百姓弥之助の話
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著者名:中里介山 

「覚悟はして居ますけれどもまだ召集がありません、私達の同窓にはすでに召集されて出征した人もあり戦死者もあります、美術出身でもう十五名は召集されて居りますが、その内五名は戦死と云うことが解りました。僕の親友であったSと云う青年が、校中の人望家でもあったし人物も立派で気象も秀(すぐ)れて居て柔道も三段でありましたが、上海でとうとうやられてしまいました、しかもその男は同郷の資産家の一ツブ種です、僕の様な次男坊でどうでもいい人間は無事健在でああ云う人間がやられるのだから感慨に堪えません」
と小山青年が云った。弥之助はそれを聞いて、
「うーん」
と口を結んだ、いま、日本の内地へは爆弾一つ落っこちて来るのではない、実感的に何等驚破される非常時現象が眼の前に展開されている訳ではない、こうして平和そのものの秋の夕ぐれの武蔵野の中を走る電車は明朗な青年たちで張り切って居る、然し彼等とても全く米の価を知らずに、ただ食いただ肥って居るだけではない、美校出身だけでも十五、六、七名の出征者のうちに死者五名と云う事であれば少なくとも三分の一が死んで居るのである。
 肉弾、肉弾、全国を通じての肉弾の貴重すべき犠牲は外で戦われて居るから内なる人の日本人の実感にこたえる事が甚だすくないのではないか。日本現在を斯くも安らかにしているのは、皆、外に戦っている肉弾のお蔭である。

       九

 弥之助は植民地から東京へ往復するに国産小型自動車を用いて居る。
 自動車では相当に苦労したものである、あえて贅沢(ぜいたく)のために自動車を欲しがるものではない、自分の健康上と業務の上との両方面から経済的にこれを利用し度いとの希望の為に、二台まで中古自動車を買ったが、皆失敗した。
 その一つはダッチブラザーの古物であったがこれは旧式ではあるが中々機械の質がよく少々利用して東海道、東山道など突破した事もあるが、長く続かなかった、部分品や修繕に中々金がかかるのと正式運転手を一人やとい入れるのとではかなりの大負担になる、そこで世話をした自動車屋が、営業上に籍を置いて呉れて必要の時だけ乗りまわす事にしたが、万事につけて出費が多くてものにならなかった。
 そのうちに一人の青年が来て私立大学に通う学資を得る為に運転手をし度(た)い、幸い、自分は免許状を持って居ると云う事を申出て来たからその話に乗り込んで中古のシボレー一台を買い込み、営業用に登録し必要の時はこちらが乗ると云う事に約束をきめてかかったが、営業用にかせがせれば車体が甚(はなは)だしく痛むと云う事を頭に置かなかったものだから修繕費修繕費に追われてしまう、遂には腹が立って捨値に売り飛ばしてしまった。
 自家用専門に本式自動車を持つとすれば税金だけでも年額五百円はかかる、それに運転手の給料その他を加えると容易なものではない。そこで一先ず自動車とは縁を絶ったが何分不便でたまらない、然るべき専用乗物が欲しいと考えて居るうち、或る朝日本橋の昭和通りを歩くと店にマツダ号という三輪自動車が一台かざられてあった、割合安いからそれを買い取って小型運転手を一人やとって、これは可なり乗り廻したが、発火が容易でなく、ガソリンも食う、不便不満を忍んでそれを乗り廻して居るうちに、日産のダットサンが出現して来た、これは今の処自分の自家用としては丁度手頃のものであると云うところから早速これを買い入れたのであるが、前の三輪車からくらべるとこれでも殿様で、ただ形が小さいだけで万事本式の自動車とかわる事はない、それに運転証はだれでも簡単にとれる小型運転手の免許状でいいし道路は自転車の入り得るところならどこへでも行けるし、そうしておまけに税金も自転車なみと云うような訳で、すべてが現在の自分にはぴったりして居るからこれは引きつづいて愛用し、一年余にして新車と買い替えて引続き今日に及んで居る、これに依って非常な遠乗もやるし植民地から自分を乗せて東京に運ぶばかりではない、出版物や活字、組版等を乗せて往復する、その功労たるや至大なものである、これがあればこそ弥之助は東京を仕事場として植民地に引込んで居られるのである、弥之助の現在の仕事は、小型自動車の足を別にしては考えられない程密接な働きをして居る。
 弥之助としてはダットサンに金鵄勲章(きんしくんしょう)を授けて然る可(べ)き関係になっては居るが、然しこの車にも不足を云えば不足がある、英国の小型オースチンはまだ使用した事はないが、あれ等にくらべるとその耐久性に於て大いに劣るところがある様に思われる、この小型自動車が大いに発展して一台千円位で買えるようになれば実用流行共に期して待つ可きである。
 百姓弥之助は昔から自動車を贅沢品(ぜいたくひん)とは考えて居ない、行く行く実用品として各戸一台は備えねばならぬ様な時代が来るものだと思って居る。

       十

 百姓弥之助は十二月初めの或る一日、用事を兼ねて、東京の市中を少々ばかり歩いて見た。
 日本橋の三越のところから地下鉄に乗って、上野の広小路松坂屋へ行って、「非常時国産愛用廃品更生展覧会」という素晴らしく大げさな催しを見に行った。これは日本商工会議所というところの主催であるそうだが、題名のいかめしい割合に内容はお粗末なといっていいものである。一旦使用した廃物を再生したと称する日用品の陳列が相当ある、係員が不親切な為にどうも会の趣意が徹底しない、例えば、出来上った製作品をなぜ即売しないかと問えば、これはただ斯ういうものが出来るという見本だけだという、それでは廃品更生の宣伝にならないではないか、希望者に分けてやって、斯ういう廃物で斯ういうものが出来るということを見直させ、流行させるようにしなければ徹底しないではないか、というと、事務員が、
「これは素人(しろうと)には出来ません、素人がこれだけやるには七八年も年期を入れなければ出来ません」という。
「それではなんにもならない、七八年も年期を入れなければ出来ないものを拵(こしら)えさせるのでは、利用更生にならない、誰にも出来るようなもの、田舎へ持って行っても、家庭でも土地の仕立屋でもやれるようなものでなければ徹底しない筈である」
ということを弥之助が鋭く言うたので、あたりの人は怒鳴りつけたかと思った、事務員も沈黙してしまったが、要するにああいうものは斯ういう廃品もやり方によっては斯ういう安い費用で、斯ういう重宝なものが出来る、希望者には実費で頒(わか)ちますから見本としてお持ち帰り下さいというようにしなければ会の性質が分らない。入場者に対しても甚だ不親切といわなければならない。
 店を出て御成(おなり)街道をずんずん須田町方面へと歩いて見た、町並みは少し変っているが、口入屋があったり、黒焼屋があったり、錦絵和本類屋があったりするところにまだ明治時代の御成道気分が残っている、万世橋へ来て見ると昔の柳原通り、明治以来の名残(なご)り、古着屋が相当軒を並べている、店の先へ出張って客引をつとめるやり方は以前と変らない、電車通りへ出ると、東京着物市場がある、所謂(いわゆる)柳原通りは洋服屋だが、この市場は和服を主としている、それから小伝馬町(こでんまちょう)、人形町通りを歩いて茅場町(かやばちょう)から青山行のバスに乗って東京駅で下車して丸ビルを見た、丸ビルの店がかり、いつもと変るところはない。
 津軽の産物だといって、じゃがいもパンの試食をさせられ、十銭の包みを一つ買い込んだ、あとで食べて見たら相当に風味がよかった。
 ジャガ芋(いも)というものは、栽培が比較的容易で収穫率も多い、栄養価としては日本人に向かないというものもあるが食糧としては豊富なものであり得る、これでうどんを作る方法もあるそうだが、いろいろ研究して副主食とするようにすることは、日本農家にとって、有益な計画と云えないことは無いと思った。
 それからバスで青山方面へと帰って来たが、天気は非常によろしいけれど、風がある、久しぶりで東京見物をしてかなり町並みを歩いて見たが、なかなか物資は豊かでちっとやそっと戦争をしたからとて影響などは更に見えない、物価が高くなったとか高くなるだろうとかいうが、高いにしても知れたもので、当分そんな窮乏を訴えそうなけしきは夢にも思われない(今時それが見え出すようでは大変だが)。
 改装された東京は風情(ふぜい)というものが欠けておもしろ味のない感じはするけれども、表面見たところでは景気に変りはない、国民の一部が他国で屍山血河を越えているというような風情は少しも見えない、この点に於ては日本は幸福な国である、未(いま)だ曾(かつ)て自分の領土内に侵略を受けたことがない、東京の一角へ爆弾の一つもおっこって来るという日は別だが、今時は何処に戦争がある、といったような風景である、これというのも、彼の壮烈なる肉弾の賜(たまもの)である。
 今の日本は肉弾を以て外国の地域に堅牢無比なる防塁を築きなしている。国内は泰平だが何につけても、彼につけても日本人は肉弾に感謝をしなければならぬと思った。

