大菩薩峠
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著者名:中里介山 

「それでは後刻お目にかけましょうが、先生、古人の和歌では、どなたをお手本にしたら、よろしうございましょうか」
「誰を……というのは、ちょっと返答に困りますが、万葉集は読まねばなりません。万葉を御覧になりましたか」
「あ、万葉集はここへ持って参りました」
「それは、よい本をお持ちでした、万葉集一巻あれば、三年この山籠(やまごも)りをしていても、飽きるということはありますまい」
「ですけれども、先生、わたくしには、まだ万葉集の有難味がよくわかりませぬ」
「追々に研究してごらんなさい……私共にもまだまだ、ほんとうに万葉集を読みこなす力は無いのです。この冬仕事にひとつ、お互いにあれを読み砕いてみましょうか」
「お待ち下さい、今、本を持って来てみますから」
 お雪は欣然(きんぜん)として、立って本を取りに自分の部屋へ出かけました。
 そのあとで、猪(いのしし)が煮え出したものですから、池田良斎といわれたのは箸の先で、ちょいとつまんで風味を試み、
「うまい」
と言いました。北原謙次が、
「山陽の耶馬渓図巻(やばけいずかん)の記を読むと、猪を食うところがありますね」
「そうそう、今でもそのあとに、喫猪亭(きっちょてい)というのがある」
「耶馬渓へおいでになりましたか」
「行きました」
「どうですか、いいところですか」
「そうさ、人によってだが、わたしはあまり好かないよ。山陽にいわせると、天下第一等のところになっているが、山陽という男が、その実あんまり歩いてはいないのだからな。それに漢学者流の誇張で書きまくっているのだから、行って見て感心する人より、失望する者が多いだろう」
「山陽は足跡(そくせき)海内(かいだい)にあまねしとか、半ばすとか自慢をしていますが、この辺までは来たことはないでしょう」
「ないとも。耶馬渓を見てさえあのくらいだから、この辺から神高坂(かみこうざか)、穂高、槍、大天井あたりの景色を見せたら、仰天して、心臓を破裂させてしまうかも知れない。妙義だって、よくは見ていないのだ……雲霧晦冥(うんむかいめい)の時の妙義を、上州と信濃のある地点から見て見給え、とても、耶馬渓あたりの比ではないのだよ」
「時に、四面もうみな雪ですね」
「ああ、四面みな雪で懐ろだけが、こうしてあたたまっている」
 二人は猪をパクつきながら、一盞(いっさん)を試みている。

 万葉集を行李(こうり)の中から取り出して、ここに持ち来すべく出て行ったお雪は、廊下でバッタリと男妾(おとこめかけ)の浅吉に出逢いました。
 浅吉は、気の抜けたような面(かお)をして、手に櫛箱(くしばこ)を提げながら、通りかかって来たものですから、
「浅吉さん、どちらへ」
「お雪ちゃん、お寒くなりましたね」
「ええ、寒くなりました、お風呂ですか」
「いいえ、これから、あなたのところへお伺いしようと思っているところです」
「そうですか……」
と言ってお雪は、浅吉の手に抱えている櫛箱に眼をつけますと、
「お内儀(かみ)さんにいいつけられたものですから、仕方なしに……」
「何ですか、浅吉さん」
「あなたのところの先生にお髪(ぐし)を上げておやりなさいって、お内儀さんからいいつけられたのですよ」
「まあ、うちの先生に?」
「ええ」
 浅吉は浮かぬ面(かお)に、一種の恐怖をさえ浮べておりました。
「それは御苦労さま」
「ええ、お前は髪を結(ゆ)うのが上手だから、先生の髪を結ってお上げなさいと、お内儀(かみ)さんにいいつけられたものですから……」
「そうですか、それは御苦労さまでした」
 お雪は愛嬌にいって、浅吉と連れ立って自分の部屋へやって来ましたが、そこへ近づくと、浅吉の恐怖と嫌厭(けんえん)の色が一層深くなって、ゾッと身ぶるいをしました。
 浅吉をつれて自分の部屋へ戻って来たお雪は、障子をあけて見て、
「おや、先生がいらっしゃらない」
 いるとばかり思っていた机竜之助がいませんでしたから、お雪も案外に思い、浅吉も、
「おや、どちらへおいでになったでしょう」
 櫛箱をさげたまま、ぼんやり立っていると、お雪が先へ入って、
「風呂にでもおいでになったのか知ら。まあ、お入りなさい、浅吉さん」
 そこで二人は入りました。浅吉はぼんやりと櫛箱をそこに置いて、炬燵(こたつ)の前にかしこまっていると、お雪は戸棚をあけて行李(こうり)を取り出し、その中から、あれか、これか、と書物をさがしました。
「お雪さん」
 それを、ぼんやり見ながら浅吉が言葉をかけたものですから、お雪は本をさがしながら、
「はい」
「あの、お雪さん、済みませんが、油を持っておいででしたら、少し分けて下さいませんか……頭へつける油を」
「油ですか、ええあります、あります、油なら上等のがありますよ」
「切らしてしまったものですからね、どうぞ、少しばかり」
「油なら上等の椿油がありますよ」
「椿油ですか」
「ええ」
「それは結構ですね」
「それも本物の大島の椿油なんですよ、伊豆の伊東の人からいただいたのがありましたから、それを持って参りました、まだたくさんあります」
「そうですか、大島の椿油なら本物です、ずいぶん、椿油といってもイカサマものがありますからね」
「それにね、髪へつけるばかりじゃありません、刀の油とぎをするのに、椿油がいちばんいいんですってね」
「そうですか……刀には丁子(ちょうじ)の油がいいと聞きましたが、椿油でもいいのですか」
「椿の方がいいんですとさ」
といいながら、お雪は戸棚の隅から油壺に入れた椿の油を取り出して、浅吉の前に置き、
「たくさんお使いなさいまし」
「有難うございます」
 お雪は再び書物の数を読んで、都合六冊ばかりの本を取揃えると、
「では、わたし、ちょっと下へ行って参りますから、一人でお待ちなすって下さい」
「お雪ちゃん」
 お雪が立って下へ行こうとする袖を、引き留めるようにして浅吉が、
「お雪ちゃん、もう少しここにいて下さいな」
「でも、わたし、よい歌の先生が見つかりましたものですから、教えていただきたいと思います」
「それにしても、私は一人じゃ淋しいから、少しの間ここにいて下さいな」
「いいえ、うちの先生もそのうちに帰るでしょうから」
「お雪ちゃん……後生(ごしょう)ですから」
 浅吉は拝むようにいいましたけれども、お雪は笑って取合わず、
「浅吉さん、弱い人ね、もう少し強くならないと、鼠に引かれちまいますよ」
 お雪は、新しい知識のあこがれがいっぱいで、本を抱えると、欣々(いそいそ)として下へおりて行きました。
 それを追いすがるほどの元気もなく、そのあと浅吉は、ぼんやりとして、お雪から与えられた備前焼の油壺を取り上げて、そっと香いをかいでみました。
 そうして、また油壺を前にして、ぼんやりと、かしこまっていましたが、誰も戻っては来ません。当の人がいないのを幸いに、立帰るほどの元気もなく、主なき炬燵(こたつ)に膝を入れるほどの勇気もなく、油壺を前にして、ぼんやりと、立っていいのか、坐っていいのか、わからなくなりました。
