大菩薩峠
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著者名:中里介山 

 神尾主膳は、刀を傍へさしおいて、片手ではお銀様の口を押え、片手では、三ツ組の朱塗の盃のいちばん小さいのへ酒を注いで、その上へ小瓶の中から何物かを落して、無理にお銀様の口を割って飲ませようとします。お銀様は、
「アッ、いや――誰か、誰か、来て――苦しッ」
「あ痛ッ」
 神尾主膳が痛ッと言って、お銀様に飲ませようとした小盃を畳の上へ取落して、飛び上るように手の甲を抑えたのは、今、必死になったお銀様のために、そこをしたたかに食い破られたのであります。
「わたしは死ねない、まだここでは死ねない、幸内、幸内、誰か、誰か、誰か来て……」
 お銀様は飛び起きて梯子段を転げ落ちました。
「おのれ、逃がしては」
 神尾主膳は、さしおいた伯耆の安綱の刀を持って酔歩蹣跚(すいほまんさん)として、逃げて行くお銀様の後を追いかけました。
 梯子を転げ落ちたお銀様は、転げ落ちたのも知らず、直ぐに起き返ったことも知らず、どこをどう逃げてよいかも知らず、ただ白刃を提げて追いかける悪魔に追い迫られて、廊下を曲って突当りの部屋の障子を押し開いて逃げ込みました。
 お銀様が逃げ込んだその部屋には炬燵(こたつ)がありました。
 その炬燵には横になって、人が一人、うたた寝をしておりました。それに気のついた時に神尾主膳はもう、白刃を提げてこの部屋の入口のところまで来ていました。
「ああ、あなたは善い人か悪い人か知らない、わたしを助けて下さい、わたしはここでは死ねません」
 お銀様はその横にうたた寝をしていた人の首に、しっかとしがみつきました。
 机竜之助はこの時眼が醒(さ)めました。眼が醒めたけれども、この人は眼をあくことの出来ない人であります。ただわが首筋へしがみついたその者の声は女であることを知り、竜之助の首を抱えた腕は火のようであることを知り、その頬に触れる血の熱さも火のようであることを知ったのみです。
「助けて下さい、神尾主膳は鬼でございます、わたしは殺されてもかまいませんけれど、神尾主膳の手にかかって殺されるのはいやでございます、あなた様は善いお方だか悪いお方だか知れないけれども、わたしを助けて下さい、助けられなければ、あなたのお手で殺して下さい、わたしは神尾主膳に殺されるよりは、知らない人に殺された方がよろしうございます」
 この言葉も息も、共に炎を吐くような熱さでありました。
「神尾殿、悪戯(いたずら)をなさるな」
 竜之助はここで起き直ろうとしました。しかしお銀様の腕は竜之助の身体から離れることはありません。竜之助はそれを振り放そうとした時に、お銀様の乱れた髪の軟らかい束が、竜之助の面(かお)を埋めるように群っているのを知りました。
「はははは」
 神尾主膳は敷居の外に立って高らかに笑いました。その手には、やはり伯耆の安綱を提げていましたけれど、その足は廊下に立って、その面はこっちを向いたままで一歩も中へは入って来ませんでした。
「助けて下さい」
 お銀様は、竜之助の蔭に隠れました。蔭に隠れたけれども、しっかりと竜之助に抱きついているのでありました。もしも神尾に斬られるならばこの人と一緒に……お銀様は、どうしても自分一人だけ神尾に斬られるのでは、死んでも死にきれないと、ただそれだけが一念でありましょう。
「どうするつもりじゃ」
 それは竜之助の声でありました。例によって冷たい声でありました。どうするつもりじゃ、と言ったのは、それは刀を提げて立っている神尾主膳に尋ねたのか、それとも自分にかじりついているお銀様の挙動をたしなめたのか、どちらかわからない言いぶりでありました。聞き様によっては、どちらにも聞き取れる言いぶりでありました。
「ははははは」
 酒乱の神尾主膳は、またも声高らかに笑って、
「脅(おどか)してみたのじゃ」
「悪い癖だ」
 竜之助はそれより起き上ろうともしませんでした。神尾主膳もまた一歩もこの部屋の中へは足を入れないで、突っ立ったなりでニヤニヤと笑っていましたが、
「はははは」
 高笑いして、足許もしどろもどろに廊下を引返して行くのであります。
 その足音を聞いていた机竜之助が、
「あの男は、あれは酒乱じゃ」
と言いました。
「有難う存じまする、有難う存じまする、あなた様のおかげで危ないところを……」
 お銀様は、ただ無意識にお礼を繰返すことのみを知っておりました。
「お前様は?」
「はい、わたくしは……」
と言ってお銀様は、竜之助の面(かお)を見ることができました。けれども、わざと眼を塞(ふさ)いでいるこの人の物静かなのを見ただけでありました。お銀様は、その時に、はっと思って自分の姿の浅ましく乱れていることに気がつかないわけにはゆきませんでした。髪も乱れているし、着物も乱れているし、恥かしい肌も現(あらわ)になっているものを。
 それを見まいがために、この人は、わざと眼を塞いでいるのではないかと思われました。
 お銀様は、あわてて自分の身を掻(か)いつくろいましたけれど、それでもなお何かの恥かしさに堪えられないようでした。
 お銀様も、さすがに若い女であります。この怖れと、怒りと、驚きとの中にあって、なお自分の姿と貌(かたち)の取乱したのを恥かしく思うの余地がありました。
 それから、髪の毛を撫で上げました。着物の褄(つま)を合せました。
 それを見て見ぬふりをしているこの人は、神尾主膳とは違って奥床しいところのある人だと思わせられる心持になりました。
 前へ廻って、しとやかに両手を突きました。
「どうぞ、わたくしをお逃がし下さいまし、お願いでございまする」
 その声はしおらしいものでありました。起き直ったけれども、やはり炬燵にあたっていた机竜之助は、その声を聞いてもまだ眼を開くことをしません。
「どうぞ、このままわたくしをお逃がし下さいませ」
 お銀様は折返して、机竜之助の前に助命の願いをしました。けれども竜之助は、やはり眼を開くことをしないし、また一言の返事をも与えないのでありました。それでもお銀様の言葉には、ようく耳を傾けているには違いありません。
「ああ、わたくしは一刻もこの家にこうしてはおられぬのでござりまする、神尾主膳は悪人でござりまする、こうしておれば、わたくしは幸内と同じように殺されてしまうのでござりまする、あなた様はどういうお方か存じませぬが、どうかこのままお逃がし下さいまし、一生のお願いでござりまする」
 お銀様は竜之助に歎願のあまり、伏し拝むのでありました。けれども竜之助は、眼を開いてその可憐な姿を見ようともしなければ、口を開いて、逃げろとも助けるとも言いませんでした。ただお銀様の一語一語を聞いているうちに、その面(おもて)にみるみる沈痛の色が漲(みなぎ)り渡るのみでありました。
「それでは、わたくしはこのまま御免を蒙りまする、いずれまた人を御挨拶に遣(つか)わしまする」
 お銀様は愴惶(そうこう)としてこの部屋を立って行こうとした時に、竜之助がはじめて、
「お待ちなさい」
と言いました。
「はい」
 お銀様は立ち止まりました。
