百姓弥之助の話
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著者名:中里介山 

       十四

 百姓弥之助はこの農業生活に入るにつれて服装の上で不便を感じ出した。それは弥之助の腹が中々大きくて普通の洋服では上と下が合わない、すきまから風が入るおそれがある、そうかと云って殊に日本風の私生活で背広服を朝から晩まで着づめにして居ると云うのもまずい、そこで大ていは和服を着て小倉の古袴をつけて居るが、この袴もまた腹部が出張って居る為に裾が引きずれがちで立居ふるまい殊に階子段登りなどには不便を極める。それからまたこの姿では机に向って事務をとって居た瞬間に畑へ飛び出して野菜を取って来ると云う様な場合に殊更不便を感ずるのである。そこで思いついたのが東北地方で着用して居る「もんぺ」のことである。あれを着用して見たら必ずこの不便から救われるに相違ない、そこで東京のデパートあたりを探させて見たが、出来合は見当らないようだとの事だから福島県の大島氏へ当ててその調製方を依頼したものだ。大島氏の家は福島県有数の事業家で弥之助の依頼したO氏は当主の弟さんに当る人で、白菜だけでも四百町歩から作ってその種子を全国的に供給して居る、弥之助は先年その農場に遊んで同氏の為に「菜王荘」の額面を揮毫(きごう)して上げた事がある、そこで早速同氏に当てて「モンペ」調製の依頼をすると直ちに快諾の返事が来た。
 その文面に依ると「モンペ」は福島地方でも用いない事はないがその本場は寧(むし)ろ山形、秋田の方面であると云わなければならぬ、然し御希望によって当地で然るべくとりはからって上げるからとの事であった。
 程なく同氏から鄭重な小包郵便を以て二着の「モンペ」が送られた、それに添えられた手紙には、当地織物会社の特産、ステーブルファイバーを以て仕立せさせた「モンペ」を送ると、モンペとしてはステーブルファイバーでは地方色の趣味が没却される点もあるが然し時節柄の意味に於て国産ステーブルファイバーを以て試製させて見た。別に地方色豊かなるものとしては会津地方から取寄せて送るという様な親切をきわめたものである。
 弥之助は大島氏の好意に感謝しつつ早速この国産ステーブルファイバーを着用に及んだ。ステーブルファイバーは一見したところモンペとしてはきゃしゃに過ぐるようで立居の荒い弥之助に取っては持ちの方がどうかしらと心配したが見かけによらず丈夫なもので中々裂けたりやぶれたりしない、さて穿(は)き心の方はどうかというとこれは普通の袴と違って裾が締って居るから階子段の登下りにしろ菜園への出入にしろ少しも衣裳が邪魔にならない、その上保温力が大したもので、あれをはいて居ると下腹部から下の温みが着物一枚どころではない、万事につけて耕書堂生活にはぴったりとした着用物である。自分の予想が当った事を非常に喜んで弥之助はこれを塾中の若い者にはかせる事にし、大島氏の送られた型によって近所の呉服屋へ注文して更に木綿製五着を作らせた。
 それから暮になって東京へ出て見ると丸ビルの一角に純田舎製のモンペが売店に二三着陳列してあった、尚聞けば伊勢丹あたりのデパートにもあるという事である、それがもう少し早くわかれば、わざわざ大島氏をわずらわさなくってもよかったと思う、然しこの機縁から大島氏の好意と親切が長く吾々の身体を温めてくれる記念と思えば結句有難い思い出になる。
 この一月二日の日に、大島氏は果して約束の如く此度は新たに地方色豊かなモンペ二着を小包郵便を以て送り来された。
 さて、こうなって見ると、普通の羽織を引っかけたのでは、前の方に隙間(すきま)が有り過ぎる、これは釣合のとれた被布様のものに限る、と、弥之助はこう考えたものだから、次には被布の製作方を思い立った。幸、それには好適の古羽織が一枚ある、これは全部三味線糸で織ったもので、重さは普通木綿の二三倍もある、雨合羽(あまがっぱ)代用などにしながら持て余していた。これを一つ仕立て直してもらって、上っ張りにしようと、人に頼んで被布式に縫い直し、裏地を撤去して、成るべく重量を減らしてもらった、これがまた、丈夫でもあり、惜気(おしげ)も無くて至極よろしい。
 日本農村の服装改良はこんなところから初まるであろう。

       十五

 弥之助は食土一如の信者というわけでは無いが、この武蔵野の植民地に住む限りは、主としてこの附近の産物を食料にとる方針を立てた。
 水田の無いこの野原では陸稲を主としなければならない、陸稲にも相当種類はあるが、釜割(かまわれ)種はさっぱりし過ぎてねばり気が少ない、もう一つの平山種はきびの悪い程うまかった、うまいと云った所で水稲とは比較になるべき筈のものではないが、普通陸稲のさらさらしたものにくらべて、きびの悪い程ねちねちした味いがある、然し麦となると本場である、小麦も大麦もどちらも本格で、小麦は挽(ひ)かせて、うどんに造ったり餅に焼いたりするが、色こそ黒いけれども、その持味は公設市場で売るメリケン粉の類ではない、小麦本来の持味が充分で同時に営養価も高い事が味わえる、大麦に至っては主として碾割(ひきわり)にして食用に供するのとこの頃は押麦にしてその儘飯に炊くのとである、碾割の方は桝目(ますめ)にして格別殖えも減りもしないが、押麦は押しにやるとかえって桝目がふえて帰る、裸麦の或種のものは三斗やって四斗になって帰るものもある。この大麦は麦だけを飯に炊く家もあるが少々ずつ米をまぜて炊く家もある。弥之助の経験ではこの大麦の引割に適度の米をまぜて食うのが一番味がさっぱりとして、然も腹工合に最もよいと思われる、水辺に住む者はやはり風土の関係で肥膏なる米食がよいかも知れぬが、こういう平野に住む者には麦食が確かによろしい、食養学の上から研究したらどうか知れないが、弥之助の体験によると確かにそうだ。
 漏れ承る所によると 天皇陛下に於かせられても、麦と半搗米とを常の御料に召されるそうである。
 一体稲と麦とは如何にもよい対照をもって居る穀物で、稲は春に仕立て夏に育ち秋に取入れる。一年中の最も陽性を受けた豊潤な時を領分として成熟する。それに引替えて麦は陸上に霜枯れの時代から蒔(ま)き初め、厳寒の境涯を通し氷雪の鍛練を受け、そうして初夏の候に初めて収穫を見るのである。だから麦は堅忍不抜なる男性的であり、米は優美豊満なる女性的である、いずれにしてもこの二つが相並んで穀類の王座を占めて居ると云える。
 小麦は別格であるが、パン食をする様になれば、この小麦が米と大麦とを凌駕(りょうが)して穀物の王座にのぼる事になるのだが、パン食は日本人にはまだ向かない、また日本の小麦はうまくパンに焼くことが出来ない、これは製粉して副格的の食用に供するばかりだがこれに次いでは粟(あわ)と蕎麦(そば)とである、粟は近頃作る人がすくないがこれも飯にして少し米の分量を多くした炊き立てなどは白と黄の色彩も快く一種の香気があって中々うまいものだ、都人士に食べさせても珍重がられる程の味があるけれども、冷えるとぼろぼろになって味もさっぱり落ちてしまう欠点がある。稗(ひえ)とか黍(きび)とかいうものはこの辺ではほとんど作らない、赤豌豆(あかえんどう)は昔は盛んに作ったものだが害虫がおびただしく発生するというので、全村申合せて作らない事にして居るがこれは甚だ惜しい事だと思う。
 赤豌豆は、花があれで中々しおらしくて美しい、観賞用にしたスイートピーよりは畑作りの豌豆の花の咲き揃った所が弥之助は好きであった、それに青いうちに莢(さや)ごともいで枝豆を食う様にして食べるとその甘みとうまさは忘れられないものの一つであり、かつまた熟し立てをほうろく煎(い)りにしたり塩うでにしたりして食べてもうまい味がある、ああいうのが味えなくなったのが如何にも残念である。
 東京では盛んに塩豆を売って居る、成程あれも豌豆には違いないけれどもああなっては豌豆のもつ原始味などは全く涸渇してしまっている。
 東京の縁日でどうかすると煎り立て豆を売って居る、豌豆を水につけて軟らかにしたやつを塩をまぶして金網で煎り立て、その熱いやつを紙袋に入れて売る。あれにはまだ相当に豌豆の原始味が残って居る。それも近頃はだんだん尠(すく)なくなってしまったが、浅草公園の瓢箪池(ひょうたんいけ)の附近に行くと最近まであれを専門に売って居る露店があったものだ。弥之助はあすこへ行く度にあれを買い込んであたりはばからずひげ面(づら)にほおばりながら歩いて同行の人を冷々させたものだ、以前東京の市中で豌豆煮立と云って売り歩いたものだがこの頃ではそれも聞えなくなった、豌豆の本当の味は青い時分莢ごと茄(ゆ)でて食うにあるのである、莢ごとといっても莢豌豆とは別である、莢豌豆は今もどこでも栽培を禁止する事はなくお汁の実などにして莢ごとに食べる、だれも御存知の通りだが、赤豌豆は莢ごとに茹でても莢は食べられない、枝豆を食うようにして粒だけ食べるのである。
 枝豆といえば枝豆の原料としての大豆も昔はこの辺でも盛んに作ったが、今ではこれも害虫の理由(わけ)か或は大陸で大量製産がある為に引合わないせいか殆んど全く作らない、それが為に枝豆の食べられない事などは知れたものだが、味噌醤油の自家造も止まったし節分の豆まきの豆も無い、こういうものはすべて買った方が割に合う様になって居るのだろう。
「年とりの豆まきの豆迄こうして袋に入れて三越で売る様になった」
と弥之助の母などは三越の屋上庭園に大豆畑でも出来たほどに驚歎して居る。

