大菩薩峠
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著者名:中里介山 

「御覧下さい――あれはお勘定奉行の諒解(りょうかい)の下(もと)にやっている仕事でございます、しかも作業の発頭人(ほっとうにん)は、もとの甲府勤番支配駒井能登守殿であるらしいことが、意外千万の儀でございました」
 それを聞いて、組頭の面の上に、かなり狼狽(ろうばい)の色が現われました。
「ははあ……」
 これも拍子抜けの体(てい)で、改めて、翩翻(へんぽん)とひるがえる旗印を見直すと、丸に立波、そう言われてみれば、紛(まご)う方(かた)もない、これは勘定奉行の小栗上野介殿(おぐりこうずけのすけどの)の定紋(じょうもん)。
 その旗印が小栗上野介の定紋であるのみならず、なお奇怪にも聞えるのは、その旗印の下に仕事をしているのが、以前の甲府勤番支配駒井能登守らしいと言われて、彼等は夢を見たように、ぼんやりと考えさせられてしまいました。
 小栗を知るほどの者は、駒井を知らないはずはなかろうと思われる。
 しかし、小栗が隆々として、一代の権勢にいるのに、駒井は失脚以来、その生死すらも疑われている。七十五日は過ぎたが、その人の噂(うわさ)というものは、時事の急なる時と、急ならざる時、人材が有るとか、無いとかいう時には、必ず誰かの口から引合いに出されねばならないことになっている。
 さては没落と見せたのは表面で、内々は小栗上野介と謀を通じて、隠れたる働きをしていたのか、油断がならない――と軍艦奉行の組頭が、この時はじめて恐怖を催しました。
 軍艦奉行の威勢も、勘定奉行の権勢にはかなわない。
 さすが勝安房守の名声も、小栗上野介の旗印の前には歯が立たないということを、この時の賢明なる軍艦奉行配下の組頭が心得ていたのでしょう。
 高崎藩ならば、大多喜藩ならば、一番おどかしてもくれようと意気込んで来た一隊が、急に悄気(しょげ)こんで、
「ははあ、ではやむを得ないところ」
 旗を巻いて、進軍の歩調が、すっかり鈍(にぶ)ってしまいましたが、拳のやり場を体(てい)よくまとめて、またも以前の方面へ引返したのは、少なくとも組頭の手際です。
 ほどなくこの一隊は、君ヶ浜方面に向って、なにくわぬ面(かお)で測量をはじめました。

 一方、引揚作業の方面では、十分に焚火で身をあぶった海人海女が介添船に乗る。
 駒井甚三郎は、別に一隻の小舟に、従者一人と例のマドロスとを打ちのせて――そのいずれの船にも丸に立波の旗印が立っている。
 この作業にあたって、駒井が最初から、勘定奉行の小栗上野介の諒解(りょうかい)を得ているというのは、ありそうなことです。
 そうでもなければ、こうして白昼大胆に、こんな作業が行われるはずはない。そうして、小栗と駒井との関係は、特にこの機縁だけで結ばれたものではあるまい。
 駒井は洲崎(すのさき)の造船所から海を越えて、しばしば相州の横須賀へ渡っている。
 相州の横須賀に、幕府の造船所が出来たのは昨年のこと。
 相州横須賀の造船所が、主として小栗上野の方寸に出でたものであることは申すまでもない。
 横須賀の造船所がしかるのみならず、講武所も、兵学伝習所も、開成所も、海軍所も、幕府の新しい軍事外交の設備、一として小栗の力に待たぬものはない。
 勝安房(かつあわ)(海舟(かいしゅう))の如きも、小栗に会ってはその権勢、実力、共に頭が上らない。
 駒井も、旗本としては小栗と同格であり、その新知識を求むるに急なる点から言っても、どうしても、相当に相許すところがなければならないはずになっている。
 駒井が洲崎から、しばしば横須賀に往復する時分、ある幕府の要路の、非常に権威の高い人が、微行で洲崎の造船所へ来たことがあると、働く人が言っている。
 その人品骨柄を聞いてみると、それが小栗上野であったようにも思われる。