       十一

 百姓弥之助はニュース映画を見ようと思って、新宿の追分のところまで来た。
 そこで、戦地に向う野戦砲兵の一隊が粛々と進んで来るのを見て足を留めた。
 百姓弥之助は植民地に居ては村人に送られる出征兵とそれを送る村人の行列を見て心を打たれたが、東京の地に来て真剣に武装した日本軍隊と云うものを眼のあたり見ると彼はまるで送り迎えの時の感情とは全く違った心の底から力強い感激の湧き出る事を禁ずる事が出来なかった。
 武装した日本軍隊は身の毛のよだつほど厳粛壮烈なものである、威力が充実し精悍の気がみなぎって居る、殊にこれから戦地に向うと云う完全武装した軍気の中には触るるもの皆砕くと云う猛力が溢れ返って居る、村落駅々から送られて出る光景には慥(たし)かに一抹の哀々たる人間的離愁がただよっていないという事はない。すでに斯うして武装した軍隊を見ると秋霜凜冽(しゅうそうりんれつ)、矢も楯もたまらぬ、戦わざるにすでに一触即発の肉弾になりきっている。
 だから出征の勇士は全く本望を以て死ぬ事が出来る――ただたまらないのは戦終って後その士卒を失った隊長、昨日迄の戦友と生別死別の同輩、それから残された遺族等のしのばんとしてしのぶあたわざる人情の発露である、戦争にはそれがつらい、ただそれだけがつらい、この悲痛をしのぶ心境に向っては無限の同情を寄せなければならぬ。

       十二

 軽便炭焼は成功した、試験としては先ず上々であると云わなければならぬ、約五俵の木炭が取れた、これで自給は成功した、この方法は農家一般に流行(はや)らせたいものだ、素材そのままで炉(ろ)にもやす方法から炭化生活に入る生活改善の第一段と云えよう。
 この方法は別に図解で示す積りであるが、火を焚きつけてから盛んに煽り内部に燃えついた時分を見計らい焚きつけ口をふさいで次に後ろの風入口から火を吹く迄の限度――この間が約一昼夜、火を吹いてから約一時間の後、その口をふさいでそのまま二三日放置して完全に燃焼炭化しきった頃を見はからって掘出しにかかる、この試験では試掘の時機が少し早過ぎた為に不燃焼の部分が多少残って居た、今度はその点に注意する事、それから風入口から火を吹き出す機会が夜中にならぬ様、あらかじめ時間を見はからって点火をする事がかんじんである。
 百姓弥之助はこの自家用炭焼の成功を喜んで同時に農村炭化と云う事を考えた。近頃は農村電化と云う声を聞くが、これが実行は現在の農業組織では中々容易なものではないが農村炭化となると組織の問題ではなく直ちに実行の出来る生活改善の一部なのである。薪として燃したり粗朶(そだ)として燃やしたりする大部分に少しの手数をかけてこれを炭化して使用する事になると時間と経済と衛生との上に多大な利益がある。
 日本の農村生活から囲炉裏(いろり)と云うものを容易に奪う訳には行くまい、囲炉裏の焚火と云うものは、ほとんど原始的のものであるけれどその囲炉裏を囲むという実用性と家庭味は日本農村の生命であって火鉢やストーブでは充(み)たしきれない温かみがそこにあるのであるが、然しこの原始的の情味も早晩相当の改良を加えなければならない時機に達するだろう。
 第一囲炉裏では燃料が多く無駄になる、それから煙が立ち材木がくすぶり家がよごれる、それから眼の為などには殊によくない、同一の燃料を炭にして置くと、はるかに永持がする、一時パッと燃やして火勢をとる様な煮物の為には多少の生の燃料をつかってもいいけれど永持をさせる為には炭がよろしく、そうして経済でもあるし、第一また素薪をたくのだと、煮物をする場合に附きっきりで火を見て居なければならない、燃え過ぎてもいけないし、燃え足らなくてもいけない、少し注意を欠くと消えてしまう、そう云う場合に炭だと、一たんかけて置けば或程度まで放任して他の仕事が出来るというものである。
 それから今日どこの田舎家でも行って見ればわかる事であるが家中がくすぶりきって真黒くなって居る、あれは皆多年の薪生活の為であって、風流としては多少面黒いところもあるかも知れないが一体に甚だ非文明的である。これを炭化にすればあれ程家中を黒光り煤(すす)だらけにしないでもすむのである。然し木炭の価は甚だ高い、年々高くなる一方である、今年あたりは一俵二円もする、農民生活で木炭などを買いきれたものではない。まだまだ日本の農村生活から囲炉裏を奪う事の出来ないのはわかっているが、そこで素材を使うべき場合には相当限定をして置いてあとはこの自家製木炭で調節するようには出来ないものか、この村あたりではまだこの炭化方法を実験して居るところはない様だ、これは一つ大いにはやらせて見たいものだと思って居る。

