百姓弥之助の話
◇ピンチです!◇
★暇つぶし何某★

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著者名:中里介山 

 第一冊の序文

 人間世界第一の長篇小説「大菩薩峠」の著者は今回また新たなる長篇小説「百姓弥之助の話」を人間世界に出す。
「百姓弥之助」は日本帝国の忠実なる一平民に過ぎない、全く忠実なる一平民以上でも無ければ以下でもない、この男は日本の国に於て義務教育程度の学校教育だけは与えられている、それ以上の学校教育なるものの恩恵は与えられていない、貧乏と、貧乏から来る内外の体験は厭というほど嘗(な)めさせられているけれども、社会的に人外の差別待遇を蒙るほどの悪視酷遇は受けていない、宗教的には極重罪悪下々凡々の一肉塊に過ぎないが、法律的には未だ前科の極印を打たれた覚えも無い、どうやら人の厄介にならず生きて行けるだけで、人の為に尽そうとしても尽し得る余力が無いのは遺憾きわまりが無いが、如何とも致し難い、官禄の一銭も身に受けていないし、名誉職の一端を荷うほどの器量も無い、ただ一町歩の畑と一町五畝の山林の所有者で、百姓としては珍しく書を読むことと、正道に物を視るだけが取柄である。
「百姓弥之助の話」はこの男が、僅かに一町歩の天地の間から見た森羅万象の記録である、これこそ真に「葭(よし)の蕊(ずい)から天上のぞく」小説中の小説、囈語中の囈語と云わなければなるまい。「大菩薩峠」は、材を日本の幕末維新の時代に取った一つのロマンスであるとすれば、この「百姓弥之助の話」は、日支事変という歴史的空前の難局の間に粟粒の如く置かれた百姓弥之助の、現実に徹した生活記録とも云えるけれども、要するに小説中の小説であり囈語中の囈語であることは、重ねて多言を要しない。
 自ら筆を執って書いた処もあれば、そうで無いところもあるが、要するに文字上の責任は、百姓弥之助の唯一無二の親友たる介山居士が背負って立ち、出版の方も同氏が一肌ぬいで呉れることになり、隣人社の諸君のお骨折によって、今後、一年に数冊――ずつを、新聞雑誌によらず、この形式で処女単行として世に出し得られる仕組みになっている。偏(ひとえ)に御賛成を願いたいものである。

神武紀元二千五百九十八年
西暦千九百三十八年
昭和十三年
  春のお彼岸の日
百姓弥之助 敬白[#改段]


 第一冊 植民地の巻


       一

 百姓弥之助(ひゃくしょうやのすけ)は、武蔵野の中に立っている三階艶消(つやけし)ガラスの窓を開いて、ずっと外を見まわした。いつも見飽(みあ)きている景色だが、きょうはまた馬鹿に美しいと思った。
 秩父(ちちぶ)連山雄脈、武蔵アルプスが西方に高く聳(そび)えて、その背後に夕映の空が金色にかがやいている、それから東南へ山も森も関東の平野には今ぞ秋が酣(たけなわ)である、弥之助のいる建物は武蔵野の西端の広っぱの一戸建の構えになっている。南に向いている弥之助の眼の前は畑を通して一帯の雑木林が続いて、櫟(くぬぎ)楢(なら)を主とする林木が赤に黄に彩られている、色彩美しいと云わなければならぬ。その雑木林から崖になっている多摩川沿いに至るまでの間がここの本村になっている、東西は一里、南北は五町乃至(ないし)十町位のものだろう。そこで多摩川を一つ越すと、それが前にいった通り秩父山脈の余波が、ほぼ平均した高さを以て何里となく東へ足を伸ばしている、だから百姓弥之助の建物のある地盤から見ると「ここは高原の感じがする、山を下に見る」といって山住居(やまずまい)をしていた或る学者が来て、不思議そうに眺めたことがある。無論高原というほどの地点ではない、武蔵野の一角に過ぎないが、例の秩父山脈の余波の山脚が没入している山の裾(すそ)よりも原野が高くなっているところを見ると、成るほど薬研(やげん)のような山谷から来た人の眼には高原と云った感じがするかも知れない。
 さて、百姓弥之助はいつも見飽きているこの植民地のような風景が、今日はバカに美しいと感じながら、暫(しばら)くボンヤリと眺めていると、崖下の本村の方から楽隊の音が聞こえ出してゾロゾロと人が登って来る、続いて軍歌の音が送り出されて来る。
天に代りて不義を討(う)つ
忠勇無双の我が兵は
歓呼の声に送られて
今ぞいで立つ父母の国
…………
 続いて笹付の青竹に旗幟(はたのぼり)の幾流が続々と繰り出されて来る、村から停車場へと行くこの道は、早くも蜿蜒(えんえん)たる行列が曳(ひ)き栄えられて来た。
 百姓弥之助は、その光景をじっと見て吾(われ)に返った。
「また、きょうも出征者だな、家の若い者は誰か見送りに出たかな」
と思いながら、立ちつくしていると、聞くとはなしに軍歌の声が耳に流れ込む、そのうちに彼はなんとなしに自分が幼少時代に見慣れたお葬式の行列のことを思い出した。今から四十年ばかり昔の事だから、もうこの村でもああいった葬式のやり方は廃(すた)れてしまっているだろうが、弥之助は思わずその昔の風俗を思い出したのである。

       二

 この辺の寺は大抵禅宗寺になっている。本村に三つ寺があるが、何れも禅宗で、妙心派と建長寺派とに分れている。弥之助の子供の時分にはこの妙心派のお寺が近い隣地にあったものだからよくお葬式の行列を見たり、また納棺最後まで態々(わざわざ)見届けに行った覚えがある。その時分は火葬ということは無かったから、みんな土葬で棺(ひつぎ)は三尺程高い箱棺で、それに蓮台(れんだい)と天蓋(てんがい)とはお寺に備えつけのものを借りて来て、天蓋には白紙を張り、それに銀紙で卍(まんじ)をきざんで張りつけ、蓮台は白木のままの古びた極くお粗末なものであった、そうして、その棺を担(かつ)ぐのはその庭場庭場の年番の廻持ちでたしか六人位ずつの人足を出していた、穴掘りもそれ等のものがやり、棺を担ぐのもやはりそれ等のものがやったと覚えている。
 愈々(いよいよ)坊さんの読経も済んで、その家から棺が繰り出す、前後にはそれ相当の紋付、羽織、袴(はかま)、女は幾代も幾代も相伝の白無垢(しろむく)を借着をしたりなんぞして、それぞれ位牌を持ち線香立を持ち、白木のお膳などを持って棺の前後に附き添うと、その周囲には親類だの庭場中の会葬者だのがぞろぞろとついて行くのであった。それからまだ棺の前後には小さな天蓋だの、竜の頭だの仏の名を書いた旗だのというものもつき添っていた。愈々(いよいよ)この葬列が繰り出すと、同時に棺舁(かんか)きの六人ばかりの口から念仏の声が前後相呼応して高らかに称(とな)え出される。
なあーんまいだんぶつ
なあーんまいだんぶつ
 この称名に送られて寺から墓地へと進むのであった、このなあーんまいだんぶつの音律にはおのずから一定した節があって決して出鱈目(でたらめ)ではなかった。どうも一寸は真似が出来ないが、あれを遠くで聞いていると、弥之助の幼な心は何となく無常の感じにおそわれて、死出の山路をそろりそろりと人魂(ひとだま)が歩んで行くような気持がさせられた。
 今出征兵を送る一行を見て、弥之助は四十何年も昔の葬式の事が何となしに思い出されて来た。あれとこれとは決して性質を同じゅうするものではないが、ただ、聯想だけがそこへ連なって来た、勇ましい軍歌の声が停車場に近い桑畑の中から聞えて来る。
勝たずば生きて還(かえ)らじと
誓う心の勇ましさ
或は草に伏しかくれ
或は――
 それを聞くと、昔のなあーんまいだんぶつ――が流れ込んで、高く登る幾流の旗を見やると、
「生き葬い!」
 斯(こ)ういう気持ちが犇々(ひしひし)として魂を吹いて来た。

       三

 この村でも、最早毎日のように出征兵が送られて、二十人以上にも達している。
 上海(シャンハイ)に於て戦死者が一人、負傷者が一人、出たとの事である、それから、この村の人ではないが先程まで、この村で小学校の教鞭をとっていた青年教師が一人これも上海で戦死したそうだ。
 弥之助がついこの間、この畑道から散歩のついでに村の小学校の庭へ入り込んだ事がある。丁度放課時間で子供達が遊戯をしたり、試作園の中で土いじりをしたりしている中を通り抜けて行こうとすると、教室の廊下の中からちょっき姿の若い教師が現われて、なつかしそうに弥之助の傍へ寄って来て、
「百姓先生ではありませんか」
と呼びかけて来た、そこで弥之助も挨拶をすると、その青年教師は弥之助の著書のことから話を切り出して、自分は室町時代の赤松家の後裔(こうえい)の者であるということを名乗って、赤松家の系図などについて立話しながら、要領のある話をしたことを覚えている。
 この頃聞くと、その教師が最早上海戦の犠牲となってこの世に亡き数に入ってしまったとの事である。実に信ぜられないほどあっけない思いがした。
 弥之助はこの日本の国に生れて今日まで三度出征兵を送り迎えの経験を持っている。
 最初の時は明治二十七八年(西暦一八九四)の日清戦争の時で、その時分はまだ弥之助は九歳か十歳であった、それから第二が明治三十七八年(西暦一九〇四)の時で、彼はその時丁度徴兵検査であった。その時分の彼は東京へ出て所謂(いわゆる)苦学ということをしていたが、徴兵検査はこの村へ立帰ってこの地の郡役所で受けた。当時の彼は瘠(や)せこけて体量十一貫位であったが、検査の結果は皮膚脆弱というようなことで、乙種の不合格であったと覚えている、然(しか)し戦争が長びけばどうなるか知れないというような噂さは聞いていたものである。それから以来、彼は軍籍には何等の関係の無い身ではあるが、その都度都度の軍国気分というものは可なり深刻に味わされていたものである、が、この度の日支事変に遭って見るとずっと年もとっているし、その立場に於ても甚(はなは)だ変ったものが多い。

       四

 つい、この夏、弥之助は信州の高原地で暫(しばら)くの間暮した。
 彼は少年時代には相当に肥った丈夫な子供であったが、青年時代は色々の苦しい生活に遭(あ)って非常に健康を害してしまったが、その後修養につとめたせいか、また健康を取り戻し、寒暑共に余り頓着はしなかったが、漸(ようや)く老境に入りかけたせいか近来は夏がなかなか苦しい、殊に暑さと蚊(か)に攻められて著作をするというようなことは気が焦(じ)れてたまらない、それでこの頃から高原地へ安居を求める気になったのである、武州の八王子から上州の高崎まで八高線という田舎(いなか)鉄道が近頃出来上った、この村から汽車で高原地へ行く場合には、この線路をとるのが一番都合がよい、この程、この田舎鉄道の中で、高崎の聯隊へ召集される兵士の幾人かと乗り合せたことがあった、至る処の駅で前に云ったような盛んな送別の行列であった、こんどの召集された兵達は皆相当の年配であって、年は三十五六前後、何れも妻があり子供の二三人もあり、それからそれぞれ一家の業にいそしんでいる人達であった。斯ういう人達が駅から駅へと数を加えて五六名ばかり弥之助の隣りの席で固まって話し出した、何れも初対面の人達ではあるけれども、話し合っている間にトテモ親密な間になってしまったのも無理は無い、死なば諸共(もろとも)という気分が、こういう場合ほど濃(こま)やかに湧(わ)き立つ時はあるまい、年功を経た応召兵達の胸を打割った正直な述懐を聞くことが出来た、この辺の本当の土着の農夫としての一人は「もうこれだけにして貰(もら)えば思い置くことはない」といって、正直に感動をしているが、或る技術学校の教師をしていた人だの、東京の下町で然るべき炭薪屋をしながら社大党に属して日頃注意を受けていた人だの、そういう人はかなり立入って自己批判をした、然し、斯(こ)ういう本当の土着の農民もインテリ性を帯びた都会からの帰還入営者も、何等の不平なく国の為に殉じて行くその従順な姿を見ると、日本国民は全く世界無類の忠良な国民だと涙を呑まざるを得なかった。
 それと同時に、斯ういう忠良無比なる国民、妻もあり子もあり、世帯もあり分別もあるこの国の中堅の良民を召集して「好鉄ハ釘トナラズ、好漢ハ兵ニ当ラズ」という伝統の支那兵の鉄砲の前へ肉弾に送ることに於て、当路の責任者は最も深刻にこの国と人を誤らせてはならないという感じを弥之助は犇々(ひしひし)と胸に焼きつけられた。
 あれからもう三カ月目になる、あの人達は北支か上海かどちらか知らない、今頃はどうなっているか。

       五

 百姓弥之助が、どうしてこの武蔵野の殖民地に住んでいるかということを一通り書いて見ると、彼は今年もう五十二歳になったのである、生れは矢張りこの村の一部で、幼少時代はさのみ貧乏というわけではない、まず中農階級の上等の方にいたものであるが、彼の父が失敗続きで非常なる苦境に陥ってその中で七人の兄弟と共に育ったものだから、云うに云われない生活の苦しみを味っている。
 だが、弥之助は少年時代から読書が好きでどうかして東京へ出たいと思った、十四の時やっと小学校を終えると無理矢理に東京へ出て、それから有(あら)ゆる苦しみをしてとうとうそれ以上の学校へは入ることが出来なかったが、そのうち独力で或る一つの発明をして、それが世間に喧伝されその発明が世界的の発明であるというような意味から彼自身もパテントによって相当の産をなして今はその郷里のこの新館に来ている、まだ隠居という年ではないし、東京にも相当の根拠地を持ってはいるけれども目下の処は斯うして植民地に来ていることが多い。
 植民地というのは、かりにそう名づけたこの土地の事で、従来父から僅かばかり残されていた地所があって、それを買い足して全体では三四千坪になっている。ここ七八年来、そのうちの一部にいろいろの建物を十棟ばかり建てて、その他は耕地に使用されている、小作に貸してあるのではない。
 弥之助は感ずるところあって、万事農から出直さなければならないという観念の下に今これだけの地所と別に一町歩あまりの山林とを基礎として小農業の経営を試みてから、これでまだ二年目である。
 弥之助はガラス窓を閉めて三階から降りると、もうあたりは黄昏(たそがれ)の色が流れていた。それから本館を出て赤塗の古風な門をくぐって、農舎の方へ行って見ると、そこで自家用の木炭製造の炭竈(すみがま)が調子よく煙を吐いていた。
 やがて冬が来る、武蔵野の冬の空(から)ッ風は寒い。殊にここは植民地で吹きさらしだ。家にいる青年達にも防寒の用意をさせなければならない、そもそもこの植民地同様のところから出立して、一つ出来るだけ自給自足で行って見ての上の話である。自給自足が最後のものではないけれども、自給自足から出立というのが彼のこの植民地の要(かなめ)となっている。
 そこで、燃料の自給ということから木炭の自家用供給を試みた、試作の順序は良好で、土落ちの加減も煙吸きの調子も甚だ悪くない。だが、かんじんの中味の炭の出来栄(できば)えが、どういうものかそれは二三日たって見ないとわからない。

