大菩薩峠
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著者名:中里介山 

 それと見た博徒や破落戸(ならずもの)の連中は同じように丸太を足場にして、見世物小屋へ這(は)い上って追っかけました。
 それで下の騒ぎが上へうつったのと、役人たちの取鎮めとが効を奏して、下の方の動揺は鎮まりましたけれども、下の動揺が上へ登った時に、かえってことを一層の見物(みもの)にしてしまいました。
 それは今までこのことの騒ぎが、いったい何に原因するのだかわからずに騒いでいた連中が、仰いで見れば、ともかくもその成行(なりゆき)が見られるようになったからであります。それですから、ことを怖がる女乗物の連中などのほかは、一人もこの場を立去るものがありません。
 がんりきは血塗(ちまみ)れになって、丸太から丸太、蓆(むしろ)から蓆を伝って猿(ましら)のように走って行きます。それが見えたり隠れたり、眼もあやに走ると、そのあとを同じように裸体(はだか)になった荒くれ男が、
「野郎、逃がすな」
と罵(ののし)って、何人となく蛙のように飛びついて行くのですから、その原因と人柄はよくわからないながら、確かに面白い見物(みもの)であることに相違ありません。
 この時分に、短刀を投げ捨ててしまっていたがんりきは、それでも青地錦だけは口に啣(くわ)えて放すことではありませんでした。
 小屋から小屋を飛んで歩いたがんりきは、いつのまにか馬場の桟敷の屋根へ飛び移っていました。
「それ、野郎が桟敷の屋根へ飛んだ」
 蛙のような裸虫(はだかむし)が、桟敷の屋根、桟敷の屋根と言いながら飛びついたけれども、これらの裸虫は、がんりきのやったように手際よく、小屋掛けから桟敷の屋根まで飛びうつることができません。
 彼等は一旦、小屋の尽きたところで飛び下りて、搦手(からめて)から、この桟敷の屋根へのぼり始めました。
「エッサ、エッサ」
 桟敷の柱と屋根とは、みるみる裸虫で鈴なりになってしまいました。
 桟敷の屋根の上をツーと走ったがんりきの百蔵は、正面の馬見所(ばけんじょ)の方へと逃げて行きます。ここは太田筑前守と駒井能登守の両席のあったところで、他の桟敷はここを正面として、長く左右の花道のようになっていました。それですから、ツマリ両花道から追い込んだ捕物を、本舞台で立廻りを見せて、捉まえるか逃がすかという場合にまで展開されてしまったわけです。
 この望外の見物をどうして見残して帰れるものか。流鏑馬の競技があまり上品に取り行われて、期待したほどの興味を齎(もたら)さなかったのを飽かず思っていた大向うは、これで充分に溜飲(りゅういん)を下げようとするのであります。
 沈んだ日暮とはいうものの、白根(しらね)の方へ夕陽の光がひときわ赤く夕焼をこしらえて、この桟敷の屋根へ金箭(きんせん)を射るようにさしかけていましたから、下の広場から見物するにはまだ充分の光でありました。ことに夕暮の色は、この活劇の書割(かきわり)を一層濃いものにしたから、白昼に見るよりは凄い舞台面をこしらえて、登場の裸虫どものエッサエッサと言う声も、物凄いやら、勇ましいやら。
 これから屋敷へ帰ろうとした神尾主膳もまた、この騒ぎを見物しないわけにはゆきません。主膳はその一類の者と共に馬場の下から、桟敷の上の舞台面を見上げているうちに、何に気がついたか、面(かお)を顰(しか)めて慌(あわただ)しく左右を顧み、
「小森殿、小森殿」
と呼びました。
 エッサエッサという裸虫は両方から取詰めて、がんりきの百蔵は、正面をきって彼等を待ち受けるよりほかは身動きのならぬ立場に至ってしまいました。右の方は八幡宮の屋根までは距離が遠いし、前は馬場、後ろは控えの小屋、どちらへ向いても人が充満しきっています。
「野郎」
 裸虫(はだかむし)が一匹、飛びつきました。
「何をしやがる」
とがんりきは左の拳を固めて、眼と鼻の間を突くと、裸虫が仰向けに桟敷の上から突き落されました。
「この野郎」
 つづいて飛びかかる裸虫、般若(はんにゃ)の面(めん)を背中に彫(ほ)りかけてある裸虫。
「手前(てめえ)もか」