       十三

 百姓弥之助は今年の正月を植民地で迎えた。
 元日と云っても相変らずの自炊生活の一人者に過ぎない、併し今年は塾の若い者に雑煮(ぞうに)の材料だけをこしらえさせて、それから後は例に依っての手料理で元日の朝を迎えたと云う訳だ。
 昨晩の大晦日(おおみそか)には可なりの夜深しをしたものだから、朝起きたのは六時であった。炉へ火をたきつけて自在へ旧式の鉄の小鍋を下げて、粗朶(そだ)を焚いてお雑煮を煮初めた。それから半リットルばかりの清酒をお屠蘇(とそ)のかわりとして、昨日炊(た)いて置いた飯をさらさらとかき込んでそれで元日の朝食は済んだわけだ。
 至って閑散淡泊なものだが、然しこの食料品としては切り昆布とゴマメ数の子のたぐいをのぞいては、全部自分の農園で出来たものだと云う事が特長と云えば特長だろう。そこで、昨年度の弥之助の農園に於ける収穫を概算して見ると次の様な事になる。
小麦   約十二俵
大麦   十俵
陸稲┌糯(もち) 六斗五升
  └粳(うるち) 五石[#括弧は底本では、二行を括る丸括弧]
馬鈴薯  約四百貫
玉蜀黍(とうもろこし)  三斗
西瓜(すいか)   八十箇
薩摩薯(さつまいも)  五百貫
茄子(なす)   若干
胡瓜(きゅうり)   若干
梅    四斗
茶    一貫目
牛蒡(ごぼう)   五十貫
生薑(しょうが)   五貫目
大根   若干
蕎麦(そば)   三斗
菊芋   若干
里芋┌八ツ頭 三俵
  └小芋 二俵[#括弧は底本では、二行を括る丸括弧]
木炭   五俵
 右の外、莢豌豆(さやえんどう)、トマト、葱(ねぎ)、隠元豆、筍(たけのこ)、鶏卵、竹木、藁(わら)――等の若干がある。
 これに依って見ると、まだまだ中農までも行かない水呑程度の百姓だろう、収穫はこんなものだが、これに投じた新百姓としての固定資本や肥料、手間等の計算はここにしるさない事にする。この植民地には水田が無いから大麦と陸稲米を主食として居る、一昨日塾中に搗(つ)かせた餅もやはり全部陸稲の自家産である。これが終ってから百姓弥之助は燃え残りの榾火(ほたび)に木炭を加えて炉を直にこたつに引き直した、そうしてやぐらの上を直ちに机にしつらえて、それから元旦試筆というものにとりかかった。正月は思い切って字と画を書いてやろうと幾年ならず心がけては居たが中々果せない、今日の元旦こそはと思い切って筆墨紙の品しらべにかかった、硯(すずり)は使い古しの有合せのものを使い墨はこの暮に丸ビルで三円で買って来た香風墨と云うのをおろし筆は有合せの絵筆細筆で間に合せ、硯の水は塾生が早朝に汲み上げて呉れた井戸の若水を用い、それから棚に向って用紙の品しらべをやり出した。
 棚には十年も前からの頼まれものが、うず高くたまって居る。封を切らないのが大部分そのままにしてある、筆を揮(ふる)う事は興に乗じてやりさえすれば何の事はないのだが、とりかかる迄がおっくうで無精でついつい延び延びになってるうちに七八年位は経過してしまう、全唐紙の大物もあれば絹本もあるし半切もあれば扇面も色紙も短冊もみんなごっちゃに、封を切ったのと切らないのと雑然と棚に積み上げられて居る。百姓弥之助はどこから手を附けていいかと戸惑いの形になったが、まあ大物は後まわしにして色紙短冊からとりかかろうと、それを炉辺に持ちおろした。
 それから筆まかせに書と絵とを書きまくるつもりであったが、書と絵とを同時につくるのはどうも気分がそぐわない、書の方は一気呵成にやれるけれども絵の方は相当の構図を組み立てた上でないとやれない、と云ったような呼吸から今日は書だけにして置いて絵は明日のことときめた。
 書は古人の名言や筆蹟のうちから求め、或は自分の旧作のうちから選んで色紙に書き、短冊には古人の名句や自作のものなどを都合三十枚ばかり書きなぐってしまった。百姓弥之助は書道の妙味はこころえて居るつもりだが筆をとってけいこした事は殆んどないから予想外出来のいいのもあるが、どうにも始末に困るのもある、然しけいこをしないだけに流儀にはまらない誰にもまねの出来ないまずさがある処が身上と云うものだ。
 そのうちに本館の方で振鈴が鳴る、式の準備が出来たのだ、そこで塾中で屠蘇を祝って万歳を唱えた。
 それから屋根裏の寝室に行って寝台の上で読書にふけった。
 今年の元日は比類なき好天気のうちに送り迎えをすませて早寝をした、門外へは一歩も出ないで一日を過した。
 二日目は前の如く食事が済んでから、やはり色紙短冊に向って絵を描き出した。絵は有合せの書物や雑誌を題材にしたスケッチで寅年(とらどし)にちなんだ張子(はりこ)の虎の絵が多かった。中々よく出来たのもある。例の欠食猫をモデルにしてブザマ千万な猫を描き上げてそのかたわらに次の様な賛をした。
家猫の虎ともならであけの春
 これは現状維持の鬱懐(うっかい)がふくまれて居る様である。もう少し積極的表現のものとして、
家猫の虎とならんやあけの春
家猫の虎となるらんあけの春
 何か時代に対する諷詠がありと云えばある様だ。
 そこへ塾に居るMと云う洋画家がやって来て一石やりましょうとの事だから直ちにそれに応じて碁盤(ごばん)を陽当りのよい縁側に持ち出させそこで悠々と碁をうち出した。暮のうちは百姓弥之助が少々うたれ気味であったが今日は六番戦って五番勝つと云う好成績である。
 年始状や年礼のしるしや名刺が本館の玄関のテーブルに置かれてある、今晩はこの部落の夜番に当ると云うので善平農士がそれをつとめる事にした。

       十四

 百姓弥之助はこの農業生活に入るにつれて服装の上で不便を感じ出した。それは弥之助の腹が中々大きくて普通の洋服では上と下が合わない、すきまから風が入るおそれがある、そうかと云って殊に日本風の私生活で背広服を朝から晩まで着づめにして居ると云うのもまずい、そこで大ていは和服を着て小倉の古袴をつけて居るが、この袴もまた腹部が出張って居る為に裾が引きずれがちで立居ふるまい殊に階子段登りなどには不便を極める。それからまたこの姿では机に向って事務をとって居た瞬間に畑へ飛び出して野菜を取って来ると云う様な場合に殊更不便を感ずるのである。そこで思いついたのが東北地方で着用して居る「もんぺ」のことである。あれを着用して見たら必ずこの不便から救われるに相違ない、そこで東京のデパートあたりを探させて見たが、出来合は見当らないようだとの事だから福島県の大島氏へ当ててその調製方を依頼したものだ。大島氏の家は福島県有数の事業家で弥之助の依頼したO氏は当主の弟さんに当る人で、白菜だけでも四百町歩から作ってその種子を全国的に供給して居る、弥之助は先年その農場に遊んで同氏の為に「菜王荘」の額面を揮毫(きごう)して上げた事がある、そこで早速同氏に当てて「モンペ」調製の依頼をすると直ちに快諾の返事が来た。
 その文面に依ると「モンペ」は福島地方でも用いない事はないがその本場は寧(むし)ろ山形、秋田の方面であると云わなければならぬ、然し御希望によって当地で然るべくとりはからって上げるからとの事であった。
 程なく同氏から鄭重な小包郵便を以て二着の「モンペ」が送られた、それに添えられた手紙には、当地織物会社の特産、ステーブルファイバーを以て仕立せさせた「モンペ」を送ると、モンペとしてはステーブルファイバーでは地方色の趣味が没却される点もあるが然し時節柄の意味に於て国産ステーブルファイバーを以て試製させて見た。別に地方色豊かなるものとしては会津地方から取寄せて送るという様な親切をきわめたものである。
 弥之助は大島氏の好意に感謝しつつ早速この国産ステーブルファイバーを着用に及んだ。ステーブルファイバーは一見したところモンペとしてはきゃしゃに過ぐるようで立居の荒い弥之助に取っては持ちの方がどうかしらと心配したが見かけによらず丈夫なもので中々裂けたりやぶれたりしない、さて穿(は)き心の方はどうかというとこれは普通の袴と違って裾が締って居るから階子段の登下りにしろ菜園への出入にしろ少しも衣裳が邪魔にならない、その上保温力が大したもので、あれをはいて居ると下腹部から下の温みが着物一枚どころではない、万事につけて耕書堂生活にはぴったりとした着用物である。自分の予想が当った事を非常に喜んで弥之助はこれを塾中の若い者にはかせる事にし、大島氏の送られた型によって近所の呉服屋へ注文して更に木綿製五着を作らせた。
 それから暮になって東京へ出て見ると丸ビルの一角に純田舎製のモンペが売店に二三着陳列してあった、尚聞けば伊勢丹あたりのデパートにもあるという事である、それがもう少し早くわかれば、わざわざ大島氏をわずらわさなくってもよかったと思う、然しこの機縁から大島氏の好意と親切が長く吾々の身体を温めてくれる記念と思えば結句有難い思い出になる。
 この一月二日の日に、大島氏は果して約束の如く此度は新たに地方色豊かなモンペ二着を小包郵便を以て送り来された。
 さて、こうなって見ると、普通の羽織を引っかけたのでは、前の方に隙間(すきま)が有り過ぎる、これは釣合のとれた被布様のものに限る、と、弥之助はこう考えたものだから、次には被布の製作方を思い立った。幸、それには好適の古羽織が一枚ある、これは全部三味線糸で織ったもので、重さは普通木綿の二三倍もある、雨合羽(あまがっぱ)代用などにしながら持て余していた。これを一つ仕立て直してもらって、上っ張りにしようと、人に頼んで被布式に縫い直し、裏地を撤去して、成るべく重量を減らしてもらった、これがまた、丈夫でもあり、惜気(おしげ)も無くて至極よろしい。
 日本農村の服装改良はこんなところから初まるであろう。

