大菩薩峠
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著者名:中里介山 

「そうだ、たしかに兵馬さんは、あのお邸に隠れている、そりゃ役人たちにもまだ目が届かねえ、外からそれを見届けたのは俺ひとりだ」
「まあ、あの御支配の駒井能登守様のお邸に兵馬さんが……」
 お松は寧(むし)ろ呆(あき)れました。七兵衛が、まだ何をか言おうとした時に、裏の木戸口がギーッと言いました。人があってあけたもののようです。このとき早く七兵衛は、窓から何物をかお松の部屋へ投げ込んだまま闇の中へ姿を隠してしまいました。
 暗いところから入って来たのは意外にも、主人の神尾主膳でありました。
「お松、まだ寝ないのか」
「はい、まだ」
 お松は窓の戸を締めきらないうちに、主人から言葉をかけられてドギマギして、
「今、誰か来ていたようだが」
 お松はハッとしました。
「いいえ、誰も」
 この返事も大へん慌(あわ)てた返事でしたけれども、主膳は深く気にしないで、そのまま行ってしまいました。お松はホッと息をついて窓を締めて座につきました。
 駒井能登守の名はお松もよく知っています。名を知っているのみならず、郡内の道中で、親しくお近づきになっています。けれどもその人は甲州勤番の支配である。破牢の兵馬を糾弾(きゅうだん)すべき地位にある人で、それを擁護(ようご)すべき立場の人でないということはお松にもよくわかるはずです。それ故にせっかく兵馬の在所(ありか)を知ったものの、これから先がまだ心配でたまりません。
 ただ一つ心恃(こころだの)みなのは、能登守という殿様が、うちの殿様と違って、物事に思いやりのあるらしい殿様であることのみでありました。思いやりに縋(すが)ったならばと、お松はそこにいくらかの気休めを感じて、あれよこれよと考えはじめました。
 そのうちに、忘れていたのは、さきほど七兵衛が窓から投げ込んで行った品物であります。油紙に包んで凧糸(たこいと)で絡(から)げてある包みを解いて見ると、五寸ぐらいに切った一本の竹筒が現われました。その竹筒には何かいっぱいに詰め込まれてあるらしい重味が、なんとなく無気味に思われます。それでやはり凧糸で把手(とって)をこしらえて、提(さ)げるようにしてありましたところへ、懸想文(けそうぶみ)のような結状(むすびぶみ)が括(くく)りつけてありました。
 お松はそれを提げてみて、思わず微笑しないわけにはゆきませんでした。その竹筒の一端に「十八文」という烙印(やきいん)が捺(お)してあったからです。
 それでお松はすっかり合点がゆきました。「十八文」が一切を了解させてくれたのみならず、いろいろに胸を痛めたり心を苦しめたりしていたお松を、腹を抱えさせるほどに笑わせました。
 あの先生はおかしい先生であると思って、お松は思出し笑いをしながらも、その親切を嬉しく思いました。これは兵馬さんのための薬である。兵馬さんが病気であるために、おじさんが道庵先生に調合してもらって、ワザワザ持参したものと思って見れば、有難くて、その竹筒を推(お)しいただかないわけにはゆきません。
 してみれば、これを兵馬さんの許(もと)まで届ける責任は、わたしに在るとお松は勇み立ちました。別に厳重な封じもないのだから、その懸想文のような結状を取って開いて見ると、それは道庵先生一流の処方箋でありました。
「もろこし我朝に、もろもろの医者達の出し申さるる薬礼の礼にもあらず……ただ病気全快の節は十八文と申して、滞りなく支払するぞと思ひきりて掛るほかには別の仔細候はず。」
 こんなことが木版摺(もくはんずり)にしてあるのだから、問題にもなんにもなったものではありません。

         四

 お松が寝ついた時分からサラサラと雪が降りはじめました。
 翌朝になって見ると、峡中の二十五万石が雪で埋もれてしまいました。過ぐる夜の靄(もや)は墨と胡粉(ごふん)を以て天地を塗りつぶしたのですけれど、これは真白々(まっしろじろ)に乾坤(けんこん)を白殺(はくさつ)して、丸竜空(がんりゅうくう)に蟠(わだか)まる有様でありました。昨夜からかけて小歇(こや)みなく降っていたのが朝になって一層の威勢を加えました。東へ向いても笹子や大菩薩の峰を見ることができません。西へ向って白根連山の形も眼には入りません。南は富士の山、北は金峰山、名にし負う甲斐の国の四方を囲む山また山の姿を一つも見ることはできないので、ただ霏々(ひひ)として降り、繽紛(ひんぷん)として舞う雪花(せっか)を見るのみであります。
 白いものの極は畢竟(ひっきょう)、黒いものと同じ作用(はたらき)を為すものです。大雪の時は暗夜の時と同じように咫尺(しせき)を弁ぜぬことになります。この降り塩梅(あんばい)では大雪になると、誰もそう思わぬものはありません。
 この朝、駒井能登守の門内からこの雪を冒(おか)して一隊の人が外へ出ました。一隊の人といっては少し大袈裟(おおげさ)かも知れないが、その打扮(いでたち)の尋常でないことを見れば、一隊の人と言いたくなるのであります。
 人数は僅か四人――そのうち三人は笠を被って合羽(かっぱ)を着ていました。三人の中の一人はまさに主人の能登守でありました。その左右にいた二人は、家来の者らしくもあるし、家来ではないらしくもあるし、と言うまでもなくその一人は南条――能登守に亘理(わたり)と呼ばれて旧友のような扱いを受けた人――それから、も一人は五十嵐と呼ばれた人、つまりこの二人は過ぐる夜の破牢者の巨魁(きょかい)なのであります。こうして笠を被って合羽を着て、大小を差して並んでみれば、それは物騒な破牢者とは誰にも気取(けど)られることではありません。
 能登守を真中にして二人が左右を挟んで行けば、誰が見てもその用人であり家来衆であることの異議はないのであります。ただこの大雪に能登守の身分として馬駕籠の助けを仮(か)らず、笠と合羽と草鞋(わらじ)で出かけることが、勇ましいと言えば勇ましい、気軽といえば気軽、また例の好奇(ものずき)かと笑えば笑うのでありましたが、それとても、すぐに三人の後に附添うた一人のお伴(とも)の有様を見れば、ははあなるほどと納得(なっとく)ができるのであります。
 そのお伴は鉄砲を担(かつ)いで、弾薬袋を肩から筋違(すじかい)に提(さ)げておりました。能登守はこうして今、家来とお伴とをつれて雪に乗じて、得意の鉄砲を試そうとするものと見えます。そうすればなるほど能登守らしい雪見だと、誰もいよいよ異議のないところでありましたけれど、その鉄砲を担いで弾薬袋を提げたお伴(とも)なるものが、尋常一様のお伴でないことを知っていると、また別種な興味が湧いて来なければならないのであります。
 その伴は宇治山田の米友でありました。前に立った三人ともに合羽を着ていましたけれど、米友だけは蓑(みの)を着ていました。三人は脚絆(きゃはん)と草鞋に足を固めていましたけれど、米友だけは素足でありました。三人は大小を差していましたけれど、米友は無腰(むこし)でありました。
