百姓弥之助の話
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著者名:中里介山 

 第一冊の序文

 人間世界第一の長篇小説「大菩薩峠」の著者は今回また新たなる長篇小説「百姓弥之助の話」を人間世界に出す。
「百姓弥之助」は日本帝国の忠実なる一平民に過ぎない、全く忠実なる一平民以上でも無ければ以下でもない、この男は日本の国に於て義務教育程度の学校教育だけは与えられている、それ以上の学校教育なるものの恩恵は与えられていない、貧乏と、貧乏から来る内外の体験は厭というほど嘗(な)めさせられているけれども、社会的に人外の差別待遇を蒙るほどの悪視酷遇は受けていない、宗教的には極重罪悪下々凡々の一肉塊に過ぎないが、法律的には未だ前科の極印を打たれた覚えも無い、どうやら人の厄介にならず生きて行けるだけで、人の為に尽そうとしても尽し得る余力が無いのは遺憾きわまりが無いが、如何とも致し難い、官禄の一銭も身に受けていないし、名誉職の一端を荷うほどの器量も無い、ただ一町歩の畑と一町五畝の山林の所有者で、百姓としては珍しく書を読むことと、正道に物を視るだけが取柄である。
「百姓弥之助の話」はこの男が、僅かに一町歩の天地の間から見た森羅万象の記録である、これこそ真に「葭(よし)の蕊(ずい)から天上のぞく」小説中の小説、囈語中の囈語と云わなければなるまい。「大菩薩峠」は、材を日本の幕末維新の時代に取った一つのロマンスであるとすれば、この「百姓弥之助の話」は、日支事変という歴史的空前の難局の間に粟粒の如く置かれた百姓弥之助の、現実に徹した生活記録とも云えるけれども、要するに小説中の小説であり囈語中の囈語であることは、重ねて多言を要しない。
 自ら筆を執って書いた処もあれば、そうで無いところもあるが、要するに文字上の責任は、百姓弥之助の唯一無二の親友たる介山居士が背負って立ち、出版の方も同氏が一肌ぬいで呉れることになり、隣人社の諸君のお骨折によって、今後、一年に数冊――ずつを、新聞雑誌によらず、この形式で処女単行として世に出し得られる仕組みになっている。偏(ひとえ)に御賛成を願いたいものである。

神武紀元二千五百九十八年
西暦千九百三十八年
昭和十三年
  春のお彼岸の日
百姓弥之助 敬白[#改段]


 第一冊 植民地の巻


       一

 百姓弥之助(ひゃくしょうやのすけ)は、武蔵野の中に立っている三階艶消(つやけし)ガラスの窓を開いて、ずっと外を見まわした。いつも見飽(みあ)きている景色だが、きょうはまた馬鹿に美しいと思った。
 秩父(ちちぶ)連山雄脈、武蔵アルプスが西方に高く聳(そび)えて、その背後に夕映の空が金色にかがやいている、それから東南へ山も森も関東の平野には今ぞ秋が酣(たけなわ)である、弥之助のいる建物は武蔵野の西端の広っぱの一戸建の構えになっている。南に向いている弥之助の眼の前は畑を通して一帯の雑木林が続いて、櫟(くぬぎ)楢(なら)を主とする林木が赤に黄に彩られている、色彩美しいと云わなければならぬ。その雑木林から崖になっている多摩川沿いに至るまでの間がここの本村になっている、東西は一里、南北は五町乃至(ないし)十町位のものだろう。そこで多摩川を一つ越すと、それが前にいった通り秩父山脈の余波が、ほぼ平均した高さを以て何里となく東へ足を伸ばしている、だから百姓弥之助の建物のある地盤から見ると「ここは高原の感じがする、山を下に見る」といって山住居(やまずまい)をしていた或る学者が来て、不思議そうに眺めたことがある。無論高原というほどの地点ではない、武蔵野の一角に過ぎないが、例の秩父山脈の余波の山脚が没入している山の裾(すそ)よりも原野が高くなっているところを見ると、成るほど薬研(やげん)のような山谷から来た人の眼には高原と云った感じがするかも知れない。
 さて、百姓弥之助はいつも見飽きているこの植民地のような風景が、今日はバカに美しいと感じながら、暫(しばら)くボンヤリと眺めていると、崖下の本村の方から楽隊の音が聞こえ出してゾロゾロと人が登って来る、続いて軍歌の音が送り出されて来る。
天に代りて不義を討(う)つ
忠勇無双の我が兵は
歓呼の声に送られて
今ぞいで立つ父母の国
…………
 続いて笹付の青竹に旗幟(はたのぼり)の幾流が続々と繰り出されて来る、村から停車場へと行くこの道は、早くも蜿蜒(えんえん)たる行列が曳(ひ)き栄えられて来た。
 百姓弥之助は、その光景をじっと見て吾(われ)に返った。
「また、きょうも出征者だな、家の若い者は誰か見送りに出たかな」
と思いながら、立ちつくしていると、聞くとはなしに軍歌の声が耳に流れ込む、そのうちに彼はなんとなしに自分が幼少時代に見慣れたお葬式の行列のことを思い出した。今から四十年ばかり昔の事だから、もうこの村でもああいった葬式のやり方は廃(すた)れてしまっているだろうが、弥之助は思わずその昔の風俗を思い出したのである。

       二

 この辺の寺は大抵禅宗寺になっている。本村に三つ寺があるが、何れも禅宗で、妙心派と建長寺派とに分れている。弥之助の子供の時分にはこの妙心派のお寺が近い隣地にあったものだからよくお葬式の行列を見たり、また納棺最後まで態々(わざわざ)見届けに行った覚えがある。その時分は火葬ということは無かったから、みんな土葬で棺(ひつぎ)は三尺程高い箱棺で、それに蓮台(れんだい)と天蓋(てんがい)とはお寺に備えつけのものを借りて来て、天蓋には白紙を張り、それに銀紙で卍(まんじ)をきざんで張りつけ、蓮台は白木のままの古びた極くお粗末なものであった、そうして、その棺を担(かつ)ぐのはその庭場庭場の年番の廻持ちでたしか六人位ずつの人足を出していた、穴掘りもそれ等のものがやり、棺を担ぐのもやはりそれ等のものがやったと覚えている。
 愈々(いよいよ)坊さんの読経も済んで、その家から棺が繰り出す、前後にはそれ相当の紋付、羽織、袴(はかま)、女は幾代も幾代も相伝の白無垢(しろむく)を借着をしたりなんぞして、それぞれ位牌を持ち線香立を持ち、白木のお膳などを持って棺の前後に附き添うと、その周囲には親類だの庭場中の会葬者だのがぞろぞろとついて行くのであった。それからまだ棺の前後には小さな天蓋だの、竜の頭だの仏の名を書いた旗だのというものもつき添っていた。愈々(いよいよ)この葬列が繰り出すと、同時に棺舁(かんか)きの六人ばかりの口から念仏の声が前後相呼応して高らかに称(とな)え出される。
なあーんまいだんぶつ
なあーんまいだんぶつ
 この称名に送られて寺から墓地へと進むのであった、このなあーんまいだんぶつの音律にはおのずから一定した節があって決して出鱈目(でたらめ)ではなかった。どうも一寸は真似が出来ないが、あれを遠くで聞いていると、弥之助の幼な心は何となく無常の感じにおそわれて、死出の山路をそろりそろりと人魂(ひとだま)が歩んで行くような気持がさせられた。
 今出征兵を送る一行を見て、弥之助は四十何年も昔の葬式の事が何となしに思い出されて来た。あれとこれとは決して性質を同じゅうするものではないが、ただ、聯想だけがそこへ連なって来た、勇ましい軍歌の声が停車場に近い桑畑の中から聞えて来る。
勝たずば生きて還(かえ)らじと
誓う心の勇ましさ
或は草に伏しかくれ
或は――
 それを聞くと、昔のなあーんまいだんぶつ――が流れ込んで、高く登る幾流の旗を見やると、
「生き葬い!」
 斯(こ)ういう気持ちが犇々(ひしひし)として魂を吹いて来た。

