大菩薩峠
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著者名:中里介山 

それで的(まと)の見透(みとお)しが明瞭(はっきり)とせぬ故、遠近の見定めがつかぬ……その故にねらいの本式はまず弓を引き分くる時に的を見、さて弓を引込めたる時、目尻でこう桿から鏃をみわたし、それから的を見透すというと、これは大(さす)、これは小(おちる)、これは東(まえ)、これは西(うしろ)ということが明瞭(はっきり)とわかるのでござる」
と言いながら小森は、中黒の矢を一筋とって弓に番(つが)えて、ねらいの形をして見せました。なるほど、よい形で、さすがに手練(てだれ)の程も偲(しの)ばれないことはありません。
「しかし、これは遠いところを射る時のねらい方で、もし五十間より内ならば、その節にはみな弓の左よりねらうようにせねばならぬ。流鏑馬(やぶさめ)の時、すべて騎射の時は、大抵十間二十間の際において射ることでござるから、やはり左からねらうがよろしい……かるにより近いところを射るには、押手を勝手よりも低くすること、またその時は右よりねらわずに、左よりねらうのが本式でござる。つまり遠近によりてねらいに左右の差別があることは、拙者が申し上ぐるまでもなくおのおの方も御存じのところでござろう」
「平地にて射る時、馬上にて射る時にも、その心得にいろいろの差別がござりましょうな」
と座中から問うものがありました。
「いかにも」
と小森は頷(うなず)きながら、弓から矢を外(はず)してしかたばなしをやめ、
「騎射というても、もとより流鏑馬(やぶさめ)に限ったことはござらぬ、朝廷にては五月五日の騎射、駒牽(こまひき)、左近衛(さこんえ)、右近衛(うこんえ)の荒手結、真手結、帯刀騎射(たてわききしゃ)というような儀式、武家では流鏑馬に犬追物(いぬおうもの)、笠掛(かさがけ)、みな馬上の弓でござる。このたび当所にて催さるる流鏑馬はいずれの古式にのっとられるか知らねど、多分は小笠原の流儀によることならんと存ぜらるる。ともかく、明日にも馬場を拝借して一責め致してみたいと存じ申す。その節、実地につき拙者の心得申したるところをいささかながら御参考のためにお話し申し上げたい、また拙者の流儀が他流と異なるところをも多少なりと御覧に入れたい」
 こう言って諄々(じゅんじゅん)と語るところを見れば、必ずや相当の自信がないものではないと思わせられるのであります。
 主膳はこの人を招くことにおいて非常な苦心をしました。人を遣(つか)わして信州から、わざわざ招かせたものでありました。それは無論、流鏑馬の当日に手柄を現わし、己(おの)れが面(かお)を立てると共に、駒井能登守に鼻をあかさせたい心からでありました。表向きは自分の家中ということにしておくけれど、このことが済めば多分の礼を与えて送り帰すという、客分の待遇で迎えて来たものです。

 宇津木兵馬はその時分、もうすっかり身体が癒(なお)っておりました。身体は癒ったが、まだここを立つというわけにはゆきません。
 今は日に増し元気も血色もよくなってゆくのに、兵馬はひとりその部屋で机に向って読書に耽(ふけ)っておりました。
 その時に、二階へ上って来る人の足音を聞きました。それが二人の足音であった時には、お君がお松の手引をして来るのであるし、それが一人の足音である時は、能登守が見舞に見えるのが例でありました。今は一つの足音であったから、能登守にきまっていると、兵馬は襟を正して待っていると、
「兵馬どの」
 果してそれは能登守でありました。
「これはこれは」
と言って兵馬は、褥(しとね)を辷(すべ)って礼をしました。能登守はいま研究室から来たものと見えて、筒袖羽織に袴であります。
「退屈でござろうな」
「こうして読書を致しておりますれば、さのみ退屈にも感じませぬ」
「毎朝一度ずつは、庭へ出て散歩をなさるがよかろう。いずれ近いうちには、自由の身にして上げたい、もう暫くこのままで辛抱されるように」
「有難きことに存じまする、なにぶんのお指図をお待ち申し上げまする」
「時に宇津木どの、ちと保養をしてみる気はないか」
「保養と仰せあるは?」
「気晴しに、面白い遊戯をしてみる心持はないか」
「それは、永々の鬱屈(うっくつ)ゆえに、何なりと仰せつけ下さらば、お相手の御辞退は仕(つかまつ)りませぬ」
「別に拙者の相手を所望するのではない、どうじゃ兵馬どの、馬に乗ってみては」
「それは一段と結構なことに存じまする、承りてさえ心が躍(おど)るように存じまする」
「馬に乗ることのほかに、さだめて御身は弓をひくことも得意でござろうな」
「弓?……それもいささかは心得ておりますれど、ホンの嗜(たしな)み、得意というほどの覚えはござりませぬ」
「ともかくも、馬に乗りて弓をひくことの保養をして御覧あれ、明日とも言わず、ただいまより庭へ出でて、馬を調べ、弓矢を択(えら)んで試みてはいかがでござる」
「それは願うてもなき仕合せ。しからば仰せに従いて、これより直ちに」
「厩(うまや)へ案内致させ申そう、そのうちにてよき馬を遠慮なく択み取り給え、弓矢も望み次第のものを」
 兵馬は喜んで、能登守のあとに従いました。
 その日から宇津木兵馬は、能登守の邸内の馬場で馬を責めました。馬は有野村の藤原家からすぐって来た栗毛の逸物(いちもつ)であります。

         十三

 そうしているうちに、二月初卯(はつう)の流鏑馬(やぶさめ)の当日となりました。
 八幡の社前で流鏑馬が行われるのみならず、竜王の河原では花火が打ち上げられました。町々の辻では太鼓の会がありました。それで甲州一円の人が甲府の市中へ流れ込みました。最初の二日は、名は流鏑馬であるけれども実は競馬であります。
 馬場の一面には、八幡宮の鳩と武田菱(たけだびし)との幔幕(まんまく)が張りめぐらされてあり、その外は竹矢来(たけやらい)でありました。
 南の方の真中に両支配の桟敷(さじき)があり、その左は組頭、御武具奉行、御破損奉行、御仮目附(おかりめつけ)、それから同心、小人(こびと)などの士分の者の桟敷であり、右の方は、それらの人たちの奥方や女房のために設けられた桟敷でありました。そのほかは近国から招く客分の人だの、国内の待遇のよい人々のために設けられた桟敷であります。
 一般の見物は東の口から潮のようになだれ込みました。これらの者のためには地面へ蓆(むしろ)をしいてありました。我れ勝ちに前へ進んで、その蓆の下へ履物を押込んで、固唾(かたず)を呑んで見物します。
 市街からの道々へは露店が軒を並べてしまいます。
 少し風がある分のことで、天気は申し分がないから、朝のうちに広場は人で埋まってしまいました。
 やがて合図の花火が揚った時分に、桟敷が黒くなりはじめました。先任の支配太田筑前守は、小姓(こしょう)をつれてその席に着きましたけれど、相役の駒井能登守はまだそこへ姿を見せません。
 組頭や、奉行や、目附、同心、小人の士分の者も続々と桟敷へ詰めかけて来ました。その前から沙汰をして、近国の士分の者も同じくその桟敷に招かれたのが少なからず見えるようです。
