大菩薩峠
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著者名:中里介山 

まだ年若き侍体(さむらいてい)の者であることは誰が見てもわかることでしたけれど、その若い侍体の人柄に見覚えがあることから、南条はじっと立って動きませんでした。
 この人が外へ出ると、開き戸が内から閉されてしまったことを見ると、内にも確かに人がいることに違いないのであります。
 内から出た人は、小橋を渡って木立の深みへ身を隠しました。この人をやり過ごして、中なる秘密室の構造に当ってみようか、それともこの人のあとをつけて、その行先を突留めようかと、奇異なる労働者は思案をするもののようでありましたが、その思案は後の方のものにとまったらしく、出て行く人のあとをつけて、木立の深みへ入りました。人影は権現(ごんげん)の社(やしろ)の方をめざして歩みを運ぶもののようであります。
「そこへ行くのは宇津木ではないか」
 火薬の製造所をやや離れてから後ろに呼ぶ声を聞いて、前に進んで行った若い侍風の人は、ハタと歩みを止めました。
「誰だ」
 闇の中から透(すか)して後ろを顧みたところへ、
「おれだ、南条だ」
と言ってなれなれしく近寄って来たので、
「おお」
と言って前なる人は、驚きと安心とで立って待っていました。呼ばれた通りこれは宇津木兵馬であります。
「久しぶりだった、久しぶりにまた妙なところで会ったものだ」
 目の前に立ったのは、甲府の牢内にいる時と、その牢を破ってから後も、苦楽を共にした奇異なる武士の南条でありましたから、
「これは南条殿、全く珍らしいところで……どうしてまたこの夜中に、その身なりで」
「それよりも宇津木、君こそこの夜中にどこへ行ったのじゃ」
「ツイそこまで」
「ツイそことは?」
「近いところに知人(しりびと)があって」
「近いところとは?」
「それは、あの……」
「いや、隠すには及ばない、君が今あの火薬の製造所から出て来たところを見かけて、拙者は後をつけて来たのだ」
「エエ! それでは見つかったか。しかし、余人ならぬ貴殿に見つけられたのは心配にならぬ」
「いったい、あの火薬の製造所の秘密室らしい研究所に隠れているのは、あれは誰じゃ」
「南条殿、貴殿はあの人が誰であるかをまだ御存じないのか」
「知らん」
「それほど鋭いお目を持ちながら……とは言え、誰にも知れぬが道理、実は外から出入りする者は、拙者のほかにないのでござる」
「うむ、そうであろう、おれも長らくあの辺にうろついているが、ついぞその人を見たことがない」
「わかってみれば何でもないこと、あれはな、甲府におられた駒井能登守殿じゃ」
「エエ! 駒井甚三郎か、それとは知らなんだ、なるほど、駒井か、駒井ならばあすこに隠れていそうな人だわい、これで万事がよくのみこめる、そうか、そうか」
 南条は幾度も頷(うなず)きました。
「今も能登守殿の話に貴殿の噂が出たところ。貴殿ならば、隠れておられる能登守殿も喜んで会われることと思う」
「会ってみたい、そう聞いては今夜にも会ってみたい」

