持ち出そうかなどと考えながら、頭のなかはそれこそ火のついた車のよう。これがわきから見ますと、非常に落ちついたように見えることがある。こういう人にかぎって、手提げ金庫とまちがえて煙草盆をだいてかけ出したり、書類入れのつもりで猫をさかさにつかんでとびだしたりなどという話は、よくあります。
 こう考えてみると、歴史上の人物なども、実質の何倍か、ずいぶん得をしている人もあり、また一面には、とんでもない損をしている人もあるんじゃないかと思う。
 余談にわたりました。
 が、このときの若党儀作が、ちょうどそれで、
「ああ、アア、あの……!」
 とわめきながら、泰然と突っ立ったままだ。

 ところが、与の公も与の公だ。追ってもこないのに、もう、かかとに跫音が迫るような気がして、ひとりであわてて、
「うわあっ!」
 さけぶと同時に、右手の雑木林へかけこんだのです。夢中でした。
 壺をひっかかえて、ガサガサと灌木を分けてつきすすんでゆくと! 大きな栗の木が二、三本立っているかげに……ツツツン、ツン、ツン、こころ静かに調子を合わせる三味の音。
 やにわにそこへとびこんだ与吉、ペタンとすわって、
「オ! 姐御(あねご)! これあまア、おめずらしいところで。イヨウ! 死んだと思ったお藤さんとは、ヘヘヘ、丹下の旦那でも気がつくめえッてネ」

       三

 鳥追い姿のような、旅を流しの三味線ひき――。
 笠の紅緒が、白い頬にくっきり喰い入って、手甲、脚絆――その脚絆の足を草に投げだした櫛巻お藤は、どこやら、風雨と生活にもまれ疲れて、とろんとよどんだ眼をあげて与吉を見ました。
 と。
 その顔はすぐ、いきいきとかがやいて、いたずらっぽく小首をひねったものです。
「ハテネ、たいそう慣れなれしくおっしゃるが、おまえさんは……どちらの?――」
 立っていては藪(やぶ)畳の上に、腰から上だけのぞいて、儀作にみつかるおそれがあるので、与吉は壺を足にはさみこむように、ものものしくしゃがみながら、
「ナニ? 何? 姐御はおいらをお見忘れなすったというんですかい。情けねえ、ヘッ、情けねえや」
 わざとらしく眼をこするのは、涙をふくしぐさのつもりで、
「十年も二十年も、会わねえってわけじゃなし――いえね、あれからまもなく、駒形高麗屋敷の尺取り横町へ、おたずねしていったんでごぜエやすが、イヤ、おどろきましたね。貸家札がぺったりと……」
「何を言うてるんだか、おまえさんの話はさっぱりわからないよ。なるほどわたしは江戸者だが、そのなんとか横町とか駒形なんかには、縁もゆかりもない方角ちがい、江戸というよりも在方(ざいかた)に近い、ひどく不粋な四谷のはずれのものなのさ」
「オウ、姐さん、ふざけちゃいけねえ、この与の公を前にして、そんなしらを切るたア、お藤姐さんもあんまりだ」
 と与吉は、このまに儀作が通りすぎてくれればいいと思うから、ながびく問答をかえっていいことに、懸命に声をひそめて、
「コウ、人違いでござんすとは言わせませんや、姐御。たてから見たって横から見たって、お藤姐さんはお藤姐さんだ。ナア、またお道楽に、あの尺取り虫の踊り子を供に連れてサ、こうして気保養がてら、街道筋に草鞋をはいてでござんすか。おうら山吹きの御身分でござい。実アね、あっしもあれから……ハアテね、何からどう話してよいやら――」
 そう与吉が、たてつづけに弁じても、かんじんのお藤姐御は、キョトンとした眼を見はって、ふしぎそうにまじまじと、相手の顔を見上げるばかり。
 さて、ここで物語はとびます。
 そう駕籠わきの侍が、つづけざまに弁じたてても、駕寵のなかの一風宗匠はキョトンとした眼をすえて、まっすぐ正面をまじまじとみつめているばかり。
「江戸からの報告は、いまだに思わしくないことのみ。御在府の御家老田丸主水正様、捜索隊長の高大之進殿、いずれも何をしているのでござりましょうなア。もはやこけ猿がみつからぬときまれば、日光御修営はいかがになるのでございましょう」
 長旅の退屈まぎれに、話し続ける高股だちの武士は、ふっと気づいて、また苦笑をもらした。
「おう、そうであったナ。どうもいけない。一風宗匠は筆談以外には、話ができないということを、おれはすぐに忘れて……これではまるでひとりごとだ、あはははは」
 そのお駕籠には、柳生藩のお茶師、百と何歳になるかわからない奇跡的な藩宝、一風宗匠がゆられているのです。
 前を行く駕籠ひとつ――これはいうまでもなく伊賀藩主、柳生対馬守様。
 御行列です。突然出てきたのです、柳生の庄を。
 待ちくたびれたのでしょう。もうこうして、とまりを積んで東海道は大磯の宿を、一路江戸へ向かった。

