大菩薩峠
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:中里介山 

「日ニ三度ズツ水行ヲシテ、食ヲスクナクシテ祈ッタガ、八九十日タツト、下谷ノ友達ガ寄ッテ、久シクオレガ下谷ヘ来ナイトテ、ナゼダロウト云ウト、オレノ家来分ノ小林隼太ガ、此頃ハ貧乏ニナッテ弱ッテイルト云ッタラ、皆ンナガ、気ノ毒ナコトダ、今迄イロイロ世話ニモナルシ、恩返シニハ少シデモ無尽(むじん)ヲシテ、掛捨テニシテヤロウカ、ソウ云ッテハ取ラヌカラ、勝ヲ会主ニスルガイイト相談シテ、鈴木新二郎ト云ウ井上ノ弟子ノ免許ノ仁ガ来テ、オレニ云ウニハ、今度友達ガ寄ッテ遊山無尽ヲ拵(こしら)エルガ、最早大ガイハ拵エタガ、オマエニ会主ヲシテクレロトイウカラ、ナッテクレロトイウ故ニ、ソレハヨカロウガ、此節ハ困窮シテ中々無尽ドコロデハナイカラ、断ワッテクレト云ッタラ、何ニシロ、オマエガ断ワルト出来ヌカラ加入シロト云ウ、掛金モ出来ヌトイッタラ、ソレデモイイカラトイウ故、承知シタトテ帰シタラ、二三日タッテ、マタ新二郎ガ来テ、帳面ヲ出シテ、金五両置イテ、此後ハ加入ノ人々ガ来ルト云ッテ帰ッタ故、全ク妙見ノ利益(りやく)ト思ッテ、ソレカラ直グニ刀ノ売買ヲシタラ、ソノ月ノ末ニハ、築地ノ又兵衛ト云ウ蔵宿ノ番当ガ頼ンダ備前ノ助包(すけかね)ノ刀ヲ、松平伯耆守ヘ売ッテ十一両モウケタガ、又兵衛モ、ウナギ代トテ別ニ五両クレタ、ソレカラ毎晩、江戸神田辺、本所ノ道具市ヘ出テハモウケスルコトガヨカッタカラ、復々(またまた)金ガ出来ル故ニ、諸所ノコン意ノ者ガ困ルト聞クト、助ケテヤッタ故、ミンナガヒイキヲシテ、イロイロ刀ヲ持ッテ来ルカラ、素人(しろうと)ヨリ買ウカライツモ損ヲシタコトハナカッタ、道具ノ市ニテハモウケノ半分ハ諸道具屋ヘ、ソバ又ハ酒ヲ買ッテ食ワセタユエ、殿様殿様ト云イオッテ、外ノ者ガカッテ物ヲ持ッテ来ルト、前金ニ内通シテクレル故、イチモ損ヲシナカッタカラ、伏ノ市ニハ切者(きれもの)ノモノニ、オレガカサヲアケサセタカラ見損ジテ、三匁ノ物ヲオレガ一分入レルト、カセアケガ段々見テ、勝様ハ三匁五分ト云ウカラ、五分ノ損ダカラヨカッタ、ソノ替リニハ、イツモ仕舞イニハソバヲタトエ五十人来テモ一パイズツニテモ、是非クワセルヨウニシテ帰シタカラ、町人ハ壱文弐文ヲアラソウ故、皆ンナガ悦ンデ、諸所ノ市場ニハ、オレガ乗ル蒲団ヲ一ツズツ拵エテアッタ、友達ガクヤシガッテ、イツモオマエハ、市デハ商人ガハイハイ云ウ、ドウイウ訳ダト云ウカラ、右ノ次第ヲ咄(はな)シタラ、ソレデハ損ダト皆々云ッタガ、タイソウ得ニナッタ、ソレカラ借金ガ四十俵ノ高デ三百五十両半アルカラ、女郎ヲ買ッタト思ッテ、金ノハイル度々(たびたび)、段々トウチコンダカラ、二年半バカリニ三四十両ニナッタ、コワイモノダ」
 やりくりというものは、窮するが如くして迫らざるところのあるものだ。この窮通ができたのは、妙見様の御利益(ごりやく)ばかりではない、小まめに立働くところが感心だ。おれにはできない――こういう神妙な立ちまわりはおれにはできないと、神尾が兜(かぶと)を脱ぎながら、
「何デモ施シガ第一ト心得テ近所ハ勿論(もちろん)、困ルト云ウモノニハ、ソレゾレソノ者ガ身ニ応ジテ施シタガ、ソノセイカ、饑饉ノ年ニハ、毎日毎日日々壱朱ズツ小遣(こづかい)ニシテ遊ンダ、友達ヘモ時ノ会ヲ合ワシテヤルシ、毎晩毎晩、道具ノ市ヘ行ッテ勤メダト思ッテ精ヲ出シタ、売物ノブ市トイウ物ヲ百文ニツイテ四文ズツノケテミタガ、三月ノ中ニ三両弐分ト葉銭ガタマッタカラ、刀ヲコシラエタ」
 この辺になると、二宮金次郎はだしだ。感心感心と神尾があしらい――さて、その次には本職の方になってくる。
「剣術ノ仲間デハ、諸先生ヲノケテ、イツモオレガ皆ノ上座ヲシタガ、藤川近義先生ノ年廻リニハ出席ガ五百八十半人有ッタガ、ソノ時ハオレガ一本勝負源平ノ行司ヲシタ、赤石孚祐先生ノ年忘レハ岡野デシタガ、行司取締ハオレダ、井上ノ先伝兵衛先生ノ年忘レニモ頼ミデ諸勝負ノ見分(けんぶん)ハオレガシタ、男谷(おたに)ノ稽古場開キニモオレガ取締行司ダ、ソノ時分ハ万事流儀ノモメ合イ、弟子口論伝受ノ時ノ言渡シ、多分オレバカリシタガ、岡野ハ伝受ノコトハ皆々オレニ聞キ合ワセタ、オレガ下知ニソムク者ハナカッタ、大小ノ拵(こしら)エ様並ビニ衣服又ハ髪形マデ、下谷、本所ハオレノ通リニシタガ、奇妙ノコトダト思ッテ居ルヨ。
ソノ時分ハ、諸所ノ道場ガ至ッテ義定ガ立ッテイテ、先生トハ同座同席ハ弟子ガシナカッタ、外ノ先生ガ来ルト、直グニ高弟ガ出向イテ刀ヲ取ッテ案内ヲシタ、先生迄モソノ玄関マデ迎イニ出タモノダガ、此頃ハ物ガ乱レテ、知ラヌ顔デカマワヌガ、イロイロノ様子ニナルモノダ、稽古モ稽古場ヘ二組トキマッテイタガ、ソレモムチャニナッテ幾組モ勝負ヲスルヨウニナッタ」
 さてまた、いろいろの肝煎(きもい)り、世話焼きをしてやっているうちにも、恩に着るものばかりはない。
「通リ町ノチチブ屋三九郎ト云ウ者ガ、公儀ノキジカタ小遣モノノ御用足(ごようたし)ダガ、段々家ガ衰エテ来テ、今ハソノ株ガホカニモ出来テ、一向ニ御用モタサズシテ困ッテイルト高田藤五郎トイウ者ガ云ウカラ、段々聞イタラ、此節末姫様ガ薩州ヘ御引移リ故、右ノ御用ガキキタイト云ウ故ニ、オレガ骨ヲ折ッテ、御本丸ノ御年寄ノ瀬山サンヲ頼ンデ、末姫様ノ御引移リノ時ノ師匠番くれないサンヘ頼ンデ御用キキニシテヤッタガ、ソノ前ニ心願ガ出来タラ、紅サンヘ三十両、瀬山サンヘモ礼ヲスル約束故ニ、ソノコトヲ云ッテヤッタラ、紅サンハ大ノ慾バリ故、悦ンデチチブ屋ヘカンサツヲ渡シテ、先ズ七十両ノ御用ヲ申シ渡シタ故、右ノ金ヲヨコセトイウカラ、三九郎ヘ咄(はな)シタラ、イロイロ難渋ヲ云イオッテ、始メトハ違ッテ、オレノウチヘモ来タ故、三九郎ヲ呼ンデ、世話ノ変替(へんがえ)ヲシタ、ソウスルト早々御用モ下ルシ、カンサツヲ取上ゲハシマイト思ッテイルト、二三日タツトカンサツヲ取上ゲラレテ御用ノ物ハ不用ニナッタカラ、オレノ所ヘカケツケテ夫婦デ来タ、イロイロ云イオッタガ、始末ガカン気ニサワッタ故、ソレナソニシテイタラ、四十両バカリ損ヲシテ、ソノ上ニ大火事ニ焼ケテ裏店(うらだな)ヘハイッテイルト聞イタ、世ノ中ニハ三九郎ノヨウナ者ガ今ハイクラモアルカラ、油断ヲスルトクラウモノダ」