         五

 権現社頭から帰って来たのは駒井能登守であります。今は能登守でもなければ勤番の支配でもありません。一個の士人としては到底、世の中に立てなくなった日蔭者の甚三郎であります。
 例の滝の川の火薬製造所の秘密室までは無事に帰って来て、真暗な室内の卓子(テーブル)の上を探って、その一端を押すと室内がパッと明るくなりました。
 頭巾(ずきん)を取って椅子に腰を卸(おろ)した能登守を見ると、姿も形もだいぶ前とは変っていることがわかります。まずその髪の毛を、当時異国人のするように散髪にして、真中より少し左へよったところで綺麗(きれい)に分けてありました。それから後ろの襟へかかったところまで長く撫で下ろした髪の末端を、鏝(こて)を当てたものかのように軽く捲き上げていました。身につけているのも筒袖の着物と羽織に、太い洋袴(ズボン)を穿(は)いています。
 この人としてはこういう形をすることもありそうなことだけれど、その当時にあっては、破天荒(はてんこう)なハイカラ姿でありました。この姿をしてうっかり市中を歩いて、例の攘夷党の志士にでも見つかろうものならば、売国奴(ばいこくど)のように罵られて、その長い刀の血祭りに会うことは眼に見えるようなものであります。幸いなことに、この人はここに引籠っているから、この急進的なハイカラ姿を、何者にも見つからないで済むのでありましょう。
 能登守――と言わず、これからは駒井甚三郎と呼ぶ――はいま椅子へ腰を卸すと共に、額に滲(にじ)む汗を拭いて、ホッと息をついて空(むな)しく天井をながめていました。
 この室内の模様は、前に甲府の邸内にあった時と、ほぼ同じような書物と、武器と、それから別に、洋式の機械類と薬品などで充満していました。
 吐息(といき)をついた駒井甚三郎は、やがて両の手を面(かお)に当て、卓子に臂(ひじ)をついて俯向(うつむ)いていました。それからまた身を起し、肱掛(ひじかけ)に片腕を置いてじっと前の卓上をながめている前には、長さ二尺に幅四寸ほどの小形の蒸気船の模型が一つ置いてあります。
 駒井甚三郎は、その蒸気船の模型からしばしも眼は放さずに、手はペンを取って、しきりに角度のようなものを幾つも書いているのであります。この人は、いま出向いて行ったことのために、何か気に鬱屈(うっくつ)があってこうしているのかと思えば、そうではなくて、この小型の蒸気船の模型と、それを見ながら幾つも幾つも線と劃を引張ることに一心不乱であるものらしく見えます。それにようやく打込んでゆくと、急に洋式の算術らしいことを始め、次に日本の算盤(そろばん)を取って幾度か計算を試み、それから細長い形の黒い玉を取っては秤台(はかりだい)の上へ載せ、それを幾つも幾つも繰返して、その度毎に目方を記入しているようでありました。
 この時分、夜はようやく更(ふ)けて行って、水車の万力(まんりき)の音もやんでしまい、空はたいへんに曇って、雨か風かと気遣(きづか)われるような気候になってきたことも、内にあって一心にこれらの計算に耽(ふけ)っている駒井甚三郎には、いっこう感じがないらしくあります。
 風が出たなと思った時分に、駒井甚三郎は、ふと戸の外を叩く物の音のあることに気がつきました。宇津木兵馬がまた訪ねて来たなと思って、甚三郎は立って戸をあけにかかりました。けれどもそれは宇津木兵馬ではなくて、見馴れぬ労働者風の男でありましたから、
「誰じゃ」
 甚三郎は拳銃をさぐって用心しました。
「拙者だ、南条だ」
 駒井甚三郎は、その一言で了解することができました。
 ほどなく駒井甚三郎と南条なにがしという奇異なる労働者と二人は、前の室内で椅子によって対坐することとなりました。
 その以前、やはり不意にこの男が、甲府の駒井能登守の邸を夜中に驚かしたことがあったように。
 その時はそれと知らずして驚かしたものでしたが、今はそれと知って訪ねて来たものらしい。
 能登守の風采(ふうさい)もその時とは変っているが、南条の風采もやや変っています。
「何をしていた」
と駒井甚三郎が尋ねました。
「ここの工事の人足を働いている」
 南条が答えます。
「それは知らなかった」
「こっちも知らなかった」
「どうして拙者がここにいることがわかったか」
「宇津木兵馬から聞いた」
「なるほど――」
 南条は室内を一通り見渡したが、例の小型の蒸気船の模型を認めて、
「これは――」
と言って、特に熱心にその船の形を見つめていました。
「これは拙者が工夫中のカノネール、ボートじゃ、ずいぶん苦心している」
「なるほど」
 南条は面(かお)をつきつけるようにして、その小形の蒸気船の模型を、前後左右からつくづくとながめ入ります。その熱心さが設計者の駒井甚三郎にとっては、何物よりも満足に思うところらしく、
「よく見てくれ、そして批評をしてくれ、長さは二十間で幅は四間になる、船の構造はまず自分ながら申し分はないつもりだ、機関の装置も多少は研究し、速力も巡陽、回天あたりよりも一段とすぐれたものになるつもりじゃ。しかし、いま問題にしているのはそれに載せる大砲よ、なるべく大口径にして、遠距離に達するように苦心している。それと大砲を据(す)え付くる場所じゃ、ここのプーフに装置するのが最もよかろうと思われる、船体の釣合上、大砲が大き過ぎても困る、と言って従来の例を追うのも愚かなこと、火薬と瓦斯(ガス)の抵抗がどのぐらいまで全体の平均に及ぼすか、それを実地に計ってみたいと苦心している」
 駒井甚三郎は、こんなふうに説明しながら、いま秤台(はかりだい)にかけていた細長い形のよい玉を取って、卓子(テーブル)の上から南条の方に突き出しました。
「なるほど」
 南条はその船体を見ることが、いよいよ熱心であります。
「どうも、こうして調べて実地に当って見れば見るほど、我ながら知識の足らないことと経験の浅いことが残念でたまらぬ。だから拙者は思い切って洋行してみようと思っているのじゃ」
 駒井甚三郎がこう言うと、小型の蒸気船の模型を見ていた南条が、急に駒井の面(かお)を見て、
「ナニ、洋行?」
と言いました。
「その決心をしてしもうた」
「それは悪いことではない、君の学問と才力を以て洋行して来れば、それこそ鬼に金棒じゃ」
「書物と又聞(またぎき)では歯痒(はがゆ)くてならぬ、それに彼地(あっち)から渡って来る機械とても、果してそれがほんとうに新式のものであるやらないやらわからぬ、彼地ではもはや時代遅れの機械が日本へ廻って、珍重がられることもずいぶんあるようじゃ、このごろ、少しばかり火薬の製造機械を調べているけれど、思うように感心ができぬ、何を扨置(さてお)いても洋行したい心が募って、じっとしてはおれぬ」
「大いに行くがよい」
「白耳義(ベルギー)のウェッテレンというところに、最良の火薬機械の製造所があるということじゃ、その工場をぜひ見て来たいものだと思うている、しかし、それは他国の者には見せぬということじゃ、やむを得ずんば職工になって……君のように労働者の風(なり)をして、忍んで見て来たいと思うている」
「君は拙者と違って美(よ)い男だから、労働者にするはかわいそうじゃ。しかしそれだけの勇気のあることが頼もしい。そして、いつ出かけるつもりだ」
「来月の半ばに下田を出る仏蘭西(フランス)の船があるから、それに便乗することに頼んでおいた、それでこの通り頭もこしらえてしまっている」
「一人で行くのか」
「従者を一人つれて行く、そのほかには今のところ伴(つれ)というものはない」
「おれも一緒に行きたいな、羨(うらや)ましい心持がするわい」
と南条は笑いました。
「君が一緒に行ってくれれば拙者も甚だ心強いけれど、それが知れたら、それこそ第二の吉田松陰じゃ」
「それでは諦(あきら)めて、君の帰りと土産(みやげ)とを待っていよう。しかし、君が帰って来る時分には、日本の舞台もどう変っているかわからん、君の土産が江戸幕府のものにならないで、或いはそっくり我々が頂戴するようになるかも知れん」
「そんなことはあるまい」
 駒井甚三郎は微笑していました。
 この二人は前に言ったように、高島四郎太夫の門下に学んだ頃からのじっこんでありました。その故に地位だの勢力だのというものは頓着なしに、いつも会えばこうして、友達と同じような話をするのであります。
「思い切りのよいのに感心する、我々は西洋の学問と技術はエライと思うけれど、頭までそうする気にはなれぬ」
と言って南条は、この時はじめてらしく駒井甚三郎の刈り分けた仏蘭西(フランス)式の頭髪をながめました。
「ひと思いにこうしてしまった、洋式の蓮生坊(れんしょうぼう)かな」
 甚三郎は静かに、艶(つや)やかな髪の毛の分け目を額際(ひたいぎわ)から左へ撫でました。
「でも髷(まげ)を切り落す時は、多少は心細い思いがしたろうな」
「なんの……」
「そうだ、駒井君」
 南条はこの時になって、一つの要件を思い当ったらしく、
「君は一人で洋行するそうだけれど、君の周囲に当然起るべきさまざまの故障について、善後の処置が講じてあるのか。一身を避ければ、万事が納まるものと考えているわけでもなかろう」

