大菩薩峠
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著者名:中里介山 

その時あしたは関所だが手形は持っているかと言う故、そんなものは知らぬと言ったら、銭を三百文出せ、手形は宿でもらってやると言うから、そいつが言う通りにして関所も越えたが、油断はしなかったが、浜松へとまった時は、二人が道々よく世話してくれたから、少し心がゆるんで、裸で寝たがその晩に、着物も、大小も、腹にくくしつけた金も、みんな取られた。朝眼がさめた故、枕元を見たらなんにもないから肝がつぶれた。宿屋の亭主に聞いたら、二人は尾張の津島祭に間に合わないから先へ行くからあとより来いと言って立ちおったと言うから、おれも途方にくれて泣いていたら、亭主が言うには、それは道中の胡麻(ごま)の蠅というものだ、わたしは江戸からのお連れと思ったが、なんしろ気の毒なことだ、ドコを志して行かしゃるとて真実に世話をしてくれたが、言うには、ドコという当てはないが上方へ行くのだと言ったら、なんしろ襦袢(じゅばん)ばかりにては仕方がない、どうしたらよかろうととほうにくれたが、亭主がひしゃく一本くれて、これまで江戸っ児がこの街道にては、ままそんなのがあるから、お前もこのひしゃくを持って浜松の御城下在とも、一文ズツ貰(もら)って来いと教えたから、ようよう思い直して、一日方々もらって歩いたが、米や麦五升ばかりに、銭百二三十文もらって帰った。亭主はいいものにてその晩は泊めてくれた。翌日まず伊勢へ行って身の上を祈って来たがよかろうと言う故、貰った米と麦とを三升ばかりに銭五十文ほど亭主に礼心にやって、それから毎日毎日乞食をして伊勢大神宮へ参ったが、夜は松原または川原、或いは辻堂へ寝たが、蚊にせめられてロクに寝ることもできず、つまらぬざまだっけ。
伊勢の相生の坂にて、同じ乞食に心やすくなり、そいつが言うには、竜太夫という御師(おし)のところへ行って、江戸品川宿の青物屋大阪屋のうちより抜参りに来たが、かくの次第ゆえ泊めてくれろと言うがいい、そうすると向うで帳面を繰りて見て泊めると教えてくれた故、竜太夫のうちへ行って、中の口にてその通りに言ったら、袴(はかま)など着たやつが出て来て、帳面を持って来て繰り返し繰り返し見おって、奥へ通れと言うから、こわごわ通ったら、六畳敷へおれを入れて、少したってその男が来て、湯へはいれと言うから、久しぶりにて風呂へはいった。あがると粗末だが御膳を食えとて、いろいろうまい物を出したが、これも久しく食わないから、腹いっぱいやらかした。少し過ぎて竜太夫は狩衣(かりぎぬ)にて来おった。ようこそ御参詣なされたとて、明日は御ふだを上げましょうと言う故、おれはただはいはいと言って、おじぎばかりしていた。それから夜具かやなど出して、お休みなされと言うから寝たが、心持がよかった。翌日はまた御馳走をして御礼をくれた。そこでおれが思うには、とてものことに金を借りてやろうと、世話人へそのことを言ったが、先の取次をした男が出て来て、御用でござりますかと言うから、道中にて胡麻の蠅のことを言い出して、路銀を二両ばかり貸してくれるように頼むと言ったら、竜太夫へ申し聞かすとて引込んだ。少し間が過ぎて、おれに言うには、太夫方も御覧の通り大勢様の御逗留(ごとうりゅう)ゆえ、なかなか手廻り申さぬ故、あまり軽少だがこれを御持参下さるようとて一貫文くれた。それをもらって早々逃げ出した。それから方々へ参ったが銭はあるし、うまいものを食い通したから、元(もと)の木阿弥(もくあみ)になった。竜太夫を教えてくれた男は江戸神田黒門町の村田という紙屋の息子だ。それから、ここで貰い、あそこで貰い、とうとう空に駿河の府中まで帰った……」

