大菩薩峠
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著者名:中里介山 

しかし、武術は好きで、ずいぶんやるにはやりましたよ、自慢ではないが、まあ、大抵の喧嘩には負けません。武術も好きでしたが、絵も好きでした。子供の時分、拙者は江戸で生れました。浅草の観世音へ行っては、あの掛額をながめて、絵をかいたものです、あれが拙者の最初の絵のお手本です。文晁(ぶんちょう)のところへも、ちょっと行きました。ありゃ俗物です、俗物ですけれども、一流の親分肌のところもありましたね……絵の本当の師匠は古人にあるのです、古人よりも山水そのものですな。雪舟もいいましたね、大明国(だいみんこく)にわが師とすべき画はない、山水のみが師だ……と。要するに写生です、一も二も写生ですよ……しかし、この写生観は応挙のそれとは性質を異にしているかも知れませんが、写生はすなわち自然で、自然より大いなる産物はありませんからな――いけません、西洋の山水画というものも、うす物を通して見るには見ましたが、それは支那のものとは比較になりませんよ。あなたは、支那の山水画を御存じでしょうな、雪舟、その他一二を除いては、日本の山水画も、あれにくらべると侏儒(いっすんぼうし)です、支那の山水画は人間の手に出来たものの最上至極のものです、あれがみんな写生ですよ……西洋画の写生よりも、もっと洗練された写生なんです」
といって白雲は、支那の古代からの、宋、元、明に及ぶまでの絵画の歴史と品評とを始めました。駒井甚三郎はここでもまた、異常なる傾聴を余儀なくされたのです。
 駒井も今まで絵を見ていないということはない。また絵についても当時の上流の士人が持っていただけの教養は持っている。ただ、当時上流の士人が持っていただけの教養以上にも、以外にも出でなかったのみだ。南北の両派、土佐、狩野(かのう)、四条、浮世絵等についての概念を以て、人の高雅なりとするものは高雅なりとし、平俗なりとするものは平俗としていたのが、ここで思いがけない写生一点張りの画論を聞いて、容易ならぬ暗示を与えられたようにも感じました。
 彼は船乗りの小僧、金椎(キンツイ)によって、西洋文明の経(たて)を流れているキリストの教えを教えられ、今はまた、ここで自分が絵画とか美術とかいうものに対する知識と理解の、極めて薄いことを覚(さと)らせられました。
 学ぶべきものは海の如く、山の如く、前途に横たわっている――という感じを、駒井甚三郎はこの時も深く銘(きざ)みつけられました。
 船が保田に着く。田山白雲は、一肩(いっけん)の画嚢(がのう)をひっさげて、ゆらりと船から桟橋へ飛び移りました。
「さようなら、近いうち必ず洲崎の御住所をお訪ね致しますよ」
 笠を傾けて、船と人とは別れました。まだ船にとどまって、館山(たてやま)まで行かねばならぬ駒井甚三郎は、保田の浜辺を悠々(ゆうゆう)と歩み行く田山白雲の姿を見て、一種奇異の感に堪えられませんでした。

         八

 その名のような白雲に似た旅の絵師を、駒井甚三郎は奇なりとして飽かず見送っておりました。
 ほどなく松の木のあるところから姿を隠してしまった後も、髣髴(ほうふつ)として眼にあるように思います。
 しかしながら、人の生涯は、大空にかかる白雲のように、切り離してしまえるものでないと思いました。人情の糸が、必ずどこかに付いていて、大空を勝手に行くことの自由をゆるされないのが人生である。あの男もどこかで行詰まるのではないか。あの男の蔭に、泣いて帰りを待つ妻子眷族(さいしけんぞく)というものもあるのではないか。
 さりとて、人間は天性、漂泊を好む動物に似ている。
 自由を好んで不自由の中に生活し、漂浪を愛して、一定の住居にとどまらなければならない人間。それでもその先祖はみな旅から旅を漂泊して歩いたものだから、時としてその本能が出て来て、人をして先祖の漂浪にあこがれしめるのではないか。物慾の中に血を沸かして生きている人々が、どうかすると西行や芭蕉のあとに、かぎりなき憧憬(どうけい)を起すのは、ふるさとを恋うるの心ではないか。
 左様なことを駒井は考えました。
 船はその夜、保田の港へ泊ることになったものですから、駒井も船の中に寝ることにきめました。この時分には、もう大抵の乗客は上陸してしまって、船は駒井だけのために館山へ廻航するの有様で、船のしたには駒井の携えてきた書物をはじめ、手荷物の類がかなり積み込まれているから、駒井も、ここでちょっと船とはわかれられないようになっているのです。
 まだ日脚(ひあし)は高いので、このまま船中に閉じ籠(こも)るのも気の利(き)かない話です。
 そこで、駒井甚三郎は、程遠からぬ鋸山(のこぎりやま)の日本寺へ登ることを思い立ちました。久しく房州にいるとはいえ、この山へ登ってみたいと思いながら、その機会がなかったのを、今日は幸いのことと思って、船頭に向い、
「これから日本寺へ参詣してくる、ことによると今夜はあの寺へ泊めてもらうかも知れない、しかし、明日の午後、船の出帆までには相違なくもどってくる」
といって、笠をかぶり、田山白雲が右の方、保田の町へ入り込んだのとちがって、左をさして、乾坤山(けんこんざん)日本寺の山に分け入りました。
 切石道を登って、楼門、元亨(げんこう)の銘(めい)ある海中出現の鐘、頼朝寄進の薬師堂塔、庵房のあとをめぐって、四角の竹の林から本堂に詣(もう)で、それを左へ羅漢道(らかんみち)にかかると、突然、上の山道から途方もない大きな声で話をするのが聞える。
「羅漢様に美(い)い男てえのはねえものだなあ」
「べらぼうめ、こちと等(ら)は羅漢様からお釣りをもらいてえくれえのものだ」
「ちげえねえ、いよう羅漢様」
「羅漢様――」
「羅漢様――」
 山を遊覧する人間が、大きな声を出してみたくなるのは、妙な心理作用であると思いました。江戸あたりから遊覧に来た連中らしいが、とうとうそれらは羅漢様からお釣りを取ろうという面(かお)を見せずに、あちらの山に消えてしまう。
 さて、石の千体の羅漢はこれから始まる。あるところには五体十体、やや離れて五十体、駒井甚三郎は、その目をひくものの一つ一つをかぞえて行くうち、愚拙(ぐせつ)なるもの、剽軽(ひょうきん)なるもの、なかには往々にして凡作ならざるものがある。無惨なのは首のない仏。しかしながら、首を取られて平然として立たせたもう姿には、なんともいえない超然味がないではない。
 やがて駒井が足をとどめたところには小さな堂があって、その傍らにかなり古色を帯びた石標――「秋風や心の燈(ともし)うごかさず 南総一燈法師」と刻んである。
 それよりも、駒井の心をひいたのは、まだ新しい羅漢様の一つに「元名(もとな)米商岡村ふみ」と刻まれた、その女名前が、妙に駒井の心をなやませました。
 そこを少しばかりのぼってまた曲りにかかる。
 その曲りかどで風が吹いて来ました。
 その風の中からおりて来たのが妙齢の美人です。
 駒井もゾッとしました。高島田に結って、明石(あかし)の着物を着た凄いほどの美人が、牡丹燈籠(ぼたんどうろう)のお露のような、その時分にはまだ牡丹燈籠という芝居はなかったはずですが、そういったような美人が、舞台から抜け出して、不意に山の秋風の中から身を現わしたのだから、駒井ほどのものも、ゾッとするのは無理もありません。
 それだけではありません。見ればその娘の胸に抱えられているものがある。
 娘が後生大事(ごしょうだいじ)に抱えているそれを、よく見ると羅漢様の首でありましたから、駒井はいよいよ怪しみの思いに堪えることができません。
 すれちがって、娘は曲りかどを下へ、駒井は立って見送っていると、一間ばかり行き過ぎた娘があとを振返って、駒井を見てにっこりと笑いました。
「これからお登りなさるの?」
「ええ」
 駒井は物怪(もののけ)から物を尋ねられたように感じながら頷(うなず)いて見せると、
「お帰りに、わたくしのところへ泊っていらっしゃいな」
 これには急に挨拶ができませんでした。しかし、そこで駒井は、ああ気の毒なと感ずることができました。
 この娘は、その風姿の示す通り、しかるべき家のお嬢様として、恥かしからぬ女性ではあるが、何かにとらわれて気が狂っているのだ。そこで、
「どうも有難う……」
 駒井は愛嬌を以て答えると、娘はうれしそうに踏みとどまって、
「ほんとうに来て頂戴……待っていますから」
「行きます」
 駒井はお世辞のつもりでいいました。
「きっと」
「…………」
 深くは相手にならないがよいと駒井が思いました。常識を逸しているものを苟(いやし)くも信ぜしめるのは、それを弄(もてあそ)ぶと同じほどの罪であるように思われたからです。そこで駒井は自分から歩みを進めて、またも登りにかかりました。
 登る途(みち)は、くの字なりになっていますから、次の曲りかどへ来ると、どうしても、以前の曲りかどを見ないわけにはゆきません。
 以前の娘は、まだそこに立って、駒井の後ろ姿をながめているのと、ピタリと眼が合いました。
「きっと、いらっしゃい」
「行きますから、早くお家へ帰っておいでなさい」
 駒井は早くこの娘を家へ帰してやりたいものだと思いました。家ではまたナゼこういう病人を一人で手放して置くのだろうと、それを心もとなく思っていると、娘は恥かしそうに、
「もし……あなた、そこいらに茂太郎が見えましたら、お帰りにぜひおつれ下さいましな」
 それでは、やっぱり連れがいたのか……そこへにわかに雲がまいて来ました。
 日本寺の裏山はすなわち鋸山で、名にこそ高い鋸山も、標高といっては僅かに三百メートルを越えないのですから、そうにわかに雲を呼び、風を起すほどの山ではありません。しかし、このとき、にわかに雲がまいて来たのは、比較的、風が強かったせいでしょう。山も、木萱(きがや)も、一時にざわめいてきました。
 髪と着物の裾(すそ)をこの風と雲とに存分に吹きなぶらせて、山を駈けおりる女は、羅漢様の首ばかりを後生大事に抱いて、
「いやな人……」

