大菩薩峠
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著者名:中里介山 

 途端に、よろよろして、よろけたものですから、細い腰が一たまりもなく崩折れて、そうして、まともに寝ている竜之助の上へ、身体(からだ)の全部を以て落ち倒れかかったものですから、全く夢を破られぬわけにはゆきません。
 今までは、夢であったり、うつつであったり、特におでん燗酒(かんざけ)のせいであったり、茶碗酒の勢いであったりして、夢中、夢をたどる中に、猫を一匹犠牲に上げてしまったことは、やはり半酔半眠のうちに記憶をとどめているが、人間がまともにぶつかって来た時には、真実の現在にかえらないわけにはゆかない。ガバとして竜之助がハネ起きました。
 倒れた女は当然、竜之助と重なり合った体勢にまで崩れてしまった。
「あれ!」
と言ったきり、恐怖と、失策とにおびえて、しばし口が利(き)けないで動顛しておりましたが、これが竜之助であったから仕合せでした。落ちかかる女の体を、よく支えて、それを横抱きに抱き起したなりで、自分も起き直ったのですから、双方の身体にいささかの被害はありません。
「まあ、何とも申上げようもないそそうを致しました」
「いいえ、なんでもないです」
「玉を探しに参りましたばっかりに」
 それでも、もう一つ異(い)なことは、こんな場合にも手に持っていた手燭の火が消えなかったことで、これは一種の奇蹟でありました。この残照を娘は無意識的に拾い取ると、すぐ眼の前の大きな行燈(あんどん)が眼にうつりますと、その行燈へ、手燭の火をうつしてしまいました。孫火をうつしたような親火が大きくなると、娘は、その光で、自分が失礼をした当の人を見届けようとする先に、またこの人に失礼の重々のお詫(わ)びをしなければならない先に、室の四隅をおろおろとして見やったのは、人よりは猫が可愛かったからです。そうすると早くも認めた丑寅(うしとら)の方一隅に向って、
「あれ、あそこに玉が――」
 かけつけて、手燭をつきつけた、そのホンの瞬間から、娘が声を放って泣きました。
「あれ、玉が殺されている、玉が死んでいる、あれあれ玉が――」
 ここに竜之助なる人間の存在などは、全く眼中にも脳中にも置かず、ひとり舞台の狂乱でした。

         四十五

 娘は、そこで絶え入ってから、三日の間は、猫の死骸を抱いたまま枕が上らなかったそうです。
 竜之助は、その夜の明けないうちに、またここをさまよい出でて行方が知れません。
 その夜が明けても、誰もこの座敷をおとなうものがありませんでした。いつもならば御陵隊士の片われだの、それを訪ねて来る浪客などで甚(はなは)だ賑わうのですが、いつになっても人が来ないだけに、かえってすさまじいものがあるのです。
 しかし、表向き隊の屯所(とんしょ)の方面は、今暁、昨晩からかけてものすごい人の出入りで、ものすごい殺気が溢(あふ)れ返っていると見えたが、それも、やがて、げっそりと落ち込んだように静かになってしまったから、今朝の月心院の庫裡(くり)の光景というものは、冷たいような、寒いような、生ぬるいような、咽(む)せ返るような、名状すべからざる気分に溢れておりました。
 そこへ、饅頭笠(まんじゅうがさ)に赤合羽といういでたちで大小二人の者が、突然にやって来て、溜(たまり)の前で合羽をとると、警板をカチカチと打つ。
「おう!」
と答えて中から出て来たのは、これより先、いつのまにか来着して一隅に寝ていた一人の壮士でありました。
 そこで、右の三人が、例の獅噛火鉢(しがみひばち)の周囲(まわり)に取りつくと、合羽を取った大小二人の者は、南条力と、五十嵐甲子雄でありました。
「いやはや、すさまじいものを見せられた、先般の池田屋斬込みよりも、これはまた一段の修羅場(しゅらば)だ、やりもやったり!」
と三人のうち、誰からとなく、まず斯様(かよう)に口を切って、しばらく沈黙が続いたのは、つまり、三人が、おのおのまずお座つきに発すべき感歎詞が、期せずして胸に一致していたのを、一人が代って口に出したものですから、まず異口同意といったようなものです。
 異口同音に舌を捲いての感歎によってもわかる如く、およそこれらの連中が見て、舌を捲いて、やりもやったなアと沈黙せしめられたるくらいだから、相当なにか外で行われたに相違ない。猫を一匹投げ殺して、娘が三日寝たという程度の仕事では、これらの連中の神経は動かないことになっている、その神経を、かなり最大級に刺戟した事件が外で行われたことの現場を、この連中は現に見届けて来たればこそ、ここへ来て、まず舌を捲いて、あっけに取られているに相違ない。
 しからばこの連中をして、かく舌を捲かして唖然(あぜん)たらしめた外の出来事の性質は何かというに、やはり、今のその感歎詞を分析してみると相当当りのつくことで、先夜の池田屋斬込みよりも、これはまた一段の修羅場だ――という一句によって推察せられる如く、先夜の池田屋斬込みに幾倍する凄惨(せいさん)の場面が、この京洛の一角のいずれかで展開せられたに相違ない。
 その比較に取られた池田屋騒動は、三条小橋の旅宿、池田屋惣兵衛方に集まる長州、肥後、土佐等の、勤王方の浪士の陰謀を探知した新撰組が、隊長近藤をはじめ精鋭すぐって出動し、一網打尽にこれを襲撃して、七人をこの場で斬殺し、四人に負傷せしめ、二十二人を召捕った大捕物、というよりは小戦争に近い乱刃であった。近藤勇の名を成したのはそもそもこの時からはじまったと言ってよい。時は元治元年の六月五日。
