大菩薩峠
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:中里介山 

「そういうわけだから、君はこの金でしかるべき芸妓家(げいしゃや)の株を買うようにし給え、それで余ったらば――」
と言って、極めて分別的な、しかも算盤(そろばん)に合う計画を立てて福松に示したのは、このあわらというお湯は、今こそ地中に埋れてはいるが、ゆくゆくこれが世に出ると、北国街道の要害でもあり、絹織物の名産地でもある福井の城下に近い形勝を占めたところだから、大いに繁昌するに相違ない。で、今のうちに多少なりとも地所を買い求めて、ゆくゆく温泉宿でも経営して、老後の安定を心がけてはどうだ。
 こういう分別的な、算盤に合う提案をしたものですから、それが福松をうなずかせもし、安心もさせ、あなたというお方は、ほんとに感心なお方、お若いに珍しい、品行がお堅い上に、老巧の年寄も及ばない行末の心配まで、本(もと)からうらまでお気がつかれる、まあ、何という感心なお方でしょうね、こんなお方、どうしてもはなしたくないわ、こんなお若くて、親切で、武芸がお出来になって、品行がよくていらっしゃる、その上、年配の苦労人はだしの分別までお持ちになる、手ばなしたくないわ、離れたくない、こんなお方をはなして人にとられては女の恥よ、女の意地が立たないわよ。ねえ、あなた、もう考え直す余地はなくって、このお金で、芸妓家の株を買い、余ったお金で、このあたりへ土地を買い、そうして、いっそのこと、あなたもこの土地へ納まっておしまいなさいよ。思い直すことはいけませんの、あなたは、あなたの本望がお有りなさるでしょうけれども、その御本望が成功なさったからとて、どうなりますの。
 もう一ぺん、思い直して頂戴よ、ここでまた福松が、いたく昂奮して参りました。
 別れを惜しんでいると、処女の親しみを感じるけれども、昂奮し出すと、売女(ばいた)のいや味が油のように染(し)み出す。兵馬は、これを迷惑がって、
「馬はいいですか、明朝六つに出立と申しつけて置いてくれましたね」
「いけませんの――思い直しは叶(かな)いませんの、では、あきらめます、いまさら、そういう未練は申し上げられないはずでしたのね、今晩一ばんだけの御縁――」
 あきらめられたり、あきらめ兼ねたり――女は三百両の大金の上へ、どっかりと身をくねらせて、やけ半分のような気持で、煙管(きせる)の雁首(がんくび)で煙草盆を引っかけて引寄せ、
「宇津木さん、あなたという人は、女の情合いは知ってらっしゃるが、女の意地というものがわかりませんのねえ」
「一通りはわかっているよ」
 兵馬も、自分が純粋無垢の青年だと誇るわけにはゆかない。その昔は江戸での色町で、相当な疚(やま)しい思い出がないとは言えないから、いささか恐れていると、女が、
「では、ほんの一くさり、わたしの身の上話を聞いて頂戴な、わたしののろけを受けて見て頂戴、今晩のは真剣よ」
 女は、もうまさしく畜生谷のほとり近い女にかえっている。兵馬はそれに怖れを感じ出しました。女はいよいよ自暴(やけ)気分に煙草を吹かしながら、
「身の上話なんて野暮(やぼ)なくりごとをやめましょう、未来のことを話しましょうね。それにしてもあたし、福松て名はドコへ行っても変えないことよ、それは、あなたにわかり易(やす)いために、何家の福松っておたずねになれば、すぐにドコのドの小路(こうじ)にいるということが、すぐにわかるように、福松って名はいつまでも変えないわ。屋号は前の株で何となるかわからないけれど、新しく自前(じまえ)になれたら、何とつけましょうねえ、そうそう、『宇津(うつ)の家(や)』とつけましょう、それがいいわ、宇津と御本名をそのままいただいては恐れが多いから、かなでねえ、かなで『うつの家の福松』といいでしょう、こんど福井へおいでになったら、何を置いても、『うつの家の福松』をたずねておいでなさい。こんどというこんどがいつになるでしょう、一月ぐらい待ちましょう、金沢へなり、京都へなり、おいでになったお帰りを待っています――うつの家の福松の御神燈を忘れちゃイヤよ。それからねえ、いつまでも看板を揚げて、御神燈の下ばかり明るくしても仕方がない、そのうちに足を洗いますよ、せいぜいここ一二年がところ稼(かせ)いで、それからあなたのおっしゃる通り、このあわらの温泉へ温泉宿を経営いたします、そうして丸髷(まるまげ)に結って、鉄漿(かね)をつけて、帳簿格子の前にちんとおさまって、女中男衆を腮(あご)であしらうおかみさんぶりを早くあなたに見せたい、きっと、遠からぬうちに、そうして見せるわ。どのみち、お約束ですから明朝はあなたを立たせて上げますけれど、お上りにしても、お下りにしても、長くてここ一月の後、この福井へ廻り道をなさらないと恨みますよ、そんなことを言っていると、もう焦(じれ)ったいわ、看板を買い、株を買い、自前になるとかならないとか、そんなこと間緩(まだる)くて仕方がない、今晩からでも廃業して、一本立ちの温泉宿のおかみさんと言われて人を使ってみる身分になりたい、いやいや、明日からまた、世間様の機嫌気づまを取って暮すことになるかと思うと、うんざりする。人間てわがままなのね、気の変りっぽいものね、今の先は、身の落着きがきまったと言って大よろこびで吹聴していたくせに、今となって、もう芸妓はいやで、世帯持のおかみさんになりたい、温泉宿屋のお内儀(かみ)にでもなりすました気分で、おおたばをきめこんでいるところなんか、まあ、自分ながら図々しさに呆(あき)れるわ。でも、このあわらへ温泉宿を持つことは、あたし骨になっても仕上げてみせますね、運次第ですけれども、風向きがよければ半年のうち、きっと何とか目鼻を明けてお目にかけることよ。宿をはじめてから、お客様が来て下すっても、下さらなくても、そんなことはかまいません、一度、あなたを呼んで、帳簿格子のお内儀(かみ)さんぶりを見せて上げさえすればそれでお気が済みますとさ。さあ、いよいよそうなるとしますとねえ、稼業(かぎょう)の方はうつの家でいいけれど、宿屋の方は何としましょうねえ、そうそう、あたしの福という字と、あなたの兵馬の馬という字をいただいて、福馬屋とか、福馬館とか名乗りましょうよ。いいでしょう、いけない? あたしの福が上になって、あなたの馬が下になる、それでは御機嫌が悪いの、いいでしょう、男ばっかり上になって、威張りたがらなくても、少しは女も立てるものよ、馬は人が乗るものだから、かまわないじゃありませんか。それにあなた、稼業の方は、うつと、あなたの字を立派にあたしの名の上にいただいているじゃありませんか、こんどは下にいて頂戴よ、仲よく、おたがいさまにねえ」
 兵馬は、そんなことは、いいとも悪いとも思わない、ただ今晩一晩は、この女のために、なんでもかでも聞き役になってやりさえすれば修行が済むのだ、義務が果せる! といういい気だけのもので、その間、ちょいちょい、座を白まさぬ程度にうけ答えているうちに、一番鶏が鳴き出しました。
「あら、鶏の夜鳴(よなき)でしょう、まだ一番鶏なんて、そんな時刻じゃないわ、鶏の夜鳴は不吉だというから、もし夜鳴がつづいたら、出立をお見合せあそばしませな、かえり初日ということもあるじゃないの。でも、相当に夜が更けたようだわ、どれ、もう一風呂浴びて参りましょう、夜も昼もあんなにお湯がふんだんに吹きこぼれているのに、勿体(もったい)ないわ、一度もよけいに浴びてやるのが、お湯に対しての功徳というものよ、ねえ、もう一風呂浴びましょう、のぼせたってかまわないじゃありませんか、今晩限りの湯治ですもの、湯疲れがしたって知れたものよ、あの通り、お湯が湯壺でふつふつと言って、人にお入り下さい、お入り下さいと催促をしつづけているじゃありませんか、入ってやらないのは罪よ、入りましょう、一緒に入りましょうよ、今晩限りのお別れなんですもの、のぼせあがって目が見えなくなってもかまわないじゃないの、ねえ一緒に入りましょう。また、あなた、今になって、いやに御遠慮なさるのねえ、白山白水谷のあの道中で、あの通りの道心堅固なあなたじゃありませんか、いまさら一緒にお風呂を浴びたからとて、落ちるようなあなたでもなし、落すほどの腕を持ったわたしなら何のことはないわ、ああ、あのお湯が鉛なら溶けてこの身をなくしてしまいたい……」
 女は、煙管(きせる)を抛(ほう)り出して、やけを繰返したかと思うと、衣桁(いこう)から浴衣(ゆかた)をとって、兵馬のドテラの帯に手をかけました。