         六

 南条と別れた宇津木兵馬は、王子の扇屋へ帰って来ました。扇屋の一間には、さきほどから兵馬の帰りを待ち兼ねている人があります。
 いったん尼の姿をしていたお君は、ここへ来ては、やはり艶(あで)やかな髪の毛を片はずしに結うて、綸子(りんず)の着物を着ていました。兵馬は刀をとってその前に坐り、
「まだお寝(やす)みにはなりませんでしたか」
「お前様のお帰りを待っておりました」
「それほどに御執心(ごしゅうしん)ゆえ、よいお返事を聞かせてお上げ申したいが……」
 兵馬の言葉が濁って、その様子が萎(しお)れるのを見たお君の面色(かおいろ)に不安があります。
「残念ながら、もはや、この御縁はお諦(あきら)めなさるよりほかはござらぬ」
と言いながら兵馬は、懐中から袋入りの物と帛紗包(ふくさづつ)みとを取り出して、
「これが、能登守殿より御身へお言葉の代り」
 その品をお君の眼の前へ置きました。その袋入りの物は短刀であり、帛紗包みは金子(きんす)であることが一目見てわかります。
「わたくしは、そのようなものをいただきに上ったのではござりませぬ」
 お君が恨めしそうにその二品をながめていましたが、その眼には涙がいっぱいであります。
「ともかくも」
と言って兵馬は、その二品を前へ出したきりで腕を組んでいました。兵馬の胸にも実は、思い余ることがあるのであります。
「宇津木様、どうぞ殿様のお言葉をお聞かせ下さりませ、縁を諦(あきら)めよと、それが殿様のお言葉でござりましたか」
「能登守殿は、そうはおっしゃらぬ。そうはおっしゃらぬけれど」
「わたくしが殿様から前のようなお情けをいただきたいために、こうして恥を忍んで上りましたものか、どうか、それを御存じないあなた様が恨(うら)めしい」
「それは拙者にもわかっているし、能登守殿も御諒解であるが……」
「それならば、お言葉をお聞かせ下さりませ。わたくしは賤(いや)しいものでござりまするけれど、殿様のお家には二つとないまことのお血筋……そのお血筋がおいとしいために恥を忍んで上りました、殿様のお言葉一つによって、わたくしはこの場で死にまする」
「またしても短気なことを……」
「いいえ、短気なことではありませぬ、わたくしの小さい胸で、考えて考え抜いた覚悟の上でござりまする。殿様のお言葉次第によって、わたくしもこの世にはおられませぬ、恐れ多い殿様のお血筋を、わたくしと一緒にあの世へおつれ申すのが不憫(ふびん)でござりまする、それ故に……」
 お君は歔欷(しゃく)り上げて泣きました。
「能登守殿は近いうち、洋行なさるというておられた」
 兵馬は要領をそらして、何とつかずにこう言いました。
「洋行なさるとは?」
「この日本の土地を離れて、遠い外国へおいであそばすそうじゃ」
「エエ、遠い外国へ?」
 お君は涙を払って兵馬の面(かお)を見つめました。問い返す言葉にも力がありました。兵馬が何とつかずに言ったことが、お君の胸には手強い響きを与えたもののようであります。
「能登守殿がおっしゃるには、自分はもう今の世では望みのない身体じゃ、この隙(ひま)に西洋を見て来たい、いずれ万事は帰ってから後のこと。君女(きみじょ)のことも、どうしてやってよいか自分にはわからぬ、そなたの思うように保護してくれいとのお言葉。帰りは長くて一年、或いはまた……」
「よくわかりました」
 兵馬の説明をお君はキッパリと返事をしました。兵馬の重ねて説明することを必要とせぬほどに、キッパリと言い切ってしまいました。
「もうお聞き申すこともござりませぬ、殿様は前から西洋がお好きでございました、わたくしのことなんぞを今ここで申し上げたとて、お取り上げになろうはずがござりませぬ、もうあのお方のお心のうちは、西洋の学問やなにかのことでいっぱいなのでございます、わたくし風情(ふぜい)が何を申し上げたとて、それに御心配をなさるような、賤(いや)しいお方ではござりませぬ、それだけお聞き申せば、もう充分でござりまする」
 お君としては冷やかな言い分でありました。その冷やかな言い分のうちには、多くの自棄(やけ)の気味、自棄と言わないまでも、全くの失望をわざと冷淡に言ってのける頼りない心持を、兵馬にあっても見て取れないというわけではありません。
「悪く取ってはなりませぬ、能登守殿のお身の上を推量すると、拙者にはお気の毒でお気の毒で、どうも立入って強いことが言えない」
 兵馬はお君を慰めようとして、能登守の身の上に同情を向けさせようとしました。しかしお君は、やはり冷やかな態度を変えるのではありません。
「どう致しまして、わたくしが殿様のお心持を、よからぬように御推量申し上げるなぞと、そのようなことがありますものか、どうか御無事で洋行をしておいであそばすように、蔭ながら祈るばかりでございまする、この下され物もその心で有難く頂戴致しまする」
 今まで手にも触れなかった袋入りの物と、帛紗包(ふくさづつ)みの二品を手に取って、お君は懇(ねんご)ろに推しいただきました。
 兵馬はなお何か言いたいと思ったけれども、何も言うことがないのに苦しみました。それは余りにお君の態度が神妙であったからであります。余りによく解り過ぎてしまったために、兵馬は何を言ってよいかわからなくなりました。
「宇津木様、もう夜も更けました、どうぞお休み下さいませ。わたくしも疲れました、御免を蒙りとうございまする」
 お君は二品を膝に置いて、言葉丁寧に言いましたけれど、兵馬にはそれが、いつものようでなく、冷たい針が含まれているように思われてなりません。さりとて、なんともその上に加えねばならぬ言葉はないので、
「しからば余談は明日のこと、御免を蒙りましょう」
 なんとなく物のはさまったような心持で、兵馬は己(おの)れの部屋へ帰って寝ようとしたけれども、まだなんとなく心がかりであります。
 次の間の物音によく心を澄ましているらしかったが、何に驚いたか兵馬は、ガバと起(た)って隔ての襖(ふすま)を蹴開いて、お君の寝室へ跳(おど)り入りました。
 お君は端坐して、その手には、さきほど能登守から贈られたという袋入りの短刀の鞘(さや)を払っていたのであります。
 お君は能登守からの短刀の鞘を払って、あわやと見えるところでした。兵馬はその手を押えました。
「ここで御身を殺しては、能登守殿にも申しわけがない、甲州から頼まれた人たちへも申しわけがない、これまでの苦心が仇(あだ)になる、短慮なことをなされるな」
 兵馬に抑えられたお君は、それを争うことができません。お君としては、兵馬の寝鎮(ねしず)まるのを待って、用意の上に用意しての覚悟でありました。けれども、油断なき兵馬の心に乗ずることができませんでした。
「ああ、わたくしの身はどうしたらよいのでございましょう、あの立派な殿様を、世間にお面(かお)の立たぬようにしたのも、わたくしでございます、あなた様にこんな御迷惑をかけるのも、わたくし故でございます、生きていてよいのか、死んでしまってよいのか、わたしにはわかりませぬ」
 短刀を取られてしまったお君は、そこへ泣き伏しています。
「お君殿、そなたの身の上を頼まれたは拙者、殺してよい時はこの兵馬が殺して上げる、それまでは不足ながら万事を拙者にお任せ下さい、必ず悪いようには致さぬ、もしそれを聞かずに再びこのような短慮な事をなさる気ならば、拙者にも了簡(りょうけん)がある」
 兵馬は言葉を強くしてこう言いました。けれどもお君は、それに対して何の返事もできないのであります。
「さあ、御返事をなさい、この上とも万事を兵馬にお任せ下さるか、それがいやならば、この短刀をお返し申す故、この場で改めて自害をなさい、兵馬が介錯(かいしゃく)をして上げる、介錯した後にはこの兵馬も、そのままではおられませぬ」
 兵馬はなお手強く言って、お君の口から誓いの言葉を聞こうとするらしくあります。
「そのお返事のないうちは、この場を去りませぬ」
 兵馬はお君に向って、あくまでその返答を迫るのであります。
「宇津木様、わたくしには何もかもわからなくなりました、お前様のよろしきように」
 ともかくもその場はお君を取鎮め、万事を我に任せろと頼もしいことを言って力をつけたものの、兵馬自身によくよく衷心(ちゅうしん)を叩いて見ると、それは甚だ覚束(おぼつか)ないことです。身一つの処置をどうしてよいかわからないというのは、お君が自分でわからないのみならず、兵馬はなお分っていないのであります。慢心和尚から頼まれて引受けて来た時もわかってはいない、苦心を重ねてようやく能登守を尋ね当ててそれを計ってみると、いよいよわからなくなりました。
 能登守の立場を見れば、それにお君を会わせて自分が帰ってしまうことはどうしてもできないことであります。そうかと言ってまた甲州へ連れて戻るわけにはゆかず……結局、どうすればよいのだか兵馬は、迷いに迷ってしまいました。
 迷いに迷った揚句(あげく)に、兵馬が思い起したのは、道庵先生のことであります。この人へ真面目(まじめ)に相談をかけることは、張合いのないようなことだけれど、お君という人を暫らく保護してもらうことは、或いは頼みにならないことでもないと思いました。兵馬はここでともかくも、道庵へ行って相談しようとする心をきめました。