 これはいわゆる勤王方に対する、幕府の手先としての新撰組の正面襲撃であったが、後の高台寺鏖殺(おうさつ)は、朝幕浪士の争いとは言えない。そのバックには幾つの影があるにしても、もとはと言えば、みんな同じ釜の飯を食った仲間の同志討ちであった。
 近藤勇方の手によって殺された伊東甲子太郎も、以前は同じ新撰組の飯を食ったもので、それが御陵衛士隊になって分裂し、新撰隊長近藤勇に隠然として対峙(たいじ)する御陵衛士隊長伊東甲子太郎が出来上ったとは前巻に見えたし、伊東が近藤の謀計で誘(おび)き寄せられて、木津屋橋で殺された顛末も前冊にあるはず。伊東を殺したのも、芹沢を殺したのも、近藤の手であることには相違ないが、その殺され方の性質が違っている。芹沢は兇暴にして、隊長の威信を傷つくるが故に殺された。伊東は全然諒解を得て新撰組を離れたのだが、離れたその事の裏にすでに危機が孕(はら)んでいる。両虎相対して無事に済まない種が蒔(ま)かれている。表は立派に名分と理解とによって分れたのだが、内心の決裂は救う由なきことは申すまでもない。近藤の内命を受けて間者の役をつとめたのが斎藤一、御陵衛士隊長の伊東と、薩州の中村半次郎とが気脈を通じて、近藤勇暗殺の計画が熟していることを斎藤一が探知して、これを近藤に報じたから、先手を打って近藤が伊東を誘殺したのであった。単に伊東一人を殺しただけでは納まらない、根を絶ち、葉を枯らさずんば甘んずることをしないのが近藤の性癖である。そこで斬捨てた伊東の屍骸(しがい)を白日の下(もと)に曝(さら)して、残るところの隊士の来(きた)り収むるを待った、来り収むるその機会を待って、その来るところのものを全部、隊長と同様の運命に会わせようとするのもくろみであった。
 果せる哉(かな)、変を聞いた御陵衛士隊勇士の一連は、甘んじてその網にひっかかりに来た。みすみす新撰組のおびきの手と知っても、往きゆいてこれを収めざれば隊士の面目に関する。
 そこで、隊士中の錚々(そうそう)、鈴木樹三郎、服部武雄、加納道之助、毛内有之助、藤堂平助、富山弥兵衛、篠山泰之進の面々が、粛々としてこれに走(は)せ向った。いずれも武装を避けて素肌で赴いたのは不用意ではない、特に覚悟するところが有ったからである。行けば当然、新撰組の伏兵が刃(やいば)を連ねて待っていることはわかりきっている、そうしてどのみち、新撰組を正面の敵に廻した以上は、衆寡敵せざることもわかりきっている、従って行く以上は斬死(きりじに)のほかに手のないこともわかっている、すでにその覚悟で行く以上は、未練がましい武装は後日の笑いを買うのおそれがある、むしろ素肌で一期一代(いちごいちだい)の腕を見せて終るの潔きに越したことはない。そこで、いずれも武装はしなかったが、ひとり服部武雄だけが思うところあって武装した。
 かくて七人の壮士が、粛々として木津屋橋さして練って行くと、果して、皓々(こうこう)たる月明の下に、隊長の惨殺屍骸は、人の来(きた)って一指を触るることを許さず、十字街頭に置き放されたままで、ほしいままに月光の射し照らすに任せてある。
 彼等の悲歎と慨歎は思うべしである。そこで隊長伊東の屍骸を取り上げて、これを釣らせて来た駕籠(かご)の中に取納めんとする刹那(せつな)、物蔭よりむらむらばっと現われ出でた、新撰組の壮士四十余名!
 兼ねて期したることながら、ここで入り交っての乱刃。
 前に言う如く、この夜は、月光燦(さん)として鏡の如き宵であったから、敵も味方も、ありありとたがいの面を見ることができる。
 以前は同じ釜の飯を食った間柄とは言いながら、こうなると、名を惜しみ腕を誇るの気概が、猛然として全身に湧き上って来る。
 四十余人の新撰組はみな鎖をつけていた。七名の御陵衛士は、服部を除く外はみな素肌であったこと前に申す通り。
 鳴りをしずめて待構えていた新撰組に隙間のあろうはずはなかったが、来り戦う七名の壮士も武装こそしないが、いずれも覚悟の上には寸分の隙もない。
 所は京都七条油小路、時は慶応三年十一月十八日の夜――新撰組の方で、角の蕎麦屋(そばや)に見張りの役をつとめていた永倉新八と原田佐之助――これは鉄砲の用意までしていたということである。
 御陵衛士隊の一行がやって来る方向だけの兵を解いて置いて、そのほかは三方ともに固めている。三方を固めたといっても、特に要塞を築いたわけではなし、野戦の利を得た広野へ導いたわけでもない。いずれも連なる京の町家並、商家はすっかり戸を下ろしている。知らずして寝ているのか、知ってそうして戦慄の下に息を殺しているのか、カタリの音もせず。
 その町家の家毎に兵を伏せて置いた新撰組が、ここで一時に現われて四十余人、覚悟をきめた七名の壮士を押取囲(おっとりかこ)んで、何さえぎる物もなく、器量一ぱいに白刃下にて切結ぶのだから、格闘としては古今無類の純粋な格闘に相違ない。
 同じ夜に、南条、五十嵐の二人は、この場へかけつけて、とある商家の軒に隠れて、その白昼を欺く月光の下に、惻々(そくそく)としてこの活劇を手に取る如く逐一見ていたものらしい。
 鴨川の川べりから、三条橋の橋上に姿を消した二人は、あれから直ちにその見物に間に合った。やりもやったりと舌を振(ふる)って物語る実見譚(じっけんたん)。

