大菩薩峠
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著者名:中里介山 

 島田虎之助が当時での剣術ということは、神尾主膳も聞いて知ってはいるが、その島田の虎も、勝のおやじにかかっては、いやはや――しかしこんなに書きなぐるのは表面で、内心は勝のおやじも、たしかに島田に敬服したればこそ、この男を、悴(せがれ)の師匠に見立てて、みっちり修行をさせたのだ。そういう厳粛な方面は、この自叙伝には書いてないが、そこが、おやじの親心で、悴のためを思うことは、一時気違いと言われたほどだから、表面の磊落(らいらく)ばかりを見てはいけない。この馬鹿親爺の息子が、今では徳川の天下を背負って立とうというのは、この親爺の細心な方面と、この島田の虎の仕込みのあたりを、別の頭と眼で見直さなければならない!
 おれなんぞは――と神尾は、いつも身に引きくらべて見る。それはこの自叙伝が、雰囲気から言っても、どうらくから言っても、神尾の身に引きくらべて読むに最も都合よく出来ている――おれなんぞも、武術の方は、いい師匠を取って、相当に仕込まれたのだが、親爺がこんな馬鹿者でなかったためにしくじった。虎のような名剣師に就かなかったのが、まあ残念といえば残念のようなものだ。江戸者に生れて、身をあやまるも、身を立つるも、ほんの皮一重のものだよ――おれに子供でもあったらば……
 神尾主膳も、こんなように娑婆(しゃば)っ気(け)にまで誘発されて、しばらく三ツ眼を休めて考えている時、
「あなた、何を読んでらっしゃるの」
 不意に隔ての襖(ふすま)をあけて、スラリとそこへ立っているのは、今日は姥桜(うばざくら)に水の滴るような丸髷姿(まるまげすがた)のお絹でありました。

         七十一

 襖越しに突立ったままで、嫣然(にっこり)として、
「あなた、何を読んでらっしゃるの」
 ずいぶん、なめた行儀であるけれども、神尾にはそれがおこれない。ビタにしたように、無雑作(むぞうさ)にはこの女が扱えない。
「うむ、なに、その、ちっとばかり読んでいるところだよ」
 何を読んでいるのかと、これ以上はお絹が突っこまない。何を読もうとこの女には、読書というものが、あまり頭にない。
「ねえ、あなた――」
と、お絹が甘ったれた口調で言いました。甘ったれた口調ではない、これが本来この女の本調子なのですが、これを聞くと、神尾の血がグッと下って来る。
 突立ったままの大丸髷で、だらしのない立ち姿をしながら、「ねえ、あなた――」それを神尾がおこれない。
 こんななめきった行儀をされても、こんな甘ったるい言葉づかいをされても、つむじ曲りの神尾主膳が、どうしても腹を立つ気になれないのは、今にはじまったことではないのです。これが昨今になると、一層、身にこたえて来たようで歯痒(はがゆ)い。
 この女だけが、親爺の残してくれた唯一の遺産だ、いつも、神尾がこの女にさわると、むらむらとそれを受身にとって来る。この女は父の寵者(おもいもの)であった、父のお妾(めかけ)であった。今日となっては、父祖以来残された財産とては何一つ身についたものはない、いや、財産だけではない、父の代から出入りの恩顧を受けたという者共が、誰ひとり寄りつきもしないのに、この女だけが、自分の影身についていてくれる。忠義でかしずいていてくれるわけでもなかろう、切っても切れない腐れ縁の一つかなにか知らないが、それにしても、広い世界に自分の身うちといっては、考えてみると、この女ばっかりだったなあ。
 神尾主膳はこの女を母とは、どうしても思えないが、姉とは受取れる。姉としては、いかさまふしだらな、甘ったる過ぎた姉ではあるが、姉の気分はいくらか滲(にじ)んでいるというものだ。姉の愛といったようなものを幾分ながら漂わせて、これを尊敬して見るという立場ではない。なあに――親爺の寵者(おもいもの)だ、親爺の召使の一人だから、自分にも召使の分限だ――という主人気取りは多分に残されてあるが、さて、この女に対すると、どうも一目を置きたがる。我儘(わがまま)一ぱいを仕つくしても、この女がおこらない、姉気取りで自分を抱擁しようとするところに圧迫を感じながらも、よし、思う存分にこの女を虐待しても、女がおこらないし、また自分が、どんなに他の女狂いを働いてみたところで、この女は笑っている。姉として、自分の放蕩(ほうとう)を叱るようなことはついぞ一度もなかったが、いろいろの女狂いも、こっちが飽きたり、向うが逃げたりしているうちに、最後までこの女は、自分の面倒を見る。自分をあやなしきって、切れも離れもしないところが乙だ。
 妙なもので、こんな我儘一ぱいに振舞える相手だが、自分が女狂いをする時は忘れてしまっているのに、この女が、ちょっと外へ出たり、また外泊なんぞをした場合には、神尾の心頭が異様に乱れ出して来るのである。それが近ごろは、だんだん嵩(こう)じて来た。お絹が水性(みずしょう)であることは万々承知で出してやりながら、あとに残された時に、神尾の胸が怪しく騒ぎ出して来るのです。