         六十八

 さて、これから勝のおやじの生れ家、男谷との間柄を書いてあるが、このおやじは前に言う通り、子供の時分から勝へ養子にやられ、件(くだん)の如(ごと)き馬鹿者であるから、成長したからとて、生家の兄貴共をてこずらせること容易でない。
「二番目ノ兄ガ御代官ニナッテカラ、先年三郎左衛門ヘ八両貸シタラ返サヌカラ、男谷デ出会ッテ大喧嘩ヲシテ、兄ハソノ晩逃ゲテ帰ッタガ、ソレカラ十年バカリ絶交シテ居タガ、何トカ思ッタト見エテ、オレノ所ヘ手紙ヲヨコシテ、久々逢ワヌカラ近所ヘ来タカラ尋ネテクレロトイッテ金ヲ二分ヨコシタカラ、亀沢町ヘ行ッテアニヨメニ話シタラバ、先カラ尋ネタラ行クガヨイトイウカラ、直グニ行ッタラ、家中出テイロイロト馳走ヲシテ、彼是トイウカラ、久シク御無沙汰(ごぶさた)ノ段ヲイロイロ云ッテ仲直リ同様ニシテ帰ッタラ、又々、兄ガ女房ヨリ文ヲヨコシテ、オレノ妻ヘ礼ヲイッテヨコシタ、ソレカラ不断尋ネテヤッタ、丁度、支配ガ大兄ノ支配シタ越後水原(すいばら)ニナッタカラ、国ノ風俗人気ノコトヲ聞クカラ、オレガモト行ッタ時ノ様子ヲハナシテ勤向キノコトモ、アラアラシカッタコトハ咄(はな)シテヤッタ。
ソノ翌年ノ春正月七日、御用始メノ夜ニ、何者トモ知ラズ、狼藉者(ろうぜきもの)ガハイッテ惣領忠蔵ヲキリ殺シタガ、ソノ時、早速ニ使ヲヨコシタ故、飛ンデイッタガ、モハヤ事ガキレタ、翌日心当リガアッタカラ、小石川ヘ行ッタガ立退イタト見エテ知レヌカラ帰ッタ、ソノウチ大兄ニ近親共ガ来テ相談シテ、オレニ当分林町ニ居テクレロト云ウカラ、毎晩毎晩泊ッテ居タ、昼ハ用ガ有ルカラウチヘ帰ッテイテ、ソノ月ノ二十五日ニ、ケンシガ来テ、二十九日ニハ忠蔵ノ妻ト、兄ガ妻ト、忠蔵ノ惣領ノ※[#「月+毛」、117-16]太郎ヲ評定所ヘ呼出シニナッテ、オレト黒部篤三郎ト云ウ兄ガ三男ガ同道人ニナッテイタガ、ソレカラソノコトデ一年ノ内、月ニ二度位ズツ評定所ヘ出タ、或時同所御座敷ニテ大草能登守ガ与力神上八太郎ト云ウ者ト大談事ヲナシタガ、同所留守居ノ神尾藤右衛門、御徒目附(おかちめつけ)石坂清三郎、評定所同心湯場宗十郎等ガ中ヘイリテ、段々八太郎ガ不礼ノ段ヲ詫(わ)ビルカラ、大草ヘモ云ワズニ帰ッタ、オヨソ壱時(いっとき)バカリノコト、御座敷中ガ大騒動シタガ、イイキビダッタ、相士ノ者ハ皆フルエテ居オッタ」
 二番目の兄というのは男谷精一郎のことだろう。その総領の忠蔵が寝込みを襲われて人に斬り殺されたというのは只事ではない。ほかならぬ剣術の家であって、しかも男谷信友ともある者の長子だから、相当腕に覚えがなければならないのが、おめおめと斬り殺されたとは不審の至りだ。何者が、何の恨みあってしたことか、これをくわしく知りたいものだが、この自叙伝は大ざっぱで、それにはちっとも触れていない。評定所で与力と大喧嘩をして、これを詫びさせるなどは、どういういきさつか、これもわからないが、このおやじらしい振舞だ――
「コノ年、次ノ兄ガ始メテ越後ヘ行ク故ニ留守ヲ預カッタ、ソレカラオレガ借金モ抜ケタカラ、少シズツ遊山ヲ始メタガ、仕舞イニハイロイロ馬鹿ヲヤッテ、金ヲ遣ッタカラ困ッタ、シカシ借金ハシナイヨウニシタ、林町ノ兄ガ帰ッタカラ、留守ノウチノコトヲ書附デ出シテヤッタラ悦ンデ居タ、コノ年、従弟(いとこ)ノ竹内平右衛門ガ娘ヲ、オレノ実娘ニシテ六合忠五郎ト云ウ三百俵ノ男ヘヨメニヤッタ、忠五郎ハモトヨリ弟子故、縁者ニナッタ、竹内ノ惣領三平ガ此年御番入リヲシ、カタクルシクテ出勤ガ出来ヌカラ、御断ワリヲ申シテ引クト云ウカラ、オレガイロイロ工夫シテ、翌日カラ登城サセテタラ、大御番ニナッタ、ソノ親父ガ悦ンデ、一生コノ恩ハ忘レヌト云ッタガ、後年イロイロオレヲホメオッタ」
 この辺は例の世話好きが現われて、相当に善事を致してもいるようだが、本来、しっかりした観念があってやるわけではないから、忽(たちま)ち生地が現われて、ついに兄たちと大喧嘩をおっぱじめる。
「此暮ニ松坂三右衛門ガ越後ヘ行ク故、三男ノ正之助ト云ウヲ気遣ウ故ニ、オレガ異見ヲシテ、供ニ連レテ行ケト云ッタラ、聞済マシテ連レテ行クツモリニナッタラ、正之助ヘ供先ノコトヲイロイロト教エテ、御代官ノ侍ハ支配ヘ行クト金ニナルカラ、ソノ心得ヲヨク含メテヤッタガ、嬉シガッタ、彼地ヨリ帰ルト礼ヲスルト云ウカラ、ソノ約束デ別レタガ、検見中心得ノコトモ有ルカラ、ソレヲ手紙ニ書イテ送ッタガ、フト取落シタガ、兄ガ拾ッテ持ッテ帰ッテ大兄ヘ見セテ、イロイロオレヲ悪ク云ッタカラ、大兄ガ立腹シテ、オレヲ呼ビニヨコシタ」
 何を云ったか、若い者によくない知恵をつけたのだろう。二人の兄が立腹するのも無理はなかろう。
「亀沢町ヘ行ッタラ兄ガ云ウニハ、オノシハ、ナゼ正之助ヘ知恵ヲツケテ、イロイロ支配所ノコトヲ教エタ、不埒(ふらち)ノ男ガ、ソノ上ニ、羅紗羽織(ラシャばおり)ヲ着テイルガ、ナゼソンナ奢(おご)リオルト叱ルカラ、オレガ云ウニハ、正之助ヘ書状ヲヤリシ覚エハ無ク、羅紗ノ羽織ハ小高故ニ、身ナリガ悪イト融通ガ出来ヌ故、余儀ナク着テオリ升(ます)トイッタラ、ソノ外ニモ聞イタコトノ有ルハ、此頃ハモッパラ吉原ハイリヲスル由、世間ニテハ、オノシガ年頃ニハ、ミンナヤメル時分ニ、不届ノ致シ方ダトイロイロ云ウカラ、御尤(ごもっと)モニハゴザリマスガ、是モヤハリ身上ノタメニ、ツキ合イニ参リマスト云ウト、猶々(なおなお)怒ッテ、何事モオレニ向ッテ口答エヲスル、親類ガ、オレガ云ウコトヲ誰モ云イ返ス者ハナイニ、オノシ壱人バカリ刃向ウハ不埒ダ、今一言云ッテミロ、手ハ見セヌト脇差ヘ手ヲ掛ケテ云ウカラ、オレガ云ウニハ、ソレハ兄デモ御言葉ガ過ギマショウ、私モ上(かみ)ノ御人ダ、犬モ朋輩、鷹モ朋輩ダカラ、ソウハ切レ升マイトテ、オレモ脇差ヲ取ッタラ、アニヨメガ中ヘハイッテ、イロイロ云ッテオレヲツレテ、手前ノ部屋ヘ来テ、正之助ノ一件ヲ片附ケロト云ウカラ、直グニ林町ヘ行ッテ兄ニ逢ッテ、兄弟ノ情ガ薄イトテ強談シタガ、兄ガ云ウニハ、全ク貴様ノタメヲ思ッテ、大兄ニ云ッタトテ、強情ヲハルカラ、ソノ時ハ役所ノ壱番元〆(もとじめ)太郎次ヲ兄ノ側ヘ呼寄セテ、兄ガ家事不取締故ニ、是迄度々(たびたび)結構ノ御役ニナルトシクジリシコトカラ、当時ノ御役ノコトヲモ勤メル器量ガ無イトイウコトノアラマシヲ云イ聞カセテ、御役ヲ引クガイイトイッテヤッタ、ソウスルトソレハドウイウ訳ダト云ウカラ、ソノ時ニ兄ガ兄弟ノ手跡ノ真偽ヲ見分スルコトガ出来ヌ故ハ、ナカナカ県令ハ大役故ニ勤メラレヌト云ッテナゲ出シタ故、オレガ取ッテ燭台ヲ出サセテ三度クリ返シテ大音ニ読ンデ、兄ヘ返シテヨク似セマシタト云ッタラ、兄ガ云ウニハ、ナント是デモカレコレイウカト云ウカラ、オレガ云ウニハ、ソコガ三郎右衛門ハ分ラヌトイウモノダ、ナント私ガ書イタモノナラ、読ムウチニケン語ガスミハシマスマイ、大勢ヲ取扱ウ者ガ此位ノコトニ心ガ附カズバ大ナル御役ハ出来マスマイ、親類共ガ毎度私ヲバ不勤故ニ、小馬鹿ニ致シマスガ、天下ノ評定所デ筋違イノ不礼ヲタダス者ハ是迄聞キマセヌ、真偽ヲ知ラヌ兄ヲ持ッタガ私ガ不肖デゴザリ升(ます)、ト挨拶シタラバ、ソノ座ノ者ガ一言モイウコトガ出来ヌ故、兄ガイウニハ、是ハ偽筆ニ違イナイカラ、ワシガアヤマッタト云ウカラ、サヨウナラ大兄ヘ手紙ヲ遣(つか)ワシテ、ソノ訳ヲ御申シナサレト云イ、ソノツイデ又通ジタ故、返事ノクルマデ待ッテ居テ、申シ分ナイト云ウ大兄ガ返事ヲ見テカラウチヘ帰ッタガ、ソノ時、甥(おい)メラハ脇差ヲサシテ次ノ間ニ残ラズ結ンデ居タカラ、帰リガケニ甥ラニ向ッテ、オノシ等ハ先達テ中ノ狼藉ノ時、ソノ通リノ心ガケヲシテタラ、忠蔵ハヤミヤミト殺シハシマイモノ、ソノ時ハ逃ゲテ伯父ヲ取廻イタ、馬鹿ニモ程ノアッタモノダガ、親父様ノ子供ヘノ御教エニカンシンシタト云ッテ笑ッタガ、ウチ中ガクヤシガッタトソノ後聞イタヨ」
 兄貴二人をやり込めていい気でいる。ドウもこういう乱暴者にあっては、府内第一の剣術遣いもねっから押しが利(き)かないらしい。しかしまあ、これではただは済むまい、兄貴共もこのまま捨てても置けまい。
「ソレカラ後ハ、大兄モ、林町ノ兄モ、オレガ事ヲ気ヲ附ケテ居ルカラ、少シモトンチャクシナイデ、イロイロ馬鹿騒ギヲシテ日ヲ送ッタガ、或時ニ林町ノ兄ガ三男ノ正之助ガ来テイロイロ兄ノ咄(はなし)ヲシタカラ、揚代滞リニシテ六両金ヲ出シテ、カリ宅ヘ林町ノ用人ヲ連レテ行ッテ、方ヲカイテヤッタラ、兄ガオコッテ、ヤカマシクイウカラ、アニヨメヘオレガ行ッテ、イロイロハグラカシテソノコトハ済ンダ、オレモ三四年ハ大キニ心ガユルンダカラ、吉原ヘバカリハイッテ居タガ、トウトウ、地廻リノ悪輩共ヲ手下ニ附ケタカラ、壱人モオレニ刃向ウ者無カッタ、ソノ替リニ金モイカイコト遣ッタガ、皆ンナオレガ働キデ、借金ヲセヌヨウニシテ、道具ノ市ヘハ一晩デモ欠カサヌヨウニシテ儲ケタガ足リナカッタ」