         四十六

 これらの会話に花が咲いているところに、いつかは知らず、一人加わり、二人加わり、獅噛大火鉢の周囲が五、七人の人で囲まれて、いとど活気が炭火と共に燃え上りました。
 その連中も、いずれ御多分に洩(も)れぬ壮士浪士、ただし新撰組でもなし、御陵隊でもなし、有籍の諸藩士、無籍の修行人でもなし、いずれも、フリーランサーであるに相違ないと思われる。フリーランサーは英語であって、当時日本の流行語で言えば、脱走者とも、脱藩人ともいう。
 つまり、諸藩を脱走して、おのおのその懐抱するイデオロギーによって自由行動をとる、当時の志ある青年武士である。藩籍にあって知行をいただいていては自由の行動が取れない、よし自由の行動が取れるにしても、その行動が藩主の身上に影響を及ぼすところをおそれて、好んで藩を脱して諸国を放浪して、大言壮語することを職としていた筋目の通る溢(あぶ)れ者(もの)が、当時の社会には充ち満ちておりました。
 期せずして、これらのものが会見して、語り出す日になると談論風発です。天下国家のことから、経世済民のことから、人物汝南(じょなん)のことから、尊王討幕のことから、攘夷清掃のことに及んで、いつも火の出るような言論戦が行われることはあたりまえであるが、今日は、話のきっかけが見て来た修羅場のことからはじまり、その内容の叙述について、もはや、かなりの弁論時間を要したものですから、架空の議論には及ぶ余暇がなかったのですが、ここで右の叙景談が一応終りを告げると、次に猛然として湧き起るのは、天下国家の談論風発であることは是非もないことです。
「いったい、天下の形勢はどうなるんだ」
「維新というのはいったい何を意味するんだ」
 このだいたいの問題が、まだ明答を与えられていない。寄るとさわると、天下の形勢は如何(いかん)、維新の意義は如何ということが、口癖になっていることほど、何人も天下の形勢に不安を感じ、維新の必要を信じている。天下の形勢がかく不安なればこそ、維新の必要が当然であって、維新なきに於ては天下の不安が救われないということは、児童走卒までもこれを信じながら、さて、では今の天下の形勢がドコへ落着いて、維新の新体制はどう組織されるのだという具体観になってみると、識者といえどもこれが明断を下し、明答を与えることができない。
 そこで、右等の壮士連も、天下国家の談に及ぼうとする最初の出立は、ここからはじまるのです。古くして新しいのは、新しく解釈せらるべくして、現状維持の底力が動かないからです。
「いや、天下の形勢も古いものだが、落着く筋道はたいていわかっている、ただ、その筋道が一筋でない、幾筋かあるので迷っているだけのものだ、落着くということになれば、ドレかそのうちの一つに落着く」
「は、は、は」
 誰かが高らかに笑いました。
「落着くところに落着くという結論は、成るようにしか成らぬという論理と同じことなんだ、なりゆき任せに手を拱(きょう)していることができない、落着くべきところに事物を落着かせ、成るべきように国家を成らしめんがためにこそ、我々は身命を顧みず東奔西走しているのだ」
「それはまた至極同感である、同感であるというのは、感服という意味ではない、その意見も、要領を得たようで、要領を得ないことは前者と同じである、すなわち、問題は落着くべきところに物を落着かせるという、その落着くべきところはドコなんだ、成るべきように国家を成らしむという、その成らしむる究竟目的というものを、諸君ははっきりと指示ができるのか――」
 肯定と否定とを同時にして究竟問題を提出した一人の壮士、それを判者面の南条力が、
「君たちは定義を先に立てて置いて、弁証を後にするから、それで徒(いたず)らに抽象にはせて、意余りあって情が尽せないことになるのだ、冷静な逐条審議から出直して見給え、当世流行の科学的というやつで……」
「なるほど、細目をあげて、しかして大綱に及ぶという帰納論法をとって見る方が、斯様(かよう)な時にはわかりが早いかも知れぬ」
「では……」
 南条が咳(せき)ばらいをして、
「いいかい、では、その落着くべきところという命題をまず、とっつかまえて俎(まないた)にのぼす――その落着くべき筋道が幾筋もあるということを、さいぜん北山君が言ったが、単に幾筋もあるではいけない、それでは当世流行の科学的ということにならないから、幾筋なんぞとぼかさずに、五筋なら五筋、六筋なら六筋と明確に数を挙げてもらいたい、これも当世流行の数学的というやつで、つまり、昔の塵劫記(じんこうき)で行くのだ」
「そう言われると、そうだなあ、その落着くべき道というのが幾筋あるかなあ」
 正直な北山は、注文をまともに、あれかこれかと胸算用をはじめて、急には埒(らち)が明かないのを南条が突っこんで、
「胸算用はやめて、まず、頭に浮んだ一筋ずつを言って見給え、そうして、一筋ずつ抽(ひ)き出して、抽き尽した後に寄算をしてみれば容易(たやす)くしてくわしい」
「君は算者(さんじゃ)だ」
 北山は、南条の頭のよさに敬服する、南条の頭がいいのではない、自分の頭が鈍に過ぎるのだ、と申しわけたらたらで、勧告された通り、逐条列挙に思考を換え、
「まず、今の天下が落着くべき筋道としては――例を挙げてみるのだよ、そこに落着くのが正しいとか、そこに落着きそうだとかいうの判定ではないよ、例を幾つも挙げてみるんだから、これが拙者の希望であり、意見であるように取られては困るよ」
「そんな申しわけはせんでもいい、早く第一条を言い給え」
「まず、今まで通り徳川の天下に安定するというのが最初の筋道として」
「次は」
「幕府が政権を朝廷に返し奉る、王政復古の筋道」
「次は」
「王政復古が成らずして、畏(かしこ)くも建武の古例を繰返すような事態が到来したとして、いや、そうでなくとも、徳川幕府につづく第二第三の幕府が出来るとして見ると」
「徳川幕府以外の幕府の成立を予想してみる、なるほど」
 更に第四条件にうつろうとする時、横合いから口を出し石井権堂というのが、
「その科学的とやら数学的とやらいうところを、もう一層細かく、単に徳川幕府以外の幕府が、成立とかなんとかの仮定条件では物足りない、徳川幕府に代る幕府が成立するとすれば、誰が代るか、それをひとつ具体的に言ってみてもらいたいな」
「まず、薩摩か」
「まず、長州か」
「毛利だろう」
「島津だろう」
 この二つは動かない、誰も、それを上下したり、左右にしたりして見ることはするが、それ以外のものを加えて見ようとはしない。
 そこで、この席には、薩州論と長州論との談論の枝が出て、その枝がかんじんの話題の幹よりも大きく、広くなりそうで、長と、薩と、徳川家との関係から、関ヶ原以来の歴史にまで遡(さかのぼ)ったり、人物はドチラにいる、いや薩が断然図抜けているという者もあれば、どうして長の方が粒が揃(そろ)っているというものがある、そういうことで談論が鋭化し、感情が昂進して、せっかくの科学的も、数学的もケシ飛んで、鉄拳が飛び兼ねまじき勢いでしたが、座長格の南条がようやく取りしずめて、
「してみると、徳川幕府倒れて、新たに将軍職を襲うものがありとすれば、これは薩州か、長州かのいずれかより起る、その判断には異議はないか」
「異議がないようだ」
「だが、ここになお一つの勢力、お公家(くげ)さんにもエライのがいるぞ、中山卿だの、三条殿、死んだ姉小路――岩倉――大名ばかりを見ていては見る目が偏(かたよ)るぞ」
とさしはさむものがあるかと思うと、一方には、
「いや、まだ大名のうちにも油断のならぬのがいるぞ、土佐、肥前なんぞは、なかなか食えないぞ」
と言う者もありました。