 その翌日、兵馬が道庵を訪れようと用意しているところへ案内があって、一人の立派な武士が兵馬を訪ねて来たということであります。
「はて、誰だろう」
 兵馬はここへ自分を訪ねて来る立派な武士があろうとは、予期していないことでありましたが、迎えて見ると、それは南条であります。
 なるほど、今日ここへ訪ねて来るように言っていたが、前夜の労働者風の姿のみ頭に残っていたから、今こうして立派な武装をしてやって来られると、頓(とみ)にはそれと気がつかなかったのであります。
 南条は頓着なく兵馬のいる一間へ打通って、
「いや、おかげさまで駒井とゆっくり話をすることができて面白かった。駒井は近いうち洋行をするそうじゃ。それは結構なことだ、あの男の学問と器量とを以て洋行して来れば、鬼に金棒というものだと賞(ほ)めてやった」
 かく言って遠慮なく、駒井能登守のことを話されるのは兵馬にとっては苦痛であります。兵馬にとっては苦痛でないけれど、一間を隔ててお君の耳へそれを入れることが心配になるのです。
 南条もそれを呑込んだか知らん、
「君、ちょっと外へ出ないか、滝の川へ紅葉(もみじ)を見に行こう」
 南条それがしと宇津木兵馬とは、相携えて扇屋を出ました。
 兵馬は、南条が自分をどこへ導いて行くのだか知りません。紅葉というのは出鱈目(でたらめ)で、王子から江戸の市中へ出るらしいのであります。時は夕暮で道は淋しい。
 この途中、二人は、いろいろのことを話し合いました。人物の評をしてみたり、甲府以来の世間話をしたりしました。兵馬はこの人のいつも元気であって、好んで虎の尾を踏むようなことをして、屈託(くったく)しない勇気に感服することであります。それで識見や抱負の低くないことも尊敬せずにはおられないところから、ふと自分が迷っている女の処分方もこの人にうちあけてみたならば、また闊達な知恵分別も聞かれはしないかと思いました。
 そこで、思いきって一伍一什(いちぶしじゅう)を南条にうちあけて、さてどうしたらよいものかと、しおらしくその意見を叩きました。
 それを聞いていた南条は、事もなげにカラカラと笑って、
「君がその婦人を引受けたらよいだろう、駒井から貰い受けたらよいだろう」
「エエ!」
 兵馬は眼を円くしました。南条は眼を円くしている兵馬の面(かお)を、調戯(からか)うもののようにながめながら、
「理窟を考えちゃいかん、君がその女の身を心配するならば、いっそ引受けて夫婦になってしまうがよかろう」
 兵馬は、返事ができないほどに呆(あき)れてしまいました。
「はははは」
 南条は本気で言ったのか冗談(じょうだん)で言ったのか知らないが、高笑いをして、こんなことは朝茶の前の問題といったような体(てい)たらくであります。
「そんなことが……」
 兵馬は落胆(がっかり)するほどに呆れが止まりませんでした。前に言う通り、この人の志気や抱負には敬服するけれど、それは時代のことや政治のことだけで、男女の問題にかけては、こんなふうに大ざっぱで、且つ低い観念しか持っていない人かと思えば、大切な問題を、こんな人に打明けたことを悔ゆるの心をさえ起しました。南条はやはり事もなげに言葉をついで、こう言いました、
「それがいけなければ斬ってしまえ、その女を斬ってしまうがよい、こう言えば無慈悲のようだけれども、それは男子らしい処分と言えないこともない、紀州の殿様で、世嗣(よつぎ)の生みの母を手討にしてしまった人がある、生みの母というのは殿様のお手かけであった、腹の賤(いや)しい母を生かしておいては、他日国家の患(うれい)がそこから起り易いとあって、罪もないのに手討にしてしまった。わが子の母をさえ、家門のためには斬ってしまった殿様がある、それを思えば君のひっかかっている女なんぞはなんでもない、一時の小さな情にひっかかっていると大事を誤ることがある、一殺多生(いっさつたしょう)というのはそれだ、その女一人を斬ってしまえば、駒井もひっかかりがなくなる、君も解脱(げだつ)ができる、その女も君に斬られたら往生(おうじょう)ができることだろう。男子はそのくらいの勇気がなくてはならぬ、女々(めめ)しい小慈小仁に捉われているようでは大事は成せぬ」
 これはあまりに乱暴な議論であります。さきに慢心和尚は、女を沈めにかけると言って兵馬を驚かせました。それは慢心和尚一流のズボラであったけれど、この男の言う議論は、実行と交渉のある議論であるから剣呑(けんのん)です。

         七

 兵馬と南条なにがしとがこうして王子を立って、江戸の市中へ向けて出かけて行ったと同時に、これはまた板橋街道の方から連立って、王子の方面へ入って来る二人の旅人があります。
 かなり長い旅をして来たものらしく、直接に江戸へ入らないところを見ると、或いは王子を通り越して千住(せんじゅ)方面へ出るつもりかも知れません。先に立ったのはやや背の高い男、あとのは中背で前のよりは年も若い男。
「兄貴」
 人通りの絶えたところで後のが声をかけました。その声を聞くとなんのことはない、これは執念深い片腕の男、がんりきの百でありました。
「何だ」
 振返ったのは、取りも直さず七兵衛であります。
「今夜はどこへ泊るんだ」
 百蔵は今ごろこんなことを言って、七兵衛に尋ねてみるのもワザとらしくあります。
「どこにしようかなあ」
 歩いて来るには歩いて来たものの、二人はまだどこといってきめた宿がないもののようであります。
「今っからこの姿(なり)で、吉原(なか)へも行けめえじゃねえか」
とがんりきが言う。
「そうよ」
「王子の扇屋へ泊ろうじゃねえか」
「いけねえ」
 七兵衛が首を左右に振りました。
「どうして」
 がんりきは笠越しに七兵衛の面(かお)を見る。
「あすこはこのごろ、役人が出入りをしている、滝の川の方に普請事(ふしんごと)があって、それであの家が会所のようなことになっているから、上役人が始終(しょっちゅう)出入りをしているんだ」
「そうか」
 がんりきも暫らく口を噤(つぐ)んでしまいました。口を噤んでも二人は、なおせっせと道を歩いているのであります。
「それじゃあどうするんだ」
 がんりきが、また駄目を出しはじめます。
「どうしようか、お前よく考えてみな」
 七兵衛は煮えきらないのであります。がんりきはそれをもどかしがって、
「考えてみなと言ったって、兄貴がその気にならなけりゃ仕方がねえ。実のところは俺(おい)らはモウ小遣銭(こづかいせん)もねえのだ、さしあたってなんとか工面(くめん)をしなけりゃならねえのだが、兄貴だって同じことだろう。命からがらで甲州から逃げて来たんだ、ここまで息をつく暇もありゃしねえ、いくら人の物をわが物とするこちとらだって、海の中から潮水を掬(すく)って来るのとはわけが違うんだ」
「今夜はなんとか仕事をしなくちゃならねえな」
「知れたことよ、そのことを言ってるんだ。いま聞けば、扇屋は何か役人の普請事の会所になっているというじゃねえか、そこへひとつ今晩は御厄介になろうじゃねえか」
「俺もそう思ってるんだ。普請事というのは何か鉄砲の煙硝蔵(えんしょうぐら)を立てるとかいうことなんだそうだ、なにしろお上の仕事だから、小さな仕事ではあるめえと思う、お金方(きんかた)も出張っているだろうし、突っついてみたら一箱や二箱の仕事はあるだろうと思う」
「そいつは耳寄りだ、兄貴、お前はいいところへ気がついていた」
「だから、そうきまったらどこかで一休みして、ゆっくり出かけるとしよう」
「合点(がってん)だ」
 こう言って二人は、板橋街道の夕暮を見渡しました。

