大菩薩峠
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著者名:中里介山 

         一

 下谷の長者町の道庵先生がこの頃、何か気に入らないことがあってプンプン怒っています。
 その気に入らないことを、よく尋ねてみるとなるほどと思われることもあります。それは道庵先生のすぐ隣の屋敷地面を買いつぶして、贅沢(ぜいたく)な普請(ふしん)をはじめたものがあるのであります。道庵先生ほどのものが、他人の普請を嫉(ねた)むということはありません。その普請が出来上るまでは、先生は更に頓着をしませんでしたけれども、いよいよ出来上って、その事情が知れた時に、先生が非常に憤慨してしまいました。その普請というのは、そのころ有名な鰡八大尽(ぼらはちだいじん)というものの妾宅なのであります。
 鰡八大尽というのは、その頃の成金の筆頭でありました。みすぼらしい棒手振(ぼてふり)から仕上げて、今日ではその名を知らないもののないほどの大尽であります。それは国内に聞えた大尽であるのみならず、外国人を相手に手広い商売をしました。糸の取引をしたり、唐物(とうぶつ)の輸入をしたり、金銀の口銭(こうせん)を取ったり、その富の力の盛んなことは、外国までも響き渡るほどの大尽でありました。
「おれの隣へ来たのは鰡八の野郎か、それとは知らなかった、口惜(くや)しい」
 道庵先生は、それと知った時に歯噛(はが)みをしたけれど、もう追附きません。
 その妾宅が出来上ると盛んなる披露の式がありました。集まる者、朝野の名流というほどでもなかったけれど、多種多様の人が集まって、万歳の声が湧くようでありました。それを聞いて道庵先生は、火のように怒ってしまいました。その後とても、毎日毎日、鰡八大尽の妾宅へ詰めかける朝野の名流(?)は少ない数ではありませんでした。その門前の賑やかなことは長者町はじまって以来の景気であります。ところが道庵先生の方は、相変らずの十八文でありました。その門を叩く人も十八文に準じた人で、朝野の名流などはあまり集まらないのであります。
 今まで十八文で売っていた道庵先生、長者町といえば酔っぱらいの道庵先生と受取られるほどの名物であった先生が、鰡八大尽(ぼらはちだいじん)の妾宅が出来てからというものは、その名物の株を奪われそうになったのであります。道庵先生が憤慨するのも道理がないわけではありません。鰡八大尽の方とても、ことさらに道庵先生の隣を選んで普請をはじめたわけではなかろうけれど、偶然にそうなったことがおかしなものでありました。ことに門が崩れ、塀が破れ、家が傾いた先生の屋敷の地境(じざかい)へ持って行って、宮殿を見るような大きな建築が湧き出し、その楼上で朝野の名流だの、絶世の美人だのが豪華を極めるところを、道庵先生が、縁側で薬草などを乾かしながら見上げている心持は、どんなものでありましょう。
「いまに見ていやがれ、鰡八の野郎、ヒデエ目に逢わしてやるから」
 道庵先生は、こんなわけで、このごろはプンプン怒っているのでありました。
 鰡八大尽の方では、こんなわけで、道庵先生を敵に持ったことはいっこう知りませんでした。大尽がその高楼の上から、先生の屋敷と庭とを一眼に見下ろして、
「汚い家だな、何とかして早く買いつぶしてしまえ」
と言って不快な面(かお)をしていました。それで三太夫が人を介して、内々買いつぶしの相談に当らせてみようとすると、あれは有名な変人だから、そんな話を持ち込もうものなら、かえって飛んだ事壊(ことこわ)しになります。まあもう少し時機をお見合せなさいましということであったから、大尽にはそのことを言わないで置いてありましたけれども、ここに鰡八大尽と道庵先生とが、表向いて相争わなければならない事情が出来たのは、ぜひないことと申すより外はありません。
 それは鰡八大尽が、ある夜、この妾宅の楼上へ泊り込んだ時に、不意に食あたりに苦しめられて、上を下へと騒がせたことがありました。大尽は非常に苦しみました。いかに大尽の力を以てしても、雇人たちの追従(ついしょう)を以てしても、病気ばかりは医者の手を借らなければならないのであります。その医者とても、この場合においては、遠くの名医博士よりも、近くの十八文を有難く思わねばならないのでありました。そこで家の子郎党たちは、取るものも取り敢えずに道庵先生の門を叩きました。
 この時に、道庵先生の門を叩いた家の子郎党たちが心得のある人であったならば、相手がなにしろ道庵先生だということを腹に置いてかかるのだけれど、不幸にしてその連中は、それだけの心得も腹もない連中が、狼狽(あわて)て駈けつけたもんだから、鰡八大尽のためにも、道庵先生のためにも、悪い結果を齎(もたら)すということを夢にも予想はしませんでした。
「今晩は、今晩は」
 大尽の家の子郎党は、傾きかかった道庵先生の家の門を、荒々しく叩きました。
「国公、起きて見ろ、いやに荒っぽく門を叩く奴がある、こちとらの門なんぞは、下手(へた)に叩かれたんではひっくり返ってしまわあな」
 道庵先生はその音を聞きつけて、寝床の中から薬箱持ちの国公に差図しました。
 国公は、慣れたものだから、直ぐに起きて案内に出ました。
「どーれ」
 国公が応対に出たけれども、道庵先生の寝ているところと玄関とは、いくらも隔たっていないのだから、先生はその応対の模様を、いつも寝ながらにして聞いていて、それによって病気の模様を察し、急いで駈けつけるべき必要があると認めた時は急いで駈けつけ、悠々(ゆるゆる)していた方が病人のためになると思った時は、わざと悠々したりなどするのが例でありました。
「今、御前(ごぜん)が御急病でいらっしゃる、先生に大急ぎで出かけていただきたい、御前はお気が短くていらっしゃるから、愚図愚図しているとお為めになりません、寝巻のままで決して御遠慮なさるには及びませんから、こういう場合でございますから、失礼は私共からあとで幾重にもとりなして差上げますから、どうか御一緒に願いたいもので」
 国公が玄関の戸をあけるを待ち兼ねて、外からこういう挨拶でありました。寝ながら聞いていた道庵先生は、どうも解(げ)せない挨拶だと思いました。第一、御急病でいらっしゃる御前というのは、何者であるかということも解せないのでありました。それに気が短くていらっしゃるから、愚図愚図していると為めにならないという言い分は、考えてみるとおかしな言い分でありました。お気が短くていらっしゃろうと、お気が長くていらっしゃろうと、こっちの知ったことではないのであります。寝巻のままで御遠慮をなさるには及ばないから出て来いという言い草も、ずいぶん変った言い草であります。失礼はあとでとりなして上げるというのは、いったい誰に向って言ったのだろうと、道庵先生も少しく面喰って、世には粗忽(そそっ)かしい奴もあるものだ、頼まれる方へ向ってすべき挨拶を、頼む方からしてしまっている、急病で気が顛倒(てんとう)しているとは言いながら、おかしな奴等だと道庵先生は、腹の中でおかしがっていました。
 道庵先生にも解せなかったように、取次の国公にも解せなかったから、眼をパチパチして、
「いったい、どちらからおいでなすったんでございます」