 なあに、親爺の寵者で、うちの召使なんだ、おれのいろではあるまいし、おれもまずほかに女がいないではあるまいし、あいつに惚(ほ)れてもなんでもいるんではないが、いなくなると心がいらいらする、焦(じ)れて焦れてたまらない、しまいには血の気が頭に上って、「浮気者にも程がある、明朝帰って来たらただは置かぬぞ」という、物すごい気分にまで上ずって来ることもあるが、さて、朝になって帰って来て、「ねえ、あなた」なんぞとやられると、神尾の頭へ上った血が不思議にグッと下ってしまう。骨までぐんにゃりとされるような重しがのしかかって、神尾は自分ながら、その甘ったるさ加減に腹が立つ。帰ったらブチのめしてもくれよう、次第によっては、親爺になり代って刀の錆(さび)にまでと意気ごんだものが、だらしない格好で、すましこんで、「ねえ、あなた――」とやられると、自分はどうにもはや、昔の「お坊ちゃま」にされてしまう。硬(かた)くて歯が立たないならいいが、搗(つ)きたての餅のように軟らか過ぎて歯が立たない。その度毎に、神尾は自分を歯痒がったり、腑甲斐(ふがい)ないと自奮してみたりする気になるが、さて面と向うと、どうにもならないのが癪(しゃく)だ。
「何だい――」
と受答え、自分の声は苦りきったつもりでも、いつしか、甘ったるい、舌たるいものになっている。
 癪だ。
 お絹は、神尾のそんな気分を知るや知らずや、
「あのねえ、駒井能登守様――あの方、このごろ、どうしていらっしゃるでしょう、御様子をお聞きにならない?」
「うむ、駒井か」
と神尾が、こうと言われて何となく胸を圧(お)されるように思いました。ここで突然、駒井の名を聞くことは甘ったるいことではない。忘れていた古創(ふるきず)が不意に痛み出して来たような思いで、
「駒井能登か、知らんなあ、その後、どうしているかなあ」
「あのお方をあやまらせたのは、あなたの罪ね」
「いいや、そんなこたあないよ、駒井自身の越度(おちど)だから、どうも仕方がない」
「でも、あなたがいて、あんなになさらなければ、駒井様は御無事でしたに違いないわ」
「うむ、おれのためじゃないよ、女のためだよ、駒井の奴め、あれで女にのろいもんだから、そこに隙(すき)があったんだ。隙のあったところを相手にやられたのは、相手の罪じゃない、隙をこしらえた奴の罪なんだ」
「どちらがどうか存じませんが、およそ、隙のない人間てありませんからね。駒井様の隙なんかは、同情して上げてよい隙なんでしょう。過ぎたことは仕方がありませんね。それにしてもあの方、今どうしていらっしゃるでしょう」
「イヤに今日に限って駒井に気を持つじゃないか」
「少し伺いたいことがありますから」
「ふむ、いまさら駒井に、何を聞きたい」
「あの方、たいそう洋学がお出来になるんですってね」
「うむ、そのことか。洋学、あれは出来るよ、あれが表芸なんだ、洋学だけは相当にやれると自他ともに許していたよ」
「惜しいわね」
「何が惜しい」
「それほど洋学がお出来になるのに」
「洋学なんぞは、毛唐の学問だ」
と、神尾が取って投げるように言いました。洋学が毛唐の学問であることは、神尾に聞かなくても、お絹でさえよくわかっている。
「惜しいわね、それほど洋学がお出来になるのに」
「何が惜しいんだよ」
「でも、当節、洋学がお出来になれば、お金儲(かねもう)けはお望み次第なのに」
「洋学が出来れば金儲けは望み次第? それで駒井のいないのが、宝の持腐れだというコケ惜しみか」
「そうよ、わたし、このごろ、つくづくそう思いますわ、もし、わたしに少しでも横文字が読め、達者に異人さんと話ができたら、どんなにお金儲けができますか、ちょっとやそっとのお金儲けではございませんのよ、何十万というお金儲け……」
「ふん、毛唐だって、そう甘い奴ばかりはあるまい、日本の金と土を取りたがって来ている奴等だ、洋学が出来たからというて、ペロが喋(しゃべ)れるからといって、お前が甘く見るほど相手は馬鹿でない」
「ところが、あなた、それが違うんですよ、日本人と見ると、むやみにお金を蒔(ま)きたがっている異人さんがあるから妙じゃありませんか、それも、相手次第によっては何万とまとまったお金を未練会釈なしに融通してくれる異人さんを、わたしはずいぶん知っていますよ」
「それを知っているなら、お前、遠慮なく拝借をしといたらいいじゃないか」
「わたしでは駄目、女では信用がないから」
「では、おれの名前でよろしければ貸して上げてもいい」
「あなたではなお駄目――駒井様あたりだと確かなものなんですがね」
「ふーむ、えらく踏み倒されたものだな――おれと駒井の相場がそれほど違うかな」
「違いますとも、あなたなんかはさかさに振っても鼻血も出やしないけれど、駒井様なら洋学もお出来になるし」
「洋学が出来さえすれば、毛唐は誰にでも金を貸すのか」
「洋学が出来て、御身分の保証がおありなされば、何万、何十万、何百万とまとまったお金を、右から左へ貸してくれますのよ」
「それはまた桁(けた)が大きいなあ、何万はいいが、何百万は事が大きいぞ」
「まあ、お聞きなさい、決して夢じゃありませんから」
 ここまで、立ち姿、襖越(ふすまご)しで話しかけていたお絹が、ずかずかと入りこんで来て、神尾の火鉢の前へ坐り、無雑作に白い手をさしのべて神尾の拳(こぶし)にさわるほど、親密に意気ごんで話を持ち込みました。