         六

 小栗上野介の名は、徳川幕府の終りに於ては、何人(なんぴと)の名よりも忘れられてはならない名の一つであるのに、維新以後に於ては、忘れられ過ぎるほど、忘れられた名前であります。
 事実に於て、この人ほど維新前後の日本の歴史に重大関係を持っている人はありません。
 それが忘れられ過ぎるほど忘れられているのは、西郷と、勝との名が、急に光り出したせいのみではありません。
 江戸城譲渡しという大詰が、薩摩の西郷隆盛という千両役者と、江戸の勝安房という松助以上の脇師(わきし)と二人の手によって、猫の児を譲り渡すように、あざやかな手際で幕を切ってしまったものですから、舞台は二人が背負(しょ)って立って、その一幕には、他の役者が一切無用になりました。
 歴史というものは、その当座は皆、勝利者側の歴史であります。
 勝利者側の宣伝によって、歴史と、人物とが、一時眩惑(げんわく)されてしまいます。
 そこで、あの一幕だけ覗(のぞ)いた大向うは、いよ御両人! というよりほかのかけ声が出ないのであります。しかし、その背後に、江戸の方には、勝よりも以上の役者が一枚控えて、あたら千両の看板を一枚、台無しにした悲壮なる黒幕があります。
 舞台の廻し方が、正当(或いは逆転)に行くならば、あの時、西郷を向うに廻して当面に立つ役者は、勝でなくて小栗でありました。単に西郷とはいわず、いわゆる、維新の勢力の全部を向うに廻して立つ役者が、小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)でありました。
 小栗上野介は、当時の幕府の主戦論者の中心であって、この点は、豊臣家における石田三成と同一の地位であります。
 ただ三成は、痩(や)せても枯れても、豊太閤の智嚢であり、佐和山二十五万石の大名であったのに、小栗は僅かに二千八百石の旗本に過ぎないことと、三成は野心満々の投機者であって、あわよくば太閤の故智を襲わんとしているのに、小栗は、輪廓において、忠実なる徳川家の譜代(ふだい)であり、譜代であるがゆえに、徳川家のために謀(はか)って、且つ、日本の将来をもその手によって打開しようとした実際家に過ぎません。
 ですから、石田三成に謀叛人(むほんにん)の名を着せようとも、小栗上野をその名で呼ぶには躊躇(ちゅうちょ)しないわけにはゆかないはずです。
 徳川の天下になってから、石田は、一にも二にも悪人にされてしまっているが、明治の世になって、小栗の名の謳(うた)われなくなったとしてからが、今日、彼を、石田扱いの謀叛人として見るものは無いようです。
 小栗上野介が、自身、天下を望むというような野心家でなかったことは確かとして、そうして彼はまた、幕府の保守側を代表する、頑冥(がんめい)なる守旧家でなかったことも確実であります。
 小栗は、一面に於て最もすぐれたる進歩主義者であり、且つ、少しの間ではあったが、これを実行するの手腕と、地位とを、十分に与えられておりました。
 彼が最初――新見、村垣らの幕府の使節と共に米国に渡ったのは僅かに二十余歳の時でありました。或いは三十余歳。しかも、この二十余歳の青年赤毛布(あかげっと)は、他の同僚が、西洋の異様な風物に眩惑されている間に、金銀の量目比較のことに注意し、日本へ帰ってから、小判の位を三倍に昇せたほどの緻密(ちみつ)な頭を持っておりました。
 ほどなく勘定奉行の地位を得、またほどなく財政の鍵を握って、陸海軍の事を統(す)ぶるの地位に上ったのも、当然の人物経済であります。
 勝でも、大久保でも、その手足に過ぎないし、講武所も、兵学所も、開成所も、海軍所も、軍艦の事も、火薬の事も、造船の事も、徴兵も、郵便も、今日まで功績を残している基礎に於て、彼の創案になり、意匠に出でぬというもののないこと再論するまでもない。
 その人となりを聞いてみると、酒を嗜(たしな)まず、声色(せいしょく)を近づけず、職務に勉励にして、人の堪えざるところを為し、しかも、和気と、諧謔(かいぎゃく)とを以て、部下を服し、上に対しては剛直にして、信ずるところを言い、貶黜(へんちゅつ)せらるること七十余回ということを真なりとせば、得易(えやす)からざる人傑であります。
 小栗上野介が、単に人物として日本の歴史上に、どれだけの大きさを有するか、それは成功せしめてみた上でないと、ちょっと論断を立て兼ねるが――少なくとも、明治維新前後に於ては、軍事と、外交と、財政とに於て、彼と並び立ち得るものは、一人も無かったということは事実であります。
 この人が、徳川幕府の中心に立って、朝廷に反(そむ)くのではない、薩長その他と戦わねばならぬ、と主張することは、絶大なる力でありました。
 長州の大村益次郎が、維新の後になって、小栗の立てた策戦計画を見て舌を捲いて、これが実行されたら薩長その他の新勢力は鏖殺(みなごろ)しだ! と戦慄(せんりつ)したというのも嘘ではあるまい。
 かくありてこそ、大村の大村たる価値がわかる。西郷などは、この点に於ては、甚(はなは)だノホホンです。
 小栗の立てた策戦は、第一、聯合軍をして、箱根を越えしめてこれを討つということ、第二、幕府の優秀なる海軍を以て、駿河湾より薩長軍を砲撃して、その連絡を断(た)ち、前進部隊を自滅せしめるということ、更に海軍を以て、兵庫方面より二重に聯合軍の連絡を断つこと、等々であって、よしその実力には、旗本八万騎がすでに気(き)死し、心萎(な)えたりとはいえ、新たに、仏式に訓練せる五千の精鋭は、ぜひとも腕だめしをしてみたがっている。会津を中心とする東北の二十二藩は無論こっちのものである。
 聯合軍には海軍らしい海軍は無いのに、幕府の海軍は新鋭無比なるものである――そうして、その財政と、軍費に至っては、小栗に成案があったはずである。
 かくて小栗は十分の自信を以て、これを将軍に進言、というより迫(せま)ってみたけれど、胆(たん)死し、気落ちたる時はぜひがない、徳川三百年来、はじめて行われたという将軍直々(じきじき)の免職で、万事は休す! そこで、西郷と勝とが大芝居を見せる段取りとなり、この不遇なる人傑は、上州の片田舎に、無名の虐殺を受けて、英魂未だ葬われないという次第である。
 形勢を逆に観察してみると、最も興味のありそうな場面が、幕末と、明治初頭に於て、二つはあります。
 その一つは、右の時、小栗をして志を得せしめてみたら、日本は、どうなるということ。
 もう一つは、丁丑(ていちゅう)西南の乱に、西郷隆盛をして成功せしめたら、現時の日本はどうなっているかということ。
 この答案は、通俗の予想とは、ほとんど反対な現象として現われて来たかも知れない。
 右の時、小栗を成功せしめても、世は再び徳川幕府の全盛となりはしない。
 もうあの時は徳川の大政奉還は出来ていたし、小栗の頭は、とうに郡県制施行にきまっていたし、よしまた、ドレほど小栗が成功したからとて、彼は勢いに乗じて、袁世凱(えんせいがい)を気取るような無茶な野心家ではない、郡県の制や、泰西文物の輸入や、世界大勢順応は、むしろ素直に進んでいたかも知れない。
 これに反して、明治十年の時に西郷をして成功せしむれば、必ず西郷幕府が出来る。
 西郷自身にその意志が無いとしても、その時の形勢は、明治維新を、僅かに建武中興の程度に止めてしまい、西郷隆盛を、足利尊氏(あしかがたかうじ)の役にまで祭り上げずにはおかなかったであろう。
 西郷は自身、尊氏にはならないまでも、尊氏に祭り上げられるだけの器度(?)はあった。小栗にはそれが無い。
 すべて歴史に登場する人物というものは、運命という黒幕の作者がいて、みなわりふられた役だけを済まして引込むのに過ぎないが、西郷は、逆賊となっても赫々(かくかく)の光を失わず、勝は、一代の怜悧者(りこうもの)として、その晩年は独特の自家宣伝(?)で人気を博していたが、小栗は謳(うた)われない。
 時勢が、小栗の英才を犠牲とし、維新前後の多少の混乱を予期しても、ここは新勢力にやらした方が、更始一新のためによろしいと贔屓(ひいき)したから、そうなったのかも知れないが、それはそれとして、人物の真価を、権勢の都合と、大向うの山の神だけに任しておくのは、あぶないこと。