         九

 駒井甚三郎はその晩は日本寺へ泊り、翌(あく)る日は予定の通り船へ戻ると、船も予定の通りに館山へ向けて出帆したものですから、多分、無事に洲崎へ着いていることでしょう。
 これよりさき、保田の町へ入り込んだ田山白雲は岡本兵部(ひょうぶ)の家へおちつき、その夜は兵部の家の一間で、熱心に主人が秘蔵の仇十洲(きゅうじっしゅう)の回錦図巻を模写しておりました。
 あれほどに写生を主張していた男が、船から上ると早々模写をはじめたことは、多少の皮肉でないこともないが、そうかといって、写生主義者が模写をして悪いという理窟もありますまい。つまり、よくよくこの仇十洲の回錦図巻に惚(ほ)れこんだればこそ、万事を抛(なげう)って模写にとりかかったものと見るほかはない。
 仇十洲の回錦図巻の模写に、田山白雲が寝ることも、飲むことも、忘れていると、
「今晩は……」
 そこへ、極めてものなれた女の声。
「はいはい」
 田山白雲も筆を揮(ふる)いながら洒落(しゃらく)に答えますと、
「入ってもようござんすか」
「ようござんすとも」
「そんなら入りますよ」
「おかまいなく」
 白雲は始終描写の筆をやすめませんでした。白雲の頭は仇十洲の筆意でいっぱいになっているものですから、障子の外のおとずれなどはつけたりで、調子に乗って、うわの空で返事をしてみただけのものです。
「御免下さい」
 障子をあけて、そこに立ったのは、スラリとした牡丹燈籠のお露です。
「はい」
 それでも田山白雲は筆もやすめないし、頭を後ろへまわして、来訪に答えるの労をも惜しんでいる。
「御勉強ですね」
「ええ、御勉強ですよ」
「お邪魔になりゃしなくって?」
「ええ、お邪魔になりゃしませんよ、話していらっしゃいな」
 白雲は柄(がら)になく優しい声でお世辞をいいました。けれど相変らず模写に頭を取られているものですから、相手の誰なるやを考えているのではありません。
「どうも有難う……何を、そんなに勉強していらっしゃるの?」
 幽霊のような裾(すそ)を引いて、するすると入って来て、後ろから白雲の模写ぶりを覗(のぞ)きにかかりましたけれども、白雲はいっこう平気で、
「ここの主人から借り受けた仇十洲の回錦図巻があまり面白いから、こうして模写を試みているところですよ」
 白雲は、やはり言葉はうわの空で、頭と、手と、目とが、図巻に向って燃えているのです。
「そんなによいのですか、その絵巻物が?」
「結構なものですよ、全く惚(ほ)れ込んでしまいましたね」
「そうですか、そんなによいものなら、わたしにも見せて頂戴な」
といって無遠慮に図巻の上へ伸ばしたその手が、白魚のように細かったものですから、ここに初めて田山白雲は愕然(がくぜん)としました。
「え」
 そこで初めて振返って見ると、例のゾッとするほどの妙齢の美人です。
「あなたは何ですか」
「幽霊じゃありませんよ」
 疑問を先方が答えてくれましたから、白雲ほどのものが度肝(どぎも)を抜かれました。
「いつ、ここへ入って来ました?」
「いつ……? 今、あなたにお聞きしたんじゃありませんか、それで、あなたがいいとおっしゃったから入って来たのよ」
「そうでしたか、拙者がいいと言いましたか」
「いいましたとも」
「そうでしたか……」
 田山白雲が呆(あき)れ返ってながめると、その上に解(げ)せないことは、この美人が後生大事に胸に抱きかかえているものがあります。
 それが人間の生首でなくて仕合せ。
「あなた、わたし、今日、鋸山の日本寺へ参詣して来たのよ、一人で……」
「そうですか」
「そうしてね、途中で美(い)い男にあいましたのよ、それはそれは美い男」
「そうですか、それは結構でしたね」
 白雲がしょうことなしに話相手になりました。
「あなたより美い男よ……」
「そうですか、わたしより美い男でしたか」
と白雲が苦笑いしました。
「ですけれども、あなたも美い男よ……美い男というより男らしい男ね、あなたは……」
「大きに有難う」
「ですけれども、茂太郎も美(い)い子ね、あなたそう思わなくって?」
「左様……」
「そうでしょう、あのくらい美い子は、ちょっと見当らないわ」
「そうかなあ」
「それに第一声がいいでしょう、あの子の声といったら素敵よ。昔は、わたしが歌を教えて上げたんだけれど、今ではわたしより上手になってしまったわ」
「ははあ、そんなに歌が上手でしたか」
「上手ですとも。あなた、それで、あの子は声がよくって、歌うのが上手なだけではないのよ、自分で歌をつくって、自分で歌うのよ」
「そうですか、それはめずらしい」
「一つ歌ってお聞かせしましょうか」
「どうぞ」
「わたしは茂太郎ほどに上手じゃありませんけれど、それでも茂太郎のお師匠さんなのよ」
「何か歌ってお聞かせ下さい」
「何にしましょうか」
「何でもかまいません」
「それでは、わたしが茂太郎に、はじめて歌の手ほどきをして上げた、あれを歌いましょうか」
「ええ」
「それは子守唄なのよ」
「子守唄、結構ですね」
「それでは歌いますから、よく聞いていらっしゃい」
といって、女は胸に抱いているものをあやなすようにして、
ねんねがお守(もり)は
どこへいた
南条長田(おさだ)へとと買いに
そのとと買うて
何するの
ねんねに上げよと
買うて来た
ねんねんねんねん
ねんねんよ
 そうすると、女が歌の半ばにほろほろと泣き出してしまいました。
 田山白雲は胸を打たれて気の毒なものだと思いました。この年で、この容貌(きりょう)で、そしてこの病。
 これが岡本兵部の娘なのか。
 娘は泣きながら両袖を合わせて、抱えたものをいよいよ大事にし、
「ねえ、あなた、茂太郎はどこへ行きましたろう……鋸山の上にもいませんでしたわ」
「そのうち帰るでしょう」
「そうか知ら、帰るかしら、いつまで待ったら帰るでしょう」
ねんねんねんねん
ねんねんよ
ねんねのお守は
どこへいた
お山を越えて
里越えて
そうしてお家へ
いつ帰るの……
 女は蝋涙(ろうるい)のような涙を袖でふいて、
「ねえ、あなた、この子の面(かお)が茂太郎によく似ているでしょう、そっくりだと思わない?」
といって、今まで後生大事に胸にかかえていたものを、両手に捧げて白雲の机の上に置きました。それは石の羅漢(らかん)の首ばかりです。
「うむ」
 白雲が挨拶に苦しんでいると、
「似ているでしょう。もし似ていると思ったら、それを描(か)いて頂戴な……」