         七十二

 お絹は白い手を火鉢の前にかざして、神尾の手をなぶるような仕草をしながら、
「ねえ、あなた、小栗上野様(おぐりこうずけさま)を御存じ?」
「何だい、また人別(にんべつ)が変って来たな、今は駒井能登の戸籍しらべだが、今度は小栗上野と変って来た!」
「小栗様、御存じなの?」
「知ってるよ。知ってると言ったところで、親密という間柄ではないが、若い時はおたがいに見知り越しだ」
「では、もう一つ、勝安房様(かつあわさま)を御存じ?」
「勝――それは知らん」
「小栗上野様と、勝安房様と、どっちがおえらいの?」
「小栗と、勝と、どっちがえらい? とわしに聞くのか。変な質問を出したもんだなあ。いったい、お前が今日に限って、そんな柄にもないことを聞き出す、その了見方から聞きたい」
「まあ、いいから、わたしの質問だけに答えて頂戴――わけはあとでお話しするから。ねえ、勝様と小栗様と、どちらがえらいのですか、それを聞かせて頂戴よう」
「勝がエライか、小栗がエライか、おれはそんなことは知らん、だが、旗本の地位からいうと、二人は比較にならん、小栗は東照権現以来の名家だが、勝というのはドコの馬の骨か、このごろになって漸(ようや)く名が出たばっかりなんだ」
「お家柄は別としましてね、人物はどちらが上なんです」
「そりゃ、わからん、小栗は名家の末だからといって、当人が馬鹿では今の役はつとまるまいし、勝はまた無名のところから成り上ったくらいだから、相当の手腕がある奴だろう」
「同じお旗本のうちでも、その小栗様と、勝様とが、合わないんですってね、小栗様は徳川家を立てようとなさるし、勝様は薩摩と組んで、徳川家をつぶそうとしておいでなさるんですってね」
「そんなことがあるものか、小栗でなくったって、誰だって、旗本で徳川家を立てようとしない奴があるか、勝が薩摩と組んで徳川を潰(つぶ)すなんぞと、誰がお前に言った」
「誰いうとなく、そういった噂(うわさ)が聞えていますのよ、勝は奸物(かんぶつ)ですって」
「勝は奸物? 鰹節(かつおぶし)は乾物という洒落(しゃれ)だろう、勝だってなんだって、徳川家の禄を食(は)みながら、徳川家の不為(ふため)をはかる奴なんぞがあろうはずはないが、そこは時勢だ、傾き切った屋台骨を踏まえている身になってみると、いろいろの誹謗(ひぼう)が出るのはやむを得まい、井伊掃部頭(いいかもんのかみ)を見てもわかることだわな」
「それは、そうでしょう。では小栗様は小栗様、勝様は勝様として置いて、いったい、今の徳川様の天下をねらっている相手は誰なの」
「それは、薩摩と長州よ」
「そうなんでしょう、その薩摩と長州が、つまり徳川様の天下を倒そうとなさるんでしょう、それをそうはさせないと、小栗様や勝様が力んでいらっしゃるのですわね」
「勝と小栗に限ったことではないが、まず旗本では、あいつらが代表している」
「つまりは、薩摩や長州を相手に戦争ということになるわね。戦(いくさ)となると、兵隊さんがいります、その兵隊さんをたくさんに持った方が勝ち、兵隊さんをたくさんに持って、調練をみっちりとさせ、鉄砲や軍艦をふんだんに持った方が勝ち、それをしなければ、これからの戦争には勝てないんですってね。そこで、先立つものはやっぱりお金――そのお金が、上方にも、お江戸にも、今はないのですってね。お江戸では、権現様以来蓄えた莫大なお財(たから)も、もう使い果してしまったし、上方でも、どのお大名も内緒はみんな火の車。ですから、人には不足はないが、お金の戦争。そこへ行くと、異人さんが途方もないお金を持っている、そのお金を貸したがっている、そこで、つまりは異人さんを味方につけた方が勝つ、という理窟になるのじゃない?」
「さすがに、築地通いをしているだけに、見識が広大になったものだ――金ばかりじゃ戦はできないよ、第一、士気というものが弛(ゆる)んでいた日にゃ戦争はできない、その次が兵糧、その次が金だ」
「まあお聞きなさい、異人さんはね、そこのところへ目をつけて、日本へお金を貸したがってるんですとさ。それでね、上方の方へはイギリスという国が金主につき、お江戸の方へはフランスという国が金主について、お金をドンドン貸出して戦(いくさ)をさせることになっているんですとさ」
「ばかげた噂だ、毛唐を金主に頼めば、毛唐に頭が上らなくなる、日本を抵当にして、一六勝負を争うようなもんだから、どんなに貧乏したって、毛唐の金で戦ができるか」
「でも、お金は借りたって、返しさえすれば、国を渡さなくても済むんでしょう、貸すというものはどんどん借りて置いて、済(な)せる時に済せばいいじゃないの、戦に勝つ見込みさえつけば、ちっとは高利の金を借りたって直ぐに埋まるでしょう。もし負ければ借りっぱなし、負けた方から取ろうったって、それは貸した方の無理よ。戦争に金貸しをしようというくらいの異人は、太っ腹の山師なんでしょう、そのくらいのあきらめはついていないはずはないから、こんな時節には、貸そうというものを借りないのは嘘よ。で、上方でも、ずいぶんイギリスという国から借りる相談が出来ているという話ですし、こちらでも、小栗様なんぞは、このごろ、六百万両というお金をフランスから借りることになったんですってね、これはごくごく内密(ないしょ)なんですけれども、わたしは確かな筋から聞きました」
「ナニ、小栗がフランスから六百万両を借りる!」
 神尾は複雑な意味で、驚異の叫びを立てましたけれども、お絹の頭は単純な貸借関係と、金額の数字の多少だけのもの。
「ここで、あなた、駒井様あたりがその間に立って、異人さんと口を利(き)くには打ってつけのお方じゃありませんか、あんなお方が一口立会(たちあい)をなされば、あなた、六百万の一割のさやをいただいても六十万両――万事その伝なんですから、異人さん相手に大物をこなしさえすれば、濡手(ぬれて)で粟(あわ)の手数料――うまく当れば、あなた江戸一、三井や、鴻池を凌(しの)ぐ長者にもなれようというのは、今の時勢を措(お)いてはありません。それを知りつつ、洋学が出来ないばっかりで、宝の庫に入りながら、指を銜(くわ)えて、みすみす儲け口を取逃がしてしまうのが残念でなりません」