         四十七

「土佐は食えない」
と和するものがあって、薩長論から続いて話壇を占有したものは土佐でありました。
「土佐の国の国論というものは一種不可思議だよ、志は王政の復古にあらず、さりとて幕政の現状維持でもない、どのみち、天下は一大改革をせにゃならんということは心得ているらしいが、その方法として、封建を改めて郡県を立てんとするの意思も相当徹底しているらしいが、それはよろしいが、その手段方策というものが土佐一流で、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)をして大政を奉還せしめる、これも異議がない。しかして大政を奉還せしめた後、天下の公卿諸大名から、各藩の英才を徴して新政に参与せしめる、その理想も悪くはないが、さて、その新政体の主脳髄は何という段になると、それが今の慶喜を将軍職を奉還せしめた後、改めて政権の主座に置いて、三百諸侯みな現状維持の下に、つまり藩主を藩知事というものにして、それで、現状維持のままに政(まつりごと)を一新せしめて行こうという案らしい。それが、無用の破綻(はたん)と摩擦を起さずして、しかして体制を一変し、新政の実を挙ぐるに最も妙用であると、土佐ではそう考えているらしい。そういうような意見と運動が、一藩の輿論(よろん)となっているらしい。それだというと、いわゆる公武合体のようなありふれた妥協でもないし、一面は一新の革新意識に触れているし、一面は旧制度の保守にも通じている、ちょっと、まともに反対しようがあるまい。この一藩の輿論の下に、土佐はまず幕府に向って大政奉還運動を働きかけている、徳川氏に向って、早く政権を朝廷に向けて奉還せよ、それが天下の大勢であるし、また徳川氏の社稷(しゃしょく)を保つ最も賢明の方針だ、大政奉還が一刻早ければ早いだけの効能がある、一刻遅ければ遅いだけの損失がある、ということを、あの藩の策士共はしきりに幕府に向って建議勧誘しているそうだ」
「それは利(き)くまい、三百年来の徳川政権を無条件で奉還する、いくら内憂外患頻発(ひんぱつ)の世の中とはいえ、一戦も交えずして政権を奉還する、そんなことは将軍職としてやれまい、将軍職としてはやれても、臣下が肯(がえんず)るということはあるまい、夢だ、空想だ、策士の策倒れだよ」
「ところが、存外、それが手ごたえがありそうだということだ、幕府も大いに意が動いているらしいということだ、なんにしても、もはや徳川幕府ではこの時局担当の任に堪え得られない、よき転換の方法があれば、早く転換するのが賢いという見通しは、こと今日に至っては、いかに鈍感なりといえども、気がついていないはずはあるまい、よって、存外、土佐の建策が成功するかもしれない」
「そんなことは痴人の夢だよ、天下の幕府でなく、一藩の大名にしてからが、藩政が行詰ったから大名をやめます、藩主の地位を奉還しますとは誰にも言えまい、取るに足らぬ一家にしたってそうじゃないか、みすみす家をつぶすということが、一家の主人としても、オイソレとはやれない、幕府の無条件大政奉還などということは、いくら時勢が行詰ったって、これは夢だよ、それこそ書生の空論だよ、今の時勢だから、書生の空論も、一藩の輿論(よろん)を制するということはできない限りもあるまいが、天下の大権を動かそうなどとは、それは痴人の夢だ」
「ところが、存外、痴人の夢でないということを、僕はある方面から確聞した、それに大政奉還は徳川の家をつぶす所以(ゆえん)でなく、これを活かす最も有効の手段だということなんだ、そこに、徳川家と土佐とには、ある黙契が通っているらしい、大政奉還将軍職辞退の名を取って、事実、新政体の主座には、やっぱり慶喜を置く、そうして天下を動揺せしめずして新政体を作る、というのが眼目になっているらしいから、そこで、幕府も相当乗り気になっているらしい、つまり名を捨てて実を取る、名を捨てることによって時代の人心を緩和する、実を取ることによって、やっぱり徳川家が組織の主班である、多少、末梢(まっしょう)のところには動揺転換はあるにしても、根幹は変らないで、しかも、効を奏すれば、時代の陰悪な空気をこれで一掃することができる、至極の妙案だと、乗り気になって動き出したものが幕府側にもあるということだ」
「ふーん、してみると、坂本や後藤一輩の書生空論によって、天下の大勢が急角度の転換をする、万一、それが成功したら、また一つの見物(みもの)には相違ないが、同時に徳川家を擁する土佐の勢力というものが、俄然として頭をもたげて来るということになる、慶喜を総裁として、容堂が副総裁ということにでもなるのか」
「いや、それが成功したからとて、いちずに土佐が時を得るというわけには参るまい」
「失敗しても、土佐は得るところがあって、失うところはないのだ」
「だが、諸君、心配し給うな、そんな改革が、仮りに実行されるとしてみても、成功するはずがないから、心配し給うな」
「どうして」
「たとえばだ、君たち、ここに拙者が坐ったままでいて、そうして、この畳の表替えをしろと言ったところで、それはできまい、畳の表替えをしようというには、そこに坐っている者から座を立たねばならぬ、坐っている奴が、座を立つことをおっくうがって、このまま表替えをしろと言ったってそりゃあ無理だ、家の建替えや根つぎにしてからがそうだろう、天下のことに於てはなおさらだ、攻撃をする、改造をするという時に、中に人間共が旧態依然としてのさばっていて、それで改造や改築ができるか、現状維持をやりながら維新革新をやろうとしたって、そりゃ無理だよ、そんなことができるくらいなら、歴史の上に血は流れないよ、そんなおめでたい時勢というものは、いつの世にもないよ」
 こういった反駁(はんばく)が、有力な確信を以て一方から叫び出されると、さきに土佐論を演述した壮士が躍起となって、
「だから、徳川はいったん大政を奉還し、慶喜は将軍職を去り、諸大名は国主城主の地位を捨てて藩知事となる――そこにまず現状破壊を見て、しかして革新を断行しようというのだ」
「それそれ、それがいかにも見え透いた手品だよ、再び言うと、今の畳の表替えだ、この広間なら広間全体の畳の表替えをやろうとするには、この中にいるすべての人と、調度とが一旦、皆の座を去らなければならないのだ、君の言う土佐案なるものは、去らずして去った身ぶりをする、つまり、こちらにいたものがあちらに変り、あちらにいた奴がこっちへ来る、座を去るのではない、座を置き換えるのだ、前の人は前のところにいないけれども、同じ座敷の他のいずれかの畳に坐っていることは同じだ、単に人目をくらますために、人を置き換えただけで、それが畳を換えてくれと要求する朝三暮四(ちょうさんぼし)のお笑い草に過ぎない」
「そうだ、その通りだ」
と共鳴する者がある。反駁者の気勢が一層加わって、
「維新とか、革新とかいうことは、旧来の第一線が全く去って、新進の新人物が全面的に進出して主力を占めるということに於て、はじめて成されたのだ――断然、徳川ではいかん、徳川を去らしめて、全面的な新勢力に革新をやらせなけりゃ意味を成さん、それがために、相当の摩擦を示し、たとえ多少の血を流すことがあっても、それを回避しては革新は成らぬ、血を以て歴史を彩(いろど)ることは、つとめて避けなけりゃならんが、血を流すことを回避して、革新の時機を失する不幸に比ぶれば、それはむしろ言うに足らんのだ」

         四十八

 これらの連中の高談放言を別にして、その晩、この月心院の一間から姿を消した机竜之助。
 その格闘史としては、古今無類の七条油小路の現場へ駈けつけて、そのいずれかの一方へ助太刀(すけだち)をするかと思えばそうではない。また乱刃のあとへなり先へなり廻って、後見の気取りで逐一、その剣、太刀の音の使いわけでも聞いて甘心するつもりかと思えば、そうでもない。
 この男の腕立てとして、もうそういう油の気の多いところは向かない。猫を一匹つかみ殺して、虫も殺さぬ娘を一人絶え入らせるだけの程度がせいぜいで、その前の晩か、後の晩かに、さほどの乱刃が月光の下に行われた京の天地とは……およそ方角の異った方へ、ひとり朧(おぼ)ろげな足どりをして、しょんぼりと、月夜の下に見えつ隠れつして、ふらふらと辿(たど)り行くのは、三条から白川橋、東海道の本筋の夜の道、蹴上(けあげ)、千本松、日岡(ひのおか)、やがて山科(やましな)。
 多分、関の清水の大谷風呂あたりへ、足もとの暗いうちに辿りついて、空虚極まる疲労を休めようとの段取り。
 かくて山科の広野原――へ来たが、まだ月光酣(たけな)わなる深夜なのです。その広野原へ来て――山科には特に広野原というべきところはないけれども、彼のさまよう世界のいずこも広野原。そこへ来るとふらりふらり辿(たど)って来た足を、ものうげに薄野原(すすきのはら)の中にとどめて、ふっと後ろを顧みると、東山を打越えて見透し、島原の灯が紅(あか)い。
 山科の地点に立って島原の灯を見るということは有り得ないことだが、ありありと島原傾城町の灯が紅く、京の一方の天を燃やしているその灯に、名残(なご)りが惜しまれて、後朝(きぬぎぬ)の思いに後ろ髪を引かれたのかと思うと、必ずしもそうでもないようです。
 またしても、人を待つものらしい。行きには田中新兵衛あたりの人の気配を感じたが、戻りにもまたこのあたりで、どうやら、己(おの)れを見かけて慕い寄る人の気配を感じたものらしい。さればこそ待っている。
 たしかに、この男の勘の鋭さも昂進してきました。案の如く、人が後からついて来るのです。それは今に始まったことではないので、そもそも月心院の庫裡(くり)を抜け出した時から、竜之助のあとをつけて来た人影なのです。いや、それよりも、もっと前、島原の廓(くるわ)を出た時から、三条大橋で待つことを要求された時から、影の形のようについて来た覚えのある人影。
「へ、へ、轟(とどろき)の源松でございます」
 先方はもうつい鼻の先までやって来ていて、こちらから咎(とが)められるを待たず、先方から名乗って出たのは先手を打ったつもりらしい。
「多分、そうだろうと思った、お前に見せてやりたいものがある、それ故、ここで待っていたのだ」
「へ、へ、何でございますか、わざわざ、わっしに見せてえとおっしゃいますのは」
「それそれ、これだ、これだ、これを見ろ」
 竜之助から指さされたので轟の源松が、この指さされた藪(やぶ)の中を見ますと、
「あっ!」
と言って、思わずたじたじとなりました。轟の源松とも言われる捕方(とりかた)の功の者がおどろいたのだから、尋常の見物(みもの)ではありません。