「これからどこへおいでなさろうというのです」
「はい、有野村まで」
「有野村へ?……外は近来(ちかごろ)の大雪であるらしいのに」
「雪が降りましょうとも雨が降りましょうとも、わたくしは帰らずにはおられませぬ」
「外は雪である上に、駕籠(かご)も乗物もここにはあるまい」
「そんな物はどうでもよろしうござりまする、わたくしは逃げなければなりませぬ、帰らなければなりませぬ」
「駕籠も乗物もないのに、外へ出れば人通りもあるまい、道で吹雪(ふぶき)に打たれて凍(こご)えて死ぬ……」
「たとえ凍えて死にましても、わたくしは……」
「そりゃ無分別」
「ああ、思慮も分別も、わたくしにはわかりませぬ、こうしておられませぬ、こうしてはおられませぬわいな」
「待てと申すに」
 竜之助の声は、寒水が磐(いわお)の上を走るような声でありました。お銀様はゾッとして立ち竦(すく)んでしまいました。見ればこの人はまだ眼を開かないけれど、炬燵(こたつ)の中から半身を開いて、傍(かたえ)に置いた海老鞘(えびざや)の刀を膝の上まで引寄せているのでありました。
 その構えは、動かば斬らんという構えでありました。その面(かお)の色は、斬って血を見ようとする色でありました。
「ああ、ああ、あなた様も、やっぱり悪い人、神尾主膳の同類でござんしたか。ああ、わたくしはどうしたらようございましょう」
 主膳に脅(おどか)された時は、少なくとも抵抗するの気力がありました。またその人に追われた時も逃げる隙がありました。ひとりこの異様なる人の前にあっては、身の毛が竪立(よだ)って動こうとしても動けないで、張り合おうとしても張り合えないで、戦慄するのみです。
 この時、門外が噪(さわ)がしく、多くの人がこの古屋敷へ来たらしくあります。
 それは、乗物を持って神尾主膳を本邸から迎えに来たものでありました。酔い伏していた主膳は、その迎えを受けるや愴惶(そうこう)として、その乗物に乗って本邸へ帰ってしまいました。それでこの古屋敷は、主人を失って全く静寂に帰してしまいました。
 机竜之助は、また炬燵櫓(こたつやぐら)の中へ両の手を差込んで、首をグッタリと蒲団(ふとん)の上へ投げ出して、何事もなく転寝(うたたね)の形でありました。お銀様はその前に伏して面(かお)を埋めて、忍び音に泣いているのでありました。外の雪は、まだまだ歇(や)むべき模様もなく、時々吹雪が裏の板戸を撫(な)でて通り過ぎると、ポタポタと雪の塊(かたまり)が植込の梢(こずえ)を辷(すべ)って庭へ落ちる音が聞えます。
「幸内というのは、ありゃ、お前様の兄弟か」
「いいえ、雇人でござりまする」
 竜之助は転寝をしながら静かに尋ねると、お銀様は忍び音に泣き伏しながら辛(かろ)うじて答えました。
「雇人……」
 竜之助はこう言って、しばらく言葉を休んでいました。
「幸内がかわいそうでございます、幸内がかわいそうでございます」
 お銀様は、また泣きました。
「いったい、神尾はあれをどうしようというのだ」
「神尾様は幸内を殺してしまいました、あの人が企(たくら)んで幸内を殺した上に、わたくしを欺(だま)して、わたくしの家を乗取ろうという悪い企みだそうでございます」
「神尾のやりそうなことだ」
と言って竜之助は、敢(あえ)てその悪い企みを聞いて驚くのでもありませんでした。また神尾のその悪い計画に同意しているものとも思われませんでした。それですから、お銀様にどうもこの人がわからなくなってしまいました。
「あなた様は神尾様のお友達でございますか、御親類のお方でございますか、神尾様のような悪いお方ではございますまい、幸内を苛(いじ)めたように、わたくしを苛めるような、そんな悪いお方ではございますまい、そんなお方とは思われませぬ、あなた様は、もっとお情け深いお方でございましょう、どうか、わたくしをお逃がし下さいまし」
「ははは、わしは神尾の友達でもないし、もとより身寄(みより)でも親類でもない、お前方と同じように、神尾主膳のために囚(とら)えられて、この古屋敷の番人をしているのじゃ」
「エエ! それではあなた様もやっぱり神尾のために」
「よんどころなくこうしている」
「お宅はどちらでございます」
「ちと遠い」
「御遠方でございますか」
「武蔵の国」
「そんならば、あの、こちらの大菩薩峠を越ゆれば、そこが武蔵の国でございます」
「ああ、そうだ」
 竜之助は荒っぽく返事をしました。お銀様は黙ってしまいました。
「なるほど、大菩薩峠を一つ越せば武州へ入るのじゃわい、道のりにしてはいくらもないけれど、おれには帰れぬ、帰ってくれと言う者もないけれど。ああ、子供が一人いる、親の無い子供が泣いている」
 竜之助は炬燵(こたつ)の上から頭を持ち上げました。子供が一人いる、親の無い子が泣いている、これはまた何という取っても附かぬ述懐であろう。この人にしてこんな言(こと)……その面(かお)を見ると、冷やかな蒼白い色に言うばかりなき苦悶の影がありありと現われましたけれど、それは電光のように掠(かす)めて消えてしまいました。
 消えないのはお銀様の眼の前に、前の晩、穴切明神のあたりで泣いていた男の子、親は何者かのために斬られて非業(ひごう)の最期(さいご)。ひとり泣いていた、あの子はどうなった――ということであります。
 お銀様は机竜之助の傍に引きつけられていました。
 日が暮れるまでそこで泣いていました。日が暮れるとその屋敷の小使が食事を運んで、いつもの通りその次の間まで持って来て置きました。
 竜之助は夕飯を食べましたけれども、お銀様は食べませんでした。
 夕飯を食べてしまった後の竜之助は、障子をあけてカラカラと格子戸を立てました。外の雨戸のほかに、この座敷には狐格子(きつねごうし)の丈夫な障子がまた一枚あります。その格子戸を立て切ると竜之助は、二箇所ほどピンと錠をおろしてしまいました。
 なんのことはない、それは座敷牢と同じことです。
 そこで竜之助は、また炬燵へ入ってしまいました。
 お銀様は泣いておりました。こうして夜は次第に更(ふ)けてゆくばかりです。
 夜中にお銀様は物におびやかされて、
「あれ、幸内が」
と言って飛び上りました。
 やはり転寝(うたたね)の形であった竜之助はその声で覚めると、その見えない眼にパッと鬼火が燃えました。
「幸内が……」
 お銀様は再び竜之助に、すがりつきました。お銀様は何か幻(まぼろし)を見ました。幸内の形をした幻に驚かされました。
 机竜之助もまた何者をか見ました。何者かに襲われました。お銀様を抱えて隠そうとしました。
 竜之助を襲い来(きた)ったものは神尾主膳ではありません。宇津木兵馬でもありません。
 前に幸内を入れて置いた長持の中から、茶碗ほどの大きさな綺麗な二ツの蝶が出ました。何も見えないはずの竜之助の眼に、その蝶だけはハッキリと見えました。
 蝶は雌蝶と雄蝶との二つでありました。しかもその雄蝶は黒く雌蝶は青いのまで、竜之助の眼には判然(はっきり)として現われました。