       三

 この村でも、最早毎日のように出征兵が送られて、二十人以上にも達している。
 上海(シャンハイ)に於て戦死者が一人、負傷者が一人、出たとの事である、それから、この村の人ではないが先程まで、この村で小学校の教鞭をとっていた青年教師が一人これも上海で戦死したそうだ。
 弥之助がついこの間、この畑道から散歩のついでに村の小学校の庭へ入り込んだ事がある。丁度放課時間で子供達が遊戯をしたり、試作園の中で土いじりをしたりしている中を通り抜けて行こうとすると、教室の廊下の中からちょっき姿の若い教師が現われて、なつかしそうに弥之助の傍へ寄って来て、
「百姓先生ではありませんか」
と呼びかけて来た、そこで弥之助も挨拶をすると、その青年教師は弥之助の著書のことから話を切り出して、自分は室町時代の赤松家の後裔(こうえい)の者であるということを名乗って、赤松家の系図などについて立話しながら、要領のある話をしたことを覚えている。
 この頃聞くと、その教師が最早上海戦の犠牲となってこの世に亡き数に入ってしまったとの事である。実に信ぜられないほどあっけない思いがした。
 弥之助はこの日本の国に生れて今日まで三度出征兵を送り迎えの経験を持っている。
 最初の時は明治二十七八年(西暦一八九四)の日清戦争の時で、その時分はまだ弥之助は九歳か十歳であった、それから第二が明治三十七八年(西暦一九〇四)の時で、彼はその時丁度徴兵検査であった。その時分の彼は東京へ出て所謂(いわゆる)苦学ということをしていたが、徴兵検査はこの村へ立帰ってこの地の郡役所で受けた。当時の彼は瘠(や)せこけて体量十一貫位であったが、検査の結果は皮膚脆弱というようなことで、乙種の不合格であったと覚えている、然(しか)し戦争が長びけばどうなるか知れないというような噂さは聞いていたものである。それから以来、彼は軍籍には何等の関係の無い身ではあるが、その都度都度の軍国気分というものは可なり深刻に味わされていたものである、が、この度の日支事変に遭って見るとずっと年もとっているし、その立場に於ても甚(はなは)だ変ったものが多い。

       四

 つい、この夏、弥之助は信州の高原地で暫(しばら)くの間暮した。
 彼は少年時代には相当に肥った丈夫な子供であったが、青年時代は色々の苦しい生活に遭(あ)って非常に健康を害してしまったが、その後修養につとめたせいか、また健康を取り戻し、寒暑共に余り頓着はしなかったが、漸(ようや)く老境に入りかけたせいか近来は夏がなかなか苦しい、殊に暑さと蚊(か)に攻められて著作をするというようなことは気が焦(じ)れてたまらない、それでこの頃から高原地へ安居を求める気になったのである、武州の八王子から上州の高崎まで八高線という田舎(いなか)鉄道が近頃出来上った、この村から汽車で高原地へ行く場合には、この線路をとるのが一番都合がよい、この程、この田舎鉄道の中で、高崎の聯隊へ召集される兵士の幾人かと乗り合せたことがあった、至る処の駅で前に云ったような盛んな送別の行列であった、こんどの召集された兵達は皆相当の年配であって、年は三十五六前後、何れも妻があり子供の二三人もあり、それからそれぞれ一家の業にいそしんでいる人達であった。斯ういう人達が駅から駅へと数を加えて五六名ばかり弥之助の隣りの席で固まって話し出した、何れも初対面の人達ではあるけれども、話し合っている間にトテモ親密な間になってしまったのも無理は無い、死なば諸共(もろとも)という気分が、こういう場合ほど濃(こま)やかに湧(わ)き立つ時はあるまい、年功を経た応召兵達の胸を打割った正直な述懐を聞くことが出来た、この辺の本当の土着の農夫としての一人は「もうこれだけにして貰(もら)えば思い置くことはない」といって、正直に感動をしているが、或る技術学校の教師をしていた人だの、東京の下町で然るべき炭薪屋をしながら社大党に属して日頃注意を受けていた人だの、そういう人はかなり立入って自己批判をした、然し、斯(こ)ういう本当の土着の農民もインテリ性を帯びた都会からの帰還入営者も、何等の不平なく国の為に殉じて行くその従順な姿を見ると、日本国民は全く世界無類の忠良な国民だと涙を呑まざるを得なかった。
 それと同時に、斯ういう忠良無比なる国民、妻もあり子もあり、世帯もあり分別もあるこの国の中堅の良民を召集して「好鉄ハ釘トナラズ、好漢ハ兵ニ当ラズ」という伝統の支那兵の鉄砲の前へ肉弾に送ることに於て、当路の責任者は最も深刻にこの国と人を誤らせてはならないという感じを弥之助は犇々(ひしひし)と胸に焼きつけられた。
 あれからもう三カ月目になる、あの人達は北支か上海かどちらか知らない、今頃はどうなっているか。

       五

 百姓弥之助が、どうしてこの武蔵野の殖民地に住んでいるかということを一通り書いて見ると、彼は今年もう五十二歳になったのである、生れは矢張りこの村の一部で、幼少時代はさのみ貧乏というわけではない、まず中農階級の上等の方にいたものであるが、彼の父が失敗続きで非常なる苦境に陥ってその中で七人の兄弟と共に育ったものだから、云うに云われない生活の苦しみを味っている。
 だが、弥之助は少年時代から読書が好きでどうかして東京へ出たいと思った、十四の時やっと小学校を終えると無理矢理に東京へ出て、それから有(あら)ゆる苦しみをしてとうとうそれ以上の学校へは入ることが出来なかったが、そのうち独力で或る一つの発明をして、それが世間に喧伝されその発明が世界的の発明であるというような意味から彼自身もパテントによって相当の産をなして今はその郷里のこの新館に来ている、まだ隠居という年ではないし、東京にも相当の根拠地を持ってはいるけれども目下の処は斯うして植民地に来ていることが多い。
 植民地というのは、かりにそう名づけたこの土地の事で、従来父から僅かばかり残されていた地所があって、それを買い足して全体では三四千坪になっている。ここ七八年来、そのうちの一部にいろいろの建物を十棟ばかり建てて、その他は耕地に使用されている、小作に貸してあるのではない。
 弥之助は感ずるところあって、万事農から出直さなければならないという観念の下に今これだけの地所と別に一町歩あまりの山林とを基礎として小農業の経営を試みてから、これでまだ二年目である。
 弥之助はガラス窓を閉めて三階から降りると、もうあたりは黄昏(たそがれ)の色が流れていた。それから本館を出て赤塗の古風な門をくぐって、農舎の方へ行って見ると、そこで自家用の木炭製造の炭竈(すみがま)が調子よく煙を吐いていた。
 やがて冬が来る、武蔵野の冬の空(から)ッ風は寒い。殊にここは植民地で吹きさらしだ。家にいる青年達にも防寒の用意をさせなければならない、そもそもこの植民地同様のところから出立して、一つ出来るだけ自給自足で行って見ての上の話である。自給自足が最後のものではないけれども、自給自足から出立というのが彼のこの植民地の要(かなめ)となっている。
 そこで、燃料の自給ということから木炭の自家用供給を試みた、試作の順序は良好で、土落ちの加減も煙吸きの調子も甚だ悪くない。だが、かんじんの中味の炭の出来栄(できば)えが、どういうものかそれは二三日たって見ないとわからない。

