大菩薩峠
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著者名:中里介山 

         一

 過ぐる夜のこと、机竜之助が、透き通るような姿をして現われて来た逢坂の関の清水の蝉丸神社(せみまるじんじゃ)の鳥居から、今晩、またしても夢のように現われて来た物影があります。先晩は一人でしたが、今夜は、どうやら二人らしい。
 その二人、どちらも小粒の姿で、ことによると子供かも知れない。石の階段をしとしとと下りて、鳥居のわきから、からまるようにして海道筋へ姿を見せた二人は、案の如く子供でした。いや、子供ではないけれど、ちょっと見た目には、子供と受取られてもどうも仕方がない。青年にしても、成人にしても、世間並みよりはグッと物が小さいのですが、事実上、子供でないことは、いま海道筋へ現われたところを、もう一応とくと見直しさえすれば、すぐにわかることで、第一、この夜中に子供が二人で、こんなところを夜歩きをするはずがないではないですか。
 前なるが寒山子(かんざんし)、後ろなるが拾得(じっとく)、どこぞの宝物の顔輝(がんき)の筆の魂が抜け出したかと、一時は眼をみはらざるを得ないのですが、再度、篤(とく)と見直せば、左様なグロテスクではあり得ない。現実生命を受けた生(しょう)のままの二人が、今し海道筋に出ると共に、ひたひたと西へ向って歩み出したことは、前に机竜之助がしたと同じことですが、柳は緑、花は紅の札の辻へ来てからにしてが、あの時の妖怪味はさらに現われず、また一方、その前日にあったことの如く、追分を左に山城田辺に、お雪ちゃんだの、道庵先生だの、中川の健斎だのというものを送って、女軽業の親方が、さらばさらばをしたような風景もなく、二人は無言のままで、静粛な歩み方をして、深夜の東海道の本筋を西に向って行くのですから、ここ何時間の後には、間違いなく、京洛(けいらく)の天地に身を入れるにきまったものであります。
 今日この頃は、京洛の天地に入ることの容易ならぬ危険性を帯びていることは、この二人も知らぬはずはあるまい。まして深夜のことです。今も深夜ですから、この歩調で歩いて行っても僅か三里足らず、京洛の天地は、やはり深夜の眠りから覚めてはいないはず。そうでなくても、海道筋の夜の旅はきつい。打見たところでは、有力な公武合体の保証があるというわけでなし、奇兵隊、新撰組の後ろだてがついているというわけでもないが、こういう人柄に限り、後ろから、オーイオーイと呼びかけて決闘を挑(いど)むという物すごいのも現われず、酒手(さかて)をねだる雲助霞助もてんから目の中へ入れては置かないから、不安なるが如くして、かえって安全なる旅路。
「弁信さん、イヤに明るい晩だなア、お月夜でもなし、お星様もねえのに、イヤに天地が明るいよう」
と後ろなるが呼びかけたのは、宇治山田の米友でありました。
「はい」
と、それを直ぐに受答えたのは、紛(まご)う方(かた)なき弁信法師でありました。
 さては、御両人であったよな。グロの友公と、お喋(しゃべ)り坊主の弁信とが、真面目くさって連れ立って歩いているのでした。そんなら、そうと、最初から言えばいいのに。
 驚いてはいけない。二人ともに足が地についている。決して、妖でもなければ怪でもない。弁信が先に立って、米友が後ろについて、二人連れでここまで来たのですが、今ぞ鳴くらん望月(もちづき)の、関の清水を打越えても、これやこの行くも帰るも、蝉丸の社をくぐって来ても、二人ともに口を利(き)かなかったものですから、寒山拾得の出来損いだろうなんぞと悪口を叩かれるので、最初から、弁信、米友でございと名乗ってしまえば、お馴染(なじみ)は極めて多い。
 人によっては歓迎をしない限りはないのに、物々しく、無言の行をつづけて来たものですから、人が、なあーんだと呆(あき)れてしまう。
 それのみではない、この二人のいでたちが、今晩は少し変っているのであります。

         二

 どう変っているかと言えば、今晩は弁信が笠をかぶっている。墨染の法衣(ころも)は変らないけれども、今日まで弁信という坊主は、旅をするに、全く笠をかぶらなかった坊主です。一つには、笠をかぶると、頭高(かしらだか)に負いなした生活のたつきの琵琶の天神がつかえる、その故障のために、よんどころなく、かぶり物を廃していたのかも知れないが、もう一つには、その自慢(!)の法然頭(ほうねんあたま)を振り立てるためには、素(す)であった方が見栄(みば)えがする。脱いで高紐にかけ――と言ったような、実用とダテの事情に制せられたのかも知れないが、今日の弁信は網代(あじろ)の笠をかぶっている。同時に、背中から頭高にかかった、雨と露と埃(ほこり)で汚れた、あやめもわかぬ袋入りの琵琶というものの存在が消滅して、その代りに、藁(わら)の苞入(つとい)りの四角な横長の箱と覚しきものを背負っている。
 一方、宇治山田の米友に至ると、めくら縞(じま)の筒っぽはいつも変らないし、これは竹の皮の饅頭笠(まんじゅうがさ)をかぶっているが、この男が饅頭笠をかぶることは珍しいことではない。
 最初、伊勢の国から東下(あずまくだ)りをする時代から、この種の笠をかぶりつけてもいるし、尾上(おべ)の後山(うしろやま)の復活の記念としての跛足(びっこ)は、今以てなおってはいないのだから、それは一目見れば誰でも、それ以外の何者でもないと感づかれるはずなんですが、つい、うっかりしていました。
 二人が二人であるとわかってみれば、二人が二人であることに異議はないのですが、二人が二人ながらどういう径路をたどって、ここまで歩いて来たかということには、なお多大な問題が残されていると見なければなりません。
 よって念のために、大菩薩峠の「農奴の巻」までさかのぼって、それを検討してみますと、弁信法師は、長浜から竹生島(ちくぶじま)へ渡って、一世一代の琵琶を奉納せんと志したが、どう間違ってか、竹生島ならぬ多景島(たけじま)(竹島)に漂着してしまいました。
 弁信法師が、有縁則住(うえんそくじゅ)と抜からぬ面(かお)で多景島に納まり返っているところへ、農奴として処刑せらるべかりし米友が、両士に救われてそこへ身をかくすことになった――という因縁がある。そこまでは書物によって証明ができるが、では、この二人が、いつのまにどうして、あの島を抜け出して、この道へかかったか、それは誰も知った者がない。が、それをいちいち説明していると話が長い。しかし、トニカク、唐(から)天竺(てんじく)へ転生(てんしょう)したわけではない。多景島からは直径にしても、僅か十五里以内のこの地点を歩んでいるのだから、有り得ざることではないし、有り得べからざることでもありません。弁信の肩から生活のたつきの琵琶一面が消滅しているところを以てして見ると、その後、彼は目的を達して、多景島から竹生島に転航し、そこで首尾よく、彼が年来の大願としての琵琶を神前に奉納し了って、そこで、かくばかり肩がわりをしたのか、そうでなければ、竹生島へは渡らずに、つい今の先、この関の蝉丸神社へ一期(いちご)の思い出に納め奉ってしまったのか、そのいずれかであろうとは推察が届くのであります――竹生島にしても、蝉丸にしても、琵琶とは極めて縁が深い。そこへ一期の思い出を掛了(けりょう)し終るということは、物のためにも、器のためにも、人のためにも、極めてところを得たと言ってよいから、心配することはないのです。
 何がさて、笠のことや、琵琶のことはどうありましょうとも、二人がこうして無事であっていてくれさえすれば、よいではありませんか。