 その晩になって、王子権現の境内へ二つの黒い影が、異(ちが)った方からめぐり合わせて来て、稲荷(いなり)の裏でパッタリと面(かお)が合いました。
「兄貴」
「百か」
 前の通り二人は百蔵と七兵衛とです。板橋街道の夕暮で見た二人の姿は、純然たる旅の人でありました。ここでは忍びの者のような姿であります。けれども二人とも脇差は差していて、足もまた厳重に固めていました。
「どうした」
「冗談じゃねえ」
 頭と頭とを、こっきらことするほどに密着(くっつ)けて、百蔵が、
「役人の会所になっているというから、様子を見ていりゃあ、役人らしいのは一人も泊っていねえじゃねえか、それに普請(ふしん)のお金方(きんかた)とやらも詰めている塩梅(あんばい)はねえし、ふりの宿屋と別に変った事はねえ、なにも俺らと兄貴が、こうして息を詰めて仕事にかかるがものはねえんだ、兄貴にしちゃあ、近頃の眼違いだ、お気の毒のようなものだ」
 少しばかり、せせら笑ってかかると、七兵衛はそれを気にかけないで、
「それに違えねえ。おれも様子を見てから、こりゃ抜かったと直ぐに気がついたから、引上げようと思ってると、手前(てめえ)が何に当りをつけたか、奥の方へグングンと入り込んで出て来ねえから、引返すわけにもいかなかったのだ。こりゃあ強(あなが)ち俺の眼違えというわけでもねえのだ、この間までは確かにここが会所になっていたのだが、普請が出来上ったから、あっちへ移ったのだろう、あんまり遠いところでもねえから、ひとつこの足でその新しい普請場の方へ出かけてみよう」
「なるほど」
「さあ出かけよう」
 この二人は、板橋街道で打合せた通り、王子の扇屋を覘(ねら)ったものであったに違いないが、その見込みが少しく外(はず)れたものであるらしい。けれども外れた見込みは、遠くもないところで遂げられそうな自信をもっているらしい。七兵衛は、百蔵を引き立て、その方へ急ごうとすると、がんりきはなぜか、あんまり進まない面(かお)をして、
「普請場とやらへは、兄貴一人で行っちゃあもれえめえか」
「ナニ、おれに一人でやれというのか」
「俺らは、どうもそっちの方は気が進まねえことがあるんだ」
「ハテな」
「実は、扇屋でいま見つけ物をして来たから、その方が心がかりになって、金なんぞはあんまり欲しくもなくなったのさ」
「おやおや」
「そういうわけだから、兄貴一人で普請場へ行って当座の稼ぎをして来てくんねえ、俺らは俺らで自前の仕事をしてみてえんだ」
「この野郎、扇屋の女中部屋の寝像(ねぞう)にでも見恍(みと)れて、またよくねえ了見(りょうけん)を出したとみえるな、世話の焼けた野郎だ」
「まあ、いいから任しておいてくれ、兄貴は兄貴で兵糧方を持ってもらいてえ、俺(おい)らは俺らで、これ見たかということを別にして見せるんだ」
「また、笹子峠のように遣(や)り損(そく)なって泣面(なきつら)をかかねえものだ」
「ナニ、あの時だって、まんざら遣り損なったというものでもねえのさ、それにあの時は相手が相手だけれど、今夜のは、たった一人ほうりっぱなしにしてあるのだから、袋の中の物を持って来るようなものだ」
「まあ、よせと言ってもよすのじゃあるめえから、手前の勝手にしてみるがいい、懲(こ)りてみるのも薬だ」
「有難え」
 二人で一緒に仕事をするはずであったのが、ここで二つに分れて仕事をすることになります。
 ここで二人のよからぬ者が手筈(てはず)を分けて、一方は火薬製造所の普請場の方へと出かけて行き、一方はまた扇屋をさして出かけて行くことにきまったらしくあります。
 がんりきの方は、心得て直ぐさまその場から姿を隠したが、七兵衛は少しばかり行って踏みとどまり、
「野郎、いったい何をやり出すんだか」
と言って、七兵衛は普請場の方へ行こうとした爪先を変えて、がんりきが出て行った方へ素早く歩き出したところを見ると、そのあとをつけて、あの小ざかしい片腕が、何を見つけて何をやり出すのだか、それを突留めようとするものらしくあります。
 ややあって七兵衛は、音無川の岸の木蔭の暗いところから、扇屋の裏口を覗(のぞ)いて立っていました。どこといって起きている家はなく、そうかと言って、いまがんりきが忍び込んでいるらしい物の音も聞えません。けれども七兵衛は、この口を守って、中からの消息(たより)を待って動かないのは、何か自信があるらしいのであります。
 果して縁側の戸が一枚あけてあったところから、人の頭がうごめき出でました。
「出たな」
と言って七兵衛は微笑(ほほえ)みました。
 なるほど、それは人影である。闇の中でも慣れた目でよく見れば、中から這い出すようにして庭へ下りる人は、小脇に白い物を抱えていることがわかります。その物は何物であるかわからないけれども、それを片腕に抱えて、極めて巧妙に家の中から脱け出して来たものであることが一見してわかります。
 七兵衛は、じっとその様子を見ていました。果してその黒い人影は庭へ下り立ったが、そこで前後を見廻して暫らく佇(たたず)んでいました。
 待っていたこの裏木戸へ来たら、出会頭(であいがしら)に取って押えてやろうと、ほほえんでいた七兵衛のいる方へは、ちょっと向いたきりで人影は、庭の燈籠(とうろう)の蔭へ小走りに走って行くと、急に姿が見えなくなりました。
「おや?」
 七兵衛は少しばかり泡(あわ)を食って、再び眼を拭って見たけれど、それっきり人影が庭から姿をかき消すようになってしまったから、
「出し抜かれたかな」
 木の繁みから音無川の谷の中へ下りて見たところが、そこに忍び返しをつけた塀があります。
「こいつはいけねえ」
 七兵衛はその下を潜ろうか、上を乗り越えようかと思案したけれど、それは咄嗟(とっさ)の場合、さすがの七兵衛も、どうしていいかわからぬくらいの邪魔物でありました。
「ちょッ」
 仕方がないからわざわざ岸へ上って、家のまわりを、遠くから一廻りして表へ出て見ました。
 こうして前後を見廻したけれど、いま庭で立消えになったがんりきの姿は、いずれにも認めることができません。
「野郎、まだ中に隠れているな、おれがあとをつけたことを感づいたもんだから、この屋敷の中で立往生をしていやがる、それともほかに抜け道をこしらえておいたものか、それにしては手廻しがよすぎるが、どうしてもあの裏手よりほかに逃げ道はねえはずなんだが……ハテ」
 七兵衛は、また裏の方へ廻って見ました。そこでもまた再びその影も形も認めることができないから、ともかくも中へ入ってみようとする気になったらしく、そっとその木戸を押してみると、雑作(ぞうさ)なく開いた途端に、
「泥棒、泥棒、泥棒」