 こうして取残された男妾(おとこめかけ)の浅吉は、いくら待っても、誰も戻っては来ません。
 待ちあぐんでしまった浅吉は、しばらくのこと、ひとまず引取って、また出直そうという気になりました。
 そこで、油壺を取り上げて、戸棚へ仕舞い込んでおこうとする途端に、行李(こうり)の中で、パッと自分の眼を射るものを見つけました。
 お雪が取急いだものですから、行李の中に残された本が整理しきれず、手軽に投げ込まれてあった中に、眼を眩惑(げんわく)するような、極彩色の浮世絵の折本が一冊、ほころびかかっているのを見たものですから、油壺をそこへ差置くと、その折本をたぐってみました。
 見れば、それは源氏の五十余帖を当世風に描いたもので、絵は二代豊国あたりの筆。版も、刷りも、なかなか精巧で、そこらあたりの安本とは、趣の変った情味がゆたかです。
 浅吉は吸い入れられるように、その絵本に見入りました。
 お雪ちゃんという子も、これだから油断がならない。
 浅吉は怖る怖る、その折本を下へ持ちおろして、最初から一枚一枚見てゆくうちに、浮世絵の情味が、自分の身(からだ)の中に溶け込んで、しばらく、われを忘れてしまいました。
「お雪ちゃんという子もわからない子だ、無邪気で人なつこく、同情心が深くって、神様のような心持かと思っていれば、こんな本を内密(ないしょ)で見ているんだもの。それでも、年頃だから、こんな美しい当世風の浮世絵を見ていれば、悪い気持もしないのでしょう、にくらしい」
 浅吉はこの時、お雪を憎らしい子だと思いはじめました。
 事実、浅吉にあっては、このごろ中からお雪ちゃんというものが、読めたような、読めないような、心持になっているのです。
 もう、年ごろなのに、無邪気で清々(せいせい)とした子供のような気分――かと思っていると、なにもかも見抜いて、粋(すい)を通しているようなところもあるし――あの目の見えない人を先生と呼んでいるが、何の先生だか、浅吉にはよくわからない。親類の人でもあるようだし、全く他人でもあるようだし、隔てのないほどにあまえた口を利(き)くかと思えば、全く改まった扱いをしているのを見ることもあるし――私たちの間だって、つまり主人の後家さんの性質や、心持まで、ちゃんとのみこんでいながら、その心持で外(そ)らさず附合っているのかと思えば、全くその辺のことは御存じがなく、ただ自分は、むずかしい御主人のお供をして来ているのだとばっかり、信じきっているようでもある。
 お雪ちゃんという子はわからない子だ、と浅吉は、これまでも幾度か首をひねらせられたのですが、今という今、ほんとに憎らしい子だ、と思いはじめました。
 けれどもなお、一枚一枚と見てゆくうちに、お雪ちゃんを憎らしいと思う心が、いつか知らず絵本の中の主人公に溶け込んで、ついには今様源氏の光(ひかる)の君(きみ)が憎らしくなりました。女という女から可愛がったり、可愛がられたり、さして深い煩悩(ぼんのう)も感ぜず、大した罪という自覚もないくらいだから、罪も作らず、最後には自分の可愛がった女を集めて、いちいちに局(つぼね)を与え、それに花を作らせて楽しむという生涯。男と生れたからには、この光源氏の君のようなのが男冥利(おとこみょうり)の頂上だと、浅吉は、羨(うらや)ましくなりました。そこで勢い浅吉は、一人の後家さんから完全に圧服されてしまって、グウの音も出ない自分というものの意気地無さかげんに、軽少ながら憤りの心をさえ起してみました。
「私だって男だ」
という義憤がむかむかと湧き起ったのは、この男としては珍しいことです。といって、こういう男の義憤も、一概に軽んずるというわけにはゆきますまい。
「私だって男だ」
 浅吉は、わくわくとして、ひとり憤りを発していましたが、まだ誰も帰って来ません。自分ひとり、腹を立っているのだということがわかりました。

         三十

 机竜之助はこの日、湯の宿を出て小梨平の方へ歩いて行きました。
 かたばみの紋のついた黒の着流しのままで、頭と面(かお)は、頭巾(ずきん)ですっぽりとつつんではいるが、その頭巾なるものが、宗十郎というものでもなく、山岡でもなく、兜頭巾(かぶとずきん)でもなく、また山国でよく用うるかんぜん帽子というものでもなく、ただ、あたりまえの黒縮緬(くろちりめん)の女頭巾を、ぐるぐるとまいて山法師のかとうを見るように、眼ばかり出したものです。
 四面はみな雪ですけれども、山ふところは小春日和(こはるびより)。
 白樺や桂(かつら)の木の多いところをくぐり、ツガザクラの生えたところをさまよい、渓流に逢っては石をたたいて見、丸木橋へ来ては暫くその尺度をうかがって、スルスルと渡りきり、雑草多きところでは衣裳を裾模様のように染め、ある時は呼吸せわしく、ある時は寛々(ゆるゆる)として、上りつ下りつして行きました。
 このごろは、だいぶ身体(からだ)もよくなったせいでしょう、こうしているところを前から見ても、横から見ても、誰も病人と見る者はないほどに、姿勢もしゃんとしているし、カーヴの甚だ急に変ずるところでない限り、杖を使わないで歩いて行くところを見れば、誰も、これが盲目(めくら)の人だとはおもいますまい。
 竜之助の、さして行かんとするところは小梨平に違いない。それより遠くへは冒険になるし、それより近いところには、たずねて行って見ようとするものもない。
 小梨平には鐙小屋(あぶみごや)というのがありました。先日、竜之助はお雪の案内で、そこまで散歩を試みたことがあるのです。さればこそ、今日はこうして手放しで、山谷の間を、ひとり歩きができるということになっているのでしょう。
 白昼に見るせいか、今日はたしかに人間の歩き方になっている。本体を宿へ置いて、遊魂そのものだけが街頭に人を斬って歩く時とは違い、少なくとも人間そのものが、足を大地に踏まえて歩いているように見える。
 方二町ばかりの小沼の岸に立った時に、乗鞍(のりくら)ヶ岳(たけ)が、森林の上にその真白な背を現わしました。雪をかぶった乗鞍ヶ岳の背は、名そのままの銀鞍(ぎんあん)です。銀鞍があって白馬はいずこへ行った。それはこれより北に奔逃(ほんとう)して、越後ざかいに姿を隠している。
 沼に沿うて銀鞍が再び森に沈んだところに、いわゆる鐙小屋(あぶみごや)があります。
 竜之助はこの間お雪に導かれて、ここに来た時のことを思い出しました。
「ねえ、先生、ここに綺麗(きれい)なお池がありますのよ。ごらんなさい、この水の澄んでいて静かなこと、透き通るようですわ。あれ、大きな魚が……山魚(やまめ)でしょうか。おお、つめたい、この水のつめたいことをごらんなさい、指が切れるようです、あたりまえの水の何倍つめたいことでしょう。後ろを振返ってごらんなさい、真白な山、あれが乗鞍ヶ岳ですとさ。先生、あなたは、あの山に登ってみたいとお思いにならない……お思いになっても駄目ですわね、あなたには登れませんから。あたし、女でも登ってみたいと思いますわ。今は、雪があって登れませんから、来年、雪が解けた時分には、きっと登ってみますわ。あのお山は一万尺からあるんですってね……木曾の御岳山とどちらかだっていうじゃありませんか。あなたは一万尺の山にお登りになったことがありますか。そらごらんなさい、この金剛杖にも『一万尺権現池』と焼印がおしてありますよ。ああいけませんでした、あなたにはおわかりにならない、あの高い山も、この綺麗な水も、金剛杖におされた焼印も……ほんとにお気の毒さまですね」