         三

 そこで、米友の方から沈黙の第一声を破って、「弁信さん、イヤに明るい晩だなア、お月夜でもなし、お星様もねえのに、イヤに天地が明るいよう」と呼びかけてみたところで、これは弁信にはこたえられまい。明るい月夜であろうと、暗い闇夜であろうと、生れつき、明と暗とが不可分平等に賦与されてある弁信その人にとっては、現実には打って響く何物の経験がない、と見なければならない。では、「夢のような晩だなあ」と形容してみたところで、やっぱり弁信の感覚にはピンと来ないに相違ない。この法師には、明と暗とが不可分平等であるように、夢と現実との区別が、最初からはっきりとしていないのです。
 よって米友の唱破第一声は、米友が米友としての詠歎に過ぎないのですが、それでも、その気分だけは弁信にもよくわかると見えて、それを素直に受入れて、「はい」と言ったきりで、明るいとも、暗いとも、夢に似ているとも、現実に近いとも、あえて肯否のいずれをも言明いたしません。やや暫く、足の方は小止みもないのにかかわらず、言葉がつづかない。
「はい」と言った応唱一声で、あとが続かない。この法師としては、また極めてめずらしいことです。本来ならば、沈黙は沈黙として、ひとたび舌根が動き出して、言説の堤が切れた以上は、のべつ幕なし、長江千里、まくし立て、おどし立て、流し立て、それは怖るべき広長舌を弄(ろう)するこのお喋り坊主が、ただ、「はい」だけで食いとまったことこそ、今までの中での最大驚異に価する。本文通り、乙者から言説のきっかけを投げられたが最後、「明るい晩と申しましても、夜は夜でございます、人の世そのものが、無明長夜の眠りでございまして、迷途覚路夢中行と、道元禅師も仰せになりました……」なんぞときめ出されようものならば、富楼郷(フルナ)といえども辟易(へきえき)する。それを今晩に限って更にせずして、ただ「はい」だけで納まるというのが、甚(はなは)だ異例を極めているのであります。
 それにも拘らず、米友は重ねて言いました、
「弁信さん、おいらは京都を見るのは、はじめてなんだぜ」
「はい」
「おいらは伊勢者で、上方(かみがた)へは近いところの生れなんだが、かけ違って、江戸の方を先に見ちまったんでな」
「はい」
「東海道を下る時は一人だったんだ、駿河(するが)の国から連れが出来たにゃあ出来たけれども、それまでは一人ぽっちよ、東海道の目ぬきのところはみんな一人で歩いてらあな」
「はい」
「それからお前、一度、甲州という山国へ入り込んで、あすこの生活を少し味わったよ」
「はい」
「それから、また江戸へ帰ると今度は、道庵先生のおともをしてこっちへ来ることになったんだ、来る時は東海道を来たけれど、帰る時は木曾街道というわけなんだ」
「はい」
「お前も知ってるだろう、あの先生は世話の焼ける先生とっちゃあ」
「はい」
「それがまた、近江の胆吹山というところから道庵先生と離れて――おいらはお銀様のお附になったんだ」
「はい」
「そのまたお銀様というあまっこが、イヤに権式の高えあまっ子でな」
「はい」
「道庵先生は、親方のお角さんとおいらとを乗換えて、別々に上方行きということになったんだが、おいらは弁信さん、お前と一緒に都入りをしようとは思わなかったよ」
「はい」
 何を言っても、はいはいだから、米友が少しお冠(かんむり)を曲げ出しました。何を言っても、はいはい聞いてくれることは有難いようなものだが、こういちいち、はいはいでは、ばかにされているように思われる。せっかく自分が好意ずくで話しかけるのを、上(うわ)の空(そら)で聞き流して、眼中にも、脳裏にも、置いていないようにも取れる。まして平常(ふだん)、そういう無口な人柄ならばそれでも済むけれども、平常が平常、人が一口言えば二口の返し言ではない、千言万語が口を衝(つ)いて出でるお喋り坊主から、今晩に限ってこんなにあしらわれると、米友もいい心持がしない。そこで、今度は少し語調が荒っぽくなりかけて、
「弁信さん、何と言ってもはいはいでは、あんまり気がねえじゃねえか、ちったあ張合いのある返事でもしな」
「そういうわけではありませんのです、米友さん、悪くなく思って下さいな」

         四

「お前(めえ)のことだから悪かあ思わねえがね、話しかけた方の身になってみると、はいはいだけじゃあつまらねえこと夥(おびただ)しいや」
「では、米友さん、お話し相手になって上げますから、もっとお話しなさいな」
 改まってそう言われると、さて何から話し出していいか、米友が少しテレる。
 米友が少しテレたので、弁信が仕手役(してやく)に廻りました。
「米友さん、私は今、考え事をしていたところなんです」
「何を考えていたんだ」
「いろいろのことを」
「いろいろのことと言えば……」
「それは世間のことと、出世間のことと――人間並みに申しますると、眼で見える世界のことと、眼で見えない世界のこととを考えておりました、人間並みではこれが二つになりますが、私にとっては一つなのです、私の眼には一切が見えない世界のみでございまして、見るべき世界がございません、ですから一つです、見える世界、見えない世界と、事わけをするのは、人間並みに五体整っている人のすることでありますから、私は仮りに世間のこと、出世間のことを二つに分けて申してみました」
 さあ、むつかしくなり出した。これからの饒舌(じょうぜつ)の洪水が思いやられる! だが、これは頼まれもせぬに引出した米友に責めがある。せっかく沈黙の世界におとなしくしているものを、返事がなくては張合いがないのなんのと誘発した米友に、充分の責めがあるのであります。いわば眠っている獅子(しし)の口髯(くちひげ)を引いたようなもの、百千万キロワットの水力のスイッチをひねったようなものですから、今後の奔流は、米友御本人が身を以て防護に当るよりほか、受け方はありますまい。
 だが、こちらもさるもの、一向にひるまない。
「二つにでも、三つにでも、わけて見ねえな」
 世間とは何で、出世間とは何だと、野暮な追究を試みるようなことをしないで、三つにでも、四つにでも、千万無量にでも、分けられるものなら分けてみねえなという度量を示したものですから、弁信もさもこそとうなずきました。
「では、その世間の方から申してみますると、米友さんも御承知でしょう、今の世間は一方ならず騒がしい世間ではございませんか」
「騒がしいよ」
と米友が言下にうなずきました。
「今日の世界が、騒がしい世界でございますことは、米友さんにも充分おわかりのことと思いますが、それでは何が騒がしいとお聞き申してみたら、さすがの米友さんも返答にお困りでしょう」
「そうよな、騒々しい世間じゃああるけれど、何が騒々しいと聞かれると、ちょっと挨拶に困るなあ」
「その通りでございます――私たちの周囲に何の騒がしいことがございますか、後ろを顧みれば、逢坂、長良の山々、前は東山阿弥陀ヶ峯を越しますると京洛の夜の世界、このあたりは多分、山科の盆地、今の時は丑(うし)三ツ、万籟(ばんらい)が熟睡に落ちております、この静かな世界におりながら、私もこの世界が騒々しいと思い、米友さんも騒々しいと思う、誰が騒いでおりますか」
「誰も騒ぎゃしねえけれど、天下がいってえに騒々しいんだよ」
「なるほど、天下と申しますると、天(あめ)が下(した)のことでございますな。天下がいったいに騒がしいと申しますのは、つまり、天が下に住む人間畜生から、山川草木に至るまでが、みんな動揺しているから、それで騒がしいんでございましょう。ところが、今晩は風も吹かず、雨も降らず、この通り静かなのに、天下がいったいに騒がしいとは、何を証拠に米友さん、それを言いますか」
「何を証拠ったって、お前(めえ)、裁判官じゃあるめえし――」
 米友が、そこで時代ばなれのした裁判官を引合いに出さなければ、そろそろ受けきれない事態に追い込まれて来たことがわかります。さりとて、弁信は、ソクラテス流の産婆術を以て、米友を苦しめんがために検問をかけたのではありません。自分の喋りまくる順序としてのプロローグに過ぎないのですから、直ぐに取ってかわって言いました、
「つまり、目に見える世界が騒がしいのではなく、目に見えない世界が騒がしいから、それで、なんにも知らぬ米友さんの心耳(しんじ)をさわがしてしまうのです、どんな静かなところへ置いても、この心の騒々しさは癒りません、その反対に、どんな騒がしいところへ置きましても、心が安定しておりますと、その静寂を乱すものはないのでございます。真常流注(しんじょうるちゅう)、外寂(じゃく)ニ内揺(うご)クハ、繋(つな)ゲル駒、伏セル鼠、先聖(せんしょう)コレヲ悲シンデ、法ノ檀度(だんど)トナル……」
 弁信が物々しく、あらぬ方に向って拝礼をしました。