       十五

 弥之助は食土一如の信者というわけでは無いが、この武蔵野の植民地に住む限りは、主としてこの附近の産物を食料にとる方針を立てた。
 水田の無いこの野原では陸稲を主としなければならない、陸稲にも相当種類はあるが、釜割(かまわれ)種はさっぱりし過ぎてねばり気が少ない、もう一つの平山種はきびの悪い程うまかった、うまいと云った所で水稲とは比較になるべき筈のものではないが、普通陸稲のさらさらしたものにくらべて、きびの悪い程ねちねちした味いがある、然し麦となると本場である、小麦も大麦もどちらも本格で、小麦は挽(ひ)かせて、うどんに造ったり餅に焼いたりするが、色こそ黒いけれども、その持味は公設市場で売るメリケン粉の類ではない、小麦本来の持味が充分で同時に営養価も高い事が味わえる、大麦に至っては主として碾割(ひきわり)にして食用に供するのとこの頃は押麦にしてその儘飯に炊くのとである、碾割の方は桝目(ますめ)にして格別殖えも減りもしないが、押麦は押しにやるとかえって桝目がふえて帰る、裸麦の或種のものは三斗やって四斗になって帰るものもある。この大麦は麦だけを飯に炊く家もあるが少々ずつ米をまぜて炊く家もある。弥之助の経験ではこの大麦の引割に適度の米をまぜて食うのが一番味がさっぱりとして、然も腹工合に最もよいと思われる、水辺に住む者はやはり風土の関係で肥膏なる米食がよいかも知れぬが、こういう平野に住む者には麦食が確かによろしい、食養学の上から研究したらどうか知れないが、弥之助の体験によると確かにそうだ。
 漏れ承る所によると 天皇陛下に於かせられても、麦と半搗米とを常の御料に召されるそうである。
 一体稲と麦とは如何にもよい対照をもって居る穀物で、稲は春に仕立て夏に育ち秋に取入れる。一年中の最も陽性を受けた豊潤な時を領分として成熟する。それに引替えて麦は陸上に霜枯れの時代から蒔(ま)き初め、厳寒の境涯を通し氷雪の鍛練を受け、そうして初夏の候に初めて収穫を見るのである。だから麦は堅忍不抜なる男性的であり、米は優美豊満なる女性的である、いずれにしてもこの二つが相並んで穀類の王座を占めて居ると云える。
 小麦は別格であるが、パン食をする様になれば、この小麦が米と大麦とを凌駕(りょうが)して穀物の王座にのぼる事になるのだが、パン食は日本人にはまだ向かない、また日本の小麦はうまくパンに焼くことが出来ない、これは製粉して副格的の食用に供するばかりだがこれに次いでは粟(あわ)と蕎麦(そば)とである、粟は近頃作る人がすくないがこれも飯にして少し米の分量を多くした炊き立てなどは白と黄の色彩も快く一種の香気があって中々うまいものだ、都人士に食べさせても珍重がられる程の味があるけれども、冷えるとぼろぼろになって味もさっぱり落ちてしまう欠点がある。稗(ひえ)とか黍(きび)とかいうものはこの辺ではほとんど作らない、赤豌豆(あかえんどう)は昔は盛んに作ったものだが害虫がおびただしく発生するというので、全村申合せて作らない事にして居るがこれは甚だ惜しい事だと思う。
 赤豌豆は、花があれで中々しおらしくて美しい、観賞用にしたスイートピーよりは畑作りの豌豆の花の咲き揃った所が弥之助は好きであった、それに青いうちに莢(さや)ごともいで枝豆を食う様にして食べるとその甘みとうまさは忘れられないものの一つであり、かつまた熟し立てをほうろく煎(い)りにしたり塩うでにしたりして食べてもうまい味がある、ああいうのが味えなくなったのが如何にも残念である。
 東京では盛んに塩豆を売って居る、成程あれも豌豆には違いないけれどもああなっては豌豆のもつ原始味などは全く涸渇してしまっている。
 東京の縁日でどうかすると煎り立て豆を売って居る、豌豆を水につけて軟らかにしたやつを塩をまぶして金網で煎り立て、その熱いやつを紙袋に入れて売る。あれにはまだ相当に豌豆の原始味が残って居る。それも近頃はだんだん尠(すく)なくなってしまったが、浅草公園の瓢箪池(ひょうたんいけ)の附近に行くと最近まであれを専門に売って居る露店があったものだ。弥之助はあすこへ行く度にあれを買い込んであたりはばからずひげ面(づら)にほおばりながら歩いて同行の人を冷々させたものだ、以前東京の市中で豌豆煮立と云って売り歩いたものだがこの頃ではそれも聞えなくなった、豌豆の本当の味は青い時分莢ごと茄(ゆ)でて食うにあるのである、莢ごとといっても莢豌豆とは別である、莢豌豆は今もどこでも栽培を禁止する事はなくお汁の実などにして莢ごとに食べる、だれも御存知の通りだが、赤豌豆は莢ごとに茹でても莢は食べられない、枝豆を食うようにして粒だけ食べるのである。
 枝豆といえば枝豆の原料としての大豆も昔はこの辺でも盛んに作ったが、今ではこれも害虫の理由(わけ)か或は大陸で大量製産がある為に引合わないせいか殆んど全く作らない、それが為に枝豆の食べられない事などは知れたものだが、味噌醤油の自家造も止まったし節分の豆まきの豆も無い、こういうものはすべて買った方が割に合う様になって居るのだろう。
「年とりの豆まきの豆迄こうして袋に入れて三越で売る様になった」
と弥之助の母などは三越の屋上庭園に大豆畑でも出来たほどに驚歎して居る。