       十六

 二月末の或日の事、五の神の力さんが小風呂敷に包んだものを持って来て、
「これは一等賞を取った薩摩薯(さつまいも)だ、一つ食べて見てもらい度い」
と云った。
「それは好いところだ、何か食べ度いと思って居たところだ、なまかね、ふかしたのかね」
と弥之助が尋ねると、力さんが、
「今ふかしたてだよ」と云った。
 弥之助はその小風呂敷を受け取って包を解いて小さいのを三本若い者に分けてやり自分はその大きいのを受け取って皮をむいて食べながら力さんと話した。
「なる程これはうまい、甘薯(かんしょ)のうまいのは、ほくほくして栗の味がする、この間のおいらんとは全く別な味だ、これは何という種類です」
 力さんが答えていう。
「これは紅赤(べにあか)というので、元は川越種です、埼玉県から来たものです、ずっと前に埼玉から熱心家が来てこのさつま薯の種や、それから丈が短くて穂の大きい麦種をこっちの方へ流行(はや)らせたが、この人は毎年麦を 天皇陛下に納める役を仰せつかって居る」
という様な事を話して、
「すべて好いものはトクですよ、この紅赤とおいらんでは第一これをふかす薪からして違います、おいらんをふかす燃料の三分ノ一で立派にふけた上にこの通り味がよくてその上に腹持がいいです、おいらんを五本食べるところを、これなら二本で結構腹持が出来るというものです」
と力さんが云った、いいものは却って経済であると云う理法はたいていの場合に通用する。

       十七

 弥之助は先頃から理髪の自足自給を初めている。
 弥之助は生れつき毛深い方で眉毛(まゆげ)も鬢も濃く、従って髪の毛も黒く小供の時からいい毛だと云って、年頃の娘達にうらやましがられたものであるが、どうも天性無精(ぶしょう)で今日迄髪を分けたという事がない、せいぜい五分刈ですましてしまう、その位だから理髪店へ行って時間をとられるのは何よりつらい。東京に居る時はいつも一番安い理髪店を求め歩いては刈らしたものであるが、それは節約の為のみでは無い、安い所は手っとり早く済ましてくれるという点が有難かったのだ。
 ところが植民地へ来てから青年がバリカンを使う事を心得て居たので早速バリカンを買い込んでこれに理髪を任せた。
 昔三十年も前に東京でこれをやって見た事がある、その時はバリカン一挺(いっちょう)三円以上もして然もあんまり工合がよくなかった事を覚えて居る、このバリカンというやつにも当りはずれが相当にある、そこで今度もどうかと思いながら、隣村へ買わせにやった処、一円三十銭ばかりで一挺買って来た、それを使わせて見ると案外の好調子でその後半年の間に何十頭も刈ったが更にひるまない、このところバリカン大当りである。

       十八

 日支の事変が初まってから当然物価は騰(あが)り初めた、然し暴利取締りが相当行届いてるせいか、その割に暴騰までには立到って居ない、特に農産物等はほとんど価格の値上りを見ない、都会の台所では相当に騰って居るかも知れないが、農村の収入としてはほとんどひびいて来ない、ところが、俄然(がぜん)として弥之助の耳元にひびいて来たのは人間の価上りであった。昨年百五十円程度の作男の給料が二百五十円以上にまで飛び上ってしまった、それから昨年四十円の仕込盛りの小供が今年は九十円で他に口があるからと申込んで来た。男の方が約七割、小供の方が十二割以上の価上りである。こういう相場は誰が立てるのか知れないが兎に角それが共通した相場になって居て、それでも新たに頼み出しというのがほとんどない、人間の不足という事が覿面(てきめん)にここへひびいて来た。兎に角支那へ向けて大量の人間が進出して居るその影響がこうも現金にむくって来たのである。これは実に日本の農村の古来未だ曾(かつ)てなかった一大事件であるのみならず、壮丁の支那進出は、この分ではいよいよ多くなろうとも減ずる気づかいはない、今後労力の不足はいよいよはげしくなるに相違ない、そうかと云って労力の暴騰に準じて一俵十円の小麦が十五円になるという様な訳には行かない、この農村労力問題を如何(どう)するか、共同経営の新方法で行くか、機械化電化の促進で行くか、いずれ農村労力の革命が行われねばならぬ事を弥之助は感じた。今迄人口過剰に苦しんで居た日本内地がやがて人力飢饉に落ちて行く形勢がありありと解るような気持がした。
 殊に百姓弥之助の植民地は○○(伏字)飛行場の飛行機の散歩区域である。軍需品の工場が、その飛行場からこちらへ向けて、ドシドシと立て増されて行く、今迄農業に働いていた青年をはじめ、女子供に至るまで、ドンドンとその方に吸収されて行くから、この農村労力の移動がハッキリして来る。
 年々七八十万の人口が殖えて日本は人口が多過ぎるという感じはやがてドコかへ消えて行って、その後に人間飢饉の大波が寄せて来るような感じ、今や、日本の人口が一億に達したとはいうものの、四億以上の人口を有する国を向うに廻して長期の戦争をしなければならないとすれば、この分では人間はいくらあっても足りない、金より物ということが、一時行われたが、それが物より人ということになりつつあるのではないか、今、農業に働いている壮丁は、いつ徴集されるか知れない、そうなると一人前に足りない子供の労力というものが、一人前以上に要求される時期が来たというものかも知れぬ。