         五十七

 宇津木兵馬は、その翌朝、まだ暗いうちに馬をやとうて、あわらを出立しました。
 芸妓(げいしゃ)の福松は戸際まで送り出でたけれども、お大切にという声がつまってしまったものですから、そのまま奥へ引込んで出て来ませんでした。
 さすがにこの女も、一間の中に泣き伏してしまったらしい。泣けて泣けて止まることができないために、意地にも、我慢にも、面(かお)が出せなくなったと解するよりほかはない。
 兵馬もまた、何とも言えない感情に震動させられながら、いったん福井の城下まで帰って来たのです。福井の町にこれ以上とどまるべき因縁は解消してしまったようなものの、このまま見捨てるには忍びないものがある。人情の上とは別に、ここも北国名代の城下であり、いや、自分の尋ねる敵の手がかりが、どこにどう偶然を待っているか知れたものではないというようなおもわくもあって、ともかくも市内の要所を一めぐりして、その足で鯖江(さばえ)から敦賀(つるが)――江州へ出て京都へ上るという段取りに心をきめました。
 道の順から福井の名所の第一は、もとの北の庄の城跡、織田氏の宿将柴田勝家がこれに拠(よ)って、ここで亡びたところ、その名残りのあとを見ると、神社があって、城郭の一片と、その時の工事の鉄鎖などがある。この庄の落城物語を歴史で読むと、巍々(ぎぎ)たる丘山の上にでもあるかと思えば、これは九頭竜川(くずりゅうがわ)の岸に構えられたる平城(ひらじろ)。昔は壮観であったに相違ないと思うが、今は見る影もない。それに引換えて、三十二万石福井の城がめざましい。転じて足羽山にのぼって見ると、展望がカラリと開けました。上に池があって「天魔ヶ池」と記された立札を見て、その名を異様に感じてその傍(かた)えを見ると、ここへ秀吉が床几(しょうぎ)を据えて軍勢を指揮したところだと立札に書いてあって、その次に一詩が楽書(らくがき)してある。
猿郎出世是天魔(猿郎世に出づ是れ天魔)
一代雄風冠大倭(一代の雄風、大倭に冠たり)
可惜柴亡豊亦滅(惜しむべし柴亡び豊また滅びぬ)
荒池水涸緑莎多(荒池、水涸(か)れて緑莎のみ多し)
清人  王治本 これを作ったのは支那人だな、詩はあんまり上手とも思われないが、支那人らしい詠み方だ――
 と思うと、その昔、秀吉がこの北の庄の城を攻め落し、柴田勝家が天主へ火をかけて一族自殺し終った、それを秀吉が高台から見下ろして豪快がったという悲壮な物語は太閤記で読んだが、なるほど、地理を目(ま)のあたり見ると、この地点がまさにそれだ。ここだというと、先刻見て来た北の庄の城あとが眼下に見える。この裏山をすでに占領されて、ここから敵に見下ろされるようになってはおしまいである。
 天主に火のあがるをながめて、秀吉が、もうそれでよし、勝家の亡後を見届けるに及ぶまい、なに、火をかけて城を焼いておいて、当人が逃亡して再挙を企てる憂えはないか。それを聞いて秀吉がカラカラと笑って、勝家ほどの大将が、天主に火をかけて逃げ出したら逃がして置け、と取合わなかった。そこに恥を知る武将の面影と、勝ち誇る英雄の余裕とが見られて、太閤記のうちでも面白いところだ。柴田勝家は織田の宿将第一で、地位から言っても、名望から言っても、秀吉などよりは遥(はる)かに先輩だ、これを亡ぼした時が、事実上の織田家を秀吉が乗取った時なので、もう内には秀吉の向うを張り得る先輩というものはない。これから外に向って、十二分の驥足(きそく)をのばすことができるのだから、秀吉にとって、この北の庄の攻略と、柴田の滅亡は、天下取りの収穫なのだ。
 いや、収穫といえばまだある、まだある、むしろそれ以上の収穫がここから秀吉の内閨まで取入れられたというものは、後年、天下の大阪の城を傾けた淀君(よどぎみ)というものが、ここから擁し去られて、秀吉の後半生の閨門を支配して、その子孫を血の悲劇で彩(いろど)らしめた。いったん浅井長政の妻となって、浅井氏亡ぶる時に里へ戻された信長の妹お市の方は、美男として聞えた信長の妹であり、国色として絶倫な淀君の母であるだけに、残(のこ)んの色香(いろか)人を迷わしむるものがあって、浅井亡びた後の論功行賞としては、この美しい後家さんを賜わりたいということに、内心、織田の宿将どもが鎬(しのぎ)を削ったが、そこは貫禄と言い、功績と言い、順序と言い、柴田に上越するものはない。そこで国色無双の浅井の後家さんは、先夫長政との間の二女を引連れて、柴田勝家に再縁の運命となった。この美色を得た勝家の得意や想うべしであったが、同時に、指を銜(くわ)えさせられた他の将軍の胸に納まらないものがある。なかにも羽柴筑前守ときた日には、後輩のくせに、功名を争うことと、色を漁(あさ)ることとは人後に落ちない代物(しろもの)であった。お市の方を得た柴田勝家が、これ見よがしに美人を引具(ひきぐ)して、ところもあろうにわが居城の江州長浜の前を素通りして、北の庄へ帰るのだ。お市の方をただ通してはならない、その乗物食いとめよと、羽柴の軍隊が柴田の行手に手を廻したなんぞというデマも相当に飛び、この時ばかりは、羽柴筑前守も指を銜えて引きさがるほかには手がなかったと思われる。それが幾許(いくばく)もなくして運命逆転――相手の宿将の城を焼き、一族を亡ぼす秋(とき)になってみると、秀吉としては、勝家の首を挙げるよりも、三度の古物(ふるもの)ではありながら、生きたお市の方の肉体が欲しい。勝家は勝家で、あらゆる羨望を負いながらお市の方を我が物としたけれども、元はと言えば主筋に当る、これをわが身、わが家の犠牲として同滅するには忍びない、そこで、お市の方に向って、汝(なんじ)はこれより城を出でて秀吉の手にすがれ、主君の妹であるそちを、秀吉とても粗略には扱うまいから、早々城を出るがよいと、いよいよのとき言い渡したが、お市の方とても、いったん浅井に嫁いで、夫亡ぶる時におめおめと城を出た自分が、またもその先例を繰返すようなことができようはずはない、今度こそは、夫君と運命を共にする、だが、二人の娘は浅井の胤(たね)であって、柴田の子孫ではないから、これは秀吉の手に托しても仔細はあるまいと、二女を城外に送り出して、自分は二度目の夫柴田と運命を共にした――という物語が語られてある。が、一説によると、お市の方も実はこのとき救い出されたのだが、表面はドコまでも柴田と共に亡びたということにして置いて、秀吉がひそかに伴い帰って、大坂城の奥ふかく隠して置いたという説がある。それは確かな説ではないが、浅井の二女を獲(え)ただけは否(いな)み難い史上の事実で、その一人は今いう淀君、他の一人は徳川二代秀忠の室となった光源院。
 そういう歴史口碑は、誰も知っている。兵馬もそれを知って、今こうして目(ま)のあたり、その場に臨んでみると、英雄だの美人だのという歴史の色どりが、幻燈のように頭の中にうつって来る。お市の方や、淀君や、これを得たものの勝利のほほ笑みと、これを失うものの敗北の悲哀――いわゆる歴史というものも、人物というものも、色に始まり色に終る、といったような感慨も起って来る。爾来(じらい)、この池を天魔ヶ池と呼ぶことになったらしいのは、天下到るところに人気(にんき)嘖々(さくさく)たる古今の英雄秀吉も、この地へ来ては、まさしく天魔に相違ない。
 本来、柴田勝家という人が、猛将の名はあるけれども、悪人の誹(そし)りは残していない。織田の宿将で、充分に群雄を抑えるの貫禄を持っていたし、正面に争わせれば、あえて秀吉といえども遜色(そんしょく)のある将軍ではなかったけれども、いかにせん、地の利を得なかった。
 北陸の鎮(しずめ)が遠くして、中京に鞭(むち)を挙ぐるに及ばない間に、佐久間蛮甥の短慮にあやまられ、敏捷無類の猿面郎にしてやられたという次第だから、全力を尽しての興亡の争いとは言えなかっただけに、柴田方に尽きざる恨みが残るというものである。当年、この猛将を主(あるじ)として城下に生を安んじていた者にとっては、最も誇るべき好主であって、悪(にく)むべき悪政の主としての記憶は微塵もないはず。それを時の勢いに乗じて、脆(もろ)くも踏み破って、その妻妾を取って帰るというような猿面郎の成金ぶりには、むしろ憎悪を感じようとも、好感の持てようはずがない。
 日本の人気から言えば、猿面郎は天下取りであるけれども、この土地から言えば、天魔来(きた)って好主を亡ぼす、と言って言えないこともない。他の地方ならば、秀吉の古跡を光栄として、これに「天下ヶ池」の名を附けたかも知れないが、ここでは「天魔ヶ池」という。まさに無理のない情合いもある、というようなことを兵馬が感じました。
 そういうような混み入る感情に、頭が縦横に働いたが、足羽の台に立つことしばし、歴史的の感傷がようやく去ってみると、ただ見る越前平野の彼方(かなた)遥(はる)かに隠見する加賀の白山――雲煙漠々として、その上を断雲がしきりに飛ぶ。今や雨を降らさんかの空に、風さえかけつけている。兵馬の眼と頭脳とは、はしなくも去って、あわらのいでゆの曾遊――といっても、たった今の朝、辞して出て来たその後朝(きぬぎぬ)のことに思い到ると、何かは知らず、腸(はらわた)がキリキリと廻るような思いが起って来ました。