「どちらから? そうそう、それそれ、このお隣の大尽から参りました、大尽がただいま御急病でいらっしゃるから、それでお使に」
 使の者がこう言った時に、
「馬鹿野郎!」
 道庵先生がバネのように起き上りました。
「何でえ、何でえ」
 道庵先生がムックリと跳(は)ね起きて、寝巻の帯を締め直す隙(ひま)もなく、枕許にあった薬研(やげん)を抱えて玄関へ飛び出しました。
 もし先生が心得のある武士であったなら、薬研を持ち出すようなことはなかったでありましょうけれど、先生の枕許には、別段に武器の類(たぐい)を備えてありませんでしたから、先生はあり合せの薬研を抱えて飛び出したものであります。そうして玄関へ飛び出した先生の挙動は、確かに鰡八大尽(ぼらはちだいじん)の使者を驚かすに足るものでありました。挙動だけが使者を驚かすのみでなく、その言葉も彼等の度胆(どぎも)を抜くに充分なものでありました。
「さあ承知ができねエ、もう一ぺん言ってみろ、手前(てめえ)たちはどこから、誰に頼まれて来たのか、もう一ぺん言ってみろ」
 先生は薬研を眼よりも高く差し上げて、鰡八大尽の使者を睨(にら)みつけたところは、かなり凄(すご)いものでありました。
「私共は、お隣の鰡八大尽の邸から上りました……」
「鰡八がどうした、その鰡八がどうしたと言うんだ」
「鰡八の御前が急に御大病におなりなさいましたから、先生に診(み)ていただきたいと思って上りました」
「それからどうした」
「もともと鰡八の御前は、滅多(めった)なお医者様にはおかかりにならないお方でございます、立派なお医者様をお抱え同様にしてあるのでございますが、なにぶん今晩のところは、急の御病気だものでございますから、よんどころなく先生のところへ上ったわけなのでございます」
「そうか、よんどころなく俺のところへ頼みに来たのか、よく来てくれた」
「何が御縁になるか知れたものではございません、これからこちらの先生も、大尽へお出入りが叶(かな)うようになるかも知れません、もしこれが御縁で大尽のお気に入りにでもなって、お出入りが叶うようになりますれば、使に立った私共までが面目でございます」
「この馬鹿野郎!」
 道庵先生はこの時に、眼より高く差し上げていた薬研を、力を極めて玄関先へ投げつけました、薬研は凄(すさま)じい音をして、鰡八大尽の使者の足許へ落ちました。それと共に爆裂弾の破裂するような道庵先生の大音で、
「ざまあ見やがれ!」
 使者の連中は、この人並ならぬ道庵先生の挙動と、足許で破裂した薬研の響きで、腰を抜かすほどに驚きました。
 物を知らないというのは怖(おそ)ろしいものであります。使者の連中も、最初から道庵先生と心得てかかれば、これほどのことはなかったであろうに、惜しいことに、その辺の注意が行届かなかったから、こういうことになったのは返す返すも残念でありました。
「こりゃ気狂(きちが)いだ」
 長居をしてはどういう目に逢うか知れないと思って、あわてふためいて這々(ほうほう)の体(てい)で、使者の連中は逃げ帰ってしまいました。
 こうして彼等を追い返したけれども、道庵先生の余憤はまだ冷めないのであります。寝巻のままで庭へ飛び下りました。庭へ飛び下りて用心梯子(ようじんばしご)まで来ると、それへ足をかけて、みるみる屋根の上へ登ってしまいました。雇人の国公は、先生として斯様(かよう)な挙動はありがちのことだから、別段に驚きもしないし、いま物狂わしく屋根の上へ登って行く道庵先生を見ても、それを抱き留めようともなんともしないのであります。
 それよりもいま、道庵先生が投げた薬研を、玄関の鋪石(しきいし)のところから拾い上げて、転(ころ)んだ子供をいたわるように撫(な)でていましたが、それが鋪石に当って、多少の凹みが出来たことを惜しいものだと思っています。先生がムキになって何かを抛(ほう)り出して大切の物を創(きず)にするのは、今に始まったことではありませんでした。
 この夜中に屋根の上へ登った道庵先生は、それでも辷(すべ)り落ちもしないで、やがて屋の棟(むね)の上へスックと立ちました。
 ここから見上げると、鰡八大尽の大厦高楼(たいかこうろう)は眼の前に聳(そび)えているのであります。道庵先生はそれを睨みつけながら、
「鰡八、鰡八」
と突拍子(とっぴょうし)もなく大きな声で怒鳴りました。近所の人はその声に夢を破られたのもあったけれど、すぐにまた例の道庵先生かと思って、わざわざ起きて様子を見届けようとするものもありませんでした。けれども当の鰡八大尽の家では、その大きな声で驚かされないわけにはゆきませんでした。殊に時めく大尽に向って、鰡八、鰡八、と言って横柄(おうへい)に頭から呼びかけるような人は、滅多にないはずなのであります。
 ちょうどその高楼の二階の一間で、急病に苦しんでいた鰡八大尽は、いま少しばかりその苦しみが退(ひ)いたので、附添のものもホッと息をついているところへ、外の闇の中から、いずこともなくこの突拍子もない大音で、
「鰡八、鰡八」
と呼びかけたのが耳に入りました。
「あれは誰だ」
と、それが大尽の耳ざわりになったのは、道庵先生にとっては誂向(あつらえむ)きであったけれど、並んでいた人たちにとっては、身体を固くするほどの恐縮なのであります。何かにつけてごまかそうとしている時に、またしても、
「鰡八、鰡八」
と破鐘(われがね)のような大きな声で、続けざまに呼び立てる声がします。
「あれは誰だ」
 急病は一時は落着いたけれど、この声で大尽の落着きが乱れて来るようであります。鰡八、鰡八と、事もなげに自分を呼び捨てる怪物が外にあると思えば、よい心持はしないらしくあります。それが怪物であるならば、まだよいけれど、人間であるとしてみれば、打捨ててはおかれないのであります。大尽はその声のする方を睨めていると、
「気狂(きちが)いでございます」
 さきに道庵先生のところへ使者に行って逃げ帰ったのが、恐る恐る大尽に向ってこう言いました。
「隣の屋根の上あたりでする声のようだ、隣はいったい何者が住んでいるのだ」
 大尽は耳をすまして、なおその声を聞こうとしながら附添の者にたずねると、
「貧乏医者でございます、貧乏な上に気違い同様な奴でございます」
「怪(け)しからん、ナゼ早く買いつぶして立退かせないのだ」
「それがどうも……」
 大尽の御機嫌が斜めになるのを、附添の者はハラハラしていると、
「鰡八、病気はどんな塩梅(あんばい)だ、ちっとは落着いたかい」
 屋根の上でこういう大きな声がしました。
「怪しからん」
「鰡公」
「憎い奴だ」
「鰡公よく聞け、手前は貧乏人からそれまでの人間になった男だから、ともかくも物の道理はわかるだろう、手前の廻りにいて胡麻(ごま)を摺(す)っている奴等が礼儀を知らねえから、それでこの道庵が癪(しゃく)にさわるんだ、口惜しいと思ったら鰡公、ここへ出て来て、道庵の前へ手を突いてあやまれ、もし、あやまらなければ、この後は道庵にも了簡(りょうけん)がある、と言ったところで、おれは手前より確かに貧乏人だ、貧乏人だから金で手前と競争するわけにゃあいかねえ、そうかと言って剣術や柔術の極意にわたっているというわけでもねえから、腕ずくでも危ねえものだ、けれども、おれにはおれでお手前物の毒というものがある、いろいろの毒を調合して飲ませて、恨みを晴らすから覚悟をしろ」