       十六

 二月末の或日の事、五の神の力さんが小風呂敷に包んだものを持って来て、
「これは一等賞を取った薩摩薯(さつまいも)だ、一つ食べて見てもらい度い」
と云った。
「それは好いところだ、何か食べ度いと思って居たところだ、なまかね、ふかしたのかね」
と弥之助が尋ねると、力さんが、
「今ふかしたてだよ」と云った。
 弥之助はその小風呂敷を受け取って包を解いて小さいのを三本若い者に分けてやり自分はその大きいのを受け取って皮をむいて食べながら力さんと話した。
「なる程これはうまい、甘薯(かんしょ)のうまいのは、ほくほくして栗の味がする、この間のおいらんとは全く別な味だ、これは何という種類です」
 力さんが答えていう。
「これは紅赤(べにあか)というので、元は川越種です、埼玉県から来たものです、ずっと前に埼玉から熱心家が来てこのさつま薯の種や、それから丈が短くて穂の大きい麦種をこっちの方へ流行(はや)らせたが、この人は毎年麦を 天皇陛下に納める役を仰せつかって居る」
という様な事を話して、
「すべて好いものはトクですよ、この紅赤とおいらんでは第一これをふかす薪からして違います、おいらんをふかす燃料の三分ノ一で立派にふけた上にこの通り味がよくてその上に腹持がいいです、おいらんを五本食べるところを、これなら二本で結構腹持が出来るというものです」
と力さんが云った、いいものは却って経済であると云う理法はたいていの場合に通用する。

       十七

 弥之助は先頃から理髪の自足自給を初めている。
 弥之助は生れつき毛深い方で眉毛(まゆげ)も鬢も濃く、従って髪の毛も黒く小供の時からいい毛だと云って、年頃の娘達にうらやましがられたものであるが、どうも天性無精(ぶしょう)で今日迄髪を分けたという事がない、せいぜい五分刈ですましてしまう、その位だから理髪店へ行って時間をとられるのは何よりつらい。東京に居る時はいつも一番安い理髪店を求め歩いては刈らしたものであるが、それは節約の為のみでは無い、安い所は手っとり早く済ましてくれるという点が有難かったのだ。
 ところが植民地へ来てから青年がバリカンを使う事を心得て居たので早速バリカンを買い込んでこれに理髪を任せた。
 昔三十年も前に東京でこれをやって見た事がある、その時はバリカン一挺(いっちょう)三円以上もして然もあんまり工合がよくなかった事を覚えて居る、このバリカンというやつにも当りはずれが相当にある、そこで今度もどうかと思いながら、隣村へ買わせにやった処、一円三十銭ばかりで一挺買って来た、それを使わせて見ると案外の好調子でその後半年の間に何十頭も刈ったが更にひるまない、このところバリカン大当りである。

       十八

 日支の事変が初まってから当然物価は騰(あが)り初めた、然し暴利取締りが相当行届いてるせいか、その割に暴騰までには立到って居ない、特に農産物等はほとんど価格の値上りを見ない、都会の台所では相当に騰って居るかも知れないが、農村の収入としてはほとんどひびいて来ない、ところが、俄然(がぜん)として弥之助の耳元にひびいて来たのは人間の価上りであった。昨年百五十円程度の作男の給料が二百五十円以上にまで飛び上ってしまった、それから昨年四十円の仕込盛りの小供が今年は九十円で他に口があるからと申込んで来た。男の方が約七割、小供の方が十二割以上の価上りである。こういう相場は誰が立てるのか知れないが兎に角それが共通した相場になって居て、それでも新たに頼み出しというのがほとんどない、人間の不足という事が覿面(てきめん)にここへひびいて来た。兎に角支那へ向けて大量の人間が進出して居るその影響がこうも現金にむくって来たのである。これは実に日本の農村の古来未だ曾(かつ)てなかった一大事件であるのみならず、壮丁の支那進出は、この分ではいよいよ多くなろうとも減ずる気づかいはない、今後労力の不足はいよいよはげしくなるに相違ない、そうかと云って労力の暴騰に準じて一俵十円の小麦が十五円になるという様な訳には行かない、この農村労力問題を如何(どう)するか、共同経営の新方法で行くか、機械化電化の促進で行くか、いずれ農村労力の革命が行われねばならぬ事を弥之助は感じた。今迄人口過剰に苦しんで居た日本内地がやがて人力飢饉に落ちて行く形勢がありありと解るような気持がした。
 殊に百姓弥之助の植民地は○○(伏字)飛行場の飛行機の散歩区域である。軍需品の工場が、その飛行場からこちらへ向けて、ドシドシと立て増されて行く、今迄農業に働いていた青年をはじめ、女子供に至るまで、ドンドンとその方に吸収されて行くから、この農村労力の移動がハッキリして来る。
 年々七八十万の人口が殖えて日本は人口が多過ぎるという感じはやがてドコかへ消えて行って、その後に人間飢饉の大波が寄せて来るような感じ、今や、日本の人口が一億に達したとはいうものの、四億以上の人口を有する国を向うに廻して長期の戦争をしなければならないとすれば、この分では人間はいくらあっても足りない、金より物ということが、一時行われたが、それが物より人ということになりつつあるのではないか、今、農業に働いている壮丁は、いつ徴集されるか知れない、そうなると一人前に足りない子供の労力というものが、一人前以上に要求される時期が来たというものかも知れぬ。

       十九

 百姓弥之助が植民地へ戻ると二ツの欠食児童が待って居る。
 欠食児童とは猫の子である、この植民地へはまぐれ猫、のら猫がよくやって来る。まぐれ猫については曾て次のような一文を書いた事がある。


