大菩薩峠
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著者名:中里介山 

「さあさあ、樫(かし)の棒なんぞをがりがりと噛んでいたって仕方がねえ、これを食って温和(おとな)しくしろ、そのうちに痛くねえように皮を剥(む)いてやるから。殿様に頼まれたんだから、おれたちも晴れの仕事なんだ、あんまり騒がねえように剥(は)がしてくれろよ」
 こう言って投げてやった握飯が、鼻の先まで転がって来たけれども、ムク犬はそれを一目見たきりで、口をつけようともしませんでした。
「おやおや、こん畜生、行儀がよくていやがらあ、こんなに痩(や)せっこけて餓(かつ)えているくせに」
 二人の犬殺しは、拍子抜けのしたように立っています。

 神尾主膳はこの頃、躑躅ケ崎の下屋敷へ知人を集めて、一つの変った催しをすることにきめました。それは或る時、神尾が二三の人と話のついでに、こんなことが問題になりました、
「精力の強い動物は、極めて巧妙にやりさえすれば、皮を剥がれても生きている、生きていて、皮を剥がれたなりの姿で歩くこともできるものだ」
と主張する者がありました。
「そんなばかなことがあるものか、いくら強い動物だからと言って、全身の生皮(なまかわ)を剥がれて、それで生きていられるはずがあるものか、ましてそれで歩ける道理があるものか、途方もないことを言わぬものだ」
と反駁(はんばく)する者もありました。
「それがあるから不思議だ、まず古いところでは、古事記にある因幡(いなば)の白兎の例を見給え」
と言って主張するものは、大国主神(おおくにぬしのかみ)が鰐(わに)に皮を剥がれた兎を助けた話から、
「それは神代(かみよ)のことで何とも保証はできないが、近くこれこれのところで、猫の生皮を剥いでそれが歩き出した、犬を剥いて試してみたところが、それも見事に歩いたということを、確かな人から聞いた」
というような実例をまことしやかに弁じ立てました。反駁する者は、決してそんなことはあるべきはずのものではないと言い、主張するものはいよいよそれが事実あり得ることで、たとえば居合(いあい)の上手が切れば、切られた人が、切られたことを知らないで歩いていたという実例や、八丁念仏の謂(いわ)れなどを幾つも説いて、それは要するに剥(む)いてみる動物の精力の強弱のみではなく、その皮を剥ぐものの手練と、刃物の利鈍によるというようなことを述べて、決してあいくだりませんでした。
 しかし、これは両方とも、根拠があるようでない議論でありました。なぜといえば主張する者も、書物や又聞(またぎき)を証拠として主張するのであるし、反駁するものも、常識上そんなことが有り得べきものではないという点から反駁するのでありますから、ドチラもこの事実を、目(ま)のあたり見たものの口から出る議論ではありません。
 それを聞いていた神尾主膳は、興味あることに思いました。なるほど常識を以て考うれば、虎や狼にしたところで、皮を剥がれて生きて歩けようとは思い設けられぬこと、しかし主張するものの論から考えると、常識以上の不思議が必ずしもないこととは思われないのであります。そこで神尾主膳は、
「それは近ごろ面白いお話だ、拙者も承っていると、ドチラのお申し分にも、道理がありそうでもあり、ないようでもある、それというのはいずれも、その御実験をごらんなさらぬからのことじゃ、それではいつまで経っても議論の尽きよう道理はござらぬ、なんとそれをひとつ、実地に験(ため)して御覧あってはいかがでござるな」
 こう言い出すと、一座はなるほどと思いました。なるほどとは思ったけれど、
「実地に験してみると言ったところで……」
 それはなかなか容易な実験ではありません。やはり空想にひとしいものだとあきらめているらしいが、神尾だけは何かの当りがあると覚しく、
「幸い、拙者がその実験に恰好(かっこう)な犬を一頭所持致しておる、その犬は精力あくまで強く、打ち殺しても死なぬ犬じゃ、時によっては十日や二十日食わずとも意気の衰えぬ猛犬である、その犬をおのおの方に試験として提供致そう、ひとつ生皮(いきがわ)を剥がして御覧あってはいかがでござる」
「それは近頃の慰み……」
と言うものもありました。よけいなことと眉を顰(ひそ)めるものもありました。言い出した神尾がかえって乗気になって、
「そうじゃ、近いうちおのおの方はじめ有志のお方に、躑躅ケ崎の拙者屋敷へお集まりを願おう、その庭前(にわさき)において右の犬を験(ため)させて御覧に入れたい、これも一つの学問じゃ」
 神尾が進んでその実験を主唱して、それがために日を期して躑躅ケ崎の神尾の屋敷へ、多くの人が招かれることになりました。その集まりの目的は、前に言う通りの残忍なる遊戯のためであります。その残忍なる遊戯に使用さるべき動物は、すなわちムク犬であって、それの遊戯を実行するのは、巨摩郡(こまごおり)から雇われた長吉、長太という二人の犬殺しの名人であって、それを見物するのが主催者の神尾主膳をはじめ、勤番の上下にわたる有志の者であります。
 二人の犬殺しは、その前日来、しきりに犬を手慣らすことに骨を折りました。最初の時にガリガリと棒を噛み砕いただけで、その後は、やはり眠そうにしているばかりで、別に二人の犬殺しに反抗する模様も見えませんでした。それで犬殺しは安心したけれども、なお気に入らないことは、いくら食物を与えてもこの犬が、それを欲しがらないことであります。
 いろいろにして食物を欲しがるように仕向けたけれど、これだけはついに成功しないで、その試験の当日になりました。
 犬殺しどもにもまた大きな責任があります。その皮を剥(む)き損ずるか、剥き了(おお)せるかによって議論も定まるし、自分たちの腕も定まるのでありました。二人が同時に刀(とう)を揮(ふる)って、出来得る限りの巧妙と迅速とを尽して、生きながら犬の皮をクルクルと剥いてしまって、それでなお、いくらかの生命を保たせ得るかどうかというのがその試験の眼目であります。
 むつかしいのは皮を剥くそのことでなく、皮を剥くまでの間、生きた犬をどうしてじっとさせて置くかでありました。二人の犬殺しの苦心もまたそこにあって、いろいろに犬を手懐(てなず)けようとしたのもそれがためでありました。しかし、見込み通り二人の犬殺しに懐(なつ)くかどうかは、犬を扱い慣れたこの犬殺しどもにもまだ自信がありません。与える食物は取らないけれど、その温順であるらしいことが、いくらかの心恃(こころだの)みにはなっていただけであります。こうして首へ縄をかけて松の枝へつるし、四本の足へも縄をつけて四方へ張っておいて、身動きのできないようにしておいて、それから仕事にかかるというのが順序であって、それはほぼ見当がついているのであります。
 神尾の招いた多くの人は、その当日の定刻に続々と詰めかけて来ました。広間の中や縁のあたりに居溢(いこぼ)れて、みんなの眼は松の木の下の真黒い動物に注(そそ)がれています。なかには立って行って、わざわざその動物の委細を検分しているものもありました。
「ありゃ、元の支配の邸にいた犬ではござらぬか」
「うむ」