 がんりきは平手でピシャリと横面(よこづら)を撲(なぐ)っておいて、足を飛ばして腹のところを蹴ると、これも真逆(まっさか)さまに転げ落ちる。
「野郎」
 第三の裸虫。
「ふざけやがるな」
 第四の裸虫。
「この野郎」
 第五の裸虫。
「野郎、野郎」
 第六の裸虫とそれ以下の裸虫。
 屋根の上の裸虫は、おたがいにとって勝手でもあり不勝手でもありました。捉(つか)まえどころのないことは、敵にとって利益であれば、味方にとっても同じく利益であるように、味方にとって不利益な時は、敵にとっても不利益であります。
 ことに、片腕の無いがんりきの百は、片腕が無いだけ、それだけ捉まえどころが少ないわけであります。がんりきの立場から言えば、取組ませては万事休するのですから、その敏捷な身体のこなしと、自由自在な一本の腕を以て、敵に組ませないうちに突き落してしまうに限るのであって、がんりきはよくその策戦に成功しました。
 青地錦に包んだ長い物だけは、抜く暇がなかったか抜かない方が勝手であったのか、がんりきの百は、その紐を口に啣(くわ)えたままで、それを以て自分を守ろうとしないで、身を以てその袋を守ろうとするもののように見えます。
 寄せて来た裸虫も、がんりきを取って押える目的と、一つにはその青地錦を引奪(ひったく)ろうとする目的と二つがあるように見えました。その二つはいずれも成功しないで、大の裸虫が、ズドンバタンと高いところから突き落されたり、尻餅を搗(つ)いてそのままウォーターシュートをするように下へ辷(すべ)り落ちてギャッと言うものもありました。
 もどかしがってこの屋根の上の組んずほぐれつの活劇を見ていた神尾主膳の許へ、小森蓮蔵が弓矢を携えてやって来ました。
 小森は流鏑馬の時の姿ではなく、羽織は着ないで袴だけつけて、やはり白重籐(しろしげとう)の弓に中黒の矢二筋を添えてやって来ました。
 小森を迎えに行った侍がそのあとから、二十四差した箙(えびら)を持ってついて来ました。
「小森殿、早う」
と神尾主膳が招きました。
「何事でござる」
「小森殿、大儀ながら、あの悪者を仕留めてもらいたい」
 神尾に言われて、屋根の上の騒ぎを見ていた小森の眼には、やや迷惑の色がかかりました。
「いったい、あれは何事でござる」
「あの中での悪者は、あれあの袋に包んだ太刀を持っているその片腕の無い奴がそれじゃ、察するにあの太刀を奪い取って逃げようとするのを、大勢に追いつめられて、逃げ場を失ったものと見ゆる。しかし、片腕ながら、大勢を相手にひるまぬところは面憎(つらにく)き奴、ここから遠矢にかけて射て落し、大勢の難儀を救うてやりたいものじゃ」
「確(しか)と左様でござるか、あの真中に立ちはだかった一人が、確かに悪者でござりまするかな」
 小森は念を押しました。
「確と左様、あの悪者を射て落せば事は落着する、万一、このままで同類が加勢すると容易ならぬ騒動になる」
「しからば仰せに従い、あれを一矢仕(つかまつ)ろう。しかし神尾殿、あの通り組んずほぐれつの中では覘(ねら)いは至極(しごく)困難致す、足を傷つけて下へ落し、命は助けておきたいと存ずるが、一図(いちず)にそうもなり兼ねる、万一、一矢であの者の息の根を止めても後日の難儀はござるまいか」
「それは念には及び申さぬ、なまじ斟酌(しんしゃく)して射損ずるよりは、いささかも遠慮せず一矢に射落し候え」
「しからば、仰せの通りに仕る」
「命があってはかえって後日の面倒、ものの見事に射殺(いころ)して苦しうない、あとの責めは拙者が引受ける」
「しからば」
 小森蓮蔵は片肌を脱いで、白重籐(しろしげとう)の弓に中黒の矢を番(つが)えました。
「卑怯だ、卑怯だ」
という声がこの時、周囲の群集の中の誰からともなく起って、
「まだどっちがどうなんだかわからねえんだ、それを無暗に遠矢にかけるのは卑怯だ、もうちっとばかり待てやい、これからの立廻りが面白いんだ」
 やはり誰ともなく叫ぶ声であります。それには頓着なく小森蓮蔵は、弓をキリキリと満月のように引き絞って覘いをつけた的は、屋根の上のがんりきの百であります。