       四

 延台寺(えんだいじ)内の虎子石。
 曽我の十郎が虎御前の家へ泊まった夜、祐経(すけつね)からはなされたスパイの一人が、十郎を射殺そうと射った矢が、この石に当たったという。
 それで十郎は命が助かり、いまだに石のおもては鏃(やじり)のあとが残っているそうです。
 大磯といえば、曽我兄弟……。
 そのほか。
 西行法師で名だかい鴫立沢(しぎたつさわ)――年老いた松の、踊りの手ぶりのようにうずくまる緑の丘の上に。
 あの辺に西行堂が……とお駕籠のなかから指さしながら、対馬守はひたすらに、行列を急がせて。
 伊賀の暴れン坊の兄。
 左手に樹木の欝蒼とした高麗寺山。
 ここらの海岸は、その昔、高麗(こま)人を移住させたあとで、唐(もろこし)ケ原(はら)と言ったといいます。
 花水(はなみず)川を渡ると、だんだん平塚へ近づいてくる。
 いくら待っても江戸からは、こけ猿の茶壺のあたりがついたという色よい便りはすこしもない。壺ののむ財産だけが、この際、柳生にとって日光お費用(ものいり)の唯一の目当てなのですから、藩の上下をあげてそのあわてようといったらありません。
 壺はかいもく行方知れず。日光おなおしの日は、容赦なく迫る。たいがいのことにはさわがない対馬守も、これにはさすがに手も足も出ない。
 やっと神輿(みこし)をあげたわけですが、
「東海道は一本道じゃ。江戸のほうからまいる旅人に気をつけるようにと、先供(さきとも)によく申せよ。どうも余は、今にも主水正から使いがありそうな気がしてならぬ」
 とこうして途上でも、剛腹な殿様が壺のことを気にしているのは、もっともなことで。
 虫が知らせる……というほどのことでもないが、江戸へ近づくにつれて、なんとかして壺の吉左右(きっそう)が知れそうなものだと、しきりにそんな予感がするのです。
 百いくつになる一風宗匠も、これが最後の御奉公とばかり、枯れ木のようなからだを駕籠に乗せて、やっとここまで運ばれてきたのですが、何しろ希代の老齢、江戸へ着くまでからだがもてばいいけれど。
 にせのこけ猿が二つも三つも現われたという。この噂だけは、国もと柳生藩にも伝わっているので、唯一無二真のこけ猿の鑑定人としてどうしてもこの一風宗匠の出馬はこの際必要だったのです。
 江戸へさえ出れば、なんとかなる……これが対馬守のはら。この、源三郎と司馬道場のいざこざも、どうなっていることか――。
 剣をとってはまことに天下一品、腕前からいっても源三郎の兄である剣豪柳生対馬守の胸も、この心たのしまない旅に、ちぢに乱れて。
 平塚――大山阿夫利(あふり)神社。その、三角形の大峰へ詣る白衣の道者がゾロゾロ杖をひく。
 藤沢――境川にまたがって、大富、大坂の両町。遊行寺(ゆぎょうじ)は一遍上人の四世呑海和尚(どんかいおしょう)の開山。寺のうしろの小栗堂は、小栗判官照手姫の物語で、誰でも知っている。
 戸塚――程ケ谷。
 おとまりはよい程ケ谷にとめ女、戸塚まえで、放さざりけり……ちょうど地点が一夜のとまりに当たっていますから、大小の旅宿(はたご)がズラリと軒をならべて、イヤ、宿場らしい宿場気分。
 町のはずれまで宿役人、おもだった世話役などが、土下座をしてお行列を迎えに出ている。いくら庄屋でも、百姓町人は絹の袴は絶対にはけなかったもので、唐桟柄(とうざんがら)のまちの低い、裏にすべりのいいように黒の甲斐絹(かいき)か何かついている、一同あれをはいています。
 対馬守と一風と、二丁のお駕籠が本陣の前にとまりました。