         十

 田山白雲は保田を立つ時、予期しなかった二つの獲物(えもの)を画嚢(がのう)に入れて立ちました。
 仇英(きゅうえい)の回錦図巻と狂女の絵。その二つを頭の中で組み合わせながら、再び白雲は旅にのぼったものです。

 下谷の長者町の道庵先生が、かねての志望によって、中仙道筋を京大阪へ向けて出立したのも、ちょうどその時分のことでありました。
 先生のは、もっと、ずっと以前に出立すべきはずでしたけれども、米友の方に故障もあったり、何かとさしつかえがそれからそれと出来たものですから、つい延び延びになってしまいました。
 いよいよ出立の時は、近所隣りや、お出入りのもの、子分連中が盛んに集まって、板橋まで見送ろうというのを強(し)いて辞退して、巣鴨の庚申塚(こうしんづか)までということにしてもらいました。物和(ものやわ)らかな豆腐屋の隠居、義理固い炭薪屋(すみまきや)の大将といったような公民級をはじめとして、子分のデモ倉、プロ亀に至るまでがはしゃぎまわってみおくりに来ました。
 しかし、これらの連中は、みな庚申塚でかえしてしまい、あとに残るのは先生と、同伴の宇治山田の米友と二人だけ。
「米友様」
と道庵先生が呼びかけると、
「うん」
と米友がこたえます。
 道庵がしゃれて褄折笠(つまおりがさ)に被布(ひふ)といういでたち。米友は竹の笠をかぶり、例の素肌(すはだ)に盲目縞(めくらじま)一枚で、足のところへ申しわけのように脚絆(きゃはん)をくっつけたままです。二人ともに手頃の荷物を振分けにして肩にひっかけ、別に道庵は首に紐をかけて、一瓢(いっぴょう)を右の手で持ちそえている。米友は独流の杖槍。
「さて米友様、永(なが)の旅立ちというものは、まず最初二三日というところが大切でな……静かに足を踏み立ててな、草鞋(わらじ)のかげんをよく試みてな……そうしてなるべく度々休んで足を大切にすることだ」
「なるほど」
「旅籠屋(はたごや)へ着いたら、第一にその土地の東西南北の方角をよく聞き定めて、家作りから雪隠(せついん)、裏表の口々を見覚えておくこと……」
「うん」
「もしまた、馬や、駕籠(かご)や、人足の用があらば、宵(よい)のうちに宿屋の亭主にあってよく頼んでおくがよい、相対(あいたい)でやると途中困ることがあるものだ。朝起きては膳の用意をするまでに仕度をして、草鞋をはくばかりにして膳に向うようにしなくちゃならねえ」
「うん」
「朝はせわしいものだから、よく落し物をする故、宵のうちによく取調べて、風呂敷へ包んで取落さぬようにしなくちゃならねえ」
「なるほど」
「旅籠屋は定宿(じょうやど)があれば、それに越したことはないが、初めてのところでは、なるたけ家作りのよい賑やかな宿屋へ泊ることだ、少々高くてもその方が得だ」
「そうかなあ」
「道中で腹が減ったからといって、無暗に物を食ってはいけねえ、また空腹(すきばら)へ酒を飲むのも感心しねえ……酒を飲むなら食後がいいな、暑寒ともにあたためて飲むことだよ、冷(ひや)は感心しねえ」
「おいらは酒は飲まねえ」
と米友がいいました。
「そうか、では道中は、別してまた色慾を慎まなければならぬ……道中には、飯盛(めしもり)だの売女(ばいじょ)だのというものがあって、そういうものには得て湿毒(しつどく)というものがある」
 道庵先生は、丁寧親切に米友に向って、道中の心得を説いて聞かせているつもりだが、酒を飲むなの、色慾を慎めのということは、この男にとってはよけいな忠告で、御本人の方がよっぽどあぶないものです。
 それでも米友は神妙に聞いていると、ほどなく板橋の宿へ入りました。
「さあ、米友様、ここが板橋といって中仙道では親宿(おやじゅく)だ。これから江戸へは二里八丁、京へ百三十三里十四丁ということになっている、先は長いから、まあいっぷくやって行こう」
と、あるお茶屋へ休みました。
 こうして二人がつれ立って歩くと、こまったことには道庵の方はそれほどでもないが、米友の姿を見て、みかえらないものはないことです。極めて背の低いのが、もう袷(あわせ)を重ねようという時分に、素肌に盲目縞(めくらじま)の単衣(ひとえ)で元気よく、人並より背のひょろ高い道庵のあとを、後(おく)れもせずに跛足(びっこ)の足で飛んで行く恰好(かっこう)がおかしいといって、みかえるほどのものが笑います。
「やあ、チンチクリンが通らあ……」
 正直な子供たちは、わざわざ路次のうちから飛んで出て、米友の周囲にむらがるのです。
 そのたびごとに、米友に腹を立たせまいとする道庵の苦心も、並々ではありません。
「何でも米友様、旅に出たら、堪忍(かんにん)が第一だよ、腹の立つことも旅ではこらえつつ、言うべきことは後にことわれ……お前は頭がいいから、物の見さかいがなく、大名でも、馬方人足でもとっつかまえて、ポンポン理窟をいうが、あれがいけねえ、物言いを旅ではことに和(やわ)らげよ、理窟がましく声高(こわだか)にすな……というのはそこだて……」
 しかし、米友とても、そう無茶に腹を立つわけのものでもなし、道庵とても好んで脱線をしたがるわけでもありませんから、町場を通り過ぎてしまえば、心にかかる雲もなく、道庵はいい気持で、太平楽(たいへいらく)を並べて歩きます。
 太平楽を並べて歩きながらも道庵は、折々立ち止まって路傍の草や木の枝を折って、それをいい加減に小切(こぎ)っては束(たば)ねて歩きますから、米友が変に思いました。この先生は文字通りの道草を食って歩いているのだなとさえ思いましたが、道庵のすることをいちいち干渉していた日には、際限がありませんから、別にその理由もたずねませんでした。
 そうして浦和の宿(しゅく)――江戸より五里三十町、京へ百二十九里二十八町というところへついて、そこで今晩は泊ることになる。
 ここにはあまり、よい宿屋がありませんでした。泊り客を見かけては道庵がいちいち、途中で手折(たお)って来た槐(えんじゅ)のような木の枝を渡していうことには、
「これは苦参(くじん)といって蚤(のみ)よけのおまじないになる。見かけたところ、この宿屋には蚤がいるにちげえねえ、これを蒲団(ふとん)のしたにしいてお寝」
 おかげさまで、その晩は蚤に食われなかったお礼をいうものがありました。そこで米友には、道庵の道草の理由がわかり、
「先生のすることにソツはねえ」
といまさらのように、感心をしてしまいました。
 浦和から大宮、武蔵の国の一の宮、氷川大明神(ひかわだいみょうじん)へ参詣して、またまた米友をおどろかせたのは、道庵先生が見かけによらず敬神家で、いとねんごろに参拝祈願する体(てい)を見て驚嘆しました。この先生、いいかげんのおひゃらかしだと思っているとあてがちがう。この殊勝な参拝ぶりを見て、正直な米友が、いよいよ感心をしてしまったのも無理はありません。しかしあとでいうことには、
「すべて、神仏を大切にすることを知らねえ奴に、ロクな奴があったためしがねえ、国々へ行って見な、いい国主ほど神仏を大切にしてらあ、人間だってお前、エラクなるぐらいのやつは、エライものの有難味を知ってらあな、薄っぺらなやつだけが神仏を粗末にする」
と言って気焔を吐きました。
 この気焔によって見ると、道庵先生自身はエライ奴の部類に属していて、薄っぺらな奴に属していないという理窟になるのですが、米友はそこまでは追究せず、なるほどそういうものか知らんと思いました。
 宇治山田の米友は、伊勢の大神宮のお膝元で生れたから、神様の有難いことを知っている。そこで道庵につづいて笠を取って、恭(うやうや)しく氷川大明神の前に礼拝をすると、
「こいつは感心だ、見かけによらねえ」
と言って道庵が手をうってよろこびました。
 その時、道庵先生は米友に向って、
「神様を拝むには、少し遠く離れて拝まなくちゃならねえ、あんまり賽銭箱(さんせんばこ)の傍へ寄って拝んじゃならねえ……ちょうど、この鳥居前あたりがいいところだろう」
と神様を拝む秘伝を教えますと、米友が解(げ)せない面(かお)をしました。
「先生」
「何だい」
「どこで拝んだって、心さえ誠ならば、それでよかりそうなものじゃねえか……よしんば賽銭箱の前で拝もうと、鳥居前で拝もうと、信心に変りがなければ、御利益(ごりやく)にも変りはなかろうじゃねえか」
と米友が不審を打つと、道庵はそこだとばかりに、
「それが素人考(しろうとかんが)えというものだ」
と一喝(いっかつ)を試みました。
「そうかなあ」
 米友は無言で何か反省を試むるような気色(けしき)でありましたが、なにぶん解(げ)せない面色(かおいろ)を拭うことができません。
「わかったか」
と道庵からいわれて、
「どうもわからねえ」
と白状しました。正直な米友の心では、神様を拝むのに誠心(まごころ)を論ずるのはよいが、距離を論ずるのは、ドコまでも不当理窟のように思われてならないのです。つまり、お賽銭箱の前で拝もうと、鳥居の前で拝もうと、また自宅の神棚へ招じて拝もうと、誠心に変りがなければよいものだという理窟を、道庵が排斥しながら説き明(あか)してくれないものだから、迷います。
 道庵はそれを相変らずいい気持で、
「は、は、は、は、は……」
と高笑いしたのは、本気の沙汰だか、ふざけているのだかわかりません。
 しかし、米友としては道庵を信じ、今までとても、気狂(きちが)いじみたところに、あとでなるほどと思わせられたり、ふざけきったのが存外、まじめであったりしたことを、いつもあとで発見させられるものですから、これにも何か相当のよりどころがあるので、それはあとでおのずから教えられることだろうと、押返してたずねなかったのは、つまり米友もそれだけ修行が積んだものでしょう。
 凡庸(ぼんよう)なる科学者を名画の前へ連れて行くと、心得たりとばかりに画面へ顔を摺(す)りつけながら、天文学で使用するような拡大鏡を取り出して両眼に当て、画面の隅々隈々(すみずみくまぐま)までも熱心に見つめる。そうしていう。この線とこの線の間は何ミリメートルある、この紙質は植物性のもので耐久力は何年、この墨を分析してみると成分はこれこれ……というようなことを、おどろくばかり精密に教えてくれる。しかし、最後に、「して、いったい、この画は何を表現しているものですか」とたずねてみると、その科学者がいう、「あ、それには気づかなかった……」
 つまりこの科学者は、その絵の全体が、道釈(どうしゃく)だか、山水だか、人物だか、最後までわからなかったのです。
 これは凡庸なる科学者の罪ではない、遠く離れて画を見ることを知らなかったその罪です。
 道庵先生が、米友に向って、神を拝むには離れて拝めと教えた秘伝も、或いはその辺の理由から来ているのかも知れません。
 しかし、医者はその職業の性質上、科学者でなければならないことを知っているはずの先生ですから、科学を軽蔑するつもりはないにきまっている。近く寄って見ることを悪いとはいわないが、遠く離れて拝むことを忘れてはならないとの老婆親切かも知れません。偉大なる科学者は必ずこの二つを心得ている――というような気焔は揚げませんでした。
 こうして二人は社前を辞して大宮原にかかる。ここは三十町の原、この真中に立つと、富士、浅間、甲斐(かい)、武蔵、日光、伊香保などの山があざやかに見える。
 原の中で米友が草鞋(わらじ)の紐を結び直しました。