 お銀様を片手に抱えた竜之助は、その蝶の行方(ゆくえ)を凝(じっ)と見ていました。雄蝶と雌蝶とは上になり下になって長持の中から舞い出でました。やや上ってまた下りました。その二つは戯(たわむ)れているのではなく、食い合っているのでありました。
 非常に恐ろしい形相(ぎょうそう)をして雌蝶と雄蝶が噛(か)み合いながら室内を、上になり下になって狂い廻るのでありました。
「ああ、幸内がかわいそう……」
とお銀様が慄(ふる)え上るその頭髪(かみ)の上で、二つの蝶が食い合っていました。竜之助には、いよいよ判然(はっきり)とその蝶が透通(すきとお)るように見えるのであります。蝶の噛み合う歯の音まで歴々(ありあり)と聞えるのであります。
「ああ、幸内がここへ来た」
 お銀様は、雌蝶とも雄蝶とも言わない。竜之助は幸内の姿を見ているのではありません。
 この二つの蝶は夜もすがら、この座敷牢の中を狂って狂い廻りました。竜之助はこの蝶のために一夜を眠ることができませんでした。お銀様はこの蝶ならぬ幸内の幻(まぼろし)のために一夜を眠ることができませんでした。
 夜が明けた時にお銀様は、そう言いました。
「ああ、あなたはお眼が見えない、お眼が見えないから、わたしは嬉しい」
 竜之助とお銀様との縁は悪縁であるか、善縁であるか、ただし悪魔の戯れであるかは、わかりません。
 けれども、甲府のあたりの町の人にはこれが幸いでありました。その当座、机竜之助は辻斬に出ることをやめました。甲府の人は一時の物騒な夜中の警戒から解放されることになりました。
 お銀様は、竜之助と共に暫らくこの座敷牢の中に暮らすことを満足しました。竜之助は、このお銀様によって甲府の土地を立退くの約束を与えられました。

         六

 神尾主膳が躑躅(つつじ)ケ崎(さき)の古屋敷から、あわてて帰った時分に、駒井能登守はまた、こっそりとその屋敷へ戻って来ました。
 出て行った時には都合四人であったのが、帰った時は二人きりです。その二人とは、当の能登守と、それから跟(つ)いて行った米友とだけです。
「米友」
 能登守が米友を顧みて呼ぶと、
「何だ」
 米友は上眼使いに能登守の面(かお)を見上げて、無愛想な返事です。
「大儀であったな」
「ナーニ」
 米友は眼を外(そ)らして横を向いて、能登守の労(ねぎら)う言葉を好意を以て受取ろうとしません。屋敷に着いた時も、表から入らずに裏から入りました。
 出て行った時でさえ、家来の者も気がつかなかったくらいだから、帰った時には、なお気がつく者がありませんでした。
 主人を送り込んだ米友は、その鉄砲を担いだままで、ジロリと主人の入って行った後を見送っていました。
「お帰りあそばせ」
と言って迎えたのは女の声であります。女の声、しかもお君の声であります。その声を聞くと米友は眼をクルクルと光らせて、大戸の中を覗(のぞ)き込むようにしました。けれども主人能登守の姿も見えないし、お君の姿も見えません。二人の姿は見えないけれど、その声はよく聞えます。
「よく降る雪だ」
「この大雪に、どちらまでおいであそばしました」
「竜王の鼻へ雪見に行って来たのじゃ」
「ほんとに殿様はお好奇(ものずき)でおいであそばす」
というお君の声は、晴れやかな声でありました。
「ははは、これも病だから仕方がない」
 能登守も大へんに御機嫌がよろしい。
「また御家来衆に叱られましょう、お好奇(ものずき)も大概にあそばさぬと」
「それ故、こっそりとこの裏口から帰って来た。しかし誰に叱られても、この大雪ではじっとしておられぬわい……留守中、あの病人にも変ることはなかったか」
「よくお休みでございます、気分もおよろしいようで」
「それは何より。さあ、これがお前への土産(みやげ)じゃ」
「まあ、これをお打ちあそばしたのでございますか」
「そうじゃ、荒川沿いの堤(どて)の蔭で」
「かわいそうに」
「これはしたり、そなた殺生(せっしょう)は嫌いか」
「殺生は嫌いでございますけれど、殿様のお土産ならば大好きでございます」
「はは、たあいないものじゃ」
「あの、お風呂がよく沸(わ)いておりまするが、お召しになりましては」
「それは有難い、ではこのまま風呂場へ」
「御案内を致しまする」
 米友は、大戸の入口から洩れて来るこれらの会話(はなし)をよく聞いていました。大戸の中をやや離れて覗(のぞ)き込むようにしていたが、その額に畳んだ小皺(こじわ)のあたりに雲がかかって、その眼つきさえ米友としてはやや嶮(けわ)しいくらいです。
 そこで話がたえたけれども、この会話の間にも、お君の口からも能登守の口からも、米友という名前は一言も呼ばれませんでした。遺憾ながら「友さんも帰りましたか」という言葉が、お君の口から出ないでしまいました。それで二人は風呂場へ行ってしまったようでした。米友は大戸の入口から、まだ中を睨(にら)んで立っています。
 それから米友は、軒下を歩いて自分の部屋へ帰ろうとする時に、
「誰だい、そこの節穴からこの屋敷の中を覗いているのは誰だい」
と言って、また立ち止まって塀を睨みました。
「また折助のやつらだろう、誰に断わってそこからこっちを覗くんだ、やい、鉄砲を打放(ぶっぱな)してくれるぞ」
 おどかすつもりであろうけれども、米友は担(にな)っていた鉄砲を肩から卸(おろ)しました。
 米友が推察の通り、この塀の外から中を隙見(すきみ)していたのは折助でありました。折助が三人ばかり先刻から節穴を覗いていたのを、米友に見つけられて彼等は丸くなって雪の中を逃げました。
 折助は雪の中を、こけつまろびつ逃げて、とうとう八日市の酒場まで逃げて来ました。それは縄暖簾(なわのれん)の大きいので、彼等の倶楽部(くらぶ)であります。
 彼等三人がこの八日市の酒場へ逃げ込むと、そこには土間の大囲炉裏(おおいろり)を囲んで、定連(じょうれん)が濁酒(どぶろく)を飲んだり、芋をつついたりして、太平楽(たいへいらく)を並べている最中でありました。
 前にも言う通り、折助の社会は人間並みの社会ではないのであります。人間並みの人の恥ずることがこの社会では誉(ほまれ)なのであります。これらの人間が、もし女を引きつれてこの酒場へ来ようものならば、「恋の勝利者!」と言って彼等は喝采します、どうかして心中の半分もやり出すものがあると、彼等は喜悦に堪えないで双手(もろて)を挙げて躍り狂うのでありました。「偉い! 楠公(なんこう)以上、赤穂義士以上、比翼塚(ひよくづか)を立てろ!」というようなことになるのであります。
 けれどもまた、怜悧(りこう)な人は折助をうまく利用して、評判を立てさせたり隙見(すきみ)をさせたりするのでありました。それによって多少成功する者もないではありませんでしたけれども、やっぱり折助の立てた評判は折助以上に出でないことを知るようになりました。
 今、駒井能登守の屋敷を覗いて、米友に叱り飛ばされた折助も、おそらくは誰かに利用されて、隙見に来たものでありましょうが、この酒場へ逃げ込むと大急ぎで熱燗(あつかん)を注文して飲みました。