と言われたのはちょうど、このところです。
 山登りをする者が誰も携えて行く金剛杖、八角に削った五尺余りなのを、今日も竜之助は携えて来ました。
 ここは日当りがことによくて、風の当りも少ない。竜之助は目的の鐙小屋(あぶみごや)へ行くことを忘れて、暫くそこに立っていました。
 高山の麓(ふもと)、腹、頂(いただき)などには、太古以来といっていいほどの小屋掛けが、思いがけないところに散在する。それがある時は殺生小屋(せっしょうごや)であり、ある時は坊主小屋であり、あるいは神仏混淆(しんぶつこんこう)に似たる室堂(むろどう)であったりする。
 由来、坊主小屋は樹下に眠り、石上を枕とする捨身無一物の出家が、山岳を行く時にかりの宿りと定めた名残(なごり)で、殺生小屋は山をめぐって、生きとし生けるものを殺しつくす生業(なりわい)の猟師が、糧(かて)を置くところと定めていたものだという。持戒者と殺生者とが隣合わせに住むのは、あながち塵の浮世の巷(ちまた)のみではない、高山の上にも、人間が足あとをつける限り、このアイロニーが絶えなかったものと見える。
 ここ、小梨平、無名(ななし)の沼のほとりに立てられた鐙小屋は、いつの世、誰によって、何の目的のために立てられたかわからないが、今でも人が住んでいる。
 けれども、この鐙小屋までは、まだこの沼づたいに相当の距離がある。無名(ななし)の沼の岸を机竜之助は金剛杖をついてではない、それを提げて――静かに歩んで行くと、不意に空(くう)を切って飛んで来た礫(つぶて)が、鏡のように静かで、そして透き通る無名(ななし)の池の中に落ちて、ザンブと音を立てて波紋が、ゆるやかに広がりました。
 そこで、竜之助はハッとして歩みをとどめました。仰いで見たところで、岩石の落ち来るべきところではない、俯(ふ)して見たところで、人の気配のないところ。
 そこで竜之助は歩みをとどめて、石の降って来た方面に面(おもて)を振向けると、第二に飛んで来た石が竜之助の面をかすめて、再び沼の中に落ちて音を立てました。
 第一のものは、いかなるところから、いかなるハズミで飛んで来た外(そ)れ石(いし)か知れないが、第二のものは、たしかに心あってしたものに相違ない。何か自分をめあてに、仕掛ける意図があっての仕業(しわざ)に相違ない。それにしては力の無い石だと思いました。けれども、竜之助の心が動きました。そうして手に提げていた金剛杖の真中を取って、矢止めの型で軽く振ってみた。その杖先に第三の石が飛んで来てカチリと当って下に落ちました。
「ホホホ、驚いたでしょう」
と行手に立って言葉をかけたのは、聞覚えのある声です。いつのまにか叢(くさむら)の上に立ってこちらを見ているのは、例の、飛騨の高山の穀屋(こくや)の後家さんであります。その声を聞くと、竜之助が身顫(みぶる)いをしました。今の悪戯(いたずら)はこいつだ。年甲斐(としがい)もない噪(はしゃ)ぎ方だ。
「ねえ、先生」
と言ってこの後家さんは、そろそろと少し高い所から下りて来て、なれなれしく話しかけました。竜之助を先生と呼ぶのは、お雪ちゃんにカブれたものでしょう。
「貴船様(きふねさま)の前まで出て見ますと、あなたのこちらへおいでになるのが、よく見えたものですから、急いで、あとを追っかけて参りましたよ」
 竜之助のそば近く歩んで来るこの水っぽい後家さんは、よほど急いで来たと見えて、額のあたりに汗がにじみ、まだ息がせいせいしている。
 誰にたのまれて、そう急いで来たのだ。
「ねえ、先生」
と後家さんは、いよいよなれなれしく近づいて来て、息を切り、
「今日はお一人ですか。鐙小屋(あぶみごや)へいらっしゃるのでしょう。留守ですよ、あそこは。神主様は室堂(むろどう)へ行って、おりません……ええ、先廻りをして見届けて参りました。この間はお雪ちゃんに手を引いていただいておいでになりましたのに、今日はお一人でよく道がおわかりなさいましたこと。鐙小屋においでになっても詰りませんから、このお池の周囲(まわり)を歩いてごらんになりませんか。いいお天気で、ホカホカとして春先のような心持が致しますね。このお池を廻って御一緒に宿へ帰りましょう。それともこんなお婆さんと一緒ではおいや……」
 竜之助でなくてもゾッとしましょう。
 無名(ななし)の沼のほとりを、肪(あぶら)ぎった後家婆さんと、竜之助とは、ブラブラと歩いて行きました。
「ねえ、先生、あなたはこの間、お雪ちゃんに護身の手というのを教えておいでになりましたね、あれを、わたしにも教えて下さいましな」
「お前さんが習ってなんにする」
「覚えておいて害にはなりますまい、いざという時……」
「そうです、覚えておいて害にはなりますまい。けれども、あれは若い娘たちのためにするものです。若い時分には、どうも危険がありがちだから、もしこういう場合には、こうして手を外(はず)すとか、この場合にはこうして敵を突くとか、二ツ三ツの心得を、お雪ちゃんに話してみせただけのものです」
「若い時分に限ったことはございますまい、誰だって、あなた、いつ、どういう危ない目に逢うか知れたものじゃありません」
「ははあ……」
 竜之助はそれを聞き流しながら、
「お前さんなんぞは、かっぷくがいいから、そのかっぷくで敵を押しつぶしてしまったら、たいがいの男はつぶれてしまうでしょう」
「御冗談(ごじょうだん)を……」
 後家さんは、まじめに取合われないのを、ちょっとすねてみましたが、
「ねえ、先生」
 暫くして、また改まったように、甘えた口調(くちょう)で呼びかけました。
「ねえ、先生、あなたは人を殺したことがおありなさる?」
 後家さんの肪(あぶら)ぎった面(かお)に、小さい銀色の粒が浮いて来ました。
「何ですって?」
 竜之助は、わざと聞き耳を立てました。
「先生、あなたは人を殺したことがおありなさるでしょう」
「どうして、そんなことを聞くのです」
「でも……」
 ちょうど、道が沼の岸を離れて林の中に入る時分に、後家婆さんは、後ろの方をそっと顧みて、
「それでも、人を殺してみないと、度胸が定まらないっていうじゃありませんか」
「そんなはずはあるまい、人を殺さなくても天性度胸のいい者はいい、臆気(おくびょう)な奴が、かえって大事をしでかすこともあるものさ」
「それはそうでしょう。けれどいちど、人を殺すと、それから毒を食(くら)えば皿までという気になって、腹が出来るというじゃありませんか」
「そうか知ら」
「真剣ですよ、先生、わたしは、真剣で先生にお話し申しもし、先生からお聞き申しもしたいものですから、この通り、話しながらも動悸(どうき)が高くなっているのですよ」
