大菩薩峠
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著者名:中里介山 

「与八、お前は貧乏に生れて、棄児にされたその運命を恨んではいけないぞ、その運命というものが、お前を教育する恩人だということを忘れちゃいけないぞ、わしがこうして長年の病気を、人は不幸だと思うけれども、わしにとってはこの病気によって教育されたことが大きい、それと同じこと、人間がよくなる、悪くなるということは、物があり余って、立派な親、師匠がついているいないということではないぞ、貧乏はこの世界の最もよい教師だということを忘れるなよ」
と言って、慰め励まされたその言葉が、今し耳の底でガンガン鳴り出して来ました。
 その当座は、大先生のおっしゃることは無条件で拝伏して聞いていた。無論、大先生のおっしゃることなどが、自分の頭で理解のつく限りではないから、ただ有難くお聞き申していただけだが、それが今日になって、ありありと出て来て、実際の手引をして下さるとは夢にも思っていなかった。
「貧乏は、この世界の最もよい教師だということを忘れるなよ」
 してみると、自分の貧乏は苦にならない。いや、いっそこの貧乏が郁太郎様にもよい教師――果して、そういうものか知ら――どうもわからないが、大先生のおっしゃるお言葉にムダがあろうとは思われない。してみると、教育のために自分たちは最も恵まれていればとて、不足の身ではない。そういうようなことを、与八は考えて安心しようとしましたが、一面には、自分の頭に余り過ぎて考えられないものですから、その度毎に、痴鈍な自分の頭脳(あたま)を振って、一も二も昔のことを考え出し、大先生のおっしゃったお言葉の節々(ふしぶし)を思い起し、ゆっくり考えて、考え抜いてみようと与八が覚悟をきめました。

         七十七

 さて大菩薩峠「山科の巻」はこれを以て了(おわ)りとします。念のため、本巻に現われた人の名と、その所在の地名とをここに挙げてみます。

        ┌─宇治山田の米友
        ├─不破の関守氏
山科新居────┼─弁信法師
        ├─お銀様
        └─がんりきの百蔵
        ┌─芸妓福松
福井より近江路─┤
        └─宇津木兵馬
        ┌─神尾主膳
根岸侘住居(ねぎしわびずまい)───┼─ビタ助
        └─お絹
        ┌─机竜之助
京洛市中────┼─南条力
        ├─五十嵐甲子雄
        └─轟源松
        ┌─与八
甲州有野村───┤
        └─郁太郎

等でありまして、裏面或いは側面に動く人名、或いは新たに点出された人間としては、月心院内、門番の娘と、怨霊(おんりょう)の美僧美女、目明しの文吉、斎藤一、福井の好学青年、近藤勇、勝海舟の父、藤原の伊太夫、鬼頭天王の尼、村正どん、島原の舞子、重清と朝霧、与八の周囲の民衆と子供、動物としてはグレートデン、庫裡(くり)の猫の登場等々であります。
 さてまた、従来引きつづいての重要な登場をつとめていた人々で、本篇に現わるべくして現われなかったものの所在を考えてみると、
        ┌─駒井甚三郎
        ├─お松
        ├─七兵衛
        ├─お喜代
        ├─田山白雲
海洋の上────┼─柳田平治
        ├─ムク犬
        ├─清澄の茂太郎
        ├─ウスノロ氏
        ├─兵部の娘
        ├─金椎(キンツイ)
        └─無名丸とその乗組員
        ┌─藤原伊太夫
        ├─お角
関西旅中────┼─道庵先生
        ├─お雪ちゃん
        └─加藤伊都丸(かとういつまる)
        ┌─銀杏加藤(ぎんなんかとう)の奥方
清洲城下────┤
        └─宇治山田の米友
        ┌─青嵐居士
胆吹山─────┤
        └─胆吹王国に集まる人々
 右の外、点出せられた人物としては、金茶金十郎、のろま清次、新撰組の人々、よたとん、木口勘兵衛、安直、デモ倉、プロ亀、築地異人館の誰々、仙台の仏兵助、ファッショイ連、女軽業の一座、等々。
 地理の区域は、現在の日本の東海東山の両道から、北陸の一部、北は陸奥に及び、畿内の中心、いわゆる日本アルプスの地帯が活躍の壇場になって来たが、海の方は太平洋の真中にまで及んでいる。
 この「山科の巻」の稿を起すの日時は昭和十五年の九月十日――稿を了るの日は同年十月十六日。これを大菩薩峠全体から見ると、起稿は明治四十五年、著者二十八歳の時、本年即ち昭和十五年より、またまさに二十八年の過去にあり、最初の発表はそれより一年後の大正二年。分量は前巻にも申す通り、開巻「甲源一刀流の巻」よりこの「山科の巻」に至るまで二十六冊として一万頁に上り、文字無慮五百万、世界第一の長篇小説であることは変らない。読者は倦(う)むとも著者は倦まない、精力の自信も変らない。

今や世界全体が空前の戦国状態に落ちている。日本に於ても内政的に新体制のことが考えられている。わが大菩薩峠も、形式として新しく充実した出直しをしなければなるまい。




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