 それよりも人の目を引いたのは、これら士分の者の奥方や女房たちが、侍女(こしもと)や女中をつれてこの桟敷に乗り込んだ時でありました。
 桟敷の上には、同じく鳩と菱(ひし)とを描いた幔幕(まんまく)が絞ってある。その下の雛壇のようなところへ、平常(ふだん)余り人中へ面(かお)を見せない奥方や女房や女中たちが、晴れの装(よそお)いをして坐っていることは、場内のすべての人気をその方へ集めました。
 そのうちに、競馬のはじまる時刻が近づいて、国内から選(え)りすぐって厩(うまや)につないである馬は、勇んで嘶(いなな)きながら引き出されました。同じ国内から選び出された騎手は武者振いして、馬の平首を撫でながら、我こそという意気を眉宇(びう)の間にかがやかしています。けれどもこうして、すべての桟敷も埋まり、見物も稲麻竹葦(とうまちくい)の如く集まっているのに、今日の催しの主催者であるべき駒井能登守が見えないのに、なんとなく物足りない気持をしているものもありました。しかし、その心配は直ちに取払われてしまいました。
「御支配様」
という声のする東の口を見れば、そこから黒く逞(たくま)しい馬に乗って馬丁に馬の口を取らせ、自分は陣笠をかぶって、筒袖の羅紗(らしゃ)の羽織に緞子(どんす)の馬乗袴をつけ、朱(あか)い総(ふさ)のついた勝軍藤(しまやなぎ)の鞭をたずさえ、磨(と)ぎ澄ました鐙(あぶみ)を踏んで、静々と桟敷の方へ打たせて行くのは駒井能登守。
「好い男だなあ!」
と見物の者が感歎しました。それは弥次(やじ)で言ったのではなく、ほんとに感心して、
「好い男だなあ!」
とどよめいたことほど、能登守の男ぶりは水際立(みずぎわだ)った美男子でありました。それはまず大入場(おおいりば)の連中を唸(うな)らせたほかに、かの雛壇の連中をして、
「まあ、御支配様」
と言って恍惚(うっとり)とさせてしまったことほど、能登守の男ぶりが立優(たちまさ)って見えました。
 こうして能登守は、先任の太田筑前守がいる桟敷の前まで来て馬から下りて、筑前守とおたがいの会釈(えしゃく)があって席に着きました。
 能登守の後ろには小姓が附いていないで、若党の一学が跪(かしこ)まっていました。
 能登守が着座しても、まだ競馬の始まるまでには時間があります。その間は、見物が見物を見ることによって興味がつながれてゆきました。
 見物はそれぞれ勝手に上下の人の噂をし合います。
 けれどもその噂の中心が、どうしても能登守に落ちて行くのは争うことはできません。
「ああ、美(い)い男には生れたいものだなあ」
と思わず大きな声で歎息して笑われたものもありましたけれど、笑ったものもまた同じような思いで能登守の姿をながめていました。
 雛壇の連中は、さすがに口に出してそれを言うものはなかったけれども、その眼が一人として能登守の後ろ姿を追わないものはありません。
 さきには人気の焦点であったこの赤い雛壇が、能登守の姿を現わしたことによって、その人気を奪われてしまいました。場内の人気の焦点から暫く閑却されたのみならず、当の自分たちまでが、能登守の人気に引きずられてゆきました。
 大入場では、あれはどなた様の奥方である、あれは誰様のお嬢様、あのお嬢様より侍女(こしもと)の方が美しい、奥様のうちでは身分は少し軽いけれども、結局あの奥様がいちばんの別嬪(べっぴん)だなどと、品評(しなさだめ)をしていたのがこの時、
「それでいったい、あの駒井能登守様の奥方様はどこにおいでなさるのだ」
という問題が出て、一方は能登守の桟敷へ、それから一方はまた、一時閑却していた雛壇の方へ向いて、
「あの美しい殿様の奥方というお方の面(かお)が見てやりたい」
という物色にかかりましたけれど、不幸にしてそれは誰にも見当がつきませんでした。そこでまた議論が沸騰します。
 あの殿様にはまだ奥方が無いのだという説が起りました。いいや、あのくらいの身分になって奥方が無いはずはないという説も出ました。それでは見たことがあるかという反駁(はんばく)が出ました。見たことはないけれど……という受太刀があります。
 けれども、そのいずれにしてもみんな想像説に過ぎません。弥次と喜多とが拾わぬ先の金争いをするようなことになってゆくことがおかしくあります。
 ああいう美しい殿様の奥方はさぞ美しかろう、一対(いっつい)の内裏雛(だいりびな)のような……と言い出すものがあると、いやそうでない、ああいう殿様に限って、奥方が醜女(ぶおんな)で嫉妬(やきもち)が深くて、そのくせ、殿様の方で頭が上らなくて、女中へ手出しもならないように出来ている、よくしたものさと、なんだか一人で痛快がっているものもありました。
 よけいなお世話ではないか――大入場では、先からこのよけいなお世話で沸騰していましたけれど、もともと影を追っての沸騰ですから、議論の結着しようがありません。
 結局、三日のうちには、必ずその奥方が一度は姿を見せるであろうから、その時に鉄札か金札かを見届けようということで議論が定まりかけた時分に、裏庭で一発の花火が揚りました。それを合図に烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)の世話役が出て来ました。
 例の雛壇のうちには、この日は、どちらかと言えば奥方連の方が多いのでありました。その奥方連も、若い奥方連がこの日は多く見えていました。その若い美しい奥方連の中に、太田筑前守の奥方ばかり四十を越した年配の、権(けん)のありそうな婦人であります。
 両支配の次の桟敷には、神尾主膳がその同役や組下の連中と共に、ほとんど水入らずで一つの桟敷を占領していました。
 ここでは主膳が大将気取りで、座中には酒肴を置いて、主膳は真中に、いま刷物(すりもの)の競馬の番組を見ていました。その他の連中は番組を見たり冗談を言ったり、対岸の桟敷と、場内に稲麻竹葦(とうまちくい)と集まった群集をながめていたりして、競馬の始まるのを待っています。
 そのうちに、人がどよめいたから、主膳はなにげなく番組の刷物を眼からはなして馬場の方を見ると、今、駒井能登守が前を通り過ぎたところです。
 能登守の男ぶりが、場内の人気となって騒がれている時でありました。それを見ると神尾主膳は、何ともなしにグッと癪(しゃく)にさわりました。それで険(けわ)しい眼つきで能登守の後ろ姿と、それを見送る群集とを睨めました。
 神尾主膳にとっては、駒井能登守というものの総てが癪に触るのであります。その第一が、自分の上席にあるということであります。能登守をいただいて、少なくとも自分がその次席にあるということが、主膳にとっては堪えられない残念でありました。事毎に能登守に楯を突こうというのも、そもそもそこから出ているのでありました。
 その後は、見るもの聞くもの、すること為すことが、能登守とさえ言えば腹が立つ種であります。ことに、こんな晴れの場所において、能登守に主人面に振舞われることは、自らの存在を蔑(ないが)しろにされたように侮辱を感じて、それが一層、憎悪に変ずるのであります。