 小森は弓を満月の如く引き絞りましたけれども、組んずほぐれつの間に、がんりきだけへ矢先を向けることがむずかしい。ほかのやつらへは怪我をさせないで、がんりき一人を射て落そうとするために、覘いに時間を要するらしい。
 その間に、見物はようやく不穏の色を以て、小森の弓勢(ゆんぜい)を眺めるようになりました。
「なにも、ああやって、飛道具を用いるまでのことはなかろうじゃねえか、悪い者なら行って引括(ひっくく)って来るがよかろうじゃねえか、役人が手を下(くだ)すまでのことがなけりゃあ、あいつらに任せておいたらよかりそうなものじゃねえか、何が何だかわからねえうちに射殺(いころ)してしまおうというのは、あんまり乱暴だろうじゃねえか、第一、今日は八幡様へ流鏑馬の奉納、その日に神様の前で血を流すというのは不吉だろうじゃねえか、野郎どもは裸体で喧嘩をしているのに、それを弓矢であしらうというのは卑怯だろうじゃねえか」というような考えが誰の胸にもいっぱいになったから、それで穏かならぬ色を以て、神尾一派の者と小森の矢先とを眺めました。
「よせやい、よせよせ、弓なんぞよしやがれ」
と遠くから罵るものもありました。
「撲(なぐ)れ撲れ」
という者もありました。
 見物は、もとより、屋根の上の騒ぎが何に原因して起り、ドチラが善いのか悪いのかわかってはいないけれども、それを遠矢にかけようという大人げない武士たちのやり方には、満足することができないのであります。そこで人気は険悪になって罵詈悪口(ばりあっこう)が湧いて出ました。しかしまだ石を降らしたり、土を投げたりするところまでは行きませんでしたけれども、小森の覘(ねら)いが容易に定まらないのを痛快がって囃(はや)し立てました。
 神尾主膳らは、いっかな屈せず、凄い目をして、ややもすれば暴動をしそうな、左右の群集を睨めていました。ともかくもその威勢で群集は圧(おさ)えられています。
 正面の馬見所の大屋根の上では、がんりきが一人舞台で、大勢を相手に立廻っていることは前の通りであります。組ませないで突くという策戦がよく成功して、大勢の命知らずを萎(ひる)ませていることも前の通りであります。そのうちに、大勢の命知らずが左右へ散って、がんりきの身体が一つ、真中へちょうどよい塩梅(あんばい)に離れた時分をみすまして、この時とばかり、満々と張った弓を切って放そうとした途端、どう間違ったのか知らないが、さしも手練の小森の矢先が、竹トンボのように狂ってクルクル廻って、右の上の桟敷に張りめぐらした幔幕(まんまく)の上へポーンと当って、雨垂(あまだれ)のように下へ落ちてしまいました。
 これはと驚く小森の手に、持った弓の弦(つる)が切れていました。
「無礼者」
 小森は弦の切れた弓を抛り出して、刀を抜打ちにすると、
「態(ざま)あ見やがれ」
 抜打ちにした小森の面(かお)をめがけて、一挺の花鋏(はなばさみ)を投げつけた旅人風体(りょじんてい)の男。笠を冠って合羽を着て草鞋(わらじ)に脚絆なのが、桟敷の下を潜(もぐ)って身を隠したその素早(すばや)いこと。
 それよりも早いのは、いま桟敷の下へ潜ったかと思うと、もうその裏から同じ男の姿が桟敷の屋根の上に現われたことでありました。
「あれよあれよ」
といううちに、その男は平地を飛ぶように桟敷の屋根の上を飛んで、正面大屋根の修羅場(しゅらば)へ駈けつけるのであります。
 弦を切って投げつけた花鋏(はなばさみ)だけは受けとめたけれども、小森は歯噛みをして、空しくその敏捷な男の走るのを見送るだけでありました。
 小森は歯噛みをしたけれど、見物は一度にドッと喝采(かっさい)しました。喝采して、
「態(ざま)あ見やがれ!」
と怒鳴った時は、小森の矢が幔幕へ当ってダラリと落ちた時でありました。彼等はその大人げない侍が、見(み)ん事(ごと)、矢を射損じたと見たからそれで、
「態あ見やがれ!」
と喝采したのであります。そこに別の人が潜り込んでいて、花鋏でいま張り切った弓弦(ゆんづる)をチョキンと切ってしまって、態あ見やがれと叫んで、花鋏を投げつけて、桟敷の下へ潜って行ったというような細かい働きは、彼等には認めることができませんでした。
