殺人鬼
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著者名:浜尾四郎 

   美しき依頼人

      1

 二、三日前の大風で、さしも満開を誇つた諸所の桜花(さくら)も、惨(いた)ましく散りつくしてしまつたろうと思われる四月なかばごろのある午後、私は勤先の雑誌社を要領よく早く切り上げて、銀座をブラブラと歩いていた。
 どこかに寄つてコーヒーでも一杯のんで行こうか、いや一人じやつまらない、誰か話し相手はないか、とこんな事を考えながら尾張町から新橋の方に歩いて行くと、ある角で突然せいのひどく高い痩せた男にぶつかつてしまつた。
「馬鹿め、気をつけろい」
 と云つてやろうと思つてふとその人をよく見ると、知り合いの藤枝真太郎という男である。
「おや、藤枝か。どうしたい」
「うん君だつたのか。……今日は何か用で?」
「ナーニ、あいかわらず意味なく銀ブラさ。君こそ今頃、どうしたんだい、この裏の事務所にいるんじやないのか」
「今ちよつとひまなのでね、三時半になるとお客さんが見えるがそれまで用がないので、ちよつと散歩に出て来たんだよ。たいてい君みたいなひまな男にぶつかると思つてね。……もつとも今みたいに文字通りにぶつかるとは思つてなかつたがね」
「あははは。そうかい、そりや丁度いい。僕も誰か相手をつかまえてお茶でも飲もうと思つてたところなんだ。じやここへはいるか」
 私は早速彼をさそつて、そばにある喫茶店へと飛び込んだのであつた。
 店の中は、よい按配にすいていたので、二人は傍(かたわら)のボックスにさし向いに坐りながら、ボーイに紅茶と菓子を命じた。
「おい小川、僕はこうやつてさし向つて腰かけるが、これは何故だか判るかい」
「あいかわらず、藤枝式の質問をするね。話をする為じやないか。つまり二人で語り合うために最も自然で便利な位置をとるのさ」
「そうさ。ところで君はこういう事実に気がついているかい。こういう位置をこういう場所でとるのは、ある人々にとつてのみ自然であるという事さ」
「なんだつて。ちよつと判らないね」
 私はこういいながら、ボーイが運んで来た紅茶に自分で角砂糖を二ツ入れた。
「ちよつと、あそこを見給え」
 藤枝が、ふと右手の方をさしたので、私は右後の方に目をやると向う側のボックスに、二人の二十才位の婦人が、一列にならんでこちらに背をむけて仲よく話をしている。
「わかつたかい。若い女同志だとああいう風にならぶんだ。あの人たちにはああ並ぶ方が便利だと見える」
 藤枝はこういうと、ケースから新しいシガレットをとり出して火をつけた。
「だつてありや特別の場合だろう。いつも女同志がああいう位置をとるとは限るまい」
「だから君にはじめはつきりきいたろう。君がそういう事に気がついているかどうかを。僕が今まで観察した所によると二人づれの若い女は必ずああいう風にすわる。必ずと云つて悪ければ、十組の中八組まではああいう風に位置をとるものだよ」
「そうかな」
「そうさ。つまりこういう事実が認められるんだ。若い婦人同志はボックスにまずああいう風に坐る。男同志だとわれわれみたいに向いあう。それから男と女の二人づれだとやはりむかい合うという事実だ」
 彼はこう云つて得意そうにプカアリと煙を吐き出したのである。

      2

「そうかな。じや君、女同志だと何故ああいう風に腰かけるか、その理由を説明して貰いたいな」
 私は藤枝がいつもの通り、何か吹きはじめるかと期待しながらこうきいたのである。
「いや、それは知らない。そんな事は、心理学者か生理学者にお任せするんだな。僕の商売はそこまで立ち入る必要がないんだよ、ただある事実を事実[#「事実」は底本では「実事」]として観察していればいいのさ。観察! そうだ観察だね、君だつてたびたび女がああ並んでかけているところを見てはいるんだが、そういう事実に気がついていないんだ」
「ドイル先生が、シャーロック・ホームズ氏にそんな事を盛んに吹かしているが、やつぱり実際上にも役に立つかね」
「立つこともあり、立たぬこともありさ。探偵小説の御利益は、ないとも云えるし大いにあるとも云えるね」
「じや、探偵小説なんてものは、実際、君みたいな探偵に役に立つ事があるんだね」
「作そのもの全体の御利益はまず疑わしい。しかし出てくる名探偵の片言隻語のうちには、なかなか味わうべきありがたい言葉があるよ」
 彼はこういいながら、アップルパイをフォークでしきりとほおばりはじめた。
 私は二週間ほど前、赤坂のある料理屋で、高等学校時代のクラス会が開かれたとき、最近英米で素晴らしい評判をよんでいる名探偵小説を二、三冊彼に貸したことを思い出した。
「こないだ君に貸した本はどうだつたい」
「あ、あれか、そうそうこないだはありがとう。皆一気に読み通したよ。みんな面白かつた」
「そりやよかつた、……しかし役には立たないかい」
 藤枝はこのとき、ちよつと黙つて考えこんだ。
 私は、早くも、彼がその小説について何か不満足な点を思い出していると感じたので、すばやく先手を打つつもりで切りだした。
「何も、これはあの小説には限らないけれども、いつたい僕が探偵小説の中で気に入らないのは、出て来る名探偵が偉すぎることなんだよ。シャーロック・ホームズは勿論、ポワロにしろソーンダイクにしろ、またフィロ・ヴァンスにしろ、人間以上じやないか。実際あんな偉大な人間なんてものがあるもんじやないからね」
「そりやそうだ」
 藤枝は余り気のない返事をした。
「これは君を前において、ひやかしに云うのでもなく、またお世辞に云うのでもないが、君位なところがまず実際上の名探偵だよ。我が藤枝探偵はシャーロック・ホームズの如き推理力はなく、フィロ・ヴァンスの如くに博学に非ざれども……」
「オイオイもうよせよ」
 彼は、でもちよつと恥ずかしそうに顔を赤らめて、私のいうことをさえぎるように云いはじめた。
「君のいう通り、探偵はえらすぎるよ。しかし僕に云わせれば、こないだの小説にしろ、どの小説にしろ、悪人が少々悪すぎると思うね。どうして小説家がほんとの悪人を描かないのかね」
「ほんとうの悪人?」
「そうだ。いつたい探偵小説に出てくる悪漢は大悪人すぎるよ。作りつけの、生れながらの悪人なんだ。たとえば、人を殺すのに、実に遠大な計画をたて、冷静にやつつける。それからあとでも実に平気でその始末をつけている。あれがちよつといやだな」
「じやなにかい。君はそんな悪人はないという気なのかい。そりや少しおかしくはないかね」