 己(おの)れが威勢をこの際、多くの人に見せつけるがために、わざと桟敷の前をああして打たせて歩くのだなと思いました。どうかしてあの鼻先を挫(くじ)いて、この際、思い入り恥辱を与えてやりたいものだと、番組を持つ手先がブルブルと慄えるほどに残念がりました。
 主膳は自分が主人役になって酒肴を開かせました。一座はいずれも酒盃を手にしたが、やはり見物をながめては、いろいろの品評がはじまります。
 ここに集まった人は、おおよそ何人ぐらいあるだろうという答案を募(つの)るものもありました。その答案が三万と言ったり、五万と言ったり、また飛び離れて十万と言ったり、思い切って区々(まちまち)であったところから、昔、信玄公が勝千代時分に、畳に二畳敷ばかりも蛤(はまぐり)を積み上げて、さて家中(かちゅう)の諸士に向い、この数は何程あらん当ててみよと、おのおの戦場場数(ばかず)の功者に当てさせたところが、或いは二万と言い、或いは一万五千などと言った、その実、勝千代丸があらかじめ小姓の者に数えさせておいた数は三千七百しかなかった――そこで勝千代殿は、ああ、人数というものは多くはいらないものじゃ、五千の人数を持ちさえすれば何事でも出来るものだわいと言って、老功の勇士に舌を振わせたのは僅かに十三歳の時のことであった、後年名将となる人は異なったものだ、というような話も出ました。
 けれどもまた一方において、対岸の桟敷の婦人連を遠目に見て、大入場の連中とほとんど選ぶところのないような品評を試むる者が多くありました。また桟敷以外にいる町民や農家の子女たちを物色して、かえって野の花に目のさめる者がいるなんぞと、興がるものもありました。上役の手前もあり、身分の嗜(たしな)みもあったからこの席では、そんなに不謹慎なところまでは行きませんでしたけれども、追々に陽気になって行くのに、ひとり主人役の神尾主膳のみが、苦り切って、酒を飲むこと薬を飲むようにしているのは、いつもに似気(にげ)なき様子であります。こうして当日の八幡社前へは、甲州一円のあらゆる階級の人が集まることになりました。
 あとからあとからと蟻の這(は)うように、馬場をめざして人の行列が続きます。この分ではとても落々(おちおち)と流鏑馬(やぶさめ)の見物は出来まいからと諦(あきら)めて、竜王の花火の方へ河岸(かし)を換えたのもあったから、竜王河原もまた夥(おびただ)しい人出でありました。
 これらのあらゆる種類の見物のうちに、まだ一つ閑却することのできない種類の見物(みもの)があります――それは例の折助の一連でありました。
 手の空(す)いた折助連中はその倶楽部(くらぶ)である八日市の酒場に陣取って、これから隊を成して馬場へ押し出そうというところであります。
 一口に折助と言ってしまうけれども、団結した折助の勢力には侮(あなど)り難いものがあるのであります。また彼等は渡り者であるだけに、みな相当の歴史を持っているのであります。食詰者(くいつめもの)であるだけに、かなり道楽の経験のある者もあるのであります。また意外に学問の出来る者もあるのであります。これから馬場へ押し出そうとする折助連中の面(かお)ぶれを見ても、その折助として雑多な性格を見ることができるのであります。
 そのなかには、貸本の筆耕をして飲代(のみしろ)にありついているのもありました。四書五経の講義ができるぐらいのものもありました。
 江戸で芝居という芝居を見つくしたと自慢するのもありました。寄席(よせ)という寄席に通いつくしたと得意なのもありました。なかには淫売婦(じごく)という淫売婦を買いつくしたと言って威張るのもありました。
 そのほか、折助のうちには、なかなかの批評家もおりました、皮肉屋もおりました。今日のような時には、その連中はじっとしていられないのであります。またそれをじっとしておらせようなものならば、彼等は折助式の反抗と復讐をすることに、抜け目のあるものではありません。
 それ故に、何かの催しのある時には、この折助に渡りをつけることを忘れてはなりません。今日の流鏑馬(やぶさめ)は、官民合同とはいうようなものの官僚側の主催のようなものだから、そんなに折助に憚(はばか)るところはないのだけれど、それでも彼等のために、桟敷下のかなり見よいところを世話役が割(さ)いてくれました。
 酒樽と煮しめとをたくさんに仕込んで、八日市の酒場を繰出したこれらの折助の一隊何十人は、ほどなく馬場へ繰込んで、この桟敷下へ陣取りました。ここで彼等のうちの批評家と皮肉屋は何か見つけて、腹をえぐるような、胸の透くような文句を浴びせかけてやろうと待ちかねています。
 生憎(あいにく)のこと――世話役が少し気が利かなかった、この折助席の向うは、例の赤い雛壇の婦人席の桟敷でありました。その間はかなり隔たっていたけれども、少なくともそれと相対していることは、折助連の批評と皮肉のためによい標的(まと)であって、その標的に置かれた善良なる婦人たちのためには、実に不幸なことでありました。
 折助がこの席に着いた時分は、駒井能登守はもう着座していた後のことであって、折助は、桟敷下の蓆(むしろ)の上へ胡坐(あぐら)をかいて、人集(ひとだか)りの模様には頓着なく、まず酒樽の酒を片口(かたくち)へうつして、それを茶碗へさして廻り、そこから蒟蒻(こんにゃく)や油揚や芋の煮しめの経木皮包(きょうぎがわづつみ)を拡げ、冷(ひや)でその酒を飲み廻し、煮しめを摘みながら、おもむろに桟敷から桟敷、見物から見物を見廻すのであります。
 ところが、はじめて気がついたように、赤い雛壇のところで眼を据えてしまいました。何か言おうとして咽喉(のど)をグビグビさせたけれど、幸いに、ちょうどその時に合図の花火が揚りました。
 このほかに、まだ一つ大目に見なければならないものがありました。それは名物の博徒(ばくと)――長脇差の群であって、こういう場合には、ほとんど大手を振って集まって来て、おのおのしかるべき格式によって、賭場(とば)を立てるのが慣例でありました。
 けれども、これは慣例に従って大目に見て、それぞれの親分なる者の権力を黙認しておきさえすれば、取締りにそんなに骨の折れることではありません。
 この連中は別に流鏑馬を見たいわけではなし、また見物を見に来るのでもなく盆の上の勝負を争いに来るのだから一見してこの社会の者ということが知れるのであります。
 ところがここに、なんとも見当のつかない二人の者がこの日、東山梨の方のどこかの山の中から出て、裏山伝いをドシドシ歩いて甲府の方へ出て行くのは、やはり流鏑馬をめあてに行くものと見なければなりません。
 人に見えないところを歩いて行く間の二人の足は、驚くべき迅(はや)さを持っていましたけれど、甲府へ近づいてからの二人の足どりは世間並みでありました。
 二人とも笠を被って長い合羽(かっぱ)を着て、脇差を一本ずつ差していました。先に立っている方が年配で、あとから行くのが若いようです。
「大へんな景気だな」
と言って立ちどまったところは要害山(ようがいやま)の小高いところであります。ここから見下ろすと、馬場を取巻いた今日の景気を一眼に見ることができます。
「大当りだ」
