大菩薩峠
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:中里介山 

 例の南条力が牛耳(ぎゅうじ)を取っていて、このごろ暫く姿を見せなかった五十嵐甲子雄も、その側(わき)に控えています。
「さて、諸君」
 南条が議長の役を承って、
「ここに一つ、諸君の志願を募りたいことがある、それは勿体(もったい)ないような仕事で、その実さまで勿体ないことではなく、子供だましのような仕事で、実は相当の危険がある、やってみることは雑作がなくて、やり了(おお)せた後に祟(たた)りが来ないとは言えない、金銭に積ってはいくらでもないが、ある方面の神経を焦(じら)すにはくっきょうな利目(ききめ)のある仕事だ」
「そりゃいったい何だ」
「実はこういうわけなのだ、上野山内の東照宮へ忍び込んで……じゃない、闖入(ちんにゅう)してだ、神前の幣束(へいそく)を奪って来るのだ、幣束に限ったことはない、東照権現の前にある有難そうなものを、すべてひっくり返して来るのだ、それを、こっそりやってはいけない、面白そうにやって来るのだ、東照権現が有難いものには有難いが、有難くないものにはこの通りだというところを見せて来ればいいのだ、そのお印(しるし)に幣束を持ち帰って来るのだ。事は児戯に類するが、その及ぼすところに魂胆(こんたん)がある」
 南条はこう言いました。何のことかと思えば、徳川幕府の本尊様である東照権現の神前に無礼を加え来(きた)れという注文であります。なるほど、一派の志士には以前から、こういうことをやりたがっている人がありました。頼山陽の息子さんの頼三樹三郎(らいみきさぶろう)なんぞという人も、たしか東照宮の燈籠が憎かったと見えて、それを刀で斬りつけて、ついに捉(つか)まって自分の首を斬られるような羽目になりました。ここでもまた、東照宮の神前の幣束が目の敵(かたき)になってきたようです。なるほど、燈籠や幣束を苛(いじ)めたところで仕方がない、児戯に類する仕事であるが、それをやらせようという者には、相当の魂胆がなければなりません。
 果して、それは面白いからやろうという者が続出しました。
 全体が悉(ことごと)く志願者ですから、指名をすれば不平が出る、よろしい、主人役を除いてその余の同勢が悉く、明夕(みょうせき)押出そうということにきまって会が終りました。宇津木兵馬が帰って来たのは、その散会の後のことであります。
 果してその翌日、上野の東照宮に思いがけない乱暴人が闖入(ちんにゅう)しました。
 内陣の正面、東照公の木像を納めた扉の前に立っている、三本の金の御幣(ごへい)を担ぎ出したものがあります。事のついでに左右の白幣も、拝殿に立てた幣(ぬさ)も引っこ抜いて担ぎ出しました。お石(いし)の間(ま)で散々(さんざん)にお神酒(みき)をいただいて行った形跡もあります。矢大臣の髯を掻きむしって行ったのもこの輩(やから)の仕業と覚しい。獅子頭(ししがしら)もかぶってみたが被りきれないと見えて、投げ出して行ったものと覚しい。
 階段の左右にかけた釣燈籠も外して行きました。それと聞いて寒松院の別当が僧侶や侍をつれて駈けつけた時分には、件(くだん)の乱暴者の影も形も見えません。
 話によると、十数名の浪人体(てい)の者が怖ろしい勢いで闖入して来て、居り合わせたものの支うる遑(いとま)もなく、瞬く間にこの乱暴を仕了(しおお)せて、鬨(とき)の声を揚げて引上げてしまったとのことであります。
 腕に覚えのある者を択んで、そのあとを追わせたけれど、乱暴人の行方(ゆくえ)はいっこう知れないとのことであります。
 ところが実際は、その乱暴人が大手を振って御成街道(おなりかいどう)を引上げるのを見た者があるということであります。東照宮の御前にあった三本の金の御幣を真中に押立て、これ見よがしに大道の真中を練って歩いて、まだ五軒町までは行くまいと沙汰(さた)をしているものもありました。
 けれどもまた、それは嘘だ、あいつらは風を食(くら)って、もう逃げ去ってしまった、もう一足早かりせば、といって地団駄を踏むものもありました。
「追っかけて行ったけれども、あの勢いに怖れをなして逃げて来たのだ」
と悪口を言うものもある。
 なるほど彼等は、三本の金の御幣を真中に押立てて、大江戸の真中を大手を振って歩いている。
「下にいろ、下にいろ、東照権現様の出開帳(でかいちょう)だ、お開帳が拝みたければ、芝の三田の薩州屋敷へ来るがよい、我々は薩州屋敷に住居致すもので、今日、上野まで東照宮の出開帳をお迎えに参ったものだ、滅多なことを致すと神様の祟(たた)りが怖いぞよ」
 こう言って通行の人々を威嚇(いかく)しながら歩いています。通行の人たちは慄え上って道を避けて通しました。何も知らない老人夫婦は、本当に権現様が薩摩屋敷までお出開帳をなさるのかと思って、路傍に伏し拝む者もありました。
 そうすると一行の連中のうちから、わざと物々しげに拝殿から持ち出した細い紙の幣(ぬさ)で、その善男善女の頭を撫でてやり、
「神妙、神妙、一心に帰命頂礼(きみょうちょうらい)すれば、後生往生(ごしょうおうじょう)うたがいあるべからず」
というようなことを言って、よけいに善男善女を有難がらせたりするものもありました。
「なお御信心がお望みならば、三田の薩州屋敷まで出向いて来るがよい、三田の薩州屋敷」
 しかつめらしく、そんなことを言って二言目には薩州屋敷を引出すのであります。まこと、薩州屋敷のものならば、たとえ何かの恨み、或いは企らみあって、こんなことをやらせたり、やったりしてからが、表向きに薩州の名前を出すようなことはなかりそうなものであるのに、好んで薩州を振廻すところを見れば、薩摩の勢力を看板にする、実は無宿浮浪の徒でもあろうかと思われるにも拘らず、その途中、この冒涜(ぼうとく)極まる浮浪者を取締る機関が届かないのは、よそに見ていても歯痒(はがゆ)いようです。もしや市中取締りの酒井左衛門尉(さえもんのじょう)の手に属する者にでもでっくわそうものならば、血の雨が降るだろうと、町々の者はヒヤヒヤしているけれど、酒井の手の者も、ついにここまで行き渡らないで、この乱暴者の一隊は金の御幣を守護して、とうとう三田の薩州屋敷へ乗込んでしまいました。

         四

 下総国小金(しもうさのくにこがね)ケ原(はら)では、このごろ妙なことが流行(はや)りました。
 月の出る時分になると、一人の子供が、一月寺(いちげつじ)の門内から一人の坊さんを乗せた一頭の馬を曳(ひ)き出すと、
やれ見ろ、それ見ろ
筑波(つくば)見ろ
筑波の山から鬼が出た
鬼じゃあるまい白犬だ
一匹吠えれば皆吠える
ワンワン、ワンワン
というこの地方の俗謡の節を、馬を曳き出した子供が面白く口笛で吹き立てると、小金の宿の者共が、我を争うて彼等の廻りを取巻きます。
 この寺から馬を曳き出して、口笛を吹いているのは、両国の見世物にいた清澄の茂太郎で、その馬にのせられている坊さんというのは、お喋(しゃべ)り坊主の弁信であります。
 彼等はここを立ち出でて、どこへ行こうというのではない、毎晩、夕方になるとこうして馬を引っぱり出して、広い原の方へと出かけます。