         四十九

 すすき尾花の山科原のまんなかに、竹の柱を三本立てて、その上に人間の生首が一つ梟(さら)してあるのです。
 と言ったところで今時、生首を見せられたからといって、単にそれだけで腰を抜かすようでは、源松の職はつとまらない。源松が驚いたのは、その梟し首が自分の首ではないかと思ったからです。宇治山田の米友も、生きながら梟しにかけられたことはあるが、あれは正式の公法によって処分されたものですから、見るほどの人が見ていい気持はしなかったけれども、その処刑というものは、形式が異法だと思うものはありませんでしたが、これは変則です。いかに重罪極悪非道の者といえども、こういう惨酷極まる梟され方というものはない。
 まず、三本の竹の柱を、いとも無雑作(むぞうさ)に押立てて、その上に人間の生首一つ、その三本の竹の柱の下に、丸裸にした胴体の下腹と胴中を男帯で結えた上に、首だけは竹の上に置かれたように出ているが、実は、首と両腕とを下で細引で結んで釣り下げてある。細引はまだ新しくて、ゆとりがたっぷりあるのがブラ下がって地に曳(ひ)いている。
 ばっさりと、腕の利いたのに切ってもらい、それを体(てい)よく台の上へのっけてあればまだ見られるというものだが、斬られていない首が、醜体を極めた胴中そのものと共に、ダラしなく梟しっぱなしてある。嬲(なぶ)り殺(ごろ)しにした上に、嬲り梟しというものに挙げられているので、轟の源松が、あっ! と言ってそれを見直した時に、机竜之助が、淋しげに微笑を含んで言いました。
「どうだ、お前の面(かお)に似てはいないか」
「左様でございますねえ」
 源松が、なるほど、そう言われれば、その生首は、見ているうちに、自分の面に似てくるような思いがしてなりません。寒気がゾッと襲うて来て、足もとがわなないてくる、それをじっと踏み締めて、見上げ見下ろすと、つい今まで気がつかなかったが、捨札がその首の傍らにある。
「右之者、先年より島田左兵衛尉へ隠従致し、種々姦謀(かんぼう)の手伝ひ致し、あまつさへ、戊午年以来種々姦吏の徒に心を合はせ、諸忠士の面々を苦痛致させ、非分の賞金を貪(むさぼ)り、その上、島田所持致し候不正の金を預かり、過分の利息を漁し、近来に至り候とても様々の姦計を相巧み、時勢一新の妨げに相成候間、此(かく)の如く誅戮(ちゆうりく)を加へ、死体引捨にいたし候、同人死後に至り、右金子借用の者は、決して返弁に及ばず候、且又、其後とても、文吉同様の所業働き候者有之(これあり)候はば、高下に拘らず、臨時誅戮せしむべき者也」
「旦那、わかりました、こりゃ、わっしの首じゃございません、猿の首でございますよ」
「猿! いやあ、猿じゃない、やっぱり人間だろう」
「いえ、猿と申しましても、野猿坊(えてぼう)のことじゃあございません、目明しの猿の文吉て奴で、ずいぶん鳴らしたもんでございますが、こんなことにならなけりゃいいと思いましたが、果してこうなるたあ因果な話で、いささかかわいそうでもございますよ――まあ、お聞き下さい、こいつの素姓というのは、こういうわけなんです」
と轟の源松は、不意に見せられた生首が自分の首でなくて仕合せ、その素姓がすっかりわかってみると、持前の度胸を取り直して、今度は逆に、説法する気になったものらしい。
「こいつはねえ、上方者(かみがたもん)なんです、京都のみぞろというところに生れた奴なんです、が若い時分から博奕打(ばくちうち)の仲間入りをして諸方を流れて歩いた揚句に、本来やくざじゃあるが小才(こさい)の利(き)く奴でして、自分のところに渋皮の剥(む)けた貰いっ子をしましてね、それが君香(きみか)といって後に舞妓(まいこ)で鳴らしました、そいつを九条家の島田左近様に差上げまして、それが縁で島田様に取入り、そのお手先をつとめて、いやはや、勤王方の浪人を片っぱしから嗅ぎ上げて、お召捕りの間者をつとめた奴、安政の時に名のある浪人が数珠(じゅず)つなぎになったのは、一つはみんなこいつの仕業なんでした、こいつの隠密(おんみつ)で召捕られた西国浪人が、どのくらいあるか知れたもんじゃありません。そうして九条家へはおべっかをつかい、仲間には幅を利かした上に、弱い者はいじめる、御褒美の方も、たんまりとせしめて、小金も出来ました。二条新地に女郎屋をこしらえましてな、召使をたくさんに使い、天晴れの親分大尽をきめ込んでおりましたが、志士浪人の憎しみが積り重なっている、決していい往生はしねえと見ておりましたが、果せる哉(かな)でございました。それにしても、まあなんて浅ましい姿になりやがったろう」
 轟の源松は、一面わが身につまされる淡い感慨の息を吹いている。源松は、文吉ではない。その職務としては同じようなことをしているようなものの、性質が違っている。どのみち、人にはよくは思われない職務にいたが、かりに同職として見ても、この文吉の成れの果てに歎息はしても、さまでの同情は持てないらしい。それというのは、源松には源松としての気負いがあって、自分は腕で行くのだ、こいつのように利で動いて、人を陥れることで己(おの)れの功を衒(てら)うような真似(まね)はしない。罪悪を罪悪として摘発することは己れの職務だが、罪悪を罪悪として作り立てて人を陥れることは、江戸っ児にはできねえ、という自負心があった。おれのは本職だが、こいつはインチキだ、二足も、三足も、わらじをはいている奴だ、我々同職の風上にも置けない奴なんだ、という腹があるから、同情に似た痛快、痛快に似た同情の、歯がゆいような心持で、それをながめながら、
「わかっておりますよ、わかっておりますよ、こいつを殺したのは、土佐の高市瑞山(たけちずいざん)という人の弟子たちで、みんなが先を争ってこいつを殺したがったんですが、その中で鬮取(くじと)りをして、岡田以蔵てすごいのと、ほかに三人が鬮に当っちまいましてな、こいつのような犬猿同様の奴を、刀で斬るのは全く刀の穢(けが)れだから、締め殺してやるがよろしい、締めるには行李(こうり)を締める細引がよろしい……と、わざわざ細引を買って来て、それで、こいつを取捕めえて締め殺したんだ。それごらんなせえ、その下にブラ下がっている細引が、まだ買立ての新身(あらみ)じゃあございませんか」
「何もかも、そう知り抜いていたんじゃあ、嚇(おどか)しにもならぬ」
 竜之助は呆(あき)れ果てたようなセリフで、またそろそろと薄尾花(すすきおばな)の中を歩きにかかると、源松が、しゃあしゃあとしてあとを慕って来ること前の通りです。