       六

 普通木炭を焼くには一定の炭竈を築いてする一定の方法がある、が、弥之助がはじめたのはそういう本格的のやり方でなく、軽便実用を主とした即成式のものであった。
 この春、弥之助はその地方の農林学校を訪れて教師が校庭で速成炭焼を試験しているのを見て、仔細にその仕方を尋ねて来た、というのはこの地方では不相変(あいかわらず)囲炉裡(いろり)で焚火(たきび)をやっているが、それは燃料の経済からいっても、住居の構造と衛生からいっても損するところが多いものだ、それに薪(まき)の材料も年々不足して来るし、そうかといって、農家の力では木炭を買って使いきれない。
 ところがここに桑の木というものがある。養蚕(ようさん)の事が近来、めっきり衰えて桑園を作畑に復旧する数も少なくない。新百姓としての弥之助は、附近の桑園を買い取って、これを耕地にする為に何千本もの桑の株を掘り返して持っている、この桑の株は大抵七八年の歳月を経ているが、枝を刈り取り刈り取りするものだから、丈(た)けは僅か二三尺に過ぎない、が年功は相当に経ているだけに、薪にすると火持がよい、併し、これを炭に焼けば一層結構なものになると、かねがねそれを心掛けていたが、最近の農業雑誌を見ると、その方法が書いてある、よって、塾の青年に、その事を云いつけて置いたところへ、農林の生徒がやって来て、昨日、それを実行した。
 先ず、幅三尺、長さ二間ばかりの薬研式の浅い穴を掘って、それに藁(わら)を敷き込み、その上へ上へと桑材を山盛りにして、隙間へは藁を詰め込んで上面一帯に土を盛りかぶせ、一方の口から火を焚きつけて、団扇(うちわ)やとうみで盛んに煽(あお)った、斯くて一昼夜ほどすると、一方の風入口が火を吹き出した時分に、それを塞いで蒸す、という段取りである。
 どうやら調子よく行っている、この分なら相当の炭が得られそうな気持がする、消炭に毛が生えた程度でも我慢する、相当立派なものが出来れば、この冬は炭を買わないで間に合う、併せて、この方法を附近の農家に流行(はや)らせてもいい。
 それを見届けた上で弥之助は、豚舎と鶏舎を見廻った。豚は四頭飼っている、鶏は十羽いる、豚の発育は皆上等と云って宜(よろ)しい、食物の食いっぷりが極めて良(よろ)しい、豚というやつは食う事の為にだけ生きているとしか思われない、食う事の為に生きて、食われる事の為に死ぬ。彼に於ては生も死も本望かも知れない、最初に経営を任せたある坊さんが施設した豚飼養の計画は農家経済として間違った着眼ではない、収益率の極めて乏しい農家の副業として豚の飼養は相当有利なものである。この頃聞くと、つぶし豚に売って、一貫目一円九十五銭――までになったそうだ、約二円である、で、一頭の豚をこの辺では二十貫程度にして売り出す、少し丹精すれば三十貫にはなるから、五頭も飼うと有力な一家経済の足しにはなる。
 鶏もこの頃漸く卵を産みはじめた。少なくも資本だけは取り上げなければならない、と百姓弥之助は考えた、百姓弥之助の農業はまだ投資時代だが、やり出した以上はお道楽であってはならない、美的百姓だけで甘んじていてはならない、早く独立自給だけにして見なければ冥利(みょうり)にそむくと弥之助は考えている。

       七

 弥之助は、健康の転換の為に熱海の温泉へ出掛けた、弥之助の少年時代は仲々健康児の方で、手首等は自分の指で握りきれない太さを持って居たが、東京へ出て苦学と云う事をしたり家庭を背負って生活戦線に疲れたりしたものだから、甚だしく健康をそこねて二十歳前後一時は絶望とまで思われたのに、努力によって三十歳の後半からまた健康を取り直し今では二十貫の体量になっているが、いずれにしても一度きずついた体であるから自重する念が深い、そこで冬はなるべく温い土地で暮したいと思うがまだ別荘を持つまでに至らない、熱海と云う所は昔から好きな所であった、今から三十年ばかり前に逗留保養したことまである温泉だが、大震災以後土地の気分がこわれた上に鉄道が開通し自動車の世の中になってからは町全体が昔の様な潤(うるお)いが欠けてしまった感じがする。
 しかし避寒を兼ねての東京へ一番近い養生地と云えばこの地に越した所はないので弥之助は冬はしばしば此処(ここ)へやって来る。
 今日もまた海岸の中流処の宿屋に陣取って二日ばかり保養した、海岸は波の音がよもすがらやかましいけれど、此所(ここ)には「河原の湯」と云う名湯がある、弥之助はこの湯が好きなので宿の内湯等は二の次にして此所であたたまる事を楽しんで居た、河原の湯は昔とは違って改造され、一浴五銭ずつ取って大きな共同風呂になって居る、その熱度と新鮮味とが他の何所の湯よりも肌に爽(さわやか)である。
 弥之助は此所で二日ばかり保養した後、東京へ取って返した。枝付きの蜜柑(みかん)を買い込んで土産(みやげ)とし、三等客として空席の一つを占めたが向合いに黒いとんび外套(がいとう)を着た相当品格のあるお爺(じい)さんが一人居た、汽車が小田原を過ぎた時分にこのお爺さんは首を伸ばして、
「小田原城はどの辺になりますか」
と弥之助に向って尋ねた。
 窓の左の方をながめた弥之助が、
「あの黒い森のあたりが一帯にそうです」
 老人がそれを眺めて、
「仲々広いものですな」
 弥之助がまたそれに調子を合せて、
「仲々広いです、しかし北条氏時代の小田原城はまだまだ何倍も広かったでしょう、なんしろあの中へ北条氏が関八州の強者(つわもの)八万騎を入れて八カ月を持ちこたえ、太閤が天下の兵二十万を以てこれを囲んだと云うのですから、徳川氏になってからの小田原城とは規模がちがいましょう」
と弥之助はやや啓蒙的に説明を試みると老人は予想以上に歴史に理解があって次の様に答えた。
「そうです、小田原勢もえらかったが太閤の軍略も素晴らしい、太閤と云う人は戦(いくさ)も上手だったが、軍略にかけてはさすがに日本一でした、小田原城にしてもああして大軍は動かしたけれども殆ど兵は殺していないです、無理な力攻めは決してしない人でした、或る点まで戦をしてそれからは軍略で大勢を制して大局の勝を取ると云う事にかけては全く古今独歩の英雄でしたねえ」
 弥之助はこの老人の理解に尊敬の念を起して彼の対話もまたはずんで来た。
「その通りです、戦をさせたら家康の方に強味があるにしてからが、やっぱり最後にはあれを包容してしまいました、なるべく兵をいためずに大局を制すると云う点はえらいものですよ、あすこが武田でも上杉でも誰でも及ばないところです、天下を取るのは力ずくだけでは駄目です、略でいかなければ」
 老人もまた弥之助の言葉にぴったりと意気が合うので、
「ところが欧羅巴(ヨーロッパ)の大戦争をはじめ近頃の戦争と云うものは……」
 老人は近代戦争の兵器と人間との全面的衝突の恐るべき事を説いて「戦争に軍略と云うものがなくなった」と云う事を非道(ひど)く慨歎して居た。
 それから二人の会話が何時しか西郷と勝の江戸城ゆずり渡しの事に及んで来た。
 考えて見ると、西郷も勝も偉かったものだ、維新の開幕は必ずしも二人だけがうった大芝居ではない、内外の情勢殊に英国公使あたりのにらみも大分きいて居たと云う事だが、然し何と云ってもあの場は二人の舞台である、もしかりにあの二人の大芝居がうちきれないで江戸の城下が火になると云う事になれば、東北の強みはぐんと増して来る、それから所在佐幕に同情を持つ諸藩の向背ががらりと変って来る、日本がまた元亀、天正以前の状態になる、幸に新政府が成立したからと云って、その政治の奔命に疲らされて革新の精力などは消磨されてしまう、そこへ外国の勢力が割込むと云う様な事になった日には維新の事業どころではない、国そのものが半属国のような運命に落込まないとは限らない、西郷と勝の二人ばかりが千両役者ではない、明治の維新と云うものは有ゆる方面の力によって達成されたには相違ないけれども、人物が、少くともあの場合この二人の立役者が人命を救い国の運命を救った、エライ人物が出ると云うことは或意味では国の不祥と云えるかも知れない、然し人物が無い為に国を誤るの不祥はそれより以上の不幸と云わなければならない。ドイツにヒットラーが出たりイタリーにムッソリーニが出たりして乱れた国家を統制しこれを活躍せしむる外観はすばらしいが、ああ云う人物を生み、ああまでしなければ立ち行かなくしたヨーロッパ大戦以来の惨憺たる不幸を見れば、いたずらに英雄待望ばかりをして居られない、今の日本に西郷隆盛が居ない、支那に勝海舟(かつかいしゅう)が居ない――と云う事が二つの国民の為に幸か不幸か。
 と云う様な事を弥之助は老人と共に語りあった、弥之助だけがそう云う考えを説いて聞かせたのではない、この老人も立派に弥之助とバツを合せるだけの見識を持って居た。
 老人は品川で山の手線に乗り替えて新宿の方へ別れた、弥之助は東京駅まで乗った。

       八

 それから植民地に帰って数日して弥之助はまた東京へ出かけて来た。
 それは午後の四時頃であった、中央線の電車は満員鮨詰(すしづめ)であってその大部分は学生であった。この頃はたまにしか電車に乗る事のない弥之助はこの箱の中に積み込まれて見ると、
「人が多いなあ」と云う感じにせまられる、人間が多過ぎるなあ、一たいこんなに多くの人間が必要なのかしら――とやけの様に考えさせられる事がある。殊に東京市内から中央沿線に多くの学校が移されたところから、或る時刻になるとここの列車が学生であふれる。ここの沿線ばかりではない、弥之助の植民地の方へ行く私設の沿線でさえも学生であふれかえる。日本には人間の数も多いが学生の数も多いなあとあきれ返るばかりである。
 弥之助の植民地の本村などでも昔は、小学校以上の学校へ通うものが一村のうちで一人か二人位のものであった。まして女の子に至っては尋常科四年生を卒業すれば充分だと云われたものであるが、今はもうちょっとしたところの農家でも女学校を出さなければ嫁入資格に欠けると云う様な事になっている。
 どちらから見ても日本は人間がどしどしふえて行く、教育がずんずんはびこって行く、建築でも道路でもどしどし強化拡張されて行く、非常時の、農村疲弊のと云うけれども、そう云う都会中心の景気を表面から見ただけでは、すばらしい発展である。
 そのうちに席が一つ空いたから弥之助は其処(そこ)へ割り込むと、ひょっこりその前へ現われた背広服の青年が、うやうやしくあいさつした。
「先生どちらへお出でですか」
「やあ小山君か」
と云うのをきっかけに二人はそこで立話をした、この青年は去年上野の美術学校を出た秀才でかっぷくのいい形をして居た。
「どうです、君なんぞは兵隊の方は」
と尋ねると、青年は答えた。
「覚悟はして居ますけれどもまだ召集がありません、私達の同窓にはすでに召集されて出征した人もあり戦死者もあります、美術出身でもう十五名は召集されて居りますが、その内五名は戦死と云うことが解りました。僕の親友であったSと云う青年が、校中の人望家でもあったし人物も立派で気象も秀(すぐ)れて居て柔道も三段でありましたが、上海でとうとうやられてしまいました、しかもその男は同郷の資産家の一ツブ種です、僕の様な次男坊でどうでもいい人間は無事健在でああ云う人間がやられるのだから感慨に堪えません」
と小山青年が云った。弥之助はそれを聞いて、
「うーん」
と口を結んだ、いま、日本の内地へは爆弾一つ落っこちて来るのではない、実感的に何等驚破される非常時現象が眼の前に展開されている訳ではない、こうして平和そのものの秋の夕ぐれの武蔵野の中を走る電車は明朗な青年たちで張り切って居る、然し彼等とても全く米の価を知らずに、ただ食いただ肥って居るだけではない、美校出身だけでも十五、六、七名の出征者のうちに死者五名と云う事であれば少なくとも三分の一が死んで居るのである。
 肉弾、肉弾、全国を通じての肉弾の貴重すべき犠牲は外で戦われて居るから内なる人の日本人の実感にこたえる事が甚だすくないのではないか。日本現在を斯くも安らかにしているのは、皆、外に戦っている肉弾のお蔭である。

       九

 弥之助は植民地から東京へ往復するに国産小型自動車を用いて居る。
 自動車では相当に苦労したものである、あえて贅沢(ぜいたく)のために自動車を欲しがるものではない、自分の健康上と業務の上との両方面から経済的にこれを利用し度いとの希望の為に、二台まで中古自動車を買ったが、皆失敗した。
 その一つはダッチブラザーの古物であったがこれは旧式ではあるが中々機械の質がよく少々利用して東海道、東山道など突破した事もあるが、長く続かなかった、部分品や修繕に中々金がかかるのと正式運転手を一人やとい入れるのとではかなりの大負担になる、そこで世話をした自動車屋が、営業上に籍を置いて呉れて必要の時だけ乗りまわす事にしたが、万事につけて出費が多くてものにならなかった。
 そのうちに一人の青年が来て私立大学に通う学資を得る為に運転手をし度(た)い、幸い、自分は免許状を持って居ると云う事を申出て来たからその話に乗り込んで中古のシボレー一台を買い込み、営業用に登録し必要の時はこちらが乗ると云う事に約束をきめてかかったが、営業用にかせがせれば車体が甚(はなは)だしく痛むと云う事を頭に置かなかったものだから修繕費修繕費に追われてしまう、遂には腹が立って捨値に売り飛ばしてしまった。
 自家用専門に本式自動車を持つとすれば税金だけでも年額五百円はかかる、それに運転手の給料その他を加えると容易なものではない。そこで一先ず自動車とは縁を絶ったが何分不便でたまらない、然るべき専用乗物が欲しいと考えて居るうち、或る朝日本橋の昭和通りを歩くと店にマツダ号という三輪自動車が一台かざられてあった、割合安いからそれを買い取って小型運転手を一人やとって、これは可なり乗り廻したが、発火が容易でなく、ガソリンも食う、不便不満を忍んでそれを乗り廻して居るうちに、日産のダットサンが出現して来た、これは今の処自分の自家用としては丁度手頃のものであると云うところから早速これを買い入れたのであるが、前の三輪車からくらべるとこれでも殿様で、ただ形が小さいだけで万事本式の自動車とかわる事はない、それに運転証はだれでも簡単にとれる小型運転手の免許状でいいし道路は自転車の入り得るところならどこへでも行けるし、そうしておまけに税金も自転車なみと云うような訳で、すべてが現在の自分にはぴったりして居るからこれは引きつづいて愛用し、一年余にして新車と買い替えて引続き今日に及んで居る、これに依って非常な遠乗もやるし植民地から自分を乗せて東京に運ぶばかりではない、出版物や活字、組版等を乗せて往復する、その功労たるや至大なものである、これがあればこそ弥之助は東京を仕事場として植民地に引込んで居られるのである、弥之助の現在の仕事は、小型自動車の足を別にしては考えられない程密接な働きをして居る。
 弥之助としてはダットサンに金鵄勲章(きんしくんしょう)を授けて然る可(べ)き関係になっては居るが、然しこの車にも不足を云えば不足がある、英国の小型オースチンはまだ使用した事はないが、あれ等にくらべるとその耐久性に於て大いに劣るところがある様に思われる、この小型自動車が大いに発展して一台千円位で買えるようになれば実用流行共に期して待つ可きである。
 百姓弥之助は昔から自動車を贅沢品(ぜいたくひん)とは考えて居ない、行く行く実用品として各戸一台は備えねばならぬ様な時代が来るものだと思って居る。