 茂太郎に言わせれば、馬に水をつかわせ、不自由な弁信には、散歩の機会を与えるためかも知れないが、土地の人は、それを待ち兼ねた見世物でもあるように、駈け出して集まるのが毎晩のことです。集まったもののうちの子供たちは、地面を叩きながら茂太郎の口笛に合わせて、
やれ見ろ、それ見ろ
筑波見ろ
筑波の山から鬼が出た
と歌い出すものだから、娘たちや若い衆が面白くなって、それにあわして、
鬼じゃあるまい白犬だ
一匹吠えれば皆吠える
 興に乗って年寄までが、それに合唱して歌い出すと、おのずから足拍子が面白くなり、馬の前後に集まって、盆踊りの身ぶりで踊りながら町から原へと練り出します。
もしもし
あなたは誰ですか
わたしは盲(めくら)でござります
だれを探しに来たのです
秋ちゃんを探しに来たのです
三べん廻っておいでなさい
おいでなさい、おいでなさい
 この踊りが噂(うわさ)に広がって、北は相馬、南は葛飾(かつしか)、東は佐倉の方面から、小金の町へ人が集まって来ます。
 噂を聞いて、踊りを見物せんがために来た者が、知らず知らず興に乗って、自らが踊りの人とならないのはありません。その伝染性の速かなことは、電波のようであります。
 一よさ、踊りの味を占めたものは、その翌日の暮るるを待ち兼ねて集まらないということはありません。二里、三里、四里までは物の数ではありません。五里、七里、八里も遠しとせずして来り踊る若い者があります。これは必ずしも、清澄の茂太郎が吹く口笛一つに引寄せられるのではありますまい。多くの人は、人の集まるところが好きです。ことに若い男は、若い女の集まるところを好みます。若い女とてもまた、若い男の踊るのを見ていやがるということはありません。
 多数の人が、興に乗じて集まる時には、老いたるもまた、若きに化せられて、そこには一種の異った心理状態が現われると見えます。
 小金ケ原に集まるほどの者は、みな踊りの人となりました。踊りを知らないものも動かされて、夢中に踊りの人となりました。
 踊らないのはただ馬上のお喋り坊主と、音頭(おんど)を取る清澄の茂太郎だけであります。
「茂ちゃん、これはいったい、どうなるのでしょうね」
 興に乗ずると我を忘れて、家を明けっ放しにして夜もすがら踊り抜こうという連中が、若い者や子供ばかりではありません。町の全体に、ほとんど幾人というほどしか留守番がいないで、声の美(よ)いものは声を自慢に、踊りのうまいものは身ぶりを自慢に、茂太郎の馬の廻りは、忽(たちま)ちの間に何百人という人の輪を作ります。
 その相歌(あいうた)う声は、さしもに広い小金ケ原の隅々に響いて、空にさやけき月の宮居にまでも届こうという有様です。しかしながら、その何百人が声を合わせて歌う声は、いつも茂太郎が口笛一つに支配されている。彼等の声がいかに高くなり、いかに雑多になろうとも、馬を曳いて真中に立つ茂太郎の口笛だけは高々として、すべての声と動揺との中に聳(そび)えています。その口笛によって音頭があり、音頭があって初めて身ぶりがあるのでした。
 単にそれは人間のみではなく、家々に養っている犬という犬がまたこの騒ぎに共鳴して、争って表へ出でて、踊りと踊りの間を面白く狂い廻り、トヤに就いている鶏は、しきりに羽ばたきをして、飛んで下りたがる。いよいよ広いところへ練り出して、馬をとどめて立つと、その周囲を輪になって、人という人が夢中になって踊り狂うのは、冷やかに見ていると、物につかれたとしか思われない振舞です。
 こう騒ぎが高くなっては、馬上に置かれたお喋り坊主の弁信も、そのお喋りを切り出す隙がありません。空しく馬に乗せられて、見えない目で、群集の騒ぎを聞いているだけであります。
 馬上の弁信は、その周囲に耳を聾(ろう)するばかりの踊りの歌と、足拍子を聞きながら、馬の手綱を引っぱっている茂太郎に、馬上から問いかけました。
 その時、茂太郎は、もう口笛をやめておりました。最初は、いつも茂太郎の口笛から音頭が始まるのだが、こう酣(たけな)わになってしまうと、茂太郎は頃を見計らって、口笛をやめて、足踏みだけをして、群集をながめているのです。
「弁信さん、どうなるんだか、わたしにもわからないのよ、最初のうちは、わたしの口笛でみんなが集まったけれど、今となっては、わたしがみんなの踊りに引摺られているようなんだもの。もし、わたしが口笛を吹かなかったり、音頭を取らなかったりすれば、きっとみんなの人が、わたしを殺してしまうだろうと思ってよ」
 茂太郎は足拍子を止めないで、弁信を見上げました。
「毎晩毎晩、倍ぐらいずつ人が殖(ふ)えてきますね、一昨夜の晩五百人あったものなら、昨晩は千人になっていました、明日の晩は三千人の人が集まるかも知れません。小金ケ原は広いから幾ら人が集まってもかまわないけれど、留守居をしている者から、きっと苦情が出ますよ、娘を持っている母親や、息子を踊らせておく父親や、留守を預かっている年寄たちが、長く黙ってはいませんよ、いつかこの踊りを差しとめに来るにきまっている。けれどもお気の毒ながらこうなっては、それらの人の力で差しとめることはできませんね、音頭を取る茂ちゃん、踊り出さないわたしでさえも手がつけられないのに、留守をしている人たちに、どうしてこの踊り狂う人たちの血気を抑えることができましょう。そうなると、きっとお上(かみ)のお声がかりということになるにきまっている、お役人が出向いて来て力ずくで差しとめるということにきまっているよ。その時にお役人から、この踊りの音頭取りとして、茂ちゃんとわたしが捉まったらどうしよう。別にわたしたちが悪いことをしたというわけではないが、わたしたちが音頭を取りさえしなければ、この踊りは鎮(しず)まるという心持で、二人を捉まえ、牢の中へ連れて行かれたらどうしましょう。茂ちゃん、今のうちに何とか考えてお置き、わたしは、それが心配になるのよ」
 弁信は茂太郎と共に相警(あいいまし)める心でこう言いました。
 二人が相警めているにかかわらず、一方にはこの盛んなる人気を利用せんとする者が現われました。誰がしたものか踊っている間へ、八幡様や水天宮のお札をおびただしく撒(ま)き散らしたものがあります。人は天からお札が降ったものと思いました。
 また一方には、こういって言い触らす者もあります。
「世は末になった、近いうちに世界の立直しがある、踊るなら今のうち」
 このふれごとは、短いながら、人の眼前の快楽を嗾(そそ)るにはかなりの力を持っていました。
 当時、人の心はどこへ行ってもさまで穏かだというわけにはゆきません。先覚の人は国家の急を見て奔走しているが、なんにも知らぬ市井(しせい)村落の人たちとても、どこぞ心の底に不安が宿っていないということはありません。近いうちに世間に大変動が起るだろうという暗示は、女子供の心にまで映っていないということはありません。
「踊るなら今のうち」――そこで世の終りがなんとなく近づいて、人が前路(ぜんろ)の短い慾望を貪(むさぼ)り取ろうとする形勢が見え出します。
 小金ケ原のこの踊りが、ついに江戸にまで伝わるに至り、その盛んなる噂を聞いて、江戸から見物に出かける者があります。見物に行った者は必ずその仲間に加わって踊り出さねば止まないことです。