         十一

 こうしてある者は南船し、ある者は北馬して江戸の中心を離れる時、例の三田四国町の薩摩屋敷ばかりは、いよいよ四方の浪人の目標となって、ここへ集まるものが絶えません。
 今日も数十人の者が一席に集まって、群議横生のところ。
 いよいよ甲府城を乗っ取るの時機が熟したという者がある。
 さて、甲府を定めて後は、天険(てんけん)によって四方を攻略すること、武田信玄の如くあらねばならぬというものもある。
 それに備えるの要害を利用すること、北条氏康(ほうじょううじやす)の如くでなければならぬというものもある。
 さてまた一方には、相州荻野山中(おぎのやまなか)の陣屋を焼討して、そこに蓄えられた武器と、軍用金を奪い取るは、朝飯前だと豪語する者もある。
 他の一方には、関東の平野を定めるにはやはり平野から出づるのがよろしい、それには野州の野に越したものはない、栃木の大平山(おおひらやま)、岩舟山(いわふねさん)、出流山(いずるさん)等は、平野のうちの屈竟(くっきょう)の要害だと主張するものもある。
 或いは房総の半島から起ること、源頼朝の如くあってよろしいというものもある。
 水戸を背景として、筑波によることも決して拙策ではないと補修するものもある。
 それよりも手っ取り早いのは、もう少し手強く江戸の内外を荒して、全くの混乱状態に陥れるに越したことはないと唱導するものもある。
 もう少し手強く江戸の内外を荒すというのは、つまり以前よりもモット豪商や富家をおびやかすことと、役人に楯をつくことと、徳川幕府を侮(あなど)ることなどで、それがかなり露骨にこの席で話が進みました。
 本所の相生町で牛耳を取っていた南条力は、この時はひとり、席の中心からは離れてたつみの隅の柱によりかかり、白扇を開いて、それに矢立の筆を執って、地図らしいものを認(したた)めていると、それを覗(のぞ)き込んでいるのが、鬢(びん)をつめて色の浅黒い四十恰好のドコかで見たことのあるような男です。よく考えてみると、それそれ、これは先日、武州の高尾山の宿坊で七兵衛と泊り合わせた神楽師(かぐらし)の一行の中の長老株の男でありました。
 南条は扇面に地図を引いて、席の大勢には関係のない二人だけの内談で、
「こういうふうに地の利がひっぱっているから、ここのところに手は抜けないのだ。江戸を計るものは、甲州を慮(おもんぱか)らなければ仕事ができない、家康も甲州の武田が存する以上は天下が取れなかったのだ、甲州は捨てておけない」
と言いますと、神楽師の長老が眉根を曇らせて、
「甲府が関東の険要であるとおなじ理由によって、飛騨(ひだ)の国が京畿(けいき)の要塞になるのでござる――ごらんなさい」
と言って懐中から一枚の地図を取り出して、南条力の前にひろげ、
「ごらんの通り、飛騨の高山は、彦根に対して俯(ふ)して敵を射るの好地にあるではござらぬか、加賀と尾張の二大藩を腹背に受けているようではござるが、一方は馬も越せぬ山つづき、一方は大河と平野によって別天地をなしてござる、一路直ちに西へ向えば、彦根までは手に立つ藩はござらぬ、飛騨を定めてしかして後に……」
 話ぶりによると、南条力はまず甲州を取らなければならぬといい、神楽師の長老は、それよりも飛騨を取るのが急務であると主張し、おのおの天険と地の利を説いて相譲らないらしいが、なにぶんにも二人の会話は、席の中心を離れた内談だから、中央の高談放言に消されて、その話がよく聞えない。ややあって神楽師(かぐらし)の長老が、
「では、貴殿、ともかく高村卿におあいくだされよ、今明日あたり当地へおつきのはずでござる」
という声だけがよく聞えました。
 その晩、薩摩屋敷へまた数名の新来の客がありました。そのいでたちはみな先日のお神楽師の連中と同じことでありましたが、なかに一人、弱冠の貴公子がいたことを、邸について後の周囲のもてなしと、笠を取って面(おもて)を現わした時に初めて知りました。
 翌朝になって見ると、この貴公子は上壇の間に、赤地の錦の直垂(ひたたれ)を着て、髪は平紐で後ろへたれ、目のさめるほどの公達(きんだち)ぶりで座をかまえておりましたが、やがて、その周囲へ集まったこの屋敷の頭株が、みな臣従するほどに丁寧に扱っているのが不思議で、
「そちたち、わしは飛騨の国を取りたいと思うて、そちたちを頼みに来たのじゃ、助力してたもるまいか」
 猫の児をもらいに来たような頼みぶりでこういいましたから、豪傑連中も度胆(どぎも)を抜かれたようです。
 その時に例の南条力が少しく膝を進ませて、
「その儀につきましては、昨日池田殿より一応のお話をうけたまわりましたが、飛騨の国を御所望は、まずおやめになった方がよろしかろうと心得まする」
「何故に?」
 そこで南条力は、昨日お神楽師の長老と内談的に議論をたたかわしたその要領を、再び貴公子の前でくりかえして、結局、飛騨を取るよりも、甲州を略するのが急務だという意見を述べると、それを聞き終った貴公子――昨晩、池田なるものはその名をたしか高村卿と呼びました、
「そちたちは江戸を基(もと)にして考えるからそうなるのじゃ、京都を根本として計略を立てる時には、甲斐を取るよりも飛騨を定むるのが先じゃわい。そちたちが心を揃(そろ)えて助力をしてくりゃるならば、飛騨を取ることは何の雑作もないことじゃ、甲州を定むるのは、その後でよろしい」
 弱冠なる貴公子が取って動かない気象のほど、侮り難いと見て、相良(さがら)総蔵が代って答えました、
「仰せではございますが、われわれの今の目的は、関東を主と致します、飛騨の方面まで手の届きかねる実際は、御逗留の上、したしく御覧あそばせばおわかりになると存じまする」
「うむ。そうして、この屋敷にはただいま、何人の人がいますか」