 野郎とうとう、胡麻の蠅にしてやられ、乞食から、食い逃げ、借倒しまで功が積んだな、と神尾が、甘酸っぱい面(かお)をして読み進みました。

         五十七

 しかし、天性図々しいところがなければこうはいかぬ、向うが折入ったところを図に乗るのは一つの手だ、あんまり賞(ほ)めた話ではないが、まあ、一つの自業自得さ、と、いい気持で神尾が読み進む「夢酔独言」――
「何を言うにも襦袢(じゅばん)一枚、帯は縄を締め、草鞋(わらじ)をいつにも穿(は)いたこともねえから、ざまの悪い乞食さ。
府中の宿(しゅく)のまん中ころに、観音かなにかの堂があったが、毎晩、夜はその堂の縁の下へ寝た。或る日、府中の城の脇の、御紋附を門の扉につけた寺があるが、その寺の門の脇は、竹藪(たけやぶ)ばかりのところだが、その脇に馬場の入口に、石がたんと積んであるからそこへ一夜寝たが、翌日朝早く、侍が十四五人来て、借馬のけいこをしていたが、どいつもどいつも下手だが、夢中になって乗っておるから、おれが目を覚して起き上ったら、馬引どもが見おって、ここに乞食が寝ておった、ふてえ奴だ、なぜ囲いの内へへえりおったとてさんざん叱りおったが、いろいろわび言してその内へかがんでいて馬乗りを見たが、あんまり下手が多いから笑ったら、馬喰(ばくろう)どもが三四人で、したたかおれをブチのめして、外へ引きずり出しおった。おれが言うには、みんな下手だから下手だと言ったが悪いか、と大声でどなったらば、四十ばかりの侍が出おって、これ乞食、手前はドコの奴だ、こぞうのくせに、侍の馬乗りをさっきからいろいろと言う、国はドコだ言え言えというから、おれが国は江戸だ、それに元から乞食ではないと言ったら、馬は好きかという故、好きだと言ったら、一鞍(ひとくら)乗れと言いおる故、襦袢一枚で乗って見せたら、みんな言いおるには、このこぞうめはさむらいの子だろうと言いおって、せんの四十ばかりの男が、おれの家へ一しょに来い、飯をやろうと言うから、けいこをしまい、帰る時、その侍のあとについて行ったら、町奉行屋敷の横町の冠木門(かぶきもん)の屋敷へはいり、おれを呼んで、台所の上り段で、したたか飯と汁とを振舞ったが、旨(うま)かった。その侍も奥の方で、飯を食ってしまって、また台所へ出て来て、おれの名、また親の名を聞きおるから、いいかげんに嘘を言ったら、なんにしろ、ふびんだからおれが所へいろとて、単物(ひとえもの)をくれた、そこの女房もおれが髪を結ってくれた、行水をつかえとて湯を汲んでくれるやら、いろいろと可愛がった。いま考えると与力(よりき)と思うよ。その侍は肩衣(かたぎぬ)をかけてドコへ行ったか夕方うちへ帰った、夜もおれを居間へ呼んで、いろいろ身の上のことを聞いたから、町人の子だと言って隠していたら、いまに大小と袴(はかま)をこしらえてやるから、ここにて辛抱しろと言いおる。六七日もいたが、子のようにしてくれた。おれが腹の中で思うには、こんな家に辛抱していてもなんにもならぬから、上方へ行きて公家(くげ)の侍にでもなる方がよかろうと思いて、或る晩、単物、帯も畳んで寝所に置いて、襦袢を着て、そのうちを逃げ出し、安倍川の向うの地蔵堂にその晩は寝たが、翌日夜の明けないうちに起きて、むやみに上方の方へ逃げたが、銭はなし、食物はなし、三日計りはひどく困ったが、その夜五ツ時分に、堂の縁がわに、どんと音がする故、その音に夢がさめたが、人がいる様子ゆえ、咳(せき)ばらいをしたら、その人が、そこに寝ているは何だと言いおるから、伊勢参りだと言ったら、おれはこの先の宿へばくちに行くが、この銭を手前かついで行け、お伊勢様へお賽銭(さいせん)を上げるからと言いおる故、起き出でてその銭をかついで行くと、たしか鞠子(まりこ)の入口かと思った、普請小屋へはいりしが、おれもつづいて入りしが、三十人ばかり車座になりおって、おれを見て、その乞食めは、なぜここへはいったと親方らしい者が言うと、連れの人が言う、こいつは伊勢参りだから、おれが連れて来たという、そんなら手前は飯でも食って待ってろ、いまにお伊勢様へ御初穂(おはつほ)を上げるからとて、飯酒をたくさんにふるまった。少し過ぎると連れて来た人が銭を三百文ばかり紙に巻いてくれた、ほかのものも、五十、百、二十四文、十二文てんでんにくれたが、九百ばかり貰った。みんなが言いおるには、はやく地蔵様へ行って寝ろと言う故、礼を言うて、この小屋を出ると、ひとりが呼び留めて、大きな握飯(むすび)を三ツくれた。嬉しくってまた半道ばかりのところを戻って、地蔵へ賽銭上げて寝たが、それより、ぶらぶら一文ずつ貰い、四日市まで行くと、先ごろ竜太夫を教えた男に逢った。その時の礼を言って、百文ばかり礼にやったらば、その男は嬉しがって、久しく飯を腹いっぱい食わぬから、飯を食おうとて、二人で飯を買って、松原に寝ころんで食った。別れてよりたがいにいろいろの目に逢った咄(はなし)をして、その日は一所に松原に寝たり、乞食の交りは別なものだ。それから二人言い合って、またまた伊勢へ行った。
この男は四国の金比羅(こんぴら)へ参るとて山田にて別れ、おれは伊勢に十日ばかりぶらぶらしていたり、だんだん四日市の方へ帰って来たが、白子の松原へ寝た晩に、頭痛強くして、熱が出て苦しみしが、翌日には何事も知らずして松原に寝ていたが、二日ばかりたって漸く人ごころが出て、往来の人に一文ずつ貰い、そこに倒れて七日ばかり水を飲んで、ようよう腹をこやしていたが、その脇に半町ばかり引込んだ寺があったが、そこの坊主が見つけて、毎日毎日、麦の粥(かゆ)をくれた故、ようよう力がついた。二十二三日ばかり松原に寝ていたが、坊主が菰(こも)二枚くれて、一枚は下へ敷き、一枚はかけて寝ろと言った故、その通りにしてぶらぶらして日を送ったが、二十三日目ごろから足が立った故、大きに嬉しく、竹きれ杖にして、少しずつ歩いたが、それから三日ばかりして、寺へ行って礼を言ったら、大事にしろとて、坊主の古い笠と、草鞋(わらじ)とをくれた故、一日に一里ぐらいずつ歩いたが、伊勢路では火で焚いたものは一向食わぬ、生米をかじりて歩きたり、病後ゆえに腹がなおらぬから、またまた気分が悪くって、ところを忘れたが、ある河原の土橋の下に、大きな穴が横に明いているから、そこへ入って五六日寝ていた。或る晩、若い乞食が二人来て、おれに言うには、その穴は先日まで神田の者が寝所にしていたところだが、どこへか行きおった故に、おらが毎晩寝るところだ、三四日稼(かせ)ぎに出た故、手前に取られて困ると言う故、病気の由を言ったら、そんなら三人にて寝ようとぬかして、六七日一緒にいたが、食い物には困り、どうしようと二人へ言ったら、伊勢にては、火の物は大神宮様が外へ出すを嫌いだからくれぬ故、在郷へ行ってみろと言うから、杖にすがって、そこより十七八町わきの村方へはいったら、番太郎が六尺棒を持って出て、なぜ村へ来た、そのために入口に札が立ててある、このべらぼうめがとぬかして、棒でブチおったが、病気ゆえに、気が遠くなって倒れた、そうすると、足にて村の外へ飛ばしおった故、腹這(はらば)うようにして漸く橋の下へ帰って来たら、二人がどうしたと言うから、そのしだいを言ったら、手前は米はあるかと言うから、麦と、米と、三四合もらいだめを出して見せたら、そんならおれが粥子(かゆこ)を煮てやろうと言って、徳利のかけを出して、土手のわきへ穴を掘って、徳利へ麦と米と入れて、水を入れ、木の枝を燃して、粥を拵(こしら)えてくれたから、少し食ったあとは礼に二人に振舞った。それよりおれも古徳利を見つけ、毎日毎日、もらった米、麦、引割をその徳利にて煮て食ったから、困らないようになったが、それまではまことに食物には困った。だんだん気分がよくなったから、そろそろとそこを出かけて、府中まで行ったが、とかく銭がなくって困るから、七月ちょうど盆だから、毎夜毎夜、町を貰って歩いたが、伝馬町というところの米屋で、ちいさい小皿に引割を入れて施行(せぎょう)に庭へ並べて置くから、一つ取ったが、一つのさしに銭が一文あるから、そっとまた一つ取った、そうすると米を搗(つ)いていた男が見つけおって、腹を立て、二度取りをしおるとて握(にぎ)り拳(こぶし)でおれをしたたかぶちおったが、病後ゆえ、道ばたに倒れた。