       十九

 百姓弥之助が植民地へ戻ると二ツの欠食児童が待って居る。
 欠食児童とは猫の子である、この植民地へはまぐれ猫、のら猫がよくやって来る。まぐれ猫については曾て次のような一文を書いた事がある。


    野良猫

 夏のうち耕書堂の居間を開け放しにして置くと、よく野良猫に襲われる。食事半ばで肴(さかな)をかすめられたりすること屡々(しばしば)である。或時の如きは、日本橋からくさやの干物、鱈(たら)の切身というようなもの一包を買い込んで、大袋の中へ投げ込み、たしかに持参した筈(はず)のがない、東京へ置き忘れて来た筈はないのに幾ら探してもない。
 気がついて見ると、それは包みごと野良猫めにしてやられたのだ――どうも憎い奴だ、見つけ次第一つこらしめてやらなければならないと思っていた。
 秋になって、或晩戸を締め切ってしまうと、縁側の隅でニャーニャーと猫が鳴く、閉めこまれたな、よし、とっ捕えてやろうと立って障子を明けて見ると、隅っこに鳴きながらおびえているのは、逞(たく)ましい野良猫と思いの外、まだほんの小猫であった、少々案外の思いをして、よし/\此奴なら痛しめるほどのことはないと、有り合わせた肴の屑(くず)をとって投げ与えると、恐る恐る近寄って来て、それにかじりついた、それから、鰹節(かつおぶし)をけずりこんでボール紙の上に飯を少し盛って与えると、恐る恐る近寄って来たが、それにかぶりついたと見ると、食うこと食うこと、すさまじい勢で貪(むさぼ)り食いはじめて瞬(またた)く間に平げてしまった、それから今度は、少し大きいボール紙にもう一度飯を盛って、また鰹節を奮発して与えると、それも見る見る平げてしまった。
 それに味をしめて忽(たちま)ちにこの猫は余になずいてしまって、膝元と身辺をどうしても離れない、立てば立った処の足にまつわりついて室内のどこまでも附いて来る、便所の中までもついて来る、まだ食物が足りないで、せがむのかと思うとそうではない、打っても叩いても膝元を離れない、この仔猫は虎猫であって、尻尾が気味の悪いほど長い、その晩は炉辺にちゃあんと座り込んで一夜を明かしてしまった、その翌日になるともう我が家気取りでおとなしく炉辺を守っている、然し余が立てば何処までも何処までもついて来て、足にまつわり、指をなめたりすること少しも変らない、思うに捨てられたのか、まぐれたのか、何れにしても野良の一種で一定の戸籍を持たない奴であったには相違ない、しかし偶然此処(ここ)で本来の家畜としての安住所を与えられた気分になったことは疑いないし、兎に角、野良猫としてのルンペンとしての自分を有籍者としての待遇を与えられた気分になったことは疑いがない。
 右の如くしてこの仔猫と二日二晩の生活を共にしたが、自分はまた東京へ出かけなければならぬ、そこで、塾の青年にこの仔猫と、猫飯皿とを与えて自分が帰るまで保育するように托して置いた。
 それから二日程経て来て見ると、猫は何処へ行ったか行衛が知れない、塾の青年に聞いて見ると、あれから忽(たちま)ちに行衛不明になってしまいましたが、あれは本来野良猫で、とても居つかないように出来ている、殊に虎猫であんなに尻尾の長いのは祟(たた)りをする猫だといって人が嫌がる、それで誰人かこっちへ持って来て捨てたのでしょう、とても居つくものではないです、と祟られることを気味悪がるようである、猫ぐらいに祟られてどうするものかとかっ飛ばしながら、耕書堂の戸を開いて居間に構えていると、またいつの間にか例の猫がやって来た、そうして余の膝に這(は)い上ったり、後をついたり、どうしても離れまじとすること、その前と少しも変らない、余はこれに食物と肴の屑とを与えてまたも二晩ばかり生活を共にした、それからまた例によって耕書堂の戸を閉して東京へ出かけた、その時に猫を取っ捕えて青年達に托すること前の通りにして出た。
 ところがこんどはたしか三日ばかりも在京して、また戻って来て見るとその夜に至るまでとうとう猫は来ない、夜が明けても昼になっても姿を見せない、非常に残念な気持がしたが、とうとうそれっきり姿を見せないのである。
 それからまた東京へ一往来して帰って来て一人寝たが猫は来ない、若(も)しやと思って気をつけたがとうとう来ない、処が夜中に戸の外でニャウと啼(な)く声がした、そら来たなと思って、こちらもニャウと鳴き、チュッチュッと呼びながら障子を開けて戸を細目に開き、水窓までも開けて置いてやったのみならず、また飯と目刺とを縁側へ備えて待ち受けたが、それきり夜明まで猫の啼き声はしなかった、無論、飯も目刺も口をつけられずに残されている。
 諦(あきら)めてしまったが、その翌晩になるとまた戸外でニャオと啼いた、また起きて、戸を開けて見てやったがそれっきり音沙汰が無い。
 戸の外まではたしかに忍んで来たものに相違ないのである、しかし、その猫が前になずいたところの小虎でありはあったが、もう既にかりそめの飼主の声を忘れてしまって他人行儀で恐れて近づかないのか、或はまた全く別の野良猫が空巣をあさりに来たつもりの処を、思いがけなく中に人がいることに恐れをなして逃げて行ってしまったのか、そのことはわからない。