「そうかといって、おれは人を殺しました、と答える奴もあるまい」
「そうおっしゃられてしまえば、それまでですけれど、先生には、わたし、このことをお尋ねしてもいいと思っているから、それでお尋ねしているんですよ。つまり、わたしは、あなたは、たしかに人を殺しておいでなさると見込みをつけてしまったものですから、こんなことを臆面もなくお聞き申すんですが、あなたがお返事をして下さらなければ、わたしの方から白状してみましょうか。これでも、わたし、人殺しをしたことがありますのよ」
 こういって、後家さんは忙がしそうに、四方(あたり)を盗み見ましたけれど、そこは一鳥も鳴かぬ無人のさかいであります。
 強(し)いて人に物を問いかけるのは、必ず自分の身に相当の不安があるからであります。
「幾人!」
 その時、竜之助が反問したのを、後家さんは充分に聞き取れないほどせき込んで、
「幾人って、あなた……」
 鸚鵡返(おうむがえ)しに、
「そう幾度も悪いことができるものですか……わたしは、それでも今は度胸がすっかりすわりましたよ……ですから先生、自分に覚えがあるものですから、人を見れば直ぐにわかりますのよ……この人は人を殺したことがあるかないか、心の底がちゃあんと、わたしには読めるようになりました。ここまで申し上げたら、あなたも、懺悔話(ざんげばなし)をして下すってもいいでしょう」
 ここに至って、後家さんの腹がおちついて来たらしく、言葉が浮いて来て、
「それで、そういう人と見ると、わたしはなんだか、自分の味方を見つけでもしたように、無性(むしょう)にたのもしくなってしまって……なんでもかでも、すっかりぶちまけて、その人にやってしまいたいような気になるのですね、おかしいでしょう」
 道はようやく沼を離れてしまって、林の中深く入って行くようです。
「先生、わたしにばかり白状させてしまっては罪ですよ、懺悔話をお聞かせください、ぜひ、どうぞ」
 度胸がおちついたとはいうものの、手ごたえがないので、不安が不安を追っかけるように、後家さんは竜之助に促(うなが)しました。
 けれども、何としてか、竜之助は答えることなしに、少し歩みを早めて、ずんずんと後家さんより先に立って木立の中深く進んで行くものですから、後家さんは、肪(あぶら)ぎった大きな身体(からだ)をそれに引きずられるように、追いすがるように歩いて、
「あんまり奥へおいでになってはいけません……お池の方へ戻りましょうよ」
 その時、沼のあなたに当って、谺(こだま)を返す一つの呼び声がありました、
「お内儀(かみ)さん――お内儀さん、どちらへおいでになりました」
 それは林を隔て、沼を隔てて呼ぶ浅吉の声にまぎれもありません。
 この声を聞くと後家さんが、いまいましそうな、また、いつになく怖ろしそうな顔になって、声のする方へ向き直ったけれども、そちらへ足をめぐらそうとはしません。
 机竜之助もまた、その時、ずんずんと進んでいた足をとどめて立っていると、
「お内儀(かみ)さん――お内儀さん、お迎えに参りましたよ、お一人歩きをなさると、お危のうございますよ」
 甲(かん)に高い浅吉の呼び声は、感情もまたたかぶって、沼のほとりを、あちらこちらとさがし廻っている様子が、なんとしても穏かには響きません。
「お内儀さあ――ん……」
 聞いていると、どこまでも嫉(ねた)みを持ってものを追い求める声です。
「ねえ、先生……」
 後家さんは、半ば恐怖の色を以て、竜之助にすがるように、
「あれは、うちの浅公ですよ……御存じでしょう、わたしの雇人ですが、このごろ、どうしたものか、わたしを恨んでいます……恨んではいるけれども、口に出しても、手に出しても、何もすることはできない意気地なしなんですが、ああいう意気地なしが思いつめると、また何をしでかすかわかったものではありません……この間の晩も……」
といって、後家さんの唇の色が変って、舌がもつれました。
「ねえ、先生、この間の晩、夜中に、どうも変ですから、ふいに眼がさめて見ますとね、あの野郎がわたしのこの咽喉(のど)をおさえて、こうして……わたしを絞めようとしていたんですね、吃驚(びっくり)して、起き直って、わたしが、とっちめてやりますと、泣いてあやまりましたが、あんなのがかえって怖いのかも知れません。ですから、先生、ぜひ、あの護身の手を一つ教えておいてくださいまし、もし、不意に咽喉でも絞めに来るとか、また刃物でも持って向って来た時には……」
 後家さんが、再び、護身の手のことをいい出した時、竜之助はその左の腕を後家さんの背後から伸ばして、その襟(えり)を取ってグッと絞め、
「左様、後ろから絞められた時は……」
 不意でしたから後家さんが、よろよろとよろけかかりました。
 不意のことでしたから、後家さんも仰天(ぎょうてん)して、よろよろよろけかかるのを竜之助は、
「もし、これを強く絞めようと思えば、こう親指を深く入れて、べつだん力を入れずにグッと引きさえすれば……動けば動くほど深くしまるばかりだ」
と言いながら、後ろから腕を深く入れると、後家さんは、
「あ、あ」
といって息を吹くばかりで口が利(き)けません。後家さんの聞こうとするのは、深く絞める仕方ではなく、絞められた時に、振りほどく手段なのです。ですから、いったんしめた手をゆるめて、その解(と)き方を示すべき時に、竜之助は、無意味にその手をゆるめられなくなりました。
 この男には、かりそめの絆(ほだし)が、猛然たる本能を呼び起すことは珍しくないので、活殺の力をわが手に納めた時に、それを無条件でつっぱなしきれなくなるのがあさましい。かりそめにしめあげた腕はゆるめなければならないのに、人間の肉が苦しみもがく瞬間の、はげしい運動と、熱い血潮に触れると、むらむらとして潜在の本能がわき上ります。
「苦しいか」
「く、く、苦……」
 後家さんは、必死となって竜之助の腕にすがって、その蛇のような腕を振りほどこうともがいたが、それは、さいぜん予告しておいた通りに、もがけばもがくほど深く入るだけで、力を入れるそのことが、いよいよ敵に糧(かて)を与うる理法となっていることを知らない。
 はっ! と落ちたか、落ちない時に、それでも竜之助は手を放しました。手を放すと、肥満した女の骸(むくろ)が、朽木(くちき)のように、自分の足もとに倒れたことを知りました。
 しかし、それは、ほんの少しの間たつと、倒れた後家さんは半眼を見開いて、
「先生、あんまり酷(ひど)い」
といいました。死んだのではなかったのです。
「あんまり酷いじゃありませんか、殺さなくってもいいでしょう、お雪ちゃんに教える時にも、こんなになさったの……?」
 半醒(はんせい)のうちに、後家さんは、竜之助に怨(えん)じかけました。地獄をのぞいていまかえった人というような見得(みえ)で……
 それから、やがてまた二人が相並んで、林の中をそぞろ歩きして行くのを見かけます。
 その時分、林のあなたでは、またも男妾(おとこめかけ)の浅吉が烈しく呼ぶ声、
「お内儀(かみ)さん、どちらへおいでになりましたんですよ、一人歩きは危のうございますよ、お迎えに上りましたよ」