ようよう気がついた故、観音堂へ行って寝たが、その時はようやく二本杖で歩く時ゆえか、翌日は一日腰が痛くって、ドコへも出なんだ。それから或る日の晩方、飯が食いたいから二丁町へはいったが、麦や米ばかりくれて、飯をくれぬから、だんだん貰って行ったら、曲り角の女郎屋で客が騒いでいたが、おれに言うには、手前はこぞうのくせに、なぜそんなに二本杖で歩く、悪くわずらったかと言う、左様でござりますと言ったら、そうであろう、よく死ななかった、どれ飯をやろうとて、飯や、肴(さかな)や、いろいろのさいを竹の皮に包ませ、銭を三百文つかんでくれた、おれは地獄で地蔵に逢ったようだと思って、土へ手をついて礼を言ったら、その客が手前は江戸のようだが、ほんとの乞食ではあるまい、どこか侍の子だろうとて、女郎にいろいろ話しおるが、緋縮緬(ひぢりめん)の袖のついた白地の浴衣(ゆかた)と、紺縮緬のふんどしをくれたが、嬉しかった。その晩は木賃宿へ泊って、畳の上へ寝るがいいと言った故、厚く礼を言って、それから伝馬町の横町の木賃宿へ夜になると泊ったが、しまいには宿銭から食物代がたまって、払いに仕方がないから、単物(ひとえもの)を六百文の質に入れてもらって、早々そこのうちを立って、残りの銭をもって、上方へまた志して行くに、石部(いしべ)まで行って或る日、宿の外れ茶屋のわきに寝ていたら、九州の秋月という大名の長持が二棹(ふたさお)来たが、その茶屋へ休んでいると、長持の親方が二人来て、同じく床几(しょうぎ)に腰をかけて酒を飲んでいたが、おれに言うには、手前はわずらったな、ドコへ行くと言うから、上方へ行くと言ったら、当てがあるのかと言うから、あてはないが行くと言ったら、それはよせ、上方はいかぬところだ、それより江戸へ帰るがいい、おれがついて行ってやるから、まず髪月代(かみさかやき)をしろとて、向うの髪結床へ連れて行ってさせて、そのなりでは外聞が悪いとて、きれいな浴衣をくれて、三尺手拭をくれた、しかして杖をついては埒(らち)が明かぬから、駕籠(かご)へ乗れとて、駕籠をやといて載せて、毎日毎日よく世話をしてくれた。江戸へ行ったら送ってやろうとて、府中まで連れて来たが、その晩、親方がばくちの喧嘩で大騒ぎが出来て、おれを連れた親方は国へ帰るとて、くれた単物を取り返して、木綿の古襦袢をくれて直ぐに出て行きおったから、いま一人の親方が言うには、手前はこれまで連れて来てもらったを徳にして、あしたは一人で江戸へ行くがいいとて、銭五十文ばかりくれおったが、仕方がないから、また乞食をして、ぶらぶら来て、ところは忘れたが、あるがけのところにその晩は寝たが、どういうわけか崖より下へ落ち、岩の角にきんたまを打ったが、気絶をしていたと見えて、翌日ようよう人らしくなったが、きんたまが痛んで歩くことがならなんだ。二三日過ぎると少しずつよかったから、そろそろ歩きながら貰って行ったが、箱根へかかって、きんたまが腫(は)れて膿(うみ)がしたたか出たが、がまんをして、その翌日、二子山まで歩いたが、日が暮れるからそこにその晩は寝ていたが、夜の明け方、飛脚が三度通りて、おれに言うには、手前ゆうべはここに寝たかと言う故、あい、と言ったら、強い奴だ、よく狼に食われなんだ、こんどから山へは寝るなと言って銭を百文ばかりくれた。三枚橋へ来て茶屋のわきに寝ていたら、人足が五六人来て、こぞうなぜ寝ていると言いおるから、腹が減ってならぬから寝ていると言ったら、飯を一ぱいくれた。その中に四十ぐらいの男が言うには、おれのところへ来て奉公しやれ、飯はたくさん食われるからと言う故に、一緒に行ったら小田原の城下の外の横町にて、漁師町にて喜平次という男だ。おれを内へ入れて、女房や娘に、奉公につれて来たから、可愛がってやれと言った、女房娘もやれこれと言って、飯を食えと言うから、飯を食ったらきらず飯だ、魚はたくさんあってくれた、あすよりは海へ行って船を漕(こ)げと言うから、江戸にて海へは度々(たびたび)行った故、はいはいと言っていたら、こぞうの名は何というかと聞くから、亀というと言ったら、お鉢の小さいのを渡して、これに弁当をつめて朝七つより毎日毎日行け、手前は江戸っ児だから、二三日は海にて飯は食えまいから持って行くなと喜平が言いおる、おれは江戸にて毎日海で船に乗ったから怖(こわ)くないと言ったら、いやいや江戸の海とは違うと言うから、それでもきかずに弁当を持って行った。それから同船のやつが、うちへおれを連れて行って頼んだから、翌朝より早く来いと言う、それから毎朝毎朝、船へ行ったが、みんなが言うには、亀が歩くなりはおかしいと言いおる、そのはずだ、きんたまの腫れが引かずにいて水がぽたぽた垂れて困ったが、とうとう隠し通してしまったが困ったよ。毎日朝四ツ時分には沖より帰って、船をおかへ三四町引き上げ、網を干して、少しずつ魚を貰って小田原の町へ売りに行った。それからうちへ帰って、きらずを買って来て四人の飯を焚(た)くし、近所の使をして、二文三文ずつ貰った。うちの娘は三十ばかり気のいいやつで、時々水瓜(すいか)などを買ってくれた。女房はやかましくてよくこき使った。喜平は人足ゆえ、うちには夜ばかりいたが、これはやさしいおやじで、時に菓子など持って来てくれた。十四五日ばかりいると子のようにしおった。おれに江戸のことを聞いて、おらがところの子になれと言いおる故、そこで考えてみたが、なんしろおれも武士だが、うちを出て四カ月になる、こんなことをして一生いてもつまらねえから、江戸へ帰って、祖父の了簡次第(りょうけんしだい)になるがよかろうと思い、娘へ機嫌をとり、もも引と、きもののつぎだらけなのを一つ貰って、閏(うるう)八月の二日、銭三百文、戸棚にあるを盗んで、飯をたくさん弁当へつめて、浜へ行くと言って夜八ツ時分起きて、喜平がうちを逃げ出して、江戸へその日の晩の八ツ頃に来たが、あいにく空は暗し、鈴ヶ森にて、犬が出て取巻いて、一生懸命大声を揚げてわめくと、番人乞食が犬を追い散らしてくれた故、高輪(たかなわ)の漁師町のうらにはいりて、海苔取船(のりとりぶね)があったから、それをひっくり返して、その下に寝たが、あんまり草臥(くたび)れたせいか、翌日は、日が上っても寝ていたから、所の者が三四人出て見つけて叱りおった。わび言をしてそこを出て飯を食いなどして、愛宕山(あたごやま)でまた一日寝ていて、その晩は坂を下るふりをして、山の木の茂みへ寝た。三日ばかり人目を忍んで、五日目には夜両国橋へ来て、翌日回向院(えこういん)の墓場へ隠れていて、少しずつ食物買って食っていたが、しまいには銭がなくなったから、毎晩度々(たびたび)、垣根をむぐり出て、貰っていたが、夜はくれ手が少ないから、ひもじい思いをした。回向院奥の墓所に乞食の頭(かしら)があるが、おれに仲間に入れとぬかしおったから、そやつのところへ行って、したたか飯を食った」
 野郎、土性骨まで乞食になりおったな、しかしまあ、ここまで乞食になりきれりゃあ、人間もねうちものだと、神尾が感心しながら、野郎どんな面(かお)をして養家の閾(しきい)をまたぐのかと、調べてみました――
「そして、裏から亀沢町へ来て見たが、なんだか閾が高いようだから(でも閾の高低がわかるだけの感は残っていたのが不思議)引返して二ツ目の向うの材木問屋の蔭へ行って寝た。三日目に朝早く起きてうちへ帰ったが、うちじゅう、小吉が帰ったとて大騒ぎをし、おれが部屋へ入って寝たが、十日ばかりは寝通しをした。おれがいないうちは加持祈祷いろいろとして、いとこの恵山というびくは、上方まで尋ねて上ったとて話した。それから医者が来て、腰下に何か仔細があろうとていろいろ言ったが、その時はまだ、きんたまが崩れていたが、強情にないと言って帰してしまった。三月ばかりたつと、しつが出来てだんだん大相(たいそう)になった、起居(たちい)もできぬようになって、二年ばかりは外へも行かずうちずまいをしたよ。それから親父が、おれの頭(かしら)、石川右近将監に、帰りし由を言って、いかにも恐れ入ること故、小吉は隠居させ、ほかに養子いたすべきと言ったら、石川殿が、今日帰らぬと月切れゆえ家は断絶するが、まずまず帰って目出たい、それには及ばぬ、年とって改心すればお役にも立つべし、よくよく手当して遣(つか)わすべしと言われた、それから一同安心したと皆が咄(はな)した」