「都合五百人には過ぎませぬ」
「しからば、そのうち三百人を、わしに貸してたもらぬか」
 豪傑が沈黙してしまいました。かねて高村卿は豁達(かったつ)なお方とは聞いていたが、なるほどその通りだと思ったのでしょう。それと同時に実際、公卿(くげ)さんの中にも豪(えら)い気象の人がいると、舌を捲いたのかも知れません。
 十津川(とつがわ)の時の中山卿、朔平門外(さくへいもんがい)で暗殺された姉小路卿、洛北(らくほく)の岩倉卿、それらは慥(たしか)に公卿さんには珍しい豪胆な人に違いないが、この高村卿の突拍子には格別驚かされる。
 もし、かりにここから三百名の浪士を借り受けたところで、それに伴う兵器食糧はどうするつもりだろう。もしまた仮りに、飛騨(ひだ)の国を乗っ取ってみたところで、それを守る者、或いは後詰(ごづめ)の頼みはどうなるのか、その辺の計画は一向にないらしい。ないところが、またこの人たちの無性(むしょう)に愛すべきところかも知れない。
 豪傑連は、この豪胆な貴公子の意気を喜びましたけれども、その豪胆通りに実際が行われるものでないことを、懇々と説諭しなければならぬ役まわりになりました。
 豪傑連の説諭を聞き終った高村卿は、
「それでは要するに、飛騨の国を取ることに助力ができないというのじゃな。それは意見の相違でぜひもないが、そちたち、勤王(きんのう)を名として、私藩の手先をつとむるような振舞があってはならぬぞ、幕府を倒して、第二の幕府を作るようなことになっては相済まぬぞ」
といってのけ、彼等がなおも弁明をしようとするのを聞かず、意見の合わぬところに助力の望みなし、助力の望みなきところに長居するの必要なし、直ちに帰るといい出しました。
 帰るといい出した英気風発の貴公子は、誰が留めても留まりそうもない。
 十数人のお神楽師(かぐらし)を差図して、荷物をまとめさせたが、ふと膝を打って、
「せっかくのみやげに羅陵王(らりょうおう)を舞うて見せようか、皆々おどれ」
と言い出でました。
 そこで、いったん、包みかけた荷物はほどいて、これらのお神楽師が薩摩屋敷の大広間で、腕をすぐって踊るから、志のあるほどのものは、小者(こもの)端女(はしため)に至るまで、来って見よとのことであります。特に舞台は設けないが、隔てを取払って、縁に居溢(いあふ)れた時は、庭を打通して見物のできるような仕組みです。
 さて、囃子方(はやしかた)の座がととのう。太鼓があり、鼓(つづみ)があり、笛があり、笙(しょう)、ひちりきの類までが備わっている。
 そうして、花やかな衣裳をつけて、この十数人が、われ劣らじと踊り出でました。
 この踊りは、一種異様なる見物(みもの)であります。古代の雅楽(ががく)の如く、中世の幸若(こうわか)に似たところもあり、衣裳には能狂言のままを用いたようでもある。
 それに、不思議なのは、一人一役がみな独立して、個々別々に踊っているので、時代と人物には頓着なく、翁(おきな)のとなりに猩々(しょうじょう)があり、猩々のうしろには頼政(よりまさ)が出没しているという有様で、場面の事件と人物には、更に統一というものはないが、拍子(ひょうし)だけはピッタリ合って、おのおの力いっぱいにその個性を発揮して踊りぬいていることです。
 薩摩屋敷のものは、このめざましい見物(みもの)を見せられて盛んによろこびましたが、何ものの特志で、こうして不時に、われわれに目の正月をさせてくれるのだかわからないものが多かったのです。それからまた、一行の神楽師に対する豪傑連中のもてなしが、甚だ丁重(ていちょう)で、いわゆる芸人風情にするものとは行き方がちがっていることを、不思議にも思いました。
 これは申すまでもなく、お銀様が、武蔵と甲斐と相模あたりの山の中で、思いがけなく見せられた一団の舞踊とおなじことで、その指揮をつかさどっていたのも、今で思い合わせると、ここで高村卿と呼ばれている英気風発の公達(きんだち)であったに相違ない。
 前にいった通り、その時分の京都の公卿さんの若手のうちには、きかないのがおりました。中山忠光卿や、姉小路公知(きんとも)卿や、岩倉具視(ともみ)卿あたりもその仲間でありましょう。ここに現われた高村卿なるものも、多分その一人であろうと思われる。
 彼等の憂うるところは、徳川幕府よりはむしろ勤皇を名として勢いを作り、幕府の実権をわが手におさめようとする一二雄藩の野心である。ちょうど、足利尊氏(あしかがたかうじ)が最初に勤皇として起り、ついに建武中興をくつがえしたように、徳川を倒すはよいが、徳川を倒した後の第二の徳川が起っては、なんにもならないではないか。これは今のうちに、あらかじめ備えておかなければならぬというのが、当時の気概ある公卿の憂慮でありました。
 京都の公卿をして、再び護良親王(もりながしんのう)の轍(てつ)を踏ましむるなかれという気概のために、憎まるるものがないとはかぎらない。烈しく憎まるる時は暗殺される。幕府と勤皇と両方面に敵と味方を持っていて、その味方に対してまた備うるところがなければならない。しかも位高くして、実力の乏しい当年の公卿の地位もまた、多難なるものがありました。
 その充分なる気概を保留するには、こうして山林にのがれて、舞踊に隠れるの必要があったかも知れない。それとも単にお公卿さん気質(かたぎ)の罪のないやんちゃかも知れません。
 この怪異なる総踊りが済んでしまうと、白面にして英気風発の十八九歳とも見られる貴公子は、ひとり赤地の錦のひたたれを着て、白太刀(しらだち)を佩(は)いたままで、羅陵王を舞いました。
 羅陵王を舞い終るや、その場へ一座をさしまねいて、疾風のような勢いで荷物を整理させ、以前のお神楽師の旅のなりした十余名のものに守られて、時を移さずこの屋敷を立退いてしまいました。