         七

 駒井甚三郎は最初の日の偵察によって、この海に沈んでいるところの船について、大体、次のような知識を得ました。
 船の大きさは日本の千石――あちらの百トン程度のものであること。
 帆走(はんそう)を主として、補助機関が附してあること。
 機関室が船の中央になくして前部にあること。特にその機関が――旧式の外輪でなくして、スクリューによるものであることは、駒井をして非常に驚喜せしめました。
 マドロスがサヴァンナ式といったのは何かの間違いだろう。
 それと同時に、駒井の首を傾けさせたのは、この船が密猟船だとは言い条、内部には、漁具や漁獲物がわりあいに少なくして、武器や食糧の類が比較的に多く積込まれているらしいことです。
 海賊同様の密猟船でありながら、軽小とはいえ螺旋式(らせんしき)の蒸気機関を持っているところ、それらと思い合わせると、単に密猟の船ではなく、相当の要路の旨(むね)をうけて、日本の近海へ様子を見に来た船と見ないわけにはゆきません。
 そんなことは、どうでもよいとして、まず何よりも螺旋式の機関を持っているということが、この上もない掘出し物――引揚げ物だと、駒井の心を勇み立たせました。
 こうして第一日は、輪廓と、内容の要部の偵察を遂げ、明日よりは細部にわたり、全部の引揚げが可能か、一部分の取りこぼちが有利かに向って、精細なる実地検分を遂げしめようとしている時に、一つの故障が持ち込まれました。
 この故障というのは、もとより官辺から来たのではない、官辺は上に述べたる如き諒解(りょうかい)がある。
 さらばこの附近の漁民たちが、営業の妨害を廉(かど)に、故障を持ち出しでもしたのか。そうでもない。
 漁民のうちには、喜んで作業の募(つの)りに応じて働いている者もあれば、見物を怪我あらせないように見張りをつとめながら、自分も見物したり、必要に応じての器具を特志で、わざわざ持って来て貸してくれたりするほどの好意を示しているのだから、無論その辺から故障の起るべきはずはない。
 さらば内部の作業員に多分の病人でも出来たのか、海人(あま)や海女たちが競争心の結果、潜水の度が過ぎて、身体(からだ)でもこわしてのけたのではないか。
 そんなはずもない、彼等はそれぞれ適度に仕事をして、一同みな焚火にあたりながら元気よく談笑している。第一ここでは、「水を潜(くぐ)ることと、子を産むことでは、女にはかなわねえ」といって、男の方から、女に一目置いているものさえある。
 たとえば、男子の潜水の最大限度が、かりに三分間だとすると、女には五分間もつづく者がある、というようなことを是認しているらしいから、競争心の起りようはずもない。つまり外房の方から、優秀な海女(あま)が来ているのでしょう。そこで海女が、時々思いきった広言を吐いて海人を侮慢(ぶまん)することもあるが、その自慢も毒がないから、笑いに落つるだけのものである。
 そんなようなわけで、内外共に和気すこぶる藹々(あいあい)たるところ、故障が起ったのは、思わぬところに隠れたる気流があるものです。
 それはまず、浦の坊さんたちから故障が起りました。
 難船を引揚げるからには、難にあってさまよう霊魂のために、一片の回向供養(えこうくよう)を捧げて、それから仕事にかかるのが冥利(みょうり)だという申し出がありましたのです。
 それについで第二の故障は、神主さんたちから出ました。
 とつくにのふねの、わがわたつみにしずめるをなん、すくわんとするには、たなつもの、はたつものそなえて、かみはらいにはらいまつりて――後、その作業にかかるが礼儀だと申し出がありました。
 この二つの故障は、駒井甚三郎が言下に受入れて、では作業の第二日を全部、難船の施餓鬼(せがき)と、不浄のはらいとに用いようということになり、そこで直ちに、明日は施餓鬼と祓浄(はらいきよ)めとの触れが廻ると、皆々、一年一度の祭礼にでもとりかかるの意気込みでその用意にかかりました。
 その翌日、急ごしらえにしては、頗(すこぶ)る整うた、この地方にしては破天荒といっていいほど派手に、施餓鬼とお祓いとが、黒灰の浦で催されました。
 近所の坊さんという坊さんはみんな集まり、神主様という神主様もみんな集まって、読経と、祈祷とに、最も念を入れ、かなり多大なりと覚しいお布施(ふせ)と供物(くもつ)とを持って、大満足で引下りました。
 そのあとで里神楽(さとかぐら)が開かれる。素人相撲(しろうとずもう)が催される。一方では臨時の大漁踊りが催されようというのです。
 そこで、すべてが大満足で、浦々が湧くような陽気になり、その日一日は全くお祭礼気分で、浦を挙げてのこの大陽気である中に、到るところで人気を博して歩いているのは、例のマドロス君です。
 マドロス君は酔っぱらっているのだか、酔っぱらっていないのだか知らないが、その有頂天(うちょうてん)ぶりといったら、自分ひとりが今日の主催者ででもあるような気取りで、はしゃぎ廻って、愛嬌(あいきょう)を振りまいている。
 坊さんの中へも交れば、神主さんとも握手を試みようとし、また婆さん連の中へ不意に面(かお)を出しては笑わせ、娘たちを追い廻しては驚かせ、最も滑稽なのは、大漁踊りの中へ飛入りをして、ダンスまがいで踊り出した恰好(かっこう)が、大喝采(だいかっさい)でありました。
 ことに言葉がわからないところに、多少の片言(かたこと)が利(き)くものだから、婆様をつかまえてゴシンゾと言ってみたり、漁師の真黒なのをダンナサマと呼びかけたりするものだから、それが一層の愛嬌になってしまいました。
 とうとう、この勢いで、素人相撲に飛入りとして現われた時は、やんや、やんやの喝采が暫くは鎮(しず)まりません。
 ところが、この人気力士が土俵に上ると、意外な離れ業(わざ)を見せたものだから、愛嬌ばかりでなく、あっ! と眼を据(す)えてしまった者があります。
 この浦にも、田舎相撲(いなかずもう)の関取株も来ているが、どうも、このマドロス君の手に立つのはないらしい。第一、仕切り方からして変テコで、こちらは本式に構えるが、先方は、妙な屈(かが)み腰(ごし)をしている。立合うと、ハタキ込みのような手で、組まないさきにこちらがブッ倒されてしまいます。
 ほとんど相撲になるのは一人もないような負けぶりでしたから、浦の漁師連のうちにも一種の敵愾心(てきがいしん)が湧き出して来たのはぜひもありません。
 あんまり、脆(もろ)い負け方である。ハタキ込みというようなあの手にかかると、相撲にならない先に、わが浜辺の名うての力士たちがひっくり返ってしまう。
 この分では総勢撫斬りであろう、余興とは言いながら、毛唐風情(けとうふぜい)のために、浦方すべてが総嘗(そうな)めとは――残念である、業腹(ごうはら)である。
 その雲行きを、笑いながら見ていた田山白雲が、やがて今や登場の一力士に近寄って耳打ちをして、腰と手を以て、取り口を指南したのを、マドロスが遠目で見て、
「田山サン、ズルイ」
と叫びました。
 田山の指南の結果、その力士は、立合うと、マドロスの最初の一撃を左の腕で受留めると、そのまま組みついて、腰投げに行ったのが見事にきまり、ここにはじめて常勝将軍に土がついたものですから、浦もくずれるばかりの大喝采です。
 マドロスの、田山白雲を恨(うら)むこと。
 かく、すべてが大陽気である間、田山白雲は、駒井甚三郎に向って、この引揚作業が、おおよそ何日を要するかを尋ねると、十日の予定、遅くとも十五日――とのことでしたから、その間を水郷に遊ぶべく、単身この浦を出でたのは、施餓鬼(せがき)とお祓(はら)いの翌日のことでありました。