 今は、この踊りの場でうたう歌が、やれ見ろ、それ見ろ、筑波見ろ、というこの地方の民謡だけではありません。相馬流山(そうまながれやま)の節を持ち込むものもあります。潮来出島(いたこでじま)を改作する者もあります。ついに「えいじゃないか」を歌い出すものがあって、その踊りぶりも得手勝手の千差万別なものとなりました。
 その翌日は、お札の降ったところの原の真中に、白木造りの仮宮(かりみや)が出来ました。その晩には仮宮の前へ、誰がするともなく、おびただしい鏡餅の供え物です。紙に包んだ金何疋のお初穂(はつほ)が山のように積まれました。
 多分、江戸から来た物好きがしたことでしょう。白の襦袢(じゅばん)に白の鉢巻の揃いで繰り込んで来た一隊が、鐘や太鼓で盛んに「えいじゃないか」を踊ります。
「一杯飲んでも、えいじゃないか、えいじゃないか」
 神前のお神酒(みき)をかかえ出して、自らも飲み、人にもすすめながら踊りました。
 小金ケ原の真中へ町が立ちます。物を売る店が軒を並べました。
 毎夜、一旦、ここへ集まって踊りの音頭を揃えた連中が、散々(さんざん)に踊り抜いて、おのおのその土地土地へ踊りながら帰る。水戸様街道を東へ踊り行くもの、松戸から千住をかけて江戸方面へ流れ込むもの、北は筑波根へ向って急ぐ者、南は千葉佐倉をめざして崩れて行くもの、それに沿道に残されたものが参加して踊って行くから、大河の流れのように末へ行くほど流れが太くなるのはあたりまえです。
 その中心地、小金ケ原へ一夜のうちに出来た仮宮の宮柱も、みるみる太くなりました。いつ任命されたものか、もうそこに一癖ありげな神主が、烏帽子直垂(えぼしひたたれ)で納まっております。
 なるほど、この神主は一癖も二癖もありげで、ただ宮居の中に納まっているのみでなく、笏(しゃく)を振って手下の者を差図し、奉納の鏡餅は鏡餅、お賽銭はお賽銭で恭(うやうや)しげに処分をさせる。お供え餅は俵へ詰め、お賽銭は叺(かます)へ入れてどこかへ送らせてしまう。
 それからまたこの神主は、清澄の茂太郎と、盲法師の弁信の御機嫌を取ることが気味の悪いほどであります。仮宮は何の神様であるか知らないが、その御本体を大切にするよりは、茂太郎と弁信の御機嫌を取ることが大事であるらしい。
 憐れむべき二人の少年は、今はこの神主が怖ろしいものになりました。
 茂太郎と弁信は、このところを逃げ出そうとします。逃げ出さなければ、もう命が堪らないと思いました。
 けれども、こうなってみると彼等二人は、盲目な群集を利用せんとする連中のためになくてならぬ偶像です。逃げようとしても逃がすまい。強(し)いて出ようとすれば、ここに留まっているよりも危ない。額を突き合せて二人が相談をしたけれども、何を言うにも弁信は盲目であり、茂太郎は子供である。
「では、与次郎に相談してみましょうか」
「ああ、与次郎に相談してみましょうよ」
 二人は与次郎に向ってその苦しい立場を説明して、よい知恵を借りたいということを哀願すると、暫く眼をつぶって思案していた与次郎が……待って下さい、この与次郎というのは、一月寺(いちげつじ)の食堂に留守番をしている七十を越えた老爺(おやじ)のことであります。一月寺の貫主(かんす)は年のうち大抵、江戸の出張所に住んでいる。院代(いんだい)がいるにはいるが、これはほとんど寺のことには無頓着で、短笛(たんてき)を弄(ろう)して遊んでいる。与次郎が寺のことはいちばんよく知っていて、いちばんよく働くから、貫主も一目も二目も置くことがあります。与次郎老人が一月寺の実際上の執事(しつじ)でありました。その与次郎が、弁信と茂太郎に相談をかけられて、暫く眼をつぶって首を捻(ひね)っていたが、やがて、ずかずかと立って戸棚の中から引出して来たのが、竹の網代(あじろ)の笈(おい)であります。
「我、汝が為めに箇(こ)の直綴(じきとつ)を做得了(つくりおわ)れり」
 与次郎老人が味(あじ)なことを言い出しました。弁信はその声を聞いたけれども、その物を見ることができません。茂太郎はその物を見ているけれども、その言葉を悟ることができません。そこで老人は破顔一笑して、諄々(くどくど)と直綴の説明をはじめたようです。
 どんなことに納得(なっとく)させたものか、その日の夕方には、例によって馬に跨(またが)った弁信が、一月寺の門前に現われました。現われたには現われたが、今日はその現われ方がいつものとは違います。いつも前に立って馬を引張って口笛を吹くべきはずの茂太郎が見えないで、その代りでもあるまいが、馬上の弁信法師は、身なりに応じない大きな笈(おい)を背負って、自ら手綱を取っています。それに今までは裸馬であったが、今日は質素ながらも鞍(くら)を置いて手綱をかませています。ただ、弁信の背中に背負っている笈が、いかにも大きいのに、弁信そのものが小兵(こひょう)の法師ですから、弁信が笈を負うのではなく、笈が弁信を背負って馬に乗っているように見えます。
 それと見て集まった人々は、今日の馬上の有様の変ったのに驚き、また前にいるべきはずの茂太郎のいないことを怪しみもしました。それにも拘らず、盲法師の弁信は自ら手綱をかいくって、徐々(しずしず)と馬を進めながら、今日は馬上で得意のお喋りをはじめます。
「皆さん、老少不定(ろうしょうふじょう)と申して、悲しいことでございます、長らく皆様の御贔屓(ごひいき)になっておりました茂太郎が死にました……お驚きなさるのも御尤(ごもっと)もでございます、皆様がお驚きなさるより先に、私が驚きました、無常の風は朝(あした)にも吹き夕(ゆうべ)にも吹くとは申しながら、なんとこれはあんまり情けないことではござりませぬか、昨日までは皆様と一緒に、ああして歌をうたい、踊りを見ておりました茂太郎が、僅か一日病んで、眠るが如くこの世の息を引取りましたと申しますのは、ほんとに私ながら夢のようでございます、これと申しても、みな前世の因縁ずくでございますから、誰を怨(うら)み、何を悲しもうようもございませぬ、それで、私は友達の誼(よし)みに、せめてあの子の後生追善(ごしょうついぜん)を営みたいと思いまして、今夕(こんせき)こうやって出て参りました、私の背中をごらん下さいまし、この大きな笈の中に、この世の息を引取った清澄の茂太郎が、眠るが如くに往生を致しておりますのでございます、私は、これを持って江戸の菩提寺(ぼだいじ)へ安らかに葬ってやりたいと思いまして、そうしてこうやって出かけたのでございます」

         五

 小金ケ原の珍(ちん)な現象が、江戸の市中までも評判になると、そこに謡言(ようげん)がある。曰(いわ)く、近いうちに江戸の町という町が火になる、その時は江戸の町民は悉(ことごと)く住むところを失うて、一時、小金ケ原へ仮りの都を作らねばならぬ。その時に最も幸福に救われたいものは、今のうち小金ケ原の新しい神様を信心しておくがよろしいと、それはずいぶんばかばかしい謡言であります。多少、心ある者は、一笑に附して顧みざるべきほどの無稽(むけい)の言葉であるにかかわらず、それを信ずるものが少なくなかったということは、今も昔も変ることがありません。踊りに行くものよりは信心に行く者が多くなって、相当の身分あり財産ある者が、続々として詰めかけるようになった時分のことであります。