 さて、勢いよく門の外へ飛び出した三人は、卍巴(まんじともえ)と降る雪を刎(は)ね返してサッサと濶歩しましたけれども、米友は跛足(びっこ)の足を引摺って出かけました。
「米友」
 能登守が振返って呼ぶと、
「何だ」
 米友は傲然(ごうぜん)たる返事であります。
「冷たくはないか」
 能登守も南条も五十嵐も、歩みながら振返って、米友の素足を見ました。
「はッはッはッ」
 米友は嘲笑(あざわら)って、かえって自分に同情を寄せる先生たちの足許を見ました。この一行は勢いよく雪を冒して進んで行きます。どこへ行くのだか知れないけれども、たしかに荒川筋をめあてに行くものと見えました。
 前に言う通り天地はみんな雪であります。往来の人の気配(けはい)は極めて少なくあります。犬の子は威勢よく遊んでいました。たまに通りかかる人も、前に言うような見当から、誰も一行を怪しむものはありません。その中の一人が能登守であるということすらも気のついたものはありません。
 その同じ朝、神尾主膳は朝寝をしておりました。この人の朝寝は今に始まったことではないけれども、この朝は特別によく寝ていました。それは昨夜の夜更(よふか)しのせいもあったろうし、外はこの雪でもあるし、こうして寝かしておけばいつまで寝ているかわかりません。その神尾主膳が急に朝寝の夢を破られたのは、能登守の一行がその屋敷を出るとほとんど同時でありました。取次の言葉を聞いてこの無精者(ぶしょうもの)がガバと刎(は)ね起きたところを見ると、それは主膳の耳にかなりの大事と響いたものと見えます。
「よし、早速ここへ通せ」
 起き上らないうちからこう言ったところを見ても、いよいよ大事の注進を齎(もたら)したものがあることはたしかです。
 まもなく、主膳の寝間へ通されたものは役割の市五郎でした。
「神尾の殿様、逃げました、逃げました、いよいよ逃げ出しましたよ」
「どっちへ逃げた」
「代官町から荒川の筋、たしかに身延街道でございましょう。野郎共を三人ばかり、後を追っかけさせておきましたから、行方(ゆくえ)を突留める分にはなんでもございませんが、いざという時、野郎共では……」
「よし、後詰(ごづめ)はこちらでする。市五郎、其方(そのほう)大儀でも分部(わけべ)、山口、池野、増田へ沙汰をしてくれ、急いで鷹狩(たかがり)を催すと言ってここへ集まるように。表面(うわべ)は鷹狩だがこの鷹狩は火事よりせわしい」
「委細、承知致しました、それでは御免」
 市五郎はそこそこに辞して出かけました。それから後の神尾主膳の挙動は気忙しいもので、面(かお)を洗う、着物を着替える、家来を呼ぶ、配下の同心と小人(こびと)とを呼びにやる、女中を叱る、小者(こもの)を罵る。主膳がやっと衣服を改めてしまった時分に、この屋敷の門内へは、もう多くの人が集まりました。
「おお、おのおの方、大儀大儀、市五郎からお聞きでもござろう、近ごろ珍らしい鷹狩、獲物(えもの)に手ごたえがありそうじゃ」
「神尾殿の仰せの通り、近頃の雪見、それゆえ取る物も取り敢えず馳せつけて参った」
「さあ、同勢揃うたら、一刻も早く」
「かけ鳥の落ちて行く先は身延街道」
 なるほど鷹狩には違いなかろうが、鷹狩にしては、あんまり慌(あわただ)しい鷹狩であります。これらの同勢十八人は、雪を蹴立てて驀然(まっしぐら)に代官町の通りから荒川筋、身延街道をめがけて飛んで行きました。
 神尾主膳だけは残って、彼等の出て行く後ろ影を見送っていましたが、
「酒だ、前祝いの雪見酒」
 神尾主膳はそれから酒を飲みはじめたが、雪見の酒よりか、何か心祝いの酒のように見えました。飲んでいるうちに、ようやくいい心持になって、
「おい、雪見だ、雪見だ、せっかくの雪をこんなところで飲んでいては面白くない、これから躑躅(つつじ)ケ崎(さき)へ雪見に出かける、誰か二人ばかり行ってその用意をしておけ、下屋敷の二階の間を掃除して、火を盛んに熾(おこ)して酒を温め、あっさりとした席をこしらえておけ」
と命令し、
「さあ、これから躑躅ケ崎へ出かける。歩いて行くとも。いざさらば雪見に転ぶところまでも古いが、この雪見に歩かないで何とする。伴(とも)は一人でよろしい、仲間(ちゅうげん)一人でよろしい。長合羽の用意と、傘履物」
 主膳は立ち上って、
「刀……」
と言って、よろよろとした足許を踏み締めると、女中が常の差料(さしりょう)を取って恭(うやうや)しく差出しました。
「これではない、あちらのを出せ」
 床の間の刀架(かたなかけ)に縦に飾ってある梨子地(なしじ)の鞘(さや)の長い刀を指しました。
「うむ、それだ」
 梨子地の鞘の長い刀を大事に取下ろして主人へ捧げると、主膳はそれを受取って、
「これが伯耆(ほうき)の安綱だ」
 言わでものことを女中に向ってまで口走るのは、酒がようやく廻ったからであります。
 伯耆の安綱――してみればこの刀はこれ、有野村の藤原家の伝来の宝、それを幸内の手から捲き上げて、今はこうして拵(こしら)えをかえて、自家の秘蔵にしてしまったものと見るよりほかはないのであります。

         五

 神尾主膳は酒の勢いで、この雪の中を躑躅(つつじ)ケ崎(さき)の古屋敷まで歩いて行きました。
 そこへ辿(たど)りついて見ると、さいぜん言いつけておいた通りに、二階の一間が綺麗(きれい)に掃除されて、そこでまた一盞(いっさん)を傾けるように準備が整うていました。三ツ組の朱塗の盃が物々しく飾られてありました。
 この躑躅ケ崎の古屋敷というのは、武田の時分には甲坂弾正と穴山梅雪との屋敷址であったということです。昔は鶴ケ崎と言い、今は躑躅ケ崎という山の尾根が左手の方にズッと突き出ています。それと向って家は東南に向いていました。この家はなかなか大きなもので、ずっと前に勤番の支配であった旗本がこしらえて、その後は長く空家同様になっていたのを神尾主膳が、何かの縁で無償(ただ)のように自分のものにしたのです。
 いま、主膳が坐っている二階の一間は、雪見には誂向(あつらえむ)きの一間で、前に言った躑躅ケ崎の出鼻から左は高山につづき、右は甲府へ開けて、常ならば富士の山が呼べば答えるほどに見えるところであります。
「あの男はよく寝ている、あまりよく寝ている故、起すのも気の毒じゃ、眼が醒(さ)めてから呼ぶとしよう」
 主膳はこう言って、三ツ組の朱塗の盃をこわして、一人で飲み始めました。一人で飲みながらの雪見です。雪見といっても、眼の下の広い庭の中に池があって、その池の傍に巨大なる松の木が枝を拡げています。この松を「馬場の松」と人が呼んでいましたのは、おそらく同じ武田の時代に馬場美濃守の屋敷がその辺にあったから、それで誰言うとなく馬場の松という名がついたのでありましょう。この馬場の松に積る雪だけでも、一人で見るには惜しいほどの面白いものがあります。しかし、主膳はそれほどに風流人ではありません。馬場の松の雪を見んがために、ワザワザここへ飲み直しに来たものとも思われません。
 主膳が一人でグイグイ飲んでいると、時々下男が梯子(はしご)から首を出して怖(おそ)る怖る御用を伺いに来るのみであります。