 こう言ってムク犬を評していたものもありましたけれど、元の支配ということだけすらが、この席では禁句でもあるかのように、
「うむ」
と言って噛み殺すように頷(うなず)いたばかりで、駒井とか能登守とも言うものはありませんでした。ましてお君とか米友とかいうものの名は、誰の口にも上るではありません。
 ここで験(ため)し物(もの)になるべき犬に対しても、多少の同情を持ったものがこのなかに無いとは申されません。しかし、集まっているものはみな武士(さむらい)でありました。切捨御免を許されている武士たちでありました。これらの人は時としては人命をも刀の試しに供して、それをあたりまえだと信じている人であり、また時としては左様な残忍な行いもしてみなければ、武士の胆力が据(すわ)らぬと考えているようなものもありましたから、日頃は善良と言われている人でも、残忍な遊戯の前に目をつぶらないことが武士の嗜(たしな)みの一つだと考えもし、人にも奨励するような習慣もある。いわんや生きた人命でなく、たかが一疋の犬だもの。
 こうして遊戯の選手に当るべき犬殺しの来るのを待っている間に、例の長吉、長太の犬殺しが、犬潜(いぬくぐ)りから入って来ました。
 生きながら皮を剥かれてその動物が、なお生きて動けるかどうかというような議論の、非常識であることは申すまでもありません。それを実行せしめようとする神尾主膳らの心持もまた、人間並みの沙汰(さた)ではありません。それを引受けた犬殺しは、商売だから論外に置くとしても、彼等はそれを引受けて、見事やり了(おお)せるつもりで出て来たのか知らん。やり了せても、やり損っても、武士(さむらい)たちの高圧でぜひなくこんな仕事を引受けたものに相違ないのであります。
 それだから彼等には、皮を剥いて、それが生きていようとも死んでしまおうとも、それには責任がなくて、ただ剥ぎぶりの手際の鮮やかなところを御覧に入れさえすれば、義務が済むものと心得ているらしい。
 犬殺しが入って来たのを見ると、主人役の神尾主膳を初めとして、見物の人は緊張しました。犬殺しは遠くの方から、怖る怖る地上へ膝行(しっこう)して集まった人たちを仰ぎ見ることをしないで、犬の方へばかり近寄って行きました。
 さきほどからの物々しい光景を見ていたムク犬は、今日は、いつものように眠そうな眼が、ようやく冴(さ)えてきたようであります。首を立てて集まっている武士たちを、深い眼つきで見つめておりました。
 その有様は、何か事あるのを悟って、いささか用意するところあるもののようにも見えます。
 さて、犬殺しが犬潜りから入って来た時分に、ムク犬の眼が爛(らん)としてかがやきました。
 やや離れたところへ着いた犬殺しは、二人ともに籠(かご)をそこへ下ろして、籠の中から大きな鎌を取り出してまず腰にさし、それから筵(むしろ)を敷いてその上へ尻を卸し、次に籠の中からいろいろの道具を取り出して、道具調べにかかりました。その道具というのは、一束の細引と、鉄製の環(かん)と、大小幾通りの庖丁(ほうちょう)と、小刀と、小さな鋸(のこぎり)などの類(たぐい)であります。
「長太、どうもあの鉄の鎖が邪魔になって仕方がねえな」
 長吉は犬を見ながらこう言って長太を顧みると、長太はもっともという面(かお)をして、
「そうだ、あの鎖を外(はず)してかからなけりゃあ思うようにはやれねえ」
 二人は今に至っても、まだムク犬の首に捲きつけられた二重三重の鉄の鎖を問題にしているのであります。実際、あの鎖があっては、皮を剥きにかかる時に、どのくらい邪魔になるかということは、素人目(しろうとめ)にも想像されることです。
「だからおれは、あいつを外してしまって、その代りにこの環(かん)を首へはめて、細引で松の枝へ吊(つる)しておいて仕事にかかりてえと思うのだ」
「けれども、あのくらいの犬だから、細引じゃあむずかしかろうと思われるぜ」
「ナーニ、大丈夫だ、こいつを二重にして引括(ひっくく)れば何のことはあるものか」
「じゃあ、そういうことにしよう、いちばん先に口環(くちわ)をはめるんだな、口環を」
 用意して来た革製の口環を取って二人が、やがてムク犬の方へ近寄りますと、今まで伏していたムク犬がこの時に立ち上りました。
「やい畜生、温順(おとな)しく往生しろよ」
 二人の犬殺しは尋常の犬殺しにかかるつもりで、左右から歩み寄って、一人は例の握飯(むすび)を投げて、一人は投網(とあみ)を構えるように口環を拡げて、
「それ、こん畜生、口をこっちへ出せ」
 呼吸を計って両方から、ムク犬を伸伏(のっぷ)せるようにして口環をはめようとすると、ムク犬は猛然としてその痩(や)せた身体を左右に振りました。
「危ねえ、こん畜生」
 二人の犬殺しはその勢いに狼狽したが、
「こいつはいけねえ、どうしても首を松の木へ吊り下げておいてからでねえと」
 二人の犬殺しは、手際よく口環をはめてしまうつもりであったところが意外の手強(てごわ)さに、やや当(あて)が外れて、まずどうしても松の枝へ縄をかけて、首を或る程度まで締め上げておいてから、仕事にかからねばならぬと覚(さと)りました。
 麻縄の細引へ輪をこしらえ、それをムク犬の首へ投げかけること、それは近寄って口環をはめることよりも遥かに容易(たやす)い仕事でもあり、充分の熟練を持っておりました。
 難なくムク犬の首を麻縄で括(くく)って、それを松の枝へ引き通して、悠々と引き上げにかかりました。けれども、不幸にして、最初から捲いてあった二重三重の鉄の鎖が取れていないのだから、ある程度までしか引き上げることはできません。
 彼等の目的は、こうして首をしめてしまわない程度において、後足で直立するほどに犬の首を引き上げて、前へ廻って腹を見られるくらいにして置いて、仕事にかかろうというのであります。
 すでに首へ縄を捲きつけて、その縄を松の枝から通してしまった以上は、さながらムク犬の身体は起重機にかけられたと同じことであります。若干の力で縄の一端を引張りさえすれば、ムク犬は腹を前にして、前足を宙に上げるような仕掛けにされてしまいました。
 ただ例の鎖が捲きつけてあるがために、ある程度より上へは浮かないから、折角捲きつけた首の縄も、ムク犬には更に苦痛を覚えないのであります。だから、次の仕事はどうしても、その鉄の鎖を取外すことでなければなりません。
「なかなか大した鎖だ、合鍵がお借り申してあるから、これで錠前を外すがいい、それ、細引はよく松の樹へ捲きつけておかねえと、鎖を外す拍子に、縄がゆるむと間違えが出来るだ」
 周到な用心と警戒の下に、鎖を外しにかかりました。
 この前後の間におけるムク犬の身体には、更に隙(すき)がありませんでした。四つの足は合掌枠(がっしょうわく)のように剛(つよ)く突っ張って、その眼は間断なく犬殺しどもの挙動を見廻して、その口からようやく唸(うな)りを立てはじめていました。痩せた身体がブルブルと身震いをはじめました。