         五十八

 福井を出立した宇津木兵馬は、浅水、江尻、水落、長泉寺、鯖江、府中、今宿、脇本、さば波、湯の尾、今庄、板取――松本峠を越えて、中河、つばえ――それから柳(やな)ヶ瀬(せ)へ来て越前と近江の国境(くにざかい)。その途中、鯖江を除いては城下とてはなく、宿々駅々も、表日本の方に比べて蕭条(しょうじょう)たるものでありましたけれども、それでも、歴史に多少とも興味を持つ兵馬は、もよりもよりの名所古蹟に相当足をとどめて、専(もっぱ)ら、北国大名と京都との往来交渉を考えたりなどして歩みました。そうして無事二十里の道を突破して、このところ、越前と近江の国境、柳ヶ瀬までの間、道の甚(はなはだ)しく迫ることを感じ、なるほど、ここは要害だ、柴田勝家が越前から上るにしても、羽柴秀吉が近江から攻めるについても、両々共にその咽喉首(のどくび)に当る、兵を用ゆるには地の利を知らなければならぬというようなことを、何とはなし、痛切に感ぜしめられました。
 そうして、福井の足羽山で呼び起された柴田陥落の悲劇だの、太閤の雄図だの、実際に於ての想像を追うて行くうちに、不思議と、北の庄の城から送られて来る淀君の面影、その母のお市の方、武力戦は同時に色慾戦であった。国を取り、城を屠(ほふ)った勝利者の獲物の中には、必ずや女がある――というようなことまで、ひとり旅の身には、何とはなしに思いやられるのでありましたが、実を言うと、それらの名所古蹟よりも、歴史人物よりも、兵馬の脳中に食いついて離れないのは、あの田舎芸者(いなかげいしゃ)の福松のことばっかりでありました。我ながら、切れっぷりのさっぱりしたことを感じないでもないが、それにしても、どうも痛切にあの女のことばっかりが頭に残っているのは、何としたことだ。
「あなたは、女の情合いというものはわかっているけれど、女の意地というものがわからない」――自分としては実際、手際よく相手になり、手際よく別れて来たと思うけれど、それにしては、何か大事なものを落して来たような気がしてならない。捨てたつもりでやって来たのに、実はまだ頭に置いている、背に負っている。昔、なにがしの禅僧が二人、川の岸に立っていると、一人の手弱女(たおやめ)が来り合わせて、川を渡りわずらうのを見て、一人の禅僧が背中を貸して、その妙齢の女を乗せて川を渡してやって、向う岸で卸(おろ)して別れた。程経て、一人の禅僧が曰(いわ)く、君とは今後同行を断わる、なぜだ、出家の身で眼に女人を見るさえあるに、その肉体を自分の背に負うて渡るとは何事だ、そういう危険な道心者とは同行を御免蒙(こうむ)りたい、そう言われると、女を負うて渡した禅僧が恬然(てんぜん)として答えるよう、おれはもう女を卸してしまったが、貴様はまだ女を背負っている!
 そうだ、そうありそうなことだ、おれはまだ女と別れていないのだ、と宇津木兵馬が、むらむらとそのことを考えました。兵馬は自分が潔白無垢な身上だとは信じていない。色里に溺(おぼ)れて人を泣かせたこともあるし、女に対しては脆(もろ)いものだという過去の経歴を自白せざるものあるを悲しむ。だが、妙に人見知りをして、意地を張ることもあるにはある。迷うべき時には迷うが、迷わざらんと意地を張れば、張り通すこともできるのだと信じてもいるし、また相手次第によって、人見知りをする引け目か用心か知らないが、一髪に食いとめる体験をしていないではない。お松のような堅実な女性には、どうも、いくら真実が籠(こも)っていても、狎(な)れることを為し得られないし、お絹というような爛(ただ)れた女の誘惑は、逃げることも知っているが、今度の道中では、あの大敵を道づれにして、とうとう自分の節操を守り通して来たということに、多少とも勝利に似たような快感を覚えて、かく引上げては来たのだが、ここへ来るまで、何やら言い知れぬ空虚を感じ、綿々としてあの女のために糸を引かれてたまらない。自分が、あの女一人を目の敵(かたき)として、女は絶えず素肌で来ているのに、自分だけは甲冑を着通して相手になって来た、それは勇者の振舞でもなんでもなく、卑怯な、強がりな、笑止千万な行程ではなかったか。落ちなかったところが何の功名? 落ちてみたところが何の罪? たかが女一人のほだし、女というものの意気に感じてやらなかった自分がかえって大人げない! 今となってみると、無性に何だか、あの女がかわいそうだ。あの女としては、全力を尽して、自分の身上を働きかけて来たのだから、その意気を買ってやるのもまた男ではないか。必ずしも清浄潔白とは言えない身で、変なところへ意地を張って来てみたのが、おかしい。なお一皮の底を剥いで見ると、あの種類の女には毒がある、毒というのは誘惑の毒ではない、体毒がある、つまり悪い病気がある、それを内心怖れていじけたのか――何にしても、女は素肌で来ているのに、甲冑をかぶり通して来た自分が卑怯未練だ!
 兵馬は、その思いに迫られてみると、手の中の珠(たま)を落して来たような焦燥を感じたり、宝かなにか知らないが、溢(あふ)れきった蔵の中に入って手を空しうして出て来た、といったような物足らなさが、ひしひしと心に食い入って、もう一ぺん引返して、女を見てやろうかという気分にさえ襲われたが、二十里も来て、ばかばかしい、そんなことが――と冷笑してみたりしたのですが、結局、高山以来の山の道中の、女のもてなしが、ここへ来て、ひしひしと体あたりを食(くら)い、あのとき突返した自分の受身が、今このところで、たじたじとなって、ああ、つまらない、なんだか世の中が味気ない気持になったよ――歴史のことも、英雄のことも、兵馬の念頭から消滅して、呆然(ぼうぜん)と立ち尽した越前と近江の国境――そこで兵馬は後ろ髪を引かれている。
 行こか越前、帰ろか近江、ここが思案の柳ヶ瀬の峠――
 そこへ、行手、すなわち近江路の方から、高らかに詩を吟じて上り来(きた)る人声が起りました。