         五十八

 神尾主膳は、読み去り読み来(きた)る間にも、さげすんでみたり、存外やると思ってみたり、ばかばかしいと思ってみたり、おれは何が何でもここまでは落ちられないと歎息してみたりする、その間にも、四十俵高の小身者(しょうしんもの)と、自分の生れと比較して、優越感にひたらざるを得ないのも、この人の性根であります。
「根が小身者だからな」
とさげすみながらも、甚(はなは)だ共鳴させられる節が多くて、これはおれを書いているのではないか、自分の姿を鏡で見せられてでもいるような心持に、うっかりと捉われてしまうのは、つまり、高に大小こそあれ、やっぱり生え抜きの江戸人である。勝の家も小身ながら開府以来の江戸人である、男谷(おたに)の方は越後から来た検校出(けんぎょうで)ということだが、それも何代か江戸に居ついて、江戸人になりきっている。江戸人に共通したところのものが、この一巻のうちに流れている。しかるが故に、神尾主膳が、このまずい文章と、格法を無視した記録に、足許をさらわれそうにしている。読み出した以上は読み了(おわ)らなければならない。東海道をうろついて、乞食をして歩いただけで納まったのでは、勝の父らしくない。この性根が一生涯附いて廻らなければ本物とは言えないと、神尾は変なところへ同情を置いて、次へと読み進みました。
「十六の年には、ようやくしつもよくなったから出勤するがいいと言うから、あいたいをつとめたが、頭(かしら)の宅で帳面が出ているにめいめい名を書くのだが、おれは手前の名が書けなくて困った。
人に頼んで書いてもらった。石川があいたいの後で、乞食をした咄(はなし)を隠さずしろと言ったから、初めからのことを言ったら、よく修業した、いまに番入りをさせてやるから、しんぼうをしろと言われた。
またうちでは、ばばアどのがなおなおやかましくなって、おのれは勝の家をつぶそうとしたな、といろいろ言いおって困った故、毎日毎日うちにはいなんだ。
兄貴の役所詰に久保島可六という男があったが、そいつがおれをだまかして連れて行きおったが、面白かったから毎晩毎晩行ったが、金がなくって困っていると、信州の御料所から御年貢(おねんぐ)の金が七千両来た、役所へ預けて改めて御金蔵へ納めるのだ、その時おれに番人を兄貴が言いつけたから番をしていると、可六が言うには、金がなくては吉原は面白くないから、百両ばかり盗めと教えたが、(神尾曰(いわ)く、悪いことを教える奴だ)おれもそうだと言って(そうだと言う奴があるか)千両箱をあけて二百両取ったが(そらこそだ)あとがガタガタするゆえ困ったら、久保島が石ころを紙に包んで入れてくれた故、知らぬ顔でいたが、二三月たつと知れて、兄きがおこったが(おこるのがあたりまえ)いろいろ論議をしたら、おれが出したと役所の小使めが白状しおった故、おれに金を出せとて兄きが責めたが、知らぬとて強情をはり通したが、兄が親父へそのわけを話したら、親父が言うには、手前も、年の若いうちに度々そんなことはあったっけ、僅かの金で小吉を瑕物(きずもの)にはできぬ故、何とか了簡(りょうけん)してみてやれと言った。そこで、いよいよおれが取ったに違いない故それきりにして、誰も知らぬ顔で納まった。おれはその金を吉原へ持って行って一月半ばかりに使ってしまったが、それから蔵宿(くらやど)やほうぼうを頼んで金をつかった」
 いったい、その親共なり、支配頭なりが、厳しいのか甘いのかわからぬ。自分もやっぱり、この厳しいような、甘いような江戸の家風に育った一人だ。勝のおやじのためには、たしかにそれが子孫への教訓にもなるようなものだが、おれのはなんにも残らぬ、と神尾がやや自覚しました。それから読みついで行くと、いよいよ大変なもので……
「ある日、おれの従弟(いとこ)のところへ行ったら、その子の新太郎と忠次郎という兄弟があるが、一日、いろいろ咄(はなし)をしたが、そこの用人に源兵衛というのがいたが、剣術遣いだということだが、おれに向って言うには、
『お前さんは、いろいろとあばれなさいますが、喧嘩はなさいましたか』
と言うから、おれが、
『喧嘩は大好きだが、小さいうちから度々(たびたび)したが面白いものだ』(こういう野郎だ)
と言った。
『左様でござりますか、あさって蔵前の祭りでありますが、一喧嘩やりましょうから、一緒にござらっしゃいまして、一勝負なさいまし』(火事場へ油をさしに行けという奴がある、いやはや)
と言ったから、約束をして帰った。
その日になりて、夕方より番場の男谷(おたに)へ行ったら、先の兄弟も待っていて、
『よく来た、今、源兵衛が湯へ行ったから、帰ったら出かけよう』
と支度をしていると、まもなく源兵衛が帰った。それより道に手筈(てはず)を言い合わせて、八幡へ行ったが、みんなつまらぬ奴ばかりで、相手がなかったが、八幡へ入ると、向うより、きいたふうの奴が二三人で、鼻歌をうたって来る故、一ばんに忠次郎が、そいつへ唾を顔へしっかけたが、その野郎が腹を立て、下駄でぶってかかりおった、そうすると、おれが握り拳で横つらをナグってやると、あとのやつらが総がかりになってかかりおるから、めくらなぐりにしたら、みんな逃げおった故、八幡へ行ってぶらぶらしていると、二十人ばかりなが鳶(とび)を持って来おった、何だと思っていると、一人が、
『あの野郎だ』
とぬかして、四人を取りまきおった。それから刀を抜いて切り払ったら、源兵衛が言うには、
『早く門の外へ出るがいい、門を締めるととりこになる』
と大声に言うから、四人が並んできり立て、門の外へ出たら、そいつらの加勢と見えてまた三十人ばかり、鳶口を持って出よったから、並木の入口の砂蕎麦(すなそば)の格子を後ろにして五十人ばかりを相手にして叩き合ったが、一生懸命になって、四五人ばかり傷を負わしたら、少し先が弱くなった故、むやみにきり散らし、鳶口を十本ほども叩き落した、そうするとまたまた加勢が来たが、梯子(はしご)を持って来た、その時、源兵衛が言うには、もはやかなわぬから三人は吉原へ逃げろ、あとは私が斬り払い帰るからと、早く行けと言ったが、三人ながら、源兵衛ひとりを置くを不便(ふびん)に思い、一緒に追いまくって一緒に逃げようと言ったら、
『お前さん方は怪我があっては悪いから、ぜひぜひ早く逃げろ』
とひたすらに言う故、おれが、源兵衛の刀が短いから、おれの刀を源兵衛に渡して、直ちに四人が大勢の中へ飛び込んだら、先の奴は、ばらばらと少しあとへ引っこんだはずみに、逃げ出して、ようよう浅草の雷門で三人一しょになり、吉原へ行ったが源兵衛が気遣(きづか)いだから、引戻して番場へ行って、飯を食おうと思って行ったら、源兵衛は、うちへ先へ帰って、玄関で酒を飲んでいたため三人は安心した。
それから源兵衛と、またまた一緒に八幡の前へ行って見たらば、たこ町の自身番へ大勢人が立っているから、そこへ行って聞いたら、八幡で大喧嘩があって、小揚(こあげ)の者をぶったが始まりで、小あげの者が二三十人、蔵前の仕事師が三十人で、相手を捕えんとして騒いだが、とうとう一人も押えずに逃がした、その上に、こちらは十八人ばかり手負いが出来た、今、外科が傷を縫っているというから、四人ながらうちへ帰って、おれは亀沢町へ帰ったが、あんなヒドいことはなかったよ。

刀は侍の大切のものだから、よく気をつけるものだが、刀は関の兼平(かねひら)だが、源兵衛へ貸した時、鍔元(つばもと)より三寸上って折れた、それから刀の目ききを稽古した。
この年、兄きと信州へ行ったが、十一月末には江戸へ帰った。源兵衛を師匠にして、喧嘩のけいこを毎日毎日したが、しまいには上手になった。
暮の十七日、浅草市へ例の連れで行ったが、その時、忠次郎が肩を斬られたが、衣類を厚く着た故、身へは少しも創(きず)がつかなかったが、着物は襦袢(じゅばん)まで切れた、その晩は知らずに寝たが、翌朝女が着物を炬燵(こたつ)へかけるとて見つけて、忠次郎の親父へそう言った故、おれも呼びによこしたから、番場へ行ったら忠之丞が、三人並べて、いろいろ意見を言ってくれた、以来は喧嘩をしまいという書附を取られた。この忠之丞という人は、至っていい人で、親類が、聖人のようだと皆々こわがった仁だ。