    野良猫

 夏のうち耕書堂の居間を開け放しにして置くと、よく野良猫に襲われる。食事半ばで肴(さかな)をかすめられたりすること屡々(しばしば)である。或時の如きは、日本橋からくさやの干物、鱈(たら)の切身というようなもの一包を買い込んで、大袋の中へ投げ込み、たしかに持参した筈(はず)のがない、東京へ置き忘れて来た筈はないのに幾ら探してもない。
 気がついて見ると、それは包みごと野良猫めにしてやられたのだ――どうも憎い奴だ、見つけ次第一つこらしめてやらなければならないと思っていた。
 秋になって、或晩戸を締め切ってしまうと、縁側の隅でニャーニャーと猫が鳴く、閉めこまれたな、よし、とっ捕えてやろうと立って障子を明けて見ると、隅っこに鳴きながらおびえているのは、逞(たく)ましい野良猫と思いの外、まだほんの小猫であった、少々案外の思いをして、よし/\此奴なら痛しめるほどのことはないと、有り合わせた肴の屑(くず)をとって投げ与えると、恐る恐る近寄って来て、それにかじりついた、それから、鰹節(かつおぶし)をけずりこんでボール紙の上に飯を少し盛って与えると、恐る恐る近寄って来たが、それにかぶりついたと見ると、食うこと食うこと、すさまじい勢で貪(むさぼ)り食いはじめて瞬(またた)く間に平げてしまった、それから今度は、少し大きいボール紙にもう一度飯を盛って、また鰹節を奮発して与えると、それも見る見る平げてしまった。
 それに味をしめて忽(たちま)ちにこの猫は余になずいてしまって、膝元と身辺をどうしても離れない、立てば立った処の足にまつわりついて室内のどこまでも附いて来る、便所の中までもついて来る、まだ食物が足りないで、せがむのかと思うとそうではない、打っても叩いても膝元を離れない、この仔猫は虎猫であって、尻尾が気味の悪いほど長い、その晩は炉辺にちゃあんと座り込んで一夜を明かしてしまった、その翌日になるともう我が家気取りでおとなしく炉辺を守っている、然し余が立てば何処までも何処までもついて来て、足にまつわり、指をなめたりすること少しも変らない、思うに捨てられたのか、まぐれたのか、何れにしても野良の一種で一定の戸籍を持たない奴であったには相違ない、しかし偶然此処(ここ)で本来の家畜としての安住所を与えられた気分になったことは疑いないし、兎に角、野良猫としてのルンペンとしての自分を有籍者としての待遇を与えられた気分になったことは疑いがない。
 右の如くしてこの仔猫と二日二晩の生活を共にしたが、自分はまた東京へ出かけなければならぬ、そこで、塾の青年にこの仔猫と、猫飯皿とを与えて自分が帰るまで保育するように托して置いた。
 それから二日程経て来て見ると、猫は何処へ行ったか行衛が知れない、塾の青年に聞いて見ると、あれから忽(たちま)ちに行衛不明になってしまいましたが、あれは本来野良猫で、とても居つかないように出来ている、殊に虎猫であんなに尻尾の長いのは祟(たた)りをする猫だといって人が嫌がる、それで誰人かこっちへ持って来て捨てたのでしょう、とても居つくものではないです、と祟られることを気味悪がるようである、猫ぐらいに祟られてどうするものかとかっ飛ばしながら、耕書堂の戸を開いて居間に構えていると、またいつの間にか例の猫がやって来た、そうして余の膝に這(は)い上ったり、後をついたり、どうしても離れまじとすること、その前と少しも変らない、余はこれに食物と肴の屑とを与えてまたも二晩ばかり生活を共にした、それからまた例によって耕書堂の戸を閉して東京へ出かけた、その時に猫を取っ捕えて青年達に托すること前の通りにして出た。
 ところがこんどはたしか三日ばかりも在京して、また戻って来て見るとその夜に至るまでとうとう猫は来ない、夜が明けても昼になっても姿を見せない、非常に残念な気持がしたが、とうとうそれっきり姿を見せないのである。
 それからまた東京へ一往来して帰って来て一人寝たが猫は来ない、若(も)しやと思って気をつけたがとうとう来ない、処が夜中に戸の外でニャウと啼(な)く声がした、そら来たなと思って、こちらもニャウと鳴き、チュッチュッと呼びながら障子を開けて戸を細目に開き、水窓までも開けて置いてやったのみならず、また飯と目刺とを縁側へ備えて待ち受けたが、それきり夜明まで猫の啼き声はしなかった、無論、飯も目刺も口をつけられずに残されている。
 諦(あきら)めてしまったが、その翌晩になるとまた戸外でニャオと啼いた、また起きて、戸を開けて見てやったがそれっきり音沙汰が無い。
 戸の外まではたしかに忍んで来たものに相違ないのである、しかし、その猫が前になずいたところの小虎でありはあったが、もう既にかりそめの飼主の声を忘れてしまって他人行儀で恐れて近づかないのか、或はまた全く別の野良猫が空巣をあさりに来たつもりの処を、思いがけなく中に人がいることに恐れをなして逃げて行ってしまったのか、そのことはわからない。