         六十九

 二人の兄貴も、いよいよこれでは黙ってばかりいられない。
「此年、男谷カラ呼ビニヨコシタカラ、精一郎ガ部屋ヘ行ッタラ、ソレカラ、姉ガ云ウニハ、左衛門太郎殿、オ前ハナゼニソンナニ心得違イバカリシナサル、オ兄様ガコノ間カラ世間ノ様子ヲ残ラズ聞合ワセテゴザッタガ、捨置ケヌトテ心配シテ、今度、庭ヘ檻(おり)ヲ拵(こしら)エテ、オマエヲ入レルト云イナサルカラ、イロイロミンナガ留メタガ、少シモ聞カズシテ、昨日出来上ッタカラハ、晩ニ呼ビニニヤッテオシ籠(こ)メルト相談ガキマッタガ、精一郎モ留メタガナカナカ聞入レガナイカラ、ワタシモ困ッテ居ルト云ッテ、オレニ庭ヘ出テ見ロト云ウカラ、出テ見タラ、二重ガコイニシテ厳重ニ拵エタ故――」
 それ見ろ、またしても熊の檻へ入れられる。前に三年というもの三畳の座敷牢へ押込められて、多少は覚えがあるだろう。今度は座敷牢では剣呑(けんのん)だから、庭へ二重牢と来た。重ね重ねこれは有難く心得て御入所に及ぶほかはあるまい、笑止千万――ところが、今度の熊は、以前のように手軽くは入らない。
「姉ニ云ウニハ、段々、兄弟ガ御深切ハ有難ウゴザイマスガ(これが有難くなくてなるものか)今度ハ燈心デデモオコシラエナサレバイイニ、ナゼトイウニ、私モ今度入ルト、最早、出スト免(ゆる)シテモ出ハシマセヌ、ソノ訳ハ、此節ハ先ズ本所デ男ダテノヨウニナッテキマシテ、世間モ広シ、私ヲ知ラヌ者ハ人ガ馬鹿ニスルヨウニナリマシタカラ、コノ如クニナルト最早、世ノ中ヘハ面(かお)ヲ出スコトハ出来マセヌカラ、断食シテ一日モ早ク死ニマス、斯様(かよう)ダロウト思ッタ故、妻ヘモアトノコトヲワザワザ云イ含メテ来マシタ、思召次第(おぼしめししだい)ニナリマショウ、精一郎サン、大小ヲ渡シマスト云ッテ渡シタラ、姉ガ此上ハ改心シロトイウカラ、オレガ、此上改心ハ出来マセヌ、気ガ違イハセヌトイッタラ、精一ガ、御尤(ごもっと)モダガ御身ノ上ヲ慎シメト云ウカラ、慎ミ様モナイ、最早親父ガ死ンダカラ、頼ミモナイカラ、心願モ疾(と)ウヨリ止メタ故、セメテシタイ程ノコトヲシテ死ノウト思ウタ故ニ、兄ヘ世話ヲカケテ気ノ毒ダカラ、今ヨリ直グニココニ居リマショウト居タガ、精一郎ガ云ウニハ、必ズオマエハ食ヲ断ッテ死ヌダロウト思ッタ故、種々親父ガ機嫌ヲ見合ワセテ居タガ、聞入レヌ故、コウナッタトテ案ジテクレルカラ、何デモ兄ノ心ノ休マルガ肝要ダカラ、オリヘハイルガオレハヨカロウト思ッタ、先達テカラ友達ガ、ウスウス内通モシテクレタ故、疾ウヨリ覚悟ヲシテ居タカラ、一向ニ驚カヌトイッタラ、何シロ先ズ一度御宅ヘ御帰リナサレテ、妻トモ相談シロトイウカラ、ソレニハ及バズ、先ニイウ通リ何モウチノコトハ気ニカカルコトハナイ、息子ハ十六ダカラ、オレハ隠居ヲシテ早ク死ンダガマシダ、長イキヲスルト息子ガ困ルカラ、息子ノコトハ何分頼ムトイッタラ、ソノウチニ姉ガ来テ、一先ズウチヘ帰レトイウカラ、ソレカラ家ヘ戻ッタラ、夜五ツ時分迄、呼ビニ来ルカト待ッテ居タガ、一向沙汰(さた)ガナイカラ、ソノ晩ハ吉原ヘ行ッタ、翌日帰ッタ」
 呆(あき)れたもんだ――熊の檻へはいらずに、その足で吉原通いとは、かなりの代物(しろもの)だ!
「ソレカラ兄ヘ只ハ済マヌカラ、書附ヲ出セト云ウカラ、ソレモシナカッタ、姉ガイロイロ心配ヲシテ、諸寺諸山ヘ祈祷ナド頼ンダトイウコトヲ聞イタカラ、翌年春、挨拶安心ノタメ隠居シタガ、三十七ノ歳ダ」
 三十七にもなるどうらくおやじを檻には入れそこなったが、隠居ということで、兄貴たちもまず安心の体(てい)。
「ソレカラハ、ムコクニ世ノ中ヲカケ廻リテ、イロイロノ世話ヲシテ、金ヲ取ッテ小遣ニシタガマダ足リナカッタ故、イロイロ工夫ヲシテ、オレノ身ノ上ガコウナッタハ、誰ガ大兄ヘススメテ、詰牢ヘマデ入レヨウトシタカトテ、ソレヲ探ッタラ、林町ノ兄ガ先年ノ恥ジシメタ意趣バラシニ、ウチ中ガ寄ッテ、無イコトマデ大兄ヘ告ゲタトイウコトヲ、慥(たし)カニ聞留メタカラ、ソノ又返シニ目ヲ見セテクレヨウト思ッテ居ルト……」
 こういう身知らずで執念深い弟を持った兄貴も思いやられる。さて、その復讐(ふくしゅう)には何をしたか。
「三男ノ正之助ガ放蕩者故ニ、兄ガ困ッテイルト聞キナガラ、正之助ヲ呼ンデ、ダマシテ聞イタラ、残ラズ兄ガ謀(はかりごと)ヲ白状シタカラ、工面(くめん)ヲシテハ正之助ヘ金ヲ貸シテ遣ワシタガ、仕舞イニハ兄ガ借金ガ蔵宿ノモ切レシトイウカラ、オレガ竹内ノ隠居ヲダマシテ、トウトウ兄ノ判ヲ拵(こしら)エサセ、蔵宿デ百七十五両、勤メト入用ガ急ニ林町ニテ出来タトテ、正之助ガ諏訪部トイウ男ヲ頼ンデヤッテ借リタガ、蔵宿デモ、三人ガ道具箱デ肩衣(かたぎぬ)マデ着テ行ッタ故、疑ラズニヨコシタ、ソノ金ヲ皆ンナ遣ッテ仕舞ッタガ二月バカリデ知ッテ、兄ガ吝嗇(りんしょく)故ニ大層ニオコッタカラ、トウトウドコマデモ知ラヌ顔デシマッタガ蔵宿デハイロイロセンサクヲシタガ、知レズニシマッタ」
 兄貴の息子をそそのかして放蕩を教えた上に、謀判を以て蔵宿から詐欺取財!
「或日、諏訪部ガ来テ、常盤橋ニテ明後日、狐バクチガ有ルカラ、オレニ一ショニ行ッテクレロ、是ハ千両バクチ故ニ、勝ツト大金ガハイルカラ、壱人デハ帰リガ気遣イダカラト云ウカラ、オレハソノ道ニハ今マデ手ヲ出シタコトガナイカライヤダトイッタラ、只行ッテ食物デモ食ウテ寝テ居ロト云ウカラ行ッタガ、ソノ時ハ諏訪部ニモ元手ガ三両シカ無カッタ、ソレモオレガ十両バカリハ貸シタ故ニ、深川ヘ行ッテ見タラ、蔵宿ノ亭主ダノ、大商人(おおあきんど)ガ、日本橋近辺ヨリ集マッテ五六十人バカリシテ場ヲ始メタガ、オレニハイロイロノ馳走ヲシテクレタ故、常盤町ノ女郎屋ヘ行ッテ女郎ヲ呼ンデ遊ンデ居タガ、夜ノ七ツ時分ニ迎エヲヨコシタカラ、茶屋ヘ行ッテ見タラ、諏訪部ハ六百両ホド勝ッタ故、オレガ見切ッテ連レテ帰ッタ、生レテ初メテ、コンナバクチヲ見タト云ッタラ、皆ガ先生ハ人ガイイト云ッテ笑ッタヨ」
 このくらい人がよければ申し分はなかろうが、御当人はバクチだけはやらなかったようだが、トバの用心棒に祭り上げられた。
「ソレカラ思イツイテ、心易(こころやす)イ者ヘ高利ヲカシタガヨカッタ、浅草ノ奥山ノ茶屋ヘ金ヲカシタガ、是ハマダルカッタガ、ソノ代り山中ハハイハイトイイオッタ故親分ノヨウダッケ」