         五

 こうして、二人は前後して歩きつつあります。
 本来ならば眼のあいた米友が先導をして、眼の見えない弁信がこれに従って行かなければならないのですが、この場合、絶えず弁信が先に立って、米友がついて行きます。言わず語らず、その超感覚に依頼しているものでしょう。
「だがなあ、今夜ここんところは静かだけれど、世間一体が静かというわけにゃいかねえなあ、江戸は江戸で貧窮組が出る、押込み強盗がはやる――辻斬りもたまにはある」
 これは、この男の生々しい体験でありました。
「近江の国へ来て見れば百姓一揆(ひゃくしょういっき)がある、京都へ行けば行くで、また血の雨が降ってるというじゃあねえか、どっちへ廻っても世界は騒々しいのが本当で、今晩ここんところだけが静かだと言って、お前の言うように、目にめえる世界が静かで、目にめえねえ世界が騒々しいんだとばかりは言えなかろう、世間は騒がしいんだよ」
と米友が附け加えたのは、体験から来るところの感覚なのであります。それを弁信が抜からず引きとって、
「その通りでございます、米友さんのおっしゃることに間違いはありません、ですが、米友さんはやっぱり、目を持っておいでですから、二つの世界にわけて見ることができるんですね、米友さんの眼でごらんなすった関東関西いったいの騒々しさと、今そういう騒々しさから全く離れて見ましても、なお、その心の騒々しさを感覚の上に残して、焦(じ)れておいでなさる、でござりますから、それ、どっちへ廻っても騒々しいとおっしゃるのに無理はございません。ところが私のように、目によって物の形を認めることができない身、物のあいろを識(し)ることのできない身になってみますると、世間が静かな時は、この心も静か、世間が騒がしい時は、この心も騒がしい、外の世界と内の世界とは、全く同じなんでございます、二つにわけて考えることはできません」
 そう言うと、米友が存外和(やわ)らかにそれを受けて、
「なんしろ、弁信さんに逢っちゃあかなわねえよ」
と言いました。
 それは、ヒヤかしと茶化しの意味で言ったのではありません。引きつづいて米友が言うことには、
「てえげえの人は、この目で見る世界のほかに世界はねえんだ、目でめえるもののほかにこの目で見(め)えねえものはめえねえんだ、ところが、弁信さんときちゃあ、眼がなくっても物がめえるんだから違わあな、それから、おおよその人は、この耳で物を聞くほかには聞けねえんだ、耳で聞けねえ音というものはありゃあしねえやな、ところが弁信さんときた日にぁ、耳がなくったって物が聞えるんだから大したものさ――弁信さんに逢っちゃあ敵(かな)わねえ」
とあっさり米友が甲(かぶと)を脱いだのは、この怖るべきお喋(しゃべ)りの洪水にかかっては受けきれないからしての予防線ではないのです。事実、米友は、弁信の見えざる世界を見、聞えざる音声を聞くことのかんの神妙には降参している。
 さればこそ、この不具者(かたわもの)に先(せん)を譲って、自分が後陣を承って甘んじている。米友に言葉の上で甲を脱がせはしたが、さりとて弁信は少しも勝ち驕(おご)るの色を見せず、首の包物の結び目に手をかけながら、ちょっと米友を振返って、
「米友さん、提灯(ちょうちん)をつけましょうかねえ」
「提灯なんざあ要らねえよ、今も言う通り、今夜は月も星もねえけれど、イヤに明るい晩なんだ、おいらは提灯は要らねえ」
 米友が提灯の必要なくして、道が歩けるくらいなら、まして況(いわ)んや弁信をやです。ところが言い出した弁信は、更にその主張をゆるめることをしないで、
「いいえ、私共は要りませんにしても、向う様が――向う様がそそうをなさるといけません、向う様のお邪魔にならないまでも、無提灯で人里を歩くのは礼儀にかないません、つけて参りましょうよ、あの大谷風呂でお借りした提灯を――」
「無提灯で歩いちゃあ礼儀に欠けるというのは、どういうわけなんだ」
「昔、江戸では端唄(はうた)がございました、夜更けて通るは何者ぞ、加賀爪甲斐(かがづめかい)か、盗賊か、さては阪部(さかべ)の三十か、という唄が昔ございました、夜更けて無提灯で歩くものは盗賊か、盗賊改めのお役向に限ったものなのです、ですから、世間の人が、無提灯で暗(やみ)の中をうろうろ致していれば、盗賊と間違えられてもやむを得ないものでござります。夜、人をたずねるにも、人を送るにも、または自分ひとり歩きを致しまするにせよ、家々の定紋のついた提灯に火を入れることが礼儀でございまして、礼儀は即ち用心でございます」
「そういうわけなら、大谷風呂で借りた提灯を点(つ)けて歩くとしよう」
 そこで米友が、腰にくくりつけていた一張の弓張提灯を取りおろして、丁々(ちょうちょう)と点火にとりかかりましたが、手器用に火がつくと、蝋燭(ろうそく)が燃え出し、鎖を引くと蛇腹(じゃばら)が現われて、表には桐の紋、その下に「山科光仙林」の五字が油墨あざやかに現われました。