「あの男は、まだ眼が覚めないか、起しに行ってやろうかな、しかし炬燵(こたつ)へ入ってああして熟睡しているところを叩き起すも気の毒じゃ、疲れて昼は休んでいる」
 主膳があの男というのは、ここの屋敷に籠(こも)っているはずの机竜之助のことでありましょう。竜之助を相手に雪見をしようと思って来たところが、その竜之助はいま眠っているものと見えます。
 主膳はこんな独言(ひとりごと)を言っているうちに、立てつづけに呷(あお)りました。浴びるように飲みました。気がようやく荒くなりました。
「うむ、うむ、この刀、この刀」
と言って主膳は、やや遠く離して置いてあった例の梨子地の鞘の長い刀の下(さ)げ緒(お)を手繰(たぐ)って身近く引寄せて、鞘の鐺(こじり)をトンと畳へ突き立てて、朧銀(ろうぎん)に高彫(たかぼり)した松に鷹の縁頭(ふちがしら)のあたりに眼を据えました。
「この刀を試(ため)すことをいやがる机竜之助の気が知れぬ、と言って拙者の腕で試してみようという気にもならぬ」
 その途端になんと思ったのか、神尾主膳の眼中が遽(にわ)かに血走って、
「お銀、お銀、お銀どの」
 声高く、そうして物狂わしく呼びつづけました。
 神尾主膳が続けざまにお銀様の名を呼んだ時は、もう酒乱の境まで行っていました。その時は思慮も計画も消滅して、これから燃え出そうとするのは、猛烈なる残忍性のみであります。
「お銀どの、お銀どの」
 二階の梯子段の上まで行って下を見ながら、またお銀様の名を呼びました。けれどもお銀様の返事はありません。
「お銀どの、お銀どの」
 例の刀を持ちながら広い梯子段を、覚束(おぼつか)ない足どりで二段三段と降りはじめました。
「はい」
 この時、はじめて廊下をばたばたと駈けるようにして来たのはお銀様であります。どこにいたのか、お銀様は神尾の呼んだ声をいま聞きつけて、廊下を急ぎ足で駈けて来ましたけれど、面(かお)は恥かしそうに俯向(うつむ)いて、両袖を胸の前へ合せていました。
「ああ、お銀どの、今、そなたを呼びに行こうとしていたところじゃ。さあ、これへお上りなされ、誰もおらぬ、遠慮なくお上りなされ。お上りなされと申すに」
 その言いぶりが穏かでないことよりも、その酔っていることがお銀様を驚かせましたけれども、神尾はお銀様の驚いたことも、またお銀様をこんなことで驚かせては不利益だということも、一向見境いがないほどになっていました。
「ちと、そなたに見せたいものがある、そなたでなければ見ても詰らぬもの、見せても詰らぬものじゃ。さあ、遠慮することはない、こちらへおいであれ」
 主膳は手を伸ばしてお銀様の手をとろうとしました。お銀様はさすがに遠慮するのを、神尾は無理に右の手で、お銀様の手を取りました。左の手には例の梨子地の鞘の長い刀を持っていました。
「そんなにしていただいては、恐れ多いことでございます」
 お銀様が遠慮をするのを、主膳は用捨(ようしゃ)なくグイグイと引張ります。お銀様はしょうことなしにその梯子段を引き上げられて行くのであります。
 引き上げられて行くうちに、爛酔(らんすい)した神尾主膳が、その酔眼をじっと据えて自分の面(かお)を見下ろしているのとぶっつかって、お銀様はゾッと怖ろしくなりました。
 お銀様はこの時まで、まだ神尾について何事も知りません。知っていることは、その仲媒口(なこうどぐち)によっての誇張された神尾家の噂(うわさ)のみでありました。何千石かの旗本の家であったということと、まだ若いということと、多少は放蕩をしたけれど放蕩をしたおかげで、人間が解(わか)りがよくて物事に柔らかであるというようなことのみ聞かされていました。そうして父の許へしばしば訪れて来た主膳の面影は、ほぼそれに相当すると思っていました。
 前の晩には思わぬところでその人に逢って、この屋敷へ送られて来ました。主膳があの際に何の必要であの辺を通り合せたかということに疑念がないではなかったけれど、自分を労(いた)わってこの屋敷まで送って来て、そのうち相談相手になると言って今日までここに待たしておいたもてなしは、親切であり行届いたものでありましたから、お銀様はすくなからず神尾の殿様を信頼しておりました。
 その人が、今ここへ来て見ると、酔っていて――しかもその酔いぶりは爛酔であります。爛酔を通り越して狂酔の体(てい)であることは、どうしても今までのお銀様の信頼の念を、ぐらつかせずにはおきません。神尾が自分を上から見据えている眼は、貪婪(どんらん)の眼でありました。単に酔っているだけの眼つきではありません。この酔態を見た時に、神尾主膳の人柄を疑いはじめたお銀様は、その眼を見た時になんとも言えぬ厭(いと)うべき恐怖を感じました。それと共に、急いで神尾に取られた手を振り放そうとしましたけれど、それは締木(しめぎ)のように固く握られてありました。
 お銀様は、ついに二階の一間まで、主膳のために手を引かれて来てしまいました。
 そこは主膳が今まで飲んでいたところらしく、獅噛(しかみ)のついた大火鉢の火が熾(おこ)っているし、猩々足(しょうじょうあし)の台の物も置かれてあります。
「お銀どの、なんと見事な雪ではないか、この松の雪を御覧候え、これは馬場の松といって自慢の松の樹じゃ」
 主膳も座に着きました。しょうことなしにお銀様はその向うにモジモジとして坐っています。
「結構な松の樹でござりまする」
 お銀様は怖々(こわごわ)と庭を覗(のぞ)きました。池の汀(みぎわ)の巨大なる松の樹は、鷹が羽を拡げて巌の上に伸ばして来た形をして枝葉を充分に張っている上に、ポタポタと雪が積み重なっているのは、さすがに自慢の松であり、見事な雪であることに、怖々ながらお銀様も見惚(みと)れます。
 松を見ているお銀様の横顔を、神尾主膳は例の貪婪(どんらん)な眼つきで見据えていました。
「お銀どの」
「はい」
「いい松であろう、木ぶりと申し枝ぶりと申し、あのくらいの松はほかにはたんとあるまい、あれは馬場の松……武田の名将馬場美濃守が植えたと申す馬場の松」
「ほんとに見事な松でございます」
「そなたの家は甲州で並ぶもののない大家(たいけ)、それでもあのくらいの松はあるまい、あのくらい見事な松は、そなたの屋敷にもあるまい」
「わたくしどもの庭にも、このような見事な松はござりませぬ」
「左様であろう、この神尾は貧乏だけれど、そなたの家にも無い物を持っている」
と言って、神尾は二三度頷(うなず)きました。それからニヤリと笑って、
「まだまだ、神尾の家には、そなたの家には無くて、神尾の家だけにある宝が一つある、それを見せて進ぜようか」
と言いながら主膳は、またしても例の梨子地の鞘の刀を引寄せて、
「この刀なんぞもその一つじゃ、よく見て置かっしゃれ、鞘はこの通り梨子地……鍔(つば)の象眼(ぞうがん)は扇面散(せんめんち)らし、縁頭(ふちがしら)はこれ朧銀(ろうぎん)で松に鷹の高彫(たかぼり)、目貫(めぬき)は浪に鯉で金無垢(きんむく)じゃ」
 主膳はその刀を取って鞘のまま、お銀様の眼の前に突きつけました。
「結構なお差料(さしりょう)でござりまする」