       十

 百姓弥之助は十二月初めの或る一日、用事を兼ねて、東京の市中を少々ばかり歩いて見た。
 日本橋の三越のところから地下鉄に乗って、上野の広小路松坂屋へ行って、「非常時国産愛用廃品更生展覧会」という素晴らしく大げさな催しを見に行った。これは日本商工会議所というところの主催であるそうだが、題名のいかめしい割合に内容はお粗末なといっていいものである。一旦使用した廃物を再生したと称する日用品の陳列が相当ある、係員が不親切な為にどうも会の趣意が徹底しない、例えば、出来上った製作品をなぜ即売しないかと問えば、これはただ斯ういうものが出来るという見本だけだという、それでは廃品更生の宣伝にならないではないか、希望者に分けてやって、斯ういう廃物で斯ういうものが出来るということを見直させ、流行させるようにしなければ徹底しないではないか、というと、事務員が、
「これは素人(しろうと)には出来ません、素人がこれだけやるには七八年も年期を入れなければ出来ません」という。
「それではなんにもならない、七八年も年期を入れなければ出来ないものを拵(こしら)えさせるのでは、利用更生にならない、誰にも出来るようなもの、田舎へ持って行っても、家庭でも土地の仕立屋でもやれるようなものでなければ徹底しない筈である」
ということを弥之助が鋭く言うたので、あたりの人は怒鳴りつけたかと思った、事務員も沈黙してしまったが、要するにああいうものは斯ういう廃品もやり方によっては斯ういう安い費用で、斯ういう重宝なものが出来る、希望者には実費で頒(わか)ちますから見本としてお持ち帰り下さいというようにしなければ会の性質が分らない。入場者に対しても甚だ不親切といわなければならない。
 店を出て御成(おなり)街道をずんずん須田町方面へと歩いて見た、町並みは少し変っているが、口入屋があったり、黒焼屋があったり、錦絵和本類屋があったりするところにまだ明治時代の御成道気分が残っている、万世橋へ来て見ると昔の柳原通り、明治以来の名残(なご)り、古着屋が相当軒を並べている、店の先へ出張って客引をつとめるやり方は以前と変らない、電車通りへ出ると、東京着物市場がある、所謂(いわゆる)柳原通りは洋服屋だが、この市場は和服を主としている、それから小伝馬町(こでんまちょう)、人形町通りを歩いて茅場町(かやばちょう)から青山行のバスに乗って東京駅で下車して丸ビルを見た、丸ビルの店がかり、いつもと変るところはない。
 津軽の産物だといって、じゃがいもパンの試食をさせられ、十銭の包みを一つ買い込んだ、あとで食べて見たら相当に風味がよかった。
 ジャガ芋(いも)というものは、栽培が比較的容易で収穫率も多い、栄養価としては日本人に向かないというものもあるが食糧としては豊富なものであり得る、これでうどんを作る方法もあるそうだが、いろいろ研究して副主食とするようにすることは、日本農家にとって、有益な計画と云えないことは無いと思った。
 それからバスで青山方面へと帰って来たが、天気は非常によろしいけれど、風がある、久しぶりで東京見物をしてかなり町並みを歩いて見たが、なかなか物資は豊かでちっとやそっと戦争をしたからとて影響などは更に見えない、物価が高くなったとか高くなるだろうとかいうが、高いにしても知れたもので、当分そんな窮乏を訴えそうなけしきは夢にも思われない(今時それが見え出すようでは大変だが)。
 改装された東京は風情(ふぜい)というものが欠けておもしろ味のない感じはするけれども、表面見たところでは景気に変りはない、国民の一部が他国で屍山血河を越えているというような風情は少しも見えない、この点に於ては日本は幸福な国である、未(いま)だ曾(かつ)て自分の領土内に侵略を受けたことがない、東京の一角へ爆弾の一つもおっこって来るという日は別だが、今時は何処に戦争がある、といったような風景である、これというのも、彼の壮烈なる肉弾の賜(たまもの)である。
 今の日本は肉弾を以て外国の地域に堅牢無比なる防塁を築きなしている。国内は泰平だが何につけても、彼につけても日本人は肉弾に感謝をしなければならぬと思った。

       十一

 百姓弥之助はニュース映画を見ようと思って、新宿の追分のところまで来た。
 そこで、戦地に向う野戦砲兵の一隊が粛々と進んで来るのを見て足を留めた。
 百姓弥之助は植民地に居ては村人に送られる出征兵とそれを送る村人の行列を見て心を打たれたが、東京の地に来て真剣に武装した日本軍隊と云うものを眼のあたり見ると彼はまるで送り迎えの時の感情とは全く違った心の底から力強い感激の湧き出る事を禁ずる事が出来なかった。
 武装した日本軍隊は身の毛のよだつほど厳粛壮烈なものである、威力が充実し精悍の気がみなぎって居る、殊にこれから戦地に向うと云う完全武装した軍気の中には触るるもの皆砕くと云う猛力が溢れ返って居る、村落駅々から送られて出る光景には慥(たし)かに一抹の哀々たる人間的離愁がただよっていないという事はない。すでに斯うして武装した軍隊を見ると秋霜凜冽(しゅうそうりんれつ)、矢も楯もたまらぬ、戦わざるにすでに一触即発の肉弾になりきっている。
 だから出征の勇士は全く本望を以て死ぬ事が出来る――ただたまらないのは戦終って後その士卒を失った隊長、昨日迄の戦友と生別死別の同輩、それから残された遺族等のしのばんとしてしのぶあたわざる人情の発露である、戦争にはそれがつらい、ただそれだけがつらい、この悲痛をしのぶ心境に向っては無限の同情を寄せなければならぬ。

       十二

 軽便炭焼は成功した、試験としては先ず上々であると云わなければならぬ、約五俵の木炭が取れた、これで自給は成功した、この方法は農家一般に流行(はや)らせたいものだ、素材そのままで炉(ろ)にもやす方法から炭化生活に入る生活改善の第一段と云えよう。
 この方法は別に図解で示す積りであるが、火を焚きつけてから盛んに煽り内部に燃えついた時分を見計らい焚きつけ口をふさいで次に後ろの風入口から火を吹く迄の限度――この間が約一昼夜、火を吹いてから約一時間の後、その口をふさいでそのまま二三日放置して完全に燃焼炭化しきった頃を見はからって掘出しにかかる、この試験では試掘の時機が少し早過ぎた為に不燃焼の部分が多少残って居た、今度はその点に注意する事、それから風入口から火を吹き出す機会が夜中にならぬ様、あらかじめ時間を見はからって点火をする事がかんじんである。
 百姓弥之助はこの自家用炭焼の成功を喜んで同時に農村炭化と云う事を考えた。近頃は農村電化と云う声を聞くが、これが実行は現在の農業組織では中々容易なものではないが農村炭化となると組織の問題ではなく直ちに実行の出来る生活改善の一部なのである。薪として燃したり粗朶(そだ)として燃やしたりする大部分に少しの手数をかけてこれを炭化して使用する事になると時間と経済と衛生との上に多大な利益がある。
 日本の農村生活から囲炉裏(いろり)と云うものを容易に奪う訳には行くまい、囲炉裏の焚火と云うものは、ほとんど原始的のものであるけれどその囲炉裏を囲むという実用性と家庭味は日本農村の生命であって火鉢やストーブでは充(み)たしきれない温かみがそこにあるのであるが、然しこの原始的の情味も早晩相当の改良を加えなければならない時機に達するだろう。
 第一囲炉裏では燃料が多く無駄になる、それから煙が立ち材木がくすぶり家がよごれる、それから眼の為などには殊によくない、同一の燃料を炭にして置くと、はるかに永持がする、一時パッと燃やして火勢をとる様な煮物の為には多少の生の燃料をつかってもいいけれど永持をさせる為には炭がよろしく、そうして経済でもあるし、第一また素薪をたくのだと、煮物をする場合に附きっきりで火を見て居なければならない、燃え過ぎてもいけないし、燃え足らなくてもいけない、少し注意を欠くと消えてしまう、そう云う場合に炭だと、一たんかけて置けば或程度まで放任して他の仕事が出来るというものである。
 それから今日どこの田舎家でも行って見ればわかる事であるが家中がくすぶりきって真黒くなって居る、あれは皆多年の薪生活の為であって、風流としては多少面黒いところもあるかも知れないが一体に甚だ非文明的である。これを炭化にすればあれ程家中を黒光り煤(すす)だらけにしないでもすむのである。然し木炭の価は甚だ高い、年々高くなる一方である、今年あたりは一俵二円もする、農民生活で木炭などを買いきれたものではない。まだまだ日本の農村生活から囲炉裏を奪う事の出来ないのはわかっているが、そこで素材を使うべき場合には相当限定をして置いてあとはこの自家製木炭で調節するようには出来ないものか、この村あたりではまだこの炭化方法を実験して居るところはない様だ、これは一つ大いにはやらせて見たいものだと思って居る。

       十三

 百姓弥之助は今年の正月を植民地で迎えた。
 元日と云っても相変らずの自炊生活の一人者に過ぎない、併し今年は塾の若い者に雑煮(ぞうに)の材料だけをこしらえさせて、それから後は例に依っての手料理で元日の朝を迎えたと云う訳だ。
 昨晩の大晦日(おおみそか)には可なりの夜深しをしたものだから、朝起きたのは六時であった。炉へ火をたきつけて自在へ旧式の鉄の小鍋を下げて、粗朶(そだ)を焚いてお雑煮を煮初めた。それから半リットルばかりの清酒をお屠蘇(とそ)のかわりとして、昨日炊(た)いて置いた飯をさらさらとかき込んでそれで元日の朝食は済んだわけだ。
 至って閑散淡泊なものだが、然しこの食料品としては切り昆布とゴマメ数の子のたぐいをのぞいては、全部自分の農園で出来たものだと云う事が特長と云えば特長だろう。そこで、昨年度の弥之助の農園に於ける収穫を概算して見ると次の様な事になる。
小麦   約十二俵
大麦   十俵
陸稲┌糯(もち) 六斗五升
  └粳(うるち) 五石[#括弧は底本では、二行を括る丸括弧]
馬鈴薯  約四百貫
玉蜀黍(とうもろこし)  三斗
西瓜(すいか)   八十箇
薩摩薯(さつまいも)  五百貫
茄子(なす)   若干
胡瓜(きゅうり)   若干
梅    四斗
茶    一貫目
牛蒡(ごぼう)   五十貫
生薑(しょうが)   五貫目
大根   若干
蕎麦(そば)   三斗
菊芋   若干
里芋┌八ツ頭 三俵
  └小芋 二俵[#括弧は底本では、二行を括る丸括弧]
木炭   五俵
 右の外、莢豌豆(さやえんどう)、トマト、葱(ねぎ)、隠元豆、筍(たけのこ)、鶏卵、竹木、藁(わら)――等の若干がある。
 これに依って見ると、まだまだ中農までも行かない水呑程度の百姓だろう、収穫はこんなものだが、これに投じた新百姓としての固定資本や肥料、手間等の計算はここにしるさない事にする。この植民地には水田が無いから大麦と陸稲米を主食として居る、一昨日塾中に搗(つ)かせた餅もやはり全部陸稲の自家産である。これが終ってから百姓弥之助は燃え残りの榾火(ほたび)に木炭を加えて炉を直にこたつに引き直した、そうしてやぐらの上を直ちに机にしつらえて、それから元旦試筆というものにとりかかった。正月は思い切って字と画を書いてやろうと幾年ならず心がけては居たが中々果せない、今日の元旦こそはと思い切って筆墨紙の品しらべにかかった、硯(すずり)は使い古しの有合せのものを使い墨はこの暮に丸ビルで三円で買って来た香風墨と云うのをおろし筆は有合せの絵筆細筆で間に合せ、硯の水は塾生が早朝に汲み上げて呉れた井戸の若水を用い、それから棚に向って用紙の品しらべをやり出した。
 棚には十年も前からの頼まれものが、うず高くたまって居る。封を切らないのが大部分そのままにしてある、筆を揮(ふる)う事は興に乗じてやりさえすれば何の事はないのだが、とりかかる迄がおっくうで無精でついつい延び延びになってるうちに七八年位は経過してしまう、全唐紙の大物もあれば絹本もあるし半切もあれば扇面も色紙も短冊もみんなごっちゃに、封を切ったのと切らないのと雑然と棚に積み上げられて居る。百姓弥之助はどこから手を附けていいかと戸惑いの形になったが、まあ大物は後まわしにして色紙短冊からとりかかろうと、それを炉辺に持ちおろした。
 それから筆まかせに書と絵とを書きまくるつもりであったが、書と絵とを同時につくるのはどうも気分がそぐわない、書の方は一気呵成にやれるけれども絵の方は相当の構図を組み立てた上でないとやれない、と云ったような呼吸から今日は書だけにして置いて絵は明日のことときめた。
 書は古人の名言や筆蹟のうちから求め、或は自分の旧作のうちから選んで色紙に書き、短冊には古人の名句や自作のものなどを都合三十枚ばかり書きなぐってしまった。百姓弥之助は書道の妙味はこころえて居るつもりだが筆をとってけいこした事は殆んどないから予想外出来のいいのもあるが、どうにも始末に困るのもある、然しけいこをしないだけに流儀にはまらない誰にもまねの出来ないまずさがある処が身上と云うものだ。
 そのうちに本館の方で振鈴が鳴る、式の準備が出来たのだ、そこで塾中で屠蘇を祝って万歳を唱えた。
 それから屋根裏の寝室に行って寝台の上で読書にふけった。
 今年の元日は比類なき好天気のうちに送り迎えをすませて早寝をした、門外へは一歩も出ないで一日を過した。
 二日目は前の如く食事が済んでから、やはり色紙短冊に向って絵を描き出した。絵は有合せの書物や雑誌を題材にしたスケッチで寅年(とらどし)にちなんだ張子(はりこ)の虎の絵が多かった。中々よく出来たのもある。例の欠食猫をモデルにしてブザマ千万な猫を描き上げてそのかたわらに次の様な賛をした。
家猫の虎ともならであけの春
 これは現状維持の鬱懐(うっかい)がふくまれて居る様である。もう少し積極的表現のものとして、
家猫の虎とならんやあけの春
家猫の虎となるらんあけの春
 何か時代に対する諷詠がありと云えばある様だ。
 そこへ塾に居るMと云う洋画家がやって来て一石やりましょうとの事だから直ちにそれに応じて碁盤(ごばん)を陽当りのよい縁側に持ち出させそこで悠々と碁をうち出した。暮のうちは百姓弥之助が少々うたれ気味であったが今日は六番戦って五番勝つと云う好成績である。
 年始状や年礼のしるしや名刺が本館の玄関のテーブルに置かれてある、今晩はこの部落の夜番に当ると云うので善平農士がそれをつとめる事にした。

       十四

 百姓弥之助はこの農業生活に入るにつれて服装の上で不便を感じ出した。それは弥之助の腹が中々大きくて普通の洋服では上と下が合わない、すきまから風が入るおそれがある、そうかと云って殊に日本風の私生活で背広服を朝から晩まで着づめにして居ると云うのもまずい、そこで大ていは和服を着て小倉の古袴をつけて居るが、この袴もまた腹部が出張って居る為に裾が引きずれがちで立居ふるまい殊に階子段登りなどには不便を極める。それからまたこの姿では机に向って事務をとって居た瞬間に畑へ飛び出して野菜を取って来ると云う様な場合に殊更不便を感ずるのである。そこで思いついたのが東北地方で着用して居る「もんぺ」のことである。あれを着用して見たら必ずこの不便から救われるに相違ない、そこで東京のデパートあたりを探させて見たが、出来合は見当らないようだとの事だから福島県の大島氏へ当ててその調製方を依頼したものだ。大島氏の家は福島県有数の事業家で弥之助の依頼したO氏は当主の弟さんに当る人で、白菜だけでも四百町歩から作ってその種子を全国的に供給して居る、弥之助は先年その農場に遊んで同氏の為に「菜王荘」の額面を揮毫(きごう)して上げた事がある、そこで早速同氏に当てて「モンペ」調製の依頼をすると直ちに快諾の返事が来た。
 その文面に依ると「モンペ」は福島地方でも用いない事はないがその本場は寧(むし)ろ山形、秋田の方面であると云わなければならぬ、然し御希望によって当地で然るべくとりはからって上げるからとの事であった。
 程なく同氏から鄭重な小包郵便を以て二着の「モンペ」が送られた、それに添えられた手紙には、当地織物会社の特産、ステーブルファイバーを以て仕立せさせた「モンペ」を送ると、モンペとしてはステーブルファイバーでは地方色の趣味が没却される点もあるが然し時節柄の意味に於て国産ステーブルファイバーを以て試製させて見た。別に地方色豊かなるものとしては会津地方から取寄せて送るという様な親切をきわめたものである。
 弥之助は大島氏の好意に感謝しつつ早速この国産ステーブルファイバーを着用に及んだ。ステーブルファイバーは一見したところモンペとしてはきゃしゃに過ぐるようで立居の荒い弥之助に取っては持ちの方がどうかしらと心配したが見かけによらず丈夫なもので中々裂けたりやぶれたりしない、さて穿(は)き心の方はどうかというとこれは普通の袴と違って裾が締って居るから階子段の登下りにしろ菜園への出入にしろ少しも衣裳が邪魔にならない、その上保温力が大したもので、あれをはいて居ると下腹部から下の温みが着物一枚どころではない、万事につけて耕書堂生活にはぴったりとした着用物である。自分の予想が当った事を非常に喜んで弥之助はこれを塾中の若い者にはかせる事にし、大島氏の送られた型によって近所の呉服屋へ注文して更に木綿製五着を作らせた。
 それから暮になって東京へ出て見ると丸ビルの一角に純田舎製のモンペが売店に二三着陳列してあった、尚聞けば伊勢丹あたりのデパートにもあるという事である、それがもう少し早くわかれば、わざわざ大島氏をわずらわさなくってもよかったと思う、然しこの機縁から大島氏の好意と親切が長く吾々の身体を温めてくれる記念と思えば結句有難い思い出になる。
 この一月二日の日に、大島氏は果して約束の如く此度は新たに地方色豊かなモンペ二着を小包郵便を以て送り来された。
 さて、こうなって見ると、普通の羽織を引っかけたのでは、前の方に隙間(すきま)が有り過ぎる、これは釣合のとれた被布様のものに限る、と、弥之助はこう考えたものだから、次には被布の製作方を思い立った。幸、それには好適の古羽織が一枚ある、これは全部三味線糸で織ったもので、重さは普通木綿の二三倍もある、雨合羽(あまがっぱ)代用などにしながら持て余していた。これを一つ仕立て直してもらって、上っ張りにしようと、人に頼んで被布式に縫い直し、裏地を撤去して、成るべく重量を減らしてもらった、これがまた、丈夫でもあり、惜気(おしげ)も無くて至極よろしい。
 日本農村の服装改良はこんなところから初まるであろう。