 扨(さて)、こうして居るうちにいよいよ正銘の野良猫となってしまった日にはもう手が附けられない。これを追えば走り、これを捕えんとすれば隠れ、ほんの一寸(ちょっと)の隙をねらっては、ものすごい空巣をかせぐ、如何(いか)なる手段を以てしても如何なる誘惑を以てしても一たん野良となった猫はもう決して人にはなつかない。この植民地のあたりに人家とてはないのだが、何処かに隠れていて、夏中戸を開け放して一寸ゆだんして居るともう彼等の侵入によって必ず何等かの被害を受ける。お鉢のふたを開ける位は容易(たやす)い芸当で、戸棚、鼠入らずの戸まで開けて掠奪を逞しゅうする、そのうち、一匹の仔犬を飼うことによって、この野良猫の凶暴なる出没が幾分緩和されたが、やがて飼犬の飼料に対する野良の襲撃がはじまった、食と生との為に如何に家畜が凶暴化することよ、犬に当てがった食物を襲う時の猫の猛烈さは、仔犬が怖れを為して走るという珍現象を出現したのである。
 この侵入者と掠奪者の為に農事の子供は、竹の吹矢をこしらえて隠れて吹きつけたが効を奏さない、陥穴をこしらえて見たがかからない、鰻釣針(うなぎつりばり)に餌をつけて、藪(やぶ)の中に仕掛けて置いて見たが、食物と針とは呑み込んで糸だけを食い切って逸走してしまっている。
 或朝の事、この野良猫の出現をつい池の向う島の祠(ほこら)の中で見出した。可なり毛色がよく肥りきった三毛猫であるが、用心深い様子で絶えずキョトキョトしながら寝込んで居る、それをこちらから遠眼鏡で見ると面中(かおじゅう)がきずだらけで有馬だの鍋島だのの猫騒動のヒーローを思い出させるような物すごい形相(ぎょうそう)になっている。この一疋(いっぴき)の野猫に散々手こずらされては居たが、それでもこの野良者の存在は鼠よけの為には予期しない効果を現わしているらしかった。御承知の通り植民地の一軒家だから、家ねずみ野ねずみも四方から押し寄せてここを巣にしない限りはない、それを一疋の野猫ががんばって居る為に幾分か魔避けの為にはなったと思う。
 それからしばらくして本村のS氏から仔猫を三疋もらった。二三日すると一疋はポックリ死んでしまった。さてこれを育て上げるのが一骨(ひとほね)だ。塾生の青年共にまかせて置いた日には前例がある。幸、今度は塾主としての弥之助も少しはこの植民地に落着くことが出来るのだから、引きつづいて少々のめんどうを見てやろうと思っていた。三疋のうち一疋は雌(めす)で二疋が雄である。雌は一疋はなれ雄同志二つがよく一緒に遊び歩いて来た。ある日寮の一室を掃除すると積み重ねた障子の隅からまだ眼の開かない鼠の子が十疋も出た。それを三疋の仔猫を持って来て食わせるとおどろくべき事は、まだ乳ばなれをして間もない粥(かゆ)でなければ食べられない仔猫が、その鼠の子にかぶり付いてうなりながら咬(くわ)えあるく形相と云うものは全く猛獣性そのものである、ねずみをあてがって初めて猫と云うものの猛獣としての本性がありありと解る。
 そうこうしているうちに雄猫の一疋がポックリと死んでしまった。死の原因はよくわからない、後はミケとトラとの二ツになったがこの度はこれが相棒でむつまじく遊びあるいている。この二疋だけは殺し度くないものだと留守の間はよく青年に云いつけ、帰って来れば弥之助手ずから食物を当てがって愛撫(あいぶ)をこころみて居ると、さすがによくなずいて弥之助の書斎を離れない。夜は二階へつれて行ってふとんの裾へ寝かしてやる、中へ入れるとまだ爪をかくす事を知らないものだから、処きらわずこちらを引っかいたりまたはなめまわしたり食い付いたりするから、掛布団(かけぶとん)の間へ入れて寝かしてやる、無精によくねる、いくら寝ても飽きたと云う事を云わない、夜昼寝つづけに寝る、たたき起してほうり出すといやな顔もせず飛びまわったりじゃれついたりする。ことに夕方が一番はしゃぐ様だ、猫のじゃれるのとちょっかいを見て居ると如何にも可笑(おか)しい、これは本能的の躍動だが、かくれん坊するのを見て居るとどうも少し意識的にやる様だ、一つが障子(しょうじ)の外へ飛び出してじゃれて居ると一つがこちらの柱の陰にかくれて待ちかまえて居る、そうすると前に飛び出したのがまた戻って来る、その出合頭(であいがしら)にバーッと云う様な様子で左足のチョッカイでおどりかかるところなどは人間の子供の遊びと少しもかわらない。
 食事の時などは膳へたかったり、うろつきまわってうるさい、追い飛ばしたってどうにもならない、そう云う時は断然桶伏(おけぶせ)の刑に処するのである。桶伏と云うのは二ツをまとめて有合せの笊(ざる)をかぶせその上へ重しの本をのせて置く、最初のうちはザルをがりがりかいたり敷物をむしったりしてミューミュー鳴くが、暫くすると観念して静まってしまう。やがてこっちが食事がすんで解放してやると、大てい二ツが重なりあってチョコナンとして居る。
 猫にあてがう食事としてはこちらの飯を分けてけずり節を少しかけてやる程度だが、魚類があれば少し分けてやる、生がかったメザシよりは干物の方を好んで食う、またあんパンなんどをつまんでやると飯よりはかえってよろこんで食う、いまの処肴(さかな)よりはかえってパンが好きらしい。あんパンもあんの部分だけは食わない、ビスケットなどは噛んでやればよろこんで食べる、この二ツのうち、三毛の雌の方が丈夫でトラの方が少し痺弱(ひよわ)いようだ、組打をしてもトラの方が押され気味で、いつもねわざに受けて居る。或晩このトラが、炬燵(こたつ)へ這(はい)って来て如何にも元気がない、やっと炬燵の上へ這い上ったところを見るとぺしゃんこになって、一枚と云いたいほど平べったくなってしまって居る。そこで驚いて牛乳の残りを飲ませなどして居ると、やがて元気は恢復したが三毛にくらべると影がうすい様だ――併し程経てこれは反対の現象を呈して来た。
 塾の成進寮の二階に鼠が横行して居る。白昼もばたばた横行している。夜になると家鳴震動して土を落しごみをおとす。どうも寝られない、弥之助は叱(しか)ったり、嚇(おど)したり物を投げたりして見ても中々しずまらない、二階の床板をはずして、鼠の侵入路をしらべて、防禦策を講じたが中々効がない、そうしているうちにこの仔猫が来たからこいつを一つ利用してやろうと天井の一角を押し破って、夜中にその角から天井の裏へ猫を押し上げて置いた、そうして、しばらくすると猫が下りたがってしきりに哀泣する、彼等の力ではそこから畳の上まで降りて来る事が出来ない、降り様としては躊躇(ちゅうちょ)してもの悲しい泣声をたてる、しばらくして雌の方はどうやら天井裏をぬけ出して家の裏をめぐって戻って来たが雄の方はやっとなげしまで降りてそこでうろうろしながらしきりに哀泣をつづけて居る、よってようやく取りおろしてやったが、覿面(てきめん)なものでその夜はさしもに荒れた鼠がガタとも云わない。実に餅屋は餅屋である。我々大の男が如何に猛威をふるって怒罵叱責してもその威力はこの仔猫が一分間の悲鳴哀泣に及ばない、ものには各々(おのおの)天分があるものだと云う事がつくづく思わせられる、それから以後、別々に母屋と寮との間に毎晩はなして寝かせて、鼠族鎮台の役を勤めさせることにした。
 斯(か)くてある中、一方に於ていよいよ野良猫の元兇退治の時が来た。
 或る寒い晩のこと、この野良猫が書庫に侵入している処を、それと知らずに弥之助が出入口を閉めきってしまった。退路を断たれた野良猫は周章狼狽(ろうばい)逃げまわる、よし心得たりと弥之助は徐(おもむ)ろにそれをとっつかまえる手段を講じ、それから笊(ざる)を楯にステッキを獲物にこの野良猫を相手に大格闘が始まるのである。相手は年功を経て野獣化したる家畜が絶体絶命の死物狂い、書庫と廊下と応接の間と寝室と食堂を追いつ換わしつ、その猛烈さ加減は確かに岩見重太郎の狒々(ひひ)退治以上の活劇であったが、さしもの猛獣も運の尽き、とうとう書斎の障子の細目の桟(さん)を半分くぐったが、後半が出ない、その後足を弥之助はむずと捕えたが、さて縛(しば)るべき何物も有り合さない。止むを得ず片手を以て自分の帯をほどいてその足をしかと柱へ結びつけて置いて、それから青年を呼んで処分にかかったが、障子にはさまれながら必死の狂暴ぶりには手の下し様がない。細引を持って来て遠廻しにゆわえて見たが恐しいもので麻の細引では幾本縛ってもがりがり噛み切ってしまう。止むを得ず針金を持って来て、やっとの事で結えた。
 そこへ例の欠食二つがやって来た。いや改めてこの場へやって来たのではない、最初から此処に居合せて侵人者のあったのを主人よりは先きに感づいて炬燵(こたつ)の傍(かたわら)でさっと身の毛をよだてて一方の隅を見込んだ形が今思い返して見ると佐賀の鍋島の奥女中連が怪猫の侵入に怯(おび)えた気分がある。二つの欠食をつかまえて、試しに怪猫の前へ突きつけて見ると、キジの方は遠く離れて縮み上って泡を吹いて前足を揃え毛を逆立てて怖ろしい表情をしたが、三毛の方は平ちゃらで、馴(な)れ馴れしく野良猫の足もとまで進んで行く、ああ危ない、噛み殺されはしないかと心配したが、野良猫は少しも危害を加えない。どちらも三毛同志である。野良猫は無宿者のくせに肥り返って毛並もつやつやしい。そこでこれは親子ではあるまいかと思った程である。全然出所が別だから、親子の血を引く筈は無いが、見ように依っては浪花節(なにわぶし)の何処かにありそうな、親子生別れの場面が展開された。
 それから野良の元兇は農舎へ引摺(ひきず)って行ってつないで置き、さて全く改心の見込無きものとして断然死刑に処してしまうか、或いは相当期間禁錮(きんこ)して、再び真猫に帰り得る見込有りや否(いな)やを試験するか、何にしても今日迄侵入と掠奪(りゃくだつ)に依りこの通り肥り返っている代物(しろもの)だから多少の窮命を与えたからとて早急に生命に異状はあるまい。しばらくこの農舎につないで鼠の番をさせて置く――そうして弥之助はまた東京へ出たが、二日ばかりして帰って見ると野良猫は昨晩死んでしまったと云うことである。二晩や三晩で参る筈は無い屈強さと見ていたのが、寒さにこごえたか、針金の緊縛で心臓でも痛めたか、脆(もろ)くも最期を遂げてしまった。
 思えば猫の一生もまた多事と云わなければならぬ。

