大菩薩峠
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著者名:中里介山 

「わかっておりますよ、わかっておりますよ、こいつを殺したのは、土佐の高市瑞山(たけちずいざん)という人の弟子たちで、みんなが先を争ってこいつを殺したがったんですが、その中で鬮取(くじと)りをして、岡田以蔵てすごいのと、ほかに三人が鬮に当っちまいましてな、こいつのような犬猿同様の奴を、刀で斬るのは全く刀の穢(けが)れだから、締め殺してやるがよろしい、締めるには行李(こうり)を締める細引がよろしい……と、わざわざ細引を買って来て、それで、こいつを取捕めえて締め殺したんだ。それごらんなせえ、その下にブラ下がっている細引が、まだ買立ての新身(あらみ)じゃあございませんか」
「何もかも、そう知り抜いていたんじゃあ、嚇(おどか)しにもならぬ」
 竜之助は呆(あき)れ果てたようなセリフで、またそろそろと薄尾花(すすきおばな)の中を歩きにかかると、源松が、しゃあしゃあとしてあとを慕って来ること前の通りです。

         五十

「時にあなた様のお宿許は、どちら様でございましたかねえ」
 轟の源松がまたしても、思い出したように、同じことを竜之助に向って問いかけましたから、竜之助がうるさいと思いました。
「まだそんなことを言っているのか、それは、こっちが聞きたいところだ、島原を振られて、京都の町の中を一晩中うろついたが、ついに拙者の泊る宿所がない、ようやくのこと月心院へたどりついて見ると、そこは、夜もすがら、あはは、おほほで眠れはしなかった、仕方がないから、日岡を越して、山科まで来てしまったのだよ」
「して、その山科は、ドチラかお心安いところがございまして」
「いや、山科へ来たからといって、別に心安いところもないがな、関の大谷風呂へ少し厄介になったことがあるから、もう一晩、あそこへ泊めてもらおうかと、それを心恃(こころだの)みにして来たまでだ」
「大谷風呂でござんすか、それは幸い、わっしも少しあの辺に用向がございますから、御一緒にお供が願いたいもので」
「それは迷惑だな」
「いえ、なに、旅は道連れということもございますからな」
 轟の源松は、人を食いそこねたようなことを言って、テレ隠しをしました。
「あんまり有難くない道づれだ」
と竜之助が苦りきりました。
「送り狼というところなんでござんすかな。この場合、どちらが狼でござんすかな。左様、送られる方が狼で……」
「いったいお前は、何でそう、わしのあとばっかりつきたがるのだ、盛りのついた野良犬のように」
「へ、へ、へ、恐れ入りました、これは、つまり、わっしの病ではない、役目なんでございますから、いかんとも致し方がございませんでして」
「お前に役目でつけられるような弱い尻は、こっちにはないぞ」
「そちら様にはとにかく、わっしの方で、ぜひ最後を見届けるところまで、おともが致したいんでございます、悪くつきまとうわけではござりません、役目でございましてな、手っとり早い話が、あなた様の昨晩のお泊り先はわかっておりますが、これからの先、それと、もう一つ、今晩のお宿許と、お国元の戸籍のところを一つ伺えば、それでよろしいんでございます。と申しますのは、まあ、世間並みのお方でございますと、一当り当れば、身分素姓のところ、すっかり洗ってお目にかけますが、あなた様に限って、当りがつきません、まるでまあ、失礼な話だが、幽霊のように、姿があって影がないんでございますからね」
「冗談を言うな、今はそんな冗談を言っている時ではあるまい、おれのような幽霊同様の影の薄い人間を、貴様のような腕利(うでき)き一匹の男が、鼻を鳴らして夜昼嗅ぎ廻っている時節じゃあるまい。古いところで、姉小路卿を殺した下手人はまだわかっていないだろう、三条河原へ足利の木像をさらした一味も検挙されてはいないはずだ、新撰組で芹沢が殺されたその下手人さえ、わかっているようでわからない、つい近い頃、大阪では天満(てんま)の与力内山彦次郎が殺されたというに、まだその犯人がわからない、江戸では、上使の中根一之丞が長州で殺された。ところでこの拙者などは、生来、悪いことは一つもしていない、たよりない宿なしの影法師同様な拙者を追いかけ廻して、いったいいくらになるのだ」
と竜之助からたしなめられて、源松はいよいよテレきった面をして、
「でございましても、病では死ぬ者さえあるんでございます、どうか、そこのところをひとつ、御迷惑さまながら、大谷風呂まで、その送られ狼というところで」
 執拗(しつこ)い――がんりきの百以上だ。百のはいたずらでやるのだが、こいつのは職務――ではない、病だ、うるさい、という思入れで、無言に竜之助が歩き出すと、
「エヘ、ヘ、送られ狼――こっちが気味が悪いんでございますよ」
 かくて源松はまた、竜之助のあとを二三間ばかり離れて、薄尾花(すすきおばな)の中を歩みにかかる程合いのところで、またしても、
「あっ!」
と言ったのは、その、おどろおどろと茂る薄尾花の山科原の中から不意に猛然として風を切って現われたものがありました。
「あっ! 狼!」
 轟の源松も立ちすくんでしまったのは、冗談ではない、送り狼の、送られ狼のと、口から出まかせに己(おの)れの名を濫用する白徒(しれもの)の目に物を見せようと、狼が飛び出して来た、正の狼が眼の前へ現われた!
 と源松も一時は立ちすくんだが、そこは相当の度胸もあるから、
「あ! 狼ではない、鹿だ!」
 鹿だ! と呼ばれた時は、その獣は、もはや源松の眼前をひらりと躍(おど)り越えて、行手へ二三丈突っ飛んだ時でありましたが、
「鹿ではない、やっぱり犬だ!」
と、源松が三たび訂正のやむを得ざるに立至ったものであります。
「犬にしちゃあ、すばらしくでけえ犬だなあ」
 源松は追註(おいちゅう)をして、改めてそれの馳(は)せ行く怪獣の後ろ影を呆然(ぼうぜん)と見送ったばっかりです。