      3

「どうして?」
「こりや君の方が詳しいはずだが、犯罪学では生来、犯罪人という一つのタイプを認めているんだろう」
「そりやあるさ。そういう犯罪人はある事はある。『オセロー』に出てくるイヤゴーなんかはまずその例さ。しかし、めつたに出てくるものじやないぜ。ことに探偵小説に出てくるような殺人犯人がこの世の中にいるとはまつたく思えないね。今も云つたように、殺すまでに実に冷静に計画し、人殺しをしたあとでも、まるで朝めしでも食べたあとのように悠々として、少しも恐怖心や良心に悩まされてはいない。全くおどろくよ」
「無いとは云えないだろう。君が未だ出会わないだけじやないか」
「ともかく僕はまだ一度もお目にかかつたことはないな。検事をしていた頃だつて、それからやめてからだつて、まだ一度もそんなひどい奴に出つくわしたことはない。詐欺だの横領の犯人になると、ずいぶん悪智慧をめぐらして犯罪を行う奴がいるが、殺人犯人にはちよつとないね。だいたい人を殺すなんて事が、馬鹿な話だからね。智慧のある奴じやできないよ」
 彼は紅茶をすつかり呑んでしまつて、次の一杯をまた命じた。
「じや、智慧のある人間は殺人をしないとして、殺人狂なんてものはどうだい」
「殺人狂はたくさんある。しかし、余り智慧がないから、名探偵が出るまでもなく直ぐ捕まるよ」
「生来的に殺人狂で、そうしてすばらしく智慧のある奴が出て来ると、いよいよ名探偵が出動するわけかね。どうだい、そういう犯人と一つ一騎打の勝負をやつては?」
「それは僕も望んでいることなんだが、まあ当分だめらしいな」
 藤枝はこういいながら、二本目のシガレットを灰皿にポンと投げこんだ。
 人間というものは、どんなに偉くても一寸先も見えるものではない。
 こんな会話があつてから、半月もたたぬうちに、藤枝はかねて望んでいた通りの――いやあるいはそれ以上の、大罪人と一騎打の勝負をしなければならなかつたのである。
 しかも、その大惨劇の序曲が、この会話から一時間もたたぬうちに、はじまろうとは、全く思いもかけぬ事だつた。
 私は、ふと時計を見たが、三時にもう二分位しかなかつた。
「さつき三時半頃にお客が来るといつてたがまだいいのかい」
「まだいいさ」
 彼はこう答えたが、意味ありげな笑顔をすると、ちよいと私を見ていつた。
「僕の望みは当分達せられそうもないが、女性礼讃者の君には多少の好奇心を与えるかも知れないお客様だよ」
「女の人かい」
 私は、思わず云つてしまつた。
「うん、そうさ」
「どんな婦人だい、若くて美人かね」
「そうせき込み給うな。まだ会つたことはないんだ。今日がはじめての会見さ」
「なあんだ。しかし君のことだから、別に粋筋というわけでもなかろうが……」
「無論だ。事件の依頼人なんだよ。残念ながら、筆蹟から、顔かたちを推理する方程式がないので、美醜の程は判らないが、とにかく若い女たることはたしかだ。君だからかまわない、今朝、僕の所についた手紙を見せようか」
 彼はこういいながらおもむろにポケットに手を入れた。

      4

 私はこの辺で、藤枝真太郎という男の経歴と、それから余り自慢にならぬ私自身の経歴とを読者諸君に一応、御紹介しておく必要を感ずるものである。
 藤枝真太郎とは、五年ほど前まで、鬼検事という名で、帝都の悪漢達に恐れられ憎まれていた、もとの藤枝東京地方裁判所検事の後身である。
 何を感じたか、五年ほど前にとつぜん辞表を出して退職してしまつた。多くの司法官と同じように、すぐに弁護士の看板を出すかと思つていると、これはまた珍しいことに、世人の予期に反して、彼はいつこう弁護士の登録をしない、しばらくすると、銀座の裏通りに小さな洋室を借りて、私立探偵藤枝真太郎という看板をかかげはじめた。じつに彼が検事退職後、二年後の事であつた。
 それから今日までに、彼は恐るべき怪腕を振いはじめた。関係者が現存する為に彼の功績はいつこう世の中に発表されないけれども、それでも牛込の老婆殺しの事件、清川侯爵邸の怪事件、富豪安田家の宝物紛失事件、蓑川文学博士邸の殺人事件などは、人々のよく知る所となつていると思われる。
 鬼検事は依然として鬼である。在職当時よりも、自由がきくだけ一層悪漢らには恐れられているわけだ。
 私、小川雅夫は、実は彼と高等学校が同期なのでその頃から彼とはかなり親しくしていた。
 当時、世の中は、新浪漫派の文学の勃興時代だつた。誰でも当時の読書子は必ず一時は文学青年、兼、哲学青年になつたものである。
 藤枝も私も御多分にもれず、イプセンを論じ、ストリンドベルグを語り、ロマン・ローランの小説を徹夜して読むかたわら、判りもしないのに、一応判つた顔で、ベルグソンやオイケンを語り合つたものだつた。
 実際いまから考えると冷汗ものだが、その頃の高等学校の自分達の部屋には、ニーチェの言葉のらくがきが必ずしてあり、一方の壁にはベートホーヴェンのあのいかめしい肖像画をかけているかと思うと、ミケランジェロの壁画の写真が片つぽうにはつてあつたものだ。
 だから藤枝も私も将来は大文豪か大哲人になるつもりでいたものである。
 しかし此の芸術病も大学に行くころになるとだんだんうすらいで、大学に入学する時分には、だいぶん足が地について文科をよけて法科へ行くものが殖えて来た。
 藤枝真太郎なんかはまさにその類で、ゲーテの全集の前にいつのまにか判例集が並べられ、イタリー語の辞書などはどこかの隅に入れられて六法全書がはばをきかす事になつてきた。
 愚かだつたのは、かくいう私で、芸術病は一向さめきらず、哲学科に籍をおいて大いに勉強しようとしたのはよかつたが、大学二年のころ、大阪で、貿易商をして多少の産をなした父が死んだのが運のつき、あとを整理しに郷里へ帰つて、二、三ヶ月暮しているうちに、遊ぶ方が面白くなつて、すつかりなまけ者になつてしまつた。
 それでも、一応、文学士という称号はもらつて卒業したが、同窓のある人々はもはや文壇に乗り出すし、法科に行つたものは盛んに高文というのを受けて、立派なお役人になつてゆくといううらやましさ、これではならぬとがんばつても、さてなまけ者の悲しさにいつこう世に出られず、ええままよ、といつたん帰郷し、当分父の商売をついでいたが、さいわい生活の不安もないので一家をあげて上京し、たいして名もない雑誌社に小遣とりで御奉公している今の身分をかえつて気楽だとばかり、まけおしみを云つているわけである。

      5

 平凡な私の生活でたつた一つ忘れられぬ事は、三年前に妻を喪つたことで、それから後は、独身者、子もなし、母と二人きりののんきな暮しである。
 後ぞいをもらわぬ気でもなし、またいろいろ世話をしてくれた人もあるが、古いたとえの、帯に短し襷に長し、でもう四十にまもないのにこのところ、一人者である。
 藤枝真太郎も私と同じ位のはずだから、もう三十七八にはなるだろうが、彼は、この年になつてやはり独身である。それも彼のは私とはちがつて、はじめから結婚しないのだ。
「啖呵にやならないが、俺は女に惚れたこともなし、また惚れられたこともなしさ」
 というのが彼の口ぐせだつた。
「僕は女というものをどうしても尊敬する気にはなれないね。と同時に、信じることが出来ないんだよ」
とよくまじめに云うことがある。自らシャーロック・ホームズを気取つているように思われるが、実はこれは彼にとつては、かなり淋しそうなのである。
 私同様、父は既になくなり、母と二人で家をもつて、たいてい毎日、事務所に出ているのだつた。
 こういう彼のことだから、婦人の客が来ると聞かされてもいつこう羨しがるべき理由はないのである。果して私の思つた通り、ロマンスではなく、事件の依頼人とみえる。
「これが今朝着いた手紙さ。速達で事務所に来ていたんだ。大分いそいだとみえて、ペンの運びが乱れてはいるが、相当の金持の、教育のある女だね」
 彼はこう云つてクリーム色の洋封筒を私の前へさし出した。
 私は黙つて中の紙をぬき出したが、それは封筒と同じクリーム色の洋紙で、細かい女文字でこう認められてあつた。