 多分、二人の耳には、以前から、その金切声が再々入っているはずですけれども、あえて耳を傾けようとはしませんでしたが、
「お内儀さあ――ん」
 そこで後家さんが小うるさくなって、
「気が違やしないか知ら、浅公――」
とつぶやきました。
 しかし、その浅公も、もうかなり呼び疲れたと見えて、それからしばらく呼び声が絶えてしまいました。
「ねえ、先生、そういうわけですから、意気地なしほど思い込むと怖いかも知れませんよ。用心のために……殺しちゃいけませんよ、今のように殺さないで、殺しに来るのを避ける法を教えて下さいましな、あれを外(はず)す仕方を教えて下さいましな」
といって、もうケロリとして、今の苦しかった地獄の門を忘れてしまったようです。事実、或いは苦しかったのではないかも知れない。上手にしめられると苦しいと感ずるのは瞬間で、それから後は恍惚(こうこつ)として、甘い世界に入るように息がとまってゆくそうな。こういう図々しい女は、再びその甘い死に方をして、また戻って来る気分を繰返してみたいのかも知れない。
「それを外(はず)すのは雑作(ぞうさ)もない」
といって、竜之助は再び後家さんの首を後ろから締めにかかると、
「先生、殺しちゃいけませんよ」
 今度は後家さんも覚悟の前ではあるし、竜之助も心得て、以前ほど強くは締めず、ゆるやかにうしろから手を廻して、
「これをこうすれば袖車(そでぐるま)……」
「もっと強く締めて下さい」
 その時、サッと木の葉をまいて、風のような大息をつきながら、そこへ馳(は)せつけたものがありました。
「お、お、お、お、お内儀(かみ)さん――」
 真蒼(まっさお)になって、ほとんど口が利(き)けないで、そこに踏みとどまりながら、吃(ども)っていましたから、竜之助も手をゆるめ、後家さんも向き直って見ると、それは男妾の浅吉でありました。
「お内儀(かみ)さん、あぶない――」
「浅吉、お前何しに来たの?」
「え、え」
「何しに来たんですよ、たのまれもしないに――」
「でも、お内儀さん、この節は、お一人で山歩きをなさるのは、お危のうございますよ」
「子供じゃあるまいし」
 後家さんは、ひどく邪慳(じゃけん)な色をして、浅吉に当りました。
「でも、お内儀さん、私は、あなたが今、この方に殺されているのだとばかり思ったものですから……」
 事実、浅吉はそう思って、その主人の急場を救わんがために駈けつけたものに相違ない。ところが来て見れば、当の御本人が至極平気で、かえって助けに来た自分を邪慳にし、
「そんなわけじゃないよ、お前こそ、わたしを殺したがっているくせに……」
「どう致しまして」
「さっきから、なんだって、あっちこっちでわたしを呼び廻っているの。山の中だからいいけれど、世間へ出たら外聞が悪いじゃありませんか」
「どうも済みません」
「いいから、お帰り、お前ひとりでお帰り、わたしはこの池を廻って帰るから……」
「ですけれど、お内儀(かみ)さん……」
「何です」
「お危のうございますよ」
「何が危ない。しつこい人だ、お前という人は。うるさい!」
「けれども……」
「大丈夫だよ、お前こそ一人歩きをして、熊にでも食われないように、気をおつけ」
 後家さんは、こういって浅吉を振りつけて行こうとすると、浅吉の眼の色が少し変りました。
「お内儀さん……どうしても危ない、あの方と一緒に歩いてはいけません」
「何をいっているんだい、失礼な」
「どうぞ、わたしと一緒にお帰りなすって下さいまし」
 浅吉は、とうとう後家さんの袖をつかまえてしまいました。これほどに思い込んで引留めることは、この意気地無しには珍しいことです。
「お放し」
 それを振りもぎって、振向いて見ると、たったいま自分の首を締めた人が、そこに見えない。
「おや?」
 後家さんは、慌(あわ)てて、四辺(あたり)を見廻したけれども、その姿は消えてしまっている。林の中にも、沼の岸にも、それらしいものが見えないから、
「おや、どこへおいでになった?」
 後家さんが、狼狽(うろたえ)ていた時、浅吉は透(すか)さず再びその袖を取って、
「お帰んなさいまし、わたしと一緒に帰れば生命(いのち)に別条はございません」
「何をいってるんだよお前は。お前こそ、わたしにとっては気味が悪いよ」
といって、後家さんはせきこんで、林の中へ駈けて行こうとするのを、浅吉が後ろから必死の力で抱き止めて、
「お内儀さん、あなたは死神につかれています、死神に……」
 男妾の浅吉の必死の力を、さしも大兵(だいひょう)の後家さんが、とうとう突き飛ばしきれず、それに取押えられてしまいました。
 ほどなく薯虫(いもむし)が蟻に引きずられて行くように、この大兵の後家さんが、男妾の浅吉に引っぱられて、沼の岸を逆に戻って行く姿が見えましたが、やがて鐙小屋(あぶみごや)の前へ来ると、断わりなしにその戸をあけて二人が中へ入りました。
 小屋はかなりの広さに出来ていて、正面には神棚があって、御幣(ごへい)の切り目も正しくして新しい。
 浅吉は、小屋の中へ御主人を誘(いざな)って、自分はかいがいしく一方の炉に火を焚きつけて、向い合って話をはじめました、
「ねえ、お内儀(かみ)さん、私はなにも人様の讒訴(ざんそ)をするわけではございませんが……あの方の人相をごらんなさい。昨晩も夢を見ましたよ。私は毎晩のように、このごろは夢を見ますのは、みんなほかの夢じゃございません、お内儀さんも私も、あの方に殺されてしまう夢なんです……昨夜もね、ちょうどそれ、あの無名沼(ななしぬま)なんですよ、あの沼の中に何か白いものが光って見えますから、私が近寄って見ますと、それがあなた、お気にかけなすっちゃいけませんよ、お内儀さんの死骸なんです。あなたが殺されて、あの沼の中へ投げ込まれているのを、私はまざまざと見たものですから、それが気になってたまらないでいるところへ、今日、こうして、あなたが沼の方へ、ズンズンとおいでなさるものですから、遠くで私が見ていますと、なんのことはない、あなたは、沼にすむ魔物に引寄せられておいでなさるとしか見えないものですから、私は我を忘れて、あなたの跡を追いかけて参りました、そうして大きな声をして、あの通りにお呼び申してみました。それでもようございました、危ないところをお助け申しました。これからは決してお一人歩きをなさらないようになさいまし、どうぞ……」
 浅吉は一生懸命でこのことをいいますのに、後家さんは案外平気で、
「お前、このごろ、どうかしているよ」
「いいえ、わたしより、お内儀(かみ)さん、あなたがどうかしておいでなさるのですよ」
と浅吉は例になくせわしく口を利(き)いて、
「あなたは魔物に引摺(ひきず)られておいでなさるんですよ」
「ばかなことを言っちゃいけないよ、どこに魔物がいます」
「いけません、お内儀さん、危ないのは、魔物にひっかかったと思う時よりも、魔物をひっかけたと思っている時の方が危ないのです」
「わけのわからないことをお言いでない、魔物なんてこの世の中にありゃしませんよ、みんなあたりまえの人間ですよ、人間並みにつきあっていさえすりゃ、怖いものなんてあるものか」