 扨(さて)、こうして居るうちにいよいよ正銘の野良猫となってしまった日にはもう手が附けられない。これを追えば走り、これを捕えんとすれば隠れ、ほんの一寸(ちょっと)の隙をねらっては、ものすごい空巣をかせぐ、如何(いか)なる手段を以てしても如何なる誘惑を以てしても一たん野良となった猫はもう決して人にはなつかない。この植民地のあたりに人家とてはないのだが、何処かに隠れていて、夏中戸を開け放して一寸ゆだんして居るともう彼等の侵入によって必ず何等かの被害を受ける。お鉢のふたを開ける位は容易(たやす)い芸当で、戸棚、鼠入らずの戸まで開けて掠奪を逞しゅうする、そのうち、一匹の仔犬を飼うことによって、この野良猫の凶暴なる出没が幾分緩和されたが、やがて飼犬の飼料に対する野良の襲撃がはじまった、食と生との為に如何に家畜が凶暴化することよ、犬に当てがった食物を襲う時の猫の猛烈さは、仔犬が怖れを為して走るという珍現象を出現したのである。
 この侵入者と掠奪者の為に農事の子供は、竹の吹矢をこしらえて隠れて吹きつけたが効を奏さない、陥穴をこしらえて見たがかからない、鰻釣針(うなぎつりばり)に餌をつけて、藪(やぶ)の中に仕掛けて置いて見たが、食物と針とは呑み込んで糸だけを食い切って逸走してしまっている。
 或朝の事、この野良猫の出現をつい池の向う島の祠(ほこら)の中で見出した。可なり毛色がよく肥りきった三毛猫であるが、用心深い様子で絶えずキョトキョトしながら寝込んで居る、それをこちらから遠眼鏡で見ると面中(かおじゅう)がきずだらけで有馬だの鍋島だのの猫騒動のヒーローを思い出させるような物すごい形相(ぎょうそう)になっている。この一疋(いっぴき)の野猫に散々手こずらされては居たが、それでもこの野良者の存在は鼠よけの為には予期しない効果を現わしているらしかった。御承知の通り植民地の一軒家だから、家ねずみ野ねずみも四方から押し寄せてここを巣にしない限りはない、それを一疋の野猫ががんばって居る為に幾分か魔避けの為にはなったと思う。
 それからしばらくして本村のS氏から仔猫を三疋もらった。二三日すると一疋はポックリ死んでしまった。さてこれを育て上げるのが一骨(ひとほね)だ。塾生の青年共にまかせて置いた日には前例がある。幸、今度は塾主としての弥之助も少しはこの植民地に落着くことが出来るのだから、引きつづいて少々のめんどうを見てやろうと思っていた。三疋のうち一疋は雌(めす)で二疋が雄である。雌は一疋はなれ雄同志二つがよく一緒に遊び歩いて来た。ある日寮の一室を掃除すると積み重ねた障子の隅からまだ眼の開かない鼠の子が十疋も出た。それを三疋の仔猫を持って来て食わせるとおどろくべき事は、まだ乳ばなれをして間もない粥(かゆ)でなければ食べられない仔猫が、その鼠の子にかぶり付いてうなりながら咬(くわ)えあるく形相と云うものは全く猛獣性そのものである、ねずみをあてがって初めて猫と云うものの猛獣としての本性がありありと解る。
 そうこうしているうちに雄猫の一疋がポックリと死んでしまった。死の原因はよくわからない、後はミケとトラとの二ツになったがこの度はこれが相棒でむつまじく遊びあるいている。この二疋だけは殺し度くないものだと留守の間はよく青年に云いつけ、帰って来れば弥之助手ずから食物を当てがって愛撫(あいぶ)をこころみて居ると、さすがによくなずいて弥之助の書斎を離れない。夜は二階へつれて行ってふとんの裾へ寝かしてやる、中へ入れるとまだ爪をかくす事を知らないものだから、処きらわずこちらを引っかいたりまたはなめまわしたり食い付いたりするから、掛布団(かけぶとん)の間へ入れて寝かしてやる、無精によくねる、いくら寝ても飽きたと云う事を云わない、夜昼寝つづけに寝る、たたき起してほうり出すといやな顔もせず飛びまわったりじゃれついたりする。ことに夕方が一番はしゃぐ様だ、猫のじゃれるのとちょっかいを見て居ると如何にも可笑(おか)しい、これは本能的の躍動だが、かくれん坊するのを見て居るとどうも少し意識的にやる様だ、一つが障子(しょうじ)の外へ飛び出してじゃれて居ると一つがこちらの柱の陰にかくれて待ちかまえて居る、そうすると前に飛び出したのがまた戻って来る、その出合頭(であいがしら)にバーッと云う様な様子で左足のチョッカイでおどりかかるところなどは人間の子供の遊びと少しもかわらない。
 食事の時などは膳へたかったり、うろつきまわってうるさい、追い飛ばしたってどうにもならない、そう云う時は断然桶伏(おけぶせ)の刑に処するのである。桶伏と云うのは二ツをまとめて有合せの笊(ざる)をかぶせその上へ重しの本をのせて置く、最初のうちはザルをがりがりかいたり敷物をむしったりしてミューミュー鳴くが、暫くすると観念して静まってしまう。やがてこっちが食事がすんで解放してやると、大てい二ツが重なりあってチョコナンとして居る。
 猫にあてがう食事としてはこちらの飯を分けてけずり節を少しかけてやる程度だが、魚類があれば少し分けてやる、生がかったメザシよりは干物の方を好んで食う、またあんパンなんどをつまんでやると飯よりはかえってよろこんで食う、いまの処肴(さかな)よりはかえってパンが好きらしい。あんパンもあんの部分だけは食わない、ビスケットなどは噛んでやればよろこんで食べる、この二ツのうち、三毛の雌の方が丈夫でトラの方が少し痺弱(ひよわ)いようだ、組打をしてもトラの方が押され気味で、いつもねわざに受けて居る。或晩このトラが、炬燵(こたつ)へ這(はい)って来て如何にも元気がない、やっと炬燵の上へ這い上ったところを見るとぺしゃんこになって、一枚と云いたいほど平べったくなってしまって居る。そこで驚いて牛乳の残りを飲ませなどして居ると、やがて元気は恢復したが三毛にくらべると影がうすい様だ――併し程経てこれは反対の現象を呈して来た。
 塾の成進寮の二階に鼠が横行して居る。白昼もばたばた横行している。夜になると家鳴震動して土を落しごみをおとす。どうも寝られない、弥之助は叱(しか)ったり、嚇(おど)したり物を投げたりして見ても中々しずまらない、二階の床板をはずして、鼠の侵入路をしらべて、防禦策を講じたが中々効がない、そうしているうちにこの仔猫が来たからこいつを一つ利用してやろうと天井の一角を押し破って、夜中にその角から天井の裏へ猫を押し上げて置いた、そうして、しばらくすると猫が下りたがってしきりに哀泣する、彼等の力ではそこから畳の上まで降りて来る事が出来ない、降り様としては躊躇(ちゅうちょ)してもの悲しい泣声をたてる、しばらくして雌の方はどうやら天井裏をぬけ出して家の裏をめぐって戻って来たが雄の方はやっとなげしまで降りてそこでうろうろしながらしきりに哀泣をつづけて居る、よってようやく取りおろしてやったが、覿面(てきめん)なものでその夜はさしもに荒れた鼠がガタとも云わない。実に餅屋は餅屋である。我々大の男が如何に猛威をふるって怒罵叱責してもその威力はこの仔猫が一分間の悲鳴哀泣に及ばない、ものには各々(おのおの)天分があるものだと云う事がつくづく思わせられる、それから以後、別々に母屋と寮との間に毎晩はなして寝かせて、鼠族鎮台の役を勤めさせることにした。
 斯(か)くてある中、一方に於ていよいよ野良猫の元兇退治の時が来た。
 或る寒い晩のこと、この野良猫が書庫に侵入している処を、それと知らずに弥之助が出入口を閉めきってしまった。退路を断たれた野良猫は周章狼狽(ろうばい)逃げまわる、よし心得たりと弥之助は徐(おもむ)ろにそれをとっつかまえる手段を講じ、それから笊(ざる)を楯にステッキを獲物にこの野良猫を相手に大格闘が始まるのである。相手は年功を経て野獣化したる家畜が絶体絶命の死物狂い、書庫と廊下と応接の間と寝室と食堂を追いつ換わしつ、その猛烈さ加減は確かに岩見重太郎の狒々(ひひ)退治以上の活劇であったが、さしもの猛獣も運の尽き、とうとう書斎の障子の細目の桟(さん)を半分くぐったが、後半が出ない、その後足を弥之助はむずと捕えたが、さて縛(しば)るべき何物も有り合さない。止むを得ず片手を以て自分の帯をほどいてその足をしかと柱へ結びつけて置いて、それから青年を呼んで処分にかかったが、障子にはさまれながら必死の狂暴ぶりには手の下し様がない。細引を持って来て遠廻しにゆわえて見たが恐しいもので麻の細引では幾本縛ってもがりがり噛み切ってしまう。止むを得ず針金を持って来て、やっとの事で結えた。
 そこへ例の欠食二つがやって来た。いや改めてこの場へやって来たのではない、最初から此処に居合せて侵人者のあったのを主人よりは先きに感づいて炬燵(こたつ)の傍(かたわら)でさっと身の毛をよだてて一方の隅を見込んだ形が今思い返して見ると佐賀の鍋島の奥女中連が怪猫の侵入に怯(おび)えた気分がある。二つの欠食をつかまえて、試しに怪猫の前へ突きつけて見ると、キジの方は遠く離れて縮み上って泡を吹いて前足を揃え毛を逆立てて怖ろしい表情をしたが、三毛の方は平ちゃらで、馴(な)れ馴れしく野良猫の足もとまで進んで行く、ああ危ない、噛み殺されはしないかと心配したが、野良猫は少しも危害を加えない。どちらも三毛同志である。野良猫は無宿者のくせに肥り返って毛並もつやつやしい。そこでこれは親子ではあるまいかと思った程である。全然出所が別だから、親子の血を引く筈は無いが、見ように依っては浪花節(なにわぶし)の何処かにありそうな、親子生別れの場面が展開された。
 それから野良の元兇は農舎へ引摺(ひきず)って行ってつないで置き、さて全く改心の見込無きものとして断然死刑に処してしまうか、或いは相当期間禁錮(きんこ)して、再び真猫に帰り得る見込有りや否(いな)やを試験するか、何にしても今日迄侵入と掠奪(りゃくだつ)に依りこの通り肥り返っている代物(しろもの)だから多少の窮命を与えたからとて早急に生命に異状はあるまい。しばらくこの農舎につないで鼠の番をさせて置く――そうして弥之助はまた東京へ出たが、二日ばかりして帰って見ると野良猫は昨晩死んでしまったと云うことである。二晩や三晩で参る筈は無い屈強さと見ていたのが、寒さにこごえたか、針金の緊縛で心臓でも痛めたか、脆(もろ)くも最期を遂げてしまった。
 思えば猫の一生もまた多事と云わなければならぬ。