         六

 提灯に火をつけたのも、その持役も、同じく米友でありましたけれども、この提灯持は、世間常例の如く先に立つことをせず、一足あとから、例によってはったはったと歩いて行きます。
 如法暗夜ではない、如法朧夜といったような東海道の上り口を「山科光仙林」の提灯が、ゆったりゆったりと渡って行く。
 逢坂、長良(ながら)を後ろにして、宇治、東山を前にした山科谷。しばらくすると米友が、はったと足の歩みをとどめて、
「やあ、何か唄が聞えるぞ」
と、耳朶(みみたぶ)の後ろから手笠をもって引立てて見ました。
「そうですね」
 米友の耳に入るほどの音声で、その以前に弁信が聞きとめていないはずはありません。
「盆踊りかね」
「今はその季節ではありませんね」
「念仏講かな」
「そうでもないようです」
「祇園囃子(ぎおんばやし)てやつかな」
「そうでもありません」
「鳴り物が入ってるな」
「はい」
「やあ、突拍子(とっぴょうし)もねえ、高い声で歌い出しやがった――聞き取れるよ、文句が聞き取れるよ、じっとしていてみな、おいらの耳でも立派に、歌の文句が聞き取れるよ」
 米友は、そこに暫く立ち尽して、耳朶に手をあてがったまま、心耳を澄まそうとしました。弁信も否み兼ねて、同じように立ちどまって、米友が歌の文句を耳にしかと聞き納めるのを待っている。
 ややしばし、佇立(ちょりつ)して心耳を澄ました米友が、釈然として次の如く、高らかにその歌詞と音調とを学びました。
宮さん
宮さん
お馬の前の
ピカピカ光るは
何じゃいな
あれは朝敵
征伐せよとの
錦の御旗(みはた)じゃ
ないかいな
トコトンヤレ
トンヤレナ
「威勢のいい唄だよ」
 米友が附加して言いますと、弁信は先刻心得面に、
「あれは軍歌というものです」
「グンカてえのは?」
「兵隊さんが、声を揃(そろ)えて歌う歌なんです、あの威勢のいい歌を歌いますと、士気がおのずから勇んで参ります、その上に、歌の調子に合わせて、軍隊の歩調がよく調(ととの)います、それ故に、近ごろの洋式の調練では、笛や太鼓なんぞに合わせて、あの勇ましい軍歌をうたいます、多分兵隊さんが調練を致しているのでございましょう」
「そうすると、その兵隊さんが向うから、やって来る、弱ったなあ」
と、米友がここでガラになく弱音を吹きました。弱ったなあ、と言ったのは、何が弱ったのだかよくわかりません。よし、軍隊が繰出して来るにしてからが、それは歌詞にもある通り、朝敵征伐せよとの御旨(おむね)で繰出されて来るのであって、米友征伐に来るわけのものではないから、そんなに弱音を洩(も)らさなくてもいいはずなのですが、米友が、がっかりした調子で言ったものですから、弁信が気の毒がって、
「米友さん、心配なさりますな、あれは少々遠方で調練をしているのです、こっちへ来る気づかいはありません」
と言ったのは、弁信には、弱ったなと言う米友の心持がよくわかるからです。もし、調練の軍隊があの勢いで、こちらへ向って繰出して来た日には、弁信、米友の行先と正面衝突にきまっている。こちらでは衝突するつもりはないけれども、すべて公儀及び官僚の相手は米友にとっては苦手である。彼は今まで、そういう権勢と衝突しなくてもいいところで衝突し、誤解を受けなくても済むべきところを、誤解へ持ち込んでしまっている。最近、このつい隣国で、これがために重刑に処せられんとして、危うく一命を救い出された、いわば兇状持ちにひとしい身になっている。公儀及び官権を肩に着たものは苦手である。なるべくはこれと逢いたくない、できるならば逃避したい、という心持すらが、今の米友には充分に保有されている。それですから、弁信から、その危険の前進性なきことを保証されてみると、弁信の保証だけに信用して、ホッと胸を撫(な)でおろし、
「ドコで調練やってるんだい」
「あれはね、そうですね、鳥羽伏見あたりで歌っているのですよ、練習のために停滞して歌っているので、前進の迫力を持って歌う声ではありませんから、安心なさい」
「そうかね」
 そこで、再々安心して、行手に向って歩みをつづけましたが、その軍歌の声は、いよいよあざやかに耳に落ちて来る。弁信の言うには、一所に停滞した声で、前進の迫力の声ではないとのことですけれども、米友の耳で聞くと、刻一刻に自分の耳元に迫って来て、いよいよ近づいて、いよいよ冴(さ)えて来る。どうして、あちらから歩武を揃えて堂々と前進し来(きた)る合唱でないとは言われません。そこで、米友が再び迷うて、弁信に向って駄目を押しました、
「弁信さん、大丈夫かエ、軍歌が、だんだんこっちへ近づいて来るような気持がするぜ」
「え、それは耳のせいと、風向きのせいでございましょう、実は以前と少しも変っておりません、鳥羽伏見あたりで稽古をしているのでございますよ」
「鳥羽伏見てのは、いったい、ドコなんだ」
 弁信が、ひとり合点で言うものですから、米友が、確(しか)とその地理学上の根拠を突きとめようとしました。鳥羽は京都の南部に当り、伏見はこれよりやや東に隣り、道のりでは四里八町ということになっているけれども、距離はいずれこの地点から三里内外。
 ところで、二人は追分から、右へ伏見道へそれず、山科に入り、四宮、十禅寺、御陵、日岡、蹴上、白川、かくて三条の大橋について、京都に入るの本筋を取るつもりであろうと思われます。