       二十

 百姓弥之助は或日の事、植民地を出て多摩川の沿岸の方へと歩いて行って見た。昔に変るいちじるしいものは水道と水田であった。
 水道と云うのは多摩川の本流をここで分けて一方を玉川上水として、江戸以来東京へ引き、一方はそのまま東京湾へ落したものだが、昔はその分水も豊富であったが、東京の拡大するにつれ、今はもう殆(ほとん)ど全部を上水へ取入れてしまって、六郷の方へは殆ど一滴も落さないと云うしぼり方になって居る。それからそのあたりの水田も弥之助が子供の時代とは打って変って劃一の耕地整理が出来上って居る。以前はこの水田が甚だ不器用な区分で、田圃(たんぼ)としての面白味を充分に持ち、その間を流れる田川の如きも芹(せり)やその他の水草が青々として滾々(こんこん)と水の湧き口などが幾つも臍(へそ)のような面白い窪みをもくもくと湧き上げたものだが、今はそんな趣きはすっかり無くなってきちんとした掘割になってしまった。斯様な耕地整理によって年々若干石の収穫は増したであろうが、どんな造庭師にも出来ない田圃の面白味はすっかり無くなってしまった。上水の水道沿岸に於てもやっぱりその事は云える、江戸以来の玉川上水、日本第一の水道であったところのこの玉川上水は弥之助の少年時代は両岸から昼猶(なお)暗いところの樹木がかぶさって居たり、危うげな橋が渡されて居たり、掘割ではありながら自然その水路も底の見え透らない深さをもつところもあったり、なだらかな瀬となって流れるところもあったり、そうしてそれ等のものすごい淵(ふち)には幾つかの伝説が附着して居り、或は河童(かっぱ)が棲(す)んで居るとか、小豆洗婆(あずきあらいばば)あが出るとか、こんが引き込むとか云う云いつたえがそのままで受入られ、昼間通る弥之助の子供心をもおびえしめたものだが、今はそれがすっかり底を浚(さら)われて、深さもどこまでも平均され、両岸はコンクリートでつき固められ、全く人造掘割の平板な通水路にされてしまっている。この地方の河童と云うのも昔からどこの里にもありそうな御多聞にもれぬ伝説が残って居る、力自慢の或親爺が河童と薪の背負いくらべをしたとか、河童は人を川へ引きずり込んで肛門から手を差入れて臓腑を引き出して食ってしまうとか云う話を断えず聞かされていた、小豆洗婆あと云うのは堂崖(どうばけ)と云うのがあって、夜な夜なその川淵の暗い所でザックザックと小豆を洗い初めると云うので子供の時は夕方になるともうそのあたりは通れなかった。勇敢な男が正体をつき留め様としてそこへ行って見るとザックザックと云う音は足を進めるにつれて遠ざかって、とうとう音だけは絶えず聞えて居て、遂にその正体はつかむ事が出来ないでしまったと云う事だ。それを解釈するものは小豆洗婆あは即ち狸(たぬき)であって、あの小豆を洗う音は狸がその尻尾を水の中につき込んでザックザックとやるのである、人が行けばそれにつれて狸もまた先へ先へと尻尾を洗いながら逃げて行くのだなどと誠しやかに解釈する子供もあったが、勿論(もちろん)その正体は解らない、ただし狐や狸が人をばかすと云う伝説や実験談等は無数にあって一々それが肯定されていた。
 それからこんと云うのはどう云う字を宛てはめたらいいか解らないが、これは川や堀の流れの底の知れない最も深い淵に住んで居て通る人を見かけては淵の中へ引っ張り込んでしまうのである。どこの若い衆が夜遊び帰りにこんに引っ込まれたとか、どこの娘がこんに引き込まれたとか云ううわさを絶えず耳にして居たものだ、そうしてこんに引っ張られるものは大てい若い男女に限られて居た様だ、それ程こんのうわさは絶えなかったにかかわらず、こんと云う者の正体はだれの口からも具体化されて物語られたことはない、たとえば狐でも狸でもテンマルでもミコシ入道でも幽霊でもモモンガーでもカマイタチでもデーダラボッチでもそれぞれのグロが皆相当の形体を附与されて表現されるのに、このこんばかりは誰もどんな形をして居るか説明したものはなく、またこればっかりは探究心の強い子供もその正体を追究することなしに、ただこんが引くこんが引くと云う事だけで通されて居た、こんと云うのは或は「魂」と云う字を宛てはめたら近いのかとも思われる。そうしてその淵々の底の見え通らない青みを帯びた俗に「青んぶく」というすごい所にのみ棲(す)んで居て、その引っ張り込む者が重に若い男女であるところを見るとこれは身投げとか心中とかいうものではなかったかと思われる。今時は川底も平均して、人間が飛び込んでも沈みきるような処は稀(まれ)であるからそう云うグロも全く棲家を失ってしまったらしいけれ共、そう云う不自然の中の自然な風景も伝説も同時に全く消滅してしまった。もし明朗という意味がそういう風に平板に人間の利便だけを標準として軽く浅くなるという意味ならば明朗は安っぽいものだ、そうして斯様(かよう)に明朗化され平板化された進歩というもののうちに住民の生活が内外共にどれ丈向上したかと思えば、それは殆ど何もない。失う所が多くて得る所が絶無のようにしか百姓弥之助には思われない。