 突然手紙を差し上げる失礼を御許し下さいまし。まだお目にかかつたことはございませんが、先生の御名前はかねてより承つてよく存じて居ります。ある事件につき、特に先生を見込んで御願いいたしたい用件がおこりました。私一身の事ではございませんが、私の家庭のことでございます。今日午後三時半に先生の事務所に伺いますから、御都合がよろしかつたら必ず御会い下さいますよう御願い申し上げます。万事はお目にかかつた上にて。早々。
秋川ひろ子  藤枝先生

「ねえ、小川、この婦人はどうせ会いに来て、事情を語るつもりだろうから、自分の身の上を少しもかくす必要がないわけだ。だからいそいで平生つかつているレターペーパーを用いたと思つていい。見給え、このレターペーパーは相当贅沢なものだぜ。僕らがちよいちよい買うレターペーパーとは違つて、封筒と用紙とがちやんとそろつて、一箱いくらという奴さ。おまけにそれもかなり高い物だぜ。こんなものをいつも使つているとすりや、一応の金持の娘かなんかだよ。それから手紙の文章がちよつと気に入つた。要領を得ている。ただこの手紙は女の文章としては珍しいといいたいな……さて、そろそろ時間が来そうだから、引き上げるとしようか」
 彼はこういうと、机の上においてあった伝票をつかんで立ち上りかけた。
 私もつづいて立ち上ったが、まだ会つたことのない依頼人のことが、なんだか急に気になり出して来たのである。

      6

「ねえ君、若い女の人が自分の名をはつきり書いて、会つたこともない君にこんな手紙をよこすところをみると、余程さしせまつた事件がおこつているんだろうね」
 私は舗道を歩きながら話しかけた。
「うん、まあ本人から見れば、ずいぶん切迫した事なんだろうよ。しかし若い女の人たちはちよつとした事ですぐあわてるもんだから、話を詳しく聞かないうちは一緒に騒ぐわけにはいかぬよ。このあいだもひどく狼狽して女の人が飛び込んで来て、夫が行方不明になつたというのだ。だんだん調べて見ると、その夫というのが、ある待合でいつづけをしていたというわけさ。あははは」
「しかし、この手紙には自分の名がちやんと出ているね」
「うむ、これがちよつと面白い所だ。これが本名だとすればだね、君は気がついているかどうか知らないが、秋川という姓は、有りそうでいて殆どない姓だぜ。秋川といつて思い出す人があるかい」
 私はそう云われて、自分で暫く考えて見た。
 大阪で貿易商をやつていたころ、いろんな事業家を知つていたが東京の実業家で、そんな姓の人がいたのを思い出したのであつた。
「何とか会社の社長で、秋川という人がいたように思うが……」
「そうだよ、君は割に物をはつきりおぼえているね」
 藤枝は、妙な目つきで私をちよつと見た。
「この手紙がついてからすぐ、僕は紳士録だの興信録をあけて見たんだ。秋川駿三という実業家がある。秋川製紙会社の社長だ、無論外の会社にも関係しているが。そうしてその人の長女にひろ子という人がある事がちやんと出ているよ」
「え? じや秋川ひろ子というのは、その金持の娘かい」
「うん、そうだ、勿論これから僕を訪ねて来るお嬢さんが、その人と同じ人かどうかは未だ判らないが、ともかく秋川ひろ子という人が立派に存在している事はたしかだよ」
 こんな話をしているうちに、二人は藤枝の事務所の前にやつて来た。
「そのお客さんが来るまで、どうだい君、興信録でも見て、あらかじめ予備知識を得ておいては?」
 藤枝は室にはいつて、大きな机の前に腰かけると、側にちやんとおいてあつた大部(たいぶ)の本を私の前にさし出した。
 見ると、成程彼がすでにだいぶ調べたと見えて、アの字の部の所が開かれている。秋という頭字をひろつてゆくと、秋川という姓はたつた一つしかない。
 秋川駿三、なるほどこれだな。私はそう思いながらその項をじつと読みはじめたのである。
秋川駿三(四十五才)
 君は旧姓山田、二十三才のとき、当家先代長次郎氏に認められて、家女徳子(現在の夫人)の婿養子となり、秋川の姓を冒す、夙に製紙事業に身を投じ、成功して今日に至る、現に秋川製紙会社々長、その他某々会社重役、云々(ここに種々な役名が書いてあるがここには略す)
 家族は、夫人徳子(四十五才)長女ひろ子(二十一才)次女さだ子(十九才)三女初江(十八才)長男駿太郎(十五才)
 これが興信録に表わされた秋川一家の記事である。

      7

「成程、これで見ると立派な家のお嬢さんだね」
「さあ、そのほんもののお嬢さんが来てくれれば、君も御満足だろうが、僕にはそんなことよりも事件そのものの性質の方が気になるよ」
「あいかわらず、藤枝式だな。美人に恋せず、女を信ぜずか。どうも君という人間は妙に出来ているんだな」
 私がこういい終つた途端、ベルが鳴つて訪問者がオフィスの戸の外に立つてることを報じた。やがて戸が開いたらしく、三十秒ばかりたつと、われわれのいる部屋に、給仕が一葉の名刺をもつてはいつて来た。
「うん、どうかこちらへ、といつて御案内してくれ」
 藤枝はこういつてちよつと私のほうを見た。
 こういう場合にはいちおう遠慮するのが道だから、私も立ち上つて座をはずそうとすると、彼はいつものように、目でそれを止めたので、私は一旦上げた腰をおろしたが、そのとき、部屋のドアが開いて、そこに一人の若い婦人が現れたのであつた。
 私は、その婦人を見た瞬間、思わずあつと叫ぶところだつた。
 それはただ美しいとか、気高いとかいう意味ではない。私は、このときほど、自分の直観を確信させられたことはなかつたのである。
 私は、さつき藤枝の所に若い婦人が訪ねて来る、ときいた時から何となく、好意のもてるような、美しい婦人のような気がしたのだ。それからつづいて、秋川ひろ子という名をきき、その筆蹟を見てから私は早くも、品のいい美人を頭の中に思い浮べたのであつた。
 藤枝のような、なんでも理窟できめなければならぬ男は、筆蹟からは容貌は断定出来ないと云つているけれど、私は早くも、これだけから、私が好きになれそうな美しい婦人を頭に描いていたのだ。
 それがどうだ。今、ドアの所に立ち現れた若い婦人は、まるで自分の考えた通りの美人ではないか! 名などはもうどうでもいい、秋川ひろ子の偽物であろうが、なかろうがそんな事はどうでもいい。
 しかし、事件は相当なものでなければならぬぞ。藤枝が冷淡に拒絶してしまうような事件では、困るぞ……いや、私は自分の事ばかり云い出して、この婦人を読者に紹介するのを忘れていた。
 このとき、ドアに現れた婦人は(まともに描写すれば)年のころ二十才前後、極く質素なみなり、羽織も着衣もめだたぬ銘仙のそろいで、髪は無造作にたばねて何の飾りもない。ただ一つ、この質素な身なりに特に目立つのは左の中指にはめた金の指輪で、そこにはたしかに千円以上もする宝石がはめてあつた。
 容貌は一言で美しいというに尽きる。しかし、はじめの印象によれば、それは決して華美な美しさではなかつた。どちらかと云えば、淋しい美しさである。特に大きな目は、この顔を大へん美しく、気高く見せてはいるのだが、同時に、それは女性に珍しい理性的なまなざしと云うべきであつた。
 戸があくと同時に、私は思わず立ち上つた。
 婦人は、われわれ二人が中にいるのを見て、その美しい目を見ひらいて一瞬間ちよつとまごついた様子を見せた。
「私が藤枝です。どうぞこちらへ。ここにいるのは私の友人で小川という者です」
 藤枝が、物なれた調子でよびかけた。