 例の道庵先生が、このことを洩れ聞くと、小膝を丁と打ちました。
「さあ、また乃公(おれ)の出る幕になった」
 そこで近辺に住む子分たちに触れを廻し、馬鹿囃子(ばかばやし)の一隊を狩集め、なお有志の大連を差加えて小金ケ原へ乗込み、都鄙(とひ)の道俗をアッと言わせようとして、明日あたりはその下検分に、小金ケ原まで出張してみようか知らんと思っていたところへ、宇治山田の米友が訪ねて来ました。
「先生」
「やあ、珍物入来(ちんぶつにゅうらい)」
 さすがの道庵先生が舌を巻いて、額を逆さに撫で上げました。
「どうも暫く御無沙汰をしました」
「いやはや」
 道庵は額を逆さに撫でて米友の面(かお)を見ながら、いやはやと言ったのは、どういう意味だかよくわかりません。
「このごろは先生、おいらは目黒の方に行っていますよ」
「なるほど、お前さん、このごろは目黒の方においでなさるのかね」
「目黒の不動様のお寺に御厄介になってるんだが、先生、近いうち旅立ちをするんで、旅の用意の薬をちっとばかり貰いに来た」
「そうですか、よくおいでなさいましたね」
 道庵は忌(いや)に御丁寧な挨拶をして、米友をながめています。
「この中へひとつ詰めておもらい申したいんだ。なあに、近所に医者もあるにはありますがね、素姓(すじょう)の知れた医者の方が安心だから、それで吉坊主(きちぼうず)にことわって、わざわざ先生のところまで貰いに来ました」
と言いながら米友は、懐ろから黒塗りの四重印籠を二組取り出して、道庵の前へ並べました。
「なるほど、近所に医者もあるにはあるが、素姓の知れた医者の方が安心だから、それで吉坊主にことわって、わざわざこの長者町の道庵先生までお運び下し置かれたというわけだね。それはそれは痛み入ったことだ、有難くお請(う)けをして、早速、薬は調えて上げるが、米友、もう少し前へおいで」
 今日の道庵の猫撫声(ねこなでごえ)が大へんに気味が悪いのです。米友にとっては、女軽業(おんなかるわざ)のお角というものが苦手であるとは違った呼吸で、この道庵もまた苦手であります。道庵に頭からケシ飛ばされる時も、米友は面食(めんくら)ってしまうが、こうして猫撫声で出られる時も、気味が悪くてたまらない。もう少し前へおいでと言われて、米友が妙にハニカンでいると道庵は、
「薬のことは薬で、たしかに承知致したが、お前に少々物の言い方を教えてやるから、もう少し前へ出ておいで」
 なんでもないことですけれども、そういうことが気味が悪いから米友は、あまり道庵の家へ寄りつきません。道庵を恩人だとも思い、医術にかけてはエライところのある先生だと信じてはいながらも、米友が道庵に懐(なつ)かないのは、いつもこうして米友を苦しがらせては喜ぶといったような、人の悪いところがあるからです。
「お前、今、なんと言った、目黒から出て来たが、近所に医者もないではないが、素姓の知れたのがいいから、それでこの道庵まで尋ねて来たと、こう言ったね、お前とおれの仲だからそれでもいいけれども、ほかのお医者様の前へ行って、そんなことを言おうものなら、ハリ倒されるよ」
「そりゃどういうわけだろう」
 米友自身では、誰に向ってもハリ倒されるようなことを言った覚えはないのです。ここの先生に向って言い得べきことは、よその先生に向っても言い得ないはずはないと思いました。また、人によって言を二三にするような米友じゃあねえ、と腹の中は不平でしたが、道庵に向っては、口に出して啖呵(たんか)を切るわけにはゆきません。
「どういうわけということはなかろうじゃねえか、よく考えてみな、お前は目黒から来たと言ったろう、目黒はそれ、筍(たけのこ)の名所だろう、筍はお前、どこへ生えると思う」
「そりゃ先生、筍は竹藪(たけやぶ)の中へ生えるにきまってらあな」
「それ見ろ、つまり目黒は藪の名所だろう、その藪の中から出て来たくせに、近所に医者もあるにはあるがとは、道庵に対して随分失礼な言い分じゃねえか、いやにあてっこするじゃねえか、その位なら何も最初から、先生、わたしもこのごろ目黒におりまして、近所に藪もあるにはありますが、同じ藪でも長者町の藪の方が気心が知れて安心だから、それで、わざわざやって参りましたと、ナゼ素直に言わねえのだ、それをいやに、遠廻しに、近所に医者もあるにはあるが、わざわざ来てやったと恩に着せるように言われるのが癪だあな、おたがいにこう言った気性だから、物を言うにも歯に衣(きぬ)を着せねえようにして交際(つきあ)おうじゃねえか」
 実にくだらないこじつけです。あんまりな言いがかりです。それを真面(まとも)に受けるのが米友の米友たる所以(ゆえん)で、
「先生、そ、そんなわけで言ったわけじゃねえんだ、近所に藪があるというような、そんなあてっこすりで言ったわけじゃねえんだ、藪なんぞは、目黒でなくったっていくらもあらあな」
「なおいけねえ!」
 道庵が両手を差し上げたから、米友のあいた口が塞がりません。
 けれども藪争いはそれより以上に根が張らず、道庵はいいかげんにして米友のために、二箇の印籠へ充分に薬を詰めてやりました。そうしていったい、旅へ出かけるというのはどこへ出かけるのだと尋ねると、米友の言うことには、このごろ、下総の国の小金ケ原というところへ山師が出て、目黒の不動様のお札を撒(ま)き散らしたり、荒人神(あらひとがみ)のうつしを持ち出したりするということだから、三仏堂の役僧と、講中の重なるものとが、それを取調べのために小金ケ原へ出張することになり、その帰りには佐倉、成田の方面へ廻るということで、いま目黒の不動様に厄介になっている米友が、その附人(つきびと)の一人に選ばれたという次第です。
 それを聞くと道庵が珍重(ちんちょう)がって、ちょうど、その小金ケ原へは自分もひとつ下検分に行ってみたいと思っていたところだから、お前が行くならば一緒に行こうと、乗り気になってしまいました。
 そこで米友は薬を貰って、一旦目黒の不動院へ立帰る。発足はその翌日未明ということにきまっていて、道庵の一行は、上野の山下で不動院の一行を待ち合わせ、そこで相共に小金ケ原まで乗込もうということに相談がきまりました。
 翌朝、道庵は、いつぞや伊勢参りに連れて行った仙公というのを一人だけ引具(ひきぐ)して、山下に待ち合わせていますと、まもなく不動院の一行がやって来ました。
 この一行が千住の小塚原(こづかっぱら)に着いた時分も、朝未明(あさまだき)でありました。
 なにげなく来て見ると、千住大橋あたりからお仕置場あたりまで、押し返されないほどの人出です。
「えいじゃないか」の踊りがある。木遣(きやり)くずしのような音頭がある。一天四海の太鼓の音らしいのも聞える。思うにこの夥(おびただ)しい人数は昨夜一晩、踊って踊り抜いてまだ足りないで、ここまで練って来たものらしい。出かけた先は、やはり下総の小金ケ原でしょう。小金ケ原から踊り出して、小塚原へ来るまでに夜が明けてしまったと見える。夜が明けても彼等の踊り狂う熱は醒(さ)めない。この分では、江戸の町中を踊り抜いて、また日が暮れて夜が明けるまで、踊り抜くのかも知れません。