       二十一

 それは成程、弥之助が子供の時分――に比べると、外形の生活の変化は、何かと異常なものが無いではない。
 今から丁度四十年の昔、百姓弥之助が、まだ十四歳の少年の頃、東京の本郷から十三里の道を、徒歩で立ち帰ったことがある、初夏の頃であったと思うが、紺飛白(こんがすり)の筒袖を着て、古い半靴を穿(は)いて東京を出て来た、湯島天神の石段を上りきって、第二の故郷の東京から第一の故郷へ帰る心持、丁度、唐詩にある「卻望并州是故郷」の感じで見返ったことを覚えている、それから今の高円寺荻窪辺、所謂(いわゆる)杉並村あたりから、北多摩の小平(こだいら)村附近へ来ると、靴ずれがし出して来たので、その半靴を脱いで杖の先きにブラ下げて、肩にかついで歩いたが、そうすると村の子供連が弥之助の前後に群がり集って、
「あれ、靴!」
「あれ、靴!」
と云って、驚異しながら、ぞろぞろついて来たものだ。今は、その辺は、もう文化住宅が軒を並べて、中央線利用のインテリ君やサラ氏が東京の中心へ毎日通勤するようになった。
 弥之助の植民地のある本村は、前に云う通り東京の中心地から僅かに十二三里の地点だが、弥之助の小学校時代には、自転車というものが一年のうち数える程しか通らず、たまたまそれが校門の外を通過することでもあろうものなら、
「それ、自転車!」
と云って、学童が遊戯を抛って校門の杭(くい)に首を突き並べて騒いだものだ、今日では、いかなる貧農でも自転車の一輛や二輛備えていない家は無い。
 交通機関について云って見ると、今の中央線が甲武鉄道と云って、飯田町から八王子までしか開通していなかった。
 そこで、この地方の人は汽車の便を借りて他方へ行くには、甲武線の一駅立川まで徒歩か或いは人力車によらなければならなかった。
 甲武線――飯田町八王子間の開通が明治二十二年八月ということであって、その沿線立川駅から分岐して青梅(おうめ)鉄道という軽便が出来たのは明治二十七年の十一月ということである、丁度日清戦争の最中であって、百姓弥之助はその時漸く十歳であった。日清戦争というものが如何に当時の少国民の愛国心を鼓舞したかということは別の思い出になるが、鉄道がいよいよこの村へ引かれて来るというこの地方の交通革命時代も異様なセンセーションを以て少年の頭にもひびいて来た。
「こんだ、汽車というものがいよいよこっちへ引かれて来るとよ、汽車というものは恐ろしく速いもので電信柱と電信柱の間を目(ま)ばたきをする間に通ってしまうとよ、一丁位先きへ来てもソレ! という間に逃げてしまわなければ轢(ひ)き殺されるから、何でも線路へ寄ってはいけねえぞ」
といってあいいましめて恐れたものだ。後でいよいよ汽車が通った処を見ると、予想程速いものではない、ということは分ったが、少年時代には汽車の速さを魔法的に考えて居たものだ。しかしこれは少年の誇張された恐怖心から起った想像説ではなく、少年の恐怖心を誇張的に刺戟して列車の危険区域から遠ざからしめようとする工事者の政略的宣伝から出たのではないかと思われる。
 鉄道の開通という事は、単に少年の好奇心を刺戟したのみではない、地方一般の人心を聳(そび)えしめるものが少くはなかった。鉄道という余計なものが引っぱられて来る為に、都会の生意気な風が吹いて来るから用心しろの、汽車が出来た為に村の富はずんずん東京へ持って行かれてしまうから、ああいうものへは成るべく近づかない方がいい、という様な意向は大人の頭にも根強い勢力を占めていて、それが為にわざわざ停車場を敬遠してあとで後悔するという様な時代であった。
 自転車は右のような次第であるし、人力車は村に一台か二台あるか無し、お医者さんでもなければこれに乗る者はなかった。流石(さすが)に駕籠(かご)は地を払ってしまったけれども、それでもどうかすると病人などが乗せられて行くのを見た事がある。

       二十二

 百姓弥之助は、ある日の事、梅を見ようと思って、多摩川の向う岸を歩き、ふと、この地に閑山(かんざん)先生が隠棲していることを思い出して、その廬(いおり)を叩いて見る気になった。
 閑山先生というのは、この地方から出た老詩人で、漢詩の造詣がなかなか深いので有名な人であった。
「閑山先生のお宅は何処ですか」
と行く行く村人にたずねると、
「あゝ閑山の家ですか、閑山の家なら、これをこう行ってこう曲って――」
と教える。
 それから暫らく行って、またたずねると、
「あゝ閑山の処は――」
と云っている。
「あれ/\、あすこへ行くのが、あれが閑山だあよ」
と村の子供が指して教えるのはいいが、何処へ行っても、閑山閑山と呼び捨てで、子供までがこの体(てい)であったから、百姓弥之助は変な気持がした。
 程なく、たずね当てて、久しぶりでほとんど半日をその庵で快談に耽(ふけ)ったが、その話のついでに右の呼び捨ての不審をただすと、閑山先生、苦笑いをしながら斯う云った。
「あれは困りものです、そもそもこの村のアクの抜けない先輩共がいけないのです、拙者の名が多少世間に知られているのを、自分の家族か何かのように心得るのはまあいいとして、おれは斯ういう世間に通った名前も、呼び捨てに出来るのだという、卑しい夜郎自大の見えから、そう呼ばなくてもいい場合に、閑山閑山と云っては鼻にかけるというわけで、親しみから来ているのではない、一種のアクの抜けない田舎者根性から出ているのです、そういうやからは拙者の面前では、話も出来ないのですが、全く無邪気な農民と子供等があの通り、それでいいものだと心得て、呼び捨てにしている、中には拙者の前で臆面も無く閑山が閑山がと呼びかけて済ましているのがある、あまり図々しさが徹底しているから、よく考えて見ると、『カンサン』サンという字がつくから、それでもう敬称は支払い済みだと心得ているらしい、勘さんとか助さんとかいう意味で用いているらしい、これ等は全く無智無邪気でおかしいが、こういう風儀をはやらせた、村の先輩格のアクの抜けない半可通がよろしくない」
と閑山先生が、その来歴を話した。
 百姓弥之助は、それを聞いて、成程と思った、そうして、その日の帰りがけに、その村の小学校をたずねると、丁度校長さんがいたから、弥之助は立止まって、少々立話をした末に、それとなく斯ういう事を忠告した。
「長者を尊敬する風習はよく児童等に教えて置きたいものです、昔、江州(ごうしゅう)の小川村へ行くと、藤樹先生をたずねて来る他郷の人の為に、村人は、わざわざ衣服を改めて案内したそうですが、郷党にはその位の気風があって宜(よろ)しいです、閑山先生は聞えたる老詩人です、それを子供までがああして呼捨てにしている、無邪気といえば無邪気だが、他郷の人が聞くと非常に聞き苦しいです、あれは学校から一応注意してやっていただきたいものです」
 校長さんは、よくその忠告を諒として、相当教化につとめることを答えたが、その後、たずねて行って見ると著しく、その無作法が無くなっていた。