         七十三

 お絹は今日は、これだけのことを話して帰りました。
 洋学の出来ない恨みを、おれに向って晴らしに来たようなものだが、それはたしかにお門違いだ、当然、駒井甚三郎のところへ持って行かねばならぬものを、戸惑いしておれのところへ来た。
 だが、考えてみると、女というやつの考え方は、今に始めぬことだが浅どいものだ。洋学の知識というものも、畢竟(ひっきょう)ずるに、金を儲けるか儲けないかのために必要なので、それ以外には、てんであの女の頭にない。おれは洋学は嫌いで、駒井の奴はドコまでも好かない奴だが、まさか駒井だって、才取(さいと)りをするために洋学に志したのではあるまい。あの女は、金にさえなれば洋妾(ラシャメン)にもなり兼ねない女なんだから、駒井や我輩も同様に、学問そのものを利用して、大きな才取りができれば、それが専(もっぱ)ら功名だと心得ている。実にタワイないものだ、浅ましいものだ。だが、そのタワイのない、浅ましいところが、あいつの身上で、あれが、なまじい賢婦ぶりをし、烈女気取りをはじめたら、もう取るところはない。あれはあれでいいんだが、さて、これはこれでいいのか。
 今、あいつが、附けたりで口走って行ったところに、聞捨てのならないものがある。聞捨てにすべきところが、聞捨てにならない。本末も、始終も、見境のない女のことだから、その本論は憫笑すべく、その附けたりは傾聴すべしか。というのは、ああいう女が無心で受けて来る巷(ちまた)の声というやつに、案外、時代の政治が反映して来るものだ。
 小栗と、勝と、どっちがエライ。そんなことは鼻垂小僧のする質問だが、勝が薩摩と組んで、主家の徳川を倒そうとしている。小栗が金を外国から借りて、宗家のために戦おうとしている。この風聞は聞きのがせないぞ、たとえ市(まち)の偶語とはいえ、その拠(よ)るところは根が深そうだ。
 勝が奸物(かんぶつ)だという評判は、つまり彼が外交に苦心しているところなんだろう。小栗が軍用金を集めるということは、彼が主戦論の代表だということに、そのままそっくり受取れる。世が末になると、その二派はいつの時代にもあることだ。和戦両様の派が対立して、内輪喧嘩を内攻する。支那の宋の世の滅びた時の朝廷の内外が、つまりその鮮かな一例だ。おれは勝を一概に奸物と見たくないが、小栗の腹には無条件で納得する。彼の家は家康以来の名家で、いつも戦(いくさ)の時は一番槍を他に譲らぬというところから、家康の口から、又一番、又一番槍はその方か、又一、又一の渾名(あだな)が本名となった祖先の勇武の血をついでいる男だが、現今は勘定奉行をつとめていると聞いた。勘定奉行は重任だ、大蔵卿だからな。公卿(くげ)の大蔵卿は名前倒れの看板だが、傾きかけた幕府の大台所を一手に賄(まかな)う役目は重いよ、辛いよ。小(こ)っ旗本(ぱたもと)の家にしてからが、勘定方は辛いぞ。ドコの大名も困っている、五万石、十万石の大名の家の台所をあずかる身も辛いが、八百万石の天下取りの台所の傾きかかったのを支えるというのは大抵じゃない、少なくともおれにはやれない。
 小栗はこれを引受けて、これから、いざという時の軍用金、重々容易な苦心であるまいことも察するよ。金がなければ戦はできない、勿論のことだ、だが金だけで戦ができるものじゃない。第一、士気が振わなければ戦はできない、それから兵糧、それから金、と今も女に言って聞かせたのだが、さて実際、今の徳川に当てハメて見ると、この条件が叶っているかいないか、と念を押すまでもない、士気といったらごらんの通り、恥かしながらこの神尾主膳の如きが代表の一人かも知れぬ。食糧の点も、諸国の大名との交通に差しさわりがなく、幕下の知行が今のままなら何のことはあるまいけれども、いざ戦争となれば、天下が乱れて諸道が塞がる、江戸そのものの食糧が上ったりになりはしないか。金ときた日には――徳川家康は金を持っていたが、豊臣秀吉も金を持っていたぞ、天下を取る奴はみんな金を持っていた。金持がキッと天下を取るというわけではないが、金のない奴には大仕事はできない。いやいや大仕事をする奴は金運というものが向いて来るものなんだ、時運が盛んで、英気が溢(あふ)れていると、苦心しなくとも金なんぞは向うから集まって来るが、落ち目になると、ある金も逃げて行くよ。
 おれも貧乏だが、徳川の宗家も貧乏だよ。その傾きかかった宗家を支えて、戦争の一つもしようというには、先立つものは金だ。金だと言ったところで、生やさしいものではない。勝のおやじや、おれなんぞは、千三(せんみつ)をやっても、質草をはたいても、やりくりはつこうというものだが、宗家の台所となるとそうはいかない。天下を二つにわけて、最期(さいご)の合戦に堪えるだけの用意――それには毛唐の財布を借りなければいかないのか。
 まさか、小栗だって、国というものを抵当に置いて、毛唐から借金するまでに血迷いはすまい。毛唐の力を借りて徳川を立ててみたところで、日本という国が毛唐の下風に立つようになってはおしまいだ。あの女の言うところによると、幕府の方の後ろの金方はフランス、長州薩摩の方はイギリスだとのことだが、長州や薩摩だって同様だ、徳川が憎いからといって、毛唐に国を売るような振舞はすまい。
 だが、意地となると、どういう番狂わせが出来るか知れたものでない。今時きっての知恵者だという勝安房は、いったい、どういう考えを持っているのか。おれは一概にあいつを奸物だとは見たくないのだ。彼の本意を聞いてみたいものではないか。
 且つまた、小栗のはらがドコまで据わっているか、これも一番見届けたいものではないか。
 その他、いよいよという時に頼みになる奴は、ドコの誰で、どうしている。
 神尾が、しばし眼をつぶって沈思の体(てい)であったが、やがて開いた眼を落すと、読みさした「夢酔独言」の上に落ちて来る。
 以前ほど気乗りはしないが、とにかく、もうあと少しだ、読んでしまってみてやろうという気になって、丁をめくってみましたが、もはや心が全く書物の上から移ったようで、それでも、眼はその文字の上を惰力的に追っている。