 お銀様は、怖れとそれから迷惑とで、刀はよくも見ないで挨拶だけをしました。
「いや、これしきの物、そなたの眼から結構と言われては恥かしい。そなたの家の倉や土蔵には、このくらいの刀や拵(こしら)えは掃いて捨てるほど転がっているはずじゃ。神尾の家ではこれだけの拵えも自慢になる。ナニ、たかの知れた鍔の象眼、縁頭の朧銀が何だ、小(ちっ)ぽけな金無垢……」
 主膳は自慢で見せたものを嘲りはじめました。お銀様は自分の賞め方が気に触ったのかと思いました。
「いいえ、どう致しまして、このような結構なお差料が私共の家なんぞに……」
「無いであろう。そりゃ無いはずじゃ、このくらい結構な差料は、そなたの家はおろか、甲州一国を尋ねても……いやいや、日本六十余州を尋ねても、二本三本とは手に入るまい。それを神尾が持っている、それ故そなたに見せて進ぜたいと申すのじゃ」
「わたくしどもなぞには、拝見してもわかりませぬ」
「見るのはおいやか、せっかく拙者が親切に、秘蔵の名物を見せてあげようとするのに、そなたはそれを見るのがおいやか」
「そういうわけではござりませぬ」
「しからば見て置かっしゃい、ようく見て置かっしゃい」
 主膳はお銀様の目の前でその刀をスラリと抜き放ちました。
「あれ!」
 お銀様が驚いて飛び上ろうとするのを、主膳は無手(むず)と押えてしまいました。
「さあ、刀の自慢というのは拵えの自慢ではない、拵えは悪くとも中身がよければ、それが真実(ほんとう)の刀の自慢じゃ。お銀どの、そなたは今この刀の拵えを結構なものじゃというて賞めた、中身を見てもらいたい、このくらいの縁頭や目貫は、そなたの家には箒(ほうき)で掃いて箕(み)で捨てるほどあろうけれど、この中身ばかりはそうは参るまい。さいぜんも申す通り、甲州一円はおろか、日本六十余州を尋ねても、二本三本とは手に入らぬ自慢の神尾主膳が差料、誰にも見せたくはないものながら、ほかならぬそなたのお目にかける、篤(とく)と鑑定(めきき)がしてもらいたい」
 神尾主膳はお銀様に刀を見せるのではなく、お銀様を捉(つかま)えて刀を突きつけているのでありました。
「わたくしどもなどに、どう致しまして、お刀の拝見などが……」
「左様ではござらぬ、篤と御覧下されい」
「どうぞ御免あそばしまして」
「刀が怖いのでござるか」
「どうぞお引き下さいませ」
 お銀様は鷹に押えられた雀のように、ワナワナと顫(ふる)えるばかりであります。
「まことに刀の見様を御存じないのか」
「一向に存じませぬ」
「しからば、刀の見様を拙者が御伝授申し上げようか」
「後程にお伺い致しまする」
「後程?……それでは拙者が困る、御遠慮なくこの場で御覧下されい。よろしいか、長さは二尺四寸、ちと長過ぎる故、摺上物(すりあげもの)に致そうかと思ったけれど、これほどの名物に鑢(やすり)を入れるのも勿体(もったい)なき故、このまま拵えをつけた、この地鉄(じがね)の細かに冴(さ)えた板目の波、肌の潤(うるお)い」
「どうぞ御免あそばしませ、わたくしどもにはわかりませぬ」
「見事な大湾(おおのた)れ、錵(にえ)が優(すぐ)れて匂いが深いこと、見ているうちになんとも言われぬ奥床しさ」
「わたくしは、もう怖くてなりませぬ」
「斬ると言ったら怖くもあろうけれど、見る分には怖いことはござらぬ」
「それに致しましても……」
「ただこうして区(まち)から板目の肌に現われた模様を見ていたところでは、その地鉄がなんとなく弱々しいけれど、よくよく見れば潤いがあって、どことなしに強いところがある」
「もう充分、拝見致しました」
「まだまだ。潤いがあって、どことなしに強いところがあって、その上に一段と高尚で、それからこの古雅な趣(おもむき)……よく見れば見るほど刃の中に模様がある」
「どうぞ御免あそばしませ」
「お銀どの、そなたはこの刀にお見覚えはござらぬか」
「ええ」
「この刀……」
「ええ、このお刀に、わたくしが、どう致しまして」
「それ故に篤(とく)と御覧なされいと申すのじゃ、怖がっておいでなさるばかりが能ではない、気を落着けて御覧なされい」
「それに致しましても、どうしてわたくしが、このお刀を存じておりましょう」
「もしそなたが知らぬならば、そなたの家の幸内という者が知っている、その刀がこれなのじゃ」
「ええ?」
「これは伯耆(ほうき)の安綱(やすつな)という古刀中の古刀、名刀中の名刀じゃ」
「ええ! これが伯耆の安綱?」
「打ち返してよく御覧なされい」
 ここに至ってお銀様は、一時(いっとき)恐怖の念がいずれへか飛び去って、眼の前に突きつけられた伯耆の安綱の刀に、ずっと吸い寄せられました。お銀様がその刀をじっと見つめている時に、神尾主膳は片手で、近くにあった朱塗の大盃を取って引寄せ、それに片手でまた酒をなみなみと注ぎました。
 右の手では、やはりお銀様の前へ伯耆の安綱の刀を突き出して、左の手では朱塗の大盃を取り上げました。刀を見ているお銀様と、盃の中に湛(たた)えられた酒とを等分に見比べていました。
「この刀は、これは、わたくしの家に伝わる伯耆の安綱の刀?」
 お銀様はこう言った時に、
「その通り」
 神尾主膳は舌打ちをして、大盃の中の酒をグッと傾けます。
「どうしてこれがあなた様のお手に……」
「ははは、これを拙者の手に入れるまでには大抵な骨折りではない、今も言う通り、幸内の手からわが物になった」
「幸内が……」
「幸内から譲り受けた」
「それは何かの間違いでございましょう」
「さあ、それが何の間違いでもないのじゃ。お銀どの、そなたは何も知らぬ、それ故、よく言ってお聞かせ申す。そもそもこの伯耆の安綱という刀は、有野村の藤原家に伝わる名刀じゃ、いつぞや拙者の宅で様物(ためしもの)のあった時、集まる者にこの刀を見せてやりたいから、それで幸内を嗾(そそのか)して、ひそかにそれを持ち出させた、それはお銀どの、そなたもよく御存じのはず……いや、幸内の持参したこの刀を見ると聞きしにまさる名刀、急に欲しくなってたまらぬ故、幸内から譲り受けた」
「それは間違いでございます、幸内には、わたくしが父に内密(ないしょ)で三日の間、貸してやったものでございます、それを人様にお譲り申すはずがござりませぬ、そのようなことをする幸内ではござりませぬ」
「それもその通り、尋常では幸内が拙者に譲る気づかいもなし、拙者もまた、微禄(びろく)して、恥かしながらこの刀を譲り受けるだけの金が無い、それ故に少し荒っぽい療治をしてこの刀をぶんどった」
「エ、エ!」
「ははは、驚いたか」
 神尾主膳はふたたび大盃の酒を傾けて咽喉(のど)を鳴らしながら、意地悪くお銀様の面を見つめて、しばらく黙っておりました。
 お銀様はこの時、下唇をうんと喰い締めました。そうして見る見るうちにその面が土色になって、眼(まなこ)が釣り上るのであります。
「幸内が、どうして幸内が、この刀をあなた様に差上げました」
「早く言えば奪い取ったのじゃ」
「エ、エ!」
「幸内に酒を飲ましたのじゃ、その酒は毒の酒じゃ、それを飲ますと酔いつぶれた上に声が潰(つぶ)れるのじゃ。それを飲ましておいて、幸内が手からこの刀を奪い取って、おれの差料にしたのじゃわい」