 ここでは前からガヤガヤと折助連中が馬鹿話をしておりましたから、新たに逃げ込んだ三人の話し声も、それに紛(まぎ)れて何を話したのだかわかりませんでしたけれども、彼等は惣菜(そうざい)で熱燗をひっかけると、長くはこの場に留(とど)まらないで、また三人打連れて飛び出してしまいました。それで彼等は雪の中を威勢よく駆け出して、二丁目を真直ぐに飛んで、やがて役割の市五郎の屋敷へ飛び込んでしまいました。
 それはそうとして、米友は彼等を叱り飛ばして、また鉄砲を担いで自分の部屋としてあてがわれたところへ来て、鉄砲を卸して大事に立てかけて、それから蓑(みの)を脱いで外へ向けてよく振いました。蓑に積っていた雪をパッパと振って壁へかけ、それから、腰を卸して雑巾(ぞうきん)で足を拭きはじめました。
 足を拭いている時も、米友の面(かお)は曇っていました。そこへ不意に鼻を鳴らし、尾を振って現われたのはムク犬であります。
「ムク」
 米友は足を拭きかけた雑巾の手を休めて、ムク犬をながめました。
「雪が降ると手前(てめえ)も機嫌がいいな」
 ムクは米友の前に膝を折って両手を突くようにして、米友の面をながめました。
「今、飯を食わせてやるから待っていろ」
 米友は足を拭き終って、上へあがりました。
「ムクや、手前は良い犬だ、どこを尋ねても手前のような良い犬はねえけれど、やっぱり犬は犬だ、外を守ることはできても、内を守ることができねえんだな」
と言いながらムクの面を見ていた時に、ふと気がつけば、その首に糸が巻いてあって、糸の下には結(むす)び状(ぶみ)が附けてあるのを認めました。
「おや」
と米友はその結(むす)び状(ぶみ)に眼をつけました。してみればムクは食事の催促にここへ来たのではなく、この結び状を届けるためにここへ来たものとしか思われません。
「誰だろう、誰がこんなことをしたんだろうな」
と言って米友は不審の眉を寄せながら、ムクの首からその糸を外して結び状を取り上げました。
 ともかくも、ムクを捉まえてこんな手紙のやりとりをしようという者は、米友の考えではお君のほかには思い当らないのであります。けれどもそのお君ならばなにも、わざわざこんなことをして自分のところへ手紙をよこさねばならぬ必要はないはずであります。お君のほかの人で、こんな使をこの犬に頼む者があろうとは、米友には思い当らないし、ムク犬もまたほかの人に、こんな用を頼まれるような犬ではないはずであります。
 米友は、いよいよ不審の眉根(まゆね)を寄せながら、ついにその結び文を解いて見ました。読んでみると文句が極めて簡単なものであった上に、しかも余の誰人に来たのでもない、まさに自分に宛てて来たもので、
『米友さん裏の潜(くぐ)り戸(ど)をあけて下さい』
と書いてあるのでありました。
「わからねえ」
 米友は、その文面を見ながら、いよいよ困惑の色を面(かお)に現わしました。それは確かに女の手であります。女の手で見事に認(したた)められてあるのであります。
「いよいよ、わからねえ」
 米友の知っている唯一のお君は手紙の書けない女であります。このごろ、内密(ないしょ)で文字の稽古はしているらしいが、それにしても、こんな見事に書けるはずはないのであります。そのお君を別にして……まさか米友を見初(みそ)めて附文(つけぶみ)をしようという女があろうとは思われません。
「誰かの悪戯(いたずら)だ」
と疑ってみても、このムク犬が、こんな悪戯のなかだちにたつようなムク犬でないことによって、打消されてしまうのであります。
「ムク、ともかくもまあ案内してみろやい」
 米友は下駄を突っかけました。ムク犬はその先に立ちました。
 これより前の晩に、ムク犬はこれと同じようにして、米友とお君とを引合せました。今はまた別の何者かを、米友に引合せようとするらしいのであります。
 けれども、その潜(くぐ)り戸(ど)をあけるためには、ぜひとも一度、お君の部屋まで行かねばならないのでありました。お君の部屋にその鍵があるのですから。
 米友はこのごろ、お君の部屋へ行くことをいやがります。その前を通ることさえ忌々(いまいま)しがることがあります。けれども今は仕方がないから、番傘を拡げて庭へ廻って、そっとお君の部屋へ入りました。そこにはお君はいませんでした。留守の一間は、化粧の道具がいっぱいに取散らされてありました。
 米友の面にはみるみる不快の色が満ち渡って、壁にかけてあった鍵をひったくるように手に取りました。
 紅や白粉や軟らかい着物を脱ぎ捨てられたのを見た米友は、その場を見ると物凄い眼つきで湯殿(ゆどの)の方を睨(にら)みながら、また番傘を拡げました。ムク犬は常に変った様子もなく、米友を塀の潜(くぐ)り戸(ど)の方へと導くのであります。
 米友が裏の潜り戸をあけて見たけれど、そこには誰も立っていませんでした。
 米友は往来を見廻したけれども、雪が降っているばかりで、誰もいないし、通る人もほとんど稀れであります。
 こいつは、やっぱり欺(かつ)がれたかなと思って、首を引込めると、ムクが勢いよく外へ飛び出しました。ムクがこっちから飛び出すと一緒に、向うの木蔭から蛇の目の傘が一つ出て来ました。雪は掃いてあるところもあり、掃いてないところもあるから歩きづらい中を、蛇の目の傘を傾(かし)げて、足許(あしもと)危なげにこっちへ歩んで来るのは女でありました。面は見えないけれども、その着物と足許で、まだ若い女の人であるということが米友にもよくわかります。
 その人の傍へ飛んで行ったムクは、ちょうどそれを迎えに行ったようなものです。
 誰だろうと思って米友は、その傘の中を早く見たいものだと思いました。
「米友さん」
と言って、すぐ眼の前へ来てから、傘を取るのと言葉をかけるのと一緒であった。その人の面(おもて)を見て、
「やあ、お前はお嬢さんだ」
と米友が言いました。
 お嬢さん、と米友が言うのは、それはお松のことでありました。お松とその伯母さんという人を米友は、江戸から笹子峠の下まで送って来た縁があります。
「米友さん、久しぶりでしたわね」
とお松が言いました。
「ほんとに久しぶりだな。お前さん、どうして俺(おい)らがここにいることがわかった」
「さっき、ちょっと見かけたから、それで」
「では、ムクの首へ手紙をつけたのもお前さんだね」
「そうよ」
「そんなことをしなくても、表から尋ねて下さればいいに」
「それがそうゆかないわけがあるから、それであんなことをしたの。米友さん、お前に内密(ないしょ)で頼みたいことがあるのだけれど、少しの間、外へ出て貰えないの。そうでなければ、わたしを中へ入れて話を聞いて貰いたいのだけれど」
「うむ、そうさなあ」
と言って米友は、少しく考えていましたが、
「俺(おい)らは、ちょっと外へ出るわけにはいかねえんだ」
「では米友さん、後生(ごしょう)だけれど、こちらのお屋敷の誰にも知れないようにして、お前さんの部屋か何かへ、わたしを通して下さいな、そこでぜひお前さんに話をしたいことがあるんだから」
「そりゃ構わねえ、俺らの部屋でよければ、お寄んなさるがいい。ううん、誰にも見られやしねえ。見られたところで、なにも痛いことも痒(かゆ)いこともあるめえじゃねえか」