         十二

 高村卿の一行が引払ってしまうと、例の南条力と五十嵐甲子雄は、薩摩屋敷の幹部のものと相談して、数名の人夫をひきい、その人夫に荷物をかつがせて、飛ぶが如くにこの屋敷を立ち出でたのは、多分高村卿一行のあとを追いかけるものと思われる。
 それは途中で相(あい)合(がっ)したかどうか知れないが、ともかく、相州荻野山中の大久保長門守の陣屋が焼打ちされて、かなり多量の武器と金銭を奪われたのは、それから十日ほど後のことであります。
 そうして高村卿の一行も、それを後から追いかけた南条、五十嵐らの一行も、薩摩屋敷へは戻って来ないところを見ると、この両者が議論をたたかわした通り、甲斐か飛騨かの方面へ、落合ったのかも知れません。
 そう思って見ると、この間少しばかり途絶(とだ)えていたあやしの神楽太鼓が、またしても、三国(みくに)の裏山にあたって響きはじめたことです。そうして夜ごとに、山の奥へ奥へと響き進んで行くようです。
 甲武信(こぶし)の下に山ごもりをしていた猟師の勘八がこの響きを聞いて、
「またはじめやがったな」
 けれども、この響きを向(むこ)う河岸(がし)の太鼓と聞いておられないことが、まもなく起りました。
 ある日、由緒(ゆいしょ)ありげな数人のものが、不意にこの猟師小屋へ押しかけて来て、食糧品と猟の獲物(えもの)があらば、残らず買ってやるとのことです。
 勘八は驚き呆(あき)れて、取蓄えてあった食物と獲物をそっくり提供すると、この連中はよろこんで、勘八に黄金(おうごん)二枚を与えて行きました。
「小判二枚!」
 勘八は、これはニセ物ではないか、あるいは時間がたてば木の葉に変ってしまうのではないかとさえ疑いました。勘八にとっては臍(へそ)の緒(お)切って以来、少なくとも黄金二枚を手にしたことは初めてでありますから、一時は疑ってみましたが、正真のものであることを信じてみると、うれしくてたまりません。
 こうなった以上は、何も命がけで猪(しし)を追い廻している必要はないと考えましたから、勘八は小屋をほどよく始末して、鉄砲をさげてさとへ帰って、とうぶん骨休めをすることにきめました。
 帰る途中、谷間の小流れのところへ来て見ると、何か落ちている。
 近づいて見ると意外にも、それは角(つの)が生えて青隈(あおくま)の入った木彫の面(めん)、俗に般若(はんにゃ)の面と称するものでしたから、手に取り上げて勘八はおどろきました。思いがけないところに、思いがけないものが落ちていた。しかし、子供へのみやげには何よりだと、手に取り上げて見ると、ゾッとするほどのものすごさを感じました。
 これは作(さく)のいいせいだ――と勘八もなんとなくそう思って、つくづくながめると、いよいよすごくなってくるので、これはトテモ子供のおもちゃには向かないわいと思いました。とにかく、捨てておくよりは、ひろって帰ったところで、誰も咎(とが)めるものはなかろう……と勘八はそれを大事に持って帰って、とりあえず月見寺へ立寄りました。
 そうして般若の面(めん)をひろって来たと大声で披露すると、どこにいるのだか、暗いところから弁信の声で、
「勘八さん……般若の面をおひろいなさいましたか、それは結構でございます。般若とは六波羅蜜(ろくはらみつ)の最後の知恵と申すことで、この上もなく尊(たっと)い言葉でございますそうですが、それが、どうして恐怖と嫉妬を現わす鬼女(きじょ)の面の名となりましたか、不思議な因縁でございます」
 弁信が暗いところで、こんなことをいい出したものですから、勘八は気味が悪くなりました。実はさいぜんとても、面に現われた鬼女の妬相(とそう)にゾッとするほどおそろしさを見せられていたのに、そこへまた弁信が、何かむずかしい因縁を説き出したものでありますから、勘八は無意識に気味が悪くなり、自分は黄金二枚で果報が充分だ、よけいな面を持って帰って、せっかくの果報が祟(たた)りに変っては災難だと思ったものですから、ではこの面はお寺へおさめてまいりましょうといって、そこに置いて、わが家へ帰ってしまいました。