         七十四

 神尾主膳は、せっかく興味をもって読みつづいていた勝の親父の自叙伝を、さきにはビタが来て妨げ、今はお絹が来て中断されたが、さきのビタは問題にならず、お絹の話して行った言句が気になって、これからは、うつろに何枚かの丁を飛ばして行ったが、ふと、しまい際へ来て、女、という文字に釣り込まれて読みついでみると、
「オレガ山口ニ居タ時分ダガ、或女ニホレテ困ッタコトガアッタガ、ソノ時ニ、オレガ女房ガソノ女ヲ貰ッテヤロウト云イオルカラ、頼ンダラバ、私ヘ暇ヲ呉レトイウカラ、ソレハナゼダト云ッタラ、女ノウチヘ私ガ参ッテ、是非トモ貰イマスカラ、先モ武士ダカラ、挨拶ガ悪イト、私ガ死ンデモライマスカラ、ト云ッタ、ソノ時ニ短刀ヲ女房ヘ渡シタガ、今晩参ッテキット連レテ来ルト云ウカラ、オレハ外ヘ遊ビニ行ッタラバ、南平ニ出先デ出会ッタ故(ゆえ)、何事無シニ咄(はな)シテ居タラバ、南平ガ云ウニハ、勝様ハ女難ノ相ガ厳シイ、心当リハ無イカト尋ネルカラ、右ノ次第ヲ咄シタラバ、ソレハヨクナスッタト云ウカラ、別レテ、又々、関川讃岐トイウ易者ト心易(こころやす)イカラ、通リガカリニ寄ッタラ、アナタハ大変ダ、上レトイウ故、上ヘ通ッタラバ、女難ノコトヲ云イオッテ、今晩ハ剣難ガ有ルガ、人ガ大勢痛ムダロウトテ、心当リハ無イカト尋ネルカラ、初メヨリノコトヲ話シタラバ肝ヲツブシテ、段々深切ニ意見ヲシテクレテ、女房ハ貞実ダト云ッテ、以来ハ情ヲ懸ケテヤレ、トイロイロ云ウカラ、考エテミタラバ、オレガ心得違イダカラ、夕方ウチヘ飛ンデ帰ッタラ、隠居ニ娘ヲ抱カセテ男谷(おたに)ヘヤッテ、女房ハ書置ヲシテウチヲ出ルトコロヘ帰ッテ、ソレカラ漸々(ようよう)止メテ、何事モ無カッタガ、是迄、度々、女房ニモ助ケラレシコトモアッタ、ソレカラハ不便(ふびん)ヲカケテヤッタガ、ソレマデハ一日デモ、オレニ叩カレヌトイウコトハ無カッタ、此ノ四五年、俄(にわ)カニ病身ニナッタモ、ソノセイカモ知レヌト思ウカラ、隠居様ノヨウニシテ置クワ」
 こういうおやじの兄弟も大抵ではないが、細君となるものがことさら思いやられる。亭主の馬鹿に比べてこの女房はエライ、勘弁が届いている――だが、内心ドノくらい、血の涙を呑んだことか。女ではおれもずいぶん馬鹿を尽しただけに、貞婦なる女房というものの有難さがわかって来た。さて、それからは、また頭に入って読みつづくと、
「オレガ隠居スル前年ダカ、吉原ガ焼ケテ、諸方ヘ仮宅ガ出来タ、ソノ時、山ノ宿(しゅく)ノ佐野槌屋ノ二階デ、端場(はしば)ノ息子熊トイウ者ト大喧嘩ヲシタガ、熊ヲ二階カラ下ヘ投ゲ出シテヤッタガ、ソノ時、銭座ノ手代ガ二三人来テ熊ヲ連レテ帰ッタガ、少シ過ギルト三十人バカリ、長鍵デ来テ佐野槌屋ヲ取巻イタカラ、オレガ肌ヲヌイデ、襦袢(じゅばん)一ツデ高モモ立ヲ取ッテ飛ビ出シテ叩キ合ッタガ、三度、二三町追イ返シタソノ時ニ、会所カラ大勢出テ引分ケタガ、ソレカラ山ノ宿デモ、女郎屋一同ニ、客ヲ送ル婆アモ、嬶(かか)アモ、オレガ顔ヲ下カラヨクヨクシオッタ故、何モ間違イガ無カッタ、ソノ時ハ刀ハ二尺五寸ノヲ差シテイタ、山ノ宿中、女郎屋ガ三日戸ヲシメタガ、事無ク済ンダ。
ソノ外、所々ニテノ喧嘩、幾度モアッタガ、タイガイ忘レタ。
浅草市デ、多羅尾七郎三郎ト、男谷忠次郎ト、ソノ外五六人デ行ッタ時ハ、二尺八寸ノ関ノ金光ノ刀ヲサシタガ――ソレニ急ニ七郎三郎ガ誘ッタ故、袴(はかま)ヲハカズニ行ッタカラ、雷門ノ内デ込合ウ故ニ、刀ガ股倉ヘ入ッテ歩カレナカッタガ、押合ッテ行クト、侍ガ多羅尾ノ頭ヲ山椒(さんしょう)ノ摺古木(すりこぎ)デブッタカラ、オレガ押サレナガラ、ソイツノ羽織ヲオサエタラバ、摺古木デマタオレノ肩ヲブチオッタ故、刀ヲ抜コウトシタラ、コジリガツカエタカラ、片ハシカラキリ倒スト大声ヲ上ゲタラバ、通リノ者ガパット散ッタカラ、抜打チニソノ男ノ逃ゲルトコロヲアビセタラバ、間合イガ遠クテ、切先デ背ヲ下マデ切下ゲタカラ、帯ガ切レテ大小懐中物モ残ラズ落シテ逃ゲタガ、ソウスルト伝法院ノ辻番カラ、棒ヲ持ッテ一人出タカラ、二三ベン刀ヲ振リ廻シテヤッタラ、往来ノ者ガ半町バカリ散ッタカラ、大小ト鼻紙入ヲ拾イテ、辻番ノ内ヘ投ゲ込ンダ、ソレカラ直グニ奥山ヘ行ッタ、漸々(ようよう)切先ガ一寸半モカカッタト思ッタ、大勢ノ混ミ合イ場ハ長刀モヨシワルシダト思ッタ、多羅尾ハ禿頭故ニ創(きず)ガツイタ、ソレカラ段々喧嘩ヲシナガラ、両国橋マデ来タガ、ソノ晩ハ何モホカニハ仕事ガナイカラウチヘ帰ッタ。
ソノ外ニモ、イロイロ様々ノコトガ有ッタガ、久シクナルカラ思イ出サレヌ、オレハ一生ノウチニ、無法ノ馬鹿ナコトヲシテ年月ヲ送ッタケレドモ、イマダ天道(てんとう)ノ罰モ当ラヌト見エテ、何事ナク四十二年コウシテイルガ、身内ニ創一ツ受ケタコトガナイ、ソノ外ノ者ハ或ハブチ殺サレ、又ハ行衛ガ知レズ、イロイロノ身ニ成ッタ者ガ数知レヌガ、オレハ好運ダト見エテ、我儘(わがまま)ノシタイ程シテ、小高ノ者ハオレノヨウニ金ヲ遣ッタモノモ無シ、イツモ力(りき)ンデ配下ヲ多クツカッタ、衣類ハタイガイ人ノ着ヌ唐物ソノ外ノ結構ノ物ヲ着テ、甘イモノハ食イ次第ニシテ、一生女郎ハ好キニ買ッテ、十分ノコトヲシテ来タガ、此頃ニナッテ漸々人間ラシク成ッテ、昔ノコトヲ思ウト身ノ毛ガ立ツヨウダ、男タルモノハ決シテオレガ真似(まね)ヲシナイガイイ、孫ヤヒコガ出来タラバ、ヨクヨク此ノ書物ヲ見セテ身ノイマシメニスルガイイ、今ハ書クノモ気恥カシイ、是レトイウモ無学ニシテ、手跡モ漸ク二十余ニナッテ、手前ノ小用ガ出来ルヨウニナッテ、好キ友達モ無ク、悪友バカリト交ッタ故、ヨキコトハ少シモ気ガ附カヌカラ、此様ノ法外ノコトヲ英雄ゴウケツト思ッタ故、皆ナ心得違イシテ、親類父母妻子ニ迄イクラノ苦労ヲ懸ケタカ知レヌ、カンジンノ旦那ヘハ不忠至極ヲシテ、頭取扱モ不断ニ敵対シテ、トウトウ今ノ如クノ身ノ上ニ成ッタ、幸イニ息子ガヨクッテ孝道シテクレ、又娘ガヨクツカエテ、女房ガオレニソムカナイ故ニ、満足デ此年マデ無難ニ通ッタノダ、四十二ニナッテ初メテ人倫ノ道、且ツハ君父ヘ仕エルコト、諸親ヘムツミ、又ハ妻子下人ノ仁愛ノ道ヲ少シ知ッタラ、是迄ノ所行ガオソロシクナッタ、ヨクヨク読ンデ味ウベシ、子ニ、孫ニマデ、アナカシコ。
于時天保十四年寅年初於鶯谷書ス夢酔道人」 これで一巻を読み了(おわ)った時、上野の鐘が、じゃんじゃんと鳴るのを神尾主膳が聞きました。
 上野の鐘がじゃんじゃんと鳴るのは警報ではない、上野のじゃんじゃんは通り物になっているのですが、今日はそのじゃんじゃんが、神尾が耳に事有りげに響いて聞えました。
「覚王院に会おう、そうだ、あの院主を叩いて、ひとつ聞いてみようではないか」
 神尾が突然、巻を叩いて立ち上ったのは、じゃんじゃんの鐘の音につれて、何か急に思い当ったことがあるらしいのです。
 その口の端(は)に現わされたところを聞くと、「覚王院」とある。