翌年正月、番場へ遊びに行ったら、新太郎が忠次郎と庭で剣術を遣(つか)っていたが、おれにも遣えと言う故、忠次郎とやったが、ひどく出合頭に胴を切られた、その時は気が遠くなった。それより二三度やったが、一本もぶつことができぬから口惜(くや)しかった。それから忠次郎に聞いて、団野へ弟子入りに行った。先の師匠からやかましく言ったが、かまわず置いた。
それから精を出して、早く上手になろうと思ってほかのことはかまわず稽古をしたが、翌年より伝受も二つもらった。それから、あんまり叩かれぬようになってからは、同流の稽古場へ毎日行ったが、大勢がよって来て、小吉、小吉と言うようになった。
他流へむやみと遣いに行ったら、その時分はまた剣術が今のようにはやらぬから、師匠が他流試合をやかましく言った。他流は勝負をめったにはしないから、みな下手が多くあった故、おのれが十八の歳、浅草の馬道、生政左衛門という一刀流の師匠がいたが、或る時、新太郎と忠次郎とおれと三人で行って、試合を言い入れたが、早速に承知した故、稽古場へ行って、その弟子とおれとやったが、初めてのこと故、一生懸命になってやったが、向うが下手でおれが勝った。それからだんだんやって、師匠と忠次郎に、政左衛門が体当りをされて、後ろの戸へ突き当てられて、雨戸が外れて仰のけに倒れたが、起きるところを続けて腹を打たれた。この日はそれきりで仕舞ったが、はじめに師匠が高慢をぬかしたが憎いから、帰りにはおれが玄関の名前の札を抜打ちにして持って帰った。それから方々へ行きあばれた。馬喰町の山口宗馬がところへ、神尾、深津、高浜、おれ四人で行って試合を言いこんだら、上へ通して、宗馬が高慢をぬかした故、試合をしようと言ったら、今晩は御免下され、重ねて来いと言った故、帰りがけに入口ののれんを高浜が刀で切裂いて、室へ抛(ほう)りこんで帰った。それから同流の下谷あたり、浅草本所ともに他流試合をするものは、みんなおれがさしずを受けたから、二尺九寸の刀をさして先生づらをしていたが、だんだんと井上伝兵衛先生が、その頃は門人多く、重立った奴等、皆おれが配下同然になり、藤川鴨八郎門人赤石郡司兵衛が弟子団野は言うに及ばず切従い、諸方へ他流に行ったが、運よく皆よかった。他流は中興まずおれがはじめだ。

十八の歳、また信州へ行った。

それからけん見に諸所へ行った。そのうち、江戸でおふくろが死んだと知らせて来たから、御用を仕舞って、江戸へ来る道で、信州の追分で、夕方、五分月代(ごぶさかやき)の野郎が、馬方の蔭にはいって下にいたが、兄貴が見つけておれに捕れと言うから、この脇から十手を抜いて駈け出したら、その野郎は一散に浅間の方へ逃げおったから、とうとう追いかけて近寄ったら、二尺九寸の一本脇差を反り返して、
『お役人様、お見のがし下されませ』
と言ったから、
『うぬ、なに見のがすものだ』
とそばへ行くと、その刀を抜きおったが、引廻しを着ていたが、そのすそへ小尻がひっかかりて一尺ばかり抜きおったが、おれが直ぐに飛び込んで、柄を持ってちゅうがえりをしたら、野郎も一緒にころんで、おれの上になったが、後ろから平賀村の喜藤次という取締が来て、野郎の頭をもってひっくり返した故、おれも起き上りて十手にてつつき散らした、それから縄を打って、追分の旅宿へ引いて来た。上田小諸(こもろ)より追々代官郡奉行が出て来て、野郎を貰いに来た。こいつは小諸の牢に二百日ばかりいたが、或る晩牢抜けをして、追分宿へ来て、女郎屋へ金をねだり、一両取って帰る道だと言った。音吉とて子分が百人もおるばくち打だと役人が話した。それから大名へ渡すと首がないから、中の条の陣へやった。その後、そいつの刀を兄がくれたが、池田鬼神丸国重という刀だっけ、二尺九寸五分あった、おれが差料にした。
それから、碓氷峠(うすいとうげ)で小諸の家老の若い者らが休息所へ来て無礼をしたから、塩沢円蔵という手代とおれと、その野郎をとらえて、向うの家老の駕籠(かご)へぶつけてやった。
上州の安中でも、所の剣術遣いだと言ったが、常蔵という中間(ちゅうげん)の足を、白鞘(しらざや)を抜いてふいにきりかかったから、その時も、おれと二人で打ちのめして縛ってやった。宿役人に引渡して聞いたら酒乱だと言った。

十一月初めに江戸へ帰った。それからまたまた他流へ歩きまわったが、本所の割下水(わりげすい)に近藤弥之助という剣術の師匠がいたが、それが内弟子に小林隼太という奴があったが、大のあばれ者で本所ではみんながこわがった。或る時、小林が知恵を借って、津軽の家中に小野兼吉というあばれ者がおれのところへ他流を言い込んだ。
その時はうちにいた故、呼び入れて兼吉に逢ったが、中西忠兵衛が弟子で、そのはなしをしていると、兼めが大そうなことばかりぬかし、手前の刀を見せて、長いのを高慢に言いおるから、聞いていたら、十万石のうちにてこのくらいの刀をさすものがない、私ばかりだと言うから、刀を取って見たら、相州物にて二尺九寸。そこでおれの差料を見せたが、平山先生より貰った三尺二寸の刀ゆえ、兼吉め大いにひるみおったから、つけこんで高慢を言い返してやった。それから試合をしようと言ったら何と思ったか、今日は御免とぬかしおる故、日限を約束して、兼吉のところへ行くつもりにして、下谷連へ言ってやったら、四五十ばかり集まった故、兼吉へ手紙を持たせてやったら、ただいま屋敷へ来るとて、返事はよこさず、待っていたら、近藤の弟子の小林めが肩衣(かたぎぬ)なんど着おって、おれのところへ来て、いろいろあつかいを入れて、兼吉にわびをさせるから了簡しろという故、急度(きっと)念をしたら、こののち兼吉がお前様をかれこれ言ったら、私が首を献じますと言うからゆるしてやった故、本所はたいがい、おれの地になった。

この年、芝の片山前にいる湯屋が、向うの町へ転宅をすることにて仲間もめがして、山内の坊主が町奉行の榊原へ頼んであると言って、金弐十両とったが、もとよりウソ故に、その湯屋がほんとうにして、右の趣を奉行所へ願出にして出したら、奉行所で言うには、湯屋は樽屋三右衛門のかかりだから差越願だとて取上げぬ故大いに困った。中野清次郎というものがおれに頼んだから、幸いおれが従妹(いとこ)の女が樽屋へ嫁に入っているから、その親父の正阿弥というものは心安いから、頼んでやろうと言ったら、悦びその坊主をつれて来たから、おれが正阿弥のところへ行ってわけをだんだん話して、それより樽屋へいってやったら、樽屋が承知して、奉行所より願出を下げて、そうほう利害を言って、その湯屋が向うへ引越したが、嬉しがった。その礼に、樽屋へ三十両、正阿弥へ二十両、おれに四十両くれた。それからは酒井左衛門の用人の妾(めかけ)が持っていると言いおった。湯屋は向うへ普請をすると八十両株が高くなると清次郎が話した。

この年、またまた、兄と越後蒲原郡水原の陣屋へ行った。四方八方巡見したが面白かった。越後には支配所のうちには大百姓がいる故、いろいろ珍しき物も見た、反物金(たんものきん)をもたんと貰って帰った。