       五

 本陣の奥の広間。何やら双幅(そうふく)のかかった床の間を背に、くつろいだ御紋付きの着流し、燭台の灯にお湯あがりの頬をテラテラ光らせて、小高い膝をどっしりとならべているのは、柳生一刀流をもって天下になる対馬守様。
 今宵のとまりは、この程ケ谷。
 一夜の旅の疲れをやすめようとなさっているとき、近侍の者の知らせ……江戸家老田丸主水正の若党儀作というのが、狂気のように、ただいまお眼どおりを願ってお宿へ駈けこんだという注進だ。
 普通ならば、若党が殿様にじきじきお話を申しあげるなどということは、あるべきはずのことではない。
 何人もの口をとおして、言上もし、また御下問にもなるわけですが、旅中ではあり、何分急を要することなので。
 破格のお取りあつかい。
「その儀作とやらを、これへ――」
 となった。
 で、今。
 合羽を取っただけの旅装束のまま、裾をおろした若党儀作……彼は、神奈川の宿はずれで、名も知れない道中胡麻の蝿のために、大事の証拠品の壺をうばわれて、追いかけるまもなく、相手は、地殻を割れてのまれたように見えずなってしまったから、それからのちの儀作は、もう半狂乱、半病人。
 申し訳ない。なんと言いひらきをしたらいいか――いくど切腹を思ったかしれません。
 が。
 さきの長い街道筋だ。これから柳生の里までのあいだに、またあの町人に出あうことがあるかもしれないと、それだけを唯一の頼みに、フラフラとつきものでもしたように、やっとこの夕方通りかかったのがこの程ケ谷の本陣の前。
 今夜はお大名のおとまりがあるとかで、宿中なんとなくざわめいているから、片側に道をよけて通りながら、ヒョイと見ますと、
 昔は殿様のお宿には、大きな立て札を出したもので――墨痕おどる一行の文字は、柳生対馬守御宿。
 眼をこすった儀作、めざす国もとの殿様が、先知らせもなく江戸へのぼって来る途中、もうここまでおいでになっているとは……知らなかった、知らなかった――。
 言いようのない不覚をとった以上、伊賀へ帰れば、斬られる。といって、このままおめおめ江戸へ引っかえせば、やっぱり主人主水正が、ただはおくまい。
 どうせあの壺とかけかえに、消える命ときまっているなら、今ここで、藩主の御一行に出あったのをさいわい、はやくかたをつけて――と。
 やけ半分のこういう覚悟だから若侍の案内で、恐る恐る対馬守の前へ出てきた儀作。髪は乱れ、衣紋はくずれ、眼が血ばしって、口を引きむすんで、相が変わっている。お側の侍二、三人は、思わず膝を浮かせて、
「田丸様の若党と申したな。しかとそれに相違ないか」
 刺客とにらんだのかもしれない。
 儀作、それに答える余裕などはありません。もうこわいのも忘れて、いきなり藩主の前にすすみ、バタリと両手をついて平伏しながら、
「申しわけござりません。手前は、田丸様の御命を奉じ、お国おもてへたち帰ります途中……持ったお壺を何やつとも知れぬ者にうばわれまして――」
「貴様の話は、サッパリわからぬぞ。壺がどうしたとやら申すが、そんなことは気にかけんでもよい」
 なぜか対馬守、――すこしもあわてません。