         八

 その日の夕方、清澄の茂太郎は、般若(はんにゃ)の面をかかえて、房総第一の高山を、すでに八合目あたりまで上って来ました。
 その辺まではわきめもふらずに上って来たが、ここで歩みをゆるやかにしたものですから、呼吸もやや平調になったのでしょう。ブレスが正しくなったために、歌をうたいたくなったのだか、何か歌いたくなったものだから、それでブレスの加減をする気になったのか……
 とにかく、茂太郎の足がゆるやかになると共に、
一つとや――
人も通らぬ山道を
誰かさんと
誰かさんが……
 せっかくのことに、勢いこんで歌い出したのに、急に息がつまったもののように途切(とぎ)れて、
「弁信さん、だまっといでよ」
 弁信は、なにかにつけて茂太郎の即興歌に、干渉したものです。
 それは茂太郎の出まかせの即興が、たとえ純然たる無邪気を以て発せらるるにせよ、内容を無視した形式だけの肉声で、その歌詞が往々飛んでもないところへ外(そ)れるのを、当人自身が悟らないのだから、弁信法師が傍(わき)についている限り、それを訂正しないでは已(や)みません。
「鄭声(ていせい)の雅楽(ががく)を乱すを悪(にく)む」――とかなんとかいって干渉するものですから、せっかくの興を折られた茂太郎の不平を買うことが一再ではありませんが、それでも素直に弁信の忠告に従って歌い直すのを常とします。
 ここには、無論、その弁信はおりません。
 寂寞(じゃくまく)たる空山(くうざん)の夕べを、ひとり山上に歩み行くのですから、何を歌おうと、あえて干渉する者はないのですが、習い性となって、ふと弁信からの横槍(よこやり)をおそれ、そこに良心のひらめきというようなものがあって、自発的に「人も通らぬ山道」の歌を中止してしまったのかとも思われます。
 それは中止したけれど、茂太郎のブレスがこの時は、もう歌をうたうようになっていたのですから――そこで直ちに出直して、
二人行けど
行き過ぎ難き
秋山を
いかでか
君が
独(ひと)り越ゆらん
 ゆっくりと、うらさびしく歌い出しました。これならどこからも干渉の来(きた)る憂(うれ)いはあるまい、と安んじたのでしょう。
 しかし干渉は来らないが、感傷の起るのはぜひもないと見えて、茂太郎は愁然(しゅうぜん)として、同じ調子を二度繰返されてしまいました。
二人行けど
行き過ぎ難き
山道を
いかでか
君が
独り越ゆらん
 二度目の歌では字句に少しの変化がありましたけれど、調子にはさのみ変りはありません。
 歌いきった後、
いかでか君が独り越ゆらん――
 これを茂太郎は折返しました。
 聞くに堪えんや陽関三畳の詞(ことば)――といったような気分を自分が誘い出して、自分が堪えられないような心持で、ついに「く」の字に曲る路の折目に立って、暫く息を休めておりました――が、思いきって威勢のいい足を踏み出し、
クマニセントー通る時ゃ
前から鉄砲でドカドカと
あとからラッパで責めかける
今年ゃ何で苦労する
皆、天朝さんのかかり
 軍歌のつもりかも知れません。これを進軍の歩調に合わせて、ホイチニといわぬばかりの勢いで、一気に、房総第一の高山の頂上までのぼりつめてしまいました。
 房総第一の高山の頂上に立った清澄の茂太郎は、この時、日が全く落ち、親しい星がかがやきはじめ、落日の遠く彼方(あなた)に、浩渺(こうびょう)たる海の流るることを認めました。
 清澄の茂太郎は、房総第一の高山の上に立って、煙波浩渺として暮れゆく海をながめて、茫然(ぼうぜん)として立ちつくしていましたが、星を見るには、まだ時刻が少し早いのです。そうかといって、永久に沈黙が続くべきはずのものではありません。
 生物の間に、沈黙の世界というものは無いようです。
 万物がみな歌う、茂太郎が黙っていられるはずがない。明けるにつけ、暮れるにつけ、歌無くしてやむべきものではありません。
 さりとて、茂太郎のが厳密にいって、歌であるかどうかは甚(はなは)だ疑問です。でも、散文ともいえないし、独語ともいえない。
 そうかといって、彼の口を衝(つ)いて出る歌そのものが、決して、立派な創作だと誰がいう。五年前に聞いた潜在意識が首を出すこともあれば、目の前のガチャガチャ虫を模倣することもあります。
 要するに、彼が歌うの歌詞そのものは反芻(はんすう)に過ぎませんが、声楽としての天分に、どれだけのみどころがありますか知ら。それはそれとして、まあ、この際に、口を衝(つ)いて出て来た、たわごとを一つ聞いてやって下さい、
「そうら、この大海原(おおうなばら)の波の上で、静かに、安らかに、一生を送りたいという人がありますか……ありましたらいらっしゃい、町人方も、お百姓衆も、お小姓(こしょう)も、殿様も、皆いらっしゃい――どなたか健康を欲する人がありますか、幸福を得たい人がありますか、ありましたら、遠慮なくいらっしゃい、手前共がそれを売って差上げます……」
 この子は、膏薬売(こうやくう)りの口上を聞き覚えて、それを真似出(まねだ)したかも知れない。
 そうでなければ、駒井甚三郎が読む外国の本の口うつしを、うろ覚えにしておいて、それを、ここでそっくり反芻しているのかも知れない。
 だが、いずれにしても、模倣というほどに邪気のあるものでなく、焼直しというほどに陋劣(ろうれつ)なるものでもあるまい。次を聞いてやって下さい、
「皆さん、御承知の通り、高慢、罪悪、恋の曲者(くせもの)、代言人、物事に熱くなる性(さが)、乳母(うば)、それに猥褻(わいせつ)な馬鹿話、くだらぬ妄想(もうそう)は、すべて運星のめぐりに邪魔をいたします……さあ、いらっしゃい、わたしたちの力を頼めば、どんな人でも幸福に向います。諸君、エライ占星師にはそんなことは決して珍しくない。マニラは曖昧(あいまい)である、フィルミクは当てにはならぬ、アラビイは怪しげな調子で、口から出まかせを言う、ジャンクタンはなんでもかでも言いたがる、スピナはとかく隠したがる、カルタンは英国王に迷うている、アルゴリュースはあまりにギリシャ臭く、ポンタンはローマ臭い、レオリスとブゼルは大道を辿(たど)っています……そこで自然の秘密を真底から知ったり、運星の幸運を判断したり、アポロのように、風と、死体と、地と、水とで、一切万人に未来のことを示したり、空中から甘露と、霊薬を絞り取って、オロマーズを加味してアリマンヌを除き、そうして、男爵夫人を乞食に恋のうきみをやつさせて、有名なスカルロンの詩を吟じさせたり、何人(なんぴと)にも十分の成功を予言したり、霊妙不思議な惚(ほ)れ薬、黒鉛(こくえん)に、安息香に、昇汞(しょうこう)に、阿片薬を廉価(れんか)に販売したり、まった、月日や年代を言い当てたりするのは、誰ひとりとして、いやさ諸君、誰ひとりとして、ここにいられるわが師ギヨ・ゴルジュウ大先生におよぶものはない……」
 この時、頭の上で、大きな鳥の輪を描くのを認めたものですから、清澄の茂太郎は、急にたわごとをやめて、
「あ、ありゃアルバトロスだ」
 地上へ卸(おろ)して見たら、その翼の直径が一丈五尺はあるかも知れない。
 もう少し近い空を飛んでいたなら、口笛を吹いてでも呼びとめてみようものを、あの高さでは、自分の魅力も及ばないものと思いあきらめたらしく、
「アルバトロスに違いない」
 うらめしそうに、夕暮の空に消えて行く大きな鳥の、白い翼を見送っています。
 その見慣れない鳥を、アルバトロスというような名で呼びかけた茂太郎の知識は、駒井甚三郎から出たのではあるまい。多分、例のマドロスが、折に触れては航海話をして聞かせているうち、幾度かその名が出るものだから、海の上を飛ぶ大きな鳥さえ見れば、この子はこのごろ、アルバトロスと呼んでみたくなるのらしい。
 事実上、海洋と、孤島とを棲処(すみか)として、群棲(ぐんせい)を常とする信天翁(あほうどり)が今時分ひとりで、こんなところをうろついているというのも変ですから、或いはオホツク海あたりから来た大鷲(おおわし)が、浦賀海峡を股にかけて、天城山(あまぎさん)へでも羽をのばしたかも知れません。
 見ているうちに、その姿も消えてしまいました。
 そこで、茂太郎は、急に手持無沙汰の感じで、さいぜんの続きであろうところのたわごとをうたい出しました、
「諸君、フムベールはイカサマですぞ。かれは権力を得ることができなかったために、民衆に結ぼうとしました。その民衆も生(は)え抜きの民衆ではなく、民衆の中の泡です、民衆を代表すると名乗って、実は民衆のカス、民衆の屑、民衆のあぶれ者の、浅薄なる寄集りを民衆と称して、それに近寄って御機嫌を取ったために、最も浅薄な、そのくせイヤに性質(たち)の悪い勢力を作ってしまいました。今でも、あのゴマカシ者を、不世出の偉人かの如く信ずる者があるから、滑稽ではありませんか」
 茂太郎とても、興に乗じてはあえて弁信に譲らない饒舌(じょうぜつ)を弄(ろう)することがある。
 しかしながら、いくら長く喋(しゃべ)っても、弁信のは条理整然として、引証的確なるものがあるが、茂公のは無茶苦茶です。論より証拠、引きつづいての前記の文句を突然うたい出されて、面食(めんくら)わないものがありますか。
 だが、こうして、聞く人もないところの空気を、茂太郎がしきりにかき廻しているのを、不意に惑乱せしめた動物があるのも皮肉じゃありませんか。
 一時(いっとき)、びっくりした茂太郎が、見るとそれはホルスタイン種と覚しい仔牛が一頭、なれなれしくやって来て、その首を茂太郎にこすりつけているのでありました。
「やあ、牛――お前、いつのまに来ていたの」
 茂太郎は一時びっくりしてみただけで、その後はあえて驚きません。尋常ならば、たとえ牛であっても、こんな際に、房総第一の高山の上で、人っ子ひとりいないと信じていたところへ、不意にのっそりと現われて、体をこすりつけられるようなことをされては、大抵の子供は驚愕(きょうがく)のあまり、悲鳴を上げて逃げ出すのがあたりまえですけれども、茂太郎は驚きません。
 こすりつける牛の首筋を、可愛がって撫でてやりました。
 そうすると、今までは多少遠慮の気味でこすりつけていた牛が、もう公(おおや)けに許された気になって、全身をあげて、茂太郎にこすりついて来たその懐(なつ)っこさといったらありません。
 物と物との間には、どうしても、身も魂も入れ上げて好きになれるものもあれば、虫唾(むしず)の走るほど嫌われながら、それでもついて廻らねばならぬ運命もある。
 清澄の茂太郎が、物に好かれる性質を、先天的に、極めて多量に持ち合わせて生れたことは申すまでもありません。ただそれを多量に持ち過ぎていることが、彼を苦しめたこと幾度か知れません。
 都会にあって、見世物に出されて、人気を占めていた時は、多くの婦人が、貴婦人といわるべきものまでが、彼の身(からだ)にこすりつくことを好んでいなかったか――あらゆる動物が彼を慕うて来る、毒蛇でさえも、狼でさえも――いわんや動物のうちの最も順良なる牛が、こうして、なついて来るのは、茂太郎にとっては少しも不思議なことではありませんでしたけれども、そのなつかしがりようが、あまりに濃厚なものですから、
「おや、お前はチュガ公じゃないか、ああ、チュガ公だね、チュガ公……」
 茂太郎に驚喜の色があります。