         五十一

 不意に出現の怪獣に、最初は狼と驚き、二度目には鹿と見直し、三度目には、やっぱり犬と訂正して、そうして更に、犬にしては豪勢素敵な奴だと追加の感歎を加えて、しばし呆然とその後ろ影を見送って立ち尽している。そのすぐ背後から、またも突然に、
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
 こういうかけ声をしながら、息せききって走(は)せつけて来るものがあるのですから、源松は、その行手を慮(おもんぱか)らないわけにはゆきません。
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
 後ろから走せて来たのを、避けてやり過してやろう――轟の源松は、路傍の草の中へ少し身を引いていると、
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
 怪しげな掛声に呼吸を合わせて、走せて来たのは、まさしく今の犬を追いかけて来たものでしょう。と見ると、犬の大なるに比して、人の小さいこと、ほとんど子供と思われるほどの弾丸黒子(だんがんこくし)、それが、宙を飛んでかけつけた。紺かんばんに、杖を調練の兵隊さんがするように肩にかけて、まっしぐらに馳(は)せて、せっかく道を譲った源松に目もくれず、辞譲のあいさつをする余裕もなく、今し逃げ去った豪犬のあとを追って走り来(きた)り、走り去るのであります。
 それをも、源松は暫く面くらって見送っていたが、その時急に呼びさまされたことは、犬ははじめて見る豪犬だが、人間はそうではない、どこかで見ている! ああ、あの小粒! びっこを引きながら、しかも軽快に疾走するあの足どり、精悍(せいかん)な面魂(つらだましい)、グロな骨柄、どう見たって見損うはずはない。ほとんど命がけ、江州長浜の一夜の手柄にあげたが、あいつが譲らなければ、こっちが危なかった。
「あいつだ!」
 轟の源松は、そう気がつくと、ここでもまた二狼を追うわけにはいかず、一方の送られ狼にはなんら辞譲を試むることなしに、いま目の前を過ぎ去った弾丸黒子に向って、全速の馬力を以て追いかけました。
 源松が急角度の方向転換で、まっしぐらに追いかけた当の相手というのは、宇治山田の米友でありました。
 あの晩、あの小者(こもの)めをやっとの思いで手がらにかけたが、今以て善良不良ともに不明なのはあいつだ。伊勢の生れだというのに、江戸ッ子はだしの啖呵(たんか)を切るし、兇悪性無類の放浪児とばかり踏んでいたが、その啖呵をきいていると、正義観念が溌溂(はつらつ)として閃(ひらめ)くことに、源松の頭も打たれざるを得なかったが、調べの途中から、全然口を利(き)かなくなり、胸の透くような啖呵も切らなくなり、問われても、責められても、一言一句も吐かない。拷問(ごうもん)同様の目に逢わせてみても、口がいよいよ固くなるばかりだ。のみならず、大抵の責め道具では、あいつには利かない。人間の生身だから痛いには痛い、こたえるにはこたえるだろうけれども、あいつに限って、痛いと言わないのみか、痛そうな面をしない。痛そうな面をしないのではない、本心痛くないのだ。すなわち不死身という変体になっている、そう思うよりほかはなかった。それから、あぐみ果てて、好意を以て、だましつ賺(すか)しつしてみても、いったん固めた口はついに開かない。わざと鎌をかけて、口を開かないと非常な不利益な立場になる、損だぞ、と言っても、損益が眼中にない。
 ついに政略上、是非善悪不明のままに、あいつを農奴の張本に仕立てて、曝(さら)しにかけたのは、こいつならば、よし冤罪(えんざい)に殺しても、後腹(あとばら)の病まない無籍者だから、時にとっての人柱もやむを得ないと、当人ではない、役人たちが観念して、草津の辻へ「生曝(いきざら)し」にかけてしまったが、源松そのものも、実はあんまりいい気持がしなかったのだ。無籍者にしろ、放浪者にしろ、ルンペン小僧にしろ、持込場のない行路病者にしてみたところが、当人の身性(みじょう)に不明なところがあって、果して犯罪人かどうか甚(はなは)だ不明であるものを、そのまま処刑をするということは、小の虫を殺して大の虫を抑える、時にとっての策略でありとはいえ、源松もあんまりいい心持はしなかった。ところがその策略が当りそうで当らず、民衆がその網にひっかかりそうでひっかからず、かえって裏をかかれて何者かが、あの「生曝し」を引っさらって行ってしまった。それのみならず、愚弄(ぐろう)したようなやり方で、太閤秀吉の木像首をそのあとへおっぽり出して行ってしまった。それには我慢なり難い。罪状不明の者に、かりにも罪を着せた政策の上に多少の引け目がないではないとして、それにしても公儀掟によっていったん曝しにかけた者を、これを奪い去るということは、公法を無視したものだ、これは許すべからざるものだ、何者がいかにして、あの「生曝し」を奪い去ったかということは、今日まで源松の心魂に徹していたことで、源松がその後、江州の方面をうろついていたのは、一つはその責任遂行のためであろうと思われる。
 ところが、現在、眼の前で、その探索の当の本人を見出した。こちらから突きとめる手数を煩わさずして、向うから飛び出して眼前を掠(かす)め去ったこの獲物は見のがせない。
 かくて轟の源松は、いちずに宇治山田の米友のあとを追いました。
 ひとり曠野(こうや)に残された机竜之助、また東に向って歩みをうつそうとした時に、
「はい、左様でございますか、それはそれは御無理もないことでござりまするな、孔夫子の聖(ひじり)を以てすらが、我ニ数年ヲ加エ、五十以テ易(えき)ヲ学ババ大過ナカルベシ――と仰せられました」
と言う声を、草むらの奥で聞きました。
 聞き直すまでもない、それは竜之助として、甲州の月見寺以来熟しきった、お喋(しゃべ)り坊主の音声に相違ありません。
「孔夫子の聖を以てしてからが、五十以て易を学ぶと仰せられました、五十になってはじめて易を学べば大した過(あやま)ちはなかろうとおっしゃいました、孔夫子の聖を以てすらが、それでございます、凡人の能(あと)うところではござりませぬ」
 その音節によって見ますと、これは曠野の独(ひと)り演説ではないのです。誰か別に聞く人あって、それを相手に語り出でながら、歩んで来るものとしか思われません。
 そうして、この場合、この怖るべきお喋り坊主の舌頭にかかって相手役を引受けている人の誰であるかが、竜之助にはっきりわかりました。相手方は何との応対もないのに、これが竜之助の勘ではっきりとわかりました。つまり、あのむつかし屋の胆吹の女王以外の何人でもありません。
 そこで、弁信がお銀様を相手に、かくも弁論の火蓋(ひぶた)を切り出したものだということが、はっきりと入って来ました。
「易という文字は、蜥易(せきえき)、つまり守宮(やもり)の意味だと承りました。守宮という虫は、一日に十二度、色を変える虫の由にござりまする、すなわちそれを天地間の万物運行になぞらえまして、千変万化するこの世界の現象を御説明になり、この千変万化を八卦(はっけ)に画(かく)し、八卦を分てば六十四、六十四の卦は結局、陰陽の二元に、陰陽の二元は太極(たいきょく)の一元に納まる、というのが易の本来だと承りました。仏説ではこの変化を、諸行無常と申しまして、太極すなわち涅槃(ねはん)の境地でござりましょう」
 盲人のくせに、こういう高慢ちきなお喋りをやり出す者は、弁信法師か、しからずんば、和学講談所の塙検校(はなわけんぎょう)のほかにあり得ないと思われるが、ただ、その声の出るところが、いずれの方面だか見当がつきません。
 いま聞いた発端だけによって判断すると、それは東西南北のいずれより起るのでもない、どうもこの地下のあたり、柳は緑、花は紅の辻の下から起り来(きた)るものとしか思われないことです。この下を二人が悠々閑々(ゆうゆうかんかん)とそぞろ歩きながら、前なるは弁信法師、後ろなるはお銀様が、「易」というものを話題として、説き去り説き来ろうとする形勢を感得したものですから、せっかく、歩み出した竜之助が、また歩みをとどむるのやむを得ざるに立ちいたりました。