       六

 対馬守様は、あわてません。ちっとも。
 どなるようにつづけて、
「馬鹿なことを申せ、あの主水正が、ほんもののこけ猿を若党一人にかつがせてよこすわけはないッ。さようなものは盗まれても大事ない。それより、主水正より言いつかった使いの口上があるであろう。口上を言え口上を」
 斬られる……という覚悟で、御前に出てきた儀作は、
「ヘ?」
 と思わず首のまわりを、なでました。ああありがたい! チャンとまだついている。
「ヘェ、申し遅れましてあいすみません。田丸主水正のおっしゃるには、壺の大金はみつかった、それも、ただいまの麻布林念寺前のお上屋敷のお庭隅に、確かに埋ずめてあると申すことで、私が江戸を離れます日には、その場所に玉垣を結(ゆ)いめぐらし、人を近よらしめずに、殿の御出府をお待ち申しておりまする……」
 一座に、しばし沈黙が落ちた。さすがの対馬守さまも、お顔の色をお変えになって、
「ナニ、財宝(たから)が見つかったと?」
 半信半疑の面もちで、左右の近侍をみわたすと、
 一同、おどりたちたい衝動、さけびあげたい歓喜をこらえて、御前だから、じッとがまんをしているようす。
「上屋敷の隅に、ハテナ?」
 つぶやいた対馬守の低声(こごえ)は、皆の耳にははいらなかった。殿様はさすがに、はやくもこれには何か仔細がある、ときっとからくりがひそんでいるに相違ないとにらんだのですが、家臣のまえ、さりげなくよそおって、
「で? 主水正は、余に江戸へ出てまいれと、それでそちを迎いによこしたのか」
「ヘイ、至急に御下向をわずらわしたいと、手前お迎いのお使いなので」
「出てきたからよいではないか。ここはもう程ケ谷じゃ。江戸はつい眼と鼻のあいだ……江戸へ近づけば、日光へも近うなる……」
 家老田丸に会えば、すべてがわかることだが……かならずこの裏には、おためごかしの公儀の手が、働いているにきまっているぞ――。
 壺の財産が見つかった……どんなにおよろこびになるかと思いのほか、対馬守はだんだん蒼白に顔色を変じて、両手がブルブルとふるえてくる。いつもの癇癖(かんぺき)がつのるようすだから、お側の者は、どうしたことかとサッパリわけが解らない……鳴りをしずめています。
「エエイッ! 徳川を相手にするには、どこまでも狐と狸のだまし合いのようなものじゃ」
 人に聞かれては容易ならぬ言葉! 列座が、恐ろしさに色を失ったとたん、脇息を蹴たおしてつったちあがった対馬守、
「一風宗匠は、まだ起きておるであろうナ。コレ、案内せエ、宗匠の部屋へ!」
 その瞬間です。
 本陣前の程ケ谷宿の大通りを冴えた三味の音とともに、アレ、たかだかと流してくる唄声が……。
「尺取り虫、虫
尺取れ寸とれ
足のさきから頭まで
尺を取ったら命取れ」
 ああして与吉と会ったとき、あくまで知らぬ存ぜぬとしらをきりそうに見えたお藤姐御、あれから、どういう話になったものか、今こうして連れだった与吉とお藤、灯のもれる宿場町を、仲よく、唄と三味と、三味と唄と、流してゆきます。
 と、何を思ったか与の公、いちだんと大声を張りあげて、
「さわるまいぞエ、手を出しゃ痛い……」
「シッ!」
 姐御が制した。撥(ばち)をあげて。

       七

 櫛巻お藤の心では。
 アアもうフツフツいやだ。うるさいことは……。
 思う左膳は、壺とやらのとりあいから、どこかの道場のお嬢さんを見そめて、あんなにつくす自分の親切も通らず、一つ屋根の下に住んでいても、いまだに赤の他人――
 おまけにあの朝、顔色を変えてチョビ安ともども、駈け出して行ったきり、なしのつぶてである。
「エエ馬鹿らしい! どうしてあたしは、あんな、能といっては人を斬る以外、なんの取りえもない左膳の殿様なんかが、こんなにすきになってしまったんだろう。自分ながら因果な性分だねえ」
 苦笑したお藤、ヒステリカルな癇癪を起こして、一人っきりの家で髪をかきむしったり、茶碗をぶつけて割ったり……それも一人相撲と気のついたあげくは、通りがかりの屑屋を呼んであのこけ猿の茶壺を二束三文どころか、ただでくれてしまった。
 ブラリと旅に出たんです。住みなれた尺取り横町の長屋に、ベタリと貼られたかしや札。
 尺取り虫を踊らせる、奇態な女芸人がいるところから、人呼んで尺取り横町……その名物の本尊がなくなった。
「笠ひとつに、三味線一丁、それにこのかあいいお虫さんさえいれば――」
 荒い滝縞に、ずっこけに帯を巻いて、三つに折れるたたみ三味線と、商売道具の尺取り虫、それを小さな虫籠に入れたのを、長い袂へほうりこんだお藤、思いきりよく江戸をあとにした。
 奇妙な俗説があります。頭のテッペンから足のさきまで、この尺取り虫に尺を取られると、命がないという。
 嘘かほんとうかわからないが、櫛巻お藤、それを信じている。
 信じて疑わない。
 で、ふだんなら尺取り虫を飼って、弾く三味線の音(ね)につれ、何匹もの虫が背を高く持ちあげては、伸びたり縮んだりしてはいまわる。それが、いかにも虫の踊りに見えるところがお愛嬌の売りもの。
 だが、すごい遊芸です。まかりまちがえばこの虫に相手の尺を取らして、ほんとに死ぬかどうか、見たいものだと考えているお藤、最大の武器をたずさえて道中している気だ。
 一時木曽街道へ出たのですが、まもなく引っかえして、気まぐれの一人旅。こんどはこの東海道を、足の止まるところまで伸(の)そうという考え。
 思い出すのは、左膳のこと……また。
「どうしたろうねえ、あのチョビ安って子は。あたしが連れて、虫踊りの門づけに、八百八町を流し歩いたこともあったッけ。こましゃくれた、かあいい児だったがねえ」
 と、神奈川の街道筋で、ボンヤリ追憶にふけっているところへ出現したのが、鼓の与吉だったのです。もうすっかり世を捨てたつもりのお藤姐御、与吉を見ても知らん顔して、つっぱねようとしたのだが。
 そうはいかない。
 与の公、まるでダニみたいな男で、ズルズルべったりにつれになってしまった。
 妙な組みあわせの同行二人。
 今この程ケ谷の夜の町。
 ふと唄いだした与吉の、伊賀の暴れん坊の歌を、お藤が止めたときです。
「コレコレそこへ行く二人」
 声がした。