それから江戸へ帰ったが、近藤弥之助の内弟子小林隼太が男谷の方へ替え流して力んだが、あばれ者ゆえに、みんなが怖(こわ)がっているから、相弟子どもをばかにしおる故に、おれにも咄(はなし)があった故、隼太めを目に物見せんと思っていたが、久しくかぜを引いて寝ているから、それなりにして置いた。或る日少し気分がいいから、寒稽古に出たら、小林も来ていて、勝様一本願いたいとぬかすから、見る通り久しく不快で、今に月代(さかやき)も剃らずいるくらいだが、せっかくのことだから一ぽん遣(つか)いましょうと言って遣ったが、まず二本つづけて勝ったら、小林が組みついたから腰車にかけて投げてやると、仰のけに倒れたから、腰を足にておさえて咽喉(のど)を突いてやった。その時、小林が起き上り、面(めん)を取って、おれに言いおるには、侍を土足にかけて済むか済まぬかとぬかすから、これは貴公の言葉にも似ぬ言い事かな、最初のたちあいに、未熟ゆえ指図してくれろと御申し故、侍の組打ちは勝つと斯様(かよう)のものだと仕形をして見せたのだ、言い分はあるまいと言ったが、御尤(ごもっと)も、一声もござりませぬと言いおった。それから、おれを暗討(やみう)ちにするとて、つけおったが、時々油断を見ては、夜道にてすっぱ抜きをしてきりおったが、時々、羽織など少しずつ切ったが、傷は附けられたことはなかった。それからいろいろしおったが、おれも気をつけていた故に、或る時、暮に親類に金を借りに行った時に、道の横町より小林が酒をくらった勢いで、おれが通ると、いきなり、出ばなの先へ刀を抜いてつき出した、昼だから往来の人も見ている故、その時おれが、わざとふところ手をしていて、白昼になまくらを抜いてどうすると言ったら、小林がこの刀を買いましたが、切れるか切れぬか見てくれろと言うからよく見て骨ぐらいは切れるだろうと言ったら、鞘(さや)へ納めて別れたが、人が大勢立ちどまって見ていた。古今のめっぽうけい者だ。

十八の歳に身代を持って兄の庭の内へ普請をして引移った。その時、兄から三百両ばかりの証文と家作代を家見にくれた、親父よりは家財の道具を一通り貰ったから、無借になって嬉しかった。それからいろいろの居候者が多く来おったから、いくらも置いたから借金が出来たよ。

十九の年、正月稽古始に、男谷道場で、東間陣助と平川右金吾と大喧嘩をして、たがいに刀を持って稽古場へ出てさわいだが、その時もおれが引分けて、ようよう和睦させた。

この年より諸方の剣術遣いを大勢、子分のようにして諸国へ出したが、みんなおれが弟子だと言って歩く故、名が広くなってきた。それから本所中の、いい頭をしているのらくら者を残らず置いて、みんなおれが差図に従えた故、こわいものはなくなったが、それには金もいるし、附合いが張ったから、たいそう借金が出来た。

また他流試合を商売のようにして、毎晩、喧嘩にみんなを連れて歩いた。ある時、平山孝蔵という先生へも行って、いつもいつも和漢の英雄の咄(はなし)を聞いては、みんなをしこなしていた。それから、いろいろ馬鹿ばかりしていたから、身上が悪くなってきて、借金がふえるばかり、仕方がないから、出来ない相談に、むやみに借金をしていたが、二十一の年には、一文もなくなって仕様がなかったから、差料の刀は、おわりや久米右衛門という道具屋より買った盛光の刀、四十一両で買った故、それを売ろうかと思ったが、それも惜しいからよしたが、あいたいに行くにも着たままになったから、気休めに吉原へ行って、翌日、車坂の井上の稽古場へ行き、剣術の道具を一組借りて、直ちに東海道へかけ出した」

 またしても駈落(かけおち)かと、読んで神尾が苦笑しました。
「なるほど、乞食は三日すれば忘れないというが、性(しょう)についたな」

         五十九

 さてこれからが、勝小吉再度の駈落物語となる。
「その日は、むこくに歩いて、藤沢へ泊って、朝七ツ前に立って、小田原へ行って、先年世話になっていたうちの喜平次を尋ねて行ったが、喜平次も、乞食がさむらいに化けて来たものだから初めは不審した。喜平次のうちを出た亀と言ったら、ようやく思い出して、いろいろ酒など振舞ったが三百文盗んだことを言い出して、金を二分二朱やったほかに酒代(さかて)を二朱出して、以前、船へ一しょに乗った野郎共を呼んで酒を呑まして、今は剣術遣いになったことをはなして笑ったら、みんなが肝をつぶしていた。今晩はぜひとも泊れと言ったが、江戸より追手が来るだろうと思ったから、早々別れてそこを立って箱根へかかった。
喜平次とほか三人ばかり三枚橋まで送って来たが、そこよりかえして、ようよう関所へかかったが、手形がないから、関所の縁側へ行って、剣術修行に出でし由申して、お関所を通して下さいと言ったら、手形を見せろというから、そこでおれが言うには、御覧の通り江戸を歩行通りのなりゆえ、手形は心づかず、稽古先より計らず思いついて、上方へ修行に上り候(そうろう)、雪踏(せった)を穿(は)き候まま、旅支度も致さず参りしこと故、相なるべくはお通し下され候様に、と言ったら、番頭(ばんがしら)らしきが言うには、御大法にて手形なき者は通さず、しかしお手前の仰せの如く、御修行とあれば余儀なき故、お通し申すべし、以来はお心得なさるべしと言った故、かたじけないとて、それから関所を越して休んでいたら、後より来た商人が言いおるには、いま私が関所を通りましたが、おまえ様の噂(うわさ)をしてござったが、いま通った侍は飛脚でもないが、藩中でもなし、何だろうとて噂をしていましたと言うから、そのはずだわ、おれは殿様だからと言ってやった。

[#底本では1字あき]山中で日が暮れて宿引女が泊れとてぬかしたが、とうとうがまんで三島まで着いたら、四里が間、二十九日の日だから、まっくらがりで難儀した。雪踏を脱いで腰へはさみ、ようよう、夜九ツ時分、三島へ来て、宿へかかって戸を叩き、泊めてくれろと言ったら、
『当宿は韮山様(にらやまさま)がお触れで、ひとり旅は泊めぬ』
と言うから、問屋場へ寄って、起して宿を頼んだら、そいつが言いおるには、
『問屋が公儀のお触れは破れぬ、差図はできぬ』
ときめるまま、そこで、おれが言うには、
『海道筋三島宿にては、水戸の播磨守(はりまのかみ)が家来は泊めぬか、おれは御用の儀が有り、遠州雨の宮へ御きかんの便りに行くのだが、仕方がないから、これより引返して、道中奉行へ屋敷より掛合う故、それまでは御用物は問屋へ預け参るから大切にしろ』
とて、稽古道具を障子越しに投げ込んだ。そうすると、役人共が肝をつぶし、起きて出おって、土に手をつきおった。
『播磨様とは存ぜず不調法、恐れ入った』
といろいろあやまるから、図に乗って、
『荷物は預けるから、急度(きっと)、受取をよこせ』
と言ったら、困りおって、ほかに二三人も出て這(は)いつくばり、いかようにも致しますから、まずまず宿屋へ行って少しのうち休足してろと言うから、ようよう案内と言ったら、脇本陣へ上げおって、だんだん不調法のわけをわびおり、飯を出したら、役人が重ねて、当宿の宿役人が残らずしくじるから、なにぶんにも勘弁しろと言うから、腹が癒(い)えたゆえゆるしてやった。そうすると酒肴を出して、馳走をしおった。その時、書附をよこせと言ったら、それによってそれも出すまいと言った故、またまたひっくり返してやったら、金を一両二分出して、またまたあやまりおった故、金が思いよらず取れる故、済ましてやった。そのうちに夜が明けかかったから、寝ずに三島を立ったら、道中籠を出したから、先の宿まで寝て行った。そのはずだ、稽古道具へ、箱根を越し、水戸という小札を書いて差して置いたものだから、うまくいったのだ。
おれが思うには、これからは日本国を歩いて何ぞあったらきりじにをしようと覚悟して出たから何も怖いことはなかった――」