         五十九

 兵馬が待つ心地で立っていると、彼方(かなた)から上って来るのは、たった一つの笠、しかも背の低い、ずんぐりした書生体の青年であることが、一目見てはっきりとしました。
 近づき来(きた)るをよく見れば、白い飛白(かすり)の単衣(ひとえ)をたった一枚着て、よれよれになった小倉の袴をはき、頭には饅頭笠をかぶり、素足に草鞋(わらじ)をつけ、でも、刀は帯びているが、それ以外には旅の仕度もしてなければ、荷になるほどのものも持ってはいない。肩から一つ、ズックのカバンのようなものを釣り下げているばかり。
 そこで、兵馬と行き逢いました。人跡の稀れな山中の出会いですから、おたがいに言葉をかけ合うのが当然です。
「こんにちは――」
と先方が、笠をかたげてまず兵馬に挨拶をしかけましたから、兵馬も、
「やあ」
と言いました。先方は第二句をつづける代りに、兵馬の立っているすぐ足許(あしもと)へ、どっかりと腰を卸してしまい、
「幸いに、好天気ですな」
 存外、世間慣れた口の利(き)きぶり。兵馬は一見して、これは遊学の書生だと思いました。同じ書生にしても、丸山勇仙のように世間ずれがし過ぎたのではなく、相当度胸があるが、一面、極めてウブな青年だと思いました。
「ドコにおいでです」
と兵馬から尋ねられて、
「これから、越前の福井へ帰るです」
「ドコからおいで?」
「近江の胆吹山(いぶきやま)から参りました」
 越前福井へ行くというのは常道だが、胆吹山から来たというのが少し変です。
「胆吹山から――」
 兵馬も不審を持ちながら、この青年を相手に少し話して行こうと、自分も路傍のほどよき木の根に腰を卸して、青年と押並んで話しよい地点を保つと、青年が、
「胆吹山で、少し働いておりましたが、これからひとまず故郷の越前福井へ帰ってみようと思います」
「胆吹山で何を働いておいででした」
と兵馬がたずねたのは、最初から胆吹山というのが気にかかったからです。この青年は山稼(やまかせ)ぎをすべき青年ではないし、山稼ぎをして来たとも思われない。神戸から来た、大阪から来た、彦根から来たといえば、そのまま受取れるが、山から来たということが、そぐわない思いでした。それを青年は、御尤(ごもっと)もと言わぬばかりに、問われない部分まで、差出でて兵馬に語り聞かせます――
「御存じでございましょうが、胆吹山にこのごろ、例の上平館(かみひらやかた)の開墾が起りまして、そこに一種の理想を抱く修行者――同志が集まって、一王国の生活を企てている、そういう風説(うわさ)を聞きましたものですから、僕は越前の福井からかけつけて、右の団体へ加入してみたんです。僕のは、必ずしも、あの団体の主義理想に共鳴したというわけではありません、本当を言うと英学がやりたいんです。僕は非常に外国語をやりたいんでしてね、それも、今はもう蘭学ではいけないそうです、蘭学は古いんだそうですから、ぜひ英学の方をやりたいと思って、諸所に師匠をたずねましたが、どうも評判倒れが多くて、本当に英学の出来る学者というのが少ないんでしてな、困っておりました。ところが、聞くところによりますと、胆吹の開墾王国の中には、すばらしい語学の達者な人が隠れている、そのほか、あの団体の中には、世を拗(す)ねたエライ人物が隠れて加わっているという風説を聞きましたものですから、僕は故郷を飛び出して参加したんですが、どうも、僕の頭では、あの人たちの行動がよく呑込めません。しかしまあ、体力相当に、開墾の方もやれば、炭焼もやり、帳面つけなども致しましてな、留まっているうちに、その英学の方は、御当人は出来ないけれども、いい先生を紹介してやると言ってくれた先輩がありましてな、その人から紹介状をもらいました。その先生は江戸におられるのです、当時、英学にかけては、その右に出でる人はあるまいとのことですが、なんにしても身分が旗本のいいところですから、なかなか入門がかなうかどうか、面会すら許されるかどうかわからないが、とにかく、胆吹山の先輩に紹介状をもらいましたものですから、これからまた故郷の福井へ帰って、旅費を工面(くめん)して、江戸へ向って出直すつもりで、それで、胆吹山を立って参ったんです」
 青年は能弁に、すらすらと、問われない部分まで明快に話し出したものですから、その物語りだけで、すっかり、その過ぎ越しも、行く末も、明瞭に諒解がつき、全くこの青年が、好学に燃える一青年以外の何者でもないということがわかりました。
 ただ、よくわからないのは、その胆吹山に巣を食うという一味の開墾者の団体の性質のことですが、それは兵馬として詳しく問いただすべきことではない。もう一つ――江戸で有数な英学者、身分は旗本――というようなことも、離して別々に持ち出されてみると、兵馬も思い当るところがあったに相違ないが、青年の志望を主として聞いていたものですから、兵馬としての受け答えは、この好学の青年の志望を讃して、励ましてやることにはじまりました。
「それは結構な志だ、しっかりやり給え、江戸はなかなか誘惑が多いからな」
 江戸は誘惑が多いことなんどを、特に附け加えて、はじめて兵馬も自分がテレ加減になっていると、今度は青年の方で反問的に、
「あなたは、ドコからおいでですか」
とたずねました。兵馬が、
「拙者は越前福井から来たのですが……」
「へえ、あなたは福井から、僕は福井へ帰るんですが、僕は本来、福井のものが福井へ帰るまでなんですが、あなたは福井のお方ではござんすまいね」
「そうです、拙者は旅から旅を廻って歩くものです――」
「どちらが御生国なんですか」
「まあ、江戸ですね」
「江戸ですか、それは懐かしいです」
 青年が懐かしいというのは、どういう意味かよくわからないが、多分、この青年には過去に於て江戸を懐かしがる何物もないけれど、これからの目的地として、懐かしがるべき理由が大いにあるというのでしょう。