         十三

 塩尻から五千石通りの近道を、松本の城下にはいって、机竜之助と、お雪ちゃんと、久助の一行は、わざと松本の城下へは泊らずに、城下から少し離れた浅間の湯に泊り、そこで一時の旅の疲れを休め、馬をやとい、食糧を用意して、島々谷(しまじまだに)の道を分け入ることになりました。
 浅間を立つ時に、宿で誰かが久助に向って、こんなことをいうのを、竜之助は耳に留めておりました、
「おやおや、白骨(しらほね)までおいでになるのですか、これから、この寒(かん)に向おうとする時分に……それはそれは大変なことでございます、あちらでは追々(おいおい)、お湯をとざして、大野や松本へ出てまいりまする時分に、あなた方はあちらへおいでになる……そうして冬籠(ふゆごも)りをなさる、いやそれほどの御辛抱がおありになれば、いかなる難病でもなおらぬということはございますまいが……それにしても、まあ、途中だけでも容易なものではございませんよ……いっそ、この浅間の温泉で御養生をなすったらいかがでございますか。それは、お湯はとうてい白骨ほどのきき目はないかも知れませんが、第一、ここにおいでになれば御城下は近し、四時、人の絶えたことはございませんから、心配というものが更にありません。あの、奥信濃の飛騨の国との境、白骨の温泉で冬籠りをなさるというのは、ずいぶん冒険でございます、それはできないことはございますまいが……雪が降り積って、山も、谷も、埋めた時は、全く人間界を離れてしまいますからな、御用意に如才(じょさい)もございますまいが、食物から寒さをしのぐ用意まで、念をお入れになりませんと……それと雪の降る日などは、飢えに迫って猛獣が、人のにおいをかぎつけてまいりますから、それもお気をつけなさいませ」
 しかしながら、それがために、いまさら思い止まるべきものではありません。
 久助だけが徒歩で、お雪と、竜之助は馬に乗り、他の一頭には、米とその他の荷物をつけて、松本をゆっくりと立ち、野麦(のむぎ)街道を島々の村まで来て早くも一泊。
 翌日早朝にここを立って、島々の南谷を分け入りました。
 島々では、案内者がこういうのを聞きました、
「山地は秋の来るのが早いですからね。左様でございます、穂高の初雪は九月のうちに参りますよ。八月の末になりますと、徳本峠(とくごうとうげ)の頂あたりが真赤になって、九月の上旬になりますと、神河内(かみこうち)のもみじがととのって参ります。ごらんなさい、この辺も、もう青と紅とがとりどりで、錦のようになってしまいました。これが十月になると、焼ヶ岳も真白になってしまいます。けれども、まだこの道が通えないということはございませんが、十一月になりましては、もういけません」
 とにかくに馬を進ませて行くに従って、秋の色は深くなってゆくばかりです。
「まあいいわ……」
 五彩絢爛(ごさいけんらん)として眼を奪う風景を、正直にいちいち応接して、酔わされたような咏嘆(えいたん)をつづけているのはお雪ちゃんばかりで、久助は馬方と山方(やまかた)の話に余念がなく、竜之助は木の小枝を取って、折々あたりを払うのは、虫を逐(お)うのかも知れません。
「大きな山……」
 檜峠のおり道で、お雪が眼をあげてながめたのは硫黄(いおう)ヶ岳(たけ)です。
「いつも地獄のように火をふいている焼ヶ岳というものが、あの向うにありますよ」
 久助が説明しました。
 五彩絢爛たる島々谷の風光の美にうたれたお雪は、風相鬼(おに)の如き焼ヶ岳をながめて、はじめて多少の恐怖に打たれました。
「火を吹いているんですか?」
「あれごらんなさい、あのむらむらしているのは雲じゃありません、みんな山からふき出した煙ですよ。焼ヶ岳の頭は、人間ならば髪の毛が蛇になってのぼるように、幾筋も幾筋もの煙が巻きのぼっています」
「そうして、白骨(しらほね)のお湯はその下にあるのですか」