 主膳は三たび大盃を上げて、心地(ここち)よくその一杯を傾け尽しました。
「あ、あ」
とお銀様は面を屹(きっ)と上げて、その釣り上った眼で神尾主膳を睨(にら)みました。
「うむ、それからまた、幸内めを種に使って一狂言を組もうと思うて、縄でからげてこの屋敷へ隠して置いたが、手ぬかりでツイ逃げられた」
「あああ、知らなかった、知らなかった。そんならこの刀を奪い取るために、幸内に毒を飲ませてあんなにしたのは、神尾様、お前様の仕業(しわざ)か」
「それそれ」
「鬼か、蛇(じゃ)か。人間としてようもようも、そんなことが……」
「まあ、お聞きやれ、そればかりではないわい」
「幸内の敵(かたき)!」
 お銀様は神尾主膳に武者振(むしゃぶ)りつきました。けれどもそれは、やはりお銀様の逆上のあまりで、かえって主膳のために荒らかに組敷かれてしまったのはぜひもありません。
 酔ってこそいたれ、神尾主膳もまた刀を差す身でありました。お銀様が武者振りついたとて、それでどうにもなるものではありません。
 お銀様を片手で膝の下へ組敷いた神尾主膳は、落着いたもので、
「逸(はや)まるな逸まるな、この屋敷へ隠して置いたその幸内に逃げられたのは、拙者の落度(おちど)じゃ。あれに逃げられては企(たくら)んだ狂言がフイになり、その上に拙者の身が危ないから、それで拙者は苦心を重ねてあれの行方(ゆくえ)を調べた上に、とうとうお銀どの、お前の屋敷に寝ているのを見届けた。それは、そなたが屋敷を脱け出してこっちへ来たと同じ晩、あの晩に拙者は、忍んで行って、そなたが屋敷を脱け出したあとへ忍び入り、そして幸内が息の根を止めて来た……」
「エ、エ、エ!」
「はははは、その帰りにも、そなたに怪我(けが)のないように、有野村から後をつけて来たのを、そなたは知るまい」
「それでは、あの晩に、あれからああして」
「はははは」
 主膳の酒乱が頂点にのぼった時でありました。よしこれほど惨酷(さんこく)な男であっても、酔ってさえいなければ、これほどのことを高言するでもなかろうけれど、今はこうして言えば言うほど、自分ながら快味が増すのかと思われるばかりであります。
 お銀様の口から、唇を噛み切った血がにじむのに拘(かかわ)らず、神尾主膳は高笑いして、
「さあ、これから幸内が身代りに、お銀どの、そなたが狂言の玉じゃ、幸内に飲ませたと同じ酒をそなたにいま飲ませてやるのじゃ、幸内が飲んだように、そなたもその酒を飲むのじゃ」
「助けて下さい――誰か、来て下さいまし!」
 お銀様は、ついに大声で救いを求めました。
「それそれ、それだから酒を飲ませるのじゃ、その酒を飲むと、痛くても痒(かゆ)くても声が立たぬようになるのじゃ、ここの小瓶に入っているものを、ちょっとこの酒の中へ落して、こう飲まっしゃれ」
 神尾主膳は、刀を傍へさしおいて、片手ではお銀様の口を押え、片手では、三ツ組の朱塗の盃のいちばん小さいのへ酒を注いで、その上へ小瓶の中から何物かを落して、無理にお銀様の口を割って飲ませようとします。お銀様は、
「アッ、いや――誰か、誰か、来て――苦しッ」
「あ痛ッ」
 神尾主膳が痛ッと言って、お銀様に飲ませようとした小盃を畳の上へ取落して、飛び上るように手の甲を抑えたのは、今、必死になったお銀様のために、そこをしたたかに食い破られたのであります。
「わたしは死ねない、まだここでは死ねない、幸内、幸内、誰か、誰か、誰か来て……」
 お銀様は飛び起きて梯子段を転げ落ちました。
「おのれ、逃がしては」
 神尾主膳は、さしおいた伯耆の安綱の刀を持って酔歩蹣跚(すいほまんさん)として、逃げて行くお銀様の後を追いかけました。
 梯子を転げ落ちたお銀様は、転げ落ちたのも知らず、直ぐに起き返ったことも知らず、どこをどう逃げてよいかも知らず、ただ白刃を提げて追いかける悪魔に追い迫られて、廊下を曲って突当りの部屋の障子を押し開いて逃げ込みました。
 お銀様が逃げ込んだその部屋には炬燵(こたつ)がありました。
 その炬燵には横になって、人が一人、うたた寝をしておりました。それに気のついた時に神尾主膳はもう、白刃を提げてこの部屋の入口のところまで来ていました。
「ああ、あなたは善い人か悪い人か知らない、わたしを助けて下さい、わたしはここでは死ねません」
 お銀様はその横にうたた寝をしていた人の首に、しっかとしがみつきました。
 机竜之助はこの時眼が醒(さ)めました。眼が醒めたけれども、この人は眼をあくことの出来ない人であります。ただわが首筋へしがみついたその者の声は女であることを知り、竜之助の首を抱えた腕は火のようであることを知り、その頬に触れる血の熱さも火のようであることを知ったのみです。
「助けて下さい、神尾主膳は鬼でございます、わたしは殺されてもかまいませんけれど、神尾主膳の手にかかって殺されるのはいやでございます、あなた様は善いお方だか悪いお方だか知れないけれども、わたしを助けて下さい、助けられなければ、あなたのお手で殺して下さい、わたしは神尾主膳に殺されるよりは、知らない人に殺された方がよろしうございます」
 この言葉も息も、共に炎を吐くような熱さでありました。
「神尾殿、悪戯(いたずら)をなさるな」
 竜之助はここで起き直ろうとしました。しかしお銀様の腕は竜之助の身体から離れることはありません。竜之助はそれを振り放そうとした時に、お銀様の乱れた髪の軟らかい束が、竜之助の面(かお)を埋めるように群っているのを知りました。
「はははは」
 神尾主膳は敷居の外に立って高らかに笑いました。その手には、やはり伯耆の安綱を提げていましたけれど、その足は廊下に立って、その面はこっちを向いたままで一歩も中へは入って来ませんでした。
「助けて下さい」
 お銀様は、竜之助の蔭に隠れました。蔭に隠れたけれども、しっかりと竜之助に抱きついているのでありました。もしも神尾に斬られるならばこの人と一緒に……お銀様は、どうしても自分一人だけ神尾に斬られるのでは、死んでも死にきれないと、ただそれだけが一念でありましょう。
「どうするつもりじゃ」
 それは竜之助の声でありました。例によって冷たい声でありました。どうするつもりじゃ、と言ったのは、それは刀を提げて立っている神尾主膳に尋ねたのか、それとも自分にかじりついているお銀様の挙動をたしなめたのか、どちらかわからない言いぶりでありました。聞き様によっては、どちらにも聞き取れる言いぶりでありました。
「ははははは」
 酒乱の神尾主膳は、またも声高らかに笑って、
「脅(おどか)してみたのじゃ」
「悪い癖だ」
 竜之助はそれより起き上ろうともしませんでした。神尾主膳もまた一歩もこの部屋の中へは足を入れないで、突っ立ったなりでニヤニヤと笑っていましたが、
「はははは」
 高笑いして、足許もしどろもどろに廊下を引返して行くのであります。
 その足音を聞いていた机竜之助が、
「あの男は、あれは酒乱じゃ」
と言いました。
「有難う存じまする、有難う存じまする、あなた様のおかげで危ないところを……」