         七

 二人の立っている地点から見ると、後ろは逢坂の関から比良、比叡へ続く峯つづき、象ヶ鼻、接心谷、前は音羽山、東山、左へやや遠く伏見の稲荷山、桃山――その間の山科盆地をさまよっている。京の中心へも程遠からぬところ、東山を打貫きさえすれば、鳥羽も、伏見も、つい目と鼻の先にはなっているが、かくまではっきり軍歌の歌詞までが受取れるほどの地点とは思われぬ。だがこの場合、弁信の錯覚があるとないとにかかわらず、米友は一応その説明に満足し、また満足するよりほかに地理の観念を持たない身は、それに聴従するよりほかはなく、相ついで歩いているが、関の明神を出てからでも、もういく時にもなるのだから、相当道のりも捗取(はかど)っていなければならないのに、離れて第三者から見ていると、「山科光仙林」の提灯が同じところを行きつ戻りつしている。そうでなければ、グルグルめぐりをしているとしか思われない。さては京に入る前にドコぞ立寄るところでもあって、戸別(こべつ)家さがしでもやっているのか知らん。とにかく、二人は山科谷に彷徨(ほうこう)して、京へ直入の足は甚(はなは)だ怪しくなっているのですが、その間にも、例の、
宮さん
宮さん
お馬の前の
ピカピカ光るは
何じゃいな
あれは朝敵
征伐せよとの
錦の御旗じゃ
ないかいな
トコトンヤレ
トンヤレナ
の軍歌は、いよいよ明亮(めいりょう)を極めて、絶えず、前から襲って来たものですから、米友もつい、そのリズムに捲き込まれて、いい気になってしまい、歩調までが勇み足になった上に、
トコトンヤレ
トンヤレナ
と伴奏しはじめたかと見ると、興に乗じたか、提灯を地面に置いて、自分は道のまんなかに踏みはだかり、手にした例の振杖ではない杖槍を取って、中空に投げ上げ、それが落ちかかるやつを手早く取って受けては、またクルリと中空へ投げ上げる、右へ泳ぐのを左で受けたり、左へ流れるのを右で受けたりして、合(あい)の口拍子には、
トコトンヤレ
トンヤレナ
とはしゃいでいる。
 それに頓着をしない弁信は、委細かまわず突き進んで、やがて本街道から外れて、とある藪小路(やぶこうじ)に突き入ってしまいました。トコトンヤレを口ずさみながら、米友がそこに踏みとどまって、棒を弄(ろう)して以てあえて弁信のあとを追おうとしないのは、あらかじめ諒解があって、弁信は弁信としての当座の使命があり、その使命を果すべく自由行動を取り、米友は米友として、その待合せの時間を余戯でつぶしていると見ればいいのです。
 弁信の姿が藪の中にすっかり没入したが、海道に踏みとどまる米友は、杖槍を中空にハネ上げたり、受け止めたり、ひとり太神楽(だいかぐら)の曲芸は以前に変らない。いや、以前よりも一層の興味をわかして、自己陶酔に落ちると、いつもする一流の型をつかいはじめました。
 ひとたび藪蔭に身を没した弁信は、容易に姿を現わして来ない。
 にも拘らず、米友が手練の入興はようやく酣(たけな)わになりまさって行って――ようやく忘我の妙境に深入りして行く。
トコトンヤレ
トンヤレナ
 口合いの口拍子だけは、いっかな変らない。惜しいことに、今晩もまた、無料無見物の中に、得意の秘術をほしいままに公開している、その陶酔境の真只中へ、
「米友さん、わかりました」
 弁信が、竹の小藪の蔭から抜からぬ面(かお)を現わしました。

         八

 しばらく弁信法師に導かれて来て見ますると、久しく閉された柴の門に、今日この頃ようやく手入れをして、いささか人の住める家としたらしい、その前へ来ました。近よって米友が門の柱を見ると、三寸に四寸ほどの門札のまだ新しいのがかけられたのへ、提灯を振りかざして見ると「光仙林」――それは自分の提灯に記された文字と同じであることを知りました。
 そこで来るべきところへ来たという安心がありました。
 その門をくぐって、屋敷の中へ入って見ると、広いこと、門の外も同じ原っぱならば、門の中もまた同じような原っぱ。
 さすがに門の外は、荒寥(こうりょう)たる自然の山科谷だけれど、門の中には相当に手入れをした形跡はある。自然の林と原野とを利用して、相当人間の技巧を加えたのが、久しく主に置き忘れられて、三逕荒(さんけいこう)に就き、松菊なお存するの姿にはなっていたけれど、これもきのうきょう開きならしたらしい旧径のあとは、人を奥へ導いて、この道必ずしも鳥跡ではないことがわかる。
「ずいぶん広い屋敷だ」
と、歩きながら米友もひそかに舌を捲いたくらいだから、門を入ってさえドコに人家があるのだか容易にわかりません。
「光仙林」ていうから林の名なんだ、だが門があって、表札が打ってあるからには、人の住むべき構えがなければならないということを、強く予想しながら、弁信にまかせて従って行くと、果して、一口の筧(かけひ)を引いた遣水(やりみず)があって、その傍に草にうずもれた低い家があったのです。
 そこへ来て見ると、何よりも人の住んでいることに間違いのないという証拠は、幽(かす)かながら燈火の影がさしていることで、またも米友を安心させると、時を同じうして弁信のおとなう声を聞きました。
「御免下さいませ、関守様はこれにおいででございますか」
と案内を乞(こ)う声によって、中に人あることの見込みも確実ですが、ただちょっと、この際、米友の聞き耳を立たせたのは、弁信のおとなう声の中に、関守様と特に名ざしたことです。
 関守といえば、その人の固有の姓、たとえば関口とか、関根とか、関山というような種類のものでなくて、関を守る人という意味の特別普通名詞であるに相違ない。
 してみると、中なる人を関守氏と呼んだ以上は、ここは関だ、つまりお関所なんだ。お関所は幾つもある、東海道の箱根のお関所をはじめ、米友にはいくらもこれが出入りの体験がある。中仙道に至っては、道庵先生の従者として具(つぶ)さに、その幾つかを経歴して来たのだが、ついいま参詣した蝉丸神社(せみまるじんじゃ)というのも、あの辺がれっきとした古来の関だと聞いて来たが、別段、役人がいて手形を出せとも言わなかった。表向には逢坂の関というのがあって、その裏に小関がある。自分たちは小関越えをして来て、それから少しあと戻りをして、蝉丸神社へ参詣したと覚えているが、ドコをどう廻っても、お関所らしい役所はなし、手形を出せという役人もいなかったが、それではここがお関所なんだな、いわゆる逢坂の関というやつなんだな、それにしても、お関所にしては屋敷は広いが、表がかりが寒頂来(かんちょうらい)だ、お関所も時勢につれて、身代が左前になったから、こっちの方へ引込んで、隠居仕事に関代(せきだい)をかせいでいるのかも知れない――などと、米友が予想しながら、なお暫(しばら)く弁信の為さんように任せて待っていると、やがて、中から戸を押す物音があって、紙燭(しそく)を手にかざして、
「弁信殿か、よく無事で見えられたな」
 障子のかげから、こっちへ姿を現わしたその人は、思いきや、関守には関守だけれども、不破の関守氏でありました。