       十五

 弥之助は食土一如の信者というわけでは無いが、この武蔵野の植民地に住む限りは、主としてこの附近の産物を食料にとる方針を立てた。
 水田の無いこの野原では陸稲を主としなければならない、陸稲にも相当種類はあるが、釜割(かまわれ)種はさっぱりし過ぎてねばり気が少ない、もう一つの平山種はきびの悪い程うまかった、うまいと云った所で水稲とは比較になるべき筈のものではないが、普通陸稲のさらさらしたものにくらべて、きびの悪い程ねちねちした味いがある、然し麦となると本場である、小麦も大麦もどちらも本格で、小麦は挽(ひ)かせて、うどんに造ったり餅に焼いたりするが、色こそ黒いけれども、その持味は公設市場で売るメリケン粉の類ではない、小麦本来の持味が充分で同時に営養価も高い事が味わえる、大麦に至っては主として碾割(ひきわり)にして食用に供するのとこの頃は押麦にしてその儘飯に炊くのとである、碾割の方は桝目(ますめ)にして格別殖えも減りもしないが、押麦は押しにやるとかえって桝目がふえて帰る、裸麦の或種のものは三斗やって四斗になって帰るものもある。この大麦は麦だけを飯に炊く家もあるが少々ずつ米をまぜて炊く家もある。弥之助の経験ではこの大麦の引割に適度の米をまぜて食うのが一番味がさっぱりとして、然も腹工合に最もよいと思われる、水辺に住む者はやはり風土の関係で肥膏なる米食がよいかも知れぬが、こういう平野に住む者には麦食が確かによろしい、食養学の上から研究したらどうか知れないが、弥之助の体験によると確かにそうだ。
 漏れ承る所によると 天皇陛下に於かせられても、麦と半搗米とを常の御料に召されるそうである。
 一体稲と麦とは如何にもよい対照をもって居る穀物で、稲は春に仕立て夏に育ち秋に取入れる。一年中の最も陽性を受けた豊潤な時を領分として成熟する。それに引替えて麦は陸上に霜枯れの時代から蒔(ま)き初め、厳寒の境涯を通し氷雪の鍛練を受け、そうして初夏の候に初めて収穫を見るのである。だから麦は堅忍不抜なる男性的であり、米は優美豊満なる女性的である、いずれにしてもこの二つが相並んで穀類の王座を占めて居ると云える。
 小麦は別格であるが、パン食をする様になれば、この小麦が米と大麦とを凌駕(りょうが)して穀物の王座にのぼる事になるのだが、パン食は日本人にはまだ向かない、また日本の小麦はうまくパンに焼くことが出来ない、これは製粉して副格的の食用に供するばかりだがこれに次いでは粟(あわ)と蕎麦(そば)とである、粟は近頃作る人がすくないがこれも飯にして少し米の分量を多くした炊き立てなどは白と黄の色彩も快く一種の香気があって中々うまいものだ、都人士に食べさせても珍重がられる程の味があるけれども、冷えるとぼろぼろになって味もさっぱり落ちてしまう欠点がある。稗(ひえ)とか黍(きび)とかいうものはこの辺ではほとんど作らない、赤豌豆(あかえんどう)は昔は盛んに作ったものだが害虫がおびただしく発生するというので、全村申合せて作らない事にして居るがこれは甚だ惜しい事だと思う。
 赤豌豆は、花があれで中々しおらしくて美しい、観賞用にしたスイートピーよりは畑作りの豌豆の花の咲き揃った所が弥之助は好きであった、それに青いうちに莢(さや)ごともいで枝豆を食う様にして食べるとその甘みとうまさは忘れられないものの一つであり、かつまた熟し立てをほうろく煎(い)りにしたり塩うでにしたりして食べてもうまい味がある、ああいうのが味えなくなったのが如何にも残念である。
 東京では盛んに塩豆を売って居る、成程あれも豌豆には違いないけれどもああなっては豌豆のもつ原始味などは全く涸渇してしまっている。
 東京の縁日でどうかすると煎り立て豆を売って居る、豌豆を水につけて軟らかにしたやつを塩をまぶして金網で煎り立て、その熱いやつを紙袋に入れて売る。あれにはまだ相当に豌豆の原始味が残って居る。それも近頃はだんだん尠(すく)なくなってしまったが、浅草公園の瓢箪池(ひょうたんいけ)の附近に行くと最近まであれを専門に売って居る露店があったものだ。弥之助はあすこへ行く度にあれを買い込んであたりはばからずひげ面(づら)にほおばりながら歩いて同行の人を冷々させたものだ、以前東京の市中で豌豆煮立と云って売り歩いたものだがこの頃ではそれも聞えなくなった、豌豆の本当の味は青い時分莢ごと茄(ゆ)でて食うにあるのである、莢ごとといっても莢豌豆とは別である、莢豌豆は今もどこでも栽培を禁止する事はなくお汁の実などにして莢ごとに食べる、だれも御存知の通りだが、赤豌豆は莢ごとに茹でても莢は食べられない、枝豆を食うようにして粒だけ食べるのである。
 枝豆といえば枝豆の原料としての大豆も昔はこの辺でも盛んに作ったが、今ではこれも害虫の理由(わけ)か或は大陸で大量製産がある為に引合わないせいか殆んど全く作らない、それが為に枝豆の食べられない事などは知れたものだが、味噌醤油の自家造も止まったし節分の豆まきの豆も無い、こういうものはすべて買った方が割に合う様になって居るのだろう。
「年とりの豆まきの豆迄こうして袋に入れて三越で売る様になった」
と弥之助の母などは三越の屋上庭園に大豆畑でも出来たほどに驚歎して居る。

       十六

 二月末の或日の事、五の神の力さんが小風呂敷に包んだものを持って来て、
「これは一等賞を取った薩摩薯(さつまいも)だ、一つ食べて見てもらい度い」
と云った。
「それは好いところだ、何か食べ度いと思って居たところだ、なまかね、ふかしたのかね」
と弥之助が尋ねると、力さんが、
「今ふかしたてだよ」と云った。
 弥之助はその小風呂敷を受け取って包を解いて小さいのを三本若い者に分けてやり自分はその大きいのを受け取って皮をむいて食べながら力さんと話した。
「なる程これはうまい、甘薯(かんしょ)のうまいのは、ほくほくして栗の味がする、この間のおいらんとは全く別な味だ、これは何という種類です」
 力さんが答えていう。
「これは紅赤(べにあか)というので、元は川越種です、埼玉県から来たものです、ずっと前に埼玉から熱心家が来てこのさつま薯の種や、それから丈が短くて穂の大きい麦種をこっちの方へ流行(はや)らせたが、この人は毎年麦を 天皇陛下に納める役を仰せつかって居る」
という様な事を話して、
「すべて好いものはトクですよ、この紅赤とおいらんでは第一これをふかす薪からして違います、おいらんをふかす燃料の三分ノ一で立派にふけた上にこの通り味がよくてその上に腹持がいいです、おいらんを五本食べるところを、これなら二本で結構腹持が出来るというものです」
と力さんが云った、いいものは却って経済であると云う理法はたいていの場合に通用する。

       十七

 弥之助は先頃から理髪の自足自給を初めている。
 弥之助は生れつき毛深い方で眉毛(まゆげ)も鬢も濃く、従って髪の毛も黒く小供の時からいい毛だと云って、年頃の娘達にうらやましがられたものであるが、どうも天性無精(ぶしょう)で今日迄髪を分けたという事がない、せいぜい五分刈ですましてしまう、その位だから理髪店へ行って時間をとられるのは何よりつらい。東京に居る時はいつも一番安い理髪店を求め歩いては刈らしたものであるが、それは節約の為のみでは無い、安い所は手っとり早く済ましてくれるという点が有難かったのだ。
 ところが植民地へ来てから青年がバリカンを使う事を心得て居たので早速バリカンを買い込んでこれに理髪を任せた。
 昔三十年も前に東京でこれをやって見た事がある、その時はバリカン一挺(いっちょう)三円以上もして然もあんまり工合がよくなかった事を覚えて居る、このバリカンというやつにも当りはずれが相当にある、そこで今度もどうかと思いながら、隣村へ買わせにやった処、一円三十銭ばかりで一挺買って来た、それを使わせて見ると案外の好調子でその後半年の間に何十頭も刈ったが更にひるまない、このところバリカン大当りである。

       十八

 日支の事変が初まってから当然物価は騰(あが)り初めた、然し暴利取締りが相当行届いてるせいか、その割に暴騰までには立到って居ない、特に農産物等はほとんど価格の値上りを見ない、都会の台所では相当に騰って居るかも知れないが、農村の収入としてはほとんどひびいて来ない、ところが、俄然(がぜん)として弥之助の耳元にひびいて来たのは人間の価上りであった。昨年百五十円程度の作男の給料が二百五十円以上にまで飛び上ってしまった、それから昨年四十円の仕込盛りの小供が今年は九十円で他に口があるからと申込んで来た。男の方が約七割、小供の方が十二割以上の価上りである。こういう相場は誰が立てるのか知れないが兎に角それが共通した相場になって居て、それでも新たに頼み出しというのがほとんどない、人間の不足という事が覿面(てきめん)にここへひびいて来た。兎に角支那へ向けて大量の人間が進出して居るその影響がこうも現金にむくって来たのである。これは実に日本の農村の古来未だ曾(かつ)てなかった一大事件であるのみならず、壮丁の支那進出は、この分ではいよいよ多くなろうとも減ずる気づかいはない、今後労力の不足はいよいよはげしくなるに相違ない、そうかと云って労力の暴騰に準じて一俵十円の小麦が十五円になるという様な訳には行かない、この農村労力問題を如何(どう)するか、共同経営の新方法で行くか、機械化電化の促進で行くか、いずれ農村労力の革命が行われねばならぬ事を弥之助は感じた。今迄人口過剰に苦しんで居た日本内地がやがて人力飢饉に落ちて行く形勢がありありと解るような気持がした。
 殊に百姓弥之助の植民地は○○(伏字)飛行場の飛行機の散歩区域である。軍需品の工場が、その飛行場からこちらへ向けて、ドシドシと立て増されて行く、今迄農業に働いていた青年をはじめ、女子供に至るまで、ドンドンとその方に吸収されて行くから、この農村労力の移動がハッキリして来る。
 年々七八十万の人口が殖えて日本は人口が多過ぎるという感じはやがてドコかへ消えて行って、その後に人間飢饉の大波が寄せて来るような感じ、今や、日本の人口が一億に達したとはいうものの、四億以上の人口を有する国を向うに廻して長期の戦争をしなければならないとすれば、この分では人間はいくらあっても足りない、金より物ということが、一時行われたが、それが物より人ということになりつつあるのではないか、今、農業に働いている壮丁は、いつ徴集されるか知れない、そうなると一人前に足りない子供の労力というものが、一人前以上に要求される時期が来たというものかも知れぬ。

       十九

 百姓弥之助が植民地へ戻ると二ツの欠食児童が待って居る。
 欠食児童とは猫の子である、この植民地へはまぐれ猫、のら猫がよくやって来る。まぐれ猫については曾て次のような一文を書いた事がある。


    野良猫

 夏のうち耕書堂の居間を開け放しにして置くと、よく野良猫に襲われる。食事半ばで肴(さかな)をかすめられたりすること屡々(しばしば)である。或時の如きは、日本橋からくさやの干物、鱈(たら)の切身というようなもの一包を買い込んで、大袋の中へ投げ込み、たしかに持参した筈(はず)のがない、東京へ置き忘れて来た筈はないのに幾ら探してもない。
 気がついて見ると、それは包みごと野良猫めにしてやられたのだ――どうも憎い奴だ、見つけ次第一つこらしめてやらなければならないと思っていた。
 秋になって、或晩戸を締め切ってしまうと、縁側の隅でニャーニャーと猫が鳴く、閉めこまれたな、よし、とっ捕えてやろうと立って障子を明けて見ると、隅っこに鳴きながらおびえているのは、逞(たく)ましい野良猫と思いの外、まだほんの小猫であった、少々案外の思いをして、よし/\此奴なら痛しめるほどのことはないと、有り合わせた肴の屑(くず)をとって投げ与えると、恐る恐る近寄って来て、それにかじりついた、それから、鰹節(かつおぶし)をけずりこんでボール紙の上に飯を少し盛って与えると、恐る恐る近寄って来たが、それにかぶりついたと見ると、食うこと食うこと、すさまじい勢で貪(むさぼ)り食いはじめて瞬(またた)く間に平げてしまった、それから今度は、少し大きいボール紙にもう一度飯を盛って、また鰹節を奮発して与えると、それも見る見る平げてしまった。
 それに味をしめて忽(たちま)ちにこの猫は余になずいてしまって、膝元と身辺をどうしても離れない、立てば立った処の足にまつわりついて室内のどこまでも附いて来る、便所の中までもついて来る、まだ食物が足りないで、せがむのかと思うとそうではない、打っても叩いても膝元を離れない、この仔猫は虎猫であって、尻尾が気味の悪いほど長い、その晩は炉辺にちゃあんと座り込んで一夜を明かしてしまった、その翌日になるともう我が家気取りでおとなしく炉辺を守っている、然し余が立てば何処までも何処までもついて来て、足にまつわり、指をなめたりすること少しも変らない、思うに捨てられたのか、まぐれたのか、何れにしても野良の一種で一定の戸籍を持たない奴であったには相違ない、しかし偶然此処(ここ)で本来の家畜としての安住所を与えられた気分になったことは疑いないし、兎に角、野良猫としてのルンペンとしての自分を有籍者としての待遇を与えられた気分になったことは疑いがない。
 右の如くしてこの仔猫と二日二晩の生活を共にしたが、自分はまた東京へ出かけなければならぬ、そこで、塾の青年にこの仔猫と、猫飯皿とを与えて自分が帰るまで保育するように托して置いた。
 それから二日程経て来て見ると、猫は何処へ行ったか行衛が知れない、塾の青年に聞いて見ると、あれから忽(たちま)ちに行衛不明になってしまいましたが、あれは本来野良猫で、とても居つかないように出来ている、殊に虎猫であんなに尻尾の長いのは祟(たた)りをする猫だといって人が嫌がる、それで誰人かこっちへ持って来て捨てたのでしょう、とても居つくものではないです、と祟られることを気味悪がるようである、猫ぐらいに祟られてどうするものかとかっ飛ばしながら、耕書堂の戸を開いて居間に構えていると、またいつの間にか例の猫がやって来た、そうして余の膝に這(は)い上ったり、後をついたり、どうしても離れまじとすること、その前と少しも変らない、余はこれに食物と肴の屑とを与えてまたも二晩ばかり生活を共にした、それからまた例によって耕書堂の戸を閉して東京へ出かけた、その時に猫を取っ捕えて青年達に托すること前の通りにして出た。
 ところがこんどはたしか三日ばかりも在京して、また戻って来て見るとその夜に至るまでとうとう猫は来ない、夜が明けても昼になっても姿を見せない、非常に残念な気持がしたが、とうとうそれっきり姿を見せないのである。
 それからまた東京へ一往来して帰って来て一人寝たが猫は来ない、若(も)しやと思って気をつけたがとうとう来ない、処が夜中に戸の外でニャウと啼(な)く声がした、そら来たなと思って、こちらもニャウと鳴き、チュッチュッと呼びながら障子を開けて戸を細目に開き、水窓までも開けて置いてやったのみならず、また飯と目刺とを縁側へ備えて待ち受けたが、それきり夜明まで猫の啼き声はしなかった、無論、飯も目刺も口をつけられずに残されている。
 諦(あきら)めてしまったが、その翌晩になるとまた戸外でニャオと啼いた、また起きて、戸を開けて見てやったがそれっきり音沙汰が無い。
 戸の外まではたしかに忍んで来たものに相違ないのである、しかし、その猫が前になずいたところの小虎でありはあったが、もう既にかりそめの飼主の声を忘れてしまって他人行儀で恐れて近づかないのか、或はまた全く別の野良猫が空巣をあさりに来たつもりの処を、思いがけなく中に人がいることに恐れをなして逃げて行ってしまったのか、そのことはわからない。