 彼等が認めることのできなかったのは無理もないことで、すぐその傍にいた神尾主膳をはじめ数多かりし侍たちまでが、小森の飛んでもない失策が何によったかを知ることができないで、呆気(あっけ)に取られるばかりでありました。
 さすがに小森だけはそれを知って、直ちに弓を捨てて刀を抜きましたけれど、花鋏を受け留めただけで、当の敵にはサッパリ手答えがありません。
 罵(ののし)る群集も、驚く侍たちも、歯噛みをする小森も、一斉に屋根の上を見上げた時に、前の通り屋根の上を、平地を駈けるが如く飛んで行く旅人体(りょじんてい)の男を見るのみであります。
 その時は、もう小柄(こづか)を投げても及ばない時で、もちろん弓の弦をかけ直したり、替弓を取寄せたりする余裕はありませんでした。
「この鋏で、これこの通り。憎い奴だ」
 小森は落ちた花鋏を拾い上げて、神尾に示し、人混みの中に紛れ込んでいた奴が、不意にこれで張り切った弓弦(ゆんづる)を後ろから切ったということを、言葉と挙動とで忙(いそが)わしく説明しました。
「実に言語道断の敏捷(すばしこ)い奴じゃ、掏摸(すり)どもの仲間に相違あるまい、あれあの通り」
 屋根の上の旅人体の男を小森は空しく指して、無念の形相(ぎょうそう)を示すのであります。
 それで侍たちは合点(がてん)がいったものの、群集はそんなことはわからないで、屋根の上の裸虫のところへ、新たに旅人体の笠に合羽の男が一枚駈けつけるから、それは敵か味方かと片唾(かたず)を飲んでいるまもなく、大屋根まで駈けつけた右の男は、いきなり群がる裸虫を片端から突き落しはじめました。
「それそれ、面白いぞ、手んぼうの方へ加勢が出た」
 その加勢は幸いに無勢(ぶぜい)の方へ出たのだから、見物を嬉しがらせました。一人でさえ、かなりの振舞をしているところへ、また一人、同じように身の軽いのが飛び出したから、見物は大喜びでありました。
 しかし、二人になってみると、もう大向うを喜ばせるような派手(はで)な芸がしていられなくなったものか、無茶苦茶に裸虫を突き落すように見せて、不意に屋根のうしろへ隠れてしまいました。
「それ飛んだ飛んだ、屋根から飛び下りたぞ」
という声が桟敷の裏の方から起りました。なるほど、表から見て屋根のうしろへ隠れたと見た時は、二人は相ついで高いところから僅かの地面へ軽く飛び下りてしまっています。
「そうれ、逃がすな」
 裸虫どもは続いて飛び下りる、取巻いていた群集は道を開く。
「こうなりゃこっちのものだ、芋虫ども、ならば手柄に追蒐(おっか)けてみやがれ」
 群集がパッと散って開いてくれた道を、笠に合羽の旅人体と、裸体に脚絆のがんりきとが疾風(はやて)の如く駈け抜ける足の早いこと。
 二人は街道、人家、畑の中を区別なく北を指して駈けて行く。それを追蒐ける裸虫も弥次馬も、要するに二人の逃げて行く逃げっぷりに比べると、芋虫のようなものです。

         十五

 その夕べ、能登守の邸から、能登守の定紋(じょうもん)をつけた提灯(ちょうちん)と、お供揃いとがあって、一挺の乗物が出ました。主人の殿様が公用でどちらへかおいでになるのだろうと、門番の人はみんなそう思っていました。
 けれども、この乗物はお役宅へも行かず、御城内へも入らず、お代官のお陣屋へでもおいでになるのかと思えばそうでもありません。長禅寺まで来てこの一行が止まったから、さては何か不意の御用があって、このお寺へ御参詣のことと思われました。長禅寺は甲州では恵林寺(えりんじ)に次ぐの関山派(かんざんは)の大寺であります。ここに能登守が訪ねて来ることは不思議とするに足りないことであります。
 方丈と暫らく対談があったらしく、やがて乗物とお供とがここから帰って行く時分に、その裏山の宵闇(よいやみ)に紛れて行く宇津木兵馬の姿を見ることができました。
 さては、能登守の乗物で来たのは本人の能登守ではなくて、この宇津木兵馬であったろうと思われる。
 長禅寺の裏山の林の中を潜って、とある木蔭に腰をかけた兵馬は、そこで息を吐(つ)いて甲府の町の中を見下ろしました。
 甲府へ来てから兵馬はいろいろの目に遭いました。僅かの行違いから、永久に日の目を見ることができないことになるところでした。ともかくもこうして脱(ぬ)け出ることのできる身の上になったことは喜ぶべきことでしょう。