 広間と縁側とで見物していた武士の連中は、固唾(かたず)を呑みはじめました。犬殺しは、日頃の技倆を手際よく見せようという心であります。武士たちは、前代にもあまり例(ためし)の少ない生きたものの皮剥ぎを、興味を以て見物しようというのであります。ほいと非人の階級は、頼まれれば生きた人間の磔刑(はりつけ)をさえ請負(うけお)うのであるから、犬なんぞは朝飯前のものであります。また武士たちとても、同じ人間を斬捨てることを商売にしていた時代もあるのだから、たかが生きた犬の皮剥ぎを実地に御覧になるということも、そんなに良心には牴触(ていしょく)しないで、かえって残忍性の快楽をそそるくらいのものでありました。
 もし、犬の代りに生きた人間を使用することができたならば、ここに集まる武士たちのうちの幾人かは、もっと痛快味を刺戟されたかも知れません。さすがにそれはできないから、猛犬を以て甘んずるというような種類(たぐい)もあったでありましょう。
 犬の首から松の枝へかけた細引を、しかと松の大木の幹へグルグルと絡(から)げておいてから、二人の犬殺しは、ムク犬の首に二重三重に繋がれた鉄の鎖を解きにかかりました。一象の力を以てしても断ち切ることのできない鎖も、錠前を以てすれば、軽々と外すことができるのであります。
「それ!」
 長太が外した鎖をガチャリと投げ出した途端に、ムク犬が山の崩れるように吠え出しました。
「失敗(しま)った!」
 細引を手に持っている長吉が、絶望に近い叫びを立てました。
「失敗った!」
 長吉が絶望的の叫びを為した時に、ズルズルとその手に持っていた細引に引摺られて行きます。
「こいつは堪(たま)らねえ」
 長太は狼狽して、長吉の引摺られて行く細引にとりつきました。
 これは本当に思い設けぬ大変でありました。鎖を外した瞬間に、聡明なるムク犬は全身の力を集めて前へ飛び出しました。縄は松ケ枝から幹をズルズルと辷(すべ)って、それを結び直す隙を与えませんでした。縄にすがりついた長吉は、これも全身の力を注いで引き留めようとしたけれど、力に余ってズルズルと引摺られた上に横倒しになりました。それに力を合せようと周章(あわ)てた長太ももろともに引摺られて横倒しになりました。
 前へ飛び出したムク犬の首には、二人のとりすがっている麻縄と、前から繋いであったそれと、たったいま解かれた鉄の鎖とがくっついています。
 麻の縄にとりすがる長吉、長太の二人と鉄の鎖とを引摺って、ムク犬は、口の裂けるような叫びと唸りとを立てました。
「スワ!」
と、広間と縁側とに集まってこの場の体(てい)を見物していた武士たちも、この時に思わずどよめきました。
 いったん、麻縄にとりついて横倒しになった長太は直ぐに起き上りました。長吉はなお必死とその縄にすがりついて引摺られて行きました。起き上った長太は、そこへ並べてあった棍棒(こんぼう)を取り上げて、ムク犬の前に迫り、
「こん畜生!」
 長太はその棍棒を振りかざして、無二無三にムク犬に打ってかかる。長吉は、なお一生懸命に縄にとりついている。縄にとりついている長吉を引摺りながら、前から棒で打ってかかった長太に向って、烈しき怒りと共に、ムク犬は嚇(かっ)と大口をあきました。
「畜生、畜生、畜生」
 たしかにやり損った長太は、夢中になって棍棒を振り上げて、ムク犬を滅多打(めったう)ちに打ちかかりました。けれどもその棒はムク犬の急所に当ることがなく、滅多打ちにのぼせている長太の咽喉の横から、ガブリとムク犬がその巨口を一つ当てましたから、
「呀(あっ)!」
 長太は棒を投げ出して仰向けに倒れる時に、ムク犬は、倒れた長太の身体を乗り越えて前へ出ました。縄にすがっていた長吉は、手球(てだま)のようにそれについて引摺られる。
「長太、どうした」
「長吉、放すな」
 長太はいよいよ血迷って、噛まれて倒れながらムク犬の身体を抱きました。長吉が引摺られながらも縄を放さないで苦しがっているのも、長太が半死半生になりつつも、このさい猛犬の身体に噛(かじ)りつこうとするのも、もう周章狼狽の極でありますけれど、一つには彼等はこうして身を以てしても、猛犬を引留めなければならないのであります。
 自分たちの手抜かりから猛獣の絆(きずな)を絶ってしまったことは、申しわけのない失敗だけれど、それよりもこの死物狂いの猛犬が、あのお歴々のおいでになるところへ飛び込みでもしようものならば、なんともかとも言い難き椿事(ちんじ)を引起すのであります。
 だから彼等としても、周章狼狽の極にありながら、身が粉(こ)になるまでも、その責任に当らねばならぬ自覚に動かされないわけにはゆきません。けれどもそれは無益でありました。抱きついた長太はひとたまりもなく振り飛ばされ、引摺られた長吉は二三間跳ね飛ばされました。
 事態穏かならずと見て取った見物の武士たちは総立ちです。
 さすがに女子供ではなかったから、犬が狂い出したというて、逃げ迷うものはありませんでしたけれど、事の態(てい)に安からずと思って立ち上りました。
 二人の犬殺しを振り飛ばしたムク犬は、一散に走ろうとして――その逃げ場を見廻したもののようでしたけれど、いずれの口も固められて、逃れ出でんとするところのないのを見て、烈しい唸り声と共に両足を揃えて、暫らく立っていました。
「こん畜生!」
 二人の犬殺しは、いよいよ血迷うて、手に手に腰に差していた大きな犬鎌を抜いて打振り廻して、噛まれた創(きず)や摺創(すりきず)で血塗(ちまみ)れになりつつ、当途(あてど)もなく犬鎌を振り廻して騒ぎ立つ有様は、犬よりも人の方が狂い出したようであります。
 この時、神尾主膳は――よせばよかったのですけれども、来客の手前と、例の通り酒気を帯びていたのだから嚇(かっ)と怒って、真先に自分が長押(なげし)から九尺柄の槍を押取(おっと)りました。自身、手を下すまでのこともなかろうに、憤怒(ふんぬ)のあまり、神尾主膳は九尺柄の槍の鞘を払うと共に、縁の上からヒラリと庭へ飛び下りましたから、
「神尾殿、お危のうござる」
 皆が留めたけれども、主膳は留まりませんでした。りゅうりゅうとその槍をしごいて、いま身震いして立ち迷うているムク犬の前に、風を切ってその槍を突き出しました。
 神尾主膳といえども武術には、また一通りの手腕のあるものであります。怒りに乗じて突き出す槍が、かなり鋭いものであることは申すまでもありません。
 ムク犬は後ろへ退(しさ)ってその槍の鉾先(ほこさき)を避けました。勢い込んだ神尾主膳は、逃(のが)さじとそれを突っかけます。
 酒の勢いを仮(か)る主膳の勇気は、一座のお客を歎賞せしめるより、寧(むし)ろその無謀に驚かせました。しかし、主人がこうして出たのに、客も黙って引込んではいられないのであります。ぜひなく刀を押取って主膳の後ろ、或いはその左右から応援に出かけました。錆槍(さびやり)を借りて横合より突っかける者もありました。
 ムクが主膳の槍先を避けたのは、或いはこの家の主人に遠慮をして避けたのかも知れません。好んで人に喰いつくものでないことを示すために、最初しかるべき逃げ場を求めていたのかも知れません。しかし、こうなってみてはムクとして、自分の生存のためにも立って戦わなければなりません。その相手の武士であると犬殺しであるとに論なく、牙(きば)に当る限りは噛み散らし、顋(あご)に触るる限りは噛み砕いても、この場を逃れるよりほかはないのであります。