      8

「有難うございます」
 婦人は、余計な遠慮をせず、しかし決して淑(しとや)かさを失わずに、そのままそこに示された椅子に腰を下ろすと、赤青(あかあお)のきれいなハンドバツグを膝におきながら、その上に軽く両手をのせた。
 が、二人の男の前に対座して妙に窮屈そうなようすだつた。
「秋川さん、秋川ひろ子さんとおつしやいましたね。お手紙たしかに頂戴しました。今朝拝見しました。お待ちしておつたのです。ここにいるのは小川雅夫といつて、私の極く親しい友人です」
 婦人は改めて二人にていねいにあいさつをした。
「申しおくれまして。私秋川ひろ子と申します者でございます」
 私はいそいでポケットからシースを取り出し、その中から一番汚れていないきれいな名刺を出して秋川嬢の前にさし出した。
「小川君は極く親しい友人で、今、ある社に務めているのですが、道楽商売なので主として僕の手伝いをしていてくれているのです。従つて私同様の御信用を賜りたい。どんな御用件でも、この男の前で云つていただきたいと思います」
 実を云うと私は、そんなに今まで藤枝の事件を手伝つたわけではないのだ。しかし私は、こう云つて私の信用を、ここではつきりときめてくれた藤枝の好意には、心から感謝せずにはいられなかつたのである。
 もつとも、このとき、私が座をはずしてしまえば、これから後に説くような惨劇の渦中に私はとびこむ必要もなかつたわけだが、同時に私は秋川家の美しい人達とも永久にあわなかつたかも知れない。
「いま藤枝君が申す通り、私は藤枝君の手伝いをやつているものです」
 われながら訥弁だとひどく感じながら、私は美しい秋川嬢の前で、やつとこれだけをいつたが、なんだか顔が赤くなつたような気がした。
「しかし、藤枝君に特に極秘の御要件でしたら私はご遠慮しましようか」
 こんなつまらぬ遠慮をちよつと口からすべらせてしまつて実はひやつとした。
「なんだい、君、いつものようにここでお話をいつしよにきいたらいいじやないか。……秋川さん、小川君はこういうつまらぬ遠慮を時々いうんで困るんですよ。殊にあなたのようなお若い、立派な方が見えるときつと、こんなにはにかむんですよ」
 彼はこういつて、ちらとこつちを見た。
 女性を恋せず、女性を尊敬しないという藤枝は、しかし女性に対しては、きわめて社交的である。彼は巧(たくみ)に相手の窮窟さを楽にしようとした。
 秋川嬢は、ちよつとあかくなつたが藤枝をにつこり見ながら云つた。
「やつぱり私みたいな者が時々うかがいますんですか」
「ええ、ちよいちよい見えますよ、この頃の若いお嬢さん達は皆しつかりしておいでで、中々立派な問題をもち込んでおいでになります。もつとも若いお嬢さんがたが見えるのは、よくよくの事で極めて秘密の要件が多いのですが」
 彼はこういうと、シガレットに火をつけた。
 秘密の用件をひつさげて、この探偵の前にあらわれたのは自分がはじめてではない、という確信が秋川ひろ子をして大へんにくつろがせたらしい。
「では、あの今朝、手紙をさし上げましたことにつきまして申し上げさせて頂きます」

   ひろ子の話

      1

 秋川嬢は、さすがに、もういちど自ら堅く決心したらしくこう云い出した。
「どうか、御遠慮なく。ただあらかじめ申し上げておきますが、私のところにおいでになる以上、よくよくの事情がお有りのことと思います。従つて無論その事は重大な秘密に違いありません。ここにおいでになつていることすら、既に秘密に属するでしよう。けれど一旦、私を信じておいでになつた以上、どうか何事もかくさず、嘘を云わず、はつきりと云つて頂きたい。これはあらかじめ、切にお願い申しておきます」
「無論でございます」
 秋川嬢ははつきりと答えた。
「一旦、先生を御信用申し上げてお訪ね致しました以上、決してかくし立てをしたり、嘘を申し上げたりは致しません。ただ私、心配なのは私が今日うかがいました用件と云うのが、少々漠然としたことすぎるような気が致しますの」
「漠然? はあ、そりやかまいません。どうかなんでも云つて下さいまし」
「実は今日うかがいましたのは私一個の問題ではございませんのです。それはあの御手紙で申し上げました通りでございます。私、実は父の事について心配な事がございますので、うかがいました次第なのです」
 私は少々意外な気がした。これまで藤枝を訪ねて来た若い女性の問題は、たいていデリケートな恋の問題か恋人の行方(ゆくえ)に関してであつたので、私は秋川嬢もきつとこんな話をはじめると思つていたのである。
 藤枝は、しかし少しも意外な顔をせずにじつと秋川嬢をながめている。
「私の父は、あのもしかしたら名前位きいていらつしやるかも知れませんが、秋川駿三と申しまして、先頃まで会社の社長をしておりました者でございます」
「先頃までですか。現には?」
 これは藤枝がちよつとおどろいた調子できいた。
「昨年の十一月まで、秋川製紙株式会社の社長を勤めておりましたのです。それが昨年の末になつて急にその会社をやめ、その他一切の会社との関係を断つてしまいました。それで只今では無職というわけでございます。父はまだ四十五才になつたばかりでございますから、隠居をするにはまだ早いのでございますが、近頃大へんな神経衰弱にかかりまして、とても健康がつづかぬからというので、只今申し上げました通り、全く無職の人間となりました。家族は父の他、母徳子と、私が長女で、妹が二人ございます。すぐ次の妹が、さだ子と云つて今年十九才、次が初江と云つて十八才になります。それから弟が一人ございますが、駿太郎と申しまして、これは今年十五才になります」
 秋川嬢はここまで一気にしやべつてちよつと口をとじた。藤枝は、無表情な顔で、あいかわらず紫の煙を空中にふいている。
「私が今日うかがつたのは、父についてでございます。父は最近、何かを大変おそれております。一言で申せば、何者かに非常におどかされている。今日にも殺されはせぬかと恐れているようなのでございます。そうです、たしかに父は生命をつけねらわれている、少くとも父自身はそう感じて恐れておりますように思われるのでございます」
「生命の危険をですか」
 藤枝がきいた。
「左様(そう)です。父はたしかに生命をおびやかされております。名誉や財産ではございません。はい、それはたしかでございます。そう考える理由が充分でございますの」