         九

 チュガ公と呼ばれて仔牛は、前足をトントンと二つばかり鳴らし、クフンクフンと甘えるような息づかいをする。
「ああ、ほんとうにチュガ公だ。お前、久しく逢わなかったね、お父さんも、お母さんも達者かい」
 そう聞かれて牛は、またクフンクフンと鼻を鳴らし、涎(よだれ)を垂らしはじめました。
「お父さんも、お母さんも達者だろう、なぜ、お前、今時分、ひとりで、こんなところへ来たの、みんなが心配するだろう、お父さんやお母さんも心配するだろう、牧場の番兵さんも心配するよ――ひとり歩きをするものじゃない」
 茂太郎は、この場合、仔牛に向って大人びた意見を試みたが、父母在(いま)す時は遠く遊ばず、という観念を、仔牛に向って吹き込もうとして、かえってくすぐったく思いました。それは他に向って言うことではない、自己に対して責めることなのだ。
 父母在(いま)しても、いまさなくても、幼き身で無断に遠く遊んで悪いことは、昨今の自分の身がかえって殷鑑(いんかん)だと思いました。
 駒井甚三郎も、田山白雲も、マドロス君も出て行ったあとの洲崎(すのさき)の陣屋から、いい気になって出て来た自分は、興に乗じてこんなところまで上って来てしまった。
 ここを房総第一の高山だと思って上って来たわけではないが、もうこれより上へのぼるところはないからここで止まったのだ。上へのぼるところがありさえすれば、雲の上へでも、空の上へでも、登ってしまったかも知れない。しかし、ここまででさえ上って来て見れば、鹿野山よりも、鋸山(のこぎりやま)よりも、清澄よりも、まだ高いらしい。
 本来、こんな高い所へ登ろうと企(くわだ)てて来たのでもなんでもなく、今もいう通り、誰もとがめる人がないから、興に乗じて、ついここまで来てしまったのだ。今になってはじめて、洲崎の陣屋をかなり遠く離れて来ていることと、日というものが全く暮れてしまっていることを悟りました。
 牛に向って教訓を試みたことによって、はじめて我が身に反省することを知り、わが身に反省してみると、
「ああ、そうだ、そうだ、お嬢さんが待っている、あたしも早く帰らないと悪い――」
 茂太郎に父母はいないらしいが、彼の身を心配する人が無いというはずはない。
 兵部の娘が心配する。そこで茂太郎は、
「さあ帰ろう、牧場では、きっとお前を探している、あたいだって、誰か探しているかも知れないが、あたいの方は、今日はじめてじゃないんだから……」
 全く茂太郎の脱走は、今にはじまったことではないから、心配する方にも覚えがある。仔牛の方はそうはゆくまい。熊か、狼にでも食われたか、牛盗者(うしぬすびと)か、後生者にか――血眼(ちまなこ)になって騒いでいるに相違ない。
「お前を柱木(はしらぎ)の牧場まで送ってって上げる」
 茂太郎は、仔牛の頭を撫(な)でながら、房総第一の高山を下りにかかりました。
 房総第一の高山を下ると、そこに柱木の牧場があります。
 柱木(はしらぎ)の牧場は、嶺岡(みねおか)の牧場の一部で、その嶺岡の牧場というのは、嶺岡山脈の大半を占める牧牛場――周囲は十七里十町余、反別としては千七百五十八町余、里見氏より以来、徳川八代の時に最も力を入れ、南部仙台の種馬、和蘭(オランダ)進献の種馬、及び、天竺国雪山(てんじくこくせつざん)の白牛というのを放ったことがある。
 仔牛を送って、柱木の牧場まで来た清澄の茂太郎、
「番兵さん、チュガ公を連れて来たぜ」
「チュガ公を……そういうお前は、芳浜の茂坊じゃねえか」
 牧場は、軍隊組織になっているわけではないが、この番人は、陸軍の古服でも払い下げたものか、いつも古い軍服を着ているものだから、茂太郎は、番兵さんの名を以て呼んで、その本名を知らない。
 その番兵さんは、チュガ公の帰来を喜ぶよりは、茂太郎の現出に少なからぬ驚異を感じているもののようです。
「番兵さん、チュガ公もずいぶん大きくなったものだねえ、まるで見違えてしまったよ、それでも直ぐわかったよ」
「茂坊、お前もずいぶん珍しいことじゃないか、今までどこに何をしていたえ」
「三年目だねえ」
「そうだなあ、三年目だなあ」
「三年前の夜這星(よばいぼし)が出る晩だったよ、チュガ公の生れたのは」
といって、茂太郎は牛小屋の中を、まぶしそうに見入ります。
 三年前の夜這星(よばいぼし)の出る晩というのは、何日(いつ)のことだか、その夜這星とは、何の星のことだかわからない。茂太郎独特の暦法によるのだから、明白な時間と、位置はわからないが、この牛の誕生のその時に、まさに清澄の茂太郎がここに立会っていたことは事実らしい。
 番兵さんが産婆役をして、茂太郎が介添役となって、かくて安々と玉のような牛の子が、夜這星の下(もと)に生れ出たのである。そのチュガ公という名の名附親が誰あろう、この清澄の茂太郎御本人ではないか。チュガ公という名になんらのよりどころと、つかまえどころがあろうとは思われない。生れ落ちると同時に、
「番兵さん、名前を何とつけてやろうか知ら。チュガ公はどうだね、チュガ公とつけたらどんなもんだろう」
「よかろうね、なんでも名は、呼びいいのがいい」
 そこで即座に、チュガ公の名が選定されてしまいました。
 その後、茂太郎去って後も、多分その名で呼ばれ通して来たのでしょう。畜生の身としても、その産婆役と、名附親とを忘れてよいものか。
「チュガ公が、このごろお前、だまって出歩きをするようになっていけねえんだ」
「どうして」
「どうしてったって、お前、お母(っか)あが亡くなってからというもの、出歩きをしたがっていけねえ」
「え、チュガ公のお母あは死んだのかい、番兵さん」
「ああ、惜しいことをしたよ、この春ね」
「ええ、だから、お父さんも、お母さんも達者かと聞いてみたんだのに、どうして死んだの、病気でかい」
「いや、病気で死んだんじゃねえんだ、乳を取られに江戸へ連れて行かれて、それっきり帰って来ねえんだ、いや帰してくれねえんだから、多分……」
「そんならチュガ公のお母さんは江戸にいるだろう、江戸にいれば死んだときまりはしまい」
「ところがね、江戸へ連れて行かれて帰されなけりゃ、たいてい運命の程はきまっているよ」
「どうきまっているの」
「つぶされて、食べられたのさ」
「誰に……」
「誰に食べられたか知れねえが、人間に食べられてしまったのさ」
「憎い人間だなあ、誰があの牛を食やがったんだ」
「御用だから、仕方がないよ」
 チュガ公の母親が、乳を取られに江戸へ引いて行かれて、そのまま帰されないのは、乳だけの御用では済まなかった証拠である、と言って、その他の多くを語らない。
 それと同時にこのチュガ公が、フラフラ歩きをするようになったのだ、と語り聞かされました。