「そ、そ、それがいけないのです、お内儀さん、御当人にはわかりませんが、傍(はた)で見ていると、よくわかります、あの人は、今にきっと、お内儀さんも、私も殺してしまう人ですよ、早く逃げないと……」
「逃げたけりゃ、お前ひとりでお逃げ、お前こそ、わたしを殺そうとしたじゃないか、この間の晩のあのざまは何です」
「あれは、お内儀さん、その、夢ですよ。その怖い夢を見たものですから、思わず知らず力がはいって、あんなことになりました。お詫(わ)びをして許していただいたじゃありませんか。もうあれっきり、あのことをおっしゃって下さらないはずじゃありませんか」
「いいよ、そう申しわけをしなくったって。ちっとも怖かないから……第一、お前に人を殺すだけの度胸がありゃ頼もしいさ」
「お内儀(かみ)さん、それをおっしゃらないで下さい、私だって……」
「私だって、どうしたの」
 浅吉がギュウギュウ問い詰められている時に、小屋の裏戸が鳴りました。
 裏口の戸をガタピシとあけて、そこへ現われたのは、狩衣(かりぎぬ)をつけて、藁(わら)はばき、藁靴を履(は)いた、五十ばかりの神主体(かんぬしてい)の男。金剛杖を柱に立てかけて、
「これはこれは」
 おのれが留守中の来客を見て、挨拶の代りに、これはこれはといって、
「は、は、は、は……」
とさも陽気に笑いました。
「お帰りなさいまし、お留守中に失礼を致しました」
 浅吉が申しわけをすると、
「なんの、なんの、そのままにしていらっしゃい。いやどうも、いいお天気で、は、は、は……」
と、いいお天気そのもののように、神主は明るく笑いました。
「あんまりいいお天気だものですから、こうしてブラブラと遊びに出かけました」
と後家さんがいうと、神主は、
「ああ、そうでしたかい、そうでしたかい、よくおいでたの。わしは昨晩、室堂(むろどう)へ泊りましての、御陽光を拝みましての、御分身がすっかり身にしみ渡りましたので、よろこんで下山を致して参りましたわい。さあさあ、もっと火をお焚きなされ、火をたいて陽気になされませ」
 こういって神主は藁靴、藁はばきをとって、炉辺に坐り込み、薪を炉の中にくべました。
「お山の上はずいぶん雪が深うございましたろう、よくおのぼりになりましたね」
「ええ、ええ、もう、積雪膝を没するばかりで、風でも吹いてごろうじろ、とても上り下りのできるものではございません、当分は室堂へお籠(こも)りのつもりで出かけましたが、今朝は御陽光がすっかり身にしみて、この通りの上天気だものですから、一気に室堂から下って参りましたわい」
「御修行でおいでなさればこそ、とても並みの人にはできません」
と後家さんが感心してお世辞をいうと、浅吉が、これに継ぎ足して、
「ほんとに、お羨(うらや)ましうございます、わたしなんぞは、こんな若いくせをしまして、火の傍ばっかり恋しがっているのに、この寒空を、あの高い山まで楽々と上り下りをなさるのは、恐れ入りました、御修行とはいいながら、大したものです」
「なんの、なんの……修行というほどのことではございません、誰にもできることですよ。高いお山の上へ登って御陽光を分けていただきますと、もうこの心持が嬉しくなって、世間が晴々しくなって、この足が自分ながら躍(おど)り立つように軽くなりましてな、山坂を上ることも、下ることも、寒さも風も苦にはなりませんわい。こうして小屋へ帰って、焚火の光を見ますと、火の光がまた、なんともいえない陽気なもので、嬉しくなります、は、は、は……」
 神主は嬉しくてたまらないように、しきりに喜んでいたが、ふと浅吉の顔を見て、
「若衆(わかいしゅ)さん、お前さん、また何か鬱(ふさ)ぎ込んでいますな、いけません、一人鬱いでいると、室内がみんな陰気になりますから、おやめなさい、人間、陰気ということがいちばんいけないのですて……人は陽気がゆるむと、陰気が強くなります。陰気というのは、つまりけがれのことで、けがれは、つまり気を枯らす気枯(けが)れということでござってな、お天道様の御陽光が消えると、けがれが起るのじゃ。お前さん、陰気だ、陰気だ、これはいけない、いけない、陽気にならっしゃい、ちと外へ出て御陽光を吸っておいでなさい……お前さんがいるために、この小屋の内までが変に陰気くさくなっていましたわい、ドリャお祓(はら)いをして進ぜよう」
と言って元気に老神主は立って、神棚の前の御幣を持って来て、
「朝日権現は万物の親神……その御陽光天地に遍満し、一切の万物、光明温暖のうちに養い養われ、はぐくみ育てらる……」
と言って、二人の頭の上で、しきりにその御幣を振りかざしました。
 この幣束(へいそく)で、お祓(はら)いをしてもらったのだか、祓い出されたのだか、二人はほどなく小屋の外へ出てしまいました。
「ごらん、お前があんまり陰気な顔をしているもんだから、あの神主様にまでばかにされてしまった」
といって、後家さんが浅吉をこづきました。浅吉はよろよろとして踏みとどまるところを、後ろから行って後家さんがまたこづきました。
「ホントに陽気におなりよ、意気地なし、陰気はけがれだと神主様も言ったじゃないか、お天道様の御陽光が消えると、けがれが起ると神主様がそうおっしゃったよ、ホントにお前はけがれだよ」
「だって、お内儀さん……」
 恨めしそうに後ろを向きながら、浅吉がまたよろよろとよろけて踏みとどまると、
「お前がいると陰気くさくっていけないって、体(てい)よく追っ払われたんじゃないか、外聞が悪い」
といって後家さんが三たびこづくと、浅吉がまたよろけました。
「意気地なし」
 後家さんから四たび突き飛ばされて、二間ばかり泳いで踏みとどまった浅吉は、
「それは御無理ですよ」
 やはり恨めしそうに振返ったけれど、あえて反抗しようでもなければ、申しわけをしようでもありません。小突かれれば小突かれるように、むしろこうして虐待されたり、凌辱されたりすることを本望としているかの如く、極めて柔順なものです。
 そうして、突き飛ばされて、突き飛ばされて、二人の姿は小梨平から見えなくなりました。
 そのやや暫くあとで、机竜之助は、林の蔭から、こっそりと身を現わして、鐙小屋(あぶみごや)に近いところの岩間から湧き出でる清水を布に受けて、頭巾(ずきん)を冠(かぶ)ったなりで、うつむいては頻(しき)りに眼を冷し冷ししていると、小屋の中から手桶をさげて出て来た神主が、
「これは、これは――」
といって、竜之助の仕事を立って見ていましたが、
「それは利(き)きますよ、水でなけりゃいけません、湯では本当の修行になりませんな……白骨の温泉の雌滝(めだき)に打たれるより、この水で冷した方が、そりゃ利き目がありますよ」
「どうも、しみ透るほど冷たい水だ」
と竜之助が眼を冷しながら答えると、神主が、
「トテモのことに、室堂の清水まで行って御覧になってはいかがです、これどころじゃありません……それから一万尺の権現のお池へ行って、神代ながらの雪水をむすんでそれを眼にしめして、朝な朝なの御陽光を受けてごらんなさい、癒(なお)りますよ」