「おかしな米友さんだこと、それは痛くも痒くもないけれど、少し都合があって誰にも見られたくないのだから、そのつもりで」
「いいとも、早く中へ入っちまいな、ここを閉めるから」
 お松はそのまま潜(くぐ)り戸(ど)をくぐって庭の中へ入りました。米友はそのあとを閉して錠を下ろしてしまいます。
「米友さん、わたしはどうしようかと思ったけれど、お前さんが、蓑を着て鉄砲を担いで裏門を入って行く姿を見たものだから、こんな仕合せなことはないと思って、どうかしてお前さんが、もう一ぺん出て来るのを待っていようと、さっきからこの通りを二度も三度も歩いているうちに、この犬がお屋敷から出て来たものだから、ほんとにいい塩梅(あんばい)でした」
 米友は、お松を己(おの)れの部屋へ案内して、炉の火を焚きました。
「米友さん」
 改まってお松は、米友の名を呼びます。
「何だ」
 米友は眼を円(つぶら)にしました。
「わたしが、お前さんに聞きたいことと、それから頼みたいことというのは、あの、お前さん、ここのお屋敷にお客様がおありでしょうね」
「お客様?」
「え、え」
「そりゃ、これだけのお屋敷だからお客様もあるだろうさ」
「いいえ、そのお客様というのはね、人に知れては悪いお客様なのよ」
「はははは」
 米友は苦笑(にがわら)いして、
「人に知れて悪いお客様なら、俺(おい)らにも知れようはずがなし、お嬢さん、お前にだって知れるはずがなかろうじゃねえか」
「それでも、わたしにはよく知れているのよ」
「知れてるなら、俺らに聞かなくってもいいじゃねえか」
「米友さん、お前さんは相変らず理窟を言うからいけません」
「だって」
「そのお客様はお前……牢から出た人なのよ」
 お松が四辺(あたり)に気を置いて小声で言うと、
「エ、エ?」
 米友が、やや狼狽(うろた)えました。
「そのお客様が……」
「知らねえ、俺(おい)らは知らねえ」
 米友は首を左右に振りました。
「知らないたってお前、わたしにはよくわかっているのだから、隠しても仕方がないのよ、牢から出たお客様が三人ほど、たしかにこのお屋敷に隠れているはず」
「エ、エ?」
 米友はお松の面(かお)をじっと見ました。
「米友さん、これはわたしのほかには誰も知っている人はないのだから、心配しないように。そうしてその三人の中で、いちばん若い方に、これを差上げていただきたいの」
「何だ、それは」
「お薬」
「薬がどうしたんだ」
「どうか、これをお前さんの手から、その若いお方に差上げて下さい、頼みます」
「う――む」
と言った米友は、腕を拱(こまぬ)いて考え込んでしまいました。
「それからね、米友さん、いつでもいいからそのお方に、わたしを一度会わせて下さいな、そっと、誰にも知れないように、わたしのところへ言伝(ことづて)をして下さいな」
「う――む」
「後生(ごしょう)だから頼みますよ、その代り、わたしはまたお前さんの頼みなら何でもして上げますから」
「う――む」
「米友さん、お前さんは、うんうんと言っているけれど、承知してくれたのかえ、承知してくれないのかえ」
「う――む」
「後生だから」
「お嬢さん、俺らはほんとに知らねえんだ、このお屋敷に、どんなお客様が来ているか知らねえのだけれど……お前さんにそう言われてみると、ちっとばかり心当りがねえでもねえんだよ。よし、頼まれてやろう」
「有難う、拝みます」
「その若い人の名前は何と言うんだい」
「それは……あの、宇津木兵馬というの」
「宇津木兵馬」
 米友は口の中でその名を繰返して、お松の手渡しする竹筒入りの薬を受取りました。お松は喜びと感謝とで、米友を拝みたいくらいにしているのに拘(かかわ)らず、米友の面には、やはり前からの曇りが取り払われていません。
 お松は米友にくれぐれもこのことを頼んでおいて、またこっそりと傘をさして、前の潜(くぐ)りから帰りました。お松が神尾の邸の前まで来かかった時分に、雪を蹴立てて十数人の人が、南の方から駆けて来てこの門内へ入り込みました。
 あまりそのことが、あわただしいので、お松は暫らく立って様子を聞いておりました。
「失敗失敗」
 口々にこんなことを言いおります。
「どうした、おのおの方」
 酔っているらしい主人の神尾が声。
「ものの見事に出し投げを食った、今までかかって雀一羽も獲(と)れぬ。どこをどうしたか、目当ての鶴は、もう巣へ帰って風呂を浴びているそうじゃ」
「こいつが、こいつが」
 神尾主膳は、縁板を踏み鳴らしているようです。それから大勢の罵(ののし)り合う声、神尾の酔いに乗じて叱り飛ばす声。それが済むとまた十余人の連中が、トットと門を走(は)せ出してどこかへ飛んで行きます。

         七

 宇津木兵馬は、駒井能登守の二階の一室に横たわって、病に呻吟(しんぎん)していました。
 兵馬の病気は肝臓が痛むのであります。それに多年の修行と辛苦と、獄中の冷えやなにかが一時に打って出たものと見えます。
 ここへ来てからほんの僅かの間であったけれども、手当がよかったせいか、元気のつくことが著(いちじる)しいのであります。今も痛みが退(ひ)いたから、横になっている枕を換えて仰臥して天井を見ていました。
 駒井能登守とは何者、南条、五十嵐の両人は何者――ということを兵馬は天井を見ながら思い浮べておりました。
 能登守の語るところによれば、南条の本姓は亘理(わたり)といって、北陸の浪士であるとのこと。能登守とは江戸にある時分、砲術を研究していた頃の同窓の友達であったということです。
 また五十嵐は、東北の浪士であるということです。二人は相携えて上方からこの甲州へ入り込んで来たということです。
 能登守が笑って言うには、「あの連中は、ありゃ甲州の天嶮を探りに来たのじゃ、甲州の天嶮を利用して大事を成そうという計画で来たものじゃ。いくら今の世の中が乱れたからとて、あの二人の力で甲州を取ろうというのはちと無理じゃ、けれどもその志だけは相変らず威勢がよい。いったい、今時の浪人たちは、ああして日本中を引掻き廻すつもりでいるところが可愛い、徳川の旗本に、せめてあのくらいの意気込みの者が二三人あれば……」能登守は兵馬に向って、こんなことを言って聞かせました。
 彼等は甲州の天嶮と地理を探って、何か大事を為すつもりであったものらしい。それが現われて、捉まってこの牢へ入れられたものらしい。牢を破ってここへ逃げ込んだことは、我人(われひと)共に幸いであったけれど、我々をこうして隠して置く駒井能登守という人のためには、幸だか不幸だかわからないと思いました。
 能登守は、もう無事に南条と五十嵐の二人をこの邸から逃がしてしまった、この上は御身一人である、ここにいる以上は安心して養生するがよいと親切に言ってくれました。ともかくも、南条と言い、五十嵐と言い、それに自分と言い、金箔附きの破牢人であることに相違ない。その金箔附きの破牢人である自分たちを、公儀の重き役人である能登守が、逃がしたり隠して置いたりすることは、かなり好奇(ものずき)なことに考えられないわけにはゆきません。
 砲術にかけてはこの能登守は、非常に深い研究をしているとのことを聞きました。それとは別に能登守は、医術に相当の素養があることも兵馬にはすぐにわかりました。