 不動堂の一行も、道庵先生の一行も、この人数をどうすることもできません。とても正面から行っては、この人数を押し破って通るというわけにはゆきません。さりとて、行手は千住の大橋で、川を徒渡(かちわた)りでもしない限り、裏道を通り抜けるというわけにもゆきません。やむことを得ずしてお仕置場の中へ避けて、この人数をやり過ごそうとしました。踊り狂って行く連中のほかに、この時分になると夥しい見物人です。
 あとからあとからと続く人数の真中に、馬にのせられた偶像がたった一つある。
 それは偶像ではない、たった一人の小坊主が、この人数にもあまり驚かない温良な黒馬に乗っかって、悲しそうな面(かお)をして、人波に捲かれていることです。
 その小坊主は、誰が見ても盲目(めくら)で、おまけに身体(からだ)よりも大きな笈(おい)を背負っていることがどうにも不釣合いです。この小坊主だけが、どうして馬に乗っているのだろう。馬に乗っているというよりは、見たところ、むりやりに馬へ掻(か)きのせられて、それを取捲く群集が、山車(だし)の人形のように守り立てて、山の上まで持って行こうという勢いですから、小坊主は騎虎の勢いで下りるにも下りられず、言いわけをしても、この騒ぎで聞き入れられず、ぜひなく多数に擁(よう)せられて、行くところまで行こうという気になっているもののようです。
 周囲の人々が熱しきって、気狂(きちが)いじみているにかかわらず、この小坊主だけが、泣くにも泣かれない面色(かおいろ)を遠くから見ると、ちょうど、ところが千住の小塚原であるだけに、さながら屠所(としょ)の歩みのような小坊主の気色(けしき)を見ると、いかにも物哀れで、群集の熱狂がこれから何をやり出すのだか、心配に堪えられないことどもです。
「皆さん、ここはどこでございます、もうこの辺でおろして下さいまし」
 馬上の小坊主は、泣くが如く、訴うるが如く、こう言いますと、
「ここは、まだ江戸のとっつき、千住の小塚原だよ」
と馬側(うまわき)から答える者がありました。
「ええ、小塚原ですって? あ、そんなら皆さん、ここでおろして下さいまし」
 馬上の小坊主は声を振絞(ふりしぼ)りました。
「まだまだ小石川の伝通院までは、なかなかの道のりだ、もう少し乗っておいでなさい、伝通院の御門前までは、ぜひぜひ送って上げますからね」
 馬側から、またこう言って叫ぶ者がありました。
「いいえ、もうここでよろしいのです、ここが小塚原とお聞き申してみますと、わたくしはここを乗打ちができないわけがあるんでございます。もし、もうこの辺がお仕置場でございましょう、わたくしはここで、お地蔵様へお礼をして通らなければならないわけがあるんでございます」
 小坊主は、誰がなんと言っても、ここで下りようとしました。
 やがて、その大きな笈(おい)を背負った小坊主が、馬の背から下りて、小塚原のお仕置場の高さ八尺の石の地蔵尊の前へ、ようよう這(は)いついた時に、それを見た宇治山田の米友が、
「ありゃあ、清澄から来た弁信だ」
 疲れきっているくせに重たそうな笈を背負った弁信は、ようように地蔵尊の前へのたりつくと、そのところへ平伏してしまいました。むしろ、その重い笈のために、つぶされてしまったようです。
 それを見た群集は、あわてて弁信を引起して、またも馬上へ運ぼうとしますと、弁信は力なき声をふり上げて、
「どうぞ、もうお赦(ゆる)し下さいまし、わたくしは疲れきってしまったから、もう馬に乗るのはいやでございます、どこぞへ暫く休ませて下さいまし」
 弁信は、再び馬に乗せられるのを頻(しき)りにいやがるのに、多数の者は、
「もう少しだから、辛抱なさい、お前さんが御本尊だ、御本尊が馬の上にござらないと、踊る人が張合いがない、伝通院まで送って上げるから、ぜひとも辛抱なさい」
 弁信をむりやりに馬の背へ掻き乗せようとする。それを弁信はしきりにいやがっているのです。あれほど疲れてもいるし、いやがりもするのを、なんだって多数(おおぜい)して担ぎ上げようとするのだか、それがいよいよわからないから、米友は人を掻きわけて、ずっと傍へ寄りました。米友が人を掻きわけて行くと、その傍にいた道庵も、こいつはまた変ってると思って、抜からぬ面(かお)をして米友にくっついて行きました。
「おいおい、お前は弁信さんじゃねえか」
 こう言って米友が言葉をかけると、弁信が、
「はいはい、あなたはどなたでございましたか知ら」
「俺(おい)らは米友だよ、友造だよ」
「ああ、友さんでございましたか、その後は御無沙汰を致してしまいました、お前さんもお壮健(たっしゃ)で結構でございます、わたくしもまた、あれから、お前さんと別れましてからは、下総国小金ケ原の一月寺というのへ行っておりましたが、一月寺におりますうちに、わたくしは清澄の茂太郎と一緒になりました、あなたにも一度お消息(たより)をしようと思っているうちに、つい御無沙汰になってしまいました……」
 この場合においても、お喋り坊主の弁信は、一別来の一伍一什(いちぶしじゅう)を喋り出そうとするから、米友も堪り兼ねて、
「弁信さん、御無沙汰どころじゃなかろうぜ、お前は今、弱りきって死にかけてるじゃねえか、いったい、そりゃどうしたんだい、大きなものを背負(しょ)い込んで、死にかけていながら、御無沙汰でもなかろうじゃねえか」
「ええ、その通りでございます、友造さん、わたくしはごらんの通りに弱りきっております、死にかけているんでございます、どうか助けておくんなさいまし」
「どうしたんだ、いったい、わけがわからねえや、どうして助けりゃいいんだ」
「友造さん、わたしはもう、馬に乗りたくないのでございます、わたしを助けて下さろうと思ったら、わたしを馬に乗せないようにしていただきたいのでございます、馬に乗せないで、この笈物(おいぶつ)のお守(もり)をしながら、どこかそこらで、ゆっくり休ませていただきたいんでございます、皆さんがむりやりに、わたしを馬に乗せて、踊っておいでなさろうとするが、私はもういやでございます、このうえ馬に乗せられると、私も死んでしまいます、背中の笈物も死んでしまいます、どうか、お助けなすって、私をこのうえ、馬に乗せないようにして下さいまし、お願いでございます」
 そこで米友が、いよいよわからなくなってしまいました。わからないけれど、さしあたっての急務は、この小坊主を馬に乗せないで、どこかへ静かに休息させてやればよいのだと思いました。
 そこで米友が、大勢を相手にその掛合いをしようという気になっていると、
「なるほど……」
 米友の背後(うしろ)から図抜けて大きな声を出して「なるほど!」と言って、人を驚かしたものがありました。一同がその声に吃驚(びっくり)して見ると、それは別人ならぬ道庵先生です。