と言って若い方が笠の紐を結び直しました。そうすると年配の方は、松の根方の石へ腰をかけて煙草を喫(の)みはじめました。
 若い方は別に煙草も喫みたがらず、腰もかけたがらずに、しきりに馬場の景気、桟敷の幔幕、真黒く波を打つ人出、八幡宮の旗幟(のぼり)、小屋がけの蓆張(むしろばり)などを、心持よかりそうにながめていました。
 年配の方は七兵衛であって、若い方はがんりきの百蔵であります。どこにどうしていたのか、この二人は流鏑馬を当て込んで、また性(しょう)も懲(こり)もなく、この甲府へ入り込もうとするらしい。どのみちこの二人が当て込んで来るからには、ロクな目的があるわけではなかろうけれど、ドチラにしてもこの面(かお)で、甲府へ真昼間(まっぴるま)乗り込もうとするのは、あまり図々しさが烈しいと言わなければならぬ。けれども二人としては、この機会に何かしてみなければ気が済まないのでありましょう。
 ただこの機会に何かしてみたいという盗人根性(ぬすっとこんじょう)が、二人をじっとさせておかないのみならず、まだこの甲府に何か仕事の仕残しがあればこそ、この機会を利用してその片(かた)をつけてしまうために、協同して乗り込んで来たものと見れば見られないこともないのです。
 だから、二人がこうして小高いところから、夥(おびただ)しい人出を見下ろしている眼つき面つきにも、いつもよりはずっと緊張した色があって、乗るか反(そ)るかの意気込みも見えないではありません。
 二人が仕残した仕事といったところで、七兵衛は兵馬の消息を知りたいこと、それとお松とを取り出して安全の地に置きたいこと、その上で本望を遂げさせてやりたいこと、それら多少の善意を持った物好きがあるのだろうけれど、がんりきときては、何をいたずらをやり出すのだか知れたものではありません。
 二人がこの小高いところから下りて、人混みの中へ紛れ込んだのは、それから幾らも経たない後のことであります。
 その日の競馬はそんなような景気でありました。その翌日の競馬はそれに弥増(いやま)した景気でありました。
 両日共に日は暮れるまで勝負が争われ、勝った者は馬も乗り手も揚々として村方へ帰り、負けた者は後日を期した意気込みを失いません。かくて第三日となりました。今日は最終の日で、そうして晴れの流鏑馬のある日でありました。それが士分の者によって行われようという日であります。
 この日になって、雛壇の桟敷(さじき)の二番目へ、前二日の日には曾(かつ)て見かけなかった美しい女房が、老女と若い侍女をつれて姿を見せたことは、早くも初日以来の見物の眼に留まらないわけにゆきません。これを見つけた者は、早くもその噂をはじめました。
「あれだ、あれだ、あれがソレあれだよ」
 この二日の日において、支配の太田筑前守の老女を初め、重立った人の奥方や女房や女中たちの面も大抵わかったし、その品評もほぼ定まったけれども、今日そこの桟敷に姿を現わした美しい人は、その例外でありました。前二日には全く姿を見せなかった人であるのみならず、その桟敷も一間を占めて、太田筑前守の夫人にもおさおさ劣らぬほどの格式で見物に来たものですから、疑問が大きくなりました。
「あれがそれ、駒井能登守様の奥方よ。どうだ、おれの言った通り素敵(すてき)なものではないか、醜婦(ぶおんな)で嫉妬(やきもち)が深くて、うっかり女中にも手出しができないと言ったのは誰だ、ここへ出て来い」
 例の見物席にこんなことを言い出すものがありました。
「なるほど」
 それらの見物の眼は、一斉(いっせい)にこの桟敷へ向います。
 そう言われて見れば、それに違いないと思うもののみであります。奥方とはいうけれども、そこに処女(おとめ)のような可憐なところが残っていました。その可憐な中には迷わしいような濃艶(のうえん)な色香が萌え立っていました。人に遠慮して、わざと横を向いている面(かお)には初々(ういうい)しい恥かしさがありました。一糸も乱れずに結い上げた片はずしの髷(まげ)には、人の心に食い入るような油がありました。
 これは大入場の観客の問題となったのみならず、士分の者や、町民の由緒(ゆいしょ)と富裕とを持った者の桟敷に至るまでも、やはり注目の標的(まと)となりました。
 太田筑前守は、席を占めていたけれど、駒井能登守はまだ見えません。
 神尾主膳は、それよりも先に例の一味の者を語らって、例の桟敷に詰めていましたが、やはり評判につれて、向い合ったこの桟敷に現われた美しい女房の姿を、目につけないわけにはゆきませんでした。
「なるほど」
 主膳の左右にいる者の小声で噂(うわさ)するところによれば、あれこそ、新支配の駒井能登守が、このごろ新たに手に入れた寵者(おもいもの)ということであります。
「そうか」
 神尾主膳は遠くから、皮肉のような好奇(ものずき)のような眼をかがやかして、その美しい女房の現われた桟敷に篤(とく)と目を注ぎました。
「あれが……」
と言って主膳は、その目を細くして、わざとらしい不審の色を浮ばせました。
 そのわざとらしい不審の色が、険(けわ)しい眼の中へ隠れて行く時に、ハタと膝を拍(う)った神尾主膳はなぜか、
「はははは」
と、そんなに高くはなかったけれど、四辺(あたり)の人を驚かすほどに笑いました。それは皮肉と陰険と、そのほかに、これらの人物によく現われる、得意と侮蔑(ぶべつ)とを裏合せにしたような笑い方であります。
 そのうちに太田筑前守の老夫人が、また前の日のように多くの女中を連れて、婦人席の第一の桟敷へ来ました。
 第一の桟敷、第二の桟敷というけれども、それは長い一棟で、金屏風を以て仕切られてあるのみです。
 老夫人の一座が、そこへ席を占めて後に、その召しつれた人々によって囁(ささや)かれたのは、第二番の桟敷の客のことでありました。
 それらの婦人たちが、姦(かしま)しく物を言い、或いはワザとらしく囁くのが、金屏風で隔てられた次の桟敷へはよく響くのであります。駒井と言い、能登守と言い、それから指を出したり手真似をしたりする模様まで、手にとるようにわかるのであります。
 第二の桟敷に来て噂の種となっている美しい姿は、それは、お君の方(かた)であったことは言うまでもないのであります。
 お君の方はこの日、老若四人の婦人たちを連れて――というよりはその婦人たちにせがまれて、この席へ見物に見えたものであります。
 お君はここへ見物に出ることをいやがりました。人中へ出るのが嫌いだと言って断わろうとしたのを、殿様が御主人役で晴れの催しであるこの流鏑馬(やぶさめ)へ、一日もお面(かお)をお出しなさらなくては、殿様へ対しても失礼であろうし、自分たちも肩身が狭いから、ぜひぜひおいであそばせと言って、左右の女たちがせがみました。左右の女たちはそうしなければ、自分たちも出ることができないのであります。
 それでぜひなく、お君の方はこうして桟敷の人となりました。桟敷の人となってみると、勢い評判の人とならずにはおりません。どうも多くの人の見る眼と、囁く口が、自分の方にばかり向いているように思われて、お君は、ここへ来てから度を失うようにオドオドしていました。