      2

 秋川嬢はつづけた。
「それをはつきり知つて頂くためには、父が昨年勤めを一切やめてしまつた頃からのお話を申し上げる必要があると存じます。元来、私の父と申す人は、余り強気の人ではございませんが、しかしともかく、秋川家に入りまして……あの御承知かどうか存じませんが父は養子でございますの……秋川家に入りましてから、事業も凡てに成功いたして今日までに至つた位でございますから、そんなに意気地のない性質ではありません。けれど私が幼少の時から父は大変神経質でございました。
 それがこの数年になりましてから、だんだん神経衰弱のようになりまして、毎晩眠り薬をのまねばねむれぬという風になつてまいりましたのです。
 医者にも診ては頂きましたが、格別にこれと申して、はつきりした原因はない。多分事業が余り劇(はげ)しすぎるからではないか、というような事でございました。
 ところが、近頃はそれがだんだん劇しくなりまして、昨年の夏なんか、どうも眠れない夜が恐ろしいようすなのでございます。私もはじめは、いつもの神経衰弱がつのつたのだとばかり思つておりましたが、ある日、とうとうその原因らしいものを、発見してしまつたのでございます。
 それは、たぶん昨年の八月の末ごろだつたと存じます。ある夕方、私は父の所に来た手紙の束をもつて父の書斎にまいつたのです。まだ父が帰りませんので、一人で何気なくその手紙をそろえておりますと、青い西洋封筒が一つ、床におちました。拾いとつて、ちよいと封じ目を見ますと、そこに赤い三角形の印(しるし)がおしてございます。珍しい印とは思いましたが、別に気にもとめずに、そのままそこにおいておきました。これにはさし出し人の名はありませんでした。
 その夜、父はどうしたわけか夜中二階の寝室でおきていたらしく、あくる日、母が私にふしぎそうに語りましたが、父は、床にもつかず、何か考え、考えてはためいきをついていたそうです。母が何をきいても一さい父は云わなかつたそうでございます。
 すると一月(ひとつき)ばかりたつてからのある夜、父が青い顔をして私共の部屋にまいり、
『このごろは、世の中が物騒だから下男をふやそうかと思う。お前たちも気をつけて、夜ねる時には一通りの戸締りを見てから、ちやんと鍵をかけてねろ』
 と申して、また自分の部屋に戻つたそうでございますが、その夜、母がひそかに気をつけておりますと、父は夜中、ピストルを手にして部屋の中をうろうろしていたらしいと申すことでございます。
「ちよつと、秋川さん、その頃お宅には下男は何人いたんですか」
「下男は一人しかおりませんでしたが、老年の執事が一人おりました。今でもまだおります」
「失礼しました。どうか話をおつづけ下すつて!」
「私はそれをきいて、その翌日父が勤めに出ますと、そつと書斎にいつて見ました。この前のとき、何だかあの赤い三角形の手紙と、父の恐怖と関係があるような気がしましたものですから。それに西洋の探偵小説なんかによくあるものですから!
 父の部屋にはいつて見ますと、私はまず第一に状差しを見ました。けれど何も見当りません。紙くず籠を見てもやはりないのです。ではやつぱり私の考えは小説の空想だつたのか、とその時はそう思つてしまいました。

      3

 けれど、これは矢張り私の空想ではございませんでした。十月のはじめ、外出先から私が帰つて来て門の郵便箱を開けて見ますと、そこにまた三角形の印(しるし)のついた手紙が来ています。今日こそは、はつきり確かめねばと私は決心しまして、其の儘、それを父の書斎において、父の帰るのを待つておりました。
 珍しく父は、その夕方わりに早く帰つてまいり、着物をきかえながら、夕食はうちでたべるからと云うので、母が台所に行つて女中達にいろいろ食べ物のことについて申している間に、突然父のようすが変つてしまつたのでございます。疑いもなく、父は書斎にはいつてあの手紙を見たに相違ございませぬ。折角母が丹精して作つた夕食にも殆ど手をつけず、食卓に向つても、なんだかしきりに考えているようでございました。
 食卓を離れた父は、ますますいらいらしているようでございましたが、書斎に入つたり出たりして落ち着きませぬ。母も何事かと、また心配しているようでございましたが、どうもはつきりしたことは判らないようなのでございます。
 夜になりましたが、私はとうてい眠られませぬ。十二時すぎにそつと起きて寝室から出てまいりますと、廊下でばつたり誰かにあつてしまいました。それはさだ子でございました。
『さださん、どうしたの? 今頃』
 とききましたが、妹は青い顔をしたまま何も答えないのです。私は思い切つて、
『さださん、あんた、お父様のことで何か心配していらつしやるのではない?』
 ときいて見ました。
 そうすると、妹は黙つてうなずくのです。
『じや、あんたも、あの手紙に気がついているの?』
 とはつきりきいて見ますと、妹は小さな声で申しました。
『お姉様、どうしてあの手紙の事、知つてらつしやるの?』
『だつて私、前からお父様の所にくる手紙に気をつけてるんですもの』
『え? お父様のところにも来たの?』
 妹は驚いて思わず大きな声を出してしまいました。驚いたのは妹ばかりではございませぬ。私もおどろきました。
『さださん、あなた、誰の所にきた手紙の事を云つてるのよ』
 私は思わず暗い廊下で、妹の手をかたく握りしめておりました。
『お姉様、私さつきへんな手紙を貰つたんですの。誰から来たのだか判りませんけれど……』
『じや、封じ目に三角形の印が押してあるのじやない?』
 私はさえぎるようにそう云つてしまいました。妹はこわそうに声をひそめて申しました。
『そうよ、私いまはつきりおぼえていないけれど、こんな意味の事が書いてあつたの。
 お前の父は今大変に危険な位置にいる。お前の一家も早晩大変な不幸にあうだろう。この手紙を早く父に見せてわけをきいてみよ』
『さださん、あなたその手紙をどうして?』
『私、その手紙のいうとおりにしたのよ。すぐお父様のところにもつて行つたの。そうしたら、お父様は、それをひつたくるように取つて読むと、自分のふところに入れたまま、お前、この事を決して誰にも云つちやいかん。決して心配する事はないからつて、こわい顔をなさつたのよ』