   艶虜人(えんりょじん)


       一

「アッ! 柳生対馬守とあらア」
 本陣の前を通りながら、与吉がさきに見つけたのだ。
 出たとこ勝負の二人なんです。与吉は、儀作からうばったこの壺をぶらさげて、ほどあいを見はからって江戸へ帰ろうという心。
 江戸では、峰の殿様が待っていらっしゃる。
 が、しかし、これからすぐ江戸へ……とお藤姐御に言ってみたところで、おいソレと引っかえす櫛巻のお藤ではない。といって壺をかついで一人でノコノコ江戸入りするのは、危険千番。
 さいわいここで、お藤というものを発見したのだから、二人連れの旅芸人と見せかけて、でたらめの唄でもうたいながら、せめて箱根の手前ぐらいまで行ったのち、お藤のお天気のよいときに、江戸へ戻ろうとすすめても、遅くはない。
 こういうはらだから、与の公、手拭を吉原かぶりに、聞きおぼえの新内などうなりながら、今宵さしかかったのがこの程ケ谷の宿だ。
 伊賀からのぼって来た対馬守の一行が、ここに泊まっていると知った与吉、まさか、あの、神奈川宿でいっぱい食わした若党儀作が、自分より先まわりして、もうこのお宿にいようとは、夢にも思いません……あいつは、壺を取られて面目なく、泣くなく、江戸に帰りやがったに相違ねえ。
 一つ、ひやかしてやれ。
 突拍子もない調子を張りあげて、
「さわるまいぞエ手を出しゃ痛い、伊賀の暴れん坊と栗のいが」
 聞こえよがしに歌ったものです。
「およしなさいよ、お前さん。伊賀侍をおこらせると、あとのたたりがこわいことは、誰よりも与の公、お前がいちばん知ってるはずじゃアないか」
 お藤がたしなめたが……。
 すでに遅かった、そのときは、
「コレ、そこへまいる両人、ちょっと待て」
「ヘイ、あっしどもで」
 立ちどまった与吉が、ヒョイと見ると、肩をいからした頑丈な侍が、広い本陣の門口から出て来ようとしている。
 お藤はソッと与吉のひじをついて、
「ソレ、ごらん、おまえさん。だから言わないこっちゃアない。藪をつついて蛇を出したじゃあないか」
 侍は威猛高に、ツカツカと寄ってきて、
「コラッ! 栗のいががいかがいたしたと?」
 その大声に、供溜りにいたらしい若侍が五、六人、バラバラッととびだしてきたが。
 それよりも!
 与吉のおどろいたことには――。
 あがり框(がまち)にせのびをして、じッと戸外(そと)を見守っている人影……江戸へかえったとばかり思っていた若党儀作ではないか。殿の御前をさがってきた儀作、表通りにたちさわぐ人の声々に出てみたところが、あの胡麻の蝿みたいな町人が、小意気な三味線ひきの女とならんで立って、何やら番士のとがめをうけているようす。
 ひと眼見るより儀作は、
「オッ! つかまえてくれ! その男だ、その男だッ!」
 はだしで土間へかけおりました。と、若侍は何をあわてたものか、二、三人折り重なって、櫛巻の姐御をギュッとおさえつけてしまったから、儀作は頓狂声で、
「女ではない! ソ、その男! 男のほうを……!」
 ナニ、同じおさえつけるなら、女のほうがいい――侍たちがそんなことを言ったかどうか。
 このあいだに与吉は、肩の壺を地面へほうり出して、キリキリ舞いをしていたが、やがて方向がきまると、一目散(もくさん)にかけ出した。グイとお尻をはしょった儀作、足の裏を夜空へむけて、追う、追う……追う。