         九

 不破の関守氏ならば、米友も旧識どころではない、つい近ごろまで、胆吹の山寨(さんさい)で同じ釜の飯を食っていた宰領なのですから、なあんだ、それならそれと言えばいいにと、少し苦い顔をしていました。
 しかし、米友としては、向うでお化けに逢って、それを突き抜けて来たら、またここで同じお化けに出逢ったような気持で、出し抜かれた上に、先廻りをされて、ばあーっと言われたような感じがしないでもありません。
 だが、そういうことは、弁信が先刻心得面であるから、米友はまず提灯をふき消すだけの役目をすると、人をそらさない関守氏は、
「友造君、よく無事で見えられたな」
と、弁信に対すると同一の会釈を賜わりました。ただ一方には弁信殿とかぶせたのに、今度は友造君と前置きをしただけの相違で、あとの会釈は一字一句も違わない音声と語調でありましたから、米友も納得しました。もし、これがいささかでも相違して、弁信に対しては客分、米友に対しては従者あつかいの待遇でもしようものなら、この男として、相当不快な感情を表わしたに相違ないが、その辺の呼吸は心得たもので、関守氏は一視同仁の会釈を賜わったのみならず、弁信を招ずるが如く米友をも招じ、二人ともに無事このところへ安着を賀する心持に優り劣りはなく、果ては二人のために洗足(すすぎ)の水まで取ってそなえてくれるもてなしぶりに、弁信はともかく、米友はいたく満足の意を表しました。
 そもそも、この人と、それから青嵐居士との二人に助けられて、農奴として斬らるべき運命の身を救(たす)けられて、多景島までかくまわれ、ここで弁信に托して一命の安全を期し得たのは、つい先日のこと。
 してみれば、二人をまたあの島から、この谷へ移動させるまでに肝煎(きもいり)をしていてくれたのもまたこの人、親切であって、ちょっとの抜りもない人だが、しかし、その親切ぶりと、抜りなさ加減に多少、気味の悪いところもある。あまりに抜身の手際があざやかなものだから、米友としては、いささか化け物を見るような感がないではない。
 やがて、不破の関守氏は二人を炉辺に招じて、ふつふつと湯気を吐きつつある鍋の前に坐らせました。無論、自分もその一方の、熊の皮か何かを敷いた一席に座を構えているので、あたりを見れば短檠(たんけい)が切ってあって、その傍らに見台(けんだい)がある、見台の上には「孫子(そんし)」がのせてある。
 その見台の上にのせてある書物を「孫子」だなと、米友が睨(にら)んだわけではない。本がのせてあるなということは、たしかに睨んだけれども、一目見て「孫子」だなと睨み取るほどの学者ではなかったのです。
 ここへ来たのはホンの昨今であろうのに、もう十年も住みわびているような気取り方が、米友にはまたいささかへんに思われる。
 加うるに膳椀(ぜんわん)の調度までが、一通り調(ととの)うて、板についているのは、前にいた人のを居抜きで譲り受けたのか、そうでなければ、お勝手道具一式をそのまま、あたり近所から移動して来たとしか思われません。
 かく甲斐甲斐しく炉辺の座に招じて置いてから、不破の関守氏は、
「君たち、まだ夕飯前だろう、何もござらぬが手前料理の有合せを進ぜる」
と言って、膳部を押し出したのを見ると、お椀も、平(ひら)も、小鉢、小皿も相当整って、一台の膳部に二人前がものは並べてある、しかも相当凝っている。
「さあさあ、お給仕だけは御免だよ、君たち手盛りで遠慮なく食い給え、米友君、君ひとつ弁信さんに給仕をして上げてな、食い給え、食い給え」
 鍋の蓋(ふた)を取って、粟(あわ)か、稗(ひえ)か、雑炊か知らないが、いずれ相当のイカモノを食わせるだろうと思ったところが、鍋の方は問題にしないで、黒漆の一升も入りそうなお櫃(ひつ)をついと二人の方へ突き出したものだから、米友が、この時も小首をヒネりました。
 お膳の上を見直すと、小肴(こざかな)もある、焼鳥もある、汁椀も、香の物も、一通り備わっているのだが、はて、早い手廻しだなあと、いよいよ感心しているうちに、
「さて、食事が済んだら、弁信殿は女王様がお待兼ねだから、あちらの母屋(おもや)へ行き給え、米友君はここに留まって、拙者と夜もすがら炉辺の物語り」
 さては女王様、即ちお銀様もここに来ているのか――いずれも熟しきった一味の仲間でありながら、米友はここにも、化け物が先廻りをしている、ドレもこれも化け物だらけという気分で、おのずから舌を捲きました。
 自分がドノくらいの程度の化け物だか、そのことは考えずに……

         十

 やがて弁信法師だけが案内を受けた、この屋敷の母屋というべき構えは、平家建の低い作りではあって、すべて光仙林のうちに没却してはいますけれども、内容の数寄(すき)を凝らしたことは一目見てもそれとわかるのであります。
 光悦筆と落款(らっかん)をした六曲の屏風(びょうぶ)に、すべて秋草を描いてある。弁信には見えないながら、見る人が見ると、すべてが光悦うつしといったように出来上っている。古い構えではあるけれども、相当手入れを怠ってはいなかったらしく、寂(さび)がついて、落着いて、その一室に経机を置いたお銀様の姿を見ると、室の主として、これもしっくり納まっている。
「林主様(りんしゅさま)、弁信法師が参りました」
「あ、そうですか」
とお銀様は、しとやかな言葉で、この法師を待受けました。
「お嬢様、弁信でございますが、はからぬところでお目にかかります」
「友造どんは、どうしました」
 それを不破の関守氏が引きとって、
「あれも一緒に、無事これへ着きましたが、食事を済ませまして、とりあえず弁信殿だけをつれて参りました」
「弁信さん、そこへお坐りなさい、そうして今晩は、ゆっくりあなたと話がしたい」
「いずれ、急がぬ身でございますから」
「では、拙者に於てはこれにて御免――」
 不破の関守氏は弁信を置きっぱなしにして、自身のわび住居(ずまい)へ帰ってしまいました。
 お銀様の経机に向った周囲を見ますと、幾つかの封じ文が、右と左に置かれてある。机の上にも堆(うずたか)いほどの手紙が載せてある。察するところ、この手紙類を右から取っては左へ読みついで、ひたすらそれに読み耽(ふけ)っていたところらしい。弁信が来たものですから、手紙の方はそのままにして置いて、お茶の立前(たてまえ)にかかりました。
 お銀様のお手前は本格であります。珍しくも手ずからお茶を立てて、弁信法師をもてなそうとするのであります。
「一つ、召上れ」
 ふくさに載せて、わざわざ弁信の前に置かれたものですから、この法師もいたく恐縮しました。
 差出された茶碗を見ると、これも光悦うつし、いや、うつしではない、光悦そのものの肉身の手にかけて焼き上げたもの――むやみに、うつしうつしと口癖になってしまってはお里が知れる。
「これはこれは、痛み入った御接待にあずかりまして」
 例によって物堅い弁信法師の辞儀、お手前ともお見事とも言わないで、御接待と言いました。そうしてその言葉にかなう恭(うやうや)しい手つきで、茶碗を取って押戴いて二口飲みました。弁信法師も、お茶の手前の一手や二手は心得ているに相違なく、手振(てぶり)も鮮かに一椀の抹茶(まっちゃ)を押戴いて、口中に呷(あお)りました。
「お願いには、もう一椀を所望いたしとうござります」
 お銀様はそれを喜んで、更に一椀を立てて弁信に振舞いました。
 それを快く喫し終った弁信が、澄ました面(かお)を、いっそう澄ませて、
「たいそう落着いたお住居(すまい)のようでございますが、いつこれへお越しになりましたか、そうして、以前どなた様のお住居でございましたか」
「これが弁信さん、山科の光悦屋敷と申しまして、今度、わたしが引取ることになりました」
「あ、これがお話に承った光悦屋敷でございますか、そうして、居抜きのまま、そっくりあなた様がお引取りになりました、それは結構なことでございます、おめでたいことでござります」
「父が欲しいと申しましたが、わたしが引取ることになりました」
「ああ、そのお父様のことでございます、はるばる甲州路から京大阪の御見物と申すは附けたりで、実はあなた様を見たいばっかりで、おいであそばしたそうでござりまするな、お会いになりましたか」
「会いました」
「それは功徳をなさいました、本来ならば、子が親を見つがなければならないのに、あなた様ばかりは、親御にそむいた罪が重いにかかわらず、それでも、親は子を思いきれないで、わざわざこの上方まで見においでになる、それなのに、会うの会わぬのとおっしゃる、あなた様の御了見が間違っておりましたが、これは今更申し上げたとて甲斐のないことでございます、ともかくも、首尾よく御会見になりましたとやら、それはそれは何よりの悦(よろこ)びでござります」
「いいえ、別に、嬉しくも、おかしくもありませんでした、でも、会って悪いことをしたとは思いませんでした」
「そのはずでございます、子が親に会うのが何で悪いことでしょう、お父上様のおよろこびが察せられます。して、久しぶりで親子御対面のお談話(はなし)の模様はいかがでござりました」
「別に細かい話はありません、引合わせる人たちが立会の上で、大谷風呂の一間で会見を終りました、万事は不破の関守殿や、あのお角さんという仕事師が心得ているはずなのです、わたくしはただ大体だけの受答(うけこたえ)をしましたが、それでも、父は満足して別れました」
「その大体だけの受答というのが承りとうござります」
 弁信法師は小賢(こざか)しく小膝を押進ませました。