      4

 さだ子はその手紙を父に渡して戻つて来たが、父のようすがどうも心配なので、私同様おきて来た、とこう申すのです。その夜は、しかし別に何事もおこりませんでした」
 美しい依頼人はここまで語つて、ちよつと一息ついた。
「よく判りました。ちよつとおたずねしますが、妹さんの所に来た手紙はやはり郵便で送つてこられたのでしようね」
「そう申しておりました」
「その妹さんの所に来た手紙はペンで書いてあつたでしようか」
「いいえ、邦文のタイプライターで打つてあつた、そうでございます。表もすつかりタイプライターだと申しております。父の所にまいりましたのもたしかにタイプライターで打つてございました」
「判りました。これで、お父様が、会社を退かれる前のようすが、はつきりしました。つまりお父様は、なに者かの為にいつも脅迫されている。それでいつも心配していらしつた。そのうえ、妹さんの所にまでそれが来た、という事を知つて、ますます煩悶なさつた。その結果、神経衰弱がいよいよひどくなつて行つた、とこう云うわけですな。ところで、妹さんの所に手紙が来た事については、お母様にもお話なさつたでしようね」
「私は何も申しませんでしたが」
「では、さだ子さん御自身は、如何ですか」
 このとき、ひろ子嬢の顔にちらと妙な表情が浮んだが、それは直ぐ消えて彼女ははつきりこう云つた。
「いいえ、さだ子もきつと黙つていたことと存じます」
「そうですか。いやありがとうございました。ではつづいてお話し下さい」
 藤枝は新しいシガレットに火を点じてうながした。
「つまり斯様な状態で、父はだんだん妙な人間になつて行つたのでございます。十一月のなかばごろにまたまた一通の怪しい手紙がまいりました。私はそのとき、それをそのまま自分で開いて見ようか、と余程考えたのでございますが、それもなし得ず、黙つて父の机の上においておきましたが、その翌々日父は、健康がつづかぬと云うわけで、いつさいの職務から関係を断つてしまいました。これが昨年暮の十一月までの父のようすでございます」
「ちよつと、お父様は警察へは一度もその話をなさつたようすはないのですか」
「はい、決して! 私もそれがどうも気になつておりまして、自分で警察のほうにでもお話しようかと存じましたのですが、父自身がああして秘密にしている以上、何かわけがある事と考えましたから、私は今日まで誰にも何も申さずにおいたのでございました。ところが……」
 ひろ子嬢がここまで語つてきたとき、不意にドアをノックする者があつて、藤枝の声に応じて、給仕が一通の手紙をもつてはいつて来た。
 ちようど私が一ばんその入口に近いところにいたので、手をのばしてその手紙を受け取りながら表を見ると、
 藤枝真太郎氏事務所気付
  秋川ひろ子殿
 とタイプライターで書いてある。
 私は何気なくそれを秋川ひろ子の手に渡そうとして、ひよいと裏返して見たが、おもわず、アッと叫ぶ所であつた。

   第一の悲劇

      1

 見よ。そこには、はつきりと赤い三角形の印(しるし)が押してあるではないか?
私はそれを見た刹那[#「刹那」は底本では「殺那」]、すぐにこれを、ひろ子嬢に手渡していいかどうか、ちよつと考えざるを得なかつた、ひろ子嬢は、しかしその間にもうその手紙の恐ろしい三角形を認めてしまつたらしい。
「あら! ここにもこんな物が? あの私にですの?」
 さすがはやはり女だ。今までしつかりとしていた彼女も、この手紙の印を見ては全く面喰つたらしい。膝の上から危くすべり落ちそうなハンドバッグをやつと握りしめた。
 けれど、一番敏活に行動をとつたのは藤枝だつた。彼は私の手に何があるかを見るや素早く立ち上つてドアをあけた。
 次の瞬間、ドアの外からこんな会話がきこえて来た。
「オイ、給仕、今の手紙はどうしてきたんだ」
「使いの方が持つて来たんです。メッセンジヤーボーイのようでした」
「もう帰つたかい?」
「あの手紙をおくと直ぐに帰りました。受取を書こうとしているのに、いらないと云つて!」
「そうか」
 藤枝が再び戻つて来た時は、私はひろ子嬢とただ黙つて顔を見合わしていた。
「畜生! ふざけたまねをしやがる」
 藤枝は、一人こう云いながら、椅子に腰かけたが、令嬢の前でとんだ乱暴な言葉を出してしまつたのを悔いた調子で云つた。
「いや、これは失礼しました。誰かのいたずらですよ。しかし、あなた宛の手紙です。一応ごらんになつては如何ですか。そしてもしお差し支えなかつたら、後で私に見せて頂きましようか」
 しかし、ひろ子嬢の顔色はまつたく青かつた。
「あの……私何だか恐ろしくつて……どうか開けて見て下さいませんか」
 藤枝は、こう云われると少しも遠慮なく、その手紙を手にとつた。
「これは今までお宅へ来たのと同じ封筒ですか」
 彼は、強いて平気を装うて、ひろ子嬢をおちつかせようとしているらしかつた。ペーパーナイフを側の机の上からとると、器用に、封をすつすつと切りながらつけ足した。
「御心配になる事はありませんよ。こんないたずらをする奴に限つて、決して恐ろしいまねなんかしやしないのですからね」
 ひろ子嬢は、しかしもう何も云わなかつた。否、云えないのだ。私もどんな手紙が出て来るかと、固唾をのんで待つていた。
 封筒の中からは卵色の洋紙が出て来た。
 一応藤枝が目を通して、それからひろ子嬢と私の前に出したのを見ると、邦文のタイプライターで全部、片仮名で次のような文句が書かれてあつた。
 タダチニ、ウチニモドルベシ。ナンジノイエニ、オソルベキコトオコラン。カカルトコロニ、イツマデモイルベカラズ。
「つまり、あなたに直ぐ帰れと云うんですな」
 藤枝は、にこやかにひろ子嬢に話しかけた。
「あの、私がここにまいつておりますことなんか、誰も知つているわけがないのですが」
 令嬢は青くなつて立ち上つた。
「秋川さん、そう御心配になるには及びませんよ。まださつきのお話もすつかりうかがつてないのですから、もう少しお話し下さいませんか。私もついているのですから大丈夫ですよ」

      2

 藤枝は、秋川ひろ子の話に余程の興味をもつたらしい。肝心の所で、話が途切れかかつたので、後をつづけさせようと、しきりとひろ子を落ち着かせて、その後をきこうとした。
 しかし、さすがの彼の雄弁と努力も、目(ま)のあたり今きた三角の印が、ひろ子に与えた影響にはかなわなかつた。
 やはり弱い女性である。しつかりしているように見えても秋川ひろ子は矢張り女である。
 私はそう感じたと同時に、この三角形の印のある手紙が、最近どんな恐怖を秋川父子(おやこ)に投げ与えているか、という事もはつきりと感じられた。
 おそらく、ひろ子が、これから語ろうとした事実には余程深刻なものがあるらしい。
 藤枝が頻りとききたがつていたのも無理はない。
 約二、三分、藤枝はいろいろとひろ子を説得したけれども彼女はもう腰がおちつかず、
「でも私……何だか恐ろしくて……」
 と云つて立ち上りかけていた。
 こういう有様では、とうてい今ここに落ち着かせる事は出来ぬと悟つたか、藤枝は、とうとうこう云つた。
「私は決してそう御心配になる事はいるまいと、思うのですけれど……まだすつかりお話をうけたまわり切れぬうちに、そう断言するのも軽卒ですから、それほど心配になるならすぐにお帰りになつたらいいと思います。……しかし、まだ、明るいですが、一人でおかえしするのは、ちよつと心配ですから……」
 彼はこう云つて私のほうを見た。
「いえ、私一人で結構でございますの」
 ひろ子はこう云つたものの、やはり気になると見えて、すぐには去りかねているようすである。
「失礼ですが、私どうせひまですから、お宅までお送りしましようか」
 私は、二人の中どつちともつかずに云つた。
「大変でございますわ」
「いいえ、小川君はどうせ今ひまなのです。それに人間も確かですから、小川君に送つてもらいましよう、ねえ秋川さん、そうなさつたらいかがです?」
「でも余り……はじめて伺つて勝手でございますから」
「何、いいですよ。小川君に頼みましよう」
 彼はこう云つて私を見た。
「ねえ君、君が行つてくれれば安心なんだが、その辺の流しの車を捕まえてうつかりのるのはまあけんのんだ、君、すまないが日の出タクシーへ一台よこすように云つてくれないか」
「うん、よし」
 私はすぐに、電話器の所に行つて指でナンバーを廻転しはじめた。
 ジージーと明らかに相手をよんでいる音がきこえるが、中中相手は出て来ない。
 すると、どう混線したか、妙な声が途中でしきりにきこえて来る。男の声か女の声かはつきり判らない。
「かけてるんですよ。困りますね。切つて下さい」
 私はじれ切つてその声に向つてどなるように叫んだ。
 すると、どうだ、その不思議な[#「不思議な」は底本では「不思議が」]声がこういうではないか。
「ほほほほ、藤枝さん、余計なことに手を出すものじやありませんよ。秋川家のことには手をお出しなさいますな!」