       二

 不敵な唄声とともに、この本陣の表口に、ガヤガヤという人の気配がわき起こったようすだが。
 対馬守はそれを聞き流して、縁側へ立ち出た。
 障子、ふすまなどを、自分であけたてするということは絶対にありません。小姓、お茶坊主などが左右にひかえていて、サッとひらくのです。
 また、片引きということもない。音もなく引きわけになって、そこをスウーッとお通りになります。昔のお大名は、こういう生活になれておりますから、なかには、戸や障子は自分で開くもの、自動的にあくものと心得ている人もあったという。
 鷹揚(おうよう)な突き袖かなんぞしたまんまふすまの前に立って、ひとりでにひらくのを待っていたが、いつまでたっていてもあかないので、ふしぎそうに唐紙をみつめて、トンと畳に足ぶみをしてじれた殿様がある、という話。
 まさか……。
 わが柳生対馬守は、そんな人間ばなれのしたお大名ではない。そのかわり、小姓どもが障子を開くのが遅ければ、手を出してあけるかわりに、蹴倒して通りもしかねまじい気性のはげしいお方。
 弟の伊賀の暴れん坊が、いささか軟派めいているのに反して、兄対馬守殿は、武骨一方の剣術大名。
 蹴るような足つきで本陣の長い廊下をツ、ツ、ツウとおすすみになる。さきへ立って雪洞(ぼんぼり)で、お足もとを照らしてゆくお小姓は、押されるようにだんだん早足になって、これじゃアかけ出さなくちゃア追っつかない……。
 と、なったとき、来ました。一風宗匠の部屋の前へ。
「宗匠、どうじゃな」
 対馬守は、どなるように言いながら、室内(なか)へはいった。
「老体じゃ、この長旅に弱らねばよいがと、案じているがの」
 小さな置物が動くように、一風宗匠はそろそろと、敷物をすべりおりました。殿のうしろから厚い褥(しとね)を二つ折りに、折り目をむこうへむけて捧げてきたお子供小姓が、急いで正面床柱の前へ、そのおしとねを設ける。
 それを対馬守、爪(つま)さきでなおしながら、あっちへ行っておれ!……と、ついて来た者へ眼くばせです。
 一同が中腰のままさがってゆくのを待って、対馬守は一風のほうへ向きなおった。
 柳生藩の名物、お茶師一風――百十何歳だか、それとももう百二十歳以上になるのか、自分でも数えきれなくなって、宗匠の年は誰にもわからない。八十、九十のお爺さんを、お孫さん扱いしようというのだから、すごいもので。柳生藩の生きた藩史、今なら知事の盃などいくら持っているかしれない。
 人間もこう枯れ木のようになると男女の性別など超越して、なんとなく物体のような感じ……油紙をもんだような顔をほころばせて、小さなかあいい眼で対馬守を見あげている。
 舌が動かないのです。口がきけない。それでも、先ごろまでは耳はまだ達者で、こっちの言うことだけは通じたのですが、今ではもう耳もだめになったらしく、何を言ってもニコニコしているばかりです。
 眼だけだ、残っているのは。
 対馬守は、静かに硯箱を引きよせ、巻紙をひろげて、サラサラと一筆したためました。
「宗匠に借問(しゃくもん)す。こけ猿と称する偽物、江戸に数多く現われおる由、ほんものを見わくる目印、これなきものにや」
 すり寄って、対馬守の手もとをのぞいていた一風宗匠は、コックリとうなずいて、両手を差し出した。
 その筆と紙をこっちへ……というこころ。