 扨(さて)、こうして居るうちにいよいよ正銘の野良猫となってしまった日にはもう手が附けられない。これを追えば走り、これを捕えんとすれば隠れ、ほんの一寸(ちょっと)の隙をねらっては、ものすごい空巣をかせぐ、如何(いか)なる手段を以てしても如何なる誘惑を以てしても一たん野良となった猫はもう決して人にはなつかない。この植民地のあたりに人家とてはないのだが、何処かに隠れていて、夏中戸を開け放して一寸ゆだんして居るともう彼等の侵入によって必ず何等かの被害を受ける。お鉢のふたを開ける位は容易(たやす)い芸当で、戸棚、鼠入らずの戸まで開けて掠奪を逞しゅうする、そのうち、一匹の仔犬を飼うことによって、この野良猫の凶暴なる出没が幾分緩和されたが、やがて飼犬の飼料に対する野良の襲撃がはじまった、食と生との為に如何に家畜が凶暴化することよ、犬に当てがった食物を襲う時の猫の猛烈さは、仔犬が怖れを為して走るという珍現象を出現したのである。
 この侵入者と掠奪者の為に農事の子供は、竹の吹矢をこしらえて隠れて吹きつけたが効を奏さない、陥穴をこしらえて見たがかからない、鰻釣針(うなぎつりばり)に餌をつけて、藪(やぶ)の中に仕掛けて置いて見たが、食物と針とは呑み込んで糸だけを食い切って逸走してしまっている。
 或朝の事、この野良猫の出現をつい池の向う島の祠(ほこら)の中で見出した。可なり毛色がよく肥りきった三毛猫であるが、用心深い様子で絶えずキョトキョトしながら寝込んで居る、それをこちらから遠眼鏡で見ると面中(かおじゅう)がきずだらけで有馬だの鍋島だのの猫騒動のヒーローを思い出させるような物すごい形相(ぎょうそう)になっている。この一疋(いっぴき)の野猫に散々手こずらされては居たが、それでもこの野良者の存在は鼠よけの為には予期しない効果を現わしているらしかった。御承知の通り植民地の一軒家だから、家ねずみ野ねずみも四方から押し寄せてここを巣にしない限りはない、それを一疋の野猫ががんばって居る為に幾分か魔避けの為にはなったと思う。
 それからしばらくして本村のS氏から仔猫を三疋もらった。二三日すると一疋はポックリ死んでしまった。さてこれを育て上げるのが一骨(ひとほね)だ。塾生の青年共にまかせて置いた日には前例がある。幸、今度は塾主としての弥之助も少しはこの植民地に落着くことが出来るのだから、引きつづいて少々のめんどうを見てやろうと思っていた。三疋のうち一疋は雌(めす)で二疋が雄である。雌は一疋はなれ雄同志二つがよく一緒に遊び歩いて来た。ある日寮の一室を掃除すると積み重ねた障子の隅からまだ眼の開かない鼠の子が十疋も出た。それを三疋の仔猫を持って来て食わせるとおどろくべき事は、まだ乳ばなれをして間もない粥(かゆ)でなければ食べられない仔猫が、その鼠の子にかぶり付いてうなりながら咬(くわ)えあるく形相と云うものは全く猛獣性そのものである、ねずみをあてがって初めて猫と云うものの猛獣としての本性がありありと解る。
 そうこうしているうちに雄猫の一疋がポックリと死んでしまった。死の原因はよくわからない、後はミケとトラとの二ツになったがこの度はこれが相棒でむつまじく遊びあるいている。この二疋だけは殺し度くないものだと留守の間はよく青年に云いつけ、帰って来れば弥之助手ずから食物を当てがって愛撫(あいぶ)をこころみて居ると、さすがによくなずいて弥之助の書斎を離れない。夜は二階へつれて行ってふとんの裾へ寝かしてやる、中へ入れるとまだ爪をかくす事を知らないものだから、処きらわずこちらを引っかいたりまたはなめまわしたり食い付いたりするから、掛布団(かけぶとん)の間へ入れて寝かしてやる、無精によくねる、いくら寝ても飽きたと云う事を云わない、夜昼寝つづけに寝る、たたき起してほうり出すといやな顔もせず飛びまわったりじゃれついたりする。ことに夕方が一番はしゃぐ様だ、猫のじゃれるのとちょっかいを見て居ると如何にも可笑(おか)しい、これは本能的の躍動だが、かくれん坊するのを見て居るとどうも少し意識的にやる様だ、一つが障子(しょうじ)の外へ飛び出してじゃれて居ると一つがこちらの柱の陰にかくれて待ちかまえて居る、そうすると前に飛び出したのがまた戻って来る、その出合頭(であいがしら)にバーッと云う様な様子で左足のチョッカイでおどりかかるところなどは人間の子供の遊びと少しもかわらない。
 食事の時などは膳へたかったり、うろつきまわってうるさい、追い飛ばしたってどうにもならない、そう云う時は断然桶伏(おけぶせ)の刑に処するのである。桶伏と云うのは二ツをまとめて有合せの笊(ざる)をかぶせその上へ重しの本をのせて置く、最初のうちはザルをがりがりかいたり敷物をむしったりしてミューミュー鳴くが、暫くすると観念して静まってしまう。やがてこっちが食事がすんで解放してやると、大てい二ツが重なりあってチョコナンとして居る。
 猫にあてがう食事としてはこちらの飯を分けてけずり節を少しかけてやる程度だが、魚類があれば少し分けてやる、生がかったメザシよりは干物の方を好んで食う、またあんパンなんどをつまんでやると飯よりはかえってよろこんで食う、いまの処肴(さかな)よりはかえってパンが好きらしい。あんパンもあんの部分だけは食わない、ビスケットなどは噛んでやればよろこんで食べる、この二ツのうち、三毛の雌の方が丈夫でトラの方が少し痺弱(ひよわ)いようだ、組打をしてもトラの方が押され気味で、いつもねわざに受けて居る。或晩このトラが、炬燵(こたつ)へ這(はい)って来て如何にも元気がない、やっと炬燵の上へ這い上ったところを見るとぺしゃんこになって、一枚と云いたいほど平べったくなってしまって居る。そこで驚いて牛乳の残りを飲ませなどして居ると、やがて元気は恢復したが三毛にくらべると影がうすい様だ――併し程経てこれは反対の現象を呈して来た。
 塾の成進寮の二階に鼠が横行して居る。白昼もばたばた横行している。夜になると家鳴震動して土を落しごみをおとす。どうも寝られない、弥之助は叱(しか)ったり、嚇(おど)したり物を投げたりして見ても中々しずまらない、二階の床板をはずして、鼠の侵入路をしらべて、防禦策を講じたが中々効がない、そうしているうちにこの仔猫が来たからこいつを一つ利用してやろうと天井の一角を押し破って、夜中にその角から天井の裏へ猫を押し上げて置いた、そうして、しばらくすると猫が下りたがってしきりに哀泣する、彼等の力ではそこから畳の上まで降りて来る事が出来ない、降り様としては躊躇(ちゅうちょ)してもの悲しい泣声をたてる、しばらくして雌の方はどうやら天井裏をぬけ出して家の裏をめぐって戻って来たが雄の方はやっとなげしまで降りてそこでうろうろしながらしきりに哀泣をつづけて居る、よってようやく取りおろしてやったが、覿面(てきめん)なものでその夜はさしもに荒れた鼠がガタとも云わない。実に餅屋は餅屋である。我々大の男が如何に猛威をふるって怒罵叱責してもその威力はこの仔猫が一分間の悲鳴哀泣に及ばない、ものには各々(おのおの)天分があるものだと云う事がつくづく思わせられる、それから以後、別々に母屋と寮との間に毎晩はなして寝かせて、鼠族鎮台の役を勤めさせることにした。
 斯(か)くてある中、一方に於ていよいよ野良猫の元兇退治の時が来た。
 或る寒い晩のこと、この野良猫が書庫に侵入している処を、それと知らずに弥之助が出入口を閉めきってしまった。退路を断たれた野良猫は周章狼狽(ろうばい)逃げまわる、よし心得たりと弥之助は徐(おもむ)ろにそれをとっつかまえる手段を講じ、それから笊(ざる)を楯にステッキを獲物にこの野良猫を相手に大格闘が始まるのである。相手は年功を経て野獣化したる家畜が絶体絶命の死物狂い、書庫と廊下と応接の間と寝室と食堂を追いつ換わしつ、その猛烈さ加減は確かに岩見重太郎の狒々(ひひ)退治以上の活劇であったが、さしもの猛獣も運の尽き、とうとう書斎の障子の細目の桟(さん)を半分くぐったが、後半が出ない、その後足を弥之助はむずと捕えたが、さて縛(しば)るべき何物も有り合さない。止むを得ず片手を以て自分の帯をほどいてその足をしかと柱へ結びつけて置いて、それから青年を呼んで処分にかかったが、障子にはさまれながら必死の狂暴ぶりには手の下し様がない。細引を持って来て遠廻しにゆわえて見たが恐しいもので麻の細引では幾本縛ってもがりがり噛み切ってしまう。止むを得ず針金を持って来て、やっとの事で結えた。
 そこへ例の欠食二つがやって来た。いや改めてこの場へやって来たのではない、最初から此処に居合せて侵人者のあったのを主人よりは先きに感づいて炬燵(こたつ)の傍(かたわら)でさっと身の毛をよだてて一方の隅を見込んだ形が今思い返して見ると佐賀の鍋島の奥女中連が怪猫の侵入に怯(おび)えた気分がある。二つの欠食をつかまえて、試しに怪猫の前へ突きつけて見ると、キジの方は遠く離れて縮み上って泡を吹いて前足を揃え毛を逆立てて怖ろしい表情をしたが、三毛の方は平ちゃらで、馴(な)れ馴れしく野良猫の足もとまで進んで行く、ああ危ない、噛み殺されはしないかと心配したが、野良猫は少しも危害を加えない。どちらも三毛同志である。野良猫は無宿者のくせに肥り返って毛並もつやつやしい。そこでこれは親子ではあるまいかと思った程である。全然出所が別だから、親子の血を引く筈は無いが、見ように依っては浪花節(なにわぶし)の何処かにありそうな、親子生別れの場面が展開された。
 それから野良の元兇は農舎へ引摺(ひきず)って行ってつないで置き、さて全く改心の見込無きものとして断然死刑に処してしまうか、或いは相当期間禁錮(きんこ)して、再び真猫に帰り得る見込有りや否(いな)やを試験するか、何にしても今日迄侵入と掠奪(りゃくだつ)に依りこの通り肥り返っている代物(しろもの)だから多少の窮命を与えたからとて早急に生命に異状はあるまい。しばらくこの農舎につないで鼠の番をさせて置く――そうして弥之助はまた東京へ出たが、二日ばかりして帰って見ると野良猫は昨晩死んでしまったと云うことである。二晩や三晩で参る筈は無い屈強さと見ていたのが、寒さにこごえたか、針金の緊縛で心臓でも痛めたか、脆(もろ)くも最期を遂げてしまった。
 思えば猫の一生もまた多事と云わなければならぬ。

       二十

 百姓弥之助は或日の事、植民地を出て多摩川の沿岸の方へと歩いて行って見た。昔に変るいちじるしいものは水道と水田であった。
 水道と云うのは多摩川の本流をここで分けて一方を玉川上水として、江戸以来東京へ引き、一方はそのまま東京湾へ落したものだが、昔はその分水も豊富であったが、東京の拡大するにつれ、今はもう殆(ほとん)ど全部を上水へ取入れてしまって、六郷の方へは殆ど一滴も落さないと云うしぼり方になって居る。それからそのあたりの水田も弥之助が子供の時代とは打って変って劃一の耕地整理が出来上って居る。以前はこの水田が甚だ不器用な区分で、田圃(たんぼ)としての面白味を充分に持ち、その間を流れる田川の如きも芹(せり)やその他の水草が青々として滾々(こんこん)と水の湧き口などが幾つも臍(へそ)のような面白い窪みをもくもくと湧き上げたものだが、今はそんな趣きはすっかり無くなってきちんとした掘割になってしまった。斯様な耕地整理によって年々若干石の収穫は増したであろうが、どんな造庭師にも出来ない田圃の面白味はすっかり無くなってしまった。上水の水道沿岸に於てもやっぱりその事は云える、江戸以来の玉川上水、日本第一の水道であったところのこの玉川上水は弥之助の少年時代は両岸から昼猶(なお)暗いところの樹木がかぶさって居たり、危うげな橋が渡されて居たり、掘割ではありながら自然その水路も底の見え透らない深さをもつところもあったり、なだらかな瀬となって流れるところもあったり、そうしてそれ等のものすごい淵(ふち)には幾つかの伝説が附着して居り、或は河童(かっぱ)が棲(す)んで居るとか、小豆洗婆(あずきあらいばば)あが出るとか、こんが引き込むとか云う云いつたえがそのままで受入られ、昼間通る弥之助の子供心をもおびえしめたものだが、今はそれがすっかり底を浚(さら)われて、深さもどこまでも平均され、両岸はコンクリートでつき固められ、全く人造掘割の平板な通水路にされてしまっている。この地方の河童と云うのも昔からどこの里にもありそうな御多聞にもれぬ伝説が残って居る、力自慢の或親爺が河童と薪の背負いくらべをしたとか、河童は人を川へ引きずり込んで肛門から手を差入れて臓腑を引き出して食ってしまうとか云う話を断えず聞かされていた、小豆洗婆あと云うのは堂崖(どうばけ)と云うのがあって、夜な夜なその川淵の暗い所でザックザックと小豆を洗い初めると云うので子供の時は夕方になるともうそのあたりは通れなかった。勇敢な男が正体をつき留め様としてそこへ行って見るとザックザックと云う音は足を進めるにつれて遠ざかって、とうとう音だけは絶えず聞えて居て、遂にその正体はつかむ事が出来ないでしまったと云う事だ。それを解釈するものは小豆洗婆あは即ち狸(たぬき)であって、あの小豆を洗う音は狸がその尻尾を水の中につき込んでザックザックとやるのである、人が行けばそれにつれて狸もまた先へ先へと尻尾を洗いながら逃げて行くのだなどと誠しやかに解釈する子供もあったが、勿論(もちろん)その正体は解らない、ただし狐や狸が人をばかすと云う伝説や実験談等は無数にあって一々それが肯定されていた。
 それからこんと云うのはどう云う字を宛てはめたらいいか解らないが、これは川や堀の流れの底の知れない最も深い淵に住んで居て通る人を見かけては淵の中へ引っ張り込んでしまうのである。どこの若い衆が夜遊び帰りにこんに引っ込まれたとか、どこの娘がこんに引き込まれたとか云ううわさを絶えず耳にして居たものだ、そうしてこんに引っ張られるものは大てい若い男女に限られて居た様だ、それ程こんのうわさは絶えなかったにかかわらず、こんと云う者の正体はだれの口からも具体化されて物語られたことはない、たとえば狐でも狸でもテンマルでもミコシ入道でも幽霊でもモモンガーでもカマイタチでもデーダラボッチでもそれぞれのグロが皆相当の形体を附与されて表現されるのに、このこんばかりは誰もどんな形をして居るか説明したものはなく、またこればっかりは探究心の強い子供もその正体を追究することなしに、ただこんが引くこんが引くと云う事だけで通されて居た、こんと云うのは或は「魂」と云う字を宛てはめたら近いのかとも思われる。そうしてその淵々の底の見え通らない青みを帯びた俗に「青んぶく」というすごい所にのみ棲(す)んで居て、その引っ張り込む者が重に若い男女であるところを見るとこれは身投げとか心中とかいうものではなかったかと思われる。今時は川底も平均して、人間が飛び込んでも沈みきるような処は稀(まれ)であるからそう云うグロも全く棲家を失ってしまったらしいけれ共、そう云う不自然の中の自然な風景も伝説も同時に全く消滅してしまった。もし明朗という意味がそういう風に平板に人間の利便だけを標準として軽く浅くなるという意味ならば明朗は安っぽいものだ、そうして斯様(かよう)に明朗化され平板化された進歩というもののうちに住民の生活が内外共にどれ丈向上したかと思えば、それは殆ど何もない。失う所が多くて得る所が絶無のようにしか百姓弥之助には思われない。