 いま猛然と突き出した神尾主膳の槍を、ムク犬はスウッと潜(くぐ)りました。その首には前のように鉄の鎖と麻縄とをひいたままで、槍の上からムク犬は、一足飛びに神尾主膳の頭の上まで飛びました。
「小癪(こしゃく)な!」
 主膳は槍を手許につめて、身を沈ませて上から飛びかかるムク犬を、下から突き立てようとしました。その隙(すき)を与えることなく、ムク犬はガブリと神尾主膳の左の肩先へ食いつきました。
「呀(あ)ッ」
 神尾は槍を持ったまま後ろへ倒れるのを、それッと言って応援の者が、ムク犬に槍を突っかけました。ムクは転じてその槍をまた乗り越えました。ムク犬は単に勇猛なる犬であったのみならず、女軽業の一座に仕込まれたために、比類なき身の軽さを持っていました。そうしてヒラリ、ヒラリと人の頭の上を飛ぶことは、多くの敵手を悩ますことにおいて有利な戦法であります。
 それより以後におけるムク犬の荒(あば)れ方は、縦横無尽というものであります。
 武士と言わず犬殺しと言わず、その人の頭を飛び越して、ついに座敷の中へ乱入してしまいました。乱入したのではなく、ムクとしては、やはりその逃げ場を求むるために、心ならずも人間の住む畳の上まで上ってしまったものであります。
 家の中へ犬を追い入れた時は、たしかに犬にとってはいよいよ有利で、人間にとってはなかなか不利益でありました。単身にして身の軽い犬は、間毎間毎を飛び廻るのに自由であります。
 槍を持ったり、刀を持ったり、棒を持ったりして追い廻す人間は、家の中に於ての働きが不自由です。あっちへ行った、こっちへ来た、それ裏へ出た、表へ廻った、縁の下へ潜(もぐ)った、物置へ隠れたと言って騒いでいるうちに、そのいずれの口から逃げ去ったか知れないが、屋敷の中の湧き返るような騒ぎを後にして、ムク犬の姿は、この屋敷のいずれかの場所からか逃げ出してしまったものであります。
 山へ逃げた、林へ隠れた、畑にいたと、家の中の騒ぎが外へ出た時分には、ムク犬はそのいずれの場所にもいませんでした。この催しのためにはさんざんの失敗であったけれども、ムク犬のためには意外の救いが偶然のように起り、少なくともこの場所で、残忍な試験に供せらるるだけの憂目(うきめ)は免れることを得て、いずれへか逃げ去りました。しかし、こうなってみると、これから後、どこまでムク犬が逃げ了(おお)せられるかどうかは疑問であります。武家屋敷の召使や附近の百姓らは総出で、狂犬のあとを追うべく、山や、林や、畑から、巻狩(まきがり)のような陣立てをととのえたのは、それから長い後のことではありませんでした。
 左の肩先を犬に噛まれた神尾主膳は――一時それがために倒れて気絶したように見えました。駈け寄って介抱したもののために、直ぐに正気はつきましたけれど、それがために主膳の怒りは頂上に達し、
「憎い非人ども!」
 威丈高(いたけだか)になって、今しも、ムク犬を追って、外へ出ようとする犬殺しを呼び留めました。
「へいへい」
 そこへへたへたと跪(かしこ)まる犬殺しどもに、
「貴様たちは言語道断(ごんごどうだん)の奴等だ、このザマは何事だ」
「誠に申しわけがござりませぬ、温和(おとな)しそうな犬でございましたから、決してこんなことはなかろうと思いまして」
「黙れ! 馬鹿者」
 主膳は肩先に療治を受けて布を捲いてもらいながら、そのにえたつような憤懣(ふんまん)を、犬殺しどもの頭から浴びせかけました。犬殺しどもは恐れ入って顔の色はありません。
「もとはと言えば貴様たちの未熟だ、犬にも劣った畜生め、どうしてくりょう」
 神尾主膳の眼にキラキラと黄色い色が見えたかと思うと、矢庭(やにわ)にその突いていた槍を取り直し、
「馬鹿め!」
 恐れ入っていた長太を覘(ねら)って、胸許(むなもと)からグサとその槍を突き通しました。
「あっ! 殿様!」
 長太は、のたうち廻って苦しみました。その手には胸許を突き貫(ぬ)かれた槍の柄をしかと握り、
「殿様、あんまり……そりゃ」
と言って、あとは言えないで七転八倒の苦しみであります。
「殿様、そりゃ、あんまりお情けのうございます」
 長太の言えないところを長吉が引取って、眼の色を変え犬鎌を持って立ち上るところを、
「汝(おの)れも!」
と言って、長太の胸から抜いた槍で、また長吉の胸をグサと一突き。

 神尾の下屋敷から脱することを得たムク犬は、山へも逃げず、里へも逃げず、首に鎖と縄を引張ったまま只走(ひたばし)りに走って、塩山(えんざん)の恵林寺(えりんじ)の前へ来ると、直ぐにその門内へ飛び込んでしまいました。山へも里へも入らなかったこの犬が、何の心あって寺へ入ったか、犬の心持を知ることはできません。
 街道でも門外でも騒いだように、恵林寺の門内へこの珍客が案内もなく飛び込んだ時には、一山の大衆を騒がせました。
「ソレ狂犬(やまいぬ)だ!」
 庭を掃いていた坊主は、箒を振り上げました。味噌をすっていた納所(なっしょ)は、摺古木(すりこぎ)を担ぎ出しました。そのほかいろいろの得物(えもの)を持って、このすさまじい風来犬(ふうらいいぬ)を追い立てました。門外へ追い出そうとしてかえって、方丈へ追い込んでしまいます。
 一山の大衆は、面白半分にこの犬を追廻すのであります。追われるムク犬は、敢(あえ)てそれに向おうともしない。寧ろ哀れみを乞うようにして逃げるのを、大衆は盛んに追いかけて、あっちへ行った、こっちへ来たと騒ぎ立っています。
 例の慢心和尚はこの時、点心(てんじん)でありました。膳に向って糊(のり)のようなお粥(かゆ)のようなものを一心に食べていました。その食事の鼻先へ、ムク犬が呻(あえ)ぎ呻ぎ逃げ込んで来ました。
「そーれ、そっちへ行った」
「やーれ、こっちへ行った」
 箒坊主や、味噌摺坊主(みそすりぼうず)は、いよいよ面白がってここまで追い詰めて来ると、
「何だ何だ、やかましい」
 慢心和尚は、大きな声で右の坊主どもをたしなめます。
「和尚様、狂犬(やまいぬ)が飛び込みましたぜ、西の方から牢破りをして逃げた狂犬ですぜ、それが今、このお寺の中へ逃げ込んでしまいました、だからこうして追い飛ばしているのでございます」
「よけいなことをするな、そんなことをする暇に、味噌でもすれ」
 慢心和尚は、群がっている大坊主や小坊主を叱り飛ばして、
「クロか、クロか、さあ来い、来い」
と言って手招ぎました。
 人に狎(な)れることの少ないムク犬が、招かれた慢心和尚の面(かお)をじっと見つめながら、尾を振ってそこへキチンと跪(かしこ)まったのは、物の不思議です。
「狂犬であるか、狂犬でないか、眼つきを見ればすぐわかるじゃ、この犬を狂犬と見る貴様たちの方に、よっぽどヤマしいところがある」
 慢心和尚は、こんな苦しい洒落(しゃれ)を言いながら、いま食べてしまった黒塗のお椀を取って、傍にいた給仕の小坊主に、
「もう一杯」
と言ってお盆の上へそのお椀を載せました。小坊主が心得て、いま食べたと同じような、お粥のような糊のようなものをそのお椀に一杯よそって来ると、
「南無黒犬大明神」
と言って推(お)しいただいて、恭(うやうや)しく座を立って、ムク犬の前へ自身に持って来ました。