 連れて来られた女中たちは、そんなことは知らずに大喜びで、馬場や、見物客や、打揚(うちあが)る花火を見てそわそわとしていました。お君の眼では、馬場も、見物席も、晴れた空も、ボーッと霞のように見えました。暫らくして、
「御免あそばしませ」
 第一番の桟敷から、女中の取締りでもしているような女房が一人、案内を乞う声によって、狼狽したのはお君の方(かた)ばかりではありません、その召連れて来た女中たちまでが不意の案内で驚かされました。
「どなた様」
 お君の方の老女は迎えに出ました。
「筑前守内より使に上りました」
「筑前守様のお内から?」
 それでお君の方(かた)の一座はハッとしました。
「これは、まことに粗末な品でござりますれど、能登守様のお内方(うちかた)へ差上げ下さいまするよう、主人からの言いつけでござりまする」
 使に来た女中が捧げているのは、蒔絵(まきえ)の重(じゅう)に酒を添えて来ているものらしくあります。
「それはそれは」
 お君の方の一座は、恐縮したり当惑したりしてしまいました。
 この際、こんなことをされては有難迷惑の至りで、もしそれをせねばならぬ礼式があるならば、こちらから先にするのが至当でありましょう。それを向うから持って来られてみると、好意を受けないわけにはゆかないし、またその好意なるものが、形式一遍(いっぺん)の好意ではなくて、なんとなく底気味の悪い好意として見られ易いのです。
「こちらから御挨拶に出ねばなりませぬところを、斯様(かよう)な結構な下され物、なんとお礼を申し上げましてよろしいやら……ともかく、有難く頂戴いたしまする、後刻、改めて御礼に……」
 老女は詮方(せんかた)なしにこう挨拶して、筑前守の奥方からの贈り物を受けました。
 とにかく、こうして贈り物を受けてみると、その返しに苦心しないわけにはゆきません。こんな苦心はお君にとっても、女中たちにとってもいやな苦心であります。
 仕方がなしに、使をワザワザ邸まで飛ばせて、筑前守の奥方から贈られたのと同じようなものを調えて、それを老女に持たせてやりました。
 老女が帰って来ると、隣席ではヒソヒソと囁き合って、やがてドッと笑う声がしました。それがかなり意地悪いことにお君の方の胸に響きます。
 それが済むと、やがて隣席から二度目の交渉がありました。前の女中がやって来ての口上には、おたがいにこうして窮屈に見物をするよりは、いっそ、この隔ての屏風を取払って、仲よくお附合いをしながら見物しようではないかとの交渉でありました。
 こちらの老女は、これを聞いてまた当惑して、主人のお君の方の面(おもて)を仰ぐと、お君の方もまた同じ思いでありました。
「せっかくではござりますれど、手前共はみんな無調法者(ぶちょうほうもの)ばかり故、もし失礼がござりましては」
という意味で、老女は程よくその交渉を断わりました。
 筑前守の奥方の方でもそれを押してとは言わないで、左様ならばと言ってひきさがりました。お君は、かさねがさねそれが不安でたまりません。隣席のすることはどうしても意地が悪い――もしその中に自分の素性(すじょう)を知った者があっての上ですることではなかろうか。そうだとすれば自分がここにいる以上は、何かの形でその意地悪が続くに違いない。それもあるけれども、またこの多数の見物席の中には、自分をそれと感づいている者はないだろうか――姿と形こそ変っているけれども、この土地へ来て女軽業の一座で踊ったこともある。それを思うとお君は、座に堪えられないほどに不安に感ずるのであります。
 こんなことなら来ない方がよかったのにと思いました。しかし来てみれば、いまさら帰るわけにはゆきません。自分が帰ると言い出せば、せっかく興に乗った連れの女中たちを失望させなければならないことを思えば、お君は、じっと針の莚(むしろ)のようなこの席に辛抱しているよりほかはないのであります。
「お君様」
と名を呼んで訪れた者がありましたから、お君は頭を上げて見ると、それはお松でありましたから、
「お松様」
 お君はここでお松を得たことを、百万の味方を得たほどに喜びました。
「お君様、ここで拝見させていただいてよろしうございますか」
「よいどころではございませぬ、さあさあこちらへ」
 お松はお君のいるところへ訪ねて、一緒に見物をさせてもらいに来たのは、お君の方(かた)にとってはかえって願ったり叶ったりの喜びでありました。お君は嬉しがって、お松に半座を分けて与えます。
 お君の方について来た女中たちもまた、喜んでこのお客を待遇(もてな)しました。前の筑前守の使の者とは打って変って、打解けた気持でこの若いお客を待遇(もてな)すことができました。
 お松もまた、ほかに席があったのだろうけれども、わざわざここをたずねて見物を同じにさせてもらいたいほど、ここへ来るのを喜んでいました。
 お君と並ぶようにして席を取って、馬場の人出を見渡したお松は、桟敷の方に目を注いでいるうちに何かに驚かされて、ただならぬ色を現わし、
「お君様、この御簾(みす)を少し下げようではありませんか」
 総(ふさ)で絞った幕の背後に御簾を高く捲き上げられてあったのを、お君は今まで気がつきませんでした。
 ちょうどその時に、相図の花火が揚りました。今日はこれから、今までに見られなかった流鏑馬(やぶさめ)がはじまるのであります。
 花火の相図と共に、立烏帽子(たてえぼし)に緑色の直垂(ひたたれ)を着て、太刀を佩(は)いた二人の世話係が東から出て来ました。西の方からは紅の直垂を着て、同じく太刀を佩いた二人の世話係が出て来ました。この四人の世話係が馬場の本と末とに並んだ時――馬見所(ばけんじょ)も桟敷も大入場も一同に鳴りを静めました。
 御簾を下ろそうとしたお松も思わずその手を控えて立ちながら、多くの人と共に馬場の東の方をながめます。
 十六人の射手(いて)が今そこから馬場の中へ乗り込む光景は、綾錦(あやにしき)に花を散らしたような美しさであります。その十六人は、いずれも優(みや)びたる鎧(よろい)直垂(ひたたれ)を着ていました。それに花やかな弓小手(ゆごて)、太刀を佩き短刀を差して頭に綾藺笠(あやいがさ)、腰には夏毛の行縢(むかばき)、背には逆顔(さかづら)の箙(えびら)、手には覚えの弓、太く逞(たくま)しい馬を曳(ひ)かせて、それに介添(かいぞえ)を一人と弓持一人と的持を三人ずつ引具(ひきぐ)して、徐々(しずしず)と南の隅へ歩み出でたのであります。
「お松様、そうしてお置きあそばせ、御簾が無い方がよろしいではございませんか」
 女中たちは、なまじい御簾を下ろされて、せっかくの観物(みもの)を妨げられることを好みませんでした。お松もまた、せっかくの観物の始まるに先だって、こんなことをしたくないのであります。
「では、このままにして置きましょう」
と言って、御簾を卸すことをやめたけれども、心配は自分のことでなくて、お君の身の上にあるようでした。だから改めて坐り直す時に、わざと身を以てお君の前へ坐って隠すようにしながら、
「お君様、あれに、わたくしどもの主人が」
と言って、そっと前の桟敷を指して示しました。
「どのお方」
とお君がなにげなく、お松に指さされた方を見て、
「あ!」