         五十二

 宇津木兵馬と福松との道行(みちゆき)は彼(か)が如く、白山(はくさん)に上ろうとして上れず、畜生谷へ落ち込まんとして落ち込むこともなく、峻山難路をたどって、その行程は洒々落々(しゃしゃらくらく)、表裏反覆をつくしたような旅でありましたが、日と夜とを重ねて、ついに二人は越前の国、穴馬谷(あなまだに)に落ち込んでしまいました。
 二人が穴馬谷へ落ち込んだということは、この場合、ざまあみやがれ! ということにはならないのであります。イヤに即(つ)かず離れずの曲芸気取り、その落ち込む当然の運命はきまったものだ、好奇の一歩手前は、堕落の陥穽(おとしあな)というものだ、ドチラが先に落ちたか、後に落ちたか、ドチラがどう引摺(ひきず)ったか、引摺られたか、それは言いわけを聞く必要がない、おそかれ早かれ、当然落ち込むべき運命の谷へ落ち込んだまでのことだ、ザマあ見やがれ穴馬谷、と称すべき意味合いの皮肉の地名ではないので、事実、越前の国、穴馬谷(あなまだに)の名は、れっきとして存在した――今も存在する確実な地名でありまして、後年の測量部の地図にも、地名辞書にも、明瞭に記載された地名でもあり、且つや、谷というけれども、若干の人家が炊烟(すいえん)を揚げている尋常一様の山間の一部落なのであります。
 その穴馬谷へ二人が落ち込んだというのも、足を踏み外して落ち込んだわけではない、青天白日の下、尋常の足どりをもって、この一部落に落着いたという意味でありまして、ここで二人が、また前巻以来同様の宿泊ぶりを、一部落の一民家によって繰返しました。福松が破れ傘のような素振りで、絶えず兵馬を誘惑したり、からかったりしていることも以前と変らず、それを兵馬が閑々として、一個の行路底の修行道として受流しつつ行くことも前と変りません。
 ただ、変っているのは、白山白水谷をわけ入って、加賀の白山に登ろうということが、目標でもあり、一種の信仰でもあるようでした。それがすっかり目標から外れて、仏頂寺弥助の亡霊がさまよう越中の山境へも出でず、白山を経ての菜畑であった加賀の金沢とも、およそ方面を異にして、越前へめぐり込んでしまったということを、穴馬谷に落着いて、山民から聞いて初めてそれと知ったという有様なのでありました。
 とはいえ、極楽へ行こうとして菜畑へ落ちたわけでもなく、北斗をたずねんとして南魚に進んだというのでもなく、ちょっと針路が左へ片よったという程度で、飛騨(ひだ)から隣りの越中へ出たまでのことですから、前後を顛倒したというわけでもなく、進退に窮したというのではない。目的があってないような道行には、それも苦にならないで、二人は、これからまた落ち行く目標の相談をはじめました。
「ねえ、宇津木さん、ここは越前分ですとさ、越前の国、穴馬谷という村ですとさ、ほんとに穴のような土地じゃありませんか、どちらを見ても高い山ばっかり、穴馬谷へおっこちなんて、仏頂寺がいたらヒヤかされちまいますわねえ」
「変な名だ――これが越前の国とは思わなかったよ」
と言って、兵馬は携帯の地図を取り出して、ひろげて見ているのを、福松がのぞき込んで、
「加賀へ出る道が、すっかり塞(ふさ)がれてしまって、越前へ送り出されたというのも、何かの縁なんでしょう、いっそ、金沢をやめて福井へ行きましょうよ、福井にも、たずねれば知辺(しるべ)はあるわ、福井から三国港(みくにみなと)へ行ってみましょう、三国はいいところですとさ」
 福松はもう、落ち込んだところが住居で、思い立つところが旅路である――そういう気分本位になりきっているが、兵馬はそういう気にはなれない。
「図面で見ると、ここに相当大きな川がある、これが有名な九頭竜川(くずりゅうがわ)の川上らしい、すると、この川に沿って下れば、三国へ出るのだが――」
「三国、いいところですってね、北国にはいい港が多いけれど、三国は、また格別な風情(ふぜい)があって忘れられないって、旅の人が皆そいっていてよ……」
三国小女郎
見たくはあるが
やしゃで
やのしゃで
やのしゃで
やしゃで
やしゃで
やのしゃで
こちゃ知らぬ
 福松は口三味線を取って唄(うた)に落ちて行きました。
いとし殿さんの矢帆(やほ)巻く姿
 枕屏風(まくらびょうぶ)の絵に欲しや
「三国の女はとりわけ情が深くって、旅の人をつかまえて放さないって言いますけれど、わたしがついていれば大丈夫、三国へ行きましょうよ、北国情味がたまらないんですとさ。そうして、飽きたら金沢へ行きましょう――でなければ船で、三国から佐渡ヶ島へ――来いと言ったとて、行かりょか佐渡へ、佐渡は四十九里、浪の上――って、佐渡の女もまた情味が深いんですってさ、男一人はやれない。佐渡に限ったことはないわ、あだし波間の楫枕(かじまくら)――行方定めぬ船の旅もしてみたい」
 兵馬は、相も変らず浮き立つ福松の調子に乗らず、
「どのみち、一旦は福井へ出なければなるまい、福井へ出るには……モシ、山がつのおじさん、ちょっとここへ来て見てくれないか、紙の上で道案内をしてもらいたい」
 宿の山がつを呼ぶと、松脂(まつやに)を燃して明りを取り、蕨粉(わらびこ)を打っていた老山がつが、ぬっと皺(しわ)だらけの面をつき出して、
「ドコさ行きなさる、勝山へおいでさんすかなあ」