 そのお椀を目八分に捧げて、推しいただいて持って来る有様というものが馬鹿丁寧で、見ていられるものではありません。
「南無黒犬大明神様、何もございませんが、これを召上って暫時のお凌(しの)ぎをあそばされましょう」
 縁のところへさしおいて、犬に向って三拝する有様というものは、正気の沙汰ではありません。
 しかしながら、なお不思議なことは、神尾の下屋敷で、何を与えられても口を触れることだにしなかったムク犬が、この一椀のお粥とも糊ともつかぬものを、初対面の慢心和尚から捧げられると、さも嬉しげに舌を鳴らして食べはじめたことであります。

         九

 これより先、浪人たちに怨(うら)まれて、両国橋に梟(さら)された本所の相生町の箱屋惣兵衛の家が、何者かによって買取られて、新たに修復を加えられて、別のもののようになりました。
 この家は、主人の箱惣が殺されて以来、一家は四散し、親戚の者も天誅(てんちゅう)を怖れて近寄るものがありませんでしたから、町内で保管し、一時は宇治山田の米友が、その番人に頼まれて、槍を揮(ふる)って怪しい浪人を追ったことなどもありました。
 この家は何者によって買取られたか知れないが、持主がかわり修理が加えられると共に、そこに出入りするのは異種異様の人であることが、多少、近所のものの眼を引きました。身分あるらしい武士であり、或いは大名の奥に仕えるらしい女中であり、或いはまた諸国の商人のようなものまで集まりました。女房子供の類(たぐい)は一つも見えないで、これが主人と見えるのは、額(ひたい)に波を打つ大白髪(おおしらが)の老女でありました。
 この老女は、気軽におりおりは一人で外出することもあり、また若い女中をつれて外出することもあり、物々しく乗物で乗り出すこともありました。たしかに武家出の人であって、一見して女丈夫とも思われるくらいの権(けん)の高い老女であります。
 この老女の家には、前に言う通り絶えず食客がありました。その食客はまた武士であり、商人風の者であり、或いは労働者らしい身なりの者などもありました。けれど老女は来る者を拒(こば)むことなく、ことごとく自分の子供であるかの如く、その広い家を開放して彼等の出入りの自由に任せ、その窮した者には小遣銭(こづかいせん)までも与えてやっているようです。
 食客連は、また己(おの)れが屋敷に帰ったような気取りで、或いは黙々として勘考をしているものもあれば、或いは寄り集まって、腕を扼(やく)しながら当世のことを論じて夜を明かすものもありました。
 老女にとっては、それが大機嫌であるらしく、食客連の間で議論が決しない時は、老女のところへ持って出て、裁判を請うようなこともありました。
 こんなに多くの食客を絶えず世話している老女の手許には、別に幾人かの女中や下働きが置いてありました。しかし、その男女間の別はかなり厳しいもので、食客連の放言高談には寛大である老女も、それと女中部屋との交渉は鉄(くろがね)の関を置いて、何人(なんぴと)をも一歩もこの境を犯すことのないようにしてあることでもわかります。
 この老女が何者であろうということが、ようやく近所から町内の評判になる前に、その筋の注意を惹(ひ)かないわけにはゆきません。
 けれども、その筋においても、一応内偵(ないてい)しての上、どうしたものか急に手を引いてしまったらしいようであります。
 ここにおいて、老女の身辺には幾多の臆測が加わりました。誰いうとなく、こんなことを言うものがあります。
 十三代の将軍温恭院殿(おんきょういんでん)(家定(いえさだ))の御台所(みだいどころ)は、薩摩の島津斉彬(しまづなりあきら)の娘さんであります。お輿入(こしいれ)があってから僅か三年に満たないうちに、将軍が亡くなりました。二十四の年に後家さんになった将軍の御台所が、すなわち天璋院(てんしょういん)であります。天璋院殿は島津の息女であったけれども、近衛家(このえけ)の養女として、将軍家定に縁附いたものだということであります。この老女は、その天璋院殿のために、薩摩から特に選ばれて附けられた人であるというのが一説であります。
 その説によると、この老女の背後には、将軍の御台所の権威と、大大名の薩摩の勢力とが加えられてあるわけであります。だからそこへ出入りする浪士体の者の中には薩摩弁の者が多く、そうでないにしても、九州言葉の者が多いのが何よりの証拠だということであります。それでこの老女は、薩摩の家老の母親で、天璋院殿のためには外(よそ)ながら後見の地位におり、ややもすれば暗雲の蟠(わだかま)る大奥の勢力争いを、ここに離れて見張っているのだということであります。将軍の御台所も、薩摩の殿様でさえも一目置くくらいの権威があるのだから、ここへ出入りする武士どもを、子供扱いにするのは無理のないことだというような説もなるほどと聞ける。
 もう一つの説は、こうであります。
 十三代の将軍が、わずかに三十五歳で亡くなった後に、幕府では例の継嗣(けいし)問題で騒ぎました。その揚句(あげく)に紀州から迎えられたのが十四代の将軍昭徳院殿(しょうとくいんでん)(家茂(いえもち))であります。この家茂に降嫁された夫人が、すなわち和宮(かずのみや)であります。和宮は時の帝(みかど)、孝明天皇の御妹であらせられました。
 それが京都と関東との御仲の御合体のためにとて御降嫁になったことは、その時代において、この上もなき大慶のこととされておりました。
 疑問の老女は、和宮様のために公家(こうけ)から附けられた重い役目の人であるというのも、なるほどと聞かれる説でありました。もしそうだとすれば、これは前の説よりも一層、威権を加えた後光(ごこう)であります。それを知ってその筋が、内偵の手を引いたのももっともと頷(うなず)かれる次第でありました。
 こんなふうに後光の射すほど、老女の隠れた勢力を信用しているものもあれば、また一説には、ナニあれはそんな混入(こみい)った威権を笠にきている女ではない、単に一種の女丈夫であるに過ぎない。たとえば筑前の野村望東尼(のむらもとに)といったような質(たち)の女で、生来ああした気象の下に志士たちの世話をしたがり、その徳で諸藩の内から少なからぬ給与を贈るものがあり、志士もまたこの家をもっともよき避難所としているに過ぎないという説も、なるほどと聞かれないではありません。
 いずれにしてもこの老女がただものでないということと、ただものでないながら、こうして通して行ける徳望は認めなければならないのであります。侠気(きょうき)、胆力、度量、寧(むし)ろ女性にはあらずもがなの諸徳を、この老女は多分に持っているには違いありません。
 別に、この老女が愛して、手許から離さぬ一人の若い娘がありました。これは疑問の余地がなく、甲州から男装して逃げて来た松女であります。老女が外出する時も、そのお伴(とも)をして行くのは大抵は松女でありました。
 甲州街道でお松の危難を助けて、江戸へ下った南条なにがしもまた、この老女の許(もと)へ出入りする武士のうちの重(おも)なる一人でありました。
 南条なにがしは、お松を助けて江戸へ出て、それからこの老女にお松の身を托したということは、おのずから明らかになってくる筋道であります。