 肝臓が痛むということも、兵馬が言わない先から能登守は見てくれました。これが肺へかかると一大事だということ、しかし今はその憂(うれ)いはないということをも附け加えて慰めてくれました。南条や五十嵐もかなり奇異なる武士であったけれど、この能登守も少しく変った役人と思わせられます。そのうち、この人に委細を打明けて、自分の本望を遂げる便宜を作ろうと兵馬は思いましたけれども、まだそれを打明ける機会は得ません。兵馬は能登守のことを思うと共に、それよりもまた因縁の奇妙なることは、曾(かつ)て自分がその病気を介抱してやったことのあるお君という女が、この邸に奉公していて、それがいま自分の介抱に当っているということであります。兵馬は能登守の次に、お君の面影を思い浮べておりました。
 それやこれやと、人の面影を思い浮べているうちに、またうとうとと眠くなって、そのまま快き眠りに落ちて行きました。
 ややあって宇津木兵馬は、何物かの物音によって夢を破られ、眼を開いた時、障子を締めて廊下を渡って行く人の足音を聞きました。多分、食物か薬を、例のお君が持って来てくれたものだろうと思って、枕許を見ました。
 枕許には、竹の筒が置いてあります。その竹の筒には凧糸(たこいと)が通してあります。凧糸の一端に結び文のようなものが附いていることを認めました。
 今までこんなものを持って来たことはないのに、何もことわりなしに、ちょこなんと、これだけを置き放しにして行ってしまったことが、兵馬にはなんだか、おかしく思われるのでありました。
 そう思って考えてみると、今、これを置き放しにして行ってしまった人の足音が、どうも、いつも来てくれるお君の足どりではないと思い返されました。といって能登守の足音とも思われません。お君でなし、能登守でなしとすれば、そのほかにここへ入って来る人はないはずである。自分のここにいることさえも知った人はないはずである。と思うにつけて、兵馬には今のおかしさが、多少の不安に感ぜられてきました。
 兵馬は手を伸べてその竹筒を取りました。手に取って一通り見ると、それは最初にお松をして破顔せしめたと同じ記号によって、病中の兵馬をも微笑させました。その一端には「十八文」と焼印がしてあるからです。
「十八文」の因縁は、兵馬もまた微笑することができるけれども、それについてもお松ほどに、たちどころに納得がゆかないのは、これがどうしてここへ来るようになったか、それともう一つは、何者がここへ持って来たかということであります。
 その不安を解決するには恰好なこの結(むす)び状(ぶみ)、兵馬は少しく身を起き上らせて、直ちに結び状の結び目を解きました。解いて見ると二枚の手紙が合せてあります。それを別々にして見ると、大きな方は例の道庵先生の処方箋でありましたが、小さな方は女文字であったから、兵馬をしていとど不審の眼を□(みは)らせました。
 道庵先生の「もろこし我朝に……」は兵馬も苦笑いして、そっと側(わき)に置き、その女文字の一通を読んでみると、それはお松からの手紙でありましたから、兵馬も我を忘れて読まないわけにはゆきません。あまり長い文句ではありませんでしたけれども、一別以来の大要が書いてありました。そうして今は神尾主膳の許(もと)にまでいて、御身の上を案じているということが、短いながらも要領を得て、まごころを籠(こ)めて書いて、それから、ぜひ一度お目にかかりたいが、どうしたらお目にかかれるだろうとの意味で、そのお返事をこのお薬の竹筒に入れて、友さんの手によって返していただきたいということであります。
 兵馬には、いちいちそれが了解されました。お松の心持が充分にわかって、有難いとも思い、嬉しいとも思いましたが、ただ何人(なんぴと)の手によって、この薬と手紙とがここに持ち来(きた)されたかということは、大きなる疑問です。
「友さんの手によって」とあるけれども、その友さんの何者であるかを兵馬は知ることができません。したがって、その友さんなる者に頼むこともできません。そのうち、お君が見舞にでも来た時に聞いてみようと思いました。
 ともかくも、これに対する返事を認(したた)めておこうと兵馬は、傍(かたえ)の料紙硯(りょうしすずり)を引寄せましたけれど、少し疲れているためと、頭を休ませる必要から、また仰向けになって眼を閉じていました。
 昨日までの雪は晴れて、外は大へんに明るい。窓の下の庭では雪を掃いている物音が、手にとるように聞えます。
 やがて兵馬は、お松のために返事の手紙を書いてしまって、疲れを休めていると、また窓の下で雪掃きをしているらしい人の声です。その声を聞くともなしに聞いていると、
「俺(おい)らは一体(いってい)、雪というやつはあまり好かねえんだ、降る時は威勢がいいけれど、あとのザマと言ったらねえからな」
 雪を掃除している人が口小言を言っているらしい。突慳貪(つっけんどん)に言っているけれど無邪気に聞えて、おのずからおかしい感じがします。
「道はヌカるし、固めておけばジクジク流れ出すし、泥と一緒に混合(ごっちゃ)になって、白粉(おしろい)が剥(は)げて、痘痕面(あばたづら)を露出(むきだ)したようなこのザマといったら」
 雪を目の敵(かたき)にして、頭ごなしにしているようです。しかしながら聞いていると、なんとなく前に聞いたことのあるような声でありました。誰であって、いつ会った人だか、ちょっと見当がつかないけれども、確かに兵馬の耳に一度は聞いたことのある声だと思わせられました。ふと、お松の手紙にある友さんというのはこの人のことではないかと、兵馬はそんなことを想像しました。そうかも知れない、いつまでもこの二階の窓の下で、口小言を言ってることが意味のあるように取れば取れる。兵馬はその様子を見ようと思って、寝床を起きました。
 二階から障子を細目にあけて見ると、なるほど一人の男がしきりに、ブツブツ言いながら雪を掻(か)いています。
 兵馬が見ると、それは米友であったから意外に感じないわけにはゆきません。伊勢の古市の町と、駿河(するが)の国の三保の松原とで篤(とく)と見参(げんざん)したこの男をここでまた見ようとは、たしかに意外でありました。米友、宇治山田の米友という名前も、兵馬は記憶していました。
「ははあ、友さんというのはこれだな」
 米友の友を呼んでお松が、そう言うたものに違いないと兵馬は早くも覚(さと)りました。それと共に、さきほど、この薬の竹筒を運んでくれた男が、あれだなと覚りました。兵馬も米友を珍妙な人物だと思っています。その人物が珍妙であると共に、その槍の手筋は非常なる珍物であることを知っておりました。
 そのうちに雪を掃除していた米友が、手を休めて二階を見上げて、
「雪というやつは可愛くねえやつだ、雪なんぞは降ってくれなくても困らねえや、竹筒(たけづ)っぽうでも降った方がよっぽどいいや」