 これから兵馬の落ちて行こうとする目的(めあて)は、長禅寺を脱けて道もなき裏山伝いを、ひとまず甲斐の恵林寺へと行くのであります。
 甲府で世話になったいろいろの人に名残(なごり)もあるけれども、長い間めざす敵の机竜之助が、まだたしかにこの市中のいずれかに潜(ひそ)んでいるだろうという心残りが一層、兵馬をして甲府をこのまま見捨て難いものにするのでした。
 けれども、これは永久に甲府を去るの門出(かどで)ではない、自分は能登守に教えられた通り、これより程遠からぬ松里(まつさと)村の恵林寺へ落ちて、暫らくそこに隠匿(かくま)ってもらうのである。その間に、心してたえず甲府の動静をうかがうことができると思えば、その名残はさほど切ないものではありません。
 兵馬はその目的で、松の林の中の闇に紛れて、道なき山道を進んで行きました。
 前の日に七兵衛やがんりきが通って来たと同じ道、そこで馬場を見下ろした要害山の後ろから、帯名(おびな)と棚山(たなやま)との間を越える甲府からの裏道に沿うて、しかし、それもなるべく路を通らないつもりで、山を分けて行くと、前を提灯が三つばかり行くのを見ました。
 その提灯の通るところは、西山梨から東山梨へ出る間道であります。大方、こっちの方から今日の流鏑馬(やぶさめ)を見に来た土地の人が、夜になって大勢して通るのだろう。その人たちに見つけられたくもなし、その人たちも自分の姿を見たら驚くかも知れないから、やり過ごしてしまおうと兵馬は、またも暫らく木の蔭にかくれて、その提灯の通り過ぐるのを待っていました。
 ほどなく自分の隠れている眼の前へ来た提灯は、初めに兵馬が見つけた時も、ただ提灯だけで人声がしませんでしたけれど、いま眼の前を通り過ぎる時も、やはり話の声がしないで甚だ静かなものであります。
 淋しい山路を人数(にんず)の勢いで通る時などは、つとめて大きな声で話をして景気をつけるのがあたりまえであります。ことにお祭の帰りであってみれば、盛んに土地訛(とちなまり)の若い衆の声などが聞えなければならないはずなのを、提灯の数が三つもあるのに、さりとはあまりに静かな――と兵馬を不審がらせるほどに静かな一行であります。
 いよいよ前へ来た時に、木蔭から覗(のぞ)いて見れば、それは全体が人ではなく、二挺の駕籠の廻りは数人の人で、その前後は三個の提灯でありました。
 ははあ、これはお祭の帰りではない、婚礼かとも思いました。婚礼にしては、あんまり粛(しめ)やかに過ぎる。さては病人を甲府の町へ連れて行ってその帰りであろうと兵馬は、そうも思って見ているうちに、ふと提灯のしるしに眼がとまりました。
 前に下(さが)り藤(ふじ)の紋が大きく書いてありました。下り藤は自分の家と同じ紋であるから兵馬は、なんの気なしにそれを見ると、その下に小泉と記してありました。はっと思ってその裏を見ると「八幡(やわた)村」という文字が弓張の蔭になっています。
 八幡村で小泉といえば、わが嫂(あによめ)の実家ではないか。嫂とは誰、一時は兄文之丞の妻であったお浜のこと――ああ、その駕籠(かご)の中の主(ぬし)は誰人。兵馬はそれがために胸を打たれました。
 お浜は死んでしまったけれども、その母なる人も、兄なる人も、兄の嫁なる人も、その夫婦の間に出来た子供までも兵馬は知っているのであります。
 裏街道を越えてその家まで遊びに来た昔の記憶も残れば、ことに嫂のお浜が、自分の来ることを喜んで、手ずから柿の実などを折ってくれた優しいことの思い出も、忘れようとして忘れられません。あまりの懐かしさに兵馬は、あと追蒐(おいか)けて名乗りかけようかと思いました。
 けれども、今の兵馬の身ではそれも遠慮をしなければなりません。ぜひなく兵馬はいろいろの空想に駆られながら、その駕籠の後ろを追うて同じ方向へと進んで行きました。
 駕籠も提灯も相変らず物を言いません。何か話でも起ったならば、その駕籠の中なる人が、おおよそ見当がつくのであろうにと思いました。
 こうして暫らく山路を進んで行くうちに、
「その駕籠、待たっしゃい」