 この道庵先生の露骨にして無遠慮なる暴言は、あたり近所に鳴りはためくほどの大きな声で怒鳴り散らされました。
 先生は、それで漸く、いくらかの溜飲(りゅういん)を下げて、屋根の上からおりて来ましたけれど、鰡八大尽は言うばかりなき不快を感じて、病気も忘れて荒々しく寝床を立って、雨戸を押し開いて欄干から外の闇を睨みつけましたけれど、その時分には道庵先生は、もう屋根から下りて、自分の寝床へ潜(もぐ)り込んでしまっていました。鰡八大尽は、かなりに腹が大きいから、そんなに物事を気にかける男ではなかったけれど、この道庵の暴言は聞捨てにならないと思いました。
 よし、そんならば、いくら金がかかってもよろしい、あの屋敷を買いつぶせ、あの屋敷も売らないと言えば、その周囲の地面家作を買いつぶして、道庵を自滅させるように仕向けろと、執事や出入りの者にその場で固く言いつけました。
 その後、鰡八大尽の御殿と、道庵先生の古屋敷との間を見ていると、ずいぶんおかしなものでありました。
 大尽の方では、絶世の美人だの、それに随う小間使だのというものを、高楼に上(のぼ)せて、道庵先生の古屋敷を眼下に見下(みくだ)させながら、そこでお化粧をさせたり、艶(なま)めかしい振舞(ふるまい)をさせたり、鼻をかんだ紙を投げさせてみたり、哄(どっ)と声を上げて笑わせたりなどしていました。それを見た道庵先生の方は、また道庵先生の方で、屋根の上へいっぱいに櫓(やぐら)を組みはじめました、ちょうど大尽の高楼と向い合うように、大工を入れて櫓を高く組み上げさせました。
 大尽の方では、その櫓を見ては笑い物にしていました。それは大尽の家の高楼と、道庵先生が大工を入れて急ごしらえにかかる櫓とは比較になりません。そんなことをして張り合おうとする道庵の愚劣を笑っています。
 或る日のこと、大尽の家の高楼では、大広間を開放して、例の美人連に合奏をさせ、出入りの客を盛んに集めて、大陽気で浮れはじめたのを道庵が見て、外へ飛び出しました。
 まもなく道庵が帰って来た時分には、その背後に二十人ばかりの見慣れない男をつれて来ました。それは年をとったのもあれば、若いのもあり、背の高いのもあれば、低いのもありました。道庵はこの二十人ばかりの見慣れない男を、櫓の上へ迎え上げました。そうして彼等に何事をさせるかと思えば、つづいてそこへ太鼓を幾つも幾つも担ぎあげさせました。
 この連中は、馬鹿囃子(ばかばやし)をする連中であります。どこから頼んで来たか知れないが、わずかの間にこれだけの馬鹿囃子を集めることは、道庵でなければできないことと思われます。
 大尽の家では、琴や三味線や胡弓で、ゆるやかな合奏の興が酣(たけな)わになる時分に、道庵の櫓では、天地も崩れよと馬鹿囃子がはじまってしまいました。それがために、大尽の楼上の合奏は滅茶滅茶(めちゃめちゃ)に破壊されて、呆気(あっけ)に取られた美人連と来客とは、忌々(いまいま)しそうな面(かお)を見合せるばかりでありました。それを得たりと道庵先生は、囃子方を励まし立て、自分は例の潮吹(ひょっとこ)の面(めん)を被って御幣(ごへい)を担ぎながら、櫓の真中で、これ見よがしに踊って踊って、踊り抜きました。
 道庵先生の潮吹の踊りは、たしかに専門家以上であります。これまでに踊りこなすには、道庵も多年苦心したもので、芸も熟練している上に、自分が本心から興味を以て踊るのだから、潮吹(ひょっとこ)が道庵だか、道庵が潮吹だかわからないくらいに、妙境に入(い)っているのであります。
 合奏の興を破られて、敵意を持っていた大尽の高楼の美人連や来客も、道庵先生の踊りぶりを見ると、敵ながら感服しないわけにはゆかないのであります。
 道庵の屋根の上では、その都度都度(つどつど)馬鹿囃子がはじまります。馬鹿囃子がはじまると、鰡八大尽の妾宅は滅茶滅茶にされてしまいます。鰡八は、道庵風情を相手に喧嘩をすることを大人げないと思っていますけれども、あんまり無茶なことをするものだから腹に据えかねて、いくらかかってもよいから、道庵を退治するように出入りの者に内命を下しました。
 一方、道庵の方では、馬鹿囃子(ばかばやし)が当りに当ったものだから、いよいよいい気になって、このごろでは、道庵も本業の医者をそっちのけにして踊り狂っていました。そうするとまた近所界隈が、それを面白がってワイワイと集まって来ました。ついには道庵先生の庭から屋敷の前まで、露店が出て物日縁日(ものびえんにち)のような景気になりました。
 鰡八大尽の妾宅の喧(やかま)しいことと言ったら、それがため夜の目も寝られないのであります。大尽から内命を下された出入りの者は、いかにしてこの暴慢なる道庵を退治すべきかに肝胆(かんたん)を砕きました。その結果どうしても、右の馬鹿囃子に対抗するような景気をつけて、道庵の人気を圧倒しなければならないと、その方法をいろいろと研究中であります。
 そのあいだ道庵は、いよいよ図に乗って、これ見よがしに踊り狂い、踊りながら、
「スッテケテンツク、ボラ八さん」
なんぞと妙な節をつけて、出鱈目(でたらめ)の唄をうたいました。それが子供たちの間に流行(はや)って、
「スッテケテンツク、ボラ八さん」
 何も知らない子供たちは、道庵の真似をして、大きな声で町の中を唄って歩くようになりました。
 大尽の一味の者は、いよいよ安からぬことに思い、ついに大きな園遊会を開いて、道庵を圧倒するの計画が出来上りました。
 その計画は、さすがに大きなものでありました。天下の富豪たる鰡八大尽が、費用を惜しまずにやることですから、トテモ十八文の道庵などが比較になるものではありません。
 その園遊会の余興としては、決して馬鹿囃子のようなものを選びませんでした。その頃の名流を択(え)りすぐった各種の演芸の粋(すい)を抜いて番組をこしらえました。また主人や出入りの者もおのおの腕に撚(よ)りをかけて、その隠し芸を発揮しようということでありました。その上に、その頃朝鮮から来ていた名代(なだい)の美男子の役者がありました。それに非常な高給を払って、朝鮮芝居を一幕さし加えるということなどは、作者がかなり脳髄を絞っての計画に相違ありません。
 これらの計画や選定が、すっかり定まってしまうと、それをなるたけ大袈裟(おおげさ)に世間に触れてもらわねばならぬ必要から、人に金をやって、さんざんに吹聴(ふいちょう)させ、お太鼓を叩かせたものですから、このたびの園遊会の景気は長者町界隈はおろか、江戸市中までも鳴り響きました。
「さすがに大尽の威勢は大したものだ、すばらしい御馳走をした上に、日本の土地では見ることのできない朝鮮芝居を見せてくれるそうだ、鰡八大尽でなければできない芸当だ、さすがにすることが大きい」
 江戸市中はこの評判で持ち切ってしまいました。道庵の馬鹿囃子などはこの人気に比べると、お月様に蛍のようなものであります。道庵も少しばかり悄気(しょげ)てきました。これは馬鹿囃子だけでは追付かない、何かほかに一思案と思っているうちに、大尽(だいじん)の屋敷の園遊会の当日となりました。