と、おかしなことを口走りました。雪なんぞは降らなくてもいい、竹筒っぽうでも降ればいいというのは、あまり聞き慣れない譬(たとえ)であります。竹筒っぽうが降れという注文は、あんまり飛び離れた注文でありましたけれど、兵馬はそれを聞いて頷(うなず)きました。取って返して例の竹筒を取り上げて、その中に入れてあった薬を手早く傍(かたえ)の紙へあけて、その代りに、いま書いたお松への返事の手紙を入れてしまって元のように栓(せん)をして、障子を前よりはもう少し広くあけると、覘(ねら)いを定めてポンと下へ投げ落しました。まもなく、
「降りやがった、降りやがった」
という声が聞えました。兵馬はその声を聞いて安心して、なお障子の隙から見ていると、米友は自分が投げた竹筒を拾って、これも手早く懐中へ忍ばせてしまって、怪訝(けげん)な面(かお)をしてこちらを見上げていたが、どこかへ行ってしまいました。

         八

 年が明けて、松が取れると、甲府城の内外が遽(にわ)かに色めき立ちました。
 平常(ふだん)、何をしているのだかわからない連中たちが、だいぶ働きはじめました。勤番支配以下、組頭、奉行、それぞれに職務を励行することになりました。
 これは、年が改まって心機が一転したからではありません。
 どういう訳か知らないが、この頃、甲府の城へ御老中が巡視においでになるという噂(うわさ)でありました。しかも、その御老中も小笠原壱岐守(いきのかみ)が来るということでありました。この人は幕末において第一流の人物でありました。この間まで謹慎しておられたはずの明山侯が、何の必要あって突然この甲府へ来られるのだかということは、勤番支配も組頭もみな計(はか)り兼ねておりました。
 多分、上方(かみがた)の時局を収拾するためにこの甲州街道を通って上洛する途中、この甲府へ泊るのだろうと見ている者もありました。その他、いろいろにこの御老中の巡視ということが噂になっています。ともかくも、城の内外を疎略のないようにしておかなければならないというのが、新年の宿酔(しゅくすい)の覚めないうちから、急に支配以下が働き出した理由なのであります。
 御本丸から始めて天守台、櫓々、曲輪曲輪(くるわくるわ)、門々、御米蔵、役所、お目付小屋、徽典館(きてんかん)、御破損小屋、調練場の掃除や、武具の改めや何かが毎日手落ちなく取り行われます。
 駒井能登守もまた、このたびの老中の巡視ということを何の意味だか、よく知りません。けれども能登守は、あの人が幕府の今の御老中で第一流の人であるのみならず、その学問――ことに能登守と同じく海外の事情や砲術にかけてなかなかの新知識の人であることを了解していました。能登守を甲府へ廻したのは、或いはこの明山侯の意志ではなかったかとさえ言われています。
 明山侯と能登守との意気相通ずるということは、神尾主膳等の一派、及び先任の支配太田筑前守を囲む一派のためには心持のよくないことであります。彼等は明山侯の来るのを機会として、雌伏(しふく)していた能登守が頭を擡(もた)げはしないかと思いました。かねて能登守を甲府へ廻しておいて、今日その機会が到来したために、明山侯がその打合せに来るものだろうとさえ邪推する者もありました。
 そうでないまでも、それについてなんらかの対抗策を講じておかなければならないと思いました。まんいち能登守が勢力を得る時は、我々が勢力を失う時だと焦(あせ)り出した者もあります。これらの連中は、このたびの老中の巡視ということを、一身の浮沈の瀬戸際(せとぎわ)のように気味を悪がり、それで自分たちの立場を擁護するためには、能登守の頭を擡げないように、釘(くぎ)を打ってしまわねばならぬと考えました。
 それがために、駒井能登守の立場は非常に危険なものになりました。登城しても、役所へ行っても、お茶一つ飲むことも能登守は用心をしました。夜はほとんど外出しませんでした。明山侯の来る前に、能登守を毒殺してしまおうという計画があるとの風説がありました。また夜分、忍びの者を入れて暗殺させようとしているとの風説もありました。また、能登守の内事や私行をいちいち探らせているとの忠告もありました。
 年が改まって、そうして変りのあったのは、これらのことのみに限りません。
 駒井能登守に仕えていたお君の身の上に、重大な変化が起りました。前には戯(たわむ)れに結(ゆ)ってみた片はずしの髷(まげ)を、この正月から正式に結うことになりました。いつぞやの晩には恥かしそうに密(そっ)と引掛けた打掛を、晴れて身に纏(まと)うようになりました。それと共にお君の周囲には、一人の老女と若い女中とがお附になって、使われていたお君が、それを使うようになりました。
 お君は、我から喜んで美しい眉を落してしまいました――家中(かちゅう)の者は皆この新たなるお部屋様のために喜びました。能登守のお君に対する愛情は、無条件に濃(こま)やかなものでありました。ほとんど惑溺(わくでき)するかと思うほどに、愛情が深くなってゆきました。
 お君のためには、新たなる部屋と、念の入(い)った調度と、数々の衣類が調えられました。お君は夢に宝の山へ連れて行かれたように、右を見ても左を見ても嬉しいことばかりであります。
 お君の血色にもまた著しい変化がありました。笑えば人を魅するような妖艶(ようえん)な色が出て来ました。そして何事を差置いても、その色艶(いろつや)に修飾を加えることが、お君の第一の勤めとなりました。
 お君はこれがために費用を惜しみませんでした。能登守もまた、お君のために豊富な支給を与えて悔ゆることがないのでありました。江戸の水、常磐香(ときわこう)の鬢附(びんつけ)、玉屋の紅(べに)、それを甲府に求めて得られない時は、江戸までも使を立てて呼び求めます。
 お君にとっての仕事は、もはや、それよりほかに何事もありません。その仕事は、出来上れば出来上るほどに、お君の形体と心とを変化させずにはおきません。
 笑うにも単純な笑いではありません。その笑いの末には罠(わな)があって、人を引き落すような笑いになってゆきます。物を言うにも無邪気な言いぶりではありません。そのうちに溶けるような思わせぶりを籠めておりました。物を見る目はおのずから流眄(ながしめ)になって、その末には軟らかい針をかけるようになりました。お君はその愛情を独占しているはずの能登守に対してすら、この笑いと、思わせぶりと、流眄とをやめることができませんでした。
 能登守というものは、みるみるこのお君のあらゆる誘惑のうちに溶けてゆきました。お君の誘惑はいわば自然の誘惑でありました。能登守を誘惑しつつ自分もまたその誘惑の中に溶けてゆくのでありました。お君には殿様を誘惑する心はありません。おのれの色香を飾って為めにする計画もありません。それは新しい春になって、山国の雪の中にも梅が咲き、鶯(うぐいす)がおとずれようとする時候になったとはいえ、この邸から忍び音の三味の調べをさえ聞こうとは思いがけぬことであります。
 外においての能登守が、あんなに煙がられたり邪推されたりしているのに、内においてのこの殿様はたあいないもので、ほとんど終日お君の傍を離れぬことがありました。お君はその誘惑のあらん限りを尽して、能登守を放そうとはしませんでした。