         七十

 さて、これから名うての剣客島田虎之助をからかった物語だ。
「或日、息子ガ柔術ノ相弟子ニ、島田虎之助トイウ男ガアッタガ、当時デノ剣術遣イダトミンナガオソレル故、コノ男ガカン癪(しゃく)ノ強気者デ、男谷(おたに)ノ弟子モ皆々タタキ伏セラレテ浅草ノ新堀ヘ道場ヲ出シテ居タガ、オレハ一度モ逢ッタコトガナイカラ、近附(ちかづき)ニ行ッタラ、ソノ時オレガ思ウニハ、九州者ノ二三年先ニ江戸ニ来タトイッテモ、マダ江戸ナレハシマイカラ一ツタマシイヲ抜カシテヤロウト心附イタカラ、緋縮緬(ひぢりめん)ノジュバンニ洒落(しゃれ)タ衣類ヲ着テ、短刀羽織デヒョウシ木ノ木刀ヲ一本サシテ逢イタイト云ッタラバ、内弟子ガ出テドコカラ来タトイイオル故ニ、勝ノ隠居ダトイッタラ、早速ニ虎ガ出テ、袴ヲハイテ、座敷ヘ通シ、始メテノ挨拶モ済ンデカラ、イロイロ悴(せがれ)ガ世話ノ段ヲ述ベテ、世間剣術話ヲシテ居タガ、オレノナリヲヤタラニ見テ、イロイロ世上ノ云ウタノノコトヲモッテ、アテツケルヨウニ聞ユルカラ、カネテソノ咄(はなし)モ聞イテ居タ故ニ、一向カマワズ、ソノ日ノ七ツ時分ニナッタカラ、虎ヘ云ウニハ、今日ハ始メテ参ッタカラ何ゾ土産ニテモ持ッテト存ジタガ、御好キナ物モ知レヌ故ニ、手ブラデ参ッタガ、酒ハ如何(いかが)トイッタラバ呑マヌト云ウカラ、甘物ハト聞イタラ、ソレハイイト答エルカラ、サヨウナラ御苦労ナガラ一所ニ浅草辺マデオ出デト、断ワルヲムリニ引出シテ、浅草デ先ズ奥山ノ女ドモヲナブッテ歩イタカラ、キモヲツブシタ顔ヲシテアトカラ来ルカラ、スシ飯ヲ食ウカト聞イタラ、好キダト云ウ故ニ、ソンナラ面白イトコロデ鮨(すし)ヲ上ゲルトイッテ、吉原ヘイッテ大門ヲハイリニカカルト、御免御免ト云ウカラ、ムリニ仲ノ町ノオ亀ズシヘハイッテ、二階ヘ上ルト間モナク、イイツケタ鮨ヲ出シタ故、食ッテ居ル、ソノ時ニ、煙草ハドウダト聞イタラ、呑ムガ修行中故ヤメテ居ルト云ウカラ、ソレカラソレハ小量ノコトダ、煙草ヲスウトモ修行ノ出来ヌコトハアルマイ、世間デハオマエヲ豪傑ダト云ウカラ、近附ニ来タ、ソノヨウナ小量デハ江戸ノ修行ハ出来ヌトイッタラ、サヨウナラ今日ハ吸オウト云ウ故ニ、下ヘイイツケテ煙草入、煙管(きせる)ヲ買ワシタ、マタ酒モ呑メトセメタラ、同断ノ挨拶故ソレモ呑マシタ、ソノウチニ日ガ入ッタ故、諸方ヘ提灯ガトボルシ、折柄桜時故ニ風景モ一入(ひとしお)ヨク、段々ト揚屋ノ太夫ガ道中スルカラ、二階ヨリ見セタラ、虎ノ云ウニハ、誠ニ別世界ダトテ、余念無ク見テ居タカラ、是カラハオレガ威勢ヲ見セヨウトテ、隅カラ隅マデ見セテ、リキンデ見セタガ、大キニ恐レタ様子ダカラ、直チニ佐野槌ヤヘハイッテ、女郎ノ器量ノソノウチデ一番トイウノヲアゲテ遊ンダガ、桜ノ時分ダカラ、室ガ大勢デ座敷ガ無カッタガ、オレノ顔デ明ケサセテ、明日帰ッタガ、オレハ森下デ別レテ、ウチヘ帰ッタ、ソノ時ニ吉原デアノ通リノ振舞ハ出来ヌモノダガトイウコトデ、顔ガ売レタロウト皆ンナニ咄(はな)シタトテ、松平ノ家来ノ松浦勘次ガオレニ咄シタニ、最早、隠居ハ吉原ヘ行ッテモ大丈夫ダトイッタ故、男谷ニテモ安心シタト。
ソレカラスルコトガ無イカラ、毎日毎日カン音、吉原ガ遊ビドコロデ居タガ、虎ガススメデ、香取カシマ参詣ヲスルト云ウカラ、四月初メニ松平内記ノ家中松浦勘次ヲトモニ連レテ、下総カラ諸所歩イタ道ニ、他流ヘ行キテツカイツツ行ッタガ、先年ヨリ居候共ヲ多ク出シタ故、ソレガ徳ニナッテ路銀モ遣ワズニ諸所ヲ見テ来タ、銚子ニテ足ガ痛ンダカラ、勘次ヲ上総房州ノ方ヘ約束シタ所ヘヤッテ、オレハ銚子ノ広ヤカラ舟デ江戸ヘ送ッテクレタカラ、寝ナガラウチヘ帰ッタ、ソレカラ毎日毎日、浄ルリヲ聞イテ浅草辺カラ下谷辺ヲ歩イテ、楽シミニシテ居タガ、六月カ五月末カト思ッタガ、九州ヨリ虎ガ兄弟ガ江戸ヘキタカラ、毎日毎日、行通イシテ、世話ヲシテ、江戸ヲ見セテ歩イタ、虎ノ兄ノ金十郎トイウ男ハ、万事オレ次第ニナッテ居ルカラ、大ガイオレノウチヘトメテ居タガ、或日、吉原ニワカヲ見ニ行ッタ晩、馬道デ喧嘩ヲシテ見セタラ金十郎ハコワガッタ、金十郎ハ国デハアバレ者ト云ッタガ、江戸ヘ来テハツマラヌ男デアッタ、八月末ニ九州ヘ帰ルカラ、川崎マデ送ッテ別レタ」
 島田虎之助が当時での剣術ということは、神尾主膳も聞いて知ってはいるが、その島田の虎も、勝のおやじにかかっては、いやはや――しかしこんなに書きなぐるのは表面で、内心は勝のおやじも、たしかに島田に敬服したればこそ、この男を、悴(せがれ)の師匠に見立てて、みっちり修行をさせたのだ。そういう厳粛な方面は、この自叙伝には書いてないが、そこが、おやじの親心で、悴のためを思うことは、一時気違いと言われたほどだから、表面の磊落(らいらく)ばかりを見てはいけない。この馬鹿親爺の息子が、今では徳川の天下を背負って立とうというのは、この親爺の細心な方面と、この島田の虎の仕込みのあたりを、別の頭と眼で見直さなければならない!
 おれなんぞは――と神尾は、いつも身に引きくらべて見る。それはこの自叙伝が、雰囲気から言っても、どうらくから言っても、神尾の身に引きくらべて読むに最も都合よく出来ている――おれなんぞも、武術の方は、いい師匠を取って、相当に仕込まれたのだが、親爺がこんな馬鹿者でなかったためにしくじった。虎のような名剣師に就かなかったのが、まあ残念といえば残念のようなものだ。江戸者に生れて、身をあやまるも、身を立つるも、ほんの皮一重のものだよ――おれに子供でもあったらば……
 神尾主膳も、こんなように娑婆(しゃば)っ気(け)にまで誘発されて、しばらく三ツ眼を休めて考えている時、
「あなた、何を読んでらっしゃるの」
 不意に隔ての襖(ふすま)をあけて、スラリとそこへ立っているのは、今日は姥桜(うばざくら)に水の滴るような丸髷姿(まるまげすがた)のお絹でありました。