         五十三

 その翌朝から、九頭竜川の沿岸を下って福井へ出る道も、かなりの難路でしたけれども、今までの山越しと比べては苦にならない。二人はついに越前福井の城下へ落着いてしまいました。
 福松の、そわそわとして上ずっていることは、山の中から町へ出て、いっそう嵩(こう)じてしまいました。福井の城下で、極印屋(ごくいんや)というよい旅籠(はたご)をとって納まった気分というものは、旅から旅の稼ぎ人ではなく、半七を連れ出した三勝姐(さんかつねえ)さんといったような気取り。万事自分が引廻し気取りです。
 ただ、この三勝は少し毛が生え過ぎているし、半七は追手のかかる身でないが、女のために身上(しんしょう)を棒に振るほどの粋人でないだけが恨みだが、半七よりもいくらか若くて、武骨で、ウブなところが嬉しい。それよりも福松の気丈夫なことは、二人の中には、現に三百両という大金が手つかず保管されていることで、これはもともと、代官のお妾(めかけ)のお蘭どののお手元金なんだが、それがわたしたちの手に落ちて来たというものは、たくんだわけでも、くすねたわけでも何でもない、自然天然に授かったので、人民を苦しめてしぼり上げた、その血と汗のかたまったもの、お蘭さんのような自堕落な女に使われたがらないで、苦労人であるわたしたちの方に廻って来たというものが、つまり授かりもの、天の与える物を取らずんば、災(わざわい)その身に及ぶということがありましたね、あのがんりきというイケすかない野郎の手をかりて、ウブで、そうして苦労人の二人の手に渡ったことが果報というものなんでしょう。この大金が手にある限り、二人は相当長いあいだ遊んで歩ける、という胸算用が、疾(と)うに福松の腹にあるからです。
 放縦のようでも、売られ売られつつ、旅から旅を稼がせられ、およそこの世の酸(す)いも甘(あま)いもしゃぶりつくした福松は、金銭の有難味を知っていて、締まるところは締まる仕末も、世間が教えてくれた訓練の一つ。
「二十日余りに四十両、使い果して二分残る――なんて、浄瑠璃(じょうるり)の文句にはいいけれど、梅川も、忠兵衛も、経済というものを知らない、使いつくしてはじめてお宝の有難味を知るなんて、子供にも劣るわねえ、わたしに使わしてごらんなさい――一生使ってみせるから」
 福松は、その都度、こう言って、三百両の金包を撫(な)でて自分の気を引立てたり、兵馬を心強がらせたりしようとする。無論、この三百両の金を、器用に活かして使いさえすれば、ここ幾年というものは、二人がこうして旅を遊んで歩くに不足はない、不足はさせない、という腹が福松にはあるのです。その証拠には、飛騨からここへ山越しをして来る間、若干の日数のうち、いくらの金を要したかと言えば、金は少しもかからない、たまに木樵山(きこりやま)がつに、ホンのぽっちりお鳥目(ちょうもく)を包んで心づけをしてみれば、彼等は、この存在物を不思議がって、覗眼鏡(のぞきめがね)でも見るように、おずおずとして、受けていいか、返していいか、持扱っている。旅というものは、金のかかるように歩けば際限なく金がかかるけれども、金をかけないつもりで歩けば、全くかけないで歩くことができるもの――いやいや、やりようによってはお宝を儲(もう)けながらの旅、万が一にも行きつまれば、わたしには腕というものがある、身を落す気になりさえすれば、いずれの里でも、腕に覚えの色音を立てて人の機嫌気づまを浮き立たせさえすれば、三度の御飯はいただける。その上一人や二人の身過ぎ世過ぎは何の苦もないと、福松は、いよいよの際の芸が身を助ける強味をも算用に入れているから、世の常の浮気者や、切羽つまった心中者の、身も魂も置きどころのない、ぬけがらの道行と違って、いわば経済的の根拠がある。今まで、山に千年もいたから、これから海で千年の修行をしたい――なんぞと、世間を七分五厘にする余裕さえ持てるようになっている。
 宇津木兵馬になると、そうはゆかないのであります――白骨から、飛騨の平湯へ出て、高山まで、旅の遊山で浮(うわ)つき歩いているのではない、求むる敵(かたき)がありと思えばこそ――それが、どう聞き間違えたか、南へ外(はず)れたものを、北へ向って走り求めているという相違にはなっているが、求むる目的というものがあるにはあって、それに煽(あお)られている。無目的と、享楽と、その刹那刹那(せつなせつな)を楽しんで行こうという女と調子は合わせられない。
 ただこういう女に、こういう際に持ちかけられたということに、運命の興味を感じて、これを相手に行路難の修行底といったような、善意に水を引いた興味が伴えばこそで、実は穴馬谷へ落ち込んで、はじめて、たずぬる相手は北国へ落ちたのではないということを確認したまでのことで、越中、加賀の方面には断じて、それらしい人の通過した形跡がないことを、この間に、たしかに確めたのです。が今となっては路頭を転ずることができない。いっそ、名に聞いたまま足を入れていない北国の名都、越前の福井に見参してから、その上で、あれから近江路へ出ることは天下の北陸道だから、それを通って、やがて再び京都の地に上り得られるのも旬日の間。
 こうなると、兵馬の頭には、金沢もなく、三国もない、地図を案じて北陸の本筋を愛発越(あらちご)えをして近江路へ、近江路から京都へ、心はもう一走り、そこまで行けば今度こそは結着、そこで、双六(すごろく)の上りのように、三条橋を打留めに多年の収穫、本望が成就(じょうじゅ)する――そこで何となしに気がわくわくして、これは福松と異なった意味で心が湧き立ってきました。
 福松の頭には、浮いた湊(みなと)の三国の色町の弦歌の声が波にのって耳にこたえて来る。兵馬の頭には、僅か昔の京洛の天地、壬生(みぶ)や島原の明るい天地の思い出が、怪しくかがやいて現われて、あれから新撰組はどうなったか、近藤隊長、土方副長らのその後の消息も知りたい。今の京都の天地にはところによっては腥風血雨(せいふうけつう)であるが、まだまだ千年の京都の本色は動かない。
 兵馬は、福井のことは頭に上らず、しきりに、京へ、京へと心が飛んで参りました。

         五十四

 福井の宿についたその翌日午後、福松は欣々(いそいそ)として宿に帰って来ました。
 その時に、宇津木兵馬は旅日記を認(したた)めておりましたのですが、そこへ、欣々として帰って来た福松が、にじり寄って、