       二十一

 それは成程、弥之助が子供の時分――に比べると、外形の生活の変化は、何かと異常なものが無いではない。
 今から丁度四十年の昔、百姓弥之助が、まだ十四歳の少年の頃、東京の本郷から十三里の道を、徒歩で立ち帰ったことがある、初夏の頃であったと思うが、紺飛白(こんがすり)の筒袖を着て、古い半靴を穿(は)いて東京を出て来た、湯島天神の石段を上りきって、第二の故郷の東京から第一の故郷へ帰る心持、丁度、唐詩にある「卻望并州是故郷」の感じで見返ったことを覚えている、それから今の高円寺荻窪辺、所謂(いわゆる)杉並村あたりから、北多摩の小平(こだいら)村附近へ来ると、靴ずれがし出して来たので、その半靴を脱いで杖の先きにブラ下げて、肩にかついで歩いたが、そうすると村の子供連が弥之助の前後に群がり集って、
「あれ、靴!」
「あれ、靴!」
と云って、驚異しながら、ぞろぞろついて来たものだ。今は、その辺は、もう文化住宅が軒を並べて、中央線利用のインテリ君やサラ氏が東京の中心へ毎日通勤するようになった。
 弥之助の植民地のある本村は、前に云う通り東京の中心地から僅かに十二三里の地点だが、弥之助の小学校時代には、自転車というものが一年のうち数える程しか通らず、たまたまそれが校門の外を通過することでもあろうものなら、
「それ、自転車!」
と云って、学童が遊戯を抛って校門の杭(くい)に首を突き並べて騒いだものだ、今日では、いかなる貧農でも自転車の一輛や二輛備えていない家は無い。
 交通機関について云って見ると、今の中央線が甲武鉄道と云って、飯田町から八王子までしか開通していなかった。
 そこで、この地方の人は汽車の便を借りて他方へ行くには、甲武線の一駅立川まで徒歩か或いは人力車によらなければならなかった。
 甲武線――飯田町八王子間の開通が明治二十二年八月ということであって、その沿線立川駅から分岐して青梅(おうめ)鉄道という軽便が出来たのは明治二十七年の十一月ということである、丁度日清戦争の最中であって、百姓弥之助はその時漸く十歳であった。日清戦争というものが如何に当時の少国民の愛国心を鼓舞したかということは別の思い出になるが、鉄道がいよいよこの村へ引かれて来るというこの地方の交通革命時代も異様なセンセーションを以て少年の頭にもひびいて来た。
「こんだ、汽車というものがいよいよこっちへ引かれて来るとよ、汽車というものは恐ろしく速いもので電信柱と電信柱の間を目(ま)ばたきをする間に通ってしまうとよ、一丁位先きへ来てもソレ! という間に逃げてしまわなければ轢(ひ)き殺されるから、何でも線路へ寄ってはいけねえぞ」
といってあいいましめて恐れたものだ。後でいよいよ汽車が通った処を見ると、予想程速いものではない、ということは分ったが、少年時代には汽車の速さを魔法的に考えて居たものだ。しかしこれは少年の誇張された恐怖心から起った想像説ではなく、少年の恐怖心を誇張的に刺戟して列車の危険区域から遠ざからしめようとする工事者の政略的宣伝から出たのではないかと思われる。
 鉄道の開通という事は、単に少年の好奇心を刺戟したのみではない、地方一般の人心を聳(そび)えしめるものが少くはなかった。鉄道という余計なものが引っぱられて来る為に、都会の生意気な風が吹いて来るから用心しろの、汽車が出来た為に村の富はずんずん東京へ持って行かれてしまうから、ああいうものへは成るべく近づかない方がいい、という様な意向は大人の頭にも根強い勢力を占めていて、それが為にわざわざ停車場を敬遠してあとで後悔するという様な時代であった。
 自転車は右のような次第であるし、人力車は村に一台か二台あるか無し、お医者さんでもなければこれに乗る者はなかった。流石(さすが)に駕籠(かご)は地を払ってしまったけれども、それでもどうかすると病人などが乗せられて行くのを見た事がある。

       二十二

 百姓弥之助は、ある日の事、梅を見ようと思って、多摩川の向う岸を歩き、ふと、この地に閑山(かんざん)先生が隠棲していることを思い出して、その廬(いおり)を叩いて見る気になった。
 閑山先生というのは、この地方から出た老詩人で、漢詩の造詣がなかなか深いので有名な人であった。
「閑山先生のお宅は何処ですか」
と行く行く村人にたずねると、
「あゝ閑山の家ですか、閑山の家なら、これをこう行ってこう曲って――」
と教える。
 それから暫らく行って、またたずねると、
「あゝ閑山の処は――」
と云っている。
「あれ/\、あすこへ行くのが、あれが閑山だあよ」
と村の子供が指して教えるのはいいが、何処へ行っても、閑山閑山と呼び捨てで、子供までがこの体(てい)であったから、百姓弥之助は変な気持がした。
 程なく、たずね当てて、久しぶりでほとんど半日をその庵で快談に耽(ふけ)ったが、その話のついでに右の呼び捨ての不審をただすと、閑山先生、苦笑いをしながら斯う云った。
「あれは困りものです、そもそもこの村のアクの抜けない先輩共がいけないのです、拙者の名が多少世間に知られているのを、自分の家族か何かのように心得るのはまあいいとして、おれは斯ういう世間に通った名前も、呼び捨てに出来るのだという、卑しい夜郎自大の見えから、そう呼ばなくてもいい場合に、閑山閑山と云っては鼻にかけるというわけで、親しみから来ているのではない、一種のアクの抜けない田舎者根性から出ているのです、そういうやからは拙者の面前では、話も出来ないのですが、全く無邪気な農民と子供等があの通り、それでいいものだと心得て、呼び捨てにしている、中には拙者の前で臆面も無く閑山が閑山がと呼びかけて済ましているのがある、あまり図々しさが徹底しているから、よく考えて見ると、『カンサン』サンという字がつくから、それでもう敬称は支払い済みだと心得ているらしい、勘さんとか助さんとかいう意味で用いているらしい、これ等は全く無智無邪気でおかしいが、こういう風儀をはやらせた、村の先輩格のアクの抜けない半可通がよろしくない」
と閑山先生が、その来歴を話した。
 百姓弥之助は、それを聞いて、成程と思った、そうして、その日の帰りがけに、その村の小学校をたずねると、丁度校長さんがいたから、弥之助は立止まって、少々立話をした末に、それとなく斯ういう事を忠告した。
「長者を尊敬する風習はよく児童等に教えて置きたいものです、昔、江州(ごうしゅう)の小川村へ行くと、藤樹先生をたずねて来る他郷の人の為に、村人は、わざわざ衣服を改めて案内したそうですが、郷党にはその位の気風があって宜(よろ)しいです、閑山先生は聞えたる老詩人です、それを子供までがああして呼捨てにしている、無邪気といえば無邪気だが、他郷の人が聞くと非常に聞き苦しいです、あれは学校から一応注意してやっていただきたいものです」
 校長さんは、よくその忠告を諒として、相当教化につとめることを答えたが、その後、たずねて行って見ると著しく、その無作法が無くなっていた。

       二十三

 この村に電燈が点(つ)いたのはいつ頃の事であったか知らん、何でも弥之助が東京に出た時分で、明治三十年代の事であったと思う。農家へ電燈が点いてその下で藁打(わらう)ち草履(ぞうり)こしらえをやって居ると云って田舎も中々贅沢になったと笑ったものだが、東京の市中に於ても電燈というものが早くから点けられてはいたけれども、最初のうちはそれは非常に料金が高く各家各室へつけるという訳には行かなかった。弥之助も青年苦学時代は大てい石油ラムプですましたもので、普通学生の下宿も各室電燈を引くという事は思いもよらず皆台ラムプを机の上に置いて勉強したもので、当時書生の引越と云えば人力車の上に腰を懸け、股倉の間へ机を割り込んで片手に洋燈(ラムプ)を持てばそれで万事が済んだものだ。それが急に料金が引き下げられ、一般に盛んに使用される様になったのは弥之助が二十二三歳の頃でもあったろうか、電燈値下げの殊勲者としては実業の世界社だの都新聞だのというものが先陣を切ったもので、その結果さすがに頑強を極めて居た東電(佐竹という人が社長で政友会の弗箱(ドルばこ)であったとの説もある)も時勢に抗し難くとうとう大値下を為すの已(や)むを得ざるに至った、その時である、東京に居た弥之助は町のお祭を歩いて、それまでは提灯(ちょうちん)であった馬鹿囃子(ばかばやし)の屋台に電燈が点けられたのを見て劃期的に感心した、
「お祭りの馬鹿ばやしの屋台にまで電燈がついた」
 弟などをつれて祭礼見物に出かけてはひたすら驚異したものだ。それからどこの家でも各室皆一燈を備える様な勢いをもって今日に及んで居る。
 日本の電力及び電燈は世界で一二を争う威勢だと云って誇るものもあるが、それは資本力のせいばかりではない、天然の水力に恵まれている余恵である、併しそれでも都会と村落との比例を考えて見ると恐ろしい開きがあるのを、この植民地に落ち着いて初めて弥之助は感得する事が出来た。
 こっちへ来て見ると田舎(いなか)の電燈料が東京市内にくらべて遙かに高い、高いのはいいとしても光力が甚だ弱くてけちである。それから朝夕の点滅の時が如何にもしみったれという感じを持たせずには置かない、昼夜線というのは頼んでも中々引いて呉れない、そして朝は早朝からぷっつりと配電を止めてしまう、早朝飯をおえてこれからだという時にぷっつりと消えてしまう、仕方が無いからロウソクでつぎ足をして、やりかけて仕事を終るという有様だ。夕方はいよいよ暗くならないと点かない、今これを書いて居る三月上旬は、朝は先ず五時から六時の間頃ぱったりと消えてしまう。夕方は五時過でなければ点燈しない。弥之助の様に早朝を書きものに費すものにとってこの時間でぱったり止められてしまうのは実際腹が立ってたまらぬ、それから午後の五時なども曇天雨天の日などは室内で文字を料理する事などは出来はしない。電燈の無かった時代を考えて見ろ、贅沢は云えたものでないと云われればそれまでだが、すでに電燈が有って人を信用させる事になっている以上は如何してもう一息の利便が計れないのか。
 それから田舎の電燈料というものが比例を外(はず)れて高いことは、即今都会に比較した精密な計算は持たないけれど、それは馬鹿げた高価である、そうして同じ会社の配電でありながら町村によって料金がまちまちなのである、あながち土地の便不便によるのではない、何の標準でそう甲乙があるのか素人(しろうと)には更にわからない。
 もう一つは営業ぶりの横暴と不親切が田舎に住んで見るとそれも露骨に解る、たとえば電力や点燈の申込みをしても容易な事では取りかからないが、何か然るべく土地の面(かお)ぶれを通すと存外簡単に運ぶ、彼等と会社側の間に、黙契があると見るより外はない、そういう顔ぶれを通して注文すると事が早く運ぶ、そうでないと中々運ばないのみならず、そういう連中と結托して弱い者いじめをしたり或はけむったい人々に対して示威手段を試ろむる事さえある、何かの端(はずみ)で土地の政党関係などに触れるとこの電燈会社が職工工夫に命令して無茶に電柱を立てたり横柄な測定をしたりしておびやかす様な事をする。正直な地方農民はそれにおびやかされて泣き寝入りになる例も随分ある、それから電燈会社の社員となると彼等は洋服を着て居るからお役人様だと心得て居るらしく、万事に生意気で横柄で営利会社の社員とは思われない。
 処によると村の青年団に依托して電燈料の集金をさせる様にして居るが、これも一つの手でこれに依って青年団の歓心を買って居る、つまり集金高に依って青年団の方へいくらかのコンミッションを出す、そうなると青年団も料金の高下よりは集金高の増減に関心を持つという段取りになる。
 百姓弥之助は電燈会社の沿革などはよく知らないが、目下はこの地方は東電の独専になって居る、そうしてこの独占会社が従来政党とどういう腐れ縁があり、その台所や地盤関係にどんな魔力がひそんで居るかという事は一向知らないけれど、地方のそれぞれの首振りや小財閥とこの独占会社とがガッチリ結んで居る事は直接にひたひたと体験が出来るのである。これは一旦都会生活に慣らされた者でないと充分に解るまい、田舎の者は電燈会社はそういうものだと心得ている、同じ電燈会社でも都会に於てはそれ程譲歩しながら田舎に於ては斯うもきつい、無知な農民はそれに対して主張する事を知らない、電力が国営になったからとてそう急に豊富低廉なる電力を人民が享受し得られるものか如何か、よしそれが享受し得られる計算になっているとしても今日は非常時であって、文句がつけられまいけれど、こういう独占会社に持たせて置いて、いろいろの地方閥とからみ合うに任せて置くよりは国家の手に任せて置く方が名分共に正しいと云う事を百姓弥之助は考えている。
 それはそれとして百姓弥之助の少年時代つまり小学校卒業の頃十四歳の頃までは電気というものに恵まれない生活であった。極く幼年時代はあんどんの時代であって、それから石油洋燈(ラムプ)の時代に移った、石油洋燈にも大小数々の形はあったが、大体釣ラムプと台ラムプの二つに分れている、夕飯などは大ていこの釣洋燈の下で一家うち揃って膳に向ったものである。ついでに食膳の事をいうと一つの大きな卓を囲んで一家丸くなって食事を取るというのでなく、皆それぞれ膳箱を一つ持たせられて自分の食器は総(すべ)てその中へ入れて置いてそれをめいめい持ち出して釣ラムプの下に集って食事をしたものである、台ラムプの方は主として机の前に置いて事務勉学等に使用した。石油ラムプというものは今日では東京の市中をさがしても殆ど一つもない、数年前弥之助は植民地へ持ち帰ろうと思って、足を棒にして東京中をさがし廻ったけれども、とうとう何所(どこ)にも見出す事が出来なかった、最後に銀座の或る大きな洋品店で聞いて見ると一つ有った筈だと棚の方をさんざんさがして呉れたが、とうとう発見が出来なかった。そこである園芸種物会社へ行って園芸用の安全ラムプを買い求めてやっと要用を満たしたが、いずくんぞ知らん、この植民地に近い町村の荒物屋では今日でもいくらも石油ラムプを売って居るのである。現に電燈会社の挙動が癪(しゃく)にさわるから弥之助の植民地では電燈の数を殖やさないで新たに建て増した成進寮というのではすべて今でもこの石油ラムプを使って居る。前に云う通り電力業者の誇る所によると、日本は電燈国としても世界一とか二とか云う程に発展して居るのであると云うが、それは日本程水力に恵まれた国は無いという事を抜きにして云う自慢に過ぎない、併しフランスの如きは聞えたる華美の国でありながら一歩地方へ出て見ると農民の生活などは至って古朴なもので、大部分はやはり石油ラムプで済まして居るという、それだから農家でさえ電燈がこれだけ豊富に使える日本の農民は有難く心得ろというのは僭越である。フランスの農民は決して日本の農民ほど行きづまった生活はさせられて居ない筈である。