         七十一

 襖越しに突立ったままで、嫣然(にっこり)として、
「あなた、何を読んでらっしゃるの」
 ずいぶん、なめた行儀であるけれども、神尾にはそれがおこれない。ビタにしたように、無雑作(むぞうさ)にはこの女が扱えない。
「うむ、なに、その、ちっとばかり読んでいるところだよ」
 何を読んでいるのかと、これ以上はお絹が突っこまない。何を読もうとこの女には、読書というものが、あまり頭にない。
「ねえ、あなた――」
と、お絹が甘ったれた口調で言いました。甘ったれた口調ではない、これが本来この女の本調子なのですが、これを聞くと、神尾の血がグッと下って来る。
 突立ったままの大丸髷で、だらしのない立ち姿をしながら、「ねえ、あなた――」それを神尾がおこれない。
 こんななめきった行儀をされても、こんな甘ったるい言葉づかいをされても、つむじ曲りの神尾主膳が、どうしても腹を立つ気になれないのは、今にはじまったことではないのです。これが昨今になると、一層、身にこたえて来たようで歯痒(はがゆ)い。
 この女だけが、親爺の残してくれた唯一の遺産だ、いつも、神尾がこの女にさわると、むらむらとそれを受身にとって来る。この女は父の寵者(おもいもの)であった、父のお妾(めかけ)であった。今日となっては、父祖以来残された財産とては何一つ身についたものはない、いや、財産だけではない、父の代から出入りの恩顧を受けたという者共が、誰ひとり寄りつきもしないのに、この女だけが、自分の影身についていてくれる。忠義でかしずいていてくれるわけでもなかろう、切っても切れない腐れ縁の一つかなにか知らないが、それにしても、広い世界に自分の身うちといっては、考えてみると、この女ばっかりだったなあ。
 神尾主膳はこの女を母とは、どうしても思えないが、姉とは受取れる。姉としては、いかさまふしだらな、甘ったる過ぎた姉ではあるが、姉の気分はいくらか滲(にじ)んでいるというものだ。姉の愛といったようなものを幾分ながら漂わせて、これを尊敬して見るという立場ではない。なあに――親爺の寵者(おもいもの)だ、親爺の召使の一人だから、自分にも召使の分限だ――という主人気取りは多分に残されてあるが、さて、この女に対すると、どうも一目を置きたがる。我儘(わがまま)一ぱいを仕つくしても、この女がおこらない、姉気取りで自分を抱擁しようとするところに圧迫を感じながらも、よし、思う存分にこの女を虐待しても、女がおこらないし、また自分が、どんなに他の女狂いを働いてみたところで、この女は笑っている。姉として、自分の放蕩(ほうとう)を叱るようなことはついぞ一度もなかったが、いろいろの女狂いも、こっちが飽きたり、向うが逃げたりしているうちに、最後までこの女は、自分の面倒を見る。自分をあやなしきって、切れも離れもしないところが乙だ。
 妙なもので、こんな我儘一ぱいに振舞える相手だが、自分が女狂いをする時は忘れてしまっているのに、この女が、ちょっと外へ出たり、また外泊なんぞをした場合には、神尾の心頭が異様に乱れ出して来るのである。それが近ごろは、だんだん嵩(こう)じて来た。お絹が水性(みずしょう)であることは万々承知で出してやりながら、あとに残された時に、神尾の胸が怪しく騒ぎ出して来るのです。
 なあに、親爺の寵者で、うちの召使なんだ、おれのいろではあるまいし、おれもまずほかに女がいないではあるまいし、あいつに惚(ほ)れてもなんでもいるんではないが、いなくなると心がいらいらする、焦(じ)れて焦れてたまらない、しまいには血の気が頭に上って、「浮気者にも程がある、明朝帰って来たらただは置かぬぞ」という、物すごい気分にまで上ずって来ることもあるが、さて、朝になって帰って来て、「ねえ、あなた」なんぞとやられると、神尾の頭へ上った血が不思議にグッと下ってしまう。骨までぐんにゃりとされるような重しがのしかかって、神尾は自分ながら、その甘ったるさ加減に腹が立つ。帰ったらブチのめしてもくれよう、次第によっては、親爺になり代って刀の錆(さび)にまでと意気ごんだものが、だらしない格好で、すましこんで、「ねえ、あなた――」とやられると、自分はどうにもはや、昔の「お坊ちゃま」にされてしまう。硬(かた)くて歯が立たないならいいが、搗(つ)きたての餅のように軟らか過ぎて歯が立たない。その度毎に、神尾は自分を歯痒がったり、腑甲斐(ふがい)ないと自奮してみたりする気になるが、さて面と向うと、どうにもならないのが癪(しゃく)だ。
「何だい――」
と受答え、自分の声は苦りきったつもりでも、いつしか、甘ったるい、舌たるいものになっている。
 癪だ。
 お絹は、神尾のそんな気分を知るや知らずや、
「あのねえ、駒井能登守様――あの方、このごろ、どうしていらっしゃるでしょう、御様子をお聞きにならない?」
「うむ、駒井か」
と神尾が、こうと言われて何となく胸を圧(お)されるように思いました。ここで突然、駒井の名を聞くことは甘ったるいことではない。忘れていた古創(ふるきず)が不意に痛み出して来たような思いで、
「駒井能登か、知らんなあ、その後、どうしているかなあ」
「あのお方をあやまらせたのは、あなたの罪ね」
「いいや、そんなこたあないよ、駒井自身の越度(おちど)だから、どうも仕方がない」
「でも、あなたがいて、あんなになさらなければ、駒井様は御無事でしたに違いないわ」
「うむ、おれのためじゃないよ、女のためだよ、駒井の奴め、あれで女にのろいもんだから、そこに隙(すき)があったんだ。隙のあったところを相手にやられたのは、相手の罪じゃない、隙をこしらえた奴の罪なんだ」
「どちらがどうか存じませんが、およそ、隙のない人間てありませんからね。駒井様の隙なんかは、同情して上げてよい隙なんでしょう。過ぎたことは仕方がありませんね。それにしてもあの方、今どうしていらっしゃるでしょう」
「イヤに今日に限って駒井に気を持つじゃないか」
「少し伺いたいことがありますから」
「ふむ、いまさら駒井に、何を聞きたい」
「あの方、たいそう洋学がお出来になるんですってね」
「うむ、そのことか。洋学、あれは出来るよ、あれが表芸なんだ、洋学だけは相当にやれると自他ともに許していたよ」
「惜しいわね」
「何が惜しい」
「それほど洋学がお出来になるのに」
「洋学なんぞは、毛唐の学問だ」
と、神尾が取って投げるように言いました。洋学が毛唐の学問であることは、神尾に聞かなくても、お絹でさえよくわかっている。
「惜しいわね、それほど洋学がお出来になるのに」
「何が惜しいんだよ」
「でも、当節、洋学がお出来になれば、お金儲(かねもう)けはお望み次第なのに」
「洋学が出来れば金儲けは望み次第? それで駒井のいないのが、宝の持腐れだというコケ惜しみか」
「そうよ、わたし、このごろ、つくづくそう思いますわ、もし、わたしに少しでも横文字が読め、達者に異人さんと話ができたら、どんなにお金儲けができますか、ちょっとやそっとのお金儲けではございませんのよ、何十万というお金儲け……」
「ふん、毛唐だって、そう甘い奴ばかりはあるまい、日本の金と土を取りたがって来ている奴等だ、洋学が出来たからというて、ペロが喋(しゃべ)れるからといって、お前が甘く見るほど相手は馬鹿でない」
「ところが、あなた、それが違うんですよ、日本人と見ると、むやみにお金を蒔(ま)きたがっている異人さんがあるから妙じゃありませんか、それも、相手次第によっては何万とまとまったお金を未練会釈なしに融通してくれる異人さんを、わたしはずいぶん知っていますよ」
「それを知っているなら、お前、遠慮なく拝借をしといたらいいじゃないか」
「わたしでは駄目、女では信用がないから」
「では、おれの名前でよろしければ貸して上げてもいい」
「あなたではなお駄目――駒井様あたりだと確かなものなんですがね」
「ふーむ、えらく踏み倒されたものだな――おれと駒井の相場がそれほど違うかな」
「違いますとも、あなたなんかはさかさに振っても鼻血も出やしないけれど、駒井様なら洋学もお出来になるし」
「洋学が出来さえすれば、毛唐は誰にでも金を貸すのか」
「洋学が出来て、御身分の保証がおありなされば、何万、何十万、何百万とまとまったお金を、右から左へ貸してくれますのよ」
「それはまた桁(けた)が大きいなあ、何万はいいが、何百万は事が大きいぞ」
「まあ、お聞きなさい、決して夢じゃありませんから」
 ここまで、立ち姿、襖越(ふすまご)しで話しかけていたお絹が、ずかずかと入りこんで来て、神尾の火鉢の前へ坐り、無雑作に白い手をさしのべて神尾の拳(こぶし)にさわるほど、親密に意気ごんで話を持ち込みました。