 ここまで読んで神尾主膳が感じたことは、個人的の興味ではなく、この破格な行状記の後ろに動いている時代の空気というものでありました。
 江戸徳川氏の末期の、空気のどろどろになって、どうにも動きの取れない停滞が、この勝の親父を産んだのだ。いや、勝の親父だけではない、自分の如きは、まさしく、そのどろどろの沼の中の産物の指折りでないとは言えない、そういうことを神尾主膳が自覚せしめられました。
 江戸末期の停滞が産んだ、我々旗本浪人のうちの不良に二種類がある、それは硬派の不良と、軟派の不良だ。
 その勝の親父の如きは、当然、硬派の不良に属してるが、自分の如きは、これに比べれば、いくらか軟派に傾いているかも知れないが、自分より以下の軟派はまだまだある。いわば、硬軟両面を兼ねた自分ではある、ということに神尾が分類をしてみました。
 自分の放埒(ほうらつ)を時代になすりつけるわけではないが、まあ、この徳川末期の時代というものを一渡り見てみるがいい、おれは三千石だし、勝のおやじは四十俵だ。格式に於ては天地ほどの差があるけれども、時代を同じうした徳川幕下の士ということに於ては少しも変った存在ではない。
 泰平二百何十年、もう、この江戸文化も熟しに熟しきってしまっている。三千石の家に生れたおれも、四十俵の高をついだ勝のおやじも、行きつまっているということに於ては全く選ぶところはない。もう、徳川の天下では、三千石は三千石より生きようはない、四十俵は四十俵のほかに動きがとれないことになっている。三千石が立行かなければ、四十俵も立行かない。おれは三千石の自暴(やけ)、勝は四十俵の自暴だ、自暴に於ては優(まさ)り劣りはないのだ。
 およそこの時代に於ては、身分の高下、禄高の大小を問わず、飛躍ということがどの方面にも許されない。飛躍が許されないところに、清新があり得ようはずがない。意気溌溂(はつらつ)たる青年は、その意気の溌溂を、どこに行ってもハケ口を見出すことができないから、滔々(とうとう)として不良に堕(お)ちるよりほかに行く道がない。その硬なるは喧嘩と遊侠に鬱屈を洩(も)らし、その軟なるは花柳に放蕩(ほうとう)するよりほかに行き場所がないではないか。
 うんで、つぶれて、腐りかかっている徳川末期の泰平の空気――なるほど、西南で又者が騒いでいるというも無理はない。事実、これは何とかしなければ仕方がない。この時代を何とかしなければ仕方がない。この自分を何とかしなければ仕方がない。
 それでも、勝のおやじは、息子という傑作を残したけれども、おれのしたことは放蕩が放蕩を産んだだけだ。
 何とかしなければならない。
 神尾主膳は今更、身に火がついたように身ぶるいをしました。
 神尾主膳には、特に尊王佐幕のイデオロギーがあるわけではなく、世道人心に激するところがあるというわけではないが、何ぞ知らん、やっぱり時代の潮流の圧迫というものを身に受けているのでありました。持って生れた、なにがしかの血性というものが、磁石に吸い寄せられるように、物理的にその大きな潮流に吸い寄せられていると見れば見られるのでありました。そうして、意識せずに、考えが深刻に進みつつある時であります、次の間から、およそ時代とはかけ離れたおっちょこちょいの声として、
「今日は、よいお天気で……殿には、御機嫌いかがにあらせられまするや、かねての大望、意志と教養の御著作――さだめて見事に御進行のことと拝察――鐚(びた)儀、芸娼院を代表してお見舞に罷(まか)り出でました」
「鐚か――」
 こういう奴が来たので、神尾がうんざりしました。