       二十

 百姓弥之助は或日の事、植民地を出て多摩川の沿岸の方へと歩いて行って見た。昔に変るいちじるしいものは水道と水田であった。
 水道と云うのは多摩川の本流をここで分けて一方を玉川上水として、江戸以来東京へ引き、一方はそのまま東京湾へ落したものだが、昔はその分水も豊富であったが、東京の拡大するにつれ、今はもう殆(ほとん)ど全部を上水へ取入れてしまって、六郷の方へは殆ど一滴も落さないと云うしぼり方になって居る。それからそのあたりの水田も弥之助が子供の時代とは打って変って劃一の耕地整理が出来上って居る。以前はこの水田が甚だ不器用な区分で、田圃(たんぼ)としての面白味を充分に持ち、その間を流れる田川の如きも芹(せり)やその他の水草が青々として滾々(こんこん)と水の湧き口などが幾つも臍(へそ)のような面白い窪みをもくもくと湧き上げたものだが、今はそんな趣きはすっかり無くなってきちんとした掘割になってしまった。斯様な耕地整理によって年々若干石の収穫は増したであろうが、どんな造庭師にも出来ない田圃の面白味はすっかり無くなってしまった。上水の水道沿岸に於てもやっぱりその事は云える、江戸以来の玉川上水、日本第一の水道であったところのこの玉川上水は弥之助の少年時代は両岸から昼猶(なお)暗いところの樹木がかぶさって居たり、危うげな橋が渡されて居たり、掘割ではありながら自然その水路も底の見え透らない深さをもつところもあったり、なだらかな瀬となって流れるところもあったり、そうしてそれ等のものすごい淵(ふち)には幾つかの伝説が附着して居り、或は河童(かっぱ)が棲(す)んで居るとか、小豆洗婆(あずきあらいばば)あが出るとか、こんが引き込むとか云う云いつたえがそのままで受入られ、昼間通る弥之助の子供心をもおびえしめたものだが、今はそれがすっかり底を浚(さら)われて、深さもどこまでも平均され、両岸はコンクリートでつき固められ、全く人造掘割の平板な通水路にされてしまっている。この地方の河童と云うのも昔からどこの里にもありそうな御多聞にもれぬ伝説が残って居る、力自慢の或親爺が河童と薪の背負いくらべをしたとか、河童は人を川へ引きずり込んで肛門から手を差入れて臓腑を引き出して食ってしまうとか云う話を断えず聞かされていた、小豆洗婆あと云うのは堂崖(どうばけ)と云うのがあって、夜な夜なその川淵の暗い所でザックザックと小豆を洗い初めると云うので子供の時は夕方になるともうそのあたりは通れなかった。勇敢な男が正体をつき留め様としてそこへ行って見るとザックザックと云う音は足を進めるにつれて遠ざかって、とうとう音だけは絶えず聞えて居て、遂にその正体はつかむ事が出来ないでしまったと云う事だ。それを解釈するものは小豆洗婆あは即ち狸(たぬき)であって、あの小豆を洗う音は狸がその尻尾を水の中につき込んでザックザックとやるのである、人が行けばそれにつれて狸もまた先へ先へと尻尾を洗いながら逃げて行くのだなどと誠しやかに解釈する子供もあったが、勿論(もちろん)その正体は解らない、ただし狐や狸が人をばかすと云う伝説や実験談等は無数にあって一々それが肯定されていた。
 それからこんと云うのはどう云う字を宛てはめたらいいか解らないが、これは川や堀の流れの底の知れない最も深い淵に住んで居て通る人を見かけては淵の中へ引っ張り込んでしまうのである。どこの若い衆が夜遊び帰りにこんに引っ込まれたとか、どこの娘がこんに引き込まれたとか云ううわさを絶えず耳にして居たものだ、そうしてこんに引っ張られるものは大てい若い男女に限られて居た様だ、それ程こんのうわさは絶えなかったにかかわらず、こんと云う者の正体はだれの口からも具体化されて物語られたことはない、たとえば狐でも狸でもテンマルでもミコシ入道でも幽霊でもモモンガーでもカマイタチでもデーダラボッチでもそれぞれのグロが皆相当の形体を附与されて表現されるのに、このこんばかりは誰もどんな形をして居るか説明したものはなく、またこればっかりは探究心の強い子供もその正体を追究することなしに、ただこんが引くこんが引くと云う事だけで通されて居た、こんと云うのは或は「魂」と云う字を宛てはめたら近いのかとも思われる。そうしてその淵々の底の見え通らない青みを帯びた俗に「青んぶく」というすごい所にのみ棲(す)んで居て、その引っ張り込む者が重に若い男女であるところを見るとこれは身投げとか心中とかいうものではなかったかと思われる。今時は川底も平均して、人間が飛び込んでも沈みきるような処は稀(まれ)であるからそう云うグロも全く棲家を失ってしまったらしいけれ共、そう云う不自然の中の自然な風景も伝説も同時に全く消滅してしまった。もし明朗という意味がそういう風に平板に人間の利便だけを標準として軽く浅くなるという意味ならば明朗は安っぽいものだ、そうして斯様(かよう)に明朗化され平板化された進歩というもののうちに住民の生活が内外共にどれ丈向上したかと思えば、それは殆ど何もない。失う所が多くて得る所が絶無のようにしか百姓弥之助には思われない。

       二十一

 それは成程、弥之助が子供の時分――に比べると、外形の生活の変化は、何かと異常なものが無いではない。
 今から丁度四十年の昔、百姓弥之助が、まだ十四歳の少年の頃、東京の本郷から十三里の道を、徒歩で立ち帰ったことがある、初夏の頃であったと思うが、紺飛白(こんがすり)の筒袖を着て、古い半靴を穿(は)いて東京を出て来た、湯島天神の石段を上りきって、第二の故郷の東京から第一の故郷へ帰る心持、丁度、唐詩にある「卻望并州是故郷」の感じで見返ったことを覚えている、それから今の高円寺荻窪辺、所謂(いわゆる)杉並村あたりから、北多摩の小平(こだいら)村附近へ来ると、靴ずれがし出して来たので、その半靴を脱いで杖の先きにブラ下げて、肩にかついで歩いたが、そうすると村の子供連が弥之助の前後に群がり集って、
「あれ、靴!」
「あれ、靴!」
と云って、驚異しながら、ぞろぞろついて来たものだ。今は、その辺は、もう文化住宅が軒を並べて、中央線利用のインテリ君やサラ氏が東京の中心へ毎日通勤するようになった。
 弥之助の植民地のある本村は、前に云う通り東京の中心地から僅かに十二三里の地点だが、弥之助の小学校時代には、自転車というものが一年のうち数える程しか通らず、たまたまそれが校門の外を通過することでもあろうものなら、
「それ、自転車!」
と云って、学童が遊戯を抛って校門の杭(くい)に首を突き並べて騒いだものだ、今日では、いかなる貧農でも自転車の一輛や二輛備えていない家は無い。
 交通機関について云って見ると、今の中央線が甲武鉄道と云って、飯田町から八王子までしか開通していなかった。
 そこで、この地方の人は汽車の便を借りて他方へ行くには、甲武線の一駅立川まで徒歩か或いは人力車によらなければならなかった。
 甲武線――飯田町八王子間の開通が明治二十二年八月ということであって、その沿線立川駅から分岐して青梅(おうめ)鉄道という軽便が出来たのは明治二十七年の十一月ということである、丁度日清戦争の最中であって、百姓弥之助はその時漸く十歳であった。日清戦争というものが如何に当時の少国民の愛国心を鼓舞したかということは別の思い出になるが、鉄道がいよいよこの村へ引かれて来るというこの地方の交通革命時代も異様なセンセーションを以て少年の頭にもひびいて来た。
「こんだ、汽車というものがいよいよこっちへ引かれて来るとよ、汽車というものは恐ろしく速いもので電信柱と電信柱の間を目(ま)ばたきをする間に通ってしまうとよ、一丁位先きへ来てもソレ! という間に逃げてしまわなければ轢(ひ)き殺されるから、何でも線路へ寄ってはいけねえぞ」
といってあいいましめて恐れたものだ。後でいよいよ汽車が通った処を見ると、予想程速いものではない、ということは分ったが、少年時代には汽車の速さを魔法的に考えて居たものだ。しかしこれは少年の誇張された恐怖心から起った想像説ではなく、少年の恐怖心を誇張的に刺戟して列車の危険区域から遠ざからしめようとする工事者の政略的宣伝から出たのではないかと思われる。
 鉄道の開通という事は、単に少年の好奇心を刺戟したのみではない、地方一般の人心を聳(そび)えしめるものが少くはなかった。
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