と面(かお)の色を変えました。
 その時に、ちょうど十六人の射手はこの桟敷の下を通りかかりました。お松は、お君が面色(かおいろ)を変えたことを、それほどには気にしないで番組を借りて見ながら、
「第一番は、筑前守様の御家来で正木様。あのお方がそれでございましょう」
と番組と人とをお松は見比べながら、
「第二番は能登守様の御家来で小川様……」
と言って、番組と人とをまた引合せながら、
「お君様、あなたの殿様からおいでなされたお方は、まだ若いお方でございますね」
 お松の蔭に隠れるようにしていたお君は、小さい声で、
「主人のお小姓でございます」
と言っている時に、その人は桟敷の下へ来て綾藺笠(あやいがさ)を振りかたげて桟敷の上を見上げました。紫地錦(むらさきじにしき)の直垂(ひたたれ)を着て、綴(つづれ)の錦に金立枠(きんたてわく)の弓小手(ゆごて)をつけて、白重籐(しろしげとう)の弓を持っていましたが、今なにげなく振仰いで笠の中から見た面を、お松は早くも認めて、
「お君様」
「はい」
「あなた様のお家のお方は、薄化粧をしておいでになりました」
「ごらんになりまして?」
「確かに……」
「その通りでありまする」
 お君とお松とは頷き合いました。その時にお松の心が遽(にわ)かに勇みをなしました。

         十四

 古式に装(よそお)うた花やかな十六騎が、南の隅に来てハタと歩みを止めた時に、馬場本(ばばもと)に設けられた記録所から、赤の直垂をつけて太刀を佩(は)き、立烏帽子に沓(くつ)を穿いた侍が一人、徐々(しずしず)と歩んで出て来ました。十六人は、その侍を迎えて進んで、近いところへ来て跪(ひざまず)きました。立烏帽子の侍もまた膝を折って、
「早や流鏑馬(やぶさめ)を始め候え」
というと、十六人が同時に、
「承りて候」
と言って一斉にその場をさがって、おのおの引かせた馬に跨(またが)ります。
 その時に、四十八人の的持はてわけをして北の方の的場へ颯(さっ)と退(ひ)きました。そこへ的を立てて、その下に衣紋(えもん)を繕(つくろ)うて坐ると、弓持は北の方の隅の幕へ弓を立てかけました。
 射手(いて)は順によって馬を進ませ、八幡社の方に一礼する。再び元へ戻って轡(くつわ)を並べる。西の方で白扇を飜して合図があると、東の方で紅の扇をかざしてこれに応(こた)える。用意がすでに整うと、第一番の射手が馬を乗り出しました。三たび馬を回(めぐ)らした後、日の丸の扇を開いて、笠の端を三度繕い、馬を驀然(まっしぐら)に騎(の)り出しながら、その開いた扇を中天に抛(なげう)つ。これは古式の通り捨鞭(すてむち)の扇であります。
 策(むち)を揚げて馬を乗り飛ばし、矢声をかけて、弓を引き絞って放つと過(あやま)たず、一の的、二の的、三の的を見事に砕いて、満場の賞讃の声を浴びて馬を返す。
 第二番は――宇津木兵馬でありました。ここでは仮りの名を小川静馬と言い、綾藺笠を冠(かぶ)って、面がよくわかりません。桟敷で女たちが見ていた通り、兵馬は薄化粧をしていましたようです。馬を乗り出すことから、捨鞭の扇を投げるまで、すべて小笠原の古式の通りでありました。
 策(むち)を揚げて弓を引き絞って、切って放した矢は過たず、一の的を打ち砕きました。二の的もまた同じこと、三の的も……瞬く間に打ち砕いて、これも盛んなる賞讃の声を浴びて馬を乗り返しました。
 第三番は小森蓮蔵――これもまた手練(てだれ)なもので、同じように三枚の的を打ち砕いてしまいました。そうして同じような賞讃を受けました。
 こうして見れば、なんらの波瀾もありません。駒井家から出た者も、神尾から出した者も、一様に功を樹(た)ててみれば、恨恋(うらみこい)はない。
 それから第四番以下は、第三番までとは段の違った射手でありました。三枚とも的を砕くのは甚だ稀れで、大抵は三本の矢のうち一本は射外(いはず)すのであります。それで十六騎のうち、三枚の的を打ち砕いたものは都合五騎ありました。他の十一騎は二本だけ。でもみな相当の面目を損ずることなくして流鏑馬を終りました。
 この十六番の射手が流鏑馬(やぶさめ)を終って、馬を乗り鎮め、馬場を乗り廻して仮屋へ帰る勢揃いがまた見物となります。そのなかでも、どうしても評判に上り易いのは宇津木兵馬であります。
「あれは駒井能登守様のお小姓(こしょう)じゃそうな。駒井の殿様は鉄砲の名人、それであのお小姓までが弓の上手」
 兵馬はなるべく人に面(おもて)を見られたくないので、笠で隠すようにしていました。
 神尾主膳は過ぎ行く十六騎の射手を見送っていましたが、小森はそこへ来ると得意げに挨拶する。
 主膳はそれに会釈しながら、その次に来る宇津木兵馬の面(かお)を、笠の下からよく覗いて見ようとします。
 流鏑馬が済むと、他の射手は、まだ仮屋にいる間に宇津木兵馬だけは引離れてしまいました。兵馬は流鏑馬の時の綾藺笠(あやいがさ)に行縢(むかばき)で、同じ黒い逞(たくま)しい馬に乗って、介添(かいぞえ)や的持(まともち)をひきつれて仮屋へ帰って、直ちに衣服を改めて編笠で面を隠して、大泉寺小路というのを、ひそかに廻って、やはり人に知れぬように能登守の屋敷へ帰るものと見えます。
 兵馬が行くとそのあとを、二人の同心がつけて行きました。
 流鏑馬が終って花火が盛んにあがりました。そろそろ帰りに向いた群集と、これから繰り出して来る連中とで、人出は容易に減退の色を見せません。
「お帰りだお帰りだ、奥様方のお帰りだ」
という声で、人波の揺返(ゆりかえ)しがあります。
 前の通路(とおりみち)を、見事な女乗物を真中に盛装した女中たちが附添うて、その前後には侍や足軽たちが固めて、馬場の庭から、それぞれの邸へ帰るものらしい。
 兵馬もまた、この人波の揺返しの中へ捲き込まれて、押されて行くよりほかはありません。押され押されて行くうちに、ついその女中たちの行列と押並んで歩かねばならないようになりました。この際、
「喧嘩だ!」
 この声はよくない声であります。この場合にこんなよくない声の聞えるのは不祥なことであったけれども、この行列の練って帰らんとする行手で、
「喧嘩だ、喧嘩だ」
 続けざまに聞えたので、スワと聞く人は顔の色を変えました。
 噪(さわ)ぎの起りはまさしく、前の露店と小屋掛けのあたりから起ったものに相違ないのであります。
「そーれ、喧嘩だ」
 甲州の人間は、人気の荒いことを以て有名であります。今日の催しとても、単に流鏑馬の神事だけを以てこの景気を打留めにするのは物足りないと思っているところへ、
「喧嘩!」
 この声は、無茶な群衆心理をこしらえ上げるのに充分な声でありました。
 女乗物の行列の前後左右から鬨(とき)の声が起りました。しかしこの鬨の声はまだ別段に危険性を帯びた鬨の声ではなく、ただ、喧嘩だ! というまだ内容のわからない叫喚に応ずる、意義の不分明な合図に過ぎません。
 しかし、この女乗物の行列には多分の附添もいるし、沿道の警戒も行届いているから、それに懸念(けねん)はないけれども、前路に当ってその騒ぎのために一時、行列の進行がとまることはよくないことでありました。それがために混乱を大きくすると困ることになる。それだから駕籠側(かごわき)の侍や足軽たちは、屹(きっ)と用心して眼を八方に配ります。