         六十

 この青年と、かなりの長い談話をした後に、兵馬は、いざ別れようとして、
「君、福井へ帰るなら、一つ頼みたいことがある」
「何ですか、喜んで頼まれます」
「実はねえ」
と兵馬は、何と思ったか、自分のかぶっていた一文字の菅笠(すげがさ)を取って、
「申し兼ねるが、君のその笠と、僕のこの笠と取換えていただけまいか」
「え、僕のこのみすぼらしい饅頭笠と、あなたのその菅笠と、無条件交換ですと、僕の方が大きに儲(もう)かります、それでいいですか」
「いいですとも、君、ひとつこの笠をかぶって福井へ帰って下さい、僕は君の笠をかぶって近江へ行きたい」
「傾蓋(けいがい)の志ってやつですか」
「いや、そういうわけでもない、必ずしも君に対する志というわけではないが、ところで、もう一つ、いま、拙者がその笠へ一筆書きますから、君はそれをかぶって福井へ着いたならば、その笠をそっくりひとつ、僕の名ざすところへ届けてもらいたいのだ」
「笠だけを届ければいいんですか、おやすいことです、広くもあらぬ福井の城下ですから、所番地さえわかっておりますれば」
「実は、福井の堺町というのです」
「堺町、知ってます」
「その堺町で、うつの家――福松というところへ、この笠を届けてもらいたい」
「堺町で、うつのや福松君ですか、よろしいです、番地はなくてもわかりましょう」
と心やすく引受けた。その語気によって察すると、この青年は、相手を男性と見ているらしい。男性と見ていないまでも、女性であり、ああした女だとは、夢にも当りをつけていない。実は、兵馬も、思いきってうつの家福松の名を言った時に、青年から一応、疑惑の眼を向けられての上で、反問をされるものと期待して、いささかテレて言い出したのですが、先方は、そんな思惑は微塵(みじん)もなく、福松君ですか、福松君ならば――どこまでも、相手を男性に置いて疑うことをしないから、済まないが、むしろ勿怪(もっけ)の幸いだというような気分にもなって、兵馬としては図々しく、
「うつの家の福松と言えば、すぐにわかることになっているのですが、では、ひとつお願い申しましょうかな」
と言って、自分のかぶって来た一文字の笠を取り直しました。そうして、矢立を取り出して、墨汁を含ませて、何をかしばらく一思案。それから、さらさらと笠の内側の一部分へ、
思君不見下渝州
 さらさらと認(したた)めて投げ出したものですから、その筆のあとを、青年がしげしげと見て、
「ははあ、李白ですな、唐詩選にあります」
「いや、どうも、まずいもので」
 青年は、うまいとも拙(まず)いとも言ったのではないのに、兵馬は自分でテレて、つかぬ弁解をしていると、
「いや、結構です、君を思えども見ず、渝州(ゆしゅう)に下る――思われた君というのが、つまり、そのうつのやの福松君ですな、福井の城下で、あなたとお別れになって、友情綿々、ここ越前と近江の国境(くにざかい)に来て、なお君を思うの情に堪えやらず、笠を贈って、その旅情を留めるというのは、嬉しい心意気です、友人としてこれ以上の感謝はありますまい、この使命、僕自身の事のように嬉しいです、たしかに引受けました」
 それと知れば、ただではこの使はつとまりませんよ、何ぞ奢(おご)りなさい、とでも嬲(なぶ)りかけらるべきところを、この好青年は、悉(ことごと)く好意に受取ってしまったものですから、兵馬はいよいよ済むような、済まないような気分に迫られたが、今更こうなっては打明けもならず、また、ブチまけてみるがほどのことでもないと、
「では、どうぞ、お頼みします、その代りに君の笠を貸して下さい」
「竹の饅頭笠(まんじゅうがさ)で、いやはや、御粗末なもので失礼ですが、お言葉に従いまして」
 青年は、自分のかぶって来た饅頭笠を改めて兵馬に提出したが、これはなんらの文字を書こうとも言わず、それはまた提灯骨(ちょうちんぼね)で通してあるから墨の乗る余地もないもの。
 これが縁で袖摺り合う間、二人は十年の知己の気分になって、ここで、おたがいに携帯の弁当を開き、水筒の水を啜(すす)って、会談多時でありましたが、青年は食事中に、歴史的知識を兵馬に授けました、
「ここです、この場所が、柴田勝家じだんだの石というのです、織田信長が本能寺で明智のために殺された時、柴田勝家は北軍の大将として、佐々、前田らの諸将を率いて、越後の上杉と戦っていたのですが、変を聞いて軍を部将に托して置いて、急ぎ都をさして走り帰ったのですが、この、柳ヶ瀬のこの地点へ来ると、もはや羽柴秀吉が中国から攻め上って、山崎の一戦に明智を打滅ぼしたという報告を、ここで受取ったものですから、柴田が、猿面郎にしてやられたりと、地団駄を踏んだという言いつたえがあるのです」
「そうでしたか。してみるとこの地は、勝家にとってはなかなか恨みの多いところだ、万一、あの人が中原に近いところに領土を持っていたら、秀吉をして名を成さしめるようなことはなかったに相違ない」
「それはそうに違いないと僕も思いますが、また必ずしも、そうと断言のできないものもありますよ。僕は、これでもやっぱり北人ですから、勝家贔屓(びいき)はやむを得ませんが、なにしろ、相手が秀吉ですからなあ。徳川家康でさえ、あの時に京畿の間にいたんですが、手も足も出ない、それを、あの秀吉が疾風迅雷で中国からかけつけて、ぴたぴたと形(かた)をつけてしまったんですからな、あれは天才ですから」
「しかし、あの時の家康は裸でしたから、手も足も出ないのが当然だが、勝家が近畿にいたら、あんなことはありますまい」
 こんなことを語り合って、いざや両々、これでお別れという時に、青年が、
「僕、お別れに詩を吟じましょう、今のその渝州(ゆしゅう)に下るを一つ……」
峨眉(がび)山月、半輪ノ秋
影ハ平羌(へいきやう)、江水ニ入(い)ツテ流ル
夜、清渓ヲ発シテ三峡(さんけふ)ニ向フ
君ヲ思ヘドモ見ズ渝州ニ下ル
 青年は高らかに、その詩を吟じ終ったが、自分ながら感興が乗ったと見えて、
「もう一つ――陽関三畳をやります」
渭城(ゐじやう)の朝雨、軽塵を□(うる)ほす
客舎青々(かくしゃせいせい)、柳色新たなり
君に勧む、更に尽せよ一杯の酒
西の方、陽関を出づれば故人無からん
「無からん、無からん、故人無からん」を三度繰返された時、誰もする別離の詩ではあるけれど、今日の兵馬の魂がぞっこんおののくを覚えました。
 さて、と二人は立ち上りました。
 ここで二人は、近江と越前へ、おたがいにまだ手に持って、頭に載せない取交わせの笠を手に振りながら、姿の見えなくなるまで、さらばさらばと振返り振返り別れました。
 別れた後、兵馬は、この好青年にあらぬ使命を持たせたものだ、福井へいたりついて、尋ねる主を発見した時、この青年の驚異のほどが思われる。驚異はいいが、からかわれたと憤慨して、相手に当り散らされても困る。だが、あんな磊落(らいらく)な青年だから、相手が相手と知っても、一時はおやと驚くかも知れないが、すぐに打ちとけてしまって、さっぱりとあれを渡して、あの女からお礼に御馳走でもされて、かえって痛み入るというところだろう――とにかく、兵馬としては座興でもなし、遊戯気分でもなし、無邪気の青年をからかうような気分は少しもなく、むしろ、何か一片の真情が、脈々として心琴をうつものがある。
「忘れられない」
 うつつ心に、こう言って、近江へ下る足がたどたどしい。
 ほどなく近江へ出て、中の郷、木の本、はや見から長浜へ――長浜へ来て、兵馬は計らずも見のがせないものを認めてしまいました。
 それは、長浜の岸を飛ぶ一人の急飛脚――ただの飛脚ならばなんでもないが、その足どり、身のこなし、たしかに見覚えのある、それは、がんりきの百蔵というやくざ者に相違ないということを、確認したからです。
 その瞬間に、万事を忘れて、
「あいつが来ているからには、何か事がある」
 自分の胸へ、何とはつかず、ぴーんと来るものがありました。