「ねえ、宇津木さん、ほんとに都合よく事が運びましてよ、わたしの昔御贔屓(ごひいき)になった親分さんが、この土地に来ておりましてね、その方のおっしゃるには、福松、よいところへ来た、今この土地は大繁昌で、腕のある芸者のないのに困っているところだ、お前、よいところへ来てくれた、いい看板の明きもあるし、立派な家も持たせてやるからここへ落着きなさい、どんなことがあっても当分はここを放さないよ、とおっしゃる、こちらも渡りに舟だから、万事よろしくお任せ申しますと言いますと、明日からお前の住むお家もちゃあんときめてやる、とその親分さんが言ってくれました。そんなわけでわたしも、思いがけない後ろだてが出来て、この土地で、新参ながら押しも押されもせぬ姐(あね)さん株になって、立派に看板があげられるのよ、そうして、あなたを長火鉢の前へちゃあんと坐らせて、よろこばして上げるわ。浮草稼業のものに根がついたほど嬉しいことはない、もう、あなたにも旅の苦労なんかさせないことよ、いいお兄さんで、横のものを縦にもさせないで、遊ばせて置いて上げるわ」
 福松の欣々(いそいそ)として帰ったのはこれがためでありました。水草を追う稼業であればこそ、身の振り方のついたということに、無上の安心を置いていたらしい。同時に、これが同行の兵馬をも悦ばせずには置かないと独(ひと)り合点(がてん)の推量で、わくわくしながら話しかけると、兵馬は膝を進ませ、言葉を改めて言いました、
「ああ、それは結構です、実は、拙者も今、物を書きながら、それを考えていたところです、自分の身は天涯(てんがい)ドコへ行こうとも屈託はないが、君の身の上が、女であってみると、拙者相当の取越し苦労で心配してあげていた、それが、渡りに舟で、先方からそういう話が向いて来たのは何より。では、君はここで安定しなさい、そうすれば、拙者はこれで心置きなく、自分の目的へ向って進行することができる」
 この改まった言葉を聞いて福松が、がっかりして狼狽(あわ)てました。
「あら、そんなはずではありませんのよ、わたしが嬉しいことは、あなたにも悦んでいただきたいから申しあげたのに、わたしにここへ留まって、あなただけがお出かけなさるなんて、そんな情合いで申し上げたのじゃあありません。何でもいいから、暫く御逗留なさいね、少しの間、この福井の御城下を見物したり、三国へとうじんぼうをたずねたりして、当分こちらにいらっしゃいね。わたしの家ときまったところに落着いて、一月でも、二月でもいいから、そうして、お厭(いや)になったらいつでもお出かけなさいね。ほんの、一月か二月、いらっしゃいよ、わたしの家で、わたしが看板をあげた家に、大威張りで、誰にも気兼ねをする者はありゃしませんわ、あなた一人を、後生大事の大事のお旦那様にして、猫にもさわらせないようにして置いて上げますから、ちょっとの間でいいから、そうなさい。今までこの深い山々谷底を野伏(のぶせり)同様の姿で道行をして来た仲じゃありませんか、あたしの身になっても、あたしの家と名のつくところで、一晩でもあなたを泊めて上げたい、そうしなければ、あたしの胸が納まらない、あたしの意地も立たないわよ。ぜひ、そうなさらなければ、放して上げないことよ」
 福松の願いが、泣き声になって、こう口説(くど)き立てたのは、一つの真実心と見るべきです。だが、今日は兵馬が、道行の道中の時のように、即(つ)かず離れずの煮え切らない受け答えはしない、いよいよ言葉を改めて、いよいよきっぱりと、
「いや、お志は有難いし、情合いのほどもよくわかります、けれども、あなたの安定は、拙者の安定ではない、今日まで、縁あってあの道中、助けつ助けられつしてここまで来たのは、君の方で拙者に親切をしてくれたから、拙者もまた乗りかかった舟、仏頂寺、丸山の徒ならば知らぬこと、かりそめにも女の身一つを、山の中へ投げ出して、お前はお前、わしはわし、どうにでもなれと不人情のできない羽目に置かれたから、それで、心ならずも――ここまで同行をして来たのです、ここへ来て、君の一身が、もう全く心配がない、安定の見込みがついたとなれば、拙者の使命は完全に果されたのだ、この上、君の御好意に随うのは、もう人情の上を越えた溺没――少し言葉がむずかしいが、今まではおたがいに親切、これからはおたがいに溺れるということになり兼ねない。且つまた、これでも一匹一人の男が、君を稼がせて、その仕送りの下に、たとえ一日でも半日でも、いい気で暮していられるか、いられぬか、その辺のことは、君が拙者の身になり代って考えてみてもらわにゃならぬ。人間、別れる時に別れないのは未練というもので、あとが悪いにきまっている、人情は人情として、今日から、きれいに君とお別れする、このことは、もはや、何とも言ってくれるな、拙者の心底はきまったのだから、誰が何と言おうとも動かすことはできない、拙者は今日から出立します。出立については――」
 別れと覚悟の断案を下して置いて、何か条件的に申し置こうとする兵馬を、福松はあわてておさえてしまい、
「いけないわ、いけないことよ、それはわたし聞かない、今も、おっしゃったじゃありませんか、どちらがお世話になったか、お世話になられたか、そんなことは存じません、今、おっしゃったじゃありませんか、乗りかかった舟だから是非がない――ほんとにそうなのよ、あなたと、わたしと、これまで同じ舟に乗って、艱難(かんなん)だけを共にし合って、おたがいにこれから帆を揚げようというところで別れるなんて、それは乗りかかった舟を川の中で捨てるというものです、捨てるあなたが薄情なのよ、捨てられるわたしは、たよりなぎさの捨小舟(すておぶね)……人間、別れる時に別れないのは未練で、あとが悪い、よくおっしゃいましたね、未練が残るくらいの別れは、本当の別れではないのよ。あなたという方は、信濃の中房から途中でもあんなにして、わたしを捨ててしまい、ここでもまた、わたしの身が、どうやら落着いたと聞いて、もう浮わついて別れようとなさる、それこそ、未練とも卑怯ともいうものじゃなくって、かりそめにも女の身一つを山の中へ投げ出して、お前はお前、わたしはわたし――と不人情はできないと、今もおっしゃいましたわね、ここでわたしを振り捨てるのが不人情でないと誰が申しました、ほんとにわたしの運命を見届けて下さる御親切がお有りならば、これからじゃありませんか」
 福松は泣きじゃくりながら、立てつづけて口説(くど)き立てますが、今日は山道中の手管(てくだ)とは違います。兵馬の方でもまた、道中の時の煮え切らない挨拶とは違って、いよいよキッパリと、
「人の運命を見届けるということは不可能なことです、その人と生涯を共にしない限り、その人の末の末までの運命がわかるものじゃないです、人の一生は道中のようなものであるから、泊り泊りの一夜を、即ち生涯の運命の終りとして、途中の別れに未練があってはならない――いずれにしても、拙者の心はきまっている、誰がどう言っても立ちます」
 彼は早や行李(こうり)を引きまとめにかかるので、福松もただ泣いて口説いてばかりはいられないのです。