 泥棒、泥棒と騒ぎ立てられた時分には、七兵衛もがんりきも、さいぜんの権現の稲荷の社前へ来ていました。
「兄貴、細工は流々(りゅうりゅう)、この通りだ」
 がんりきは社前のところへ腰をかけて自慢そうに鼻うごめかすと、七兵衛も同じように腰をかけて苦笑い。
「いったい、そりゃ何の真似だ」
「何の真似だと言ったって兄貴、お前と俺(おい)らが甲府でやり損なった仕返しが、どうやらここでできたというもんだ、自分ながら思い設けぬ手柄だ、兄貴の前だけれども、こういうことはおれでなくってはできねえ芸当なんだ。そもそもここへ連れて来た女というのを、兄貴、お前はいったい誰だと思うんだ、お前のその皮肉な笑い方を見ると、またおれが女中部屋の寝像(ねぞう)に現(うつつ)を抜かして、ついこんな性悪(しょうわる)をやらかしたように安く見ていなさるようだが、憚(はばか)りながらそんな玉じゃねえんだ。もっとも、おれもはじめからその見込みで入ったわけではなし、兄貴の差図で入ったのだから、手柄の半分はお前の方へ譲ってもいいようなものだが、兄貴だって、この代物(しろもの)がこの通りということはまだお気がつくめえな。おれが語り聞かした上で、それと合点(がてん)がゆきゃあ、なるほど、百、手前の腕は片一方だが、両腕のあるおれが恐れ入ったものだ、見上げたものだと、ここに初めて兜(かぶと)を脱ぐに違えねえ」
「何を言ってやがるんだ」
「まあまあ、緒(いとぐち)から引き出して話をする。そもそも兄貴とおれとが、甲府のお城のお天守の天辺(てっぺん)でしたあのいたずらから事の筋が引いてるんだ。あの時、二人で提灯をぶらさげて、甲府の町のやつらを噪(さわ)がせて、天狗だとか魔物だとか言わせて、溜飲(りゅういん)を下げてみたけれど、憎らしいのはあの勤番支配の駒井能登守という奴よ、あいつが鉄砲を向けたばっかりにこっちは、すっかり化けの皮を剥がれて、二度とあの悪戯(いたずら)ができなくなったんだ。それも兄貴、あの時に、あの能登守という奴が、打つ気で覘(ねら)いをつけたんなら、兄貴の身体でも、俺らの身体でも微塵(みじん)になって飛ぶはずのところを、ワザと提灯だけを打って落したのが皮肉じゃねえか。あんまり癪(しゃく)にさわるから、その後、なんとかあの能登守に、いたずらをしかけて溜飲を下げてやらなくちゃあ、七兵衛はいざ知らず、がんりきの沽券(こけん)が下るからと、いろいろ苦心はしてみたけれど、どうも兄貴の前だが、やっぱりあの屋敷には豪勢強い犬がいる、それでうっかり近寄れねえでいたところへ、急にあの能登守がお役替えで江戸詰ということになったと聞いて、手の中の珠を取られたように思った。ところが今夜という今夜、ほんとうに思いがけなく、思う存分にその仕返しができたことを思うと、天道様(てんとうさま)がまだこちとらをお見捨てなさらねえのだ。俺らは甲州から持ち越した溜飲が、初めてグッとさがったんで、嬉しくてたまらねえ。と言って、ひとりよがりをここへ並べて、永く兄貴に擽(くすぐ)ってえ思いをさせるのも罪な話だから、うちあけてしまうが、実は俺らが今ここへ連れて来た女というのは別じゃあねえ、甲府にあって一問題おこした例の、能登守の大切(だいじ)の大切のお部屋様なんだ」
「エエ!」
「どんなもんだ」
 がんりきは、いよいよ得意になって社殿の中を尻目にかける。この社殿の中へ、その手柄にかける当の者を運び来って隠して置くものらしくあります。それでがんりきはなお得意になって、七兵衛をも尻目にかけながら、
「俺らは、ただこうして溜飲を下げさえすりゃそれでいいのだ、なにもこのお部屋様を、煮て喰おうとも焼いて喰おうとも言いはしねえのだ、これから先の料理方は兄貴次第だ、よろしくお頼み申してえものだな」
 がんりきはこんなことを言って、さて猿臂(えんぴ)を伸ばして稲荷の扉の中へ手を入れて、何物をか引き出そうとしました。それは七兵衛にとっても多少の好奇心であり、また心安からぬことでないではありません。この野郎、ほんとうにその女をここへ浚(さら)って来たのかどうか、本来、こういうことを手柄に心得ている人間にしても、あまりに無茶で、乱暴で、殺風景であるから、七兵衛もムッとして苦(にが)い面(かお)をして、がんりきを睨めていました。
「それこの通りだ」
と言ってがんりきが、苦い顔をしている七兵衛の眼の前へ突きつけたのは、やや身分の高かるべき女の人の着る一領の裲襠(うちかけ)と、別に何かの包みでありました。幸いにしてそこには、この裲襠を纏(まと)うていた当の人の姿は見えないから、まず安心というものでしょう。
「これがどうしたんだ」
 七兵衛はその裲襠と、がんりきの面(かお)を等分にながめていると、がんりきは、
「これがその、講釈で聞いた晋(しん)の予譲(よじょう)とやらの出来損ないだ、おれの片腕では、残念ながら正(しょう)のままであの女をどうすることもできねえんだ、時と暇を貸してくれたら、どうにかならねえこともあるめえが、差当って今夜という今夜、あれを正のままで物にするのはむつかしいから、そのあたりにあったこの裲襠と、床の間にあったこの二品、どうやらこれが金目のものらしいから、引浚(ひっさら)って出て来たのだ。ともかくも、これだけの物があれば、これを道具に能登守にいたずらをしてやる筋書は、いくらでも書けようというものだ。この裲襠を見ねえ、地は縮緬(ちりめん)で、模様は松竹梅だか何だか知らねえが、ずいぶん見事なものだ、それでこの通りいい香りがするわい、伽羅(きゃら)とか沈香(じんこう)とかいうやつの香りなんだろう、これを一番、能登守に持って行って狂言の種にして、奴がどんな面をするか、それを見てやりてえものだ。こっちの方の二品は、こりゃ錦の袋入りの守り刀と来ている、もう一つはズッシリとしたこの重味、この二つとも、殿様からの御拝領なんだろう、まだ結び目も解かず、封も切らずにあるやつが、手つかずこっちへ授かったというのも返す返す有難え話だ。さあ、兄貴、俺らの方はこの通りまずまず当座の仕事としては大当りに近い方だが、兄貴の方の仕事はどうなるんだ、まだこれから出かけてみても遅いわけではあるめえから、その舶来の煙硝蔵(えんしょうぐら)とやらへ、俺らもお伴(とも)をしてみてえものだな」
 がんりきはひきつづいて手柄話と盗んで来た品物とを、鼻高々と七兵衛の前へ並べて吹聴(ふいちょう)しているのを七兵衛は、やはり苦々しく聞いていたが、
「なるほど、そいつはかなり気の利いた仕事をしたものだ、けれども、その手前(てめえ)が、甲府から持越しの意趣を晴らしてえという当の相手はどこにいるんだ、甲府で失策(しくじ)った能登守という殿様は、いま江戸にも姿が見えねえのだ、そうして田舎芝居の盲景清(めくらかげきよ)のように、恨(うら)みの衣裳を引張り廻してみたところで、肝腎の頼朝公が不足していたんじゃあ、芝居にもなるめえじゃねえか」
 七兵衛はこう言って、がんりきをばかにしたような面をすると、
「ナーニ、あの女がここにいるからには、大将だってまんざら遠いところにいるでもあるめえ」
「手前は、まだその見当がつかねえのか」
「兄貴、お前はまたそれを知ってるのか」
 こんなことを話し合っているうちに、二人の話がハタと止んで、やがて滝の川の方面へ忍んで行くらしくあります。