 江戸市中の見物は、我も我もと押しかけて来ましたけれど、大尽の妾宅の門まで来て見ると、急に二の足を踏んでしまいました。
 それは園遊会も、朝鮮芝居も、無料(ただ)で接待するものとばかり思っていたら、目玉の飛び出るほど高い場代を徴集するのでありますから、それで集まったものが、あっと二の足を踏みました。
 あれほど吹聴したり、評判を立てさせたりしたものだから、無料(ただ)で入れて無料で見せるのだろうと思ったら、目玉の飛び出るほどの場代を取るというのだから、集まって来た人が門の前で二の足を踏みました。
「ばかにしてやがら、大尽がどうしたと言うんだい、鰡八がどうしたんだい」
と言って悪態(あくたい)をつくものもありました。しかしそれは、悪態をつく方が間違っているのであります。大尽だからと言って、この広大な園遊会を開き、それから非常な高給を払って朝鮮役者を招くからには、そのくらいの場代を取ることは、少しも無理はないのであります。無理はないのみならず、日本ではほとんど見ることができないと言われた朝鮮芝居を、こうしてそのまま持って来て、居ながらにして見せてくれるということは、並大抵の興行師などではできないことであります。それですから見物は、大尽の威勢と恩恵とに感涙を流して、場代を払わなければならないのであります。それを無料(ただ)見ようなどというのはいかにもさもしいことであります。
 しかし、江戸っ児にも、そうさもしいものばかりはありませんでした。場代が高いと言ってしりごみをして、この珍しいものを見ないで帰るのは、たしかに江戸っ児の沽券(こけん)に触(さわ)ると力(りき)み出すものが多くありました。江戸っ児の腹を見られて朝鮮人に笑われても詰らねえと、国際的に気前を見せる者もありました。それがために、いったん二の足を踏みかけた見物が、みすみす目玉の飛び出るほど高い場代を払って門の中へ入り込むと、人気というものはおかしなもので、ついには我も我もと先を争って切符を買うような景気になって、門内へなだれ込みます。
 さすがに鰡八大尽のすることは、こんな些細なことまでも違ったものであります。道庵などは、貧乏人のくせに身銭(みぜに)を切って馬鹿囃子を雇い、家業をそっちのけにして騒いでいるのに、大尽は大評判を立てた上に、こんなことでも充分に算盤(そろばん)を取れるようにするのだから、どのみち相撲にはなりませんでした。しかし、これは鰡八が豪(えら)いというよりも、お附の作者や狂言方の仕組みが上手なので、それがために一段と、大尽の器量を上げたと言った方がいいのかも知れません。
 この園遊会も、余興も、朝鮮芝居も、ことごとく大成功でありました。その日一日でおしまいというわけではなく、当分の間、毎日つづくのであります。市中一般においては、これを見なければ話にならないから、毎日毎日、続々と詰めかけて来ました。日のべを打てば打つほど儲(もう)かった上に評判が高いのでありますから、鰡八の御機嫌も斜めではないし、お出入りの人々も恐悦に感ずるし、作者や狂言方のお覚えも結構なものであります。
 ここに哀れをとどめたのは道庵先生で、せっかく図に当った馬鹿囃子は、この園遊会と朝鮮芝居のために、すっかり圧(お)されてしまいました。隣からは毎日毎日、この景気で見せつけられているのに、もう馬鹿囃子でもなし、そうかと言って、それに対抗するには上野の山内でも借受けて、和蘭芝居(オランダしばい)の大一座でも買い込んで来なければ追附かないのであります。それは先生の資力では、トテも追附かないことであります。
 道庵はそれがために苦心惨憺しました。自分の知恵に余って、子分の者を呼び集めて評定(ひょうじょう)を開いてみましたけれど、いずれ、道庵の子分になるくらいのものだから、資力においても知恵袋においても、そんなに芳(かんば)しいものばかりありませんでしょう。
 いよいよ大尽にぶっつかる手術(てだて)がなければ最後の手段は、先生が口癖に言う毒を飲ませることのみだが、口にこそ言うけれど、この先生は毒を飲ませて人を殺すような、そんな毒のある人間ではありません。

         二

 ここにまた、前に見えた「貧窮組」のことについて一言しなければならなくなりました。貧窮組というのは、一種の不得要領な暴動でありました。明治六年の出版にかかる「近世紀聞」という本に、その時代のことをこんなふうに書いてあります。
「是より先、米価次第に沸騰して、既に大阪市中にては小売の白米一升に付(つき)銭七百文に至れば、其日稼(そのひかせ)ぎの貧民等は又如何(いかん)とも詮術(せんすべ)なく殆ど飢餓に及ばんとするにぞ、九条村且つ難波村など所々に多人数寄り集まり不穏の事を談合して、初めは市中の搗米屋(つきごめや)に至り低価(ねやす)に米を売るべしとて、僅の銭を投げ出し店に積みたる白米を理不尽に持行くもあり、或は代価も置かずして俵を奪ひ去るもあれど多人数なる故米商客(こめあきうど)も之を支(ささ)ゆる事を得ず、斯(かく)の如くに横行して大阪中の搗米屋へ至らぬ隈(くま)もなかりしが、果(はて)はますます暴動募(つの)りて術(すべ)よく米を渡さぬ家は打毀(うちこは)しなどする程に、市街の騒擾(そうじよう)大かたならず、這(こ)は只浪花(なには)のみならず諸国に斯る挙動ありしが、就中(なかんづく)江戸に於ては米穀其他総ての物価又一層の高料(たかね)に至れば、貧人飢餓に耐へざるより、或は五町七町ほどの賤民おのおの党を組みて、身元かなりの商家に至り押して救助を乞はんとて其町々に触示(しよくじ)し、□(もし)其の党に加はらざれば金米その他何品にても救助の為に出すべき旨強談に及ぶにぞ、勢ひ已(やむ)を得ざるより身分に応じ夫々(それぞれ)に物を出して施すもあり、力及ばぬ輩(やから)は余儀なく党に加はるをもて、忽(たちま)ち其の党多人数に至り、軈(やが)て何町貧窮人と紙に書いたる幟(のぼり)をおし立て、或は車なんどを曳いて普(あまね)く府下を横行なし、所々にて救助を得たる所の米麦又は甘藷(さつまいも)の類(たぐひ)を件(くだん)の車に積み、もて帰りて便宜の明地(あきち)に大釜を据ゑ白粥を焚きなどするを、貧民妻子を引連れ来りて之を争ひ食へる状(さま)は、宛然(さながら)蟻(あり)の集まる如く、蠅の群がるに異ならで哀れにも浅間(あさま)しかり、されば一町斯(かく)の如き挙動に及ぶを伝へ聞けば隣町忽ちこれにならひ、遂に江戸中貧民の起り立たざる場所は尠(すくな)く……云々」
 これによって見ると「近世紀聞」の記者は、貧窮組を蟻の集まる如く、蠅の群がるに異ならずと見たのであります。貧民といえども人間であろうのに、それを蟻や蠅と同じに見られたということは不幸であります。
 けれども蟻や蠅に見立てられる貧民自身にとっては、必ずしも物好きでやったことではないらしいのであります。彼等にあっては、天下が徳川のものであろうと、薩長の手に渡ろうと、そんなことは大した心配ではありませんでした。ただ心配なことは、物が高くなって食えなくなるということでありました。