         七十二

 お絹は白い手を火鉢の前にかざして、神尾の手をなぶるような仕草をしながら、
「ねえ、あなた、小栗上野様(おぐりこうずけさま)を御存じ?」
「何だい、また人別(にんべつ)が変って来たな、今は駒井能登の戸籍しらべだが、今度は小栗上野と変って来た!」
「小栗様、御存じなの?」
「知ってるよ。知ってると言ったところで、親密という間柄ではないが、若い時はおたがいに見知り越しだ」
「では、もう一つ、勝安房様(かつあわさま)を御存じ?」
「勝――それは知らん」
「小栗上野様と、勝安房様と、どっちがおえらいの?」
「小栗と、勝と、どっちがえらい? とわしに聞くのか。変な質問を出したもんだなあ。いったい、お前が今日に限って、そんな柄にもないことを聞き出す、その了見方から聞きたい」
「まあ、いいから、わたしの質問だけに答えて頂戴――わけはあとでお話しするから。ねえ、勝様と小栗様と、どちらがえらいのですか、それを聞かせて頂戴よう」
「勝がエライか、小栗がエライか、おれはそんなことは知らん、だが、旗本の地位からいうと、二人は比較にならん、小栗は東照権現以来の名家だが、勝というのはドコの馬の骨か、このごろになって漸(ようや)く名が出たばっかりなんだ」
「お家柄は別としましてね、人物はどちらが上なんです」
「そりゃ、わからん、小栗は名家の末だからといって、当人が馬鹿では今の役はつとまるまいし、勝はまた無名のところから成り上ったくらいだから、相当の手腕がある奴だろう」
「同じお旗本のうちでも、その小栗様と、勝様とが、合わないんですってね、小栗様は徳川家を立てようとなさるし、勝様は薩摩と組んで、徳川家をつぶそうとしておいでなさるんですってね」
「そんなことがあるものか、小栗でなくったって、誰だって、旗本で徳川家を立てようとしない奴があるか、勝が薩摩と組んで徳川を潰(つぶ)すなんぞと、誰がお前に言った」
「誰いうとなく、そういった噂(うわさ)が聞えていますのよ、勝は奸物(かんぶつ)ですって」
「勝は奸物? 鰹節(かつおぶし)は乾物という洒落(しゃれ)だろう、勝だってなんだって、徳川家の禄を食(は)みながら、徳川家の不為(ふため)をはかる奴なんぞがあろうはずはないが、そこは時勢だ、傾き切った屋台骨を踏まえている身になってみると、いろいろの誹謗(ひぼう)が出るのはやむを得まい、井伊掃部頭(いいかもんのかみ)を見てもわかることだわな」
「それは、そうでしょう。では小栗様は小栗様、勝様は勝様として置いて、いったい、今の徳川様の天下をねらっている相手は誰なの」
「それは、薩摩と長州よ」
「そうなんでしょう、その薩摩と長州が、つまり徳川様の天下を倒そうとなさるんでしょう、それをそうはさせないと、小栗様や勝様が力んでいらっしゃるのですわね」
「勝と小栗に限ったことではないが、まず旗本では、あいつらが代表している」
「つまりは、薩摩や長州を相手に戦争ということになるわね。戦(いくさ)となると、兵隊さんがいります、その兵隊さんをたくさんに持った方が勝ち、兵隊さんをたくさんに持って、調練をみっちりとさせ、鉄砲や軍艦をふんだんに持った方が勝ち、それをしなければ、これからの戦争には勝てないんですってね。そこで、先立つものはやっぱりお金――そのお金が、上方にも、お江戸にも、今はないのですってね。お江戸では、権現様以来蓄えた莫大なお財(たから)も、もう使い果してしまったし、上方でも、どのお大名も内緒はみんな火の車。ですから、人には不足はないが、お金の戦争。そこへ行くと、異人さんが途方もないお金を持っている、そのお金を貸したがっている、そこで、つまりは異人さんを味方につけた方が勝つ、という理窟になるのじゃない?」
「さすがに、築地通いをしているだけに、見識が広大になったものだ――金ばかりじゃ戦はできないよ、第一、士気というものが弛(ゆる)んでいた日にゃ戦争はできない、その次が兵糧、その次が金だ」
「まあお聞きなさい、異人さんはね、そこのところへ目をつけて、日本へお金を貸したがってるんですとさ。それでね、上方の方へはイギリスという国が金主につき、お江戸の方へはフランスという国が金主について、お金をドンドン貸出して戦(いくさ)をさせることになっているんですとさ」
「ばかげた噂だ、毛唐を金主に頼めば、毛唐に頭が上らなくなる、日本を抵当にして、一六勝負を争うようなもんだから、どんなに貧乏したって、毛唐の金で戦ができるか」
「でも、お金は借りたって、返しさえすれば、国を渡さなくても済むんでしょう、貸すというものはどんどん借りて置いて、済(な)せる時に済せばいいじゃないの、戦に勝つ見込みさえつけば、ちっとは高利の金を借りたって直ぐに埋まるでしょう。もし負ければ借りっぱなし、負けた方から取ろうったって、それは貸した方の無理よ。戦争に金貸しをしようというくらいの異人は、太っ腹の山師なんでしょう、そのくらいのあきらめはついていないはずはないから、こんな時節には、貸そうというものを借りないのは嘘よ。で、上方でも、ずいぶんイギリスという国から借りる相談が出来ているという話ですし、こちらでも、小栗様なんぞは、このごろ、六百万両というお金をフランスから借りることになったんですってね、これはごくごく内密(ないしょ)なんですけれども、わたしは確かな筋から聞きました」
「ナニ、小栗がフランスから六百万両を借りる!」
 神尾は複雑な意味で、驚異の叫びを立てましたけれども、お絹の頭は単純な貸借関係と、金額の数字の多少だけのもの。
「ここで、あなた、駒井様あたりがその間に立って、異人さんと口を利(き)くには打ってつけのお方じゃありませんか、あんなお方が一口立会(たちあい)をなされば、あなた、六百万の一割のさやをいただいても六十万両――万事その伝なんですから、異人さん相手に大物をこなしさえすれば、濡手(ぬれて)で粟(あわ)の手数料――うまく当れば、あなた江戸一、三井や、鴻池を凌(しの)ぐ長者にもなれようというのは、今の時勢を措(お)いてはありません。それを知りつつ、洋学が出来ないばっかりで、宝の庫に入りながら、指を銜(くわ)えて、みすみす儲け口を取逃がしてしまうのが残念でなりません」