         六十

 事を意識せずして深刻に考えたり、絶望に傾いたりする時、このおっちょこちょいが来ると、とにかく、気分が発散したりする。善友も、悪友も、このところでは、おたがいにあんまり近づかないことになっているが、こいつばかりは臆面なくやって来るものですから、神尾も気紛れに相手になっている。なんらの理窟があるのではない、こいつの面を見て、およそ時代離れのした恥知らずをながめると、気分が発散しないという限りもない。
「鐚か――まあ、入れ」
「まず御健勝、金主、一万両――宝の入船――鐚の計画、ことごとく成就(じょうじゅ)、近来のヒット――」
 何か続けざまに口走って、懐ろは手一ぱいにふくらまして、てんてこ舞をはじめた眼の色が穏かでない。穏かでないと言って、こいつのことだから、寸毫(すんごう)も危険性はないことはわかっているが、何かよくよくの喜びが出来たに相違ないと思いました。
「どうした、気でも狂ったか、シルクの売込みでも、ものになったか」
「どう致して、そんなんじゃあござんせん、かねて鐚(びた)が計画の芸娼院――そいつがいよいよ成立を致しましてな、さるお大尽から大枚金一万両というもの補助がつきました、金主一万両、鐚一代の大望成就(たいもうじょうじゅ)!」
 ははあ、そのことでかくもてんてこ舞をしているのか、帝国芸娼院というのは、洋妾(ラシャメン)立国論と共に、こいつの二大名案であって、先日来て、べらべらと能書をしゃべり立てて行った。それでは誰か本気に取上げる旦那があって、たとえ一万両でも、この時節に金を出そうという好奇(ものずき)が出たのだな、時勢は時勢だというが、まだ世間は広いものだ、鐚に口説き落されていくらか出そうという金主が出たのだな。
 帝国芸娼院というのは、前巻の終りの方(第十八巻、農奴の巻九十回)に見えていたこのおっちょこちょい独流の名案で、この趣旨とするところは、
「拙の案ずるには、近い将来に於て『帝国芸娼院』てえのを一つでっち上げて、世間をあっ! と言わせてみてえんでございます。そもそも、設立の趣旨てやつを申し上げてみまするてえと、毛唐というやつがまだ本当の日本を認識していねえんでげす、日本人ナカナカキツイあります、刀を使う上手アリマス、人を斬る達者アリマス、勇武の国アリマス、芸事できない、芸事できない国野蛮アリマス、こう吐(ぬか)しやがるのが癪(しゃく)なんでげして、異人館なんぞへまいりまするてえとテブルの上で、毛唐の奴がよくこんな噂を吐しやがるんでげす。その度に拙は発憤を致しましてね、ばかにしなさんな、日本にもこのくらいの芸事がある――てえところをひとつ見せてやりてえんでげして――そこで、その帝国芸娼院てやつを大々的にもくろみの……日本には芸娼妓でさえ、これこれの芸術がある、遊女でさえ、高尾、薄雲なんてところになると、これこれの文学がある、というところを、毛唐に見せてやりてえんでげすが、いかがなもんで……」
「そうするとつまり、日本中の芸者と女郎を集めて毛唐に見せてやりてえと、こういう目論見(もくろみ)か」
「いえ、どう致しまして、そんな浅はかなお安いんじゃござんせん、日本のあらゆる芸事という芸事の粋を集めて、これこの通りと言って、毛唐に見せてやりてえんで、芸娼院という名前は仮りに鐚がつけてみただけのものなんで――もっとしかるべき名前がありさえ致せば御変更のこと、苦しくがあせん。仕掛が大きいだけに、人選てやつが難儀でげして、まずあらゆる芸人という芸人の粋の粋なるもの百人を限って選り抜きの――なにも芸娼院と申したところで、芸妓と娼妓ばっかりを集めるという趣意ではがあせん、とりあえず、美術でげす、日本は古来、美を尚(たっと)ぶ国柄でげして、絵の方にはなかなか名人が出ました、御承知の通り……ところで、とりあえず狩野家の各派の家元を残らずメムバーに差加えます、それから、四条、丸山、南画、北画、浮世絵、町絵師の方のめぼしいところを引っこぬいて、これに加えます、拙が見たところでは、絵かきの方から都合五十八名ばかり、えりぬきの……それから戯作(げさく)の方なんでげす、これは刺身のツマとして……八名ばかり差加えようてんで……絵かきが五十八名もいて、文書(ぶんか)きが八名では比較が取れまいとおっしゃる――そこでげす、文書きの方は、どうしようかと考えてみたんでげすが、拙がひそかにこの計画を洩(も)らしやすてえと、ぜひ幾人でもいいから差加えていただきてえ、絵かきの下っ端で結構、刺身のツマとして、ぜひ差加えていただきてえと、先方から売り込んで来るんでげすから、のけるわけにいかねえんでげす、そこで、刺身のツマとして文書きを八名ばかりがところ、差加えてやることに致しやした――それから書道の方でがす、次は役者――この役者てえやつが、おのおの家柄があったり、贔屓(ひいき)があったりして、いちばん事めんどうなんでげして、鐚もこれが人選には困難を極めやした――それから長唄、清元、常磐津、新内、芸者の方からは誰々、お女郎はこれこれ――和歌と、発句と、ちんぷんかんぷん――委細のわりふりと、面ぶれはこの一札をごらん下し置かれましょう、これが、拙の苦心惨憺たる帝国芸娼院の面ぶれなんでげして……」
 だいたい右のような趣意で、このおっちょこちょいの野郎がもくろんだ、そのたわけへ、今度、一万両出す金主がついた――この野郎が有頂天(うちょうてん)でよろこぶのも無理はない。それを神尾が納得したと見て取って、この野郎が、立てつづけに並べることには、
「有難い仕合せで――え、へ、へ、へ。ところで、せっかくありついた、この大枚一万両の使用方法についてでげす、今度また新たに鐚が産みの親心てやつで、苦心惨憺を致さなけりゃ相成らん、なんしろ絵かきが五十八人もいて、文書きの方はたった八名、一万両がとこを、その方に割りふるてえと、また分前でもんちゃくが起るに相違ねえ、そうなると、鐚がせっかく創立の功も玉なし、よって、これが分前に就いて、慎重なる考慮を払わなくちゃならねえんでげして、何か殿様、よいお知恵がございましたら拝借――お願い……」
「馬鹿――そんな要らねえ金があるなら、時節柄、大砲の一つもこしらえて、品川のお台場へ献納しろ」
「いや、そう物事を現実にばかりお取りになっては、人生に潤いというものがございませんな。せっかくのことに、鐚が思案を致しましたところによりますと、この一万両の公平なる分配に就きましては、大盤振舞(おおばんぶるまい)――つまり、惣花主義で会員一同に恨み越えなく行き渡るように公平なる分配を致したいと存じまして、その一万両で、そっくり、河岸(かし)へまいりましてお刺身を買い占めたいとこう思うんでげすが、いかがなもんでがんしょう」
「ナニ、河岸へ行って、一万両の刺身を買い占める――そうして、それをどうするのだ」
 一万両は多くはないが、それでも一万両の刺身を買い占めた者は江戸開府以来いまだあるまい。紀文、奈良茂(ならも)の馬鹿共といえどもよくせざるところ、鐚の計画の奇抜なるには、さすがの神尾も、ちょっと面負けの形で眼をみはると、鐚はいよいよ乗気になって、
「一万両がとこ、お刺身を買い求めましてな、それで、赤いところを絵かきに食わせ――青いところを文書きに食わせる、そういう御馳走の配膳に致しましたならば、一同否やはござんすまい」
「ふーん」
 こいつ、どうやら、正気でこれを言っているらしい。こういう奴に御勘定奉行をさせれば、公儀の金を掴(つか)み出して、女郎買いをもやり兼ねないと、神尾も底の知れない馬鹿さ加減に、口あんぐりとその面(かお)を見直していると、鐚(びた)はいよいよいい気になり、
「このお刺身の大盤振舞がスミますてえと、その次には、もう一つ、あっ! と言わせる趣向が秘めてあるんでがんして……」
 それを大得意に弁じ立てましたのを聞いていると――
「なんしろ、こういう険悪な時代でげすから、つとめて人心を和(やわ)らげるように、和らげるようにと楫(かじ)を取って行かなければならないんでげして、強いばかりが取柄ではがあせん、つまり毛唐に対しても、日本にはこのくらいの芸術があるてえところを、見せてやりてえのが芸娼院の本意でげすよって、この次には日本の文学をひとつ、海外進出てえ方面にウンと馬力をかけてみようてえんでげすが、万葉古今となりますてえと、なかなか調べが古うござんして、毛唐の頭には入りにくいんでげすから、まず小説の方からはじめるてのが、わかりがよくてよろしかろうと思うんでげすが、いかがなもので」
「まあ、何でもいいようにやってみろ」
「まず御承認の、その小説という段になりますると、まず長篇大作というところから見廻しまするてえと……日本に於きまして、上古に紫式部の源氏物語――近代に及んで曲亭馬琴の南総里見八犬伝――未来に至りまして中里介山居士の大菩薩峠――」
 大菩薩峠も、鐚の口頭に上ったことを光栄としなければなるまいが、御当人はしゃあしゃあとしたもので、
「まず日本有数の長篇大作を、ペロに書き改めましてな、それを毛唐に読ませるように仕向けるんでげす。長篇大作が必ずしも優れたりという儀ではがあせん、中篇小篇に優れたものが多くこれ有るんでげすが、とりあえず、長篇大作をペロに(ペロとは外国語ということ)書き改めて、毛唐に見せてやる。ところで、その選択てえことになりまするてえと――」
 鐚は咳を一つして、一膝押進ませ、
「上代に於て源氏物語、近代に於て八犬伝、この二つは日本に於て、名立たる長篇大作でげして、世界にも類のないものだと承りました。尤(もっと)も未来に於きましては、大菩薩峠などというやつが出て参りまして、これは八犬伝に源氏物語を加え、これに何倍をしてもまだ足りない代物(しろもの)と聞きましたが、こんなのは化け物のようなもので、人間の仲間へは入りません、よろしく敬遠黙殺の――とりあえず、源氏物語と、八犬伝と、この二つの中から選定を致しますんでげすが、鐚はいったい馬琴が嫌いでげしてね――第一、あの忠孝仁義おれ一人といったような高慢ぶり、それから学者めかして作中で長々と談議講釈、これが鐚の虫に合いません。なお作風と致しましてからが、作意を支那の小説から、すっかり取入れましてな、例の換骨奪胎というやつで……」
 鐚が口から泡を飛ばして、また一膝乗出し、
「換骨奪胎というやつは、まあ、体(てい)のいい剽窃(ひょうせつ)なんでげしてね、向うの趣向をとって、こちらのものにする、なかなか考えたものなんでげすが、独創家のいさぎよしとするところじゃあがあせん、いやしくも創作を致す以上は、趣向も、作風も、みんな国産にしたらいいじゃあがあせんか、そうでないと、本当の日本の誇りになりません、支那人に読ませると、これはおれの国からの借物だと忽(たちま)ち笑われてしまいますからな。そこへ行きますると、紫式部の源氏物語――こいつは純国産で、スフなどは一本も入っておりません」
 鐚は、また一膝進ませ、

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