       六

 普通木炭を焼くには一定の炭竈を築いてする一定の方法がある、が、弥之助がはじめたのはそういう本格的のやり方でなく、軽便実用を主とした即成式のものであった。
 この春、弥之助はその地方の農林学校を訪れて教師が校庭で速成炭焼を試験しているのを見て、仔細にその仕方を尋ねて来た、というのはこの地方では不相変(あいかわらず)囲炉裡(いろり)で焚火(たきび)をやっているが、それは燃料の経済からいっても、住居の構造と衛生からいっても損するところが多いものだ、それに薪(まき)の材料も年々不足して来るし、そうかといって、農家の力では木炭を買って使いきれない。
 ところがここに桑の木というものがある。養蚕(ようさん)の事が近来、めっきり衰えて桑園を作畑に復旧する数も少なくない。新百姓としての弥之助は、附近の桑園を買い取って、これを耕地にする為に何千本もの桑の株を掘り返して持っている、この桑の株は大抵七八年の歳月を経ているが、枝を刈り取り刈り取りするものだから、丈(た)けは僅か二三尺に過ぎない、が年功は相当に経ているだけに、薪にすると火持がよい、併し、これを炭に焼けば一層結構なものになると、かねがねそれを心掛けていたが、最近の農業雑誌を見ると、その方法が書いてある、よって、塾の青年に、その事を云いつけて置いたところへ、農林の生徒がやって来て、昨日、それを実行した。
 先ず、幅三尺、長さ二間ばかりの薬研式の浅い穴を掘って、それに藁(わら)を敷き込み、その上へ上へと桑材を山盛りにして、隙間へは藁を詰め込んで上面一帯に土を盛りかぶせ、一方の口から火を焚きつけて、団扇(うちわ)やとうみで盛んに煽(あお)った、斯くて一昼夜ほどすると、一方の風入口が火を吹き出した時分に、それを塞いで蒸す、という段取りである。
 どうやら調子よく行っている、この分なら相当の炭が得られそうな気持がする、消炭に毛が生えた程度でも我慢する、相当立派なものが出来れば、この冬は炭を買わないで間に合う、併せて、この方法を附近の農家に流行(はや)らせてもいい。
 それを見届けた上で弥之助は、豚舎と鶏舎を見廻った。豚は四頭飼っている、鶏は十羽いる、豚の発育は皆上等と云って宜(よろ)しい、食物の食いっぷりが極めて良(よろ)しい、豚というやつは食う事の為にだけ生きているとしか思われない、食う事の為に生きて、食われる事の為に死ぬ。彼に於ては生も死も本望かも知れない、最初に経営を任せたある坊さんが施設した豚飼養の計画は農家経済として間違った着眼ではない、収益率の極めて乏しい農家の副業として豚の飼養は相当有利なものである。この頃聞くと、つぶし豚に売って、一貫目一円九十五銭――までになったそうだ、約二円である、で、一頭の豚をこの辺では二十貫程度にして売り出す、少し丹精すれば三十貫にはなるから、五頭も飼うと有力な一家経済の足しにはなる。
 鶏もこの頃漸く卵を産みはじめた。少なくも資本だけは取り上げなければならない、と百姓弥之助は考えた、百姓弥之助の農業はまだ投資時代だが、やり出した以上はお道楽であってはならない、美的百姓だけで甘んじていてはならない、早く独立自給だけにして見なければ冥利(みょうり)にそむくと弥之助は考えている。

       七

 弥之助は、健康の転換の為に熱海の温泉へ出掛けた、弥之助の少年時代は仲々健康児の方で、手首等は自分の指で握りきれない太さを持って居たが、東京へ出て苦学と云う事をしたり家庭を背負って生活戦線に疲れたりしたものだから、甚だしく健康をそこねて二十歳前後一時は絶望とまで思われたのに、努力によって三十歳の後半からまた健康を取り直し今では二十貫の体量になっているが、いずれにしても一度きずついた体であるから自重する念が深い、そこで冬はなるべく温い土地で暮したいと思うがまだ別荘を持つまでに至らない、熱海と云う所は昔から好きな所であった、今から三十年ばかり前に逗留保養したことまである温泉だが、大震災以後土地の気分がこわれた上に鉄道が開通し自動車の世の中になってからは町全体が昔の様な潤(うるお)いが欠けてしまった感じがする。
 しかし避寒を兼ねての東京へ一番近い養生地と云えばこの地に越した所はないので弥之助は冬はしばしば此処(ここ)へやって来る。
 今日もまた海岸の中流処の宿屋に陣取って二日ばかり保養した、海岸は波の音がよもすがらやかましいけれど、此所(ここ)には「河原の湯」と云う名湯がある、弥之助はこの湯が好きなので宿の内湯等は二の次にして此所であたたまる事を楽しんで居た、河原の湯は昔とは違って改造され、一浴五銭ずつ取って大きな共同風呂になって居る、その熱度と新鮮味とが他の何所の湯よりも肌に爽(さわやか)である。
 弥之助は此所で二日ばかり保養した後、東京へ取って返した。枝付きの蜜柑(みかん)を買い込んで土産(みやげ)とし、三等客として空席の一つを占めたが向合いに黒いとんび外套(がいとう)を着た相当品格のあるお爺(じい)さんが一人居た、汽車が小田原を過ぎた時分にこのお爺さんは首を伸ばして、
「小田原城はどの辺になりますか」
と弥之助に向って尋ねた。
 窓の左の方をながめた弥之助が、
「あの黒い森のあたりが一帯にそうです」
 老人がそれを眺めて、
「仲々広いものですな」
 弥之助がまたそれに調子を合せて、
「仲々広いです、しかし北条氏時代の小田原城はまだまだ何倍も広かったでしょう、なんしろあの中へ北条氏が関八州の強者(つわもの)八万騎を入れて八カ月を持ちこたえ、太閤が天下の兵二十万を以てこれを囲んだと云うのですから、徳川氏になってからの小田原城とは規模がちがいましょう」
と弥之助はやや啓蒙的に説明を試みると老人は予想以上に歴史に理解があって次の様に答えた。
「そうです、小田原勢もえらかったが太閤の軍略も素晴らしい、太閤と云う人は戦(いくさ)も上手だったが、軍略にかけてはさすがに日本一でした、小田原城にしてもああして大軍は動かしたけれども殆ど兵は殺していないです、無理な力攻めは決してしない人でした、或る点まで戦をしてそれからは軍略で大勢を制して大局の勝を取ると云う事にかけては全く古今独歩の英雄でしたねえ」
 弥之助はこの老人の理解に尊敬の念を起して彼の対話もまたはずんで来た。
「その通りです、戦をさせたら家康の方に強味があるにしてからが、やっぱり最後にはあれを包容してしまいました、なるべく兵をいためずに大局を制すると云う点はえらいものですよ、あすこが武田でも上杉でも誰でも及ばないところです、天下を取るのは力ずくだけでは駄目です、略でいかなければ」
 老人もまた弥之助の言葉にぴったりと意気が合うので、
「ところが欧羅巴(ヨーロッパ)の大戦争をはじめ近頃の戦争と云うものは……」
 老人は近代戦争の兵器と人間との全面的衝突の恐るべき事を説いて「戦争に軍略と云うものがなくなった」と云う事を非道(ひど)く慨歎して居た。
 それから二人の会話が何時しか西郷と勝の江戸城ゆずり渡しの事に及んで来た。
 考えて見ると、西郷も勝も偉かったものだ、維新の開幕は必ずしも二人だけがうった大芝居ではない、内外の情勢殊に英国公使あたりのにらみも大分きいて居たと云う事だが、然し何と云ってもあの場は二人の舞台である、もしかりにあの二人の大芝居がうちきれないで江戸の城下が火になると云う事になれば、東北の強みはぐんと増して来る、それから所在佐幕に同情を持つ諸藩の向背ががらりと変って来る、日本がまた元亀、天正以前の状態になる、幸に新政府が成立したからと云って、その政治の奔命に疲らされて革新の精力などは消磨されてしまう、そこへ外国の勢力が割込むと云う様な事になった日には維新の事業どころではない、国そのものが半属国のような運命に落込まないとは限らない、西郷と勝の二人ばかりが千両役者ではない、明治の維新と云うものは有ゆる方面の力によって達成されたには相違ないけれども、人物が、少くともあの場合この二人の立役者が人命を救い国の運命を救った、エライ人物が出ると云うことは或意味では国の不祥と云えるかも知れない、然し人物が無い為に国を誤るの不祥はそれより以上の不幸と云わなければならない。ドイツにヒットラーが出たりイタリーにムッソリーニが出たりして乱れた国家を統制しこれを活躍せしむる外観はすばらしいが、ああ云う人物を生み、ああまでしなければ立ち行かなくしたヨーロッパ大戦以来の惨憺たる不幸を見れば、いたずらに英雄待望ばかりをして居られない、今の日本に西郷隆盛が居ない、支那に勝海舟(かつかいしゅう)が居ない――と云う事が二つの国民の為に幸か不幸か。
 と云う様な事を弥之助は老人と共に語りあった、弥之助だけがそう云う考えを説いて聞かせたのではない、この老人も立派に弥之助とバツを合せるだけの見識を持って居た。
 老人は品川で山の手線に乗り替えて新宿の方へ別れた、弥之助は東京駅まで乗った。