         十

 夕飯前、茂太郎は、番兵さんについて、牧場の中を一めぐりして歩きました。
 茂太郎のおなじみは、チュガ公のみではありません。
 チュガ公は、名附親としての浅からぬ因縁(いんねん)があるにはあるが、その当時からここで茂太郎と知合いになっている動物は――茂太郎が来なくなってから後に生れた動物はいざ知らず、その以前からの馴染(なじみ)は、早くも茂太郎の訪れを見て宙を飛んで集まって来ました。あるものは多少遠慮して遠くから、しげしげと茂太郎の姿をながめ、ある者は無遠慮に、最初チュガ公のした如く、なれなれしく身をこすりつけます。
 茂太郎は、そのいずれに対しても、これをいたわり、愛するの意志を示しました。人間ならば歓呼の声を挙げ、挨拶と、握手とに忙殺されるところでしょう。
 かく、牧場の牛と馬とに愛せられたのみならず、数頭の番犬までが、祝砲でも放つかの如く、高く吠(ほ)えて走って来ました。そうして茂太郎が去ってからのち生れた犬どもは、小首をかしげて、仔細はわからないが、事の体(てい)の容易ならぬのに感動を催しつつあるもののようです。
 その中で、茂太郎が特別の興味を以て見たことの一つは、牛が、鹿の子に乳を飲ませて養っていることであります。
 番兵さんの話によると、多分猟師に追われたものだろう、一頭の子鹿がこの牧場へ逃げこんだのを、そのまま一頭の乳牛にあてがって置くと、それがわが子と同様に乳を与え、鹿の子もまた、牛を母としてあえてあやしまないで毎日暮しているとのこと。
 それを聞いて茂太郎が、不意に妙なことを、番兵さんに向ってたずねました。それは、
「番兵さん、ここへオットセイは来ないかい、オットセイは」
 番兵さんが唖然(あぜん)として、暫く口をあけていましたが、
「オットセイは来ないよ、オットセイの来べきところでもなかりそうだ」
「そんならいいが番兵さん、もしオットセイが来たら、殺さないようにして帰しておやり、子供がかわいそうだから」
 番兵さんは、茂太郎の申し出を奇怪なりと感じないわけにはゆきません。
 この際、特にオットセイを持ち出して来るのが意外なのに、そのオットセイに親類でもあるかの如く、懇(ねんご)ろに、その訪れた時の待遇を頼むのがオカしいと感じないわけにはゆきません。しかし、オットセイなるものに就(つい)ては、この番兵さんも、名前こそ聞いているが、その知識はあんまり深くないものだから、
「鹿の子でも、オットセイでも、来れば大切(だいじ)にしてやるが――茂坊、オットセイは魚だろう、山にいるものじゃなかろう、北の方の海にいるお魚のことだろう、だからオットセイが、牧場へ逃げて来るなんてことは、有り得べからざることだよ」
「いいえ、違います」
 茂太郎は、オットセイの知識については、何か相当の権威を持っていると見えて、首を左右に振って、番兵さんの言葉をうけがわず、
「違いますよ、オットセイはお魚じゃありません、獣(けもの)ですからね」
「そうか知ら」
 オットセイについて、茂太郎よりも知識の薄弱らしい番兵さんは、勢い、茂太郎のいうところに追従しないわけにはゆきません。事実、オットセイは海にいるということは聞いているが、それが魚類であるか、獣類であるかを、決定的に回答のできるほどの知識を持っていないからです。
 やや得意になった茂太郎は、
「海にいたって、オットセイは魚じゃないんだ。鯨だってお前、番兵さん、鯨だってありゃお魚じゃないんだよ、山にすむ獣と同じ種類の動物なんですから」
「え……」
 番兵さんが眼をまるくして、今度はうけがいませんでした。
「御冗談(ごじょうだん)でしょう……鯨が魚でないなんて、木曾の山の中で、鯨がつかまったなんて話がありますか」
 オットセイについては、自分の知識の不明な点から、圧倒的に茂太郎の言い分に追従せしめられた形でしたが、鯨が魚でないなんぞと言い出された時に、番兵さんがうけがいません。のみならず冷笑気分になって、
「熊の浦で、鯨の捕れたなんて話はあるが、木曾の山の中に、鯨が泳いでいたなんという話は聞かねえ」
 木曾の山を二度まで引合いに出しました。そこで茂太郎も応酬しないわけにはゆきません。
「でも、学者がそいったよ」
 この場合、茂太郎は、自分を当面に出さないで、学者を矢面(やおもて)に立たせました。
「学者? ドコの学者が、鯨が魚でないなんていう学者は、唐人の寝言だろう」
「でも、立派な学者がそいったよ」
 茂太郎は、どこまでも学者を楯(たて)に取る。これは名は現わさないが、多分、駒井甚三郎のことではなかろうかと思う。
「ばかばかしいよ、学者が言おうと、誰が言おうと、そんなことを本当にする奴があるものか、論より証拠、まだ鯨の本物を見ないんだろう」
「ああ、見ないけれど、立派な学者がそう言うから」
「立派な学者もヘチマもあるものか、本物を一目見りゃわかることだよ、百聞は一見に如(し)かずだあな」
 今度は番兵さんが得意になりました。
 茂太郎がいかに大学者を引合いに出そうとも、現に見ていることより強味はない。自分は幾度も鯨の本物を本場で見ている――という確乎(かっこ)たる自信があるから、番兵さんの主張は、さすがの茂太郎も、如何(いかん)ともすることはできない。しかしまだ、どうしてもあきらめきれないものがあると見えて、
「マドロス君もそいったよ、鯨は魚じゃないんだって」
「お前がだまされてるんだよ、からかわれてるんだよ。もう、そんな話はおよし、鹿の子もそんな話は聞くのはイヤだといって、ああして親牛の腹へもぐりこんで寝てしまったあ」
 茂太郎は、まだまだ、あきらめきれないものがあるけれど、相手が受けつけないのだからやむを得ない。
 そこで鹿の子が、親ならぬ親を親として、その懐ろに安んじて眠り、牛の親が、子ならぬ子を子として、二心なく育てる微妙な光景を見ていると、この分では、狼の子が来ても、牛はそれを憎まずに愛し得るだろうと思われる。
 平和なる動物、忍従の動物、沈勇の動物、犠牲の動物、労働の動物、博愛の動物、そこで古来神として祀(まつ)られた動物。
 ただいまの論争は忘れて、それをしげしげと見入った清澄の茂太郎、
「オットセイじゃ、ああはいかないんだぜ」
 この子は、オットセイに対して、よくよく執着があるものと見える。そうでなければ、鯨で言い伏せられた腹癒(はらいせ)に、先方の知識の薄弱なところをねらって、オットセイで論鋒を盛り返そうとするのかも知れない。
「ねえ、番兵さん、牛はあんなに他人(?)の子でも大切(だいじ)にして育てるけれど、オットセイの親はなかなかあんなことはしないんだぜ。オットセイの親は、なかなかああはいかないんだからな」
「オットセイの親が、どうしたというのだ」
「オットセイの母親というのはね、番兵さん、自分たちの餌(えさ)をさがすために、三十里も遠くの海へ出るんだとさ、そうして帰って来ると、内海(うちうみ)に置いて行かれたオットセイの子が、お乳を飲みに寄って来るが、オットセイの子は、自分の母親がドレだかわからないものだから、どの母親にでも行ってかじりつくが、母親の方では、自分の子供だけにしかお乳をやらない、ほかの子供がかじりつくと突き放してしまう、だから、外海(そとうみ)へ餌を取りに出たオットセイの親を人間がつかまえると、その子は餓え死んでしまうのだって……だから今では、外海でオットセイを捕らせないことになっているんだって」
 茂太郎は、マドロス仕込みであろうところの、オットセイの知識を物語りました。