         七十五

 その後の与八の生活は、極めて無事でありました。
 無事は安定を意味するので、安定なくして無事があり得ようはずはありません。安定は畢竟(ひっきょう)、土地を基調とするのでありまして、つまり、土地に居ついたということが、人心の安定となるのであります。
 与八は、この土地に居ついた心持になりました。このところ、甲州有野村、富士と白根にかこまれた別天地――ここに於て、わが生涯が居ついたという感じが出ると共に、安定の心が備わりました。そこで、居る時は即ち安心、出づる時は即ち平和であります。そうして土に居ついて働くということが即ち行持(ぎょうじ)で、人に対するということが同時に教育でありました。
 ここに教育というのは、ことさらに定義のある教育ではない。自分に於ては行持、それが他に反映して、教育ともなれば教化ともなるのみで、与八にあっては、教育せんがための教育の何物もないのであります。与八こそは、全く世の謂(い)うところの教育せられない民でありました。彼は棄児(すてご)ですから、家庭の教育というものがありません。机の家へ拾われてから、弾正(だんじょう)の情けで、寺子屋教育のある部分だけを受けさせられたが、その当時の与八は、寺子屋教育の学問をさえ受入れられる素質を欠いておりました。
 ナゼだと言えば、二三、人の子の集まるところへ行くと、拾いっ児だという冷たい指さしが、この男の心を暗くしたのと、天性学問が好きでなかったから、学問の庭へ行くことを怖れ且つ避けました。そこで、主人側でも、むりやりにということをしないで、「なにも、字を知ることが最上の学問ではない、人間、字を知らなくても、字を知る以上の生活ができるものだ」という弾正が、他の人にはわからない警語を添えて、与八を早くから水車番に下ろしたものですから、これを天職として生きて来ただけのものです。その後、字を知らなくてはいけない、字を書かないと恥をかくということを、与八がようやく自覚して来たのは、相当の年になってからですが、その事は自ら言い出せませんから、水車小屋へ入って、囲炉裏(いろり)の灰の上へ、いろは、アイウエオを書いては消し、書いては消しているところを、弾正に認められて、それとなくお手本を与えられたのが、およそ字学というものの最初なのです。そうして、与八が若干の文字、曲りなりに手紙の文書を書いたり、小遣帳(こづかいちょう)をつけられる程度の素養が出来上ったと認められたのですが、これはかつて表面に現わしたことはない。今、こうして、この土地に安定をして、自分の周囲へ子供たちが集まって来るのを見ると、この子供たちを、このままで置けないという気になるのも自然でありました。
 ここに群がる子供たちの多数の親が、教育に無頓着である。そうして、仕事の邪魔になってうるさい場合には、「外へ出て、遊んでこう」と言って子供を追い出す。一時の喧騒から追払いさえすれば、追払われた先では何をしようと、そこまでは考えない、考えていられない。この子供たち――一名餓鬼共の、遊び場を求めて自分のところへ群がって来るを見るにつけて、与八は、この中に善性もあるし、悪性もあるということを、見て取らないわけにはゆきません。
 そこで、これらの餓鬼共の相手になって、これを善導することに、おのずからなる責務を感じ出したのも、与八としては決して無理ではないのです。
 そこで、与八の仕事場が、同時に学校になって行くのも、水いたって渠(みぞ)の成るが如く、極めて自然なものでありました。
 ばくちの真似や、穴一や、わいわい天王や、どうろく神や、わけもわからず色事の身ぶりこわ色などをする少年の多数を教えて、そういうことはさせないようにしたい。それには、別な興味と、教育を与えなければならないということが、指導方針の研究題目となって現われるのも自然の成行きでありました。
 そこで、玩具に代るに手工を以てしました。彼等に材料を与えて、物を構造せしむるの趣味を与えることを以て、邪道淫風から離導しようとする与八の教策は当りました。
 そこで、彼等に、手工を与え、草鞋(わらじ)、草履(ぞうり)の作り方を教えて、手と眼との趣味性を与えると共に、やっぱり文字の教育をも、ゆるがせにしてはならない。
 こんな山村のことですから、よき師匠といわないまでも、村のお寺へ行って和尚さんに教わるものも、そう多くはなし、またお寺まで行く道のり、行きついてみたところで、和尚さんまた必ずしも教育の熱心家とは限らない。碁を打ったり、酒を飲んだり、時としては法事や年会に出かけたりして、子供らの文字のめんどうを見る時間も甚(はなは)だ乏しいと言わなければならない。そして、子供も、寺子屋通いに興味を持つことができない。そこで、文字に遠ざかって、一生を明盲(あきめくら)で暮す運命の子供を多く見るにつけて、たとえ自分の最小の文字の力をでも、この際、彼等に移し植えてやろうという気になったのも、孔子のいわゆる好んで師となるの心ではない。
 そこで、与八は、いろはから、アイウエオ、一二三四の教授方をも兼ねました。
「与八さん、七という字は、ドッチへ曲げるだっけかなア」
 横に一本書いて、縦から書き卸してみたが、途中まで来て、どっちへ曲げていいかわからない、そこで行先をたずねて哀号する子供がある。
「右へ曲げるだよ、右へ」
 ところが、右と左の観念がよくわからない。思いきって左へ曲げてしまって、げんなりした面(かお)でいると、与八が傍へよって来て、手に筆を持添えて、
「そら、右というのは、こっちの方で、左というのは、こっちだよ、おまんまあ食う時、箸(はし)を持つのが右で、茶碗を持つのが左だよ、よく忘れねえで」
「そうかなあ、みんな、いいことう聞いたよ、おまんまあ食う時、箸う持つ方が右で、茶碗を持つ方が左だとよ、いい事う聞いた、みんな忘れんなよ」
 教えられた子供は得意になって、それの新知識を更にまた他に向って移植しようとする。かくして、かりそめにも教育に従事した与八は、他教育と共に、自分を教育せねばならぬ必要を感じました。いわゆる、自ら教育せぬものには、他を教育するの資格がないことを、切実に感得しました。
 そこで与八は、村の有識者――いやしくも自分より以上の智能者であると見ると、機会ある毎(ごと)に就いて学ぶことに、熱心綿密を極めておりました。