         七十三

 お絹は今日は、これだけのことを話して帰りました。
 洋学の出来ない恨みを、おれに向って晴らしに来たようなものだが、それはたしかにお門違いだ、当然、駒井甚三郎のところへ持って行かねばならぬものを、戸惑いしておれのところへ来た。
 だが、考えてみると、女というやつの考え方は、今に始めぬことだが浅どいものだ。洋学の知識というものも、畢竟(ひっきょう)ずるに、金を儲けるか儲けないかのために必要なので、それ以外には、てんであの女の頭にない。おれは洋学は嫌いで、駒井の奴はドコまでも好かない奴だが、まさか駒井だって、才取(さいと)りをするために洋学に志したのではあるまい。あの女は、金にさえなれば洋妾(ラシャメン)にもなり兼ねない女なんだから、駒井や我輩も同様に、学問そのものを利用して、大きな才取りができれば、それが専(もっぱ)ら功名だと心得ている。実にタワイないものだ、浅ましいものだ。だが、そのタワイのない、浅ましいところが、あいつの身上で、あれが、なまじい賢婦ぶりをし、烈女気取りをはじめたら、もう取るところはない。あれはあれでいいんだが、さて、これはこれでいいのか。
 今、あいつが、附けたりで口走って行ったところに、聞捨てのならないものがある。聞捨てにすべきところが、聞捨てにならない。本末も、始終も、見境のない女のことだから、その本論は憫笑すべく、その附けたりは傾聴すべしか。というのは、ああいう女が無心で受けて来る巷(ちまた)の声というやつに、案外、時代の政治が反映して来るものだ。
 小栗と、勝と、どっちがエライ。そんなことは鼻垂小僧のする質問だが、勝が薩摩と組んで、主家の徳川を倒そうとしている。小栗が金を外国から借りて、宗家のために戦おうとしている。この風聞は聞きのがせないぞ、たとえ市(まち)の偶語とはいえ、その拠(よ)るところは根が深そうだ。
 勝が奸物(かんぶつ)だという評判は、つまり彼が外交に苦心しているところなんだろう。小栗が軍用金を集めるということは、彼が主戦論の代表だということに、そのままそっくり受取れる。世が末になると、その二派はいつの時代にもあることだ。和戦両様の派が対立して、内輪喧嘩を内攻する。支那の宋の世の滅びた時の朝廷の内外が、つまりその鮮かな一例だ。おれは勝を一概に奸物と見たくないが、小栗の腹には無条件で納得する。彼の家は家康以来の名家で、いつも戦(いくさ)の時は一番槍を他に譲らぬというところから、家康の口から、又一番、又一番槍はその方か、又一、又一の渾名(あだな)が本名となった祖先の勇武の血をついでいる男だが、現今は勘定奉行をつとめていると聞いた。勘定奉行は重任だ、大蔵卿だからな。公卿(くげ)の大蔵卿は名前倒れの看板だが、傾きかけた幕府の大台所を一手に賄(まかな)う役目は重いよ、辛いよ。小(こ)っ旗本(ぱたもと)の家にしてからが、勘定方は辛いぞ。ドコの大名も困っている、五万石、十万石の大名の家の台所をあずかる身も辛いが、八百万石の天下取りの台所の傾きかかったのを支えるというのは大抵じゃない、少なくともおれにはやれない。
 小栗はこれを引受けて、これから、いざという時の軍用金、重々容易な苦心であるまいことも察するよ。金がなければ戦はできない、勿論のことだ、だが金だけで戦ができるものじゃない。第一、士気が振わなければ戦はできない、それから兵糧、それから金、と今も女に言って聞かせたのだが、さて実際、今の徳川に当てハメて見ると、この条件が叶っているかいないか、と念を押すまでもない、士気といったらごらんの通り、恥かしながらこの神尾主膳の如きが代表の一人かも知れぬ。食糧の点も、諸国の大名との交通に差しさわりがなく、幕下の知行が今のままなら何のことはあるまいけれども、いざ戦争となれば、天下が乱れて諸道が塞がる、江戸そのものの食糧が上ったりになりはしないか。金ときた日には――徳川家康は金を持っていたが、豊臣秀吉も金を持っていたぞ、天下を取る奴はみんな金を持っていた。金持がキッと天下を取るというわけではないが、金のない奴には大仕事はできない。いやいや大仕事をする奴は金運というものが向いて来るものなんだ、時運が盛んで、英気が溢(あふ)れていると、苦心しなくとも金なんぞは向うから集まって来るが、落ち目になると、ある金も逃げて行くよ。
 おれも貧乏だが、徳川の宗家も貧乏だよ。その傾きかかった宗家を支えて、戦争の一つもしようというには、先立つものは金だ。金だと言ったところで、生やさしいものではない。勝のおやじや、おれなんぞは、千三(せんみつ)をやっても、質草をはたいても、やりくりはつこうというものだが、宗家の台所となるとそうはいかない。天下を二つにわけて、最期(さいご)の合戦に堪えるだけの用意――それには毛唐の財布を借りなければいかないのか。
 まさか、小栗だって、国というものを抵当に置いて、毛唐から借金するまでに血迷いはすまい。毛唐の力を借りて徳川を立ててみたところで、日本という国が毛唐の下風に立つようになってはおしまいだ。あの女の言うところによると、幕府の方の後ろの金方はフランス、長州薩摩の方はイギリスだとのことだが、長州や薩摩だって同様だ、徳川が憎いからといって、毛唐に国を売るような振舞はすまい。
 だが、意地となると、どういう番狂わせが出来るか知れたものでない。今時きっての知恵者だという勝安房は、いったい、どういう考えを持っているのか。おれは一概にあいつを奸物だとは見たくないのだ。彼の本意を聞いてみたいものではないか。
 且つまた、小栗のはらがドコまで据わっているか、これも一番見届けたいものではないか。
 その他、いよいよという時に頼みになる奴は、ドコの誰で、どうしている。
 神尾が、しばし眼をつぶって沈思の体(てい)であったが、やがて開いた眼を落すと、読みさした「夢酔独言」の上に落ちて来る。
 以前ほど気乗りはしないが、とにかく、もうあと少しだ、読んでしまってみてやろうという気になって、丁をめくってみましたが、もはや心が全く書物の上から移ったようで、それでも、眼はその文字の上を惰力的に追っている。