「喧嘩だ、喧嘩だ」
 前の方の騒ぎが大きくなるにつれて、後ろの方の弥次の声も大きくなりました。しかし、そのいずれも、この身分のある女房たちに危害を加えようとして起った叫喚でないことは確かであります。
 今、とある小屋掛けの中から跳(おど)り出した裸一貫の男がありました。
 裸一貫といっても、腹には新しい晒(さらし)を巻いていました。そうして裸体(はだか)であるにも拘らず、脚絆(きゃはん)と草鞋(わらじ)だけは着けていました。その上に釣合わないことは、背中に青地錦(あおじにしき)の袋に入れた長いものを廻して、その紐を口で啣(くわ)えていました。
 その小屋掛けから跳り出した時には、左の片手に短刀を揮(ふる)って、右の片手はと見れば、それは二の腕の附根のあたりからスッポリと斬り落されて――いま斬り落されたわけではない、斬り落された腕のあとは疾(と)うに癒(い)え着いていましたが、
「どうでもしてみやがれ」
 短刀を振り廻した左の手首にも血がついているし、面の眉間(みけん)を少し避けたあたりにも血が滲(にじ)んでいました。
「野郎、ふざけやがって……」
 小屋掛けから一団の壮漢が、そのあとを追って飛び出しました。
 それらの者を見ると、いずれも博徒であります。
 喧嘩! というのはこれであった。つまり博徒の喧嘩なのであった。賭場荒(とばあら)しを取って押えて簀巻(すまき)にしようとするものらしい。
 この煽(あお)りを食って宇津木兵馬も、人波の中に揉まれていなければならなくなったし、奥方様という女乗物の一行が、まともにそれと打突(ぶっつ)かったのは気の毒でもあり、慮外千万な出来事でもありました。
「無礼者、控えろ」
 お供先の足軽や侍が駈けつけました。
「どうでもしてみやがれ」
 短刀を揮(ふる)った裸一貫の男は、敢(あえ)て警固の足軽や侍を畏(おそ)れようとはしません。
「控えろ!」
 棒を持ったのが、追っかけて来る博徒を遮(さえぎ)りましたけれども、博徒連中は、そんなものが眼に留まらぬくらいに気が立っていました。
「野郎、ふざけやがって……」
「無礼者、控えろ」
 ここでお供先の足軽や侍は、博徒連を取押えるために、彼等を相手に格闘せねばならなくなりました。
「喧嘩だ、喧嘩だ」
と群衆は、いよいよ沸き立たないわけにはゆきません。
 短刀を左の手で揮った裸の男は、右の手が無いにも拘らず、その身体(からだ)のこなしの敏捷なことは驚くべしであります。取押えようとする同心や足軽の手先の棒先を潜(くぐ)り廻って、あちらへ抜け、こちらへ抜ける早業が、充分に喧嘩と人騒がせに慣れきっているものの振舞です。
 女乗物を囲んでいる女中たちは泣き出しそうです。
 宇津木兵馬のあとを追うていた二人の同心は、この騒ぎでも兵馬を見捨てて、その騒ぎの方へ出向くことを躊躇(ちゅうちょ)しました。
「左様、それでは」
 一人が一人の耳に口をつけて囁(ささや)くと、囁いた方が人を分けて前へ進み出し、囁かれた方は、もとのままに兵馬を監視しているらしい。
 この時は、すべての催しが済んで花火が盛んに揚りました。崩れ立った人の足、帰りに向く人も、出かけて来た人も、そこで食い留められ、吸い寄せられて、押す、踏む、倒れる、泣く、叫ぶ、喧嘩ならぬところに喧嘩以上の動揺の起ることは免(まぬが)れないのであります。
 喧嘩の起りはたった一人の仕業(しわざ)らしいが、その及ぼすところが怖ろしいと、心あるものはそれを憂えていました。
 ここで青地錦の袋へ入れた刀を口に啣(くわ)えて、裸体(はだか)で荒れ狂っている片腕の男ががんりきの百蔵であることは申すまでもありません。
 百蔵一人がエライわけではないけれど、百蔵一人のために大混乱を引起して、その大混乱が阿鼻叫喚(あびきょうかん)の世界に変ろうとする時でありました。肝腎の百蔵はいつのまにか、群衆の頭を踏み越えて、蓆張(むしろば)りの見世物小屋の丸太を伝って屋根から屋根を逃げて行きます。
「野郎、逃がすな」
 それと見た博徒や破落戸(ならずもの)の連中は同じように丸太を足場にして、見世物小屋へ這(は)い上って追っかけました。
 それで下の騒ぎが上へうつったのと、役人たちの取鎮めとが効を奏して、下の方の動揺は鎮まりましたけれども、下の動揺が上へ登った時に、かえってことを一層の見物(みもの)にしてしまいました。
 それは今までこのことの騒ぎが、いったい何に原因するのだかわからずに騒いでいた連中が、仰いで見れば、ともかくもその成行(なりゆき)が見られるようになったからであります。それですから、ことを怖がる女乗物の連中などのほかは、一人もこの場を立去るものがありません。
 がんりきは血塗(ちまみ)れになって、丸太から丸太、蓆(むしろ)から蓆を伝って猿(ましら)のように走って行きます。それが見えたり隠れたり、眼もあやに走ると、そのあとを同じように裸体(はだか)になった荒くれ男が、
「野郎、逃がすな」
と罵(ののし)って、何人となく蛙のように飛びついて行くのですから、その原因と人柄はよくわからないながら、確かに面白い見物(みもの)であることに相違ありません。
 この時分に、短刀を投げ捨ててしまっていたがんりきは、それでも青地錦だけは口に啣(くわ)えて放すことではありませんでした。
 小屋から小屋を飛んで歩いたがんりきは、いつのまにか馬場の桟敷の屋根へ飛び移っていました。
「それ、野郎が桟敷の屋根へ飛んだ」
 蛙のような裸虫(はだかむし)が、桟敷の屋根、桟敷の屋根と言いながら飛びついたけれども、これらの裸虫は、がんりきのやったように手際よく、小屋掛けから桟敷の屋根まで飛びうつることができません。
 彼等は一旦、小屋の尽きたところで飛び下りて、搦手(からめて)から、この桟敷の屋根へのぼり始めました。
「エッサ、エッサ」
 桟敷の柱と屋根とは、みるみる裸虫で鈴なりになってしまいました。
 桟敷の屋根の上をツーと走ったがんりきの百蔵は、正面の馬見所(ばけんじょ)の方へと逃げて行きます。ここは太田筑前守と駒井能登守の両席のあったところで、他の桟敷はここを正面として、長く左右の花道のようになっていました。それですから、ツマリ両花道から追い込んだ捕物を、本舞台で立廻りを見せて、捉まえるか逃がすかという場合にまで展開されてしまったわけです。
 この望外の見物をどうして見残して帰れるものか。流鏑馬の競技があまり上品に取り行われて、期待したほどの興味を齎(もたら)さなかったのを飽かず思っていた大向うは、これで充分に溜飲(りゅういん)を下げようとするのであります。
 沈んだ日暮とはいうものの、白根(しらね)の方へ夕陽の光がひときわ赤く夕焼をこしらえて、この桟敷の屋根へ金箭(きんせん)を射るようにさしかけていましたから、下の広場から見物するにはまだ充分の光でありました。ことに夕暮の色は、この活劇の書割(かきわり)を一層濃いものにしたから、白昼に見るよりは凄い舞台面をこしらえて、登場の裸虫どものエッサエッサと言う声も、物凄いやら、勇ましいやら。