         七十六

 与八は、自分の働く周囲が、おのずから学校となることには煩わしさを感じませんでしたが、自分の出て行く先が、偶像となることを深く怖れました。
 与八に対して、一つの信仰が起りかけて来たことは、前に言った通りであります。
 この超経済の奇篤人の行動が、世俗人の目から驚異に見られたあまり、これは木喰上人(もくじきしょうにん)の生れかわりであるの、鳩ヶ谷の三志様であるの、地蔵様の申し子であるの、何神様のお乗りうつりであるのという信仰は、すぐにその隣りへ迷信の祠(ほこら)を築き易(やす)いことになっている。
 与八さんのまわりへ寄れば、気が休まる――なんとなく気分が和(やわ)らぐ――というのはまだいいが、与八さんに頼めば病気がなおる、与八さんの傍へよると難病が落ちる、というようなことになるを、与八は甚しく怖れました。しかし、与八が怖れれば怖れるほど、その信仰なり、迷信なりが、加速度に嵩(こう)じて来る雲行きを、与八は更に怖れました。
 そこで、なるべく出歩かないように、施行(せぎょう)の湯治場へさえも、なるべく遠のくように心がけていると、今度は、先方から押しかけて来る、その人の足が日に増し、これも加速度に殖(ふ)えてくる気配を見て、与八がまた怖れる。
 与八の心配としては、どうも、これを早く消してしまいたい。自分は、人並み足らずの、頭のない人間で、決して神様や仏様の乗りうつりでもなんでもありはしない。自分は馬鹿だから、せめて世間並みのところで心やすく働かせてもらいたいと一生懸命につとめているのを、世間が買いかぶってくれてしまっている。そのことわけを言って、辞退をすればするほど、買い手が殖えて来る――与八は、どうかしてそれを今のうちに予防しなければならない、ということを、心ひそかに恐れ怖れているのです。
 それから、もう一つ――与八が内心の恐れ、というよりは、内心の責務に責められて、これを怠ってはならないと絶えず鞭打たれているような心持の一つに、郁太郎(いくたろう)の教育のことがあります。
 郁太郎も、今年はもう数え歳の五つです。これから人間をこしらえなければならぬ、その父となり、母となり、兄となり、姉となり、師となり、友となる一切の責任が、自分一つの身にかかっているということを、与八は常に、切々(せつせつ)と責められているのですが、今日この頃、この地へ落着いてみると、その責任が全く確実性を帯びて来ました。
 この子を教育しなければならない、他の子供の教育はいわば片手間であるが、この子供は特別に自分の上に課せられた任務であることを感じてみると、漠然とした、その教育方針を考えさせられるのも当然です。
 この子供は素姓の優れた家柄に生れた子だ、将来どんなことになるか、現在ではわからないが、将来を思うと、畢竟(ひっきょう)、これを父親に似せてはならない、お祖父(じい)さんに似せなくてはならないということが、与八の頭へ熱鉄の如く打込まれるのであります。
 郁太郎の父は竜之助であって、その祖父は弾正であることを、与八ほどよく知っている者はない。父の竜之助の優れた天分の人であることは、その善悪邪正にかかわらず、与八はよく認めている。それを誤ったものに教育があるということを、大先生(おおせんせい)すなわち弾正の口から、絶えず与八は聞いて知っている。大先生の教育がわるかったのではない、大先生が永らくの御病気で、竜之助様によき教育を施す隙がない間に、竜之助様の悪い方が伸びてしまったということを、与八は昔から観念している。
 そこで彼は、この子を父にしてはならない、祖父にしなくてはならない、と感づくのは当然の認識であるが、与八としては、その父を怖れるよりは、一層、祖父なるものの偉大なるを信じている。そこに、与八の教育の根本方針が成り立っていました。
 事実、与八の眼で見た弾正という人、すなわち郁太郎のためには祖父、竜之助のためには父なる人ほど、この世に於て偉大なりと信じている人は有りません。
 それは、棄児(すてご)であった自分の一身を拾い取って、衣食を与えた生命(いのち)の恩人というだけの観念ではないのです。
 およそ、この世界に於て、いかなる人がエライといって、うちの大先生ほどのエライ人はない。江戸へ出て、エライと言われる人もお見かけ申したことがないではないが、そのエライ人でも、うちの大先生にはかなわない。どこがどうエライかということは与八にはわからないが、どんなエライと言われる人をお見かけ申しても、うちの大先生のことを思い出すと、引け目を感じないことを与八は直覚する。つまり、エライ人にはみんなそれぞれ身に備わる「威」というものがある。うちの大先生の「威」は、どんな人にも遜色がない、ということが、与八の信仰となっているのであります。与八が「威」という観念で解釈しているのは、近づき難い怖れという意味ではない、与八は与八らしく世間の「威」という観念を受入れて、人格の備わった徳の高い人に、おのずから備わる後光のようなものだと信じているのです。ドコへ出て、どういう人を見ても、与八はうちの大先生のことを思うと、ちっとも引け目を感じない。それがつまり、大先生の威というものだと信じているのです。
 そこで当然、その血筋を引いた郁太郎様は、お祖父(じい)さんのような人に仕上げたいものだという希望も、無理ではないのです。お祖父さんの正しい血筋を引いているのだから、お祖父さんのようなエライ人になれるべきはずである、というのがまた与八の信念で、同時にそれを、お祖父様のように仕上げるのが一つ間違って、竜之助様のようにしてしまった日には、その責任がかかって自分にあるということを感得すると、与八が恐懼戦慄(きようくせんりつ)するのもまた無理がありません。
 どうして教育して上げたらいいか、わしぁ学問はなし、金ぁなし、器量はなし、なにもかもないないづくし。これで人一倍の血筋の子供を仕立てようとするのは、てんで話が無理だ、わしにゃ、どう教育して上げていいかわかんねえ、いい先生はないかなあ、いい学校はねえかなあ、恐懼戦慄の後に、与八が観念はこれでありましたが、そういう時に、眼をつぶって、大先生の信仰をはじめると、不思議に、今まで忘れていた昔の面影がありありと、自分の眼の前に現われて、その折々に言われた言葉が耳の底から甦(よみがえ)って、自分の耳もとに、諄々(じゅんじゅん)として説かれる声を聞きました。
「与八、お前は貧乏に生れて、棄児にされたその運命を恨んではいけないぞ、その運命というものが、お前を教育する恩人だということを忘れちゃいけないぞ、わしがこうして長年の病気を、人は不幸だと思うけれども、わしにとってはこの病気によって教育されたことが大きい、それと同じこと、人間がよくなる、悪くなるということは、物があり余って、立派な親、師匠がついているいないということではないぞ、貧乏はこの世界の最もよい教師だということを忘れるなよ」
と言って、慰め励まされたその言葉が、今し耳の底でガンガン鳴り出して来ました。
 その当座は、大先生のおっしゃることは無条件で拝伏して聞いていた。無論、大先生のおっしゃることなどが、自分の頭で理解のつく限りではないから、ただ有難くお聞き申していただけだが、それが今日になって、ありありと出て来て、実際の手引をして下さるとは夢にも思っていなかった。
「貧乏は、この世界の最もよい教師だということを忘れるなよ」
 してみると、自分の貧乏は苦にならない。いや、いっそこの貧乏が郁太郎様にもよい教師――果して、そういうものか知ら――どうもわからないが、大先生のおっしゃるお言葉にムダがあろうとは思われない。してみると、教育のために自分たちは最も恵まれていればとて、不足の身ではない。そういうようなことを、与八は考えて安心しようとしましたが、一面には、自分の頭に余り過ぎて考えられないものですから、その度毎に、痴鈍な自分の頭脳(あたま)を振って、一も二も昔のことを考え出し、大先生のおっしゃったお言葉の節々(ふしぶし)を思い起し、ゆっくり考えて、考え抜いてみようと与八が覚悟をきめました。