         六十一

 神尾主膳は相変らず、勝麟太郎(かつりんたろう)の父、夢酔道人の「夢酔独言」に読み耽(ふけ)っている。
 神尾をして、かくも一人の自叙伝に読み耽らしむる所以(ゆえん)のものは、かりに理由を挙げてみると、人間、自分で自分のことを書くというものは、容易に似て容易でない。第一、人間というやつは、自分で自分を知り過ぎるか、そうでなければ、知らな過ぎるものである。自分で自分を知り過ぎる奴は、自分を法外に軽蔑したり、そうでなければ自暴(やけ)に安売りをする。自分で自分を知らな過ぎる奴は、また途方もなく自分を買いかぶるか、そうでなければ鼻持ちもならないほど、自分を修飾したがる。
 よく世間には、偽らずに自分を写した、なんぞというけれど、眼の深い奴から篤(とく)と見定められた日には、みんなこの四つのほかを出でない――極度に自分を買いかぶっている奴と、無茶に自分を軽蔑したがる奴、それから自暴に自分の安売りをする奴と、イヤに自分をおめかしをする奴――自分で自分をうつすと、たいていはこの四つのいずれにか属するか、或いは四つのものがそれぞれ混入した悪臭のないという奴はないのが、このおやじに限って、どうやらこの四つを踏み越えているのが乙だ。あえて自分をエラがるわけでもないし、さりとて乞食にまで落ちても、落ち過ぎたとも思っていないようだ。自分を軽蔑しながら、軽蔑していない。おめかしをして見せるなんぞという気は、まず微塵もないと言ってよかろう。
 神尾のような人間から見ると、自分が、あらゆる不良のかたまりでありながら、人のアラには至って敏感な感覚にひっかかると、及第する奴はまず一人もない。大物ぶる奴、殿様ぶる奴、忠義ぶる奴、君子ぶる奴、志士ぶる奴、江戸っ子がる奴、通人めかす奴……神尾にあっては一たまりもない。新井白石の折焚柴(おりたくしば)を読ませても、藤田東湖の常陸帯(ひたちおび)を読ませても、神尾にとっては一笑の料(しろ)でしかあるに過ぎないけれど、夢酔道人の「夢酔独言」ばっかりは、こいつ話せる! いずれにしても、神尾をして夢中に読み進ましめるだけの内容を備えていることは事実で、そうして読み進む文面を、順を逐(お)って複写してみると、あれからの勝のおやじの自叙伝が次のようになっている。
「ソレカラ、ダンダン行ッテ、大井川ガ九十六文川ニナッタカラ、問屋ヘ寄ッテ、水戸ノ急ギノ御用ダカラ、早ク通セト云ッタラ、早々人足ガ出テ、大切ダ、播磨様ダトヌカシテ、一人前払ッテオレハ蓮台(れんだい)デ越シ、荷物ハ人足ガ越シタガ、水上ニ四人並ンデ、水ヲヨケテ通シタガ、心持ガヨカッタ」
 勝麟太郎の親父――小吉ともいえば、左衛門太郎ともいう馬鹿者が、子供の時分から、箸(はし)にも棒にもかからない代物(しろもの)で、喧嘩をする、道楽をする、出奔をする、勘当を受ける、それもこれも、一度や二度のことではない。そのたわけ物語の書出しに、
「オレホドノ馬鹿ナ者ハ世ノ中ニモアンマリ有ルマイト思ウ故(ゆえ)ニ、孫ヤ彦ノタメニ話シテ聞カセルガ、ヨク不法モノ、馬鹿モノノイマシメニ話シテ聞カセルガイイゼ」
と言っている通り、馬鹿も度外れの馬鹿になっている。しかし家は剣道で名うての男谷(おたに)の家、兄は日本一の男谷下総守信友であって、それに追従する腕を持っていたのだから、始末が悪い。
 最初の出奔は十四の時。乞食同様ではない、乞食そのものになりきって、海道筋をほうつき歩き、やっと江戸のわが家へのたりついたが、十九の年にまたぞろ出奔して、今度は前と違い、
「オレガ思ウニハ、コレカラハ、日本国ヲ歩イテ、何ゾアッタラ切死ヲシヨウト覚悟デ出タカラ、何モコワイコトハ無カッタ」
と、剣術道具を荷(にな)い、腹を据(す)えて出て来て、宿役人を愚弄(ぐろう)する、お関所を狼狽(ろうばい)させる、大手を振って東海道をのして来て、水戸の播磨守の家来だと言って、大井川にかかるところまで読んで来たので、これからがその読みつぎになるのです。
「ソレカラ遠州ノ掛川ノ宿ヘ行ッタガ、昔、帯刀(たてわき)ヲ世話ヲシタコトヲ思イ出シタカラ、問屋ヘ行ッテ、雨ノ森ノ神主中村斎宮(いつき)マデ、水戸ノ御祈願ノコトデ行クカラ駕籠(かご)ヲ出セトイウト、直グニ駕籠ヲ出シテクレタカラ、乗ッテ、森ノ町トイウ秋葉街道ノ宿ヘ行ッタ、宿デ駕籠人足ニ聞イタラ、旦那ハ水戸ノ御使デ、中村様ヘ行カシャルト言ッタラ、一人カケ出シテ行キオッタガ、程ナク中村親子ガ迎エニ来タカラ、オレガ駕籠カラ顔ヲ出シタラ、帯刀ガキモヲツブシテ、ドウシテ来タト云イオルカラ、ウチヘ行ッテ委(くわ)シク咄(はな)ソウトテ、帯刀ノ座敷ヘ通リテ、斎宮(いつき)ヘモ逢ッタガ、江戸ニテ帯刀ガ世話ニナッタコトヲ厚ク礼ヲ云イオル、ソレカラ江戸ノ様子ヲ話シテ、思イ出シタカラ逢イニ来タト云ッタラ、親子ガ悦(よろこ)ンデ、マズマズ悠々ト逗留シロトテ、座敷ヲ一間明ケテ、不自由ナク世話ヲシテクレタカラ、近所ノ剣術遣イヘ遣イニ行クヤラ、イロイロ好キナコトヲシテ遊ンデ居タガ、ソノウチ、弟子ガ四五人出来テ、毎日毎日、ケイコヲシテイタガ、所詮ココニ長ク居テモツマラヌ故(ゆえ)、上方ヘ行コウト思ッタラ、長州萩ノ藩中ノ城一家馬トイウ修行者ガ来タカラ、試合ヲシテ、家馬ガ諸所歩イタトコロヲ書キ記シテイルウチ、家馬ガ不快デ六七日逗留ヲシタイトイウカラ、泊ッテイルウチハ立タレズ、イロイロト支度ヲシタラ、斎宮ハアル晩、色々異見ヲ云ッテクレテ、江戸ヘ帰レトイウカラ、最早決シテ江戸ヘハ帰ラレズ、此処(ここ)デ二度マデウチヲ出タ故、ソレハ忝(かたじけな)イガ聞カレヌト云ッタラ、ソンナラ、今暑イ盛リダカラ七月末マデ居ロトイウ故、世話ニモナッタカラ、振リ切ラレモ出来ヌカラ、向ウノ云ウ通リニシタラ、悦ンデナオナオ親切ニシテクレタ、毎日毎日、外村ノ若者ガ来テ、稽古ヲシテ、ソノ後デ、方々ヘ呼バレテ行ッタガ、着物ハ出来、金モ少シハ出来テ、日々入用ノモノハ、通帳(かよいちょう)ガ弟子ヨリヨコシテアルカラ、只(ただ)買ッテ遣ウシ、困ルコトモナク、ソコヨリ七里脇ニ向坂トイウ所ニ、サキ坂浅二郎トイウガイルガ、江戸車坂井上伝兵衛ノ門人故、江戸ニテ稽古ヲシテヤッタモノ故、ソコヘ度々(たびたび)行ッテ泊ッタガ、所ノ代官故ニ工面モイイカラ、オレガコトハイロイロシテクレ、ソレ故ニウカウカトシテ七月三日迄、帯刀ノウチニ逗留シテイタガ、アル日江戸ヨリ石川瀬兵衛ガ、吉田ヘ来ル序(ついで)ニ、今日ココヘヨルトイウカラ、座敷ノソウジヲシテイタラ、オレガ甥(おい)ノ新太郎ガ迎イニ来オッタカラ、ソレカラ仕方無シニ逢ッタラ、オマエノ迎エニ外ノ者ヲヤッタラ、切リチラシテ帰ルマイト、相談ノ上、ワタシガ来タカラ、是非共、江戸ヘ帰ルニシタ」