 天下国家の大きなことを憂(うれ)うる人には、別に志士という一階級があって、それは殿様から代々御扶持(ごふち)をいただいて、食うというような賤(いや)しいことには別段の心配のなかった者や、その家庭に生い立った人が多いのであります。けれども、この貧窮組は生え抜きの平民でありました。武士は食わねど高楊枝(たかようじ)、というようなことを言っておられぬ身分の者ばかりでありました。彼等は食いたくてたまらないのであります。世に食いたくてたまらないものが食えなくなるということほど、怖るべき事実はないのであります。蟻や蠅でさえ生きていられる世の中に、人間が食えなくなって生きていられないという世の中は、無惨(むざん)なものといわねばなりません。
 それがためであったかどうか知れないが、あの不得要領な貧窮組が勃発して江戸市中を騒がすと共に、有司(ゆうし)も金持も不得要領に驚いてしまいました。ことに驚いたのは金持の連中でありました。一時は生きた空がなくて、金品を寄附したり、慈善会のようなものを起したりして、貧民の御機嫌を取ろうとしてみた狼狽(あわ)て方はかなり不得要領なものでありました。けれどもそれは、誠意のある狼狽て方ではなく、不得要領はいよいよ不得要領な狼狽て方であります。
 けれどもその時分の政治は、打てば響くような政治ではありませんでした。徳川幕府が亡びかかった時代の政治でありました。米が高くなろうとも、物価が上ろうとも、幕府の方では、あんまり干渉をしませんでした。いよいよの時までは成行きに任せておいて、何か出たら出た時の勝負というような政治でありました。
 金持の連中もまた、儲(もう)けたい奴は盛んに儲け、儲けた上に莫大の配当をしました。そうして、大ビラで贅沢(ぜいたく)や僭上(せんじょう)の限りを尽しました。蟻や蠅なんぞは踏みつぶして通る勢いでしたけれども、その蟻や蠅が多数を組んであばれ出してみると、唇の色を変えて周章狼狽した有様は、滑稽にもまた不得要領の現象でありました。
 さすがに緩慢主義の幕府も、こう騒ぎ出されてみると、手を束(つか)ねてばかりはいられませんでした。同じ「近世紀聞」という本のうちに、
「其頃既に庄内藩には府下非常を誡(いまし)めのため常に市中を巡邏(じゆんら)あり、且つ南北の町奉行にも這回(このたび)の暴挙を鎮撫なさんと自ら夥兵(くみこ)を従へつつ普(あまね)く市街を立廻りて適宜の処置に及ばんとするに、貧民は早や食ふと食はぬの界に臨みたるなれば、各(おのおの)死憤の勢ありて小吏等万般説諭なせどもなかなかに鎮まらず、或は浅草今戸町その外処々の辻々へ貧窮人等が張札をして区々の苦情を演(の)べたるうへ、先づ差当り白米の代価百文に付(つき)五合ならねば窮民口を糊(こ)し難しと記し、また或は米穀は固(もと)より諸色(しよしき)の代価速かに引下ぐるにあらずんば忽ち市中を焼払はんなどと書裁(しよさい)なしたる所もあり、斯(かく)なして尚(なほ)貧民等は市街を横行なせる事は日を追つて熾(さかん)なりしが、其頃品川宿に於て施行(せぎよう)を出すを左右(かにかく)と拒みたる者ありとて忽ち其家を打毀(うちこは)せしより人気いよいよ荒立(あらだつ)て、渋りて物を出さぬ家は会釈もなく踏込で或は鋪(みせ)をうち毀し家内を乱暴に及ぶにぞ、蓄財家(かねもち)は皆戦慄(ふるへおそれ)て家業を休み店を閉めて只乱暴の防ぎをなせば、貧窮人のみ勢ひを得て道路に立ちて威を震(ふる)ひしは実に未曾有の珍事なりけり……さる程に貧民の暴動かくの如くなれば、庄内侯の巡邏方(まはりかた)且つ町奉行の手を以て其の発頭人なる者を追々捕縛なしたりしかど、もとこれ、米価の沸騰より飢餓に逼(せま)るに耐へかねて、かかる挙動に及べるなれば、兎(と)に角(かく)是等を救助せずして静まるべきの筋にあらずとて、先づ救民小屋造立(つくりたて)の間、本所回向院(えこういん)、谷中(やなか)天王寺、音羽(おとは)護国寺、三田(みた)功運寺、渋谷渋谷寺の五ケ寺に於て炊出(たきだ)しを命ぜられ普く貧民に之を与へ、其うち神田佐久間町の広場に小屋を設けられて至極の貧人を救助せしかば、是にて府下の騒擾も稍(やや)鎮静に及びたり」
 幸いにしてこの貧窮組は、それだけの騒ぎで鎮まりました。大塩平八郎も出ないし、レニン、トロツキーも出ないで納まりました。たまたま道庵先生あたりが飛び出して、お茶番を差加えたようなことで、ともかくも納まったのは国家のために大慶至極と申すべきです。
 表面、この騒ぎは納まったけれども、それの根本が絶たれたというわけではありません。一時は震え上った富豪たちが、あわてふためいて貧民の御機嫌を取ってみたけれど、表面の暴動が過ぎ去ってしまえば、あとはケロリとして忘れたもののように、書画骨董にばかげた金を出したり、ふざけきった集まりをして見せたり、無用の建築をして見せたり、そんなことで以前よりは一層の太平楽(たいへいらく)を、露骨に見せるようになったのは困ったものであります。
 それと共に、一時の雷同に出でないで、心ひそかにこの世の有様を観察し、或いは憤慨している者がようやく多くなってゆきました。

 本町一丁目の自身番へ、眼の色を変えて飛び込んだのは、いつもそそっかしい下駄屋の親爺(おやじ)であります。
「大変だ!」
と言ってその親爺は息を切りました。この男のそそっかしいのは今に始まったことではないけれど、今日は眼の色が変ってるだけに、それから貧窮組の騒ぎが納まって間もない時であるだけに、そこに集まる親爺連の胸を騒がせて、
「どうなすった」
 種彦(たねひこ)の合巻物(ごうかんもの)を読んでいた親爺も、碁と将棋をちゃんぽんにやっていた親爺も、それの岡目をしていた親爺も、昼寝をしていた親爺も、そこに集まる親爺という親爺が、みんな下駄屋の親爺の大変だという一声で驚かされました。
 一体、ここへ集まる親爺連は、かなりいい気なものでありました。外は往来の劇(はげ)しい本町の真中で、内は閑々たる別天地、半鐘がジャンと打(ぶっ)つからない限りは他人の来る気遣(きづか)いはないところで、これらの親爺連の心配になることは、夕飯を蕎麦(そば)にしようか、それとも鰻飯(うなぎめし)とまで奮発しようかというような心配でありました。鰻のついでに酒の隠れ呑みもしなければならないというような心配でありました。その閑々たる空気を、下駄屋の親爺が破って言うことには、
「外へ出てごらんなさい、大変な物だ、そこの雨樋筒(あまひづつ)に生首が一ツ……」
「エ!」
「嘘だ、嘘だ」
「冗談(じょうだん)じゃねえ、善兵衛さん、貧窮組が納まって間もねえ時だ、嚇(おどか)しっこなし」
「生首は嘘だが、まあ外へ出てごらんなさい、大変な張紙だ」
「エ、張紙?」
 張紙と聞いてやや安心をしました。やや安心したけれど、それは生首と聞いた時よりも安心したので、この時分の張紙は、生首と聞くのと、ほぼ同じように気味の悪いものでありました。親爺連はせっかくの興を殺(そ)がれたけれど、また別の興味を持って外へ出たり、外を覗(のぞ)いたりして見ると、その自身番の北手の雨樋筒(あまひづつ)に大きな張紙がしてあって、それを通りがかりの人が、大勢して読んではワイワイ騒いでいるのであります。
「また、こんな悪戯(いたずら)をはじめやがった、人騒がせな悪戯だ」