 或る日、南条なにがしは、不意に一人の人をつれてこの家を訪れ、老女の傍にいたお松を顧みて、
「お松どの、珍らしい人にお引合せ申そう、奢(おご)らなくてはいかん」
と冗談(じょうだん)を言いながら、
「宇津木」
と呼びました。次の間にいた兵馬が、なにげなくこの座敷へ通ってまず驚いたのは、そこにお松のいることでありました。お松もまた一見してその驚きと喜びとは、想像に余りあることでありました。
「まあ、兵馬さん」
 甲府以来、その消息を知ることのできなかった二人が、ここで思いがけなく面(かお)を合せるということは、全く夢のようなことであります。
「いや、これには一場の物語がある、君に事実を知らせずに連れて来たのは罪のようだけれど、底を割らぬうちが一興じゃと思うて、こうして連れて来た。お松どのを、御老女の手許までお世話を頼んだのは拙者の計らい、その顛末(てんまつ)は、ゆっくりとお松どのの口から聞いたがよい。今宵は当家へ御厄介になってはどうじゃ、拙者も当分この家へ居候(いそうろう)をするつもりだ」
 そこでお松は兵馬を別間へ案内して、それから一別以来のことを洩(も)れなく語って、泣いたり笑ったりするような水入らずの話に打解けることができたのは、全く夢にみるような嬉しさでありました。
 こうして二人は無事を喜び合った後に、さしあたって、兵馬の思案に余るお君の身の上のことに話が廻って行くのは自然の筋道です。
 甲府における駒井能登守の失脚をよく知っているお松には、一層、お君の身が心配でたまりませんでした。なんにしてもそれが無事で、この近いところへ来て、兵馬に保護されているということは、死んだ姉妹が甦(よみがえ)った知らせを聞くのと同じような心持であります。
 そうして二人が思案を凝(こ)らすまでもなく、今のお君の身の上を、当家の老女にお頼みするのが何よりも策の得たものと考えついたのは、二人一緒でした。
 兵馬は、ようやくに重荷を卸(おろ)した思いをしました。お松の話を聞いてみれば、若い女を預けて、少しも心置きのないのは実にこの老女である。求めて探しても斯様(かよう)な親船は無かろうのに、偶然それを発見し得たことの仕合せを、兵馬は雀躍(こおどり)して欣(よろこ)ばないわけにはゆきません。
 その夜は南条と共にこの家に枕を並べて寝(い)ね、翌朝早々に兵馬は王子へ帰りました。帰って見ればあの事件。
 しかし、幸いにお君の身の上は無事で、兵馬と共に扇屋を引払って落着いたところが、この家であることは申すまでもありません。

         十

 ここに例の長者町の道庵先生の近況について、悲しむべき報道を齎(もたら)さねばなりません。
 それはほかならぬ道庵先生が不憫(ふびん)なことに、その筋から手錠三十日間というお灸(きゅう)を据(す)えられて、屋敷に呻吟(しんぎん)しているということであります。
 道庵ともあるべきものが、なぜこんな目に逢わされたかというに、その径路(すじみち)を一通り聞けば、なるほどと思われないこともありません。
 道庵の罪は、単に鰡八(ぼらはち)に反抗したというだけではありませんでした。鰡八に反抗したということだけでは、決して罪になるものではありません。ただその反抗の手段が、いささか常軌を逸しただけに、その筋でも、どうも見逃し難くなったものと見なければなりません。
 道庵先生の隣に鰡八大尽の妾宅があることは、廻り合せとは言いながら、どうしても一種の皮肉な社会現象であると見なければなりません。それで道庵が兄哥連(あにいれん)を狩催(かりもよお)して馬鹿囃子(ばかばやし)をはじめると、大尽の方では絶世の美人を集めたり、朝鮮の芝居を打ったりして人気を取るのであります。
 しかしながら道庵の方は、何を言うにも十八文の貧乏医者であります。鰡八の方は、ほとんど無限の金力を持っているのだから、ややもすれば圧倒され気味であることは、道庵にとって非常に同情をせねばならぬことであります。
 また一方では、大尽のお附の者共が、盛んに手を廻して、道庵のあたり近所の家屋敷を買いつぶすのであります。そうしてそれをドシドシ庭にしたり、御殿にしたりして、今は道庵の屋敷は三方からその土木の建築に取囲まれて、昼なお暗き有様となってしまいました。
 このごろでは、道庵は毎日毎日屋根の櫓(やぐら)の上へ上って、その有様を見て腹を立っていました。そのうちにも何かしかるべき方案を考えて、朝鮮芝居以来の鬱憤を晴らしてやろうと、寝た間もそれを忘れることではありませんでした。
 勝ち誇った鰡八側では、これであの貧乏医者を凹(へこ)ましたと思って、一同が溜飲を下げて当り祝などをして、その後は暫らく表立った張り合いがありませんでした。鰡八の方はそれで道庵が全く閉口したものと思い、事実において敵が降参してしまった以上は、それを追究がましいことをするのは大人気(おとなげ)ないと思ってそのままにし、近所へは甘酒だの餅だのをたくさんに配り物をしましたから、さすがは大尽だといって、住宅を買いつぶされた人たちも、あまり悪い心持をしませんでした。すべてにおいて大尽側のすることは、人気を取るのが上手でありました。
 焉(いずく)んぞ知らん。この間にあって道庵先生は臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の思いをして、復讐の苦心をしていたのであります。
 夜な夜な例の櫓(やぐら)へ上っては、ひそかに天文を考え、地の理を吟味して、再挙の計画が、おさおさ怠りがありませんでした。
 それとは知らず鰡八大尽(ぼらはちだいじん)のこの御殿の上で、ある日、多くの来客がありました。この来客は決して前のような道庵をあてつけの会でもなんでもなく、ドチラかといえば今までの会合よりは、ずっと品もよく、珍らしくしめやかな会合でありました。
 そこへ集まった者はみな名うての大尽連で、今日は主人が新たに手に入れた書画と茶器との拝見を兼ねての集まりでありました。やはり例の通り高楼をあけ放していたから、道庵の庭からは来客のすべての面(かお)までが見えるのであります。なにげなく庭へ出て薬草を乾していた道庵が、この体(てい)を見ると、
「占めた!」
 薬草を抛(ほう)り出して飛び上り、
「国公、ならず者をみんな呼び集めて来い」
と命令しました。
 ほどなく道庵の許へ集まったのは、ならず者ではなく、この近所に住んでいる道庵の子分連中で、それぞれ相当の職にありついている人々であります。
 主人側では新たに手に入れた名物の自慢をし、来客側ではそれに批評を試みたりなどして鰡八御殿の上では、興がようやく酣(たけな)わになろうとする時に、隣家の道庵先生の屋敷の屋根上が遽(にわ)かに物騒がしくなりました。
 主客一同が何事かと思って屋根の上を見た時分に、いつのまに用意しておいたものか、例の馬鹿囃子以来の櫓の上に、夥(おびただ)しい水鉄砲が筒口を揃えて、一様にこの御殿の座敷の上へ向けられてありました。
「これは」
と鰡八大尽の主客の面々が驚き呆(あき)れているところへ、櫓の上では、道庵が大将気取りでハタキを揮(ふる)って、
「ソーレ、うて、たちうちの構え!」