 これから屋敷へ帰ろうとした神尾主膳もまた、この騒ぎを見物しないわけにはゆきません。主膳はその一類の者と共に馬場の下から、桟敷の上の舞台面を見上げているうちに、何に気がついたか、面(かお)を顰(しか)めて慌(あわただ)しく左右を顧み、
「小森殿、小森殿」
と呼びました。
 エッサエッサという裸虫は両方から取詰めて、がんりきの百蔵は、正面をきって彼等を待ち受けるよりほかは身動きのならぬ立場に至ってしまいました。右の方は八幡宮の屋根までは距離が遠いし、前は馬場、後ろは控えの小屋、どちらへ向いても人が充満しきっています。
「野郎」
 裸虫(はだかむし)が一匹、飛びつきました。
「何をしやがる」
とがんりきは左の拳を固めて、眼と鼻の間を突くと、裸虫が仰向けに桟敷の上から突き落されました。
「この野郎」
 つづいて飛びかかる裸虫、般若(はんにゃ)の面(めん)を背中に彫(ほ)りかけてある裸虫。
「手前(てめえ)もか」
 がんりきは平手でピシャリと横面(よこづら)を撲(なぐ)っておいて、足を飛ばして腹のところを蹴ると、これも真逆(まっさか)さまに転げ落ちる。
「野郎」
 第三の裸虫。
「ふざけやがるな」
 第四の裸虫。
「この野郎」
 第五の裸虫。
「野郎、野郎」
 第六の裸虫とそれ以下の裸虫。
 屋根の上の裸虫は、おたがいにとって勝手でもあり不勝手でもありました。捉(つか)まえどころのないことは、敵にとって利益であれば、味方にとっても同じく利益であるように、味方にとって不利益な時は、敵にとっても不利益であります。
 ことに、片腕の無いがんりきの百は、片腕が無いだけ、それだけ捉まえどころが少ないわけであります。がんりきの立場から言えば、取組ませては万事休するのですから、その敏捷な身体のこなしと、自由自在な一本の腕を以て、敵に組ませないうちに突き落してしまうに限るのであって、がんりきはよくその策戦に成功しました。
 青地錦に包んだ長い物だけは、抜く暇がなかったか抜かない方が勝手であったのか、がんりきの百は、その紐を口に啣(くわ)えたままで、それを以て自分を守ろうとしないで、身を以てその袋を守ろうとするもののように見えます。
 寄せて来た裸虫も、がんりきを取って押える目的と、一つにはその青地錦を引奪(ひったく)ろうとする目的と二つがあるように見えました。その二つはいずれも成功しないで、大の裸虫が、ズドンバタンと高いところから突き落されたり、尻餅を搗(つ)いてそのままウォーターシュートをするように下へ辷(すべ)り落ちてギャッと言うものもありました。
 もどかしがってこの屋根の上の組んずほぐれつの活劇を見ていた神尾主膳の許へ、小森蓮蔵が弓矢を携えてやって来ました。
 小森は流鏑馬の時の姿ではなく、羽織は着ないで袴だけつけて、やはり白重籐(しろしげとう)の弓に中黒の矢二筋を添えてやって来ました。
 小森を迎えに行った侍がそのあとから、二十四差した箙(えびら)を持ってついて来ました。
「小森殿、早う」
と神尾主膳が招きました。
「何事でござる」
「小森殿、大儀ながら、あの悪者を仕留めてもらいたい」
 神尾に言われて、屋根の上の騒ぎを見ていた小森の眼には、やや迷惑の色がかかりました。
「いったい、あれは何事でござる」
「あの中での悪者は、あれあの袋に包んだ太刀を持っているその片腕の無い奴がそれじゃ、察するにあの太刀を奪い取って逃げようとするのを、大勢に追いつめられて、逃げ場を失ったものと見ゆる。しかし、片腕ながら、大勢を相手にひるまぬところは面憎(つらにく)き奴、ここから遠矢にかけて射て落し、大勢の難儀を救うてやりたいものじゃ」
「確(しか)と左様でござるか、あの真中に立ちはだかった一人が、確かに悪者でござりまするかな」
 小森は念を押しました。
「確と左様、あの悪者を射て落せば事は落着する、万一、このままで同類が加勢すると容易ならぬ騒動になる」
「しからば仰せに従い、あれを一矢仕(つかまつ)ろう。しかし神尾殿、あの通り組んずほぐれつの中では覘(ねら)いは至極(しごく)困難致す、足を傷つけて下へ落し、命は助けておきたいと存ずるが、一図(いちず)にそうもなり兼ねる、万一、一矢であの者の息の根を止めても後日の難儀はござるまいか」
「それは念には及び申さぬ、なまじ斟酌(しんしゃく)して射損ずるよりは、いささかも遠慮せず一矢に射落し候え」
「しからば、仰せの通りに仕る」
「命があってはかえって後日の面倒、ものの見事に射殺(いころ)して苦しうない、あとの責めは拙者が引受ける」
「しからば」
 小森蓮蔵は片肌を脱いで、白重籐(しろしげとう)の弓に中黒の矢を番(つが)えました。
「卑怯だ、卑怯だ」
という声がこの時、周囲の群集の中の誰からともなく起って、
「まだどっちがどうなんだかわからねえんだ、それを無暗に遠矢にかけるのは卑怯だ、もうちっとばかり待てやい、これからの立廻りが面白いんだ」
 やはり誰ともなく叫ぶ声であります。それには頓着なく小森蓮蔵は、弓をキリキリと満月のように引き絞って覘いをつけた的は、屋根の上のがんりきの百であります。
 小森は弓を満月の如く引き絞りましたけれども、組んずほぐれつの間に、がんりきだけへ矢先を向けることがむずかしい。ほかのやつらへは怪我をさせないで、がんりき一人を射て落そうとするために、覘いに時間を要するらしい。
 その間に、見物はようやく不穏の色を以て、小森の弓勢(ゆんぜい)を眺めるようになりました。
「なにも、ああやって、飛道具を用いるまでのことはなかろうじゃねえか、悪い者なら行って引括(ひっくく)って来るがよかろうじゃねえか、役人が手を下(くだ)すまでのことがなけりゃあ、あいつらに任せておいたらよかりそうなものじゃねえか、何が何だかわからねえうちに射殺(いころ)してしまおうというのは、あんまり乱暴だろうじゃねえか、第一、今日は八幡様へ流鏑馬の奉納、その日に神様の前で血を流すというのは不吉だろうじゃねえか、野郎どもは裸体で喧嘩をしているのに、それを弓矢であしらうというのは卑怯だろうじゃねえか」というような考えが誰の胸にもいっぱいになったから、それで穏かならぬ色を以て、神尾一派の者と小森の矢先とを眺めました。
「よせやい、よせよせ、弓なんぞよしやがれ」
と遠くから罵るものもありました。
「撲(なぐ)れ撲れ」
という者もありました。
 見物は、もとより、屋根の上の騒ぎが何に原因して起り、ドチラが善いのか悪いのかわかってはいないけれども、それを遠矢にかけようという大人げない武士たちのやり方には、満足することができないのであります。そこで人気は険悪になって罵詈悪口(ばりあっこう)が湧いて出ました。しかしまだ石を降らしたり、土を投げたりするところまでは行きませんでしたけれども、小森の覘(ねら)いが容易に定まらないのを痛快がって囃(はや)し立てました。
 神尾主膳らは、いっかな屈せず、凄い目をして、ややもすれば暴動をしそうな、左右の群集を睨めていました。ともかくもその威勢で群集は圧(おさ)えられています。

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