         十一

 お銀様は、それを悪く謝絶をしませんでした。かえって、快く、むしろ弁信にも渡りをつけて置いてみたいような気持で、
「父は第一に、有野の藤原の家のあとをどうするかということを、わたしに責めました、あの家の血統といっては現在わたし一人、そのわたしが、こんなような人間ですから、家の存続ということが、父の死後までの関心第一である限り、その相談――ではない、詰責(きっせき)なのです、その唯一の血筋でありながら、家をも親をも顧みない私というものを責めるのは、責めるのが本来で、責めらるるが当然です、けれども、責められたからとて、叱られたからとて、今更どうにもなる私ではないということを、父も知っている、わたしも知っている、そこで第二段の条件になりました」
「と申しますると?」
「つまり、血統唯一の本筋である私というものが、家督の権利を抛棄(ほうき)する以上は、他から養子をしても異存はあるまいな、ということでありました」
「それも道理でございます」
「無論、わたくしに異存のありようはずはございません、宜(よろ)しきようにと、あっさり返事を致しました、そうしますると、では、その養子に就いてお前に何か希望条件があるかと、父がたずねましたから、いいえ、希望などは更にござりませぬ、そんなのがあるくらいなら、疾(と)うに私から推薦を致すなり、私自身が引きついでしまうなり致します、左様なことには一切白紙でございます、と父に向って申しました」
「それは、理非はとにかくに、あなた様らしい御返事でございました」
「しますとね、父が、よろしい、では、こちらのめがねで、しかるべき人を見立て、それに藤原家一切を引渡してしまっても、後日に至ってお前の文句はあるまいなと、駄目を押しますものですから、ええ、文句や未練などがあるべきはずのものではない、お父様のおめがねに叶(かな)った人がありますならば、御存分になさいませ、私はそれを喜んでお祝い申して上げますと申し上げました」
「なるほど、それも、まったくあなた様らしいお気持であり、あなた様らしい御返事でございます」
「その次に、財産の話が出ました、父が、念のために藤原家の現在の財産――土地家屋から、金銀宝物に至るまで、総計これだけあるから、念のために覚えて置くがよろしいと、番頭にその記入帳を取り出ださせ、それを私につきつけて説明をなさろうとしますから、私は、いいえ、すでに家督を抛棄したものに、何の財産の知識が要りましょう、捨てた本家の財(たから)を数えるような未練な心はさらさらない、その計算はお聞き申しますまい、その代り、評議で定まった最初から私のいただくべきものになっていた部分だけを、私にお頒(わか)ち下さればそれで充分です、それだけは私がいただいて、自由に使用させていただきましょう、それにしまして、家督を顧みぬ親不孝者には、それも相渡されぬということならば、一文もいただかなくとも結構です、万事、お父様のお心持次第――とこう申しますと、よし、わかった、と父が申しまして、別に用意を致して参りました一冊を、改めて不破の関守さんと、お角さんの手に渡しました――それで、キレイに万事の解決は済みました」
「それは、あなた様は済んだとお思いでしょうが、お父様は、この解決に、容易ならぬ不本意でございましたでしょう、でも、それよりほかになさりようのないお心持が、わたくしにもよくわかります」
「あなたには、父の心持はよくわかるかも知れませんが、私という女は、わからない女なのです」
「いや、わかり過ぎておいでになる――」
「いいえ、わかりません、わたしという人間は、天地間第一等のわからず屋でございます、それでいいのです」
 お銀様の言葉が少し癇(かん)に立ってきたので、弁信はまた病気が出だしたなと思ったのか、広長舌を食いとめて、深く触れることを避けた心遣(こころづか)いがあります。そこで、なにげなく話頭を一転し、語気を一層和(やわ)らげて、
「それで、なんでございますか、あなた様の代りにお家をおつぎになる相続人、果してお父様のおめがねに叶うお人がありまするやら、その辺に立入っての御相談はございませんでしたか」
「ありました」
 お銀様は、きっぱり答えたので、弁信法師も少しくはずみました。