 その翌朝、駒井甚三郎は、例の研究室の前の塀に、ふと妙なものがかかっているのを認めました。皮を剥いだもののように、一枚の裲襠(うちかけ)が塀に張りつけてありました。その上に刀の小柄(こづか)を突き刺して、それに錦の袋に入れた守り刀様のものがぶらさげてありました。
 駒井甚三郎がそれを見た時は、まだ夜があけはなれないうちで、誰もその以前に気がついたものはありませんでした。それを一目見ると駒井甚三郎の面(おもて)に、非常な不快な色がサッと流れました。それは裲襠も守り刀も、共に見覚えのある品でありました。篤(とく)と見ているうちにいよいよ不快の色で満たされて、この時はさすがにこの人も、その憤懣(ふんまん)を隠すことができないらしくありました。
 けれども、また直ぐに窓掛を下ろして、姿を研究室の奥深く隠してしまいました。駒井甚三郎は再びこの不快な一種の曝(さら)し物に眼を注ぐことはなかったけれど、ほどなくその裲襠と守り刀の袋とは、何者かの手によって取外されて、どこへか隠されてしまいました。
 それから程経て、馬を駆(か)ってその普請場から出て行く一個の人影を見ることができました。おそらくそれはその普請場を早朝から巡視に来た役人であったろうけれど、笠を深く被(かぶ)っていたから、誰とも知ることができません。
 その人は馬を駆ってやや暫らく行った時に、途中で行会った百姓男を呼び留めて、
「これこれ」
「はい」
「お前は王子の方へ行くと見えるな、気の毒ながらこれを扇屋まで届けてもらいたいものじゃ」
「へえへえ、よろしうございますとも」
 頼む人が身分ありげな人であって、頼む言葉も丁寧であったから、頼まれた百姓は恐れ入って承知をしました。幸い、この百姓は扇屋の方へ行くべきついでの百姓でありました。馬上の人が取り出したのは一封の手紙らしくあります。
「ただこの手紙を持って扇屋へ立寄り、名宛の人に渡してもらえばよろしい、名宛の人がおらぬ時は、預けておいてよろしい、返事は要らぬ、これは些少(さしょう)ながらのお礼の印」
「どう致しまして、ほんのついででございますから、こんな物をいただいては済みましねえでございます」
 馬上の人はお礼の寸志として、いくらかの金を与えようとしたのを、律義(りちぎ)な百姓は容易に受けようとしませんでした。それを強(し)いて取らせると、百姓は幾度も幾度も繰返してお礼を言い、その手紙を受取り、金の方はいただいていいのだか悪いのだか、まだわからないような面(かお)をしているうちに馬上の人は、
「しからば、確(しか)とお頼み申しましたぞ」
とばかり馬に鞭をくれてサッサと歩ませて行きました。百姓はその後ろ姿を見送って、
「お代官様みたようなエライお方だ、どこのお邸のお方か知らねえけれど」
と言って、その百姓はいま受取った手紙の表を見ると、見事な筆蹟で、
「扇屋にて、宇津木兵馬殿」
と記してありました。

 扇屋の一間に、お君は兵馬を待っていました。遅くも帰るであろうと待っていた兵馬は、ついに帰りません。
 兵馬の身の上にも何か変事はなかったろうかと、それが心配になって、心細いよりは怖ろしさに堪えられないようであります。
 昨夜、床に就いて、うとうととしかけたのはかなり夜が更(ふ)け渡った時分でありました。その時に、枕許に人の足音のすることを、確かにお君は気がついていました。
 兵馬を待ち兼ねている心持だけで、それに気がついたのではありません、お君は物を用心する女でありました。こうなってみると、自分の身が何物より大切に思われるし、また頼りなくも思われてならないのに、この女は、古市(ふるいち)にあって、撥(ばち)を揚げて旅人の投げ銭を受けることを習わせられた手練が、おのずから心の油断を少なくしていました。ふと眼が醒(さ)めた時に、
「誰じゃ」
 誰じゃと咎(とが)めてみた時に、その応答がなくて、何か急に自分の身(からだ)の上へ押しかかるものがあるように思ったから、急いで褥(しとね)を飛び起きて、
「どなたかお出合い下さい、悪者が……」
 こう言って叫びを立てると、
「エエ、いめえましい」
と言って、枕を拾ってお君に打ちつけたのは、怪しい頬冠(ほおかぶ)りの男でありました。
「あれ――」
 お君はこの場合にも身を避けることを知って、その投げつけた枕を外すと、それが行燈(あんどん)に当ってパッと倒れて、燈火(あかり)が消えて暗となりました。
「どなたぞ、おいで下さい、悪者が……」
 この声で扇屋の上下はことごとく眼をさましました。その騒ぎと暗とに紛れて、悪者は疾(と)うにどこへか出て行ってしまって、扇屋の若い者などは空しく力瘤(ちからこぶ)を入れて、その出合わせることの遅かったのを口惜しがりました。幸いにしてお君の身にはなんの怪我もありませんでした。他の客人にも、家の人にも、雇人にも、女中にもなんの怪我もありませんでした。盗難は……盗まれたものは、それを調べてみるとお君は、面の色を変えないわけにはゆきません。
 衣桁(いこう)にかけておいた打掛と、それからさきほど兵馬の手を通じて、主君の駒井能登守が手ずから贈られた記念の二品が、確かになくなっているのであります。これはお君にとっては、身にも換えられないほどの大切な品であります。
 さりとてここでその品物の名を挙げて、宿の者にまで駒井能登守の名を出したくはありません。兵馬さえいたならば何とでも相談相手になろうものを、昨夜に限って戻って来ないことを、残念にも怨みにも、お君は一人でハラハラする胸を押えていました時に、帳場から一封の手紙を届けてきました。その手紙が宇津木兵馬宛になっていることを知って、ともかくも自分が預かることにする。まもなく宇津木兵馬は、一人で立帰って来ました。
 昨夜の出来事を聞いて驚いた上に、さきほど預けられた手紙を渡されてそれを読むと、急いでいずれへか出かけました。
 兵馬の出かけた先は、かの火薬製造所に駒井甚三郎を訪ねんためでありました。いつものところに来ておとのうてみたけれども、もうその人はそこにおりません。誰に尋ねてみることもできず、尋ねてみても知っている人はありません。
 兵馬は空しく先刻の手紙を繰展(くりの)べて読んでみると、簡単に、
「感ずるところあって、当所を立ち退く、行先は当分誰にも語らず、後事よろしく頼む」
というだけの意味であります。
 駒井甚三郎はついにどこへ向けて立去ったか知ることができません。なにゆえに左様に事を急に立去らねばならなくなったのか、推察するに苦しみました。或いはその企てている洋行の機が迫ったために、こうして急に立去ったものかとも思われるが、どうも文面によるとそればかりではないらしく思われる。
 その日のうちに、宇津木兵馬もお君を連れて、扇屋を引払ってしまいました。