 ここのところ、「帰るにした」と切ったところ、文章が少し変だと神尾も感じたが、文章字句の変なのは、ここにはじまったのではない。別段、文章家の文章というわけではないから神尾も深く気にしないで、いよいよ先生、また江戸へ逆戻りかな、しかしまあ旅先では、よくこんな馬鹿を人が相手にして、ちやほやともてなしたものだ、田舎(いなか)は人気がいいと、神尾がうすら笑いをしながらも、馬鹿とは言いながら、腕は持つべきものだ、本場で本当に鍛えた腕前があればこそ、田舎廻りは牛刀で鶏の気構えで歩ける、この点、江戸ッ子は江戸ッ子だ、そうなくてはならぬと、更に読みつづけて行く。
「翌日、斎宮(いつき)ヲ立ッテ、段々帰ルウチ、三島ノ宿(しゅく)デ甥ガ気絶シテ大騒ギヲヤッタガ、気ガツイテ、ソレカラ通シ駕籠デ江戸ヘ帰ッタガ、親父モ、兄モ、ナンニモ云ワヌ故、少シ安心シテウチヘ行ッタ、翌日、兄ガ呼ビニヨコシタカラ行ッタラ、イロイロ馳走ヲシタ、夕方、親父ガ隠宅カラ呼ビニ来タカラ行ッタラ、親父ガ云ウニハ、オノレハ度々不埒(ふらち)ガアルカラ、先ズ当分ハヒッソクシテ、始終ノ身ノ思案ヲシロ、所詮、直グニハ了簡ガツクモノデハナイカラ、一両年考エテ身ノ納マリヲスルガイイ、トカク、人ハ学問ガナクテハナラヌカラ、ヨク本デモ見ルガイイト云ウカラウチヘ帰ッタラ、座敷ヘ三畳ノ檻(おり)ヲコシラエテ置イテ、オレヲブチ込ンダ」
 ざまあ見ろ! と神尾が案(つくえ)を打ちました。とうとう檻へブチこまれやがった、狂犬同様のやつだから是非もないが、三畳ではかわいそうだと、神尾主膳が小吉の身の上を笑止がって読みつづける。
「ソレカラ色々工夫ヲシテ、一月モタタヌウチ、檻ノ柱ヲ二本抜ケルヨウニシテ置イタガ、ヨクヨク考エタトコロガ、皆ンナオレガ悪イカラ起ッタコトダト気ガツイタカラ、檻ノ中デ手習ヲハジメテ、ソレカライロイロ軍書本モ毎日見タ、友達ガ尋ネテ来ルカラ、檻ノソバヘ呼ンデ、世間ノコトヲ聞イテ頼(たの)シンデ居タラ、二十一ノ秋カラ二十四ノ冬マデ檻ノ中ヘ入ッテイタガ、苦シカッタ」
 野郎とうとう監獄だ。三畳の檻も広くはないが、二十一から二十四までも短くない、苦しかったはずだ。おれもかなりしたい三昧(ざんまい)はしたが、まだ檻へブチ込まれた経験はない。でも、この野郎、ドコまでものんき千万に出来上っている。皆ンナオレガ悪イカラ起ッタコトダト気ガツイタ……も出来がいい。オレガ悪くないところがどこにある。二十一づらを下げて三畳の檻の中で手習ヲハジメたとはこれだけは感心だ。この神尾も、この歳になってはじめて手習をはじめている――友達がたずねて来たのを、熊の子じゃあるまいし、檻の内と外で、世間話を聞いて頼シンデいたがイイ。この場合楽しんでと書くより、頼シンデと書いた方が気分が出ている。それにしても、二十一から四までの三畳生活、身から出た錆(さび)とは言いながら、よく辛抱したものだ、おれにはそんな辛抱はできない、と神尾が思いました。
「ソノウチ、親父ヨリ度々書取リニシテ、イケンヲ云ッテクレタ、ソノ時、隠居ヲシテ、息子ガ三ツニナルカラ家督ヲヤリタイトイッタラ、ソレハ悪イ了簡(りょうけん)ダ……」
 悪イ了簡ではない、図々しいというものだ、と神尾が呆(あき)れました。檻へブチこまれたとはいえ、乱心しているわけでもなし、身体不具というわけでもない。二十四の盛りで、三ツの悴(せがれ)に家督を譲りたい、それは悪い了簡以上の図々しさだと、主膳が呆れて次を読むと、
「コレマデイロイロノ不埒ガアッタカラ、一度ハ御奉公デモシテ世間ノ人口ヲモ塞ギ、養家ヘモ孝養ヲモシテ、ソノ上ニテ好キニシロト、親父ガ云ッテヨコシタカラ、尤(もっと)モノコトダト初メテ気ガ附イタ故……」
 それ見ろ、それは親父の言うことがあたりまえの看板だ。それを今更になって、初めて尤ものことと気がついたもないものだ。
「出勤ガシタイト兄ヘ云ッタラ、手前ガ手段デ、勤道具、衣服モ出来ルナラ、勝手ニシロ、オレハ、イカイコト手前ニハイリ上ゲタ故、今度ハ構ワヌトイッタ故、ソノ時ハオレガホホノ下ニハレ物ガ出テイテ寝テ居タガ、少シモ苦労ヲカケマイトイウ書附ヲ出シテ、檻ヲ出デ――」
 出たな! なんとかかとか言って出してもらったな、これからがまた思いやられるよ――と神尾は苦笑をつづけつつ読む。
「翌日、拝領屋敷ヘ行ッテ、家主ヘ談ジテ金子(きんす)二十両借リ出シテイロイロ入用ノモノヲ残ラズ拵(こしら)エテ、十日目ニ出勤シタ。
ソレカラ毎日毎日、上下(かみしも)ヲ着テ、諸所ノケンカヲ頼ンデ歩イタガ、ソノ時、頭(かしら)ガ大久保上野介ト云イシガ、赤阪喰違外(くいちがいそと)ダガ、毎日毎日行ツテ御番入リヲセメタ、ソレカラ、以前ヨリイヨイヨ悪イコトヲシタコトヲ残ラズ書取ッテ、只今ハ改心シタカラ見出シテクレロト云ッタラ、取扱ガ来テ、御支配ヨリオンミツヲ以テ、世間ヲ聞糺(ききただ)スカラ、ソノ心得ニテ居ロトイウカラ、待ッテ居タラ、頭ガ、或時云ウニハ、配下ノ者ハイツモ隠スガ、御自分ハ残ラズ行路ヲ申聞ケタ故、諸所聞キ合ワセタ所ガ、云ワレタヨリハ事大キイ、シカシ改心シテ満足ダ、是非見立テヤルベシ、精勤シロトイウカラ、出精シテ、アイニハ稽古ヲシテイタガ、度々書上(かきあげ)ニモナッタガ、トカク心願ガ出来ヌカラクヤシカッタ――」
 まあ、とにかく、この辺で納まれば見つけたものだ、箸(はし)にも棒にもかからぬ代物(しろもの)だが、人間にはまだ見どころがある、この神尾のように腹まで腐りきってはいないところがあると、主膳も身に引きくらべてややさとるところがありました。