       八

 それから植民地に帰って数日して弥之助はまた東京へ出かけて来た。
 それは午後の四時頃であった、中央線の電車は満員鮨詰(すしづめ)であってその大部分は学生であった。この頃はたまにしか電車に乗る事のない弥之助はこの箱の中に積み込まれて見ると、
「人が多いなあ」と云う感じにせまられる、人間が多過ぎるなあ、一たいこんなに多くの人間が必要なのかしら――とやけの様に考えさせられる事がある。殊に東京市内から中央沿線に多くの学校が移されたところから、或る時刻になるとここの列車が学生であふれる。ここの沿線ばかりではない、弥之助の植民地の方へ行く私設の沿線でさえも学生であふれかえる。日本には人間の数も多いが学生の数も多いなあとあきれ返るばかりである。
 弥之助の植民地の本村などでも昔は、小学校以上の学校へ通うものが一村のうちで一人か二人位のものであった。まして女の子に至っては尋常科四年生を卒業すれば充分だと云われたものであるが、今はもうちょっとしたところの農家でも女学校を出さなければ嫁入資格に欠けると云う様な事になっている。
 どちらから見ても日本は人間がどしどしふえて行く、教育がずんずんはびこって行く、建築でも道路でもどしどし強化拡張されて行く、非常時の、農村疲弊のと云うけれども、そう云う都会中心の景気を表面から見ただけでは、すばらしい発展である。
 そのうちに席が一つ空いたから弥之助は其処(そこ)へ割り込むと、ひょっこりその前へ現われた背広服の青年が、うやうやしくあいさつした。
「先生どちらへお出でですか」
「やあ小山君か」
と云うのをきっかけに二人はそこで立話をした、この青年は去年上野の美術学校を出た秀才でかっぷくのいい形をして居た。
「どうです、君なんぞは兵隊の方は」
と尋ねると、青年は答えた。
「覚悟はして居ますけれどもまだ召集がありません、私達の同窓にはすでに召集されて出征した人もあり戦死者もあります、美術出身でもう十五名は召集されて居りますが、その内五名は戦死と云うことが解りました。僕の親友であったSと云う青年が、校中の人望家でもあったし人物も立派で気象も秀(すぐ)れて居て柔道も三段でありましたが、上海でとうとうやられてしまいました、しかもその男は同郷の資産家の一ツブ種です、僕の様な次男坊でどうでもいい人間は無事健在でああ云う人間がやられるのだから感慨に堪えません」
と小山青年が云った。弥之助はそれを聞いて、
「うーん」
と口を結んだ、いま、日本の内地へは爆弾一つ落っこちて来るのではない、実感的に何等驚破される非常時現象が眼の前に展開されている訳ではない、こうして平和そのものの秋の夕ぐれの武蔵野の中を走る電車は明朗な青年たちで張り切って居る、然し彼等とても全く米の価を知らずに、ただ食いただ肥って居るだけではない、美校出身だけでも十五、六、七名の出征者のうちに死者五名と云う事であれば少なくとも三分の一が死んで居るのである。
 肉弾、肉弾、全国を通じての肉弾の貴重すべき犠牲は外で戦われて居るから内なる人の日本人の実感にこたえる事が甚だすくないのではないか。日本現在を斯くも安らかにしているのは、皆、外に戦っている肉弾のお蔭である。

       九

 弥之助は植民地から東京へ往復するに国産小型自動車を用いて居る。
 自動車では相当に苦労したものである、あえて贅沢(ぜいたく)のために自動車を欲しがるものではない、自分の健康上と業務の上との両方面から経済的にこれを利用し度いとの希望の為に、二台まで中古自動車を買ったが、皆失敗した。
 その一つはダッチブラザーの古物であったがこれは旧式ではあるが中々機械の質がよく少々利用して東海道、東山道など突破した事もあるが、長く続かなかった、部分品や修繕に中々金がかかるのと正式運転手を一人やとい入れるのとではかなりの大負担になる、そこで世話をした自動車屋が、営業上に籍を置いて呉れて必要の時だけ乗りまわす事にしたが、万事につけて出費が多くてものにならなかった。
 そのうちに一人の青年が来て私立大学に通う学資を得る為に運転手をし度(た)い、幸い、自分は免許状を持って居ると云う事を申出て来たからその話に乗り込んで中古のシボレー一台を買い込み、営業用に登録し必要の時はこちらが乗ると云う事に約束をきめてかかったが、営業用にかせがせれば車体が甚(はなは)だしく痛むと云う事を頭に置かなかったものだから修繕費修繕費に追われてしまう、遂には腹が立って捨値に売り飛ばしてしまった。
 自家用専門に本式自動車を持つとすれば税金だけでも年額五百円はかかる、それに運転手の給料その他を加えると容易なものではない。そこで一先ず自動車とは縁を絶ったが何分不便でたまらない、然るべき専用乗物が欲しいと考えて居るうち、或る朝日本橋の昭和通りを歩くと店にマツダ号という三輪自動車が一台かざられてあった、割合安いからそれを買い取って小型運転手を一人やとって、これは可なり乗り廻したが、発火が容易でなく、ガソリンも食う、不便不満を忍んでそれを乗り廻して居るうちに、日産のダットサンが出現して来た、これは今の処自分の自家用としては丁度手頃のものであると云うところから早速これを買い入れたのであるが、前の三輪車からくらべるとこれでも殿様で、ただ形が小さいだけで万事本式の自動車とかわる事はない、それに運転証はだれでも簡単にとれる小型運転手の免許状でいいし道路は自転車の入り得るところならどこへでも行けるし、そうしておまけに税金も自転車なみと云うような訳で、すべてが現在の自分にはぴったりして居るからこれは引きつづいて愛用し、一年余にして新車と買い替えて引続き今日に及んで居る、これに依って非常な遠乗もやるし植民地から自分を乗せて東京に運ぶばかりではない、出版物や活字、組版等を乗せて往復する、その功労たるや至大なものである、これがあればこそ弥之助は東京を仕事場として植民地に引込んで居られるのである、弥之助の現在の仕事は、小型自動車の足を別にしては考えられない程密接な働きをして居る。
 弥之助としてはダットサンに金鵄勲章(きんしくんしょう)を授けて然る可(べ)き関係になっては居るが、然しこの車にも不足を云えば不足がある、英国の小型オースチンはまだ使用した事はないが、あれ等にくらべるとその耐久性に於て大いに劣るところがある様に思われる、この小型自動車が大いに発展して一台千円位で買えるようになれば実用流行共に期して待つ可きである。
 百姓弥之助は昔から自動車を贅沢品(ぜいたくひん)とは考えて居ない、行く行く実用品として各戸一台は備えねばならぬ様な時代が来るものだと思って居る。