       三

 やっとのことで一風の左手に、巻紙を握らせた対馬守は、その、木の根のような右手へ、墨をたっぷり含ませた筆を持たせると。
 こまかくふるえる手で、宗匠の筆が左のような文字を、したためはじめた。
 燭台を手もとに引き寄せて、対馬守は横あいから、異様に燃える眼でその筆先をみつめる。壺の真偽を判別する鍵が、今ここで明らかにされるのですから、対馬守、思わず真剣になった。
 大きくおどるような、読みにくい文字です。
「偽物いかに現わるるとも、急所をきわむれば、鑑別のこといと容易なり。御当家に伝わるこけ猿の壺には……」
 一風宗匠の筆が、そこまで動いたとたん!
 大勢あわただしい跫音(あしおと)が、殿様をさがすように長廊下を近づいてきて、
「殿! こちらでござりますか」
 かんじんのところへ心ない邪魔が……対馬守は声をあらげて、障子そとの廊下へ、
「治太夫か。何じゃ、そうぞうしい! いま宗匠と重要な筆談をかわしておる。さがっておれッ」
 治太夫と呼ばれた侍の声で、
「いえ、殿。至急お耳にいれねばならぬことが――」
「エエイッ、さがれと申すに。そっちよりこっちがたいせつじゃワ――宗匠、そのさきはどうした」
 と対馬守、必死に一風に書きつづけるようにうながしますが、老宗匠の筆は、そこでハタと止まってしまって、キョトンとした顔をあげている。
 気がついた対馬守、
「オオ、そうじゃったナ。いかに大声を出しても、言葉は通ぜぬのじゃったな。エイッ、世話のやける老人(としより)じゃ」
「殿、殿! 火急の儀にござりますれば……殿、殿ッ!」
「うるさいッ! このほうがよっぽど火急じゃッ」
 と癇癪を起こした対馬守、いきなり宗匠の手から筆を引ったくって、ドブリと墨をつけるがはやいか、膝先の畳の上へ、手習いのような文字を書いた。
「宗匠、それからどうした。こけ猿の壺には、どういう目印があるというのだ」
 とこう滅茶苦茶に書き流して、ポンと筆を投げすてた。
 一風宗匠は、すこしも動じません。それどころか、袋のような口で小さなあくびをしたかと思うと、手をふった。めんどうくさそうに、眉をひそめた。
 もうやめた、今日はもうあきたから許してくれ、またこんど、気分のよいときに……そう言っているのだ。
 いらだち切った対馬守は、声の通じないのも忘れて、宗匠の耳へ噛みつくように、
「イヤ、わしが悪かった。畳へ字など書いて、宗匠をおどろかしたのは、なんともはや申し訳ない」
 一生懸命の対馬守は、宗匠の前に両手をついて、つづけさま頭をさげながら、
「サ、こんなにあやまるから、機嫌をなおして先をつづけてくれぬか。ちょっとでよいから、その真のこけ猿の目印というのを……」
 一風宗匠は、おもしろい芝居でも見るように、相変わらず赤ん坊のような笑顔で、あくびの連発――もういやだ、今日は気がむかない、わしはもう寝るのじゃから、はやくあっちへ行ってくれ……そういっているようだ。
「ナア、宗匠、後生(ごしょう)じゃから、お願いじゃから――」
 人に頭をさげられつづけて、生まれてからこの自分の頭をさげたことのない対馬守、ここを先途(せんど)と、平蜘蛛のようにペコペコお辞儀をしている。

       四

 言葉は通じないのだから、一風宗匠は平気だ。
「何をこの殿様は、てを合わせてわしを拝んだり、しきりにおじぎをしたり、ハテ、変なことをするお人だ」
 と言いそうに、あっけにとられて対馬守をみつめている。
 人に頭をさげる感じは、生まれて初めて。どうもあんまりいいものじゃアない。対馬守はムカムカしてくるが、いくらおこってみたところで、相手はやっぱりニコニコしているに相違ない。
 それよりも。
 なんとでもしてこの一風から、こけ猿真偽鑑定の法をきき出さねばならぬ。宗匠のほかにそれを知っているものは、この世に一人もないのだから。
 おまけに。
 そのかんじんかなめの一風宗匠、百二十歳の老体でこのたびの東海道中は、かなりむりだ。衰弱は日に日に目だつばかり。もし今夜にもポッかり逝かれでもしては……。
 と思うと対馬守、気が気でありません。
 青くなったり、赤くなったり、
「宗匠、三遍まわってワンと言えば、それもしよう。いかなる望みもかなえて進ぜるから、サ、こけ猿の目印を……」
 ピタリ両手をついて、額を畳におしつけた瞬間。
 カラリ!
 廊下にむかった障子があいた。待ちきれなくなった治太夫が、殿の許しを得ずにあけてしまったのだ。
「殿! ただいまこれなる本陣の表通りに――」
 言いかけた治太夫、見ると、あろうことかあるまいことか、殿様がばったみたいに平つくばって、おじぎの最中だから、
「オヤ! これは御酔狂ナ……何かお茶番でも!」
「無礼者ッ! 誰がそこをあけろと申したッ!」
 醜態を見られて、対馬守はてれ半分、カンカンになってどなりつけた。
「今この畳へ、宗匠が針を落としたというから、老人のことじゃからさがしてやっておったのじゃ」
 はりとはつらい……。
 その鼻先へ、治太夫、かかえて来た壺を突きつけんばかりに差し出して、
「申しあげます。儀作の奪われました壺が、戻りましてございます。唄うたいの男が、お宿の前で儀作に追いかけられ、ほうり出して逃げましたので、運よく割れませんでしたのが、何よりのさいわい」
「ナニ? 壺がかえったと? よし、ちょうどよい折りじゃ。一風に鑑定させよう」
 たくましい腕をのばして、むずと壺を引ったくった対馬守は、
「宗匠ッ! これはこけ猿かどうだッ」
 また耳の聞こえないのを忘れて、大声に叱咤しながら、グイと宗匠の眼のさきへ壺を見せた。なんのことはない、柳生一刀流正眼の構え。
 声は聞こえなくても、さすがに宗匠、この意味はわかったとみえる。今まで眠っていたような眼が、見るみるうちにいきいきした光を添えたかと思うと。
 二秒、三秒、じッと壺の一箇所をみつめていたが――。
「――――」
 だまって首をふりました。
 こけ猿ではない、と言う。
「エーイッ、そうだろうと思ったッ!」
 叫びざま対馬守、治太夫の頭を目がけてはっしとばかり、壺を投げつけたが、治太夫も相当なもの。日光修理が近づくにつれ、いらだつ殿の癇癪(かんしゃく)は毎度のことで、慣れている。
 ハッと首をすくめたから、壺は雨戸へあたって大音響とともに微塵にくだけ散った。