 やがて白骨の温泉場に着いて、顧みて小梨平(こきなしだいら)をながめた時は、お雪もその明媚(めいび)な風景によって、さきほどの恐怖が消えてしまいました。
 もう、客はおおかた引いていますから、この一行は、存分に広い座敷を占領することができ、どっしりと落着いて、ほとんどわが家へ帰った心になりました。
 ことに、竜之助はここへ着くと、まず第一に、「これから充分眠れる」という感じで安心しました。
 これから思う存分に眠るのだ、大地のくぼむほど寝つくのだ、という慾望が何よりも先にこの人の心に起ったのは、今まで身を労することは少なかったとはいえ、その生涯は、ほとんど波に任せてただようと同じことの生涯で、夜半夢破れた時は、いつも枕の下に波の声を聞かぬこととてはない。聞くところによれば、ここは飛騨と信濃の境、晩秋より初春まで、住む人もなき家を釘づけにして里へ帰るのだと。恰(あたか)もよし、これからようやくその無人の冬が来るのである。三冬の間をじっくりと落着いて、ここで飽くまで眠り通すに何の妨げがある。
 竜之助は、その以前は眠ることを怖れたものです。眠ることを怖れたのではない、眠って夢を見ることを怖れましたが、今はそうではありません。
 このごろになって、はじめて夢を見ることの快楽が、少しずつ身にしみて来たようです。
 四境閑(かん)にして呼吸の蜜よりも甘い時、恍惚(こうこつ)として夢路に迷い入るの快味を味わうものにとっては、この世の歓楽などは物の数ではないとのこと。
 またいう、夢の三昧(さんまい)に入る人は、必ずしも眠ってのみ夢を見るのではない、身を横にして眼をとざせば、雲煙がおのずからにして直前に飛び、神仙が脱化(だつげ)して人間界に下りて来るとのこと。
 今、竜之助は、夢みることに新しい生活を見出し得たかのように夢みていると、お雪が、竜之助の枕もとへ、本を二三冊たずさえてやって来て、
「先生、お退屈でしょう、本を読んでお聞かせしましょうか」
「どうぞ」
と竜之助が夢を現実に振向けると、お雪が、
「王昭君物語という本ですよ。王昭君、御存じでしょう、支那の美人……」
と言って、その本を竜之助の前、行燈(あんどん)の下でくりひろげました。
 お雪は本を読むことが、なかなか達者です。これは支那の物語を、だれか日本文に作り直した物語です。けれどもお雪は、その中に挟まれている漢文や、漢詩まで、苦もなく読みくだくので、竜之助がおどろいているくらいです。お雪になかなかの読書力があって、読み方が流暢(りゅうちょう)なものですから、竜之助も引入れられて、こころよい心持で聞いていました。
「これでおしまい、とうとう一冊読んでしまいました」
 紙数にして五十枚ほどの一冊を、お雪はスラスラと読みおわって、巻(かん)をとざしながら、
「つまり王昭君という方は、絵をかく人に美人にかいてもらえなかったために、あんな運命になったのですね、美人薄命というのを、裏から行ったようなものですね」
と言いました。
「王昭君は本来美人なのだろう、だからやはり美人薄命さ」
 竜之助が答えると、
「それはそうですけれど、本来の美人を、絵をかく人が醜婦にかいてしまったのでしょう、ですから、醜婦として取扱われてしまったんですね。つまり絵をかく人が、筆の先で王昭君を殺してしまったのですね」
「まあ、そんなものだ」
「してみると、人を殺すのは刀ばかりじゃありませんね、筆の先でも、立派に人が殺せるんですから……」
「そうだとも、筆の先でも、舌の先でも……」
と竜之助がいいますと、お雪が、
「わたしなんか美人じゃありませんから……」
 それは謙遜(けんそん)で、お雪ちゃんにもなかなかよいところがあります。
「先生、わたしには、どうしてもまだ一つわからないことがあるのよ、いつかお尋ねしようと思っていましたけれど、つい……」
 お雪がこう言いますと、竜之助が、
「何ですか」
「それはね、この間、塩尻峠の上のあの大変の時ですね、勝負がどうなったんだかちっともわかりませんわ、相手の人たちはいないし、斬られてしまったとばかり思っていた先生が、無事でお帰りになったんですから。わたし、あの時から、あなたは幽霊じゃないか知らんと思いました」
「あれですか、あの時は先方が乱暴をしかけたから、こっちがそれを防いだだけです」
「でも、先方は四人でしょう、そうして、あなたはお一人でしょう」
「ええ……」
「それで、どうしてお怪我がなかったのですか」
「こっちも刀を抜いて防いだから……」
「だって、あなたはお眼が見えないでしょう、眼が見えないで刀が使えますか」
「眼が見えなくたって、手があるじゃありませんか」
「だって、先生……」
「手があるから刀を抜いて防いでいました、そうしたら先方が逃げてしまったのです」
「だって、あなた、斬られたらどうなさるの?」
「斬られなかったから助かりました」
「その斬られないのが不思議じゃアありませんか、先方は眼のあいた人が四人で……」
「それでも、こうして刀を持っていれば斬れないじゃないか」
といって竜之助は、右の指を一本出して刀を構える形をして見せますと、
「斬られないことにきまっているもんですか、刀を持っただけで、斬られないッてことがあるもんですか」
「それでも……こうしていれば斬れないものだ」
 竜之助が横になりながら、右手の指を一本出している形に、お雪はゾッとしました。
「じゃ、あなたは剣術の名人なのですか」
「名人でも何でもないさ、人間が二尺の刀を持って、五尺の身体(からだ)を守れないというはずはないでしょう」
「だって、先生、刀と物差(ものさし)とは違いましょう」
「そうですね、刀と物差は……」
 竜之助は、お雪の比較を珍しそうに暫く考えていましたが、
「同じようなものでしょう、眼をつぶっていても、思う通りの寸尺に切ろうと思えば切れますからね」
「そんなことがあるものでしょうか……」
 お雪もそれを考えさせられましたが、しばらくして気がついたように、
「そうそう、昔、裁縫の名人があって、年とってから眼がつぶれ、不自由をしたそうですけれど、ハサミを持つと、物差をつかわないで、一分一厘の狂いもなくたちものをしたという話を聞きました」
と言いました。
 それそれ、おれは今でも刀を取れば、何人(なんぴと)をものがさないのだと竜之助はいいませんでした。けれどもお雪は、眼が見えなくても、刀は使えるものだとうすうす信ずるようになって、
「それでも先生、もうおよしなさいましよ、ああいう時は早く逃げて、相手になさらないようになさいまし」
「逃げるったって、逃げられないじゃないか」
と竜之助が言いますと、
「全く困ってしまいましたわ。つまり運がよかったんですね」
 ここでも運の一字で、偶然と必至とに結論をつけようとしている時、下の座敷で、にわかに足拍子の音が起って、声を合わせて歌い出したものですから、
「木曾踊りが始まりました」
こころナアー
 ナカノリサン
 節面白く歌う木曾節は、
こころナアー
 ナカノリサン
心細いよ
 ナンジャラホイ
木曾路の旅は
 ヨイヨイヨイ
笠にナアー
 ナカノリサン
笠に木の葉が
 ナンジャラホイ
舞いかかる
 ヨイヨイヨイ
 お雪も、竜之助も、二階で、その歌と足拍子を、手に取るように聞いておりましたが、
「先生、木曾踊りがはじまりました。夏の盛りの時は、あれが毎晩のようにあったんだそうですけれど、もう人が少なくなったものですから、きょうは納めの木曾踊りだそうですよ」
 お雪は、その歌と踊りの音に、そそられたようですけれども、竜之助は、さほど多感ではありません。
「まだ、あんなに人がいたのですか」
「ええ、総出で踊っているんでしょう、お客様も、宿の人たちも、そうしてきょうは器量一杯に踊って、あすは、みな散り散りに別れるんですって、寒くなりましたから……」
「お雪ちゃん、お前も行って踊りなさい」
と竜之助が言いますと、
「わたし、踊れやしませんわ、ですけれども、ちょっと行って見て参りましょう」
「歌をよく覚えておいでなさい」
「ええ」
 お雪はこの座を立って踊りを見に行きました。

         十四

 お雪が行って見ると、下の座敷を打抜いて、かれこれ五十人ほどの老若男女(ろうにゃくなんにょ)が、輪を作って盛んに踊っているところでありました。
木曾のナアー
 ナカノリサン
木曾の御岳山(おんたけさん)は
 ナンジャラホイ
夏でも寒い
 ヨイヨイヨイ
袷(あわせ)ナアー
 ナカノリサン
袷やりたや
 ナンジャラホイ
旅の人
 ヨイヨイヨイ
 お雪が後から駈けつけて立って見ると、音頭(おんど)を取っていた五十ぐらいの、水々しくふとった婆さんが、お雪を見て、
「あなたもお入りなさいな」
「いいえ、わたし、踊れないんですもの」
「踊れますよ、中へ入っておいでなされば、誰でもひとりでに踊れるようになりますから、お入りなさいな」
「有難うございます」
 お雪がまだ遠慮をしていると、その色気たっぷりの婆さんが、また輪の中へ戻って、
袷(あわせ)ナアー
 ナカノリサン
袷ばかりも
 ナンジャラホイ
やられもせまい
 ヨイヨイヨイ
襦袢(じゅばん)ナアー
 ナカノリサン
襦袢仕立てて

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