 お銀様は、ただ無意識にお礼を繰返すことのみを知っておりました。
「お前様は?」
「はい、わたくしは……」
と言ってお銀様は、竜之助の面(かお)を見ることができました。けれども、わざと眼を塞(ふさ)いでいるこの人の物静かなのを見ただけでありました。お銀様は、その時に、はっと思って自分の姿の浅ましく乱れていることに気がつかないわけにはゆきませんでした。髪も乱れているし、着物も乱れているし、恥かしい肌も現(あらわ)になっているものを。
 それを見まいがために、この人は、わざと眼を塞いでいるのではないかと思われました。
 お銀様は、あわてて自分の身を掻(か)いつくろいましたけれど、それでもなお何かの恥かしさに堪えられないようでした。
 お銀様も、さすがに若い女であります。この怖れと、怒りと、驚きとの中にあって、なお自分の姿と貌(かたち)の取乱したのを恥かしく思うの余地がありました。
 それから、髪の毛を撫で上げました。着物の褄(つま)を合せました。
 それを見て見ぬふりをしているこの人は、神尾主膳とは違って奥床しいところのある人だと思わせられる心持になりました。
 前へ廻って、しとやかに両手を突きました。
「どうぞ、わたくしをお逃がし下さいまし、お願いでございまする」
 その声はしおらしいものでありました。起き直ったけれども、やはり炬燵にあたっていた机竜之助は、その声を聞いてもまだ眼を開くことをしません。
「どうぞ、このままわたくしをお逃がし下さいませ」
 お銀様は折返して、机竜之助の前に助命の願いをしました。けれども竜之助は、やはり眼を開くことをしないし、また一言の返事をも与えないのでありました。それでもお銀様の言葉には、ようく耳を傾けているには違いありません。
「ああ、わたくしは一刻もこの家にこうしてはおられぬのでござりまする、神尾主膳は悪人でござりまする、こうしておれば、わたくしは幸内と同じように殺されてしまうのでござりまする、あなた様はどういうお方か存じませぬが、どうかこのままお逃がし下さいまし、一生のお願いでござりまする」
 お銀様は竜之助に歎願のあまり、伏し拝むのでありました。けれども竜之助は、眼を開いてその可憐な姿を見ようともしなければ、口を開いて、逃げろとも助けるとも言いませんでした。ただお銀様の一語一語を聞いているうちに、その面(おもて)にみるみる沈痛の色が漲(みなぎ)り渡るのみでありました。
「それでは、わたくしはこのまま御免を蒙りまする、いずれまた人を御挨拶に遣(つか)わしまする」
 お銀様は愴惶(そうこう)としてこの部屋を立って行こうとした時に、竜之助がはじめて、
「お待ちなさい」
と言いました。
「はい」
 お銀様は立ち止まりました。
「これからどこへおいでなさろうというのです」
「はい、有野村まで」
「有野村へ?……外は近来(ちかごろ)の大雪であるらしいのに」
「雪が降りましょうとも雨が降りましょうとも、わたくしは帰らずにはおられませぬ」
「外は雪である上に、駕籠(かご)も乗物もここにはあるまい」
「そんな物はどうでもよろしうござりまする、わたくしは逃げなければなりませぬ、帰らなければなりませぬ」
「駕籠も乗物もないのに、外へ出れば人通りもあるまい、道で吹雪(ふぶき)に打たれて凍(こご)えて死ぬ……」
「たとえ凍えて死にましても、わたくしは……」
「そりゃ無分別」
「ああ、思慮も分別も、わたくしにはわかりませぬ、こうしておられませぬ、こうしてはおられませぬわいな」
「待てと申すに」
 竜之助の声は、寒水が磐(いわお)の上を走るような声でありました。お銀様はゾッとして立ち竦(すく)んでしまいました。見ればこの人はまだ眼を開かないけれど、炬燵(こたつ)の中から半身を開いて、傍(かたえ)に置いた海老鞘(えびざや)の刀を膝の上まで引寄せているのでありました。
 その構えは、動かば斬らんという構えでありました。その面(かお)の色は、斬って血を見ようとする色でありました。
「ああ、ああ、あなた様も、やっぱり悪い人、神尾主膳の同類でござんしたか。ああ、わたくしはどうしたらようございましょう」
 主膳に脅(おどか)された時は、少なくとも抵抗するの気力がありました。またその人に追われた時も逃げる隙がありました。ひとりこの異様なる人の前にあっては、身の毛が竪立(よだ)って動こうとしても動けないで、張り合おうとしても張り合えないで、戦慄するのみです。
 この時、門外が噪(さわ)がしく、多くの人がこの古屋敷へ来たらしくあります。
 それは、乗物を持って神尾主膳を本邸から迎えに来たものでありました。酔い伏していた主膳は、その迎えを受けるや愴惶(そうこう)として、その乗物に乗って本邸へ帰ってしまいました。それでこの古屋敷は、主人を失って全く静寂に帰してしまいました。
 机竜之助は、また炬燵櫓(こたつやぐら)の中へ両の手を差込んで、首をグッタリと蒲団(ふとん)の上へ投げ出して、何事もなく転寝(うたたね)の形でありました。お銀様はその前に伏して面(かお)を埋めて、忍び音に泣いているのでありました。外の雪は、まだまだ歇(や)むべき模様もなく、時々吹雪が裏の板戸を撫(な)でて通り過ぎると、ポタポタと雪の塊(かたまり)が植込の梢(こずえ)を辷(すべ)って庭へ落ちる音が聞えます。
「幸内というのは、ありゃ、お前様の兄弟か」
「いいえ、雇人でござりまする」
 竜之助は転寝をしながら静かに尋ねると、お銀様は忍び音に泣き伏しながら辛(かろ)うじて答えました。
「雇人……」
 竜之助はこう言って、しばらく言葉を休んでいました。
「幸内がかわいそうでございます、幸内がかわいそうでございます」
 お銀様は、また泣きました。
「いったい、神尾はあれをどうしようというのだ」
「神尾様は幸内を殺してしまいました、あの人が企(たくら)んで幸内を殺した上に、わたくしを欺(だま)して、わたくしの家を乗取ろうという悪い企みだそうでございます」
「神尾のやりそうなことだ」
と言って竜之助は、敢(あえ)てその悪い企みを聞いて驚くのでもありませんでした。また神尾のその悪い計画に同意しているものとも思われませんでした。それですから、お銀様にどうもこの人がわからなくなってしまいました。
「あなた様は神尾様のお友達でございますか、御親類のお方でございますか、神尾様のような悪いお方ではございますまい、幸内を苛(いじ)めたように、わたくしを苛めるような、そんな悪いお方ではございますまい、そんなお方とは思われませぬ、あなた様は、もっとお情け深いお方でございましょう、どうか、わたくしをお逃がし下さいまし」
「ははは、わしは神尾の友達でもないし、もとより身寄(みより)でも親類でもない、お前方と同じように、神尾主膳のために囚(とら)えられて、この古屋敷の番人をしているのじゃ」
「エエ! それではあなた様もやっぱり神尾のために」
「よんどころなくこうしている」
「お宅はどちらでございます」
「ちと遠い」
「御遠方でございますか」
「武蔵の国」
「そんならば、あの、こちらの大菩薩峠を越ゆれば、そこが武蔵の国でございます」