         八

 甲府の躑躅(つつじ)ケ崎(さき)の、神尾主膳の別邸の広い庭の中に盤屈(ばんくつ)している馬場の松の根方に、もう幾日というもの、鉄の鎖で二重にも三重にも結びつけられている一頭の猛犬がありました。
 これは間(あい)の山(やま)のお君にとっては、唯一無二の愛犬であったムク犬であります。影の形に添うように、お君の後ろにもムク犬がなければならなかったのに、それが向岳寺の尼寺から、滝の川の扇屋に至るまで、あとを追った形跡の無いということは寧(むし)ろ不思議であります。
 ムク犬を捕えて離さないのは、この馬場の松の老木と、それに絡(から)まる二重三重の鉄の鎖でありました。
 松の樹の下に繋がれているムク犬には、誰も食物を与えるものがないらしくあります。
 それ故に、さしもの猛犬が、いたく衰えて見えます。真黒い毛が縮れて、骨が立っています。前足を組んで、首を俛(た)れて沈黙しています。
 もうかなり長いこと、ここに繋がれているはずなのに、絶えて吠えることをしないから、誰もここにこの犬が繋がれていることをさえ、外では知っている者はないようです。
 たまたま附近の野良犬がこの屋敷へ入り込んで、なにげなくこの近いところへ来て、松の樹の下にムク犬の姿を認めると、急にたじろいで、尾を股の間に入れて逸早(いちはや)く逃げ出すくらいのものでありました。
 ムクが吠えないのは、吠えても無益と思うからでありましょう。吠えてみたところで、今やこの甲府の界隈(かいわい)には、自分の声を理解してくれるものがないと諦めているためかも知れません。それが無い以上は、いかに自分の力を恃(たの)んだところで、馬場美濃守以来という老木を、根こぎにすることは不可能であるし、大象をも繋ぐべきこの二重三重の鎖を、断ち切ることも不可能であることを、徐(おもむ)ろに観念しているためでありましょう。
 こうしてムク犬が沈黙していると、或る日この屋敷の裏口から、怖る怖る入って来た二人の男がありました。
「へえ、御免下さいまし、御本宅の方から頼まれてお犬を拝見に上りました、どなたもおいではございませんか。おいでがございませんければ、お許しが出ているんでございますから、御免を蒙ってお庭先へお通しを願いまして、お犬を拝見が致したいのでございますが、どなたもおいではございませんでございますか」
 二人の男は、極めて卑下(ひげ)した言葉で屋敷の中へ申し入れましたけれども、誰も返事をする者がありませんから、そのまま怖る怖る庭の中へ入って行きました。
 この二人の男の風態(ふうてい)を見ると、二人ともに古編笠を冠(かぶ)っていました。二人ともに目の細かい籠(かご)を肩にかけて、穢(よご)れた着物を着て、草鞋(わらじ)を穿(は)いていました。籠の中に数多(あまた)の雪駄(せった)を入れたところ、言葉つきの卑下しているところや、態度のオドオドしているところなどを見れば、一見してこれは雪駄直しか、犬殺しかの種類に属する人間たちであることがわかります。
「へえ、御免下さいまし、お犬を拝見に出ましてございます」
 誰も挨拶をするものがないのに、卑下した言葉をかけながら、泉水、池、庭を怖る怖る通って、例の馬場の松の大木の下までやって来ました。
「長太、これだこれだ、ここにいたよ、ここにいたよ」
 二人はたちどまって、やや遠くからムク犬の姿をながめて指さしました。
「なるほど、こいつは大(でか)い犬だ、近頃の掘出し物だ、殿様が皮が欲しいとおっしゃるのも御無理はねえ、これなら下手な熊の皮より、よっぽど大したものだ。殿様は生皮(いきがわ)を剥(む)けとおっしゃるが、このくらいの奴に荒(あば)れられると、生皮を剥くにはかなり骨が折れる。なんでもいいから殿様は、生きたままでこいつの皮を剥いてみろとおっしゃる、剥くところを御覧になりたいとおっしゃる、そうおっしゃられてみると、こちとらも商売冥利(みょうり)で、見事に生きたままで皮を剥いてお目にかけますと、言わずにはいられねえ。けれども長太、こいつには、ちっと骨が折れるぞ。いいかげん弱っちゃあいるようだが、無暗に吠えねえで悠々と寝ているところを見ると、肝(きも)っ玉(たま)がありそうな畜生だ。長太、棒を貸しねえ、ちっとばかり突いて怒らしてみねえけりゃあ、どのくらいの奴で、どのくらいにあしらっていいかがわからねえ」
 二人は、ソロソロと寝ているムク犬の傍へ近寄って来ました。
 二人の犬殺しが、ソロソロと近寄った時に、ムク犬はようやく頭を擡(もた)げました。
 頭を上げたけれども、いつものように勇猛の威勢あるムク犬ではありません。二人を見据える眼の力さえ、ややもすれば眠りに落つるような元気のないものであります。
「畜生、弱ってやがる、これなら大丈夫だろう」
 二人の犬殺しは、頭を上げたムク犬の相好(そうごう)を暫らく立って見ていたが、一人が棒を取り出して、
「やい、畜生、どうした」
と言って、その棒をムク犬の顋(あご)の下へ突き込みました。その時にムク犬は、眠そうな眼をジロリと□(みは)って、二人の犬殺しの面(かお)を下から見上げました。
「畜生、どうした」
 顋の下へ突っ込んだ棒を、犬殺しは自棄(やけ)にコジりました。
 その時に、眠っていたようなムク犬の眼が、俄然として蛍の光のように輝きました。それと共に、いま自分の顋の下へ自棄に突っ込んでコジ上げた棒の一端を、ガブリとその口で噛みつきました。
「こいつはいけねえ」
 電気に打たれたように、犬殺しはその棒を手放して一間ばかり飛び退きました。犬殺しの手から噛み取った棒は、ムクの口から放れません。牙がキリキリと鳴りました。さしもに堅い樫(かし)の棒の一端は、みるみる簓(ささら)のようにムク犬の口で噛み砕かれていました。
「こん畜生、嚇(おどか)しやがる、こいつはなかなか一筋縄じゃあ行かねえ」
 犬殺しは胸を撫でながら、再びムク犬の傍へ寄って来ました。俄然として醒(さ)めたムク犬の勇猛ぶりは、確かにこの犬殺しどもの胆(たん)を奪うに充分でありました。けれどもその繋がれている巨大なる松の樹と、それに絡(から)まっている二重三重の鎖は、また彼等を安心させるに充分であります。
「いけねえ、いくら弱りきった畜生だからと言って、突然(だしぬけ)に棒を出せば怒るのはあたりまえだあな、犬も歩けば棒に当るというのはそれだあな、棒なんぞを出さねえで、もっと素直(すなお)にだましてかからなけりゃあ、畜生だって思うようにはならねえのさ」
 犬殺しどもは、何か不得要領なことをブツブツ言って立戻って来て、さきに卸して置いた籠を提げて、またムク犬の傍へ近寄り、
「どうだろう、まあ、この堅い棒を簓(ささら)のようにしやがったぜ、恐ろしい歯の力だ、死物狂いとは言いながら、まだこんなに恐ろしい歯を持った畜生を見たことがねえ、なるほど、これじゃあ殿様がもてあまして、鎖で繋いでお置きなさるがものはあらあ。さあ、こん畜生、今度は棒じゃあねえぞ、御馳走をしてやるんだぞ、それ、これを食え」
 籠の中から取り出したのは竹の皮包の握飯(むすび)でありました。これはこの者どもの弁当ではなくて、犬を懐(なつ)けるために、ワザワザ用意して持って来たものらしくあります。

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