と号令を下しました。
 その号令の下に、道庵の子分たちは、勢い込んで一斉射撃をはじめました。これは予(かね)て充分の用意がしてあったものと見えて、前列が一斉射撃をはじめると、手桶に水を汲んで井戸から梯子(はしご)、梯子から屋根と隙間もなく後部輸送がつづきました。これがために前列の水鉄砲は、更に弾丸の不足を感ずるということがなく、思い切って射撃をつづけることができました。水はさながら吐竜(とりゅう)の如き勢いで、鰡八御殿の広間の上へ走るのであります。
 これは実に意外の狼藉(ろうぜき)でありました。せっかく極めて上品に集まった品評の会が、頭からこうして水をぶっかけられてしまいましたから、主客の狼狽は譬(たと)うるに物がないのであります。ズブ濡れになって畳の上を、辷(すべ)ったり泳いだりしました。驚きは大きいけれども、水のことだから、濡れるだけで別段に怪我はないはずであったけれども、あまりに驚いてしまったものだから、なかには腰を抜かして畳の上の同じところを、幾度も幾度も辷ったり泳いだりしているものもありました。水が胸板(むないた)へ当ったのを、ほんとうに実弾射撃で胸をうち抜かれたと思って、グンニャリしてしまったものもありました。
 こうして命辛々(からがら)で辷ったり泳いだりしているくらいだから、さしも自慢にしていた名物の書画も骨董(こっとう)も顧みる暇はなく、思う存分に水をかけられて転(ころ)がり廻ってしまいます。
 この体(てい)を見た道庵先生は、躍り上って悦びました。
「者共でかした、この図を抜かさずうてや、うて、うて」
 盛んにハタキを振り廻して号令を下すものだから、道庵の子分の者共はいよいよ面白がって、水鉄砲を弾(はじ)き立てました。弾薬に不足はなかったけれど、そのうちに鰡八の方では、雇人たちがそうでになって雨戸をバタバタと締めきり(なかには、あわてて雨戸と雨戸の間へ首を挟まれる者もあったり)、それで道庵軍は充分に勝ち誇って水鉄砲を納めることになりました。
 この時の道庵の勢いというものは、傍へも寄りつけないほどの勢いでありました。すっかり凱旋将軍の気取りになってしまって、
「謀(はかりごと)は密なるを貴(たっと)ぶとはこのことだ、孔明や楠だからといって、なにもそんなに他人がましくするには及ばねえ、さあ、ならず者、これから大いに師を犒(ねぎら)ってやるから庭へ下りろ」
と言って自分が先に立って軍を引上げて、鰯(いわし)の干物やなにかで盛んに子分たちに飲ませました。
 子分たちもまた、親分の計略が奇功を奏したのは自分たちの手柄も同じであるといって、盛んに飲みはじめました。道庵は、かねての鬱憤を晴らしたものだから、嬉しくて嬉しくてたまらないで、一緒になって飲み且つ踊っていると、そこへその筋の役人が出張し、グデングデンになっている道庵を引張って役所へ連れて行ってしまいます。
 さすがに大尽家でも、このたびの無茶な狼藉(ろうぜき)に堪忍(かんにん)がなり難く、その筋へ訴え出たものと見えます。
 それがために道庵は、役所へ引張られて一応吟味の上が、手錠三十日間というお灸になったのは、自業自得(じごうじとく)とはいえかわいそうなことであります。
 手錠三十日は、大した重い刑罰ではありませんでした。道庵はこのごろ鰡八を相手に騒いでいるけれども、大した悪人でないことはその筋でもよくわかっているのであります。悪人でないのみならず、道庵式の一種の人物であることもよくわかっているから、お役人も、またかという心持でいました。しかし訴えられてみるとそのままにもなりませんから、道庵をつかまえて来て、ウンと叱り飛ばし、手錠三十日の言渡しをして町内預けです。
 それで道庵は、手錠をはめられて自分の屋敷へ帰っては来たけれど、その時は祝い酒が利(き)き過ぎてグデングデンになって帰ると早々、手錠をはめられたままで寝込んでしまいました。眼が醒めた時分に起き直ろうとして、はじめて自分の手に錠がはめられてあったことに気がつき、最初は、
「誰がこんな悪戯(いたずら)をしやがった」
と訝(いぶか)りましたが、直ぐにそれと考えついて、
「こいつは堪(たま)らねえ」
と叫びました。しかし、それでもまだ何だかよく呑込めていないらしく、役所へ引張られたことは朧(おぼろ)げに覚えているけれども、叱り飛ばされたことなんぞはまるっきり忘れてしまっていました。男衆の国公から委細のことを聞いて、はじめてなるほどと思い、いまさら恨めしげにその手錠をながめていました。
 ここにまた、道庵先生の手錠について不利益なことが一つありました。手錠といったところで、大抵の場合においては、ソッと附届けをしてユルイ手錠をはめてもらって、家へ帰れば、自由に抜き差しのできるようになっているのが通例でありました。遊びに出たい時は、手錠を抜いておいて自由に遊びに出ることができ、お呼出しとか、お手先が尋ねて来たとかいう時に、手錠をはめて見せればよかったものを、先生は酔っていたために、ついその手続をすることがなく、役所でもまた何のいたずらか先生の手に、あたりまえの固い手錠をはめて帰したから、極めて融通の利かないものになっていました。
 そこへ五人組の者が訪ねて来て驚きました。例によってお役人にソッと頼んで、緩(ゆる)い手錠に取替えてもらうように運動をしようとすると、本人の道庵先生が頑(がん)として頭を振って、
「俺ゃ、そんなことは大嫌いだ、そんなおべっかは、おれの性(しょう)に合わねえ、これで構わねえからほうっておいてくれ」
と主張します。そんなことを言って正直に三十日間手錠を守っているということは、ばかばかしいにも程のあったことだけれど、酔っている上に、頑固を言い出すと際限のない先生のことだから、それではと言ってひとまずそのままにしておくことにしました。
 道庵はこうして、ツマらない意地を張って手錠をはめられたままでいるが、その不自由なことは譬うるに物がないのであります。
 こんなことなら、五人組の言うことを素直に聞いておけばよかったと、内心には悔みながら、それでも人から慰められると、大不平で意地を張って、ナニこのくらいのことが何であるものかと気焔を吐いてごまかしています。
 そうして意地を張りながら、酒を飲むことから飯を食うことに至るまで、いちいち国公の世話になる億劫(おっくう)さは容易なものではありません。当人も困るし、病家先の者はなお困っていました。
 二日たち三日たつ間に道庵も少しは慣れてきて、相変らず手錠のままで酒を飲ませてもらい、その勢いでしきりに鰡八の悪口を並べていました。
 この最中に、道庵の許(もと)へ珍客が一人、飄然(ひょうぜん)としてやって来ました。珍客とは誰ぞ、宇治山田の米友であります。
 この場合に米友が、道庵先生のところへ姿を現わしたのは、その時を得たものかどうかわかりません。
 しかし、訪ねて来たものはどうも仕方がないのであります。本来ならば、与八と一緒に訪ねて来る約束になっていたのが、一人でさきがけをして来たものらしくあります。
「こんにちは」
 米友は、きまりが悪そうに先生の前へ坐りました。この男は片足が悪いから、跪(かしこ)まろうとしてもうまい具合には跪まれないから、胡坐(あぐら)と跪まるのを折衷したような非常に窮屈な坐り方です。