 牧場、牧舎の見廻りが一通り済んで、小舎(こや)へ帰って、二人水入らずの晩餐(ばんさん)の後、番兵さんは一個の曲物(まげもの)を、茂太郎の前に出して言う、
「茂坊、薬物(くすりもの)だから少しお食べ」
 それは色の白い、ベタベタした透油(すきあぶら)のようなもの。飴(あめ)のようで飴ではない。あんまり見慣れないもので、第一、食べようからしてわからないから、遠慮をしていると番兵さんは、耳かきのような杓子(しゃくし)を取添えて、
「これは、チュガ公の母親がこしらえた白牛酪(はくぎゅうらく)だよ、薬物だから、少しお食べ」
 すすめられるままに、その匙(さじ)のような杓子ですくい取って、少し食べてみたが、甘くも、辛くもない、薬物だというから、苦くもあるかというにそうでもない、妙に脂(あぶら)っこい、舌ざわりの和(やわ)らかな、口へ入れているうちに溶けてしまいそうなものだから、
「何だい、番兵さん、これは、味もなにも無いじゃないか」
「薬物だからね」
「何の薬になるの」
「何の薬ってお前、白牛酪なんてのが、滅多(めった)に口へ入るものじゃないよ」
と、そこで番兵さんが、茂太郎に、白牛酪の講釈をして聞かせました。
 白牛酪は、この牧場の白牛に限ったものである。この牧場の白牛から搾(しぼ)り取った乳が、すなわち白牛酪となって、天下無二の薬品と称せられているのだ。
 それは主として将軍の御用であるほかに、極めて僅少(きんしょう)の部分が、大名その他へわかたれる。
 売下げを希望する者は、江戸の雉子橋外(きじばしそと)の御厩(おうまや)へ、特別のつてを求めて出願する……その貴重なる薬品を、番兵さんの役得とはいえ、茂太郎はここで振舞われたことを、光栄としなければなるまい。
 光栄は光栄かも知れないが、甘くも、辛くも、なんともないことは争われない。そのはず、白牛酪(はくぎゅうらく)とはすなわちバタのことで、茂太郎は、パンにもなんにもつけないバタを、高価なる薬品として振舞われているのだから、ばかばかしいといえば、ばかばかしいこと。
 長い間、嶺岡牧場(みねおかぼくじょう)の白牛酪は、斯様(かよう)に貴重な霊薬としての取扱いを受けておりました。
 バタを食べさせられて、変な面(かお)をしていた茂太郎を、番兵さんは、流し目に見ながら、鯨のことを話し出しました。
 それは、魚なりや、獣(けもの)なりやというさいぜんの論争の引きつづきではなく、主として自分の見聞から、鯨は子を愛する動物であるという物語であります。
 いずれの動物でも、子を愛さない動物はないが、ことに、鯨ほど子を可愛がる動物はあるまいとの実見談を、番兵さんが、茂太郎に話して聞かせました。
 子鯨を殺された親鯨が、毎日その時刻になると港外までやって来て、或いは悲鳴をあげ、或いは直立して威嚇(いかく)を試みつつ、子供を返してくれと訴うる様のいかにも哀れなのに、その子鯨を殺した漁師が、熱病にかかって死んでしまった、という話を聞いているうちに、茂太郎が、親というものは、動物でさえもそれほど子を愛するものだから、自分も当然親に愛されていなければならないはずなのに、その経験も、記憶も無いということが、この場合になって、茂太郎の興をさましてしまいました。
 そんな話で、かれこれして眠りについた時分、外はさらさらと時雨(しぐれ)の降りそそぐ音。
 それがかえって、しめやかな夜を、一層静かなものにし、時々海の彼方(かなた)でほえるような声が遠音に聞える。
 半島国とはいえ、ここから海はかなり遠かろうのに、あの吼(ほ)えるのは海の中から起るようだ。
 それが気のせいか、鯨がやって来て「子をよこせ」「子をよこせ」と叫んでいるように、茂太郎の耳に聞える――