         五十

「時にあなた様のお宿許は、どちら様でございましたかねえ」
 轟の源松がまたしても、思い出したように、同じことを竜之助に向って問いかけましたから、竜之助がうるさいと思いました。
「まだそんなことを言っているのか、それは、こっちが聞きたいところだ、島原を振られて、京都の町の中を一晩中うろついたが、ついに拙者の泊る宿所がない、ようやくのこと月心院へたどりついて見ると、そこは、夜もすがら、あはは、おほほで眠れはしなかった、仕方がないから、日岡を越して、山科まで来てしまったのだよ」
「して、その山科は、ドチラかお心安いところがございまして」
「いや、山科へ来たからといって、別に心安いところもないがな、関の大谷風呂へ少し厄介になったことがあるから、もう一晩、あそこへ泊めてもらおうかと、それを心恃(こころだの)みにして来たまでだ」
「大谷風呂でござんすか、それは幸い、わっしも少しあの辺に用向がございますから、御一緒にお供が願いたいもので」
「それは迷惑だな」
「いえ、なに、旅は道連れということもございますからな」
 轟の源松は、人を食いそこねたようなことを言って、テレ隠しをしました。
「あんまり有難くない道づれだ」
と竜之助が苦りきりました。
「送り狼というところなんでござんすかな。この場合、どちらが狼でござんすかな。左様、送られる方が狼で……」
「いったいお前は、何でそう、わしのあとばっかりつきたがるのだ、盛りのついた野良犬のように」
「へ、へ、へ、恐れ入りました、これは、つまり、わっしの病ではない、役目なんでございますから、いかんとも致し方がございませんでして」
「お前に役目でつけられるような弱い尻は、こっちにはないぞ」
「そちら様にはとにかく、わっしの方で、ぜひ最後を見届けるところまで、おともが致したいんでございます、悪くつきまとうわけではござりません、役目でございましてな、手っとり早い話が、あなた様の昨晩のお泊り先はわかっておりますが、これからの先、それと、もう一つ、今晩のお宿許と、お国元の戸籍のところを一つ伺えば、それでよろしいんでございます。と申しますのは、まあ、世間並みのお方でございますと、一当り当れば、身分素姓のところ、すっかり洗ってお目にかけますが、あなた様に限って、当りがつきません、まるでまあ、失礼な話だが、幽霊のように、姿があって影がないんでございますからね」
「冗談を言うな、今はそんな冗談を言っている時ではあるまい、おれのような幽霊同様の影の薄い人間を、貴様のような腕利(うでき)き一匹の男が、鼻を鳴らして夜昼嗅ぎ廻っている時節じゃあるまい。古いところで、姉小路卿を殺した下手人はまだわかっていないだろう、三条河原へ足利の木像をさらした一味も検挙されてはいないはずだ、新撰組で芹沢が殺されたその下手人さえ、わかっているようでわからない、つい近い頃、大阪では天満(てんま)の与力内山彦次郎が殺されたというに、まだその犯人がわからない、江戸では、上使の中根一之丞が長州で殺された。ところでこの拙者などは、生来、悪いことは一つもしていない、たよりない宿なしの影法師同様な拙者を追いかけ廻して、いったいいくらになるのだ」
と竜之助からたしなめられて、源松はいよいよテレきった面をして、
「でございましても、病では死ぬ者さえあるんでございます、どうか、そこのところをひとつ、御迷惑さまながら、大谷風呂まで、その送られ狼というところで」
 執拗(しつこ)い――がんりきの百以上だ。百のはいたずらでやるのだが、こいつのは職務――ではない、病だ、うるさい、という思入れで、無言に竜之助が歩き出すと、
「エヘ、ヘ、送られ狼――こっちが気味が悪いんでございますよ」
 かくて源松はまた、竜之助のあとを二三間ばかり離れて、薄尾花(すすきおばな)の中を歩みにかかる程合いのところで、またしても、
「あっ!」
と言ったのは、その、おどろおどろと茂る薄尾花の山科原の中から不意に猛然として風を切って現われたものがありました。
「あっ! 狼!」
 轟の源松も立ちすくんでしまったのは、冗談ではない、送り狼の、送られ狼のと、口から出まかせに己(おの)れの名を濫用する白徒(しれもの)の目に物を見せようと、狼が飛び出して来た、正の狼が眼の前へ現われた!
 と源松も一時は立ちすくんだが、そこは相当の度胸もあるから、
「あ! 狼ではない、鹿だ!」
 鹿だ! と呼ばれた時は、その獣は、もはや源松の眼前をひらりと躍(おど)り越えて、行手へ二三丈突っ飛んだ時でありましたが、
「鹿ではない、やっぱり犬だ!」
と、源松が三たび訂正のやむを得ざるに立至ったものであります。
「犬にしちゃあ、すばらしくでけえ犬だなあ」
 源松は追註(おいちゅう)をして、改めてそれの馳(は)せ行く怪獣の後ろ影を呆然(ぼうぜん)と見送ったばっかりです。