と自身番の親爺は、ブツブツ言いながらその張紙を引っぺがしにかかりました。自分も読まないうち、人にも読ませないうちになるべく早く引っぺがして、町奉行にお届けをする方がよいと思って、邪慳(じゃけん)にそれを引っぺがして、自身番の中へ持ち込んでしまったから、見物の中には一読したものもあろうし、まだ読みかけて半ばのものもあったろうし、これから読もうと思っていた者もあったのが、一同、鳶(とんび)に物を浚(さら)われたような気持になって、自身番へ持ち込んだ親爺連の後ろを恨めしげに見送っていること暫時(しばし)、幸いに大した騒ぎにはならずに散ってしまいました。
 自身番の内部へその張紙を持ち込んだ親爺連、額を集めて眼の敵(かたき)のようにそれを読みはじめました。その文言はこうであります。
「糸会所取立所三井八郎右衛門其他組合の者共此者共、めいめい世界中名高き巨万の分限にありながら、足ることを知らず、強慾非道限り無き者共、身分の程を顧みず報国は成らずとも、皇国(みくに)の疲労に相成らざるやう心掛くべき所、開港以来諸品高価のうちには、糸類は未曾有の沸騰に乗じ、諸国糸商人共へ相場状(そうばじよう)にて相進め、頻りに横浜表へ積出させ候につき、糸類悉く払底、高直(こうぢき)に成り行き万民の難渋少からず、畢竟此者共荷高に応じ、広大の口銭を貪り取り候慾情より事起り、皇国の疲労を引出し、一己(いつこ)の利に迷ひ、他の難渋を顧みず、不直(ふちよく)の所業は権家へ立入り賄賂(わいろ)を以て奸吏を暗まし、公辺を取拵(とりこしら)へ、口銭と名付け大利を貪り、奸吏へ金銭を差送り、糸荷を我が得手勝手に取扱ひ、神奈川関門番人並に積問屋共へ申合せ、所謂(いはゆる)世話料受取り、荷物運送まで荷主に拘はらず自儘取扱ひ、不正の口銭貪り取候事、右糸会所取立三井八郎右衛門始め組合の者、他の難儀を顧みず、非道にて所持の金銭並に開港以来貪り取る口銭広大の金高につき、今般残らず下賤困窮人共に合力(ごうりき)の為配当つかはし申すべし、若し慾情に迷ひ其儘捨て置かば、組合の者共一々烈風の折柄(をりから)天火を以て降らし、風上より焼立て申すべく、其節に至り隣町の者共、火災差起り難渋に之れ有るべく候間、前記会所組合の者共名前取調べ置き、類焼の者は普請金並に諸入用共、存分に右の者より請取り申すべく、且つ火災差起り候はば、困窮の者共早速駈付け、彼等貯へ置き候非道の財宝勝手次第持ち去り申すべく、右の趣、前以て示し置き候間、一同疑念致すまじき事」
 これだけのことを、自身番の親爺のうちでも読むことの達者な眼鏡屋(めがねや)の隠居が、スラスラと節をつけて読み立てました。
 下駄屋の親爺は、面白そうに聞いていました。質屋の隠居は、不安らしい面(かお)をして聞いていました。
「なにしろ、事が穏かでごわせんな」
と質屋の隠居は、いとど不安心の色を深くしました。
「はははは、三井さんも、いよいよやられますかな」
 下駄屋の親爺は、やはり面白半分に深くは問題にしていないらしくあります。
「ナニ、やる奴に限って先触(さきぶれ)は致しませんな、ただほんのイタズラでございますよ、嚇(おどか)しに過ぎませんよ」
 寝ころんで種彦を読んでいる親爺が、やや遠くから言い出しました。
「そうも言えませんぜ、人気のものですからワーッと騒ぐと、何をやり出すか知れたものではござんせん、本所の相生町(あいおいちょう)の箱惣(はこそう)なんぞがそれでございますからな、首を刺されて両国橋へ曝(さら)されて、やっぱりこの通りの張札をされたんでございますからな」
 眼鏡屋の隠居はそれに答えました。
「ああ、鶴亀、鶴亀、そんな話は御免だ」
と質屋の隠居は気を悪くしたと見えて、煙草入を腰に挟(はさ)んで立ち上りました。折角今まで碁を打っていたのに、それを早々逃げ腰になったところを見れば、この親爺連のうちでは、質屋の隠居が一番弱虫であることがわかります。
 質屋の隠居が逃げ出したあとで人々の噂(うわさ)によれば、この隠居も、実は張札の糸では組合に入って大分儲(もう)けている側だとのことでありました。この次に来たら嚇(おどか)して奢(おご)らしてやらずばなるまいなんぞと、あとに残った親爺連はいろいろ評定していました。
 斯様(かよう)な張札はこの頃の流行(はや)り物(もの)としたところで、これはあまり物騒過ぎる。このままでは捨てておけないから自身番の親爺連は、これを町奉行の手へ届けることに評定をきめて、二三人の総代がそれを持って表へ出ました。
 表へ出たところへ、折よく町奉行の手に属する見廻りの役人が、この自身番へやって来ました。それを幸いに総代は、
「実は斯様な次第でございまして、斯様な張札が……」
 役人はそれを聞いてみて一通り読んで後、
「この筆蹟は……」
と首を傾(かし)げました。
 その張札を町奉行へ持って来て、その筆蹟をあれこれと評議をしてみたところが、それが道庵の文字に似ているということが、至極迷惑なことであります。
 長者町の名物としての道庵は、貧窮組と聞いて喜んで演説までしたけれども、それは至極穏健な演説で、貧窮組にも同情を寄せるし、物持連中にも、なるべく怪我をさせないようにとの苦心をしたものでありました。
 道庵はこんな張札をする人物でないということは、お上の役人にもよくわかっているけれど、それにしてもこの筆蹟が道庵ソックリの筆蹟でありました。これはイタズラ者が、わざと道庵の筆蹟を真似て書いて、あとを晦(くら)まそうとした手段であることは明らかだけれど、それがために、いい迷惑を蒙(こうむ)ったのは道庵先生であります。ことにこのごろは鰡八大尽(ぼらはちだいじん)と楯を突き合っている時でもあるし、よしこれは道庵が書かないにしても、道庵に知合いのもの、道庵の許(もと)へ出入りする者の仕業(しわざ)ではないかと、目を着けられるようになったのがかわいそうであります。

         三

 甲斐(かい)の国の八幡(やわた)村の水車小屋附近で、若い村の娘が惨殺されて村を騒がした後、小泉家には、机竜之助もお銀様もその姿を見ることができなくなりました。
 二人はどこへ行ったか、その入って来た時と同じように、この家を去ったのも、誰も知るものはありませんでした。これを想像するに、或いはいったん甲府へ帰って、また神尾主膳の下屋敷にでも隠れるようになったものかも知れません。或いはまたお銀様の望み通りに、江戸へ向けて姿を晦(くら)ましたものかも知れません。とにかく、八幡村にはこの二人の姿は見えないのであります。
 或る人はまた、夜陰(やいん)、小泉家から出た二挺の駕籠(かご)が、恵林寺(えりんじ)まで入ったということを見届けたというものもありました。しかし、小泉家と恵林寺とは、常に往来することの珍らしからぬ間柄でありましたから、それを怪しむ心を以て見届けたのではありません。
 駒井能登守去って以来の甲府は、神尾主膳の得意の時となりました。けれどもその得意は、あまり寝ざめのよい得意ではありませんでした。心ある人は主膳の得意を爪弾(つまはじ)きしていました。主膳自らもこのごろは、酒に耽(ふけ)ることが一層甚だしくなって、酒乱の度も追々嵩(こう)じてくるのであります。酒乱の後には、二日も三日も病気になって寝るようなことがあります。