       二十四

 そういう訳で弥之助の植民地に近いあたりの農村状態はすべて平板へ平板へと進んで行って、表面は兎に角内容生活は少しも向上したとは思われない、のみならずいよいよ唯物的に流れ流れて、さっぱり趣きというものが無くなってしまって居る。弥之助はこの沿革をもっと科学的にしらべて書いて見たいと思って居るが、さし向き人間の方から見ると、昔と違って度外れの人間というものが、すっかり後を絶ってしまったように見える。
 傑(すぐ)れた人物というものも出ないし、また異常なる篤行家とか奇行家というのもとんと出ない、また昔は名物の馬鹿が各村に存在して居たのだが、今はそういう馬鹿も全く影をひそめてしまった。
 ここに弥之助が少年時代の思い出をたどって少々村の畸人伝(きじんでん)をしるして見よう。
 砂川村に俗に「おてんとうさま」という荷車挽(ひ)きがあった、本名は時蔵というのであるが、この人は砂川の村から青梅(おうめ)の町まで約四里の道を毎日毎日降っても照っても荷車にカマスを積んで往復する。その時が毎日一分一秒も違わない、おてんとうさまと同じ事だというのである。それ時さんが通ったからお昼飯だというような事になって、おてんとうさま扱いを受けたのである。弥之助は子供の時分何年となくこのおてんとうさまが車を挽いて家の前を通るのを見るに慣らされて居た。
 新町に「為朝(ためとも)」というのがあった、毎日山から薪を一駄(三把)ずつ背負い出して来て、
「どうだい今日は薪を買わねえかい」
と云って売りあるいていた。薪が売れてしまえばそれで居酒屋へ這入(はい)ってコップをぐっと引っかけておさまり込んでしまう、一日それ以上の仕事も以下の仕事もしない、一駄の薪がたしか十八銭もしたと思うが何しろ大コップに一ぱい酒が二銭位の時分だから相当に飲めたものと思う。それで年中酔っぱらって頬ぺたをふくらませてはおろちの様な息を吹き吹き歩いて、夜は寒中平気で堂宮の縁でも地べたでも寝込んでしまう。絶えず酔っぱらって居たが誰も為朝が飯を食うのを見たというものがない、額に大きな「痣(あざ)」があった処から為朝一名を「あざ為」と云ったが、誰も本名を知った者がない。右の如くして、毎日一駄の薪を限って切り出して、それを売りそれを呑むの生活を一生涯つづけた。その薪というのも、手当り次第に人の山へ這入って取って来るのだが、今と違って至るところ見え通らない程雑木林は続いて居たし、人気も鷹揚(おうよう)であったから為朝が持ち去る程度の盗伐は誰もとがめるものはない。或時新来の駐在所巡査がこの男をつかまえて薪の出所を糺問(きゅうもん)しきびしく叱りつけて居るのを見て村人が、
「為朝をあんなに叱言(こごと)云わなくてもよかんべいに」
と云って、かえって同情をして居た事がある。弥之助の家へもちょいちょい売りに来たが、父がこの為朝から薪を買い入れて、それから炉辺で話し込んだ事を度々(たびたび)覚えて居る。何でも二人で水滸伝(すいこでん)の話に頻(しき)りにうち興じて居た様であったが、為朝はあれで中々学者だと云って感心して居た。
 それから栄五郎ボッチというのがあった、これもしじゅう飲んだくれで、赤黒い長い顔をして頭には白髪がもじゃもじゃ生えてすっかり人を食った顔つきをして居た。これは豆腐(とうふ)と油揚を木の手桶へ入れて天びんにかけて売り歩いて居た、そうして売上げを持っては当時水車をして居た弥之助の処へ来て母の名を呼んで、
「花さん、破風(はふ)を五合(ごんごう)に白米を一升呉んな」
と云って風呂敷を出しては買って行った、これも酔っ払いではあるが為朝と違って穀物を食うのである。ここに破風と云うのは大麦の碾割(ひきわり)のことである。つまり大麦の碾割が三角形になって居る、家々の破風の形によく似て居る、そこが栄五郎ボッチの形容新造語であるらしい。
 亀先生は生(は)えぬきの百姓の子で、どちらから云っても学問の系統などは無いのであったが、どうしたはずみか学問に味を占めてそれから熱中してしまった、学問と云ったところでその時分は漢学であったが、先生は村で習えるだけの漢学は習い尽し村で読めるだけの本は借りて読みつくし、とうとう我慢が出来ず東京へ学問をしに出かけた。
 こればっかりは本当に学問が好きで出かけたので、学問をしてサラリーに有り附こうとか出世しようとかの欲望は更に無かった。そうして人力車を挽(ひ)いたり、風呂炊きになったり様々の職業をやりながら二松学舎に通った。
 その時分の事、書生が大勢集まってお茶を飲み餅菓子を盛んに食べて談論するのを見て、先生は書生の分際であんな餅菓子などをおごるのは僭越だ、おれはそんな贅沢なものは食わない、沢庵で結構だと云いながら沢庵を持って来させて、それをガリガリかじりながら同学の書生達と盛んに談じ込んだものであるが、席が終ってさあお茶菓子代の支払と云う段になって、書附を見ると亀先生の噛(かじ)った沢庵が大物三本、餅菓子よりははるかに高価であったという。
 そういう訳であるから折角学問はしても生活にはうとく、業成って村へ帰って来てしばらく村の学校にやとわれて教師をして居た事もある。その時分の小学教師は今のように資格がどうのこうのという事は無いから、亀先生は先生もすれば百姓もして居て、袴を取って学校から帰ると仕事着をつけて股引わらじで籠を背負い、鮑貝(あわびがい)を杓子(しゃくし)の様にこしらえたものを携(たずさ)えて、街道に落ちて居る馬糞(ばふん)拾いをして歩いたものだ。そこで或日の事、学校へ来ると生徒が、
「馬糞先生(まぐそせんせい)が来た」
と云った軽蔑の言葉を聞き込んで、亀先生は師弟の道がもうおしまいだと云って学校をやめてしまった。
 何かの用で郡役所の窓口へ出かけた事がある、受附があんまり風采のあがらなさ過ぎる百姓姿を見て何か書かせる時に、
「田村亀吉(亀先生の本名)名前が書けるか」
と云いながら紙筆を出した、そうすると亀先生は受附の顔を見ながら、
「おれは書けるがお前はどうだ」
と云って筆を取って書いた文字が米元章の筆法で雲烟の飛ぶ名筆であったので、受附先生もあッと云って言句がつげなかったという事がある。
 亀先生の長話は有名なもので、先生の訪問を受けた場合には薪二把を覚悟して居たという程である。少なくとも、一かかえある薪を炉の中で二把燃やし尽くすまでは帰らないと云うあきらめを持たせる事になって居た。亀先生の最も得意とするのは「易」で更に易経から易断を立てる法へ進出して来た。そうして天下国家の事から失物(うせもの)判断縁談金談吉凶禍福に至るまでを易を立てて自ら楽んだり人に施したりして、自分の易断の自慢話を初める。弥之助の父親なども、それを聞かされているうちに、よく居眠りをしてしまう、相手が居眠りをしても何でも話す方は一向ひるまず、一人がてんでから/\と高笑いを交えながら話し立てて、とうとう鶏が鳴いてはじめてやっと気がついてあわてて帰るところなど、弥之助も炉辺に傍聴して見きわめた事である。易断に凝(こ)った結果、或学者の紹介で横浜の高島嘉右衛門に入門し、そのすすめで易経の暗誦を初め、田や畑の中で朗々と易経を唸(うな)りながら仕事をするのをよく見かけたものだ。弥之助は少年時代この人について少々漢学を習い、また初めてこの人につれられて東京へ出て来た縁故がある。
 是等は皆その当時の村の畸人(きじん)の一部であるけれども、今ではこういった様な桁外(けたはず)れの人間はすっかり影をひそめてしまって、製造した様な人間のみ多くなってしまった、丁度田圃が碁盤の目の様に整理されてしまい、水道がコンクリートの護岸で板張の様な水底に均(な)らされてしまい、蜿蜒(えんえん)と連なった雑木林が開墾されて桑園とされてしまった様に、平明開発はあるけれども蝦蟇(がま)も棲(す)まないし狐兎も遊ばなくなった。奇物変物もすっかり影をひそめてしまった。では富の程度でも幾分か増進したかと問えば、それどころかこの村でも目下一戸当り千円の借金に喘(あえ)いで居る。

       二十五

 百姓弥之助は東京から植民地への帰りに、新聞を見るとドイツ軍のオースタリー侵入の記事が目に附いた、それと共にチェコスロバキアがふるえ上って居るという脇見出しもある。英国が準戦時体制を整えたという別見出しもある。
 いよいよヨーロッパも再び行く所まで行かなければ、引けない時代が来たと思わしめられない訳には行かない。従ってそれが東洋へ波動して来るのは知れた事である、どうしてもこの世界全体が、行く所へ行かなければ納まらない時代を直感する。
 要するに世界の人間が、皆生き度いのである、生きる土地を求め度いのである。生きる土地を求める為に殺し合って行くという時代が到来したのではないか。ドイツでは各種の社交クラブは勿論の事、茶屋小屋の卓のビールのコップの下に敷く紙に迄も、
ドイツには植民地が無い、植民地の無いのは手足が無くて胴だけの人間と同じ事だ、国民は一致協力して軍備を充実し、生産を増加する為に、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)をしなければならぬ。
という事を書いて示して置くそうである。
 奪われたるものはその植民地を取り戻さんとし、持たざるものはその植民地を持たんとし、持てるものはその植民地を擁護しようとし、地上に血みどろの世界を現出して居る。それは百姓弥之助が持つ、僅かに一町歩の植民地問題とは訳が違う。
 一町歩の植民王たる弥之助が、昔から植民の文字に多大な魅惑を感じて居たのは、今の世界共通の血みどろな土地要求の叫びとは違っていた。弥之助は那須の平野だの、八ヶ岳の麓だの、また北海道の平野などを旅行した時、植民部落というものを見ると、いつも胸が躍(おど)ったのである、打ち続く処女林がある、その中を掘割の清水がたぎり流れる、掘立小屋同様の移住民の住居、労働婦を兼ねたお神さんの肉体、ああいう原始味が今日でもどの位、弥之助を魅惑しているか解らない、そこには張り切った労働を基調とする生々たる平和がある、健康の躍動から来たるところの、溌剌(はつらつ)たる肉体の自由がある、弥之助は都会のどんな大廈(たいか)高楼にも魅惑を感じないが、この原始的生活の植民情味というものには、渾身の魅惑を感じない訳には行かない。弥之助の最初の理想では植民は侵略ではない、侵略と全く違った天業である、この点では清教徒の北米移住を少年時代に読んだ文字のままが先入主となって、人間の清新にして真正なる自由は植民の天地にのみ求め得られるような夢が今だに去らない。
 従って百姓弥之助は植民は即ち宗教だという先入主から離れるわけに行かぬ、凡(およ)そ侵略とは根本から種苗を異にしたものが即ち植民である。
 北米と南米とは、どうしてああまで開発の相違があるか、地味に於て物資に於て寧ろ北来に優る南米が、何故に文化に遅るること今日の如きか――という問題に答えたある人の答えを記臆している。
 北米を開いたものは信仰の人であった、が、不幸にして南米に着手した人は掠奪の人であった、北米には自由を求めんが為に、信念の鍬を打ち込んだ人が渡ったが、南米には富と物資を覘う我利我利が走(は)せつけた、北米に植民した人はその土地を己(おの)れの土地として、神の土地として愛したが、南米に赴く人は、慾の対象として、物資の乱掘場として、跡は野となれという人によって先発せられたのである――その結果が今日に於て知るべきである云々(うんぬん)。併し、今日では、もはや、地球上のいずれにも自由と信仰を誘うほどの処女地は窮尽してしまったと思われる。

       二十六

 百姓弥之助は荻窪で立臼(たちうす)と杵(きね)を一組買い求めた。
 臼は尺五寸位の欅(けやき)、極小さなもので二升位しか搗(つ)けない、新品だが少々ひびが入っている、杵をつけて六円で買い求めた。
 弥之助は、植民地で、地殻搗(じがらつ)きをはじめたいと思っている、どうしても一通り農業を原始的に戻してやって見たい、長い杵を足で、ジタンバタンと臼搗きをする、あれをやって見たいと、その出物を近村に求めたが容易に揃わない、やっと杵だけは相当のものを入手したが、臼が容易に見つからない、コンクリの近頃出来のものならば、安くてあるが、あれを使用する気にはならない、やる以上は、古典的に松か欅、そうで無ければ石の臼が欲しい。
 新規に造らせると、二尺未満のもので二十円から二十五六円もする。併し、まあ、何とかして地殻設備は完全にするつもりだ、一たい農業も、自家で取り上げた穀を精米所へやって搗かせるのでは徹底しない、砂を入れて搗くとか、ゴムロールは胚芽の精分をすっかり磨りつぶして死米としてしまうとか、そういう事は別として、搗き上げるまで、どうしても自家でやらなければ、九仭(きゅうじん)の功ということになり兼ねないと思われる。今時、電気と機械の世の中に、じったんばったんと、原始的労力を加えるなどは、福沢流に体育化しない限り、不経済の極(きわみ)と云わなければならないが、ああしていると全く安心の出来る食料が得られるし、その搗き砕けや糠(ぬか)は、家畜の飼料その他に有力な利用となる。
 すべて機械文明というものは、劇薬的のもので、人目を驚かす偉力を発揮して今日に至っているけれども、これを永久に平均した人体或いは団体健康の上から見ると大きなる疑問がある。すべての仕事を一度原始的に引き戻して、人間自然の発祥から比較検討し直して見ることの予習をやって見る必要は無いか。
 人間が機械を駆使して自然を征服した、今度は機械が人間を駆使してこれを征服するの時代となるのではないか、どうかそうでない様にしたい、人間と機械が相依り相助けて行く世の中に是正は出来ないものか。

       二十七

 三月の半ば百姓弥之助は東京から帰り道、武蔵野原の自分の山林へと立ち寄って見た。
 松林はよく掃除されている、雑木林の落葉は、まだ手廻り兼ねて大部分残されている。
 百姓弥之助は山林が好きで、殊に武蔵野の雑木林と来ては、故郷そのものの感じである、本来はこの雑木林の中に家を建てたいのだが、何分此処(ここ)は水の手が無い、植民地のある処は四十尺も掘れば水に不足は無いが、それから十余町離れたこの地点では百尺以上も掘らなければ水が出ない、それでもどうかすると当り外れがある、それが為に、この雑木林の中の生活を思い止まっている。それでも、この近いところへ最近バラックを一つ建てた人がある、そこへ寄って見ると、越後から来たという青年が、たった一人でこの小屋を守っていた。別だん思索哲学に耽(ふけ)る目的ではなく、百坪ばかりの地を求めて、自ら耕作もし、日雇取りにも行く、水はどうすると云えば、数町離れた葡萄園(ぶどうえん)から貰うのだと答える。
 曇り勝ちで、今にも雨が落ちて来そうだが、存外長持がしている、植民地へ着いて見たが、変った事は無い、麦が青い色をしている、四頭の豚も、十羽の鶏も、二匹の猫も健在だ。
 今年の冬は、好天気続きで降雨降雪というものが甚だ少ないから、麦の出来が、どんなものか知らん――予想した人によると、今年は麦が不作だろうと云っているものがある、が大した事はあるまい、収穫時の降りだけが気にかかる。
 ずっと離れた道路面に置いてあった印刷工場を門内の道場の中に取り入れた、小野生が一人その中で頻(しき)りに植字文選をしている、志村生は休み、活版所を継続するに就いては、二三十年来、弥之助は並々ならぬ苦しみをしている、これに投じた費用労力も尠(すく)ないものではない、いつも功が労に伴わない恨みがあって、放棄して専門店に任せた方が、すべてに便利だとは思うけれども捨て難い、小さくとも手許に自己の活版所を持っているということには、計数の出来ない利便がある、それでも、ボツボツと集めたり放したりしているうちに、八ポの活字と九ポの活字で、先ず一通りの用は足りるだけになっている、このあたり三郡を通じて、これだけ豊富に活字の揃っている工場は無い――(ただ一箇所の東京出版の会社を除いては)――ということになっている。九ポの方は、もう大ぶ磨滅したから、鋳込(いこみ)直しをしなければならない。

       二十八

 百姓弥之助は毎月数十種の雑誌に眼を通して居る、それはほとんど全部が皆交換寄贈を受けるものであった。それを弥之助はことごとく眼を通して居る、どんな小さい引札の様なものでも、読まないと云う事はない、そうして読んだ後は要領の索引を作って併せて保存して置く。今日は「能率新報」と云って、失礼ながらたった四頁の引札がわりの、ちらしのような雑誌、神田の阿部商店という「名宛印刷器」製造元の機関紙であるが、その中で次のような一文を発見した。