「ああ、そうだ」
 竜之助は荒っぽく返事をしました。お銀様は黙ってしまいました。
「なるほど、大菩薩峠を一つ越せば武州へ入るのじゃわい、道のりにしてはいくらもないけれど、おれには帰れぬ、帰ってくれと言う者もないけれど。ああ、子供が一人いる、親の無い子供が泣いている」
 竜之助は炬燵(こたつ)の上から頭を持ち上げました。子供が一人いる、親の無い子が泣いている、これはまた何という取っても附かぬ述懐であろう。この人にしてこんな言(こと)……その面(かお)を見ると、冷やかな蒼白い色に言うばかりなき苦悶の影がありありと現われましたけれど、それは電光のように掠(かす)めて消えてしまいました。
 消えないのはお銀様の眼の前に、前の晩、穴切明神のあたりで泣いていた男の子、親は何者かのために斬られて非業(ひごう)の最期(さいご)。ひとり泣いていた、あの子はどうなった――ということであります。
 お銀様は机竜之助の傍に引きつけられていました。
 日が暮れるまでそこで泣いていました。日が暮れるとその屋敷の小使が食事を運んで、いつもの通りその次の間まで持って来て置きました。
 竜之助は夕飯を食べましたけれども、お銀様は食べませんでした。
 夕飯を食べてしまった後の竜之助は、障子をあけてカラカラと格子戸を立てました。外の雨戸のほかに、この座敷には狐格子(きつねごうし)の丈夫な障子がまた一枚あります。その格子戸を立て切ると竜之助は、二箇所ほどピンと錠をおろしてしまいました。
 なんのことはない、それは座敷牢と同じことです。
 そこで竜之助は、また炬燵へ入ってしまいました。
 お銀様は泣いておりました。こうして夜は次第に更(ふ)けてゆくばかりです。
 夜中にお銀様は物におびやかされて、
「あれ、幸内が」
と言って飛び上りました。
 やはり転寝(うたたね)の形であった竜之助はその声で覚めると、その見えない眼にパッと鬼火が燃えました。
「幸内が……」
 お銀様は再び竜之助に、すがりつきました。お銀様は何か幻(まぼろし)を見ました。幸内の形をした幻に驚かされました。
 机竜之助もまた何者をか見ました。何者かに襲われました。お銀様を抱えて隠そうとしました。
 竜之助を襲い来(きた)ったものは神尾主膳ではありません。宇津木兵馬でもありません。
 前に幸内を入れて置いた長持の中から、茶碗ほどの大きさな綺麗な二ツの蝶が出ました。何も見えないはずの竜之助の眼に、その蝶だけはハッキリと見えました。
 蝶は雌蝶と雄蝶との二つでありました。しかもその雄蝶は黒く雌蝶は青いのまで、竜之助の眼には判然(はっきり)として現われました。
 お銀様を片手に抱えた竜之助は、その蝶の行方(ゆくえ)を凝(じっ)と見ていました。雄蝶と雌蝶とは上になり下になって長持の中から舞い出でました。やや上ってまた下りました。その二つは戯(たわむ)れているのではなく、食い合っているのでありました。
 非常に恐ろしい形相(ぎょうそう)をして雌蝶と雄蝶が噛(か)み合いながら室内を、上になり下になって狂い廻るのでありました。
「ああ、幸内がかわいそう……」
とお銀様が慄(ふる)え上るその頭髪(かみ)の上で、二つの蝶が食い合っていました。竜之助には、いよいよ判然(はっきり)とその蝶が透通(すきとお)るように見えるのであります。蝶の噛み合う歯の音まで歴々(ありあり)と聞えるのであります。
「ああ、幸内がここへ来た」
 お銀様は、雌蝶とも雄蝶とも言わない。竜之助は幸内の姿を見ているのではありません。
 この二つの蝶は夜もすがら、この座敷牢の中を狂って狂い廻りました。竜之助はこの蝶のために一夜を眠ることができませんでした。お銀様はこの蝶ならぬ幸内の幻(まぼろし)のために一夜を眠ることができませんでした。
 夜が明けた時にお銀様は、そう言いました。
「ああ、あなたはお眼が見えない、お眼が見えないから、わたしは嬉しい」
 竜之助とお銀様との縁は悪縁であるか、善縁であるか、ただし悪魔の戯れであるかは、わかりません。
 けれども、甲府のあたりの町の人にはこれが幸いでありました。その当座、机竜之助は辻斬に出ることをやめました。甲府の人は一時の物騒な夜中の警戒から解放されることになりました。
 お銀様は、竜之助と共に暫らくこの座敷牢の中に暮らすことを満足しました。竜之助は、このお銀様によって甲府の土地を立退くの約束を与えられました。

         六

 神尾主膳が躑躅(つつじ)ケ崎(さき)の古屋敷から、あわてて帰った時分に、駒井能登守はまた、こっそりとその屋敷へ戻って来ました。
 出て行った時には都合四人であったのが、帰った時は二人きりです。その二人とは、当の能登守と、それから跟(つ)いて行った米友とだけです。
「米友」
 能登守が米友を顧みて呼ぶと、
「何だ」
 米友は上眼使いに能登守の面(かお)を見上げて、無愛想な返事です。
「大儀であったな」
「ナーニ」
 米友は眼を外(そ)らして横を向いて、能登守の労(ねぎら)う言葉を好意を以て受取ろうとしません。屋敷に着いた時も、表から入らずに裏から入りました。
 出て行った時でさえ、家来の者も気がつかなかったくらいだから、帰った時には、なお気がつく者がありませんでした。
 主人を送り込んだ米友は、その鉄砲を担いだままで、ジロリと主人の入って行った後を見送っていました。
「お帰りあそばせ」
と言って迎えたのは女の声であります。女の声、しかもお君の声であります。その声を聞くと米友は眼をクルクルと光らせて、大戸の中を覗(のぞ)き込むようにしました。けれども主人能登守の姿も見えないし、お君の姿も見えません。二人の姿は見えないけれど、その声はよく聞えます。
「よく降る雪だ」
「この大雪に、どちらまでおいであそばしました」
「竜王の鼻へ雪見に行って来たのじゃ」
「ほんとに殿様はお好奇(ものずき)でおいであそばす」
というお君の声は、晴れやかな声でありました。
「ははは、これも病だから仕方がない」
 能登守も大へんに御機嫌がよろしい。
「また御家来衆に叱られましょう、お好奇(ものずき)も大概にあそばさぬと」
「それ故、こっそりとこの裏口から帰って来た。しかし誰に叱られても、この大雪ではじっとしておられぬわい……留守中、あの病人にも変ることはなかったか」
「よくお休みでございます、気分もおよろしいようで」
「それは何より。さあ、これがお前への土産(みやげ)じゃ」
「まあ、これをお打ちあそばしたのでございますか」
「そうじゃ、荒川沿いの堤(どて)の蔭で」
「かわいそうに」
「これはしたり、そなた殺生(せっしょう)は嫌いか」
「殺生は嫌いでございますけれど、殿様のお土産ならば大好きでございます」
「はは、たあいないものじゃ」
「あの、お風呂がよく沸(わ)いておりまするが、お召しになりましては」
「それは有難い、ではこのまま風呂場へ」
「御案内を致しまする」
 米友は、大戸の入口から洩れて来るこれらの会話(はなし)をよく聞いていました。大戸の中をやや離れて覗(のぞ)き込むようにしていたが、その額に畳んだ小皺(こじわ)のあたりに雲がかかって、その眼つきさえ米友としてはやや嶮(けわ)しいくらいです。