         七十四

 神尾主膳は、せっかく興味をもって読みつづいていた勝の親父の自叙伝を、さきにはビタが来て妨げ、今はお絹が来て中断されたが、さきのビタは問題にならず、お絹の話して行った言句が気になって、これからは、うつろに何枚かの丁を飛ばして行ったが、ふと、しまい際へ来て、女、という文字に釣り込まれて読みついでみると、
「オレガ山口ニ居タ時分ダガ、或女ニホレテ困ッタコトガアッタガ、ソノ時ニ、オレガ女房ガソノ女ヲ貰ッテヤロウト云イオルカラ、頼ンダラバ、私ヘ暇ヲ呉レトイウカラ、ソレハナゼダト云ッタラ、女ノウチヘ私ガ参ッテ、是非トモ貰イマスカラ、先モ武士ダカラ、挨拶ガ悪イト、私ガ死ンデモライマスカラ、ト云ッタ、ソノ時ニ短刀ヲ女房ヘ渡シタガ、今晩参ッテキット連レテ来ルト云ウカラ、オレハ外ヘ遊ビニ行ッタラバ、南平ニ出先デ出会ッタ故(ゆえ)、何事無シニ咄(はな)シテ居タラバ、南平ガ云ウニハ、勝様ハ女難ノ相ガ厳シイ、心当リハ無イカト尋ネルカラ、右ノ次第ヲ咄シタラバ、ソレハヨクナスッタト云ウカラ、別レテ、又々、関川讃岐トイウ易者ト心易(こころやす)イカラ、通リガカリニ寄ッタラ、アナタハ大変ダ、上レトイウ故、上ヘ通ッタラバ、女難ノコトヲ云イオッテ、今晩ハ剣難ガ有ルガ、人ガ大勢痛ムダロウトテ、心当リハ無イカト尋ネルカラ、初メヨリノコトヲ話シタラバ肝ヲツブシテ、段々深切ニ意見ヲシテクレテ、女房ハ貞実ダト云ッテ、以来ハ情ヲ懸ケテヤレ、トイロイロ云ウカラ、考エテミタラバ、オレガ心得違イダカラ、夕方ウチヘ飛ンデ帰ッタラ、隠居ニ娘ヲ抱カセテ男谷(おたに)ヘヤッテ、女房ハ書置ヲシテウチヲ出ルトコロヘ帰ッテ、ソレカラ漸々(ようよう)止メテ、何事モ無カッタガ、是迄、度々、女房ニモ助ケラレシコトモアッタ、ソレカラハ不便(ふびん)ヲカケテヤッタガ、ソレマデハ一日デモ、オレニ叩カレヌトイウコトハ無カッタ、此ノ四五年、俄(にわ)カニ病身ニナッタモ、ソノセイカモ知レヌト思ウカラ、隠居様ノヨウニシテ置クワ」
 こういうおやじの兄弟も大抵ではないが、細君となるものがことさら思いやられる。亭主の馬鹿に比べてこの女房はエライ、勘弁が届いている――だが、内心ドノくらい、血の涙を呑んだことか。女ではおれもずいぶん馬鹿を尽しただけに、貞婦なる女房というものの有難さがわかって来た。さて、それからは、また頭に入って読みつづくと、
「オレガ隠居スル前年ダカ、吉原ガ焼ケテ、諸方ヘ仮宅ガ出来タ、ソノ時、山ノ宿(しゅく)ノ佐野槌屋ノ二階デ、端場(はしば)ノ息子熊トイウ者ト大喧嘩ヲシタガ、熊ヲ二階カラ下ヘ投ゲ出シテヤッタガ、ソノ時、銭座ノ手代ガ二三人来テ熊ヲ連レテ帰ッタガ、少シ過ギルト三十人バカリ、長鍵デ来テ佐野槌屋ヲ取巻イタカラ、オレガ肌ヲヌイデ、襦袢(じゅばん)一ツデ高モモ立ヲ取ッテ飛ビ出シテ叩キ合ッタガ、三度、二三町追イ返シタソノ時ニ、会所カラ大勢出テ引分ケタガ、ソレカラ山ノ宿デモ、女郎屋一同ニ、客ヲ送ル婆アモ、嬶(かか)アモ、オレガ顔ヲ下カラヨクヨクシオッタ故、何モ間違イガ無カッタ、ソノ時ハ刀ハ二尺五寸ノヲ差シテイタ、山ノ宿中、女郎屋ガ三日戸ヲシメタガ、事無ク済ンダ。
ソノ外、所々ニテノ喧嘩、幾度モアッタガ、タイガイ忘レタ。
浅草市デ、多羅尾七郎三郎ト、男谷忠次郎ト、ソノ外五六人デ行ッタ時ハ、二尺八寸ノ関ノ金光ノ刀ヲサシタガ――ソレニ急ニ七郎三郎ガ誘ッタ故、袴(はかま)ヲハカズニ行ッタカラ、雷門ノ内デ込合ウ故ニ、刀ガ股倉ヘ入ッテ歩カレナカッタガ、押合ッテ行クト、侍ガ多羅尾ノ頭ヲ山椒(さんしょう)ノ摺古木(すりこぎ)デブッタカラ、オレガ押サレナガラ、ソイツノ羽織ヲオサエタラバ、摺古木デマタオレノ肩ヲブチオッタ故、刀ヲ抜コウトシタラ、コジリガツカエタカラ、片ハシカラキリ倒スト大声ヲ上ゲタラバ、通リノ者ガパット散ッタカラ、抜打チニソノ男ノ逃ゲルトコロヲアビセタラバ、間合イガ遠クテ、切先デ背ヲ下マデ切下ゲタカラ、帯ガ切レテ大小懐中物モ残ラズ落シテ逃ゲタガ、ソウスルト伝法院ノ辻番カラ、棒ヲ持ッテ一人出タカラ、二三ベン刀ヲ振リ廻シテヤッタラ、往来ノ者ガ半町バカリ散ッタカラ、大小ト鼻紙入ヲ拾イテ、辻番ノ内ヘ投ゲ込ンダ、ソレカラ直グニ奥山ヘ行ッタ、漸々(ようよう)切先ガ一寸半モカカッタト思ッタ、大勢ノ混ミ合イ場ハ長刀モヨシワルシダト思ッタ、多羅尾ハ禿頭故ニ創(きず)ガツイタ、ソレカラ段々喧嘩ヲシナガラ、両国橋マデ来タガ、ソノ晩ハ何モホカニハ仕事ガナイカラウチヘ帰ッタ。
ソノ外ニモ、イロイロ様々ノコトガ有ッタガ、久シクナルカラ思イ出サレヌ、オレハ一生ノウチニ、無法ノ馬鹿ナコトヲシテ年月ヲ送ッタケレドモ、イマダ天道(てんとう)ノ罰モ当ラヌト見エテ、何事ナク四十二年コウシテイルガ、身内ニ創一ツ受ケタコトガナイ、ソノ外ノ者ハ或ハブチ殺サレ、又ハ行衛ガ知レズ、イロイロノ身ニ成ッタ者ガ数知レヌガ、オレハ好運ダト見エテ、我儘(わがまま)ノシタイ程シテ、小高ノ者ハオレノヨウニ金ヲ遣ッタモノモ無シ、イツモ力(りき)ンデ配下ヲ多クツカッタ、衣類ハタイガイ人ノ着ヌ唐物ソノ外ノ結構ノ物ヲ着テ、甘イモノハ食イ次第ニシテ、一生女郎ハ好キニ買ッテ、十分ノコトヲシテ来タガ、此頃ニナッテ漸々人間ラシク成ッテ、昔ノコトヲ思ウト身ノ毛ガ立ツヨウダ、男タルモノハ決シテオレガ真似(まね)ヲシナイガイイ、孫ヤヒコガ出来タラバ、ヨクヨク此ノ書物ヲ見セテ身ノイマシメニスルガイイ、今ハ書クノモ気恥カシイ、是レトイウモ無学ニシテ、手跡モ漸ク二十余ニナッテ、手前ノ小用ガ出来ルヨウニナッテ、好キ友達モ無ク、悪友バカリト交ッタ故、ヨキコトハ少シモ気ガ附カヌカラ、此様ノ法外ノコトヲ英雄ゴウケツト思ッタ故、皆ナ心得違イシテ、親類父母妻子ニ迄イクラノ苦労ヲ懸ケタカ知レヌ、カンジンノ旦那ヘハ不忠至極ヲシテ、頭取扱モ不断ニ敵対シテ、トウトウ今ノ如クノ身ノ上ニ成ッタ、幸イニ息子ガヨクッテ孝道シテクレ、又娘ガヨクツカエテ、女房ガオレニソムカナイ故ニ、満足デ此年マデ無難ニ通ッタノダ、四十二ニナッテ初メテ人倫ノ道、且ツハ君父ヘ仕エルコト、諸親ヘムツミ、又ハ妻子下人ノ仁愛ノ道ヲ少シ知ッタラ、是迄ノ所行ガオソロシクナッタ、ヨクヨク読ンデ味ウベシ、子ニ、孫ニマデ、アナカシコ。
于時天保十四年寅年初於鶯谷書ス夢酔道人」 これで一巻を読み了(おわ)った時、上野の鐘が、じゃんじゃんと鳴るのを神尾主膳が聞きました。
 上野の鐘がじゃんじゃんと鳴るのは警報ではない、上野のじゃんじゃんは通り物になっているのですが、今日はそのじゃんじゃんが、神尾が耳に事有りげに響いて聞えました。
「覚王院に会おう、そうだ、あの院主を叩いて、ひとつ聞いてみようではないか」
 神尾が突然、巻を叩いて立ち上ったのは、じゃんじゃんの鐘の音につれて、何か急に思い当ったことがあるらしいのです。
 その口の端(は)に現わされたところを聞くと、「覚王院」とある。

         七十五

 その後の与八の生活は、極めて無事でありました。
 無事は安定を意味するので、安定なくして無事があり得ようはずはありません。安定は畢竟(ひっきょう)、土地を基調とするのでありまして、つまり、土地に居ついたということが、人心の安定となるのであります。
 与八は、この土地に居ついた心持になりました。このところ、甲州有野村、富士と白根にかこまれた別天地――ここに於て、わが生涯が居ついたという感じが出ると共に、安定の心が備わりました。そこで、居る時は即ち安心、出づる時は即ち平和であります。そうして土に居ついて働くということが即ち行持(ぎょうじ)で、人に対するということが同時に教育でありました。
 ここに教育というのは、ことさらに定義のある教育ではない。自分に於ては行持、それが他に反映して、教育ともなれば教化ともなるのみで、与八にあっては、教育せんがための教育の何物もないのであります。与八こそは、全く世の謂(い)うところの教育せられない民でありました。彼は棄児(すてご)ですから、家庭の教育というものがありません。机の家へ拾われてから、弾正(だんじょう)の情けで、寺子屋教育のある部分だけを受けさせられたが、その当時の与八は、寺子屋教育の学問をさえ受入れられる素質を欠いておりました。
 ナゼだと言えば、二三、人の子の集まるところへ行くと、拾いっ児だという冷たい指さしが、この男の心を暗くしたのと、天性学問が好きでなかったから、学問の庭へ行くことを怖れ且つ避けました。そこで、主人側でも、むりやりにということをしないで、「なにも、字を知ることが最上の学問ではない、人間、字を知らなくても、字を知る以上の生活ができるものだ」という弾正が、他の人にはわからない警語を添えて、与八を早くから水車番に下ろしたものですから、これを天職として生きて来ただけのものです。その後、字を知らなくてはいけない、字を書かないと恥をかくということを、与八がようやく自覚して来たのは、相当の年になってからですが、その事は自ら言い出せませんから、水車小屋へ入って、囲炉裏(いろり)の灰の上へ、いろは、アイウエオを書いては消し、書いては消しているところを、弾正に認められて、それとなくお手本を与えられたのが、およそ字学というものの最初なのです。そうして、与八が若干の文字、曲りなりに手紙の文書を書いたり、小遣帳(こづかいちょう)をつけられる程度の素養が出来上ったと認められたのですが、これはかつて表面に現わしたことはない。今、こうして、この土地に安定をして、自分の周囲へ子供たちが集まって来るのを見ると、この子供たちを、このままで置けないという気になるのも自然でありました。
 ここに群がる子供たちの多数の親が、教育に無頓着である。そうして、仕事の邪魔になってうるさい場合には、「外へ出て、遊んでこう」と言って子供を追い出す。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:393 KB

担当:undef