「こりゃいけねえ、お前たちは、この盲目(めくら)の坊さんを人身御供(ひとみごくう)として、むりやりに馬に乗せて引張って来たんだろうが、見た通り弱りきって、疲れ果てているのを、この上馬に乗せようとするのは惨酷じゃねえか。昔、神田の祭礼の時に馬鹿な奴があって、素裸(すっぱだか)へ漆(うるし)を塗って、生きた人形になって山車(だし)へ乗っかって、曳かれる者も得意、曳く者も得意でいたところが、いいかげん引っぱってから卸して見ると、その人形が死んでいたという話があらあ。この坊さんだって、もう二三丁も馬に乗せて行こうものなら往生しちまわあ。幸い道庵が通りかかった以上は、商売の手前、見殺しにはできねえ、この小坊主は暫く道庵が預かって、療治を加えてやった上、改めてお前たちに引渡すから、お前たち、暫くの間、ここで踊って待っていろ、この小塚原の亡者(もうじゃ)どもが浮び出すほど、踊って待っていろ……ところでいったい、お前たちは無暗に踊ったり跳ねたりしているようだが、踊りのこつというものを知っているのか、それとも知らずに踊っているのか、おそらく知っちゃあいめえな。自分からこういうと口幅(くちはば)ったいようだが、日本広しといえども馬鹿囃子にかけちゃあ、当時下谷の長者町の道庵の右に出でる者があったらお目にかかる、この道庵の眼から見れば、お前たちの踊りなんぞは甘(あめ)えもので、からっきし、物になっちゃあいねえ」
 石の地蔵尊の台座の上に突立って、いつぞやの貧窮組の先達気取りで演説をはじめた道庵が、飛んでもないところへ脱線してしまいました。
 実際、馬鹿面踊(ばかめんおど)りの極意(ごくい)に達している道庵の眼から見れば、小金ケ原の場末から起り出した不統一な、雑駁(ざっぱく)な、でたらめな、この輩(やから)の連中の踊りっぷりなんぞは、見ていられないのかも知れません。そうだとすれば、道庵が思わず義憤を発して、この衆愚を啓発してやろうという気になったのも、無理のないところがあります。
「そもそも馬鹿囃子のはじまりは、伊奈半左衛門が、政略のためにやったということになっているが、道庵に言わせるとそうでねえ。ちうこうになって雲州松江の松平出羽守、常陸(ひたち)の土浦の土屋相模守、美作(みまさか)勝山の三浦志摩守といったような馬鹿殿様が力を入れて、松江流、土屋流、三浦流という三つの流儀をこしらえたが、馬鹿囃子の本音は、トテモ殿様のお道楽では出て来ねえ。つづいて旗本の次男三男のやくざ者が、深川囃子というのをこしらえると、本所に住んでいたのらくら者の御家人が負けない気になって、本所囃子というのをこしらえやがったが、やっぱり馬鹿囃子の本音は、生白(なまじろ)い旗本や御家人の腕では叩き出せねえから、まもなく元へ返ってしまった。ところで、その元というのが、旧来の鍔江流(つばえりゅう)の五囃子だが、道庵に言わせると、こいつもまだ不足がある。ところで……」
 道庵は得意になって、馬鹿囃子の気焔をあげはじめました。この場合においてお喋り坊主以上のお喋りが始まりそうだから、気の短い米友がじっとしてはおられません。
「先生、いい加減にしねえと、この坊さんが死んじまうぜ」
「あ、そうだそうだ、馬鹿囃子より人の命が大事だ、大事だ」
 道庵は、あわてて地蔵の台座の上から飛び下りて、米友と力を合わせて弁信を笈ぐるみ荷(にな)って、近いところの休み茶屋に担ぎ込みました。
 道庵が、お喋り坊主を休み茶屋の中へ連れ込んで療治を加えている間、外に立っている群集は、相変らず踊り狂っていたが、暫くして頻りに、その偶像を返されんことを要求します。
「坊さんかえしてもえいじゃないか、えいじゃないか」
 休み茶屋の周囲を取巻く事の体(てい)が、最初から穏かではありません。ところで、跳(おど)り出した道庵が、公衆の眼の前へ現われて、
「さあ、お前たち、あの小坊主にいろいろと療治を加えてみたが、少なくともなお三日間は安静におらしむべき容態である、いま動かしては命があぶない。といってお前たちも、折角ここまで引出した人形なしにはうまく踊れまい。そこは乃公(おれ)も察しているから相談ずくで、新しい人形を一つお前たちに貸してやる、これは鎌倉の右大将米友公という人形で、形は小さいが出来は丈夫に出来ている、ただいまのお喋り坊主と違って、ちっとやそっといじくったところで破損をする代物(しろもの)ではない、その代りいじくり方が悪いとムクれ出す、ムクれ出した日には、ちょっと手がつけられない、そのつもりでこの人形を伝通院まで貸してやるから、これを小坊主の代りに馬の上へ乗っけて踊れ、踊れ」
 お喋り坊主の代りに道庵が提供したのは、鎌倉の右大将米友公と言ったけれども、実は宇治山田の米友のことであります。いつのまにか道庵が米友に因果をふくめて、盲法師の身代りとなるべく納得(なっとく)せしめたと見えて、米友は甘んじて、彼等の偶像となろうとするものらしい。しかし、米友は正(しょう)のままではそこへ現われて来ませんでした。どこにあったか天狗の面をかぶって、頭へは急ごしらえの紙製の兜巾(ときん)を置き、その背中には、前に弁信が背負っていた笈を、やはり頭高(かしらだか)に背負いなして、手には短い丸い杖を持って現われたから、それを金剛杖だと思いました。そうして誰ひとり、米友だと気のつく者はありません。
「大山大聖不動明王(おおやまだいしょうふどうみょうおう)!」
 群集の中から喚(わっ)と鬨(とき)の声を揚げるものがありました。
「南無三十六童子、いけいら童子、うばきや童子、はらはら童子、らだら童子」
と相和(あいわ)するものもありました。
 要するにこの場は、変ったものでありさえすればよいのです。なんとか納まりそうな人形を提供して、馬に乗せさえすればよかったから、天狗の面が図に当りました。
「大山阿夫利山(あふりさん)大権現、大天狗小天狗、町内の若い者」
 そこで米友が馬に乗ると、彼等は以前に、しおれきった小坊主をむりやりに人形に奉って来た時よりは、一層の人気を加えて、再び踊り熱が火の手を加えて、
「大山大聖不動明王、さんげさんげ六根清浄(ろっこんしょうじょう)、さんげさんげ六根清浄」
 こうして新手(あらて)を加えた踊りの一隊は、小塚原を勢いよく繰出しました。
「鎌倉の右大将米友公の御入(おんい)り」
 声高らかに呼ぶ者があると、
「頼朝公の御入り」
とわけわからずに同ずるものもありました。これが小塚原を繰出すと、ゆくゆく箕輪(みのわ)、山谷(さんや)、金杉(かなすぎ)あたりから聞き伝えた物好き連が、面白半分に潮(うしお)の如く集まって来て踊りました。その唄と踊りの千差万別なることは名状すべくもありません。大山大聖とあがめまつるものもあれば、鎌倉の右大将だというところから鎌倉ぶしを謡うものもある、木遣(きやり)を自慢にうなるものもある、一貫三百を叩き出すものもあろうという景気は、到底人間業とは見えませんでした。
 この噂(うわさ)が程遠からぬ吉原の廓(さと)へ響くと、吉原の有志は、どう考えたものか、ぜひ道を枉(ま)げて、その一隊に吉原へ繰込んでいただきたいという交渉であります。
 ずっと伝通院まで乗込むはずであったのを、吉原遊廓の懇望(こんもう)もだし難く、大山大聖が、しばらくそこへ駕(が)を枉(ま)げることになりました。吉原では、大樽の鏡を抜いてこの一行をもてなします。お賽銭が雨の降るようです。