         十一

 その夜、茂太郎は鯨の夢を見ました。
 港の外の渺々(びょうびょう)たる大洋を、巨大なる一頭の鯨が悠々(ゆうゆう)と泳いでいる。ふと見るとその傍に可愛らしい鯨がついている。
 大きいのは母鯨だろう。母子は平和な海に、愉快に泳いでいる。
 と、それを見つけた漁師が、けたたましく叫ぶ。みるみる無数の鯨舟が、その二頭の鯨を囲(かこ)んでしまった。
 漁師共がいう、まず子鯨を殺せ、親鯨はひとりでに捕れる、と。
 そこで取巻いた二十艘(そう)ばかりの八梃櫓(はっちょうろ)の鯨舟が、銛(もり)を揃えて子鯨にかかる。
 子鯨は負傷する、親鯨はそれを助けんとして奮闘する。鯨舟はこっぱのように動揺する。
 母鯨は、子鯨の上にのしかぶさって隠そうとする。子鯨は、負傷に苦しがって浮き出すと、鰭(ひれ)の上に載せていたわる。その隙を見て銛が飛んで来る。
 親鯨は、鰭と身体(からだ)との間に、子鯨をはさんで海の底深く沈もうとするのを、銛がその母鯨を刺す。烈しく怒った鯨の震動で、漁舟が二艘微塵(みじん)に砕ける。
 ついに、親と子は離れ離れになった。漁師共は得たりと、半殺しにしてしまった子鯨を、綱で結んで舟へ引き上げようとする。
 深く沈んだ母鯨の姿が、見えなくなってしまった。
 とうとう、親の方を逃がしちゃったと漁師共が口惜(くや)しがる。
 逃げたんじゃない、沈んでいる、沈んでいる、と叫ぶものもある。
 外洋(そとうみ)でなければ鯨は、死んでも沈むものじゃない、と怒鳴るのもある。
 逃げたのは男親だ、男の親鯨は逃げるが、母鯨というものは、決して子を捨てて逃げるものじゃ無(ね)え、そこらにいる、そこらにいる、とガナる者もある。
 一旦は逃げても、直ぐに来るから用心しろ、用心してつかまえてしまえ、と声をしぼって警(いまし)める者もある。
 そこで、海岸が暫く静まったが、やがて、すさまじい海鳴りがすると共に、果して大鯨が奮迅(ふんじん)の勢いで、波をきってやって来た。
「そら来たぞッ」
 漁師共の銛(もり)と、船とは、麻殻(おがら)のように、左右にケシ飛んでしまう。
 一気に、子鯨のつながれてあるところへのして来た親鯨は鰭(ひれ)でもってハッタとその綱を打ちきってしまった。そうして子鯨を抱いて、まっしぐらに外洋の方に逃げ出すと、早くも鯨舟が港の出口をふさいでいる。
 そこで出鼻をおさえられたところを、また無数の鯨舟がやって来て、周囲から攻め立てて、とうとう子鯨を取り返してしまった。
 怒気、心頭に発した母鯨は、行手をふさいだ港口の鯨舟数隻を、粉々にたたきこわすと、そのまま再び外洋に逃れ去ってしまった。
 漁師共もあきらめて、その子鯨だけを大切な獲物(えもの)にして引上げる。
 それからまた暫く海が平和であったが、やがて海鳴りがする。
 港の外を見ると、またやって来た。母親がそこまで来たには来たが、以前の奮迅の勇気は無く、港の外へ来て悲しげに泣く。海が急にわき立ったかと思うと、母鯨は、燈台が崩れたように海中に直立して、真白い腹を鰭でたたきながら、「子を返せ」「子を返せ」と狂いまわる――その哀求の声。
 茂太郎は、その声でガバと起き上ってしまいました。
 外で子をよこせ、子をよこせと哀願している声は、自分を迎えに来たもののように、茂太郎の耳に響きます。
 もう寝られない。寝られないとなれば、この少年は無意味に辛抱して、強(し)いてじっとしていることは一刻もできない性質です――鯨が呼んでいる。鯨ではない、自分の母親が呼んでいる。母親でもないが、誰か自分を呼んで、早く帰れ、早く帰れと呼んでいる。この少年は矢も楯もたまらなくなって、飛び起きてしまいました。
 ややあって、雨をおかして石堂原をまっしぐらに走るところの清澄の茂太郎を見ました。
 笠をかぶり、蓑(みの)をつけているけれども、それは茂太郎に相違ありません。彼は物に追われたように走るけれども、別段、追いかけて来る人はない。
 けだし、寝るに寝られず、じっとしては一刻もいられぬ茂太郎は、番兵さんの熟睡の隙(すき)をねらって飛び出して来たものだろう。そうでなければ番兵さんだって、いったん泊めたものをこの夜中、雨の降るのにひとり帰してやるはずはない。
 そんならば、蓑笠はどうしたのだ。
 さいぜん、古畑の畦(あぜ)で、あの案山子殿(かかしどの)をがちゃつかせていたものがある、多分、あれをそっと借用したものに違いない。
 興に乗じての脱走は常習犯だが、他人の持物を無断で借用して、その人を困らせるような振舞は、かつてしたことのない茂太郎だから、無人格な案山子殿のならば、無断借用も罪が浅いと分別したのかも知れません。
 雨を衝(つ)いて茂太郎は、蓑笠でまっしぐらに走りました。
 しかし、なにも悪いことをしたんでなければ、そう、まっしぐらに走らないでもいいではないか。番兵さんの熟睡を見すまして逃げて来たんなら、そう物に追われるようなあわただしい脱走ぶりを、試みなくともいいではないか。
 だが、この少年は、なお驀然(まっしぐら)に走りつづけることをやめない。どうしても後ろから、追手のかかる脱走ぶりです。
 果して、後ろに足音がする。足音がバタバタと聞え出して来た。スワこそ!
 しかし、仮りに番兵さんに追いかけられて、つかまってみたところで、何でもないではないか――
 その以外の、誰かこの辺のお百姓にでも怪しまれて、取捉(とっつか)まってみたところで、タカが子供ではないか――
 狼が出たって、熊が出たって、コワがらないこの子が、何に怖れてこうもあわただしく走るのか、了解のできないことだ。
 だが、その後ろから、起る足音の近づくを聞くと、茂公はなお一層の馬力をかけて走る。
 後ろのは、得たりとばかり追いかける足音が、いよいよ急です。
 前の走る者の了簡方(りょうけんかた)もわからないが、後ろから追いかけて来る奴の心持もわからない。おーいとも言わず、待てとも呼ばず、ただ、足をバタバタさせて追っかけて来るばかり。
 しかしながら、この競走の結果は大抵わかっています。何をいうにも茂太郎は、子供の足です。もうどうにもこうにも、あがきがつかなくなったと見えて踏みとどまり、追いかけて来る後ろの足おとを、恨めしそうに、闇の中から眺めて、
「叱(し)ッ、叱ッ」
と言いました。これもたあいのないこと。ここで、「叱ッ、叱ッ」と小さな口で叱ってみたところで、辟易(へきえき)する相手ならば、ここまで狼狽(ろうばい)して逃げて来るがものはないではないか。茂太郎は下へ屈(こご)んで、右の手で石を拾い、
「叱ッ、叱ッ、お帰りというのに」
 再び叱りながら、その石を、闇の中へめがけて投げ込みました。
 手ごたえはあるにはあったのです。茂太郎の投げた石で、追い迫った足音はハタと止みました。
 相手も相手です、このくらいの威嚇(いかく)で辟易するくらいなら、追いかけるがものもないではないか。
 そこで、茂太郎は、またしても足を立て直して、まっしぐらに走り出すと、つづいて、例の足音が、ばたばたと追いかける。
 走ること暫くにして、どうしてもまたあがきがつかなくなって、
「叱ッ、叱ッ」
 しかしながら、もう駄目です。この時、後ろなる或る物から、完全に追いつかれてしまっていました。

 追いつかれたものを見れば、なんの人騒がせな、暗闇(くらやみ)から牛の本文通り、これはチュガ公でありました。
 チュガ公の後を慕って来るのを、或いは疾走によって、或いは威嚇によって追い返そうとしたが、ついにその効なきことを知ると、やがて妥協が成り立ちました。
 その辻堂を出立する時、チュガ公の背には一枚の古ゴザが敷かれて、その上に跨(また)がる蓑笠(みのかさ)の茂太郎――こうなるとチュガ公は、茂太郎のために、伝送の役をつとめんとして来たようなものです。
 雨の夜道も、苦にはなりません。
 夜が明けると、その雨さえも霽(は)れてしまいました。山道は全く尽きて野路になっている。
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