         五十五

「そうおっしゃられてしまうと、わたしには、このうえ何も申し上げられないわ、その人と生涯を共にしない限り、その人の末の末までの運命は見届けられない、その通りでございます、あなたと、わたしと、生涯を共にして下さいと言わない限り、この上あなたをお引きとめすることはできませんのねえ。あなたのような行末の有望なお方を、わたしのような股旅者(またたびもの)が引留めようのなんのと、そんなだいそれた心はありません。では、ね、宇津木さん、たった一つ、わたしの頼みを聞いて頂戴」
「何ですか」
「今晩一晩だけ、泊っていらっしゃい、ね、いくら何でも、話がきまったから、今日この場でお別れなんて、考えるにも考えられやしないわ、別れたあとのわたしは、血を吐いて死ぬばかりなんでしょう、ですから、わたしに、あきらめの時間を与えて下さいな、長いことは申しません、たった一晩だけ、お立ちを明日に延ばして下さい、ただ、それだけのお頼みよ、そのくらいは聞いて下さるでしょうね、それをお聞き下さらなければ、わたしにも、わたしとしての了簡(りょうけん)があってよ」
「ふーむ」
と、ここに至って兵馬は、最初の如く、決然として進退を宣告する言葉が出ませんでした。
 その躊躇(ちゅうちょ)した瞬間を見て取った福松は、ようやくこっちのものという気分を取り返しでもしたかのように、
「ね、それは聞いて下さるわね、今晩一晩だけ、ゆっくり話し合って、尽きぬ別れというのを、惜しみ惜しまれた上で、これでおたがいに、もう愚痴もこぼさず、未練を言わず、綺麗(きれい)に別れましょうよ。別れてしまえばあとのことはわかりません、今晩一晩が一生の御縁のあるところよ。ね、そうして下さいよ、わたしが、そのように取計らってしまうわよ。それにはいいことがあるんです、この福井の御城下から、ちょっと離れたところに、あわらという誰も知らないお湯が湧くところがあるんだそうです、つい近頃、近所の人が掘り当てたけれども、土地の人だけしか知らない、それを、わたしの御贔屓(ごひいき)のいま申し上げた親分さんが、ほんの仮普請をして、ごく懇意の人だけ湯治をするように仕かけてあるんですとさ、そこを、わたしが話して一日一晩買いきってしまいますから、そうして、あなたと、しんみりと旅のお話をしたり、汗を流しきったりして、最後のお名残(なご)りということに致しましょう。これだけはお聞き下さいね、ようござんすか」
 それを聞かなければ化けて出る、とも言い兼ねまじき気色に、兵馬は自分のはらが決まってここまで来ている以上、さのみ末節にかかわるべきでもないと、沈黙していました。沈黙は、つまり女の提議に無言の同意のものと受取ったから、女はまたも元気を取りもどしてはしゃぎかけました、
「ほんとに、白山白水谷の旅では、あたしがあなたに負けました、一度、あなたを降参させてみたいと秘術――ではない、心づくしの限りを見せたつもりなんですけれど、あなたはついに落ちなかったわよ、えらいわねえ、ほんとにえらいのよ、あたしの腕も、面(かお)も、あなたの潔白の前に廃(すた)りましたわ。でも、男に負ける分には負けても恥にはならない、男一人を落さなければ、女の後生(ごしょう)にはなりますねえ――今晩の、あわらのお湯の宿は、もうそんないやらしいことのない、罪のない、親身の姉と弟の気分で、生涯の名残りを惜しみましょうよ。嬉しい、嬉しい、たった一晩でも、わたしは嬉しい」
 道中での思わせぶりは、多分のイヤ味もあったし、若干の真実もあって、兵馬も心得て、これに応対し、その応対そのものもまた、人生の行路の一つの修行底とも見なして、隙間なき用心のもとに、それを扱って来たから、兵馬の心にも油断はなかったけれども、今ここで、この女がムキ出しに懐かしがったり、有難がったりして、そわそわ、わくわくする心持には、女としての天真の流露もある、子供同士の気分に帰ったようなものでもあるし、それには警戒の不安もなく、いや味の禁忌もないことに動かされて、兵馬も、この女と最後の一夜の水入らずの名残りを惜しむの時間が惜しいとも思われませんでした。そうすると、女というものが別な女になって、海千山千の股旅者ではない、純な処女の人情として扱うことの、何となしの魅力を、兵馬が改めて感得したものと見えて、気持よく言いました、
「よろしい、最後の一夜を明かしましょう、出立は一日延ばしてあげます」
「まあ嬉しい、嬉しい」
 女は飛び立って悦びました。