         七十七

 さて大菩薩峠「山科の巻」はこれを以て了(おわ)りとします。念のため、本巻に現われた人の名と、その所在の地名とをここに挙げてみます。

        ┌─宇治山田の米友
        ├─不破の関守氏
山科新居────┼─弁信法師
        ├─お銀様
        └─がんりきの百蔵
        ┌─芸妓福松
福井より近江路─┤
        └─宇津木兵馬
        ┌─神尾主膳
根岸侘住居(ねぎしわびずまい)───┼─ビタ助
        └─お絹
        ┌─机竜之助
京洛市中────┼─南条力
        ├─五十嵐甲子雄
        └─轟源松
        ┌─与八
甲州有野村───┤
        └─郁太郎

等でありまして、裏面或いは側面に動く人名、或いは新たに点出された人間としては、月心院内、門番の娘と、怨霊(おんりょう)の美僧美女、目明しの文吉、斎藤一、福井の好学青年、近藤勇、勝海舟の父、藤原の伊太夫、鬼頭天王の尼、村正どん、島原の舞子、重清と朝霧、与八の周囲の民衆と子供、動物としてはグレートデン、庫裡(くり)の猫の登場等々であります。
 さてまた、従来引きつづいての重要な登場をつとめていた人々で、本篇に現わるべくして現われなかったものの所在を考えてみると、
        ┌─駒井甚三郎
        ├─お松
        ├─七兵衛
        ├─お喜代
        ├─田山白雲
海洋の上────┼─柳田平治
        ├─ムク犬
        ├─清澄の茂太郎
        ├─ウスノロ氏
        ├─兵部の娘
        ├─金椎(キンツイ)
        └─無名丸とその乗組員
        ┌─藤原伊太夫
        ├─お角
関西旅中────┼─道庵先生
        ├─お雪ちゃん
        └─加藤伊都丸(かとういつまる)
        ┌─銀杏加藤(ぎんなんかとう)の奥方
清洲城下────┤
        └─宇治山田の米友
        ┌─青嵐居士
胆吹山─────┤
        └─胆吹王国に集まる人々
 右の外、点出せられた人物としては、金茶金十郎、のろま清次、新撰組の人々、よたとん、木口勘兵衛、安直、デモ倉、プロ亀、築地異人館の誰々、仙台の仏兵助、ファッショイ連、女軽業の一座、等々。
 地理の区域は、現在の日本の東海東山の両道から、北陸の一部、北は陸奥に及び、畿内の中心、いわゆる日本アルプスの地帯が活躍の壇場になって来たが、海の方は太平洋の真中にまで及んでいる。
 この「山科の巻」の稿を起すの日時は昭和十五年の九月十日――稿を了るの日は同年十月十六日。これを大菩薩峠全体から見ると、起稿は明治四十五年、著者二十八歳の時、本年即ち昭和十五年より、またまさに二十八年の過去にあり、最初の発表はそれより一年後の大正二年。分量は前巻にも申す通り、開巻「甲源一刀流の巻」よりこの「山科の巻」に至るまで二十六冊として一万頁に上り、文字無慮五百万、世界第一の長篇小説であることは変らない。読者は倦(う)むとも著者は倦まない、精力の自信も変らない。

今や世界全体が空前の戦国状態に落ちている。日本に於ても内政的に新体制のことが考えられている。わが大菩薩峠も、形式として新しく充実した出直しをしなければなるまい。




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