 ここで暫く休んで、いざ出立という時に、米友の馬側(うまわき)に二人の童子が立ちました。その一人は金伽羅童子(こんがらどうじ)、一人は制陀伽童子(せいたかどうじ)、二人ともに絵に見る通りの仮装をして、これから大聖不動の馬側に添うて、どこまでもおともを仕(つかまつ)ろうという気色です。
 宇治山田の米友が心中の大迷惑は察するに余りあることで、米友としては面白くもなんでもなく、弁信の身代りのために、しばらく犠牲となって馬上に忍び、小石川の伝通院とやらへ、ひとまず送り込まれてしまえば、それで一通りの義務は済むものと思っていたのだから、道草を食わずに早く伝通院へたどりついて、仮面(めん)を取ってしまいたいのだが、まずもって吉原の信心家へ招かれて、退引(のっぴき)のならなくなったのが小面倒の起りです。
 彼等はこの踊りの一行が、世直しの大明神の出現だとでも信じているらしい。ことに一行の本尊様に祭り上げられている馬上の偶像に向っては、正真(しょうしん)の大天狗が天降(あまくだ)ったものとでも思っているのか知らん。そのもてなし方は有難いのが半分、面白がりが半分で、やたらに崇(あが)め奉って、これから到るところ、そのお立寄りを願うことになりそうです。お立寄りを請(こ)われるたびに踊り子の連中には、相当の振舞があるにはあるが、いよいよ大迷惑なのは米友です。
 両側の家から、紙に捻(ひね)ったお賽銭を投げるのが、誰を目的(めあて)であろうはずはない、みんな米友の身体をめがけて投げられるのだから、
「痛エやい」
 米友はムキになって痛がっているところへ、馬の側に立った二人の童子は、ヒューヒューヒャラヒャラと節面白く横笛を吹きはじめました。その笛の調べが実にうまい。踊りの連中は、その笛の音でまたいい心持に踊り出しました。
 その時、一方、吉原の廓内では、思いもかけぬ天上から、ひらひらと落花の舞うが如く、幾多の紙片が落ちて来るから、或る者は欄干(てすり)から手を伸ばし、或る者は屋根へ上り、或る者はまた物干へ駆け上って、その紙片を手に取って見ると、それはいずれも、あらたかな神仏のお札であります。にわかにおしいただいて神棚へ上げるやら、お神酒(みき)を供えるやらの騒ぎとなりました。
 どうしてもこれには、何か黒幕がなければならないことです。
 それから後、かつて貧窮組が起った時と同じ伝染作用が、江戸の市中に起りました。前の時は不得要領な貧民どもが寄り集まって、お粥(かゆ)を食って食い歩いたのだが、今度は無暗に踊って踊り歩くのです。甲の町内で阿夫利山の木太刀を担ぎ出すと、乙の町内では鎮守の獅子頭を振り立てるものがあります。山伏体(てい)の男を馬に乗せて、法螺(ほら)を吹かせて押出すのもあります。貧窮組が不得要領であった如くに、この踊りの流行も不得要領です。ひとり馬に乗せられた天狗の面は、必ずしも最初の目的通り、伝通院へ送り込まれるものとは限りません。調子に乗ってここを振出しに、江戸八百八街を引き廻されることになるかも知れません。
 金伽羅童子(こんがらどうじ)、制陀伽童子(せいたかどうじ)が笛を吹いて行くと、揃いの単衣(ひとえ)を着た二十余名の若い者が、団扇(うちわ)を以て、馬上の天狗もろともに前後左右から煽(あお)ぎ立てました。
 その煽ぎ立てている揃いの若い者の中を米友が見下ろすと、あっと意外に驚く人物が交っていたから、米友はかぶった天狗の面の中から、その男を見つめました。
 米友が驚いたその揃いの若者の中の男というのは、いつぞや本所の相生町の家で、米友の槍先にかけて、追払った浪人のなかの一人です。

         六

 それとは別に、小塚原のお仕置場の前の休み茶屋に収容されたお喋(しゃべ)り坊主の弁信の枕許(まくらもと)には、道庵もいれば、清澄の茂太郎もいます。道庵のいることは不思議ではないが、茂太郎は、弁信が背負って来た笈(おい)の中から出たものです。
 疲労しきった弁信は、そこで前後も知らぬ熟睡に耽(ふけ)っているが、さて道庵の身になってみると、小金ケ原の踊りは、今やああして江戸の市中へ移って来てみると、これから小金ケ原まで視察に行くほどの必要もなく、またかえってこの江戸の市中のこれからの騒ぎを見のがすわけにゆかないから、そこで弁信、茂太郎の徒をつれて引返すことにきめました。不動院の一行は、ともかく米友は道庵に托しておいて、小金ケ原へ出かけて一応の視察を試むることになりました。
 弁信と茂太郎とを駕籠(かご)に乗せて、長者町の屋敷へ帰って来た道庵、外(はず)しておいた門札をかけ返すと間もなく、病家の迎えを受けたから早速でかけます。
 弁信は一間のうちに死んだもののようになって眠っている。茂太郎はその枕許についていながら、退屈まぎれに庭を見ると、一叢(ひとむら)の竹が密生していました。その竹を見ると茂太郎は、笛が作ってみたくて作ってみたくて堪らなくなりました。笛を作るには作りごろの竹であると思いました。
 欲しくなるとじっとしてはおられないのがこの少年の癖で、とうとう庭へ下りて、丁々(ちょうちょう)とその一本の竹を切って取り、手際よくこしらえ上げたのが一管の、一節切(ひとよぎり)に似たものです。
 それを唇に当てて、ひとり微笑(ほほえ)んで、思うままにそれを吹き鳴らして楽しもうとしたが、それではせっかく寝ている弁信を驚かすことを怖るるもののように、弁信の寝顔をながめました。
 実際よく寝ることであると思わないわけにはゆきません。自分は、あの狭い笈の中へ押込められて、馬の背に揺られ通して来たけれど、さして眠いとも思わず、またさして疲労も感じないのに、弁信さんの眠たいことと、疲れっぷりは随分ひどいと、今更のようにながめました。しかし、自分は、海へもぐっても覚えのあることで人並よりはズンと息が長いのだし、一晩二晩寝なかったところが何ともないように生れているが、世間の人がみんなそうではない。そこで、いささかでも弁信の安眠を妨げないように、自分も心置きなく、暫くでもこの笛を吹き試みて遊びたいという心から、また廊下へ出てみました。廊下へ出てみたところで、やっぱりその響きが、弁信を驚かそうという心配は同じことです。
 笛を携えて庭へ下りて、軒に立てかけた梯子(はしご)を見上げると、屋根の上高く櫓(やぐら)が組んであるのを認めました。
 物干にしては高過ぎる、と思いながら、あそこなら誰憚らず笛を吹いてみるに恰好(かっこう)だと思いました。
 この櫓というのは、道庵先生が鰡八大尽(ぼらはちだいじん)に対抗して、馬鹿囃子(ばかばやし)を興行するために特に組み上げた櫓の名残りであります。
 茂太郎が屋根の上の櫓で、誰憚らず笛を吹こうと上ってみたところが、大尽の御殿の広間に多数の人が集まっているのが、そこから手に取るように見下ろすことができます。
 見れば、それは、やはり踊っているのであります。しかも踊っているのは、いずれも綺羅(きら)びやかな人ばかりであります。
 さても踊ることの好きな国民かなと、笛を携えた茂太郎が呆(あき)れて、その広間の中をながめていました。
 小金ケ原から踊り抜いて来た連中は民衆の階級であります。彼等はのぼせ上ってところ嫌わず踊るから、ついにはふん縛られたりするようなことになる。ここの中で踊っている連中は、どんなに間違っても縛られることはないから、男と女とが抱き合ったりなんかして、盛んに踊っているのであります。