         五十一

 不意に出現の怪獣に、最初は狼と驚き、二度目には鹿と見直し、三度目には、やっぱり犬と訂正して、そうして更に、犬にしては豪勢素敵な奴だと追加の感歎を加えて、しばし呆然とその後ろ影を見送って立ち尽している。そのすぐ背後から、またも突然に、
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
 こういうかけ声をしながら、息せききって走(は)せつけて来るものがあるのですから、源松は、その行手を慮(おもんぱか)らないわけにはゆきません。
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
 後ろから走せて来たのを、避けてやり過してやろう――轟の源松は、路傍の草の中へ少し身を引いていると、
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
 怪しげな掛声に呼吸を合わせて、走せて来たのは、まさしく今の犬を追いかけて来たものでしょう。と見ると、犬の大なるに比して、人の小さいこと、ほとんど子供と思われるほどの弾丸黒子(だんがんこくし)、それが、宙を飛んでかけつけた。紺かんばんに、杖を調練の兵隊さんがするように肩にかけて、まっしぐらに馳(は)せて、せっかく道を譲った源松に目もくれず、辞譲のあいさつをする余裕もなく、今し逃げ去った豪犬のあとを追って走り来(きた)り、走り去るのであります。
 それをも、源松は暫く面くらって見送っていたが、その時急に呼びさまされたことは、犬ははじめて見る豪犬だが、人間はそうではない、どこかで見ている! ああ、あの小粒! びっこを引きながら、しかも軽快に疾走するあの足どり、精悍(せいかん)な面魂(つらだましい)、グロな骨柄、どう見たって見損うはずはない。ほとんど命がけ、江州長浜の一夜の手柄にあげたが、あいつが譲らなければ、こっちが危なかった。
「あいつだ!」
 轟の源松は、そう気がつくと、ここでもまた二狼を追うわけにはいかず、一方の送られ狼にはなんら辞譲を試むることなしに、いま目の前を過ぎ去った弾丸黒子に向って、全速の馬力を以て追いかけました。
 源松が急角度の方向転換で、まっしぐらに追いかけた当の相手というのは、宇治山田の米友でありました。
 あの晩、あの小者(こもの)めをやっとの思いで手がらにかけたが、今以て善良不良ともに不明なのはあいつだ。伊勢の生れだというのに、江戸ッ子はだしの啖呵(たんか)を切るし、兇悪性無類の放浪児とばかり踏んでいたが、その啖呵をきいていると、正義観念が溌溂(はつらつ)として閃(ひらめ)くことに、源松の頭も打たれざるを得なかったが、調べの途中から、全然口を利(き)かなくなり、胸の透くような啖呵も切らなくなり、問われても、責められても、一言一句も吐かない。拷問(ごうもん)同様の目に逢わせてみても、口がいよいよ固くなるばかりだ。のみならず、大抵の責め道具では、あいつには利かない。人間の生身だから痛いには痛い、こたえるにはこたえるだろうけれども、あいつに限って、痛いと言わないのみか、痛そうな面をしない。痛そうな面をしないのではない、本心痛くないのだ。すなわち不死身という変体になっている、そう思うよりほかはなかった。それから、あぐみ果てて、好意を以て、だましつ賺(すか)しつしてみても、いったん固めた口はついに開かない。わざと鎌をかけて、口を開かないと非常な不利益な立場になる、損だぞ、と言っても、損益が眼中にない。
 ついに政略上、是非善悪不明のままに、あいつを農奴の張本に仕立てて、曝(さら)しにかけたのは、こいつならば、よし冤罪(えんざい)に殺しても、後腹(あとばら)の病まない無籍者だから、時にとっての人柱もやむを得ないと、当人ではない、役人たちが観念して、草津の辻へ「生曝(いきざら)し」にかけてしまったが、源松そのものも、実はあんまりいい気持がしなかったのだ。無籍者にしろ、放浪者にしろ、ルンペン小僧にしろ、持込場のない行路病者にしてみたところが、当人の身性(みじょう)に不明なところがあって、果して犯罪人かどうか甚(はなは)だ不明であるものを、そのまま処刑をするということは、小の虫を殺して大の虫を抑える、時にとっての策略でありとはいえ、源松もあんまりいい心持はしなかった。ところがその策略が当りそうで当らず、民衆がその網にひっかかりそうでひっかからず、かえって裏をかかれて何者かが、あの「生曝し」を引っさらって行ってしまった。それのみならず、愚弄(ぐろう)したようなやり方で、太閤秀吉の木像首をそのあとへおっぽり出して行ってしまった。それには我慢なり難い。罪状不明の者に、かりにも罪を着せた政策の上に多少の引け目がないではないとして、それにしても公儀掟によっていったん曝しにかけた者を、これを奪い去るということは、公法を無視したものだ、これは許すべからざるものだ、何者がいかにして、あの「生曝し」を奪い去ったかということは、今日まで源松の心魂に徹していたことで、源松がその後、江州の方面をうろついていたのは、一つはその責任遂行のためであろうと思われる。
 ところが、現在、眼の前で、その探索の当の本人を見出した。こちらから突きとめる手数を煩わさずして、向うから飛び出して眼前を掠(かす)め去ったこの獲物は見のがせない。
 かくて轟の源松は、いちずに宇治山田の米友のあとを追いました。
 ひとり曠野(こうや)に残された机竜之助、また東に向って歩みをうつそうとした時に、
「はい、左様でございますか、それはそれは御無理もないことでござりまするな、孔夫子の聖(ひじり)を以てすらが、我ニ数年ヲ加エ、五十以テ易(えき)ヲ学ババ大過ナカルベシ――と仰せられました」
と言う声を、草むらの奥で聞きました。
 聞き直すまでもない、それは竜之助として、甲州の月見寺以来熟しきった、お喋(しゃべ)り坊主の音声に相違ありません。
「孔夫子の聖を以てしてからが、五十以て易を学ぶと仰せられました、五十になってはじめて易を学べば大した過(あやま)ちはなかろうとおっしゃいました、孔夫子の聖を以てすらが、それでございます、凡人の能(あと)うところではござりませぬ」
 その音節によって見ますと、これは曠野の独(ひと)り演説ではないのです。誰か別に聞く人あって、それを相手に語り出でながら、歩んで来るものとしか思われません。
 そうして、この場合、この怖るべきお喋り坊主の舌頭にかかって相手役を引受けている人の誰であるかが、竜之助にはっきりわかりました。相手方は何との応対もないのに、これが竜之助の勘ではっきりとわかりました。つまり、あのむつかし屋の胆吹の女王以外の何人でもありません。
 そこで、弁信がお銀様を相手に、かくも弁論の火蓋(ひぶた)を切り出したものだということが、はっきりと入って来ました。
「易という文字は、蜥易(せきえき)、つまり守宮(やもり)の意味だと承りました。守宮という虫は、一日に十二度、色を変える虫の由にござりまする、すなわちそれを天地間の万物運行になぞらえまして、千変万化するこの世界の現象を御説明になり、この千変万化を八卦(はっけ)に画(かく)し、八卦を分てば六十四、六十四の卦は結局、陰陽の二元に、陰陽の二元は太極(たいきょく)の一元に納まる、というのが易の本来だと承りました。仏説ではこの変化を、諸行無常と申しまして、太極すなわち涅槃(ねはん)の境地でござりましょう」
 盲人のくせに、こういう高慢ちきなお喋りをやり出す者は、弁信法師か、しからずんば、和学講談所の塙検校(はなわけんぎょう)のほかにあり得ないと思われるが、ただ、その声の出るところが、いずれの方面だか見当がつきません。
 いま聞いた発端だけによって判断すると、それは東西南北のいずれより起るのでもない、どうもこの地下のあたり、柳は緑、花は紅の辻の下から起り来(きた)るものとしか思われないことです。この下を二人が悠々閑々(ゆうゆうかんかん)とそぞろ歩きながら、前なるは弁信法師、後ろなるはお銀様が、「易」というものを話題として、説き去り説き来ろうとする形勢を感得したものですから、せっかく、歩み出した竜之助が、また歩みをとどむるのやむを得ざるに立ちいたりました。