       十

 百姓弥之助は十二月初めの或る一日、用事を兼ねて、東京の市中を少々ばかり歩いて見た。
 日本橋の三越のところから地下鉄に乗って、上野の広小路松坂屋へ行って、「非常時国産愛用廃品更生展覧会」という素晴らしく大げさな催しを見に行った。これは日本商工会議所というところの主催であるそうだが、題名のいかめしい割合に内容はお粗末なといっていいものである。一旦使用した廃物を再生したと称する日用品の陳列が相当ある、係員が不親切な為にどうも会の趣意が徹底しない、例えば、出来上った製作品をなぜ即売しないかと問えば、これはただ斯ういうものが出来るという見本だけだという、それでは廃品更生の宣伝にならないではないか、希望者に分けてやって、斯ういう廃物で斯ういうものが出来るということを見直させ、流行させるようにしなければ徹底しないではないか、というと、事務員が、
「これは素人(しろうと)には出来ません、素人がこれだけやるには七八年も年期を入れなければ出来ません」という。
「それではなんにもならない、七八年も年期を入れなければ出来ないものを拵(こしら)えさせるのでは、利用更生にならない、誰にも出来るようなもの、田舎へ持って行っても、家庭でも土地の仕立屋でもやれるようなものでなければ徹底しない筈である」
ということを弥之助が鋭く言うたので、あたりの人は怒鳴りつけたかと思った、事務員も沈黙してしまったが、要するにああいうものは斯ういう廃品もやり方によっては斯ういう安い費用で、斯ういう重宝なものが出来る、希望者には実費で頒(わか)ちますから見本としてお持ち帰り下さいというようにしなければ会の性質が分らない。入場者に対しても甚だ不親切といわなければならない。
 店を出て御成(おなり)街道をずんずん須田町方面へと歩いて見た、町並みは少し変っているが、口入屋があったり、黒焼屋があったり、錦絵和本類屋があったりするところにまだ明治時代の御成道気分が残っている、万世橋へ来て見ると昔の柳原通り、明治以来の名残(なご)り、古着屋が相当軒を並べている、店の先へ出張って客引をつとめるやり方は以前と変らない、電車通りへ出ると、東京着物市場がある、所謂(いわゆる)柳原通りは洋服屋だが、この市場は和服を主としている、それから小伝馬町(こでんまちょう)、人形町通りを歩いて茅場町(かやばちょう)から青山行のバスに乗って東京駅で下車して丸ビルを見た、丸ビルの店がかり、いつもと変るところはない。
 津軽の産物だといって、じゃがいもパンの試食をさせられ、十銭の包みを一つ買い込んだ、あとで食べて見たら相当に風味がよかった。
 ジャガ芋(いも)というものは、栽培が比較的容易で収穫率も多い、栄養価としては日本人に向かないというものもあるが食糧としては豊富なものであり得る、これでうどんを作る方法もあるそうだが、いろいろ研究して副主食とするようにすることは、日本農家にとって、有益な計画と云えないことは無いと思った。
 それからバスで青山方面へと帰って来たが、天気は非常によろしいけれど、風がある、久しぶりで東京見物をしてかなり町並みを歩いて見たが、なかなか物資は豊かでちっとやそっと戦争をしたからとて影響などは更に見えない、物価が高くなったとか高くなるだろうとかいうが、高いにしても知れたもので、当分そんな窮乏を訴えそうなけしきは夢にも思われない(今時それが見え出すようでは大変だが)。
 改装された東京は風情(ふぜい)というものが欠けておもしろ味のない感じはするけれども、表面見たところでは景気に変りはない、国民の一部が他国で屍山血河を越えているというような風情は少しも見えない、この点に於ては日本は幸福な国である、未(いま)だ曾(かつ)て自分の領土内に侵略を受けたことがない、東京の一角へ爆弾の一つもおっこって来るという日は別だが、今時は何処に戦争がある、といったような風景である、これというのも、彼の壮烈なる肉弾の賜(たまもの)である。
 今の日本は肉弾を以て外国の地域に堅牢無比なる防塁を築きなしている。国内は泰平だが何につけても、彼につけても日本人は肉弾に感謝をしなければならぬと思った。

       十一

 百姓弥之助はニュース映画を見ようと思って、新宿の追分のところまで来た。
 そこで、戦地に向う野戦砲兵の一隊が粛々と進んで来るのを見て足を留めた。
 百姓弥之助は植民地に居ては村人に送られる出征兵とそれを送る村人の行列を見て心を打たれたが、東京の地に来て真剣に武装した日本軍隊と云うものを眼のあたり見ると彼はまるで送り迎えの時の感情とは全く違った心の底から力強い感激の湧き出る事を禁ずる事が出来なかった。
 武装した日本軍隊は身の毛のよだつほど厳粛壮烈なものである、威力が充実し精悍の気がみなぎって居る、殊にこれから戦地に向うと云う完全武装した軍気の中には触るるもの皆砕くと云う猛力が溢れ返って居る、村落駅々から送られて出る光景には慥(たし)かに一抹の哀々たる人間的離愁がただよっていないという事はない。すでに斯うして武装した軍隊を見ると秋霜凜冽(しゅうそうりんれつ)、矢も楯もたまらぬ、戦わざるにすでに一触即発の肉弾になりきっている。
 だから出征の勇士は全く本望を以て死ぬ事が出来る――ただたまらないのは戦終って後その士卒を失った隊長、昨日迄の戦友と生別死別の同輩、それから残された遺族等のしのばんとしてしのぶあたわざる人情の発露である、戦争にはそれがつらい、ただそれだけがつらい、この悲痛をしのぶ心境に向っては無限の同情を寄せなければならぬ。