         十二

「そのお方はどなた様ですか、あなた様の御親戚のうち、或いはお知合いの方で、まずあれならばと思召(おぼしめ)すようなお心当りがございましたか」
「いいえ、ちっとも知らない人です、なんでも連れ子をして、このごろ家に居候(いそうろう)をしていた他国者なんだそうですが、それを見込んで父が親子養子にすると申しますから、御存分に、身分素姓などのことをかれこれ申すくらいなら、最初から私が嗣(つ)ぎますと、私は言いきってしまいますと、この場はそうでも、後日ということもある、他人を相手のことだから、これに判をしなさい、父の認めたこれこれの養子に家督一切を譲っても、後日に至って毛頭異存のないというこの書附に判を押しなさいと、父が申しますものですから、ええ、ようござんすとも、ようござんすとも、判などは幾つでも、どこへでも捺(お)して上げますと、私はその証文へ自筆で名を書いて、女だてらの血判までしてやりました」
「あなた様のお名前を書き、血判までしておやりになりましたならば、その証文面をイヤでも一応はごらんになりましたでしょう、あなた様に成代(なりかわ)って家をおつぎになる、父上のおめがねにかなった新しい御養子というお方は、いったいどのようなお方でございましたか――せめてそのお名前くらいは」
 弁信法師が念を入れて、根深くたしかめようとすると、お銀様が、
「本人の名は、与八とだけ書いてあるのを見ました、その傍に並べて、郁太郎(いくたろう)と書いてあったようです、郎という字かと思いましたが、郎太郎という名前もないでしょうから、あれは郁太郎――つまり親が与八で、子が郁太郎、それが私に代って、父の家を引きついで、寝かし起しをしてくれる親子養子になったことと思います」
「何とおっしゃいます、与八に、郁太郎――」
 そこで、物に動ぜぬ弁信法師の語調が、いたく昂奮したような様子が歴々です、お銀様は言いました、
「わたしは、与八がどういう人で、郁太郎という子が誰の子だか知りません、知ろうとも思いません、ただあの二人が、これから藤原の家を踏まえて、わたしに代ってあの家を立ててくれることを、御苦労だと思っています、いいえ、立ててくれるのか、つぶしてくれるのか、それも知りたいとは思いません」
 そうすると、弁信法師が抜からぬ面(かお)で答えて言うことには、
「その与八さんとやらは、おそらく、お家をつぶしてしまうでございましょう、また、潰(つぶ)されても悔いないと思えばこそ、あなたのお父様も、その二人を御養子になさる御決心がついたのです」
「いったい、家を起すの潰すのということが、私にはよくわかりません」
「左様でございますとも、諺(ことわざ)に女は三界(さんがい)に家なしと申しまして、この世に女の立てた家はございません、本来、女人(にょにん)というものは、物を使いつぶすように出来ている身でございまして、物を守って、これを育てることはできないものなのでございます、家を起すのは男の仕事でございまして、家をつぶすことは女の仕業(しわざ)なのです、もとより、すべての男が家を起すべきもの、すべての女が家をつぶすべきものとは申しませんが、この世に、女の起した家というものはございません、本来、女には家そのものがないのですから。たとえて申しますると……」
「コケコッコー」
 弁信法師の饒舌(じょうぜつ)が、理窟に堕しつつも、これから夜と共に深入りをしようとする矢先に、つい近いところで鶏がけたたましく鳴きました。
 ははあ、話は夜と共に深入りをしようとする時、はや世界は明け方に向ったのか。鶏の声々に引きつづいて、つい近い庭先で、一声のすさまじい犬の吠(ほ)ゆる声を聞きました。鶏の鳴き声は、ちゃぼの鳴き声でありましたが、犬の吠え方は、ついぞ聞いたことのない、鋭くして強い吠え方でありました。鶏犬(けいけん)の声は平和のシムボルでありますけれど、鶏は時を作るものだが、犬は時間を知らせるものではありません。不吉な夜鳴きでない限り、鶏の鳴く音は常態でありますけれども、犬の吠ゆるは非常態でなければならない。
 そこで、この屋敷に相当逞(たくま)しい犬が飼育されていることもわかり、その畜犬が物に触れて、いま声を立てたのだということもわかりました。犬が物に感じたというその物は、人間以外の何物でもありますまい。つまり、不時に、思いがけぬ人の気配(けはい)を感じたればこそ、畜犬が、主家の防備と、自己保存の本能のために叫びを立てたに相違ない。それを勘の強い弁信が聞き洩(も)らすはずはありません。
「犬がおりますな」
「ええ、強い犬がいます」
「誰か参りました」
「不破さんでしょう」
「いいえ、別の人です」
 つついて、犬が立てつづけに吠える、その声は尋常の犬と違って、腹から出る音声を持っていて、この座の人の丹田にこたえるのみならず、おそらく、この静かな時、十町を離れたところでらくに聞き取れるほどの音量が、超感覚の弁信の耳に、いよいよこたえないはずはありません。
「変っておりますな、あの犬は、ただ犬ではありません」
「ただの犬ではありませんよ」
 非凡なる犬といえば誰しも、ムク犬を思い出すが、ムクは今、太平洋の海の中にいるはずですから、まかり間違っても山科谷の間へ来るはずはありません。
 ただ、お銀様だけが、ただの犬でないことを心得ているらしい。
 鶏犬の声によって、この場の会話は甚(はなは)だ白けてしまいました。弁信法師のせっかくの広長舌も、なんとなく出端(でばな)を失い、光芒(こうぼう)を奪われたかのような後退ぶりです。

         十三

 一方、不破の関守氏は、米友を炉辺の対座に引据えて、これもしきりに物語りをしておりました。
 不破の関守氏は座談の妙手である。これはお銀様のように、権威と独断を人に押しつけることをしないし、弁信のように、感傷と理論の饒舌(じょうぜつ)に人を悩ますようなことがありません。平談俗語のうちに、世態人情を噛みしめて話すものですから、米友もたんかを立てる隙(すき)がなく、これをして神妙に聞き惚(ほ)れて、しきりにうなずかせるだけのものはありました。
 そのくらいですから、会話に興が乗っても、これが切上げの潮時をもよく知っている。この小男も相当疲れているであろうことを察して、程よく一室に入れて彼を寝かし、己(おの)れも寝について、そうして無事に暁に至りました。その時、犬の吠える声を聞くと、今まで熟睡していた米友が、ガバと身を起して、
「今、犬が鳴いたなあ」
 犬ならば吠えるというのが正格であろうけれど、鳴いたと口走ったのは、それと前後して鶏の鳴いたその混線のせいかも知れません。次の間に寝ていた不破の関守氏も、もうこの時分、すっかり覚めておりました。
「誰か来たようだよ」
「いま犬が吠えたねえ、おじさん」
 誰か来たか来ないか、そんなことは注意しないで、犬の音声だけが特に気がかりになるらしい。
「吠えたよ、だから、誰か人が訪ねて来たと思っているのだ」
「今の犬は、ただ犬じゃあない」
と米友は、ただこれ、犬にのみ執着している。
「ただ犬じゃねえ」
と不破の関守氏は、隣室から米友の口真似(くちまね)をして、
「すばらしい犬だ、起きたら君に見せてやる、それは二つとない豪犬だ」
「二つとねえ犬……」
「そうだ、朝の眼ざましにはあれを見てみるかい」
「早く見てえな」
 米友は、たまり兼ねて、ハネ起きて、その犬を見たがる気配を関守氏が感じたものですから、
「まあ、待ち給え、逃げろと言ったって逃げる犬じゃない、起きてから、ゆっくり見給え」
「ただ犬じゃねえ、腹で吠えてやがる」
と米友は、半身を蒲団(ふとん)から乗出して、その犬の声にすっかり執着するが、不破の関守氏は犬の吠える声よりも、その吠える声によって暗示される何者かの来訪、それにしきりに注意を傾けているようです。
 だが、暫くして、犬の吠える声は全く止まり、鶏の鳴く声だけが連続して聞えました。犬の吠ゆるは非常をそそるけれども、鶏の鳴く音は、平和と、希望を表わすこと、いずこも変りません。
 非常の示唆(じさ)たる犬の警告が止んだのは、失火の静鎮から警鐘が鳴りをひそめたと同様で、つまり、何物か一応、外をうかがったものがあるにはあるが、この警告に怖れをなしたと見えて、直ちに引取って、危害区域外に立去ったから、この屋敷は安全地帯に置かれた。代って、平和の使徒が光明の先触れをしたまでの段取りで、かくて東天紅(とうてんこう)になり、満地が白々と明るくなりかけました。
 不破の関守氏も朝寝坊の方ではないが、米友ときては、眼がさめたら、じっとしてはおられない。関守氏は、やおら起き出でて、筧(かけひ)の水で含嗽(うがい)を試みようとする時、米友はすり抜けて、早くも庭と森の中へ身を彷徨(ほうこう)させて、ちょっとその行方がわかりません。
 山科の朝はしっとりと重くして、また何となく親しみの持てる秋でありました。

         十四

 かくて、宇治山田の米友は、光仙林の秋にさまよいました。
 深山と幽谷の中にわけ入るような気分があって、心がなんとなく勇みをなすものですから、いい気になって、園林の間を歩み歩んで行くうちにも、我を忘れて深入りをしようとするわけでもない。
 今日は、心置きなく自分の住宅区域の安全地帯に、誰憚(はばか)らず遊弋(ゆうよく)することができる。この幾カ月というもの、米友の天地が急に狭くなって、あわや、この小さな五体の置きどころさえこの大きな地上から消滅しようとした境涯から、急に尾鰭(おひれ)が伸びたように感じました。

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