       五

 同時に対馬守は、すっくと起ちあがって、足ばやに一風の部屋を出かかったが、そのとき、廊下のむこうから儀作を先頭に、二、三人の侍が急ぎ足に――
 ハッと殿の足もとに、小膝をついた儀作が、
「残念でござりますが、ふたたびとり逃がしましてござります。なんとも、足の早い男で」
「捨てておけ、さような下郎は……コレッ、皆の者よく聞け。余の求めておるのは、真のこけ猿の茶壺じゃ。今後偽物を持ちこんだやつは、うち首にいたすからそう思え」
 八つあたりのありさまだが――むりもない。日光は容赦なくせまり、柳生一藩の存亡、今日明日にかかっているので。
 追いすがった儀作は、一生懸命の声。
「その男と連れだち、三味線を弾いておりましたあやしい女を、おさえてございまするが」
「女などとらえてなんになると思うか。たわけめッ!」
 吐き出すように言った対馬守だが、すぐ思いかえして、
「ウム、広間へ引き出せ。余がじきじきにきくことがある」
「ハッ、ごめん」
 かけ抜けた儀作は、そのまま広い本陣の廊下を小走りに、裏手の供待ち部屋へ来てみると、
「いくらこんな女(もの)でも、まさかネ、野宿はできませんからね。どこかに宿をとらなくちゃアならないと思っていたところを、こうしてこちらへ御厄介になることになって、旅籠(はたご)賃だけでも大助かりだよ。お礼を言いますよ、ハイ」
 おおぜいの侍にかこまれて、膝先に煙草盆を引きつけたお藤だ。
 平気の平左で、帯のあいだから小意気な煙管を取り出し、一服つけては、ポンとはたく吐月峰(はいふき)の音。
「不敵なやつだ」
 儀作はにらみつけて、
「殿のおめしだ。すぐまいれ」
「あ、そう?」
 お藤は軽く煙管をしまって、
「キリキリ立アてというところだね、オホホホ」
 江戸のこけ猿騒動に、なんらかの点でこの女が、重大な関係を持っているに相違ないと思うから、一同はひしとお藤をとりまいて、御前へ出たのです。
 あせりきっている対馬守……。
 頑丈なからだをもたせかけると、蒔絵の脇息がギシときしむ。
 イケしゃあしゃアと前へすわったお藤へ、ジロリとするどい眼をくれた殿様、
「江戸からか?」
「在郷うまれと見えますかね? フン」
 かたわらの侍たちが、たけりだって、
「コラ、女! どなた様のおん前だと思う。気をつけて口をきかぬと、ウヌ、手は見せぬぞ」
「よいよい、おもしろそうなやつじゃ。うっちゃっておけ……そこで女、貴様にきくが、逃げたと申すつれの男は、何者かの?」
「サア、……神奈川(かながわ)で顔が合って、のんきに東海道をのぼろうと、マア、話しあいがついていっしょになっただけでね、どこの馬の骨だか、ハイ、あたしゃいっこうに――」
「知らぬと申すか」
 じっとしばらく、何事か考えていた対馬守、急にニッコリして、
「ナア女、しばらく芝居をしてみる気はないかの? 余のもとに」
「アイ、それア狂言によりけりでネ、どうせ世の中は、芝居のようなものですから、役によっては承知しないともかぎりませんのサ」

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:435 KB

担当:FIRTREE