       十二

 軽便炭焼は成功した、試験としては先ず上々であると云わなければならぬ、約五俵の木炭が取れた、これで自給は成功した、この方法は農家一般に流行(はや)らせたいものだ、素材そのままで炉(ろ)にもやす方法から炭化生活に入る生活改善の第一段と云えよう。
 この方法は別に図解で示す積りであるが、火を焚きつけてから盛んに煽り内部に燃えついた時分を見計らい焚きつけ口をふさいで次に後ろの風入口から火を吹く迄の限度――この間が約一昼夜、火を吹いてから約一時間の後、その口をふさいでそのまま二三日放置して完全に燃焼炭化しきった頃を見はからって掘出しにかかる、この試験では試掘の時機が少し早過ぎた為に不燃焼の部分が多少残って居た、今度はその点に注意する事、それから風入口から火を吹き出す機会が夜中にならぬ様、あらかじめ時間を見はからって点火をする事がかんじんである。
 百姓弥之助はこの自家用炭焼の成功を喜んで同時に農村炭化と云う事を考えた。近頃は農村電化と云う声を聞くが、これが実行は現在の農業組織では中々容易なものではないが農村炭化となると組織の問題ではなく直ちに実行の出来る生活改善の一部なのである。薪として燃したり粗朶(そだ)として燃やしたりする大部分に少しの手数をかけてこれを炭化して使用する事になると時間と経済と衛生との上に多大な利益がある。
 日本の農村生活から囲炉裏(いろり)と云うものを容易に奪う訳には行くまい、囲炉裏の焚火と云うものは、ほとんど原始的のものであるけれどその囲炉裏を囲むという実用性と家庭味は日本農村の生命であって火鉢やストーブでは充(み)たしきれない温かみがそこにあるのであるが、然しこの原始的の情味も早晩相当の改良を加えなければならない時機に達するだろう。
 第一囲炉裏では燃料が多く無駄になる、それから煙が立ち材木がくすぶり家がよごれる、それから眼の為などには殊によくない、同一の燃料を炭にして置くと、はるかに永持がする、一時パッと燃やして火勢をとる様な煮物の為には多少の生の燃料をつかってもいいけれど永持をさせる為には炭がよろしく、そうして経済でもあるし、第一また素薪をたくのだと、煮物をする場合に附きっきりで火を見て居なければならない、燃え過ぎてもいけないし、燃え足らなくてもいけない、少し注意を欠くと消えてしまう、そう云う場合に炭だと、一たんかけて置けば或程度まで放任して他の仕事が出来るというものである。
 それから今日どこの田舎家でも行って見ればわかる事であるが家中がくすぶりきって真黒くなって居る、あれは皆多年の薪生活の為であって、風流としては多少面黒いところもあるかも知れないが一体に甚だ非文明的である。これを炭化にすればあれ程家中を黒光り煤(すす)だらけにしないでもすむのである。然し木炭の価は甚だ高い、年々高くなる一方である、今年あたりは一俵二円もする、農民生活で木炭などを買いきれたものではない。まだまだ日本の農村生活から囲炉裏を奪う事の出来ないのはわかっているが、そこで素材を使うべき場合には相当限定をして置いてあとはこの自家製木炭で調節するようには出来ないものか、この村あたりではまだこの炭化方法を実験して居るところはない様だ、これは一つ大いにはやらせて見たいものだと思って居る。

       十三

 百姓弥之助は今年の正月を植民地で迎えた。
 元日と云っても相変らずの自炊生活の一人者に過ぎない、併し今年は塾の若い者に雑煮(ぞうに)の材料だけをこしらえさせて、それから後は例に依っての手料理で元日の朝を迎えたと云う訳だ。
 昨晩の大晦日(おおみそか)には可なりの夜深しをしたものだから、朝起きたのは六時であった。炉へ火をたきつけて自在へ旧式の鉄の小鍋を下げて、粗朶(そだ)を焚いてお雑煮を煮初めた。それから半リットルばかりの清酒をお屠蘇(とそ)のかわりとして、昨日炊(た)いて置いた飯をさらさらとかき込んでそれで元日の朝食は済んだわけだ。
 至って閑散淡泊なものだが、然しこの食料品としては切り昆布とゴマメ数の子のたぐいをのぞいては、全部自分の農園で出来たものだと云う事が特長と云えば特長だろう。そこで、昨年度の弥之助の農園に於ける収穫を概算して見ると次の様な事になる。
小麦   約十二俵
大麦   十俵
陸稲┌糯(もち) 六斗五升
  └粳(うるち) 五石[#括弧は底本では、二行を括る丸括弧]
馬鈴薯  約四百貫
玉蜀黍(とうもろこし)  三斗
西瓜(すいか)   八十箇
薩摩薯(さつまいも)  五百貫
茄子(なす)   若干
胡瓜(きゅうり)   若干
梅    四斗
茶    一貫目
牛蒡(ごぼう)   五十貫
生薑(しょうが)   五貫目
大根   若干
蕎麦(そば)   三斗
菊芋   若干
里芋┌八ツ頭 三俵
  └小芋 二俵[#括弧は底本では、二行を括る丸括弧]
木炭   五俵
 右の外、莢豌豆(さやえんどう)、トマト、葱(ねぎ)、隠元豆、筍(たけのこ)、鶏卵、竹木、藁(わら)――等の若干がある。
 これに依って見ると、まだまだ中農までも行かない水呑程度の百姓だろう、収穫はこんなものだが、これに投じた新百姓としての固定資本や肥料、手間等の計算はここにしるさない事にする。この植民地には水田が無いから大麦と陸稲米を主食として居る、一昨日塾中に搗(つ)かせた餅もやはり全部陸稲の自家産である。これが終ってから百姓弥之助は燃え残りの榾火(ほたび)に木炭を加えて炉を直にこたつに引き直した、そうしてやぐらの上を直ちに机にしつらえて、それから元旦試筆というものにとりかかった。正月は思い切って字と画を書いてやろうと幾年ならず心がけては居たが中々果せない、今日の元旦こそはと思い切って筆墨紙の品しらべにかかった、硯(すずり)は使い古しの有合せのものを使い墨はこの暮に丸ビルで三円で買って来た香風墨と云うのをおろし筆は有合せの絵筆細筆で間に合せ、硯の水は塾生が早朝に汲み上げて呉れた井戸の若水を用い、それから棚に向って用紙の品しらべをやり出した。
 棚には十年も前からの頼まれものが、うず高くたまって居る。封を切らないのが大部分そのままにしてある、筆を揮(ふる)う事は興に乗じてやりさえすれば何の事はないのだが、とりかかる迄がおっくうで無精でついつい延び延びになってるうちに七八年位は経過してしまう、全唐紙の大物もあれば絹本もあるし半切もあれば扇面も色紙も短冊もみんなごっちゃに、封を切ったのと切らないのと雑然と棚に積み上げられて居る。百姓弥之助はどこから手を附けていいかと戸惑いの形になったが、まあ大物は後まわしにして色紙短冊からとりかかろうと、それを炉辺に持ちおろした。
 それから筆まかせに書と絵とを書きまくるつもりであったが、書と絵とを同時につくるのはどうも気分がそぐわない、書の方は一気呵成にやれるけれども絵の方は相当の構図を組み立てた上でないとやれない、と云ったような呼吸から今日は書だけにして置いて絵は明日のことときめた。
 書は古人の名言や筆蹟のうちから求め、或は自分の旧作のうちから選んで色紙に書き、短冊には古人の名句や自作のものなどを都合三十枚ばかり書きなぐってしまった。百姓弥之助は書道の妙味はこころえて居るつもりだが筆をとってけいこした事は殆んどないから予想外出来のいいのもあるが、どうにも始末に困るのもある、然しけいこをしないだけに流儀にはまらない誰にもまねの出来ないまずさがある処が身上と云うものだ。
 そのうちに本館の方で振鈴が鳴る、式の準備が出来たのだ、そこで塾中で屠蘇を祝って万歳を唱えた。
 それから屋根裏の寝室に行って寝台の上で読書にふけった。
 今年の元日は比類なき好天気のうちに送り迎えをすませて早寝をした、門外へは一歩も出ないで一日を過した。
 二日目は前の如く食事が済んでから、やはり色紙短冊に向って絵を描き出した。絵は有合せの書物や雑誌を題材にしたスケッチで寅年(とらどし)にちなんだ張子(はりこ)の虎の絵が多かった。中々よく出来たのもある。例の欠食猫をモデルにしてブザマ千万な猫を描き上げてそのかたわらに次の様な賛をした。
家猫の虎ともならであけの春
 これは現状維持の鬱懐(うっかい)がふくまれて居る様である。もう少し積極的表現のものとして、
家猫の虎とならんやあけの春
家猫の虎となるらんあけの春
 何か時代に対する諷詠がありと云えばある様だ。
 そこへ塾に居るMと云う洋画家がやって来て一石やりましょうとの事だから直ちにそれに応じて碁盤(ごばん)を陽当りのよい縁側に持ち出させそこで悠々と碁をうち出した。暮のうちは百姓弥之助が少々うたれ気味であったが今日は六番戦って五番勝つと云う好成績である。
 年始状や年礼のしるしや名刺が本館の玄関のテーブルに置かれてある、今晩はこの部落の夜番に当ると云うので善平農士がそれをつとめる事にした。