という声で、山路の静寂が破られました。「待たっしゃい」という声は、少なくとも士分にゆかりのある者でなければ、掛けられない声でありましたから、さては向うから進んで来た侍の何者かによって、その駕籠の棒鼻が押えられたものだろうと兵馬は、またそこに止まってなりゆきを見ていました。
「八幡村の小泉家から、今日の流鏑馬を御見物の客人二人、ぜひにお泊め申そうとしたのを、どうあっても今夜中に帰らねばならぬ用向きがござるそうな、それ故に夜分を厭(いと)わずこうやってお送り申す、どうかこのままで失礼を」
「いやもう御遠慮なく。今日の騒ぎと言い、近頃はどうも世間が落着かない故に、我々も毎晩こうしてこの山路を宵のうち一度ずつお役目に廻るのでござる。左様ならばお大切に」
 双方でこんなことを言い合って、疑念も蟠(わだか)まりもサラリと解けて、そのまま駕籠は前へ進んで行き、こっちへ来る人影は、提灯もなにも持たないけれど、三人ほどに見えました。
 兵馬は木蔭からそれをもやり過ごすと、それからの山路はまた静かなものになってしまいました。提灯も駕籠も附添のものも、何も言いません。
 山路のつれづれに駕籠の中にいる人は、何とかお愛嬌(あいきょう)に、外の人に言葉をかけてもよかろうにと思われるくらいであります。附添の人もまた何か話し出して、駕籠の中の人の無愛想を助けてやればよいにと思われるくらいでありました。
 五里の山路がこうして尽きて、駕籠は八幡村へ入りました。江曾原(えそはら)へ着くと、著(いちじる)しく眼につく門構えと、土の塀と、境内(けいだい)の森と竹藪(たけやぶ)と、往来からは引込んでいるけれども、そこへ入る一筋路。
 二挺の駕籠はその屋敷へ入って行きました。その屋敷こそ、兵馬には忘るることのできない嫂(あによめ)のお浜が生れた故郷の家なのです。
 兵馬はそれを側目(わきめ)に見ただけで、その夜のうちに恵林寺まで急がねばなりません。

 恵林寺へ行く宇津木兵馬と前後して、八幡村の小泉家へ入った駕籠の後ろのは机竜之助でありました。その前のはお銀様でありました。それを兵馬がそれとは知らずに送って来たことも、計らぬ因縁(いんねん)でありました。机竜之助とお銀様とが、こうして相結ばれたことも、計らぬ因縁でありました。けれども、それよりも不思議なのは、竜之助とお銀様とが、どちらもそれとは知らずして送り込まれた家が、お浜の生れた家であるということであります。竜之助は曾(かつ)てその悪縁のためにお浜を手にかけて殺しました。その人の家へ、別の悪縁につながる女と共に来るということは、それは戦慄すべきほどの不思議であります。
 二人をここへ送ってよこしたのは神尾主膳の計らいであります。机竜之助は主膳の手では殺せない人でありました。また殺す必要もない人であります。お銀様は主膳の手でどうかしなければならない女であります。生かしておいては自分の身の危ない女であります。しかしながら、神尾主膳は、机竜之助を殺す必要のない如く、お銀様を亡き者として自分の罪悪を隠さねばならぬ必要がなくなりました。なんとならば、それはお銀様が机竜之助を愛しはじめたからであります。机竜之助はまた、お銀様の愛情にようやく満ち足りることができたらしいからであります。
 お銀様の竜之助を愛することは火のようでありました。火に油を加えたような愛し方でありました。眼の見えない机竜之助は、お銀様を単に女として見ることができました。女性の表面の第一の誇りであるべき容貌は、お銀様において残る方なく蹂躙(じゅうりん)し尽されていました。ひとり机竜之助にとって、その蹂躙は理由なきものであります。
 お銀様にはもはや、幸内の亡くなったということが問題ではない。神尾の毒計を悪(にく)むということも問題ではなくなりました。お銀様の肉身はこの人を愛することと、この人に愛せらるるということの炎の中に投げ込まれて、ほかには何物もないらしい。
 この体(てい)を見て神尾主膳は、ひそかに喜びました。二人をここへ移すことによって、自分の罪悪に差障(さしさわ)りの来ないことを信ずるほどに、主膳はそれを見て取ることができたのでしょう。




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