「御陽光というのは何だね」
「朝日権現のお光のことでございます、黒住宗忠様が天地生き通しということをおっしゃいましたのを御存じでしょう」
「知らない」
「三月の十九日に、宗忠様は、もう九死一生の重態の時に、人に助けられて、湯浴(ゆあみ)をして、衣裳を改めて、御陽光をお拝みになりましたから、家の人たちは、もうこの世のお暇乞(いとまご)いを申し上げるのだろうと思っていましたところが、御陽光が宗忠様の胸いっぱいになって、それより朝日に霜の消えるが如く、さしもの難病がことごとく御平癒になりました」
「ははあ」
「久米の南条の赤木忠春様は、二十二歳の時に両眼の明を失いましたけれど、宗忠様の御陽光を受けてそれが癒りましたよ」
「ははあ」
「御陽光に背(そむ)いてのびる人間はなし、御陽光を受けて癒らぬ病人というのはございません……まあ、一度、この乗鞍ヶ岳へお登りなさいませ、そうして、朝日権現の御前に立って、蕩々(とうとう)とのぼる朝日の御陽光を拝んで御覧あそばせ、それはそれは、美麗とも、荘厳(そうごん)とも……」
と言いかけて、美麗荘厳はこの人に向って、よけいなことだと気がつきました。

         三十一

 宿では、お雪ちゃんが炬燵(こたつ)に入って人形に衣裳しているところへ、竜之助がフラリと帰って来ました。
「あ、先生、お帰りなさいまし」
 衣裳人形を片手にして、お雪は帰って来た竜之助を見上げると、竜之助は刀を床の間へ置いて、静かにお雪ちゃんと向い合わせの炬燵に手を入れました。
 お雪はにっこりと笑って、
「お迎えに上ろうと思いましたが、たぶん鐙小屋(あぶみごや)だろうと思ってやめました」
「そうでしたか、わたしも、お雪ちゃんを誘って行こうと思ったが、歌に御熱心のようだから、一人で出かけましたよ」
「ええ、ずいぶん、あの先生偉い先生よ、お歌の方の学問では京都でも指折りの先生ですって……」
「それはいい先生が見つかって仕合せだ」
「全く仕合せよ、あなたには武術の護身の手というのを教えていただくし、あの池田先生には歌を教えていただくし……」
 お雪は心から、自分の今の身の上の幸福を感じているらしい。そうして、今ちょっと手を休めた衣裳人形の着物の襟(えり)を合わせはじめると、竜之助が、
「お雪ちゃん、どうだ、乗鞍ヶ岳へのぼってみようではないか」
「え、お山登りですか、結構ですね。ですけれども……」
 お雪は人形の手を袖へ通して、
「けれども今はいけませんね、せめて春先にでもなってからでしょう」
「ところがいま登ってみたいのだ」
「この雪の深いのに……」
「左様……あの鐙小屋の神主が案内をしてくれるといいました」
「あの神主様が案内をして下さる? それだって、先生、今は行けやしませんよ」
「どうして?」
「どうしてとおっしゃったって……ここには雪はありませんが、外へ出てごらんなさい、山はみんな真白ですよ、吹雪でもあったらどうします」
「それでも、あの神主は、昨晩室堂(むろどう)へ泊って易々(やすやす)と帰って来た」
「そりゃ、仙人と並みの人とはちがいますよ、山で修行している人と、たまにお客に来た人とはちがいますもの」
「だから、その山で修行した人が先達(せんだつ)をしてくれればいいわけではないか」
「そりゃそうかも知れませんが……わたしは女ですもの。それに先生……」
と言ってお雪は人形の衣裳の前を合わせ、
「あなたは、いったい、山登りをしてどうなさるの、いい景色をごらんになるわけではなし、朝の御来光を拝みなさるわけではなし……それこそ、骨折り損じゃありませんか。それよりは、おとなしく、炬燵(こたつ)に入って休んでおいでなさい、わたしが面白い本を読んでお聞かせしますから……」
 お雪は慰め顔に言いましたが、竜之助が何とも返事をしませんから、なんだか気の毒になって、
「ねえ、先生、わたしが今、何をしているか御存じ?」
「知りません」
「それでも当ててごらんなさい」
「歌を作っているのでしょう」
「いいえ」
「それではお裁縫(しごと)?」
「いいえ」
「わからない」
「あのね……お人形さんに着物を拵(こしら)えて上げているところなのよ、さっき、梅の間の戸棚をあけて見ますと、この衣裳人形がありましたから、有合わせの切れを集めて、こんなに拵えました」
 竜之助は、それを聞いて驚いてしまいました。この娘は自分の周囲に、今、どんな人間がいて、その立場がどうであるかということはいっこう念頭になく、深山の奥で、近づく限りの人を友とし、知り得る限りのことを学び、愛すべきものを愛し、弄(もてあそ)ぶべきものを弄ぼうとして、恐るることを知らない。

 この間、池田良斎は、お雪ちゃんの持って来た万葉集を見てこういいました。
「ああ、これは寛永二十年の活字本で珍しいものだ、今日の万葉集はすべてこれを底本(ていほん)にしているが、普通には千蔭(ちかげ)の略解本(りゃくげぼん)が用いられている、よほど好書家でないとこれを持っていない」
 そうして、北原賢次とお雪ちゃんのために、日本の活字の来歴を一通り話したことでありました。同時に、活字本と、普通の木版本の相違をも、よく説明して聞かせたことでありました。
 活字は、すべて一字一字ずつとりはずしのできるもの。普通の木版は、一面に文章そのままを平彫(ひらぼり)にしてしまうもの。良斎の説によると、日本の活字の最初は、平安朝以前にあったが、最も盛んなのは徳川家康の前後ということ。また近代西洋式の流し込みの活字を創造したのは長崎の人、本木昌造ということになっているが、実は播磨(はりま)の人、大鳥圭介(けいすけ)がそれより以前に実行している……というようなことまで知っているところを見ると、この人は国学のみならず、現代の知識にもなかなか明るい人と見える。
 その翌日から万葉集の講義が始まりましたが、その講義は良斎らの座敷を選ばず、名物の炬燵(こたつ)を仲介することもなく、この炉辺をそのまま充(あ)てることになりました。
 一冊の万葉集を真中に置いて、炉の一方には良斎先生が陣取り、それと相対して北原賢次とお雪ちゃん――陪聴(ばいちょう)の役として留守番の喜平次も顔を出せば、お雪ちゃんの連れの久助さんも並んでいる。
 池田良斎は、燃えさしの粗朶(そだ)の細いところを程よく切って、それをやや遠くの方から万葉集の字面に走らせ、
こもよ
みこもち
ふぐしもよ
みふぐしもち
この岡に
菜(な)摘(つ)ます児(こ)
家きかな
名のらさね
そらみつ
やまとの国は
おしなべて
吾こそをれ
しきなべて
吾こそませ
われこそはのらめ
家をも名をも
 一通り訓(よみ)をして、それからいちいち字義の解釈を下して、全体の説明にうつりました。
「この歌は、雄略天皇様が、あるところの岡のあたりで、若菜を摘んでいる愛らしい乙女を呼びかけておよみになった歌で、これ、そこに籠(かご)を持ちくしを持って菜を摘んでいる愛らしい乙女よ、お前の家はどこじゃ、聞きたいものじゃ、名乗れ、自分はこの国を支配する天皇であるぞよ……というお言葉、いかにも上代の平和にして素朴な光景、一国の元首が、名もなき乙女に呼びかけ給う壮大にして、優美な情調が一首の上に躍動している。すべて万葉の歌は……」