       十四

 百姓弥之助はこの農業生活に入るにつれて服装の上で不便を感じ出した。それは弥之助の腹が中々大きくて普通の洋服では上と下が合わない、すきまから風が入るおそれがある、そうかと云って殊に日本風の私生活で背広服を朝から晩まで着づめにして居ると云うのもまずい、そこで大ていは和服を着て小倉の古袴をつけて居るが、この袴もまた腹部が出張って居る為に裾が引きずれがちで立居ふるまい殊に階子段登りなどには不便を極める。それからまたこの姿では机に向って事務をとって居た瞬間に畑へ飛び出して野菜を取って来ると云う様な場合に殊更不便を感ずるのである。そこで思いついたのが東北地方で着用して居る「もんぺ」のことである。あれを着用して見たら必ずこの不便から救われるに相違ない、そこで東京のデパートあたりを探させて見たが、出来合は見当らないようだとの事だから福島県の大島氏へ当ててその調製方を依頼したものだ。大島氏の家は福島県有数の事業家で弥之助の依頼したO氏は当主の弟さんに当る人で、白菜だけでも四百町歩から作ってその種子を全国的に供給して居る、弥之助は先年その農場に遊んで同氏の為に「菜王荘」の額面を揮毫(きごう)して上げた事がある、そこで早速同氏に当てて「モンペ」調製の依頼をすると直ちに快諾の返事が来た。
 その文面に依ると「モンペ」は福島地方でも用いない事はないがその本場は寧(むし)ろ山形、秋田の方面であると云わなければならぬ、然し御希望によって当地で然るべくとりはからって上げるからとの事であった。
 程なく同氏から鄭重な小包郵便を以て二着の「モンペ」が送られた、それに添えられた手紙には、当地織物会社の特産、ステーブルファイバーを以て仕立せさせた「モンペ」を送ると、モンペとしてはステーブルファイバーでは地方色の趣味が没却される点もあるが然し時節柄の意味に於て国産ステーブルファイバーを以て試製させて見た。別に地方色豊かなるものとしては会津地方から取寄せて送るという様な親切をきわめたものである。
 弥之助は大島氏の好意に感謝しつつ早速この国産ステーブルファイバーを着用に及んだ。ステーブルファイバーは一見したところモンペとしてはきゃしゃに過ぐるようで立居の荒い弥之助に取っては持ちの方がどうかしらと心配したが見かけによらず丈夫なもので中々裂けたりやぶれたりしない、さて穿(は)き心の方はどうかというとこれは普通の袴と違って裾が締って居るから階子段の登下りにしろ菜園への出入にしろ少しも衣裳が邪魔にならない、その上保温力が大したもので、あれをはいて居ると下腹部から下の温みが着物一枚どころではない、万事につけて耕書堂生活にはぴったりとした着用物である。自分の予想が当った事を非常に喜んで弥之助はこれを塾中の若い者にはかせる事にし、大島氏の送られた型によって近所の呉服屋へ注文して更に木綿製五着を作らせた。
 それから暮になって東京へ出て見ると丸ビルの一角に純田舎製のモンペが売店に二三着陳列してあった、尚聞けば伊勢丹あたりのデパートにもあるという事である、それがもう少し早くわかれば、わざわざ大島氏をわずらわさなくってもよかったと思う、然しこの機縁から大島氏の好意と親切が長く吾々の身体を温めてくれる記念と思えば結句有難い思い出になる。
 この一月二日の日に、大島氏は果して約束の如く此度は新たに地方色豊かなモンペ二着を小包郵便を以て送り来された。
 さて、こうなって見ると、普通の羽織を引っかけたのでは、前の方に隙間(すきま)が有り過ぎる、これは釣合のとれた被布様のものに限る、と、弥之助はこう考えたものだから、次には被布の製作方を思い立った。幸、それには好適の古羽織が一枚ある、これは全部三味線糸で織ったもので、重さは普通木綿の二三倍もある、雨合羽(あまがっぱ)代用などにしながら持て余していた。これを一つ仕立て直してもらって、上っ張りにしようと、人に頼んで被布式に縫い直し、裏地を撤去して、成るべく重量を減らしてもらった、これがまた、丈夫でもあり、惜気(おしげ)も無くて至極よろしい。
 日本農村の服装改良はこんなところから初まるであろう。