      3

「何?」
 私は思わず、電話口で大声をあげた。
「秋川家のことに手を出すものじやないというんですよ。どんな不幸が来ても、来るには来るだけの理窟があるんだから、藤枝さん、むやみに手を出すととんだ事になりますよ。ほほほほほ」
「何だ。オイ、君はいつたい誰だ」
 声では男女がはつきりしないが、言葉の云いまわしはたしかに女とみえる。この不思議な声に対して、私はとびかかるように、またどなり返した。
「おい君、どうしたんだい」
 左の肩をちよいとつかれて、ふりかえると藤枝真太郎が、早くもこの電話の応答を怪しいとみたか私の側につつ立つて、さぐるような目つきをして私をにらんでいる。
「妙な声がきこえて来るんだよ、それが秋……」
「シーッ!」
 彼はこわい目をして私をにらみながら、ちらとひろ子の方を見た。ここでへんな事をいい出して、この上この美しい女性に心配をかけるなという意味であろう。
 私は、黙つて、受話器を藤枝に手渡して後にさがつた。
 おそろしい手紙の事で、夢中になつているらしいひろ子には、幸い私のへんな様子は気付かれなかつたらしい。
 私は手紙を手にとつたまま、椅子の所にぼんやり立つている彼女に向つて、
「今、すぐ車が来ますから、まあおかけになつていらつしつて下さい」
 と云いながら、たえず藤枝の方に注意していた。
 しかし、本人の藤枝が電話口に出た時は、もうあの怪しい相手は話を切つてしまつたとみえて、彼は少しも妙な会話をはじめなかつた。やがて彼はおちついた声で、
「え、日の出タクシーですか。こちらは藤枝です。一台すぐよこして下さい」
 と云いながら電話を切つてしまつた。
「今すぐ来ます。この裏ですから二、三分で来るでしよう。それまでお待ち下さい」
「どうもいろいろごめいわくをかけまして、ほんとうに申し訳ございません」
「どう致しまして……それでと……すぐ車が来ますがそれまでに一言うけたまわりたいのですが、最近の御父様のようすは、つまりさつきおつしやつた状態がだんだん進んだ、というのでしような。手紙がまたさかんに来る、というような事なのでしよう。最初あなたが、漠然という言葉を使われた所からみても、とり立ててこれというような事件が、最近におこつたわけではないのでしようね」
 彼は、ちよつとの間に、すばやく要領を得ようと努力をした。
「はい、一言で申せばまあそんなわけでございますの」
「それから、その手紙ですが、あなたにあてられていますから無論これはあなたがおもち帰りになつていいのですが、もし出来ることでしたら私に御預け願えませんでしようか。何かの参考になると思いますから」
 ひろ子は、何の躊躇もなく、今きた手紙を藤枝に渡したのであつた。
 丁度その時、
「自動車がまいりました」
 と云つて、給仕が顔を出した。

      4

 藤枝は、ひろ子と私を玄関まで送り出して来たが、頻りとひろ子に対しては、勇気をつけるような事を云い云いしていた。
「ですけれど、もし余り御心配ならば、いちおう警察におつしやつた方がよくはありませんか。その辺は充分にお考えになつて……じやあ君、よろしく頼むぜ。お送りしたら直ぐに戻つてき給え」
 エンジンが音を立てはじめた時、彼は一言私に向つて云つた。
 二十一歳になる美しい令嬢とたつた二人で、自動車に乗つて走る気持というものは、決して悪いものではなかつた。
 私は、さつき興信録で、ひろ子の家が、牛込区の、ある高台の邸町にあることを知つていたので、乗ると直ぐに行先をつげたのであつたが、車が余り早く走つて、この楽しいドライヴを少しでも短くはしないかひそかに恐れていた。
 車は帝国ホテルの横を通り、日比谷公園の角を曲つて桜田門にで、それからずつと右手に御所の御濠をながめながら、二十五マイル位のスピードで走つている。
 私は、ひろ子の側に腰かけながら、出来るだけ藤枝真太郎のひととなりについて話すことにした。そうして彼女がおそれている事件に就いては、なるべくふれぬ事につとめた。
「私も、先生にお頼みしてほんとうに安心はしておりますけれど。……でも、どうして私が今日先生を御訪ねしていることが人に判つたのでございましよう。誰にも話してなんかないのでございますが……」
「おたくの方もどなたも御承知ないのですか」
「はい」
「手紙は無論一人で書いて自分でお出しになつたのでしようね」
「無論でございますわ。……そうそうあの手紙の表を書いておりましたとき、妹のさだ子が用事で私の部屋にはいつてまいりましたけれど、さだ子にすらその上書を見せなかつた位でございますもの。私すぐ吸取紙で上を伏せてしまつたのです」
「それは不思議ですね。郵便局では、裏にあなたのお名前が書いてないからわかるわけはなし……しかし藤枝もいつてたように、誰かのいたずらですよ。そんな事をする奴に限つて、実行にうつるものじやありませんよ。第一、昨年の秋からお父様をおどかして今日までかかつているんでしよう。もしほんとに危害を加える気なら、今までにいくらも時がある筈じやありませんか」
 私は、われながら、立派な理窟だと思いながら、こうひろ子にいつて安心させようとした。
 車はいつの間にか富士見町を通り、外濠をこえて牛込区にはいりかかつている。
 宏壮な邸宅のつづいた町を、車はどんどん走つて行つた。
「あれが宅でございますの。もうこの辺でよろしゆうございます。却つてうちの者の目につきますから」
「でもお宅の門の側まで行きましよう。万一の事があると私が藤枝に怒られますからね」
 こう云うと、ひろ子は、につこりとほほえんだが別に拒みもしなかつた。
 車が、秋川駿三と書いた立派な石の門の前にきたとき、私は停車させた。門から玄関まで、ちよつと半町ほどあるけれども、その門にはいるのは目についていけないと思つたのである。