 世に食物を貪(むさぼ)るもので、惑溺の恋より甚だしいものはありません。無限の愛情を注がれても、お君はまだまだ満足したとは思いませんでした。能登守は、噛(か)んで、喰い裂いて、飲んでしまっても、まだ足りないほどにお君が可愛くて可愛くて、どうにもならなくなってしまいました。
 この際において、お君の心の中のいずこにも、宇治山田の米友を考えている余裕はありません。
 お君――ではない、お君の方(かた)であります。けれども昨日までのお君を急に、お君の方に改めることは、屋敷のうちの格式ではよしそうであっても、なんとなくきまりが悪い。お君もまたその当座は、自分のことでないように思います。
 お君の方は今、その花やかな打掛の姿で、片手には銚子(ちょうし)を持って廊下を渡って行きました。少しばかり酔うているのか、その面(かお)は桜色にほのめいているばかりでなく、廊下を走るあしもとまでが乱れがちでありました。
 廊下の庭から梅の枝ぶりの面白いのが、欄干(てすり)を抜けて廊下の板の間まで手を伸ばしておりました。その面白い枝ぶりには、日当りのよいせいで、梅の花の蕾(つぼみ)が一二輪、綻(ほころ)びかけています。
「ホホホ、もう梅が咲いている」
 お君の方はたちどまって、手近な、その一枝を無雑作に折って、香いを鼻に押し当て、
「おお好い香り、ああ好い香い」
 心のうちにときめく香りに、お君は自分ながら堪えられないように、
「殿様に差上げましょう、この香りの高い梅の花を」
 お君はそれを銚子の間に挿(さ)し込んで歩みを移そうとした途端に、よろよろとよろめき、
「おや」
 それはほろ酔いの人としては、あまりに仰山なよろめき方であります。打掛の裾が、廊下の床に出ている釘かなんぞにひっかかったものだろうと思って、片手に打掛を捌(さば)き、
「おや」
 振返ってみるとその打掛の裾は、廊下の下にいる何者かの手によって押えられているのでありました。
「君ちゃん」
「まあ、誰かと思ったら米友さん」
 お君の打掛の裾を廊下の下から押えたのは、背の低い米友でありました。
「米友さん、悪戯(いたずら)をしては困るじゃないか」
「なにも悪戯をしやしねえ」
「だって、そんなところで押えていては」
「用があるからだ」
「何の用なの」
「君ちゃん、いまお前は、ここの梅の枝を一枝折ったね、その枝を俺(おい)らにおくれ」
「これかい、この梅の枝を友さん、お前が欲しいのかい」
「うむ」
「そうして、どうするの」
「どうしたっていいじゃねえか、欲しいから欲しいんだ」
「欲しければお前、こんな花なんか、わたしに強請(ねだ)らなくても、いくらもお前の手で取ればいいじゃないか」
「そんなことを言わずに、それを俺らにおくれ」
「これはいけないよ」
「どうして」
「これは殿様に上げるんだから」
「殿様に?」
と言って米友は強い目つきでお君を見ました。
「これは、わたしから殿様へ差上げる花なんだから、友さん、お前ほしいなら別に好きなのを取ったらいいだろう、ほら、まだ、あっちにもこっちにもいくらも咲いているじゃないか」
 お君はチラホラと咲いている梅の木の花や蕾(つぼみ)を、米友に向って指し示すのを、米友は見向きもせずに、お君の面(おもて)をじっと見つめていましたが、
「要(い)らねえやい」
「おや、友さん、怒ったの」
「ばかにしてやがら」
 米友は、そのままぷいと廊下の縁の下を潜(くぐ)り抜けて、どこかへ行ってしまいました。
 駒井能登守が役所へ出かけたそのあとで、お君は部屋へ行ってホッと息をついて、微醺(びくん)の面(おもて)を両手で隠しました。
 障子の外には日当りがよくて、ここにも梅の咲きかかった枝ぶりが、面白く障子にうつっています。
 お君は脇息(きょうそく)の上に両肱(りょうひじ)を置いて、暫らくの間、熱(ほて)る面を押隠していましたが、そのうちにウトウトと眠気がさしてきました。
「お冷水(ひや)を持って来て」
「はい」
 次の間で女中が返事をすると、まもなくギヤマンの美しい杯(さかずき)が蒔絵(まきえ)の盆の上に載せられて、若い女中の手で運ばれました。ギヤマンの中には玉のような清水がいっぱい満たされてあります。お君はそのお冷水(ひや)を口に当てながら、
「わたしは眠いから少し休みたい、お前、床を展(の)べておくれ」
「畏(かしこ)まりました」
「それから、あの犬に何かやっておくれかい」
「いいえ、まだ」
「忘れないように」
「畏まりました」
 女中が出て行った後で、お君は水を一口飲んでギヤマンを火鉢の傍へ置き、それから鏡台に向い、髪の毛を大事に撫で上げました。笄(こうがい)を抜いたりさしたりしてみました。紅(くれない)のさした面(かお)を恥かしそうにながめていました。こうしている間もお君は、自分の身の果報を思うことでいっぱいであります。女中のよく言いつけを聞いてくれることも嬉しくありました。鏡がよくわが姿をうつしてくれるのも嬉しくありました。撫であげる髪の毛の黒いことも嬉しくありました。笄の鼈甲(べっこう)から水の滴(したた)るようなのも嬉しくありました。面から襟筋の白粉も嬉しいけれど、胸から乳のあたりの肌の白いことも嬉しくありました。殿様の美男であることが嬉しくありました。自分を産んでくれた母の美しかったということも嬉しくありました。
「ムクかい、待っておいでよ」
 お君はこうして鏡台に向っていながらも、ツイその日当りのよい縁先へ、ムク犬が来たということには気がつきました。
 気がついたけれども、障子をあけて犬を見てやろうとはしないで、やはり鏡に向って髪の毛をいじりながら、そう言って言葉をかけただけであります。人の愛情は二つにも三つにもわけるわけにはゆかないのか知らん。能登守に思われてからのお君は、犬に冷淡になりました。冷淡になったのではないだろうけれども、以前のように打てば響くほどに世話が届きませんでした。ムク犬のためにする毎日の食事も、以前は自分から手を下さなければ満足ができなかったのに、このごろでは女中任せになっていました。女中がツイ忘れることもあるらしく、それがためにかどうか、このごろのムク犬は、お君の傍にあるよりは米友の方へ行っていることが多いようであります。
 今、ムクはお君のいるところの縁先へ来ていることは、その物音でも呼吸でもお君にわかるのであります。こんな時には必ずムクにしかるべき意志があって来るのだから、前のお君ならば何事を措(お)いても障子をあけるのでしたけれども、今のお君はそれよりも、鏡にうつる己(おの)れの姿の方が大事でありました。
「ワン!」
 堪り兼ねたと見えてムク犬は、外で一声吠えました。吠えられてみるとお君は、どうしても障子をあけなければなりません。そこにはムク犬が柔和(にゅうわ)にして威容のある大きな面(おもて)を見せていました。
 お君の面を見上げたムク犬の眼の色は、早く私についておいで下さいという眼色でありました。
 それは何人(なんぴと)よりもよく、お君に読むことの出来る眼の色であります。

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