「やあ、妙な奴が来やがった」
 道庵先生もまた、手錠のまま甚だ窮屈な形で、米友を頭ごなしに睨(にら)みつけました。
「先生、どうも御無沙汰をしちゃった」
 感心なことに米友は、木綿でこそあれ仕立下ろしの袂(たもと)のついた着物を着ていました。これは与八の好意に出でたものでありましょう。
 ここで道庵と米友との一別来の問答がありました。道庵は道庵らしく問い、米友は米友らしく答え、かなり珍妙な問答がとりかわされたけれど、わりあいに無事でありました。
「友公、実はおれもひどい目に逢ってしまったよ」
 道庵が最後に、道庵らしくもない弱音を吐くので、米友はそれを不思議に思いました。米友の不思議に思ったのはそれだけではなく、この話の最中に、いつも道庵が両手を上げないでいる恰好が変であることから、よくよくその手許を見ると、錠前がかかって金の輪がはめてあるらしいから、ますますそれを訝(いぶか)って、
「先生、その手はそりゃいったい、どうしたわけなんだ」
と尋ねました。
「これか」
 道庵は、手錠のはめられた手を高く差し上げて米友に示し、待っていましたとばかりに、舌なめずりをして、
「まあ米友、聴いてくれ」
と前置をして、それから馬鹿囃子と水鉄砲のことまで滔々(とうとう)と、米友に向って喋(しゃべ)ってしまいました。
 これは道庵としては確かに失策でありました。こういうことを生地(きじ)のままで語って聞かすには、確かに相手が悪いのであります。米友のような単純な男を前に置いて、こういう煽動的な出来事を語って聞かすということは、よほど考えねばならぬことであったに拘(かかわ)らず、道庵は調子に乗って、かえってその出来事を色をつけたり艶(つや)をつけたりして面白半分に説き立てて、自分はそれがために手錠三十日の刑に処せられたに拘らず、鰡八の方は何のお咎(とが)めもなく大得意で威張っている、癪にさわってたまらねえというようなことを言って聞かせて、気の短い米友の心に追々と波を立たせて行きました。
「ばかにしてやがら」
 米友がこういって憤慨した面(かお)つきがおかしいといって、道庵はいい気になってまた焚きつけました、
「全くばかにしてる、おれは貧乏人の味方で、早く言えば今の世の佐倉宗五郎だ、その佐倉宗五郎がこの通り手錠をはめられて、鰡公(ぼらこう)なんぞは大手を振って歩いていやがる、こうなっちゃこの世の中は闇だ」
 道庵先生の宗五郎気取りもかなりいい気なものであったけれども、とにかく、一応の理窟を聞いてみたり、また米友は尾上山(おべやま)の隠ケ岡で命を拾われて以来、少なくともこの人を大仁者の一人として推服しているのだから、いくら金持だといっても、国のためになる人だからといっても、ドシドシ人の住居(すまい)を買いつぶして妾宅を取拡げるなどということを聞くと、その傍若無人(ぼうじゃくぶじん)を憎まないわけにはゆかないのであります。
 その翌日、米友は道庵先生の家の屋根の上の櫓(やぐら)へ上って見ました。なるほど、話に聞いた通り、道庵の屋敷の後ろと左右とは、目を驚かすばかり新築の家と庭とで囲まれていました。何の恨みあってのことか知らないが、これでは先生が癇癪(かんしゃく)を起すのももっともだと、米友にも頷(うなず)かれたのであります。
 鰡八というのはいったい何者であろうと米友は、その御殿の方を睨みつけましたけれど、その時は雨戸を締めきってありました。これはあの時の騒ぎから、ともかく道庵を手錠町内預けまでにしてしまったのだから、鰡八の方でも寝醒(ねざめ)が悪く、多少謹慎しているものと思われます。
 米友には、敢(あえ)て金持だからといって特にそれを悪(にく)むようなことはありません。また身分の高い人だからといって、それを怖れるようなこともありません。恩も恨みもない鰡八だけれど、わが恩人である道庵を虐待して、手錠にまでしてしまった鰡八と思えば、無暗ににくらしくなってたまりませんでした。
 道庵が鰡八に楯をつくのは、それはほんとうに業腹(ごうはら)でやっているのだか、または面白半分でやっているのだかわからないのであります。ことに米友をけしかけたことなどは、たしかに面白半分というよりも、面白八分でやったことに相違ないのを、米友に至るとそれをそのままに受取って、憎み出した時はほんとうに憎むのだから困ります。
 そうして鰡八という奴の面(つら)は、どんな面をしているか、一目なりとも見てやりたいものだと余念なく櫓の上に立っていると、どうした機会(はずみ)か、今まで締めきってあった雨戸がサラリとあきました。
 米友は、ハッと思ってその戸のあいたところを見ました。米友が心で願っている鰡八が、或いは幸いにそこへ面(かお)を出したものではないかと思いました。しかし、それは間違いであって、戸をあけたのは十五六になろうという可愛い小間使風の女の子でありました。
「おや」
 その女の子は、戸をあける途端に道庵の家の屋根を見て、その櫓の上に立っている米友に眼がつきました。米友が例の眼を丸くしてそこに立ち尽しているのを見た女の子は、吃驚(びっくり)して少しばかりたじろぎました。
 それから、少しばかり引き開けた戸の蔭に隠れるようにして、再び篤(とく)と米友の面(かお)をながめていましたが、
「オホホホホ」
と遽(にわ)かに笑い出しました。それは小娘が物におかしがる笑い方で、ついにはおかしさに堪えられず腹を抱えて、
「ちょいと、お徳さん、来てごらんなさい、早く来てごらんなさいよ」
「どうしたの、お鶴さん」
「あれ、あそこをごらんなさい」
「まあ」
「ありゃ人間でしょうか、猿でしょうか」
「そりゃ人間さ」
「あの面(かお)をごらんなさい」
「おお怖(こわ)い」
「でも、どこかに可愛いところもあるじゃありませんか」
「子供でしょうかね」
「なんだかお爺さんみたようなところもあるのね」
「あれはお前さん、こっちをじっと見ているよ、睨めてるんじゃないか」
「怖いね」
「怖かないよ、子供だよ」
 小間使が二人寄り三人寄り、ほかの女中雇人まで追々集まって、米友の面を指していろいろの噂(うわさ)をしているのが米友の耳に入りました。
「やい、そこで何か言っているのは、俺(おい)らのことを言ってるのか」
 米友はキビキビした声で叫びました。
「それごらん、おお怖い」
 米友に一喝(いっかつ)された女中たちは、怖気(おぞげ)をふるって雨戸を締めきってしまいました。それがために米友も、張合いが抜けて喧嘩にもならずにしまったのは幸いでありました。
 やや暫らくして櫓の上から下りて来た米友を、道庵は声高く呼びましたから、米友が行って見ると、道庵は例の通り手錠のままでつく然(ねん)と坐っていましたが、米友に向って、暇ならば日本橋まで使に行って来てくれないかということでありました。米友は直ぐに承知をしました。そこで道庵の差図によって米友は、日本橋の本町の薬種問屋へ薬種を仕入れに行くのであります。
 仕入れて来るべき薬種の品々を道庵は、米友に口うつしにして書かせました。
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