 われら笛吹けども踊らず、と昔の人は言いましたが、笛を吹かないでも、このくらい内と外とで踊れば充分だろうと思われます。茂太郎はそれを見ていると、みんな立派な人たちが、いい年をして、どうしてまた、あんなに食いついたり、抱き合ったりして、臆面(おくめん)もなく踊れるのだろうと思いました。けれども、この人たちは、かの民衆階級のするように、決して無暗に馬鹿踊りをするわけではありません。こうして出来た入場料を、みんな慈善事業に寄附しようという、非常に高尚な目的でやっているのですから、食いついたり、抱き合ったりして踊ったりしたところが、その性質がおのずから違っていることを茂太郎は知らないから、ただ笛を携えて、しきりにながめているばかりです。
 さて、ここでひとつ笛を吹いたら、たしかにあの人たちを驚かすことはできると思いました。人を驚かすために吹きに来たのではなく、人を避けんがために吹きに来たのだけれども、こうなってみると茂太郎は、踊っている大尽の家の綺羅を尽した紳士淑女のために、吹いてやりたい心を起しました。とりあえず何を吹いてやろうと、歌口をしめしながら、暫く小首を傾けておりました。
 何を吹き出そうかと思案している茂太郎の目の前を、二羽の鳩が飛んで行きます。それを見ると茂太郎は、急に笛を取り直して、ヒューヒョロロと吹きました。
 その笛の音につれて、不思議なことに、飛んで行こうとした二羽の鳩が、急に翼を翻して櫓(やぐら)の上へ戻って来ました。
 続いて茂太郎が笛を吹くと、どこにいたともない多数の鳩が、土蔵の鉢巻の裏や、屋根の瓦の下や、軒の間から姿を現わして、茂太郎の立っている櫓の上へと集まって来るのが、いよいよ不思議です。
 茂太郎は、足拍子面白く、なお吹きつづけていると、集まった鳩が、左右に飛び惑うて、さながら踊りをおどるが如き形が妙です。そうして或る者は茂太郎の肩につかまって、また離れ、或る者は茂太郎の周囲をめぐりめぐって、戯れ遊ぶもののようです。
 いよいよ吹いている間に、雀も集まります。烏もやって来ます。茂太郎の傍にあって舞い踊るのは鳩だけであって、そのほかの鳥は屋根の鬼瓦や、棟の上に集まって、首を揃えてそれを見物するかの如き形が、またすこぶる妙なものであります。
 と、また、庭に餌を拾っていた鶏がしきりに羽バタキをしました。高く櫓の上まで飛び上ろうとして、翼の力の足らぬことをもどかしがるように、居たり立ったりしている鶏もおかしいが、ついには例の梯子(はしご)を一歩一歩と鶏が上って来る有様です。見ている間に櫓の上は無数の鳥で一パイになりました。
 表を通る人は足をとどめて、この家の屋根の上を見物します。裏の大尽の家の庭でも、広間でも、このことの体(てい)を認めないわけにはゆきません。
「茂ちゃん、お前また笛を吹くと人騒がせだよ」
 眠っていたと思った弁信が、下の庭から言葉をかけました。

 話が前に戻って、小金ケ原から繰出して来た人数を、浅草広小路の、とある茶屋でながめているのが山崎譲と七兵衛とであります。
「えらい景気だな」
「えらい景気でございます、けれども、上方(かみがた)のえいじゃないかはこれどころではございませんな」
「左様、あれに比べると、まだこっちの方が穏かだな」
「いったい、近頃は関東よりも、上方の方が人気が荒くなりました」
「そうかも知れない、いったい、あのえいじゃないか騒ぎはどこから起ったものだ」
「どこから起ったか存じませんが、神様のお札が、天から降って来たのが始まりだそうでござんすよ、それで忽(たちま)ちあんなことになってしまいました、盆踊りのように、時を定めて踊るんならようございますが、朝であろうが、昼であろうが、稼業(かぎょう)が忙しかろうが、忙しかるまいが、踊り出したが最後、気ちがいのようになってしまうのですから手がつけられません。私はあれを、伊勢から伊賀越えをする時に見物致しました、男だけならまだしも、女が大変なものですからな、女が白昼、裸で踊って歩くんですから、沙汰の限りでございます。どうも人間てやつは、ああして集まって人気が立つと、逆上(のぼ)せあがって人間が別になってしまうんですね。江戸へは、あんなものを流行(はや)らせたくないものでございます」
「そうだ、流行りものとなると、人気がまるっきり別になってしまうんだ。今時(いまどき)の攘夷(じょうい)というやつもそれと同じで、そのことができようとできまいと、それを言わなければ人間でないように心得ている。流行りものというやつは全く厄介物だな」
「上方ばかりじゃございません、先生のお国の常陸(ひたち)の筑波山あたりでも、昔はずいぶんああいったものが流行ったということでございますね」
「古いことを担ぎ出したものだな、あれは歌垣(うたがき)といって、やっぱり男女入り乱れて踊るんだ、ずいぶんいかがわしい話もあるが、今の流行(はや)りものよりは幾分か風流だろう」
「伊勢の国には、またつと入りというのがありましてね、大勢して踊り歩いて、日頃、大事なものを隠して置く家の前へ来ると、つつと入りこんで、その大事なものを取り出して見るのですが、大事にしている娘や、お妾さんを見られて弱る者があるそうです」
「武州の府中の六所明神の提灯祭りは、一定の時になると、町という町の燈火(あかり)を残らず消して、集まったものが入り乱れて踊るのだそうだが、お前、行って見たか」
「ええ、行って見たこともございます」
「人間は踊りたがるように出来てるんだ、それが男だけでは熱が出て来ないんだ、女が出て踊るようになるから熱が出て、逆上(のぼ)せあがってしまうのだな」
「そうですとも。上方で見ました時に、女が裸で踊る有様といったら、とても見られたものじゃありませんでした。女はあまり人中へ出て踊らない方がようござんすな。もっとも、踊りも優美な品のいい踊りならずいぶん結構でござんすけれど、えいじゃないかの踊りばかりは感心しません。西洋の国では、エライ身分の人たちまでが夜会ということをして、男と女と夜っぴて踊るんだそうですが、日本の土地にもその真似が流行(はや)ったんでございましょう、世が末になるとロクなことは流行りません」
「誰か裏にいて、煽(おだ)てる奴があるんだよ」
 七兵衛と山崎とが、こんな話をしているところへ、人混みの真中に揉(も)まれて、馬に乗った天狗の面が現われて来ました。
「あれだ、ああいう木偶(でく)の坊(ぼう)を祭り上げて、いい気になって騒いでいる」
 二人は馬上の人身御供を苦々(にがにが)しげに、また笑止千万な面(かお)をしてながめています。

         七

「左様でございますね、何ともおっしゃっておいでにはなりませんが、多分、本所の相生町の方へおいでになったものと心得ておりまする。実は私もこの間、こちらへ御厄介になりました居候(いそうろう)でございまして、まだ、先生の御気象もよく呑込んでいるわけではございませんが、うちの先生は、なかなかちょくなお方でございまして、あれでまた、なかなか物に憐れみがございます。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:182 KB

担当:undef