         六十二

 ここで勝の小吉が親父と言ったのは、実家男谷(おたに)の父親のことで、平蔵と言い、兄というのは即ち下総守信友で、当時府下第一の剣客なので、その男谷平蔵の三男として生れた小吉が、勝家へ養子にやられたこの自叙伝の主人公、左衛門太郎夢酔入道であることは、神尾主膳も先刻承知の上で読み進んでいるのです。さすがのやくざ者も、この時代から漸(ようや)く目がさめて、人間並みになりかかったらしいことを、読みながら、神尾主膳は相当くすぐったがっている。さてまた自叙伝の読みつぎ――
「コノ年、親父ヤ兄ニ云イ立テテ、外宅ヲシテ割下水(わりげすい)天野右京トイッタ人ノ地面ヲ借リテ、今迄ノ家ヲ引イタガ、ソノ時、居所ニ困ッタカラ、天野ノ二階ヲ借リテイタウチニ、俄(にわか)ニ右京ガ大病ニテ死ンダ故、イロイロト世話ヲシタガ、ソノウチ普請モ出来、新宅ヘ移リ居ルト、右京方ニテハ跡取ガ二歳故、本家ノ天野岩蔵トイウ仁ガ、久来ノ意趣ニテ、家督願ノ時六(む)ツカシク云イ出シテ、右京ノ家ヲツブサントシタカラ、イロイロ揉(も)メテ片附カズ、ソノ時、オレガ本家トハ心安イカライロイロナダメ、トウトウ家督ニサセタ故、天野ノ親類ガ悦(よろこ)ンデ、猶々(なおなお)アトノコトヲ頼ミオッタカラ、世話ヲシテイルウチ、右京ノオフクロガ不行跡デ、ヤタラニ男グルイヲシテ、フダンソウドウシテ困ルカラ、セッカク普請ヲシタガ、ソノ家ヲ売ッテ外ヘ越ソウト思ッテ、右京ノ子金次郎ガ頭向キヘ云イ出シタラ、ソノ取扱ガ云ウニハ、今オ前ニ行カレルト、アトハ乱脈ニナルカラ、一両年居テクレロト云ウカラ居タガ、人ノコトハ修メテモ、オレガ内ガ修マラヌカラ困ッテイタラ、或老人ガ教エテクレタガ、世ノ中ハ恩ヲ怨(あだ)デ返スガ世間人ノ習イダガ、オマエハコレカラ怨ヲ恩デ返シテミロト云ッタカラ、ソノ通リニシタラ追々内モ治マッテ、ヤカマシイババア殿モ、段々オレヲヨクシテクレタシ、世間ノ人モ用イテクレルカラ、ソレカラ、人ノ出来ヌ六ツカシイ相談事、カケ合イソノ外何事ニ限ラズ、手前ノ事ノヨウニ思ッテシタガ、シマイニハ、オレニ刃向ッタヤツラガ、段々シタガッテ来テ、ハイハイト云イ居ル、コレモカノ老人ガ賜物トシ嬉シク……」
 ここまで来ると神尾は少し耳――ではない、眼が痛い。勝のおやじの馬鹿め、この辺で、そろそろ一転機を劃し出したな、重大な転向ぶりを示して来たようだ、おれは幾つになっても、その転換ができない――笑止千万と三ツ眼をひらめかす。さて、転向の角度から見ると、やくざ者の自叙伝が、どうやら修身書の第一巻のような気分が漂いはじめたので、神尾の三ツ眼が少々まぶしくなるのもぜひがないらしい。
「同流ノ剣術遣イガ、不埒又ハツカイ込ミシテ途方ニ暮レテイル者ハ、ソレゾレ少シズツ金ヲ持タセテ諸方ヘ遣ワシ、身ノ安全ヲシテヤッタコト幾人カ数モ知レズ、ソノ後オレガ諸国ヘ行ッタ時、イカイコトトクニナッタ事ガアル、歩イタトコロデ、オレガ名ヲ知ッテイテ世話ヲシタッケ」
 まあ、ともかく、自分が人に苦労をかけただけに、人のために一肌ぬぐことも鼻にかからない俗に侠気(おとこぎ)というやつで、これが妙に人気を取返し、期せずして恩返しというやつにありつくものだ。この点は、おれも相当、人のために――といっても、いずれも人間並みの奴ではない、やくざ共の間のことだが、それでも相当に今日まで身銭(みぜに)を切っているから、今日のたれ死もしないで、トモカクこうして永らえてもいられる、ということを神尾主膳も、身につまされて、どうやら、自分もいっぱしの苦労人のような気分になりつつ読む。
「天野ガ地面ニイルウチモ、トカク地主ノ後家ガコトデ、六ツカシイコトバカリ云ッテ困ッタカラ、三年メニ同町ノ山口鉄五郎ガ地面ヘ家作ガ有ルカラ引越シタガ、コノ鉄五郎ガ惣領ハ元ヨリ心易(こころやす)カッタガ、イロイロウチヲカブッタ時ニ世話ヲ焼イテヤッタ故、ソノバア様ガゼヒ地面ヘ来イトイウカラ行ッタ、コノ年勤メノ外ニハ諸道具ノ売買ヲシテ内職ニシタガ、初メハ損バカリシテ居ルウチ、段々慣レテ来テ金ヲ取ッタ、ハジメハ一月半バカリノウチニ五六十両損ヲシタガ、毎晩毎晩、道具屋ノ市ニ出タカラ、随分トクガ附イタ、何シロ、早ク御勤入リヲシヨウト思ッタ故、方々カセイデ歩イテイタウチニ――」
 神尾がニタリと笑って、天野の後家という奴が曲者だな、若後家になって、男ぐるいをはじめて、相当小吉をてこずらしたように書いてあるが、小吉の奴も相当のイカモノのくせに、こいつをこなせなかったというのはないもんだ、だが相性が違ったんだろう。ところで、今度は近所のばばア様から来いと言われて、そっちへ引越したのは、後家であったり、ばばア様であったりするが、妙に女臭い。そのうちに道具屋をはじめたのは勘所(かんどころ)だ。人間、遊び出してきて面(かお)が広くなると、ばったり行きつまるのは水の手だ。その手で、この神尾もどのくらい苦労したことか。男になるには金がいる、金のなる木を持っていない限り、ちっとやそっとの知行と財産があったからとて、続くものではない。その点は自給自足の道が立たない限り、伊達者(だてしゃ)は通らぬ。おれもその手で苦しんだ、だが、道具屋をはじめようとは思わなかった。ところが、こいつは手軽に道具屋をおっぱじめて、くろうとはだしの取引を平気でやり出すだけの身軽さがある、この辺が小身(しょうしん)に生れた利益だ。道具屋とはうまいことを考えたが、つまり骨董屋(こっとうや)なんだろう、掘出し物では相当まとまった金も儲(もう)けられない限りはない。最初のうち損をしたというのも、そうありそうなこと、ようやく本職になって収入が出て来たとは憎い、おれも早くその辺に気がついて道具屋になればよかったな。先祖から伝来のものだけでも売食いしても相当のものはあったが、商売気がないから、みんな質流れか、或いは二束三文。あれをもとに道具屋開業――なぜあの時それだけの知恵が出なかったか。トニカク勝のおやじめ、商売の筋を覚えたとなると、もう占めたものだ。が、商売というやつは儲かることばかりあるんじゃない、いつまでこの手で兵糧がつづくかな。待てよ、そこで、商売どころではない、あいつの身に重大な不幸が起ったらしいぞ。
「男谷ノ親父ガ死ンダカラ、ガッカリトシテ、何モイヤニナッタ」
 親父が死んだそうな。死んだ親父もこいつのためにはどのくらい苦労をしたか、死んで、悴(せがれ)の方ではガッカリシタの一句で片づけているが、相当に無常を感じたことは、何モイヤニナッタの自暴(やけ)半分の言葉つきでもわかる。何の病気で、どうして親父が急死したか。
「シカモ卒中風トカデ一日ノウチニ死ンダカラ、ソノ時ハオレハ真崎イナリヘ出稽古ヲシテヤリニ行ッテイタカラ、ウチノ小侍ガ迎イニ来タカラ、一散ニカケテ親父ノトコロヘ行ッタガ、最早コトガ切レタ、ソレカライロイロ世話ヲシテ翌日帰ッタ、毎日ソノ事ニカカッテ居タ、息子ガ五ツノ時ダ、ソレカラ忌命ガ明イタカラ又々カセイダ」
 親父の死んだ時、自分の倅が五歳になっていた。この五歳になっていた倅が、今時評判になっている勝麟(かつりん)なのだ。さ、いつごろ安房守(あわのかみ)に叙爵したっけかな――トニカク、鳶(とび)が鷹(たか)を産んだのか、いや、この親にしてこの子ありか、人間の万事はわからぬものだ、と神尾が思いました。

         六十三

 さあ、今までの不良が、多少とも改心をして、これから面(かお)が少し広くなり出すと、感心に道具屋を始めてアウタルキーを志したのはいいが、士族の道具屋が、いつまで続くものかなあ――と神尾が甘酸(あまず)っぱい面をしながら読んで行く。

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:393 KB

担当:undef