 主膳は執念深くも、能登守がお君という女をどのように処分するかを注目し、手討にしたという評判を聞いた後も、その注目をゆるめることなく、そののち向岳寺に、見慣れぬ尼が送り届けられているということを聞いて、途中でその女を奪い取らせようとしました。
 お松が神尾の屋敷を脱け出したのは、その間のことでありました。向岳寺から出た乗物を奪わせようと計ったことが、さんざんの失敗に終ったという報告も同時に齎(もたら)されたが、主膳がそれと聞いて何とも言わずに苦笑いして、寝込んでしまったのもその時分のことです。
 甲府城内の暗闘とか勢力争いとかいうことは、それで一段落になりました。
 別家にいるお絹という女にとっても、このごろは同様に荒(すさ)んだ有様がありありと見えます。出入りの誰彼との間に、いろいろとよくない噂が口に上るようになりました。或いは当主の主膳と、このお絹との間柄をさえ疑うものが出て来るようになりました。
 それらの不快や不安を紛らわすためかどうか知らないが、神尾を中心として酒宴を催されることが多くなり、お絹もまた、その別家へ人を招いては騒々しい興に、夜の更くることを忘れるようなことが多くありました。それから勝負事は一層烈しくなり、お絹までが勝負事に血道(ちみち)を上げるようになってしまいました。
 このごろのお絹は、自宅へ男女の客を招いては勝負事に浮身(うきみ)をやつしています。
 或る時は、思いがけない大金を儲(もう)けることもありました。或る時は、大切の頭飾(かみかざ)りなどを投げ出すようなこともありました。
 興が尽きて客が去ったあとでは、なんだか堪(たま)らないほどな淋(さび)しさを感ずるようになりました。その淋しさを消すために、冷酒(ひやざけ)を煽(あお)るようなこともあり、ついには毎夜、冷酒を煽らなければ寝つかれないようになってしまいました。
 お松がいればこれほどにはならなかったものであります。お絹はともかくもお松を保護していました。お松もまた何かと言っても、恩人としてその人に忠実でありました。だからお松があることによって、なんとなしに前途に希望を持っていましたけれど、そのお松が逃げてしまってみると、頼む木蔭の神尾の当主というのはこの通りの人物であるし、自分は年ようやくたけて容色は日に日に凋落(ちょうらく)してゆくし、そうかと言って、頼るべき親類も、力にすべき子供もないのであります。それを考えると、前途は絶望あるのみでありました。足許の明るいうち、また故郷の浜松に舞い戻ろう、お絹はこうも思慮を定めました。しかし故郷へ引込むには、引込むようにしなければならないと思いました。先立つものは金であります。その金が全く思うようにならぬ時分に、こんな思慮を定めたことは不幸であります。
「金が欲しい、お金が欲しい」
 お絹は痛切にそのことを考えました。それがお絹をして一層、勝負事に焼けつくようにさせてしまいました。
 ところが、そんな場合における勝負運は皮肉なもので、勝ちたいと思えば思うほど負け、焦(あせ)れば焦るほど喰い違ってゆくのであります。お絹は身の廻りの、ほとんど総ての物を失ってしまいました。借りるだけの信用のある金は借り尽してしまいました。
 今夜も、お絹は堪らなくなって、隠しておいた冷酒を茶碗に注いで飲もうとする時に、本邸の方で大きな声で罵(ののし)るのが聞えます。
 それは紛れもなき主人の神尾主膳が、酒乱のために人を罵っているのであります。
 それを聞きながらお絹は、また一杯の冷酒を茶碗に注いで、口のところへ持って行ったけれど、それは苦いもののようであります。
「お絹殿、お絹殿」
 呂律(ろれつ)も廻らない声でお絹の名を呼びながら、庭下駄を穿いてこちらへ来るらしいのは、まさしく酒乱の神尾主膳の声であります。
 このごろでは神尾が酒乱になった時には、誰もみな逃げてしまいます。誰も相手にしないで罵るだけ罵らせ、荒(あば)れるだけ荒れさせて、その醒(さ)める時まで抛(ほう)っておくのであります。
 相手のない酒乱に、拍子抜けのしたらしい神尾主膳は、何を思いついたか、お絹の住む別宅の方へ押しかけて来るらしいのであります。その声を聞くと、お絹は浅ましさに身を震わせました。
 幸いにして神尾主膳は境の木戸を開こうとして、その錠(じょう)の厳しいのにあぐんだものか、とりとめもなき言語を吐き散らした上に引上げてしまったもののようでありました。
 お絹はホッと息をつきましたけれど、苦悶の色が面(かお)に満つるのを隠すことができません。

         四

 気の毒なのは駒井能登守であります。江戸の本邸に着いたまでは、ともかくもその格式で帰りました。
 江戸へ着いてからいくばくもなくして、その姿をさえ認めたものはありません。番町の本邸は鎖(とざ)されて朽(く)ちかかったけれど、新しい主を迎える模様は見えませんでした。
 これより先、病気であった夫人は、親戚の手に奪うが如く引取られてしまったということです。家来の者は四分五裂です。
 主人の能登守は自殺したという噂(うわさ)もあるし、遠国へ預けられたという噂もありましたが、ただその噂だけで、誰も一向にその消息を知った者はありません。
 あまりといえばこれは脆(もろ)い話であります。器量と言い学問と言い、ことに砲術にかけて並ぶ者がないと言われた人であります。未来の若年寄から老中を以て望みをかけられたほどの若い人才が、ほんの一人の女のために身を誤ったとすれば、惜しみても余りあることであります。失敗や蹉跌(さてつ)は男子の一生に無いことではありません。事によってはそれがかえって、後日大成を為す苦(にが)き経験であることも少なくはありません。
 けれども能登守のこのたびの失敗ばかりは、とうてい取り返すことのできない失敗であります。能登守というものは、これで全然社会から葬られてしまった結果になりました。能登守自身が葬られてしまったのみならず、遠くはその祖先の名も、近くはその親類の名も、これによって泥土(でいど)に汚(けが)されたと同じような結果になってしまいました。
 一死よりも名誉を重んじ、一命よりも門地を尚(たっと)ぶ習慣の空気に生い立ちながら、みすみすこういうことをしでかした能登守には、魔が附いたと見るよりほかはないのであります。それほどの馬鹿でもなかったはずの人が、これより上の恥辱はないほどの恥辱を以て、生きながら葬られたことは、ひとごとながら浅ましさに堪えられないほどのことであります。
 それでありながら立派に腹も切れないとは、よくよく腰が抜けたものだと憤慨する人や、ここで腹を切ったら、それこそ恥の上の恥の上塗りだと冷笑する者や、それらの空気の間で、駒井家は見事に没落して、その空(あき)屋敷(やしき)の前を通りかかった者でもなければ、もう噂をいう人もないという時分になってしまいました。
 その時分に、王子の滝の川の甚兵衛という水車小舎の附近へ、公儀から役人が出向いて、縄張りがはじまりました。何か目的あってこの土地へ建前(たてまえ)をするもののように見受けられました。ことにそれは、川に沿うて水の流れを利用するらしい計画であります。