 そこで話がたえたけれども、この会話の間にも、お君の口からも能登守の口からも、米友という名前は一言も呼ばれませんでした。遺憾ながら「友さんも帰りましたか」という言葉が、お君の口から出ないでしまいました。それで二人は風呂場へ行ってしまったようでした。米友は大戸の入口から、まだ中を睨(にら)んで立っています。
 それから米友は、軒下を歩いて自分の部屋へ帰ろうとする時に、
「誰だい、そこの節穴からこの屋敷の中を覗いているのは誰だい」
と言って、また立ち止まって塀を睨みました。
「また折助のやつらだろう、誰に断わってそこからこっちを覗くんだ、やい、鉄砲を打放(ぶっぱな)してくれるぞ」
 おどかすつもりであろうけれども、米友は担(にな)っていた鉄砲を肩から卸(おろ)しました。
 米友が推察の通り、この塀の外から中を隙見(すきみ)していたのは折助でありました。折助が三人ばかり先刻から節穴を覗いていたのを、米友に見つけられて彼等は丸くなって雪の中を逃げました。
 折助は雪の中を、こけつまろびつ逃げて、とうとう八日市の酒場まで逃げて来ました。それは縄暖簾(なわのれん)の大きいので、彼等の倶楽部(くらぶ)であります。
 彼等三人がこの八日市の酒場へ逃げ込むと、そこには土間の大囲炉裏(おおいろり)を囲んで、定連(じょうれん)が濁酒(どぶろく)を飲んだり、芋をつついたりして、太平楽(たいへいらく)を並べている最中でありました。
 前にも言う通り、折助の社会は人間並みの社会ではないのであります。人間並みの人の恥ずることがこの社会では誉(ほまれ)なのであります。これらの人間が、もし女を引きつれてこの酒場へ来ようものならば、「恋の勝利者!」と言って彼等は喝采します、どうかして心中の半分もやり出すものがあると、彼等は喜悦に堪えないで双手(もろて)を挙げて躍り狂うのでありました。「偉い! 楠公(なんこう)以上、赤穂義士以上、比翼塚(ひよくづか)を立てろ!」というようなことになるのであります。
 けれどもまた、怜悧(りこう)な人は折助をうまく利用して、評判を立てさせたり隙見(すきみ)をさせたりするのでありました。それによって多少成功する者もないではありませんでしたけれども、やっぱり折助の立てた評判は折助以上に出でないことを知るようになりました。
 今、駒井能登守の屋敷を覗いて、米友に叱り飛ばされた折助も、おそらくは誰かに利用されて、隙見に来たものでありましょうが、この酒場へ逃げ込むと大急ぎで熱燗(あつかん)を注文して飲みました。
 ここでは前からガヤガヤと折助連中が馬鹿話をしておりましたから、新たに逃げ込んだ三人の話し声も、それに紛(まぎ)れて何を話したのだかわかりませんでしたけれども、彼等は惣菜(そうざい)で熱燗をひっかけると、長くはこの場に留(とど)まらないで、また三人打連れて飛び出してしまいました。それで彼等は雪の中を威勢よく駆け出して、二丁目を真直ぐに飛んで、やがて役割の市五郎の屋敷へ飛び込んでしまいました。
 それはそうとして、米友は彼等を叱り飛ばして、また鉄砲を担いで自分の部屋としてあてがわれたところへ来て、鉄砲を卸して大事に立てかけて、それから蓑(みの)を脱いで外へ向けてよく振いました。蓑に積っていた雪をパッパと振って壁へかけ、それから、腰を卸して雑巾(ぞうきん)で足を拭きはじめました。
 足を拭いている時も、米友の面(かお)は曇っていました。そこへ不意に鼻を鳴らし、尾を振って現われたのはムク犬であります。
「ムク」
 米友は足を拭きかけた雑巾の手を休めて、ムク犬をながめました。
「雪が降ると手前(てめえ)も機嫌がいいな」
 ムクは米友の前に膝を折って両手を突くようにして、米友の面をながめました。
「今、飯を食わせてやるから待っていろ」
 米友は足を拭き終って、上へあがりました。
「ムクや、手前は良い犬だ、どこを尋ねても手前のような良い犬はねえけれど、やっぱり犬は犬だ、外を守ることはできても、内を守ることができねえんだな」
と言いながらムクの面を見ていた時に、ふと気がつけば、その首に糸が巻いてあって、糸の下には結(むす)び状(ぶみ)が附けてあるのを認めました。
「おや」
と米友はその結(むす)び状(ぶみ)に眼をつけました。してみればムクは食事の催促にここへ来たのではなく、この結び状を届けるためにここへ来たものとしか思われません。
「誰だろう、誰がこんなことをしたんだろうな」
と言って米友は不審の眉を寄せながら、ムクの首からその糸を外して結び状を取り上げました。
 ともかくも、ムクを捉まえてこんな手紙のやりとりをしようという者は、米友の考えではお君のほかには思い当らないのであります。けれどもそのお君ならばなにも、わざわざこんなことをして自分のところへ手紙をよこさねばならぬ必要はないはずであります。お君のほかの人で、こんな使をこの犬に頼む者があろうとは、米友には思い当らないし、ムク犬もまたほかの人に、こんな用を頼まれるような犬ではないはずであります。
 米友は、いよいよ不審の眉根(まゆね)を寄せながら、ついにその結び文を解いて見ました。読んでみると文句が極めて簡単なものであった上に、しかも余の誰人に来たのでもない、まさに自分に宛てて来たもので、
『米友さん裏の潜(くぐ)り戸(ど)をあけて下さい』
と書いてあるのでありました。
「わからねえ」
 米友は、その文面を見ながら、いよいよ困惑の色を面(かお)に現わしました。それは確かに女の手であります。女の手で見事に認(したた)められてあるのであります。
「いよいよ、わからねえ」
 米友の知っている唯一のお君は手紙の書けない女であります。このごろ、内密(ないしょ)で文字の稽古はしているらしいが、それにしても、こんな見事に書けるはずはないのであります。そのお君を別にして……まさか米友を見初(みそ)めて附文(つけぶみ)をしようという女があろうとは思われません。
「誰かの悪戯(いたずら)だ」
と疑ってみても、このムク犬が、こんな悪戯のなかだちにたつようなムク犬でないことによって、打消されてしまうのであります。
「ムク、ともかくもまあ案内してみろやい」
 米友は下駄を突っかけました。ムク犬はその先に立ちました。
 これより前の晩に、ムク犬はこれと同じようにして、米友とお君とを引合せました。今はまた別の何者かを、米友に引合せようとするらしいのであります。
 けれども、その潜(くぐ)り戸(ど)をあけるためには、ぜひとも一度、お君の部屋まで行かねばならないのでありました。お君の部屋にその鍵があるのですから。
 米友はこのごろ、お君の部屋へ行くことをいやがります。その前を通ることさえ忌々(いまいま)しがることがあります。けれども今は仕方がないから、番傘を拡げて庭へ廻って、そっとお君の部屋へ入りました。そこにはお君はいませんでした。留守の一間は、化粧の道具がいっぱいに取散らされてありました。

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