       十五

 弥之助は食土一如の信者というわけでは無いが、この武蔵野の植民地に住む限りは、主としてこの附近の産物を食料にとる方針を立てた。
 水田の無いこの野原では陸稲を主としなければならない、陸稲にも相当種類はあるが、釜割(かまわれ)種はさっぱりし過ぎてねばり気が少ない、もう一つの平山種はきびの悪い程うまかった、うまいと云った所で水稲とは比較になるべき筈のものではないが、普通陸稲のさらさらしたものにくらべて、きびの悪い程ねちねちした味いがある、然し麦となると本場である、小麦も大麦もどちらも本格で、小麦は挽(ひ)かせて、うどんに造ったり餅に焼いたりするが、色こそ黒いけれども、その持味は公設市場で売るメリケン粉の類ではない、小麦本来の持味が充分で同時に営養価も高い事が味わえる、大麦に至っては主として碾割(ひきわり)にして食用に供するのとこの頃は押麦にしてその儘飯に炊くのとである、碾割の方は桝目(ますめ)にして格別殖えも減りもしないが、押麦は押しにやるとかえって桝目がふえて帰る、裸麦の或種のものは三斗やって四斗になって帰るものもある。この大麦は麦だけを飯に炊く家もあるが少々ずつ米をまぜて炊く家もある。弥之助の経験ではこの大麦の引割に適度の米をまぜて食うのが一番味がさっぱりとして、然も腹工合に最もよいと思われる、水辺に住む者はやはり風土の関係で肥膏なる米食がよいかも知れぬが、こういう平野に住む者には麦食が確かによろしい、食養学の上から研究したらどうか知れないが、弥之助の体験によると確かにそうだ。
 漏れ承る所によると 天皇陛下に於かせられても、麦と半搗米とを常の御料に召されるそうである。
 一体稲と麦とは如何にもよい対照をもって居る穀物で、稲は春に仕立て夏に育ち秋に取入れる。一年中の最も陽性を受けた豊潤な時を領分として成熟する。それに引替えて麦は陸上に霜枯れの時代から蒔(ま)き初め、厳寒の境涯を通し氷雪の鍛練を受け、そうして初夏の候に初めて収穫を見るのである。だから麦は堅忍不抜なる男性的であり、米は優美豊満なる女性的である、いずれにしてもこの二つが相並んで穀類の王座を占めて居ると云える。
 小麦は別格であるが、パン食をする様になれば、この小麦が米と大麦とを凌駕(りょうが)して穀物の王座にのぼる事になるのだが、パン食は日本人にはまだ向かない、また日本の小麦はうまくパンに焼くことが出来ない、これは製粉して副格的の食用に供するばかりだがこれに次いでは粟(あわ)と蕎麦(そば)とである、粟は近頃作る人がすくないがこれも飯にして少し米の分量を多くした炊き立てなどは白と黄の色彩も快く一種の香気があって中々うまいものだ、都人士に食べさせても珍重がられる程の味があるけれども、冷えるとぼろぼろになって味もさっぱり落ちてしまう欠点がある。稗(ひえ)とか黍(きび)とかいうものはこの辺ではほとんど作らない、赤豌豆(あかえんどう)は昔は盛んに作ったものだが害虫がおびただしく発生するというので、全村申合せて作らない事にして居るがこれは甚だ惜しい事だと思う。
 赤豌豆は、花があれで中々しおらしくて美しい、観賞用にしたスイートピーよりは畑作りの豌豆の花の咲き揃った所が弥之助は好きであった、それに青いうちに莢(さや)ごともいで枝豆を食う様にして食べるとその甘みとうまさは忘れられないものの一つであり、かつまた熟し立てをほうろく煎(い)りにしたり塩うでにしたりして食べてもうまい味がある、ああいうのが味えなくなったのが如何にも残念である。
 東京では盛んに塩豆を売って居る、成程あれも豌豆には違いないけれどもああなっては豌豆のもつ原始味などは全く涸渇してしまっている。
 東京の縁日でどうかすると煎り立て豆を売って居る、豌豆を水につけて軟らかにしたやつを塩をまぶして金網で煎り立て、その熱いやつを紙袋に入れて売る。あれにはまだ相当に豌豆の原始味が残って居る。それも近頃はだんだん尠(すく)なくなってしまったが、浅草公園の瓢箪池(ひょうたんいけ)の附近に行くと最近まであれを専門に売って居る露店があったものだ。弥之助はあすこへ行く度にあれを買い込んであたりはばからずひげ面(づら)にほおばりながら歩いて同行の人を冷々させたものだ、以前東京の市中で豌豆煮立と云って売り歩いたものだがこの頃ではそれも聞えなくなった、豌豆の本当の味は青い時分莢ごと茄(ゆ)でて食うにあるのである、莢ごとといっても莢豌豆とは別である、莢豌豆は今もどこでも栽培を禁止する事はなくお汁の実などにして莢ごとに食べる、だれも御存知の通りだが、赤豌豆は莢ごとに茹でても莢は食べられない、枝豆を食うようにして粒だけ食べるのである。
 枝豆といえば枝豆の原料としての大豆も昔はこの辺でも盛んに作ったが、今ではこれも害虫の理由(わけ)か或は大陸で大量製産がある為に引合わないせいか殆んど全く作らない、それが為に枝豆の食べられない事などは知れたものだが、味噌醤油の自家造も止まったし節分の豆まきの豆も無い、こういうものはすべて買った方が割に合う様になって居るのだろう。
「年とりの豆まきの豆迄こうして袋に入れて三越で売る様になった」
と弥之助の母などは三越の屋上庭園に大豆畑でも出来たほどに驚歎して居る。

       十六

 二月末の或日の事、五の神の力さんが小風呂敷に包んだものを持って来て、
「これは一等賞を取った薩摩薯(さつまいも)だ、一つ食べて見てもらい度い」
と云った。
「それは好いところだ、何か食べ度いと思って居たところだ、なまかね、ふかしたのかね」
と弥之助が尋ねると、力さんが、
「今ふかしたてだよ」と云った。
 弥之助はその小風呂敷を受け取って包を解いて小さいのを三本若い者に分けてやり自分はその大きいのを受け取って皮をむいて食べながら力さんと話した。
「なる程これはうまい、甘薯(かんしょ)のうまいのは、ほくほくして栗の味がする、この間のおいらんとは全く別な味だ、これは何という種類です」
 力さんが答えていう。
「これは紅赤(べにあか)というので、元は川越種です、埼玉県から来たものです、ずっと前に埼玉から熱心家が来てこのさつま薯の種や、それから丈が短くて穂の大きい麦種をこっちの方へ流行(はや)らせたが、この人は毎年麦を 天皇陛下に納める役を仰せつかって居る」
という様な事を話して、
「すべて好いものはトクですよ、この紅赤とおいらんでは第一これをふかす薪からして違います、おいらんをふかす燃料の三分ノ一で立派にふけた上にこの通り味がよくてその上に腹持がいいです、おいらんを五本食べるところを、これなら二本で結構腹持が出来るというものです」
と力さんが云った、いいものは却って経済であると云う理法はたいていの場合に通用する。

       十七

 弥之助は先頃から理髪の自足自給を初めている。
 弥之助は生れつき毛深い方で眉毛(まゆげ)も鬢も濃く、従って髪の毛も黒く小供の時からいい毛だと云って、年頃の娘達にうらやましがられたものであるが、どうも天性無精(ぶしょう)で今日迄髪を分けたという事がない、せいぜい五分刈ですましてしまう、その位だから理髪店へ行って時間をとられるのは何よりつらい。東京に居る時はいつも一番安い理髪店を求め歩いては刈らしたものであるが、それは節約の為のみでは無い、安い所は手っとり早く済ましてくれるという点が有難かったのだ。
 ところが植民地へ来てから青年がバリカンを使う事を心得て居たので早速バリカンを買い込んでこれに理髪を任せた。
 昔三十年も前に東京でこれをやって見た事がある、その時はバリカン一挺(いっちょう)三円以上もして然もあんまり工合がよくなかった事を覚えて居る、このバリカンというやつにも当りはずれが相当にある、そこで今度もどうかと思いながら、隣村へ買わせにやった処、一円三十銭ばかりで一挺買って来た、それを使わせて見ると案外の好調子でその後半年の間に何十頭も刈ったが更にひるまない、このところバリカン大当りである。

       十八

 日支の事変が初まってから当然物価は騰(あが)り初めた、然し暴利取締りが相当行届いてるせいか、その割に暴騰までには立到って居ない、特に農産物等はほとんど価格の値上りを見ない、都会の台所では相当に騰って居るかも知れないが、農村の収入としてはほとんどひびいて来ない、ところが、俄然(がぜん)として弥之助の耳元にひびいて来たのは人間の価上りであった。昨年百五十円程度の作男の給料が二百五十円以上にまで飛び上ってしまった、それから昨年四十円の仕込盛りの小供が今年は九十円で他に口があるからと申込んで来た。男の方が約七割、小供の方が十二割以上の価上りである。こういう相場は誰が立てるのか知れないが兎に角それが共通した相場になって居て、それでも新たに頼み出しというのがほとんどない、人間の不足という事が覿面(てきめん)にここへひびいて来た。
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