と講義半ばのところへ、大戸を押し開いて、あわただしく駆け込んだものがありましたから、講義が一時中止になりました。
「惜しいことをした、ホンのもう一息のところで……」
と言って、講義半ばの空気を壊したことをも頓着せず、炉辺へしがみつくようにやって来て、
「熊を一つ取逃がしてしまった、突くにはうまく突いたが、槍がよれたから外(そ)れちまった、危ねえところ――」
 猟師は手首の負傷を撫でて、すんでのことに熊の口から助かって、命からがら逃げて来た記念を見せる。鉄砲を持たないこの辺の猟師は、熊を見つけると充分に引寄せて、のしかかって来る奴を下から槍で胸か腹を突く、突っ込んだ瞬間に逃げる――そのあとで熊は突かれた槍を敵と思い込んで、抜くという知恵がなく、かえって自分で抉(えぐ)って、自分で死ぬという。
 熊の襲来で、万葉集の講義が一段落となりました。
 そうしてこの猟師の報告によって、件(くだん)の熊の運命について、おのおのその見るところを語りはじめました。ある者は、熊というものは到底、刺された槍を抜き取るだけの知恵のあるものではない。浅かれ、深かれ、槍を立てた以上は、自分で抉って、自分で傷を深くするだけの器量しかないのだから、これは当然どこかに倒れているに相違ないと言う。
 ある者はまた、それも程度問題で、突き方が非常に浅ければ振りもぎってしまうし、木の根や岩角に当って、おのずから抜け去ることもあるのだから、無事に逃げ去ってしまったろうという。
 どっちにしても、もう少しその運命を見届けて来なかった猟師に落度がある――という結論になって、猟師が苦笑いする。
 池田良斎はそれを聞いて、
「とにかく、熊の下腹まで行って槍を突き上げるとは非常な冒険だ、へたに運命を見届けているより、獲物(えもの)は外(そ)れても、逃げて帰ったのが何よりだ」
と言いましたけれども、猟師は、なかなか諦(あきら)めきれないらしい。
 宿の留守居連中も集まって来て、諦められない猟師を、いっそう諦められないものにする――というのは、熊一頭を得れば一冬は楽に過せる、山に住む人の余得として、これより大きいのはない、それを取外(とりはず)した猟師のために、やれやれ気の毒なことをしたと悔みを言うものですから、猟師がいよいよ諦めきれなくなりました。
「ちぇッ、もしかすると、そこいらに斃(たお)れていやがるか知れねえ、もう一ぺん出直してみよう」
 この連中にとっては、自分たちの生命の危険よりは、熊一頭が惜しいように見える。猟師は、そこでふたたび錆槍(さびやり)をかつぎ出しました。こうなると力をつけた連中も気を揃えて、それに加勢をすることになると、最初には、たしなめた池田良斎すらが、この機会にその熊狩見物を面白いことにして、同行をすることになると、万葉集の講演が、そのままお雪ちゃんだけを残して、熊狩隊に変ってしまいました。
 そこで宿に秘蔵の、鉄砲一挺も持ち出されることになる。この鉄砲とても、いつぞや、塩尻峠のいのじヶ原で持ち出された業物(わざもの)と、弟(てい)たり難く、兄(けい)たり難い代物(しろもの)ですが、それを持ち出した留守居の源五の腕だけは、あの時の一軒屋の亭主よりも上らしい。
 こうして鉄砲が一挺に槍が二本、同勢六人で押し出した熊狩隊は、行く行く熊の話で持切りです。
 熊は必ず一頭では歩かない、親の行くところには必ず子が従うということ。熊の掌(てのひら)の肉がばかに美味(うま)いということ。熊の胆(い)の相場。熊は山を歩くにも、猪や、鹿のように、どこでもかまわぬという歩き方をしない、だから、ここを追えばここへ出るという待ち場所はちゃんときまっている――というようなことを話し合う。
 池田良斎はそれを聞いて、商売商売だと思う。よく朝鮮征伐の物語で、勇士が虎に接近した昔話を読むが、この辺の猟師もそれに負けないことをやる。そうしてかれらは、それを冒険だとも、手柄(てがら)だとも思っていない。かえってその冒険よりも、熊一頭の所得を偉大なものだと信じていることを不思議がる。
 暫く進んで、ようやく山深く分け入った時、
「ソラアいた、いた――ソレ、あすこで動いてるのを見ろやい」
 一人が叫び出すと、すべての眼の色が緊張する。
「一発ブッくらわしてみろ」
 そこに獲物(えもの)の影を認めて、早くも追出しの鉄砲を一発打つと、意外にも向う遥かに人の声、
「人間だよ、人間が一人いるから、気をつけておくんなさいよ」

         三十二

 そこで、熊狩りの一隊が呆(あき)れました。
 彼等が呆れているところへ、お椀帽子(わんぼうし)を冠(かぶ)って、被布(ひふ)を着た旅の男が一人、のこのこと歩いてくるのは、「人間ですよ」と自ら保証した通り、人間が一人、抜からぬ顔をして現われて来ました。
「一体、どうしたんです、旅のお客さん、今時分こんなところを、どこから来てどこに行くのです……危ないこった」
と熊狩りが狩り出したその人間を取巻いて、詰問の体(てい)。
「わしどもは、旅の俳諧師(はいかいし)でございましてね、このたび、信州の柏原(かしわばら)の一茶宗匠(いっさそうしょう)の発祥地を尋ねましてからに、これから飛騨(ひだ)の国へ出で、美濃(みの)から近江(おうみ)と、こういう順で参らばやと存じて、この山越えを致しましたものでございますが……ふと絵図面を見まして、これよりわずかのところに白骨温泉のあることを承知致しましてからに、道をまげて、これよりひとつ、その白骨の温泉に温(ぬく)もって参らばやとやって参りました」
「それは、それは」
 熊狩りの一行は、この俳諧師の出現に機先を折られた様子。
 ともかく、この俳諧師一人をノコノコと平気で歩かせてよこした方の道には、とうてい熊はいないと鑑定しなければならぬ。
 そこで熊狩りの一隊は、陣形と策戦の方針を一変しなければならぬ。
 獲物中心の連中が、ガヤガヤとその陣形と策戦の方針を語り罵(ののし)りながら、方向転換をやっている時、見学の池田良斎は、やや離れて後からくっついて、新たに出現した俳諧師を生捕ってしまいました。
「あなた、俳諧をおやりなさるのですか」
「へ、へ、へ、少しばかり……」
 年の頃は、まだ三十幾つだろうが、その俳諧師らしい風采(ふうさい)が、年よりは老(ふ)けて見せた上に、言語挙動のすべてを一種の飄逸(ひょういつ)なものにして見せる。
「信州の柏原の一茶の旧蹟を尋ねて、只今その帰り道なのでございます」
「ははあ、なるほど、一茶はなかなか偉物(えらぶつ)ですね」
「え」
といって俳諧師は眼を円くし、
「失礼ながら、あなたにも一茶の偉さがおわかりですか」
「それは、わたしにも、いいものはいい、悪いものは悪いとうつりますよ」
 池田良斎が答えると、俳諧師は驟雨(にわかあめ)にでも逢ったように身顫(みぶる)いをして、
「では一茶の句集でもごらんになったことがございますか」

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