    国民皆農私説

私は「国民総耕作」と言つたことがある。池田林儀が独乙(ドイツ)留学から帰つて「優生運動」といふのをやり出した時、その雑誌に書いたのである。十五年もまへだ。
国民皆兵である如く、吾々(われわれ)は皆農でなくてはならぬといふのである。兵役に服すると同様に、一生のうちの一二年間、農業に従事して、その年中の国民の主食物を収穫するのである。
この方法を繰返してゆけば、日本人は、皆自ら耕した所の米を生涯たべる権利と余裕とを持つことができるのである。
青年の労働国家奉仕も、この方法でできる。現在の農家ではできぬ治水、開墾などもできる。
日本中の田畑を耕やすのに、何人入用かは計算できる。その人数を国民のうちから年々徴農するのである。
現在の専門農夫は、指導員、准尉、部隊長であつてよろしい。そのうちにだんだん、整理されていく。
今次の応召家族の間には、はき立てた秋蚕(しうさん)を棄てた家もあつた。秋の穫入(とりい)れを老母と、産後の病妻とに託さねばならなかつた人もあつた。
吾々は米と麦とをたべて、日本の地の上に生活するのである。その主食物を各自の共力で収穫することは何より愉快である。
在郷軍人が、現役兵の話を聞いて昔を偲(しの)ぶごとくに、吾々は、毎朝米を食ふごとに、昔の服農を思ひ出すことができる。
農は百業の基(もとゐ)である。吾等は地を離れて生活できない。
土に親しむことは青年修養の一つでもある。大自然の恩恵とその暴威とを知ることでもある。
常に日を拝む百姓では駄目である。日照、霖雨(りんう)、風害には、これと戦つて勝つ機械化した農でなければならぬ。
それには、国民を総動員したる所のブレーントラストでなければならぬ。
実例は皇軍である。皇軍は人類平和のために戦つてゐる。常に備へられてある。
皆農は大自然と戦ふのである。大自然をして主食物を作らしめるのである。これも常に備へられてあるべきだ。
今日の農業の如く、志願主義――志望主義では面白くない。
 百姓弥之助も以前からこれと同様の事を考えて居た。
 いつかこれを最も組織的に「徴農論」という一書を書いて見たいと思って居たのである。弥之助の考うる所では、世界の本当の平和というものは皆農基本から出直さなければ到底実現されるものではない。国民に徴兵制度を布(し)くように、農はただ国民だけではない、広く人類一般にこれを施行する事に依って初めて人類が生活の真正の安定心を得る事が出来、国際的摩擦というものが、そこから緩和もされ解消もされるのである。
 即ち人間の経済生活を貿易本位から生産本位に引き直すのである。そうして生産本位を農業に限定するのである。この主義は今迄の経済学と生活法則とを根本から革新する最も徹底した着実の方案で、戦争の絶滅、国際関係の破局を救う可(べ)き最後の最善の断案だと弥之助は信じて居る。それは人類を原始生活に押し戻すという消極的の夢想ではなく、最も原始的根本的であると共に、あらゆるリベラリズムも、ソシアリズムも皆卒業した後の断案であると、弥之助は信じて居る。処がこれと略々(ほぼ)同意見をこういう思いがけない、失礼ながらペラペラ雑誌の紙面で発見しようとは案外であった、弥之助は取りあえずその雑誌社へ向けて次のような葉書を書いた。
貴店益々御清栄奉賀候、略儀ながら取りあえず葉書を以て申上候儀は貴店御発行の能率新報最近号のうち「国民皆農私説」は非常なる御卓見と存じ、日頃小生も御同様問題に就き思考致候折から右御一文を何卒小生著作中へ転載の事御許容下され度御願申上候 早々不備(昭和十三年三月○日)
 程なく筆者阿部彰氏から鄭寧な快諾の御返事を受けた。

       二十九

 百姓弥之助の植民地では四頭の豚を飼っている。
 豚の飼養は農家副業としては、先ず収入になる部に属し、此処の案を立てた人は、大いに豚を飼う方針で、菊芋を盛んに植えたものである、菊芋という奴はたしかに豚の飼料には宜(よろ)しい、第一その繁殖力が盛んで、萌(も)え出してからは、苅(か)っても苅ってもあとからあとから成長する、併し、良畑をつぶしてこれを多量に植えることは考えものである、不用の空地や、地境等に植えて置くと宜しい。
 コロと称する二貫目位の子豚を買い入れて来て、これを半年以上飼養して二三十貫にして売り出すのであるが、昨今のつぶしは一貫目一円五六十銭から九十銭程度である。飼料や手当等を数えたら、そう大して利益とてはあるまいけれど、肥料の収穫が大きいし、また専門的に百頭千頭と飼養すれば相当な事業になる。つぶしに売ることをしないで別に種とりをやり、子を産ませると、その方が利益になる、ここの本村では全国的には豚の飼養が優秀なものだそうであって他府県へも輸出されるとの事だ。
 ここから三里離れた飛行場で有名な立川には岩崎家の子安養豚所がある、これは飛行場よりは寧(むし)ろ草分(くさわけ)なのであるが、さすがに岩崎家のものだけに全国一とか東洋一とかいうもので、ここには西洋から、一頭何千円もする種類の種豚が沢山に集められてある、弥之助も一度これを参観したことがある、所では快(こころよ)く場内を見せて呉れたが、ここの種豚の合格品は非常に高価で売買されるが、その不合格品でさえ一頭数十円で希望者に応じきれない、普通この辺の農家でたちのいいのでも豚コロは五円内外に過ぎないが、岩崎のは不合格品で、四十円もすることになっている。
 豚という奴は食う為に生きていて、食われる為に死んで行くように出来ている。廃物でも腐敗物でもこれでイヤと云うことを云わない、フーフー吹いて貪(むさぼ)り食う有様は寧ろ痛快と云いたい位である、この豚でさえ、仕つけると相当の礼儀作法は覚える。
 子馬も一頭奥州から買入れて飼養したけれど、手数が煩わしいので売り払ってしまった。
 犬は一頭いる、凡犬だけれども、よく吠えるので用心にはなる。
 なお、この辺では狐を飼っている処も、狸を飼っている処もある、養魚池もある、養蚕は全国的にも歴史を持つ地方である。いずれ、それ等の副業、自分がやらないまでも調査研究はして見たいつもりでいる。
 鶏は白色レグホン種を十羽飼養している、三カ月ものを一羽一円ずつで仕入れて五カ月目から産卵をはじめた、良卵を相当に産む、多い時は一日七箇、少ない時は三箇位の産卵、産まない日は無論一つも産まないのである。すべて市場へ出す卵は幼鶏をブローカーから買求めて飼養するのであって、優良種を自家で孵化(ふか)するのは方法から云っても手間から云っても六つかしいとされているが、ただ自家用産卵をさせる為ならば、地鶏(じどり)というのがいいそうである、これは鶏としての体躯も小さいし、卵も小ぶりではあるけれど、これなら、非常に容易(たやす)く、自分の家で孵化することが出来るそうである、今度は、その種類を少しやって見たいと思っている。
 百姓弥之助は有畜農業を是非する訳ではないが、新百姓であり、かたがた動物性の方は成るべく避けて、植物性農業を主とする方針であった。
 そこでこの辺では副業というよりは寧ろ主業とする所の養蚕は、最初から全くやらない方針で、桑園の桑をすっかり抜き取ってしまった。そうしてその後へはすべて作(さく)を作る方針にして居る。これは此処(ここ)何年というもの、ずっと生糸の値下りから各町村でも、なるべく桑園を作畑に改めさせ、多少の奨励金を出して居るのと吻合(ふんごう)するところがある。養豚の如きもこれに触れないつもりであったのである。将来共に自家用程度の有畜はやるにしても、これに主力を置くような事はしたくないと思っている。

       三十

 最近の農業は、農業の商業化と云ったような大勢になって居る。
 昔は金肥は殆どつかわず、機械力も極めて単純なもののみであったが、今日はそれとは全く違って居る。
 即ち成る可(べ)く多く肥料に金をかけ、成る可く多くの収穫を上げようとする行き方になって居る、資本を多く投入して収益を多く見ようという行き方になって居る。つまり農業の資本主義化、商業化である。と云うと小農中の小農制たる日本の、どこに資本の余裕があるかと反問されるかも知れぬが、個々について云うのでなく、全般に於てそうなのである。
 ところでこれを以前の農業の農業でやって行けないものかどうか、昔の農家は今の農家のように、金肥をつかわなかった、金を出して肥料を買うという事は甚だすくなかった、それでも兎に角、農業はやって行けたのである、そうして相当着実でもあり余裕もある中堅農家が相当に存在し得たのである、一体農業というものにだけは、すべてが自給自足出来るようになって居るのが特長では無いか、廃物というものは一つもなく、強(し)いて外来物を呼び入れなくとも、行けば行ける性質のものではないか、改良と云い進歩というのは、現在あるものを科学化し或は能率化して行けば、それでよろしいのでは無いか、例えば下肥(しもごえ)の如きも、これを相当科学化して乾燥した固形物とするか、或は粉未として、感じにも取扱いにも効能にも相当の増進率を持たせる、それから蒔物(まきもの)の調節、麦を蒔いたあとへ陸稲とか、そのあとへ何とか、然るべく排列の適否を研究し、金を懸けないで頭と労力を上手に働かして、成功を見るようには出来ないものか。
 弥之助はこの新百姓に取り懸かる時、この事を一農者に尋ねて見るとその人は、言下にこれを斥(しりぞ)けて言った。
「それは駄目です、今時の百姓はうんと肥料に金を懸けて、うんと収穫をあげるようにしなければ、やって行けないです」
「でも昔の農業は、そう金を懸けずとも立派にやって行けたではないか」
「そりゃあ昔と今では違います、昔はせいぜい一反歩二石も取れれば上々だったのが、今は五石取り十石取りなどという事になって居るです、昔とはてんであがりが違います」
「でも同じ土地で同じ人間の力で、昔は金をかけないでやって行けたのだから、今もそれで、やればやれない筈はないではないか」
「肥料をやらなければ、第一土地が痩(や)せてしまって収穫がいよいよ低下するばかりです、どうしても肥料に金を懸けなければ駄目です」
「肥料をやらないで野育ちにという訳では無い、成可(なるべ)く金肥をつかわないでやれないか如何(どう)かという問題である、出来るだけの肥料は自給して、金肥をつかわない方針でやって行く方法は無いかという問題だ」
「そうですね、それは無い事もないです、肥料を多く使わず土地を痩せかさないで、相当の収穫を見て行こうというには、それはなる可く土地を休養させるという方法をとる外はないでしょう」
「そこです、その土地を酷使せず適度の休養を与えて、そのかわり金肥を節約して、農業がやって行けないものかどうか、昔の農業はそれであったのでしょう」
「そうすれば、士地と肥料の調節は出来るとして、問題はその土地ですね、今の農家は適度の休養をさせる程、土地の余裕を持ちません、その点は昔のように、人口が少く比較的に土地が豊富であった時代とは違いますからね」
 弥之助は心密(ひそ)かに考えて居る、どうか自分は一つ、その農業の商業化でなく、農業の純農業の立場を行って見度(みた)い、つまり「土地を酷使せず、相当の休養はさせるが、美食は与えない」という方針でやって見度いものだ、それで相当の改良進歩が行われ、収支経済もつぐなうという道がなければなるまいと考えて居る。

       三十一

 百姓弥之助はうどんを作る事も、そばを打つ事も心得て居る。
 うどん粉というものは、以前は小麦を水車にやって挽(ひ)かせたものであるが、近頃は電燈応用の製粉所へやれば、手取早く粉にして呉れる、この水車製粉と電力製粉とを、比較研究して見たわけではないが、昔の水車製粉の甘味は何分忘れられない、米のつき上げに於てもそうである、砂を入れるとか入れないとかいう問題は別として、水車づきの米が何分安心の出来る気分を与える。
 手打うどんを作る段取りは、小麦粉を若干すくい取って、こね鉢の中に入れ適当にこね上げて、それを三尺四方程ののし板の上にのせ、めん棒でのし広げて、畳んで切って熱湯の中へ入れて、ゆで上げれば、それでうどんは出来上ったのであるが、これをざるに取って別に汁をこしらえて、盛りを食べるようにして食べるのが普通の方法である。それからこの地方ではもう一つ俗に「のし込み」というのがある、これはうどんをのして畳んで切って、熱湯の鍋の中へ入れる迄は、前と同じ事だが、それを揚げて取らないで、そのまま野菜を入れ醤油を入れて、煮込みにしてしまうのである。この「のし込み」というのは云わば精進(しょうじん)のシチューで、原料たる小麦粉が漂白したメリケン粉と違い、日本小麦の持つ原始的の味わいと営養価は、こういう種類の手打ちによって、最もよく発揮される、弥之助は毎日でもこのうどんなり、そばなりを手打ちをして食べ度いと思うけれども、何分手数と時間がかかるので、一人者の弥之助には、そうそうはやりきれない。

       三十二

 一体総(すべ)ての物と事に相対性原理が行われて居るもので、絶対的に見ると大きな誤算が生ずるものである。同じ容積同じ価格の物が決して同一効果を生じない、例えば、デパートで大量生産的にこしらえたせんべいと、或る小店で手塩にかけてこしらえたせんべいとは、その価格や斤量(きんりょう)は同じ事でも、営養価が違う、また食器や金物類にしても信用ある独立店で買った方が、デパート物より品物が確かである。一がいには云えないけれども、大量製産物は手工物よりも、目に見えない所に稀薄があるものである。値段の標準を知るにはデパートがよいとしても、好い物を買い、旨(うま)いものを食べ度いと思えば、信用のある中小店の方がよろしい。
 そんな様な意味を食物の上に押しつめて行くと、木当のうまいものを食べ様と思えば手料理に限るのである。
 弥之助は三十年来も自炊生活をして居るが、これは特種の性癖であって、決してうまい物を食べ度い贅沢から来て居るのでは無いけれども、その性癖の結果、弥之助独特の美味求真術を悟ったという次第である。
 一体物それ自身の美味は、生(なま)の物に備わって居るに相違ない、だから生食が自然だというのは、一理窟あるけれども、また半面を忘れた大きな欠陥もある、これに就いて弥之助は一つの大きな失敗談を持って居る。それは次のような話である。弥之助が二十何歳の時分の事であった、東京附近の或るお寺の若い住職で生食をもっぱらとする僧侶があった、豆類や野菜を洗って生の儘(まま)、重箱に入れて置いて、絶えずそれを食べて一切の火食をしない、そこに本当の味があり健康があるという話を聞いたから、弥之助はその僧侶を尋ねて、生食の福音(ふくいん)を聞きその儘東京へ帰って、直ちに実行して見たが、たちまち激烈に胃を痛めて今日迄その負傷が残って居る、生食に一面の真理はあるにしてからが、それを行うに体質と心境と環境と歴史を考えなければ、却(かえ)って身体を損うようになってしまう、今の人間が純生食をやって見ようとするには、火食に慣らされた胃の腑を徐々に訓練してからでないと、却って有害な結果を見るのである、だから、弥之助は生のものそのものに本来の美味があると云われたからとて、現代人に向って直に生食をなさいとは云わない、必ず相当の料理法を行ったものをお食べなさいと云う。
 そこで料理法というものが登場して来るのだが、これは人間の技巧でその巧拙には際限がない、料理に依って物それの味わいを活殺する事もまた人の知るところである、如何に材料が新鮮優良でも料理の手一つで活かしも殺しもすればこそ割烹店(かっぽうてん)というものが広大な構えをして、成立って行くのであるが、同時にまた所謂(いわゆる)巧妙な発達した料理というものが、却って材料を殺してしまっているという例がいくらでもある、殺してしまって居るのではない、活かし得られないのである。
 弥之助は東京の有名な料理店の、相当多数を味わった事もあるが、その店独得の品物や腕前は別として、野菜類などに至ると、どんな腕前を見せた料理でも、弥之助自身が畑から取って来て荒らかに、手鍋の中にぶち込んだ風味に及ぶものはない、それは海岸に於ける魚類に於ても云える事で、ピチピチと網にはねる魚をつかまえて来て直に鍋に入れるという風味は、都会のどんな料理店でもやれない。今日都会の料理店に来る材料は、来る前にもう死んで居るのである、如何に名人上手の庖丁でも死んだものを活かす訳には行かぬ。
 昔江戸時代の料理が、非常に贅沢で高価であって、八百膳などでも茄子(なす)を鉢植のまま食膳に出し、客が鋏(はさみ)でそれをちぎって食うという、そうして茄子一個の値が一両とか二両とか云われて、涼しい顔をして、それを仕払ったというような話も、あながち悪趣味から来る、豪華の衒(てら)いというわけではなく、何か茄子そのものの味に、千金にも替え難き新鮮味が味わえたからではなかったか。
 また別に初松魚(はつがつお)などを珍重して、借金を質に入れてまで馬鹿な金を出して、それを買って食うという様な気風も単に江戸ッ子としての見栄(みえ)から来て居るのではない、死んだ材料にばっかり慣らされて居た当時の都会中心人が、新鮮味に餓(う)えていた変態から出でたのかも知れない、そうしてもう一つは、江戸時代は今より土地の面積も鷹揚(おうよう)であったものだから、名ある料理店となると近い所に、自家の野菜園を持って居たり、堀の外がすぐ農家の畑であったりして、今よりはずっと生きた材料が使えた為に、繁華なお店の台所に腐っていた町人の味覚が飛びつくように新物に随喜した所以(ゆえん)ではないかとも思われる。
 果物についても同じ様な事が云える。近来の果物は出来た果物では無く、こしらえた果物である。スポーツでこしらえた肉体のように豊かには見えるが、引き締まった味というものが無い。弥之助の青年時代には林檎などは高級の果物の方で、書生でこれを食うのは奢(おご)りの方であったが、近ごろは、有ゆる果物が進歩した栽培法によって一般国民の間に多量豊富に供給されるに拘(かかわ)らず、本当に旨(うま)いと思う果物を食べたことが無い。




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■暇つぶし何某■

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