       二十三

 この村に電燈が点(つ)いたのはいつ頃の事であったか知らん、何でも弥之助が東京に出た時分で、明治三十年代の事であったと思う。農家へ電燈が点いてその下で藁打(わらう)ち草履(ぞうり)こしらえをやって居ると云って田舎も中々贅沢になったと笑ったものだが、東京の市中に於ても電燈というものが早くから点けられてはいたけれども、最初のうちはそれは非常に料金が高く各家各室へつけるという訳には行かなかった。弥之助も青年苦学時代は大てい石油ラムプですましたもので、普通学生の下宿も各室電燈を引くという事は思いもよらず皆台ラムプを机の上に置いて勉強したもので、当時書生の引越と云えば人力車の上に腰を懸け、股倉の間へ机を割り込んで片手に洋燈(ラムプ)を持てばそれで万事が済んだものだ。それが急に料金が引き下げられ、一般に盛んに使用される様になったのは弥之助が二十二三歳の頃でもあったろうか、電燈値下げの殊勲者としては実業の世界社だの都新聞だのというものが先陣を切ったもので、その結果さすがに頑強を極めて居た東電(佐竹という人が社長で政友会の弗箱(ドルばこ)であったとの説もある)も時勢に抗し難くとうとう大値下を為すの已(や)むを得ざるに至った、その時である、東京に居た弥之助は町のお祭を歩いて、それまでは提灯(ちょうちん)であった馬鹿囃子(ばかばやし)の屋台に電燈が点けられたのを見て劃期的に感心した、
「お祭りの馬鹿ばやしの屋台にまで電燈がついた」
 弟などをつれて祭礼見物に出かけてはひたすら驚異したものだ。それからどこの家でも各室皆一燈を備える様な勢いをもって今日に及んで居る。
 日本の電力及び電燈は世界で一二を争う威勢だと云って誇るものもあるが、それは資本力のせいばかりではない、天然の水力に恵まれている余恵である、併しそれでも都会と村落との比例を考えて見ると恐ろしい開きがあるのを、この植民地に落ち着いて初めて弥之助は感得する事が出来た。
 こっちへ来て見ると田舎(いなか)の電燈料が東京市内にくらべて遙かに高い、高いのはいいとしても光力が甚だ弱くてけちである。それから朝夕の点滅の時が如何にもしみったれという感じを持たせずには置かない、昼夜線というのは頼んでも中々引いて呉れない、そして朝は早朝からぷっつりと配電を止めてしまう、早朝飯をおえてこれからだという時にぷっつりと消えてしまう、仕方が無いからロウソクでつぎ足をして、やりかけて仕事を終るという有様だ。夕方はいよいよ暗くならないと点かない、今これを書いて居る三月上旬は、朝は先ず五時から六時の間頃ぱったりと消えてしまう。夕方は五時過でなければ点燈しない。弥之助の様に早朝を書きものに費すものにとってこの時間でぱったり止められてしまうのは実際腹が立ってたまらぬ、それから午後の五時なども曇天雨天の日などは室内で文字を料理する事などは出来はしない。電燈の無かった時代を考えて見ろ、贅沢は云えたものでないと云われればそれまでだが、すでに電燈が有って人を信用させる事になっている以上は如何してもう一息の利便が計れないのか。
 それから田舎の電燈料というものが比例を外(はず)れて高いことは、即今都会に比較した精密な計算は持たないけれど、それは馬鹿げた高価である、そうして同じ会社の配電でありながら町村によって料金がまちまちなのである、あながち土地の便不便によるのではない、何の標準でそう甲乙があるのか素人(しろうと)には更にわからない。
 もう一つは営業ぶりの横暴と不親切が田舎に住んで見るとそれも露骨に解る、たとえば電力や点燈の申込みをしても容易な事では取りかからないが、何か然るべく土地の面(かお)ぶれを通すと存外簡単に運ぶ、彼等と会社側の間に、黙契があると見るより外はない、そういう顔ぶれを通して注文すると事が早く運ぶ、そうでないと中々運ばないのみならず、そういう連中と結托して弱い者いじめをしたり或はけむったい人々に対して示威手段を試ろむる事さえある、何かの端(はずみ)で土地の政党関係などに触れるとこの電燈会社が職工工夫に命令して無茶に電柱を立てたり横柄な測定をしたりしておびやかす様な事をする。正直な地方農民はそれにおびやかされて泣き寝入りになる例も随分ある、それから電燈会社の社員となると彼等は洋服を着て居るからお役人様だと心得て居るらしく、万事に生意気で横柄で営利会社の社員とは思われない。
 処によると村の青年団に依托して電燈料の集金をさせる様にして居るが、これも一つの手でこれに依って青年団の歓心を買って居る、つまり集金高に依って青年団の方へいくらかのコンミッションを出す、そうなると青年団も料金の高下よりは集金高の増減に関心を持つという段取りになる。
 百姓弥之助は電燈会社の沿革などはよく知らないが、目下はこの地方は東電の独専になって居る、そうしてこの独占会社が従来政党とどういう腐れ縁があり、その台所や地盤関係にどんな魔力がひそんで居るかという事は一向知らないけれど、地方のそれぞれの首振りや小財閥とこの独占会社とがガッチリ結んで居る事は直接にひたひたと体験が出来るのである。これは一旦都会生活に慣らされた者でないと充分に解るまい、田舎の者は電燈会社はそういうものだと心得ている、同じ電燈会社でも都会に於てはそれ程譲歩しながら田舎に於ては斯うもきつい、無知な農民はそれに対して主張する事を知らない、電力が国営になったからとてそう急に豊富低廉なる電力を人民が享受し得られるものか如何か、よしそれが享受し得られる計算になっているとしても今日は非常時であって、文句がつけられまいけれど、こういう独占会社に持たせて置いて、いろいろの地方閥とからみ合うに任せて置くよりは国家の手に任せて置く方が名分共に正しいと云う事を百姓弥之助は考えている。
 それはそれとして百姓弥之助の少年時代つまり小学校卒業の頃十四歳の頃までは電気というものに恵まれない生活であった。極く幼年時代はあんどんの時代であって、それから石油洋燈(ラムプ)の時代に移った、石油洋燈にも大小数々の形はあったが、大体釣ラムプと台ラムプの二つに分れている、夕飯などは大ていこの釣洋燈の下で一家うち揃って膳に向ったものである。ついでに食膳の事をいうと一つの大きな卓を囲んで一家丸くなって食事を取るというのでなく、皆それぞれ膳箱を一つ持たせられて自分の食器は総(すべ)てその中へ入れて置いてそれをめいめい持ち出して釣ラムプの下に集って食事をしたものである、台ラムプの方は主として机の前に置いて事務勉学等に使用した。石油ラムプというものは今日では東京の市中をさがしても殆ど一つもない、数年前弥之助は植民地へ持ち帰ろうと思って、足を棒にして東京中をさがし廻ったけれども、とうとう何所(どこ)にも見出す事が出来なかった、最後に銀座の或る大きな洋品店で聞いて見ると一つ有った筈だと棚の方をさんざんさがして呉れたが、とうとう発見が出来なかった。そこである園芸種物会社へ行って園芸用の安全ラムプを買い求めてやっと要用を満たしたが、いずくんぞ知らん、この植民地に近い町村の荒物屋では今日でもいくらも石油ラムプを売って居るのである。現に電燈会社の挙動が癪(しゃく)にさわるから弥之助の植民地では電燈の数を殖やさないで新たに建て増した成進寮というのではすべて今でもこの石油ラムプを使って居る。前に云う通り電力業者の誇る所によると、日本は電燈国としても世界一とか二とか云う程に発展して居るのであると云うが、それは日本程水力に恵まれた国は無いという事を抜きにして云う自慢に過ぎない、併しフランスの如きは聞えたる華美の国でありながら一歩地方へ出て見ると農民の生活などは至って古朴なもので、大部分はやはり石油ラムプで済まして居るという、それだから農家でさえ電燈がこれだけ豊富に使える日本の農民は有難く心得ろというのは僭越である。フランスの農民は決して日本の農民ほど行きづまった生活はさせられて居ない筈である。