         五十二

 宇津木兵馬と福松との道行(みちゆき)は彼(か)が如く、白山(はくさん)に上ろうとして上れず、畜生谷へ落ち込まんとして落ち込むこともなく、峻山難路をたどって、その行程は洒々落々(しゃしゃらくらく)、表裏反覆をつくしたような旅でありましたが、日と夜とを重ねて、ついに二人は越前の国、穴馬谷(あなまだに)に落ち込んでしまいました。
 二人が穴馬谷へ落ち込んだということは、この場合、ざまあみやがれ! ということにはならないのであります。イヤに即(つ)かず離れずの曲芸気取り、その落ち込む当然の運命はきまったものだ、好奇の一歩手前は、堕落の陥穽(おとしあな)というものだ、ドチラが先に落ちたか、後に落ちたか、ドチラがどう引摺(ひきず)ったか、引摺られたか、それは言いわけを聞く必要がない、おそかれ早かれ、当然落ち込むべき運命の谷へ落ち込んだまでのことだ、ザマあ見やがれ穴馬谷、と称すべき意味合いの皮肉の地名ではないので、事実、越前の国、穴馬谷(あなまだに)の名は、れっきとして存在した――今も存在する確実な地名でありまして、後年の測量部の地図にも、地名辞書にも、明瞭に記載された地名でもあり、且つや、谷というけれども、若干の人家が炊烟(すいえん)を揚げている尋常一様の山間の一部落なのであります。
 その穴馬谷へ二人が落ち込んだというのも、足を踏み外して落ち込んだわけではない、青天白日の下、尋常の足どりをもって、この一部落に落着いたという意味でありまして、ここで二人が、また前巻以来同様の宿泊ぶりを、一部落の一民家によって繰返しました。福松が破れ傘のような素振りで、絶えず兵馬を誘惑したり、からかったりしていることも以前と変らず、それを兵馬が閑々として、一個の行路底の修行道として受流しつつ行くことも前と変りません。
 ただ、変っているのは、白山白水谷をわけ入って、加賀の白山に登ろうということが、目標でもあり、一種の信仰でもあるようでした。それがすっかり目標から外れて、仏頂寺弥助の亡霊がさまよう越中の山境へも出でず、白山を経ての菜畑であった加賀の金沢とも、およそ方面を異にして、越前へめぐり込んでしまったということを、穴馬谷に落着いて、山民から聞いて初めてそれと知ったという有様なのでありました。
 とはいえ、極楽へ行こうとして菜畑へ落ちたわけでもなく、北斗をたずねんとして南魚に進んだというのでもなく、ちょっと針路が左へ片よったという程度で、飛騨(ひだ)から隣りの越中へ出たまでのことですから、前後を顛倒したというわけでもなく、進退に窮したというのではない。目的があってないような道行には、それも苦にならないで、二人は、これからまた落ち行く目標の相談をはじめました。
「ねえ、宇津木さん、ここは越前分ですとさ、越前の国、穴馬谷という村ですとさ、ほんとに穴のような土地じゃありませんか、どちらを見ても高い山ばっかり、穴馬谷へおっこちなんて、仏頂寺がいたらヒヤかされちまいますわねえ」
「変な名だ――これが越前の国とは思わなかったよ」
と言って、兵馬は携帯の地図を取り出して、ひろげて見ているのを、福松がのぞき込んで、
「加賀へ出る道が、すっかり塞(ふさ)がれてしまって、越前へ送り出されたというのも、何かの縁なんでしょう、いっそ、金沢をやめて福井へ行きましょうよ、福井にも、たずねれば知辺(しるべ)はあるわ、福井から三国港(みくにみなと)へ行ってみましょう、三国はいいところですとさ」
 福松はもう、落ち込んだところが住居で、思い立つところが旅路である――そういう気分本位になりきっているが、兵馬はそういう気にはなれない。
「図面で見ると、ここに相当大きな川がある、これが有名な九頭竜川(くずりゅうがわ)の川上らしい、すると、この川に沿って下れば、三国へ出るのだが――」
「三国、いいところですってね、北国にはいい港が多いけれど、三国は、また格別な風情(ふぜい)があって忘れられないって、旅の人が皆そいっていてよ……」
三国小女郎
見たくはあるが
やしゃで
やのしゃで
やのしゃで
やしゃで
やしゃで
やのしゃで
こちゃ知らぬ
 福松は口三味線を取って唄(うた)に落ちて行きました。
いとし殿さんの矢帆(やほ)巻く姿
 枕屏風(まくらびょうぶ)の絵に欲しや
「三国の女はとりわけ情が深くって、旅の人をつかまえて放さないって言いますけれど、わたしがついていれば大丈夫、三国へ行きましょうよ、北国情味がたまらないんですとさ。そうして、飽きたら金沢へ行きましょう――でなければ船で、三国から佐渡ヶ島へ――来いと言ったとて、行かりょか佐渡へ、佐渡は四十九里、浪の上――って、佐渡の女もまた情味が深いんですってさ、男一人はやれない。佐渡に限ったことはないわ、あだし波間の楫枕(かじまくら)――行方定めぬ船の旅もしてみたい」
 兵馬は、相も変らず浮き立つ福松の調子に乗らず、
「どのみち、一旦は福井へ出なければなるまい、福井へ出るには……モシ、山がつのおじさん、ちょっとここへ来て見てくれないか、紙の上で道案内をしてもらいたい」
 宿の山がつを呼ぶと、松脂(まつやに)を燃して明りを取り、蕨粉(わらびこ)を打っていた老山がつが、ぬっと皺(しわ)だらけの面をつき出して、
「ドコさ行きなさる、勝山へおいでさんすかなあ」

         五十三

 その翌朝から、九頭竜川の沿岸を下って福井へ出る道も、かなりの難路でしたけれども、今までの山越しと比べては苦にならない。二人はついに越前福井の城下へ落着いてしまいました。
 福松の、そわそわとして上ずっていることは、山の中から町へ出て、いっそう嵩(こう)じてしまいました。福井の城下で、極印屋(ごくいんや)というよい旅籠(はたご)をとって納まった気分というものは、旅から旅の稼ぎ人ではなく、半七を連れ出した三勝姐(さんかつねえ)さんといったような気取り。万事自分が引廻し気取りです。
 ただ、この三勝は少し毛が生え過ぎているし、半七は追手のかかる身でないが、女のために身上(しんしょう)を棒に振るほどの粋人でないだけが恨みだが、半七よりもいくらか若くて、武骨で、ウブなところが嬉しい。それよりも福松の気丈夫なことは、二人の中には、現に三百両という大金が手つかず保管されていることで、これはもともと、代官のお妾(めかけ)のお蘭どののお手元金なんだが、それがわたしたちの手に落ちて来たというものは、たくんだわけでも、くすねたわけでも何でもない、自然天然に授かったので、人民を苦しめてしぼり上げた、その血と汗のかたまったもの、お蘭さんのような自堕落な女に使われたがらないで、苦労人であるわたしたちの方に廻って来たというものが、つまり授かりもの、天の与える物を取らずんば、災(わざわい)その身に及ぶということがありましたね、あのがんりきというイケすかない野郎の手をかりて、ウブで、そうして苦労人の二人の手に渡ったことが果報というものなんでしょう。この大金が手にある限り、二人は相当長いあいだ遊んで歩ける、という胸算用が、疾(と)うに福松の腹にあるからです。
 放縦のようでも、売られ売られつつ、旅から旅を稼がせられ、およそこの世の酸(す)いも甘(あま)いもしゃぶりつくした福松は、金銭の有難味を知っていて、締まるところは締まる仕末も、世間が教えてくれた訓練の一つ。
「二十日余りに四十両、使い果して二分残る――なんて、浄瑠璃(じょうるり)の文句にはいいけれど、梅川も、忠兵衛も、経済というものを知らない、使いつくしてはじめてお宝の有難味を知るなんて、子供にも劣るわねえ、わたしに使わしてごらんなさい――一生使ってみせるから」
 福松は、その都度、こう言って、三百両の金包を撫(な)でて自分の気を引立てたり、兵馬を心強がらせたりしようとする。無論、この三百両の金を、器用に活かして使いさえすれば、ここ幾年というものは、二人がこうして旅を遊んで歩くに不足はない、不足はさせない、という腹が福松にはあるのです。その証拠には、飛騨からここへ山越しをして来る間、若干の日数のうち、いくらの金を要したかと言えば、金は少しもかからない、たまに木樵山(きこりやま)がつに、ホンのぽっちりお鳥目(ちょうもく)を包んで心づけをしてみれば、彼等は、この存在物を不思議がって、覗眼鏡(のぞきめがね)でも見るように、おずおずとして、受けていいか、返していいか、持扱っている。旅というものは、金のかかるように歩けば際限なく金がかかるけれども、金をかけないつもりで歩けば、全くかけないで歩くことができるもの――いやいや、やりようによってはお宝を儲(もう)けながらの旅、万が一にも行きつまれば、わたしには腕というものがある、身を落す気になりさえすれば、いずれの里でも、腕に覚えの色音を立てて人の機嫌気づまを浮き立たせさえすれば、三度の御飯はいただける。
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