         五十六

 ここは、あわらの温泉の一夜。
 あわらの温泉は明治の十年に発見されたということだから、その時分はまだ地下に埋もれていた、その仮普請の一夜。
 福松の言う相当の顔役が言っていた、旦那衆もてなしの数寄(すき)をこらした仮構(かりがまえ)に、庭も広いし、四辺(あたり)の気遣(きづか)いはなし。
 そこで、兵馬はドテラに着替えて、福松も粋(いき)な浴衣(ゆかた)の一夜、兵馬が改まって、
「では、道中お預かりの品、ここでしかとお渡し申す、お受取り下さい」
 行李(こうり)の中から取り出して、福松の眼の前に置いたのは、金包、すなわち問題の三百両の大金であります。
「それは、いただきません、これはわたしのものではございません」
 そこで、問題の三百両の大金を前にして、二人の間に辞譲の押問答がはじまりました。
 兵馬は、これはたしかに福松への授かり物で、本来は、代官の胡見沢(くるみざわ)が百姓をしぼって淫婦お蘭に入れ揚げた金だから、それが偶然の機会で福松の手に落ちたのは、すなわち授かり物であって、お金のためから言っても、淫婦の手に渡って湯水のように使われるよりは、福松の手に使われた方が有利にもなり、人助けにもなる、ほかへはドコへ持って行き場のない金、つまり天の与うる物を取らざれば、わざわいその身に及ぶというようなことを説いて――それは寧(むし)ろ福松の最初からの口伝(くでん)のようなものですけれども、それを繰返して述べて、福松に渡そうとすると、福松がそれを押し返して、なるほど、それはそうに違いないでしょう、わたしとしても、自分が汗水で儲(もう)けた金とは思わないけれども、それにしても馬鹿正直に届ける必要のないお金、もとへ返す便りもないし、もとへ返すよりは、こちらで有効につかった方が、身のためにも、人のためにもなるというもの。そこに義理を立てるつもりはないと思って、いっそ、この金のある限り、二人で旅をしてみたいなんぞと仇(あだ)し心が出ないことはなかったが、今のわたしの身になってみると、もう、そんなお金はいらない、身の振り方がきまってみると、あとはお財(たから)は腕から出て来る、そこは憚(はばか)りながら芸が身を助ける自分の力、これから先に大金は用があって要がない。
 それに比べると、あなたはこれから、やっぱり旅。いくら有っても邪魔にならないのは、お財というもの、これはあなたがお使いなさるが当然のお駄賃。
 心から福松は、そういう観念で、兵馬にまた三百両の大金を押し返し、押しすすめましたけれども、それを、そうかと言って、翻って受け納める兵馬ではありません。
 なるほど、一応それは聞えるけれども、拙者は男子一匹、天涯一剣の身、路用があればあるで心強いには相違ないが、なかったところで、相当助力の友は到るところにあって、更に窮屈というものはない、それよりも、身が定まった、定まったというけれど、とにかく、知らない土地へ来ての一本立ちは、見込み以上に物がいる、まして、相当の顔に立てられれば立てられるように、株の手前もあり、附合いの入目(いりめ)もあるだろう、使えば使い栄えのする金になるのだから、この際、君の用意のためにするがよい――と事をわけて言い聞かせた上に、万一、君が受けないといっても、この種類の金を、拙者が有難く頂戴に及んで、いい気持で遣(つか)い歩けるかどうか考えてみるがよろしい、君がつかえば生きるが、拙者が遣うと男が廃(すた)る――というようなことまで説いて聞かせた上に、
「そういうわけだから、君はこの金でしかるべき芸妓家(げいしゃや)の株を買うようにし給え、それで余ったらば――」
と言って、極めて分別的な、しかも算盤(そろばん)に合う計画を立てて福松に示したのは、このあわらというお湯は、今こそ地中に埋れてはいるが、ゆくゆくこれが世に出ると、北国街道の要害でもあり、絹織物の名産地でもある福井の城下に近い形勝を占めたところだから、大いに繁昌するに相違ない。で、今のうちに多少なりとも地所を買い求めて、ゆくゆく温泉宿でも経営して、老後の安定を心がけてはどうだ。
 こういう分別的な、算盤に合う提案をしたものですから、それが福松をうなずかせもし、安心もさせ、あなたというお方は、ほんとに感心なお方、お若いに珍しい、品行がお堅い上に、老巧の年寄も及ばない行末の心配まで、本(もと)からうらまでお気がつかれる、まあ、何という感心なお方でしょうね、こんなお方、どうしてもはなしたくないわ、こんなお若くて、親切で、武芸がお出来になって、品行がよくていらっしゃる、その上、年配の苦労人はだしの分別までお持ちになる、手ばなしたくないわ、離れたくない、こんなお方をはなして人にとられては女の恥よ、女の意地が立たないわよ。ねえ、あなた、もう考え直す余地はなくって、このお金で、芸妓家の株を買い、余ったお金で、このあたりへ土地を買い、そうして、いっそのこと、あなたもこの土地へ納まっておしまいなさいよ。思い直すことはいけませんの、あなたは、あなたの本望がお有りなさるでしょうけれども、その御本望が成功なさったからとて、どうなりますの。
 もう一ぺん、思い直して頂戴よ、ここでまた福松が、いたく昂奮して参りました。
 別れを惜しんでいると、処女の親しみを感じるけれども、昂奮し出すと、売女(ばいた)のいや味が油のように染(し)み出す。兵馬は、これを迷惑がって、
「馬はいいですか、明朝六つに出立と申しつけて置いてくれましたね」
「いけませんの――思い直しは叶(かな)いませんの、では、あきらめます、いまさら、そういう未練は申し上げられないはずでしたのね、今晩一ばんだけの御縁――」
 あきらめられたり、あきらめ兼ねたり――女は三百両の大金の上へ、どっかりと身をくねらせて、やけ半分のような気持で、煙管(きせる)の雁首(がんくび)で煙草盆を引っかけて引寄せ、
「宇津木さん、あなたという人は、女の情合いは知ってらっしゃるが、女の意地というものがわかりませんのねえ」
「一通りはわかっているよ」
 兵馬も、自分が純粋無垢の青年だと誇るわけにはゆかない。その昔は江戸での色町で、相当な疚(やま)しい思い出がないとは言えないから、いささか恐れていると、女が、
「では、ほんの一くさり、わたしの身の上話を聞いて頂戴な、わたしののろけを受けて見て頂戴、今晩のは真剣よ」
 女は、もうまさしく畜生谷のほとり近い女にかえっている。兵馬はそれに怖れを感じ出しました。女はいよいよ自暴(やけ)気分に煙草を吹かしながら、
「身の上話なんて野暮(やぼ)なくりごとをやめましょう、未来のことを話しましょうね。それにしてもあたし、福松て名はドコへ行っても変えないことよ、それは、あなたにわかり易(やす)いために、何家の福松っておたずねになれば、すぐにドコのドの小路(こうじ)にいるということが、すぐにわかるように、福松って名はいつまでも変えないわ。屋号は前の株で何となるかわからないけれど、新しく自前(じまえ)になれたら、何とつけましょうねえ、そうそう、『宇津(うつ)の家(や)』とつけましょう、それがいいわ、宇津と御本名をそのままいただいては恐れが多いから、かなでねえ、かなで『うつの家の福松』といいでしょう、こんど福井へおいでになったら、何を置いても、『うつの家の福松』をたずねておいでなさい。こんどというこんどがいつになるでしょう、一月ぐらい待ちましょう、金沢へなり、京都へなり、おいでになったお帰りを待っています――うつの家の福松の御神燈を忘れちゃイヤよ。それからねえ、いつまでも看板を揚げて、御神燈の下ばかり明るくしても仕方がない、そのうちに足を洗いますよ、せいぜいここ一二年がところ稼(かせ)いで、それからあなたのおっしゃる通り、このあわらの温泉へ温泉宿を経営いたします、そうして丸髷(まるまげ)に結って、鉄漿(かね)をつけて、帳簿格子の前にちんとおさまって、女中男衆を腮(あご)であしらうおかみさんぶりを早くあなたに見せたい、きっと、遠からぬうちに、そうして見せるわ。どのみち、お約束ですから明朝はあなたを立たせて上げますけれど、お上りにしても、お下りにしても、長くてここ一月の後、この福井へ廻り道をなさらないと恨みますよ、そんなことを言っていると、もう焦(じれ)ったいわ、看板を買い、株を買い、自前になるとかならないとか、そんなこと間緩(まだる)くて仕方がない、今晩からでも廃業して、一本立ちの温泉宿のおかみさんと言われて人を使ってみる身分になりたい、いやいや、明日からまた、世間様の機嫌気づまを取って暮すことになるかと思うと、うんざりする。人間てわがままなのね、気の変りっぽいものね、今の先は、身の落着きがきまったと言って大よろこびで吹聴していたくせに、今となって、もう芸妓はいやで、世帯持のおかみさんになりたい、温泉宿屋のお内儀(かみ)にでもなりすました気分で、おおたばをきめこんでいるところなんか、まあ、自分ながら図々しさに呆(あき)れるわ。でも、このあわらへ温泉宿を持つことは、あたし骨になっても仕上げてみせますね、運次第ですけれども、風向きがよければ半年のうち、きっと何とか目鼻を明けてお目にかけることよ。宿をはじめてから、お客様が来て下すっても、下さらなくても、そんなことはかまいません、一度、あなたを呼んで、帳簿格子のお内儀(かみ)さんぶりを見せて上げさえすればそれでお気が済みますとさ。さあ、いよいよそうなるとしますとねえ、稼業(かぎょう)の方はうつの家でいいけれど、宿屋の方は何としましょうねえ、そうそう、あたしの福という字と、あなたの兵馬の馬という字をいただいて、福馬屋とか、福馬館とか名乗りましょうよ。いいでしょう、いけない? あたしの福が上になって、あなたの馬が下になる、それでは御機嫌が悪いの、いいでしょう、男ばっかり上になって、威張りたがらなくても、少しは女も立てるものよ、馬は人が乗るものだから、かまわないじゃありませんか。それにあなた、稼業の方は、うつと、あなたの字を立派にあたしの名の上にいただいているじゃありませんか、こんどは下にいて頂戴よ、仲よく、おたがいさまにねえ」
 兵馬は、そんなことは、いいとも悪いとも思わない、ただ今晩一晩は、この女のために、なんでもかでも聞き役になってやりさえすれば修行が済むのだ、義務が果せる! といういい気だけのもので、その間、ちょいちょい、座を白まさぬ程度にうけ答えているうちに、一番鶏が鳴き出しました。
「あら、鶏の夜鳴(よなき)でしょう、まだ一番鶏なんて、そんな時刻じゃないわ、鶏の夜鳴は不吉だというから、もし夜鳴がつづいたら、出立をお見合せあそばしませな、かえり初日ということもあるじゃないの。でも、相当に夜が更けたようだわ、どれ、もう一風呂浴びて参りましょう、夜も昼もあんなにお湯がふんだんに吹きこぼれているのに、勿体(もったい)ないわ、一度もよけいに浴びてやるのが、お湯に対しての功徳というものよ、ねえ、もう一風呂浴びましょう、のぼせたってかまわないじゃありませんか、今晩限りの湯治ですもの、湯疲れがしたって知れたものよ、あの通り、お湯が湯壺でふつふつと言って、人にお入り下さい、お入り下さいと催促をしつづけているじゃありませんか、入ってやらないのは罪よ、入りましょう、一緒に入りましょうよ、今晩限りのお別れなんですもの、のぼせあがって目が見えなくなってもかまわないじゃないの、ねえ一緒に入りましょう。また、あなた、今になって、いやに御遠慮なさるのねえ、白山白水谷のあの道中で、あの通りの道心堅固なあなたじゃありませんか、いまさら一緒にお風呂を浴びたからとて、落ちるようなあなたでもなし、落すほどの腕を持ったわたしなら何のことはないわ、ああ、あのお湯が鉛なら溶けてこの身をなくしてしまいたい……」
 女は、煙管(きせる)を抛(ほう)り出して、やけを繰返したかと思うと、衣桁(いこう)から浴衣(ゆかた)をとって、兵馬のドテラの帯に手をかけました。