      5

 私は、門の前に車をとめて、そこでひろ子をおろし、彼女が無事に玄関につくまでじつと見ていたが、別に何事もなく、玄関でひろ子はベルをおすと同時に、こつちを向いて、につこりしながら腰をかがめたので、私も先ず安心と、すぐにまた銀座に車を走らせた。
 事務所に着いて見ると、藤枝は室中(へやじゆう)を煙にしてじつと椅子に腰かけて待つていた。
「やあ、わりに早かつたね。ご苦労様。おかげでひろ子嬢も安心だつたろう」
「なかなか立派な家だよ、なるほど今どきあんなすばらしい家をもつてちや、おどかされるのも無理はないよ」
 私は、彼の前に腰をおろしながら云つた。
「そりやそうと、さつき君が受けていた電話は何だいありや? 何か僕をからかつてでも来たのかい」
「うん、そうなんだ。男だか女だかよく判らないが、ちよつときくと女の声らしい。秋川家の事なんかに手を出すなと云うんだよ」
「そんな事だと思つたよ。馬鹿にしてやがる。しかし事件が面白くなつて来たね。この手紙の来かたが少し早すぎたよ、僕はもう少しあと、つまり最近の話をききたかつたんだがね、こうと知りや、最近の話からきくんだつたが、この手紙がすつかりひろ子嬢をおどかしてしまつたんでね」
「手紙と云や、君は誰がそれをもつて来たか、もう調べたろうね」
「うん、君が出てから直ぐ電話で調べて見たよ。メッセンジャー・ボーイは大阪ビルの下のメッセンジャー・ステーションから来たんだが、そのボーイをよび出してきいてみると、そこへ、どこかの給仕らしい子供がこの手紙をもつて来たんだと云つている。その子供はまだ判らんが、たしかにこれを書いた奴は、間に二、三人の使者を入れてよこしているから、なかなか判らないよ、いずれ、最後の使者にきくと、たとえば尾張町の角で、これこれこういう男または女に金をもらつて誰にとどけた、というような事になるんだからね、それが知りたいが相手もさる者だから、ちよつとわかるまい」
「それより、ひろ子嬢がここに来てることがどうして判つたろう。不思議じやないか」
「君は、彼女が今日どういう風にしてここに来たかをきいたかい」
「いや、それをきくのを忘れたが、あんな用心深い人の事だ。あとをつけられるようなへまはやるまい」
「そりやそう思えないこともない。僕の処に出した手紙は無論、自分で出したんだろうね」
「それははつきりきいて来た。無論自分で出したと云つている。それを書くのも全く秘密にしたと云うのだ。なんでも、上書を書いている所へ妹のさだ子がはいつて来たが、それにすら見せぬつもりで吸取紙で上からかくしたと云つているよ」
「妹が来た? へえ、それにも見せなかつたんだね。そうか。して見るとどうして知れたかな」
 彼はこう云つて煙を吐き出しながらじつと考えこんだ。
「小川、君はおぼえているかい。さつき僕がさだ子という人もお母さんに云わなかつたか、ときいた時、彼女の表情がちよつとかわつた事を。ともかくこの秋川という家には何かふしぎな秘密があるね……さて、今日はもうお客もないらしいから、これで引き上げようじやないか」
 私はまだたくさん彼にききたい事があつたのだが、彼がそういうのでやむなく立ち上つた。
 銀座のある角で、私は彼と袂を別つたのであつた。

      6

 その夜、私はどうしても落ち着けなかつた。
 床につくと、いつもは十分もたたぬうちに眠つてしまう私も、この夜はなかなかねつかれなかつた。
 無論私はその原因を、秋川ひろ子という美しい女性の印象に帰していた。事実、彼女の姿が、どうしても私の目から去らないのだ。同時に、私はいろいろな想像をしてみた。
 もしこのまま何事も起らなかつたらどうだろう。それはひろ子にとつては幸福かも知れない。秋川一家にとつても勿論幸いであろう。けれど、私は、たつた一度彼女に会つたきり、このまま永久に相会(あわ)ぬことになる。それは私としてはまことに淋しいのだ。
 彼女がまた私にあうようになる為には、何事かが秋川家に起らなければならぬ。
 こう考えてきたとき、私は自分の利己心をかえりみて、我が身に実は恥じたのである。
 そうだ、何事か起つて、それが大した事件ではなく、ちよつとした事であつてくれればいい、ひろ子もその父も無事な程度に何か起つてくれればいい。そうすれば、ひろ子にとつても私にとつても都合がいいんだ。
 こんなくだらぬ事を考え、同時にまた、事の推移をいろいろに想像した。
 秋川駿三が何者かにおびやかされている事は間違いない。しかし、その相手は何者だろう。何故、彼はすぐに警察に訴えないのだろう。去年から今まで脅かされつづけて、いつたい彼は何をしていたのだろう。
 今まで知つている範囲では、秋川駿三は、一代で巨富を作つた人間である。こうした経歴をもつている人の中には、随分ひとに恨まれるやうな事をする者があるから、彼が誰かに恨まれているであろう事は察するに難くはない。
 ではそれは、金銭上の恨みか、恋愛関係についての怨みであろうか。――私の考えはいろいろな方面に動いていつた。
 それにしても、さつき私が此の目ではつきりと見た三角形の印のついた手紙は何者によつてかかれたか。いや、それどころではない、私がこの耳ではつきり聞いたあの女らしい声の悪魔の嘲笑は何を意味するのか。悪魔は正しく藤枝真太郎に向つて挑戦しているではないか。彼はつづいて何をしようとするのだろう。更に、藤枝がひろ子と話をしている間にさだ子の話にふれた時のひろ子のあの表情は? これはなんと解釈したらいいのか。
 私の頭の中には、とりとめのないいろいろの渦巻が交る交る現れたが、結局一つとしてはつきりしたことが判らなかつた。
 珍しく夜の十二時、一時の時計の音をきいたけれども、二時の打つのをおぼえなかつたから、いつのまにか眠りに陷つたとみえる。
 私が目をさましたのは翌日の朝、九時すぎだつた。いや正しく云えば、目をさましたのではない。目をさまさせられたのだ。
「おい小川、起きないかい。おい……」
 ぼんやりと目をあけて見ると、意外にも私のねどこの側に藤枝がすわつているではないか。
「お目ざめかね。ちよつといそぎの用がおこつたので、女中さんに云つて、かまわずねどこに押し入つて来たんだよ」
「ああ君か。……どうしたんだい」
「オイ、とうとう秋川家に大事件がおこつたよ」
 わたしは、いきなり夜具をはねのけてとこの上に坐つた。
「何? どうしたんだ」
「秋川ひろ子のおつかさん、秋川徳子が昨夜毒殺されたんだよ」

      7

「毒殺? あのひろ子のおつかさんが?」
「うん、はつきり毒殺とは云い切れないかも知れないが、とにかく、秋川徳子が毒薬をのんでその結果、けさ死んだことはたしかなんだ。しかし自殺とみるべき所がないので、当局は殺人事件とみている」
「で、ほかの者は?」
「主人もその外の人もどうもないそうだ」
「君にどうしてそれが判つたんだい」
 私は、もう起き上つて着物をきかえながらきいた。

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