       二十四

 そういう訳で弥之助の植民地に近いあたりの農村状態はすべて平板へ平板へと進んで行って、表面は兎に角内容生活は少しも向上したとは思われない、のみならずいよいよ唯物的に流れ流れて、さっぱり趣きというものが無くなってしまって居る。弥之助はこの沿革をもっと科学的にしらべて書いて見たいと思って居るが、さし向き人間の方から見ると、昔と違って度外れの人間というものが、すっかり後を絶ってしまったように見える。
 傑(すぐ)れた人物というものも出ないし、また異常なる篤行家とか奇行家というのもとんと出ない、また昔は名物の馬鹿が各村に存在して居たのだが、今はそういう馬鹿も全く影をひそめてしまった。
 ここに弥之助が少年時代の思い出をたどって少々村の畸人伝(きじんでん)をしるして見よう。
 砂川村に俗に「おてんとうさま」という荷車挽(ひ)きがあった、本名は時蔵というのであるが、この人は砂川の村から青梅(おうめ)の町まで約四里の道を毎日毎日降っても照っても荷車にカマスを積んで往復する。その時が毎日一分一秒も違わない、おてんとうさまと同じ事だというのである。それ時さんが通ったからお昼飯だというような事になって、おてんとうさま扱いを受けたのである。弥之助は子供の時分何年となくこのおてんとうさまが車を挽いて家の前を通るのを見るに慣らされて居た。
 新町に「為朝(ためとも)」というのがあった、毎日山から薪を一駄(三把)ずつ背負い出して来て、
「どうだい今日は薪を買わねえかい」
と云って売りあるいていた。薪が売れてしまえばそれで居酒屋へ這入(はい)ってコップをぐっと引っかけておさまり込んでしまう、一日それ以上の仕事も以下の仕事もしない、一駄の薪がたしか十八銭もしたと思うが何しろ大コップに一ぱい酒が二銭位の時分だから相当に飲めたものと思う。それで年中酔っぱらって頬ぺたをふくらませてはおろちの様な息を吹き吹き歩いて、夜は寒中平気で堂宮の縁でも地べたでも寝込んでしまう。絶えず酔っぱらって居たが誰も為朝が飯を食うのを見たというものがない、額に大きな「痣(あざ)」があった処から為朝一名を「あざ為」と云ったが、誰も本名を知った者がない。右の如くして、毎日一駄の薪を限って切り出して、それを売りそれを呑むの生活を一生涯つづけた。その薪というのも、手当り次第に人の山へ這入って取って来るのだが、今と違って至るところ見え通らない程雑木林は続いて居たし、人気も鷹揚(おうよう)であったから為朝が持ち去る程度の盗伐は誰もとがめるものはない。或時新来の駐在所巡査がこの男をつかまえて薪の出所を糺問(きゅうもん)しきびしく叱りつけて居るのを見て村人が、
「為朝をあんなに叱言(こごと)云わなくてもよかんべいに」
と云って、かえって同情をして居た事がある。弥之助の家へもちょいちょい売りに来たが、父がこの為朝から薪を買い入れて、それから炉辺で話し込んだ事を度々(たびたび)覚えて居る。何でも二人で水滸伝(すいこでん)の話に頻(しき)りにうち興じて居た様であったが、為朝はあれで中々学者だと云って感心して居た。
 それから栄五郎ボッチというのがあった、これもしじゅう飲んだくれで、赤黒い長い顔をして頭には白髪がもじゃもじゃ生えてすっかり人を食った顔つきをして居た。これは豆腐(とうふ)と油揚を木の手桶へ入れて天びんにかけて売り歩いて居た、そうして売上げを持っては当時水車をして居た弥之助の処へ来て母の名を呼んで、
「花さん、破風(はふ)を五合(ごんごう)に白米を一升呉んな」
と云って風呂敷を出しては買って行った、これも酔っ払いではあるが為朝と違って穀物を食うのである。ここに破風と云うのは大麦の碾割(ひきわり)のことである。つまり大麦の碾割が三角形になって居る、家々の破風の形によく似て居る、そこが栄五郎ボッチの形容新造語であるらしい。
 亀先生は生(は)えぬきの百姓の子で、どちらから云っても学問の系統などは無いのであったが、どうしたはずみか学問に味を占めてそれから熱中してしまった、学問と云ったところでその時分は漢学であったが、先生は村で習えるだけの漢学は習い尽し村で読めるだけの本は借りて読みつくし、とうとう我慢が出来ず東京へ学問をしに出かけた。
 こればっかりは本当に学問が好きで出かけたので、学問をしてサラリーに有り附こうとか出世しようとかの欲望は更に無かった。そうして人力車を挽(ひ)いたり、風呂炊きになったり様々の職業をやりながら二松学舎に通った。
 その時分の事、書生が大勢集まってお茶を飲み餅菓子を盛んに食べて談論するのを見て、先生は書生の分際であんな餅菓子などをおごるのは僭越だ、おれはそんな贅沢なものは食わない、沢庵で結構だと云いながら沢庵を持って来させて、それをガリガリかじりながら同学の書生達と盛んに談じ込んだものであるが、席が終ってさあお茶菓子代の支払と云う段になって、書附を見ると亀先生の噛(かじ)った沢庵が大物三本、餅菓子よりははるかに高価であったという。
 そういう訳であるから折角学問はしても生活にはうとく、業成って村へ帰って来てしばらく村の学校にやとわれて教師をして居た事もある。その時分の小学教師は今のように資格がどうのこうのという事は無いから、亀先生は先生もすれば百姓もして居て、袴を取って学校から帰ると仕事着をつけて股引わらじで籠を背負い、鮑貝(あわびがい)を杓子(しゃくし)の様にこしらえたものを携(たずさ)えて、街道に落ちて居る馬糞(ばふん)拾いをして歩いたものだ。そこで或日の事、学校へ来ると生徒が、
「馬糞先生(まぐそせんせい)が来た」
と云った軽蔑の言葉を聞き込んで、亀先生は師弟の道がもうおしまいだと云って学校をやめてしまった。
 何かの用で郡役所の窓口へ出かけた事がある、受附があんまり風采のあがらなさ過ぎる百姓姿を見て何か書かせる時に、
「田村亀吉(亀先生の本名)名前が書けるか」
と云いながら紙筆を出した、そうすると亀先生は受附の顔を見ながら、
「おれは書けるがお前はどうだ」
と云って筆を取って書いた文字が米元章の筆法で雲烟の飛ぶ名筆であったので、受附先生もあッと云って言句がつげなかったという事がある。
 亀先生の長話は有名なもので、先生の訪問を受けた場合には薪二把を覚悟して居たという程である。少なくとも、一かかえある薪を炉の中で二把燃やし尽くすまでは帰らないと云うあきらめを持たせる事になって居た。亀先生の最も得意とするのは「易」で更に易経から易断を立てる法へ進出して来た。そうして天下国家の事から失物(うせもの)判断縁談金談吉凶禍福に至るまでを易を立てて自ら楽んだり人に施したりして、自分の易断の自慢話を初める。弥之助の父親なども、それを聞かされているうちに、よく居眠りをしてしまう、相手が居眠りをしても何でも話す方は一向ひるまず、一人がてんでから/\と高笑いを交えながら話し立てて、とうとう鶏が鳴いてはじめてやっと気がついてあわてて帰るところなど、弥之助も炉辺に傍聴して見きわめた事である。易断に凝(こ)った結果、或学者の紹介で横浜の高島嘉右衛門に入門し、そのすすめで易経の暗誦を初め、田や畑の中で朗々と易経を唸(うな)りながら仕事をするのをよく見かけたものだ。弥之助は少年時代この人について少々漢学を習い、また初めてこの人につれられて東京へ出て来た縁故がある。
 是等は皆その当時の村の畸人(きじん)の一部であるけれども、今ではこういった様な桁外(けたはず)れの人間はすっかり影をひそめてしまって、製造した様な人間のみ多くなってしまった、丁度田圃が碁盤の目の様に整理されてしまい、水道がコンクリートの護岸で板張の様な水底に均(な)らされてしまい、蜿蜒(えんえん)と連なった雑木林が開墾されて桑園とされてしまった様に、平明開発はあるけれども蝦蟇(がま)も棲(す)まないし狐兎も遊ばなくなった。
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