         五十七

 宇津木兵馬は、その翌朝、まだ暗いうちに馬をやとうて、あわらを出立しました。
 芸妓(げいしゃ)の福松は戸際まで送り出でたけれども、お大切にという声がつまってしまったものですから、そのまま奥へ引込んで出て来ませんでした。
 さすがにこの女も、一間の中に泣き伏してしまったらしい。泣けて泣けて止まることができないために、意地にも、我慢にも、面(かお)が出せなくなったと解するよりほかはない。
 兵馬もまた、何とも言えない感情に震動させられながら、いったん福井の城下まで帰って来たのです。福井の町にこれ以上とどまるべき因縁は解消してしまったようなものの、このまま見捨てるには忍びないものがある。人情の上とは別に、ここも北国名代の城下であり、いや、自分の尋ねる敵の手がかりが、どこにどう偶然を待っているか知れたものではないというようなおもわくもあって、ともかくも市内の要所を一めぐりして、その足で鯖江(さばえ)から敦賀(つるが)――江州へ出て京都へ上るという段取りに心をきめました。
 道の順から福井の名所の第一は、もとの北の庄の城跡、織田氏の宿将柴田勝家がこれに拠(よ)って、ここで亡びたところ、その名残りのあとを見ると、神社があって、城郭の一片と、その時の工事の鉄鎖などがある。この庄の落城物語を歴史で読むと、巍々(ぎぎ)たる丘山の上にでもあるかと思えば、これは九頭竜川(くずりゅうがわ)の岸に構えられたる平城(ひらじろ)。昔は壮観であったに相違ないと思うが、今は見る影もない。それに引換えて、三十二万石福井の城がめざましい。転じて足羽山にのぼって見ると、展望がカラリと開けました。上に池があって「天魔ヶ池」と記された立札を見て、その名を異様に感じてその傍(かた)えを見ると、ここへ秀吉が床几(しょうぎ)を据えて軍勢を指揮したところだと立札に書いてあって、その次に一詩が楽書(らくがき)してある。
猿郎出世是天魔(猿郎世に出づ是れ天魔)
一代雄風冠大倭(一代の雄風、大倭に冠たり)
可惜柴亡豊亦滅(惜しむべし柴亡び豊また滅びぬ)
荒池水涸緑莎多(荒池、水涸(か)れて緑莎のみ多し)
清人  王治本 これを作ったのは支那人だな、詩はあんまり上手とも思われないが、支那人らしい詠み方だ――
 と思うと、その昔、秀吉がこの北の庄の城を攻め落し、柴田勝家が天主へ火をかけて一族自殺し終った、それを秀吉が高台から見下ろして豪快がったという悲壮な物語は太閤記で読んだが、なるほど、地理を目(ま)のあたり見ると、この地点がまさにそれだ。ここだというと、先刻見て来た北の庄の城あとが眼下に見える。この裏山をすでに占領されて、ここから敵に見下ろされるようになってはおしまいである。
 天主に火のあがるをながめて、秀吉が、もうそれでよし、勝家の亡後を見届けるに及ぶまい、なに、火をかけて城を焼いておいて、当人が逃亡して再挙を企てる憂えはないか。それを聞いて秀吉がカラカラと笑って、勝家ほどの大将が、天主に火をかけて逃げ出したら逃がして置け、と取合わなかった。そこに恥を知る武将の面影と、勝ち誇る英雄の余裕とが見られて、太閤記のうちでも面白いところだ。柴田勝家は織田の宿将第一で、地位から言っても、名望から言っても、秀吉などよりは遥(はる)かに先輩だ、これを亡ぼした時が、事実上の織田家を秀吉が乗取った時なので、もう内には秀吉の向うを張り得る先輩というものはない。これから外に向って、十二分の驥足(きそく)をのばすことができるのだから、秀吉にとって、この北の庄の攻略と、柴田の滅亡は、天下取りの収穫なのだ。
 いや、収穫といえばまだある、まだある、むしろそれ以上の収穫がここから秀吉の内閨まで取入れられたというものは、後年、天下の大阪の城を傾けた淀君(よどぎみ)というものが、ここから擁し去られて、秀吉の後半生の閨門を支配して、その子孫を血の悲劇で彩(いろど)らしめた。いったん浅井長政の妻となって、浅井氏亡ぶる時に里へ戻された信長の妹お市の方は、美男として聞えた信長の妹であり、国色として絶倫な淀君の母であるだけに、残(のこ)んの色香(いろか)人を迷わしむるものがあって、浅井亡びた後の論功行賞としては、この美しい後家さんを賜わりたいということに、内心、織田の宿将どもが鎬(しのぎ)を削ったが、そこは貫禄と言い、功績と言い、順序と言い、柴田に上越するものはない。そこで国色無双の浅井の後家さんは、先夫長政との間の二女を引連れて、柴田勝家に再縁の運命となった。この美色を得た勝家の得意や想うべしであったが、同時に、指を銜(くわ)えさせられた他の将軍の胸に納まらないものがある。なかにも羽柴筑前守ときた日には、後輩のくせに、功名を争うことと、色を漁(あさ)ることとは人後に落ちない代物(しろもの)であった。お市の方を得た柴田勝家が、これ見よがしに美人を引具(ひきぐ)して、ところもあろうにわが居城の江州長浜の前を素通りして、北の庄へ帰るのだ。お市の方をただ通してはならない、その乗物食いとめよと、羽柴の軍隊が柴田の行手に手を廻したなんぞというデマも相当に飛び、この時ばかりは、羽柴筑前守も指を銜えて引きさがるほかには手がなかったと思われる。それが幾許(いくばく)もなくして運命逆転――相手の宿将の城を焼き、一族を亡ぼす秋(とき)になってみると、秀吉としては、勝家の首を挙げるよりも、三度の古物(ふるもの)ではありながら、生きたお市の方の肉体が欲しい。勝家は勝家で、あらゆる羨望を負いながらお市の方を我が物としたけれども、元はと言えば主筋に当る、これをわが身、わが家の犠牲として同滅するには忍びない、そこで、お市の方に向って、汝(なんじ)はこれより城を出でて秀吉の手にすがれ、主君の妹であるそちを、秀吉とても粗略には扱うまいから、早々城を出るがよいと、いよいよのとき言い渡したが、お市の方とても、いったん浅井に嫁いで、夫亡ぶる時におめおめと城を出た自分が、またもその先例を繰返すようなことができようはずはない、今度こそは、夫君と運命を共にする、だが、二人の娘は浅井の胤(たね)であって、柴田の子孫ではないから、これは秀吉の手に托しても仔細はあるまいと、二女を城外に送り出して、自分は二度目の夫柴田と運命を共にした――という物語が語られてある。が、一説によると、お市の方も実はこのとき救い出されたのだが、表面はドコまでも柴田と共に亡びたということにして置いて、秀吉がひそかに伴い帰って、大坂城の奥ふかく隠して置いたという説がある。それは確かな説ではないが、浅井の二女を獲(え)ただけは否(いな)み難い史上の事実で、その一人は今いう淀君、他の一人は徳川二代秀忠の室となった光源院。
 そういう歴史口碑は、誰も知っている。兵馬もそれを知って、今こうして目(ま)のあたり、その場に臨んでみると、英雄だの美人だのという歴史の色どりが、幻燈のように頭の中にうつって来る。お市の方や、淀君や、これを得たものの勝利のほほ笑みと、これを失うものの敗北の悲哀――いわゆる歴史というものも、人物というものも、色に始まり色に終る、といったような感慨も起って来る。爾来(じらい)、この池を天魔ヶ池と呼ぶことになったらしいのは、天下到るところに人気(にんき)嘖々(さくさく)たる古今の英雄秀吉も、この地へ来ては、まさしく天魔に相違ない。
 本来、柴田勝家という人が、猛将の名はあるけれども、悪人の誹(そし)りは残していない。織田の宿将で、充分に群雄を抑えるの貫禄を持っていたし、正面に争わせれば、あえて秀吉といえども遜色(そんしょく)のある将軍ではなかったけれども、いかにせん、地の利を得なかった。
 北陸の鎮(しずめ)が遠くして、中京に鞭(むち)を挙ぐるに及ばない間に、佐久間蛮甥の短慮にあやまられ、敏捷無類の猿面郎にしてやられたという次第だから、全力を尽しての興亡の争いとは言えなかっただけに、柴田方に尽きざる恨みが残るというものである。当年、この猛将を主(あるじ)として城下に生を安んじていた者にとっては、最も誇るべき好主であって、悪(にく)むべき悪政の主としての記憶は微塵もないはず。それを時の勢いに乗じて、脆(もろ)くも踏み破って、その妻妾を取って帰るというような猿面郎の成金ぶりには、むしろ憎悪を感じようとも、好感の持てようはずがない。
 日本の人気から言えば、猿面郎は天下取りであるけれども、この土地から言えば、天魔来(きた)って好主を亡ぼす、と言って言えないこともない。他の地方ならば、秀吉の古跡を光栄として、これに「天下ヶ池」の名を附けたかも知れないが、ここでは「天魔ヶ池」という。まさに無理のない情合いもある、というようなことを兵馬が感じました。

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