 土地の人も、最初は何の目的の縄張りであるかを知りませんでした。ほどなく同地の扇屋を旅館として、身分ある公儀の役人が詰めた時に、その縄張りの計画がかなり重大なものであることを悟りました。そこへ来た役人の重(おも)なる者は、沢太郎左衛門と武田斐三郎(たけだひさぶろう)とでありました。この二人は、幕府のその方面において軽からぬ地位の人でありました。扇屋へ招かれた大工の伊三郎だの、鳶(とび)の万蔵だのという者の口から聞くと、このたびのお縄張りは、滝の川附近へ、公儀で火薬の製造所をお建てになる御目論見(おんもくろみ)から出たものだということがわかってきました。
 この火薬の製造所は、従来の火薬の製造とは違って、日本において初めての西洋式の火薬の製造所を建てるということなのであります。その計画は、小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)と武田斐三郎との両人の企てで、沢太郎左衛門がそれに参加したのは、やや後のことになります。
 こうなって来ると思い出されるのは、それにもう一枚、駒井能登守ということでありますが、惜しい哉(かな)、せっかくの人材も烏有(うゆう)のうちに葬られています。
 この日本で初めての西洋式の火薬の製造所の工事は、着々と進んで行きました。
 最初に縄張りをした甚兵衛水車の附近が、水量が不足だからという理由で、三ツ又の方へ持って行かれました。
 工事の頭取には武田斐三郎、それを助けるのは御鉄砲玉薬下奉行(おてっぽうたまぐすりしたぶぎょう)の小林祐三、ほかに俗事役が三人と、そのころ算術と舎密学(しゃみつがく)に通じていた貝塚道次郎というものが、手伝いに出勤することとなりました。
 注文の火薬製造機械は、和蘭(オランダ)のアムステルダムから帆前船に積み込まれたという通知もありました。
 頭取をはじめ役人たちは扇屋を宿と定めていたけれど、工事の場所には作事小屋があって、そこに絶えず宿直している役人らしい者があります。
 その小屋の一室へは、武田斐三郎や貝塚道次郎らが出入りするのみで、他に何人(なんぴと)も出入りすることを許されませんでした。それは、人に知られてはならない火薬上の秘密や、機械類の組立てをするところであろうと、俗事役の者や土方人夫などは、敢(あえ)てそれに近寄ろうとはしませんでした。
 この秘密室は、夜になると厳重に錠が下ろされてしまいます。工事の見守りをする夜番の小屋はそこよりズッと隔たったところにあるから、ただ時々にその辺を廻って火の用心をするくらいに過ぎませんでした。この火薬の製造所を計画した小栗上野介は一流の人傑で、幕府においての主戦論者の第一人でありました。勘定奉行にして陸海軍奉行を兼ね、勝も大久保も皆その配下に働いたものであります。この火薬の製造所とても、西の方に起る大きな新勢力に対する用意の一つであることは申すまでもありません。王政維新を叫ぶ西の方の諸藩の人にとって、この火薬製造所の計画が、尋常のものとして見過ごされないのは当然であります。
 この工事に入っている土方や人足にも、相当の吟味(ぎんみ)をして入れなければならないはずなのが、どうしたものか、少なくとも、たった一人だけ穏かでない人足を入れてあることは、役人たちの大きな手落ちと言おうか、それともその一人が変装と素性(すじょう)を隠すことの巧(たく)みなためと言おうか、とにかく、その土を担いだり、石を運んだりする人足のうちに、気をつけて見れば、それと気のつけらるべき男が一人あります。
 それは、甲府の破獄以来のことを知ったものには、指して言いさえすればすぐわかることなので、あの時、牢屋を破った主謀者、後には偶然、駒井能登守邸にかくまわれた奇異なる武士、また甲州街道では馬を曳いてがんりきを追い飛ばした馬子、ここでは土を担いだり石を運んだりさまざまに変幻出没するけれど、要するに同一の人で、あのとき南条といわれて通った浪士らしい男であります。
 縄張外に立てられた土方部屋を、夜中に密(そっ)と抜け出して手拭をかぶりつつ、作事小屋の方へ忍んで行くのもその人であります。どこへ何の目的あって行くのかと思えば、柵(さく)を乗り越えて、作事小屋の中へ足を踏み込みました。
 工事の頭取と公儀の重役とが秘密に会議をする作事小屋の一室――そこをめざしてこの仮装の労働者は忍んで行くもののようであります。この男が秘密室を探ろうとするのは、今夜に始まったことではないのであります。
 毎夜のようにその辺を探ろうとして忍ぶものらしいが、いつもその目的を達せずして帰るもののようであります。今宵もまたその通りで、空(むな)しく工夫部屋まで引返したのは、やはり例の秘密室の構造が厳重なのか、或いは中にいる人の用心が周到なので近寄れなかったものと見えます。
 そうしているうちに、この火薬製造所の工事は進んで行くのであります。右の南条と覚しき奇異なる労働者は、相変らず毎日石を運んだり土を荷(にな)ったりして、他の労働者と同じことに働いているのであります。
 硝石(しょうせき)の精製所も出来ました。硫黄(いおう)の蒸溜所も出来上りました。機械類の磨き方は、鉄砲師の川崎長門(ながと)と国友松造という者が来て引受けました。水圧器の組立ても出来ました。
 その都度(つど)、右の労働者は、役人や仲間のものの気のつかないうちに、家の建前と機械類の構造を注意することは驚くべき熱心さでありました。熱心でそうして機敏でありました。人に気取(けど)られようとする時は、何かに紛らかして、なにくわぬ面(かお)をしている澄まし方などは、そのつもりで見れば驚くべき巧妙さであります。
 夜になって人の寝静まった時分には、それらの見取図を頭の中から吐き出して紙に写していることも、誰にも知られないで進んで行きました。紙に写した見取図は、工夫部屋の縁の下を掘って埋めておくことも、誰にも見つけられないで納まって行きました。埋めておいてから例の通り疑問の秘密室の方へ出かけるけれども、そこばかりはどうしても近寄ることができないらしくあります。近寄ることができても、内部の模様はどうしても知ることができないらしくあります。この奇異なる労働者が知ろうとして知ることのできないのは、ただ右の秘密室の内部ばかりであるようです。
 しかしながら長い間、間断なく心がけていれば、ついには何物かを得られる機会があるものです。今宵も例の通り秘密室の柵の外まで忍んで、水辺の立木の下に、そっと忍んで考えていると、その柵の一部分の戸が開きました。
 打見たところは高い柵であったけれど、その下の一部が開き戸になっていて、内から押せば開くものだということは、今まで気がつきませんでした。
 南条といわれた奇異なる労働者は、さてこそと闇の中に眼をみはりました。この人は永らく獄中の経験があったために、暗いところで物を視るの力が人並以上なのであります。
 そこに南条が隠れて様子を見張っているということを知らないらしい中なる人は、戸をあけると、スックと外へ身を現わしました。
 それを一目見た時に南条は、直ちに見覚えのある人だということがわかりました。まだ年若き侍体(さむらいてい)の者であることは誰が見てもわかることでしたけれど、その若い侍体の人柄に見覚えがあることから、南条はじっと立って動きませんでした。

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