大菩薩峠
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著者名:中里介山 

 双方でこんなことを言い合って、疑念も蟠(わだか)まりもサラリと解けて、そのまま駕籠は前へ進んで行き、こっちへ来る人影は、提灯もなにも持たないけれど、三人ほどに見えました。
 兵馬は木蔭からそれをもやり過ごすと、それからの山路はまた静かなものになってしまいました。提灯も駕籠も附添のものも、何も言いません。
 山路のつれづれに駕籠の中にいる人は、何とかお愛嬌(あいきょう)に、外の人に言葉をかけてもよかろうにと思われるくらいであります。附添の人もまた何か話し出して、駕籠の中の人の無愛想を助けてやればよいにと思われるくらいでありました。
 五里の山路がこうして尽きて、駕籠は八幡村へ入りました。江曾原(えそはら)へ着くと、著(いちじる)しく眼につく門構えと、土の塀と、境内(けいだい)の森と竹藪(たけやぶ)と、往来からは引込んでいるけれども、そこへ入る一筋路。
 二挺の駕籠はその屋敷へ入って行きました。その屋敷こそ、兵馬には忘るることのできない嫂(あによめ)のお浜が生れた故郷の家なのです。
 兵馬はそれを側目(わきめ)に見ただけで、その夜のうちに恵林寺まで急がねばなりません。

 恵林寺へ行く宇津木兵馬と前後して、八幡村の小泉家へ入った駕籠の後ろのは机竜之助でありました。その前のはお銀様でありました。それを兵馬がそれとは知らずに送って来たことも、計らぬ因縁(いんねん)でありました。机竜之助とお銀様とが、こうして相結ばれたことも、計らぬ因縁でありました。けれども、それよりも不思議なのは、竜之助とお銀様とが、どちらもそれとは知らずして送り込まれた家が、お浜の生れた家であるということであります。竜之助は曾(かつ)てその悪縁のためにお浜を手にかけて殺しました。その人の家へ、別の悪縁につながる女と共に来るということは、それは戦慄すべきほどの不思議であります。
 二人をここへ送ってよこしたのは神尾主膳の計らいであります。机竜之助は主膳の手では殺せない人でありました。また殺す必要もない人であります。お銀様は主膳の手でどうかしなければならない女であります。生かしておいては自分の身の危ない女であります。しかしながら、神尾主膳は、机竜之助を殺す必要のない如く、お銀様を亡き者として自分の罪悪を隠さねばならぬ必要がなくなりました。なんとならば、それはお銀様が机竜之助を愛しはじめたからであります。机竜之助はまた、お銀様の愛情にようやく満ち足りることができたらしいからであります。
 お銀様の竜之助を愛することは火のようでありました。火に油を加えたような愛し方でありました。眼の見えない机竜之助は、お銀様を単に女として見ることができました。女性の表面の第一の誇りであるべき容貌は、お銀様において残る方なく蹂躙(じゅうりん)し尽されていました。ひとり机竜之助にとって、その蹂躙は理由なきものであります。
 お銀様にはもはや、幸内の亡くなったということが問題ではない。神尾の毒計を悪(にく)むということも問題ではなくなりました。お銀様の肉身はこの人を愛することと、この人に愛せらるるということの炎の中に投げ込まれて、ほかには何物もないらしい。
 この体(てい)を見て神尾主膳は、ひそかに喜びました。二人をここへ移すことによって、自分の罪悪に差障(さしさわ)りの来ないことを信ずるほどに、主膳はそれを見て取ることができたのでしょう。




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